新唐書

巻一百四十三 列傳第六十八 高元李韋薛崔戴王徐郗辛

高適

高適、字は達夫、滄州渤海の人。若き頃は落魄し、生業を治めず。梁・宋の間に客居し、宋州刺史張九臯は彼を奇異とし、有道科に挙げて及第し、封丘尉に任じられたが、志を得ず、去った。河西に客居し、河西節度使哥舒翰は彼を左ぎょう衛兵曹参そうしん軍に表し、書記を掌らせた。禄山の乱に際し、翰を召して賊を討たせ、直ちに適を左拾遺に拝し、監察御史に転じ、翰を佐けて潼関を守らせた。翰が敗れると、帝は群臣に策を問うて出処を尋ね、適は禁蔵を竭くして死士を募り賊に抗することを請うたが、未だ遅からずとし、省みられなかった。天子西幸し、適は間道を走って河池において帝に及び、因みに言うには、「翰は素より忠義あり、而るに病その明を奪い、乃ち荒踣に至る。監軍諸将は軍務を恤れず、倡優蒲飗を以て相娯楽し、渾・隴の武士は糲米を飯とし日に飽かず、而して死戦を責むれば、その敗るるは固より宜なり。又た魯炅・何履光・趙国珍は南陽に屯し、而して一二の中人監軍は更に用事す、是れ能く勝を取らんや。臣は数たび楊国忠にこれを言うも、肯えて聴かず。故に陛下に今日の行有り、深く恥ずるに足らず」と。帝は之を頷く。俄かに侍御史に遷り、諫議大夫に擢てられ、気を負いて敢えて言い、権近側目す。帝は諸王を分鎮せしめんとし、適は盛んに不可を言う。俄かに永王叛く。粛宗は雅くこれを聞き、召して事を計らわしめ、因みに判じて言うに、王将に敗れんとし、憂うるに足らずと。帝は之を奇とし、揚州大都督ととく府長史・淮南節度使を除す。詔して江東の韋陟・淮西の来瑱と師を率いて安陸に会せしむ。方に師を済さんとして王敗る。李輔国その才を悪み、数たび短毀し、下して太子少詹事を除す。

未だ幾ばくもせずしょく乱し、出でて蜀・彭二州刺史と為る。初め、上皇東還し、剣南を分けて両節度と為し、百姓は調度に弊し、而して西山三城は列戍す。適上疏して曰く、「剣南は東・西川と名づくると雖も、其の実一道なり。邛関・黎・雅より以て南蛮に抵るまで、茂より西し、羌中・平戎等の城を経て、吐蕃に界す。辺に瀕する諸城は、皆剣南に仰給す。異時に全蜀の饒を以てし、而して山南之を佐くも、猶挙ぐる能わず。今梓・遂等八州を裂きて専ら一節度と為し、歳月の計は、西川参ずるを得ず。嘉陵は比に夷獠に困し、日は小定と雖も、而して痍痏未だ平らかならず、耕紡業を亡くし、衣食貿易は皆成都に資す。是れ役するを得ざるも亦明らかなり。税賦すべき者は、独り成都・彭・蜀・漢の四州のみ。四州の耗残を以て十州の役に当つれば、其の弊見るべし。而して利を言う者は、枘鑿万端、朝を窮めて夕に抵り、千案百牘、皆これを民に取り、官吏譴を懼れ、責め隣保に及び、威を以て罰抶し、而して逋逃益滋す。又た関中比に饑え、士人の蜀に流入する者は道路相系ぎ、地入は訖り有るも、而して科斂は涯無し。蜀の為に計る者は、亦難からずや。又た平戎以西数城は、皆窮山の顛に在り、蹊隧険絶し、糧を運び馬を束ぬるの路、甲を坐して人の無き郷。戎狄の為に言えば、戎狄を利するに足らず。国家の為に言えば、土宇を広むるに足らず。奈何ぞ弾丸の地を以て全蜀太平の人を困ぜんや。若し已に戍するの城は廃すべからず、已に屯するの兵は収むべからずと謂わば、願わくは東川を罷め、一剣南を以て力を併せて事に従わしめよ。然らずんば、陛下の関東を洗蕩し逆乱を清むるの意に非ざるなり。蜀人又た擾れば、則ち朝廷の憂を貽す」と。帝納れず。

梓屯将段子璋反す。適は崔光遠に従い討ちて之を斬る。而して光遠の兵戢まず、遂に大略す。天子怒り、光遠を罷め、適を以て代わりと為し西川節度使とす。広徳元年、吐蕃隴右を取り、適は兵を率いて南鄙に出で、其の力を牽制せんと欲す。既に功無く、遂に松・維二州及び雲山城を亡う。召し還され、刑部侍郎・左散騎常侍さんきじょうじと為り、渤海県侯に封ぜらる。永泰元年卒す。礼部尚書を贈られ、謚して忠と曰う。

適は節義を尚び、王のことを語れば袞袞として厭わず。時に遭いて多難、功名を以て自ら許し、而して言その術に浮き、搢紳の推す所と為らず。然れども政は寛簡、涖む所、人便之す。年五十にして始めて詩を為し、即ち工なり。気質を以て自ら高し。一篇已る毎に、好事者輒ち伝布す。其の賀蘭進明に詒する書は、梁・宋を救わしめて諸軍を親しませ、許叔冀に与うる書は、憾みを釈せしめよと令す。未だ淮を度らずして、檄を将校に移し、永王を絶ち、俾く各自白せしむ。君子以て義にして変を知ると為す。

