新唐書

巻一百三十二 列傳第五十七 劉子玄子:貺 餗 匯 秩 迅 迥 孫:滋 浹 吳兢 韋述 蔣乂子:係、伸、偕 柳芳子:登 冕 孫:璟 沈既濟子:傳師 孫:詢

劉子玄

劉子玄は、名を知幾といい、玄宗の諱(隆基)を避けるため、字をもって行われる。十二歳の時、父の蔵器が『古文尚書』を授けたが、学業が進まず、父は怒り、鞭打って督励した。諸兄が『春秋左氏伝』を講ずるのを聞き、おそるおそる往きて聴き、退いてはただちに疑わしい点を弁析し、嘆じて言うには、「書がこのようであるなら、児はどうして怠ることがあろうか」と。父はその志を奇とし、『左氏伝』を授けることを許した。一年を過ぎて、ついに群史を通覧した。兄の知柔とともに善く文詞を以て知名であった。進士第に擢でられ、獲嘉主簿に任ぜられた。

武后の証聖初年、九品以上の者に得失を陳べることを詔した。子玄は上書し、「毎年一赦、あるいは一年に再赦することは、小人の幸い、君子の不幸である」と諷した。また言うには、「君は虚しく授けず、臣は虚しく受けない。妄りに受くるは忠ならず、妄りに施すは恵みではない。今、群臣に功なく、遭遇するごとに遷り、至って都下には『車に載せ斗で量り、杷で椎き碗を脱ぐ』との諺あり」と。また謂うには、「刺史は三載以上でなければ徙すべからず、功課の殿最を課し、賞罰を明らかにすべし」と。后はその直を嘉したが、用いることはできなかった。時に吏は横暴酷虐で、善人にまで及び、公卿誅死する者踵を接した。子玄は士に良きことなくして禍に甘んずるを悼み、『思慎賦』を作って時を刺した。蘇味道・李嶠これを見て嘆じて言うには、「陸機の『豪士』の流れか、身を全うするの道尽きたり」と。子玄は徐堅・元行沖・吳兢らと善くし、嘗て言うには、「海内我を知る者は数子のみ」と。

累遷して鳳閣舎人となり、兼ねて国史を修めた。中宗の時、太子率更令に擢でられた。介直自守し、累歳遷らなかった。天子が西還されるに際し、子玄は自ら東都に留まることを乞うた。三年、或る者、子玄は身は史臣にして私に著述すと言い、駅伝をもって召し京師に至らしめ、史事を領せしめた。秘書少監に遷った。時に宰相の韋巨源・紀処訥・楊再思・宗楚客・蕭至忠は皆監修を領し、子玄は長官多きを病み、意尚一ならず、而して至忠は数えしばしば論次功なきを責め、また仕官偃蹇なるを以て、乃ち奏記して罷去を求めた。因りて至忠に「五不可」を言う。曰く、「古の国史は、皆一家より出で、未だ功を衆に藉すを聞かず。ただ漢の東観に群儒を集むるのみ、纂述主なく、条章建たず。今、史司は士を取ること滋く多く、人自ら荀・袁たり、家自ら政・駿たり。毎に一事を記し、一言を載するに、筆を閣して相視い、毫を含みて断たず、頭白するを期し、汗青する日無し:一不可。漢では郡国の計書は太史に上り、副本は丞相に上る。後漢では公卿の撰する所は、先ず公府に集まり、乃ち蘭台に上る。故に史官の事を載するは広し。今、史臣は唯だ自ら詢采し、二史は起居を註せず、百家は行状を通行せず:二不可。史局は深く禁門に籍し、顔面を杜ぎ、請謁を防ぐ所以なり。今、作者林の如く、仮りに褒貶を示さば、未だ口を絶たざるに、朝野咸く知る。孫盛は権門に嫉まれ、王劭は貴族に讎せらる、常人の情、畏れ無き能わず:三不可。古より史氏は各々指帰有り、故に司馬遷は処士を退け、奸雄を進め、班固は忠臣を抑え、主の闕を飾る。今、史官の註記は、類く監修に稟し、或いは直辞を須い、或いは悪を隠すべく、十羊九牧、其の令行い難し:四不可。今、監者は指授を肯んぜず、修者は又遵奉せず、務めて相推避し、以て歳月を延ばす:五不可」と。また言うには、「朝廷は其の才を厚く用いながら、其の礼を薄くす」と。至忠は書を得て、悵惜しつつ許さず。楚客らは其の言の詆切なるを悪み、諸史官に謂いて曰く、「是の子の書を作るは、吾を何の地に致さんと欲するか」と。

初め、子玄は『武后実録』を修め、改正すべき所有りしが、武三思らは聴かなかった。自ら以て時に用いられながら志遂げられずと為し、乃ち『史通』内外四十九篇を著し、今古を譏評した。徐堅これを読み、嘆じて曰く、「史氏たる者は宜しく此を座右に置くべし」と。また嘗て自ら楊雄に比する者四つ有り。「雄は雕虫の小伎を好み、老いて悔ゆ。吾は幼く詩賦を喜びて壮にして為さず、述者を以て自ら名づけんことを期す。雄は『易』に準じて経を作り、当時に笑わる。吾は『史通』を作り、俗、愚と為す。雄は著書して人に見尤され、『解嘲』を作る。吾も亦『釈蒙』を作る。雄は少くして範逡・劉歆に器とされ、経を作るを聞き、必ず醬瓿を覆さんと為す。吾は始め文章を以て誉を得、晩に史伝を談じ、此に由りて価を減ず」と。其の自ら感慨するや此の如し。

子玄は内に負う所未だ尽きざる有り、乃ち国史を吳兢に委ね、別に『劉氏家史』及び『譜考』を撰した。上は漢を推して陸終の苗裔と為し、堯の後ならず。彭城叢亭裏の諸劉は、楚孝王囂の曾孫居巣侯般より出で、元王を承けず。按拠明審にして、議者其の博を高しとす。嘗て曰く、「吾若し封を得ば、必ず居巣を以て司徒しとの旧邑を紹がん」と。後、果たして居巣県子に封ぜられた。郷人は其の兄弟六人俱に名有りを以て、其の郷を高陽と号し、裏を居巣と号した。

累遷して太子左庶子・兼崇文館学士となった。皇太子将に国學に釈奠せんとし、有司は儀を具す。従臣は衣冠を著け、馬に乗る。子玄議して曰く、「古より大夫以上は皆車に乗り、馬を以て騑服と為す。魏・晋の後は牛を以て車を駕す。江左では尚書郎軽く乗馬すれば、則ち御史劾治す。顔延年官を罷め、馬に乗りて閭裏に出入し、世に放誕と称す。此れ則ち乗馬は褻服に従うべきの明験なり。今、陵廟巡謁・王公冊命・士庶親迎には、則ち盛服冠履し、輅車に乗る。他事に車無く、故に貴賤通じて馬に乗る。比の法駕の幸する所、侍臣は皆馬上にて朝服す。且つ冠履は唯だ車に配すべく、故に博帯褒衣・革履高冠は、是れ車中の服なり。襪にして鐙し、跣にして鞍すは、唯だ古に師せざるのみならず、亦自ら流俗を驚かすを取る。馬逸れ人顛れば、行路に嗤わるるを受く」と。太子これに従い、因りて定令と為して著す。

