新唐書

巻一百四十一 列傳第六十六 崔光遠 鄧景山 崔瓘 魏少游 えい伯玉 李澄 韓全義 盧從史 髙霞寓

崔光遠

崔光遠は博陵に出自し、後に霊昌に移った。祖父の敬嗣は酒を好み、博奕に耽った。中宗が房州に在った時、官吏は多く横暴で礼を尽くさなかったが、敬嗣は刺史として、ただ一人誠を尽くして推戴し奉り、蓄えを豊かに供給したので、帝はその恩を感じた。帝が復位すると、敬嗣と同姓名の者がおり、官を擬する度に、帝は常に超えて任用したが、後に召見して、それが別人であると悟った。真の敬嗣を訪ねると、既に死んでいたので、直ちにその子の汪に五品官を授けた。汪が光遠を生んだ。光遠は勇決で気性を任せ、身長六尺、瞳は白黒分明であった。開元末、唐安県令となり、楊国忠と親しく、累遷して京兆少尹となり、吐蕃の吊祭使を務め、帰還した。玄宗が西狩すると、詔して光遠を留めて京兆尹・西京留守・採訪使とした。乗輿が既に出た後、都人は乱れ、左蔵大盈庫に放火し、財宝を争って輦運し、遂には驢馬に乗って宮殿に入る者もあった。光遠は官を募って府・県を摂行させ、宮闕を警護させ、十数人を斬ってようやく鎮定した。そこで偽ってその子を東へ派遣して安禄山に謁見させたが、禄山は先に張休を京兆尹に任命していたので、これにより張休を追い、光遠に元の官を授けた。やがて同羅が賊に背き、厩馬二千を以て出奔した。賊将の孫孝哲・安神威が招いたが得られず、神威は憂死し、官吏は驚いて逃走し、獄囚は皆逃亡した。光遠は賊がまさに逃走しようとしていると考え、人を遣わして神威・孝哲らの邸宅を守らせ、曳落河二人を斬った。孝哲は馳せて禄山に報告し、光遠は恐れ、長安ちょうあん令の蘇震と共に開遠門を出て、人を走らせて呼ばせた、「尹が門を巡視するぞ!」と。門兵は武器を整えて迎え謁したが、到着すると皆斬り、百余人を募り、遂に霊武へ急行した。粛宗はこれを嘉し、抜擢して御史大夫とし、再び京兆尹とし、渭北へ派遣して僑民を募らせた。時に賊党が涇陽を掠奪し、祠屋で休み、牛を打ち殺して飲み呼んだ。光遠はこれを探知し、兵を率いて夜間にその場所へ急行し、百騎に弓を引き絞って前に潜ませ、ぎょう士に命じて一斉に叫ばせた。賊は酔って軍を統率できず、その徒二千を斬り、馬千噭を得、酋長一人を捕虜として献上した。これより、賊は常にその鋒を避けた。帝に扈従して還り、礼部尚書・鄴国公に改め、実封三百戸を賜った。

乾元元年、汴州刺史より蕭華に代わって魏州節度使となった。初め、郭子儀が汲郡で賊と戦った時、光遠は汴州の兵千人を率いて援軍したが、あまり力を尽くさなかった。魏州を守る時、将軍の李処に命じて賊を防がせたが、子儀は救援せず、戦いに勝てず、敗走して帰還した。賊はそこで城下に迫って偽って呼んだ、「李処が我らを召したのに出て来ないのは、何故か?」と。光遠はこれを信じ、李処を斬った。李処は戦に長け、衆人は彼を頼みとしていたので、死ぬと人々はますます危惧した。魏城は袁知泰・能元皓らが修築を完了しており、非常に堅固であったが、光遠は守れず、夜間に包囲を突破して出奔し、京師へ逃れた。帝はその罪を赦し、太子少保に任じた。時に襄州の将康楚元・張嘉延が反乱し、荊・襄諸州を陥落させたので、持節荊・襄招討、山南東道兵馬都使を拝命した。また鳳翔尹に転じた。先に、岐・隴の賊郭愔らが州県を掠奪し、五つの堡を築いていたが、光遠が到着すると、官を遣わして説得して降伏させた。その後、深酒して政務に親しまず、郭愔らは密かに党項及び奴剌・突厥と約し、韋倫を秦・隴で破り、監軍使を殺害した。帝は光遠の不行跡を怒り、召還した。再び剣南節度使とした。時に段子璋が東川で反乱し、李奐が敗走して成都に逃れたので、光遠は進軍討伐してこれを平定した。しかし士卒が士女を掠奪するのを禁じえず、手首を切断して金を奪う者もあり、夷殺数千人に及んだ。帝は監軍に命じてその罪を査問させたが、憂死した。

