新唐書

巻一百二十九 列傳第五十四 裴崔盧李王嚴

裴守真

裴守真は、絳州稷山県の人、後魏の冀州刺史裴叔業の六世の孫である。父の諲は、隋の大業年間に淮安司戸参軍となった。郡の者楊琳・田瓚らが乱を起こし、官吏を脅迫して多くが死んだが、諲のみは仁愛のゆえに、賊がその配下に害を加えぬよう約束し、護送して故郷に還した。

守真は早く孤となり、母が喪に服すと、哀哭して憔悴しきった。進士に挙げられ、六科連続して及第し、累遷して乾封尉となった。寡婦となった姉を養うこと謹厳にして甚だしく、士人はその礼法を推した。永淳初年、関中が旱魃に見舞われると、俸禄をすべて姉と諸甥に与え、妻子は粗食で足りぬこともあった。

太常博士に任ぜられる。守真は儀礼典礼に通じ、時に才がその官にふさわしいと称された。高宗が嵩山に封禅を行おうとし、諸儒に射牲の事を議するよう詔した。守真が奏上して言うには、「古より郊祀して天地を祭るには、天子自ら牲を射る。漢の武帝が泰山に封禅した時は、侍中の儒者に射させ、帝は親しく行わなかった。今、礼を按ずるに、前日の明け十五刻に、宰人が鸞刀をもって牲を切り、質明に行事を行い、毛血は既に備わっており、天子が至り、玉を奠め酌献するのみである。今もし前祀の一日に牲を射れば、事に早すぎる。また当日にすれば、遅くて事に及ばぬ。漢ではまた天子が親しく行わず、古今で適する所が異なる。恐らく行うべからず」。この時、『破陣楽』『慶善楽』の二つの楽舞が入ると、帝は常に立って視、楽が終わるのを待って坐った。守真は併せて言う、「二舞は誠に祖宗の盛徳であるが、古より天子が立って観ることはない。化育し遺庇するは、誰か功のない者があろうか。鼓舞して別に厳奉を申し上げるべきではない」。詔して可とし、未だ行わぬうちに、帝が崩御した。大行の旧礼に在るものなく、守真は博士韋叔夏・輔抱素らと故事を討按し、情に称して文を作り、皆適宜を得た。時に人はその礼を得たことを服した。

天授年間、司府丞となり、詔獄を推覈して、多く裁きを恕し、数十姓を全免した。武后の旨に合わず、出されて汴州司馬となる。累遷して成州刺史となり、政は威厳を務めず、吏民ともにこれを懐いた。寧州に転じ、送る者千数に及び、境外に至っても尚止まなかった。長安ちょうあん年間に卒し、戸部尚書を贈られた。

子に子余・耀卿・巨卿あり。曾孫に行立あり。耀卿・巨卿は別に伝がある。

子余は継母に事えて孝を以て聞こえ、明経に中り、鄠尉を補う。時に同舎の李朝隠・程行諶は文法を以て称され、子余は儒を以て顕れた。或る人が長史陳崇業に優劣を問うと、答えて言う、「蘭と菊は異なる香り、何ぞ廃するものあらんや」。

景龍年間、左台監察御史となる。涇・岐に隋代の番戸の子孫数千家あり、司農卿趙履温が籍を奴婢とし、賜口に充てるよう奏上した。子余は言う、「官戸は恩をもってゆるされて番戸となり、且つ今また子孫である。これを抑えて賤とすべきか」。履温は宗楚客の勢いを頼み、朝廷で弁じたが、子余は執対して撓まず、遂にその議を詘せしめた。

開元初年、累遷して冀州刺史となり、政は恵み豊かで、人は恩有りと称した。入朝して岐王府長史となる。卒し、謚して孝と言う。時に程行諶は貞と謚された。中書令張説が嘆じて言う、「二つの謚は愧じること無からん」。子余は官に居て清く、家にあっては友愛し、兄弟六人、皆志行有りと云う。

