新唐書

巻一百四十二 列傳第六十七 李楊崔柳韋路

巻一百四十二 列傳第六十七 李楊崔柳韋路

李麟

原文李麟

李麟は懿祖の裔孫にて、宗族の中では最も疎遠なる者なり。父の濬は、潤・虢・潞の三州刺史を歴任し、誠信をもって良吏と称せらる。開元年中、ついに剣南節度按察使に至り、戸部尚書を追贈され、諡して誠と曰う。

原文李麟,裔出懿祖,於屬最疏。父濬,歷潤、虢、潞三州刺史,以誠信號良吏。開元中,終劍南節度按察使,贈戶部尚書,謚曰誠。

麟は学を好み、文辞に巧みなり。父の蔭により京兆府戸曹参軍に補せられ、宗室の異能に挙げられて殿中侍御史に転ず。累進して兵部侍郎に擢でられ、楊国忠と同列となる。国忠は権を恃みて之を憎み、権礼部貢挙に改めらる。国忠が遷ると、麟は本官に復す。国子祭酒に改む。出でて河東太守となり、清政あり。安禄山反す。朝廷は麟を儒者とし、侮を禦ぐの才にあらざるを以て、還りて祭酒と為し、渭源県男に封ぜらる。玄宗蜀に入る。麟は走りて帝に見え、再び憲部尚書・同中書門下平章事に遷る。時に宰相韋見素・房琯・崔渙・崔圓は踵を接して肅宗の行在に赴く。独り麟は宗室の子として留まり百司を総べる。上皇京に還り、同中書門下三品に進み、褒国公に封ぜらる。張皇后李輔国を挟みて漸く政を橈ます。苗晋卿・崔圓等は其の権を畏れ、皆附離して安きを取る。独り麟は正を守り阿順せず。輔国忌みて恚る。乾元初、罷められて太子少傅と為る。明年卒す。年六十六。太子太傅を贈られ、諡して徳と曰う。

原文麟好學,善文辭。以父蔭補京兆府戶曹參軍,舉宗室異能,轉殿中侍御史。累擢兵部侍郎,與楊國忠同列,國忠怙權,疾之,改權禮部貢舉。國忠遷,麟復本官。改國子祭酒。出為河東太守,有清政。安祿山反,朝廷以麟儒者,非禦侮才,還為祭酒,封渭源縣男。玄宗入蜀,麟走見帝,再遷憲部尚書、同中書門下平章事。時宰相韋見素、房琯、崔渙、崔圓踵赴肅宗行在,獨麟以宗室子留總百司。上皇還京,進同中書門下三品,封褒國公。張皇后挾李輔國浸橈政,苗晉卿、崔圓等畏其權,皆附離取安,獨麟守正不阿順,輔國忌恚。乾元初,罷為太子少傅。明年卒,年六十六,贈太子太傅,謚曰德。

楊綰

原文楊綰

楊綰は字あざなを公権と曰い、華州華陰の人なり。祖父の温玉は武后の時にあって顕官たり。世、儒を以て聞こゆ。綰は少にして孤、家は素より貧しく、母に事うること甚だ謹みあり。性沈靖にして、独り一室に処り、左右に図史あり、凝塵席に満つとも、淡如たり。名を立つるを好まず、論著する所あれば、未だ嘗て人に示さず。進士に第し、太子正字に補せらる。詞藻宏麗科に挙げらる。玄宗既に試み、又た詩・賦各一篇を加う。綰は冠たり。此れにより右拾遺に擢でらる。制挙に詩・賦を加うるは、綰より始まる。天宝の乱、肅宗即位す。綰は身を脱して行朝に見え、起居舎人に拝され、制誥を知る。累遷して中書舎人となり、国史を修むるを兼ぬ。故事に、舎人年久しき者は閣老と為り、其の公廨雑料は独り五の四を取る。綰に至り、悉く均しく之を与う。礼部侍郎を歴任し、古の孝廉・力田等の科を復するを建て、天下其の議を高しとす。俄かに吏部に遷り、品裁清允にして、人其の公に服す。是の時、元載政を秉り、綰の望高きを忌み、疏薄にす。宦官魚朝恩国子監を判ず。既に誅せらる。因りて是に建言す、太学は当に天下の名儒を得て其の選を汰すべしと。即ち綰を国子祭酒に拝す。外は尊重を示すも、実は散地を以て之を処す。載日々貪冒す。天下の士議益々綰に帰す。帝も亦之を知り、自ら擢でて太常卿と為し、礼儀使を充てしむ。載罪を得て、中書侍郎・同中書門下平章事に拝され、国史を修む。制下る。士朝に相賀す。綰固く譲るも、帝許さず。

原文楊綰,字公權,華州華陰人。祖溫玉,在武后時為顯官。世以儒聞。綰少孤,家素貧,事母謹甚。性沈靖,獨處一室,左右圖史,凝塵滿席,淡如也。不好立名,有所論著,未始示人。第進士,補太子正字。舉詞藻宏麗科,玄宗已試,又加詩、賦各一篇,綰為冠,由是擢右拾遣。制舉加詩、賦,繇綰始。天寶亂,肅宗即位,綰脫身見行朝,拜起居舍人,知制誥。累遷中書舍人,兼修國史。故事,舍人年久者為閣老,其公廨雜料獨取五之四。至綰,悉均給之。歷禮部侍郎,建復古孝廉、力田等科,天下高其議。俄遷吏部,品裁清允,人服其公。是時,元載秉政,忌綰望高,疏薄之。宦者魚朝恩判國子監,既誅,因是建言太學當得天下名儒汰其選,即拜綰國子祭酒,外示尊重,而實以散地處之。載日貪冒,天下士議益歸綰,帝亦知之,自擢為太常卿,充禮儀使。載得罪,拜中書侍郎、同中書門下平章事,修國史。制下,士相賀於朝,綰固讓,帝不許。

時に諸州悉く団練使を帯ぶ。綰奏す、「刺史は自ら持節諸軍事有りて以て軍旅を掌る。司馬は古の司武にして、軍を副う所以なり、今の副使なり。司兵参軍は即ち今の団練判官なり。官号重復す。天下の団練・守捉使を罷むべし」と。詔して可とす。又た諸道観察判官の員の半を減ず。復た言う、「旧制に、刺史代えらるる若しくは別に追わるるは、皆魚書を降して、乃ち去るを得たり。開元の時、諸道採訪使を置き、専ら刺史を停ずるを得、威柄外に移り、漸く久しきべからず。其の刺史職に称せず若しくは贓負あるは、本道の使条を具して以て聞かしむべし。擅に追い及び停むること得ず。而して刺史も亦た輙ち州を去りて使の所に詣るべからず。若し其の故闕あらば、使司署摂すること無く、上佐の代わりに領するを聴すべし」と。帝其の謀を善しとす。是に於いて州の上佐を高く選び、上・中・下州を定め、兵員を差置し、詔して郎官・御史に分道巡覆せしむ。又た府・州官の月稟を定め、優狹相均からしむ。初め、天下兵興り、権宜に従い、官品同じくして禄例差あり。四方粗く定まるに及び、元載・王縉国に当たり、偷みて以て利と為し、因りて改めず。故に江淮の大州は月千緡に至るも、山剣の貧険は、上州刺史と雖も数十緡に止まる。此に及びて始めて太平の旧制に復す。

原文時諸州悉帶團練使,綰奏:「刺史自有持節諸軍事以掌軍旅;司馬,古司武,所以副軍,今副使;司兵參軍,即今團練判官。官號重復,可罷天下團練、守捉使。」詔可。又減諸道觀察判官員之半。復言:「舊制,刺史被代若別追,皆降魚書,乃得去。開元時,置諸道采訪使,得專停刺史,威柄外移,漸不可久。其刺史不稱職若贓負,本道使具條以聞,不得擅追及停,而刺史亦不得輒去州詣使所。如其故闕,使司無署攝,聽上佐代領。」帝善其謀,於是高選州上佐,定上、中、下州,差置兵員,詔郎官、御史分道巡覆。又定府、州官月稟,使優狹相均。始,天下兵興,從權宜,官品同而祿例差。及四方粗定,元載、王縉當國,偷以為利,因不改,故江淮大州至月千緡,而山劍貧險,雖上州刺史止數十緡。及此始復太平舊制。