開元初年、左散騎常侍さんきじょうじに遷った。嘗て『孝経』鄭氏学は康成の註に非ずと議し、十二条を挙げて其の謬を左証し、古文を以て正とすべしとす。『易』に子夏伝無く、『老子』書に河上公註無し、王弼の学を存するを請う。宰相宋璟ら其の論を然とせず、諸儒と質辯するを奏す。博士司馬貞ら意に阿り、共に其の言を黜け、二家兼行するを請い、唯だ子夏『易伝』は罷むるを請う。詔して可とす。時に子の貺が太楽令たりて罪に抵り、子玄執政に請う。玄宗怒り、安州別駕に貶す。卒す。年六十一。

子玄は国史を領すること且つ三十年、官は徙るれども、職は常に旧の如し。礼部尚書鄭惟忠嘗て問う、「古より文士多く、史才少なし。何ぞや」と。対えて曰く、「史に三長有り。才・学・識なり。世兼ぬるもの罕にして、故に史者少なし。学有りて才無きは、猶お愚賈の金を操るが如く、貨を殖やす能わず。才有りて学無きは、猶お巧匠の楩柟斧斤無きが如く、室を成す能わず。善悪必ず書き、驕君賊臣をして懼るるを知らしむ。此れ加うる無き者と為す」と。時に篤論と為す。子玄は善く論を持し、弁拠明鋭にして、諸儒を視るに皆其の下に出ず。朝に論著あれば輒ち預かる。歿後、帝詔して河南に就き家にて『史通』を写さしめ、読みて善しと称す。工部尚書を追贈し、謚して文と曰う。

六子:貺、餗、匯、秩、迅、迥。

子玄の子 貺

貺は字を惠卿という。学問を好み、多くのことに通暁した。子玄が卒すると、詔を下してその後嗣を訪ねさせ、起居郎に抜擢された。右拾遺内供奉を歴任した。『続説苑』十篇を献上し、漢の劉向の遺したものを広め、怪妄な部分を削除した。貺はかつて『竹書紀年』において諸侯の列会を序するのに皆諡を挙げているのは、後人の追修によるもので、当時の正史ではないと論じた。例えば斉人が遂で殲滅されたこと、鄭がその師を棄てたことなどは、いずれも孔子の新意であり、『師春』一篇は卜筮の事を録して左氏伝と合致するので、『春秋』の経伝に拠って作られたものであることを知り、よって『外伝』を著したという。子に滋・浹がいる。

貺の子 滋

滋は字を公茂という。経術に通じ、議論を好んだ。蔭官により漣水県令を歴任した。楊綰がその材が諫官に堪えると推薦し、累進して左補闕を授けられた。久しくして去り、東都で親を養った。河南尹李廙が功曹に補するよう奏上し、母の喪で解任された。喪が明けると、司勛員外郎として南曹を判じ、職務に勤勉に法を奉じ、進んで給事中に至った。興元元年、吏部侍郎として南選を掌った。当時は大盗(安史の乱)の後で、旱魃と蝗害が相次ぎ、官吏は京師に詣でることができなかったため、命を受けて滋が洪州に至り官吏を調補し、職務を振るったことで知られた。貞元二年、左散騎常侍・同中書門下平章事に抜擢された。宰相として特に施策はなく、廉潔で謙抑し、畏慎していただけである。翌年に罷免された。さらに翌年、再び吏部侍郎となり、尚書に遷った。時に御史中丞韋貞伯が「吏部の選任が実態に合わず、審査覆勘に疏漏があり、官吏が奸を為す隙を与えている」と弾劾上奏した。詔により侍郎杜黄裳と共に階位を奪われた。卒すると、陜州大都督ととくを追贈され、諡を貞といった。

貺の子 浹

浹もまた学問で称された。子に敦儒を生み、東都に家した。母が狂疾を患い、人を笞打ちしなければ安らかでないため、左右の者は皆逃げ去ったが、敦儒は日々病に侍り、体には常に流血があったが、母はようやく食事をとれるようになり、敦儒は怡然として痛みを隠さなかった。留守韋夏卿がその行いを上表すると、詔により閭里に標闕を立てた。元和年中、權德輿が再び推薦し、左龍武軍兵曹参そうしん軍を授けられ、東都に分司した。母の喪に服し、憔悴してほとんど死にそうであった。当時、劉孝子と称された。後に起居郎となり、礼に通じ古を好み、祖父の風があったという。

子玄の子 餗

餗は字を鼎卿という。天宝初年、集賢院学士を歴任し、史官を兼ねた。終わりは右補闕であった。父子三人が代々史官に臨み、『史例』を著し、頗る法があった。

子玄の子 匯

匯は左散騎常侍となり、終わりは荊南節度使であった。子の贊は蔭官により鄠県丞として仕えた。杜鴻漸が剣南より還る途中、鄠県に立ち寄ると、厨房や駅舎の供応が豊かであった。楊炎が匯は名儒の子であると推薦し、浙西観察判官に抜擢された。楊炎が宰相に入ると、歙州刺史に進み、政務の才幹に強く優れていた。野に住む老女が虎にぜいわれようとした時、幼い娘が呼号して虎と搏り、共に難を免れた。観察使韓滉が贊の治績に異行があると上表し、金紫を加えられ、常州に転じた。韓滉が政を輔けると、管轄区域を三道に分け、贊を宣州刺史・都団練観察使とし、宣州を十年治めた。贊は元来学がなく、弟は剛猛をもって威を立て、官吏は重ね足して一つの跡しかつけぬほど畏れた。宣州は既に富饒であったので、厚く徴収し、広く貢奉して恩を結んだ。また子を訓育できず、皆驕傲で法度を守らず、平素の家業は衰えた。卒すると、吏部尚書を追贈され、諡を敬といった。

子玄の子 迥

迥は剛直で称され、進士に及第し、殿中侍御史を歴任し、江淮転運使を補佐した。当時は安史の乱が新たに収まったばかりで、迥は財賦の輸送に力を尽くし、職務に励んだ。大暦初年、吉州刺史となり、治績は特に優れていた。累進して給事中に至った。

子玄の子 秩

秩は字を祚卿という。開元末年、左監門衛録事参軍事を歴任し、次第に憲部員外郎に遷った。些細な累により罪を得て、隴西司馬に左遷された。安祿山が反乱を起こすと、哥舒翰が潼関を守り、楊國忠がその兵権を奪おうとした。秩が上言して「翰の兵は天下の成敗がかかっているので、軽視すべきではない」と言った。房琯はその上書を見て、劉更生に比した。至徳初年、給事中に遷った。久しくして、閬州刺史として出向した。撫州長史に貶せられ、卒した。著した『政典』・『止戈記』・『至徳新議』など凡そ数十篇がある。

