李適之
李適之は、恒山湣王(李承乾)の孫なり、初め名は昌と為す。神龍初年、左衛郎将に抜擢さる。開元中、累遷して通州刺史となり、治績顕著なるを以て聞こゆ。按察使韓朝宗、朝廷にこれを言上し、秦州都督に抜擢さる。陝州刺史・河南尹に転ず。その政は苛細ならず、下民の便と為る。玄宗、谷水・洛水の歳毎に暴漲し徭役の力を消耗するを患い、詔して適之に禁中の銭を以て三大防(堤防)を築かしむ、上陽・積翠・月陂と曰う、これより水害無し。功を刻石して顕わし、詔して永王璘に書かしめ、皇太子瑛に額を署せしむ。御史大夫に進む。二十七年、幽州長史を兼ね、節度事を知る。適之、祖(李承乾)が廃せられ、父の李象が武后の時に逐われたるを以て、葬儀に欠けあり、ここに至り昭陵の闕中に陪葬することを請う、詔して許す。褒賞の冊命と典物、都邑を焜照し、行道の人これを咨嘆す。刑部尚書に遷る。適之は賓客を喜び、酒を斗余飲むも乱れず。夜は宴楽し、昼は事を決し、案牘に滞留するもの無し。
李峴
李峴は、呉王恪の孫なり。節を折りて士に下り、吏治に長ず。天宝時、累遷して京兆尹と為る。玄宗歳毎に温湯に行幸す、甸内巧みに供億して以て上に媚びるも、峴独り献ずる所無し、帝これに異とす。楊国忠、客の騫昂・何盈を使わして安禄山の陰事を擿発せしめ、京兆に諷してその邸を捕えしむ、安岱・李方来等の禄山と反状を為すを得、縊殺す。禄山怒り、上書して自ら言う、帝変を懼れ、峴を出して零陵太守と為す。峴、政を為すに人心を得、時に京師米価翔貴す、百姓乃ち相与に謡して曰く、「粟賤からんと欲せば、李峴を追え」と。尋いで長沙に徙す。永王、江陵大都督と為り、峴を仮に長史と為す。至徳初年、粛宗これを召し、扶風太守に拝し、御史大夫を兼ぬ。明年、京兆尹に抜擢され、梁国公に封ぜらる。
代宗立ち、荊南節度使に改め、江淮選補使を知る。入りて礼部尚書兼宗正卿と為る。乗輿陜に在り、商山よりして帝の在所に走る。京に還り、門下侍郎・同中書門下平章事に拝す。故事、政事堂は客を接せず。元載宰相と為りてより、中人詔を伝うる者を引いて堂に升らしめ、榻を置いてこれを待つ。峴至るや、即ち吏に勅して榻を撤せしむ。又奏す常参官に才ありて諫官・憲官に任ずべき者を挙げしむるに、員数を限らざることを。一月を踰えず、要近の譖短せらるるに遭い、遂に恩を失い、太子詹事に罷めらる。吏部尚書に遷り、復た江淮選を知り、検校兵部尚書兼衢州刺史に改む。卒す、年五十八。
初め、東京平らぎ、陳希烈等数百人罪を待つ、議者悉く死に抵せんとし、帝の意また天下を懲らしめんと欲す、故に崔器等深文を附致す。峴時に三司たり、独り曰く、「法に首従有り、情に重軽有り、若し一切死を論ずれば、陛下の天下と惟新せんとする意に非ず。且つ羯胡常を乱し、誰か淩汙せざらん、衣冠奔亡し、各その生を顧み、尽く責むべけんや。陛下の新戚勛旧の子若し孫、一日に皆鉄砧に血す、尚お仁恕ならんや。『書』に『厥の渠魁を殲し、脅従は治むること罔し』と称す。況んや河北の残孽、官吏を劫服するや、その人尚お多し、今自新の路を開かずして尽くこれを誅せば、是れ叛者の心を堅くし、賊の為に致死せしむるなり。困獣猶お闘う、況んや数万人をや」と。ここにおいて、器と呂諲は皆齪齪たる文吏、常議を操り、大體に及ばず、尚お頰を騰げて固く争い、数日にして乃ち聴かる。衣冠更生を蒙り、賊も亦人をして怨を天子に帰せしむること能わず、峴の力なり。