綰は素より痼疾あり、旬日を居るに浸く劇し。詔有りて中書に就き療治せしめ、毎に延英殿に対すに、挟扶を許す。時に穿敝を厘補するは、唯だ綰を恃む。未幾にして薨ず。帝驚悼し、詔して群臣に曰く、「天朕をして太平を致さしめず、何ぞ綰を奪うの速きや」と。即日詔して司徒を贈り、使者を遣わし冊授せしめ、未だ斂せざるに及ばんと欲す。詔して百官に第に吊せしめ、使を遣わし会吊せしめ、賻に絹千匹・布三百匹を賜う。太常諡して文貞と曰う。比部郎中蘇端は憸人なり。異議を持す。宰相常袞陰に之を助く。帝其の言の醜険にして実ならざるを以て、端を巴州員外司馬に貶す。猶諡を賜いて文簡と曰う。

原文綰素痼疾,居旬日浸劇,有詔就中書療治,每對延英殿,許挾扶。於時厘補穿敝,唯綰是恃。未幾薨,帝驚悼,詔群臣曰:「天不使朕致太平,何奪綰之速邪?」即日詔贈司徒,遣使者冊授,欲及其未斂也。詔百官如第吊,遣使會吊,賻絹千匹、布三百匹。太常謚曰文貞,比部郎中蘇端,憸人也,持異議,宰相常袞陰助之,帝以其言醜險不實,貶端巴州員外司馬,猶賜謚曰文簡。

綰は儉約にて、未だ嘗て生事を問わず。禄稟は姻旧に分ち、多寡に随いて輙ち尽くす。之を造る者、清談終日すれども栄利に及ばず。私を以て幹らんと欲すれば、其の言を聞き、必ず内愧して止む。経誥の微趣、学家の疑晦なる者、一見して既に其の極に詣る。始めて政を輔うるや、御史中丞崔寬は本より豪侈にて、城南の別墅池観堂皇、当時第一たり。即日人を遣わし之を毀たしむ。京兆尹黎幹は出入りに騶馭百余を従う。省損して才に十余騎を留む。中書令郭子儀邠州の行営に在り、方に大会す。除書至る。音楽五の四を散ず。其の他聞風靡然自ら化する者、勝げて紀すべからず。世之を楊震・山濤・謝安に比す。

原文綰儉約,未嘗問生事,祿稟分姻舊,隨多寡輒盡。造之者,清談終晷,而不及榮利,欲幹以私,聞其言,必內愧止。經誥微趣,學家疑晦者,一見既詣其極。始輔政,御史中丞崔寬本豪侈,城南別墅池觀堂皇,為當時第一,即日遣人毀之;京兆尹黎幹,出入從騶馭百數,省損才留十餘騎;中書令郭子儀在邠州行營,方大會,除書至,音樂散五之四;它聞風靡然自化者,不可勝紀。世以比楊震、山濤、謝安雲。

崔祐甫

原文崔祐甫

崔祐甫は字を貽孫と曰い、太子賓客孝公沔の子なり。世、礼法を以て聞家と為る。進士に第し、寿安尉に調ず。安禄山洛陽を陥す。祐甫は矢石を冒して私廟に入り、木主を負いて以て逃る。起居舎人より累遷して中書舎人と為る。性剛直にして、事に遇いて回らざるあり。時に侍郎闕く。祐甫省事を摂す。数たび宰相常袞と争議して平らかならず。袞怒り、吏部選を知らしむ。毎に官を擬すれば、袞輙ち駁異す。祐甫下らざるを為さず。会に朱泚軍中に猫鼠同乳す。其の瑞を表す。詔して袞に示す。袞群臣を率いて賀す。祐甫独り曰く、「吊すべくして賀すべからず」と。詔して使を遣わし状を問わしむ。対えて曰く、「臣聞く、『礼』に『猫を迎うるは、其の田鼠を食らうが為なり』と。其の人を為りて害を去るを以て、細と雖も必ず録す。今猫は人に畜せられて、鼠を食らうこと能わずして反って之に乳す。其の性を失うこと無からんや。猫の職修まらざれば、其の応は若し曰く、法吏に邪に触れざる者有り、疆吏に敵を捍がざる者有りと。臣愚かに以為う、当に有司をして貪吏を察せしめ、辺候を誡め、僥巡を勤めしむべし。然らば則ち猫能く功を致し、鼠害を為さずと」と。代宗其の言を異とす。袞益々喜ばず。

原文崔祐甫,字貽孫,太子賓客孝公沔之子也。世以禮法為聞家。第進士,調壽安尉。安祿山陷洛陽,祐甫冒矢石入私廟,負木主以逃。自起居舍人累遷中書舍人。性剛直,遇事不回。時侍郎闕,祐甫攝省事,數與宰相常袞爭議不平。袞怒,使知吏部選,每擬官,袞輒駁異,祐甫不為下。會朱泚軍中貓鼠同乳,表其瑞,詔示袞,袞率群臣賀,祐甫獨曰:「可吊不可賀。」詔使問狀,對曰:「臣聞《禮》:『迎貓,為其食田鼠。』以其為人去害,雖細必錄。今貓受畜於人,不能食鼠而反乳之,無乃失其性邪?貓職不修,其應若曰法吏有不觸邪,疆吏有不捍敵。臣愚以為當命有司察貪吏,誡邊候,勤僥巡,則貓能致功,鼠不為害。」代宗異其言,袞益不喜。

帝崩じ、袞、礼官と議して曰く、「礼に、君の為に斬衰三年とす。漢の文帝は権制として三十六日とす。我が太宗文皇帝崩じ、遺詔も亦三十六日とし、群臣忍びず、既に葬りて除く、略四月を尽くす。高宗は漢の故事の如し。玄宗以来、始めて天子の喪を二十七日に変ず。乃ち、遺詔に『天下の吏民、三日にして服を釈す』と曰うと雖も、群臣は宜しく皇帝の服の如く二十七日にして乃ち除くべし」と。祐甫曰く、「遺詔に臣・庶人の別無し、是れ皇帝は宜しく二十七日とし、而して群臣は三日とすべし」と。袞曰く、「賀循称す、吏とは、官長の署する所、公卿百官に非ざるなり」と。祐甫対えて曰く、「『伝に曰く』『之を三吏に委ぬ』と、乃ち三公なり。史に循吏・良吏と称す、豈に胥吏ならんや」と。袞曰く、「礼は天降り地出ずるに非ず、人情のみ。且つ公卿臣は寵祿を膺け受け、今黔首と同じくし、信宿にして除くは、公に於て安からんや」と。祐甫曰く、「遺詔を若何せん。詔にして改む可くば、孰か改む可からざらん」と。意象殊に厲し。袞方に臨みに入らんとし、従吏を遣わして殿墀上に扶け立たしむ。祐甫之を指して衆に謂ひて曰く、「臣君の前に哭するに、扶くるの礼有りや」と。袞怒りに勝へず、乃ち祐甫を劾して情に率ひて礼を変じ、国典を橈かすとし、潮州刺史に貶すを請ふ。徳宗以て重しと為し、河南少尹に改む。初め粛宗の時、天下務劇しく、宰相更に直して事を掌り、若し休沐して第に還れば、大なる詔命に非ざれば、遍く曉するを待たず、則ち直する者に代はり署して聞かしむ。是の時郭子儀・朱泚倶に平章事を以て敕尾に署すべくして、而も宰相の事を行はざりき。帝新に即位し、袞故事の如く代はり署す。子儀・泚入り、祐甫の貶すべからざるを言ふ。帝曰く、「卿向は何をか言へる。今云ふ非なりと」と。二人対へて初め知らずと。帝怒り、袞を以て上を罔すと為す。是の日、群臣苴绖して月華門外に立ち、即ち両職を換へ、袞を以て河南少尹と為し、而して祐甫を門下侍郎・同中書門下平章事に拝す。俄に中書侍郎に改む。

