張嘉貞
張嘉貞、字は嘉貞、本姓は范陽の旧族、高祖の子咤は隋に仕えて河東郡丞に終わり、蒲州に住みつき、猗氏の人となった。五経に挙げられ、平郷尉を補し、事に坐して免ぜられる。長安年中、御史張循憲が河東に使いし、事の未だ決せざるあり、これを病み、吏に問うて曰く、「汝、頗る佳客あるを知るか」と。吏は嘉貞を以て対す。循憲召見し、事を諮る。嘉貞条理を析ち分け、洗然たらざるは莫し。循憲大いに驚き、試みに命じて奏を草せしむるに、皆意の未だ及ばざる所なり。他日、武后能あると為し、循憲対えて皆嘉貞の為す所なりと、因りて官を以て譲らんことを請う。后曰く、「朕豈に一官あって自ら賢を進むること無からんや」と。嘉貞を召して内殿に見えしむ。簾を以て自ら障る。嘉貞の儀止秀偉、奏対侃侃たり、后之を異とす。因りて請うて曰く、「臣草茅の人、未だ朝廷の儀を睹ず、陛下過ちて聴き、禁近に引対す。今、天威咫尺、雲霧を隔つるが若し、恐らくは君臣の道未だ尽くさざる有らん」と。后曰く、「善し」と。詔して簾を上げしめ、引いて監察御史に拝し、循憲を擢て司勲郎中と為し、其の人を得たるに酬ゆ。
累遷して兵部員外郎と為る。時に功状几に盈ち、郎吏決すること能わず、嘉貞之を詳処し、旬を閲ずして、廷に稽牒無し。進んで中書舎人と為る。梁秦二州都督・並州長史を歴任し、政は厳辦を以てし、吏下之を畏る。京師に事を奏す。玄宗其の政を善しとし、数え慰労す。嘉貞自ら陳す、「少く孤、弟嘉佑と相恃みて以て長ず、今鄯州別駕と為る、願わくは内徙せしめ、少しく相近からしめ、力を尽くして報い、死して恨み無からんことを冀う」と。帝為に嘉祐を忻州刺史に徙す。
突厥九姓新たに内属し、雑処す太原の北、嘉貞天兵軍を置きて其の衆を綏護せんことを請う。即ち以て天兵使と為す。明年、朝に入る。或る者其の反を告ぐ。按ずるに状無し。帝命して告者を坐せしむ。嘉貞辞して曰く、「国の重兵利器皆辺に在り、今告者一たび当たらずとて即ち之を罪せば、臣言路を塞ぐを恐れ、且つ未来の患と為らん。昔、天子政を上に聴くに、瞍は賦し、蒙は誦し、百工諫め、庶人謗る。今将に之を坐せんとす、則ち後、繇りて天下の事を聞く無からん」と。遂に死を減ずるを得たり。天子忠と為し、且つ相たることを許す。嘉貞因りて曰く、「昔、馬周徒歩より起り、人主に謁す、血気方に壮んなり、太宗之を用い、能く其の才を尽くす、甫五十にして没す。向使に用いること少しく晩ければ、則ち及ぶ無からん。陛下臣の不肖を以てせず、必ず之を用いんとせば、要は其の時に及ぶべし、後衰えて能為す無からん。且つ百年の寿、孰か至れる者為らん。臣常に先んじて朝露の如く溝壑に死するを恐る。誠に万一を効うるを得ば、陛下に負うこと無きに足れり」と。帝曰く、「第に往け、行くに卿を召さん」と。
帝数え東都に幸す。洛陽主簿王鈞なる者、嘉貞の為に第を繕う。会に贓を以て聞こえ、詔有りて之を朝堂に杖す。嘉貞蔑染を畏れ、有司に促して速やかに斃さしめて以て言を滅さんとす。秘書監姜交罪を得る。嘉貞権幸の意に希い、詔杖を加えんことを請う。已にして交死す。会に広州都督裴伷先罪に抵る。帝法如何と問う。嘉貞復た交を援いて比す。張説曰く、「然らず、刑は大夫に上らず、以て君に近きなり。士は殺すべくして辱しむべからず。向に交罪を得たり、官三品、且つ功有り。若し罪死に応ずれば、即ち殺すべし。独り廷辱すべからず、以て卒伍を待つが如くすべからず。況んや勲貴は八議に在りや。事往きて咎むべからず。伷先豈に復た濫するを容れんや」と。帝然りとす。嘉貞退き、悦ばずして曰く、「言太だ切なり」と。説曰く、「宰相は、時来れば則ち為す、長く保つべからず。若し貴臣尽く杖せらるれば、正に吾輩の之に及ぶを恐る。渠天下の士君子の地を為さざらんや」と。
