新唐書

巻一百四十二 列傳第六十七 李楊崔柳韋路

李麟

李麟は懿祖の裔孫にて、宗族の中では最も疎遠なる者なり。父の濬は、潤・虢・潞の三州刺史を歴任し、誠信をもって良吏と称せらる。開元年中、ついに剣南節度按察使に至り、戸部尚書を追贈され、諡して誠と曰う。

麟は学を好み、文辞に巧みなり。父の蔭により京兆府戸曹参そうしん軍に補せられ、宗室の異能に挙げられて殿中侍御史に転ず。累進して兵部侍郎に擢でられ、楊国忠と同列となる。国忠は権を恃みて之を憎み、権礼部貢挙に改めらる。国忠が遷ると、麟は本官に復す。国子祭酒に改む。出でて河東太守となり、清政あり。安禄山反す。朝廷は麟を儒者とし、侮を禦ぐの才にあらざるを以て、還りて祭酒と為し、渭源県男に封ぜらる。玄宗しょくに入る。麟は走りて帝に見え、再び憲部尚書・同中書門下平章事に遷る。時に宰相韋見素・房琯・崔渙・崔圓は踵を接して肅宗の行在に赴く。独り麟は宗室の子として留まり百司を総べる。上皇京に還り、同中書門下三品に進み、褒国公に封ぜらる。張皇后李輔国を挟みて漸く政を橈ます。苗晋卿・崔圓等は其の権を畏れ、皆附離して安きを取る。独り麟は正を守り阿順せず。輔国忌みて恚る。乾元初、罷められて太子少傅と為る。明年卒す。年六十六。太子太傅を贈られ、諡して徳と曰う。

楊綰

楊綰は字を公権と曰い、華州華陰の人なり。祖父の温玉は武后の時にあって顕官たり。世、儒を以て聞こゆ。綰は少にして孤、家は素より貧しく、母に事うること甚だ謹みあり。性沈靖にして、独り一室に処り、左右に図史あり、凝塵席に満つとも、淡如たり。名を立つるを好まず、論著する所あれば、未だ嘗て人に示さず。進士に第し、太子正字に補せらる。詞藻宏麗科に挙げらる。玄宗既に試み、又た詩・賦各一篇を加う。綰は冠たり。此れにより右拾遺に擢でらる。制挙に詩・賦を加うるは、綰より始まる。天宝の乱、肅宗即位す。綰は身を脱して行朝に見え、起居舎人に拝され、制誥を知る。累遷して中書舎人となり、国史を修むるを兼ぬ。故事に、舎人年久しき者は閣老と為り、其の公廨雑料は独り五の四を取る。綰に至り、悉く均しく之を与う。礼部侍郎を歴任し、古の孝廉・力田等の科を復するを建て、天下其の議を高しとす。俄かに吏部に遷り、品裁清允にして、人其の公に服す。是の時、元載政を秉り、綰の望高きを忌み、疏薄にす。宦官魚朝恩国子監を判ず。既に誅せらる。因りて是に建言す、太学は当に天下の名儒を得て其の選を汰すべしと。即ち綰を国子祭酒に拝す。外は尊重を示すも、実は散地を以て之を処す。載日々貪冒す。天下の士議益々綰に帰す。帝も亦之を知り、自ら擢でて太常卿と為し、礼儀使を充てしむ。載罪を得て、中書侍郎・同中書門下平章事に拝され、国史を修む。制下る。士朝に相賀す。綰固く譲るも、帝許さず。

時に諸州悉く団練使を帯ぶ。綰奏す、「刺史は自ら持節諸軍事有りて以て軍旅を掌る。司馬は古の司武にして、軍を副う所以なり、今の副使なり。司兵参軍は即ち今の団練判官なり。官号重復す。天下の団練・守捉使を罷むべし」と。詔して可とす。又た諸道観察判官の員の半を減ず。復た言う、「旧制に、刺史代えらるる若しくは別に追わるるは、皆魚書を降して、乃ち去るを得たり。開元の時、諸道採訪使を置き、専ら刺史を停ずるを得、威柄外に移り、漸く久しきべからず。其の刺史職に称せず若しくは贓負あるは、本道の使条を具して以て聞かしむべし。擅に追い及び停むること得ず。而して刺史も亦た輙ち州を去りて使の所に詣るべからず。若し其の故闕あらば、使司署摂すること無く、上佐の代わりに領するを聴すべし」と。帝其の謀を善しとす。是に於いて州の上佐を高く選び、上・中・下州を定め、兵員を差置し、詔して郎官・御史に分道巡覆せしむ。又た府・州官の月稟を定め、優狹相均からしむ。初め、天下兵興り、権宜に従い、官品同じくして禄例差あり。四方粗く定まるに及び、元載・王縉国に当たり、偷みて以て利と為し、因りて改めず。故に江淮の大州は月千緡に至るも、山剣の貧険は、上州刺史と雖も数十緡に止まる。此に及びて始めて太平の旧制に復す。