原文帝崩,袞與禮官議:「禮,為君斬衰三年。漢文帝權制三十六日。我太宗文皇帝崩,遺詔亦三十六日,群臣不忍,既葬而除,略盡四月。高宗如漢故事。玄宗以來,始變天子喪為二十七日。乃者,遺詔雖曰『天下吏民,三日釋服』,群臣宜如皇帝服二十七日乃除。」祐甫曰:「遺詔無臣、庶人之別,是皇帝宜二十七日,而群臣三日也。」袞曰:「賀循稱,吏者,官長所署,非公卿百官也。」祐甫對:「《傳曰》『委之三吏』,乃三公也。史稱循吏、良吏,豈胥吏歟?」袞曰:「禮非天降地出,人情而已。且公卿在臣膺受寵祿,今與黔首同,信宿而除,於公安乎?」祐甫曰:「若遺詔何?詔而可改,孰不可改?」意象殊厲。袞方入臨,遣從吏扶立殿墀上,祐甫指之謂眾曰:「臣哭君前,有扶禮乎?」袞不勝怒,乃劾祐甫率情變禮,橈國典,請貶潮州刺史。德宗以為重,改河南少尹。始肅宗時,天下務劇,宰相更直掌事,若休沐還第,非大詔命,不待遍曉,則聽直者代署以聞。是時郭子儀、朱泚俱以平章事當署敕尾,而不行宰相事。帝新即位,袞如故事代署。子儀、泚入,言祐甫不宜貶,帝曰:「卿向何所言?今雲非邪?」二人對初不知。帝怒,以袞為罔上。是日,群臣苴绖立月華門外,即兩換職,以袞河南少尹,而拜祐甫門下侍郎、同中書門下平章事。俄改中書侍郎。

至徳・乾元以来、天下戦討し、啓丐填委す、故に官賞繆紊す。永泰後、稍稍平定す、而して元載事を用ふ、賄謝せざれば官を与へず、公路を刬塞し、綱紀大いに壊る。載誅され、楊綰相と為る、未幾にして卒す。袞国に当り、其の敝を懲らし、凡そ奏請一切之を杜絶し、惟だ文辞入第するに乃ち進むを得、然れども甄異する所無く、賢愚同く滞る。祐甫に及んで、則ち薦挙惟だ其人にあり、自ら疑畏せず、至公を推して行ひ、年を踰へず、吏を除くこと幾八百員、諧允せざる莫し。帝嘗て謂ひて曰く、「人言ふ卿の官を擬するに親旧多しと、何ぞ」と。対へて曰く、「陛下臣に令して庶官を進擬せしむ。夫れ進擬する者は必ず其の才行を悉くす、如し聞知せざれば、何に由りてか其の実を得ん」と。帝以て然りと為す。神策軍使王駕鶴は、衛兵を典すること久しく、権中外に震ふ、帝将に之を代へんとし、其の変を懼れ、以て祐甫に問ふ。祐甫曰く、「是れ慮るに足らず」と。即ち駕鶴を召し留めて語らしむること移時にして、而して代る者は已に軍中に入れり。淄青の李正己、帝の威断を畏れ、表して銭三十万緡を献じ、以て朝廷を観んとす。帝其の詐を意ひ、答ふる能はざりき。祐甫曰く、「正己誠に詐なりと雖も、陛下は因りて使を遣はし其の軍を労し、以て献ずる所を就けて将士に賜はるに如かず。若し正己詔書を奉承せば、是れ陛下の恩士心に洽るなり。若し用ひざれば、彼自ら怨を斂め、軍将に乱れん。又諸藩をして朝廷を以て重賄と為さしめず」と。帝曰く、「善し」と。正己慚服す。時に議者其の謨謀を韙し、貞観・開元の治を復す可しと謂ふ。

原文自至德、乾元以來,天下戰討,啟丐填委,故官賞繆紊。永泰後,稍稍平定,而元載用事,非賄謝不與官,刬塞公路,綱紀大壞。載誅,楊綰相,未幾卒。袞當國,懲其敝,凡奏請一杜絕之,惟文辭入第乃得進,然無所甄異,賢愚同滯焉。及祐甫,則薦舉惟其人,不自疑畏,推至公以行,未逾年,除吏幾八百員,莫不諧允。帝嘗謂曰:「人言卿擬官多親舊,何邪?」對曰:「陛下令臣進擬庶官,夫進擬者必悉其才行,如不與聞知,何由得其實?」帝以為然。神策軍使王駕鶴者,典衛兵久,權震中外,帝將代之,懼其變,以問祐甫,祐甫曰:「是無足慮。」即召駕鶴留語移時,而代者已入軍中矣。淄青李正己畏帝威斷,表獻錢三十萬緡,以觀朝廷。帝意其詐,未能答。祐甫曰:「正己誠詐,陛下不如因遣使勞其軍,以所獻就賜將士。若正己奉承詔書,是陛下恩洽士心;若不用,彼自斂怨,軍且亂。又使諸藩不以朝廷為重賄。」帝曰:「善。」正己慚服。時議者韙其謨謀,謂可復貞觀、開元之治。

是歳疾を被り、詔して肩輿にて中書に至らしめ、臥して旨を承け、若し第に還らば、即ち使を遣はし咨決せしむ。薨じ、年六十、太傅を贈られ、謚して文貞と曰ふ。故事に、門下侍郎未だ三師を贈る者有らず、帝其の大臣の節有るを以て、特ち寵異す。朱泚乱れ、祐甫の妻王氏賊中に陥る。泚嘗て祐甫と同列たり、繒帛菽粟を遺す。受け而して之を緘鐍し、帝京に還り、具さに封じて以て献ぐ。士君子益々其の家法を重んずと云ふ。

原文是歲被疾,詔肩輿至中書,臥而承旨,若還第,即遣使咨決。薨,年六十,贈太傅,謚曰文貞。故事,門下侍郎未有贈三師者,帝以其有大臣節,特寵異之。朱泚亂,祐甫妻王陷賊中,泚嘗與祐甫同列,遺以繒帛菽粟,受而緘鐍之,帝還京,具封以獻,士君子益重其家法雲。

子植嗣ぐ。植字は公修、祐甫の弟廬江令嬰甫の子なり。祐甫病み、妻に謂ひて曰く、「吾歿すれば、当に廬江の次子を以て吾が祀を主とすべし」と。及び卒し、喪を護る者以て聞かす。帝惻然とし、植を召し、喪次に使はして即ち服を終へしむ。弘文生を補ふ。経史に博通し、『易』に於て尤も邃し。鄭覃と同時に補闕と為り、皆賢宰相の後なり。毎に朝廷得失有れば、両人者更に疏をして論執し、誉望蔚然たり。

原文子植嗣。植字公修,祐甫弟廬江令嬰甫子也。祐甫病,謂妻曰:「吾歿,當以廬江次子主吾祀。」及卒,護喪者以聞,帝惻然,召植,使即喪次終服。補弘文生。博通經史,於《易》尤邃。與鄭覃同時為補闕,皆賢宰相後,每朝廷有得失,兩人者更疏論執,譽望蔚然。

元和の中、給事中と為る。時に皇甫镈度支を判じ、百官の奉稟を減ずるを建言す。植詔書を封じて還す。镈又天下の納する所の塩酒利の估を増す者を請ふ、新を以て旧に準ひ、一切追償せんとす。植奏言して曰く、「兵を用ふること久しく、百姓雕罄す。往には估其の実を踰えたりと雖も、今復た収む可からず」と。是に於て議者咸く镈を罪し、镈懼れて止む。

原文元和中,為給事中。時皇甫镈判度支,建言減百官奉稟,植封還詔書。镈又請天下所納鹽酒利增估者,以新準舊,一切追償。植奏言:「用兵久,百姓雕罄,往雖估逾其實,今不可復收。」於是議者咸罪镈,镈懼而止。