元結

元結、後魏常山王遵の十五代孫。曾祖仁基、字は惟固、太宗に従い遼東を征し、功を以て宜君の田二十頃、遼口並びに馬牝牡各五十を賜い、寧塞令に拝し、常山公を襲ぐ。祖亨、字は利貞、姿儀美なり。嘗て曰く、「我は王公の余烈を承け、鷹犬声楽是れ習う。吾当に儒学を以て之を易えん」と。霍王元軌その名を聞き、辟いて参軍事とす。父延祖、三歳にして孤と為る。仁基その母に敕して曰く、「此の児且く我を祀らしめよ」と。因みに名づけて之に字す。逮う長ずるに及び、仕えず。年四十を過ぎ、親婭強いて之を勧む。再び舂陵丞に調う。輒ち官を棄て去りて曰く、「人生の衣食は、饑飽に適うべく、宜しく復た須うる所有るべからず」と。毎に畦を灌ぎ薪を掇り、以て「生有るの役、此を過ぐれば吾思わず」と為す。安禄山反す。結を召して戒めて曰く、「而曹世に逢いて多故、自ら山林に安んずるを得ず。勉めて名節を樹てよ、羞辱に近づくこと無かれ」と云う。卒年七十六。門人私に謚して太先生と曰う。

結少より羈ならず、十七にして乃ち節を折りて学に向う。元徳秀に事う。天宝十二載進士に挙げらる。礼部侍郎陽浚其の文を見て曰く、「一第は子を慁うるのみ。有司子を得るは是れ頼む所なり」と。果たして上第を擢つ。復た制科に挙げらる。会う天下乱れ、人間に沈浮す。国子司業蘇源明粛宗に見え、天下の士を問う。結を用うべしと薦む。時に史思明河陽を攻む。帝将に河東に幸せんとす。結を召して京師に詣らしめ、言わんと欲する所を問う。結自ら始めて軒陛に見ゆるを以て、忌諱に拘り、言情を悉くせざるを恐れ、乃ち『時議』三篇を上る。其の一に曰く、

議者が問う、「往年の逆賊は、東は海の果てまで、南は淮・漢に及び、西は函谷・秦に至り、北は幽都に徹し、醜悪な徒党は狼の如く跋扈し、四方に在る者幾百万、当時の禍いは劇しいと言え、而して人心は危うかった。天子は独り隻馬を以て霊武に至り、弱き旅を合わせ、強き寇を鉏き、師は渭西に及んで、曾て時を踰えず、鋭鋒を摧き兇を攘い、両京を復し、河南の州県を収む、何ぞ其れ易きや?乃ち今、河北の奸逆は尽きず、山林江湖の亡命尚多く、盗賊は数たび州県を犯し、百姓は転徙し、踵を継いで絶えず、将士は敵に臨んで奔り、賢人君子は遁逃して出でず。陛下の往時に在りし霊武・鳳翔には、今日の勝兵無くして能く敵を殺し、今日の検禁無くして亡命無く、今日の威令無くして盗賊作らず、今日の財用無くして百姓流れず、今日の爵賞無くして士散ぜず、今日の朝廷無くして賢者仕を思う、何ぞや?将に天子は危きを以て安きと為す能い、而して未だ安からざるを以て危きを忘るるを忍ぶか」と。対えて曰く、「此れ言う難からざるなり。前日、天子は愧じて陵廟が羯逆に傷汚せらるるを恨み、憤悵して上皇の南幸して巴・蜀に至るを、隠悼して宗戚の誅せらるるを見、側身して勤労し、憚らず親しく士卒を撫で、人に権位を与え、信じて疑わず、忠直を聞くを渇き、過ちは諱まず改む。此れ弱きを以て強きを制し、危きを以て安きを取るの繇りなり。今天子は重城深宮に、燕和して居り;凝冕大昕に、纓佩して朝し;太官は味を具え、時に視て献じ、太常は楽を備え、和声を以て薦む;国機軍務は、参籌して乃ち敢えて進む;百姓の疾苦は、時に聞かざる有り;廄の芻良馬・宮籍の美女・輿服の礼物・休符瑞諜は、日月充備す;朝廷は盛徳大業を歌頌し、聴いて厭わず;四方の貢賦は、争って尤異を上る;諧臣顐官は、怡愉して天顔に接す;文武の大臣より庶官に至るまで、皆権賞逾望す。此れ強きを以て弱きを制し、未だ安からざるを以て危きを忘るる能わざる所以なり。若し陛下、今日の安きを視ること、霊武の時の如く能くせば、何ぞ寇盗強弱の言う可き有らんや」と。

其二に曰く、

議者が曰く、「吾れ士人の共に自ら謀るを聞く、『昔、我れ天子に奉じて兇逆を拒ぎ、勝てば家国両全、勝たざれば両亡す、故に生死は戦に決し、是非は諫に極む。今、吾が名位重く、財貨足り、爵賞厚く、勤労已に極む、外に仇讎我を害する無く、内に窮賤我を迫る無し、何ぞ苦しんで鋒刃に当たりて以て死に近づき、人主に忤いて以て禍に近づかんや』と。又聞く、『吾が州裏に病父老母・孤兄寡婦有り、皆力役乞巧、凍餒足らず、況や死者に於てをや、人誰か之を哀しまん』と。又聞く、『天下残破し、蒼生危窘し、賦と役を受くる者は、皆寡弱貧独、流亡死徙し、道路に悲憂す、蓋し亦極まれり。天下安んずれば、我等豈に畎畝自ら処する無からんや?若し安んぜずんば、我れ復た忠義仁信方直を以て死せず』と。人且つ此の如し、奈何とせん」と。対えて曰く、「国家は其の然らんことを欲するに非ず、蓋し太明太信に失するが故なり。夫れ太明なれば則ち其の内情を見、将に内情を蔵せんとすれば則ち罔惑下に生ず。必ず信ぜしむる能く、信ずる可き必せり、而して太信の中に、至奸尤も之を悪む。此の如く遂に朝廷に公直を亡くし、天下に忠信を失い、蒼生益々冤結す。将に之を治めんと欲して、端由無くして能くせんや?吾等野に議し、又何ぞ及ぶ所あらん」と。

