元載
元載、字は公輔、鳳翔岐山の人である。父の昇は、もと景氏であった。曹王李明の妃元氏が扶風に賜った田地があり、昇がその租税の収納を主管し、功労があったので、妃に請うて、元氏を冒した。載は幼くして孤となり、成長してからは学問を好み、文章を作るのに巧みであった。天宝初年、明・莊・老・列・文の四子の学に通じる者を挙げるよう詔が下ると、載の策問は高第に入り、新平尉に補せられた。韋鎰が黔中の選事を監察し、苗晉卿が東都留守となった時、いずれも判官に任じられ、次第に名声が知られるようになった。至徳初年、江都采訪使李希言が載を副使として上表し、祠部員外郎・洪州刺史に抜擢された。朝廷に入って度支郎中となり、奏上するのに敏速で、肅宗はこれを異とした。累進して戸部侍郎となり、度支・江淮転運等使を兼ねた。
帝が病に伏すと、李輔国が権力を握った。輔国の妻は載の同族の娘であったので、互いに親密になった。ちょうど京兆尹が欠員となった時、輔国は載を用いるよう申し出た。載は国政の実権を得たいと思い、固辞したが、輔国が諭したので、翌日、同中書門下平章事に任じられ、従来の使職も兼ねた。代宗が即位すると、輔国の権勢はますます重くなり、しばしばその才能を称えたので、中書侍郎・許昌県子に進んだ。載は度支の事務が煩雑で多岐にわたり、官吏の事務を監督・責めることが威光と寵愛を損なうと考え、天下の銭穀の事務をすべて劉晏に委ねた。間もなく、天下元帥行軍司馬を兼ねた。
賊が李輔国を殺害したが、載は密かにその計画に関与していた。そこでまた宦官の董秀と結び、多額の金銭を与えて密旨を探らせ、帝が何かを意図するたびに必ず事前に知り、微細な兆候を探り推測して、ことごとく符合したので、帝は疑うことなく任用した。華原令顧繇が封事を上奏してその私事を暴いたが、帝はちょうど彼を国政に当たらせようとしていたので、かえって繇を斥け、除名して庶民とした。魚朝恩が驕横して天下を震駭させ、載と不和であったが、載は彼を畏れ、帝もまた恨みを抱いていたので、隙をみて朝恩の誅殺を奏上した。帝は変事を恐れたが、載はその愛将を結んで助力とした。朝恩が誅殺された後、載は大いに得意となり、ますます傲慢で勝手気ままになった。当時、文武の官の功績の状況を上奏する際の擬議に誤りが多いのを、載は役所が駁正するのを恐れ、六品以下の官については別に勅を下して授けるよう請い、吏部・兵部はただちに任官文書を添えてまとめて上奏し、検覈する必要はないとした。これは権力が己から出ることを示そうとしたのである。また王縉とともに、河中を中都とすることを請い、関輔・河東の十州の租税を集めて京師に奉り、兵五万を選んで中都に駐屯させ、四方を鎮め防衛し、秋の末に行幸し、春の初めに還り、羌戎の患を避けることができると述べた。載が議を上奏すると、帝はすぐに従い、先に官吏に命じて河中の地で宮殿の設計をさせ、私邸を築かせた。帝はこれを聞き、不快に思い、その議を棚上げにした。
初め、四鎮北庭行営節度使はその役所を涇州に仮置きしていた。大暦八年、吐蕃が邠寧を寇した時、議論する者は三輔以西に要害となる地勢がなく、涇州は要害でない地では守るに足りないと言った。載はかつて西州におり、河西・隴右の要地を詳しく知っていたので、帝に言上して曰く、「国家の西境は潘原に極まり、吐蕃の防戍は摧沙堡にある。そして原州がその間に位置し、草は茂り水は甘く、旧来の堡塁が残っている。近ごろ吐蕃が城壁を破壊し、放棄して居住していない。その右側は監牧の旧地で、大きな堀と長い壕があり、重複して深く堅固である。原州は霜が早くて耕作できないが、平涼がその東にあり、ただ一県を耕せば食糧を十分に足すことができる。京西の軍を移して原州を守らせ、隙をみて築城を行えば、二十日で完成し、一年分の食糧を貯蔵できる。戎人は夏に青海のほとりで放牧するので、緊急の文書が届く頃には、我が方の工事は完了しているであろう。子儀の大軍を涇に移して根本とし、兵を分けて石門・木峽、隴山の関を守らせ、北は河に至るまで、すべて連山険阻で、寇は越えることができない。少し離れて鳴沙県・豊安軍を置いてその羽翼とし、北は霊武五城を帯びてその形勢とし、それから隴右の地を挙げて安西に至れば、これすなわち西戎の脛を断つことであり、朝廷は高枕でいられるであろう」と。そこで地形図を献上し、官吏を密かに原州に入らせて水泉を測量させ、労役の人数を計算させ、車両や箕鍬などの器具をすべて整えさせた。しかし田神功がこの議を阻み貶めて言うには、「軍を興し敵情を推し量ることは、老将でも難しい。陛下が一書生の言葉を信じて、国を挙げてこれに従えば、誤りである」と。帝はこのため疑って決断できなかった。