初め、嘉貞兵部に在りし時、説已に侍郎と為る。及び皆相と為り、説其の下に位す。議論譲る所無し。故に説平らかならず。未だ幾ばくもなく、嘉佑金吾将軍に拝す。兄弟要近に在り、人頗る憚りて冒す。帝太原に幸す。嘉佑贓を以て聞こゆ。説嘉貞を訹して素服して罪を待たしめ、謁せず。遂に出でて豳州刺史と為り、説其の処に代わる。嘉貞悔みを銜み、人に謂いて曰く、「中書令幸いに二員、何ぞ相迫るや」と。年を踰えて、戸部尚書・益州長史と為り、都督事を判ず。詔して中書省に宴し、宰相と会せしむ。嘉貞説に銜むこと已まず、坐に於て慢罵して説す。源乾曜・王盩共に平解し、乃ち去るを得たり。
明年、王守一死す。厚く善しと坐して、台州刺史に貶ぜらる。俄かに工部尚書に拝し、定州刺史と為り、北平軍事を知り、河東侯に封ぜらる。及び行かんとす、帝詩を賦し、詔して百官上東門に道上で祖す。久しくして、疾を以て東都に還ることを丐う。詔して医を馳駅して護視せしむ。卒す。年六十四。益州大都督を贈り、謚して恭肅と曰う。
嘉貞性簡疏、人と疑わず、内曠如たり。或る時此を以て失す。嗜進する者有れば、之を汲引し、能く恩を以て終始す。薦むる所の中書舎人苗延嗣・呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓、皆清要の位に在り、日々政事を議す。故に当時の語に曰く、「令君の四俊、苗・呂・崔・員」と。其の始め中書舎人と為る時、崔湜之を軽んず。後、事を議するに、正に其の上に出ず。湜驚きて曰く、「此れ終に其の坐を占む」と。後十年にして中書令と為る。嘉貞貴しと雖も、田園を立つること無し。之を勧むる者有れば、答えて曰く、「吾嘗て相国たり、未だ死せず、豈に饑寒の憂い有らんや。若し譴を以て去らば、富田産と雖も、猶能く有ること無からん。近世の士大夫、務めて田宅を広くし、不肖子の酒色の費と為す。我は是れ無し」と。
万年主簿韓朝宗を引いて御史と為す。卒すること十余歳の後、朝宗京兆尹を以て帝に見えて曰く、「陛下宰相を待つに、進退皆礼を以てす。身雖没す、子孫咸朝廷に在り。張嘉貞晩く一息宝符有り、独り未だ官せず」と。帝惘然たり。召して左司禦率府兵曹参軍に拝し、名を賜いて延賞と曰う。
嘉貞の子 延賞
延賞蚤く孤と雖も、博く経史に渉り、吏治に通ず。苗晉卿尤も器許し、女を以て之に妻せしむ。肅宗鳳翔に在りし時、監察御史に擢で、関内節度使王思礼の府に辟署せらる。思礼北都を守る。表して副と為し、入り遷りて刑部郎中と為る。始め、元載用いらるるに、晉卿の力を以てす。故に延賞を厚く遇し、薦めて給事中・御史中丞と為す。
時に李少良が元載の陰事を弾劾すると、載は彼を狂人と斥け、御史臺に下して取り調べさせたが、延賞は丁度大夫に任ぜられたところで、私情を満たさず、淮南節度使として出された。旱魃の年、民は他へ移ろうとしたが、役人がこれを禁じた。延賞は言う、「食は人が生きるよりどころである。ここに拘束して死なせるよりは、むしろあちらへ行って生き延びさせる方がよい。もし我が民が生き残るならば、何の制限があろうか」と。そこで船を整えて送り出し、役人に命じて家屋を修築させ、滞納した債務を免除したので、帰ってくる者は以前より更に増えた。瓜歩には船が津に集まったが、遠く江南に属していたので、延賞は揚州に属させるよう請うた。これより往来に滞りがなくなった。
