裴漼
裴漼は、絳州聞喜の名族である。父の琰之は、永徽年間に同州司戸参軍となり、年は甚だ若く、曹務を主とせず、刺史の李崇義は内心これを軽んじ、諭して曰く、「同州は三輔の地、吏事繁雑なり、子は何ぞ便官を求めざる?此れに留まるなかれ」と。琰之は唯々とす。吏が積案数百を白すと、崇義は譲りて断じるを促がせしむ。琰之曰く、「何ぞ人を逼るに至らんや」と。乃ち吏に命じて紙を連ね筆を進めて省決せしむ。一日にして畢り、与奪理に当たり、而して筆詞勁妙なり。崇義驚きて曰く、「子は何ぞ自ら晦ますや、吾が過ちを成すや」と。ここによりて名一州に動き、「霹靂手」と号す。後に永年令となり、恵政有り、吏は石を刻みて美を頌す。倉部郎中にて病みて廃す。漼は疾に侍すること十余年、仕えんことを肯ぜず。琰之の没後、始めて明経に擢でられ、陳留主簿に調じ、監察御史に遷る。
時に崔湜・鄭愔は吏部を典とし、奸贓に坐し、李尚隠に劾せられ、詔して漼に按訊せしむ。而して安楽公主・上官昭容が阿右す。漼は正しく其の罪を執り、天下之を称す。累進して中書舎人となる。睿宗、金仙・玉真の二観を造る。時に旱甚だしく、役止まず。漼上言す、「春夏に大衆を聚め大役を起こすべからず、土功を興し農事を妨ぐべからず。若し役使度に乖けば、則ち疾疫水旱の災有り、此れ天人常に応ずる所なり。今冬より春に徂り、雨時に降らず、人心憔然として、出づる所を知らず。而して土木方に興り、時暵の孽、職として此れより発す。今東作雲始め、丁壮功に就く。妨ぐること多く益すこと少なく、飢寒漸く有り。『春秋』荘公三十一年冬、雨降らず、是の時に歳三たび台を築く。僖公二十一年夏、大旱す、是の時に南門を作す。陛下四方を念と為す、宜しく明制を下し、二京の営作・和市の木石を、一切停止せしむべし。もし農桑時に失い、戸口流散せば、寺観営立すと雖も、能く飢寒の敝を救わんや」と。報いず。兵部侍郎に遷る。銓総の労により、特にある子に官を授く。開元五年、吏部侍郎となり、士を甄抜すること多し。御史大夫を拝す。
漼は雅に張説と善し、説方に宰相たり、数たび之を薦む。漼は敷奏に長け、天子も亦自ら之を重んじ、吏部尚書に擢でらる。世に儉素たりしも、晩節稍々伎妾を畜い、奢侈の事を為す。議者以て缺と為す。太子賓客に改む。卒し、礼部尚書を贈られ、謚して懿と曰う。従祖弟に寛有り。
従祖弟 寛
寛は、性通敏にして、騎射・弾棋・投壺に工み、書記に略通ず。景雲中、潤州参軍事となる。刺史韋詵に女有り、帰す所の宜きを択ぶ。会ひて休日に楼に登り、人後圃に於いて瘞蔵する所有るを見る。諸吏に訪う。曰く、「参軍裴寛の居なり」と。与に偕に来る。詵状を問う。答えて曰く、「寛は義として包苴を以て家を汚さず。適た人鹿を以て餉とする有り、致して去る。敢えて自ら欺かず、故に之を瘞す」と。詵嗟異し、乃ち按察判官に引き、女を妻とすことを許す。帰りて妻に語りて曰く、「常に佳婿を求む、今得たり」と。明日、其の族を幃して之を観せしむ。寛時に碧を衣い、瘠せて長し。既に入る、族人皆笑い、「碧鸛雀」と呼ぶ。詵曰く、「其の女を愛すれば、必ず以て賢公侯の妻と為すべし、何ぞ貌を以て人を求むべけんや」と。卒に寛に妻せしむ。
