新唐書

巻一百二十五 列傳第五十 蘇瓌子:颋 詵 張説子:均 垍 埱

蘇瓌

蘇瓌、字は昌容、雍州武功の人、隋の尚書僕射蘇威の曾孫である。進士第に擢でられ、恒州参軍を補う。母の喪に服し、哀毀人に加わり、左庶子張大安が表を上って孝悌を挙げ、王府録事参軍に擢でられ、朗・歙二州刺史を歴任した。

時に来俊臣が州参軍に貶せられ、人々はその再任用を懼れ、多く書を致して瓌に請うたが、瓌はその使者を叱して曰く、「吾は州牧を忝くす、高下自ら体有り、能く小人を過待せんや」と。遂に書を発さず。俊臣は未だ至らざるに追還され、之を恨んだ。是より連ねて外徙し、入るを得ず。久しくして、揚州大都督ととく府長史に転ず。州は都会に拠り、名珍怪産多し、前長史張潜・於辯機は資を取ること巨万に及びしが、瓌は単身襆被自ら将う。同州刺史に徙る。

歳旱、兵番上すべき者赴く能わず。瓌奏す、「宿衛は闕くべからず、宜しく月賜を増し半糧を加え、相給足せしむべし、然らば則ち番を闕かず。又宜しく進献を却け、不急の営造を罷むべし」と。省みられず。時に十道使天下の亡戸を括す、初め籍を立たず、人は搜括を畏れ、即ち比県旁州に流入し、更に相庾蔽す。瓌は十道使を罷め、専ら州県を責め、予め簿註を立て、天下同日に閲正し、尽く一月にして止め、奸匿を柅ぎ、歳一括実し、租調を検制し、以て労弊を免るべしと請う。武后浮屠を鋳し、廟塔を立て、役虚歳無し。瓌以爲く、「縻損浩廣、国用より出でずと雖も、要は民産日殫ゆ。百姓足らざれば、君孰と与に足らん。天下の僧尼濫僞相半ばす、請う併せて寺を著し、僧の常員数を定め、缺くれば則ち補わん」と。后其の言を善しとす。

神龍初、入りて尚書右丞と爲り、懷縣男を封ぜらる。瓌は法令に明曉し、多く臺省の旧章を識り、一朝の格式、皆其の刪正する所と爲る。再び遷りて戸部尚書、侍中を拝し、京師に留守す。

中宗政を復す、鄭普思妖幻を以て秘書員外監に位し、支党岐・隴の間に遍し、相煽訹して乱を爲す。瓌普思を捕え系し窮めて訊く、普思の妻は左道を以て韋后の幸を得、禁中に出入し、詔有り治むる勿れと。瓌廷に争いて不可とし、帝猶お依違す。司直範獻忠、瓌の普思を按ぜしむる者、進みて曰く、「瓌大臣と爲り、能く前に逆豎を誅して天子に報いず、罪大なり、臣請う先ず瓌を斬らん」と。是に於いて、僕射魏元忠頓首して曰く、「瓌は長者、用刑枉わず、普思法当に死すべし」と。帝已むを得ず、普思を儋州に流し、余党は死を論ず。累ねて尚書右僕射・同中書門下三品を拝し、進みて許国公を封ぜらる。

帝南郊す、国子祭酒祝欽明建白して皇后を以て亜献と爲し、安楽公主を以て終献と爲さんとす。瓌以爲く礼に非ずと、帝の前に折して愧じしむ。帝昏懦にして、従う能わず。時に大臣初めて官を拝し、食を献じて天子にす、名づけて「焼尾」と曰う、瓌独り進めず。及び宴に侍す、宗晉卿之を嘲る、帝默然たり。瓌自ら帝に解して曰く、「宰相は陰陽を燮和し、天に代わって物を治む。今粒食踴貴し、百姓足らず、衛兵に至りては三日食せず、臣誠に職に称せず、敢えて焼尾せず」と。帝崩ず、遺詔して皇太后朝に臨み、相王太尉を以て政を輔けしむ。后宰相韋安石・韋巨源・蕭至忠・宗楚客・紀處訥・韋温・李嶠・韋嗣立・唐休璟・趙彥昭及び瓌を召し議す禁中。楚客猥かに曰く、「太后朝に臨み、相王には通問せざるの嫌有り、宜しく政を輔くるに非ず」と。瓌正色して曰く、「遺制は乃ち先帝の意、安んぞ輒く改めん」と。楚客等怒り、卒に相王の政を輔くる事を削り、瓌疾を称して朝せず。是の月、韋氏敗れ、睿宗即位し、進みて左僕射と爲る。

景雲元年、老病にて、罷められ太子少傅と爲る。卒す、年七十二、司空しくう荊州大都督を贈られ、謚して文貞と曰う。皇太子別次に発哀す。遺令して薄葬し、布車一乗。

瓌州を治め考課常に最たり、宰相と爲り、当世の病利を陳ぶること甚だ多し。韋温始めて汴洲司倉参軍と爲り、賕を以て杖せられ、及び用事するに及び、瓌の正しきを憚り、卒に敢えて傷つけず。開元二年、其の家に実封百戸を賜う、長子頲固く辞す、乃ち中子乂を擢で左補闕とす。六年、詔して劉幽求と共に睿宗廟廷に配享せしむ。文宗大和中、旧徳を録し、其の四代孫翔に官す。

