新唐書

巻一百二十六 列傳第五十一 魏知古 盧懷慎 李元纮 杜暹 張九齡 韓休

魏知古

魏知古は深州陸沢の人である。方正で雅才あり、進士に及第した。著作郎として国史を修め、累遷して衛尉少卿、検校相王府司馬となった。神龍初年、吏部侍郎となったが、母の喪のため解任された。喪が明けて、晋州刺史となった。睿宗が即位すると、旧属であったので黄門侍郎に任じられ、国史修撰を兼ねた。

時に金仙観・玉真観の造営があり、盛夏であったが、工事は厳しく急がせた。知古は諫めて言うには、「臣は聞く、『古の君人たる者は、必ず時に人の勤むる所を視る。人が力に勤むれば則ち功築は稀なり、人が財に勤むれば則ち貢賦は少なく、人が食に勤むれば則ち百事は廃す』と。故に『益なきを作して益あるを害することなかれ』と言い、また『百姓を咈えて以て己の欲に従うことなかれ』と言う。《礼》に、『季夏の月は、樹木方に盛んなり、斬伐有ること無く、土功を興すべからず』とある。これ皆、化を興し治を立て、政を為して人を養う本である。今、公主のために観を造り、以て功を樹て福を祈らんとするが、その地は皆百姓の宅する所であり、卒然として迫逼し、彼らに転徙を命じ、老いを扶け幼を携え、椽を剔ぎ瓦を発して、道路に呼嗟する。人事に乖き、天時に違い、無用の作を起こし、不急の務を崇くす。群心震動し、衆口藉藉たり。陛下は人の父母として、何を以てか之を安んぜんとするか。且つ国に簡冊有り、君の挙げることは必ず記され、言動の微なるもの、慎まざるべけんや。願わくは明詔を下し、人欲に順い、功役を除き、桑榆に収めよ、その失遠からじ」と。聞き入れられなかった。再び諫めて言うには、「陛下が兇逆を戡翦し、大器を保定してより、蒼生は顒顒として、朝に新政有りと謂う。今、風教頽替すること日を逐うて甚だしく、府蔵は空屈し、人力は労敝し、営作は涯無く、吏員は浸増し、諸司の試補・員外・検校官は既に二千を贏え、太府の帛は殫き、太倉の米は支えず。臣が前に金仙・玉真を停めよと請うたが、結局止まなかった。今、前は水、後は旱、五穀立たず、茲より春に向かえば、必ず甚だ饑饉ならん。陛下は何の方を以てか之を賑わんとするか。又、突厥の中国に於ける患は久しきよりあり、その人は礼義誠信を以て約すべからざる者なり。使を遣わして請婚すと雖も、恐らくは豺狼の心、弱ければ則ち順伏し、強ければ則ち驕逆し、月満ちて騎肥え、中国の饑虚に乗じ、講親の際会に、亭鄣を窺犯せん。復た何を以てか之を防がん」と。帝はその直を嘉し、左散騎常侍さんきじょうじ同中書門下三品とした。玄宗が春宮に在った時、また左庶子を兼ねた。

先天元年、侍中となった。渭川に従獵し、詩を献じて諷し、手制を以て褒答し、併せて物五十段を賜った。翌年、梁国公に封ぜられた。竇懐貞らが詭謀を以て国を乱さんとした時、知古は密かにその奸を発し、懐貞は誅され、二百戸を賜封し、物五百段を賜った。玄宗は以前の賞が薄かったことを恨み、手勅を以て更に百戸を加え、その著しい節を旌した。この冬、東都吏部選事を掌るよう詔され、称職と聞こえ、優詔を以て衣一具を賜った。此より恩意特に渥く、黄門監より紫微令に改めた。姚元崇と協わず、工部尚書に除かれ、政事を罷めた。開元三年に卒す。享年六十九。宋璟聞いて嘆じて曰く、「叔向は古の遺直、子産は古の遺愛、之を兼ねる者は其れ魏公か」と。幽州都督ととくを贈られ、諡して忠といった。

薦挙した洹水令呂太一・蒲州司功参軍斉浣・右内率騎曹参そうしん軍柳沢・密尉宋遙・左補闕袁暉・右補闕封希顔・伊闕尉陳希烈は、後皆時に聞こえた。

文宗大和二年、その曾孫の処訥を求め、湘陽尉に授け、魏徴・裴冕の後裔と共に擢任した。

盧懐慎

盧懐慎は滑州の人、蓋し范陽の著姓である。祖の悊は霊昌令に仕え、遂に県人となった。懐慎は童草の時より既に凡ならず、父の友である監察御史韓思彦が嘆じて曰く、「此の児の器は量るべからず」と。長じて、進士に及第し、監察御史を歴任した。神龍年中、侍御史に遷った。中宗が武后の上陽宮に謁した時、后は帝に十日に一朝するよう詔した。懐慎は諫めて言うには、「昔、漢高帝は天命を受け、五日に一度太公たいこうに櫟陽宮に朝し、以て布衣より皇極に登り、子として天下有り、尊は父に帰する故、此を行ったのである。今、陛下は文を守り統を継ぐ、何を取って法とせんとするか。況んや応天宮より提象門まで纔か二里ばかり、騎は列を成すを得ず、車は軌を方うるを得ず、此に於て屡出すれば、愚人の万に一も属車の塵に犯すこと有らんには、罪すと雖も何ぞ及ばん。臣愚かには謂う、内朝に遵い以て温清を奉り、出入を煩わすこと無きに宜しと」と。省みられなかった。

右御史臺中丞に遷った。上疏して時政を陳べて曰く、

臣は聞く、「善人邦を為すこと百年、以て残を勝ち殺を去るべし」と。孔子は称して、「苟も我を用うる者あらば、期月のみ、三年にして成る」と。故に《書》に「三載功績を考へ、三考幽明を黜陟す」と。昔、子産が鄭に相たり、法令を更え、刑書を布く、一年にして人怨み、之を殺さんと思い、三年にして人徳して之を歌う。子産は賢者なり、其の政を為すに尚お累年にして後成る。況んや常材をや。比来、州牧・上佐・両畿の令は或は一二歳、或は三五月にして即ち遷り、曾て課最を論ぜず。未だ遷らざる者をして耳を傾けて聴かしめ、踵を企てて望ましむ。冒進して廉を亡い、亦何の暇か有らんや、陛下の為に風を宣べ人を恤むに。礼義興さず、戸口益々流れ、倉庫愈々匱し、百姓日々に敞くは、職として此の為り。人は吏の久からざるを知り、其の教に率わず。吏は遷の遥かならざるを知り、其の力を究めず。徒らに爵位に処り、以て資望を養う。明主と雖も天下を勤労するの志有りと雖も、然れども僥幸の路啓き、上下相蒙い、寧くも尽く至公ならんや。此れ国の病なり。賈誼の所謂る蹠盩は、乃ち小小なる者に過ぎぬ。此れを革めざれば、和・緩と雖も将に為す能わざるべし。漢宣帝は名実を綜核し、治を興し化を致す。黄は良二千石なり、秩を加え金を賜い、就いて其の能を旌し、終に肯て遷さず。故に古の吏と為る者は、長じて子孫に至る。臣請う、都督・刺史・上佐・畿令は任未だ四考せざれば、遷すべからず。若し治に尤異有らば、或は車裘禄秩を加賜し、使を降して臨問し、璽書を以て慰勉し、公卿の闕有るを須ち、則ち之を擢げて以て能者を励ますべし。其の職にせず或は貪暴なる者は、免じて田里に帰し、以て賞罰の信を明らかにすべし。

昔、唐・虞は古に稽え、官を建つること惟百。夏・商は官倍すと雖も、亦克く用いて乂ぶ。此れ官を省くなり。故に曰く「官必ずしも備えず、惟だ其の才」、「庶官を曠くすること無く、天工は人其れ之に代わる」と。此れ人を択ぶなり。今、京諸司の員外官、数十倍す。近古未だ有らざる所なり。必ずしも備えずと謂えば、則ち余り有りと為し、其の工に代わるを求めれば、乃ち多く務を厘せず。而して奉稟の費、歳巨億万、徒らに府蔵を竭し、豈に治を致すの意ならんや。今、民力敞極し、河・渭広漕も、京師に給せず、公私耗損し、辺隅未だ静かならず。儻し炎暵沴を成し、租税減入し、疆塲警有らば、賑救年無く、何を以てか之を済えん。「人事を軽んずること毋れ、惟だ艱し。闕位に安んずること毋れ、惟だ危し」と。此れ微を慎むなり。員外の官を原れば、皆一時の良幹、才を以て擢げられて其の用を申さず、名を以て尊ばれて其の力を任ぜず。昔より人を用うる、豈に然らんや。臣請う、才牧宰上佐に堪うる者は、並びに遷授し、力を四方に宣べさせ、治状を以て責めよ。老病有り若しくは職に任ぜざる者は、一に之を廃省し、賢不肖確然として殊貫せしめよ。此れ切務なり。