綰は素より痼疾あり、旬日を居るに浸く劇し。詔有りて中書に就き療治せしめ、毎に延英殿に対すに、挟扶を許す。時に穿敝を厘補するは、唯だ綰を恃む。未幾にして薨ず。帝驚悼し、詔して群臣に曰く、「天朕をして太平を致さしめず、何ぞ綰を奪うの速きや」と。即日詔して司徒しとを贈り、使者を遣わし冊授せしめ、未だ斂せざるに及ばんと欲す。詔して百官に第に吊せしめ、使を遣わし会吊せしめ、賻に絹千匹・布三百匹を賜う。太常諡して文貞と曰う。比部郎中蘇端は憸人なり。異議を持す。宰相常袞陰に之を助く。帝其の言の醜険にして実ならざるを以て、端を巴州員外司馬に貶す。猶諡を賜いて文簡と曰う。

綰は儉約にて、未だ嘗て生事を問わず。禄稟は姻旧に分ち、多寡に随いて輙ち尽くす。之を造る者、清談終日すれども栄利に及ばず。私を以て幹らんと欲すれば、其の言を聞き、必ず内愧して止む。経誥の微趣、学家の疑晦なる者、一見して既に其の極に詣る。始めて政を輔うるや、御史中丞崔寬は本より豪侈にて、城南の別墅池観堂皇、当時第一たり。即日人を遣わし之を毀たしむ。京兆尹黎幹は出入りに騶馭百余を従う。省損して才に十余騎を留む。中書令郭子儀邠州の行営に在り、方に大会す。除書至る。音楽五の四を散ず。其の他聞風靡然自ら化する者、勝げて紀すべからず。世之を楊震・山濤・謝安に比す。

崔祐甫

崔祐甫は字を貽孫と曰い、太子賓客孝公沔の子なり。世、礼法を以て聞家と為る。進士に第し、寿安尉に調ず。安禄山洛陽らくようを陥す。祐甫は矢石を冒して私廟に入り、木主を負いて以て逃る。起居舎人より累遷して中書舎人と為る。性剛直にして、事に遇いて回らざるあり。時に侍郎闕く。祐甫省事を摂す。数たび宰相常袞と争議して平らかならず。袞怒り、吏部選を知らしむ。毎に官を擬すれば、袞輙ち駁異す。祐甫下らざるを為さず。会に朱泚軍中に猫鼠同乳す。其の瑞を表す。詔して袞に示す。袞群臣を率いて賀す。祐甫独り曰く、「吊すべくして賀すべからず」と。詔して使を遣わし状を問わしむ。対えて曰く、「臣聞く、『礼』に『猫を迎うるは、其の田鼠を食らうが為なり』と。其の人を為りて害を去るを以て、細と雖も必ず録す。今猫は人に畜せられて、鼠を食らうこと能わずして反って之に乳す。其の性を失うこと無からんや。猫の職修まらざれば、其の応は若し曰く、法吏に邪に触れざる者有り、疆吏に敵を捍がざる者有りと。臣愚かに以為う、当に有司をして貪吏を察せしめ、辺候を誡め、僥巡を勤めしむべし。然らば則ち猫能く功を致し、鼠害を為さずと」と。代宗其の言を異とす。袞益々喜ばず。

帝崩じ、袞、礼官と議して曰く、「礼に、君の為に斬衰三年とす。漢の文帝は権制として三十六日とす。我が太宗文皇帝崩じ、遺詔も亦三十六日とし、群臣忍びず、既に葬りて除く、略四月を尽くす。高宗は漢の故事の如し。玄宗以来、始めて天子の喪を二十七日に変ず。乃ち、遺詔に『天下の吏民、三日にして服を釈す』と曰うと雖も、群臣は宜しく皇帝の服の如く二十七日にして乃ち除くべし」と。祐甫曰く、「遺詔に臣・庶人の別無し、是れ皇帝は宜しく二十七日とし、而して群臣は三日とすべし」と。袞曰く、「賀循称す、吏とは、官長の署する所、公卿百官に非ざるなり」と。祐甫対えて曰く、「『伝に曰く』『之を三吏に委ぬ』と、乃ち三公なり。史に循吏・良吏と称す、豈に胥吏ならんや」と。袞曰く、「礼は天降り地出ずるに非ず、人情のみ。且つ公卿臣は寵祿を膺け受け、今黔首と同じくし、信宿にして除くは、公に於て安からんや」と。祐甫曰く、「遺詔を若何せん。詔にして改む可くば、孰か改む可からざらん」と。意象殊に厲し。袞方に臨みに入らんとし、従吏を遣わして殿墀上に扶け立たしむ。祐甫之を指して衆に謂ひて曰く、「臣君の前に哭するに、扶くるの礼有りや」と。袞怒りに勝へず、乃ち祐甫を劾して情に率ひて礼を変じ、国典を橈かすとし、潮州刺史に貶すを請ふ。徳宗以て重しと為し、河南少尹に改む。初め粛宗の時、天下務劇しく、宰相更に直して事を掌り、若し休沐して第に還れば、大なる詔命に非ざれば、遍く曉するを待たず、則ち直する者に代はり署して聞かしむ。是の時郭子儀・朱泚倶に平章事を以て敕尾に署すべくして、而も宰相の事を行はざりき。帝新に即位し、袞故事の如く代はり署す。子儀・泚入り、祐甫の貶すべからざるを言ふ。帝曰く、「卿向は何をか言へる。今云ふ非なりと」と。二人対へて初め知らずと。帝怒り、袞を以て上を罔すと為す。是の日、群臣苴绖して月華門外に立ち、即ち両職を換へ、袞を以て河南少尹と為し、而して祐甫を門下侍郎・同中書門下平章事に拝す。俄に中書侍郎に改む。