瓌諸子、頲・詵顕る。

瓌子 頲

頲、字は廷碩、弱にして敏悟、一覧千言に至り、輒ち覆誦す。進士に第し、烏程尉に調う。武后嵩髙に封ず、賢良方正異等に挙げられ、左司禦率府冑曹参そうしん軍を除く。吏部侍郎馬載曰く、「古に一日千里と称す、蘇生是れ已にす」と。再び遷りて監察御史。長安ちょうあん中、詔して来俊臣等の冤獄を覆し、頲其の誣を験発し、多く従い洗宥す。遷り給事中・修文館学士、中書舎人を拝す。時に瓌同中書門下三品、父子同じく禁管に在り、朝廷之を栄しとす。

玄宗内難を平ぐ、書詔塡委す、独り頲太極の後筦に在り、口に占めて授く、功状百緒、軽重差す所無し。書史白して曰く、「公の徐なることを丐わん、然らずんば、手腕脱せん」と。中書令李嶠曰く、「舎人の思湧泉の若し、吾の及ぶ所に非ず」と。遷り太常少卿、仍って制誥を知る。父の喪に遭い、起きて工部侍郎と爲るも、辞して拝せず、終制して乃ち職に就く。帝宰相に問う、「工部侍郎より自り中書侍郎を得る者有るか」と。対えて曰く、「陛下賢を任するは惟だ命する所に在り、何ぞ資の計あらん」と。乃ち詔して頲を以て中書侍郎と爲す。帝労して曰く、「方に美官缺け、毎に卿を用いんと欲すれど、然れども宰相議遂に及ぶ者無し、朕卿が爲に恨む。陸象先歿し、紫微侍郎未だ嘗て補わず、朕其の人を思うに卿に易うる者無し」と。頲頓首して謝す。明日知制誥を加え、政事食を給う、食を給うは頲より始まる。時に李軿対掌して書命す、帝曰く、「前世李嶠・蘇味道文当時に擅り、号して『蘇李』とす。今朕頲及び軿を得る、何ぞ前人に愧じんや」と。俄にして許国公を襲封す。

吐蕃が辺境を侵し、諸将はたびたび敗れ、虜はますます勢いを増し、馬に秣を喰わせて内に侵入した。帝は怒り、自ら兵を率いて討伐しようとした。蘇頲が諫めて言うには、「古に荒服と称するは、荒忽たるの義を取るもので、常に職貢を奉ずるものではない。故に来れば拒み、去れば逐わず、禽獣のごとくにこれを畜い、羈縻してこれを禦ぐのである。譬えば狩猟のごとく、羽毛は服用に入れず、體肉は郊廟に登らざれば、王者は射ぬものである。まして万乗の重きを以て、犬羊蚊虻と勝負を語るがごときことがあろうか。遠夷左衽の徒は、以て天子を辱しむるに足らず、また明らかである。しかれども、兵法は声を先にし実を後にす。陛下しばらく親征の詔を班し、猛将謀夫に勅して師を投じ会わしめ援軍を送らしめれば、吐蕃は日にちを待たずして崩壊し、また躬ら天討を致すを待つまでもない。臣が思うに、岐・隴は凋弊積年、もし千乗万騎を以てすれば、供億は涯なく、誠に恐るらくは徭役内に興り、寇掠外に虞り、斯人は堪えず、これ一なり。戎虜の性は、驟往倏来し、敗れては奔るを恥じず、勝っては成るを譲らず。もし大軍ひとたび辺に臨めば、怖震して鳥散し、彼は出づるに多方、我はその誤りを受く、これ二なり。太上皇、陛下の身寇塲に対するを聞けば、憂い無からず、烝烝たる思い、何を以てか自ら安からん、これ三なり。漢の蒯成侯が高帝を諫めて曰く、『上嘗て自ら労す、豈に人を使う無きを謂わんや』と。高帝は以て我を愛すと為す。今将相大臣、豈に陛下の為に力を宣べる者無からんや、何ぞ親しく行くの遽きや」と。省みられず。