長慶の初め、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。穆宗が問うた、「貞観・開元の治道は最も盛んであったが、どうしてそうなったのか」。植は言った、「太宗は上聖の資質をもち、民間より興り、百姓の疾苦を知っていた。故に励精思治し、また房玄齢・杜如晦・魏徴・王珪をその補佐とした。君は明らかにして臣は忠なり、聖賢相い維ぎ、治は升平に致った。固より其の宜しきなり。玄宗は天後の時に、身をもって憂患を践み、即位して後、姚崇・宋璟を得た。この二人は蚤夜孜孜として、君を道に納れた。王珪は嘗て手ずから『尚書』の『無逸』篇を書き、図として献じ、帝に出入の際に観省して自ら戒めとするよう勧めた。その後朽ちて暗くなると、山水図に代え、勤めにやや怠り、左右は再び箴規せず、奸臣日に用事し、以て敗れるに至った。昔、徳宗が嘗て先臣の祐甫に開元・天宝の事を問うた時、先臣は治乱の所以然を具に道い、臣は童鹴の時に其の説を記憶した。今、陛下に『無逸』を以て元亀と為さんことを願う。然らば天下幸い甚だし」。他日また問うた、「司馬遷は漢の文帝が十家の産を惜しんで露台を罷め、身には弋綈を衣、履は革舄を履き、上書の囊を集めて殿帷と為したと言う。信じられるか。何ぞ太だ儉約なるや」。植は言った、「良史は児言に非ず。漢は秦の侈縦の余を承け、海内は凋窶せり。文帝は代より来たり、稼穡の艱難を知り、是を以て躬りて儉約を履み、天下の為に財を守った。景帝はこれに遵って改めず、故に家給戸足せり。武帝の時に至り、錢は朽ち貫き、穀は紅腐して、乃ち師を出して征伐し、威は四方を動かすことができた。然れども侈靡を節せず、末年には戸口半減し、税は舟車に及び、人聊かならず、乃ち哀痛の詔を下し、丞相を富人侯に封じた。然らば帝王は儉を示さざるべからず。然る後に天下足る」。帝は言った、「卿の言は善い。患うは之を行うことが難きことなり」。時に朝廷は河朔の三鎮を悉く収め、劉総はまた幽・薊の七州を朝廷に献じ、且つ部将の乱を構うるを懼れ、乃ち先ず豪鋭にして不検なる者の籍を送って京師に送り、朱克融はその籍の中にあった。植と杜元穎は兵を知らず、蕃鎮は将に平らかならんと謂い、再び天下の安危の事を料らず、而して克融らは羈旅塞躓し、官を得て自ら効わんことを願い、日に訴うるも、皆抑えて与えず。張弘靖を遣わして鎮に赴かせ、克融らを北還せしむるに及び、数ヶ月も経たずして克融乱を起こし、再び河朔を失った。天下之を尤め、植は内に慚じた。罷めて刑部尚書と為り、旋いて嶽鄂観察使を授かる。未だ幾ばくもせず、嶺南節度使せつどしに遷り、還って戸部尚書を拝す。華州刺史に終わり、尚書左僕射を贈られた。

原文長慶初,拜中書侍郎、同中書門下平章事。穆宗問:「貞觀、開元中治道最盛,何致而然?」植曰:「太宗資上聖,興民間,知百姓疾苦,故厲精思治,又以房玄齡、杜如晦、魏徵、王珪為之佐,君明臣忠,聖賢相維,治致升平,固其宜也。玄宗在天後時,身踐憂患,既即位,得姚崇、宋璟,此二人蚤夜孜孜,納君於道。珪嘗手寫《尚書》《無逸》,為圖以獻,勸帝出入觀省以自戒。其後朽暗,乃代以山水圖,稍怠於勤,左右不復箴規,奸臣日用事,以至於敗。昔德宗嘗問先臣祐甫開元、天寶事,先臣具道治亂所以然,臣在童鹴,記其說。今願陛下以《無逸》為元龜,則天下幸甚。」他日又問:「司馬遷言漢文帝惜十家產而罷露臺,身衣弋綈,履革舄,集上書囊為殿帷,信乎?何太儉邪?」植曰:「良史非兒言。漢承秦侈縱之餘,海內雕窶,文帝從代來,知稼穡艱難,是以躬履儉約,為天下守財。景帝遵而不改,故家給戶足。至武帝時,錢朽貫,谷紅腐,乃能出師征伐,威動四方;然侈靡不節,末年戶口減半,稅及舟車,人不聊,乃下哀痛詔,封丞相為富人侯。然則帝王不可以不示儉而天下足。」帝曰:「卿言善,患行之為難耳!」時朝廷悉收河朔三鎮,而劉總又以幽、薊七州獻諸朝,且懼部將構亂,乃先籍豪銳不檢者送京師,而朱克融在籍中。植與杜元穎不知兵,謂蕃鎮且平,不復料天下安危事,而克融等羈旅塞躓,願得官自效,日訴於前,皆抑不與。及遣張弘靖赴鎮,縱克融等北還,不數月,克融亂,復失河朔矣。天下尤之,植內慚。罷為刑部尚書,旋授嶽鄂觀察使。未幾,遷嶺南節度使,還拜戶部尚書。終華州刺史,贈尚書左僕射。

倰は、字を徳長といい、祐甫の従子である。性介潔にして、己の清きを矜り、贓負する者を見ること讎の如し。蘇州刺史として奏課第一となり、湖南観察使に遷る。湖南の旧法は、豊年といえども、貿易は境を出でず、隣部の災荒を恤れみず。倰至りて、属吏に謂いて言う、「此れ豈に人情ならんや。糴を閉ざして以て民を重く困らすこと無かれ」。其の禁を削り、是より商賈流通し、貲物益だ饒かになる。入って戸部侍郎となり、度支を判ず。時に田弘正が鎮州に徙り、魏兵二千を以て行く。既に至りて、自衛の為に留め、度支に歳糧を給せんことを請う。穆宗其の議を下す。倰固執して与えず、弘正已むを得ず、魏卒を遣わす。俄にして鎮兵乱を起こし、弘正害に遇う。是れ倰の為すところなり。時に天子徳を失い、倰の党与盛んにして、有司敢えて其の罪を名づけず。出でて鳳翔節度使と為る。年を逾えて、河南尹に徙る。戸部尚書を以て致仕し、卒す。太子少保を贈られ、謚して肅という。

原文倰,字德長,祐甫從子也。性介潔,矜己之清,視贓負者若讎。以蘇州刺史奏課第一,遷湖南觀察使。湖南舊法,雖豐年,貿易不出境,鄰部災荒不恤也。倰至,謂屬吏曰:「此豈人情乎?無閉糴以重困民。」削其禁,自是商賈流通,貲物益饒。入為戶部侍郎,判度支。時田弘正徙鎮州,以魏兵二千行。既至,留自衛,請度支給歲糧,穆宗下其議,倰固執不與,弘正不得已,遣魏卒。俄而鎮兵亂,弘正遇害,倰之為也。時天子失德,倰黨與盛,有司不敢名其罪。出為鳳翔節度使。逾年,徙河南尹。以戶部尚書致仕,卒,贈太子少保,謚曰肅。

賛に曰く、植が政を輔くるや、有為の時に当たりながら、経国の才無く、危きを履みて防ぎ浅く、機其の潰えて発するを知らず、手ずから檻緤を弛めて、虎狼を縦すが如し。一日にして地数千里を亡い、天下の笑いと為る。倰は財を吝しんで賊に資す。又皆幸いに誅せられず。天、河北を以て唐を乱さんとす。故に君臣不肖にして、其の謀い勃繆す。惜しいかな。

原文贊曰:植輔政,當有為之時,無經國才,履危防淺,機不知其潰而發也,手弛檻緤,縱虎狼焉,一日而亡地數千里,為天下笑;倰吝財資賊。又皆幸不誅。天以河北亂唐,故君臣不肖,勃繆其謀,惜哉!