至徳・乾元以来、天下戦討し、啓丐填委す、故に官賞繆紊す。永泰後、稍稍平定す、而して元載事を用ふ、賄謝せざれば官を与へず、公路を刬塞し、綱紀大いに壊る。載誅され、楊綰相と為る、未幾にして卒す。袞国に当り、其の敝を懲らし、凡そ奏請一切之を杜絶し、惟だ文辞入第するに乃ち進むを得、然れども甄異する所無く、賢愚同く滞る。祐甫に及んで、則ち薦挙惟だ其人にあり、自ら疑畏せず、至公を推して行ひ、年を踰へず、吏を除くこと幾八百員、諧允せざる莫し。帝嘗て謂ひて曰く、「人言ふ卿の官を擬するに親旧多しと、何ぞ」と。対へて曰く、「陛下臣に令して庶官を進擬せしむ。夫れ進擬する者は必ず其の才行を悉くす、如し聞知せざれば、何に由りてか其の実を得ん」と。帝以て然りと為す。神策軍使王駕鶴は、衛兵を典すること久しく、権中外に震ふ、帝将に之を代へんとし、其の変を懼れ、以て祐甫に問ふ。祐甫曰く、「是れ慮るに足らず」と。即ち駕鶴を召し留めて語らしむること移時にして、而して代る者は已に軍中に入れり。淄青の李正己、帝の威断を畏れ、表して銭三十万緡を献じ、以て朝廷を観んとす。帝其の詐を意ひ、答ふる能はざりき。祐甫曰く、「正己誠に詐なりと雖も、陛下は因りて使を遣はし其の軍を労し、以て献ずる所を就けて将士に賜はるに如かず。若し正己詔書を奉承せば、是れ陛下の恩士心に洽るなり。若し用ひざれば、彼自ら怨を斂め、軍将に乱れん。又諸藩をして朝廷を以て重賄と為さしめず」と。帝曰く、「善し」と。正己慚服す。時に議者其の謨謀を韙し、貞観・開元の治を復す可しと謂ふ。

是歳疾を被り、詔して肩輿にて中書に至らしめ、臥して旨を承け、若し第に還らば、即ち使を遣はし咨決せしむ。薨じ、年六十、太傅を贈られ、謚して文貞と曰ふ。故事に、門下侍郎未だ三師を贈る者有らず、帝其の大臣の節有るを以て、特ち寵異す。朱泚乱れ、祐甫の妻王氏賊中に陥る。泚嘗て祐甫と同列たり、繒帛菽粟を遺す。受け而して之を緘鐍し、帝京に還り、具さに封じて以て献ぐ。士君子益々其の家法を重んずと云ふ。

子植嗣ぐ。植字は公修、祐甫の弟廬江令嬰甫の子なり。祐甫病み、妻に謂ひて曰く、「吾歿すれば、当に廬江の次子を以て吾が祀を主とすべし」と。及び卒し、喪を護る者以て聞かす。帝惻然とし、植を召し、喪次に使はして即ち服を終へしむ。弘文生を補ふ。経史に博通し、『易』に於て尤も邃し。鄭覃と同時に補闕と為り、皆賢宰相の後なり。毎に朝廷得失有れば、両人者更に疏をして論執し、誉望蔚然たり。

元和の中、給事中と為る。時に皇甫镈度支を判じ、百官の奉稟を減ずるを建言す。植詔書を封じて還す。镈又天下の納する所の塩酒利の估を増す者を請ふ、新を以て旧に準ひ、一切追償せんとす。植奏言して曰く、「兵を用ふること久しく、百姓雕罄す。往には估其の実を踰えたりと雖も、今復た収む可からず」と。是に於て議者咸く镈を罪し、镈懼れて止む。

