許潘倪席齊
蘇向
蘇向は雍州藍田の人である。明経に及第し、鄠尉に任ぜられた。時に李義琰が雍州長史となっており、鄠では訴訟が多く、日々長史府に至ったが、恦は裁決が明快で、これより訴える者は無くなった。義琰はこれを異とし、庁事を見て言うには「この公の座なり、恨むらくは吾が齢遅く、及ばず見るに」と。
垂拱初め、監察御史となる。武后が韓王・魯王ら諸王を殺し、向に密牒を付して按問させたが、向はこれを推問して罪状無しとした。或る者が向が韓・魯を助けたと言うので、后が詰問すると、挺然として議論し屈せず、后は悦ばずして言うには「卿は大雅の士なり、この獄は卿に委するに足らず」と。即ち詔して河西を監軍させた。五遷して右司郎中となる。御史王弘義は来俊臣に附いて酷吏となり、世は畏れ憎み、敢えてその鋒に触れる者無し。時に虢で材木伐採を監督し、督促が過程を過ぎて笞打ち、多く死ぬ者があったので、向が按奏し、弘義は坐して免官となる。給事中に遷り、左粛政臺御史大夫に進む。后が白司馬阪に大像を営み、費用は億を数えたので、向上疏して切に諫め、容れられた。
中宗が韋月将を斬らんとすると、向は時令を執り据えて大戮すべからずとし、三思の意に忤い、右臺に改められ、俄かに出て岐州刺史となる。復た右臺大夫となる。時に節湣太子が敗れ、詔して支党を株索す。時に睿宗は藩に居り、獄辞に牽連して逮えられたが、向は密かに啓して保辯し、また宰相が開陳したこととも会い、帝は感悟し、多く含み貸した。戸部尚書に擢でられ、河内郡公に封ぜられる。検校太子詹事を以て致仕す。卒す、年八十一、贈兗州都督、謚して文という。
子の晋は、数歳にして文を作ることを知り、『八卦論』を作ると、吏部侍郎房潁叔・秘書少監王紹宗は嘆じて言うには「後の王粲なり」と。進士及び大礼科に挙げられ、皆上第となる。先天中、中書舎人となる。玄宗が監国する時、下した制命は多く晋及び賈曾の稿である。屡々讜言を献じ、天子嘉して允す。出て泗州刺史となり、向が老いたことを以て、職を解き奉養を請う。向が卒すると、戸部侍郎を歴任し、爵を襲い、吏部に遷る。時に宋璟が尚書事を兼ね、晋と斉浣とが更に二都の選を典し、糊名校判を為したが、晋は独り賞抜を事とし、当時これを誉めた。裴光庭が尚書を知るに及び、過官して却けられたる者は、就いて籍に朱を以て点頭するのみであった。晋は因りて選院に榜して「門下に点頭する者は更に擬す」とし、光庭は己を侮ると思い、晋を出して汝州刺史とする。魏州に遷り、終に太子左庶子となる。
初め、晋は洛人の張循之・仲之兄弟と善くし、而して二人は学問で顕れた。循之上書して武后に忤い、殺された。仲之は神龍中に武三思を除かんと謀り、宋之愻らに発覚され、死す。晋は厚くその子の漸を撫で、婚宦を営む。晋が卒すると、漸は喪に服すること諸父の如くであったという。
尹思貞
尹思貞は京兆長安の人である。弱冠にして明経に及第し、隆州参軍事に任ぜられる。属邑の豪族蒲氏が驁肆で法に従わず、州は思貞に檄してこれを按問させ、その奸贓を擿して万を数え、遂に死を論じ、部人は慶び、石に刻んで嘆頌した。明堂令に遷り、善政を以て聞こえる。殿中少監に擢でられ、検校洛州刺史となる。時に契丹の孫万栄乱れ、朔方は震驚したが、思貞は境内を循ね撫でて、独り擾乱無し。武后は璽書を以て褒め慰めた。
長安中、秋官侍郎に遷り、張昌宗の意に忤い、出て定州刺史となる。召されて司府少卿を授かる。時に卿の侯知一も亦威厳を厲し、吏は語を作って言うには「侯卿の杖を畏れず、只だ尹卿の筆を畏る」と。銀青光禄大夫を加えられる。その家が地を坎ると、古い戟十二本を得、俄かに門に戟を樹つ、時人はこれを異とした。