寵賂に冒され、鰥寡を侮るは、政の蠹なり。窃かに見るに、内外の官に賕餉狼藉、蒸人を劓剝する者有り、流黜に坐すと雖も、俄かに遷復し、還って牧宰と為り、江・淮・嶺・磧に任ずるは、粗かに懲貶を示すのみにして、内には自棄を懐き、貨に徇い貲を掊み、終に悛心無し。明主の万物に於けるや、平分して偏施無く、罪吏を以て遐方を牧するは、是れ奸を恵みて遠を遺すと謂うなり。遠州の陬邑、何ぞ聖化に負いて、独り其の悪政を受くべきや。辺僥の地、夷夏雑処し、険に憑り遠に恃みて擾し易く安んじ難し。官其の才に非ざれば、則ち黎庶流亡し、起って盗賊と為る。此れに由りて言えば、凡才を用うべからず、況んや猾吏をや。臣請う、贓を以て論じて廃する者は、跡を削り数十年、収歯を賜わざらんと。《書》に曰く「淑慝を旌別す」と、即ち其の誼なり。

疏を奏す。報いず。

黄門侍郎・漁陽県伯に遷る。魏知古と分かれて東都の選を領す。開元元年、同紫微黄門平章事に進む。三年、黄門監に改む。薛王の舅王仙童、百姓に暴あり、憲司其の罪を按じて得たり。業として申列せしむ。詔有りて紫微・黄門に覆実せしむ。懷愼と姚崇、執奏して「仙童の罪状明らかに甚だし。若し御史を疑わしむれば、則ち他人何をか信ぜん」と。是れに由りて獄決す。懷愼自ら才崇に及ばずと為し、故事皆推して専らにせず。時に譏りて「伴食の宰相」と為す。又吏部尚書を兼ね、疾を以て骸骨を乞う。許す。卒す。荊州大都督を贈り、謚して文成と曰う。遺言して宋璟・李傑・李朝隱・盧從願を薦む。帝悼嘆す。

懷愼は清儉にて産を営まず、服器に金玉文綺の飾り無し。貴しと雖も妻子猶お寒饑す。得る所の禄賜、故人親戚に計惜する所無く、随って散じ輒ち尽く。東都に赴き選を掌るに、身を奉ずるの具、止むるに一の布囊のみ。既に疾に属す。宋璟・盧從願之を候う。敞簀単藉を見、門に箔を施さず。会いて風雨至る。席を挙げて自ら障う。日晏れて食を設く。蒸豆両器・菜数杯のみ。臨別、二人の手を執りて曰く「上治を求むること切なり。然れども国を享くること久しく、稍々勤めに倦み、将に憸人の間に乗じて進まんとす。公第に之を誌せ」と。喪を治むるに及び、家に留儲無し。帝時に将に東都に幸せんとす。四門博士張星上言す「懷愼忠清、直道を以て終始す。優錫を加えざれば、善を勧むる無し」と。乃ち制を下して其の家に物百段・米粟二百斛を賜う。帝後京に還り、校獵に因り杜の間、懷愼の家を望む。環堵庳陋、家人営む所有るが若し。馳せて使をして問わしむ。還りて白す懷愼の大祥なりと。帝即ち縑帛を以て之を賜い、狩を罷む。其の墓を経る。碑表未だ立たず。蹕を停めて臨視し、泫然として涕を流す。詔して官に碑を立たしめ、中書侍郎蘇颋をして之が文を為らしむ。帝自ら書す。

懷愼の子 奐

奐は、早くより修整し、吏と為りて清白の称有り。御史中丞を歴て、出でて陜州刺史と為る。開元二十四年、帝西還し、陜に次ぐ。其の美政を嘉し、賛を聽事に題して曰く「専城の重、分陜の雄、亦既に物に利し、内に匪躬を存す、斯れ国宝と為り、家風を墜さず」と。尋いで召されて兵部侍郎と為る。天宝初め、南海太守と為る。南海は水陸の都会を兼ね、物産瑰怪なり。前守劉巨鱗・彭杲皆贓を以て敗る。故に奐を以て之に代う。汚吏手を斂め、中人の市舶する者も亦其の法を干するを敢えず。遠俗安んず。時に謂う開元後四十年、広を治めて清節有る者は、宋璟・李朝隱・奐三人のみと。尚書右丞に終わる。弈は『忠義傳』に見ゆ。

李元紘

李元紘、字は大綱。其の先は滑州の人。後世京兆萬年に占む。本姓は丙氏。曾祖粲、隋に仕えて屯衛大将軍と為り、煬帝京師の西二十四郡の盗賊を督せしむ。撫循に善く、能く士心を得。高祖こうそ之と厚し。兵関に入るに及び、衆を以て帰す。宗正卿・応国公を授け、姓を李と賜う。後左監門大将軍と為り、其の老を以て、馬に乗り宮禁を按視するを聴す。年八十余にして卒す。謚して明と曰う。祖寛、高宗の時に太常卿・隴西公と為る。父道広、武后の時に汴州刺史と為り、善政有り。突厥・契丹河北を寇す。河南の兵を発して之を撃たんと議す。百姓震擾す。道広悉心に撫定し、人離散すること無し。殿中監・同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜらる。卒す。秦州都督を贈り、謚して成と曰う。

元紘は、早くより修謹し、仕えて雍州司戸参軍と為る。時に太平公主勢天下を震わす。百司風指を望みて順う。嘗て民と碾硙を競う。元紘之を民に還す。長史竇懷貞大いに驚き、趣いて之を改めしむ。元紘大いに判後に署して曰く「南山移る可くも、判は動かす可からず」と。好畤令に改め、潤州司馬に遷り、辦治を以て名を得。開元初め、萬年令と為り、賦役平なりと称せらる。京兆少尹に擢でらる。詔して三輔の渠を決す。時に王・主・権家皆渠の傍に硙を立て、瀦堨して利を争う。元紘吏を敕し尽く之を毀たしめ、分かって渠下の田に溉ぎ、民其の恩に頼る。三遷して吏部侍郎と為る。会いて戸部楊玚・白知愼支調失宜に坐し、刺史に貶せらる。帝代わる可き者を求む。公卿多く元紘を薦む。帝尚書に擢でんと欲す。宰相資薄を以てす。乃ち戸部侍郎と為る。利害及び政の得失を条陳す。帝之を才し、丞輔に可しと謂い、衣一称・絹二百匹を賜う。明年、遂に中書侍郎・同中書門下平章事を拝し、清水県男に封ぜらる。

元紘国に当たり、務めて涯検を峻くし、奔競を抑え、誇進する者之を憚る。五月五日、武成殿に宴し、群臣に襲衣を賜う。特だ紫服・金魚を以て元紘及び蕭嵩に錫い、群臣之と比ぶる者無し。是の時、京司の職田を廃す。議者屯田を置かんと欲す。元紘曰く「軍国同じからず、中外制を異にす。若し人閑役無く、地棄てられて墾らされず、閑手を以て棄地を耕し、饋運を省き、軍糧を実せば、是れに於いて屯田有り。其の益と為す尚おなり。今百官の廃する所の職田一県に一ならず、聚む可からず。百姓の私田皆力自ら耕す、取る可からず。若し屯を置かば、即ち当に公私相易え、丁夫を調発すべし。調役すれば則ち業家に廃し、庸を免ずれば則ち賦国に闕く。内地を屯と為すは、古未だ有らざるなり。恐らくは得を以て失を補わず、徒らに煩費と為さん」と。遂に止む。初め、左庶子呉兢史官と為り、『唐書』及び『春秋』を撰す。未だ成らず。喪を以て解く。後上書して其の功を畢んぜんことを請う。詔して集賢院に就きて書を成すを許す。張説致仕す。詔して家に在りて史を修めしむ。元紘因りて言す「国史は人君の善悪・王政の損益を記し、褒貶の繫る所、前聖尤重し。今国の大典、分散して一ならず。且つ太宗別に史館を禁中に置くは、以て之を秘厳せしむるなり。請う説を勒して書を以て館に就き、参会して撰録せしめん」と。詔して可とす。