長慶の初め、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。穆宗が問うた、「貞観・開元の治道は最も盛んであったが、どうしてそうなったのか」。植は言った、「太宗は上聖の資質をもち、民間より興り、百姓の疾苦を知っていた。故に励精思治し、また房玄齢・杜如晦・魏徴・王珪をその補佐とした。君は明らかにして臣は忠なり、聖賢相い維ぎ、治は升平に致った。固より其の宜しきなり。玄宗は天後の時に、身をもって憂患を践み、即位して後、姚崇・宋璟を得た。この二人は蚤夜孜孜として、君を道に納れた。王珪は嘗て手ずから『尚書』の『無逸』篇を書き、図として献じ、帝に出入の際に観省して自ら戒めとするよう勧めた。その後朽ちて暗くなると、山水図に代え、勤めにやや怠り、左右は再び箴規せず、奸臣日に用事し、以て敗れるに至った。昔、徳宗が嘗て先臣の祐甫に開元・天宝の事を問うた時、先臣は治乱の所以然を具に道い、臣は童鹴の時に其の説を記憶した。今、陛下に『無逸』を以て元亀と為さんことを願う。然らば天下幸い甚だし」。他日また問うた、「司馬遷は漢の文帝が十家の産を惜しんで露台を罷め、身には弋綈を衣、履は革舄を履き、上書の囊を集めて殿帷と為したと言う。信じられるか。何ぞ太だ儉約なるや」。植は言った、「良史は児言に非ず。漢は秦の侈縦の余を承け、海内は凋窶せり。文帝は代より来たり、稼穡の艱難を知り、是を以て躬りて儉約を履み、天下の為に財を守った。景帝はこれに遵って改めず、故に家給戸足せり。武帝の時に至り、錢は朽ち貫き、穀は紅腐して、乃ち師を出して征伐し、威は四方を動かすことができた。然れども侈靡を節せず、末年には戸口半減し、税は舟車に及び、人聊かならず、乃ち哀痛の詔を下し、丞相を富人侯に封じた。然らば帝王は儉を示さざるべからず。然る後に天下足る」。帝は言った、「卿の言は善い。患うは之を行うことが難きことなり」。時に朝廷は河朔の三鎮を悉く収め、劉総はまた幽・薊の七州を朝廷に献じ、且つ部将の乱を構うるを懼れ、乃ち先ず豪鋭にして不検なる者の籍を送って京師に送り、朱克融はその籍の中にあった。植と杜元穎は兵を知らず、蕃鎮は将に平らかならんと謂い、再び天下の安危の事を料らず、而して克融らは羈旅塞躓し、官を得て自ら効わんことを願い、日に訴うるも、皆抑えて与えず。張弘靖を遣わして鎮に赴かせ、克融らを北還せしむるに及び、数ヶ月も経たずして克融乱を起こし、再び河朔を失った。天下之を尤め、植は内に慚じた。罷めて刑部尚書と為り、旋いて嶽鄂観察使を授かる。未だ幾ばくもせず、嶺南節度使に遷り、還って戸部尚書を拝す。華州刺史に終わり、尚書左僕射を贈られた。

倰は、字を徳長といい、祐甫の従子である。性介潔にして、己の清きを矜り、贓負する者を見ること讎の如し。蘇州刺史として奏課第一となり、湖南観察使に遷る。湖南の旧法は、豊年といえども、貿易は境を出でず、隣部の災荒を恤れみず。倰至りて、属吏に謂いて言う、「此れ豈に人情ならんや。糴を閉ざして以て民を重く困らすこと無かれ」。其の禁を削り、是より商賈流通し、貲物益だ饒かになる。入って戸部侍郎となり、度支を判ず。時に田弘正が鎮州に徙り、魏兵二千を以て行く。既に至りて、自衛の為に留め、度支に歳糧を給せんことを請う。穆宗其の議を下す。倰固執して与えず、弘正已むを得ず、魏卒を遣わす。俄にして鎮兵乱を起こし、弘正害に遇う。是れ倰の為すところなり。時に天子徳を失い、倰の党与盛んにして、有司敢えて其の罪を名づけず。出でて鳳翔節度使と為る。年を逾えて、河南尹に徙る。戸部尚書を以て致仕し、卒す。太子少保を贈られ、謚して肅という。

賛に曰く、植が政を輔くるや、有為の時に当たりながら、経国の才無く、危きを履みて防ぎ浅く、機其の潰えて発するを知らず、手ずから檻緤を弛めて、虎狼を縦すが如し。一日にして地数千里を亡い、天下の笑いと為る。倰は財を吝しんで賊に資す。又皆幸いに誅せられず。天、河北を以て唐を乱さんとす。故に君臣不肖にして、其の謀い勃繆す。惜しいかな。

