新唐書

巻一百三十五 列伝第六十 哥舒翰子:曜 高仙芝 封常清

哥舒翰

哥舒翰は、その祖先は突騎施の酋長たる哥舒部の末裔である。父の道元は安西都護将軍・赤水軍使となり、故に代々安西に居住した。翰は若くして効轂府果毅に補せられ、家は財に富み、任侠を好み然諾を重んじ、長安ちょうあん市にて博奕と酒に耽った。四十余歳の時、父の喪に遭い、帰郷しなかった。長安尉に礼遇されず、慨然として発憤し、河西に遊歴し、節度使王倕に仕えた。倕が新城を攻めるに当たり、翰に経略させ、次第に名を知られた。また王忠嗣に仕え、衙将に署せられた。翰は『左氏春秋』・『漢書かんじょ』を読み、大義を通じた。財を散じ、多く施し与えたので、士人の心は帰した。大鬥軍副使となり、安思順を補佐したが、互いに譲らなかった。忠嗣は改めて吐蕃討伐を命じたが、副将が傲慢な態度で会見したので、翰は怒り、直ちにこれを斬り、麾下の者は股を打って喜んだ。左衛郎将に遷った。

吐蕃が辺境を侵すと、翰は苦抜海で遭遇した。吐蕃はその軍を三行に分け、山をずらして下ってきた。翰は半段槍を持って迎撃し、向かうところ必ず敗走させ、その名は軍中に響き渡った。右武衛将軍に抜擢され、隴右節度副使となり、河源軍使となった。先に、吐蕃は積石軍の麦の熟するのを待ち、毎年来て奪い取るので、これを禁ずることができなかった。翰はそこで王難得・楊景暉に命じて東南の谷に伏兵を設けさせた。吐蕃は五千騎をもって塞内に入り、馬を放ち鎧を脱ぎ、まさに田に入らんとした時、翰は城中より馳せ至り激闘し、虜は驚いて逃走した。これを追撃し、伏兵が起こり、悉くこれを殺し、一騎も帰還する者はなかった。翰がかつて虜を追撃した時、馬が驚き、河に陥った。吐蕃の三将が翰を刺さんとしたが、翰が大声で叫ぶと、皆矛を抱えて動かず、救兵が至り、これを追撃して殺した。翰に左車という奴がおり、年十六歳、膂力をもって知られた。翰は槍を用いるのに巧みで、賊に追い付くと、槍を肩に擬え、叱りつけると、賊が振り返ったところを、その喉を刺し、跳ね上げて五尺ほど高く飛ばし、ようやく落ちた。左車は直ちに下馬してその首を斬るのを常とした。

ちょうど忠嗣が罪に問われた時、帝は翰を召し入朝させた。部将は金帛を携えて忠嗣を救うよう請うたが、翰はただ質素な装いのみを携え、「もし我が計が用いられれば、どうしてこれ(金帛)を取る必要があろうか。用いられなければ、これで足りる」と言った。翰が至ると、帝は虚心に待遇し、語り合ってその才を異とし、鴻臚卿に拝し、隴右節度副大使とした。翰が謝恩した後、直ちに忠嗣の無実を極言した。帝は立ち上がって禁中に入ろうとしたが、翰は帝に従って叩頭し、かつ泣いた。帝は悟り、その罪を軽減し、忠嗣は誅を免れた。朝廷はその義を称えた。

一年を経て、青海のほとりに神威軍を築いたが、吐蕃がこれを攻め破った。さらに龍駒島に築き、白龍が現れたので、因って応龍城と号した。翰はその川原が畜牧に適していると見て、罪人二千を謫してこれを守らせ、これにより吐蕃は青海に近づくことを敢えなかった。天宝八載、詔して翰に朔方・河東の群牧兵十万を以て吐蕃の石堡城を攻めさせた。数日経っても陥落せず、翰は怒り、その将高秀岩・張守瑜を掴み、斬らんとした。秀岩は三日の猶予を請い、期日通りに陥落させた。遂に赤嶺を西塞とし、屯田を開き、軍需を備えた。特進を加えられ、賜与はますます厚かった。十一載、開府儀同三司を加えられた。