後杜暹と協わず、数え帝の前に辨爭す。帝懌せず。皆之を罷む。元紘を以て曹州刺史と為し、蒲州に徙す。疾を引いて去る。後戸部尚書を以て致仕し、復た起きて太子詹事と為る。卒す。太子少傅を贈り、謚して文忠と曰う。

李元紘は二代にわたる宰相であり、清廉な節操を有し、国政を執ること累年、未だ嘗て邸宅を改築せず、従僕や馬は貧弱であったが、封物を得ては親族に施し与えた。宋璟は嘗て嘆じて曰く、「李公は宋遙の美を引き立て、劉晃の貪を退け、国相たりながら、家に留め置く蓄え無し、仮に季文子の徳と雖も、何を以て之に加えんや」と。

杜暹

杜暹は、濮州濮陽の人である。父の承誌は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の李文柬が人に告発され、詔により承誌が推問検証したが、事実無かった。文柬は宗室の近縁であったが、結局罪を得、承誌は方義令に貶せられ、天官員外郎に遷った。羅織の獄が起こるのを見て、病を理由に職を去り、家で卒した。

高祖から暹に至るまで、五世同居した。暹は特に恭謹で、継母に仕えて孝行であった。明経に及第し、婺州参軍に補せられ、任期満了して帰る時、役人が紙一万帖を餞別として贈ったが、暹は百帖だけ受け取り、人々は嘆じて曰く、「昔の清吏が一大銭を受け取ったことと、何の違いがあろうか」と。鄭尉となり、再び清廉な節操を顕わした。華州司馬の楊孚は、公正剛直な人で、常に暹を諮問して重んじた。会に孚が大理正に遷る時、暹は丁度累が及んで罪に当たろうとしたので、孚は曰く、「若しこの人に罪を得させたら、人々はどうして勧められようか」と。状況を執政に言上し、これによって大理評事に抜擢された。

開元四年、監察御史として磧西の屯戍を巡察した。会に安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が互いに訴え合い、詔により暹が即時に審理した。突騎施の帳幕に入り、証拠を徹底的に探求した。虜は金を暹に贈ったが、暹は固く辞退した。左右の者が曰く、「公は絶域に使いする者、戎狄の心を失うべからず」と。そこで受け取ったが、密かに幕の下に埋めた。既に国境を出てから、文書を送ってそれを受け取らせた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追ったが及ばず、去った。給事中に遷り、母の喪のため解任された。会に安西都護の張孝嵩が太原尹に遷り、或る者が言うには、暹が以前安西に使いした時、虜はその清廉に伏し、今なお慕い思っていると。そこで喪服を奪って黄門侍郎兼安西副大都護に拝せられた。明年、于闐王の尉遅朒が突厥諸国と謀って叛こうとしたので、暹はその謀を察知し、兵を発して討ち斬り、支党を悉く誅し、新たに君長を立てたので、于闐は遂に安んじた。功により光禄大夫を加えられた。辺境を守ること四年、戎狄を撫で士卒を練り、自ら勤勉に励み、夷夏ともに喜んだ。

十四年、同中書門下平章事に召され、中使を遣わして迎えられた。謁見し、絹二百匹、馬一匹、邸宅一区を賜った。李元紘と軽重を得ず、罷められて荊州都督長史となり、魏州刺史・太原尹を歴任した。帝が北都に行幸した時、戸部尚書に進み、行幸に随従することを許された。還御し、再び東幸するに当たり、暹を京師留守とした。暹は当番の衛士を率いて三宮の城を修繕し、池を浚い、工事を監督して少しも怠らなかった。帝は聞いてこれを嘉し、数度書を賜って褒め労い、礼部尚書に進め、魏県侯に封ぜられた。

二十八年に卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を遣わして喪を護り、禁中より絹三百匹を出して賜った。太常が諡して貞肅と曰うた。右司員外郎の劉同升等は、暹の行いが忠孝であるとして、諡が未だ尽くされていないとし、博士の裴総は、暹がかつて墨衰(喪服)の身で安西の命を受け、国に勤労したとは雖も、孝を尽くすことができなかったと謂うた。その子が訴え出たので、帝は更に有司に考定させ、遂に貞孝と諡した。

暹は友愛で、異母弟の昱を大いに厚く養育した。その人となりは学術に乏しく、故に朝廷での議論は、時として浅薄に失することがあった。然しながら公清・勤約を以て自らを律し、勤勉に努め、弱冠の時より親友からの贈り物を受けないと誓い、終身貫いた。卒した後、尚書省及び旧吏が賻を致したが、その子の孝友は一切受けず、暹の平素の志を行ったという。

暹の族子に鴻漸がいる。

族子 鴻漸

鴻漸は字を之巽という。父の鵬挙は、盧蔵用と共に白鹿山に隠れていたが、母の病気のため、崔沔と共に蘭陵の蕭亮に医術を授かり、遂にその術を極めた。右拾遺を歴任した。玄宗が河東に行幸した時、遊猟に耽ったので、上賦して諷諫した。安州刺史で終わった。

鴻漸は進士に及第し、初官は延王府参軍となり、安思順が表して朔方判官とした。安禄山の乱が起こり、皇太子が平涼で軍を整えたが、どこに向かうべきか知らず、蕭関を出て豊安に向かうことが議論された。鴻漸は六城水運使の魏少遊・節度判官の崔漪・支度判官の盧簡金・関内塩池判官の李涵と謀って曰く、「胡羯が常を乱し、二京は覆没した。太子は平涼で兵を治めるが、然れども散地は頼み難い。今、朔方は制勝の機会であり、若し太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と結べば、回紇は元より我が国と親しく、その精鋭騎兵を収め、大軍と合し、鼓を鳴らして南進すれば、社稷の恥を雪ぐことは、また難からぬではなかろうか」と。即ち兵馬を招集する情勢を詳細に上奏し、且つ軍資・器械・貯蔵倉庫の凡そを記録し、李涵をして平涼に赴かせ太子に謁見させた。太子は大いに喜んだ。会に裴冕が河西から至り、また朔方を勧めた。そして鴻漸と崔漪は白草頓まで出迎え、説いて曰く、「朔方は天下の精兵の地、霊州は用武の地です。今、回紇は和を請い、吐蕃は結び付き、天下の諸城は堅く守り、王命を待っています。仮に賊に占拠されたとしても、日夜官軍を望み、収復を図っています。殿下が兵を治めて長駆すれば、逆胡を滅ぼすに足りません」と。太子は喜んで曰く、「霊武は我が関中であり、卿は我が蕭何しょうかである」と。

霊武に到着すると、鴻漸は即ち裴冕等と共に皇帝の位に即くことを勧め、中外の望みを繋いだ。六度請うて、聞き入れられた。鴻漸は朝儀に明るく習熟し、旧儀を採り、城南に壇壝を設け、先立つ一日にその儀式を草して上奏した。太子は曰く、「聖皇(玄宗)は遠方に在り、寇逆は正に結びついている。壇場は罷めるべきである。その他は奏の如くせよ」と。太子が即位し、これが肅宗である。鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人事を知らせた。間もなく武部侍郎となり、河西節度使に遷った。両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年、襄州の大将康楚元等が反し、刺史の王政は身を脱して逃げ、楚元は偽って南楚霸王を称し、因って荊州を襲撃した。鴻漸は城を棄てて逃げ、人々は皆南へ奔り、舟を争って溺死する者が甚だ多かった。澧・朗・復・郢等の州は鴻漸が出奔したと聞き、皆山谷に逃げ隠れた。間もなく商州刺史の韋倫がその乱を平定した。

久しくして、鴻漸を召して尚書右丞・太常卿とし、礼儀使を充てた。泰陵・建陵の二陵の制度は皆鴻漸が総括して正し、優れた功により衛国公に封ぜられた。また建言して曰く、「『周官』に『凶荒には礼を殺す』とあります。今、大乱を承け、人民は傷み衰えております。その婚葬の鹵簿は、国に対して大功ある者及び二等以上の親でなければ、皆給することを許すべきではありません」と。詔して可とした。