神龍初め、大理卿に擢でられる。雍人の韋月将が武三思の大逆を告げると、中宗は命じてこれを斬らんとしたが、思貞は方に発生の月と為すを以て、固く奏して不可とし、乃ち杖を決し、嶺南に流す。三思は所司に諷して法を加えて殺させようとしたが、復た固く争い、御史中丞李承嘉が三思を助け、而して他事を以て思貞を劾し、謁することを得させなかった。思貞は承嘉に謂うには「公は天子の為に法を執るなり、乃ち威福を擅にし、憲度を慢にし、奸臣に諛附して不軌を図る、今将に忠良を除きて自ら恣にせんとするか」と。承嘉は慚怒し、思貞を劾し、青州刺史と為す。或る人が問うて曰く「公は行い敏なり、何ぞ承嘉と弁せん」と。答えて曰く「石は能く言う者に非ざるも、而して或いは言う者有り。承嘉は権を恃んで吾を侮る、義辱しめず、亦言の何れより至るかを知らず」と。州を治めて績有り、蚕は年に四熟に至り、黜陟使路敬潜が部に至り、嘆じて曰く「是れ善政の祥を致すに非ずや」と。表してこれを言う。
睿宗立ち、召されて将作大匠を授かり、天水郡公に封ぜられる。僕射竇懐貞が金仙観・玉真観の造営を護り、広く夫匠を調発したので、思貞は数々損節した。懐貞がこれを譲ると、答えて曰く「公は輔臣なり、王化を宣贊する能わず、而して土木を興こし、以て上に媚び下を害し、又小人の譖を聴きて以て廷に士を辱しむ、今公に事うる可からず」と。乃ち衣を払って去り、門を閉じて罪を待つ。帝これを知り、特詔して視事せしむ。懐貞誅され、御史大夫に拝され、累遷して工部尚書となる。致仕を請い、許される。開元四年卒す、年七十七、贈黄門監、謚して簡という。思貞は前後十三郡の刺史と為り、その政は皆清最を以て聞こえた。
畢構
畢構は字を隆擇といい、河南偃師の人である。六歳にして文を作る能くした。冠に及び、進士に擢でられ、金水尉を補し、九隴主簿に遷る。親の喪に居り、毀瘠甚だしく、既に除喪しても、猶丘園に屏処した。武后は召して左拾遺と為す。神龍初め、中書舎人に遷る。敬暉らが諸武の王たる宜しからざるを表すと、構が表を読み、声を抗して句を析き、左右皆曉知す。三思これを疾み、出して潤州刺史と為し、政に恵愛有り。衛・同・陜の三州に徙り、益州府長史に遷る。
景龍の末、召されて左御史大夫となった。諸韋を平定するに当たり、その党を治めるに、士大夫多く連座したが、構は罪状の軽重を詳しく比べ、皆その実情を得た。時に李傑が河南尹であり、構とともに一時の選抜であり、世に「畢李」と称された。魏県男に封ぜられた。再び益州長史となり、剣南を按察し、弊を振るい私を止め、清厳と号された。睿宗は構が修め置くところ独行し、古人の風あり、その治術また諸使の最たることを嘉し、乃ち璽書・袍帯を賜う。再び吏部尚書に遷り、並びに遙かに益州長史を領し、広州都督に徙った。
玄宗が立つと、河南尹を授けられ、戸部尚書に進んだ。久しくして、疾を移すと、帝は手ずから医方を疏してこれを賜うた。当時、戸部を兇官とみなし、急ぎ太子詹事に改め、その癒えることを冀った。会うところ卒し、黄門監を贈られ、謚して景といった。
構の子の炕は、天宝の末に広平太守となり、安禄山を拒ぎ、城陥ち、その家を覆した。戸部尚書を贈られた。炕の子の生は、始め四歳にして、弟の増とともに細弱なるをもって殺されず、賞口となった。河北平定の後、宗人の宏が財をもって贖い出した。後に明経に挙げられ、臨渙尉となった。徐州節度使張建封は炕の節を高くし、篤行を聞き、表して幕府に署し、符離令を摂せしめた。後に王屋尉に調じ、謹廉をもって聞こえた。賓客を喜び、家は未だ嘗て有無を計らわず。及び歿し、資なくして喪を治めしという。