翰は平素より安禄山・安思順と不和であり、帝は毎々和解させようとした。ちょうど三人ともに来朝した時、帝は驃騎大将軍高力士に命じて城東で宴を催させ、翰らは皆集まった。詔して尚食に生きた鹿を撃たせ、その血を取って腸を煮て熱洛河とし、これを賜った。翰の母は于闐王の娘である。禄山は翰に言った、「我が父は胡、母は突厥。公の父は突厥、母は胡。族類は本より同じ、どうして親愛せざるを得ようか」。翰は言った、「諺に'狐が窟に向かって吠えるは不祥'という、本を忘れるからである。兄上より愛されれば、敢えて心を尽くさないわけにはいかない」。禄山は翰が自分の胡を諷刺したと思い、怒って罵った、「突厥め、よくもそんなことを!」。翰は応じようとしたが、力士が翰に目配せしたので、翰は酔ったふりをして去った。

久しくして、涼国公に進封され、河西節度使を兼ねた。吐蕃の洪済・大莫門等の城を攻め破り、黄河九曲を収め、その地に洮陽郡を置き、神策・宛秀の二軍を築いた。西平郡王に進封され、音楽・田園を賜り、また一子に五品官を賜い、裨将もそれぞれ差等を以て賞を賜り官を拝した。宰相楊国忠は禄山を憎み、その反逆の状を発して告げたので、厚く翰と結んだ。まもなく太子少保に進んだ。翰は酒を嗜み、声楽女色に極まり、風痹を患い、体が不随となった。既に病で廃されると、遂に京師に還り、門を閉ざして朝請しなかった。

十四載、禄山が反逆し、封常清が官軍を率いて敗れた。帝はそこで翰を召見し、太子先鋒兵馬元帥に拝し、田良丘を軍司馬とし、蕭昕を判官とし、王思礼・鉗耳大福・李承光・高元蕩・蘇法鼎・管崇嗣を属将とし、火拔帰仁・李武定・渾萼・契苾寧にその本部を以て麾下に隷させ、凡そ河・隴・朔方・奴刺等十二部の兵二十万を以て潼関を守らせた。軍が東に向かい始めると、先鋒の牙旗が門に触れ、飾りの旄が落ち、旗竿が折れた。衆はこれを忌み嫌った。天子は勤政楼に臨んで送り、詔して翰に軍を行かせるに当たり、門を過ぎても下馬せず、百官は郊外で餞別し、旌旗は二百里に亘った。翰は惶恐し、しばしば病気を理由に辞退を申し出たが、帝は聞き入れなかった。しかし病は重くして軍事を執ることができず、軍政を良丘に委ね、王思礼に騎兵を、李承光に歩兵を主管させた。三人は主導権を争い、政令は統一されず、衆は弛緩し、戦う意志がなかった。翌年、尚書左僕射・同中書門下平章事に進拝された。禄山は子の慶緒に関を攻めさせたが、翰はこれを撃退した。

初め、安思順は禄山が必ず反逆すると推測し、かつて帝に言上して、連座を免れていた。翰は既に禄山を憎んでいたが、また思順をも怨んでいた。この時、重兵が己にあることを知り、論奏して請うた。天子は強いて違えることを重んじたので、偽って賊の書を思順に送ったものを作り、関の巡察兵に捕らえさせて献上させた。翰はそこで七つの罪状を上疏し、その誅殺を請うた。詔があり、思順及び弟の元貞は皆賜死し、その家族は流罪に処せられた。国忠は初めて恐れをなした。ある者が翰に説いて言った、「禄山は本来、国忠を誅することを以て兵を挙げたのである。今もし三万の兵を留めて関を守らせ、精鋭を尽くして滻水を渡り、君側の奸を誅すれば、これは漢が七国の計を挫いたようなものだ」。思礼もまた翰を勧めた。翰は躊躇して発せず、謀はやや露見した。国忠は大いに驚き、入って帝に謁して言った、「兵法に、安きに居りて危うきを忘れず、と。大軍が潼関にありながら後詰めがないのは、万一不利なことがあれば、京師が危うい」。即ち牧童三千人を募り、日夜訓練し、剣南の列将に分統させた。また一万人を募って灞上に駐屯させ、腹心の杜乾運を帥とした。翰は己を図っていると疑い、上表して乾運の兵を節度下に隷属させるよう請うた。因って偽って乾運を計事に召す者を遣わし、軍に至ると、即時に斬首して牙門に梟し、その軍を併せた。国忠はますます恐れ、その子に言った、「我に死する所なし!」。しかし翰もまた自ら安からず、また謀をめぐらして久しく決断しなかった。しばしば上奏して言った、「禄山は河朔を窃拠しているが、人心を得ず、持重してこれを疲弊させ、その離反の隙を待てば、血を流さずして捕らえることができましょう」。賊将崔乾祐が陝郡を守り、旗鼓を伏せ、疲弊した軍勢を以て戦いを誘った。偵察者が言った、「賊は備えがなく、図るべきです」。帝はこれを信じ、詔して翰に進討させた。翰は報告して言った、「禄山は兵を用いることに慣れており、今初めて逆を為したので、備えがないはずがなく、これは陰謀で我を誘おうとしているのです。賊は遠来し、速戦を利とします。王師は堅く守り、軽々しく関を出るべきではなく、これが上策です。かつ四方の兵は未だ集まっておらず、事勢を観るべきで、速やかにする必要はありません」。