行立は然諾を重んじ、兵学に法あり。母が亡くなると、泣血して幾らか身を毀した。軍功により累ねて沁州刺史を授かり、衛尉少卿に遷る。口上で民を治めんことを願い、一県を試みて自ら効を尽くすことを請う。河東令を除され、寛猛時に当たる。蘄州刺史より安南経略使に遷る。環王国の叛人李楽山がその君を廃そうと謀り、兵を乞いに来たが、行立は受けず、部将杜英策に命じて討ち斬らせ、その妻子を帰し、蛮人は悦服した。英策及び範廷芝は、皆谿洞の豪であり、軍に隷属していた。他の経略使は多く仮借し、暴恣に政を干したが、行立は密かにその罪を把り、これを貸し、自ら効を尽くすことを許した。故に英策の死力を得ることができた。廷芝は嘗て休暇を取り、久しく還らなかった。行立がこれを召し、約して言う、「軍法、日を逾ゆる者は斬る。異時にまた然らば、爾は且つ死すべし」。後に廷芝が期を逾え、行立は笞殺し、屍を範氏に還し、更に良き子弟を選んで代えさせた。ここにおいて威声風行す。桂管観察使に転ず。黄家洞の賊が叛き、行立はこれを討平した。俄かに桂仲武に代わって安南都護となる。功を立てることに鋭く、時にこれを謗られた。召還され、道中で卒す。年四十七。右散騎常侍さんきじょうじを贈られる。

崔沔

崔沔、字は善沖、京兆長安の人、後周の隴州刺史崔士約の四世の孫、博陵よりここに移った。純謹にして二言なく、親に事えて篤く孝、才章有り。進士に擢でられる。賢良方正に挙げられて高第となる。不中第の者が誹謗したので、武后は有司に命じて覆試させ、対策が益々巧みであったので、遂に第一となった。再び陸渾主簿を補い、入朝して吏部に調され、侍郎岑義が嘆じて言う、「君は今の郤詵なり」。左補闕に推薦される。性は舒遅、進止雍如たり、官に当たれば則ち正言し、詘することが得られない。睿宗が召して中書舎人を授けようとしたが、母が病み東都にいるのを忍びず去ることを固く辞し、侍することを求め、更に陸渾尉郭鄰・太楽丞封希顔・処士李喜を表して己の処に代わらせた。詔して虞部郎中に改め、俄かに検校御史中丞となる。太倉の粟を発し、苑囿の鳥獣への給与を減じて貧乏を賑うことを請い、人はその利に頼った。監察御史宋宣遠は盧懐慎と姻戚であり、これに恃んで法を弄んだ。姚崇の子彜は東都に留司し、賓客を通じ、賄賂を招いた。沔が按劾しようとすると、崇・懐慎が政を執っていたので、共に沔に史才有りと推薦し、著作郎に転じ、その権を去らせた。蓋しこれを憚ったのである。久しくして、太子左庶子となる。母が亡くなると、廬前で弔いを受け、賓客は未だ嘗て柩室に至らなかった。人に語って言う、「平生、至親に非ざれば堂に升り入謁せず。豈に存亡を以て礼を変えんや」。中書令張説がしばしばこれを称えた。服喪が終わり、中書侍郎に遷る。

玄宗は仙州が数度刺史を喪ったので、これを廃そうとした。沔は舞陽を治めるよう請うた。舞陽は故に樊噲の国なり、更めて樊州とすべしと。帝は納れず、州は遂に廃された。沔は既に得失を論ずることを好み、或る人が言う、「今、中書宰相は制を承け、侍郎はこれを貳すも、位を充たすのみである」。沔は言う、「百官は職を分ち、上下相い維り、以て至治を成す。豈に首を俯して禄を懐かんや」。凡そ詔勅曹事について、多く異同有り、説は悦ばず、出されて魏州刺史となる。雨潦が稼を敗ったので、沔は禁を弛めて民に便ならしめた。召還される。吏部十銓を分掌し、左散騎常侍を以て集賢修撰となり、秘書監・太子賓客を歴任した。