王氏は、河西節度使王忠嗣の娘で、凶暴で驕慢で貪欲であり、載は制することができなかった。そして諸子は利益を貪り、収奪に際限がなく、軽薄な者が奔走した。競って妓妾を蓄え、俳優の淫らな戯れを行い、親族が取り囲んで見ても恥じなかった。死んだ時、通行人で哀れみを感じる者はいなかった。その家財を没収すると、鐘乳石五百両あり、詔して中書・門下の臺省官に分け与え、胡椒は八百石に及び、その他の物品もこれに相当した。娘の真一は、幼くして尼となり、掖庭に没官された。徳宗の時、初めて載の死を告げられると、地に投げ出して号泣した。左右が叱って止めたが、帝は「どうして親の喪を聞いてその哀痛を責めることがあろうか」と言い、扶け出させた。
附 李少良
李少良は、吏治によって諸帥府から累進して殿中侍御史となった。罷免され、京師に遊び、任用されず、憤慨して元載の不法を上疏してその悪を論じた。帝は少良を客省に留め置き、その事を究明しようとした。その友人の韋頌という者が彼を訪ね、漏らして陸珽に話した。載は珽を召して問い、これを知り、乃ち奏して少良を御史臺に下し、禁中の語を漏らしたことを弾劾し、併せて頌・珽を論じて殺させた。珽は善経の子で、頌及び少良と親しく、また載の子弟親党と昵懇であったので、載はその謀りごとを探り得たのである。初め、載が盛んな時、人皆これを疾み厭った。大暦八年、晋州の男子郇謨が麻で髪を総ね、竹の笥と葦の席を持ち、長安の東市を行きながら哭した。人が問うと、曰く「私は三十の字があり、献上したい。一字が一事を言う。もし当たらなければ、笥に屍を貯え、席で包んで棄てよ」と。京兆がこれを聞き、帝は召し見て、衣を賜い、内客省に館し、その状を問うと、多く載を譏り切った。その言う「団」とは、諸州の団練使を罷めんことを願い、「監」とは、諸道の監軍を罷めんことを請うたのであり、大抵この類であった。先に、天下兵興して以来、要州には皆権宜に団練・刺史を置いた。載が権を執り、刺史を授ける者には悉く団練を帯びさせて人心を悦ばせたので、謨はこれを指して刺したのである。
王縉
縉は平素仏を奉じ、葷食肉を喰わず、晩節は特に謹んだ。妻が死ぬと、道政里の邸宅を仏祠とし、諸道の節度・観察使が来朝する度に、必ずその所に邀え、財を出して営作を助けさせた。初め、代宗は祠祀を喜んだが、未だ浮屠法を重んぜず、常に従容としてその所以を問うたので、縉と元載は盛んに福業報応を陳べ、帝の意向はこれに向かった。これにより禁中に仏を祀り、諷唄齋薰し、「内道場」と号し、内沙門を引き入れ日に百余り、饌供は珍滋を供し、出入りには廄馬に乗り、度支が悉く稟給した。或いは夷狄が入寇すれば、必ず衆沙門を合わせて『護国仁王経』を誦し、禳厭とし、幸いその去るに及んでは、則ち横に錫与を加え、紀極を知らなかった。胡人で卿監に官し、国公に封ぜられる者は、禁省に籍を著し、勢は公王を傾け、群居して寵を頼み、更に相凌奪し、凡そ京畿の上田美産は、多く浮屠に帰した。奸を蔵し乱を宿す者が踵を接いで相逮うにも拘わらず、帝は終に悟らず、詔して天下の官司は僧尼を箠辱してはならぬとした。初め、五台山祠は銅を鋳て瓦とし、金を塗り、費は億万を計った。縉は中書符を与え、浮屠数十輩を遣わして州県を行き、資貨を斂丐させた。縉は上に言って曰く「国家の慶祚は霊長にして、福報の馮る所、時に難多きと雖も、道うに足らざる者なり。禄山・思明の毒乱方に煽るも、皆子に禍あり、仆固懐恩は乱に臨みて踣れ、西戎内寇すれども、撃たずして輒ち去る、人事に非ざるなり」と。故に帝の信は愈篤かった。七月の望日、宮中に盂蘭盆を造り、镠飲琲を綴飾し、高祖以下七聖の位を設け、幡節・衣冠皆具え、各帝号を以て其の幡に識し、禁内より分かちて道仏祠に詣り、鐃吹鼓舞し、奔走相属した。この日立仗し、百官は光順門に班し、奉迎導従し、歳を以て常とした。群臣は風を承け、皆生死報応を言い、故に人事は置いて修めず、大暦の政刑は日に堙陵し、縉と元載・杜鴻漸がこれを倡えたのである。