李傑
李傑、本名は務光、相州釜陽の人。後魏の并州刺史宝の裔孫。少くして孝友をもって著しかった。明経第に擢でられ、褐を解いて斉州参軍事となり、累遷して天官員外郎となった。吏として詳敏にして、治誉あり。采訪使として山南を行き、時に戸口は逋蕩し、細弱の下戸は豪力に兼併せられ、傑は科条を設けて区処し、亡匿を検防し、復業する者十の七八。神龍年中、河東巡察黜陟使となり、諸道の中で課最となった。先天年中、陜州刺史・水陸発運使に進んだ。使を置くは傑より始まる。河南尹に改めた。
傑は既に聴断に精しく、行坐食飲するといえども、省治少しも廃せず、これにより府に淹事なく、人吏これを愛した。寡婦にその子の不孝を告ぐる者あり、傑は物色して是ならず、婦に謂いて曰く「子は法に当り死すべし、悔い無きか」と。答えて曰く「子は無状なり、寧ろその悔いあれ」と。乃ち棺を市わせて還りこれを斂めしめ、人をして婦の出づるを跡せしむると、一道士と語り、頃にして棺を持ち至る。傑は道士を捕え按問せしむるに、乃ち婦と私し逞しうせざるなり。傑は道士を殺し、棺の中に納む。河・汴の交わりに旧に梁公埭あり、廃れて治めず、南方の漕通ぜず、傑は汴・鄭の丁男を調べて復たこれを作らしめ、費やさずして利あり。
入りて宋璟に代わり御史大夫となった。尚衣奉禦長孫昕は素より傑を悪み、道に遇い、内に玄宗の婭婿たるを恃み、親しむところの楊仙玉と共に毆辱す。傑訴えて曰く「髪膚を敗るは、痛みは身に在り、衣冠を辱しむるは、恥は国に在り」と。帝怒り、詔して昕等を朝堂に斬らしむ。左散騎常侍馬懐素建言す「陽和の月、殊死すべからず」と。乃ち勅して杖殺し、百官に謝し、書を降して傑を慰む。
橋陵を護作するをもって、武威県子に封ぜられた。初め、傑は侍御史王旭を引きて護陵判官と為す。旭は贓を貪り、傑将にこれを縛せんとす、未だ発せざるに、反ってこれに構えられ、衢州刺史に出された。揚州大都督府長史に遷り、再び御史に劾せられ免ぜられた。開元六年卒し、帝これを悼み、特に戸部尚書を贈った。
鄭惟忠
鄭惟忠、宋州宋城の人。進士第に及第し、井陘尉を補う。天授年中、制挙をもって廷中に召見され、武后挙者に問う、何を事として忠と為すかと、対する皆旨に合わず。惟忠曰く「外に君の美を揚げ、内に君の悪を正す」と。后曰く「善し」と。左司禦胄曹参軍事に擢でられ、水部員外郎に遷る。后長安に還り、復た待制をもって召す。后曰く「嘗て東都にて忠臣に対せし者に非ずや、朕今忘れず」と。鳳閣舎人に遷る。
中宗立つと、黄門侍郎に擢でられる。時に議して嶺南の酋戸に兵を畜うことを禁ぜんとす。惟忠曰く「善く政を為す者はその俗に因る。且つ呉人の謂うところの家に鶴膝、戸に犀渠、これ民風なり、これを禁めて擾れざるを得んや」と。遂に止む。大理卿に進む。節湣太子敗れ、守衛詿誤みな流罪と為り、既に決す。諸韋の党、請う悉くこれを誅せんとす。帝改めて推鞫せんと欲す。惟忠奏す「大獄始めて判決し、復た訊問を改むれば、恐らくは反側の者自ら安からず、且つ天下に信を失わん」と。詔ありて百司参議せしむ、卒に前の如く論じ、全うし貸すところ多し。俄かに御史大夫を授けられ、節を持ち河北道を賑給し、且つ守宰の黜陟を許す。還りて奏すること旨に称い、滎陽県男に封ぜられ、太子賓客に遷る。卒し、太子少保を贈られた。