この時、太常が宗廟の籩豆を増やすことを議し、また喪服を増やそうとした。そこで卿の韋縚が座して籩豆を十二まで増やすことを請い、外祖父の服を大功とし、舅を小功とし、堂姨や舅・舅母を袒免としようとした。沔が言うには、「祭祀は最も重いものである。古には飲食する前に必ず厳かに献ずることを先とした。火を用いた調理がなかったので、毛血の薦めがあり、麹糵がなかったので、玄酒の奠めがあった。後世の王は酒醴や犠牲を作って馨香を致すようになり、それゆえ三牲・八簋・五斉・九献がある。神道は敬を主とし、備えることはできても敢えて廃することはない。備物とはいうものの、節制はそこに存する。鉶俎・籩豆・簠簋・尊罍の実(中身)は皆、周代の饌であり、その用は宴饗賓客に通じるが、周公は毛血・玄酒とともに先祖に薦めた。晋の盧諶の家祭礼では、薦めるものは皆、晋代の常食であり、古のもののみを用いることはしなかった。これは聖賢が文を変えてその情を通じさせたのである。しかし当時の飲食が祭に欠けてはならなかったことは、明らかである。国家の清廟の時享では、礼饌が具に設けられており、周の制であり、古の物が存する。園寢の上食では、時節の膳が備えられており、漢の法であり、他の珍味が極められている。職貢が来て祭り、遠方の物を致す。新しき物あれば必ず薦め、時令に順う。苑囿でみずから稼いで収めたもの、捜狩で親しく射当てたものは、薦めて後に食さないものはなく、誠敬を民に尽くす。このように至っているので、これ以上加えることはない。諸々の珍羞鮮物は、ただ有司に命じて悉く令に著せしめ、宜しきに因って薦めればよく、必ずしも籩豆を加えて不足を補う必要はない。大羹は古の食であり、古器に盛る。和羹は常の饌であり、時器に盛る。毛血は盤に盛り、玄酒は尊に盛る。時饌を薦めて古器を用いた例はなく、古の質から今の文へと、事を便にするためである。故に籩豆を加えても天下の美物を尽くすには足らず、これを朝廷に措くのは、ただ奢侈に近づくのみである。魯が桓公の廟の楹を丹に塗り、その桷を刻んだことを、『春秋』は非とした。班固は言う、『墨家は清廟より出ず、故に倹を貴ぶ』と。されば清廟は奢らず、昔からのことである。太常の請うところは、臣の安んじないところである。」

また太常が言うには、「爵が小さくて合わず、執持することが甚だ難しい。」沔が言うには、「礼には小を以て貴しとするものがある。爵を以て献ずるのがそれである。しかし今、制に及ばないのは、礼にあらず、有司の陋によるものである。失いに随って宜しきを制し、議を待たずして革むべきである。」また言うには、「礼は家の正しきに本づく。家が正しければ天下定まる。家は二つとすることができない。故に父は尊崇し、母は厭降する。それゆえ内服は斉斬、外服は緦麻とし、尊名を加えるも一等を過ぎず、これは古今変えざる道である。昔、辛有が伊川にき、髪を被って祭る者を見て、これより戎となることを知った。礼が先に亡ぶからである。近ごろ『唐礼』を制定し、舅の恩を推し広めた。故に弘道以来、国命が再び外姓に移った。本礼を以て亡びを験す、戒めざるべけんや!」この時、職方郎中の韋述・戸部郎中の陽伯成・礼部員外郎の楊仲昌・監門兵曹参そうしん軍の劉秩らの議は沔と合致し、また詔して中書門下に参裁させた。そこで宗廟の籩豆は座ごとに各六とし、姨や舅は小功、舅母は緦麻、堂姨は袒免とし、その余は旧制のままとした。

朝廷に疑議あるごとに、皆、諮問してそのまことを取った。卒す。享年六十七。礼部尚書を贈られ、謚して孝という。沔は倹約を自ら持ち、禄稟は宗族に随って散じ、居宅を治めず、嘗て『陋室銘』を作って志を表した。子の祐甫は宰相に至り、別に伝がある。

