新唐書

巻一百三十三 列傳第五十八 郭虔瓘 郭知運子:英傑 英乂 王君㚟 張守珪子:獻誠 從子:獻恭 獻甫 獻恭子:煦 王忠嗣 牛仙客

郭虔瓘

郭虔瓘は、斉州歴城の人である。開元初年、軍功を記録され、累進して右衛ぎょう将軍に遷り、北庭都護・金山道副大総管を兼ねた。翌年、突厥の默啜の子同俄特勒が北庭を包囲したので、虔瓘は陣営を整えて自ら守った。同俄が単騎で城下に馳せてきたとき、勇士が道端に潜み、突然躍り出てこれを斬った。虜は首長を失い、相率いて降伏を請い、軍中の資財を尽くして同俄の死を贖わんと求めたが、既に斬られたと聞き、全軍慟哭して去った。虔瓘は功により冠軍大将軍・安西副大都護を授けられ、潞国公に封ぜられた。関中の兵一万を募り残賊を撃ち、前功を遂げようとし、詔により兵士を募り公乗を与え、在所で食糧を継続供給することとなった。将作大匠の韋湊が上言した。「漢は豪族を移して関中を実らせたが、今は畿輔の戸口が逃散して減耗しており、将来戎虜が侵入したとき、丁壮は悉く出征するので、更に驍勇を募り、京甸を空しくし、荒服に資するのは宜しくない。一万の兵が通過する際、駅馬が熟食を運び、六千里に亘るが、州県はどうして供億できようか。秦・隴以西は砂礫が多く、住人は少ない。どうして渡ることができよう。仮に勝利して獲るところがあっても、その補いはどれほどか。もし天誅が遅延すれば、大事を誤ることになろう。」聞き入れられなかった。やがて虔瓘は果たして虜に遭遇せず、帰還し、涼州刺史・河西節度大使に遷り、右威衛大将軍に進んだ。四年、家奴八人に戦功があると奏上し、遊撃将軍とすることを求めた。宰相がその功に恃んで綱紀を乱すと弾劾し、聞き入れるべからずとし、これを罷免した。

陝王が安西都護となると、詔して虔瓘をその副とせしめた。虔瓘は安撫招慰十姓可汗使の阿史那献としばしば意見を異にし、互いに朝廷に訴えた。玄宗は左衛中郎将王恵を遣わし、詔書を齎らせて諭し和解させた。「朕は聞く、師は和を以て克つ、衆に在らずと。虔瓘・献は宿将であるから、嫌疑を捨て隙間を塞ぎ、力を合わせて国家に尽くすべきである。西鎮を開いて以来、諸軍を列ね、戍には定まった区域があり、軍には常額がある。卿らが統べるのは、蕃漢が雑じっている。善く用いるに在るのであって、どうして加えて募る必要があろうか。或いは言う、突騎施が石城を包囲したのは、献が招いたものであると。葛邏祿が兵を挙げたのは、虔瓘が阻止したものであると。大将が協調せず、小人が思いのままに振る舞えば、どうして功を図ることができようか。昔、相如は廉頗を屈することができ、寇惲は賈復を惜しまなかった。宜しく各々寛大に思い、終に朕の命を受けよ。今、帛二千段及び他の珍器を賜う。朕の意を諒とせよ。」虔瓘は詔を奉じた。久しくして、軍中で卒した。張孝嵩を以て安西副都護とした。

孝嵩は、姿貌魁偉で、進士に及第し、慷慨として兵事を好んだ。安西においては農耕を勧め兵士を訓練し、府庫は豊かであった。太原尹に転じ、卒した。黄門侍郎杜暹を以って代わらせた。

郭知運

郭知運は、字を逢時といい、瓜州晉昌の人である。身長七尺、猿臂虎口にして、格闘の功により累補して秦州三度府果毅となった。郭虔瓘に従い突厥を破り功があり、右驍衛将軍を加えられ、介休県公に封ぜられた。