其三に曰く、

議者が曰く、「陛下は蒼生を安んじ、奸逆を滅ぼし、太平を図らんとし、心を労し精を悉くし、今に於て四年、説者は之を異にす、何ぞや」と。対えて曰く、「天子の思う所、説者の異にする所の如きは、知らざるに非ず。凡そ詔令丁寧の事有りて皆行わず、空言一再、頗る諧戯に類す。今、仁恤の令有り、憂勤の誥有り、人皆族立党語し、指して之を議す。天子は其の然るを知らず、以て言は行われずと雖も、猶ほ以て勧むるに足ると為す。彼の沮勧は、明審均当にして必ず行わるるに在るなり。天子、能く已に言うの令を行い、必ず将来の法を来たし、雑徭弊制、拘忌煩令を、一切蠲蕩し、天下の賢士を任じ、小人を屏斥し、然る後仁信威令を推し、謹んで行いて惑わず。此れ帝王の常道、何ぞ及ばざらん」と。

帝悦びて曰く、「卿能く朕の憂いを破る」と。右金吾兵曹参軍に擢で、監察御史を摂し、山南西道節度参謀と為る。義士を唐・鄧・汝・蔡に募り、劇賊五千を降し、戦死して露胔する者を泌南に瘞し、名づけて哀丘と曰う。

史思明乱る、帝将に親征せんとす、結建言す、「賊鋭なり、与に争う可からず、宜しく謀を以て之を折るべし」と。帝之を善くし、因りて命して宛・葉の軍を発して賊の南鋒を挫かしめ、結は泌陽に屯して険を守り、十五城を全うす。賊を討つ功を以て監察御史裏行に遷る。荊南節度使呂諲、兵を益して賊を拒がんことを請う、帝、結を水部員外郎に進め、諲の府を佐けしむ。又た山南東道来瑱の府に参じ、時に父母の子に随いて軍に在る者有り、結、瑱に説いて曰く、「孝にして仁なる者は、与に忠を言う可く;信にして勇なる者は、以て義を全うす可し。渠か其の忠信義勇を責めて孝慈を勧めざらんや?将士の父母は、宜しく以て衣食を与うべく、則ち義存する所有らん」と。瑱之を納る。瑱誅せられ、結府事を摂領す。会う代宗立つに、固く辞し、丐うに親に侍して樊上に帰らんことを。著作郎を授く。益々著書し、『自釈』を作りて曰く、

河南は、元氏の望なり。結は、元子の名なり。次山は、結の字なり。世業は国史に載り、世系は家諜に在り。少く商餘山に居り、『元子』十篇を著す、故に元子を以て称と為す。天下兵興し、乱を逃れて猗於洞に入り、始めて猗於子と称す。後に濱に家し、乃ち自ら浪士と称す。官有るに及び、人以為う、浪者亦た漫として官を為すかと、漫郎と呼ぶ。既に樊上に客し、漫遂に顕る。樊の左右は皆漁者なり、少長相い戯れ、更めて聱叟と曰う。彼の聱を以て誚る者は、其の相い従いて聴かず、相い鉤加せず、笭箵を帯びて船を尽くし、独り聱齖として車を揮うが為なり。酒徒此を得て、又た曰く、「公の漫は其れ猶ほ聱か?公は著作を守りて、笭箵を帯びざるか?又た人間に漫浪して、聱齖に非ざるか?公漫久し、以て漫を以て叟と為す可し」と。於戲!吾れ時俗に従いて聴かず、当世に鉤加せず、誰か聱なる者ぞ、吾れ之に従わんと欲す!彼の聱叟は笭箵を帯ぶるを慚じず、吾れ又た安んぞ能く著作を薄くせん?彼の聱叟は鄰裏に聱齖するを羞じず、吾れ又た安んぞ能く人間に漫浪するを慚ぜん?取りて醉人の議に従い、当に漫叟を以て称と為すべし。直ちに荒浪其の情性、誕漫其の為す所、人をして存する所無く、将に待つ所無きを知らしむ。乃ち語を為して曰く、「能く笭箵を帯び、独りを全うして生を保ち;能く聱齖を学び、宗を保ちて家を全うす。聱も此の如し、漫なる乎や非なるか」と。