柳渾

原文柳渾

柳渾は、字を夷曠、一字を惟深といい、本名は載、梁の僕射惔の六世の孫、後に襄州に籍を置く。早く孤となり、十余歳の時、巫有りて告げて言う、「児の相は夭にして且つ賤し。浮屠の道と為せば死を緩むべし」。諸父其の言に従わんと欲す。渾曰く、「聖教を去りて異術と為すは、速やかに死するに若かず」。学愈々篤く、遊ぶ者皆名士たり。天宝の初め、進士第に擢でられ、単父尉に調じ、累ねて衢州司馬を除かる。官を棄て武寧山に隠る。召されて監察御史に拝され、台僚は儀矩を以て相い縄す。而して渾放曠にして検局を楽しまず、乃ち外職を求む。宰相其の才を惜しみ、留めて左補闕と為す。大暦の初め、江西の魏少遊表して判官と為す。州の僧に夜飲して其の廬に火を付くる者あり、罪を瘖奴に帰す。軍候財を受け詰めず。獄具わる。渾其の僚の崔祐甫と奴の冤を白す。少遊僧を訊むるを趣け、僧首を伏す。因りて二人に厚く謝す。路嗣恭少遊に代わり、渾は団練副使に遷る。俄にして袁州刺史と為る。祐甫政を輔くるとき、薦めて諫議大夫・浙江東西黜陟使と為す。入って尚書右丞と為る。朱泚乱を起こす。渾は終南山に匿る。賊素より其の名を聞き、宰相として召す。其の子を執りて笞き、所在を搜索す。渾は羸服して歩み奉天に至り、右散騎常侍に改む。賊平ぐ。奏して言う、「臣の名、向は賊に汚され、且つ『載』は文に戈に従う。偃武の宜しき所に非ず」。乃ち今の名に更む。

原文柳渾,字夷曠,一字惟深,本名載,梁僕射惔六世孫,後籍襄州。早孤,方十餘歲,有巫告曰:「兒相夭且賤,為浮屠道可緩死。」諸父欲從其言,渾曰:「去聖教,為異術,不若速死。」學愈篤,與遊者皆有名士。天寶初,擢進士第,調單父尉,累除衢州司馬。棄官隱武寧山。召拜監察御史,臺僚以儀矩相繩,而渾放曠不樂檢局,乃求外職。宰相惜其才,留為左補闕。大歷初,江西魏少遊表為判官。州僧有夜飲火其廬者,歸罪瘖奴,軍候受財不詰,獄具,渾與其僚崔祐甫白奴冤,少遊趣訊僧,僧首伏,因厚謝二人。路嗣恭代少遊,渾遷團練副使。俄為袁州刺史。祐甫輔政,薦為諫議大夫、浙江東西黜陟使。入為尚書右丞。朱泚亂,渾匿終南山。賊素聞其名,以宰相召,執其子搒笞之,搜索所在。渾羸服步至奉天,改右散騎常侍。賊平,奏言:「臣名向為賊汙,且『載』於文從戈,非偃武所宜。」乃更今名。

貞元元年、兵部侍郎に遷り、宜城県伯に封ぜられる。李希烈淮・蔡を据う。関播李元平を用いて汝州を守らしむ。渾曰く、「是の夫は玉を衒いて石を賈う者なり。往けば必ず禽らるるを見ん。何ぞ賊を攘うことあらん」。既にして果たして賊に縛せらる。三年、本官を以て同中書門下平章事と為り、仍りて門下省を判ず。帝嘗て親しく吏を択びて畿邑を宰とし、而して政状有り。宰相を召して語る。皆帝の人を得たるを賀す。渾独り賀せず、曰く、「此れ特だ京兆尹の職なり。陛下は臣輩を択びて以て聖徳を輔うべく、臣は京兆尹を選んで大化を承けしむべく、尹は令長を求めて細事に親しましむべし。尹に代わって令を択ぶは、陛下の宜しき所に非ず」。帝然りとす。玉工帝の為に帯を作り、誤って一銙を毀つ。工敢えて聞かせず、私かに他の玉を市いて之を足す。献ずるに及び、帝似ずと識り、之を擿す。工人罪に伏す。帝其の欺くを怒り、詔して京兆府に死を論ぜしむ。渾曰く、「陛下遽かに之を殺せば則ち已む。若し有司に委ねば、須らく詳讞して乃ち可なり。法に於いて、誤って乗輿の器服を傷つくるは、罪は杖に当たる。律の如く論ぜんことを請う」。是より工死せず。左丞田季羔の従子伯強、私第を売り兵を募りて吐蕃とばんを討つを助けんことを請う。渾曰く、「季羔は先朝の名臣と号せられ、祖より以来世に孝謹、門に闕を表す。隋時の旧第は、惟だ田一族のみ。賊を討つは自ら国計有り。豈に不肖の子に門構を毀たせ、一時の幸を僥倖し、風教を損ぜしめんや。薄く責めて以て懲沮を示さんことを請う」。帝嘉し納る。

原文貞元元年,遷兵部侍郎,封宜城縣伯。李希烈據淮、蔡,關播用李元平守汝州,渾曰:「是夫衒玉而賈石者也。往必見禽,何賊之攘?」既而果為賊縛。三年,以本官同中書門下平章事,仍判門下省。帝嘗親擇吏宰畿邑,而政有狀,召宰相語,皆賀帝得人,渾獨不賀,曰:「此特京兆尹職耳。陛下當擇臣輩以輔聖德,臣當選京兆尹承大化,尹當求令長親細事。代尹擇令,非陛下所宜。」帝然之。玉工為帝作帶,誤毀一銙,工不敢聞,私市它玉足之。及獻,帝識不類,擿之,工人伏罪。帝怒其欺,詔京兆府論死,渾曰:「陛下遽殺之則已,若委有司,須詳讞乃可。於法,誤傷乘輿器服,罪當杖,請論如律。」由是工不死。左丞田季羔從子伯強請賣私第募兵助討吐蕃,渾曰:「季羔,先朝號名臣,由祖以來世孝謹,表闕於門,隋時舊第,惟田一族耳。討賊自有國計,豈容不肖子毀門構,僥一時幸,損風教哉!請薄責以示懲沮!」帝嘉納。

韓滉が浙西より朝廷に入り、帝は虚心にこれを遇し、奏事は時に日暮れに及び、他の宰相はただ席を埋めるのみであったが、滉は省中で吏を鞭打つことを平然と行った。渾は滉に引き立てられてはいたが、その専横を憎み、詰問して曰く、「省闥は人を刑する地にあらず、しかるに吏を鞭打ちて死に至らしむ。公の家の先相国は狷介苛察をもって、満たずして罷免せられし。今公何ぞ前非を蹈み、専ら威福を立てんとするか。豈に主を尊び臣を卑しむの義ならんや」と。滉は悔悟し、少しずつその威を減じた。白誌貞が浙西観察使に任ぜられんとしたとき、渾は奏して曰く、「誌貞は小史より興り、縦えその才を嘉すとも、劇職を超えるべからず。臣は死を以て守り、詔を奉ぜざるを敢えてす」と。時に渾が病を理由に出仕せず、即日詔を外に付して施行せんとした。病癒えて間もなく、骸骨を乞うたが、許されず。門下の吏が過官のことを告げると、渾は愀然として曰く、「既に有司に委ねておきながら、またこれを撓るは、豈に賢者の用心たるべけんや。士は千里家を辞して禄を干くものあり、小邑の主たるも、慮らざらんや能わざるを」と。この歳の擬官に、退けられたる者なし。

原文韓滉自浙西入朝,帝虛己待之,奏事或日晏,他相取充位,滉遂省中搒吏自若。渾雖為滉所引,惡其專,質讓曰:「省闥非刑人地,而搒吏至死。公家先相國以狷察,不滿歲輒罷,今公柰何蹈前非,顓立威福?豈尊主卑臣義邪?」滉悔悟,稍褫其威。白誌貞除浙西觀察使,渾奏:「誌貞興小史,縱嘉其才,不當超劇職。臣以死守,不敢奉詔。」會渾移疾出,即日詔付外施行。疾間,因乞骸骨,不許。門下吏白過官,渾愀然曰:「既委有司,而復橈之,豈賢者用心邪?士或千里辭家以幹祿,小邑主辦,豈慮不能?」是歲擬官,無退異者。