子玄の子 迅

迅は字を捷卿という。京兆功曹参軍事を歴任した。常に病臥していた時、房琯が聞いて憂い眠れず、「捷卿に万一のことがあれば、天理は欺くものだ」と言った。陳郡の殷寅は人を見る目で名があり、迅を見て嘆じて「今の黄叔度である」と言った。劉晏はその議論を聞くたびに「皇王の道は尽きている」と言った。上元年中、安康に避難し、卒した。迅は『詩』・『書』・『春秋』・『礼』・『楽』の五説を継いだ。書が完成すると、人に語って「天下は滔滔として、我を知る者は稀である」と言い、終いに人に見せなかったという。

吳兢

吳兢は汴州浚儀の人である。幼少より志を励まし、経史に通暁し、方正で率直であり、交遊は少なく、ただ魏元忠・朱敬則と交わったのみであった。二人は権勢を握ると、兢の才能が論撰に堪えると推薦し、詔して史館に直らせ、国史を修撰させた。右拾遺内供奉に遷る。

神龍年中、右補闕に改める。節閔太子の難に際し、奸臣が安國相王が謀議に与ったと誣告し、朝廷は大いに恐れた。兢は上言して曰く、「文明(武后年号)以後、皇運は帯の如く絶えず続いております。陛下が龍興され、恩は骨肉に及び、相王は陛下と同気であり、親しみこれに加うるはありません。今、賊臣が日夜陰謀をめぐらし、必ずや彼を極刑に置かんとしています。相王は仁孝であり、苦難に遭い哀毀し、陛下を命として、自ら手足に託しております。もし邪佞を信じ、これを法に委ねれば、陛下の恩を傷つけ、天下の望みを失います。股肱を刈り取り、ただ胸臆のみを任せれば、寒心すべきことです。昔より宗支を剪伐し、異姓を委任した例で、亡びざるはありません。秦は趙高を任用し、漢は王莽を任用し、晉の家は自ら魚肉し、隋室は子弟を猜忌し、海内は糜沸しました。覆車の験を照らせば、どうしてその轍を重ねられましょうか。かつ根朽ちれば葉枯れ、源渇けば流れ竭きます。子弟は国の根源であり、これを枯渇させてよいものでしょうか。皇家の枝幹は、夷芟されて略尽しています。陛下が即位されて四年、一子は兵を弄んで誅せられ、一子は罪により謫去され、ただ相王のみが朝夕左右にあります。『斗粟』の刺(漢の民謡)、『蒼蠅』の詩(『詩経』)は、察せざるを得ません。伏して願わくは、陛下に常棣の恩を全うし、罔極の心を慰められんことを。天下幸甚です」と。累遷して起居郎となり、劉子玄・徐堅らとともに職を同じくした。

玄宗が初めて立つと、権綱を収還し、決事に鋭く、群臣は畏伏した。兢は帝が果敢であるが精緻に及ばぬことを慮り、乃ち上疏して曰く、

古より人臣は諫めざれば国危うく、諫めれば身危うし。臣愚かなりといえども、陛下の禄を食み、身危うき禍を避けざるを得ません。近ごろ上封事する者を見るに、言に採るべきものあれば、ただ束帛を賜うのみで、未だ嘗て召見を蒙り、抜擢されることはありません。その旨に忤うものは、則ち朝堂で決杖し、本州に伝送され、或いは流貶に死す。これにより臣下は進諫を敢えてせず。古に誹謗の木を設け、己が過ちを聞かんと欲す。今の封事は、誹謗の木に比すべきものです。使うところの言が是ならば、国に益あり。使うところの言が非ならば、朝に累なし。陛下何ぞ急に斥逐を加え、以て直言を杜塞せんとするのですか。道路に流傳し、相視て怪愕す。夫れ漢の高帝は周昌の桀・紂の対を赦し、晉の武帝は劉毅の桓・霊の譏を受け入れました。況んや陛下は豁達大度にして、この狂直を容れられないことがあろうか。夫れ人主は尊極の位に居り、生殺の権を専らにし、その威厳峻しきことこれあり。情抱を開き、諫諍を納れれば、下もなお懼れて敢えて尽くさず、奈何ぞ罪となさんとするのか。かつ上に失うところあれば、下必ずこれを知る。故に鄭人が郷校を毀たんと欲したとき、子産は聴かなかった。陛下が初めて即位されたとき、なお褚無量・張廷珪・韓思復・辛替否・柳澤・袁楚客ら数人が上疏して時政の得失を争いました。頃ごろより上封事する者は、往々にして罪を得、諫める者は頓に少ない。これは鵲の巣覆りて鳳至らず、理の然る所以です。臣誠に恐る、天下の骨鯁の士が讜言を戒めとし、直きを撓めて曲きに就き、方きを斫きてまるくし、偷み合い苟くも容れ、復た能く節を尽くし身を忘れ、君を道に納るることをせざることを。

夫れ帝王の徳は、諫を納るるより盛んなるは莫し。故に曰く、「木は縄に従えば則ち正しく、後は諫に従えば則ち聖なり」と。又曰く、「朝に諷諫有るは、猶お髪に梳有るがごとし。猛虎山林に在れば、藜藿これが為に採らず」と。忠諫の益有ることかくの如し。古より上聖の君は、恐らくは己が過ちを聞かざらんことを恐れ、故に堯は諫鼓を設け、禹は昌言に拝した。不肖の主は、自ら聖智と謂い、諫を拒み忠を害す。桀は関龍逢を殺して湯に滅ぼされ、紂は王子比幹を殺して周に滅ぼされた。これその験なり。治と同道すれば興ばざるはなく、乱と同道すれば亡ばざるはなし。人将に疾からんとすれば、必ず先ず魚肉の味を甘んぜず。国将に亡ばんとすれば、必ず先ず忠諫の説を甘んぜず。嗚呼、惟うらくは陛下深くこれに鑑みられんことを。隋の煬帝は驕矜自負し、堯・舜も己に若かずと以為い、而して亡を諱り諫を憎んだ。乃ち曰く、「我に諫むる者有らば、当時に殺さずとも、後必ずこれを殺す」と。大臣蘇威は一言を開かんと欲したが、敢えて発せず、因りて五月五日に『古文尚書』を献じた。帝は己を誹るものと以為い、即ち除名した。蕭瑀は遼を伐つ無かれと諫め、出でて河池郡守と為る。董純は江都に幸す無かれと諫め、獄に就き賜死す。これより蹇諤の士は去りて顧みず、外に変有りと雖も、朝臣は口を鉗み、帝は知らず。身は人手に死し、子孫は剿絶せられ、天下の笑いと為る。太宗皇帝は至言を好みて悅び、時に魏徴・王珪・虞世南・李大亮・岑文本・劉洎・馬周・褚遂良・杜正倫・高季輔有り、皆切諫を以て、要職に引き居らしめた。嘗て宰相に謂いて曰く、「自ら知る者は難し。文人巧工の如く、自ら己が長と謂うも、若し達者・大匠に詆訶商略せしめば、則ち蕪辞拙跡見ゆ。天下万機、一人聴断すと雖も、甚だ憂労すと雖も、尽く善しとすること能わず。今魏徴事に随い諫正し、多く朕が失に中る。明鏡形を照らすが如く、美悪畢く見ゆ」と。当の時、政に益有る上書有れば、皆寝殿の壁に黏え、坐りて望み臥して観、狂瞽逆意と雖も、終に忤いと為さず。故に外事必ず聞こえ、刑戮幾くんか措かれ、礼義大いに行わる。陛下何ぞこの道に遵わず、聖祖に継ぎて美を成されないのですか。夫れ一人の意を以て、万方の政を綜べれば、明に燭せざる所有り、智に周らざる所有り、上心未だ下に諭せず、下情未だ上に達せず。伏して惟う、虚を以て人を受け、博覽兼聽し、深き者は隠れず、遠き者は塞がれざらしめられんことを。所謂「四門を辟き、四目を明らかにす」なり。その直言正諫して死亡の誅を避けざる者能くするは、特ちに寵榮を加え、不次を以て待てば、則ち東隅に失うも、冀くは桑榆に得ん。