抜萃に挙げられ、河南丞となり、長安尉に遷る。宇文融侍御史たり、天下の田を括り、奏して江東覆田判官と為す。太常博士に改む。礼部、忌日に廟を享するは楽を用うべしと建言す。寛自ら情を以て議を立てて曰く、「廟尊く忌卑しければ則ち楽を作し、廟卑しく忌尊ければ則ち備えて奏せず」と。中書令張説之を善し、寛の議の如くせんことを請う。刑部員外郎に遷る。万騎将軍馬崇、白日人を殺す。而して王毛仲方に貴幸を以てし、将に其の獄を鬻らんとす。寛固執して肯て従わず。河西節度使蕭嵩、表して判官と為し、兵部侍郎を歴る。宰相裴耀卿、江淮運を領し、倉を河陰に列ね、奏して寛を戸部侍郎と為し自ら副えしむ。吏部に遷る。出でて蒲州刺史となり、州久しく旱す。寛境に入れば輒ち雨ふる。河南尹に徙り、権貴に屈附せず、河南大いに治まる。金吾大将軍より太原尹を授かり、玄宗詩を賦して褒餞す。天宝初、陳留太守より范陽節度使を拝す。時に北平軍使烏承恩は虜の酋なり、中人と通じ、数たび賄を冒す。寛法を以て之を繩治す。檀州刺史何僧、生口数十を献ず。寛悉く之を帰す。故に夷夏感附す。
三載、安禄山を用いて范陽を守らしめ、寛を召して戸部尚書兼御史大夫と為す。裴敦復、海賊を平げて還り、功簿を広く張る。寛密かに其の妄を白す。会に河北の部将朝に入り、寛の政を盛んに誉め、且つ言う、華虜猶之を思うと。帝嗟賞し、眷倚厚く加う。李林甫其の遂に相たらんことを恐れ、又寛の李適之に善きを悪む。乃ち寛の語を漏らして以て敦復を激す。敦復は気に任せて疎なり、林甫を誠と為す。先ず是れ、寛は所善を以て敦復に請う。即ち其の言を白発せんと欲す。林甫之を趣す。敦復未だ聞かざるに、温泉宮に扈幸す。而して其の下の裨将程蔵曜・曹鑒自ら他事を以て台に系る。寛之を捕え按ず。敦復、寛の其の罪を致さんことを求むと謂い、遽かに金五百両を以て貴妃の姉に賂り、因りて事を得て帝に聞こゆ。ここによりて寛を貶して睢陽太守と為す。及び韋堅の獄起こり、寛復た親に坐し、安陸別駕に貶せらる。林甫、羅希奭を任じて李適之を殺さしむるに、亦た安陸を過ぎしめ、将に寛を怖殺せんとす。寛頭を叩きて哀を祈る。希奭乃ち去る。寛終に見殺さるるを懼れ、浮屠と為ることを丐う。許さず。稍々遷りて東海太守となり、馮翊に徙り、入りて礼部尚書と為る。卒す。年七十五。太子太傅を贈らる。
寛兄弟八人、皆明経に擢でられ、台・省・州刺史に任ず。雅に性友愛にして、東都に第を治め、八院相対す。甥侄も亦名称有り、常に鼓を撃ちて会飯す。其の政を為す務めて清簡、所蒞の人之を愛し、世皆其の宰相を得んことを冀う。天宝間旧徳を称するに、寛を以て首と為す。然れども仏に惑い、桑門と遊ぶを喜び、其の書を習誦し、老いて弥篤しと云う。子に諝有り。
諝、字は士明、明経に擢でられ、河南参軍事に調ず。性通綽にして、挙止煩わしからず。累遷して京兆倉曹参軍となる。虢王巨、表して襄・鄧営田判官に署す。母喪し、東都に居す。会に史思明乱る。山谷の間に逃る。思明故に寛の将たり、寛の旧恩を徳とし、且つ諝の名を聞き、捕騎を遣わし跡を獲て之を得る。喜び甚だし、之を「郎君」と呼び、偽りて御史中丞を授く。賊宗室を残殺す。諝陰に之を緩む。全活する者数百人。又嘗て賊の虚実を朝に疏す。事泄る。思明恨み罵り、危く死して免る。賊平ぐ。太子中允を除き、考功郎中に遷り、数たび燕見して事を奏す。