柳渾

柳渾は、字を夷曠、一字を惟深といい、本名は載、梁の僕射惔の六世の孫、後に襄州に籍を置く。早く孤となり、十余歳の時、巫有りて告げて言う、「児の相は夭にして且つ賤し。浮屠の道と為せば死を緩むべし」。諸父其の言に従わんと欲す。渾曰く、「聖教を去りて異術と為すは、速やかに死するに若かず」。学愈々篤く、遊ぶ者皆名士たり。天宝の初め、進士第に擢でられ、単父尉に調じ、累ねて衢州司馬を除かる。官を棄て武寧山に隠る。召されて監察御史に拝され、台僚は儀矩を以て相い縄す。而して渾放曠にして検局を楽しまず、乃ち外職を求む。宰相其の才を惜しみ、留めて左補闕と為す。大暦の初め、江西の魏少遊表して判官と為す。州の僧に夜飲して其の廬に火を付くる者あり、罪を瘖奴に帰す。軍候財を受け詰めず。獄具わる。渾其の僚の崔祐甫と奴の冤を白す。少遊僧を訊むるを趣け、僧首を伏す。因りて二人に厚く謝す。路嗣恭少遊に代わり、渾は団練副使に遷る。俄にして袁州刺史と為る。祐甫政を輔くるとき、薦めて諫議大夫・浙江東西黜陟使と為す。入って尚書右丞と為る。朱泚乱を起こす。渾は終南山に匿る。賊素より其の名を聞き、宰相として召す。其の子を執りて笞き、所在を搜索す。渾は羸服して歩み奉天に至り、右散騎常侍さんきじょうじに改む。賊平ぐ。奏して言う、「臣の名、向は賊に汚され、且つ『載』は文に戈に従う。偃武の宜しき所に非ず」。乃ち今の名に更む。

貞元元年、兵部侍郎に遷り、宜城県伯に封ぜられる。李希烈淮・蔡を据う。関播李元平を用いて汝州を守らしむ。渾曰く、「是の夫は玉を衒いて石を賈う者なり。往けば必ず禽らるるを見ん。何ぞ賊を攘うことあらん」。既にして果たして賊に縛せらる。三年、本官を以て同中書門下平章事と為り、仍りて門下省を判ず。帝嘗て親しく吏を択びて畿邑を宰とし、而して政状有り。宰相を召して語る。皆帝の人を得たるを賀す。渾独り賀せず、曰く、「此れ特だ京兆尹の職なり。陛下は臣輩を択びて以て聖徳を輔うべく、臣は京兆尹を選んで大化を承けしむべく、尹は令長を求めて細事に親しましむべし。尹に代わって令を択ぶは、陛下の宜しき所に非ず」。帝然りとす。玉工帝の為に帯を作り、誤って一銙を毀つ。工敢えて聞かせず、私かに他の玉を市いて之を足す。献ずるに及び、帝似ずと識り、之を擿す。工人罪に伏す。帝其の欺くを怒り、詔して京兆府に死を論ぜしむ。渾曰く、「陛下遽かに之を殺せば則ち已む。若し有司に委ねば、須らく詳讞して乃ち可なり。法に於いて、誤って乗輿の器服を傷つくるは、罪は杖に当たる。律の如く論ぜんことを請う」。是より工死せず。左丞田季羔の従子伯強、私第を売り兵を募りて吐蕃を討つを助けんことを請う。渾曰く、「季羔は先朝の名臣と号せられ、祖より以来世に孝謹、門に闕を表す。隋時の旧第は、惟だ田一族のみ。賊を討つは自ら国計有り。豈に不肖の子に門構を毀たせ、一時の幸を僥倖し、風教を損ぜしめんや。薄く責めて以て懲沮を示さんことを請う」。帝嘉し納る。

韓滉が浙西より朝廷に入り、帝は虚心にこれを遇し、奏事は時に日暮れに及び、他の宰相はただ席を埋めるのみであったが、滉は省中で吏を鞭打つことを平然と行った。渾は滉に引き立てられてはいたが、その専横を憎み、詰問して曰く、「省闥は人を刑する地にあらず、しかるに吏を鞭打ちて死に至らしむ。公の家の先相国は狷介苛察をもって、満たずして罷免せられし。今公何ぞ前非を蹈み、専ら威福を立てんとするか。豈に主を尊び臣を卑しむの義ならんや」と。滉は悔悟し、少しずつその威を減じた。白誌貞が浙西観察使に任ぜられんとしたとき、渾は奏して曰く、「誌貞は小史より興り、縦えその才を嘉すとも、劇職を超えるべからず。臣は死を以て守り、詔を奉ぜざるを敢えてす」と。時に渾が病を理由に出仕せず、即日詔を外に付して施行せんとした。病癒えて間もなく、骸骨を乞うたが、許されず。門下の吏が過官のことを告げると、渾は愀然として曰く、「既に有司に委ねておきながら、またこれを撓るは、豈に賢者の用心たるべけんや。士は千里家を辞して禄を干くものあり、小邑の主たるも、慮らざらんや能わざるを」と。この歳の擬官に、退けられたる者なし。