母の喪に遭い免官されたが、喪が明けると、累進して荊南・剣南西川節度使に任ぜられた。建中年中、西山兵馬使張朏が成都を襲って乱を起こすと、延賞は鹿頭戍に奔った。朏は酒に酔って乱れ、備えを設けなかったので、延賞は諜者によってこれを知り、将の叱幹遂を遣わして朏を捕らえ斬らせ、成都を回復した。楊国忠が南蛮を討って以来、三蜀は疲弊し尽くしていた。また天子が臨幸されると、費用が百方に出た。その後さらに郭英乂・崔寧・楊子琳の乱があり、ますます驕慢で僭上の振る舞いが多く、公私ともに寂然としていた。延賞は事に応じて制度を定め、収入を薄くし支出を謹み、府庫は遂に充実した。徳宗が奉天におられた時、貢物が道に続いた。また梁に駐蹕された時は、剣蜀を根本として頼みとされた。即座に中書侍郎・同中書門下平章事に任ぜられた。
帝が還られると、詔して政務を執らせた。初め、吐蕃が剣南を寇した時、李晟が神策軍を総率してこれを守ったが、帰還する際、成都の娼妓を連れ帰ったので、延賞は役人を遣わしてこれを奪い取らせた。故に晟はこれを恨んだ。この時、鳳翔に鎮しており、帝の倚重するところであったが、表を奉って宿怨を陳べた。帝は已むを得ず、延賞を尚書左僕射に罷めたが、深く用いることを決めており、晟がかつて韓滉に識り抜かれたことを以て、滉に命じて書を送らせて意を伝えさせた。ともに朝に入ると、滉は従容として晟を邀え恨みを解かせ、かつ延賞を帝に薦めさせた。ここにおいて再び平章事に任ぜられた。やがて禁中で宴が催され、帝は瑞錦一端を出して両者に分けて結びつけ、和解を示された。晟はそこで子の為に婚姻を請うたが、延賞は許さなかった。晟は言う、「我は武人である。旧悪はあっても、杯酒の間に解くことができる。儒者は犯し難く、外は睦まじくても内に怒りを含んでいる。今婚姻を許さないのは、未だ忘れていないからである」と。
先に、吐蕃の尚結贊が和を請うた時、晟は奏上して戎狄に信義なしとし、許すべからずと言った。滉もまた軍糧を調えて辺境に備え、和を聴くべからずと請うた。帝は将帥が功を邀えて事を生ずることを疑い、議は決しなかった。時に滉が卒すると、延賞は帝の意を推し量り、遂に晟の兵権を罷め、給事中鄭雲逵を以て代えるよう奏上した。帝は言われた、「晟は社稷の功がある。自ら代わる者を選ばせよ」と。そこで邢君牙を用い、晟を太尉兼中書令に任じ、奉朝請とした。この夏、吐蕃は約に背き、渾瑊を劫い、将校多く没し、晟らの策の如くであった。故事によれば、臨軒して三公を冊拝する時は、中書令が冊を読み、侍中が礼を賛する。欠ける時は宰相が事を摂る。晟が拝される時、延賞はその礼を軽んじ、尚書の崔漢衡・劉滋を用いて代わりに摂行させた。
時に劉玄佐を遣わして河・湟を回復させようとの議があったが、延賞はこれに因んで建言した、「今官は煩雑で費用が広く、州県は疲弊困窮している。宜しくその員を併せ省き、悉く稟料糧課を収めて京師に輸送し、戦士を賞すべきである」と。帝はこれを許した。即ち詔して、「上州は上佐・録事参軍・司戸・司兵・司士を各一員留め、余りの参軍は半ばを留める。中州は司士を減ずる。上県は令・尉を具え、中県は尉を省く。京兆・河南府の司録・判官、赤県の丞・簿・尉は、各半ばを省く。余りの府は上州に準ずる」と。詔が下ると、内外に怨みが始まった。玄佐は西討を辞し、延賞は更に李抱真を用いた。抱真は延賞が晟の兵権を奪ったことを怨み、行こうとしなかった。これにより功臣は解体した。
この年、千五百員の官吏を除き、省くべき者は千余りであった。道中の誹謗が次第に上聞に達した。延賞は懼れ、州県に詔して、「或いは考課が先に満ち、或いは摂掌が停限に遇って官に欠乏が見られる場合は、在所において省員の中に幹誉ある者を選び、権宜に補うことを聴す。才を以てし、資に以てせず」と請うた。しかし大臣の馬燧・白志貞・韋倫が表を奉り、省官は甚だし過ぎて行うべからずと言った。時に延賞は病に困り、事を執ることができず、宰相李泌が一切を奏上して復旧させた。卒す。年六十一。太保を贈られ、諡して成肅といった。