峴の兄亙・嶧。亙は上皇に従い、峴は粛宗を翊戴し、勲力を以て相高め、同時に御史大夫と為り、倶に台事を判じ、又合制して公に封ぜられ、而して嶧は戸部侍郎・銀青光禄大夫と為り、長興里の第に同居し、門に三戟を列ぬ。
李勉
李勉、字は玄卿、鄭恵王元懿の曾孫なり。父択言、累ねて州刺史と為り、安德郡公に封ぜられ、吏治を以て称さる。張嘉貞益州都督と為り、性簡貴にして、部刺史に接するに倨甚だし、択言漢州を守るも、独り同榻に引いて坐らしめ、政事を講繹し、名当時に重し。
勉少くして学を喜び、内に沈雅、外に清整なり。始め開封尉に調せらる、汴州は水陸一の都会、俗厖錯し、治め難しと号す、勉奸を摧き隠を決するを以て有名なり。粛宗に従いて霊武に在り、監察御史に抜擢さる。時に武臣崛興し、法度無く、大将管崇嗣闕に背いて坐し、笑語嘩縱す、勉これを劾して恭しからざるとす、帝嘆じて曰く、「吾れ勉有り、乃ち朝廷の尊きを知る」と。司膳員外郎に遷る。関東より俘虜百余りを献ず、将に即死せんとす、嘆ずる者有り、勉過ぎて問う、曰く、「脅かされて官と為り、敢えて反せざりき」と。勉入りて帝に見えて曰く、「寇乱の汙天下の半ば、その心を澡い自ら帰らんと欲するも繇無し。如し尽くこれを殺さば、是れこれを駆りて賊を助けしむるなり」と。帝騎を馳せて宥し完からしむ、後帰する者日々に至る。
累ねて河東の王思禮、朔方河東都統の李國貞の行軍司馬となり、梁州刺史に進む。李勉は王晬を仮に南鄭令とし、晬は権幸に誣えられ、詔してこれを誅せんとす。勉曰く、「方に牧宰を藉りて人の父母と為さんとす、豈に讒を以て郎吏を殺さんや」と。即ち晬を拘え、請うて免れしむ。晬後推択に以て龍門令となり、果たして名有り。
羌・渾・奴剌州を寇す、勉守る能わず、召されて大理少卿と為る。然れども天子素より其の正しきを重んじ、太常少卿に擢で、遂に柄用せんと欲す。而して李輔国諷して己に下らしめんとす、勉肯わず、乃ち出でて汾州刺史と為る。河南尹を歴、江西觀察使に徙る。兵を厲し鄰を睦まし、賊屯を平ぐ。部人の父病み、蠱を為て厭を求むる者、木偶に勉の名を署して之を埋む、掘りて治め験えて服す、勉曰く、「是れ其の父の為なり、則ち孝なり」と。誅せずして縱く。入りて京兆尹兼御史大夫と為る。魚朝恩国子監を領し、威寵震赫たり、前尹の黎幹諂いて之に事え、其の入るを須ち、吏を敕して数百人を治め具えて以て餉わしむ。是に至り吏請う、勉従わず、曰く、「吾太學に候わば、彼まさに見享すべし、軍容幸いに府を過ぐれば、則ち具を脩すべし」と。朝恩之を銜み、亦復た太学に至らず。
尋いで嶺南節度使を拝す。番禺の賊馮崇道・桂の叛将朱濟時等険に負けて乱を為し、十余州を残す、勉将の李観を遣わし容州刺史の王翃を率いて討ち之を斬る、五嶺平ぐ。西南夷の舶歳に至ること纔かに四五、譏視苛謹なり。勉既に廉潔にして、又暴征せず、明年至る者乃ち四十余柁なり。官に居ること久しく、未だ嘗て器用車服を抆飾せず。後召されて帰る、石門に至り、尽く家人の蓄うる所の犀珍を搜して江中に投ず。時人謂う、宋璟・盧奐・李朝隱に継ぐ可しと;部人闕を叩きて碑を立て徳を頌するを請う、代宗之を許す。工部尚書に進み、汧国公に封ぜらる。