久しくして、道州刺史に拝せらる。初め、西原の蛮が居住者数万を掠めて去り、遺された戸はわずかに四千、諸使の調発の符牒二百函、結は人の困窮甚だしきを以て、忍びず賦を加え、即ち上言す、「臣が州は賊に焚破せられ、糧儲・屋宅・男女・牛馬ほとんど尽くす。今百姓十に一も在らず、耄孺騒離し、未だ安んずる所なし。嶺南諸州、寇盗尽きず、守捉候望四十余屯を得たり、一たび靖かならざれば、湖南且つ乱れん。請う、百姓の負う所の租税及び租庸使の和市雑物十三万緡を免ぜんことを。」帝これを許す。明年、租庸使上供十万緡を索む、結また奏す、「歳の正租庸の外、率いる所は宜しく時に従い増減すべし。」詔して可とす。結は民の為に営舎し田を与え、徭役を免じ、流亡帰する者万余。進めて容管経略使を授け、身をもって蛮豪を諭し、八州を綏定す。会に母喪に遭う、人皆節度府に詣りて留まることを請い、左金吾衛将軍を加う。民その教を楽しみ、石を立てて徳を頌するに至る。罷めて京師に還り、卒す、年五十、礼部侍郎を贈らる。

李承

李承、趙州高邑の人。幼くして孤、その兄曄これを養う。既に長じ、悌を以て聞こゆ。明経に擢で、累遷して大理評事、河南采訪使判官となる。尹子奇汴州を陥とし、承を拘して洛陽らくように送る、賊の謀を覗い得て、皆密かに諸朝に啓す。両京平らぎ、例にて臨川尉に貶せらる。三月を経ず、徳清令を除く。尋いで監察御史に擢で、累遷して吏部郎中、淮南西道黜陟使となる。楚州に常豊堰を置くことを奏し、以て海潮を禦ぎ、屯田塉鹵を溉ぎ、収穫常に十倍它歳。徳宗将に梁崇義を討たんとし、李希烈これを揣み知り、乃ち表して崇義の過悪を上げ、先ず誅討を請う、帝悦び、数えず左右に対しその忠を称す。会に承使いより回る、言う希烈功を立て能くするも、然れども後に制し難からんことを恐る、帝初め然らずと謂う、及び崇義平らぎ、希烈果たして叛き、始めてその言を思い、擢げて河中尹・晋絳観察使に拝す。承廉正にして雅望有り、才を以て時に顕る。未だ幾ばくもあらず、山南東道節度使に改む。時に希烈なお襄州に拠り、帝命を受けざらんことを慮り、禁兵を以て承を衛送せんと欲す、承辞し、単騎を以て入ることを請う。既に至る、希烈承を外館に舎し、迫脅日ごとに万端、承晏然として死を誓い守る。希烈屈す能わず、遂に大いに掠めて去り、襄・漢蕩然たり。承輯綏撫安し、一年を居る、闔境完復す。初め、希烈去るも、部校を留めて守覘せしめ、往来踵舎す、承因りて得て所厚の臧叔雅をして希烈の腹心周曾・王玢・姚詹を結ばしむ。及び曾等希烈を謀殺せんとす、承首謀なり。密詔して褒美す。尋いで校工部尚書・湖南観察使を検す。建中四年卒す、年六十二、吏部尚書を贈らる。

韋倫

韋倫、系は京兆に本づく。父光乗、開元・天宝の間に在りて朔方節度使となる。倫蔭を以て藍田尉に調じ、幹力勤済し、楊国忠これを署して鋳銭内作使判官とす。国忠多く州県の斉人を発して鼓鋳せしめ、督むる所習わざるに非ざるも、箠失苛厳なりと雖も、愈よ功無し。倫準直を請うて匠を募い、聊かならざる人に代え、これによりて役用減じ、鼓鋳多し。玄宗晩節盛んに宮室を営み、吏介以て欺かんとす、倫工員を閲実し、費を省くこと倍す。帝に従い蜀に入り、監察御史を以て剣南節度行軍司馬・置頓判官となる。時に中人衛卒多く侵暴し、尤も治め難し、倫清儉を以て自ら将い、西人頼りて済う。中宦これを疾み、讒を以て衡州司戸参軍に貶す。度支使第五琦倫の才を薦め、商州刺史・荊襄道租庸使に擢づ。襄州裨将康楚元乱を起こし、自ら東楚義王と称し、刺史王政城を棄てて遁る。賊南に江陵を襲い、漢・沔の餉道を絶つ。倫兵を調べて鄧州に屯し、降賊を厚く撫す。寇益々怠り、乃ち撃ちて楚元を禽え以て献じ、租庸二百万緡を収む。召されて衛尉卿と為り、俄かに寧・隴二州刺史を兼ぬ。

乾元中、襄州乱を起こす、詔して倫を山南東道節度使と為す、而して李輔国方に恣横す、倫謁せず、これを憾み、中ばにして秦州刺史に罷む。吐蕃・党項歳ごとに辺に入り、倫兵寡く、数えず虜を格し、敗れ、巴州長史に貶せられ、務川尉に徙す。代宗立ち、連ねて忠・臺・饒三州刺史を拝す。宦者呂太一嶺南に反す、詔して倫を韶州刺史・韶連郴都団練使に拝す。太一の反間に為り、信州司馬に貶せられ、斥棄すること十年、章に客す。