代宗が陝州に行幸した際、裴諝は徒歩で考功南曹の印を抱えて行在所に赴いた。帝は言った、「疾風に勁草を知る、果たして信ずるに足る」。御史中丞に用いようとしたが、元載に阻まれて退けられたため、河東租庸・塩鉄使に任じられた。時に関中は旱魃であり、諝が入朝して会計を報告すると、帝は便殿に召して問うた、酒の専売の利益は毎年どれほど出納するかと。諝は久しく答えなかった。帝が再び問うと、言った、「臣は考え事がございます」。帝が「何か」と問うと、諝は言った、「臣は河東より参りました。三百里を跋渉する間に、農民は愁嘆し、穀物や豆もまだ種を下ろしておりません。誠に陛下は元元(民)を軫念され、まず疾苦を訪ねられるものと存じますのに、しかるに臣に利を責められます。孟子は言われました、『国を治むる者は、仁義のみ、何を以て利を為さんや』と。故に敢えて直ちに対えなかったのです」。帝は言った、「公の言がなければ、朕はこのことを聞かなかったであろう」。左司郎中に任じ、しばしば政事を諮問された。載はこれを忌み、虔州刺史として出させ、饒・廬・亳の三州を歴任し、右金吾将軍を授けられた。
徳宗が新たに即位すると、刑名をもって天下を治め、百官は震服した。時に大行皇帝(代宗)の陵事が将に竣功せんとし、屠殺を禁じていたが、尚父郭子儀の家奴が羊を宰殺した。諝はこれを列挙して奏上した。帝は強禦を畏れざるとし、これを善しとした。或る者が言った、「尚父は社稷の功があり、どうして庇わないことがあろうか」。諝は笑って言った、「君の知るところではない。尚父は今まさに貴盛であり、上(皇帝)は新たに即位された。必ずや党附する者衆しと思われるであろう。今その細過を発して、権勢を恃まざることを明らかにするのだ。我は上には事君の道を尽くし、下には大臣を安んずる。これもまた良からぬことか」。
時に朝堂に別に三司を置いて庶獄を決し、争いを弁じる者は輒ち登聞鼓を撃った。諝は上疏して言った、「諫鼓・謗木の設けは、幽枉を通じ、直言を延ばすためのものである。今、詭猾の人が軽々しく天聴を動かし、繊微なことを争う。もしこのようであるならば、何を用いて吏治を行おうというのか」。帝はこれを然りとし、ここに悉く有司に帰した。諝は法吏が文を舞うこと、或いは宿怨を挟んで軽重を為すことを憎み、因って『獄官箴』を献じて諷した。善しとする者が誅されたことに連座し、閬州司馬に貶せられた。俄かに召されて太子右庶子となり、兵部侍郎に進み、河南尹・東都副留守に至った。凡そ五世河南に在ったが、諝は視事するに敢えて正処(正堂)に当たらず、寛厚和易を以て治め、人を贓罪で鞫かなかった。卒す。年七十五。礼部尚書を贈られた。
裴寛の弟の子、裴冑、字は胤叔。明経に挙げられ、李抱玉の鳳翔幕府を佐けた。意を得ず、謝して帰り、更に宣歙観察使陳少遊に従った。抱玉は怒り、劾奏して桐廬尉に貶した。時に李棲筠が浙西を観察し、幕府は皆一時の高選であった。判官許鳴謙は人を知る名があり、崔造及び冑を見て、これを器とし、棲筠に白いて冑を支使に取った。
代宗は宰相元載の権を怙ることを憎み、棲筠を召して御史大夫とし、以て相としようとした。棲筠は冑を引いて殿中侍御史とし、特に載に憎まれた。会に棲筠が卒すと、冑は喪を護って洛陽に帰った。人はこれを危ぶんだが、冑は屹然として沮惴しなかった。少遊が復た表して淮南観察判官とした。載が誅され、初めて刑部員外郎に拝され、宣州刺史に遷った。楊炎が国政を執ると、載の復讐を為し、憎む所の者を窮めて摭った。会に冑の部人が冑の雑俸を積んで贓とした。炎は員寓を遣わして蔓りに劾し峭く詆り、汀州司馬に貶した。稍々遷って京兆少尹となったが、父の名(不)のため拝せず、換えて国子司業とした。江西観察使に遷る。初め、李兼が嘗て南昌の卒千余人を罷め、その資稟を収めて月進としていたが、冑が白いてこれを罷めた。樊沢が襄州に徙ると、宰相が代わる者を議した。徳宗は雅に冑の才を記しており、遂に荊南節度使に拝した。