王誌愔
王誌愔、博州聊城の人。進士第に擢でられる。中宗神龍年中、左台侍御史となり、剛鷙をもって治め、居るところ人吏畏詟し、「皂雕」と呼ぶ。大理正に遷り、嘗て奏言す「法令は人の堤防なり、立たざれば則ち制する所無し。今大理多く法を奉ぜず、罪を縦すを以て仁と為し、文を持するを以て苛と為す。臣刑典を執る、恐らくは且つ謗を得ん」と。遂に著すところの『応正論』を上りて以て志を見しめ、因りて帝の失を規す。大抵『易』萃の六二に曰く「吉を引きて咎無し」と謂い、萃の時に処り、己独り正に居り、操を異にして聚まるは、独り正しき者は危く、未だ能く以て害を遠ざくあたわず。惟だ九五これに応ずるに、乃ち正を履みて吉を迎え、己下位に居りて中正を是れ托し、期して上これに応ずるに、括囊して以て禄を守らざるなり。又言う「刑賞の二柄は、惟だ人主これを操る。故に曰く『力を以て法に役するは、百姓なり、死を以て法を守るは、有司なり、道を以て法を変ずるは、君上なり』と。魏の遊肇が廷尉となるや、帝私に勅して肇に降恕する所あらしむ。肇執して従わず、曰く『陛下自ら能くこれを恕す、豈に臣をして曲筆せしめんや』と」。又言う「国を為すには当に厳を以て平を致すべく、寛を以て平を致すに非ず。厳とは、網を凝らし罰を重くするに非ず、人の犯し難くして防ぎ越え難きに在るなり。故に銜策を奔馳に捨つれば、則ち王良と雖も駻を禦うこと能わず、薬石を膚腠に停むれば、則ち俞跗と雖も疾を攻むること能わず」。又言う「漢武帝の甥昭平君人を殺す、公主の子なるを以て、廷尉上請す。帝涕を垂れて曰く『法令は先帝の造る所なり、親故を以て先帝の法を誣う、吾何の面目を以て高廟に入らんや』と。卒にその奏を可とす。隋文帝の子秦王俊并州総管たり、奢縦を以て官を免ぜらる。楊素曰く『王は陛下の愛子なり、請うこれを赦せ』と。帝曰く『法は違うべからず、もし公の意の如くせば、我は乃ち五児の父にして、兆人の父に非ず、何ぞ別に天子の子の律を制せざる』と。故に天子法を操るに不変の義あり」。凡そ数千言、帝これを嘉す。
開元九年、帝東都に幸す。詔して京師を留守せしむ。京兆の人権梁山、妄りに襄王の子と称し、左右屯営の官と謀反し、光帝と自称し、夜長楽門を犯し、宮城に入り、将に誌愔を殺さんとす。誌愔は垣を踰えて走り、而して屯営の兵悔い、更に梁山等を斬って自ら帰す。誌愔慚悸して卒す。
許景先
許景先は、常州義興の人なり。曾祖緒は、武徳の時に佐命の功を以て、歴て左散騎常侍に至り、真定公に封ぜられ、遂に洛陽に家す。景先は進士第より釈褐して夏陽尉となる。神龍の初め、東都に服慈閣を造る。景先賦を献ず。李迥秀其の文を見て、畏嘆して曰く、「是れ宜しく太史に付すべし」と。左拾遺に擢げられ、事を論ずるに切直なるを以て、外補して滑州司士参軍と為る。手筆俊抜・茂才異等に挙げられ連中し、進みて揚州兵曹参軍と為る。還りて左補闕と為る。宋璟・蘇頲殿中侍御史を択ぶも、久しく補わず。以て景先に授く。時に議うところ僉に愜えり。抨按するに近強を避けず。斉浣・王丘・韓休・張九齢と更に制誥を知り、雅厚を以て称せらる。張説曰く、「許舍人の文は、峻峰激流に乏しと雖も、然れども詞旨豊美にして、中和の気を得たり」と。
開元十年、伊・汝溢れ、廬舍を壊すこと甚だ衆し。景先侍中源乾曜に見えて曰く、「災眚の降る所は、王者宜しく徳を修めて之に応ずべし。因りて大臣を遣わし失職を存問し、己を罪して咎を引き、以て天譴に答うべし。公元弼に在りて、庸ぞ黙することを得んや」と。乾曜悟り、遽に玄宗に白し、陸象先を遣わし節を持して賑贍せしむ。