徳宗位を嗣ぎ、絶域に使する者を選び、倫を擢げて太常少卿と為し、和吐蕃使を充つ。倫至り、天子の威徳を諭し、賛普順悦し、乃ち入りて献ず。還り、太常卿に進み、御史大夫を兼ぬ。再び使い、旨の如し。倫朝に処り、数えず政の得失を論じ、宰相盧杞これを悪む、太子少保に改む。奉天に狩に従う。及び杞敗れ、関播罷めて刑部尚書と為る、倫朝堂に在りて流涕して曰く、「宰相状無く、天下をして此くの如くせしむ、尚書を失わず、後何をか勧めん。」聞く者その公を憚る。帝後に復た杞を用いて刺史と為さんと欲す、倫苦しく諫め、言懇到に至る、帝これを納る。太子少師・郢国公に進み、致仕す。時に李楚琳僕射を以て衛尉卿を兼ね、李忠誠尚書を以て少府監を兼ぬ、倫言う、「楚琳逆節、忠誠戎醜、官を以て寵すべからず。」又た義倉を為さんことを請い、以て無年に捍ぎ;賢者を択び、帝の左右に任ぜんことを。吐蕃は豺虎の野心、信約を事とすべからず、宜しく辺を謹み備うべしと謂う。帝その言を善しし、礼を厚くす。家に居るに孝慈を以て称せらる。卒す、年八十三、揚州都督を贈らる、謚して肅と曰う。

薛玨

薛玨、字は温如、河中宝鼎の人。蔭を以て懿徳太子廟令と為り、累遷して乾陵臺令となる。歳中清白を以て聞こえ、課第一、昭応令に改め、人石を立てて徳を紀せんことを請う、玨固く譲る。楚州刺史に遷る。初め、州に営田有り、宰相遥かに領して使と為し、而して刺史専達を得、俸及び它給百余万、田官数百、歳を以て優に遷を得、別戸三千、刺史の厮役に備う。玨至り、悉く条去し、租入贏す異時。観察使その絜を悪み、罪を以て誣う、峽州刺史に左授す。建中初、徳宗使者を命じ諸道を分ち察せしめて官吏の升黜せしむ、而して李承状に玨の簡を上げ、趙贊その廉を言い、盧翰その肅を称し、書参聞す、ここにおいて中散大夫に拝し、金紫を賜う。劉玄佐表して汴宋行軍司馬を兼ぬ。李希烈汴州を棄てて走る、即ち玨を拝して刺史と為し、河南尹に遷る。入りて司農卿と為る。是の時、詔して刺史・県令に堪うる者を挙げしむること且つ百人、延いて問う人間の疾苦・吏の得失、尤も通達なる者什二を取る、宰相文詞を以て校せんと欲す、玨曰く、「良吏を求むるに文学を責むべからず、宜しく上人の本を愛するを以て心とすべし。」宰相その計を多とし、用いる所皆称職す。京兆尹と為り、司農三宮の畜茹三十車を供す、足らず、京兆に市うことを請う。是の時、韋彤万年令と為り、玨彤をして鬻売を禁ぜしむ、民これを苦しむ。徳宗怒り、玨・彤の俸を奪う。帝下情達せざるを疑い、因りて詔して延英坐の日に百司長官二員に闕失を言うことを許し、これを巡対と謂う。玨剛厳にして、法治に暁け、身を勤めて以て下を勧む、然れども苛察にして、経術の大體無し。竇参に善きに坐し、太子賓客に改め、出でて嶺南観察使と為る。卒す、年七十四、工部尚書を贈らる。

子 存慶

子の存慶、字は嗣徳、容貌魁偉なり。進士第に及第し、御史・尚書郎を歴任す。五遷して給事中となり、韋弘景と詔書を封駁し、時にその直を称せらる。劉總幽州を以て帰順す。穆宗宰相に謂ひて曰く、「必ず薛存慶を用ふべし、以て朕が意を宣ぶに足らん」と。延英殿に対し一刻にして之を遣はし、鎮州に至り、疽背に発して卒す。吏部侍郎を贈らる。

崔漢衡

崔漢衡、博州博平の人なり。沈毅博厚にして、人と交はることを善くす。初め費県令となり、滑州節度使令狐彰、表して掌書記と為す。大暦六年、検校礼部員外郎を以て和蕃副使と為る。還りて、右司郎中に遷る。建中二年、吐蕃盟を請ふ。殿中少監に擢てられ、和蕃使と為り、其の使区頰贊と俱に来りて盟を約す。鴻臚卿に改め、節を持ちて区頰贊を送り帰り、遂に清水にて盟を定む。徳宗奉天に幸す。吐蕃兵を以て渾瑊を佐け、武功に賊を敗る。秘書監に転ず。俄に上都留守・兵部尚書・東都淄青魏博賑給宣慰使を拝す。又幽州に使し、還り命するに指に称す。貞元三年、吐蕃と平涼に盟するに豫り、執へられ、虜将之を殺さんとす。夷言を因りて之に謂ひて曰く、「我善く結贊とす、我を殺す無かれ」と。而して漢衡誠信素より著はしく、虜も亦尊重す。故に河州に至りて還ることを得。明年、出でて晉慈隰観察使と為り、卒す。尚書左僕射を贈らる。