延賞は四鎮を歴任し、至る所で民はその慈愛を称えた。国政を執るに及んで、情を飾り怨みを報い、期待に副わず、また早く不幸にして、未だ何かを建明するに及ばなかった。しかし帝の待遇は厚く、その奏議に宰相の体有りと称え、専ら吏事を委ね、軍糧は李泌に、刑法は柳渾に委ねた。時に任に適うとされた。子に弘靖あり。
延賞の子 弘靖
弘靖、字は元理。雅正で厚く信直であり、蔭官により河南参軍となった。杜亞がその府の佐とすべく辟召した。亞は牙将令狐運が餉絹を劫ったと疑い、弘靖はその冤罪を正したので、亞は怒り、府から斥けた。裴延齢が徳陽公主の邸宅を造営するに当たり、弘靖の先祖の廟を移そうとしたので、上疏して自ら言上した。徳宗はこれを異とし、監察御史に抜擢した。累進して戸部侍郎・陝州観察使となり、転じて河中節度使となった。元和年中、刑部尚書同中書門下平章事に任ぜられた。
呉少陽が死ぬと、その子元済が留務を擅に総べた。憲宗はこれを誅そうとした。弘靖は先ず使者を遣わして弔贈し、恭しからざるを待って、兵を加えるよう請うた。詔して可とした。中書侍郎に進み、高平県侯に封ぜられた。
武元衡が害に遇い、賊が得られなかった時、王承宗の邸の厮卒張晏が告発され、詔して御史臺に付して劾験させたところ、罪状があった。弘靖は御史が晏の罪を傅会したのではないかと疑い、帝に言上したが、聴かれず、遂に晏を誅し、併せて承宗を討とうとした。弘靖は言う、「戎事を並び興すのは、成功すること稀である。全力を淮西に尽くし、既に平定してから、河朔を治める方がよい」と。議が再び迕ると、政務を返上し、検校吏部尚書・同平章事として、河東節度使となった。未だ鎮に着かぬうちに、承宗を伐つ詔が下った。弘靖は自ら諫めて聴かれなかったことを思い、自ら効力を尽くそうと考え、大いに兵を閲し、自ら賊を討つことを請うた。詔して出軍を許したが、親征はさせなかった。既に王師は功なく、帝は先の言葉を思い出し、詔を下して褒め称えた。弘靖もまた使者を遣わし間道より承宗を諭したので、承宗は誠意をもって帰附した。召されて吏部尚書に拝し、転じて宣武節度使となった。宣武は韓弘の虐政を受け継いでいたが、寛簡をもって代え、民はこれに安んじ便利とした。
長慶の初め、劉總がその管轄する地域を挙げて帰属し、弘靖を代わりに立てるよう請うたので、弘靖は檢校司空に進み、なお同中書門下平章事を兼ね、盧龍節度使を充任した。初めて幽州に入ると、老幼が道の両側に並んで見物した。河朔の旧来の将軍は士卒と寒暑を同じくし、覆いや安車を用いなかったが、弘靖は元より貴人であり、肩輿に乗って行ったので、人々は驚き怪しんだ。俗に安禄山・史思明を「二聖」と呼んでいたが、弘靖は乱の始まりを戒め、その風俗を変えようとして、墓を発き棺を毀ったので、人々はますます快く思わなかった。十日に一度政事を裁決するのみで、賓客や将吏はめったに彼の言葉を聞くことがなかった。参佐の韋雍・張宗厚に任せきりにし、しかも彼らは大體に通ぜず、軍への賜物を削り取り、ひたすら法で抑えつけて治めた。官属は軽佻で酒に耽り放縦であり、夜帰りするとき、燭火が街に満ち、前後に呼び止める者がおり、その兵士を罵って責める言葉は皆「反虜」であり、かつて「天下に事無く、お前らが二石の弓を引くよりは、一丁の字を識る方がましだ」と言った。軍中では気概を以て自ら任じていたので、これを恨んだ。劉總が朝廷に帰順したとき、詔で銭百万緡を以て将士に賜うこととなったが、弘靖はそのうち二十万を取って府中の雑費に充てたので、怨みの声があった。