この時、安禄山は河洛の地を盗み取ったとはいえ、その通過する所は残殺を極め、人々皆これを怨み、時月を費やしても寸土も進むことができなかった。また郭子儀・李光弼の兵はますます進撃し、常山をはじめ十数郡を奪取した。禄山は初めて謀反を悔い、幽州に戻って自らを固めようとした。しかし楊国忠の策は逼迫し、誤った説を以て帝を促し、哥舒翰に出撃させて潼関を出て陝・洛を回復させようとした。時に子儀・光弼は遠くから計略して言うには、「翰は病みかつ老耄、賊はこれを知っている。諸軍は烏合の衆で戦うに足りない。今賊は精鋭を尽くして南に宛・洛を破り、余衆を以て幽州を守っている。我らが直ちにこれを搗き、その巣窟を覆し、叛族を人質として逆徒を招けば、禄山の首級を得ることができよう。もし師を潼関より出せば、変は京師に生じ、天下は怠るであろう」と。乃ち極言して翰に関を固守して軍を出さざるよう請うた。しかし帝は国忠の言を容れ、使者を遣わして戦いを促し、その使者は項背相望むほどであった。翰は窮して如何すべきか知らず、六月、兵を率いて東に向かい、慟哭して関を出、霊宝の西原に駐屯し、崔乾祐と戦った。関門より七十里、道は険隘にして、その南は山に迫り、北は河に阻まれ、賊は数千人を先に険地に伏せていた。翰は舟を浮かべて中流にて軍勢を観察し、乾祐の兵が寡少であるとしてこれを軽んじ、士卒を促して進ませた。道は険阻で行列をなさず、賊は高きに乗じて石を崩し下撃し、士卒を多く殺した。翰と田良丘は北の丘に登り、軍三万を以て河を挟んで鼓を鳴らし、王思礼らは精卒を以て前に居り、余軍十万はその後ろに次いだ。乾祐は陣を為し、十十五五、或いは退き或いは進み、而して陌刀五千を陣の後に列ねた。王師はその陣に法なきを見て、指をさして観て嗤笑い、「賊を禽らえて乃ち会食せん」と言った。

戦いが始まると、乾祐の旗は少し偃れ、遁走しようとするかの如く、王師は懈怠し、備えを為さなかった。伏兵が忽ち起きて薄戦し、皆奮いて死闘した。翰は氈を以て馬車を蒙い、龍虎を画き、金銀の爪目を飾り、賊を驚かせんとし、戈矢を掎げて敗走する敵を追った。賊は薪を負って路を塞ぎ、順風に乗じてその車に火を放つと、炎は熾烈に突き上がり、煙を騰して夜の如く、士卒は互いに識別できず、自ら相闘い殺し、屍血狼籍、久しくしてやっと悟った。また甲冑を棄て山谷に奔り、及び河に陥って死ぬ者は十の一二に及んだ。糧船百余艘あり、軍は争って渡ろうとし、船は次々と沈み、遂には矛盾を縛りて筏とし、喧叫は天地を震わした。賊はこれに乗じ、奔潰して略尽した。初め、斗門に三つの塹壕あり、広さ二丈、深さ一丈、士馬は奔り競い相圧迮し、しばらくして塹は埋まり、後から来る者はこれを踏みつけて入った。

既に敗れ、翰は数百騎を率いて河を渡って営に還り、疲弊した兵は僅かに八千、潼津に至り、散卒を収めて再び関を守った。乾祐が進攻すると、ここに火抜帰仁らが翰を欺いて関を出させようとした。翰曰く、「何ぞや」と。曰く、「公は二十万の衆を以て、一日にして覆没せり。これを持して安くに帰らん。公は高仙芝らの事を見ざるか」と。翰曰く、「吾は寧ろ仙芝の死に效いたい。汝、我を捨てよ」と。帰仁は従わず、捕らえて賊に降し、械を付けて洛陽らくように送った。京師は震動し、これにより天子は西に幸した。禄山は翰を見て責めて曰く、「汝は常に我を軽んじた。今は如何」と。翰は俯伏して謝罪し、「陛下は乱を撥ねる主なり。今天下未だ平らず、李光弼は土門に在り、来瑱は河南に在り、魯炅は南陽に在り。臣、陛下のために尺書を以てこれを招けば、三面平らぐべし」と。禄山は悦び、即ち司空しくう・同中書門下平章事に署した。火抜帰仁を捕らえ、「主を背き義を忘るるは、吾、爾を容れず」と言い、これを斬った。翰は書を以て諸将を招いたが、諸将は皆翰が死節せざることを譲った。禄山は事の成就せざるを知り、これを囚えた。東京が平定されると、安慶緒は翰を河を渡らせた。及び敗れると、乃ちこれを殺した。