戴叔倫

戴叔倫、字は幼公、潤州金壇の人なり。蕭穎士に師事し、門人の冠と為る。劉晏塩鉄を管す。表して湖南の運を主たしむ。雲安に至り、楊子琳反す。客を馳せて之を劫ひて曰く、「我に金幣を帰せば、死を緩むるを得べし」と。叔倫曰く、「身は殺す可し、財は奪ふ可からず」と。乃ち之を捨つ。嗣曹王臯湖南・江西を領す。表して幕府に在らしむ。臯李希烈を討つ。叔倫を留めて府事を領せしめ、試みに撫州刺史を守らしむ。民歳ごとに溉灌を争ふ。均水法を作りて為し、俗之に便利す。耕餉歳ごとに広く、獄に繫がるる囚無し。俄に真即す。期年、詔書褒美し、譙県男に封じ、金紫服を加ふ。齊映・劉滋政を執る。叔倫之を勧めて曰く、「屯難未だ靖まらず、之を安んずる者は兵に先するは莫し。兵の藉る所は食なり。故に金穀の司は人を輕易にせず。天下の州県に上・中・下、緊・望・雄・輔有り。有司銓擬するは皆私する所に便す。此れ官を為りて人を択び、人を為りて治を求むるの術に非ず。其の尤も切なる者は、県令・録事参軍事なり。此の二者は、宜しく中書・門下より出づべし。資序限を計ること無く、遠近高卑、一に殿最を以て升降せば、則ち人勧むるを知らん」と。映等其の言を重んず。容管経略使に遷る。夷落を綏徠し、威名流聞す。其の治め清明仁恕にして、方略多し。故に至る所最と称せらる。徳宗嘗て『中和節詩』を賦し、使者を遣はして寵賜す。代り還るに及び、道に卒す。年五十八。

王翃

王翃、字は宏肱、へい州晉陽の人なり。少くして兵家を治む。天寶中、翃に衛尉・羽林軍宿衛を授く。才兼文武科に擢てられ、出でて辰州刺史と為る。襄州康楚元を討つに与り功有り、兼秘書少監を加へられ、朗州刺史に遷る。大暦中、容管経略使に擢てらる。初め、安祿山乱る。詔して嶺南兵を南陽魯炅に隷せしむ。炅敗績し、衆奔潰す。溪洞の夷獠相挻きて乱を為し、夷酋梁崇牽「平南都統」と号し、別帥覃問と合し、又西原の賊張侯・夏永と更に誘嘯し、因りて城邑を陥し、遂に容州を拠す。前経略使陳仁琇・元結・長孫全緒等は皆藤・梧に僑治す。翃至り、衆に言ひて曰く、「我は容州刺史なり、安んぞ客として他所に治めんや。必ず容を得て乃ち止まん」と。即ち私財を出して士を募り、功有る者に吏を放署す。是に於て人自ら奮ふ。数ヶ月を経ずして賊帥歐陽珪を斬る。因りて広州に至り、節度使李勉に出兵して力を併せんことを請ふ。勉許さずして曰く、「容は賊に陥ること久しく、獠方に強し。今速やかに攻むれば、只自ら敗るるのみ」と。翃曰く、「大夫即ち師を出さずとも、願くは州県に書を下し、陽に兵を以て助けとなすを言ひ、此の声に藉りて、万一の功を成さんことを冀ふ」と。勉諾す。翃乃ち義・藤二州刺史に書を移し、皆進討を約し、兵三千を引きて賊と鏖戦し、日数遇ふ。勉檄をして之を止めしむ。輒ち匿して発せず、戦ひ愈よ力む。卒に賊を破り、崇牽を禽へ、悉く容州の故地を復す。捷書聞こゆ。詔して更に順州を置き、以て余乱を定む。翃凡そ百余戦し、首領七十を禽へ、覃問遁去す。復た将李寔等を遣はし分ちて西原を討たしめ、郁林等諸州を平ぐ。累ねて御史中丞・招討処置使を兼ぬ。会に哥舒晃反す。翃寔に命じ悉く師をして広州を援けしむ。問因りて衆を合し乗間に来襲す。翃伏を設けて之を撃ち、生かに問を禽ふ。嶺表平ぐ。代宗使いを遣はして慰労し、金紫光禄大夫を加へ、京師に第を賜ふ。

時に吐蕃寇す。郭子儀河中の兵を悉くして辺に乗ず。翃を召して河中少尹と為し、節度の後務を領せしむ。悍将淩正数へて法を幹きて逞はらず。其の徒と約し夜に関を斬り逐はんとす。翃之を覚り、陰に漏刻を乱し、以て其の期を差す。衆驚き、発する敢へず。俄に正を禽へて之を誅す。一軍惕息す。汾州刺史を歴とし、振武軍使綏・銀等州留後と為る。入りて京兆尹を拝す。会に涇原の兵を起して李希烈を討たんとす。浐水に次す。京兆供擬を主る。饔敗れ肉腐る。衆怒りて曰く、「是を食して賊を討つか」と。遂に叛く。翃身を挺てて奉天に走る。太子詹事を拝す。徳宗都に還り、再び遷りて大理卿と為り、出でて福建観察使と為る。東都留守に徙る。既に至りて、田二十余屯を開き、器械を脩め、皆良金壽革にして、士卒を練り、号令精明なり。俄に呉少誠叛く。独り東畿備有るを為し、関東之に頼る。貞元十八年卒す。尚書右僕射を贈らる。謚して肅と曰ふ。

翃雅く盧杞に善し。杞の崔寧を殺し、李懷光の朝するを得ざらしむるは、皆其の謀に与る。議者之を以て訾と為す。

子 正雅

子正雅、字は光謙、行ひ謹飭、崔邠に器とせらる。元和初、進士に擢てられ、遷累して監察御史と為る。穆宗の時、京邑盗賊多し。正雅万年令を以て豪強を威震す。尹柳公綽其の能を言ふ。就きて緋魚を賜ひ、擢累して汝州刺史と為る。監軍の権に怙ふに属し、乃ち病を謝して去る。入りて大理卿と為る。会に宋申錫の獄を争ひ、堅甚だしく、申錫死せずして済む。大和中卒す。左散騎常侍を贈らる。