吐蕃の将坌達延・乞力徐が渭源を寇し、牧馬を盗んだ。詔して知運に薛訥・王晙等と相掎角させてこれを破った。階を進めて冠軍大将軍とし、臨洮軍使を兼ね、太原郡公に封ぜられ、賜与は万を数えた。隴右諸軍節度大使・鄯州都督ととくに転じた。突厥の降戸阿悉爛・𨁂跌思泰が衆を率いて叛き、単于副都護張知運を捕らえた。詔して朔方兵を以て追撃させ、黒山呼延谷に至ってこれを破り、虜は伏兵を棄てて逃走し、副都護を取り戻した。詔して知運に隴右経略使を兼ねさせ、柳城に営した。開元五年、吐蕃を大破し、京師に俘虜を献じた。翌年、再び出撃し、軽兵を率いて丙夜に九曲に至り、精甲・名馬・牦牛を多く獲た。獲たものを献上した後、詔して文武の五品以上の清官及び朝集使の三品の者に分け賜った。鴻臚卿を兼ね進め、御史中丞を摂った。六州胡の康待賓が反し、王晙に率いられてこれを討ち平げた。左武衛大将軍を拝し、一子に官を授けられ、金帛を賜った。九年、軍中に卒す。年五十五。涼州都督を贈られた。

知運は西方に屯し、戎夷に畏憚され、王君㚟と功名はほぼ等しく、当時「王郭」と号された。帝は詔して中書令張説にその功を墓碑に記させた。上元年間、太公たいこう廟に配饗された。永泰初年、謚して威といった。子に英傑・英乂あり。

知運の子 英傑

英傑は、字を孟武といい、左衛将軍・幽州副総管となった。開元二十三年、長史薛楚玉が英傑と裨将の呉克勤・烏知義・羅守忠に万騎及び奚の衆を率いさせて契丹を討たせ、榆関に屯した。契丹の酋長可突於が都山の下で防戦し、奚の衆が二心を抱き、官軍は利あらず、知義・守忠は麾下を率いて遁走し、英傑・克勤は力戦して死んだ。その配下六千人は尚も死戦し、虜が英傑の首を示しても終に屈せず、ついに全滅した。

知運の子 英乂

英乂は、字を元武といい、武勇をもって河・隴の間に有名で、累遷して諸衛員外将軍となった。哥舒翰これを見て曰く、「これは我が節度使を代わる者である」と。禄山の乱に際し、秦州都督・隴右採訪使を拝した。賊将の高嵩が兵を擁して汧・隴に入ると、英乂は偽ってこれを労い、且つ饗応を整え、やがて伏兵を起こし、その衆を尽く虜獲した。至徳二年、隴右節度使を加えられた。召還されて羽林軍大将軍に改め、衛兵を掌った。喪のため職を去った。

史思明が洛陽らくようを陥落させ、陳・蔡を掠めんと謀った。詔して英乂に淮南節度兵を統率させた。賊が陝・虢を叩くと、また陝西節度・潼関防禦使に改めた。御史大夫に進み、神策軍節度使を兼ねた。代宗が即位すると、検校戸部尚書を以って大夫を兼ねた。雍王が諸将を率いて賊を洛陽に討つとき、英乂を陝に留めて殿とせしめた。東都平定後、留守を権知したが、検束統御の才なく、その麾下が朔方・回紇とともに遂に都城及び鄭・汝を大掠し、千里を環して住む人無き有様となった。