また上言して言うには、「王者の師は、征ありて戦無し。藩貢或いは闕くれば、王命これを征す、ここにおいてその郊に兵を治め、辞を獲て止む、甲を按じて自ら臨むを謂うに非ず。敵人のこれを畏れて敢えて戦わざるを謂うに非ず。古の天子に親将無し、ただ黄帝五十二戦、未だ平らかならざる時に当たる。阪泉の功成りてよりは、則ち身を修めて閑居し、無為にして事無し。陛下禍乱を撥定し、方に深視高居し、礼を制し楽を作し、梁父に禅り、空同に登るべし、何ぞ天居を厭い、金革を衽し、一日の敵と為るに至らんや。今吐蕃渠領を遣わして国令を干犯す。軍吏一たび勝たずとて、陛下至尊を屈してその敵と為す、朝に鼎にし夕に砧とすとも、なお以て四夷に誇るべからず、安んぞ聖躬を労せんに足らんや。虜の入るは、ただ羊馬を盗み、窖を発し衣を裭うのみ、未だ嘗て辺人を殺略せず、その罪原き易し。臣恐るらくは虜情狼顧し、北狄を牽連し、六師の行を聞き、幽・へいに入り、霊・夏を犯し、南は京師を動かし、太上皇一致して憂労せられんは、これ陛下以て天下の安きを以て、その親を寧んずること能わざるなり。臣固に曰く、中に居りて勝を制するは、策の上なる者なり。若し良将を択び、募り重くして約厳しく、律に違えば必ず誅し、敵を殺せば必ず賞し、多く金を出して以て酋長を購えば、虜亡ぶる日無からん。願わくは稍々遷延し、以て西音を須がん」と。また薛訥が大いに吐蕃を破り、俘獲算うるに貲わざるに会い、ここにおいて帝は行くを止めしむ。

時に詔して靖陵碑を立てしめ、蘇頲に命じてその詞を為さしむ。辞して曰く、「前世の帝後は碑を誌さず、事古に稽えず、これを不法と謂う。審かに当に可なる者は、祖宗の諸陵、一たび須らく営立すべし、後嗣何と謂わん」と。帝その言を納れず。

開元四年、同紫微黄門平章事に進み、国史を修め、宋璟とともに国政を当たる。璟は剛正にして、裁決すること多し、頲はその長を推すことを能くす。帝の前にて敷奏するに、璟に未だ及ばざる、或いは少しく屈するありとせば、頲すなわち助けてこれを成し、会意せざるあれば、頲さらに璟の執る所を申す。故に帝嘗て従わざること無く、二人相得て甚だ歓ぶ。璟嘗て曰く、「吾と蘇氏父子同じく宰相と為る。僕射(蘇瓌)は長厚、自是れ国器なり。若し献可替否し、事至れば即ち断ち、公を尽くして私を顧みざれば、則ち今の丞相(蘇頲)はこれを過ぐ」と。

八年、礼部尚書に罷められる。俄かに益州大都督長史を検校し、剣南諸州を按察節度す。時にしょくは凋弊し、人流亡す。詔して頲に剣南山沢の塩鉄を収め自ら贍わしむ。頲は簡静を尚び、力役を重ねて興すを嫌い、すなわち戌人を募り、雇直を輸させ、井を開き炉を置き、入を量り出を計い、分ちて贏える所を以て穀を市い、以て見糧を広む。時に前司馬皇甫恂、蜀に使いし、檄を以て庫銭を取って錦半臂・琵琶捍撥・玲瓏鞭を市わんとす。頲は与えず、因りて上言して曰く、「使いを遣わし命を銜むるに、先ず不急の物を取るは、陛下が山沢を以て軍費を贍わんとする意に非ず」と。或る者頲に謂う、「公遠に在りて、どうか上意に忤うことを得ん」と。頲曰く、「然らず。明主は私愛を以て至公を奪わず。吾れ遠近を以て忠臣の節を廃せんや」と。巂州蛮の苴院、吐蕃と連謀して入寇せんとす。諜者を獲る。吏討つを請う。頲聴かず。書を移してその諜者を還し曰く、「爾するを得るなかれ」と。苴院羞悔し、敢えて辺を侵さず。

泰山に従い封ぜられ、詔して朝覲壇を頌せしむ。世その文を咨る。還りて、十銓の事を分ち主る。卒す。年五十八。帝なお朝を視す。起居舍人韋述上疏して曰く、「貞観・永徽の時、大臣薨ずれば、輒ち朝を置きて哀しましめ、終始の恩を成す。上には旌賢録旧の徳有り、下には生栄死哀の美有り。昔、晋の知悼子卒す。平公宴楽す。杜蕢一言にして悟る。《春秋》これに載す。故に礼部尚書頲は累葉輔弼し、軒陛に奉事すること二十余年、今奄忽として還らず、邦人痛み嗟く。帷幄尽くの旧、股肱の戚、宜しく即ち朝を廃し、君臣の誼を明らかにすべし」と。帝曰く、「固に朕が意なり」と。即日帳次して洛城南門に哭し、朝せず。詔して右丞相を贈り、謚して文憲と曰う。葬の日、帝咸宜宮に遊び、将に狩らんとす。これを聞きて曰く、「頲まさに葬らんとす。我れ忍びて自ら娯しまんや」と。半道にして還る。

頲の性廉倹、奉稟悉く諸弟親族に推し散じ、儲え長たる貲無し。景龍の後より、張説と文章を以て顕れ、称望略等しく、故に時に「燕許大手筆」と号す。帝その文を愛し、曰く、「卿の為す所の詔令、別に副本を録し、臣某撰と署せよ。朕当に留中せん」と。後遂に故事と為る。その後李徳裕著論して曰く「近世の詔誥は、惟だ頲の叙事の外自ら文章を為す」と云う。