渾瑊が吐蕃と平涼にて会盟した日、帝は大臣に和戎して兵を休める利便を語った。馬燧は賀して曰く、「今日すでに盟す、百年虜患なかるべし」と。渾は跪いて曰く、「五帝には誥誓なく、三王には盟詛なし。蓋し盟詛の興るは皆季末に在り。今盛明の朝、反って季末の事を夷狄に行う。夫れ夷狄は人面獣心、兵を以て制し易く、信を以て結び難し。臣窃にこれを憂う」と。李晟も続いて言うに、「蕃戎は情なきこと多し、誠に渾の言の如し」と。帝は色を変えて曰く、「渾は儒生、辺事に達せず。しかるに大臣もまたかくの如くならんや」と。皆頓首して謝す。夜半、邠寧節度使韓遊瑰が飛奏して吐蕃の盟を劫かし、将校皆覆没せりと。帝は大いに驚き、即ちその表を以て渾に示す。明日、これを慰めて曰く、「卿は儒士なりながら、乃ち軍戎万里の情を知れるか」と。益々礼を異にした。

宰相張延賞は権を恃み、渾の正を守ることを嫉み、親厚なる者を遣わして謂いて曰く、「明公は旧徳あり、弟(張公)に慎んで朝に言わば、位は久しう保たれん」と。渾曰く、「我がために張公に謝せよ。渾の頭は断たるべしとも、舌は禁ずべからず」と。遂に擠排せられ、右散騎常侍を以て政事を罷む。渾は警辯にして談謔を好み、人と交わり豁如たり。情倹にして産利を営まず。免ぜられて数日後、酒を設けて故人を召し出遊し、酣肆にして乃ち還り、曠然として黜免の意無し。時に李勉・盧翰皆旧相として闔門し朝請を奉ずるも、嘆じて曰く、「吾ら柳宜城を見れば、真に俗に拘れる人なるかな」と。五年に卒す。年七十五。謚して貞と曰う。

渾の母方の兄識は、字は方明、知名の士なり。文章に巧み、蕭穎士・元徳秀・劉迅と相上下す。而して識は理を練り端を創ること、往々極致に詣る。趣尚博ならざれども、然れども当時の作者その簡抜に伏す。渾もまた文を属するに善くす。但だ沈思は識に逮ばざるという。

韋処厚

韋処厚、字は徳載、京兆万年の人。継母に事えて孝を以て聞こえ、親歿し、墓側に廬して喪に終る。進士第に及第し、また才識兼茂科に擢でられ、集賢校書郎を授かる。賢良方正異等に挙げられ、宰相裴垍に引かれて直史館となる。咸陽尉に改む。

憲宗の初め、左補闕に擢でられる。礼部尚書李絳が間を請うて言うに、「古の帝王は諫を納るるを聖と為し、諫を拒むを昏と為す。今規を進め忠を納るるを聞かず、何を以て天下の事を知らん」と。帝曰く、「韋処厚・路隋数たび疏を上す。その言忠切なり。顧みるに卿未だ知らざるのみ」と。ここより中外その靖密を推す。考功員外郎を歴え、宰相韋貫之と善しと坐し、開州刺史に出ず。戸部郎中を以て入り知制誥と為る。

穆宗立つ、翰林侍講学士と為る。処厚は帝の沖怠にして学に向わざるを以て、即ち路隋とともに『易』『書』『詩』『春秋』『礼』『孝経』『論語』を合わせ、その粹要を掇り、題して『六経法言』二十篇と為し上る。省覧を助けんことを冀う。帝善しと称し、並びに金幣を賜う。再び遷り中書舎人と為る。張平叔は利を言うて帝の寵を得、官自ら塩を鬻き、天下の財を籠めんと建言す。宰相詰うること能わず、群臣に議を下す。処厚十の難を発してその迂謬を誚す。平叔愧縮し、遂に寝す。