黎幹
議聞こえ、代宗その言を是とせず。その後、名儒大いに議し、而して景帝の天に配すること卒に礼に著わる。
幹は性来貪欲にして暴虐、再び用いられてより、治を念う暇なく、専ら財色に徇い、寵愛する近臣に附会し、左道を挟んで主の恩を希い、帝は甚だ之に惑わされた。徳宗が東宮に在りし時、幹は宦官の特進劉忠翼と陰謀をめぐらし、ほとんど宗嗣を危うくせんとした。即位後、また詭道を用いて進用を希い、密かに車に乗って忠翼を謁した。事覚え、名を除かれて長流に処せられ、既に行くに及び、市人数百群れをなして騒ぎ礫を投げつけて従い、まもなく藍田驛にて死を賜う。
忠翼は本名を清潭といい、左衛将軍董秀とともに代宗の寵愛を受けた。盛んな時には、爵賞はその口吻に在り、財賄を掊み冒し、資産累積して皆巨万に及んだ。ここに至り、積もる前罪により、並びに誅に及ぶ。
楊炎
楊炎、字は公南、鳳翔天興の人。曾祖大寶は、武徳初めに龍門令となり、劉武周の攻撃を受け、守りに死し、全節侯を贈られた。祖哲は、孝行をもって称された。父播は、進士に挙げられ、退居して志を求め、玄宗は召して諫議大夫に拝したが、官を棄てて帰養した。粛宗の時、家に即いて散騎常侍を拝し、玄靖先生と号した。炎は鬚眉美しく、風宇峻厳、文藻雄大にして豊か、然れども豪爽にして気節を尚ぶ。河西節度使呂崇賁は辟して掌書記と為す。神烏令李太簡嘗て酔って之を辱めたるに、炎は左右に命じて反接させ、二百余りを搒ち、ほとんど死に至らしめ、崇賁は其の才を愛し、問わず。李光弼は表して判官と為さんとすれども応ぜず。召されて起居舎人に拝せられしも固く辞す。父喪に際し、墓側に廬し、号慕して声を絶やさず、紫芝白雀の祥有り、詔して其の閭を表す。炎三世孝行を以て聞こえ、門に六闕を樹つるに至り、古来未だ有らざる所なり。喪終わり、司勲員外郎となり、中書舎人に遷り、常袞と同時に制誥を知る。袞は除書に長じ、炎は徳音に善く、開元以後制詔を言う者は、「常楊」と称す。宰相元載は炎と同郡、炎はまた元氏の出なり、故に炎を擢て吏部侍郎・史館修撰と為す。載が国政を執るや、陰に己に代わるべき才を択び、引きて自ら近づけ、初め礼部侍郎劉単を得たりしも、卒すに会い、また吏部侍郎薛邕を取り、邕は事に坐して貶せられ、後に炎を得て、親重比ぶるもの無し。載の敗るるに会い、坐して道州司馬に貶せらる。
徳宗東宮に在りし時、雅く其の名を知り、また嘗て炎の作れる『李楷洛碑』を得て、壁に置き、日々諷詠玩味す。即位に及び、崔祐甫炎を器任に堪うと薦め、即ち門下侍郎・同中書門下平章事に拝す。
初め、定令に租賦庸調法有り。開元より承平久しく、版籍を為さず、法度玩び敝る。而して丁口転死し、田畝換易し、貧富升降し、悉く向時に非ず、而して戸部歳に空文を以て之を上す。又戍辺の者は、其の租・庸を蠲き、六歳にして免れて帰る。玄宗夷狄を事とし、戍る者多く死し、辺将諱みて以て聞かせず、故に貫籍除かず。天宝中、王鉷戸口使と為り、方に聚斂を務む。其の籍存して丁在らず、是れ課を隠して出でざるを以て、乃ち旧籍を按じ、当に免るべき者を除き、三十年を積み、其の租・庸を責む。人苦しみて告ぐる無く、故に法遂に大いに敝る。至徳後、天下兵起こり、因って饑癘を以てし、百役並びに作し、人戸凋耗し、版図空虚なり。軍国の用、仰ぎ給するに度支・転運使に依り、四方の征鎮、又自ら給するに節度・都団練使に依る。賦斂の司数四、相統摂するもの莫く、綱目大いに壊る。朝廷は諸使を覆する能わず、諸使は諸州を覆する能わず。四方の貢献、悉く内庫に入り、権臣巧吏、因って旁縁を得、公に進献に托け、私に贓盗を為す者、動くこと万々を計る。