瓌の子 詵

詵、字は廷言、賢良方正に挙げられ高第に及第し、汾陰尉を補し、秘書詳正学士に遷り、累転して給事中となる。時に頲は紫微侍郎たり。固く辞す。帝曰く、「古に内挙して親を避けざる者有りや」と。対えて曰く、「晋の祁奚これなり」と。帝曰く、「若し然らば、朕自ら詵を用う。卿の言は公に非ず」と。頃いて、徐州刺史に出で、治め跡有り。卒す。吏部侍郎を贈られる。

詵の子震、蔭を以て千牛を補す。十余歳、強学して成人の風有り。頲曰く、「吾が家に子有り」と。累遷して殿中侍御史・長安令となる。安禄山京師に隠る。震は尹崔光遠とともに開遠門の吏を殺し、家を棄てて出奔す。会に粛宗霊武に師を興す。震昼夜馳せて行在に及び、帝これを嘉し、御史中丞に拝し、文部侍郎に遷る。広平王元帥と為り、賓佐を崇く択ぶに、震を以て糧料使と為す。二京平らぐ。岐陽県公に封ぜられ、河南尹に改む。九節度の兵相州に敗る。震は留守崔円とともに襄・鄧に奔り、済王府長史に貶せらる。起きて絳州刺史と為り、戸部侍郎に進み、度支を判じ、泰陵・建陵の鹵簿使と為り、労を以て岐国公に封ぜられ、太常卿に拝す。代宗将に東都に幸せんとす。また震を以て河南尹と為す。未だ行かずして卒す。礼部尚書を贈られる。

幹は、瓌の従父の兄である。父の勖は、字を慎行といい、武徳年間に秦王の諮議・典籤・文学館学士となり、南康公主をめとり、駙馬都尉に拝された。魏王泰の府司馬に遷り、博学で美名があり、泰はこれを重んじた。館を開いて文学士を引き入れ、書を著して名家となるよう勧めた。吏部侍郎・太子左庶子を歴任し、卒した。幹は明経にえらばれ、徐王府記室参軍を授けられた。王は狩猟を好んだが、幹は毎度これを諫めて止めさせた。垂拱年間、魏州刺史に遷った。河朔が飢饉となり、前任の刺史が苛暴であったため、百姓は流亡していたが、幹は官吏を検察して奸を督め、農桑を勧課した。これにより流亡の民はことごとく帰還し、治績をもって称された。右羽林軍将軍に拝され、冬官尚書に遷った。来俊臣は平素よりこれを忌み、幹が瑯邪王沖と書を通じたと誣告し、獄に繋がれ、憤りを発して卒した。

張説

張説は、字を道済といい、あるいは説之ともいい、その祖先は范陽より河南に移り、さらに洛陽らくようの人となった。永昌年間、武后が賢良方正を策問し、詔して吏部尚書李景諶に糊名して覆較させたところ、説の対策が第一となり、後に乙等に署され、太子校書郎を授けられ、左補闕に遷った。

後に(武后が)問うたことがある。「諸儒が氏族を言うに皆炎帝・黄帝の末裔を本とするとすれば、上古には百姓がなかったのか。朕のためにこれを言え。」説は言った。「古には姓がなく、夷狄のようであった。炎帝の姜、黄帝の姫より始めて、生まれた地によって姓とした。その後、天下に徳が建てられ、生まれによって姓を賜い、黄帝の二十五子のうち、姓を得た者は十四人である。徳が同じであれば姓も同じく、徳が異なれば姓も異なる。その後、あるいは官によって、あるいは国によって、あるいは王父の字によって、始めて族を賜り、久しくなって姓となった。唐・虞より降り、戦国に至るまで、姓族は次第に広まった。周が衰え、列国が既に滅ぶと、その民はそれぞれ旧国をもって氏とし、下って両漢に及んで、人みな姓を持つに至った。故に国によって姓とするものは、韓・陳・許・鄭・魯・衛・趙・魏が多い。」后は言った。「善い。」

久視年間、后が三陽宮に避暑し、秋が終わっても未だ還らなかった。説は上疏して言った。

宮は洛城より百六十里離れており、伊水の隔たりがあり、坂は険しく、夏を過ぎ秋に渡り、水潦がちょうど積もり、道は壊れ山は険しく、転運は通じず、河は広く橋はなく、咫尺にして千里の隔たりがあり、扈従の兵馬は、日に資餉を費やす。太倉・武庫は、ともに都邑にあり、紅粟・利器は、山丘のように蓄えられている。どうして宗廟の上都を去り、山谷の僻処に安んじていられようか。これはあたかも剣戟を倒さに持ち、人に柄を見せるようなもので、臣は窃かに陛下がこれを取らぬことを願う。禍変の生ずるは、人のゆるがすところにある。故に言う、「安楽には必ず戒め、行って悔いをなすことなかれ」と。これ一に不可である。宮城は狭小で、万方より輻湊し、郭を満たし溢れ、鍤を入れる所もない。居人を排斥し、蓬を宿り草の次に臥し、風雨が暴かに至れば、庇う所を知らず、孤惸老病の者は、衢巷に流転する。陛下は人の父母として、これをどうしようというのか。これ二に不可である。池亭の奇巧は、上心を蕩かし誘う。山を削って観を起こし、流れを堰きて海を漲らせ、地脈を貫き、雲路に出で、山川の気を易え、農桑の土を奪う。木石を延べ、斧斤を運び、山谷に声を連ね、春夏もまない。陛下にこれを作らしめる者は、まさに正人であろうか。『詩』に云う、「人亦労止、ついに小康すべし」と。これ三に不可である。御苑は東西二十里、外に墻垣扃禁なく、内に榛叢溪谷があり、猛毅の伏す所、暴慝のる所である。陛下は往往軽く行き、警蹕はつつしまず、蒙密をり、険巇に乗り、にわかに逸獣狂夫ありて、左右を驚かし犯すことがあれば、豈に危うからざらんや。『易』に云う、「患いを思いてあらかじめ防ぐ」と。万姓のために重きを保たれることを願う。これ四に不可である。