滑亳節度使の令狐彰将に死せんとし、表して勉を代と為さんことを請う、之に従う。勉鎮に居ること且つ八年、旧徳方重なるを以て、威さずして治まり、東諸帥の暴桀なる者皆尊憚す。田神玉死す、詔して勉に汴宋を節度せしむ、未だ行かず、汴将の李霊耀反す、魏将の田悦兵を以て来たり、汴を叩いて屯す、勉李忠臣・馬燧と合して之を討つ。淮西軍汴北に据り、河陽軍其の東に壁す、大将の杜如江・尹伯良悦と匡城に戦い、勝たず。壘を徙て霊耀と合す、忠臣の将軍李重倩夜其の営を攻め、河陽軍と合して噪く、賊陣せずして潰え、悦河北に走り、霊耀韋城に奔る、如江の禽と為る所となり、勉縛して以て献じ、闕下に斬る。既にして忠臣汴を専にす、故に勉滑臺に還る。明年、忠臣麾下に逐われ、復詔して勉をして治を汴に移さしむ。德宗立ち、就いて同中書門下平章事を加う。俄にして汴宋・滑亳・河陽等道都統と為る。
建中四年、李希烈襄城を囲む、詔して勉に出兵して之を救わしむ、帝又神策将の劉德信に兵三千を以て援接せしむ。勉奏言す、「賊精兵を以て襄城を攻め、而して許必ず虚ならん、兵を令して直ちに許を搗かば、則ち襄の囲解くべし」と。報を待たず、其の将の唐漢臣と德信をして許を襲わしむ、未だ数十里に至らざるに、詔有りて詰譲す、二将懼れて還り、扈澗に次り、設備せず、賊の乗する所と為り、殺傷什五、輜械尽く亡ぶ。漢臣汴に走り、德信汝に走る。勉東都の危きを懼れ、復兵四千を遣わして往き戍らしむ、賊其の後を断ちて帰るを得ず。ここにおいて希烈自ら将りて勉を攻め、勉気索え、嬰守すること累月、援至ること莫く、兵万人を裒して囲を潰して出で、東に睢陽を保つ。
勉少くして貧狹、梁・宋に客し、諸生と共に逆旅す、諸生病み且つ死せんとし、白金を出だして曰く、「左右知る者無し、幸いに君此を以て我が為に葬り、余は則ち君自ら之を取れ」と。勉諾す、既に葬り、密かに余金を棺の下に置く。後其の家勉に謁し、共に墓を啓き金を出だして之に付す。位将相に至り、得る所の奉賜、悉く親党に遺し、身没するも、贏蔵無し。其の朝廷に在りては、鯁亮廉介、宗臣の表と為る。礼賢下士終始有り、嘗て李巡・張参を引いて幕府に在らしむ、後二人卒す、宴飲に至るも、仍虚位を設け之に沃饋す。戍兵を遣わすに、常に其の資糧を視、春秋家室を存問す、故に能く人の死力を得。琴を鼓するに善く、自制する所有り、天下之を宝とす、楽家《響泉》・《韻磬》を伝う、勉の愛する者なり。
李夷簡
李夷簡、字は易之、鄭惠王元懿の四世孫なり。宗室の子を以て始め鄭丞を補す。德宗奉天に幸す、朱泚外に天子を迎うるを示し、使を遣わし東に関を出で華に至らしむ、候吏の李翼敢えて問わず。夷簡之に謂うて曰く、「泚必ず反す。向に幽・隴の兵五千を発して襄城を救わしむ、乃ち賊の旧部なり、是れ将に追還せんとす耳。上外に越え、天下の兵を召すも未だ至らず、若し凶狡還りて西し、泚を助けて死を送らば、危禍なり。請う之を験せん」と。翼馳せて潼関に及び、果たして召符を得、関の大将の駱元光に白す、乃ち賊使を斬り、偽符を収め、行在に献ず。詔して即ち元光を拝して華州刺史と為す。元光功を掠む、故に知る者無し。
夷簡官を棄て去り、進士第に擢で、抜萃科に中り、藍田尉に調う。監察御史に遷る。小累に坐し、下りて虔州司戸参軍に遷る。九歳、復た殿中侍御史と為る。元和の時、御史中丞に至る。京兆尹の楊憑性驁侻、始め江南觀察使と為り、財に冒没す。夷簡属刺史と為り、憑の礼せらるる所と為らず。是に至り其の貪を発す、憑臨賀尉に貶せられ、夷簡金紫を賜わり、戸部侍郎を以て度支を判す。