河南・山東・荊襄・剣南の重兵処は、皆厚く自ら奉養し、王賦の入る所幾ばくも無し。科斂凡そ数百名、廃する者は削らず、重なる者は去らず、新旧仍り積み、其の涯を知らず。百姓膏血を竭し、親愛を鬻ぎ、旬輸月送、休息する無し。吏其の苛に因り、人に蠶食す。富人多く丁なる者は、宦・学・釈・老を以て免れ、貧人入る所無き者は則ち丁存す。故に課は上に免るれども、賦は下に増す。是を以て天下残瘁し、蕩として浮人と為り、郷居地著する者は百に四五ならず。炎其の敝を疾み、乃ち請うて「両税法」を以て其の制を一にせんとす。凡そ百役の費、一銭の斂、先ず其の数を度りて人に賦し、量出制入す。戸に主客無く、見居を以て簿と為し、人に丁中無く、貧富を以て差と為す。居処せずして行商する者は、在所の州県に税し三十の一、取る所を度りて居者と均しくし、僥利無からしむ。居人の税、秋夏両に入れ、俗に便ならざる所は三つに之す。其の租・庸・雑徭悉く省き、而して丁額廃せず。其の田畝の税、率ね大暦十四年の墾田の数を以て準と為し、而して均しく之を収む。夏税は六月に尽き、秋税は十一月に尽く。歳終に戸賦の増失を以て長吏の進退を為し、而して尚書度支総る。帝之を善しとし、中外に諭さしむ。議者沮詰し、租庸令数百年行わる、軽々しく改むべからずと為す。帝聴かず。天下果たして之に利す。是より人土断せずして地著し、賦加斂せずして増入し、版籍造らずして其の虚実を得、吏誡めずして奸取る所無く、軽重の権始めて朝廷に帰す。
炎嶺表より興り、単議を以て天子を悟らしめ、中外翕然として属望して賢相と為す。数ヶ月居るに、崔祐甫疾有りて事を為す能わず、喬琳免ぜられ、炎独り国を当つ。遂に多く祐甫の政を変え、元陵の功優を護ることを減薄し、人始めて悦ばず。又豊州陵陽渠を開くことを請い、畿県の民を発して役作せしむ。閭裏騒然とし、渠遂に就かず。
元載の恩徳を素より慕い、これを報いんと思い、ここに原州を築城することを再び議す。節度使段秀實は「辺境を安んじ敵を退けるには、緩やかな計略を用いるべきであり、今は農事の時期、急に工事を起こすべからず」と謂う。炎怒り、秀實を追って司農卿と為し、邠寧の李懷光に督作せしめ、朱泚・崔寧に兵各一萬人を統率させてこれを翼護せしむ。詔書下るや、涇州の軍は憤りて曰く「我が軍は国の西の屏障と為ること十余年。初めは邠の地にあり、農桑に地著する安らぎありしに、この榛莽の中に移され、手で掻き分け足で踏み固め、城塁を築き上げたれば、また塞外に投げ遣られんとす。いずくんぞかくの如き安らぎを得んや」と。また懷光は法を厳しく執り、全軍これを畏る。裨将劉文喜、人の怨みに乗じ、乃ち上疏して秀實・朱泚を節度使と為さんことを求む。詔して泚を以て懷光に代えんとす。文喜詔に奉ぜず、城を閉ざして守りを拒み、その子を吐蕃に質として援を求む。時に旱魃甚だしく、人情騒然として離反す。群臣皆文喜を赦すことを請う。帝聴かず。詔して服御を減じて軍に給し、且つ師を促して涇州に向かわしむ。士卒春服を受くべき者は皆即時に賜う。泚・懷光に命じて軍を率いてこれを攻めしめ、州を環繞して塁を築く。別将劉海賓、文喜を斬り、その首を献ず。涇州平らぎ、然れども原州は遂に城を築く能わず。また劉晏が元載を弾劾したことにより、己も坐して貶されたことを以て、乃ち晏を忠州に出し、庾準を用いて荊南節度使と為し、晏を誣いて殺さしむ。朝野側目す。李正己、表を上って晏の罪を請う。炎懼れ、乃ち腹心を遣わし分かれて諸道に走らしむ。裴冀は東都・河陽・魏博に使いし、孫成は澤潞・礠邢・幽州に使いし、盧東美は河南・淄青に使いし、李舟は山南・湖南に使いし、王定は淮西に使いす。声は宣慰と称すれど、実は自ら弁解し、「晏は往昔、奸邪に傅会し、独狐妃を立てて后とせんと謀り、帝自らこれを悪みたまえり。他の過ちに非ず」と言う。帝聞き、中人をしてその言を正己に復たせしむ。還りて報ずるに信然たり。ここにおいて帝の意、これを銜む。未だ発せず。