折しも韋雍が小将を鞭打とうとしたところ、薊の人はかつて笞辱を受けたことがなく、服従せず、弘靖は彼を拘禁した。その夜、軍が乱を起こし、弘靖を薊門館に囚え、その家財や婢妾を掠奪し、韋雍らを捕らえて殺した。判官張澈は就任したばかりで、殺されずに済み、弘靖と共に囚われた。折しも詔使が到着したので、張澈は弘靖に言った、「公はこの土地の人々に背いていない。今、天子の使者が来られた。これに因って衆人に会い弁明すれば、幸いにも脱出して帰ることができましょう。」すぐに門を押して出ようと求めた。衆人はその謀を恐れ、別の館に移そうとした。張澈は大声で罵って言った、「汝ら何ぞ敢えて反逆するか。先日、呉元済は東市で斬られ、李師道は軍中で斬られた。同悪の者は、父母妻子の肉が狗鼠や鴟鴉の腹を満たしたのだ。」衆人は怒り、彼を撃ち殺した。数日後、吏卒は次第に自ら悔い、館に赴いて弘靖に謝罪し、心を改めて彼に仕えようと願った。三度請うても、答えなかった。衆人は言った、「公は我らを赦さぬ。軍中に一日も帥無きことがあろうか。」そこで朱克融を立てて留後を主とさせた。詔して弘靖を太子賓客に貶し、東都に分司させた。さらに吉州刺史に貶した。翌年、幽州を出て、撫州刺史に改め、次第に太子少師に遷った。卒す。六十五歳。太子太保を贈られた。
弘靖の子 文規
裴度が政を執ると、文規を右補闕に引き立てた。裴度が襄陽に出ると、文規は溫令に貶されたが、裴度が奏上して幕府に置いた。累進して吏部員外郎に転じた。右丞韋溫が文規を弾劾し、その父がかつて囚われたとき、逗留して難に赴かなかったとして、省署に任ずるに適さないとした。安州刺史に出され、桂管觀察使で終わった。
文規の子 彥遠
子の彥遠は博学で文辞に優れ、乾符年間に大理卿に至った。
弘靖の子 次宗
次宗は、開成の初めに起居舍人となった。文宗は初めて左右史に命じて螭頭の下に立ち、宰相の奏対を記録させ、退いた後、帝が召し出して是非を審らかに正させた。故に開成の時の事柄が最も詳しい。職務に適っているとして、兼ねて集賢院直学士となった。文規が左遷されると、国子博士・史館修撰に改めた。李德裕が再び国政を執ると、彼を考功員外郎に引き立て、知制誥を兼ねさせた。澧・明二州刺史に出て、卒した。
次宗の孫 茂樞
孫の茂樞、字は休府、進士に及第した。天祐年間、累進して祠部郎中となり、知制誥を兼ねた。柳璨の事件に連座して、博昌尉に貶された。
嘉貞の弟 嘉祐
源乾曜
開元の初め、邠王府の吏が法を犯したので、玄宗は左右に命じて王のための才ある長史を求めさせた。太常卿姜交が乾曜を推薦し、梁州都督から召し出されて見えると、神気爽やかで澄み、応対に序があった。帝はこれを喜び、少府少監に抜擢し、兼ねて邠王府長史とした。累進して尚書左丞となった。四年、黄門侍郎・同紫微黄門平章事に拝された。一ヶ月余りして、姚崇と共に罷免された。
八年、再び黄門侍郎・同中書門下三品となり、進んで侍中となった。建言して言う、「大臣の子息は皆京職を求め、俊才は概ね外官に任ぜられ、公平な施しの道ではありません。臣の三息とも皆京師に任官しておりますので、二人を外任に出し補わせ、自ら近くより始めることを示したい」と。詔はこれを許可した。そこで子の河南参軍弼を絳州司功とし、太祝潔を鄭尉とした。詔して言う、「乾曜自ら庶僚を率いて譲り、既にその子を外任に出させた上、また下位に遷している。『伝』に云わぬか、『范宣子譲る、其の下皆譲る』、『晋国の人は、ここに大いに和す』と。道の行われんとする時、仁は豈に遠からんや。文武の官で父子兄弟三人在京司にある者は、分かれて外任に就かせよ」と。これにより公卿の子弟は皆出て補外された。