功により実封三百戸を賜り、召されて尚書右僕射に拝され、定襄郡王に封ぜられた。日を追って驕慢となり、奢侈放縦を為した。宰相元載に内々に取り入ってその権勢を長く保たんとした。未だ幾ばくもなく、厳武が成都で死すと、乃ち剣南節度使に拝された。自ら内に後ろ盾有りと為し、故に思いのままに振る舞い憚る所無し。初め、玄宗がしょくに在りし時の旧宮は道士の祠と為り、金を熔いて帝の像を作り、乗輿や侍衛の絵をことごとく描き、毎に尹が至れば、先ず祠を拝し、後に政事を視た。英乂はその地の勝れたるを愛で、すなわち絵像を壊して自らそこに居り、衆は始めて不平を抱いた。又、女伎に驢馬に乗って毬を撃たせ、鈿鞍や宝勒その他の服用に、日に慮わず数万の費を以てし、以て娯楽に資したが、未だ嘗て民間の事を問わず、政を為すに苛暴にして、人々は目を以て互いに謂い合った。崔寧が己と同じからざるを怨み、兵を出して寧を襲うも、克たず。寧は人の怨みに乗じ、麾下五千を率いて直ちに成都を搗った。英乂は拒んで戦うも、衆は皆戈を反らせて内より攻め、乃ち簡州に奔り、霊池に次いだ。普州刺史韓澄はその首を斬り寧に送り、遂にその家を屠った。

王君㚟

王君㚟、字は威明、瓜州常楽の人。初め郭知運に事えて別奏と為り、功を累ねて右衛副率に至る。知運卒すや、代わって河西隴右節度使・右羽林軍将軍に為り、涼州都督事を判ず。

開元十四年、吐蕃の酋長悉諾邏が大斗抜谷を寇す。君㚟はその怠りを窺い、秦州都督張景順を率いて氷を乗り青海を渡り襲い破った。功により大将軍に遷り、晋昌県伯に封ぜられる。その父の寿を少府監に拝し、仕えざるを聴す。君㚟凱旋するに、玄宗は広達楼にて君㚟及びその妻夏を宴し、金帛を賜い、夏もまた自ら戦功を以て武威郡夫人に封ぜられた。俄かにして吐蕃瓜州を陥とし、刺史田元献及び寿を執え、居人を殺し、資糧を取り、玉門軍を進攻し、人をして君㚟を譏らしめて曰く「将軍常に自ら忠勇を以てす、今一たびも進み戦わず、奈何」と。君㚟は城壁に登り西に向かって哭き、兵は敢えて出でず。

初め、涼州に回紇・契・思結・渾の四部有り、代々酋長と為る。君㚟微時の頃、数往来するも、軽んぜらる。河西を節度するに及び、回紇等は頗る鞅鞅とし、下たるを恥じた。君㚟怒り、数えてその過ちを督めた。既に怨望を懐き、潜かに人を遣わして東都に至り状を言わしむ。君㚟は駅伝を間に奏して四部に叛謀有りとす。帝は中人をして即ち訊問せしむるに、回紇自ら弁明すること能わず。ここにおいて瀚海大都督回紇承宗は瀼州に流され、渾大得は吉州に流され、賀蘭都督契承明は藤州に流され、盧山都督思結帰国は瓊州に流され、而して承宗の党である瀚海州司馬護輸等は益々不平を抱き、怨みを復すべきことを思う。会に吐蕃の使者が間道より突厥に走る。君㚟は騎兵を率いて粛州に到り掩い取り、還りて甘州に至る。護輸は伏兵を発し、君㚟の節を奪い、左右の親吏を殺し、その心臓を剖きて曰く「是れ謀を始めし者なり」と。君㚟は帳下を引きいて力戦し、兵尽きて乃ち死す。輸は屍を以て吐蕃に奔らんとす。追兵至るや、乃ち屍を棄てて去る。帝これを痛惜し、特進・荊州大都督を贈る。喪を以て京師に還すに、官してその葬を護る。詔して張説に文を墓碑に刻ませ、帝自ら書して以てこれを寵す。