盧從願

盧從願、字は子龔。六世の祖の昶は、後魏に仕えて度支尚書となり、范陽より臨漳に徙った。故に從願は臨漳の人である。明経に擢でられ、夏尉となった。また制科に高第で挙げられ、右拾遺に拝され、監察御史に遷り、山南黜陟巡撫使となり、還って奏上して旨に称し、累進して中書舎人となった。

睿宗が立つと、吏部侍郎に拝された。吏選は中宗の後より綱紀が耗蕩し、從願は官に精力を注ぎ、偽りの牒や詭りの功を擿げ検して遺すところなく、銓総すること六年、平允をもって聞こえた。帝はこれを異とし、特にその一子に官を授けた。從願はその父の敬一を鄭州長史に贈ることを請い、制は可とした。初め、高宗の時、吏部で職に称する者は裴行儉・馬載であり、この時、從願と李朝隱が有名であった。故に「前に裴・馬あり、後ろに盧・李あり」と号した。

開元四年、玄宗は悉く県令を召して廷で策試し、考が下第の者を罷免した。從願は擬選が実を失したことに坐し、下遷して州刺史となった。政は厳にして簡であり、奏課は天下第一となり、宝書を以て労問し、絹百匹を賜った。召されて工部侍郎となり、尚書左丞・中書侍郎に遷り、工部尚書として東都留守となり、韋抗に代わって刑部尚書となった。数たび校考使を充て、昇退は詳確であった。

御史中丞の宇文融がまさに権勢を用い、括田戸の功を以て上下考とせんとしたが、從願は許さず、融はこれを恨み、密かに「從願は盛んに産を殖やし、良田数百頃を占む」と白した。帝はこれより彼を軽んじ、目して多田翁とした。後に相に用いようと屡々したが、終にこの故に止んだ。十八年、再び東都留守となり、子の起居郎の論が官に糴を輸して利を多く取ったことに坐し、絳州刺史に貶され、太子賓客に遷った。二十年、河北に饑饉があり、詔して宣撫処置使とされ、倉廥を発して饑民を賑った。使い還り、骸骨を乞い、吏部尚書を授けられて致仕し、全禄を終身に給された。卒す。益州大都督ととくを贈られ、謚して文という。

李朝隱

李朝隱、字は光國、京兆三原の人である。明法に中第し、臨汾尉に調され、擢でられて大理丞となった。武三思が五王を構え、侍御史の鄭愔がこれを誅することを請うたが、朝隱は独り「鞠実を経ずして、軽々しく法を用うべからず」とし、旨に忤い、嶺南の醜地に貶された。宰相の韋巨源・李嶠が中宗に言うには、「朝隱は素より清正であり、一日にして遠く逐われれば、天下を駭かす恐れあり」と。帝は更めて聞喜令とした。

侍御史・吏部員外郎に遷った。時に政は権幸より出で、両省に関せず内に官を授け、ただその状を斜封して中書に付し、即ち所司に宣した。朝隱は千四百員を執って罷めしめ、怨誹歓騰したが、朝隱は胖然として避屈しなかった。長安令に遷り、宦官の閭興貴が何か請うところあり、曳き去った。睿宗は嘉嘆し、後に承天門に御し、百官及び朝集使に対しその能を褒諭し、遍く聞かしめた。太中大夫一階を進め、中上考・絹百匹を賜い、剛烈を旌した。成安公主が民の園を奪い、直(値)を酬いなかったので、朝隱は主の奴を取って杖ちた。これにより権豪は斂んで伏した。執政に擠まれて出で、通州都督となり、絳州刺史に徙った。開元初め、吏部侍郎に遷り、銓叙は明審で、盧從願とともに一子に官を授けられた。久しくして、県令の策試に下第あるを以て、滑州刺史に降り、同州に徙った。玄宗が東幸し、召見して慰労し、衣・帛を賜った。河南尹に擢でられ、政は厳清で、奸人は息むことを許さなかった。太子の舅の趙常奴が勢いに怙って閭裏に横暴であったので、朝隱は言うには、「これを糺さねば、政と為すべからず」と。執えて搒辱し、帝は書を賜って慰勉した。