鄧景山

鄧景山は曹州の人である。元来文吏として進み、累遷して監察御史となった。至徳初、抜擢されて青斉節度使となり、淮南に転じた。政は簡素で厳粛であった。鼉が城門に集まった時、鄧珽が景山に言った、「鼉は甲を持つ生き物である。居場所を失うのは、金が革に従わぬ象である。兵乱があるのではなかろうか?」と。間もなく、宋州刺史の劉展が反乱した。初め、劉展に異志があり、淮西節度使の王仲昇がその様子を上表したので、詔して揚州長史兼江淮都統に遷し、密詔で景山に捕らえて京師に送るよう命じた。劉展はこれを知り、兵二万を擁して淮を渡った。景山は迎撃したが勝てず、寿州に奔り、そこで平盧節度副使の田神功を引き入れて劉展を討たせた。神功の兵が揚州に至ると、住民を大いに掠奪し、墳墓を暴き、大食・波斯の商胡数千人が死んだ。劉展の反乱は凡そ三月で平定され、景山は追って入朝し、尚書左丞に任じられ、崔円が代わった。

王思礼が太原に在った時、倉庫の蓄えは豊かであったので、半分を輸送して京師を充実させるよう請うた。時に死去し、管崇嗣が代わったが、政は弛緩して治まらず、数ヶ月で部下が盗み費やしてほぼ尽きた。帝は聞き、直ちに景山を太原尹とし、南陽郡公に封じた。着任すると綱紀を粛正し、隠匿を検査覆按したので、衆人は大いに恐れた。しかし景山は清廉倹約で、子弟の食事は粗末なものに過ぎず、器物は烏漆のものに止め、上賓を接待するにも豚・魚だけであり、倉の粟で赤く腐ったものを取って食べ、兼ねて麾下にも給したので、麾下は怨み誹った。左右が景山に告げると、景山は言った、「これを食べなければ、留めて何に用いるのか?」と。そこで罵り散らしたので、士卒は皆羞恥と憤りを感じた。裨校が死罪に当たる罪を犯し、諸将が贖罪を請うたが許さず、その弟が代わることを請うたが許さず、一頭の馬を納めて贖うことを請うと、景山はようやく死罪を減ずることを許した。衆人は怒って言った、「我々の命はたった一頭の馬の価値なのか?」と。景山は失言を悟り、叱って遣わした。少将の黄抱節が衆人の怒りに乗じて乱を起こし、景山は害された。時に宝応元年である。粛宗はその統御が方策を失ったとして、再び追究検証せず、使者を遣わしてその軍を慰撫させた。軍中は辛雲京を節度使とするよう請うたので、詔して許可した。景山は劉晏と親しく、その後家が貧窮すると、晏はたびたび救済し、その孤女を嫁がせた。諡して敬といった。

崔瓘

崔瓘は博陵の人で、士行が修め謹み深いことで知られた。累官して澧州刺史となり、煩瑣苛酷な政治を行わず、人々は安んじ便利とし、流亡した者が帰還し、二年居住すると、戸数が数万増加した。詔して特進五階を加え、善政を寵異した。大暦年中、湖南観察使に遷った。時に将吏は寛弛に慣れ、法を奉じず、瓘は次第に礼法で裁断したので、下は多く怨んだ。別将の臧玠と判官の達奚覯が憤って争い、覯が言った、「今幸いに事なきを喜ぶ」と。臧玠は言った、「事を起こしたいのか?」と。衣を払って去り、その夜に兵を以て覯を殺害した。瓘は難を聞き、惶懼して逃走したが、害された。帝はこれを悼み惜しんだ。