潘好禮
潘好禮は、貝州宗城の人なり。明経に第し、累遷して上蔡令と為り、治最に在り、擢げられて監察御史と為る。小累に坐し、下りて芮城令を除き、拝して侍御史と為り、岐王府司馬に徙る。後母の喪に居り、詔して服を奪わんとすも、固く辞して出でず。開元の初め、邠王府長史と為る。王滑州刺史と為る。好禮府司馬を兼ね、州事を知る。王下を禦するに能く粛せず。詔ありて好禮に王家を検督せしめ、過失に至るまで皆上聞せしむ。王遊観する毎に、好禮必ず諫諭して禁切す。農月、王出でて獵す。家奴羅迾す。好禮道を遮りて諫む。王初め許さず。乃ち馬下に臥して呼びて曰く、「今農田に在り。王何ぞ時に非ずして禾稼を暴し、以て下人を損ぜんとする。先ず司馬を践殺せしめ、然る後に為す所を聴かん」と。王慚じ、為に還る。
好禮博学にして、能く論議し、節行修整にして、一意として傾附する所無し。未だ嘗て自ら階勲を列ねず。居室服用粗茍にして終身に至る。世近名を謂う。
倪若水
玄宗中人を遣わして帟〓・溪沴を捕えしむ。南方に、若水上言して曰く、「農は田を方にし、婦は蠶を方にす。此の時に奇禽怪羽を捕えて園禦の玩と為し、江・嶺より南より、京師に達し、水に舟し陸に賫し、飼う所の魚蟲・稻粱、道路の言、賤人を以て貴鳥を望むこと陛下に非ずや」と。帝手詔して褒答し、玩ぶ所のものを悉く放ち、使人の過ぎて取る罪を謫し、而して若水に帛四十段を賜う。
時に天下久しく平らぎ、朝廷尊栄にして、人皆内任を重んず。自ら冗官より擢げられて方面と為るも、皆自ら下遷と謂う。班景倩揚州采訪使より入りて大理少卿と為る。州を過ぐるに、若水郊に於いて餞す。左右を顧みて曰く、「班公是の行は登仙の若し。吾れ恨みて騶仆と為ることを得ず」と。未だ幾ばくもあらず、入りて戸部侍郎と為り、復た右丞を拝し、卒す。
席豫
席豫、字は建侯、襄州襄陽の人である。後周の昌州刺史席固の七世の孫、後に河南に移った。長安年間(701-704年)、学兼流略・詞擅文場科に挙げられて上第に擢でられ、時に年十六、父の喪のため罷めた。再び手筆俊抜科に挙げられてこれに及第した。襄邑尉に補され、闕下に奏事した際、節湣太子の難に会い、安楽公主が皇太女たることを請うた。豫は言う、「昔、梅福が上書して後族を譏ったが、彼は何たる人ぞ」と。乃ち上疏して皇太子を立てることを請い、語深切にして、人寒懼せしめた。太平公主その名を聞き、表して諫官とせんとしたが、豫は汙诐謁を恥じて遁れ去った。俄に賢良方正異等に挙げられ、陽翟尉となった。
開元初め、観察使が豫の賢を薦め、監察御史に遷り、出て楽寿令となった。前の令は親の喪のため解任されたが、豫は母が病み、諸朝に訴えて、懐州司倉参軍に改められた。再び超抜群類科に挙げられた。母の喪に会い去った。服除け、大理丞を授かり、考功員外郎に遷り、進絀清明であった。中書舎人となり、韓休・許景先・徐安貞・孫逖と名相甲乙した。出て鄭州刺史となった。韓休が政を輔けるや、己に代わるを挙げ、入りて吏部侍郎を拝した。玄宗曰く、「卿が前日考功の職に事詳しくして允なるが故に、今の授け有り」と。豫は選を典すること六年、寒遠の士を抜きて多くは臺閣に至り、当時に人を知るを推され、席公と号された。天宝六載、礼部尚書に進み、累ねて襄陽県子に封ぜられた。凡そ四たび使者として江南・江東・淮南・河北を行按した。南方の俗は死して葬らず、骨を中野に暴く。豫は埋斂を以て教え、科防を明らかに列ね、俗これが為に改まった。