代宗広徳二年、兵部侍郎同中書門下平章事となる。まもなく中書侍郎に進む。崔旰が郭英乂を殺して成都を占拠すると、邛州牙将柏貞節・滬州牙将楊子琳・劍州牙将李昌巙が兵を挙げて旰を討ち、しょく・劍の地は大いに乱れた。鴻漸に命じて宰相として成都尹・山南西道劍南東川副元帥・劍南西川節度副大使を兼ねさせ、鎮撫に赴かせた。鴻漸は性質が臆病で、他に遠大な謀略はなく、晩年は仏道に溺れ、殺戮を恐れた。剣門を越えるに及び、張献誠の敗北を戒めとし、かつ旰の雄武を憚って、先ず不死を許した。旰に会うと、礼遇して敢えて譴責を加えず、かえって政務を委ね、日々従事の杜亜・楊炎と酒を縦にし高会し、そこで旰を成都尹に推薦し、貞節を邛州刺史に、子琳を滬州刺史に授け、それぞれ兵を罷めさせた。そこで入朝を請い、許された。帝に拝謁すると、旰の威略が任用に値し、留後とすべきであると盛んに言上した。宝器五床・羅錦十五床・麝臍五石を献上した。再び政務を補佐した。議者はその長乱を憎んだ。門下侍郎に進む。大暦三年、東都留守・河南淮西山南東道副元帥を兼ねたが、病を理由に行かなかった。また山南・劍南副元帥を譲り、これを聴許された。四年、病が重くなり、宰相を辞し、罷免されて三日後に卒した。享年六十一。太尉を追贈され、文憲と諡された。

鴻漸は蜀より還ってより、千人の僧に食事を施し、報いがあると考え、搢紳がこれを倣った。病が甚だしくなると、僧に命じて項の髪を剃らせ、遺言して仏法に依って葬るよう命じ、封樹をしなかった。

張九齡

張九齢、字は子寿、韶州曲江の人。七歳にして文を綴ることを知り、十三歳で書を以て広州刺史王方慶に干謁し、方慶は嘆じて言う、「必ず遠大なところに至るであろう」。時に張説が嶺南に謫せられ、一度会って厚く遇した。父の喪に服し、哀毀して、庭中の木が連理となった。進士に擢第し、初め校書郎に任じられ、道侔伊呂科の策問で高第となり、左拾遺となった。時に玄宗即位し、未だ郊祀を行わず、九齢は建言した。

天は百神の君であり、王者の命を受ける由縁である。古より統を継ぐ主は、必ず郊祀で配享する。これは天命を敬い、受けたところに報いるためである。徳沢が未だ行き渡らず、年穀が未だ登らないことを以て、その礼を欠くことはない。昔、周公が郊祀して后稷を以て天に配したが、成王が幼沖であり、周公が摂政の位にあっても、なおその礼を用いたのは、廃してはならないことを明らかにしたのである。漢の丞相匡衡は言う、「帝王の事、郊祀より重きは莫し」。董仲舒もまた言う、「郊祀せずして山川を祭るは、祭の序を失い、礼に逆らう。故に『春秋』はこれを非とする」。臣は衡・仲舒を古の礼を知る者と謂う。皆、郊祀の祭が先ず行われるべきであるとしている。陛下は聖なる統緒を継承され、今に至って五載、未だ大報の礼を行わず、経典に照らせば、義が通じないところがある。今、百穀は嘉く生え、鳥獣は皆順調であり、夷狄は内附し、兵革は用いられず、しかるに事天を怠るのは、恐らく以て模範とすべきではない。願わくは迎日の至る日に、紫壇に登り、采席を陳べ、天位を定められよ。そうすれば聖典に遺漏はない。

また言う。

政に乖いた気は、水旱となって発する。天道は遠しといえども、その応は甚だ近い。昔、東海で孝婦を枉げて殺せば、天は久しく旱魃した。一吏が明らかでなく、匹婦が非命に斃れれば、天はその冤を明らかにする。ましてや天下の民衆は、その命を県令に懸け、その生を刺史に託している。陛下が共に治めるところ、人に特に親しい者ではないか。もしその任に適さなければ、水旱の由来は、ただ一婦人のみではあるまい。今、刺史は、京輔の雄望の郡においてさえ、なお選択が少なく、江・淮・隴・蜀・三河の大府以外は、次第にその人を得ていない。京官より出る者は、あるいは身に累があり、あるいは政に状なく、牧守の任を用いて、斥逐の地としている。あるいは附会によって高位を忝なくし、勢力が衰えると、京職に不称であると言って、州に出している。武夫・流外の者は、資を積んで得るのみで、才を計らない。刺史がこのようであるならば、県令は尚言うに足りようか。民衆は国家の根本であり、本を務める職務が、好んで進む者に軽んじられ、弊を承ける民が、不肖の者に擾乱されるならば、聖化はここより銷郁し、親人を選ばないことによってその弊を成すのである。古は刺史が入って三公となり、郎官が出て百里を宰した。今、朝廷の士は入って出ず、その私計においては、甚だ自得している。京師は衣冠の集まる所、身名の出づる所であり、従容として附会し、勤めずして成る。これは大利が内にあって、外にないのである。智能の士で、利を欲する心があれば、どうして再び出て刺史・県令となろうか。国家は智能に頼って治めるが、常に親人を得ないのは、陛下が法を以て革めない故である。臣愚かには、治の本を欲するには、守令を重んずるに如くはないと考える。守令が既に重んぜられれば、能ある者が行うことができる。宜しく遂にその資を科定すべきである。凡そ都督・刺史を歴任しない者は、たとえ高第であれ、侍郎・列卿に任ぜられず。県令を歴任しない者は、たとえ善政があれ、台郎・給事中・中書舎人に任ぜられず。都督・守・令は遠方の者であっても、十年を外任させないようにする。もしこのようにせずしてその失を救わば、恐らく天下は未だ治まらないであろう。

また古の士を選ぶには、ただ称職を取るのみであった。これによって士は素行を修め、僥倖を為さず、奸偽は自ら止み、流品は雑ならなかった。今、天下は必ずしも上古より治まっているわけではないが、事務は日に前に倍している。誠にその本を正さずして末に巧を設けるからである。いわゆる末とは、吏部の条章が千百を挙げて煩雑なことである。刀筆の人は文墨に溺れ、巧みな吏や狡猾の徒は奸に縁って奮い立つ。臣は考えるに、初め簿書を作ったのは、遺忘に備えるためであった。今、反って案牘に精を求め、人材を忽せにするのは、いわゆる流れの中途で剣を遺し、契を舟に刻むようなものである。凡そ吏部の能ある者と称するのは、尉より主簿となり、主簿より丞となる、という文を執って官次を知る者を言うのであり、その賢不肖を論じない。豈に謬ならざらんや。吏部尚書・侍郎は、賢を以て授けられる者である。どうして人を知ることができないのか。もし知ることが難しいならば、十を抜いて五を得る、これでよい。今、格条に膠着し、資に拠って職を配し、官の為に人を択ぶ、という初めの意はなく、故に時に人は平配と誹り、官曹には賢を得る実がない。

臣は選部の法が、変わらないことに弊があると考える。今もし刺史・県令がその人を精核し、管内で歳ごとに選ぶべき者があれば、その才行を考課し、流品に入るべき者をして、然る後に台に送り、また加えて択び、用いる者の多寡を以て州県の殿最とすれば、州県は挙げることを慎み、官にすべき才が多くなり、吏部はその成り行きに因り、庸人の煩わしさはなくなるであろう。今、歳選は万を数え、京師の米物が消耗する。果たして多くの士がいるのか。冒濫がここに至っているのである。一首の詩と一篇の判文を以て、その是非を定めるのは、適かに賢人を遺逸させ、これは明時の闕政である。天下は広く、朝廷は衆くとも、必ず毀誉相乱れ、聴受明らかでなければ、事は已むであろう。もしその賢能を知り、それぞれ品第があれば、一官欠けるごとに、次第を用いずとも、どうして不可であろうか。もし諸司の要官が、下等の者で叨り進むならば、議には高卑なく、ただ得るか得ざるかだけである。故に清議は立たず、名節は修まらず、善士は志を守って後時し、中人は進んで求めて易く操を変える。朝廷が令名を以て人を進めれば、士もまた修名を以て利を得る。利の出づる所、衆の趨く所である。このようでなければ、小は苟求によって得、一変して阿私に至り、大は分義を許して、再変して朋党を成す。故に人を用いるには、その高下を次第づけざるを得ない。高下に次第あれば、妄りに干求することはできず、天下の士は必ず刻意に修飾し、刑政自ら清くなる。これは興衰の大端である。