是の時、方鎮は争って下を剝ぎ恩を希い、重錦異綾を製し、名づけて貢奉とし、中使のある者は即ち悉く公帑を用いて歓を買った。冑はこれを持つに節有り、献餉の直は数金に過ぎず、宴労は三爵に止めた。是の時、武臣は多く粗暴な庸人であり、賓介を待するに礼を以てせず、少し意を失すれば則ち罪を以て中傷した。冑も亦その管記を劾斥した。世は冑の俗に流れたことを恨んだ。卒す。年七十五。尚書右僕射を贈られ、謚して成といった。
陽嶠
陽嶠、その先は北平の人、世々洛陽に徙る。北齊の尚書右僕射陽休之の四世の孫。八科に挙げられて皆中り、将陵尉に調され、累遷して詹事司直となった。長安年中、左右御史中丞桓彦範・袁恕己が争ってこれを御史に取ろうとした。楊再思は素より嶠と善く、その意が弾抨の事を楽しまざるを知り、彦範に語った。彦範は言った、「官の為に人を択ぶに、豈に情の楽むを待たんや。唯だ楽まざる者に固よりこれを与え、以て難進を伸べ、躁求を抑えるのだ」。遂に右臺侍御史とした。久しくして国子司業に遷る。嶠は資質謹飭で学を好み、後生を誘い勧め、講舎を修めることを喜び、人は善職と為した。
睿宗が立つと、尚書右丞に進んだ。時に都督府を建てることを議し、最も優れた吏を択んだので、故に嶠が涇州都督となった。議が罷むと、魏州刺史・荊州長史・本道按察使を歴任し、率ね清白を以て聞こえた。魏州人が嫠耳して闕下に請い、嶠を刺史とせんとしたので、再び魏を治めた。入朝して国子祭酒となり、北平県伯に封ぜられた。尹知章・範行恭・趙玄默を引いて学官とし、皆名儒の冠たり。生徒で遊惰の者は鞭楚を以て督するに至り、人はこれを怨み、夜に乗じて嶠を道中で毆った。事聞こえ、詔して毆る者を捕えて殺した。嶠は孤侄と子を均しく撫で、常に人に語って言った、「我は方伯の位に備わるが、心も亦昔時の一尉に過ぎぬ」。老いて致仕した。卒す。謚して敬といった。
宋慶禮
宋慶禮、洺州永年の人。明経に挙げられ、衛尉に補せられた。武后が詔して侍御史桓彦範に河北を行かせ、居庸・五回等の路を鄣断して突厥を支えさせ、慶礼を召して議し、その方略を見てこれを器とした。俄かに大理評事に遷り、嶺南采訪使となった。時に崖・振五州の首領が更相掠め、民は兵に苦しみ、使者が至れば輒ち瘴癘に苦しみ、敢えて往く者無かった。慶礼は身を以てその境に到り、首領に大誼を諭すと、皆仇を釈して相親しみ、州土は以て安んじ、戍卒五千を罷めた。監察・殿中侍御史を歴任した。辺事に習熟するを以て、河東・河北営田使に拝された。騎を善くし、日に数百里を馳せることができた。性、労苦に甘んじ、然れども興作を好み、塞に濱って阱を掘り兵を植え、以て虜の径を邀えた。議者はその事に切らざるを蚩った。稍々遷って貝州刺史となり、復た河北支度営田使となった。