翰は人となり厳しく、恩少なし。軍行するに未だ嘗て士卒の飢寒を恤れず、民の桑の実を食む者あれば、痛く笞打ち辱めた。監軍李大宜は軍中に在りて事を治めず、将士と樗蒱・飲酒・箜篌琵琶を弾じて楽しみを為し、而して士卒は米飯に飽くこと無し。帝は中人袁思藝を遣わして師を労わると、士卒は皆衣服の破れを訴えた。帝は即ち御服の余りを斥け、袍十万を製してその軍に賜うたが、翰は庫中に蔵し、敗れるに及んでも封鐍は旧の如しであった。

先に、客の梁慎初が翰に書を遺し、壁を守り戦わずして賊を屈せしむるを請うた。翰はこれを善しとし、左武衛胄曹参そうしん軍に奏して幕府に留めた。及んで翰と国忠が仲違いすると、慎初は「難、将に作らんとす」と言い、乃ち遁走した。翰が守りを失うと、華陰・馮翊・上洛郡の官吏は皆潰走した。帝は剣南将劉光庭らを遣わし、新たに募った兵万余を率いて往きて翰を助けさせたが、未だ至らざるうちに翰は縛られたという。その後、太尉を贈られ、諡して武湣といった。

子に曜あり。

子の曜、字は子明。八歳の時、玄宗は華清宮に召し見て、尚輦奉禦に抜擢した。累遷して光禄卿となる。翰が賊に陥ったため、哀憤号慟し、故吏の裴冕・杜鴻漸らこれを見て歎息した。李光弼が河北を討つに当たり、曜は従軍を請い、鴻臚卿に拝され、光弼の副将となる。安太清を降し、宋州を救う功あり、殿中監に改め、封を襲い、東都鎮守兵馬使となる。徳宗が立つと、召されて左龍武大将軍となる。李希烈が汝州を陥とし、周晃を偽刺史とす。詔して曜を東都・汝州行営節度使に拝し、鳳翔・邠寧・涇原・奉天・好畦の兵一万を将いて希烈を討たしむ。帝は召し見て問うて曰く、「卿の兵を治むること、父と孰れか賢れる」と。対えて曰く、「先臣、安んぞ比ぶるを敢えんや。但だ長蛇を斬り、封豕を殪し、然る後に私室に待罪するは、臣の願いなり」と。帝曰く、「爾が父は開元の時、朝廷に西憂無し。今朕卿を得て、亦東慮無し」と。及び出発に当たり、帝は通化門にて祖餞した。この日、牙旗の幹が折れた。時に翰の出師の時も既にこの如く、而して旗を持つ者を斬ったが、遂に敗れた。今曜また爾り、人これを憂えた。曜は賊を撃ち、汝州を収め、晃を禽えて献じ、その将二人を斬った。希烈は退いて許州を保つ。詔して襄城を城らしめんとす。曜は疲弊した民に版築させるよりは、甲を按じ重きを持してこれを挫くに如かずとす。帝は許さず、詔して戦いを督う。曜は進んで潁橋に次ぐ。雷震いて軍中七馬斃る。曜懼れ、還って襄城に屯す。希烈は衆万人を遣わし火を放って柵を攻め、塹に人を殺して壘に迫る。曜は苦戦してこれを破る。数ヶ月を経て、希烈自ら兵三万を率いて曜を囲み、甬道を築いて城に属し、矢は雨の如く集まる。帝は神策将劉徳信を遣わし兵三千を以てこれを援けさせ、又詔して河南都統李勉に出兵して相掎角せしむ。勉は「希烈は外に在り、許の守兵少なし。虚に乗じてこれを襲えば、希烈自ら解くべし」とし、乃ち部将を遣わし徳信と共に許に向かわしむ。未だ至らざるに、詔有りて切に譲り、師を班せしむ。徳信ら惶惑して還り、軍に斥候無く、扈澗に至り、賊の伏兵の詭計に遭い撃たれ、死者半ばに殆どし、器械輜重皆亡う。徳信は汝州に走る。勉は東都の危うきを恐れ、将李堅華を遣わし兵四千を以て往き守らしむるも、賊道を梗み、入ること得ず。汴兵沮み、襄城の囲み益々急なり。帝は乃ち詔して普王に荊・襄・江西・鄂・沔の師を以て蔡州を討たしめ、詔して涇原節度使姚令言に襄城を救わしむ。未だ行かざるに、京師乱れ、帝は奉天に幸す。襄城陥り、曜は洛陽に走る。会に母喪有り、奪って東都畿・汝節度使と為す。河南尹に遷る。曜は統禦に拙く、而して殺戮に鋭く、士卒は畏れて懐かず。貞元元年、部将叛き、夜に河南門を焚く。曜は身を挺して免る。帝は汴州刺史薛玨を以てこれに代え、召し入れて鴻臚卿と為す。終に右ぎょう衛上将軍に至り、幽州大都督ととくを贈られる。子七人、俱に儒を以て聞こゆ。峘は茂才高第、節概有り。崿・嵫・屺は皆明経に擢第す。