まもなく左補闕に遷る。九齢は自ら才識を以て、吏部の抜萃科と挙人の試験において、常に右拾遺趙冬曦と共に考査し、詳平と称された。司勛員外郎に改める。時に張説が宰相となり、親しくこれを重んじ、譜系を通じ、常に曰く、「後出の詞人の冠なり」と。中書舍人内供奉に遷り、曲江男に封ぜられ、中書舍人に進む。時に帝が泰山に封禅せんとし、張説は多く両省の録事・主書及び親しい者を引き立てて官を摂せしめ山に登らせ、階を超えて五品に至らしめた。九齢が詔を草すに当たり、張説に謂ひて曰く、「官爵は天下の公器なり、先づ徳望、後に労旧を以てす。今登封して成を告ぐるは、千載の絶典なり。然るに清流は殊恩を隔てられ、胥史に至りては乃ち章韨を濫る。恐らくは制出づれば、四方失望せん。方に草を進めんとす、尚ほ改むるを得べし。公宜しく審計すべし」と。張説曰く、「事已に決す。悠悠の言は慮るに足らず」と。既にして果たして謗りを得たり。御史中丞宇文融は方に田法を事とし、関奏する所あれば、張説は輒ち建議を以てこれに違ふ。融積もりて不平たり、九齢言ふも、張説聴かず。俄にして融等の痛詆を受け、幾ば免れず。九齢も亦た太常少卿に改められ、冀州刺史として出づ。母が郷里を去るを肯はざるを以て、故に表して洪州都督に換ふ。桂州に徙り、嶺南按察選補使を兼ぬ。

初め張説が集賢院を掌りし時、嘗て九齢を薦めて顧問に備ふべしとす。張説卒して後、天子其の言を思い、秘書少監・集賢院学士に召し、院事を掌らしむ。時に渤海に詔を賜はらんとし、而して書命を作るに足る者無し。乃ち九齢を召して之を為さしむ。詔を被りて輒ち成る。工部侍郎に遷り、制誥を掌る。数へて帰養を乞ふも、詔許さず。其の弟九皋・九章を以て嶺南刺史と為し、歳時に驛を給して家を省るを聴す。中書侍郎に遷る。母喪に因りて解く。毀瘠哀に勝へず。紫芝座の側に産し、白鳩・白雀家樹に巣くふ。是の歳、哀を奪ひて中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。固く辞すも、許さず。明年、中書令に遷る。初めて河南に水屯を開くを議し、河南稻田使を兼ぬ。循資格を廃し、十道采訪使を復置すべしと上言す。

李林甫学術無く、九齢の文雅なるを見、帝に知られしを以て、内に之を忌む。時に范陽節度使張守珪、可突幹を斬るの功を以て、帝侍中と為さんと欲す。九齢曰く、「宰相は天に代はりて物を治む。其の人ありて然る後に授く。功を賞するを以てすべからず。国家の敗るるは、官邪よりす」と。帝曰く、「其の名を仮すは若何」と。対へて曰く、「名器仮すべからず。有如東北の二虜を平げば、陛下何を以てか之に加へん」と。遂に止む。又た涼州都督牛仙客を以て尚書と為さんとす。九齢執りて曰く、「不可なり。尚書は古の納言なり。唐家は多く旧相を用ひ、然らざれば、内外の貴任を歴たる、妙に徳望有る者を以て之を為す。仙客は河・湟の一使典のみ。常伯の班に使はんには、天下其れ何と謂はん」と。又た実封を賜はんと欲す。九齢曰く、「漢法は功無くば封ぜず。唐は漢法に遵ひ、是れ太宗の制なり。辺将穀帛を積み、器械を繕ふは、適に其の職を為すのみ。陛下必ず之を賞せんとせば、金帛は可なり。独り地を裂きて封ずるは宜しからず」と。帝怒りて曰く、「豈に仙客寒士なるを以て之を嫌ふか。卿固より素に門閲有るか」と。九齢頓首して曰く、「臣は荒陬の孤生、陛下過ちて聴き、文学を以て臣を用ふ。仙客は胥史より擢でられ、目書を知らず。韓信かんしんは淮陰の一壮夫、絳・灌等の列を恥づ。陛下必ず仙客を用ひんとせば、臣実に之を恥づ」と。帝悦ばず。翌日、林甫進みて曰く、「仙客は宰相の材なり。乃ち尚書に堪へざるか。九齢は文吏、古義に拘り、大體を失ふ」と。帝是より仙客を用ふるを決し疑はず。九齢既に帝の旨に戾り、固より内に懼れ、遂に林甫の危くする所と為らんことを恐れ、帝白羽扇を賜ふに因り、乃ち賦を献げて自ら況ふ。其の末に曰く、「苟も效用の得る所あらば、身を殺すと雖も何をか忌まん」と。又た曰く、「秋気の移奪するを縦すとも、終に恩を篋中に感ず」と。帝優に答ふと雖も、然れども卒に尚書右丞相を以て政事を罷め、仙客を用ふ。是より朝廷の士大夫禄を恃みて恩を養ふ。嘗て長安ちょうあん尉周子諒を薦めて監察御史と為す。子諒劾奏して仙客を論ず。其の語讖書を援く。帝怒り、子諒を朝堂に杖ち、州に流し、道に死す。九齢挙ぐる人に非ざるに坐し、荊州長史に貶せらる。直道を以て黜けらると雖も、戚戚として望みを嬰ねず、唯だ文史を以て自ら娯しむ。朝廷其の勝流を許す。久しくして、始興県伯に封ぜらる。墓に展ぶるを請ひて還り、病に卒す。年六十八。荊州大都督を贈られ、諡して文獻と曰ふ。

九齢體弱く、藉有り。故事に、公卿皆笏を帯に搢して後に馬に乗る。九齢独り常に人をして之を持たしむ。因りて笏囊を設く。九齢に始まる。後、帝毎に人を用ふるに、必ず曰く、「風度能く九齢の若くあるか」と。初め、千秋節に、公・王並びに宝鑑を献ず。九齢「事鑒」十章を上り、号して『千秋金鑒録』と曰ひ、以て諷諭を伸ぶ。嚴挺之・袁仁敬・梁升卿・盧怡と善し。世其の交ひ能く終始する者と称す。相と為りてより、諤諤として大臣の節有り。是の時に当たり、帝位に在ること久しく、稍や政に怠る。故に九齢議論必ず得失を極言し、推引する所は皆正人なり。武惠妃太子瑛を陥れんと謀る。九齢執りて不可とす。妃密かに宦奴牛貴兒を遣はして告げて曰く、「廃すれば必ず興ること有らん。公援けを為さば、宰相長く処るを得べし」と。九齢叱して曰く、「房幄に安んぞ外言有らんや」と。遽ち之を奏す。帝為に色を動かす。故に卒に九齢相たりし間、太子患無し。安祿山初め范陽の偏校を以て入奏し、気驕蹇たり。九齢裴光庭に謂ひて曰く、「幽州を乱す者は、此の胡雛なり」と。奚・契丹を討ちて敗れたる時、張守珪之を執りて京師に至る。九齢其の状に署して曰く、「穰苴出師して莊賈を誅し、孫武習戦して猶ほ宮嬪を戮す。守珪法軍に行はる。祿山免死を容れず」と。帝許さず、之を赦す。九齢曰く、「祿山は狼子野心、逆相有り。宜しく即事之を誅し、以て後患を絶つべし」と。帝曰く、「卿王衍の石勒を知りて忠良を害するを以てすなかれ」と。卒に用ひず。帝後に蜀に在りて、其の忠を思い、為に泣下し、且つ韶州に使を遣はして祭り、厚く幣を以て其の家を恤ふ。開元の後、天下称して曲江公と曰ひて名づけず。建中元年、德宗其の風烈を賢み、復た司徒しとを贈る。

子拯、父の喪に居りて節行有り。後伊闕令と為る。時に祿山河・洛を盗み、陥る。而して終に偽官を受けず。賊平ぎて、太子贊善大夫に擢でらる。九齢の弟九皋も亦た名有り、終に嶺南節度使。其の曾孫仲方。

九皋の曾孫 仲方

仲方、生まれ歧秀たり。父の友高郢之を見て、異とし、曰く、「是の児必ず国器と為らん。吾をして位を得しめば、将に之を振起せん」と。貞元中、進士・宏辞に擢でられ、集賢校理と為る。母喪に因りて免ず。時に郢御史大夫を拝す。表して御史と為す。累進して倉部員外郎となる。