初め、営州都督府は柳城に治した。奚・契丹を扼制する。武后の時、趙文翙が両蕃の情を失い、その府を攻めて残し、更に東漁陽城に治した。玄宗の時、奚・契丹が款附した。帝は故城に復た治そうとしたが、宋璟が固く争って不可とし、独り慶礼がその利を執り処した。乃ち詔して太子詹事姜師度・左驍衛将軍邵宏等とともに使と為し、築くこと裁に三旬にして畢った。俄かに営州都督を兼ね、屯田八十余所を開き、漁陽・淄青の没戸を追い抜いて旧田宅に還し、又商胡を集めて邸肆を立てた。数年を経ずして、倉廥充実し、居人は蕃輯した。卒す。工部尚書を贈られた。
慶礼は政を為すに厳しく、私少なく、吏は威を畏れて敢えて犯さなかった。太常博士張星は好巧自ら是とし、謚して「専」といった。礼部員外郎張九齢が申し駁して言った、「慶礼は国の労臣にして、辺垂に三十年在った。往きて営州に城し、士は才数千、甲兵強衛無く、期を指して往き、慮う所を失わず、遂に海運を罷め、歳儲を収め、辺亭晏然たり。その功推すべく、醜謚すべからず」。慶礼の兄の子辞玉も亦自ら闕に詣って訴えた。改めて謚して敬といった。
楊玚
玚始めて麟遊令となる。時に竇懐貞大いに金仙・玉直二観を営み、檄を以て畿内に嘗て逆人の貲を負へる者を取り、暴斂して以て費を佐けんとす。玚拒みて応ぜず。懐貞怒りて曰く、「県令にして大夫の命を拒むか」と。玚曰く、「論ずる所は民の冤抑なり、位の高下を何にか取らん」と。懐貞其の対を壮とし、為に止む。初め、韋后民二十二を丁限と為すを表し、敗るるに及び、有司其の課を追趣す。玚執へて不可とし、曰く、「韋氏国に当たり、擅に士大夫を擢げ、罪人を赦す、皆改めず、何ぞ独り已に寬げたる人を取りて重ねて其の租を斂めん。下を保つの宜しきに非ず」と。遂に止めて課せず、是に由りて名当世に顕る。
累ねて擢げられ侍御史となる。京兆尹崔日知貪沓にして法に背く。玚大夫李傑と謀りて之を劾挙せんとすれど、反って日知に先んじて構へらる。玚廷に奏して曰く、「肅繩の司、一たび恐脅に屈せられ、奸人の謀を開かば、則ち御史府廃す可し」と。玄宗之を直し、傑をして還りて視事せしめ、而して日知を逐ふ。
玚進みて御史中丞・戸部侍郎を歴任す。帝嘗て宰相大臣を召し天下の戸版を議す延英殿に、玚利病を言ふこと尤も詳なり、帝咨賞す。是に於て宇文融脱戸余口を検するを建つ。玚執へて便ならずとす。融方に貴く、公卿唵默唯唯すれど、独り玚抗議す。故に出されて華州刺史と為る。帝太山を封ずるに、楽工を山下に集む。喪に居る者も亦行に在り。玚苴绖を起して鐘律に和せしむるは、人情の堪ふる所に非ずと謂ふ。帝許し、乃ち免す。
入りて国子祭酒と為る。大儒王迥質・尹子路・白履忠等三人を表して国子に教授せしむ。詔有りて迥質を諫議大夫・皇太子侍読とし、履忠は老いて職に任ぜず、朝散大夫を拝して罷め帰らしめ、子路を弘文館に直さしむ。皆名有り。玚奏す、「有司帖試して明経を試み、大義を質さず、乃ち年頭・月尾・孤経・絶句を取り、且つ今『春秋』三家・『儀礼』を習ふ者は纔かに十二、諸家の廃るる日に無からんを恐る。請ふらくは平文を帖して以て学を存し、其の能く通ずる者に稍々優宦を加へ、孤学を奨励せん」と。之に従ひ、因りて詔して三家の『伝』・『儀礼』を以て出身する者は散官に任ぜずとし、遂に令を著す。生徒玚が為に頌を太学の門に立つ。