高仙芝

高仙芝は高麗の人である。父の舍雞は、初め将軍として河西軍に隷属し、四鎮の校将となった。仙芝は二十歳余りで、父に従って安西に至り、父の功績により遊撃将軍に補せられた。数年後、父子ともに同じ班列に並んだ。仙芝は姿質が美しく、騎射に長けていたが、父はなおその儒緩さを憂いた。初め節度使の田仁琬・蓋嘉運らに仕えたが、あまり知られていなかった。後に夫蒙霊察に仕えると、ようやく良く遇された。開元の末、安西副都護・四鎮都知兵馬使に上表されて任じられた。

小勃律は、その王が吐蕃に誘われ、娘を娶らせたので、西北の二十余国は皆吐蕃に羈属していた。仁琬以来三度これを討ったが、いずれも功がなかった。天宝六載、詔により仙芝は歩騎一万を率いて討伐に出た。この時、歩兵は皆私馬を従えていた。仙芝は安西から撥換城を過ぎ、握瑟徳に入り、疏勒を経て、葱嶺に登り、播密川を渡り、遂に特勒満川に頓駐した。行くこと凡そ百日。特勒満川は即ち五識匿国である。仙芝は軍を三つに分け、疏勒の趙崇玼を北穀道から、撥換の賈崇瓘祐を赤仏道から、仙芝は監軍の辺令誠とともに護蜜から共に入り、連雲堡で会合することを約した。堡には兵千余がいた。城の南は山に因って柵を為し、兵九千がこれを守っていた。城下は婆勒川に拠っていた。ちょうど川が増水し、渡ることができなかった。仙芝は生贄を殺して川を祭り、兵士に三日分の食糧を持たせて水際に集まるよう命じたが、兵士はあまり信じなかった。渡り終えると、旗は濡れず、鞍覆いも濡れなかった。兵が既に列を成すと、仙芝は喜び、令誠に告げて言った、「先ほど我らが渡ろうとした時、賊が我らを撃てば、我らは生き残れなかったであろう。今既に渡って陣を布いたのは、天が賊を我らに賜ったのである。」遂に山を登って挑戦し、日まだ中ならざるうちにこれを破った。その城を抜き、五千級を斬り、千人を生け捕りにし、馬千余匹、衣服・物資・武器・甲冑は数万に及んだ。仙芝は深く入ろうとしたが、令誠は恐れて行こうとしなかった。仙芝は疲弱な者三千を留めて守らせ、遂に軍を率いて進んだ。三日して坦駒嶺を過ぎた。嶺は険峻で、下ること四十里である。仙芝は兵士が険しさを恐れて進もうとしないのを恐れ、密かに二十騎を遣わし、阿弩越の胡の服を着せて来迎させ、先に部校に言った、「阿弩越の胡が来迎する、我らは心配ない。」到着すると、兵士は下りようとせず、言った、「公は我らをどこへ追いやるのか。」ちょうど二十人が到着し、言った、「阿弩越の胡が来迎し、既に娑夷橋を数えている。」仙芝は即ち喜びを装い、兵士に皆下りるよう命じた。娑夷河は弱水である。三日進んだ後、越の胡が来迎した。翌日、阿弩越城に至った。将軍の席元慶に精騎一千を率いて先に行かせ、小勃律王に言った、「お前の城を窺うのではない、我らは大勃律へ向かうために道を借りるだけだ。」城中の大酋領は皆吐蕃の腹心であった。仙芝は密かに元慶に命じて言った、「もし酋領が逃げる者がいたら、ただ詔書を取り出して呼びかけ、繒彩を賜え。来たら、皆縛って我を待て。」元慶は言われた通りにした。仙芝が到着すると、皆これを斬った。王と妻は山の洞穴に逃れ、捕えることができなかった。仙芝が招き諭すと、遂に出て降伏した。これによりその国を平定した。急ぎ元慶を遣わして娑夷橋を断たせた。その夕方、吐蕃が到着したが、渡ることができなかった。橋の長さは一矢の届く所で、その工事は一年かかって成った。八月、仙芝は小勃律王とその妻を連れ、赤仏道から連雲堡に戻り、令誠とともに班師した。ここにおいて拂菻・大食などの諸胡七十二国は皆震え恐れて降伏帰附した。