呂温らが宰相李吉甫を弾劾した上奏が事実に合わず、罪に坐して斥けられた際、仲方は呂温の党とされ、金州刺史に補せられた。宦官が民の田を奪うと、仲方は三度上疏して理を申し立て、ついに民に正当な価値を与えた。召されて度支郎中となった。吉甫が没すると、太常は恭懿と諡し、博士尉遅汾は敬憲と諡するよう請うたが、仲方は以前の怨みを抱きやまず、上議して曰く、「古の諡は、大節を考へ、細行を略め、善を善とし悪を悪とする、一言にして足る。按ずるに吉甫は多才多芸なれども、側媚して容を取る、重ねて台袞に至り、信寡く謀易く、事として成功するものなし。且つ兵は兇器、我より始むべからず、罪を伐つに至っては、必ず成功を邀ふ。今内には賊輔臣の盗あり、外には毒蠆を懐くの臣あり、師徒は野に暴れ、農は畝に在ること得ず、婦は桑に在ること得ず、賦を耗し畜を殫し、屍僵れ血流れ、胔骼は嶽を成し、毒痡の痛み、天に訴えて辜なし、禍を階するの発、実に吉甫に始まる」と。又言ふ、「吉甫は平易柔寛にして、名その行に配せず。請ふ、蔡の平らぐを俟ち、然る後に之を議らん」と。憲宗は兵を用ふるに方り、其の言の醜く訐くを疾み、遂州司馬に貶す。稍く進みて河南少尹・鄭州刺史となる。

敬宗が立ち、李程が政を輔けると、引かれて諫議大夫となった。帝が時に詔して王播に競渡舟三十艘を造らせ、費用は半年分の運費に相当した。仲方は延英殿に参じ、諍論して堅苦しく、帝は三分の二に減じた。又詔して華清宮に行幸せんとすると、仲方は曰く、「万乗の行には、必ず葆衛を具ふべし、易くすれば威重を失ふ」と。従はれず、猶慰労せられた。鄠県令崔発が黄門を辱めて獄に繋がれ、赦に逢ひながら宥されなかった。仲方は曰く、「恩は天下に被り、昆虫に流る、而して御前に行はれざるか」と。発は是によりて死なず。大和初め、出でて福建観察使となる。召し還され、進みて左散騎常侍に至る。李徳裕が政を執ると、太子賓客として東都に分司す。徳裕が罷むると、復た常侍を拝す。

李訓の変に、大臣は或いは誅せられ或いは繋がる。翌日、群臣宣政殿に謁すも、牙闔開かず。群臣朝堂に錯き立ち、史卒の贊候無く、久しくして半扉開き、使者伝へて仲方を召して曰く、「詔有り、京兆尹とすべし」と。然る後に門辟き、仗を喚ぶ。時に族夷せられたる将相、顱足旁午す、仲方は皆密かに使ひて其の屍を識らしむ。俄かに収葬を許す、故に胔骸相乱れず。已にして禁軍横はり、多く政を撓ます、仲方勢笮しく、能く繩劾する所無し。宰相鄭覃更に薛元賞を以て之に代へ、出でて華州刺史となる。召し入りられ、秘書監を授かる。人多く言ふ、覃が徳裕を助け、仲方を擯きて用ゐざるを。覃乃ち丞・郎を擬して以て聞こゆ。文宗曰く、「侍郎は朝廷の華選なり。彼の牧守状無きは、得べからず」と。但だ曲江県伯を封ず。卒す、七十二、礼部尚書を贈られ、諡して成と曰ふ。仲方は確正にして風節有り、既に吉甫の諡を駁し、世其の言を直さず、卒に顕るるに至らず。既に歿して、人多く之を傷む。

初め、高祖が隋に仕へし時、太宗幼くして病み、熒陽の仏祠に玉像を刻みて以て年を祈る、久しくして刓晦す、仲方鄭に在り、吏を敕して治護せしめ、石を鏤りて以て聞こえ、時に伝はる。

韓休

韓休は京兆長安の人。父大智は洛州司功参軍、其の兄大敏は武后に仕へて鳳閣舎人となる。梁州都督李行褒が部人の告変に遭ひ、詔して大敏に鞫治せしむ。或ひは曰く、「行褒は諸李の近属、后意之を去らんと欲す、其の冤を列する無くんば、公に累を恐る」と。大敏曰く、「豈に身を顧みて人を枉げて死せんや」と。至れば則ち験して之を出だす。后怒り、御史を遣はして覆按せしめ、卒に行褒を殺し、而して大敏は家に賜死す。

休は文辞に工み、賢良に挙げらる。玄宗東宮に在り、国政に条対せしむ、校書郎趙冬曦と並びて乙科に中り、左補闕に擢でられ、主爵員外郎を判ず。進みて礼部侍郎に至り、制誥を知る。出でて虢州刺史となる。虢は東・西京に近き州、乗輿の至る所、常に廄芻を税す、休は請ふ、均しく他郡に賦せんと。中書令張説曰く、「虢を免じて他州に与ふるは、此の守臣の私恵を為すのみ」と。休復た執りて論じ、吏白して恐らくは宰相の意に忤はんとす、休曰く、「刺史幸ひに民の敝を知りて救はざるは、豈に政を為すや。罪を得ると雖も、甘心する所なり」と。訖く休の請ふ如し。母喪に服して解かれ、服除けて、工部侍郎となり、制誥を知る。尚書右丞に遷る。侍中裴光庭卒す、帝蕭嵩に敕して以て代ふる者を挙げしむ、嵩休の志行を称し、遂に黄門侍郎・同中書門下平章事を拝す。

休は直方にして進趨を務めず、既に相となり、天下翕然として之を宜しとす。万年尉李美玉罪有り、帝将に嶺南に放たんとす。休曰く、「尉は小官、犯す所大悪に非ず。今朝廷に大奸有り、請ふ先づ治めん。金吾大将軍程伯献は恩を恃みて貪り、室宅輿馬法度を僭す、臣請ふ先づ伯献を治め、後に美玉を治めん」と。帝許さず、休固く争ひて曰く、「罪細くして且つ容れず、巨猾は乃ち置きて問はざる、陛下伯献を出さざれば、臣詔を奉ぜざるを敢へず」と。帝奪ふ能はず。大率堅正此の類し。初め、嵩は休の柔易を以て、故に之を薦む。休事に臨み或ひは嵩を折正す、嵩平らかならず。宋璟之を聞きて曰く、「休の能く爾るを意はざりき、仁者の勇なり」と。嵩は寛博多く可なり、休は峭鯁、時政の得失、言ふに未だ嘗て尽さざること無し。帝嘗て苑中に獵す、或ひは大いに楽を張り、稍く過差すれば、必ず左右を視て曰く、「韓休知るや否や」と。已にして疏輒ち至る。嘗て鑒を引き、默として楽しまず。左右曰く、「韓休の朝に入りてより、陛下一日も歓ぶこと無し、何ぞ自ら戚戚たり、之を逐ひ去らざる」と。帝曰く、「吾痩すと雖も、天下肥ゆ。且つ蕭嵩毎に事を啓すに、必ず旨に順ふ、我退きて天下を思へば、安んじて寢ず。韓休治道を敷陳し、多く訐直、我退きて天下を思へば、寢て必ず安し。吾休を用ふるは、社稷の計のみ」と。後に工部尚書を以て罷む。太子少師に遷り、宜陽県子を封ず。卒す、年六十八、揚州大都督を贈られ、諡して文忠と曰ふ。宝応元年、太子太師を贈る。

子浩・洽・洪・汯・滉・渾・洄、皆学尚有り。

浩は万年主簿、王鉷の家資を籍するに隠入有りて坐し、尹鮮于仲通に劾せられ、循州に流さる。洪は司庫員外郎、汯と共に累を以て貶せらる。洪後華州長史となる。渾は大理司直。安禄山京師を盗む、皆賊に陷る、賊官を以て逼る、浩と洪・汯・滉・渾出奔し、将に行在に走らんとす、浩・洪・渾及び洪の四子復た賊に禽へ殺さる。洪は人と交はるに善く、節義有り、時に藉甚し、見る者之が為に流涕す。粛宗大臣の子の能く難に死するを以て、詔して浩に吏部郎中を、洪に太常卿を、渾に太常少卿を贈る。汯は上元中に終に諫議大夫。洽は終に殿中侍御史。