召されて大理卿となる。武強県令裴景仙が贓物五千匹を乞い、逃亡した。帝は怒り、詔を下してこれを殺せと命じた。朝隠は言う、「景仙は、その先祖の寂に国功があり、載初の時、家は酷吏に破られ、誅殺され尽くしたが、景仙のみが生き残った。かつ嫡子を継いでいる。法によれば請願すべきである。また乞い取った贓物には死罪に相当する例はなく、仮に死罪に当たるとしても、なおこれを宥し、私廟の祭祀に餓えた魂なからしめるべきである」と。帝は許さず、固く請うて言う、「生殺の権は、人主がこれを専有する。条項を分けて軽重を定めるのは、有司が守るべきことである。かつ贓物は枉法のみが死に抵る。今、乞い取った贓物で即座に斬るならば、後に枉法があっても、さらに何を加えようか。また近く徳音を発し、杖刑は減ずることを聴き、流刑には行程を与えている。どうして景仙一人だけが常法を超えようか」と。詔があり、杖百を決し、嶺南に流す。

朝隠はさらに岐州刺史に任ぜられ、母の喪で解任される。召されて揚州大都督府長史となるが、固く辞し、聞き入れられた。時に年は既に衰えていたが、孝に篤く、自ら毀瘠に至り、士人はこれを難事と見なした。翌年、詔書で揚州への就職を促して遣わされる。還って大理卿となり、金城伯に封ぜられ、崔隠甫に代わって御史大夫となる。天下はその素望ありとし、大夫が欠けるたびに、朝隠が得ることを望んだ。職に就くと、大綱を争って引き立てず、ただ細事を先にした。これにより名声はやや衰えた。太常卿に進み、嶺南采訪処置使として出向し、広州を兼ねて判ずる。官において卒す。吏部尚書を追贈され、官が車と槨を与えて北に還され、貞と諡される。

王丘

王丘、字は仲山、同皎の従子である。父の同晊は、太子左庶子に終わる。丘は十一歳で童子科に擢でられ、他の童子は皆専ら経書を学んだが、丘のみは文を属し、これにより名を知られる。冠すると、制科に挙げられて及第し、奉礼郎を授かる。気象は清古、行いは修潔、詞賦において特に高かった。族人の方慶および魏元忠が更にこれを推薦し、偃師主簿から監察御史に擢でられる。

開元初め、考功員外郎に遷る。考功は往時多く請託があり、進む者は濫りに冒し、歳に数百人に及んだ。丘は実材を核することを務め、登科はわずか百人に満たず、議者は武后からこの時まで数十年、采録の精明は丘に比ぶるものなしと言う。その後、席豫・厳挺之も称えられたが、丘の下に出た。紫微舎人・吏部侍郎に遷り、選挙を掌り、再び平允と号された。その奨用したところ、山陰尉孫逖・桃林尉張鏡微・湖城尉張晋明・進士王泠然などは、皆一時の茂秀であった。久しくして、黄門侍郎となる。

時に山東が旱魃と飢饉に見舞われ、中朝の臣を刺史とする議が起こり、制詔に、「皐陶が称える、『人を知るにあり、民を安んずるにあり』と。皆邦本を存することを念い、朝に乾き夕に惕み、一日も忘れぬ。今、長吏あるいは未だ称せず、蒼生をいかんせん。循良を深く思い、頽敝を革むべし。刺史の選を重んずるは、朝廷より始むべし」。そこで丘と中書侍郎崔沔らを並びに山東の刺史とする。丘は懐州を守り、特に清厳で、下僚に畏れ慕われた。召されて吏部選を掌り、尚書左丞に改め、父の喪で解任される。喪が明け、右散騎常侍となり、なお制誥を掌る。裴光庭が卒すと、蕭嵩は丘と親しく、これとともに国政を執らせようとしたが、丘は固く辞し、韓休の行能を盛んに推挙した。休が政を執ると、御史大夫に推薦される。丘は言に訥であり、上奏した事柄は帝に多く喜ばれず、太子賓客に改められ、父の封を襲う。病により礼部尚書に移り、致仕する。