今、北には胡寇が辺りを覗い、南には夷獠がさかしまに騒ぎ、関西は小旱ひでりで、耕稼を憂え、安東は平らかに近く、輸漕が始まろうとしている。臣は願わくは、時に及んで車を返し、深く上京に居り、人を休めて農をべ、徳を修めて遠方をきたらせ、不急の役を罷め、無用の費を省き、心を澄まし懐をあわくし、ただ億万年のため、蒼蒼たる群生をして、幸甚ならざるなからしめられたい。臣が芻議をはかるに、十も一に従わぬであろう。何となれば、盤遊の娛を沮み、林沚の玩をへだて、遠き図をはかり、近き適を替え、後の利を要し、前の歓を棄て、未だ明主の心をうるおさずして、既に貴臣の意をねじるからである。然れども死を愛さぬは、言責を職とせぬことを懼れるからに過ぎない。

后は省みなかった。

鳳閣舎人に擢ばれた。張易之が魏元忠を誣陷したとき、説を引き立てて助けとした。説が廷対で「元忠に不順の言はなかった」と言い、后の旨にさからい、欽州に流された。中宗が立つと、兵部員外郎に召され、累遷して工部・兵部の二侍郎となり、母の喪により免じられた。喪期が満ちると、詔して黄門侍郎として起用されたが、固く請うて喪に終わり、哀悼の情を切に陳べた。当時、礼俗は衰薄し、士は喪服を奪われることを栄えとしたが、説のみ礼をもって終え、天下はこれを高しとした。喪が除かれると、再び兵部となり、修文館学士を兼ねた。

睿宗が即位すると、中書侍郎兼雍州長史に擢ばれた。譙王重福が死ぬと、東都の支党数百人、獄は久しく決せず、詔して説に往きて按問させたところ、一晩で罪人を得、すなわち張霊均・鄭愔を誅し、その余の詿誤は悉くゆるした。帝はそのげずただしくし、悪を漏らさぬことを嘉し、慰労した。玄宗が太子となると、説は褚無量と侍読し、特に親礼された。一年をえて、同中書門下平章事に進み、国史を監修した。

景雲二年、帝が侍臣に言った。「術家が言うには、五日以内に急兵が宮中に入ると。我がためにこれを備えよ。」左右は誰も答えなかった。説が進み出て言った。「これは讒人が東宮を動かそうと謀っているのです。陛下若し太子に国を監せしめられれば、名分定まり、奸胆破れ、蜚禍塞がれましょう。」帝は悟り、制を下して説の言う通りにした。翌年、皇太子が即皇帝位すると、太平公主は蕭至忠・崔湜らを引き立てて宰相とし、説が己に附かぬため、尚書左丞を授け、政事を罷め、東都留守とした。説は太平らが逆心を懐いていることを知り、すなわち使いに因って佩刀を玄宗に献じ、先んじて決策するよう請うた。帝はこれを納れた。至忠らが既に誅されると、中書令に召され、燕国公に封ぜられ、実封二百戸を賜った。

初め、武后の末年、潑寒胡戯が行われ、中宗も嘗て楼に乗り従って観たことがあった。この時、四夷が来朝したため、再びこれを行おうとした。説は上疏して言った。「韓宣が魯にき、周礼を見て嘆じ、孔子が斉に会し、倡優の罪を数えた。列国でさえこのようである。況んや天朝においてをや。今、四夷は和を請い、使者が入謁する。礼楽をもって按じ、兵威をもって示すべきである。戎夷とはいえ、軽んずべからず。どうして駒支の弁、由余の賢なきを知らんや。かつ乞寒潑胡は、典故に聞かず、裸体跳足、泥になずみ水を揮い、盛徳何の観るべきところかあろう。恐らくは幹羽をもって遠方を柔らげ、樽俎をもって折衝するの道には非ざらん。」これを納れ、これより遂に絶えた。