至徳の頃より軍興以来、各地の賦稅は節度なく、国庫の出納は隠蔽されていた。韓滉は部下の官吏及び四方の輸送担当者を検察し、違反者は法をもって厳しく根絶した。時に数年豊作が続き、兵革もやや収まったため、穀物や布帛の蓄積は次第に豊かになった。しかし文書の審理を厳しく行い、条文を深く解釈して取り調べるため、人々も怨嗟した。大暦十二年秋、大雨が農作物の十の八を損ない、京兆尹黎幹が状況を上奏すると、韓滉は減免や貸付があることを恐れ、強く事実ではないと上表した。代宗は御史に巡視させたところ、実際に田三万余頃が損害を受けていた。初め、渭南県令劉藻が韓滉に阿り、管轄内の田は損害がないと述べ、御史趙計が検証しても劉藻の言う通りであったが、帝はさらに御史朱敖を派遣して再調査させると、三千頃の田が損害を受けていた。帝は怒って言った、「県令は民を養うものであるのに、田の損害を問わないとは、民情を憐れむ心があろうか」と。劉藻を南浦員外尉に左遷し、趙計もまた豊州司戸員外参軍に貶斥した。ちょうどこの時、洪水が河中の塩池を損ない、韓滉は塩池に瑞塩が産出したと上奏した。帝は疑い、諫議大夫蔣鎮を派遣して実情を調査させたが、蔣鎮は韓滉を恐れ、帰還して帝を祝賀し、さらに祠を設けるよう請い、詔して宝応霊慶池と号した。

徳宗が即位すると、韓滉の搾取を憎み、太常卿に転任させた。議者たちが納得せず、ついに晋州刺史として出された。間もなく、浙江東・西観察使に遷り、まもなく検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を安撫し、租・調を均等にし、一年と経たぬうちに、管内は治まると称された。帝が奉天におられた時、淮・汴は震動して騒然となり、韓滉は士卒を訓練し、兵を分けて河南を守備させた。帝が梁州に巡幸されると、さらに絹十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊討伐を助けんと請うた。詔して嘉労し、検校尚書右僕射に進め、南陽郡公に封じられた。李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は裨将王棲耀・李長栄・柏良器に精兵一万を率いて進討させ、睢陽に駐屯した。賊はすでに寧陵を攻撃していたが、王棲耀らはこれを撃破して退け、漕運路に支障なく、東南を安寧に保ったのは、韓滉の功績が多かった。

時に下級官吏が罪を犯すと、すぐに殺して容赦せず、人々は怪しんだ。韓滉は言った、「袁晁はもと鞭背の小吏に過ぎず、賊を捕らえる任に背き、その仲間を集めて反逆した。この連中は皆、郷県の豪傑で狡猾な者である。殺してしまう方がよく、若年者を用いれば、身を惜しみ家を保とうとして悪事を働かぬ」と。また、賊は牛と酒がなければ集結しないと考え、屠牛を禁じてその謀を絶とうとした。婺州の属県に法令違反者がいると、隣接する五家連座で誅し、数十百人が死罪に処せられた。また、官吏を派遣して管内を分察させ、罪が疑わしいものは必ず誅し、一度の判決で数十人を処断し、下々は皆憂い恐れた。

京都が平定されていないと聞くと、関梁を閉鎖し、牛馬の出境を禁じ、石頭に五つの城を築き、京口から玉山に至った。上元の道・仏祠四十区を破壊し、堡塁を修築し、建業から京峴に至るまで、楼閣と城塁が相望んだ。朝廷に永嘉の南走のような事態があればと、石頭城に館第数十を設け、井戸を穿つこと皆百尺とした。偏将丘涔に工事を監督させ、日に数千人を動員し、丘涔は民衆を酷使し、朝に命じて夕に完成させ、先祖代々の墳墓までも発掘破壊した。楼艦三千艘を建造し、水軍を率いて海門から大閲兵を行い、申浦に至って還った。李長栄らを呼び戻し、親吏の盧復を宣州刺史とし、営塁を増築し、長兵器を教習し、鐘を壊して軍器を鋳造させた。陳少遊が揚州で、甲士三千を率いて江辺で大閲兵を行うと、韓滉もまた兵を総べて金山に臨み、陳少遊と会い、金帛を贈り合って饗応した。しかし韓滉は強兵を握りながら、難に赴くことを遅延し、朝廷に糧食や布帛を調発して送ることは絶え間なく、当時は実際にこれを頼りにしていた。李晟が渭北に駐屯していた時、韓滉は米を輸送して供給し、船に十張りの弩を置いて互いに警護させたため、賊は掠奪できなかった。初め、漕運船が江辺に着くと、韓滉は僚吏を見て言った、「天子が蒙塵されるのは、臣下の恥である」と。自ら一袋を挙げると、将佐らは争ってこれを背負った。

貞元元年、検校左僕射・同中書門下平章事・江淮転運使を加えられ、鄭国公に封じられた。石頭城を修繕整備したため、人々はしきりに覇望の意ありと噂し、帝さえも惑わされた。時に李泌が苦労して弁明し、帝の疑念は解けた。二年、さらに晋に改封された。この年、入朝した。韓滉は既に年長の先達であり、甚だ簡慢で傲慢であり、新進の権勢家と接してもその意を満たさず、衆人はこれを怨んだ。余剰の銭五百余万緡を献上し、詔して度支諸道転運・塩鉄等使を加えられた。

右丞元琇が度支を管掌していた時、関輔が旱魃に見舞われたため、江南の租米を運んで西の京師に供給するよう請うた。帝は韓滉に専ら監督を委ねたが、元琇はその剛愎で共事し難いことを恐れ、江から揚子までは韓滉が主管し、揚子以北は自分が主管するよう請うた。韓滉はこれにより元琇を恨んだ。時に元琇は京師で銭重貨軽であるため、江東塩監院の銭四十万緡を発して関中に送ろうとした。韓滉は欺いて上奏し、「銭を京師に運ぶには、概ね一万で千を費やすので、従うべきではない」と。帝は元琇を責めて問うと、元琇は言った、「千銭の重さは一斗の米と同等であり、三百を費やせば届けられます」と。帝は韓滉にこれを伝えたが、韓滉は固執して認めなかった。ここに至り、韓滉は元琇が淄青の李納と河中の李懷光に米を贈与したと誣告して弾劾した。帝は怒り、さらに究明検証することなく、元琇を雷州司戸参軍に貶した。左丞董晉が宰相劉滋・斉映に言った、「先に関輔で戦争があり、蝗害と旱魃が続いたが、元琇は一つの賦税も増やすことなく、軍興を全て賄った。これは労臣と言えよう。今、名もなく貶謫され、刑罰が濫りに及んで人々は恐れている。仮に権臣が志を逞しくするなら、公はどうして三司に審理させようと請わぬのか」と。劉滋・斉映は用いなかった。給事中袁高が抗疏して執り成したが、韓滉はこれを党与と指弾し、上奏を握り潰した。

劉玄佐が朝参せず、帝は密詔を以て韓滉に諷させた。汴州を通りかかると、劉玄佐は平素より韓滉を畏れており、属吏の礼を修めた。韓滉は辞して敢えて受けず、そこで兄弟の契りを結び、その母を訪ねて拝謁し、酒宴を設けて女楽を置いた。酒が巡ると、韓滉は言った、「早く天子に謁見すべきである。夫人が白髪で、新婦や子孫が宮掖に埋もれるようなことになってはならぬ」と。劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を以て劉玄佐の装備を整え、さらに綾二十万を以て軍を犒労した。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の任に堪えると推薦した。時に両河は兵を罷め、韓滉は上言した、「吐蕃が河・湟を盗んで久しいが、近年次第に弱体化し、西は大食に近接し、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗し、軍を分けて外戦しており、河・隴に駐屯する兵は五六万に過ぎない。もし朝廷が将を命じ、十万の衆を以て涼・鄯・洮・渭に城を築き、それぞれ兵二万を置いて守備させ、臣は本道の財賦を以て軍に供給し、三年分の費用を与え、その後営田して粟を蓄え、耕しながら戦えば、河・隴の地は足を挙げる間に回復できましょう」と。帝はその言を善しとし、劉玄佐に意見を求めたところ、劉玄佐は行くことを請うた。時に韓滉が病重く、張延賞が州県の冗官を減らし、禄俸を収めて戦士を募り西討するよう上奏した。劉玄佐は張延賞が資儲を削ることを慮り、犬戎に隙がなく、軽々しく進むべからずとし、そこで病気と称した。帝は宦官を派遣して慰労させると、臥床したまま命を受けた。張延賞は用いられぬと知り、やめた。韓滉はまもなく卒去した。六十五歳。太傅を追贈され、諡して忠肅といった。