初め、吐蕃瓜州を寇すに、分遣して莽布支に常楽を攻めさせ、賈師順に令して城に乗りて守らしむ。俄かにして瓜州陥つ。悉諾邏兵を併せてこれを攻む。数日を経て、虜衆の中に姻家が城中に在る者あり、夜に師順に見えしめて曰く「州は既に失守せり、虜は衆を悉くして来る、孤城何ぞ久しく保たんや、早く降らざれば以て噍類を全うせんか」と。師順曰く「吾れ天子の命を受けて此れを守る、義賊に下るべからず」と。数日して、又た師順に説いて曰く「明府降らざれば、吾が衆は将に還らんとす、宜しく以て我に贈るべきもの有るべし」と。師順は士卒の衣襦を脱がんことを請う。悉諾邏は有ること無きを知り、乃ち夜に営を徹して去り、瓜州城を毀つ。師順は門を開き器械を収め、復た守備を完うす。吐蕃果たして精騎をして還り襲わしむ。備え有るを見て、乃ち去る。功により鄯州都督・隴右節度使に遷る。師順は岐州の人、終わりに左領軍将軍に至る。

張守珪

張守珪は陜州河北の人。姿幹瑰壮にして、慷慨節義を尚び、騎射に善し。平楽府別将として郭虔瓘に従い北庭を守る。突厥輪台を侵すや、守珪を遣わして往き援わしむ。中道にて賊に逢い、苦戦し、首級千余を斬り、頡斤一人を禽す。開元初、虜復た北庭を攻む。守珪は儳道より京師に奏事し、因りて上書して利害を言い、兵を引き出で蒲昌・輪台より賊を夾撃せんことを請う。再び遷りて幽州良杜府果毅と為る。時に盧斉卿刺史と為り、これを器とし、引きて共に榻に坐らせ、謂いて曰く「十年ならずして、子は当に是の州を節度し、国の重将と為らん。願わくは子孫を托さん。僚属を以て相い期すべきや」と。稍く遷りて建康軍使と為る。

王君㚟死すや、河西震懼す。詔して守珪を以て瓜州刺史・墨離軍使と為し、余衆を督して故城を完うせしむ。版築方に立つや、虜奄然として至る。衆色を失う。守珪曰く「創痍の余、詎でか矢石を以て相い確くべけんや、須らく権を以て之に勝たん」と。遂に酒を城上に置き、諸将を会して楽を作す。虜備え有りと疑い、敢えて攻めず、引き去る。守珪は兵を縦してこれを撃ち破る。ここにおいて位署を修復し、流冗を招きして復業せしむ。詔有りて瓜州を以て都督府と為し、即ち詔して守珪を都督と為す。州の地は沙塉にして蓺すべからず、常に雪水を瀦して田を溉ぐ。是の時、渠堨虜に毀たれ、材木出す所無し。守珪密かに神に禱る。一夕にして水暴に至り、大木数千章流れを塞ぎて下る。因りて之を取り、堰防を修復す。耕者は旧の如し。州人はこれを神とし、石を刻み事を紀す。鄯州刺史・隴右節度使に遷る。幽州長史・河北節度副大使に徙る。俄かに采訪処置等使を加う。

契丹・奚連年辺を梗ます。牙官可突於は、胡の中に謀有る者なり。前長史趙含章・薛楚玉等制すること能わず。守珪至るや、戦う毎に輒ち勝ち、虜遂に大敗す。帝喜び、詔して有司に九廟に告げしむ。契丹の酋長屈剌及び突於恐懼し、乃ち使いを遣わして詐り降る。守珪その情を得、右衛騎曹王悔を遣わして部に詣り事を計わしむ。屈剌に降意無く、帳を稍く西北に徙し、密かに突厥の衆を引きて将に悔を殺し以て叛かんとす。契丹の別帥李過折は突於と権を争い和せず。悔は間を因りて之を誘い、夜に屈剌及び突於を斬り、その党を尽く滅ぼし、衆を以て降る。守珪は紫蒙川に次ぎ、大いに軍実を閲し、将士を賞し、屈剌・突於の首を東都に伝う。