魏少游

魏少游、字は少游、邢州鉅鹿の人で、吏幹を以て称された。天宝末、累遷して朔方水陸転運副使となった。粛宗が霊武に幸すると、杜鴻漸らが奉迎し、少游を留めて宮室を修繕させた。少游は大いに殿宇幄帟を造営し、皆宮闕に似せ、諸王・公主には悉く宿舎を設け、供応は水陸の珍味を尽くした。また千余騎があり、鎧幟は光鮮で、軍を整えて入った。帝は宮殿を見て、快く思わず言った、「我ここに至って大事を成そうとするのに、何ぞこれを用いるのか?」と。次第に撤去させた。左司郎中に任じた。両京が平定されると、鉅鹿県侯に封じられ、陜州刺史に遷った。王師が鄴で潰えると、河・洛は震駭したが、少游は泰然として鎮守した。京兆尹に抜擢された。李輔国はその己に附かないことを以て、衛尉卿に改めた。時に群臣の馬を率いて軍を助けることとなり、少游は漢中王の李瑀と異議を唱えたので、帝は怒り、渠州長史に貶した。再び京兆尹となり、初めて請うた、「中書門下省五品・尚書省四品・諸司正員三品・諸王・駙馬の期以上の親及び婿若しくは甥は、京兆の官に任じられないように」と。詔して許可した。大暦二年、江西観察使となり、刑部尚書に進み、趙国公に改封された。六年に卒去し、太子太師を贈られた。

少游は四度京兆尹となり、赫々たる名声は無かったが、人を任用することに長け、規律を整え飾ることに、称すべきものがあった。

衞伯玉

衞伯玉は、史書にその出身地を失う。少より武技を習い、力あり。天寶年中、安西府に従い、労を積みて員外諸衛將軍に至る。肅宗即位し、慨然として功を立てんと願い、乃ち長安に帰り、神策兵馬使を領し、出でて陜州行營を鎮む。乾元二年、賊將李歸仁、騎五千を以て寇す。伯玉、強子阪にて之と戰ひ、破り、馬六百匹を獲る。羽林大將軍に遷り、四鎮・北庭行營節度使に徙り、俄に神策軍節度と為る。史思明、子朝義を遣はし夜陜を襲はしめ、將に京師を動かさんとす。伯玉迎へ撃ち、永寧にて之を破る。特進を加へられ、河東郡公に封ぜらる。廣德元年、代宗陜に幸す。伯玉に幹略有り、方面の大事に可なりと以て、乃ち荊南節度使を拜し、城陽郡王に進封せらる。大歷初、母憂に當り代はらんとす。將吏を諷して己を留めしめ、復詔して荊南を節度せしむ。議者其の留まるを醜とす。十一年、京師に歸る。卒す。

李澄

李澄は、遼東襄平の人、隋の蒲山公寬の遠き冑なり。勇剽を以て江淮都統李亙の府に隷し偏將と為る。又永平節度李勉の軍に従ふ。勉汴を帥とし、澄を表して滑州刺史と為す。李希烈汴を陷し、勉走る。澄城を以て賊に降る。希烈之を尚書令しょうしょれいと為し、永平軍を節度せしむ。興元元年、澄盧融を遣はし間道より表を奉り行在に詣らしむ。德宗之を嘉し、帛詔を署し蜜丸に内れ、澄に刑部尚書・汴滑節度使を授く。澄未だ即ち宣せず、乃ち行ひて士馬を勒訓す。希烈疑ひ、養子六百を以て之を戍らしむ。賊急に寧陵を攻め、澄を石柱に邀ふ。澄密かに令して營を焚き驚き遁る者と為す。養子輩果たして之に乗じて剽掠す。澄盡く之を斬り、以て告ぐ。希烈詰むる能はず。賊將翟崇暉を遣はし精兵を率ひて陳州を寇す。未だ還らず。汴軍寡し。澄度るに己を制し能はざるを、又中官薛盈珍節を持ち至る。澄を武威郡王に封じ、實封を賜ふ。乃ち賊の旗節を燔き自ら歸す。希烈既に澄を失ひ、而して崇暉復た敗る。是に由りて汝南に奔る。

澄兵を引き將に汴を取らんとし、其の北門に屯して敢へて進まず。劉洽の師東門に屯するに及び、賊將田懷珍之を納る。澄の入るに比し、洽已に子城を保つ。澄乃ち浚儀を舍つ。兩軍の士日を爭ひ忿り、安んずる能はず。會ふに鄭州の賊將孫液、款を澄に送る。澄子清を遣はし馳せて赴かしむ。此に先だち、河陽李芃偏將雍希顥をして鄭を攻めしむ。數たび殘剽す。液之を拒ぐ。清を納るるに及び、希顥大いに怒り、急ぎ鄭を攻む。清助け守り、河陽の兵數千を殺す。希顥陽武を焚き去る。澄遂に鄭に如く。詔して清に檢校太子賓客を授け、名を易へて克寧と曰す。貞元初、澄を遷して檢校尚書左僕射・義成軍節度使と為す。二年卒す。年五十四。司空しくうを贈らる。澄始め隴西公に封ぜられ、後乃ち王爵に進む。每に上章するに、必ず二封を疊署す。士大夫其の野なるを笑ふ。