滉は宰相の子ながらも、性質は倹約を旨とし、衣裘や茵衽(敷物や寝具)は十年に一度替えるのみであった。甚だ暑くとも扇を執らず、住居は粗末で、風雨を凌ぐだけのものであった。門には列戟(高官の門標)を立てるべきところ、父の在世時の邸宅の門を壊すに忍びず、遂に申請しなかった。堂には先ず挟廡(両側の庇)がなく、弟の洄が少し増築補修したが、滉は見るや直ちに撤去し、「先君が容れられたもので、我らはこれを奉じて、常に失墜を恐れている。もし崩壊すれば、修繕するまでである。どうして敢えて改築し、倹約の徳を傷つけようか」と言った。重位に居ながら、清廉潔白で悪を憎み、家族のために資産を営まなかった。仕官を始めてから将相に至るまで、乗った五馬(高官の馬車)は全て厩の下で寿命を終えた。琴を弾くことを好み、書は張旭の筆法を得、画は同族の幹と互角であった。嘗て自ら言うには、「筆を定めることができなければ、書画を論ずることはできない」と。急務ではないとして、敢えて隠し、人に伝えなかった。『易』と『春秋』に精通し、『通例』及び『天文事序議』を各一篇著した。初めて度支を判じた時、李晟が裨将として軍事を報告したが、滉は礼を加えて遇し、自分の子に拝礼させ、器幣や鞍馬を厚く贈った。後に李晟は遂に大功を立てた。滉は幼少時から既に美名があり、交遊した者は皆天下の豪傑であった。晩節は益々苛酷残忍となり、故に論者はその真情を飾り進取を求めたのではないかと疑い、志を得た後は強権を振るったが、これは元来の性質によるものであろう。子に群、臯がいる。

群は国子司業に終わった。臯は字を仲聞といい、資質は重厚で、大臣の器量があった。雲陽尉から賢良方正の異等に策問され、右拾遺に任じられた。累進して考功員外郎となった。父の喪に服した時、徳宗は使者を遣わして弔問し、滉の行状を論撰させるよう命じた。号泣して命を受け、数千言を即座に草して進上したので、帝はこれを賞した。喪が明けた後、宰相が考功郎中に擬したが、帝は知制誥を加えた。中書舍人、御史中丞、兵部侍郎に転じ、職務に適うと称された。間もなく京兆尹に任じられた。鄭鋒を倉曹参軍に任用するよう上奏した。鋒は吏から苛酷に徴収し、臯に府中の雑銭を全て徴発し、粟麦三十万石を折糴して帝に献上するよう説いた。臯はこれを喜び、興平令に上奏した。貞元十四年、大旱魃があり、民は租賦の免除を請うたが、臯の府庫は既に空で、内心憂慮恐れ、実情を奏上できなかった。折しも宦官が出入りする際、百姓が道を遮って訴えたので、事が帝に聞こえ、撫州員外司馬に貶された。間もなく杭州刺史に改められ、召されて尚書右丞に任じられた。王叔文が権力を握ると、臯はこれを憎み、人に「私は新貴に仕えることはできない」と言った。従弟の曄がこれを叔文に告げたので、叔文は怒り、鄂嶽蘄沔観察使として出させた。叔文が敗れると、即座に節度使に任じられ、鎮海に転じ、召されて戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。概ね簡素倹約をもって治め、赴任先で実績を挙げた。召されて吏部尚書に任じられ、兼ねて太子少傅となった。莊憲太后が崩御すると、大明宮留守を充てられた。穆宗は旧傅の恩により、検校尚書右僕射を加え、間もなく正官とした。さらに左僕射に進んだ。長慶四年、再び東都留守となり、赴任途中で卒去した。七十九歳。太子太保を追贈され、諡は貞といった。

臯の容貌は父に似ており、孤児となってからは、再び鏡を見なかった。生まれながらに音律を知り、常に「年を取った後は音楽を聴きたくない。門内の事が多く、逆に知ってしまうからだ」と言っていた。琴を聴き、『止息』の曲に至ると、嘆息して言った。「美しいことよ。嵇康がこの曲を作ったのは、まさに晋と魏の交替の際であろう。その音は商を主とし、商は秋である。秋は天が草木を揺り落とし肅殺とする、その年の暮れであろう。晋は金運に乗じ、商もまた金の声である。これによって魏が末で晋が代わろうとすることを知ったのである。その商弦を緩め、宮と同じ音とすれば、臣が君を奪う義となり、司馬氏がさんさんだつしようとすることを知ったのである。王陵、毌丘儉、文欽、諸葛誕が次々と揚州都督となり、皆興復の謀を有していたが、全て司馬懿父子に殺された。康は揚州が昔の広陵の地であることから、陵らは皆魏の大臣であったので、その曲を『広陵散』と名付け、魏の散亡が広陵から始まることを言ったのである。『止息』とは、晋が暴興したとしても、結局はここで止み息絶えるという意味である。その哀憤、躁蹙、憯痛、迫脅の音は、全てここに尽きている。永嘉の乱は、その兆しであろうか。康は晋と魏の禍を避け、鬼神に託して、後世の知音を待ったのである。」

洄は字を幼深といい、蔭補により弘文生となり、満歳して吏部侍郎に参調したが、達奚珣が地望によってこれを抑えた。章懷太子陵令に任じられ、不満の色を見せなかった。安祿山の乱に際し、家族七人が害に遇い、洄は江南に避難し、粗食で音楽を聴かなかった。乾元年間、睦州別駕を授かり、劉晏が上表して屯田員外郎とし、揚子留後を管掌させた。召されて諫議大夫に任じられ、補闕の李翰と共に数度上章して得失を言い、知制誥に抜擢された。元載と親しかった罪で坐し、邵州司戸参軍に貶された。徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再び諫議大夫となった。

劉晏が罪を得ると、天下の銭穀は尚書省に帰属したが、省司は廃れて久しく、綱紀がなく、総括する者がいなかった。そこで洄を戸部侍郎に抜擢し、度支を判じさせた。洄は上言した。「江・淮の七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に輸送しているが、工費と運搬費で毎緡二千を費やし、これは元金が利息の倍である。今、商州の紅崖冶は銅を産出し、洛源監は久しく廃れている。山を穿って銅を採り、即座に旧監を整え、十炉を設置して鋳造すれば、毎年銭七万二千緡を得られ、費用は毎緡九百と見積もられるので、利益が元金を上回る。江・淮の七監は、全て廃止すべきである。」また言うには、「天下の銅鉄冶は、山沢の利であり、王者に帰属すべきである。全て塩鉄使に隷属させるよう請う。」帝はこれに従った。さらに省の胥史や冗食の者二千人を罷免し、長安・萬年の両県に各数十万石の米を蓄積し、年の豊凶を見て出納したので、人々は食糧に苦しまなかった。

洄は楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、自ら不安を感じた。間もなく、臯が上疏して楊炎の罪を弁明したので、帝は洄が教えたのだと考え、蜀州刺史に貶した。興元元年、召されて兵部侍郎となり、京兆尹に転じた。貞元十年、国子祭酒に終わり、戸部尚書を追贈された。

【贊】

贊していう。人の事を立てるには、始めは鋭く初めに巧みであっても、その半ばに至れば少し怠り、終わりには漫澶として振るわなくなるものである。玄宗の開元の時を見よ。精神を励まして治めを求め、元老や旧臣は動くごとに尊憚された。故に姚元崇、宋璟は言を聴かれ行われ、力を難とせずして功は既に成った。太平が久しくなると、左右の大臣は皆帝自ら識り擢てた者で、親しみ易くこれを軽んじ、志は満ちて驕り、張九齢の諫争はますます切実になったが、言はますます聴かれなかった。志が満ちればその謀を忽せにし、意が驕れば軟熟を喜び鯁切を憎む。力を較べることは多くとも、その効果を課すことは姚・宋には遠く及ばなかった。終いには胡雛(安禄山)が華を乱し、身は辺境に播遷した。天運というべきではなく、また人事に致すところがあって然るのである。知古らは皆宰相の選であったが、天宝の時に当たらせたとして、どうして救うことができようか。