兄 翊

翃の兄翊、性謙柔、山南東道節度使を歴とす。代宗目して純臣と為し、世謹廉と称す。卒す。戸部尚書を贈らる。謚して忠惠と曰ふ。

翊曾孫 凝

李翊の曾孫の凝は、字は成庶、幼くして孤となり、母方の叔父である宰相の鄭肅に身を寄せた。明経科・進士科に挙げられ、いずれも及第した。台省の官を歴任し、次第に名を知られ、累進して礼部侍郎に抜擢された。権勢に近づく者に阿らず、商州刺史として出された。駅伝の道が出る所で、役人は財産を潰しても供給できず、州には治鉄税の余剰銀があり、常に価格を抑えて役人の俸給を優遇していた。凝はこれを取らず、馬を買うのに用いたので、横暴な擾乱がなく、人々は皆慰め喜んだ。湖南観察使に転じた。僖宗が即位すると、召されて兵部侍郎となり、塩鉄転運使を兼ねた。適切でない者を推挙した罪により、秘書監として東都に分司され、すぐに河南尹に任じられた。宣歙池観察使に遷り、時に乾符四年であった。王仙芝の党が至徳を屠り、勢いがますます盛んになると、凝は牙将の孟琢を派遣して池州の守備を助けさせた。賊は兵を増やして攻めて来たが、実は南陵を襲おうとし、凝は樊儔に舟師を率いさせて青陽を扼させた。儔が命令に背き、軽率に賊と戦って勝てず、凝はこれを斬って示し、諸将はこれを聞いて皆股が慄き、死をもって賊を引き留め、賊は進むことができなかった。時に江南は周囲の境が盗賊の区域となっていたが、凝は強弩をもって采石を占拠し、疑兵の旗幟を掲げ、別将の馬穎を派遣して和州の包囲を解かせた。翌年、賊が大挙して来ると、都将の王涓が永陽から敵に向かったが、凝は大宴会を開き、涓に言った、「賊は勝ちに乗じて驕っている、慎重に持ち堪えてこれを待て、決して戦うな」。涓の意気は鋭く、一日に四舎を急行し、南陵に至り、食事もせずに陣を布き、そこで戦死した。監軍が残兵数千を収め、城に逃げ戻ると、沮喪して去る意志がなく、兵士はまた恣意に横暴で制止できず、凝は責めて言った、「役人が蝗を捕えるのに、勝てずに民に食を仰ぐのは、暴を率いて災いを救うようなものだ。今、兵は敵を防げず、またこれを恣にさせて民の生業を犯させる、どうして朝廷が将軍を待遇する意にかなえようか」。監軍は言葉に詰まり、側近の役人を急き立てて民家に馬を奪わせたが、凝が門に乗って見ると、左右に手を振って捕らえさせて殺したので、これにより留まることができず、しかしますます蓄えを増やし繕い整えて賊に備えたので、賊が来ても攻め加えることができなかった。時に大星が真っ直ぐに寝殿の庭に墜ち、術数家は言った、病を称して政務を見ないようにして災いを鎮めるべきだと。凝は言った、「東南は、国家の財源の出る所であり、宣州は大府である、私は禍を免れようと図ることはできるが、一方の地は何に頼ろうか?城と存亡を共にすると誓う、二度と言うな!」。やがて賊は去った。間もなく、卒去した。享年五十八。吏部尚書を追贈され、諡して貞といった。

徐申

徐申は、字は維降、京兆の人である。進士科に及第し、累進して洪州長史となった。嗣曹王の李臯が李希烈を討つに当たり、檄を飛ばして申に長史の職務で刺史の事を行わせ、職務をよく処理したので、臯はその才能を上表し、韶州刺史に遷った。韶州は兵乱が起こって四十年、刺史は県を治所とし、県令・県丞は雑然と民家の中に住んでいた。申は公田で廃れている所を調べ、人を募って牛と犁を貸し与えて開墾させ、収穫の半分を与えた。田は長く耕されていなかったので肥えて良く、歳の収入は凡そ三万斛であった。諸工匠は労賃を計算し、粟を受け取るのに差があった。そこで旧州に治所を移した。間もなく、邑の城壁は元のようになった。駅伝の宿舎を創設し、大きな市場を作り、器物は全て整った。州民が観察使の下に行き、その人々に功績があるので、生前に祠を建ててほしいと請うたが、申は固辞した。観察使がその状況を上奏すると、合州刺史に遷った。初めて韶州に来た時は、戸数は七千に過ぎなかったが、六年後には倍の一割五分となった。時に景州が初めて設置されると、刺史を授けられ、銭五十万を賜り、節度副使を加えられた。邕管経略使に遷った。黄洞の蛮は人質を納め賦税を供し、敢えて凶暴ではなかった。一年余りして、嶺南節度使に進んだ。前任の節度使が死ぬと、役人が印を盗み、府の官職百余りを任命し、事が漏れるのを恐れて謀反を企てた。申はこれを察知し、殺したが、連座した者は一人も問わなかった。遠方の習俗では攻撃略奪を誇りとしていたが、申は厳しく禁じ、再び犯す者はなかった。外蕃は毎年珠・玳瑁・香・文犀を海路で運んで来たが、申は常の貢納の外には、余分に徴発せず、商人は豊かになった。劉辟が反乱を起こすと、上表して兵卒五千を発し、馬援の旧道に従い、爨蛮を通って蜀に入り、辟の不意を衝くことを請うた。詔は許可し、検校礼部尚書を加えられ、東海郡公に封じられた。詔が届く前に卒去した。享年七十。太子少保を追贈され、諡して平といった。