仙芝は判官の王庭芬を遣わして京師に捷報を奏上した。軍が河西に至ると、霊察は怒り、迎え労わらなかった。会見すると、罵って言った、「高麗奴よ、于闐の使者を汝はどうやって得たのか。」仙芝は恐れ、かつ謝して言った、「中丞(霊察)の力でございます。」また言った、「焉耆鎮守使・安西副都護・都知兵馬使は、皆どうやって得たのか。」答えて言った、「これも中丞の力でございます。」霊察は言った、「確かにそうなら、捷書は我を待たずに敢えて即座に奏上したのは、どういうことか?奴は斬るべきだが、新たに功を立てたことを顧みて、故にお前を許す。」仙芝はどうしてよいか分からなかった。令誠は密かに状況を朝廷に言上し、かつ言った、「仙芝は功を立てながら憂い死にするなら、後だれが朝廷のために用いられようか。」帝は乃ち仙芝を鴻臚卿に抜擢し、御史中丞を仮とし、霊察に代わって四鎮節度使とし、詔して霊察を還らせた。霊察は恐れた。仙芝が朝夕会うと、常に小走りに歩いたので、霊察はますます慚じた。副都護の程千里・衙将の畢思琛・行官の王滔・康懐順・陳奉忠らは皆かつて仙芝を霊察に讒言した者であった。仙芝が職務を視ると、千里を呼んで罵って言った、「貴公は顔は男児だが、心は婦女のようだ、どういうことか。」琛に言った、「お前は我が城東の千石の種田を奪った、覚えているか。」答えて言った、「公が賜わったものです。」仙芝は言った、「あの時我は汝の威を畏れたのであって、どうして汝を憐れんで賜わったものか。」また滔を召し出し、引き摑んで辱めようとした。しばらくして、皆釈放し、言った、「我は恨まない。」これにより挙軍安んじた。まもなく左金吾衛大将軍を加えられ、一子に五品官が与えられた。

九載、石国を討った。その王の車鼻施は降伏を約したが、仙芝は捕虜として闕下に献上し、これを斬った。これにより西域は服さなかった。その王子は大食に走り、兵を乞うて仙芝を怛邏斯城で攻撃し、その冤罪を晴らそうとした。仙芝は人となり貪欲で、石国を破り、瑟瑟十余斛・黄金五六駱駝分・良馬宝玉を多く獲、家財は巨万に累なった。しかしまたあまり愛惜せず、人が求めればすぐ与え、いくらであるかを問わなかった。まもなく武威太守に除せられ、安思順に代わって河西節度使となったが、群胡は固く思順を留めようとしたので、改めて右羽林軍大将軍に拝され、密雲郡公に封ぜられた。禄山が反すると、栄王が元帥となり、仙芝がその副となり、飛騎・彍騎及び朔方などの兵を領し、禁中の財を出して関輔の士五万を募り、封常清に継いで東征した。帝は勤政楼に御し、栄王を引見して任命を授け、仙芝以下を宴した。帝はまた望春亭に幸して労い送り、詔して監門将軍の辺令誠を監軍とした。陝郡に駐屯したが、常清が敗れて還った。仙芝は急ぎ、乃ち太原倉を開き、有るもの全てを士卒に賜り、残りを焼き、兵を率いて潼関へ向かった。ちょうど賊が到着し、甲冑・武器・物資・糧食が道に委棄され、数百里にわたった。関に到着すると、兵を統率して守備の具を繕い、士気は次第に復振した。賊が関を攻めたが入れず、乃ち引き還った。