豫は清直にして欲亡く、官に当たりて勢権の撼かす所とならず。性謹畏にして、子弟・属吏に与える書は草字を作さず。或る人曰く、「此れ細事なるのみ、何ぞ留慮せん」と。答えて曰く、「細にして謹まざれば、況んや大事においてをや」と。疾篤くに及び、遺令して曰く、「三日にして斂め、斂め已りて即ち葬れ、久しく留めて公私を黷す勿れ。貲足らざれば、居宅を売りて以て事を終えよ」と。卒す、年六十九、江陵大都督を贈られ、謚して文と曰う。
帝嘗て朝元閣に登り詩を賦し、群臣属和す。帝は豫の詩最も工なるを以て、詔して曰く、「詩人の冠冕なり」と。弟の晋も亦た文を以て当時に名有り。
齊澣
齊澣、字は洗心、定州義豊の人である。少より開敏にして、年十四、特進李嶠に見え、嶠は王佐の才有りと称した。
中宗が廬陵に在りし時、澣上言して諸武を抑え、太子を東宮に迎えんことを請うたが、報いられず。太子還りしに及び、武后澣を召して同明殿に宴し、諭して曰く、「朕母子初めの如し、卿豫めて力有り、方に次を待たずして爾を待たん」と。澣は母老いて遠く離るるに忍びずと辞し、賞して罷めた。聖暦初め、進士第に及び、抜萃にて蒲州司法参軍に調ぜられた。父子連坐して死を論ぜらるる者有り。澣曰く、「条落つれば則ち本枯る、奈何ぞ俱に死せん」と。其の父を貸さんことを議す。太守聴かず、固く争い、卒に原う。景雲初め、姚崇取りて監察御史と為す。凡そ劾奏するに、常に先ず風教を以てし、善職と号せられた。睿宗将に太廟に祠らんとし、刑部尚書裴談太尉を摂り、先ず告ぐ。澣奏す、「孝享摂事、稽首して拝すは、神を恭しみ明らかにするなり。而るに談は慢媟にして恭しからず」と。並びに談を劾して「神昏く形滓り、邪を挟みて以て上を罔す。神龍の時、武三思に事え、敬暉を陥れ、其の家を没して以て進を得たり。妻は外に淫し、男女姓氏を得ず。夫れ神に告ぐるに慢く、主に事うるに忠ならず、家治まらず、是の三罪有り、法を置かざるべからず」と。談是れより下りて汾州刺史を除かれる。
開元初め、姚崇復た相となり、用いて給事中・中書舎人と為す。論駁及び誥詔皆な古誼を援準し、朝廷の大政必ず之に咨り、時に「解事舎人」と号せられた。数え崇に年老いて宜しく位を避くべしと諷す。時に宋璟広州に在り、因りて崇に自ら代わるを挙げんことを勧め、崇其の謀を用う。璟相と為り、他日問うて曰く、「吾敢えて房・杜を冀まず、比べ爾日の諸公に云何」と。澣曰く、「如かず」と。璟故を請う。答えて曰く、「前時近郊戸三百を以て困と為す、今百戸に満たず、是を以て知る」と。馬懐素等四庫書を緒次し、表して澣を副と為し、秘書少監に改む。
出て汴州刺史と為る。地は舟車の湊集に当たり、事浩繁にして、前刺史数えて職に称せず。唯だ倪若水と澣と清毅を以て聞こえ、吏民頌美す。玄宗太山を封ずるに、汴・宋・許を歴り、車騎数万、王公妃主四夷の君長の馬・橐駝も亦た数万、頓する所数十里に弥がる。澣長棚を列ね、帟幕聯亙し、上食凡そ千輿、筦鑰を納め、身進膳す。帝は礼を知ると為し、喜び甚だしく、為に三日留まり、帛二千匹を賜う。澣は淮より徐城に至る険急なるを以て、渠を十八里鑿ち、青水に入れ、人其の漕を便とす。
中書令張説丞轄を択ぶに、王丘を左と為し、澣を右と為す。李元纮・杜暹国に当たり、表して宋璟を吏部尚書と為し、澣及び蘇晉を侍郎と為し、世に臺選と謂う。嘗て事を奏す。帝政事堂を指して曰く、「卿に非ざれば尚た誰か居らん者ぞ」と。