澄の喪、克寧發せず。旬日を閱し、自ら事を領せんと欲す。其の行軍司馬馬鉉許さず。克寧之を殺し、墨绖し、卒を加へて城を嬰し、將に亂を為さんとす。劉洽兵を以て境上に屯し、使を遣はし諭して止む。遂に自ら戢む。然れども道閉ざること半月。詔して賈耽を以て代はり鎮ましむ。克寧乃ち喪を護り歸る。悉く府中の財を索め夜出づ。軍士從ひて之を剽し殆ど盡くす。澄の柩京に至る。猶ほ克寧に莊一區・錢千緡・粟麥數千石を賜ふと云ふ。

韓全義

韓全義は、家素より寒し。史其の先世を失ふ。卒伍より興り、巧佞を以て宦者竇文場に事へ、累擢して長武城使に至り、進拜して夏綏銀宥節度使と為り、詔して長武の兵を以て之に赴かしむ。全義素より懦貪にして紀律無く、下に靳狎せらる。詔未だ下らざるに、軍中遍く之を知り、謀りて曰く、「夏州は沙磧にして、樹蓺生業無し。往くべからず」と。是の夜、噪いて亂る。全義縋りて以て逸る。其の親將王棲巖・趙虔曜等を殺す。軍虞候高崇文亂首を誅す。眾乃ち定まる。全義赴きて屯すことを得。

吳少誠蔡を以て命に拒ぐ。詔して十七鎮の兵を合せて之を討たしむ。時に軍帥統無く、唯だ奄豎を以て之を監す。遂に小溵にて敗る。德宗文場の素より全義の為に地するを以て、因りて用ひて淮西行營招討使と為し、陳許節度使上官涚を以て之を副へしむ。諸鎮の兵皆屬す。全義他に方略無く、號令悉く監軍に稟す。每に攻戰を議するに、宦豎十數帳中に紛爭す。小人自ら異なるを好み、互ひに詆訾して決する能はず。賊之を知り、數たび戰を請ふ。賊に遇ふこと廣利城、暑に方り、地沮洳にして、士皆病癘す。全義未だ嘗て之を存せず。既に戰ひ、師皆潰く。退きて五樓を保つ。賊屯を移して之を逼る。乃ち監軍賈英秀等と俱に溵水を保つ。固むる能はず。又入りて陳州に屯す。是の時、唯だ陳許の將孟元陽・神策の將蘇光榮溵水を守る。全義潞・滑州の數大將を誘ひて之を殺す。然れども卒に振はず。宦人共に其の敗を掩ふ。帝知らず。少誠度るに能く為すこと無きを、即ち謾書して監軍に謝し、前咎を洗はんことを求む。帝其の議を下す。宰相賈耽以為く、五樓の敗に、賊追はざるは、恩を冀ひたるに依る耳。請ふ其の誠を納れんと。帝之を然りとす。

全義師を班し、闕下を過ぎ、疾を托して入謁せず。司馬崔放帝に見え、功無きを謝す。帝曰く、「全義少誠を誘ひて國に歸らしむ。功大なり。何ぞ必ずしも敵を殺して乃ち功と為さんや」と。還りて夏州に屯す。中人即ち第に宴賚す。然れども卒に天子を見ずして去る。時に帝の政を失ひて奸人の肆るを得しむを恨む。憲宗藩に在りし時、之を疾む。既に位を嗣ぎ、全義大いに懼れ、願ひて入覲す。復た用ひられず。太子少保を以て致仕し卒す。其の子女樂八人を獻ず。帝納れずして曰く、「我方に儉を以て天下を治めんとす。是を用ふるを惡む」と。

盧從史

盧從史は、其の先元魏の時に盛んな族と為り、後徙籍して常ならず。父虔は學を好み、進士第より歷て御史・秘書監と為る。從史少より騎射を好み、澤・潞の間を遊ぶ。節度使李長榮署して督將と為す。貞元後、蕃臣缺くれば、德宗必ず本軍の喜び戴する所の者を取りて之を授く。從史潞に在り、奸獪にして士心を得、又善く中人に附迎す。會ふに長榮卒す。即ち擢拜して昭義節度副大使と為す。既に志を得て、浸に恣にして道に背く。部將の妻を奪ふに至り、而して能く辯給して其の非を粉澤す。府屬孔戡等屢ひ直語を以て爭ひ刺す。初め唯唯たり、後益々從はず。皆引き去る。元和中、父喪に丁り未だ官せず。從史即ち計を獻じて王承宗を誅せんとし、陰に帝の旨に向ふ。繇りて服を奪はれ、復た澤・潞を領す。因りて詔して賊を討たしむ。而して兵を勒して逗留し、陰に承宗と交はり、其の密號を得て軍中に授く。又芻粟の直を高くして以て度支に售る。即ち上書して宰相を兼ねんことを求む。且つ諸軍の賊と通ずるを誣り、兵未だ進むべからずとす。憲宗之を患ふ。