尋いで母喪のため官を去る。服除け、自ら陳べて修史に緒有り、家貧しく紙筆を具うる能わず、少禄を得て以て余功を終えんことを願う。詔有りて諫議大夫を拝し、復た史を修めしむ。睿宗崩じ、実録は東都に留まる。詔して兢に馳駅して取りて進めしめ、梓宮に備えしむ。父喪のため解く。宰相張説、趙冬曦を用いてこれに代わる。喪終わり、太子左庶子と為る。

開元十三年、帝は東に太山を封じるに当たり、道中しばしば馳射して楽しみとされた。兢は諫めて曰く、「今まさに岱に登り成を告げんとするに、狡獣を逐うべからず、垂堂の危うき有り、朽株の殆うき有らしむるが如きは」と。帝はこれを納れた。明年六月、大風有り、詔して群臣に得失を陳ぜしむ。兢は疏を上りて曰く、「春より以来、亢陽にして雨降らず、乃ち六月戊午、大風樹を抜き、居人の廬舎を壊す。伝に曰く、『徳を敬わず用いざれば、その災は旱なり。上下蔽隔し、庶位節を逾え、陰陽に侵せば、則ち旱災応ず』と。又曰く、『政悖り徳隠るれば、その風屋を発し木を壊す』と。風は陰類にして、大臣の象なり。恐らくは陛下の左右に奸臣権を擅にし、謀を懐いて上を害せんとする心有らん。臣聞く、百王の失は、皆権の下に移るに由ると。故に曰く、『人主人の権を与うるは、猶太阿を倒に持ち柄をこれに授くるが如し』と。夫れ天災異を降すは、人主をして感悟せしめんと欲するなり。願わくは天変を深く察し、その萌を杜絶せられんことを。且つ陛下は天後・和帝の乱を承け、府庫未だ充たず、冗員尚繁く、戸口流散し、法多く門より出で、賕謁大に行われ、趨競弥広し。この弊未だ革まず、実に陛下の庶政の闕なり。臣倦々たるに勝えず。願わくは群小を斥屏し、慢遊を為さず、出でて禦がざるの女を出し、急がざるの馬を減じ、選挙を明らかにし、刑罰を慎み、僥幸を杜ぎ、至公を存し、旱風の変有りと雖も、聖徳を累するに足らず」と。

初め、兢は長安ちょうあん・景龍の間に在って史事を任ぜられし時、武三思・張易之等監領す。貴に阿り朋佞し、釀沢浮辞し、事多く実ならず。兢は志を得ず、私に『唐書』・『唐春秋』を撰すも、未だ成らず。ここに至り、官の筆劄を丐い、書を成すを得んことを冀う。詔して兢に集賢院に就きて論次せしむ。時に張説宰相を罷め、家に在りて史を修む。大臣奏して国史は外に在るを容れずとす。詔して兢等をして館に赴き撰録せしむ。長垣県男に進封さる。久しくして、書事不当に坐し、荊州司馬に貶せられ、史草を以て自ら随う。蕭嵩国史を領し、奏して使者を遣わし兢に就き書を取らしむ。六十余篇を得たり。

累遷して洪州刺史となり、累に坐して舒州を除かれる。天宝初め、入りて恒王傅と為る。年老いて衰僂甚だしと雖も、意猶史職に還るを願う。李林甫その衰を嫌い、用いず。卒す。年八十。

兢の叙事は簡核にして、良史と号せらる。晚節稍牴牾す。時人その太簡を病む。初め劉子玄とともに『武后実録』を撰定し、張昌宗の張説を誘いて魏元忠を誣証せしむる事を叙し、頗る「説已に然す可しとすも、宋璟等の邀励苦切に頼り、故に禍を転じて忠と為す。然らざれば、皇嗣且に殆うからん」と言う。後に説相と為り、これを読み、心善からず、兢の為す所なるを知り、即ち従容として謬りて謂いて曰く、「劉生の魏斉公の事を書くに、少も仮借せず、奈何」と。兢曰く、「子玄已に亡し、地下に誣せらる可からず。兢実にこれを書く。その草故に在り」と。聞く者その直を嘆ず。説屡情を以て蘄いて改めしむ。辞して曰く、「公の情に徇わば、何を以て実録と名づけん」と。遂に改めず。世に今の董狐と謂う。

韋述

韋述は、弘機の曾孫なり。家に厨書二千巻有り、述児時の為り、誦憶略遍す。父は景駿、景龍中肥郷令と為り、述従いて官に到る。元行沖は、景駿の姑の子なり、時に儒宗と為り、常に書数車を載せて自ら随う。述その室に入り書を観るに、寝食を知らず、行沖これを異とし、試みに前世の事を語らしむるに、孰れか復た詳諦にして、掌を指すが如し。文を属せしむるに、紙を受けて輒ち就く。行沖曰く、「外家の宝なり」と。進士に挙げらる。時に述方に少く、儀質陋侻たり。考功員外郎宋之問曰く、「童子何の業ぞ」と。述曰く、「性書を嗜み、撰する所『唐春秋』三十篇有り、恨むらくは未だ畢らず、それ唯命のまま」と。之問曰く、「本茂才を求むるに、乃ち遷・固を得たり」と。遂に上第す。

開元初め、櫟陽尉と為る。秘書監馬懐素奏して述と諸儒をして即ち秘書に『七志』を継がしむ。五年にして成る。述は譜学を好み、柳沖の撰する所『姓族系録』を見て、毎私に写してこれを懐い、舎に還れば則ち又繕録す。故に百氏の源派に詳しく、乃ち更に『開元譜』二十篇を撰す。累除して右補闕と為る。張説既に集賢院を領し、述を薦めて直学士と為し、起居舎人に遷す。従いて太山を封じ、『東封記』を奏す。詔有りて褒美す。先ず是れ、詔して『六典』を修めしむ。徐堅意を構うること歳余、嘆じて曰く、「吾更に七書を修むるも、『六典』は歴年未だ適する所無し」と。蕭嵩の述を引いて撰定せしむるに及び、述始めて周の六官を摹してその属を領し、事職に帰し、規制遂に定まる。初め、令狐徳棻・呉兢等武徳以来の国史を撰すも、皆成す能わず。述二家に因り後事を参じ、遂に紀・伝を分ち、又例一篇を為す。嵩早く就かんと欲し、復た起居舎人賈登・著作佐郎李鋭を奏して述を助け績を〓せしむ。逮う成るに、文約にして事詳なり。蕭穎士以て譙周・陳寿の流と為す。国子司業に改め、集賢学士を充て、累遷して工部侍郎となり、方城県侯に封ぜらる。