又言ふ、「古へ卿大夫の子弟及び諸侯歳貢の小学の異なる者を太学に入れ、礼楽に漸漬し、朝廷君臣の序を知り、品類を以て班し、師長を以て分ち、三徳四教、学成り然る後に之に爵す。唐興り、二監挙ぐる者千百数、当に選ぶべき者は十の二、考功覆校して以て第し、経明行修と謂ひ、故に多少の限無し。今考功天下の明経・進士を限りて歳百人と為す。二監の得る所幾ばくも無し。然らば則ち学徒官稟を費し、而して博士天禄を濫る者なり。且つ流外及び諸色仕ふる者歳二千、明経・進士を過ぐること十倍、胥史浮虚の徒、先王の礼義を毛とし、得て服勤道業の者と長短を挈き、軽重を絶つに非ず。国家庠序を啓き、化導を広くし、将に用ひて以て之を勧進せんとす。有司限約を為して以て之を黜退す。俊乂の朝に在らんことを望むは、難きかな」と。帝其の言を然りとす。再び遷りて大理卿と為り、疾を以て辞し、左散騎常侍に改む。卒す。年六十八。戸部尚書を贈り、謚して貞と曰ふ。
玚常に士大夫の古礼を用ふること能はざるを嘆き、其の家の冠・婚・喪・祭に因り、乃ち旧典に拠りて之が為に節文を為し、揖譲威儀、哭踴衰殺、違ふ者有らざりき。官に在りて清白、吏石を立て徳を紀さんことを請ふ。玚曰く、「事人に益有らば、史氏に名を書く足れり。碑頌の若きは、徒らに後人に碇石を作らしむるのみ」と。
玚の伯父誌操、頗る剛簡、未だ遇はざる時、『閑居賦』を著して自ら托し、常に曰く、「田十頃・僮婢十人を得、下には兄弟布粟の資有り、上は先公の伏臘に供するに足らば足れり」と。位終はりて司属卿・安平県男。玚の従父兄晏、『孝経』の学に精しく、常に手写すること数十篇、教ふ可き者に輒ち之を遺す。
崔隠甫
崔隠甫、貝州武城の人。隋の散騎侍郎儦の曾孫。褐を解き左玉鈐衛兵曹参軍に初め、遷り殿中侍御史内供奉。浮屠惠範、太平公主に倚りて人子女を脅す。隠甫状を劾すれど、反って擠さるる所と為り、邛州司馬に貶せらる。玄宗立ち、擢げられ汾州長史、河東道支度営田使を兼ね、遷り洛陽令。梨園弟子胡雛笛に善くし、寵有り、嘗て罪を負ひて禁中に匿る。帝他事を以て隠甫を召し、従容として指して曰く、「卿に就きて此人を丐はん」と。対へて曰く、「陛下臣を軽くして楽工を重んず。請ふらくは官を解かん」と。再拝して出づ。帝遽かに謝し、胡雛を与ふ。隠甫之を殺す。詔有りて死を貰はんとすれど、及ばず。隠甫に百縑を賜ふ。
孫佺奚に敗績す。隠甫を擢げて并州司馬と為し辺を護らしむ。会ふに兄逸甫疾甚だしきに及び、行に及ばず。詔して逗留を責め、下して河南令を除く。累ねて拝し華州刺史・太原尹、入りて河南尹と為る。三歳居り、進みて拝し御史大夫。初め、臺に獄無く、凡そ囚有れば則ち大理に繫ぐ。貞観の時、李乾祐大夫と為り、始めて獄を置く。是に由りて中丞・侍御史皆人を繫ぐことを得たり。隠甫故事を執り、諸獄を廃掘す。其の後囚の往来或は漏泄するを患へ、復た之を厨院に繫ぐと云ふ。臺中監察御史以下、旧より皆顕事を得て、承諮する所無し。隠甫始めて一切に帰稟せしめて乃ち行ふことを得しめ、忤意有る者は輒ち劾正し、貶絀する者多し。臺吏側目し、威名赫然たり。帝嘗て詔して外官の歳考を校せしむ。異時必ず委曲参審し、竟春未だ定まらず。隠甫一日朝集使を会し、詢ひ逮く実を検し、其の暮皆訖る。議者其の敏を服す。帝嘗て謂ひて曰く、「卿大夫と為り、天下以て称職と為す」と。