二十三年、入りて天子に見ゆ。会に藉田畢り、即ち酺燕を為りて守珪の飲至とす。帝は詩を賦して以てこれを寵す。輔国大将軍・右羽林大将軍を加拝し、金彩を賜い、二子に官を授け、詔して碑を立て功を紀せしむ。

久しくして、復た捺祿山に於いて契丹の余党を討ち、鹵獲算うること無し。会に裨将趙堪・白真陀羅等、強いて平盧軍使烏知義をして湟水を度り叛奚を邀えしめ、且つその稼を蹂躙せしむ。知義辞して往かず。真陀羅詔を矯りて之を脅す。知義虜と闘い、勝たずして還る。守珪その敗を匿い、但だ克獲の状を上る。事頗る泄る。帝は謁者牛仙童を遣わして実を按ぜしむ。守珪は真陀羅を逼りて自殺せしめ、厚く使者に賂し、還りて奏するに状の如し。後、仙童贓に敗る。事守珪に逮う。功を以て括州刺史に貶ぜられ、疽背に発して死す。

守珪の子 献誠

子に献誠あり。献誠は、天宝末年に安禄山に陥り、偽りの官職を授けられた。後に史思明に仕え、数万の兵を率いて汴州を守った。東都が平定されると、史朝義は汴州に逃げ帰ったが、献誠は受け入れず、統率する兵を籍に載せて州ごと降伏した。詔により直ちに汴州刺史に任じられ、南陽郡公に封ぜられた。宝応軍左廂兵馬使に改められ、さらに鄧国公に封ぜられた。朝廷に来朝すると、代宗は礼遇と賜物を特に厚くした。山南西道節度使に抜擢され、南山の凶賊高玉を討ち、これを捕らえた。まもなく剣南東川節度使を兼ねた。時に崔旰が郭英乂を殺害すると、献誠は兵を率いて梓州で戦い、大敗した。大暦三年、病のため京師に帰った。弟の献恭を挙げて自らの後任とした。検校戸部尚書として省事を知り、病が重く、固く辞任を乞い、卒去した。初め、献誠は功名を好み、政務は寛大で、機略があり、状況に応じて変化を制したが、簡素・廉潔の点では父に及ばなかった。

献誠の従弟に献恭あり。

従弟の献恭は、軍功を数多く立て、右羽林軍を以て節度使の職を代行した。大暦末年、岷州において吐蕃を撃破した。久しくして、東都留守に任じられ、累進して検校吏部尚書に至った。徳宗が盧杞を饒州刺史に転任させようとした時、給事中袁高が詔書を返上し、苦しく争った。献恭は帝に謁見して言うには、「袁高の上奏は聞き入れるべきです」と。帝は答えなかった。再び進み出て言うには、「袁高は陛下の良臣です、優遇すべきです」と。上は遂に盧杞を転任させなかった。世間はその屈しないことを称賛した。

献恭の子に煦あり。

子の煦は、累積した功績により夏州節度使に至った。元和八年、振武軍が節度使李進賢を追放し、その家族と判官厳澈を殺害した。憲宗は怒り、詔して煦に本軍を率いて進討させ、便宜を許し、絹三万匹を軍資として賜い、河東の王鍔が兵五千を派遣して援軍とした。煦が入ると、乱兵の蘇国珍ら数百人を捕らえ、誅殺した。卒去し、太子太保を追贈された。