是の時、開府王毛仲寵甚だしく、龍武将軍葛福順と相婚嫁し、毛仲の請うて奏する所従わざる無し。澣間を乗じて曰く、「福順兵馬を典し、毛仲と婚家を為す。小人寵極まれば則ち奸生ず、預め図らざれば、将に後患有らん。高力士は小心謹畏、宦人を加うれば以て禁中の駆使に備え、腹心の委ぬる所、何ぞ必ずしも毛仲ならんや」と。又言う、「君密ならざれば臣を失い、臣密ならざれば身を失う。惟うらくは陛下此の言を密にせんことを」と。帝嘉納し、且つ労して曰く、「卿第に出でよ、我徐ろに其の宜しきを計らん」と。会うに大理丞麻察事に坐し、出でて興州別駕と為る。澣往きて餞し、因りて諫語を道う。察は素より奸佻にして、遽に状を言う。帝怒り、澣を召して殿中に入れ曰く、「卿向に朕の密ならざるを疑い、而して反って察に告ぐ、何と謂うぞ。且つ察は軽躁にして行無く、常に太平門に遊ぶ者、詎ぞ知らざらんや」と。澣免冠頓首謝し、高州良徳丞に貶ぜられ、察は再び皇化尉に貶ぜられ、其の党の齊敷・郭稟皆な流放せらる。
久しくして、澣索盧丞・郴州長史・濠常二州刺史に徙る。潤州に遷る。州の北は瓜歩沙尾に距たり、紆匯すること六十里、舟多く敗溺す。澣漕路を京口埭に徙らせ、伊婁渠を治めて以て揚子に達せしめ、歳に覆舟無く、運銭数十万を減ず。又た伊婁埭を立て、官其の入を征す。流人五百戸を招き還し、明州を置きて以て之を安輯す。復た汴州に徙る。
澣中に勢を失い、益々悵恨し、素操浸く衰う。更に力士に倚り助け、以て両道采訪使と為り、利を興して以て天子の意に中り、貨財を裒めて貴幸に遺謝す。劉戒の女を納めて妾と為し、其の妻に答えず。李林甫其の行を悪み、擠して以て之を廃せんと欲す。会うに其の幕府贓に坐し、事澣に連なり、詔して澣の老を矜み、放ちて田裏に帰す。天宝初め、召して太子少詹事と為し、東都に留司す。厳挺之も亦た林甫に所廃せられ、澣と家居し、杖屨過ぎ経ること日を缺かず。林甫之を畏れ、乃ち澣を用いて平陽太守と為し、其の謀を離る。更に黄老清静を以て治と為し、卒す、年七十二。粛宗の時、林甫の陷れたる所を録し、皆な褒洗す。故に澣に礼部尚書を贈る。
澣嘗て陳希烈・宋遙・苗晉卿・韋述の才を称し、後皆な大いに顕る。
澣の孫抗。抗は字を遐舉と為し、少にして天寶の亂に値い、母夫人を奉じて會稽に隱る。壽州刺史張鎰、幕府に辟署す。抗は吏事閑敏にして、文雅有り、鎰に從い江西を鎮む。及んで宰相を以て鳳翔を領するに及び、監察御史に署すを奏す。李楚琳亂を為し、奉天に奔る。侍御史を授けられ、戶部員外郎に遷る。蕭復、江淮宣慰判官に引く。德宗、梁・洋より還り、財用大いに屈す。鹽鐵使元琇、抗の材を薦め、倉部郎中に改め、鹽利を斡す。俄に水陸運副使と為り、漕を江淮より護り、京師に給す。諫議大夫を歴て、小累に坐し、處州刺史と為る。蘇州を歴て、潭州觀察使に徙り、召されて給事中と為り、河南尹に遷り、太常卿に進み、中書侍郎同中書門下平章事を以てす。
抗は遠謀大略無く、心を用うる至精なれども、末に乃ち滋に苛刻を彰わす。病を以て身を乞い、罷められて太子賓客と為る。卒す。年六十五。戶部尚書を贈られ、謚して成と曰う。
初め、吏部は歳に書言を考し、他官を以て上下を第し、中書・門下は官を遣わして覆實し、以て常と為す。抗は尚書・侍郎皆大臣の選ぶ所なり、今更に覆核するは、人を任じて疑わざるの道に非ずとす。禮部侍郎は貢士を試み、其の姻舊は悉く考功に試み、之を「別頭」と謂う。皆奏して之を罷む。又、州別駕・田曹司田官・判司雙曹者を省き、中書吏員を減ず。此れ其の稍や治に近き者なり。