渾瑊が吐蕃と平涼にて会盟した日、帝は大臣に和戎して兵を休める利便を語った。馬燧は賀して曰く、「今日すでに盟す、百年虜患なかるべし」と。渾は跪いて曰く、「五帝には誥誓なく、三王には盟詛なし。蓋し盟詛の興るは皆季末に在り。今盛明の朝、反って季末の事を夷狄に行う。夫れ夷狄は人面獣心、兵を以て制し易く、信を以て結び難し。臣窃にこれを憂う」と。李晟も続いて言うに、「蕃戎は情なきこと多し、誠に渾の言の如し」と。帝は色を変えて曰く、「渾は儒生、辺事に達せず。しかるに大臣もまたかくの如くならんや」と。皆頓首して謝す。夜半、邠寧節度使韓遊瑰が飛奏して吐蕃の盟を劫かし、将校皆覆没せりと。帝は大いに驚き、即ちその表を以て渾に示す。明日、これを慰めて曰く、「卿は儒士なりながら、乃ち軍戎万里の情を知れるか」と。益々礼を異にした。

原文渾瑊與吐蕃會平涼,是日,帝語大臣以和戎息師之便。馬燧賀曰:「今日已盟,可百年無虜患。」渾跪曰:「五帝無誥誓,三王無盟詛,蓋盟詛之興皆在季末。今盛明之朝,反以季末事行於夷狄。夫夷狄人面獸心,易以兵制,難以信結,臣竊憂之。」李晟繼言曰:「蕃戎多不情,誠如渾言。」帝變色曰:「渾,儒生,未達邊事,而大臣亦當爾邪?」皆頓首謝。夜半,邠寧節度使韓遊瑰飛奏吐蕃劫盟,將校皆覆沒。帝大驚,即以其表示渾。明日,慰之曰:「卿,儒士,乃知軍戎萬里情乎?」益禮異之。

宰相張延賞は権を恃み、渾の正を守ることを嫉み、親厚なる者を遣わして謂いて曰く、「明公は旧徳あり、弟(張公)に慎んで朝に言わば、位は久しう保たれん」と。渾曰く、「我がために張公に謝せよ。渾の頭は断たるべしとも、舌は禁ずべからず」と。遂に擠排せられ、右散騎常侍を以て政事を罷む。渾は警辯にして談謔を好み、人と交わり豁如たり。情倹にして産利を営まず。免ぜられて数日後、酒を設けて故人を召し出遊し、酣肆にして乃ち還り、曠然として黜免の意無し。時に李勉・盧翰皆旧相として闔門し朝請を奉ずるも、嘆じて曰く、「吾ら柳宜城を見れば、真に俗に拘れる人なるかな」と。五年に卒す。年七十五。謚して貞と曰う。

原文宰相張延賞怙權,嫉渾守正,遣親厚謂曰:「明公舊德,弟慎言於朝,則位可久。」渾曰:「為吾謝張公,渾頭可斷,而舌不可禁。」卒為所擠,以右散騎常侍罷政事。渾警辯好談謔,與人交,豁如也。情儉不營產利。免後數日,置酒召故人出遊,酣肆乃還,曠然無黜免意。時李勉、盧翰皆以舊相闔門奉朝請,嘆曰:「吾等視柳宜城,真拘俗之人哉!」五年卒,年七十五,謚曰貞。

渾の母方の兄識は、字は方明、知名の士なり。文章に巧み、蕭穎士・元徳秀・劉迅と相上下す。而して識は理を練り端を創ること、往々極致に詣る。趣尚博ならざれども、然れども当時の作者その簡抜に伏す。渾もまた文を属するに善くす。但だ沈思は識に逮ばざるという。

原文渾母兄識,字方明,知名士也。工文章,與蕭穎士、元德秀、劉迅相上下,而識練理創端,往往詣極,雖趣尚非博,然當時作者伏其簡拔。渾亦善屬文,但沈思不逮於識雲。

韋処厚

原文韋處厚

韋処厚、字は徳載、京兆万年の人。継母に事えて孝を以て聞こえ、親歿し、墓側に廬して喪に終る。進士第に及第し、また才識兼茂科に擢でられ、集賢校書郎を授かる。賢良方正異等に挙げられ、宰相裴垍に引かれて直史館となる。咸陽尉に改む。

原文韋處厚,字德載,京兆萬年人。事繼母以孝聞,親歿,廬墓終喪。中進士第,又擢才識兼茂科,授集賢校書郎。舉賢良方正異等,宰相裴垍引直史館。改咸陽尉。

憲宗の初め、左補闕に擢でられる。礼部尚書李絳が間を請うて言うに、「古の帝王は諫を納るるを聖と為し、諫を拒むを昏と為す。今規を進め忠を納るるを聞かず、何を以て天下の事を知らん」と。帝曰く、「韋処厚・路隋数たび疏を上す。その言忠切なり。顧みるに卿未だ知らざるのみ」と。ここより中外その靖密を推す。考功員外郎を歴え、宰相韋貫之と善しと坐し、開州刺史に出ず。戸部郎中を以て入り知制誥と為る。

原文憲宗初,擢左補闕。禮部尚書李絳請間言:「古帝王以納諫為聖,拒諫為昏。今不聞進規納忠,何以知天下事?」帝曰:「韋處厚、路隋數上疏,其言忠切,顧卿未知爾。」由是中外推其靖密。歷考功員外郎,坐與宰相韋貫之善,出開州刺史。以戶部郎中入知制誥。

穆宗立つ、翰林侍講学士と為る。処厚は帝の沖怠にして学に向わざるを以て、即ち路隋とともに『易』『書』『詩』『春秋』『礼』『孝経』『論語』を合わせ、その粹要を掇り、題して『六経法言』二十篇と為し上る。省覧を助けんことを冀う。帝善しと称し、並びに金幣を賜う。再び遷り中書舎人と為る。張平叔は利を言うて帝の寵を得、官自ら塩を鬻き、天下の財を籠めんと建言す。宰相詰うること能わず、群臣に議を下す。処厚十の難を発してその迂謬を誚す。平叔愧縮し、遂に寝す。

原文穆宗立,為翰林侍講學士。處厚以帝沖怠不向學,即與路隋合《易》、《書》、《詩》、《春秋》、《禮》、《孝經》、《論語》,掇其粹要,題為《六經法言》二十篇上之,冀助省覽。帝稱善,並賜金幣。再遷中書舍人。張平叔以言利得幸於帝,建言官自鬻鹽,籠天下之財。宰相不能詰,下群臣議,處厚發十難誚其迂謬,平叔愧縮,遂寢。