述は図書を典掌すること余り四十年、史官を任ずること二十年、栄利に淡く、人と為り純厚なる長者にして、当世これに宗ぶ。士を接するに貴賤無く均しくす。蓄書二万巻、皆手自ら校定し、黄墨精謹にして、内秘書も及ばず。古の草隷帖・秘書・古器図譜備わらざる無し。安祿山の乱に、剽失皆尽くす。述独り国史を抱いて南山に蔵す。身賊に陷り、偽官に汚す。賊平ぎ、渝州に流され、刺史薛舒に困せられ、食わずして死す。広徳初め、甥の蕭直李光弼の判官と為り、闕に詣り事を奏して旨に称う。因りて述を理めて「蒼卒奔逼するも、能く国史を存し、賊平ぎ、尽く史官の于休烈に送る。功を以て過を補う。宜しく恩宥を蒙るべし」とす。詔有りて右散騎常侍を贈る。

韋氏の顕るる者は、孝友・詞学は則ち承慶・嗣立、音楽に邃きは万石有り、礼儀に達するは則ち叔夏、史才博識は述有り。著する所の書二百余篇時に行わる。弟の逌・迪、学業も亦述に亜ぐ。逌と対にして学士と為り、迪と並びて礼官と為る。搢紳これを高しとす。時に趙冬曦兄弟も亦各名有り。張説嘗て曰く「韋・趙兄弟は、人の杞梓なり」と云う。

蔣乂

蔣乂は、字は徳源、常州義興の人、家を河南に徙す。祖は瑰、開元中弘文館学士。父は将明、天宝末、辟せられて河中使府に在る。安祿山反す。計を以てその帥を佐け、並・潞等州を全うす。両京陷り、拘せらる。乃ち陽狂して以て免る。虢王巨幕府に引致し、侍御史を歴し、左司郎中・国子司業・集賢殿学士に擢でらる。乂は性鋭敏、七歳の時、庾信の『哀江南賦』を見て、再読すれば輒ち誦す。外祖の呉兢は史官の位に在り、乂幼くして外家に従い学び、その書を得、博覧強記す。冠に逮う、群籍を該綜し、史才有り、司徒楊綰特にこれを称す。将明集賢に在り、兵興に値い、図籍殽舛す。宰相に白して乂を引いて院に入れ、力を助けて整比せしむ。宰相張鎰も亦これを奇とし、集賢の小職に署す。乂料次すること逾年、各部分を以てし、善書二万巻を得たり。再遷して王屋尉となり、太常礼院修撰を充つ。貞元九年、右拾遺・史館修撰に擢でらる。徳宗その職を重んじ、先ず延英に召見し、乃ちこれを命ず。

張孝忠の子茂宗は義章公主をし、母が亡くなり、遺言して婚礼の完成を乞うた。帝は孝忠の功を思い、即日に召して左衛将軍とし、公主の降嫁を許した。乂が上疏し、以為く、「墨縗の礼は本来金革にるもので、喪を奪って公主を尚する者はない。典礼を繆盩びゅうちれいし、人情に違い、法と為すべからず」と。帝は中使をして茂宗の母の請いを諭させたが、乂の意は殊に堅かった。帝曰く、「卿の言うところは、古礼なり。今の俗、吉を借りて婚する者少なからず」と。対えて曰く、「俚室の窮人の子、傍らに至親無き者、乃ち吉を借りて嫁する有り、男の兇を冒して娶するを聞かず。陛下の建中の詔書に、郡・県主婚すべき時は、皆して有司をして典故にしたがわしめ、俗儀を用いる無からしむと。公主は春秋とし少く、年を待つも晩しと為さず、茂宗を礼の如くせしむるを請う」と。帝曰く、「更に之を思え」と。会に太常博士韋彤・裴堪諫めて曰く、「婚礼は、主人几筵に命を聴き、事に称して文を立て、之を嘉と謂い、以て宗廟を承け、後嗣を継ぐ所以なり。喪礼は、創巨なる者は日久しく、痛甚だしき者はいよいよ遅く、二十五月にしておわり、之を兇と謂い、以て死を送り終に報い、節有るを示す所以なり。故に夫は義にして婦は聴き、父は慈にして子は孝なり。昔、魯侯服を改め、晋襄墨縗す、金革の事に縁れば則ち権変有り。安んぞ縗服をて、冕裳を、堊室を去り、親迎を行い、以て兇を以て嘉をけがし、朝廷の為に法をたがえんや」と。疏入り、帝は其の言をとおしと為し、前詔の行を促したが、然れども心に乂の守り有るを嘉した。

十八年、起居舎人に遷り、司勲員外に転じ、皆史任を兼ねた。帝嘗て凌煙閣に登り、左壁の頽剥するを視、題文漫缺し、行わずわずか数字、命じて録して宰相に問わしむるも、能く知る者無し。すみやかに乂を召し至らしむると、答えて曰く、「此れ聖暦中の侍臣図賛なり」と。帝の前で口を以て誦して補い、一字も失わず。帝嘆じて曰く、「虞世南の『列女伝』を黙写するも、是に過ぎず」と。会に詔して神策軍建置の本末を問う、中書討求するも獲ず、時に集賢学士甚だ衆し、悉く以て対する無し。乃ち乂に訪う、乂条拠甚だ詳し。宰相高郢・鄭珣瑜嘆じて曰く、「集賢に人あり哉」と。明日、詔して集賢院事を兼判せしむ。父子学士と為り、儒者之を栄しとす。

順宗既に葬られ、祧廟を議す。有司以て中宗は中興の君、百代遷すべからずと為す。宰相乂に問う、乂曰く、「中宗即位の時、春秋既に壮なり。而るに母后篡奪して以て神器を移す。張柬之等に頼り国祚再び復す。蓋し反正と曰うべく、中興と為すを得ず。凡そ我に非ずして之を失い、我より之を復するを、中興と為す。漢の光武・晋の元帝是れなり。我より之を失い、人に因りて之を復するを、晋の孝恵帝・孝安帝是れなり。今中宗は恵・安二帝と同じ。遷さざる主と為すべからず」と。有司疑いて曰く、「五王社稷を安んずる功有り。若し中宗を遷さば、則ち配饗永く絶ゆ」と。乂曰く、「禘袷の功臣は、乃ち合食太廟す。中宗の廟毀つと雖も、而して禘祫並びに太廟に陳ぶ。此れ則ち五王の配食、初めと一なり」と。是に由りて遷廟遂に定まる。兵部郎中に遷る。許孟容・韋貫之と制勅三十篇を刪正し、『開元格後勅』と為す。李錡誅せられ、詔して宗正に一房の属籍を削らしむ。宰相乂を召して問う、「一房大功よりる可きか」と。答えて曰く、「大功は錡の従父昆弟なり。其の祖神通功有り、廟に配饗す。裔孫の悪しきと雖も、其の勛を忘るる、不可」と。「期より自る可きか」と曰う。曰く、「期なる者は錡の昆弟なり。其の父若し社稷に幽死せば、今錡に連坐するを以てす、不可」と。執政之を然りとす。故に罪錡及び子息に止まり、旁坐する者無し。