郗士美

郗士美は、字は和夫、兗州金郷の人である。父の純は、字は高卿、進士科・抜萃科・制策科に挙げられ、いずれも高第となり、張九齢・李邕がしばしば称賛した。拾遺から七遷して中書舎人となった。事を処理するのに曲げず、宰相の元載に忌まれた。時に魚朝恩が牙将の李琮を両街功徳使に任命すると、琮は勢いを頼んで凶暴横暴となり、禁中で京兆尹の崔昭を大勢の前で辱めた。純は言った、「これは国の恥である」。すぐに載の下に行き、速やかにその罪を処するよう請うたが、載は受け入れず、そこで病を称して東都に帰り、「伊川田父」と号し、十年間出仕しなかった。徳宗が即位し、崔祐甫が政を補佐すると、召されて太子左庶子・集賢殿学士となったが、拝命せず、老齢を理由に致仕を願い出た。詹事に改められ、致仕を許された。帝は召し出して、長く褒め嘆息し、金印紫綬を賜い、公卿以下は皆都門で餞別し、世はその節義を高く評価した。

士美は十二歳で、『五経』・『史記しき』・『漢書かんじょ』に通じ、いずれも暗誦できた。父の友である蕭穎士・顔真卿・柳芳が相論じ合い、嘗て言った、「我々は異日に二郗の間に交わるであろう」。冠礼前に陽翟丞となり、李抱真の潞州幕府を補佐した。才能により、王虔休・李元に歴仕し、皆留まって移らなかった。久しくして房州刺史・黔中経略観察使に進んだ。溪州の賊の向子琪が八千の衆を率いて山に拠り略奪したが、士美はこれを討ち平らげ、検校右散騎常侍を加えられ、高平郡公に封じられた。京兆尹に遷り、天子は多く諮問された。

鄂嶽観察使として出された。時に安黄節度使の伊慎が入朝し、その子の宥が後務を主宰したが、傲慢で、母が京師で死んでも喪を発せず、その権力を固めようとした。士美はこれを知り、府の属官にその境を通過させ、宥が出迎えると、そこで母の訃報を告げ、すぐに旅装を整えさせたので、宥は慌てふためいて上道した。

河南尹に改められ、検校工部尚書を兼ね、昭義節度使を充任した。昭義は李抱真以来皆武臣で、私厨の月費は米六千石・羊千頭・酒数十斛、潞州の民は甚だ困窮していた。士美が至ると、これを悉く廃し、官庫の銭を出して物を買い自給した。また盧従史の時には、毎日三百人分の食事を用意して牙兵に与えていたが、士美は言った、「兵卒が牙を守衛するのは、本来の職務である、どうして広く費用を費やして私恩としようか?」。これも廃止した。王承宗を討つに当たり、大将の王献に万人を督させて前鋒としたが、献が恣意に横暴で進軍を遅らせたので、士美はすぐにこれを斬って示し、命令を下した、「敢えて後れる者は斬る!」。自ら太鼓を打ち、大いに賊を破り、三つの営を下して柏郷を包囲した。時に諸鎮の兵は合わせて十余万で賊を包囲したが、多くは賊を侮り法を犯し、ただ士美の兵は鋭く整い、最も先に功績があった。憲宗は喜んで言った、「もとより士美が我が事を処理できると知っていた」。承宗は大いに震え恐れた。間もなく、詔により軍を返すことになったが、その威は両河に震動した。病により召されて工部尚書に任じられた。後に検校刑部尚書となり、忠武節度使となった。卒去した。享年六十四。尚書左僕射を追贈され、諡して景といった。生来人と交わるに、一旦諾したことは必ず果たし、これにより世に名が重んじられた。

辛秘

辛秘は、系譜は隴西に出る。貞元年間、明経科に及第し、華原主簿を授けられた。判事の成績が優等であったので、長安ちょうあん尉に遷された。その学問は礼の家に特に詳しく、高郢が太常卿となると、奏上して博士とした。再び兵部員外郎に遷り、常に博士を兼ねた。再び礼儀使の府に召された。

憲宗の初め、湖州刺史に拝せらる。李錡反し、大將を遣はして先づ支州を取らしむ。蘇・常・杭・睦の四州刺史は、或は戰ひ敗れ、或は拘はれ脅さるるも、獨り秘は儒者なるを以て、賊之を易しとす。未だ至らざるに、秘牙將丘知二を召し、夜城を開き壯士を収め、數百を得て、賊に逆ひ大戰し、其の將を斬り、進みて營保を焚く。錡平ぎ、金紫を賜ふ。僉に秘の材將帥に任ずべしと謂ふ。會ふ河東の範希朝出でて王承宗を討たんとし、秘を召して希朝の司馬と爲し、留務を主らしむ。累遷して汝・常州刺史、河南尹となり、進みて昭義軍節度使に拝せらる。是の時、恒・趙を討つに承けるの後、潞人雕耗す。秘至れば、則ち出入を約し、用度を嗇しみ、四年を比するに、儲錢十七萬緡・糧七十萬斛、器械堅良にして、隱然復た完鎮と爲る。召し還さるるに、道に病み卒す。年六十四。尚書左僕射を贈られ、謚して肅と曰ふ。後更に謚して懿とす。

秘大官と爲るも、居に第を易へず、服に初めを改めず、其の奉祿悉く裏表の親屬に與ふ。病みて自ら其の墓を銘し、書一通を作りて之を緘す。卒後に發して視れば、則ち送終の制なり。儉にして禮に違はざるなりと云ふ。