初め、令誠はしばしば仙芝に私的に取り入ろうとしたが、仙芝は応じなかった。そこでその逗留して進まぬ様子を言上して帝を激怒させ、かつ云った、「常清は賊の勢いで衆を動揺させ、仙芝は陝の地数百里を棄て、官給の賜物を盗んだ。」帝は大怒し、令誠に命じて即座に軍中でこれを斬らせた。令誠は既に常清を斬り、屍を蘧祼(筵の上)に陳べた。仙芝が外から至ると、令誠は陌刀を持つ百人を従えて自ら言った、'大夫(仙芝)にも命がございます。」仙芝は急いで下り、言った、「我が退いたのは罪である、死を敢えて辞さない。しかし我が官給の資糧を盗んだとするのは、誣いである。」令誠に言った、「上は天、下は地、三軍皆ここに在る、君は知らないはずがない。」また麾下を顧みて言った、「我は汝らを募ったのは、本来賊を破って重賞を取らせようとしたのであるが、賊の勢いが今まさに鋭いので、故に遷延してここに至り、また関を固めるためでもあった。我に罪があるなら、汝らは言え。そうでなければ、冤罪と叫べ。」軍中皆叫んで言った、「冤罪!」その声は地を震わした。仙芝は常清の屍を見て言った、「貴公は、我が引き抜いた者であり、また我に代わって節度使となった。今貴公と共に死ぬのは、豈に天命か。」遂に死に就いた。

封常清

封常清は蒲州猗氏の人である。外祖父が彼に読書を教え、多くを渉猟究明した。しかし孤貧で、年齢三十を過ぎても名が知られていなかった。夫蒙霊察が四鎮節度使となり、高仙芝を都知兵馬使とした。かつて出軍する際、従者三十余人を奏請し、衣装は鮮やかであった。常清は慨然として書状を投じて加わることを請うた。常清は元来瘠せており、また足が不自由であった。仙芝はその容貌を醜いとして、受け入れなかった。翌日また来ると、仙芝は謝って言った、「従者はすでに足りている。どうしてまた来る必要があろうか」。常清は怒って言った、「私は公の義を慕い、鞭靮に事えんと願うゆえ、仲介なく自ら前に出たのである。公はどうしてかくも深く拒絶されるのか。容貌をもって士を取るならば、子羽を見失う恐れがある。公はどうかこれを考えられよ」。仙芝はなお受け入れず、常清は日ごとに門下で待った。仙芝はやむなく、従者の中に名を連ねさせた。

ちょうど達奚諸部が叛き、黒山より西へ碎葉に向かった。詔があり邀撃を命じた。霊察は仙芝に二千騎を率いて追撃させた。達奚は遠くに行き、人馬は疲れ、捕虜や首級はほぼ尽きた。常清は幕下でひそかに捷報の文書を作り、井泉や宿営の順序、賊を破った形勢や謀略を詳細に記し、条理が最も明瞭で詳しかった。仙芝がこれを取って読むと、すべて自分が意図していた通りであったので、大いに驚き、すぐに彼を用いた。軍が帰還すると、霊察は出迎えて労った。仙芝はすでに奴の襪と帯刀を脱いでいた。判官の劉眺と獨孤峻が争って尋ねた、「先ほどの捷報は誰が作ったのか。公の幕下にどうしてこのような人物がいるのか」。答えて言った、「わが従者の封常清である」。眺らは驚き、進み出て常清に揖して座らせ、語り合い、彼を異才と認め、これにより有名となった。功により疊州戍主を授けられ、なお判官となった。仙芝が小勃律を破り、霊察に代わって安西節度使となると、常清は従軍して功労があったため、慶王府録事参軍事に抜擢され、節度判官となった。仙芝が征討するとき、常に後方の事務を掌った。常清は才知があり果断で、胸に疑わしい事はなかった。仙芝は家事を郎将の鄭徳詮に委ねた。彼は仙芝の乳母子であり、威勢は軍中を動かしていた。常清がかつて外から帰ってくると、諸将が前に出て謁した。徳詮は常清が初めて貴くなったのを見て、彼を軽んじ、馬を走らせて常清の騶士を突き飛ばして去った。常清は左右の者に命じて徳詮を廷中に引き入れさせ、門を閉ざし、席を離れて言った、「私は微賤より起り、中丞公(仙芝)が過分に聴き入れられ、留守の事務を主宰させた。郎将としてどうして無礼があろうか」。そこで叱って言った、「しばらく郎将の死を借りて、わが軍を粛清せん」。そこで杖で打ち殺し、顔を地面に伏せたまま引きずり出した。仙芝の妻と乳母が門外で泣き叫び救いを請うたが、叶わず、急いでその状況を仙芝に告げた。仙芝は驚き、常清に会うと、その公正さを憚り、敢えて責めなかった。常清も謝らなかった。ちょうど大将に罪があり、また二人を殺したので、軍中で股が慄がない者はなかった。仙芝が河西節度使となると、また判官に請うた。久しくして、安西副大都護・安西四鎮節度副大使に抜擢され、節度事を掌った。間もなく、北庭都護に改め、節を持ち伊西節度使となった。常清の性質は勤倹で、労苦に耐え、出軍には騾に乗り、私厩にはわずか二馬を置き、賞罰は分明であった。