敬宗の初め、李逢吉権柄を得、李紳を構え、逐いて端州司馬と為す。その党劉棲楚等は紳を必ず死に致さんと欲し、醜地に徙すべしと建言す。処厚上言して曰く、「逢吉の党与、紳の斥かるるを以てなお余辜ありと為し、人情危駭す。『詩』に云う『萋兮斐兮、是れ貝錦を成す。彼の譖る人者は、亦已に甚だし』、『讒言罔極、四国を交乱す』と。これ古人の讒を疾むこと深きなり。孔子曰く、『三年父の道を改めざるは、孝と謂うべし』と。按ずるに紳は先朝の旧臣、仮令過ちあらば、なお瑕を祓い釁を洗い、改めざるの美を成すべし。況や讒せられしにおいてをや。建中時、山東の乱興り、宰相朋党し、楊炎は元載の為に復讐し、盧杞は劉晏の為に怨みを償う。兵連れ禍結び、天下騒然たり。これ陛下親しく聞見せし所、深く念わざるを得んや」と。紳ここにより免る。逢吉怒り、宝暦三月の赦書に至り、左降官未だ量移せざる者を言わず、以て紳の内徙を沮む。処厚復た奏す、「逢吉は紳一人に縁りて近歳の流斥皆恩沢に蒙らざらしむ。これ天下に恩を広むる所以にあらず」と。帝悟り、その条を追って改む。進みて翰林承旨学士・兵部侍郎と為る。方に天子荒暗にして、月に朝を視ること才に三四。処厚入見し、即ち自ら陳べて罪有り、願わくは前に死して以て謝せんと。帝曰く、「何ぞや」と。対えて曰く、「臣昔く諫官たりしとき、死して争うこと能わず、先帝をして畋猟と色とによりて寿を全うせざらしむ。法に応じて誅せらるべし。然れども死せざる所以は、陛下春宮に在りて十有五なりしなり。今皇子方に繈褓に在り。臣は死亡の誅を避けざるを敢えてす」と。帝大いに感悟し、錦彩を賜いてその意を慰む。王廷湊の乱に、帝は宰相の才なきを嘆き、奸臣をして跋扈せしむ。処厚曰く、「陛下に一の裴度ありて用いず、乃ち饋るに当たりて嘆き、蕭・曹無きを恨む。これ馮唐の以て漢文帝に頗・牧ありて用いざるを謂う所以なり」と。

その後、宮中に急変が起こり、文宗は内難を鎮撫したが、ためらって直ちに詔を下さず、処厚が入り、堂々と申し上げた、「『春秋』の大義は親を滅ぼすにあり、内なる悪は必ず記し、以て逆順を明らかにす。名を正し罪を討つに、何ぞ避諱する所あらんや」と。遂に教命を奉じて布告した。この夜、号令及びその他の儀礼規矩は、有司に責める暇なく、全て処厚の出ずる所となり、旧章に違うものはなかった。中書侍郎・同中書門下平章事に進み、霊昌郡公に封ぜられた。堂史の湯鉥がしばしば権を招き財賄を納めたが、処厚は笑って言った、「これは半ばの滑渙である」と。これを斥け出し、相府は粛然とした。初め、貞元の時、宰相の齊抗が州別駕を廃止し、また別駕となるべき者を朝廷に引き上げて処遇することを奏上した。元和の後、両河に用兵があり、裨将が功を立てて東宮・王府の官に補せられ、朱紫混淆し、授受に綱紀がなかった。処厚はそこで六雄・十望・十緊などの州を置き、全て別駕を補任し、これによって流品が澄明に区別された。帝は自ら機政に力を尽くしたが、しかし軽々しく信じ軽々しく改め、浮論に動揺した。処厚がかつて単独で対面して言った、「陛下は臣を不肖とせず、宰相の罪を待つ身とさせ給うた。凡そ奏上して可とされたことが、中途で変えられる。陛下の御心から出たのであれば、臣に信がないことを示すことになる。横議によるものであれば、臣は何の名目で政を執ることができましょうか。かつ裴度は元勲旧徳にして四朝を輔け、竇易直は長厚忠実にして先帝に仕えた。陛下が親重し委信すべき方である。臣は陛下が自ら抜擢された者である。今、言が容れられないならば、まず臣を罷免すべきである」と。即ち下がって頓首した。帝は驚いて言った、「何ぞここに至らんや。卿の忠力は、朕自ら知っている。どうして急に辞して以て朕の不徳を重くせんや」と。処厚が退出すると、帝はまた召して何か言いたいことを問うた。そこで答えて言った、「君子に近づき、小人を遠ざけて、初めて治めうる」と。諄々として数百言を繰り返した。また言った、「裴度は忠なり、久しく任用すべし」と。帝は嘉納した。これ以後、再び横議する者はなかった。時に李同捷が叛き、諸軍に進討を詔した。魏博の史憲誠は去就に心を揺らし、裴度は疑わずに接した。憲誠が吏を遣わして中書に事を報告した。処厚は召して語った、「晉公(裴度)は百口を以て爾が帥を天子に保った。我は然らず。正に爾が為す所により、邦法に従って事を処するのみである」と。憲誠は恐れ、二心を抱かず、遂に功を立てた。李載義が数度滄州・鎮州の兵を破り、皆これを刳剔して献上したが、処厚はこれを戒め、前後数百千人を完活させた。大和二年、ちょうど奏事中、急病に倒れ、香案の前に仆れた。帝は中人に命じて翼扶させ、輿に乗せて邸に還らせたが、一晩で薨じた。年五十六。司空しくうを贈られた。