帝は嘗て自らその考課を較べ、張説と共に賜与された。時に議する者が言う、「国の執政は休戚を共にするものであり、異を崇めなければ功を責めることができない」と。帝は乃ち詔して、中書・門下に共に実封三百戸を食わせ、堂封はここに始まった。
東封より還り、尚書左丞相となり、侍中を兼ねた。久しくして侍中を罷め、太子少師に遷った。祖の名を避け、改めて少傅を授かり、安陽郡公となった。帝が東都に幸された時、老疾のため陪扈に堪えられなかった。卒し、幽州大都督を贈られた。
乾曜の性質は謹直慎重であり、その初め仕えた時は既に四十余歳で、歴任した官は皆清慎恪敏をもって名を得た。相となって十年、張嘉貞・張説・李元纮・杜暹と共に政を執り、内にあって未だ嘗て廷議で可否を論ずる事なく、晩節は唯々として連署するのみで、寛平惇大を務めたので、咎め悔いることが少なかった。姜交が嘉貞に排せられ、罪を得たが、終に申し救わず、君子はこれを譏った。
曜の族孫 光裕
族孫の光裕もまた有名で、官に居て清願と号され、諸弟を撫でて義に友であった。中書舎人となり、楊滔・劉令植と共に『開元新格』を刪著した。尚書左丞を歴任し、諸司長官を選んで刺史とする時、光裕は鄭州に任じられ、世の良吏とされた。官において卒した。
光裕の子 洧
子の洧は、雍睦をもって家を保ち、士友に推された。天宝中、給事中・襄州刺史となった。安禄山が河・洛を犯すと、江陵大都督長史として賊を防ぎ、卒し、礼部尚書を贈られ、謚して懿といった。
裴耀卿
裴耀卿、字は煥之、寧州刺史守真の次子である。数歳にして文を属することができ、童子挙に擢でられ、稍く遷って秘書省正字・相王府典籤となり、掾の丘悦・文学の韋利器と更直し、顧問に備え、府中で「学直」と号された。王が帝位に即くと、国子主簿を授かり、累遷して長安令となった。旧来より配戸和市の法があり、人は厭い苦しんでいたが、耀卿は一切豪門の坐賈に責め、予め直を給し、僦欺の弊を絶った。去る時、人はこれを思った。
済州刺史となった。済は走集に当たり、地は広くして戸は少なかった。天子が東巡されるに当たり、耀卿は三梁十驛を置き、科斂を均しく省き、東州の知頓で最となった。封禅より還り、宋州に次いだ時、従官を宴し、帝は甚だ歓び、張説に謂って言った、「先日出使して天下を巡り、風俗を観、吏の善悪を察したが、実を得られなかった。今朕が岱宗に事あり、而して懐州刺史王丘は餼牽の外他に献ずる所なく、我は其の恩を市せざるを知る。魏州刺史崔沔は使を遣わして供帳すれども錦繡を施さず、我に倹を示す。此れ以て政を観るべし。済州刺史裴耀卿は数百言を上書し、『人或いは重く擾されば、則ち以て成を告ぐるに足らず』と至る。朕は書を座右に置き以て自ら戒む。此れ其の人を愛するなり」と。
俄かに宣州に徙った。此より先、大水があり、河防が壊れ、諸州は敢えて擅に役を興さなかった。耀卿は言った、「至公に非ざるなり」と。乃ち躬から作役を護り、未だ畢わらざるに、詔有りて官を徙む。耀卿は功の成らざるを懼れ、即ち宣べずして、撫巡飭厲愈急であった。堤成りて、詔を発して去った。済人は碑を立てて徳を頌した。冀州を歴て、入朝し戸部侍郎を拝した。
開元二十年、信安王禕に副って契丹を討ち、又帛二十万を賜って功ある奚官に賜ることを持した。耀卿は言った、「幣は寇境に渉る。備えざるべからず」と。乃ち先ず期を約し、而して道を分かちて之を賜い、一日で畢わった。突厥・室韋は果たして険を邀えて来襲したが、耀卿は既に還っていた。