未だ幾ばくもあらず、秘書少監に改め、復た史館修撰を兼ね、獨孤郁・韋処厚と『徳宗実録』を修す。労により右諫議大夫に遷る。裴垍宰相を罷む。而して李吉甫垍を悪む。嘗て監修したるを以て、故に乂に太常少卿を授く。久しくして、秘書監に遷り、累ねて義興県公に封ぜらる。卒す。年七十五。礼部尚書を贈られ、謚して懿と曰う。

乂朝廷に在ること久しく、史職に居ること二十年。毎に大政事議論有れば、宰相未だ決する能わず、必ず之に諮訪す。乂経義或いは旧章に拠りて以て時事に参し、其の対允切にして該詳なり。初め是を以て遇せられ、終にも貴近に忤い、介介として顕官に至らず。然れども資質朴直、権臣政を秉るに遇えば、輒ち数歳遷らず。嘗て裴延齢の罪悪を疏し、及び王叔文を拒み、当世之を高しとす。結髮志学し、老いて厭わず。甚だしき寒暑と雖も、巻を前にして釈かず。故に能く百家の学を通じ、尤も前世の沿革に明るし。家蔵書一万五千巻に至る。初め武と名づく。憲宗の時、進見に因りて請うて曰く、「陛下今日武をめ文を修す。群臣当に上意を順承すべし。請う名を改めて乂と為さん」と。帝悦ぶ。時に王承宗を討つ兵方に罷む。乂天子の武に鋭きを恐れ、亦た因りて以て諷す。他日、帝侍御史唐武を見て曰く、「命名固より多し。何ぞ必ずしも武と曰わん。乂既に之を改めたり」と。更めて慶と曰わしむ。群臣乃ち帝将に兵を厭わんとすと知る。乂論撰百余篇。

五子:係・伸・偕知名たり。仙・佶皆刺史の位に至る。

乂の子 係

係は属文を善くし、父の典実を得たり。大和初、昭応尉を授かり、直史館と為る。明年、右拾遺・史館修撰を拝し、沈伝師・鄭澣・陳夷行・李漢と参じて『憲宗実録』を撰す。右補闕に転ず。宋申錫誣せらる。文宗怒り甚だし。係は左常侍崔玄亮と涕泣苦諍し、申錫死せずを得。膳部員外・工礼兵三部郎中を歴任し、皆史職を兼ねる。開成末、諫議大夫に転ず。宰相李徳裕李漢を悪む。係を其の友婿と為すを以て、出でて桂管観察使と為し、人其の治め安んずるを安んず。復た漢に坐して唐州刺史に貶せらる。宣宗立ち、召されて給事中・集賢殿学士判院事と為る。吏部侍郎に転じ、興元・鳳翔節度使を歴任す。懿宗初、兵部尚書を拝す。弟伸の位丞相なるを以て、懇りて辞す。乃ち検校尚書右仆射、山南東道節度使と為り、淮陽郡公に封ぜらる。東都留守に徙り、卒す。子曙、字は耀之。咸通末、進士第より鄂嶽団練判官に署せられ、虞・工二部員外を除き、起居郎に改む。黄巢の難に、曙は闔門噍類無し。是を以て仕進に意を絶ち、隠居沈痛す。中和二年、表を上り道士と為るを請い、許さる。

乂の子 伸

伸、字は大直、進士に第す。大中二年、右補闕を以て史館修撰と為り、駕部郎中に転じ、知制誥を掌る。白敏中邠寧節度を領す。表して伸を自ら副とし、右庶子を加う。入りて戸部侍郎を知る。九年、翰林学士と為り、承旨に進む。十年、兵部侍郎に改め、戸部を判す。

宣宗は伸を雅に信愛し、会うごとに必ず天下の得失を諮問した。伸は言う、「近ごろ爵賞がやや軽率で、人は苟且に流れます」と。帝は愕然として言う、「苟且ならば乱れるであろう」と。伸は言う、「否、急に乱れるわけではありませんが、ただ人に覬覦の心があれば、乱はここから生じます」と。帝は嗟嘆し、伸は三度起立し三度留められ、帝は言う、「他日は再び卿と独り対することはないであろう」と。伸は理解しなかった。間もなく、本官のまま同中書門下平章事となった。四ヶ月を過ぎて、戸部を解かれ、中書侍郎を加えられた。懿宗が即位すると、刑部尚書を兼ね、国史を監修した。咸通二年、出て河中節度使・同中書門下平章事となり、宣武に移った。まもなく太子少保として東都に分司した。七年、用いられて華州刺史となった。再び遷って太子太傅となり、表を上って骸骨を乞い、本官のまま致仕した。卒し、太尉を贈られた。

乂の子に偕あり。

偕は父の任により、右拾遺・史館修撰を歴任し、補闕・主客郎中に転じた。初め、柳芳が『唐歴』を作ったが、大暦以後は欠けて記録されていなかった。宣宗は詔して崔亀従・韋澳・李荀・張彦遠及び偕らに分年して撰次させ、元和までを尽くして継がせた。累遷して太常少卿となった。大中八年、盧耽・牛叢・王沨・盧告とともに『文宗実録』を撰次した。蔣氏は代々儒を伝え、ただ伸及び系の子兆のみが辞章をもって進士第を取ることができたが、文士には多く称されなかった。三世相継いで国史を修め、世に良筆と称され、皆「蔣氏日暦」と言い、天下に多く蔵された。

柳芳

柳芳、字は仲敷、蒲州河東の人。開元末、進士第に擢でられ、永寧尉より史館に直った。粛宗は詔して芳に韋述とともに呉兢の次いだ国史を綴輯させたが、会うこと述が死に、芳がこれを緒成し、高祖こうそより起こり、乾元に至るまで、凡そ百三十篇。天宝以後の事を叙するに、棄取が倫を失い、史官はこれを病んだ。上元中、事に坐して黔中に徙された。後に左金吾衛騎曹参軍・史館修撰を歴任した。しかし芳は著述を篤く志し、少しも選んで忘れ厭わなかった。寇乱を承けて史籍が淪缺した。芳が初めて謫された時、高力士もまた巫州に貶されていたので、力士に従って開元・天宝及び禁中の事を質し、本末を具に識った。当時国史は既に官に送られており、追って刊正することはできなかったので、義類を推衍し、編年法に倣って『唐歴』四十篇を作り、頗る異聞があった。しかし褒貶の義例を立てず、諸儒の譏訕を受けた。右司郎中・集賢殿学士に改め、卒した。