平素より姚元崇と不和であり、相州刺史・河北道按察使に罷められた。つみに坐して岳州に徙り、実封を停められた。説は既に執政の意を失い、内に自ら懼れた。つねに蘇瓌と善くし、時に瓌の子の頲が宰相であった。因って『五君詠』を作り頲に献じ、その一つは瓌をしるしたもので、瓌の忌日にこれを致した。頲は詩を覧て嗚咽し、未幾、帝に謁して説が忠謇にして勲あり、外に棄つべからざることを陳べた。遂に荊州長史に遷った。

まもなく右羽林将軍・検校幽州都督に任ぜられ、朝廷に入り戎服で拝謁した。帝は大いに喜び、検校并州長史・天兵軍大使を授け、国史を修めさせ、詔して草稿を携えて軍中で論撰せしめた。朔方軍大使王晙が河曲の降虜阿布思を誅したため、九姓の同羅・抜野固など皆疑懼した。張説は節を持ち軽騎二十を従えて、直ちにその部族に赴き、帳下に宿し、酋豪を召し出して慰撫した。副使李憲は虜は信じ難く、不測の地に赴くべきでないと諫めた。張説は答えて曰く、「我が肉は黄羊にあらず、その食らうを畏れず。血は野馬にあらず、その刺すを畏れず。士は危難に臨んで命を致すべきもの、これまた我が死を致す秋なり」。これにより九姓は遂に安堵した。王晙が後に蘭池の叛胡康待賓を討つに当たり、詔して張説に経略を相聞かしめた。時に党項羌もまた兵を連ねて銀城を攻めた。張説は歩騎一万を率いて合河関より出でて掩撃し、これを破り、北に追って駱駝堰に至った。羌と胡は自ら相猜疑し、夜に闘い、康待賓は鉄建山に遁れ、残党は奔潰した。張説は党項を招納し、故地に復させた。副使史献はこれを尽く誅すよう請うたが、張説は従わず、麟州を置いて羌衆を安んずるよう奏上した。

兵部尚書・同中書門下三品に召し出されたが、宋璟・陸象先に譲ろうとしたが、許されなかった。翌年、詔して朔方節度大使と為り、自ら五城を巡行し、兵馬を督励した。時に慶州方渠の降胡康願子が反し、自ら可汗と称し、牧馬を掠め、西に河を渡って塞外に出た。張説は進討し、木槃山に至ってこれを捕らえ、三千を俘獲した。そこで河曲六州の残胡五万を唐・鄧・仙・豫の間に移徙し、河南の朔方の地を空にすることを議した。功により実封三百戸を賜った。旧来、辺鎮の兵は六十万を擁していたが、張説は時平らかにして用いるところなしとして、二十万を罷めて農に還すよう請うた。天子は疑ったが、張説は曰く、「辺兵は広しといえども、諸将は自衛と営私のみ。敵を制するは、多勢に在らず。陛下の明をもってすれば、四夷は威を畏れ、兵を減じて寇を招くを慮るに足らず。臣、闔門百口を以て保と為さんことを請う」。帝は遂に許可した。時に衛兵は貧弱で、番休する者は亡命してほぼ尽きていた。張説は一切勇強の士を募り、その科条を優遇し、色役を簡略にするよう建議した。十日と経たずに、勝兵十三万を得て、諸衛に分補し、京師を強くした。後に「彍騎」と称するものである。

帝が東都より京に還らんとし、ついでに并州に幸した。張説は帝に謁して曰く、「太原は王業の基づく所、陛下の巡幸は、威武を振耀し、永思を申すにあり。河東より京師に入るに、漢武の脽上の祠あり。この礼は廃闕し、歴代挙ぐる者なし。三農の為に穀を祈り、誠に四海の福と為さんことを願う」。帝はその言を容れ、祠を過ぎて后土を祀って乃ち還った。中書令に進んだ。

張説はまた封禅の議を唱え、詔を受けて諸儒と儀礼を起草し、多く裁正した。帝は張説と礼官学士を召し、集仙殿に酒宴を設けて曰く、「朕今賢者とここに楽しむ、当に遂に集賢殿と為すべし」。乃ち制を下して麗正書院を集賢殿書院と改め、張説に院学士を授け、院事を知らしめた。東封より還り、尚書右丞相兼中書令となった。詔して張説に『封禅壇頌』を撰せしめ、泰山に刻して成功を誇らしめた。初め、源乾曜は封禅を欲せず、張説は固く請うたため、互いに平らかでなくなった。及び山に登るに当たり、従うべき執事官を、張説は皆厚くする所の者を引き立てて超階で五品に入れ、従兵には勲のみを加えて賜わらず、衆はその専断を怨んだ。