時に盧杞、門下侍郎として中書門下平章事に同じ、炎を中書侍郎に進め、共に政を執らしむ。杞は術学無く、貌麼陋(小さく醜い)。炎これを軽んじ、疾を托して会食せず。杞陰に憾みを為す。旧制、中書舍人は尚書六曹を分かって押し、以て奏報を平らげしむ。開元の初め、その職を廃す。杞これを復するを請う。炎固より以て不可と為す。杞益々怒る。また密かに主書の過咎を啓し、これを逐わんとす。炎曰く「主書は吾が局の吏なり。吾自らこれを治むべし。奈何ぞ相侵さんや」と。初め、炎朝に還るに、道すがら襄・漢を経て、因りて梁崇義に入朝を勧む。後また李舟をして邀え説かしむ。崇義益々反側す。その叛するに及び、議者炎に帰咎し、以てこれを促して成さしめたりと為す。帝、淮西の李希烈を以て諸軍を統率して討伐に当たらしめんと欲す。炎曰く「希烈は初め李忠臣の子と為り、忠臣を逐いてその位を取る。これを任とすべきか。居ること尺寸の功無く、猶お倔強にして法を奉ぜず。設い賊を平げしむるとも、陛下将に何を以てこれを制せんや」と。帝平らかならず、憤りて曰く「朕、炎の言を用いず」と。遂に希烈を用う。また嘗て群臣に大任に堪うべき者を訪う。杞は張鎰・嚴郢を薦め、炎は崔昭・趙惠伯を挙ぐ。帝、炎の論議疎闊なるを以て、遂にこれを罷めて尚書左僕射と為す。既に謝し、延英殿に対し終わりて、中書に至らず。杞怒り、益々これを中傷せんと欲す。
先に、嚴郢は京兆尹と為り、炎に附かず。炎、御史張著を諷してこれを劾せしめ、兼御史中丞を罷む。源休は郢と善からず。流人より休を擢て京兆少尹と為し、郢の過ちを窺わしむ。休反って郢と善し。炎怒る。時に張光晟、回紇の酋帥を謀殺せんとす。乃ち休をして回紇に使いせしむ。郢は度田実ならざるに坐し、下って大理卿を除す。ここに至りて炎罷めらる。その子弘業、賕賂狼藉たり。故に杞、郢を引いて御史大夫と為し、これを按じ、併せて他の過ちを得る。惠伯は河南尹たりし時、嘗て炎の邸宅を市いて官廨と為す。御史、炎が宰相として吏を抑えて私第を市い、その値段を高く取るを劾す。杞、大理正田晉を召して罪を評せしむ。晉曰く「宰相は庶官に比し監臨の如し。羨利を計れば、罪は官を奪う」と。杞怒り、晉を衡州司馬に謫す。ここにおいて監主自盗に当たり、罪は絞に処す。開元の時、蕭嵩嘗て曲江の南を度り、私廟を立てんと欲すれど、天子の臨幸する処と為るを以て止む。後、炎またこれを取って以て廟を立つ。飛語に云く「地に王気有り、故に炎これを取る」と。帝聞き、震怒す。時に獄具わる。詔して三司をして同しく覆審せしむ。崖州司馬同正に貶す。百里に至らざるに、死を賜う。年五十五。惠伯を多田尉に貶し、またこれを殺す。
初め、炎は志節を矯飭し、頗る名を得たり。既に元載に傅会して罪に抵り、俄かに政を得るも、然れども忮害根中にあり、自ら止む能わず。眥睚も必ず仇とし、私を用いるに果敢にして、終にこれに及びて禍う。道州より還る時、家人、緑袍木簡を以てこれを棄てんとす。炎止めて曰く「吾は嶺上の一逐吏、超えて上臺に登る。常ならんや。且つ非常の福有れば、必ず非常の禍有り。安んぞ是を棄てんや」と。貶せらるるに及び、服する所の物を還す。久しくして、詔してその官を復す。謚して肅湣と曰う。左丞孔戣これに駁し、更めて平厲と曰う。
附 庾準
嚴郢
嚴郢、字は叔敖、華州華陰の人なり。父正誨、才吏として七郡を歴任し、終に江南西道采訪使に至る。郢進士第に及第し、太常協律郎を補し、東都太廟を守る。祿山乱に、郢神主を取りて家に秘す。至德初め、洛陽定まる。有司得以て奉迎して廟に還す。擢て大理司直と為る。呂諲江陵を鎮むるに、表して判官と為す。方士申泰芝、術を以て肅宗に幸いを得、湖・衡の間を遨遊し、妖幻を以て衆を詭し、奸贓鉅萬。潭州刺史龐承鼎按じて治む。帝信ぜず、泰芝を召し還し、承鼎を江陵の獄に下す。郢具に泰芝の左道なるを言う。帝中人を遣わし諲と雑訊せしむるに状有り。帝然とせず。御史中丞敬羽、泰芝を貸さんと白す。郢方に朝に入り、亟にこれを弁す。帝怒り、郢を叱して去らしむ。郢復た曰く「承鼎泰芝を劾するに詭沓実有り。泰芝言う承鼎の験左存せずと。今罪有るを緩め、罪無きを急がしむ。臣死すとも敢えて詔の如くせず」と。帝遂に承鼎を殺し、郢を建州に流す。泰芝後、妖妄不道に坐して誅さる。