俄に検校礼部尚書・山南東道節度使と為る。初め、貞元の時、江西の兵五百を取って襄陽に戍らしめ、蔡の右脅を制し、度支に仰ぎ給す、後亡死略く尽き、而して歳に貲を取って置かず。夷簡曰く、「跡は空文、茍くも軍興せば、可ならんや」と。奏して之を罷む。三歳を閲し、帥を徙てて剣南西川と為す。巂州刺史の王颙奸贓を積み、蛮に属して怒り、叛き去る。夷簡颙を逐い、檄を占めて禍福を諭す、蛮落復た平ぐ。始め、韋臯奉聖楽を作り、于頔《順聖楽》を作る、常に之を軍中に奏す、夷簡輒ち廢し去り、礼楽は諸侯の擅に制す可きに非ずと謂い、其の属に語りて曰く、「我前人の非を蓋い、以て後に詒戒せんと欲す」と。
穆宗が即位すると、有司が廟號を議するにあたり、夷簡は建言して言う、「王者は功ある者を祖とし、徳ある者を宗とする。大行皇帝には武功あり、廟は祖と称すべきである」と。詔して公卿礼官に議させたが、合わず、止む。久しくして老いを請うたが、朝廷は夷簡の年齢体力は任に堪えると考え、聴かず、右僕射として召したが、辞して拝せず、再び検校左僕射兼太子少師とし、東都に分司させた。翌年卒す、年六十七、太子太保を贈られた。
夷簡は顕位に至り、直を以て自ら閑とし、嘗て苟も辞気を以て人を悦ばすことはなかった。三鎮を歴任し、家に産貲無し。病んで医を迎えず、終わらんとするに臨み、厚葬するなかれ、浮屠に事えるなかれ、神道に碑を立てるなかれ、ただ墓に識すのみでよいと戒めた。世間では己れを行うに終始有る者と謂う。
李程
李程、字は表臣、襄邑恭王神符の五世孫なり。進士宏辞に擢でられ、『日五色』の賦を作り、造語警抜、士流これを推した。藍田尉に調じ、県に滞獄十年有り、程は単言にして即ち判じた。京兆の状最たり、監察御史に遷る。召されて翰林学士となり、再び司勲員外郎に遷り、渭源県男の爵を受く。德宗季秋に畋に出で、寒色有り、左右を顧みて言う、「九月に猶衫を着、二月にして袍と為すは、時に順わず。朕月を改めんと欲す、何如」と。左右善しと称する中、程独り言う、「玄宗『月令』を著し、十月に始めて裘とす、改むべからず」と。帝は矍然として止む。学士が署に入るには、常に日影を視て候と為すが、程は性懶にして、日八磚を過ぎて乃至す、時に「八磚学士」と号す。
程は人と為り弁給多く智有り、然れども簡侻にして儀檢無く、華密に在りと雖も、重望無し。最も帝の遇する所と為り、嘗て言う、「高飛の翮は、長者前に在り。卿は朝廷の羽翮なり」と。武宗立ち、東都留守と為る。卒す、年七十七、太保を贈られ、謚して繆と曰う。
程の子 廓
子廓、進士に第し、累遷して刑部侍郎と為る。大中中、武寧節度使を拝すが、軍を治むること能わず。補闕鄭魯奏言して、「新麦未だ登らず、徐必ず乱る」と。既にして果たして廓を逐う、乃ち魯を起居舎人に擢づ。
李石
李石、字は中玉、襄邑恭王神符の五世孫なり。元和中、進士第に擢でられ、李聽の幕府に辟せられ、従って四鎮を歴任し、材略有り、吏と為りて精明なり。聽は征伐有る毎に、必ず石を留めて後務を主どらしむ。大和中、行軍司馬と為る。聽が兵を以て北に河を渡るに、石をして入奏せしむ、占対華敏、文宗之を異とす。府罷み、工部郎中に擢でられ、塩鉄案を判ず。令孤楚が河東を節度し、引きて副使と為す。入り遷って給事中と為り、累進して戸部侍郎となり、度支を判ず。
帝は李宗閔等が党を以て相排し、公に背き政を害するを悪み、凡そ旧臣は皆疑いて用いず、後出の孤立者を取って、懲刈せんと欲した故に、李訓等は宰相に至る。訓誅死せしめ、乃ち石を擢でて本官を以て同中書門下平章事と為し、仍って度支を領せしむ。石は器雄遠にして、軸に当たり権を秉るに撓む所無し。