献誠の従弟に献甫あり。

献誠の従弟の献甫は、軍功により光禄卿・殿中監を試みられ、河中節度使賈耽に従って梁崇義を討ち功績があった。徳宗が西幸すると、また渾瑊に従って朱泚を討ち、戦功多く、累進して金吾将軍・検校工部尚書に至った。李懐光が叛き、吐蕃が辺境を侵すと、献甫は禁兵を率いて咸陽を数年守備し、兵士と農民は喜んで安んじた。貞元四年、韓遊瑰に代わって邠寧節度使を領した。邠寧軍は元来驕慢で、献甫の厳しさを恐れ、韓遊瑰が去ったのを機に、掠奪をほしいままにし、範希朝を帥に迎えようとした。都将の楊朝晟が首謀者を誅殺したので、献甫はようやく入ることができた。ここにおいて山を断ち塹を浚い、要害の地を選んで烽堡を築いた。塩州及び洪門・洛原鎮への屯兵を復活するよう請い、詔はこれを許可した。献甫は兵馬使魏茪を派遣して吐蕃を駆逐し、塩・夏の二城を築くと、虜衆は畏れ、敢えて侵入しなくなった。十二年、検校尚書左僕射を加えられた。卒去し、司空しくうを追贈された。

王忠嗣

王忠嗣は、華州鄭県の人である。父の海賓は、太子右衛率・豊安軍使であった。開元二年、吐蕃が隴右を寇すと、詔して隴右防禦使薛訥に杜賓客・郭知運・王晙・安思順を率いて防がせた。海賓を先鋒とし、武階で戦い、敗走する敵を壕口まで追撃し、その兵を殺した。長城堡に進んで戦うと、諸将がその功績を横取りし、兵を押さえて傍観したため、海賓は戦死した。大軍がこれに乗じ、賊一万七千級を斬り、馬七万匹・牛羊四十万頭を獲た。玄宗はその忠を憐れみ、左金吾大将軍を追贈した。忠嗣は時に九歳、初め名を訓といい、尚輦奉御を授けられた。入朝して帝に謁見し、地に伏して号泣した。帝はこれを撫でて言うには、「これは霍去病の孤児である、壮になって将とせねばならぬ」と。今の名を賜い、禁中で養育した。粛宗が忠王であった時、帝は忠嗣と遊ばせた。成長すると、雄毅で寡言、武略があり、上と兵を論じると、応対が蜂の如く湧き起こった。帝はこれを重んじ、「後日、汝は良将となるであろう」と言った。試みに代州別駕を守らせると、大悪党は門を閉じて自ら慎み、敢えて法を犯さなかった。しばしば軽騎を率いて塞外に出たので、忠王は帝に言うには、「忠嗣は敢闘しますが、失う恐れがあります」と。これにより召還された。

信安王李祎が河東に、蕭嵩が河西に出た時、しばしば忠嗣を麾下に引き入れた。帝はその年少でありながら復讐の志があるとして、詔して特に将とさせなかった。蕭嵩が入朝すると、忠嗣は言うには、「公に従うこと三年、天子に帰って報告するものがない」と。そこで精鋭数百を請うて虜を襲撃した。時に吐蕃の贊普の大酋が郁標川で閲兵していると、その部下は帰還を望んだが、忠嗣は従わず、刀を提げて陣を巡り、数千人を斬り、羊馬一万に及ぶものを獲た。蕭嵩がその功績を上奏すると、帝は大いに喜んだ。累進して左威衛将軍・代北都督となり、清源県男に封ぜられた。皇甫惟明と軽重を争い、忠嗣に罪を捏造され、東陽府左果毅に貶された。

河西節度使杜希望が吐蕃の新羅城を取ろうとした時、忠嗣の才能を称える者があり、希望がこれを上聞した。詔して河西に赴くことを命じ、その城を攻め落とした。忠嗣の功績多く、左威衛郎将を授けられ、専ら兵馬を知ることとなった。まもなく吐蕃が大挙して出撃し、当新城を取ろうとし、朝方に官軍の陣を圧した。衆は敵わず、全軍が恐れた。忠嗣は単騎で進み出て、左右に馳せ突き、独りで数百人を殺した。賊衆は騒ぎ踏み合い、軍は左右からこれを包み、虜は大敗した。左金吾衛将軍に任じられ、河東節度副使・大同軍使を領し、まもなく節度使となった。二十九年、朔方を節度し、霊州都督を兼ねた。