処厚の姿形は甚だ懦弱な者のようであったが、家に居ても平易であった。しかし朝廷で争うに至っては、毅然として回転させ奪うことができなかった。吏を御するに剛直で、百官が謁見して事を述べる時、畏懼して敢えて私事に及ぶ者はなかった。官材を推挙選抜するに当たり、往々にして瑕を棄て善を録し、時にその範囲が広すぎるとも讒謗された。性、学を嗜み、家の書を校訂すること万巻に及んだ。拾遺の時、『徳宗実録』を撰した。後また路隋と共に『憲宗実録』を編纂し、詔により日を分けて入直し、凡例を創め具えたが、完成せずに終わった。本名は淳であったが、憲宗の諱を避けて今の名に改めた。

路隋

路隋、字は南式、その先祖は陽平の出である。父の泌、字は安期、『五経』に通じ、端正で寡言、孝悌をもって聞こえた。建中末、長安ちょうあん尉となった。徳宗が奉天に出奔した時、妻子を棄てて行在所に奔り、梁州に狩りを扈従し、乱軍を排して出で、再び流れ矢に中り、裳を裂いて血を濡らした。策を以て渾瑊に説き、召されて幕府に置かれた。東に李懐光を討つに従い、副元帥判官に奏任された。瑊に従って平涼で会盟したが、虜に捕らえられ、そこで死んだ。時に隋は幼く、恩により八品官を授けられた。成長に及んで、父が虜中に囚われていることを知り、日夜号泣し、座する時は必ず西を向き、肉を食わなかった。母が泌に似ている容貌であると告げると、終身鏡を引くことをしなかった。貞元末、吐蕃が和を請うと、隋は三度上疏して許すべきであるとしたが、報いられなかった。明経に挙げられ、潤州参軍事を授けられた。李锜が困辱しようとし、市事を知らせようとしたが、隋は怡然として店に坐し、屈しなかった。韋夏卿はその節を高く評価し、東都幕府に辟置した。元和中、吐蕃が塞に款いた時、隋は五度上疏して修好を請い、泌の還ることを冀った。詔して可とし、祠部郎中徐復を遣わして報聘させた。そして泌の喪が届くと、帝は哀憫し、絳州刺史を贈り、官が喪を治めた。喪服を除くと、隋を左補闕・史館修撰に抜擢し、鯁亮をもって称された。

穆宗が立つと、韋処厚と共に侍講学士に抜擢され、再び中書舎人・翰林学士に遷った。毎度除目の制が出ると、金幣を以て来謝する者があったが、隋はこれを退けて言った、「公事を以て私の贈り物とすべきか」と。承旨学士に進み、兵部侍郎に遷った。

文宗が嗣位すると、中書侍郎同中書門下平章事となり、国史を監修した。初め、韓愈が『順宗実録』を撰し、宮中の事を書くに切直であったため、宦官たちは喜ばず、その非実を誹った。帝は隋に刊正を詔した。隋は建言した、「衛尉卿周居巢・諫議大夫王彦威・給事中李固言・史官蘇景胤ら皆、改修は正しくないと上言している。そもそも史冊は褒勧の所在であり、匹夫の美悪すら尚お誣うべからず、況んや人君においてをや。議者は雋不疑・第五倫を引き合いに出して比し、以て聰明を蔽おうとする。臣の宗閔・臣の僧孺は、史官の李漢・蔣系は皆愈の婿であるから参撰すべからず、臣に下筆させよと言う。臣はそうは思わない。かつ愈の書いたものは既に自ら出たものではなく、元和以来、相循って今に至っている。漢らが嫌疑により罷められても、公議に害はない。甚だ謬誤の甚だしい条を示し、史官に付して刊定させてほしい」と。詔があり、貞元・永貞間の数事を失実として摘示し、他は改めず、漢らも罷められなかった。門下侍郎・弘文館大学士に進んだ。久しくして、病を理由に辞したが、聴かれず、冊拝されて太子太師となった。明年、李徳裕が袁州長史に貶せられた時、奏に署名せず、鄭註に忌まれた。そこで検校尚書右僕射・同中書門下平章事・鎮海節度使となった。道中病没した。年六十。太保を贈られ、諡して貞といった。

賛に曰う、綰は徳を以て人を服し、而して人自ら化す、賢と謂うべし。その論議は渾大にして、古の王佐と雖も以て加うる無し。祐甫は正己の隠情を発し、渾は吐蕃必ず叛くを策し、謀を伐ち幾を知る、君子なるかな。処厚は穆・敬・文の三宗に事え、主は皆類せざるも、而して一に忠を以て納れ、寧ろ堯を以て君に事うる者と謂わざらんや。隋は政を輔けること十年、牛・李・訓・註の用いる事を歴て、迎え将する所無く、善く位を保つかな。