子に登・冕あり。

芳の子に登あり。

登、字は成伯。群書に淹貫し、年六十余にして、初めて仕宦した。元和初、大理少卿となり、許孟容らとともに敕格を刊正した。病により右散騎常侍に改め、致仕した。卒し、年九十余、工部尚書を贈られた。

登の子に璟あり。

子の璟、字は徳輝。宝暦初、進士・宏詞に第し、三遷して監察御史となった。当時郊廟の告祭に、吏部が雑品をもって上公を摂行していた。璟は開元・元和の詔書に拠り、太尉は宰相をもって事を摂り、司空しくう・司徒は仆射・尚書・師・傅をもって摂り、その他の司は差限に及ばないとして、旧制の如くにすることを請い、従われた。累遷して吏部員外郎となった。文宗開成初、翰林学士となった。初め、芳は永泰中に宗正の諜を按じ、武徳を断として、昭穆の系承により『永泰新譜』二十篇を撰した。璟は召対に因り、帝が『新譜』の詳悉なるを嘆じ、詔して璟に永泰以後の事を攟摭して綴成させた。再び十篇とし、戸部が筆札稟料を供した。中書舎人に遷った。武宗が立つと、礼部侍郎に転じた。璟は人となり寛信で、士を接することを好み、人の長を称え、その門に遊んだ者は他日皆世に顕れた。会昌二年、再び貢部を主とし、その子が賄を招いたことに坐し、信州司馬に貶され、郴州刺史で終わった。

芳の子に冕あり。

冕、字は敬叔。博学で文辞に富み、かつ世々史官であり、父子並びに集賢院に居た。右補闕・史館修撰を歴任した。劉晏に善しとするに坐し、巴州司戸参軍に貶された。還って太常博士となった。昭徳王皇后が崩ずると、冕は張薦と議して皇太子は晋魏の卒哭除服に依るべしとし、左補闕穆質は礼に依り期して除くことを請い、冕の議が用いられた。徳宗は既に親郊し、祠事を重んじ慎み、動くごとに典礼に稽った。冕は吏部郎中として太常博士を摂り、薦及び司封郎中徐岱・倉部郎中陸質とともに儀矩を修飭した。帝は郊廟で毎度升るごとに剣履を去ること及び象剣の尺寸・祝語の軽重を疑い、冕は礼に拠って答え、本末詳明で、天子は嘉異した。

久しくして、論議が勁切であるため、執政が善しとせず、出て婺州刺史となった。十三年、御史中丞・福建観察使を兼ねた。自ら久しく疏斥されたことを感じ、また性躁狷で、恨み無からざるを得ず、乃ち表を上って代わることを乞い、かつ朝覲の意を推明して言う、「臣は窃かに『江漢』朝宗の誼、『鹿鳴』君臣の宴、頌声の作は王道の本始たるを感ず。国家は兵興より以来、礼を議する遑がなく、方牧は未だ朝せず、宴楽久しく缺けています。臣は一切の制に限られ、例として朝集無く、目は朝廷の礼を見ず、耳は宗廟の楽を聞かず、足は軒墀の地を践まず、茲に十二年になります。夫れ朝会は礼の本です。唐・虞の制では、群後四朝して以て黜陟を明らかにします。商・周の盛時には、五歳一見して以て制度を考へます。漢法では、三載上計して以て課最を会します。聖唐は古に稽り、天下朝集し、三考一見し、皆十月に上計して京師し、十一月に礼見し、尚書省に会して考績の事に応じ、元日に貢棐を陳べ、考堂に集まり、その考第を唱え、賢を進めて善を興し、不肖を簡びて悪を黜します。安史が常を乱して以来、初めて専地有り;四方多故より以来、初めて不朝有り;戎臣険に恃み、或いは悔い改めず。臣は牧圉の寄に忝くし、不朝の臣を憤り、一たび入覲して天下に率先し、君臣の義を親しくして疏からず、朝覲の礼を廃して復た挙げんことを思います。誠に薪を負い、溘然として朝露に先んずるを恐れ、覲礼展ばず、臣の憂いです。比来諸将帥の亡歿する者衆しと聞き、臣自ら憚り何の徳を以てか久長に堪えん。郷国は人情の忘れざる所、闕庭は臣子の恋う所、朝覲は国家の大礼。この三者は臣の大願です」と。表を累上し、その辞哀切で、徳宗は還ることを許した。会うこと冕が奏上して閩中は本南朝の畜牧の地で、羊馬を息わすことができ、東越に牧区を置き万安監と名付け、また泉州に五区を置き、悉く部内の馬驢牛羊を索めて合わせ万余を遊畜した。時を経ずして、死耗略尽し、再び調べてこれを充て、民間怨苦した。政無状に坐し、代わられて還った。卒し、工部尚書を贈られた。

沈既済

沈既済、蘇州呉の人。経学に該明であった。吏部侍郎楊炎は雅にこれを善しとし、執政に就くと、既済に良史の才有りと薦め、召して左拾遺・史館修撰に拝した。

初め、呉兢が国史を撰し、『則天本紀』を作り、高宗の次に置いた。既済は奏議して、以爲へらく、「則天皇后は進むに強有を以てし、退くは德讓に非ず、史臣の追書するは、當に太后と稱すべく、上と曰ふに宜しからず。中宗は降りて藩邸に居すと雖も、體元して代を繼ぎ、本吾が君なり、宜しく皇帝と稱すべく、廬陵王と曰ふに宜しからず。睿宗は景龍の前に在り、天命未だ集まらず、假りて大寶に臨む、誼に名無し、宜しく相王と曰ふべく、未だ帝と曰ふを容れず。且つ則天は周の正朔を改め、七廟を立て、天命革まれり。今周を以て唐に廁し、列ねて帝紀と爲すは、『禮經』に考ふるに、是れ亂名と謂ふ。中宗の嗣位は太后の前に在るに、年を敘し紀を制する反つて其の下に居るは、之を僖公に躋ぐるに方ぶれば、是れ不智と謂ふ。昔漢の高后稱制す、獨り諸呂を王と爲すを以て漢約に負ふ有り、鼎を遷し革命の事無し、時に孝惠既に歿し、子は劉氏に非ず、呂后を紀せず、尚誰か與にせんや?議者猶ほ不可と謂ふ。況んや中宗は始年に即位し、季年に復祚す、尊名中ば奪はるると雖も、天命未だ改まらず、以て事を首め年を表すに足る、何の拘閡する所か有りて二紀を列ねんや?魯の昭公の出づるや、『春秋』歲に其の居を書して曰く、『公、乾侯に在り。』と。君在り、位を失ふと雖も、敢へて廢せず。請ふ、『天后紀』を省き『中宗紀』に合し、每歲の首に、必ず孝和の在す所を書して以て之を統べ、曰く、『皇帝房陵に在り、太后其事を行ひ、某の制を改む。』と。紀は中宗と稱し而して事は太后を述ぶ、名正しきを失はず、禮常に違はず。夫れ正名は以て王室を尊ぶ所以なり、書法は以て後嗣を觀る所以なり。且つ太后の遺制、自ら帝號を去り、及ぶ孝和の上謚、開元の冊命、而して後の名易はず。今祔陵配廟、皆な后禮を以てす、而して獨り帝に統を承くるは、是れ有司の時を正さざる、先旨を失ふ。若し后の姓氏名諱・才藝智略・崩葬の日月は、宜しく皇后傳に入れ、其の篇を題して『則天順聖武皇后』と曰ふべし。」と。議行はれず。