天宝元年、北の奚怒皆を討ち、桑幹河で戦い、三度遭遇して三度勝利し、漠北に武威を輝かせ、盛大な会合を開いて帰還した。時に突厥に新たに内乱があり、忠嗣は磧口に進軍してこれを経略した。烏蘇米施可汗が降伏を請うたが、忠嗣はその勢力が盛んなため、単なる文書上の降伏に過ぎないとして、木剌・蘭山に営を張り、虚実を探らせた。ここにおいて平戎十八策を上奏し、抜悉密と葛邏禄・回紇の三部の間に反間を放ち、多羅斯城を攻め、昆水を渡り、米施可汗を斬った。大同・静辺の二城を築き、清塞・横野の軍を移して実らせ、受降・振武を合わせて一城とし、これより虜は敢えて塞を侵さなくなった。河東節度使に転じ、県公に進封された。

忠嗣は元来勇敢を負っていたが、将となってからは、重厚に辺境を安んじ、事を起こさず、嘗て言うには、「平世の将は、衆を撫でるのみである。私は中国の力を尽くして功名を幸いとすることは欲しない」と。故に兵馬を訓練し、欠けたところに従って繕い補った。漆弓百五十斤あり、常にこれを袋に収め、用いないことを示した。軍中の士気は盛んで、日夜戦いを望んだが、忠嗣は詭計と間諜を用い、虜の隙を窺い、時々奇兵を出して敵を襲い、向かうところ克たざるはなく、故に兵士もまた喜んで用いられた。軍が出る毎に、属長を召して兵を預け、士卒に授けさせ、弓矢にさえもその姓名を記させた。軍が帰還すると、弦の失われた矢や鏃も、全て名に照らして罪を定めた。これにより部下は各自慎み、武器甲冑は充実し鋭利であった。朔方から雲中に至る数千里にわたり、要害の地を占めて城堡を築き、斥候を出す地は甚だ遠かった。張仁亶以来四十余年、忠嗣がその功績を継いだ。

まもなく河西・隴右節度使となり、朔方・河東節度使の職務を代行し、四将の印を佩び、精兵と要地を掌握し、万里を制御した。近世に未だかつてないことであった。また一子に五品官を授けられた。後に数度青海・積石に出戦し、虜は常に敗走した。また墨離において吐谷渾を討ち、その国を平定した。ここにおいて固く朔方・河東の二節度使を辞退し、許された。

帝は石堡城を攻略せんとし、詔を下して攻取の計を問うた。忠嗣は奏上して言う、「吐蕃は挙国してこれを守っております。もし堅城の下に兵をとどめて、数万の士卒を費やした後に初めて図ることができるとしても、得るところが失うところに償わないことを恐れます。兵馬を練り、隙を待ってこれを取ることを請います」と。帝の意は快からず。而して李林甫は特にその功を忌み、日々に過失を鉤摭こうさくする。時に董延光が建言して石堡を下すことを請う。詔して忠嗣に分兵して応接せしむ。忠嗣は已むを得ずして軍を出すも、士卒に賞格なく、延光は悦ばず。河西兵馬使李光弼が入って説いて言う、「大夫は士卒を愛惜し、延光を拒む心あり。名は詔を受くると雖も、実はその謀を奪う。然れども大夫は既に万衆を付したるに、重賞を立てずんば、何を以て士卒の勇を買わんや。且つ大夫は数万段の賜を惜しみて、讒口を啓く。もしたずんば、罪を大夫に帰し、大夫先ず禍を受くべし」と。忠嗣曰く、「吾は固よりつまびらかにす、一城を得るも以て敵を制するに足らず、これを失うも国に害なし。吾は数万の人命を以て一官をうるを忍ぶべけんや。明日責められんも、一の金吾・羽林将軍を失わず、宿衛に帰らん。然らずんば、黔中の上佐たるのみ」と。光弼謝して曰く、「大夫は乃ち古人の事を行わんとす。光弼また何をか言わん」と。はしりて出づ。延光は期を過ぎて克たず、果たして忠嗣が兵をはばむを訴う。又た安禄山が雄武に城し、飛狐塞をやくして乱を謀り、忠嗣に助役を請い、因ってその兵を留めんと欲す。忠嗣は先期して至るも、禄山を見ずして還る。数えて禄山の将に乱せんことを上言す。林甫ますますこれをにくみ、陰に人を使い誣告せしむ、「忠嗣嘗て宮中に養われ、云う『吾太子を奉ぜんと欲す』と」と。帝怒り、召し入れて三司に付して訊験せしむ。罪は死に応ず。哥舒翰方に寵有り、上に白し、官爵を以て忠嗣の罪を贖わんことを請う。帝の意解け、漢陽太守に貶す。久しくして、漢東郡にうつす。卒す。年四十五。後に翰、兵を引きて石堡を攻め、これを抜く。死亡略ほぼ尽き、忠嗣の言うが如し。故に当世、名将と号す。