代宗の初め、承鼎の官を追還し、郢を召して監察御史と為し、連署して帥府司馬と為す。郭子儀表して関内・河東副元帥府判官と為し、遷って行軍司馬と為す。子儀邠州を鎮むるに、檄を飛ばして郢に留務を主らしむ。河中の士卒、邠に戍るを楽しまず、多く逃げ還る。郢渠首を取りてこれを屍す。乃ち定まる。歳余、召されて京師に至る。元載これを帝に薦む。時に載罪を得て、用いられず。御史大夫李棲筠もまた郢を薦む。帝曰く「是れ元載の厚くする所なり。可ならんや」と。答えて曰く「郢の材力の如き、陛下自ら取らざれば、留めて奸人の用いんと為さんや」と。即日、河南尹・水陸運使に拝す。大歷の末、進みて京兆尹に拝す。法令を厳明に持ち、悪を疾み窮を撫で、敢えて誅殺し、盗賊一衰す。隷官の匠丁数百千人を減ず。職に称うる尹と号せらる。
宰相楊炎が豊州に屯田を設けることを請い、関輔の民を発して陵陽渠を開鑿させようとした。郢は朔辺の利害に通じていたので、即座に上奏して言うには、「旧来の屯田は肥沃な地であるが、今は十のうち一も開墾されず、水田は甚だ広いが、力が及ばずに廃れている。もし二京関輔の民を発して豊渠を浚い営田させれば、民を擾乱させるだけで利益はない。内苑で稲を植えて試みることを請う。秦の地は膏腴であり、田は上上である。耕作者は皆畿内の人で、一月ごとに交替し、作業は甚だ容易である。また人に月八千銭を与え、食糧は含まれない。しかし有司が常に募集しても充足できない。府県を合わせてこれに当たらせると、一農夫あたり年間で銭九万六千、米は月七斛二斗となる。おおよそ年間で丁を三百人雇うと、銭二千八百八十万、米二千一百六十斛となる。臣は恐らく一年の収穫が費用に償わないであろう。ましてや二千里の外から人を発して塞外に出し、一年ごとに交替させることなどできようか。また太原から糧を転送して供給すれば、私費を出すと費用は倍加する。これは畿甸を虚しくし、空しい徭役を行うことである。」郢はまた言うには、「五城の旧屯地は極めて広い。渠を開鑿する糧を諸城に与え、夏に貸し冬に納めさせ、渠工の布帛を田を耕す者に給し、その価値に応じて穀物を転送させるように命じれば、関輔は調発を免れ、諸城は田を開拓できる。」炎は許さず、渠はついに完成せず、放棄された。
御史臺が天下の断獄は一切上奏を待つべきことを請い、ただ殺人のみは死罪を償うことを許し、徒刑に論ずる者は皆辺境に移すことを得るとした。郢は言うには、「罪人が辺境に移されるのは、すなわち流刑である。流刑には三種あるが、その一つを用いるのは、誠に難しい。また殺人のほかにもなお十悪・符印を偽造して用いること・強盗・火盗などがある。今一様にこれを移せば、法が軽すぎて悪を禁じるに足りない。また罪が徒刑に相当するものは、科条に差別があり、あるいは毆傷・夫婦が義絶でないのに離れること・養子が別姓を名乗ること・嫡子の立て方が定式に合わないこと・関を私的に越えること・戸籍を冒すことなど、全てを挙げられないが、これらを十悪と同様に移せば、軽重の釣り合いが取れない。また按ずるに、京師は天下の集まる所であり、徒刑に論ずる者は極めて多いが、例によって覆讞しない。今もし全て上奏を待てば、有司の断決には期限があり、月に五千件の獄を下さない。正に牒案が積み重なり、章程が乱れることを恐れる。また辺境及び近辺で死罪・徒刑・流刑を犯した者は、どのように差別するのか。有司に下してさらに議論させることを請う。」炎は自分と異なる者を憎み、密かに御史張著に唆して郢が民を発して渠を浚わせたことを隠し、民の怨みを上に帰させたことを弾劾させた。金吾に拘禁された。長安中で日に数千人が建福門を遮って郢の冤罪を訴え、帝は密かにこれを知り、兼御史中丞を削った。人々は郢が赦免されたことを知り、皆迎えて拝礼した。秋の旱魃に際し、郢が租税の免除を請うたが、炎が度支御史に按覆させ、事実でないとして、大理卿に左遷された。