德宗立ち、治に銳し。建中二年、詔して中書・門下の兩省に、分ちて待詔官三十を置き、見官・故官若くは同正・試・攝九品以上なる者を以てし、品を視て俸を給し、稟餼・幹力・什器・館宇に至るまで悉く差有らしむ;權めて公錢をして子を收め、用度を贍はしむ。既濟諫めて曰く、「今日の治、患ふるは官煩なるに在り、員少なるを患へず;患ふるは問はざるに在り、人無きを患へず。兩省の官、常侍・諫議・補闕・拾遺より四十員、日に止む兩人對待し、缺員二十一員未だ補はれず。若し見官議に與るに足らずと謂はば、則ち當に更に其人を選ぶべし。若し聰明を廣めて淹滯を收めんとせば、先づ其の缺を補ふべし、何事ぞ官外に官を置かん。夫れ錢を置きて息を取るは、有司の權制にして、經治の法に非ず。今員三十を置くは、大抵費月百萬を減ぜず、息を以て本に準ふれば、須らく二千萬にして息百萬を得、戶二百を配し、又當に復た其の家を除くべく、且つ流に入るを得ん、損ふる所尤も甚し。今關輔大いに病み、皆な百司の息錢室を毀ち産を破ると言ふ、府縣に積り、未だ以て革むる有らず。臣、天下の財賦耗斁する大なる者を計るに唯二事有り:一は兵資、二は官俸。自ら他の費は十も二者の一に當らず。所以れ黎人重く困し、杼軸空虛。何ぞ則ち?四方の形勢、兵未だ去るべからず、資費廣しと雖も、已むを得ず之を爲す。又た閑官冗食を以て益す、其の弊奈何。舊に藉りて置くは猶ほ可なり、之を如何ぞ加へん。」と。事遂に寢ぬ。

炎罪を得、既濟坐して貶せられ處州司戶參軍と爲る。後に入朝し、位禮部員外郎。卒す。『建中實錄』を撰す、時に其の能を稱す。

子傳師。

既濟の子 傳師

傳師、字は子言。材行餘り有り、能く『春秋』を治め、書に工み、楷法有り。少くして杜佑に器とせらる。貞元の末、進士に舉げらる。時に給事中許孟容・禮部侍郎權德輿、士を挽轂するを樂み、「權・許」と號す。德輿之を孟容に稱す、孟容曰く、「我が故人の子、盍ぞ我を過ぎざる?」と。傳師往きて見え、謝して曰く、「丈人に聞く、脫中第せば、則ち公の舉を累すと、故に敢へて進まず。」と。孟容曰く、「子の如きは、我をして急に賢をして子に詣らしむべく、子をして舊に因りて我を見しむべからず。」と。遂に第を擢ぐ。德輿門生七十人、推して顏子と爲す。

復た制科に登り、太子校書郎を授けられ、鄠尉を以て直史館と爲り、轉じて右拾遺・左補闕・史館修撰、遷りて司門員外郎、知制誥。召し入れて翰林に學士と爲り、改めて中書舍人。翰林承旨缺く、次當に傳師なるも、穆宗面して命せんと欲す、辭して曰く、「學士・院長天子の密議に參ず、次宰相と爲る、臣自ら必ず能はざるを知る、願くは人を治むる一方、陛下の爲に之を長養せん。」と。因りて疾を稱して出づ。帝中使を遣はし敦めて召す。李德裕素より善くし、開曉諄切す、終に出でず。遂に本官を以て史職を兼ぬ。俄に出でて湖南觀察使と爲る。

傳師方に『憲宗實錄』を修むるに與り、未だ成らず、監修杜元穎因りて建言す、「張說・令狐亙外官に在りて國書を論次す、今槁史殘課す、請ふ傳師に付し即ち官下に之を成さしむ。」と。詔して可とす。

寶歷二年、入り拜して尚書右丞。復た出でて江西觀察使、徙りて宣州。傳師吏治に明らかにして、吏敢へて罔せず。刑法を慎重にし、獄を斷する每に、幕府を召して平處せしめ、輕重盡く合して乃ち論決す。嘗て邸吏尹倫を擇ぶ、遲魯にして事に及ばず、官屬屢白して之を易へんとす、傳師曰く、「始め吾長安を出づるに、倫に誡めて曰く、『事を闕くすべく、事を多うすべからず。』と。倫是くの如きは足れり。」と。故に蒞む所廉靖を以て聞こゆ。入りて吏部侍郎と爲り、卒す、年五十九、尚書を贈らる。

傳師性夷粹にして競ふ無く、二鎮を更むること十年、書賄權家に入ること無し。初め官を拜するに、宰相姻私を以て幕府に托せんと欲す、傳師固く拒みて曰く、「誠に爾らば、願くは授くる所を罷めん。」と。故に其の僚佐李景讓・蕭寘・杜牧の如きは、極めて當時の選なり。家を治むるに威嚴せず、閨門自ら化す。兄弟子姓、屬に親疏無く、衣服飲食一なり。姻家故人に餉問ひ、帑に儲錢無く、宅を鬻ぎて以て葬る。

傳師の子 詢

子詢、字は誠之、亦た文辭を能くし、會昌初め進士に第し、渭南尉を補ふ。累遷して中書舍人、出でて浙東觀察使と爲り、戶部侍郎を除かれ、度支を判ず。咸通四年、昭義節度使と爲り、治尚簡易を尚び、人皆な便安す。奴私に侍兒に侍す、詢將に之を戮せんとす、奴懼れ、牙將を結びて亂を爲し、夜詢を攻め、其の家を滅す。兵部尚書・左散騎常侍を贈らる。劉潼代りて節度と爲り、馳せ至り、奴の心を刳り、其の靈坐に祭る。

賛に曰く、唐の興りしより、史官の筆を執る者衆し。然れども三百年を垂れ、業は巨にして事叢雑し、簡策は繁雑を極め、その間巨盗再び興り、図典は焚逸し、大中以後、史録は存せず。論著の人は世に随ひて裒掇すれども、疏舛残余にして、本末顛倒す。故に聖主賢臣、叛人佞子、善悪汩々として、尽くさざる所あり、永く愾くべき者なり。又た旧史の文は猥釀にして綱なく、浅ければ俚に入り、簡なれば漏れに及ぶ。寧ろ当時の儒者に諱る所ありて騁ふことを得ざりしか、或は浅俗に因りて文に足らざるか、亦た後取に待ちて当たり遠く行はるるを期するか。何ぞ知幾以来、古人を訶るに工にして己を用ふるに拙きや。韓愈が『順宗実録』を作りしより、議者閧然として息まず、卒に竄定して完篇無く、乃ち史を為す者も亦た言ひ難きを知る。遊・夏も『春秋』に措辞すること能はざりしは、果たして信ずべきのみ。