敬宗の初め、李逢吉権柄を得、李紳を構え、逐いて端州司馬と為す。その党劉棲楚等は紳を必ず死に致さんと欲し、醜地に徙すべしと建言す。処厚上言して曰く、「逢吉の党与、紳の斥かるるを以てなお余辜ありと為し、人情危駭す。『詩』に云う『萋兮斐兮、是れ貝錦を成す。彼の譖る人者は、亦已に甚だし』、『讒言罔極、四国を交乱す』と。これ古人の讒を疾むこと深きなり。孔子曰く、『三年父の道を改めざるは、孝と謂うべし』と。按ずるに紳は先朝の旧臣、仮令過ちあらば、なお瑕を祓い釁を洗い、改めざるの美を成すべし。況や讒せられしにおいてをや。建中時、山東の乱興り、宰相朋党し、楊炎は元載の為に復讐し、盧杞は劉晏の為に怨みを償う。兵連れ禍結び、天下騒然たり。これ陛下親しく聞見せし所、深く念わざるを得んや」と。紳ここにより免る。逢吉怒り、宝暦三月の赦書に至り、左降官未だ量移せざる者を言わず、以て紳の内徙を沮む。処厚復た奏す、「逢吉は紳一人に縁りて近歳の流斥皆恩沢に蒙らざらしむ。これ天下に恩を広むる所以にあらず」と。帝悟り、その条を追って改む。進みて翰林承旨学士・兵部侍郎と為る。方に天子荒暗にして、月に朝を視ること才に三四。処厚入見し、即ち自ら陳べて罪有り、願わくは前に死して以て謝せんと。帝曰く、「何ぞや」と。対えて曰く、「臣昔く諫官たりしとき、死して争うこと能わず、先帝をして畋猟と色とによりて寿を全うせざらしむ。法に応じて誅せらるべし。然れども死せざる所以は、陛下春宮に在りて十有五なりしなり。今皇子方に繈褓に在り。臣は死亡の誅を避けざるを敢えてす」と。帝大いに感悟し、錦彩を賜いてその意を慰む。王廷湊の乱に、帝は宰相の才なきを嘆き、奸臣をして跋扈せしむ。処厚曰く、「陛下に一の裴度ありて用いず、乃ち饋るに当たりて嘆き、蕭・曹無きを恨む。これ馮唐の以て漢文帝に頗・牧ありて用いざるを謂う所以なり」と。

原文敬宗初,李逢吉得柄,構李紳,逐為端州司馬。其黨劉棲楚等欲致紳必死,建言當徙醜地。處厚上言:「逢吉黨與,以紳之斥猶有餘辜,人情危駭。《詩》云『萋兮斐兮,成是貝錦。彼譖人者,亦已太甚』,『讒言罔極,交亂四國』。此古人疾讒之深也。孔子曰:『三年無改於父之道,可謂孝矣。』按紳先朝舊臣,就令有過,尚當祓瑕洗釁,成無改之美,況被讒乎!建中時,山東之亂興,宰相朋黨,楊炎為元載復讎,盧杞為劉晏償怨,兵連禍結,天下騷然。此陛下親所聞見,得不深念哉!」紳繇是免。逢吉怒,至寶歷三月赦書,不言左降官未量移者,以沮紳內徙。處厚復奏:「逢吉緣紳一人而使近歲流斥皆不蒙澤,非所以廣恩於天下。」帝悟,追改其條。進翰林承旨學士、兵部侍郎。方天子荒暗,月視朝才三四。處厚入見,即自陳有罪,願前死以謝。帝曰:「何哉?」對曰:「臣昔為諫官,不能死爭,使先帝因畋與色而至不壽,於法應誅。然所以不死者,陛下在春宮,十有五矣。今皇子方繈褓,臣不敢避死亡之誅。」帝大感悟,賜錦彩以慰其意。王廷湊之亂,帝嘆宰相不才,而使奸臣跋扈,處厚曰:「陛下有一裴度不能用,乃當饋而嘆,恨無蕭、曹,此馮唐所以謂漢文帝有頗、牧不能用也。」

その後、宮中に急変が起こり、文宗は内難を鎮撫したが、ためらって直ちに詔を下さず、処厚が入り、堂々と申し上げた、「『春秋』の大義は親を滅ぼすにあり、内なる悪は必ず記し、以て逆順を明らかにす。名を正し罪を討つに、何ぞ避諱いみなする所あらんや」と。遂に教命を奉じて布告した。この夜、号令及びその他の儀礼規矩は、有司に責める暇なく、全て処厚の出ずる所となり、旧章に違うものはなかった。中書侍郎・同中書門下平章事に進み、霊昌郡公に封ぜられた。堂史の湯鉥がしばしば権を招き財賄を納めたが、処厚は笑って言った、「これは半ばの滑渙である」と。これを斥け出し、相府は粛然とした。初め、貞元の時、宰相の齊抗が州別駕を廃止し、また別駕となるべき者を朝廷に引き上げて処遇することを奏上した。元和の後、両河に用兵があり、裨将ひしょうが功を立てて東宮・王府の官に補せられ、朱紫混淆し、授受に綱紀がなかった。処厚はそこで六雄・十望・十緊などの州を置き、全て別駕を補任し、これによって流品が澄明に区別された。帝は自ら機政に力を尽くしたが、しかし軽々しく信じ軽々しく改め、浮論に動揺した。処厚がかつて単独で対面して言った、「陛下は臣を不肖とせず、宰相の罪を待つ身とさせ給うた。凡そ奏上して可とされたことが、中途で変えられる。陛下の御心から出たのであれば、臣に信がないことを示すことになる。横議によるものであれば、臣は何の名目で政を執ることができましょうか。かつ裴度は元勲旧徳にして四朝を輔け、竇易直は長厚忠実にして先帝に仕えた。陛下が親重し委信すべき方である。臣は陛下が自ら抜擢された者である。今、言が容れられないならば、まず臣を罷免すべきである」と。即ち下がって頓首した。帝は驚いて言った、「何ぞここに至らんや。卿の忠力は、朕自ら知っている。どうして急に辞して以て朕の不徳を重くせんや」と。処厚が退出すると、帝はまた召して何か言いたいことを問うた。そこで答えて言った、「君子に近づき、小人を遠ざけて、初めて治めうる」と。諄々として数百言を繰り返した。また言った、「裴度は忠なり、久しく任用すべし」と。帝は嘉納した。これ以後、再び横議する者はなかった。時に李同捷が叛き、諸軍に進討を詔した。魏博の史憲誠は去就に心を揺らし、裴度は疑わずに接した。憲誠が吏を遣わして中書に事を報告した。処厚は召して語った、「晉公(裴度)は百口を以て爾が帥を天子に保った。我は然らず。正に爾が為す所により、邦法に従って事を処するのみである」と。憲誠は恐れ、二心を抱かず、遂に功を立てた。李載義が数度滄州・鎮州の兵を破り、皆これを刳剔して献上したが、処厚はこれを戒め、前後数百千人を完活させた。大和二年、ちょうど奏事中、急病に倒れ、香案の前に仆れた。帝は中人に命じて翼扶させ、輿に乗せて邸に還らせたが、一晩で薨じた。年五十六。司空を贈られた。

原文後禁中急變,文宗綏內難,猶豫未即下詔,處厚入,昌言曰:「《春秋》大義滅親,內惡必書,以明逆順;正名討罪,何所避諱哉?」遂奉教班諭。是夕,號令及它儀矩不暇責有司,一出處厚,無違舊章者。進拜中書侍郎、同中書門下平章事,封靈昌郡公。堂史湯鉥數招權納財賂,處厚笑曰:「此半滑渙也。」斥出之,相府肅然。初,貞元時宰相齊抗奏罷州別駕及當為別駕者引處之朝。元和後,兩河用兵,裨將立功得補東宮王府官,朱紫淆並,授受不綱。處厚乃置六雄、十望、十緊等州,悉補別駕,由是流品澄別。帝雖自力機政,然驟信輕改,搖於浮論。處厚嘗獨對曰:「陛下不以臣不肖,使待罪宰相,凡所奏可,中輒變易。自上心出邪,乃示臣不信;得於橫議邪,即臣何名執政?且裴度元勛舊德,輔四朝,竇易直長厚忠實,經事先帝,陛下所宜親重委信之。臣乃陛下自擢,今言不見納,宜先罷。」即趨下頓首,帝矍然曰:「何至是?卿之忠力,朕自知之,安可遽辭以重吾不德?」處厚趨出,帝復召問所欲言,乃對:「近君子,遠小人,始可為治。」諄復數百言。又言:「裴度忠,可久任。」帝嘉納之。自是無復橫議者。時李同捷叛,詔諸軍進討。魏博史憲誠懷向背,裴度待以不疑。憲誠遣吏白事中書,處厚召語曰:「晉公以百口保爾帥於天子,我則不然,正須所為,以邦法從事耳。」憲誠懼,不敢貳,卒有功。李載義數破滄、鎮兵,皆刳剔以獻,處厚戒之,前後完活數百千人。大和二年,方奏事,暴疾,仆香案前,帝命中人翼扶之,輿還第,一昔薨,年五十六,贈司空。