丘は華やかな要職を歴任したが、守るところは清約で、一度も贈賄を通じず、家屋・童子・騎乗は粗末で、老いてからは、薬餌すら自ら給することができなかった。帝はこれを嘆き、古人の節操があるとして、制を下して全禄を与え、清潔な吏を表彰した。天宝二年に卒す。荊州大都督を追贈され、文と諡される。

厳挺之

厳挺之、名は浚、字をもって行い、華州華陰の人である。少より学を好み、姿質は軒昂で秀でていた。進士に挙げられ、併せて制科に擢でられ、義興尉に調ぜられ、材吏と号された。姚崇が州刺史であった時、これを異とした。崇が執政すると、右拾遺に引き立てる。

睿宗は音律を好み、聴くごとに倦みを忘れた。先天二年正月の望の夜、胡人の婆陁が百千の灯を燃やすことを請い、門禁を弛め、また元年の酺を追って賜う。帝は延喜門・安福門に御して縱観し、昼夜休まず、一月を閲しても止まなかった。挺之上疏して諫め、以爲く、「酺とは人の利に因り、醵金して歓をなすもので、靡敝させぬものである。今、衣冠を暴し、伎楽を羅列し、鄭・衛の音を雑え、倡優の玩びを縱にし、深く戒慎せず、有司に跛倚せしめ、下人は劇務に罷弊し、府県・里閻は賦を課するに苛厳で、道路に呼嗟し、家産を貿い壊し、百戯を営み、方春の業を擾乱する。その楽しみを同じくせんと欲して、かえってこれに患いを遺す」と。そこで「五不可」を陳べ、誠意忠到であり、帝はこれを納れた。

侍御史任正名は風憲を恃み、廷中に至って衣冠を責め罵った。挺之はその不敬を譲ると、かえって弾劾され、万州員外参軍事に貶ぜられる。開元中、考功員外郎となり、累進して給事中となり、貢挙を掌り、時に平允と号された。時に杜暹・李元紘が相となり、互いに仲が良くなかった。暹は挺之と親しく、元紘は宋遙と親しかった。遙は中書舎人に用いられる。遙が吏部の判を校すると、取舍が挺之と異なり、元紘に言上した。元紘はたびたび詰問し責めた。挺之は厲言して曰く、「公は相国の位にありながら、愛憎をかえって小人に任せるのか」と。元紘曰く、「小人とは誰か」と。曰く、「宋遙である」と。これにより登州刺史として出され、太原少尹に改める。

初め、殿中監王毛仲が節を持って太原・朔方に至り兵馬を籍した。後数年を経て、なお太原に移り兵仗を取ろうとしたが、挺之は応じようとせず、かつ毛仲は寵幸を受け、久しくすれば変ありと恐れ、密かに帝に啓上した。やがて濮・汴二州刺史に改め、治めるところは皆厳威で、吏は重足して息を脅かした。時に毛仲が敗死すると、帝は挺之の言が忠であるとして、召して刑部侍郎とし、太府卿に遷す。

宰相張九齢は平素よりこれを知り、尚書左丞に用いて吏部選を掌らせた。李林甫は九齢とともに政を輔けたが、九齢がまさに君の信任を得ているので、これに諂い事えたが、内心は実は良しとしなかった。戸部侍郎蕭炅は、林甫が引き立てた者で、書を知らず、かつて挺之と語り、蒸嘗伏臘を称して、「伏獣」と言った。挺之は九齢に白状して言う、「省中に伏獣侍郎ありや」と。そこで炅を岐州刺史として出し、林甫はこれを恨んだ。九齢は挺之を引き立てて政を輔けさせようとし、林甫を謁わせようとしたが、挺之は正を負い、その人となりを陋しみ、凡そ三年、公事でなければ訪れず、林甫はますます怨んだ。時に挺之が蔚州刺史王元琰に何かを依頼したことがあり、林甫は人を使ってその言葉を禁中に暴露させ、洺州刺史に左遷し、絳州に移す。