是の時方に、宦寺気盛んにして、朝廷に陵暴し、毎に延英に対すに、仇士良等は往々訓を斥けて以て大臣を折る。石は徐に謂う、「京師を乱す者は訓・註なり、然れども其の進むは、孰か之が先を為したるか」と。士良等は恧縮して対するを得ず、気益々奪われ、搢紳は以て強しと為すを頼む。它日紫宸殿にて、宰相進みて陛に及ぶに、帝喟として嘆く。石進みて言う、「陛下の嘆き、臣固より未だ諭せず、敢えて問う所従を」と。帝曰く、「朕は治の難きを嘆く也。且つ朕即位して十年、治本を得ること能わず。故に前に発するに疾有り、今茲震擾す、皆自ら之を取る也。夫れ億兆の上に托りて、美利を以て百姓に及ぼすこと能わずんば、安んぞ久しく事無きを得んや」と。石曰く、「陛下己を罪するは当然なり、然れども治を責むるは太早し、十年孜々として徳を養うと雖も、適に爾るを成すのみ。天下治まるか治まらざるか、要は今より之を観る也。且つ人の気誌は、賢聖と雖も猶優劣有り、故に仲尼称す、『三十にして立ち、四十にして惑わず』と。陛下春秋少く、人間より起りしに非ずして、人情の偽を知る。今自ら視るに即位の時より何如」と。帝曰く、「間有り」と。石曰く、「古の聖賢は、必ず書を観て以て往行を考察し、然る後に治功を成す。陛下十年を積み、盛徳日新たなり、然れども向に疾戾震驚したる所以の者は、天其れ陛下の志を固くするか。誠に将来の政を修むるに務め、太宗の升平を致す期を視るも、猶お晩しと為さず」と。帝曰く、「之を行いて至るを得んや」と。石曰く、「今四海夷一、唯だ才良を登拔し、小大をして各其の職に任ぜしめ、人を愛し用を節し、国に余力有り、下に賦を加えず、是れ太平の術なり」と。
時に大臣新たに族死し、歳寒さに苦しみ、外情安からず。帝曰く、「人心未だ舒ばざるは何ぞ」と。石曰く、「刑殺甚だしければ、則ち陰沴を致す。比来鄭註多く風翔の兵を募り、今に至るまで誅索已まず、臣は縁りて以て変を生ずるを恐る、詔を下して之を慰安せんことを請う」と。帝曰く、「善し」と。又問う、「奈何ぞ太平を致すの難き」と。鄭覃曰く、「天下を治めんと欲せば、人を恤うるに若くは莫し」と。石即ち贊して曰く、「之を恤うるに術を得ば、尚お何の太平の難きか有らん。陛下用度を節し、冗食を去り、簿最も其の奸を措くこと得ざらしめば、則ち百司治まる。百司治まりて、天下安んず」と。帝は戚然として曰く、「我れ貞観・開元の時を思いて以て今日を視れば、即ち気吾が膺を拂う」と。石曰く、「治道は上に本づき、而下は敢えて率わざる無し」と。帝曰く、「然らず。張元昌は左街副使と為りて、金唾壺を用い、比来事に坐して之を誅す。吾聞く、禁中に金鳥錦袍二有り、昔玄宗温泉に幸し、楊貴妃と之を衣たり、今富人時に之を有す」と。石曰く、「毛玠は清徳を以て魏の尚書と為り、而して人敢えて鮮衣美食せず、況んや天子独り法と為すべからずや」と。
この時、宰相の吏卒は内変に因って多く死に、詔して江西・湖南に索募の直を助け士力を召募せしむ。石、建言す、「宰相は天子の左右にして教化を司る。もし正に徇いて私を忘るれば、宗廟の神霊、猶ほ之を佑けん。盗有りと雖も害無からん。もし奸を挟みて自ら欺き、権を植え党を結び、正直を害するが如くんば、之に防を加うるも、鬼以て誅すべし。召募に事とすること無く、請う直に金吾を以て衛と為さん」と。帝嘗て鄭覃に顧みて曰く、「覃老ゆ。当に妄り無かるべし。試みに我に諭せ、猶ほ漢の何等の主に比すべきや」と。覃曰く、「陛下は文・宣の主なり」と。帝曰く、「渠敢て是を望まんや」と。石、帝の志を強めて怠らざらしめんと欲し、因りて曰く、「陛下の問ひて覃の対ふる、臣皆以て非なりと為す。顔回は匹夫なる耳、自ら舜に比す。陛下は四海を有し、春秋富めり。当に前に得失を観、日を引き月を長じて、以て堯・舜に斉しくすべし。奈何ぞ文・宣に比し、而して又自ら及ばずと為さん。惟うに陛下其の志を開肆し、文・宣を以て自ら安んぜずんば、則ち大業済はん」と。