天宝末年に朝廷に入ったが、安禄山が反逆した。帝が引見し、何の策をもって賊を討つかを問うた。常清は帝の憂いを見て、大言して言った、「天下太平久しく、人は戦を知らない。しかし事には逆順があり、勢いには奇変がある。臣は馳せて東京に至り、府庫を尽くして驍勇を募り、馬箠を挑んで河を渡り、日数を計って逆胡の首を取って闕下に献じましょう」。天子はこれを壮とした。翌日、常清を范陽節度副大使とし、駅伝に乗って東京に赴かせた。常清は兵を募って六万人を得たが、皆市井の庸保であり、そこで旗幟を部署し、河陽橋を断って守った。賊は平原に文書を送り、太守の顔真卿に兵七千で河を防がせた。真卿は使いを馳せて司兵参軍事の李平に入奏させた。常清は李平の表文を取って開封して見ると、すぐに帳によりかかって書を作り真卿に送り、堅守を勧め、かつ禄山を懸賞する檄文数十函を伝えて与えた。真卿はこれを受け、諸郡に分けて知らせた。禄山が河を渡り、滎陽けいようを陥とし、罌子谷に入り、先駆が葵園に至った。常清は驍騎を遣わしてこれを防がせ、拓羯数十百人を殺した。賊の大軍が到着し、常清は防ぐことができず、上東門に退き、戦って利あらず。賊は鼓を鳴らして進み、官吏を劫略した。都亭驛で再戦し、また勝たず、兵を率いて宣仁門を守ったが、また敗れた。そこで自ら提象門より出て、大木を伐って道を塞ぎ殿軍とし、谷水に至り、西へ陝に奔った。高仙芝に言った、「賊の勢いは甚だ鋭く、鋒を争い難い。潼関に兵がなく、一夫が奔突すれば京師が危うい。急いで潼関を守るに如くはない」。仙芝はこれに従った。

敗戦の報告が聞こえると、帝は常清の官を削り、白衣の身分で仙芝の軍に隷属させて効力させた。仙芝は彼に黑衣を着せて左右部軍を監させた。辺令誠が詔書を持って到着し、これを見せると、常清は言った、「私が死ななかったのは、国家の節を汚すことを恐れ、賊の手に受戮されるのを恐れたからである。今死ぬのは本望である」。

初め、常清が敗れた時、直ちに関に入り、上に謁して賊を討つ事を陳べようとした。渭南に至ると、詔があり潼関に赴くよう命じた。常清は憂懼し、表を作って謝罪し、かつ言った、「東京が陥落して以来、三度使いを遣わして表を上り成敗を論じたが、対面を得られなかった」。また言った、「臣が死んだ後、陛下にはこの賊を軽んじられませんように。そうすれば社稷は安泰でしょう」。ここに臨刑に際し、表を令誠に授けて死んだ。人多くこれを哀しんだ。

贊して言う。禄山は百戦の驍虜を集め、天下が戦を忘れ、主徳が老いて勤め(政務に倦み)、故に戈を提げて内に騒ぎ、人情は崩壊した。常清は市人数万を駆り立てて賊の鋒に当たらせ、一戦して勝たず、すぐに爵土を奪われた。関に入って天子に謁し成敗の事を論じようとし、使者三度上書したが、皆返答がなく、軍中に戻って斬られた。仙芝は陝を棄てて関を守り、賊の西進の勢いを遏えたが、地を喪ったことを以て誅された。玄宗は左右に蒙瞽せしめられたとはいえ、その明を荒奪すること亦甚だしかった。ついに叛将に口実を与え、哥舒翰を執らせて賊に降らしめた。嗚呼、天がその悪を熟させ、四海を乱れさせ、黔首を挙げてこれを残害させたのではないか。彼の二将はどうして誅せられようか。