宇文融が先に献策し、天下の遊戸及び籍外の田を検括し、十道の勧農使を置き、郡県を分け行った。張説はその擾乱を恐れ、数々沮止した。ここに至り、宇文融は吏部に十銓を置き、蘇釐らと選事を分治し、論請する所あるも、張説はこれを頗る抑えた。ここにおいて銓綜の秩序を失った。宇文融は恨み恚り、崔隠甫・李林甫と共に張説を劾奏して曰く、「術士王慶則を引き夜に祠り祷解し、その閭を表奏す。僧道岸を引き時事を窺诇せしめ、右職を冒署す。親吏張観・范堯臣、張説の勢いに依拠し、権を市り賂を招き、太原九姓の羊銭千万を擅かに給す」。その言は醜く惨憺であった。帝は怒り、源乾曜・崔隠甫・刑部尚書韋抗に詔して尚書省においてこれを鞫問せしめ、金吾兵を発してその邸を囲ませた。張説の兄左庶子張光が朝堂に詣で耳を刑して冤を列ねた。帝は高力士を遣わして視させた。張説が蓬頭垢面、槁を敷き、家人が瓦器で脱粟と塩蔬を饋り、自ら罰して憂懼する者と為っているのを見た。力士は還って奏し、且つ言うには、「張説は往時に忠を納れ、国に功あり」。帝は憮然とし、乃ち張説の中書令を停め、王慶則らを誅し、坐する者なお十余人あった。張説は政事を罷められて後、集賢院において専ら国史を修めた。また右丞相を停めるよう乞うたが、許されなかった。然しながら軍国の大務毎に、帝は輒ちこれを訪ねた。崔隠甫らは張説が再び用いられることを恐れ、巧みに文を以て詆毀し、平素張説を忿る者また『疾邪篇』を著した。帝は聞き、因って致仕を命じた。

初めて相となった時、帝は吐蕃に事えんと欲した。張説は密かに講和を請うて鄣塞を休息せしめんとした。帝は曰く、「朕は王君㚟の計を待つ」。張説は出て源乾曜に告げて曰く、「王君㚟は兵を好みて利を求めんとす。彼が入れば、我が言は用いられぬ」。後に王君㚟が青海西において吐蕃を破った。張説はその将に敗れると策し、因って巂州の闘羊を帝に献上し、以て諷諭を申し上げて曰く、「羊もし言う能わば、必ずや『闘いて解けず、立って死する者有り』と言わん。頼む所は至仁にして残さず、力を量りて歓を取るにあり」。帝はその意を識り、これを容れ、彩千匹を賜った。後に瓜州が失守し、王君㚟は死んだ。

十七年、再び右丞相となり、左丞相に遷った。任に就く日、司に勅して供帳を設け楽を奏せしめ、内より醪饌を出し、帝は詩を賦した。まもなく開府儀同三司を授かった。十八年に卒す。六十四歳。正会を停め、太師を贈り、謚して文貞と曰う。群臣駁異して決せず、帝が碑文を制し、太常の謚の如くせしめ、これにより定まった。

張説は気節を重んじ、然諾を立て、後進を推挙するを喜び、君臣朋友の大義に甚だ篤かった。帝が東宮に在った時、共に秘謀密計を多く為し、後ついに宗臣となった。朝廷の大なる述作は多くその手に出ず。帝は文辞を好み、為す所ある時は必ず草稿を見せた。人の長所を用いるに善く、天下の知名の士を多く引き、以て王化を佐佑し、典章に粉沢し、一王の法を成した。天子は経術を尊尚し、館を開き学士を置き、太宗の政を脩むるは、皆張説の倡う所なり。文を為すに思を属する精壮にして、碑誌に長け、世の及ぶ所ではなかった。岳州に謫せられて後は、詩益々淒婉となり、人は江山の助を得たりと謂う。常に集賢の図書の任を典し、間も致仕すること一歳あれども、また家に於いて史を修めた。

初め、帝(玄宗)は張説に大学士を授けようとしたが、辞して曰く、「学士に元来大なる称はなく、中宗が大臣を崇め寵遇したために初めて之があったのであり、臣は敢えて之を称と為すべからず」と。固く辞したので遂に免れた。後に集賢院に宴を開いた時、故事(先例)によれば、官の重き者が先に飲むこととなっていたが、張説は曰く、「吾聞く、儒者は道を以て互いに高しとし、官閥を以て先後と為さずと。太宗の時に史を修めたる十九人、長孫無忌は元舅(皇后の兄)たりしも、毎たび宴に臨みてあえて先に爵を挙げず。長安年中(武則天の治世)、『珠英』を修するにあずかりし時、当時の学士も亦た品秩を以て限界と為さず」と。ここに於いて觴を引いて同飲し、時に其の体(礼節)有るをす。中書舎人陸堅は、学士の中には人に非ざる者もあり、而して供給のととのえが余りに厚く、国家に益なき者ありとし、議して之を罷むるを白上せんとした。張説聞きて曰く、「古の帝王は功成りて則ち奢満の失有り、或いは池観を興し、或いは声色を尚ぶ。今、陛下は儒を崇め道に向かい、みずから講論し、豪俊をことごとき入れ給う。然らば則ち麗正(院)は乃ち天子の礼楽を司る所、費やす所はささやかにして益する所は大なり。陸生の言は、けだし未だ達せざるか」と。帝知りて、遂に陸堅を薄く遇した。

張説嘗て自ら其の父の碑文を作り、帝は其の額を書いて曰く、「嗚呼、積善の墓」と。張説歿後、帝は使いを其の家に就かせて其の文を録させ、世に行われしむ。開元の後、宰相にして姓を以ていちじるしくせざる者を、燕公と曰う云う。大暦年中、詔して玄宗の廟廷に配享せしむ。子に均、垍、埱有り。