中人辺より還り、走馬して金光門に入る。道路妄に兵将に至らんとし、京師讙走して塵起り、百官或いは襪して騎す。臺省の吏稍々遁去す。鄭覃将に出でんとす。石曰く、「事未だ知る可からず。宜しく坐して其の定まるを須つべし。宰相走らば則ち乱る。若し変不虞に出でば、逃れて将に安くにか適かん。人の瞻る所、忽にす可からず」と。益々簿書を治め、沛然として平時の如し。里閭の群無頼、南闕を望み、陰に兵を持して変を俟つ。金吾大将軍陳君賞、衆を率いて望仙門に立ち、内使門を闔せんと趣くも、君賞従はず、日入りて乃ち止む。当に是の時に当たりて、石の鎮静、君賞の謀有るに非ざれば、幾くんぞ乱れん。
開成の赦令、京畿に一歳の租を賜ひ、方鎮の正・至・端午の三歳の献を停め、其の直を以て百姓の配緡に代へ、天下に非ざるは薬物茗果、他の貢は悉く禁ず。又宣索・営造を罷む。帝曰く、「朕其の実を務め、空文に事とせんと欲せず」と。石、異時の詔令、天子多く自ら之を踰ゆるを以て、因りて請ふ、「内に赦令一通を置き、以て時に省覧せしめ、臨みて十道の黜陟使を遣はし、政治の根本を敕し、使は長吏と之を奉行せしめ、乃ち病利を尽くさしむべし」と。
俄に中書侍郎に進む。帝嘗て曰く、「朕晋の君臣の夷曠を以て傾覆を致すを観る。当時の卿大夫過てるか」と。石曰く、「然り。古詩之れ有り、『人生百に満たず、常に千歳の憂ひを懐ふ』と。逢はざるを畏るるなり。『晝短くして夜長きを苦しむ』と。暗き時多きなり。『何ぞ燭を秉して遊ばざる』と。之に照すを勧むるなり。臣躯命を捐げて国家を済はんことを願ふ。惟うに陛下鑒照して惑はざらば、則ち人を安んじ国を強くする其れ庶からんか」と。又言ふ、「治を致すの道は人を得に在り。徳宗は猜貳多く、仕進の塗塞がり、奏請輒ち罷むるを報ぜられ、東省は闥を閉ぢ累月、南臺は唯一の御史のみ。故に両河の諸侯競ひて豪英を引き、利を喜ぶの士多く之に趨く。謀主と為すを用ふる故に、藩鎮日々に横はり、天子は為に旰食す。元和の間進用日々に広く、陛下嗣位し、惟だ賢を是れ咨り、士皆朝廷に在り。彼の疆宇甲兵は故の如くにして、低摧順屈するは、士之を助けざるなり」と。帝曰く、「天下の勢は猶ほ衡を持するが如し。此の首重ければ則ち彼の尾軽し。其れ我が為に博く士を選べ。朕将に之を用ひん」と。石奏す、「咸陽令韓遼、興成渠を治む。渠は咸陽の右十八里に当たり、左は直に永豊倉にし、秦・漢の故漕なり。渠成れば、咸陽より起り、潼関に抵る三百里、車挽の労無く、則ち轅下の牛尽く耕す可く、永く秦中に利有らん」と。李固言曰く、「然れども役其の時に非ざるを恐る。奈何」と。帝曰く、「陰陽を以て拘畏するか。苟も人に利有らば、朕奚をか慮はん」と。石、韓益を用ひて度支案を判ぜしむ。贓を以て敗る。石曰く、「臣本より益の財利を知るを以てす。其の貪を保たず」と。帝曰く、「宰相人を用ふるに、知れば則ち用ひ、過てば則ち棄つ。之を至公と謂ふ。他の宰相の用ふる所、強ひて其の過を蔽ふ。此れ其の私なり」と。
石の弟 福