炎が罷免されると、盧杞が郢を引き立てて御史大夫とし、共に炎の罪を謀った。即座に河中観察使趙恵伯を逮捕して獄に下し、拷問は惨酷で、罪を鍛え上げて、ついに炎を崖州に追放し、恵伯は費州に流した。天下は郢が宰相を頼んで仇を報じたことを不正とした。しかし杞は郢を用いて炎を敗れさせたが、内心郢の才能を忌み、蔡廷玉の事を按ずる機会に、御史鄭詹を殺し、郢を費州刺史として出させた。道中で柩の殯に逢い、尋ねると、ある者が言うには、「趙恵伯の殯である。」郢は内心慚じ、うつうつとして一年余りで卒した。
竇参
竇参、字は時中、刑部尚書誕の四世孫である。律令を学び、人となりは矜厳で剛直、断ずることに果断であった。蔭により累進して万年尉となった。同舎で当番で夜直する者が、親の病気を聞いて慌てふためいたので、参が代わって直した。囚人が逃亡する事件があり、京兆が直簿を調べてその者を弾劾した。参は言うには、「彼は挨拶に来られずに行ったのであり、参が罪を受けるべきである。」そこで江夏尉に貶され、人々は皆その義を称した。奉先尉に遷った。男子曹芬兄弟が北軍に属し、酔って妹に暴行し、父が止めてもやめず、父は憤って井戸に投身して死んだ。参は兄弟を重刑に処すべきとした。衆人が喪が明けるのを待つよう請うたが、参は言うには、「父は子のために死んだのである。もし喪を理由に延期すれば、父を殺しても罪に問わないことになる。」皆を鞭打ち殺し、一県は畏服した。
大理司直に進み、江淮の獄を揚州で按ずることになった。節度使陳少遊が傲慢で郊迎せず、軍吏を遣わして挨拶させた。参は厳しい言葉で譴責すると、少遊は慚じて参を訪ねて謁見したが、参は顧みずに去った。婺州刺史鄧珽が贓物八千緡を盗んだ。宰相が珽を擁護し、その財産を没収するのを免れさせようとした。詔して百官を集めて尚書省で議させたが、多くはその意に迎合して助けた。参のみが法を堅持し、ついに没収させた。監察御史に遷った。湖南判官馬彜が部内の県令が贓物千万を着服したことを発覚させた。県令の子が権幸に頼んで彜を誣告して上奏した。参が往って按ずると、その誣蔑を正した。彜は後に曹王臯を補佐し、剛直をもって知られた者である。
入朝して御史中丞となり、挙劾に遠慮忌憚がなかった。徳宗はしばしば召見し、天下の事を語り、あるいは重大な議を決めさせた。帝は彼を重んじた。しかし多く宰相と意見が対立し、しばしば排斥されたが、ついに傷つけることはできなかった。参はこれによって何も憚らなくなり、時に感情のままに事を裁くこともあった。当時百官の班位と俸給を定めたが、参はかつて大理司直であったので、その収入を多く見積もり、丞の上に置かせた。詹事李昇を憎み、その班位を諸府の少尹の下に抑えた。朝廷内外は次第にその専横を憎むようになった。
戸部侍郎を兼ねて進んだ。民家で豚が二頭四足で生まれた。有司が上聞しようとしたが、参は言うには、「これは豕禍である。」と屏して上奏しなかった。陳少遊が死に、子が封を襲うことを請うた。参は省門に大書して言うには、「少遊は将相の位にありながら、艱危に際して節を変えた。上は恥辱を忍んで発しようとされなかったが、その子息がどうして伝襲できようか。」神策将軍孟華は戦功があったが、ある者が反逆を誣告した。龍武将軍李建玉は吐蕃に陥って自ら脱帰したが、部下が虜と通じたと告げた。皆死罪と論ぜられた。参はことごとく審理して釈放し、人々は初めて期待を寄せた。
まもなく中書侍郎同中書門下平章事となり、度支・塩鉄使を領した。毎回延英殿で対する時、他の宰相が罷めても、参は必ず留まり、度支のことを言上した。実は政権を専断していたのである。しかし参は学術がなく、古を稽えて事を立てることができず、ただ親党を立て、多く詗察させたので、四方は彼を畏れた。この時、淄青の李納は参に厚く賄賂を贈り、外見は厳しく畏れているように見せたが、実は帝の近臣を賄って間者とし、故に左右は争って参を誹謗した。
申はその族子であり、給事中であった。参は親愛し、官吏を除くごとに多く申に相談した。申はこれによって賄賂を招き、禁中の密語を漏らしたので、申の行く所、人々は「喜鵲」と目した。帝は聞き、参に戒め、かつ言うには、「これは必ず累となる。斥ける方がよい。」参は情を訴えて言うには、「臣に強い子孫はいません。申は疏属ではありますが、他の悪事はありません。」帝は言うには、「お前は自ら保つとしても、外の評判はどうするのか。」参は固く陳べて許しを請うた。