初め、神策中尉の吐突承璀が対陣していた時、盧従史はしばしばその陣営を訪れて酒を飲み博打を打った。承璀は多くの宝帯や珍しい玩物を出してこれを見せびらかした。従史は貪欲で卑しい性格であり、気に入ったものは必ず贈られた。従史は喜び、ますます親しんで疑わなかった。帝(憲宗)は裴垍の謀を用い、承璀にこれを図るよう命じた。承璀は壮士を幕の下に伏せ、従史が来て話すのを待ち、兵士が突然立ち上がって捕らえ出し、帳の後ろから縛って車の中に押し込めた。従者は驚いて乱れたが、数十人を斬り、密詔があることを諭した。そして大将の烏重胤は元来忠実果断であり、その兵を統率して鎮めた。夜に乗じて疾駆し、夜明け前に国境を出たので、道中の者は誰も知らなかった。ここに元和五年夏四月、詔を下してその軍を慰撫し、従史の罪悪を列挙し、州司馬に貶し、死を賜った。子の継宗らは共に嶺南に流された。

高霞寓

高霞寓は、幽州范陽の人である。その先祖は五代にわたり別居せず、孝行で里巷に聞こえた。徳宗の初め、采訪使の洪経綸がこれを言上し、詔により門に闕を表した。霞寓は『春秋』及び兵法を読むことができ、頗る感慨をもって自らを尊び、狡猾で多変であった。長武城使の高崇文を訪ねると、崇文はその才を異とし、軍職に任ずるよう檄を飛ばした。劉辟を撃つに従い、戦えば必ず勝ち、鹿頭城を下し、李文悦・仇良輔らを降し、七盤城で追撃戦に功があり、羊灌で辟を生け捕りにした。彭州刺史に抜擢された。間もなく崇文に代わって長武城使となり、感義郡王に封ぜられた。

元和年間、左威衛将軍として吐突承璀に従い王承宗を討った。諸将は多く軍を覆されたが、霞寓のみが功を立て、詔により獲た鎧仗を神策庫に蔵めてこれを表彰した。承璀が既に盧従史を捕らえると、その軍は驚き騒いだ。そこで霞寓を遣わしてこれを諭させた。霞寓は手を振り大声で呼ばわった、「元凶は縛られた。公らは自ら安んずべし」と。即ち鎧を脱ぎ揖して前に進み、兵衆は遂に鎮まった。留めて帥としようとしたが、霞寓は間道を去った。豊州刺史・三城都団練防禦使に任ぜられた。

呉元済を討つに当たり、山南東道を二つの鎮に分け、霞寓を宿将として唐鄧隋節度使に任じ、賊の南への衝を防がせた。霞寓は勇猛ではあったが、謀略に乏しく、統制は特に得意ではなかった。初め兵を率いて蕭陂に向かい、小勝した。文城柵に進むと、賊は偽って敗走し、これを追撃したところ、伏兵に襲われ、大敗して辛うじて身一つで免れた。詔により帰州刺史に貶された。そこで厚く権勢ある宦官に賄賂し、召されて右衛大将軍となり、振武節度使に任ぜられた。時に吐蕃が塩・豊の二州を攻めたので、霞寓は兵五千を率いて拂雲堆に駐屯し、虜は退去した。金河を浚渫し、塩鹹地数千頃を灌漑した。左武衛大将軍に改め、また邠寧を節度し、位は検校司徒しとに至った。宝暦年間、頭に疽が発し、職務ができなくなった。右金吾衛大将軍として召されたが、道中で卒した。太保を追贈された。

霞寓は位が高くなるにつれ、言葉多く不遜であり、帝(敬宗か)はその兵権を解こうとしたので、ますます自ら憂い、私邸を仏寺として上納し、「懐恩」と命名するよう請うて、帝の疑いを塞ごうとした。間もなくまた僚属を罵り侮り、傲慢な言葉で大臣を斥け誹謗した。その反覆して自ら任ずる様はこのようなものであった。