二十四年、尚書左丞相を以て罷められ、趙城侯に封ぜらる。夷州刺史楊浚、贓に坐して死に抵る。詔有りて杖六十、古州に流す。耀卿上言す、「刺史・縣令は諸吏と異なり、人の父母たり、風化の瞻る所なり。今裸躬をして笞を受けしむるは、事甚だ逼辱に過ぎたり。法死に至れば、則ち天下之を共にす。然れども一朝下吏に下り、屈挫牽頓せられ、民且つ哀憐せんとす。是れ免死の恩を忘れ、而して傷心の痛み有らんとす。恐らくは守長を崇め、風俗を勧むるの意に非ざるべし。又雑犯死に抵るも杖刑無く、必ず三覆して後に決す。今は時に非ずして覆さず、或いは其の命を夭さん。是れ以て之を寬宥するに非ざるなり。凡そ大暑に囚を決すれば多く死し、秋冬にして乃ち全き者有り。請ふ今死を貸し杖を決し、盛夏生長の時に会ひて並びに停めば、則ち再生の実有らん」と。
是の時、特進蓋嘉運、突騎施を破りて還り、詔して河西・隴右節度使と為し、因りて吐藩を経略せしむ。嘉運、新たに功を立てたるを以て、日に酣遨して未だ屯に赴かず。耀卿帝に言ふ、「嘉運精勁勇烈誠に余り有り。然れども臣其の誇言驕色を見るに、窃かに之を憂ふ。恐らくは事を立つるに足らざるべし。今盛秋辺を防ぎ、日月已に薄し。当に軍中の士卒と相見ゆべし。若し素より講ぜずんば、一時に決するも、恐らくは制勝萬全の義に非ざるべし。且つ兵未だ訓に及ばず、法を知ること能はず。士未だ恵を懐かず、心を共にすべからず。幸ひにして功有るとも、師を出して律するの善に非ざるなり。又萬人の命将に倚る。已むを得ざるを示す故に、兇門を鑿ちて出づ。今酣呶朝夕し、胖肆自ら安んず。人を愛し国を憂ふる者に非ざるなり。察せざるべからず。苟くも帥を易えざれば、宜しく厳詔をして申し約め、以て其の行を督うべし」と。帝乃ち嘉運を促して部に詣らしむ。卒に功無くして還る。
天寶初め、尚書左僕射に進み、俄かに右僕射に改め、而して李林甫之に代わる。上の日、林甫本省に到り、具に朝服劍佩し、博士導き、郎官案を唱ふ。礼畢りて、就きて耀卿の聽事に詣る。乃ち常服にて、贊者を以て主事導き唱はしむ。林甫驚きて曰く、「班爵公と同じくして、礼数異なるは何ぞや」と。耀卿曰く、「比眩に苦しみ、重衣に堪へず。又郎・博士紛泊す。病士の宜しくすべきに非ず」と。林甫黙然として慚づ。一歳を居て卒す。年六十三。太子太傅を贈られ、謚して文獻と曰ふ。子綜、吏部郎中。綜の子佶。
耀卿の孫 佶
佶、字は弘正、幼にして文を能くす。進士に第し、校書郎を補し、判等高く、藍田尉を授かる。德宗詔して畿縣の民を発し奉天を城せしむ。嚴郢京兆と為り、政刻急なり。本曹の尉韋重規の妻乳し且つ疾有り、敢へて免れず。佶役に代はらんことを請ひ、程の如くに要し、当時其の義を称す。
帝梁に幸す。佶奔りて行在に見え、補闕を授かる。李懷光河中に叛す。佶建議して討つことを請ふ。帝深く之を器とす。詔して盧杞を用ひて饒州刺史と為さんとす。諫官と執りて不可とす。歴りて諫議大夫に遷る。黔中觀察使。韋士文夷獠に逐はる。詔して佶をして之に代はらしむ。部夷安服す。
歴りて同州刺史・中書舍人、尚書右丞に遷る。時に李巽兵部尚書を以て鹽鐵を領す。将に使局を遷して本曹に就かんとす。経構已に半ばす。会ひ佶至る。以て不可と為す。巽恩に怙りて強しと雖も、猶之を撤す。時に其の守有るを重んず。吏部侍郎に改め、疾を以て国子祭酒・工部尚書と為る。卒す。吏部尚書を贈られ、謚して貞と曰ふ。
贊
贊して曰く、開元の盛んなりし、置く所の輔佐、皆賢才を得たり。若し然らざる者は張・源等の如きも、猶職事に惓み、其の建明する所足りて称道すべき有り。朝に君子多し。信に太平の基なるかな。張氏三世宰相たり。然れども器に窮する所有り。嘉貞は俗に窮し、延賞は忮に窮し、弘靖は権に窮す。惜しいかな。