初め、陸贄は参と不和であった。呉通玄兄弟は皆翰林に在り、贄と対等でいられなかった。申の舅の嗣虢王則之は通微らと親しく、遂に共に贄を讒言した。帝はその奸計を知り、申を道州司馬に追放した。十日と経たず、参を郴州別駕に貶した。宣武劉士寧が参に絹五千匹を贈った。湖南観察使李巽はもとより参と不和であり、その状況を上聞した。また宦官がその証左となった。帝は大怒し、外で戎臣と交わるとして、参を殺そうとした。贄は怨みはあったが、しかし殺すのは重すぎるとも思い、そこで州司馬に貶し、その子景伯を泉州に、女尼を郴州に追放し、資産奴婢を没収した。帝はまた申・則之及びその配下の栄を殺そうとした。贄が固く争って言うには、「法には首従があり、首犯が減刑されれば従犯も減じられます。栄は参と親しくはありましたが、初め邪な行いはなく、しばしば激憤して直言し、後にはやや疎遠になりました。栄を遠方の官に貶し、申・則之を除名して嶺南に流すことを請います。」詔して可とした。時に宦官が誹謗しやめなかったので、参はついに邕州で賜死され、年六十であった。そして申を杖殺し、栄の死を免じ、諸竇は皆追放された。
附 呉通玄
吳通玄は海州の人であり、弟の通微と共に博学で文章を善くした。父の道瓘は道士として詔により太子諸王に経を授けたので、通玄らは皆太子に侍して遊び、太子は彼らを大いに遇した。初め、通玄は神童に挙げられ、秘書正字を補された。また文辞清麗科に擢でられ、同州司戸参軍に調せられた。徳宗が立つと、兄弟は相次いで召されて翰林学士となった。間もなく、通微は職方郎中に遷り、通玄は起居舎人となり、共に制誥を知った。凡そ帝が撰述する所は、通玄の筆によらなければ満足しなかった。
陸贄・吉中孚・韋執誼と並んで位した。贄は文が高く謀あり、特に帝に器遇され、且つ艱難を経て功があった。通玄らは特に東宮の恩旧として進み、昵近して礼せず、贄が驟に擢でられるを見て、頗る恨みを抱いた。贄は自ら勁正を恃み、屡々帝の前で通玄を短くし、之を斥け遠ざけんと欲し、即ち建言して言う、「承平の時、工芸書画の冗なる者は、皆翰林に待詔して学士無く、至徳以来、集賢学士を命じて禁中に入り書詔を草し、翰林院に於いて進止を待つ、因って以て官を名づく。今四方事無く、制書の職分は宜しく中書舎人に帰すべし、学士を罷めんことを請う」と。帝は許さず。通玄の怨み日を結び、其の内職を奪わんと謀る。会に贄が権知兵部侍郎となり、貢挙を主どるに及び、乃ち真を命ぜらる。貞元十年、通玄は諫議大夫を拝し、自ら久しく次ぐを以て、当に中書舎人を得べしとし、大いに怨望す。贄と竇參と交悪す。參の從子申の從舅嗣虢王則之が方に金吾将軍たりし故に、申は之を介して通玄兄弟を結ばしめ、共に贄を危くせんとす。而して通玄は宗室の女を外婦と為す。帝知るも、未だ責むるに及ばず。則之飛謗して云う、「贄は進士を試み、賄謝を受く」と。帝誣構を悪み、大いに怒り、參を宰相より罷め、則之を昭州司馬に逐い、通玄を泉州司馬にす。又淫汙近属の事を銜み、自ら之を詰むるも、敢えて答えず、長城駅に賜死す。贄遂に相たり。
通玄死す。通微白衣にして門に待罪す。帝之を宥す。内に禍を懼れ、敢えて喪服を行わず。
贊
贊して曰く、元載・楊炎各々才資を以て奮い、適主暗庸に遭う、故に位を輔相に致す。若し其の閹尹を翦ぎ、原州に城して以て西夏を謀り、左蔵を有司に還し、一租賦を以て有亡を検制するは、誠に取る有り。然れども載は本より輔国と利を以て合し、険刻諸心に著わり、溪壑の欲、厭う無きより発す。炎は載の勢に牽連し、醜裔を興し、国維綱を秉り、返って載の為に復讐し、言を君に釈し、卒に妻子と並び誅せられ、先骨を暴し、命を道に殛せらる、蓋し自ら之を取るなり。夫れ奸人多才、未だ始めより患いと為さざるは無し、故に酆舒は俊を以て死し、而して鄧析は弁を以て亡ぶ。若し両人の者は、所謂多才なる者か。縉は福業報応を言い、參は君を得て自私す、論ずるに足る者無し。《易》に「鼎足を折る、其の刑剭」と称す、諒なるかな。