初め、朔方に在りて、互市に至れば、すなわち高く馬のあたいつぐなう。諸蕃争いて来たりて市す。故に蕃馬次第に少なく、唐軍精鋭なり。及び河・隴を鎮むるに及び、又た朔方・河東の九千騎を徙して以て軍をたすことを請う。天宝末に至るまで、益々滋息す。宝応元年、兵部尚書を追贈す。

贊して曰く、忠嗣の才を以てすれば、戦えば必ず破り、攻めれば必ず克つ。石堡を得ることの亡うる所に当たらずを策し、馬直を高くして以て虜の資をむなしくし、禄山の乱にきざし有るを論ず。深謀と謂うべし。然れども自ら讒を免るる能わず、ついに放地に死す。古より忠賢、国に謀るにたくみて身に拙きもの多し。げてなげかんや。

牛仙客

牛仙客は、涇州鶉觚の人なり。初め県の小史たり。令の傅文靜これをにす。時に隴右営田使たり、引きて計事にあずからしむ。功を積みて洮州司馬に遷る。河西節度使王君㚟、召して判官とす。君㚟死す。仙客独り免る。蕭嵩、節度を代わり、復た軍政を委ぬ。仙客は清勤にしておこたらず、士大夫を信を以て接す。及び嵩、執政に還り、因ってこれを薦む。ようやく太僕少卿に遷り、涼州別駕を判じ、節度留後事を知る。にわかに節度使と為る。開元二十四年、信安王祎に代わりて朔方行軍大総管と為る。

初め河西に在り、事をしみ用を省き、倉庫に鉅万を積み、器械は犀鋭なり。崔希逸これに代わる。即ち以てもうす。帝、刑部員外郎張利に命じ馳伝して覆視せしむ。状の如し。帝悦び、将に尚書に用いんとす。宰相張九齢、不可を執る。乃ち隴西郡公に封じ、実封二百戸。李林甫、帝の旨を探り知り、その材を称す。時に九齢罷む。故に工部尚書・同中書門下三品と為し、門下事を知り、遥かに河東節度副大使を領す。

相と為りては身を謹み他なく、時に沈浮し、唯唯として恭願きょうがんなり。前後賜与する所のものは、緘庋かんきして敢えて用いず。百司諮決するに、処可しょかする所無く、輒ち曰く、「令式の如くせよ」と。帝、既に仙客を用う。時議の帰せざるを知り、間を乗じて以て高力士に問う。力士曰く、「仙客は本胥史、宰相の器に非ず」と。帝忿然として曰く、「朕将に康厓を用いん」と。蓋しの言なり。厓に為に言う者有り。厓以て実と為し、喜ぶこと甚だし。久しくして、豳国公に封じ、左相を加う。卒す。尚書右丞相を贈り、謚して貞簡と曰う。