弟福、字は能之。大和中、進士に第す。楊嗣復、剣南を領し、幕府に辟く。崔鄲、政を輔け、集賢殿大学士を兼ね、引いて校理と為す。藍田尉に調ふ。後、石国に当たり、福を薦めて治人に任ず可しとす。監察御史より戸部郎中に至り、累ねて州刺史を歴め、諫議大夫に進む。大中時、党項羌震擾す。議者、将臣の貪牟、虜の怨を産むを以てし、儒臣を択びて辺を治めしむを議す。乃ち福を授けて夏綏銀節度使と為し、宣宗軒に臨みて諭遣す。福、善政を以て聞こえ、徙めて鄭滑を鎮め、再び兵部侍郎に遷り、度支を判じ、出でて宣武節度使と為り、入りて戸部尚書に遷る。会ひて蛮蜀を侵す。詔して福に節を持して宣撫せしめ、即ち拝して剣南西川節度使、同中書門下平章事と為す。蛮と戦ひて敗績し、蘄王傅に貶せられ、分司東都と為す。
僖宗初、検校尚書左僕射を以て就きて拝し留守と為し、改めて山南東道節度使と為す。王仙芝、山南を寇す。福、郷兵を団訓し、険に邀へて之を須つ。賊敢て入らず、転じて岳・鄂を略し、以て江陵を逼む。節度使楊知温、福に援を求む。乃ち自ら州兵を将ひ、沙陀の壮騎五百を率いて之に赴く。賊已に江陵の郛を残し、而して福の至るを聞き、乃ち走る。労を以て検校司空、同中書門下平章事と為す。朝に還り、太子太傅にて卒す。
李回
李回、字は昭度、新興王徳良の六世の孫。本名は躔、字は昭回。武宗の諱を避けて改む。長慶中、進士第に擢でられ、又賢良方正異等に策し、義成・淮南の幕府に辟かれ、稍々監察御史に遷り、累ねて起居郎に進む。李徳裕雅く之を知る。人と為り強幹、蒞む所辦ならざる無し。職方員外郎より戸部案を判ず。四遷して中書舎人と為る。
會昌年中、刑部侍郎を以て御史中丞を兼ねる。時に劉稹を伐たんとし、武宗は河朔の列鎮が陰に相締り兵事を撓わすを慮り、德裕は回を薦めて節を持ち往きて何弘敬・王元逵を諭さしめ、「澤潞は京・洛に邇く、河北三鎮の如く国家が世を許し壤地を以て子孫に伝うる者に非ず。且つ稹父子は功無く、誼理に悖る。上は邢・洺・磁の三州を以て河北と境を比するを以て、軍を用うるに魏・鎮より便なるは莫し。且つ王師は山東を軽く出だすを欲せず、公等が三州を取って天子に報ぜんことを請う」と。二将は命を聴く。又張仲武は幽州の兵を以て回鶻を攻むるも、劉沔と協せず。回至りて大義を以て諭すに、仲武は釈然とし、即ち太原の軍と合して潞を攻む。復た回を以て使と為し、戦を督して蒲東に至る。王宰・石雄は櫜を負い道左に謁す。回は行を弛めず、左右を顧みて直史を呼び賊を破る限牒を責む。宰等は震恐し、六旬を期して潞を取らざれば則ち之に死せんとす。期に未だ及ばざること二日、賊平ぐ。戸部侍郎を以て戸部事を判ず。俄に中書侍郎・同中書門下平章事に進む。
武宗崩じ、山陵使と為り、門下侍郎に遷り、戸部尚書を兼ぬ。出でて劍南西川節度使と為る。德裕と善きを以て、吳湘の獄を決するに、時に回は中丞たり、糾擿せざるに坐し、湖南觀察使に貶ぜらる。俄に太子賓客を以て東都に分司す。給事中還制し、回を責むること薄しと謂ひ、遂に賀州刺史に貶ぜらる。撫州刺史に徙る。卒す。大中九年、詔して湖南觀察使を復し、刑部尚書を贈る。
【贊】
贊して曰く、周の卿士、周・召・毛・原は、皆な同姓の国なり。唐の宰相に宗室を以て進まるる者九人。林甫は奸諛にして、幾くんか天下を亡ぼさんとす。李程は和柔にして、位に在りて発明する所無し。其の余は材を以て職に称し、賢宰相と号す。秦・隋は親を棄て賢を侮り、皆な二世にして滅ぶ。周・唐は人を任じて疑わず、親親・賢を用うるの道を得て、国を饗くること長久なり。嗚呼盛なるかな。