処厚の姿形は甚だ懦弱な者のようであったが、家に居ても平易であった。しかし朝廷で争うに至っては、毅然として回転させ奪うことができなかった。吏を御するに剛直で、百官が謁見して事を述べる時、畏懼して敢えて私事に及ぶ者はなかった。官材を推挙選抜するに当たり、往々にして瑕を棄て善を録し、時にその範囲が広すぎるとも讒謗された。性、学を嗜み、家の書を校訂すること万巻に及んだ。拾遺の時、『徳宗実録』を撰した。後また路隋と共に『憲宗実録』を編纂し、詔により日を分けて入直し、凡例を創め具えたが、完成せずに終わった。本名は淳であったが、憲宗の諱を避けて今の名に改めた。

原文處厚姿狀如甚懦者,居家亦循易,至廷爭,嶷然不可回奪。剛於禦吏,百僚謁事,畏惕未嘗敢及以私。推擇官材,往往棄瑕錄善,時亦譏其太廣。性嗜學,家書讎正至萬卷。為拾遺時,撰《德宗實錄》。後又與路隋共次《憲宗實錄》,詔分日入直,創具凡例,未及成而終。本名淳,避憲宗諱,改今名。

路隋

原文路隋

路隋、字は南式、その先祖は陽平の出である。父の泌、字は安期、『五経』に通じ、端正で寡言、孝悌をもって聞こえた。建中末、長安尉となった。徳宗が奉天に出奔した時、妻子を棄てて行在所に奔り、梁州に狩りを扈従し、乱軍を排して出で、再び流れ矢に中り、裳を裂いて血を濡らした。策を以て渾瑊に説き、召されて幕府に置かれた。東に李懐光を討つに従い、副元帥判官に奏任された。瑊に従って平涼で会盟したが、虜に捕らえられ、そこで死んだ。時に隋は幼く、恩により八品官を授けられた。成長に及んで、父が虜中に囚われていることを知り、日夜号泣し、座する時は必ず西を向き、肉を食わなかった。母が泌に似ている容貌であると告げると、終身鏡を引くことをしなかった。貞元末、吐蕃が和を請うと、隋は三度上疏して許すべきであるとしたが、報いられなかった。明経に挙げられ、潤州参軍事を授けられた。李锜が困辱しようとし、市事を知らせようとしたが、隋は怡然として店に坐し、屈しなかった。韋夏卿はその節を高く評価し、東都幕府に辟置した。元和中、吐蕃が塞に款いた時、隋は五度上疏して修好を請い、泌の還ることを冀った。詔して可とし、祠部郎中徐復を遣わして報聘させた。そして泌の喪が届くと、帝は哀憫し、絳州刺史を贈り、官が喪を治めた。喪服を除くと、隋を左補闕・史館修撰に抜擢し、鯁亮をもって称された。

原文路隋,字南式,其先出陽平。父泌,字安期,通《五經》,端亮寡言,以孝悌聞。建中末,為長安尉。德宗出奉天,棄妻子奔行在,扈狩梁州,排亂軍以出,再中流矢,裂裳濡血。以策說渾瑊,召置幕府。東討李懷光,奏署副元帥判官。從瑊會盟平涼,為虜所執,死焉。時隋嬰孺,以恩授八品官。逮長,知父執虜中,日夜號泣,坐必西向,不食肉。母告以貌類泌者,終身不引鏡。貞元末,吐蕃請和,隋三上疏宜許,不報。舉明經,授潤州參軍事。李锜欲困辱之,使知市事,隋怡然坐肆,不為屈。韋夏卿高其節,辟置東都幕府。元和中,吐蕃款塞,隋五上疏請脩好,冀得泌還。詔可。遣祠部郎中徐復報聘,而泌以喪至,帝湣惻,贈絳州刺史,官為治喪。服除,擢隋左補闕、史館脩撰,以鯁亮稱。

穆宗が立つと、韋処厚と共に侍講学士に抜擢され、再び中書舎人・翰林学士に遷った。毎度除目の制が出ると、金幣を以て来謝する者があったが、隋はこれを退けて言った、「公事を以て私の贈り物とすべきか」と。承旨学士に進み、兵部侍郎に遷った。

原文穆宗立,與韋處厚並擢侍講學士,再遷中書舍人、翰林學士。每除制出,以金幣來謝者,隋卻之曰:「公事而當私貺邪?」進承旨學士,遷兵部侍郎。

文宗が嗣位すると、中書侍郎同中書門下平章事となり、国史を監修した。初め、韓愈が『順宗実録』を撰し、宮中の事を書くに切直であったため、宦官たちは喜ばず、その非実を誹った。帝は隋に刊正を詔した。隋は建言した、「衛尉卿周居巢・諫議大夫王彦威・給事中李固言・史官蘇景胤ら皆、改修は正しくないと上言している。そもそも史冊は褒勧の所在であり、匹夫の美悪すら尚お誣うべからず、況んや人君においてをや。議者は雋不疑・第五倫を引き合いに出して比し、以て聰明を蔽おうとする。臣の宗閔・臣の僧孺は、史官の李漢・蔣系は皆愈の婿であるから参撰すべからず、臣に下筆させよと言う。臣はそうは思わない。かつ愈の書いたものは既に自ら出たものではなく、元和以来、相循って今に至っている。漢らが嫌疑により罷められても、公議に害はない。甚だ謬誤の甚だしい条を示し、史官に付して刊定させてほしい」と。詔があり、貞元・永貞間の数事を失実として摘示し、他は改めず、漢らも罷められなかった。門下侍郎・弘文館大学士に進んだ。久しくして、病を理由に辞したが、聴かれず、冊拝されて太子太師となった。明年、李徳裕が袁州長史に貶せられた時、奏に署名せず、鄭註に忌まれた。そこで検校尚書右僕射・同中書門下平章事・鎮海節度使となった。道中病没した。年六十。太保を贈られ、諡して貞といった。

原文文宗嗣位,以中書侍郎同中書門下平章事,監脩國史。初,韓愈撰《順宗實錄》,書禁中事為切直,宦豎不喜,訾其非實,帝詔隋刊正。隋建言:「衛尉卿周居巢、諫議大夫王彥威、給事中李固言、史官蘇景胤皆上言改脩非是。夫史冊者,褒勸所在,匹夫美惡尚不可誣,況人君乎?議者至引雋不疑、第五倫為比,以蔽聰明。臣宗閔、臣僧孺謂史官李漢、蔣系皆愈之婿,不可參撰,俾臣得下筆。臣謂不然。且愈所書已非自出,元和以來,相循逮今。雖漢等以嫌,無害公誼。請條示甚謬誤者,付史官刊定。」有詔擿貞元、永貞間數事為失實,餘不復改,漢等亦不罷。進門下侍郎、弘文館大學士。久之,辭疾,不聽,冊拜太子太師。明年,李德裕貶袁州長史,不署奏,為鄭註所忌,乃檢校尚書右僕射、同中書門下平章事、鎮海節度使。道病卒,年六十。贈太保,謚曰貞。

賛に曰う、綰は徳を以て人を服し、而して人自ら化す、賢と謂うべし。その論議は渾大にして、古の王佐と雖も以て加うる無し。祐甫は正己の隠情を発し、渾は吐蕃必ず叛くを策し、謀を伐ち幾を知る、君子なるかな。処厚は穆・敬・文の三宗に事え、主は皆類せざるも、而して一に忠を以て納れ、寧ろ堯を以て君に事うる者と謂わざらんや。隋は政を輔けること十年、牛・李・訓・註の用いる事を歴て、迎え将する所無く、善く位を保つかな。

原文贊曰:綰以德服人,而人自化,可謂賢矣。其論議渾大,雖古王佐無以加。祐甫發正己隱情,渾策吐蕃必叛,伐謀知幾,君子哉!處厚事穆、敬、文三宗,主皆弗類,而一納以忠,寧不謂以堯事君者邪?隋輔政十年,歷牛、李、訓、註用事,無所迎將,善保位哉!