張説国に当たる。隠甫素より之を悪む。乃ち中丞宇文融・李林甫と与りて其の過を暴し、位に処すべからずとし、説賜罷せらる。然れども帝朋党を嫉み、其の官を免じ、母に侍らしむ。歳余り、復た大夫と為る。遷り刑部尚書、河南尹を兼ぬ。帝京師に還る。即ち拝し東都留守。累ねて清河郡公に封ぜらる。卒す。益州大都督を贈り、謚して忠と曰ふ。
初め、帝(玄宗)は隠甫を宰相にしようと思い、言った、「牛仙客と語り得る者なり、卿は常に会うか」と。答えて曰く、「未だなりません」と。帝曰く、「会うべし」と。隠甫は終に詣でず。他日また問う、答は初めの如し。帝は乃ち用いず。子弟或いは故を問う、答えて曰く、「吾れその人の微賎なるを以て之を軽んぜざるなり、その材は中人に及ばず、これと対すべけんや」と。隠甫の至る所、潔介自ら守り、吏治を明らかにし、在職において強正を以て称せられしという。
賛して曰く、厳挺之は宰相を拒み李林甫に見えんことを肯ぜず、崔隠甫は詔に違いて牛仙客に屈せず、誠に剛なる者か。二人これに坐して皆相たるを得ず、彼も亦おのおのその志を申べしなり。管夷吾が編棧を以てこれを諭す、誠に曲と直と相い函まざるかな。
李尚隠
尚隠は将作少監として橋陵を営み、高邑県男に封ぜらる。未だ幾ばくもせず、御史中丞に進む。御史王旭は権を招き、稍々制せられず、仇家その罪を告ぐ。尚隠窮治し、具に奸贓を得、仮借することなく、遂に罪に抵る。兵部侍郎に進む。俄に出て蒲州刺史と為る。浮屠の懐照なる者、自ら言う、母夢に日懐に入りて己を生むと、石を鏤めて験を著す。聞人馮待徵らその言を助けて実とす。尚隠妖妄を劾処し、詔して懐照を播州に流す。再び遷りて河南尹と為る。
尚隠は性剛亮にして、論議は皆心を披き誠を示し、事を処すること分明、下を禦うるに苛密ならず。尤も故実に詳練にして、前後の制令、誦記略として遺るること無し。妖賊劉定高夜に通洛門を犯す。尚隠素より覚えざるに坐し、左遷されて桂州都督と為る。帝使いを遣わして労して曰く、「卿の忠公なるを知る、然れども国法爾を須う」と。因りて雑彩百匹を賜いこれを遣わす。遷りて広州都督・五府経略使と為る。及び還るに、人あるいは袖に金を以て贈らんとす。尚隠曰く、「吾れ自らの性分易うべからず、人の知るを畏るるに非ざるなり」と。
王丘に代わりて御史大夫と為る。時に司農卿陳思問は属吏を引くこと多く小人、乾隠して銭穀す。尚隙その違を按じ、贓累鉅萬、思問は流死して嶺南に至る。尚隠を改めて太子詹事と為す。旬を閲ずして、戸部尚書に進む。前後更に揚・益二州長史・東都留守を歴り、爵は高邑伯。開元二十八年、太子賓客として卒す。年七十五、謚して貞と曰う。
尚隠三たび御史府に入り、輒ち悪吏を縄し、残摯を以て名を失わず、発する所当たり、素議重きに帰す。仕官嘗て過を以て謫せられず、惟だ幸臣を劾詆し及び小法に坐して左遷せらるるも、復た用いられ、循吏を以て終始すという。
解琬
解琬は魏州元城の人。幽素科に挙げられ、これに中り、調べて新政尉と為る。後、成都丞より事を奏して旨に称し、躐て監察御史を除かれ、喪を以て免ぜらる。武后琬の辺事に習えるを顧み、迫って西に追い羌夷を撫せしむ。琬因りて喪を終わることを乞う。后嘉みてこれを許し、詔して服除けて屯に赴かしむ。遷りて侍御史、烏質勒及び十姓部落を安撫し、功を以て擢て御史中丞、兼ねて北庭都護・西域安撫使と為る。琬は郭元振と善くし、宗楚客これを悪む。左授されて滄州刺史と為る。政を為すに大體を引き、部人順附す。