天宝初め、帝は林甫を顧みて言う、「厳挺之はどこにいるか。その材は用いることができる」と。林甫は退いてその弟の損之を召し、旧交を語り、諄諄として款曲にし、かつ美官を許し、因って言う、「天子は絳州を厚く見ている。要は事を以て自ら解き帰り、上に謁し得れば、かつ大用されるであろう」と。そこで挺之を欺いて病気と称させ、京師に就医を願わせた。林甫は既に奏上を得ると、即座に言う、挺之は春秋高く、病あり、閑官を得て自ら養うことを幸いとすべきだと。帝は恨み咤すること久しく、そこで員外詹事とし、詔して東都に帰らせる。挺之は鬱々として病となり、自ら文を作って墓誌とし、遺令して薄葬を命じ、時服をもって斂める。

挺之は交遊を重んじ、生死を許与して易えず、故人の孤女数十人を嫁がせ、当時これを重んじられた。しかし志を仏に溺らせ、浮屠の恵義と親しく、義が卒すと、衰服してその喪を送り、やがて自らその塔の左に葬った。君子はこれを偏りと見なした。子に武がある。

武は字を季鷹という。幼少より豪放磊落であった。母の裴氏は挺之に寵愛されず、ただ妾の英を厚遇した。武が八歳の時、怪しんで母に問うと、母はその故を語った。武は奮然として鉄槌を手に英の寝室に赴き、その頭を砕いた。左右の者が驚いて挺之に告げて曰く、「郎君が戯れに英を殺しました。」武は言い訳して曰く、「大臣たる者が妾を厚くして妻を薄くするなどありえようか、児は故にこれを殺したのであり、戯れではない。」父はこれを奇とし、曰く、「真の厳挺之の子なり。」しかし幾度も戒めた。武は書を読むもその義を深く究めず、蔭官により太原府参軍事に任じられ、累進して殿中侍御史となった。玄宗に従ってしょくに入り、諫議大夫に抜擢された。至徳初年、粛宗の行在に赴き、房琯がその名臣の子であることを以て、給事中に推薦した。長安を収復した後、京兆少尹に任じられた。房琯の事に連座して巴州刺史に貶せられた。久しくして、東川節度使に遷った。上皇が剣南を合わせて一道とすると、武を成都尹・剣南節度使に抜擢した。還って京兆尹に任じられ、二聖山陵橋道使となり、鄭国公に封ぜられた。黄門侍郎に遷った。元載と厚く結び、宰相を求めたが遂げず、再び剣南を節度した。当狗城において吐蕃七万の衆を破り、遂に塩川を収めた。検校吏部尚書を加えられた。

武は蜀にあって頗る放肆であり、費用に節度なく、或いは一言の悦びに、賞が百万に至った。蜀は富饒と号せられながらも、峻しく掊斂し急に徴収したため、里巷は空となり、然れども虜も敢えて境に近づかなかった。梓州刺史の章彜は初め武の判官であったが、小さな憤りによってこれを殺した。房琯は故宰相として巡内の刺史であったが、武は傲慢で礼を為さなかった。最も杜甫を厚遇したが、然しながら杜甫を殺そうとしたことも数度あった。李白が『蜀道難』を作ったのは、房琯と杜甫の危うきを為したのである。永泰初年に卒した。母は哭き、且つ曰く、「今より後、我れ官婢となることを免るるを知る。」年四十、尚書左僕射を贈られた。

挺之の従孫に綬がいる。綬の父の丹は、嘗て剣南塩鉄・青苗・租庸使となったが、武が蜀にいることを以て、辞して拝命しなかった。綬は進士第に擢第し、侍御史として劉贊の副となり宣歙団練使となった。劉贊が卒すると、綬は留事を総べ、庫物を悉く献上し、召されて刑部員外郎となった。賓佐が進奉するのは綬に始まる。