張説の子 均

均も亦た文能くす。太子通事舎人より累遷して主爵郎中、中書舎人となる。開元十七年、張説が左丞相を授かり、京官の考課をるに当たり、均の考課に註して曰く、「父は子に忠を教う、古の善き訓えなり。王の言、帝のす所、尤も以て任じ難し。なんぞ嫌疑を以てして、紀綱をみださんや。上下に考う」と。当時も亦た之を私と為さず。後に燕国公を襲ぎ、累遷して兵部侍郎となり、累る事に坐して饒州・蘇州の二州刺史に貶せらる。久しくして、復た兵部侍郎と為る。

自ら己が才を以て輔相に当たるべしとし、李林甫に抑えられる。林甫卒しゅっして後、陳希烈にり、其の処(地位)を得んことをこいねがう。既にして楊国忠用事し、希烈罷められ、而して均は刑部尚書と為る。垍の事に坐し、建安太守に貶せらる。還りて、大理卿を授けらるるも、居常に觖望けつぼうして平らかならず。禄山国を盗みし時、偽の中書令と為る。粛宗反正し、兄弟皆死を論ぜらる。房琯之を聞き、驚きて曰く、「張氏滅びたり」と。乃ち苗晋卿を見え、之を営解す。帝も亦た張説に旧有るを顧み、詔して死を免じ、合浦に流す。建宮初(建中元年か)、太子少傅を贈らる。子に濛有り、徳宗に事え、中書舎人と為る。

張説の子 垍

垍は寧親公主を尚す。時に張説は中に居りて政をり、均は舎人、諸父の張光は銀青光禄大夫、栄盛時をかんす。玄宗の垍をかえりみ厚く、即ち禁中に内宅を置き、文章をらしめ、珍賜数うべからず。均は翰林に供奉すれども、垍は賜わったる所を以て均に誇る。均曰く、「此れは婦翁が婿におくる所、天子が学士に賜う所に非ず」と。垍嘗て帝の為に礼を賛し、挙止都雅みやびやかにして、帝之を悦ぶ。因りて内宅に幸し、顧みて垍に曰く、「希烈宰相を辞す、孰れか代わるべき者あらん」と。垍錯愕し、未だ対うるを得ず。帝曰く、「吾が婿にうるきのみ」と。垍頓首して謝す。たまたま貴妃聞き、以て国忠に語る。国忠之をにくみ、希烈の罷まるるに及び、韋見素を薦めて之に代えしむ。垍始めて上を怨む。

天宝十三載、安禄山朝に入り、奚・契丹を破りし功を以て、平章事を求む。国忠曰く、「禄山軍功有りと雖も、然れども字を識らず。之を与うれば、恐らくは四夷漢を軽んずべし」と。乃ち止む。范陽に還るに及び、詔して高力士をして滻坡にはなむけせしむ。力士帰りて曰く、「禄山内に鬱鬱たり、相せんと欲して行われざるを知れるが若し」と。帝以て国忠に語る。国忠曰く、「告げし者は必ずや張垍ならん」と。帝怒り、其の兄弟を尽く逐い、均を以て建安を守らしめ、而して垍を盧溪郡司馬と為し、埱を給事中より宜春郡司馬と為す。歳中にして還り、垍は太常卿と為る。

帝西に狩りて咸陽に至る時、唯だ韋見素・楊国忠・魏方進の従うのみ。帝力士に謂ひて曰く、「し朝臣を計らば、孰れか当に至るべき者ならん」と。力士曰く、「張垍兄弟は世々恩戚を以て貴く、其れ当に即ち来たらん。房琯は宰相の望有りと雖も、而して陛下久しく之を用いず、又禄山に器とせらる。此れは来らざるべし」と。帝曰く、「未だ知るべからず」と。後に房琯至り、召し見て流涕す。帝撫でねぎらひ、且つ問うて曰く、「均・垍はいずくに在りや」と。琯曰く、「臣の西するや、亦た嘗て其の家を過ぎ、まさに之とともに来らんとす。均曰く、『馬善く馳せず、後当に継ぎて行かん』と。然れども臣之を観るに、恐らくは陛下に従う能わざるべし」と。帝嗟悵し、力士を顧みて曰く、「吾豈に人をわんと欲せんや。均等自ら才器双ぶる無しと謂い、大用せられざるを恨む。吾向さきに全うせんと欲するの始め、今若のはかる所に非ず」と。垍は遂に希烈と皆禄山にたすけ、垍は賊中に死す。

賛して曰く、張説は玄宗に最も徳有り。太平(公主)の用事するに及び、忠を納れて惓惓けんけんたり。又た封禅を図り、典章を発明し、開元の文物彬彬たるは、張説の力の多きを占む。なかば奸人に排擯せられ、ほとんど免れざらんとす。古より功名の始終亦た幾どまれなり。何ぞ独り張説のみならんや。子に至りては利を以てにわかに其の家を敗る。若し張瓌・張頲の再世賢宰相と称せらるるは、盛んなり。