河東節度使の李説が病むと、軍司馬の鄭儋がその政を総べ、李説が卒すると、代わって節度使となった。時に徳宗は姑息を務め、方鎮において若し帥が死すれば、他に命ぜず、即ち軍司馬を用いて代え、以て衆情を和らげ満足させた。ここに至り、帝は頗る綬の献上した物を思い出したので、故にこれを河東司馬に抜擢した。明年、鄭儋が卒すると、即ち検校工部尚書となり、その使を代わった。憲宗が立つと、楊惠琳が夏州に反し、劉辟が蜀に反した。綬は建言して曰く、「天子始めて即位せられ、威を失うべからず、必ず誅すことを請う。」鋭兵を選び、大将の李光顔を遣わして賊討伐を助けさせた。二賊が平定されると、検校尚書左僕射となり、扶風郡公に封ぜられ、司空しくうに進んだ。鎮に在ること九年、寛恵を尚び、治績が流聞され、士馬は孳息した。嘗て大閲を行い、旗幟は七十里に周り、回鶻の梅録将軍が会に在り、金鼓の震動を聞いて伏した。入朝して尚書右僕射となった。

綬は既に名門の子孫であり、吏事について方略があったが、然しながら鋭く進取を求めたため、平素の評判は薄かった。初めて廊下食に就いた時、百官の上に在ったが、帝が中人に命じて含桃を賜わると、綬はこれを見て拝した。御史に弾劾奏上され、綬は慚懼して待罪した。詔して綬を釈放し、中人を貶した。出されて荊南節度使となり、鄭国公に封ぜられた。

漵州蛮の張伯靖が吏を殺し、辰州・錦州を占拠し、九洞を連ねて自らを固めると、詔して綬に進討させた。綬は兵を率いて出陣し、将を遣わして檄を携え開導させると、群蛮は悉く降った。呉元済が反すると、皆が綬は明恕にして大事を為し得るとし、乃ち山南東道節度使に遷し、淮西招撫使を加えた。綬は師を率いて賊境に圧し、多く金帛を出して士卒を賞し、厚い賂りをもって中人に謝し、声援を招いたが、既に賊を制する術なく、屯を閉じて一年を満たしても戦わなかった。宰相の裴度は綬を将才にあらずと謂い、太子少保として召還し、検校司徒しと、光禄卿事を判じ、少傅に進めた。卒す。年七十七、太保を贈られた。

綬の才は中人を超えず、然れども三鎮を歴任し、奏辟した者及び綬の時に位して将相となった者は九人である。初め、綬が未だ顕れざりし時、閿郷尉の李達を訪れたが、李達は礼をせず、丁度他の客と食事中で、綬を召さなかった。後に李達が彭城令を罷め、へい州を過ぎた時、朝に入って謁見したが、綬であることを知らなかった。綬が丁度大いに賓客を宴しているところに、李達を召し至らせ、客に戒めて起つなからしめ、譲って曰く、「我れ昔閿郷に羈旅せし時、君は丁度客を召して食し我を顧みず、今我れ客を召すも敢えて君を留めず。」李達は慚じ、去るを得ず、左右の者が引出すと、悸えて声を失い、館に臥すること数月、その佐の令狐楚が請うて、乃ち免れた。

河東の李進賢という者は、畜牧を善くし、家は高資であり、綬に寵愛され、牙門将に署された。元和年中、進賢は累ねて振武節度使となり、綬の子の澈を判官に辟召した。澈は年少で、苛酷な治め方をし、軍中これを苦しんだ。回鶻が辟鶈泉に入ると、進賢は兵を発してこれを討ち、吏が糧食を実の如く支給せず、鳴砂に次ぐと、その将の楊遵憲を焚殺して還った。進賢は大いに怒り、衆は懼れ、因って城門を焼き、進賢を攻めた。左右拒戦して勝たず、縋って去り、靖辺軍に奔った。乃ち澈を殺し、進賢の家を屠った。詔して夏綏銀節度使の張煦を以てこれに代え、乱の首魁数百人を誅して乃ち定まった。