姚崇
姚崇、字は元之、陝州硤石の人。父は懿、字は善懿、貞観年間に巂州都督となり、幽州大都督を追贈され、諡は文獻。
崇は若くして倜儻、気節を尚び、長じて乃ち学を好む。仕えて孝敬挽郎となり、下筆成章に挙げられ、濮州司倉参軍を授かり、五遷して夏官郎中となる。契丹が河北を擾し、兵の檄文叢進するも、崇の奏決は流るるが如く、武后賢しとして、即ち侍郎に拝す。後に嘗て左右に語りて曰く、「往時周興・来俊臣等数詔獄を治め、朝臣相逮引し、一切承反す。朕其の枉たるを意ひ、更に近臣をして臨問せしむるに、皆其の手牒を得て冤しからず、朕疑ふ所なく、即ち其の奏を可とす。俊臣等誅せられしより、遂に反する者無し、然らば則ち向の論死は冤無きを得たりや」と。崇曰く、「垂拱以後、被告する者は類て自ら誣ぐ。当の時は、告言を以て功と為すを以て、故に天下号して『羅織』と曰ひ、漢の鉤党に甚だし。陛下近臣をして覆訊せしむと雖も、彼尚自保せず、敢へて一手を搖がして酷吏の意に悖らんや。且つ問はれて承へざれば、則ち重ねて其の惨に罹る、張虔勖・李安静等の如き皆是なり。今天の霊に頼り、陛下を発寤せしめ、凶豎殲夷し、朝廷乂安す。臣一門百口を以て内外の官に復た反する者無きを保す。陛下告牒を置きて推さず、後若し反の端有らば、臣請ふ知りて告げざるの罪に坐せられん」と。后悦びて曰く、「前の宰相は務めて順可し、我をして淫刑の主たらしむ。公の言を聞きて、乃ち朕が心を得たり」と。銀千両を賜ふ。
張柬之等二張を誅せんと謀る。崇適に屯所より還るに遭ひ、遂に計議に参ず。功を以て梁県侯に封ぜられ、実封二百戸。后上陽宮に遷るに及び、中宗百官を率ひて起居す。王公更相慶す。崇独り流涕す。柬之等曰く、「今豈に涕泣の時ならんや。公の禍此より始まらんことを恐る」と。崇曰く、「比に逆を討つに与るも、以て功を語るに足らず。然れども天后に事ふること久し。旧主に違ひて泣くは、人臣の終節なり。此より罪を獲るも甘心なり」と。俄に亳州刺史と為る。後五王害せられ、而して崇独り免る。宋・常・越・許の四州を歴る。睿宗立ち、兵部尚書・同中書門下三品に拝し、中書令に進む。
玄宗東宮に在りし時、太平公主政を干し、宋王成器等閑廄・禁兵を分典す。崇と宋璟、主を東都に就かしめ、諸王を出して刺史と為し、以て人心を壱にせんことを建請す。帝以て主に謂ふ。主怒る。太子懼れ、上疏して崇等王室を槊間せしとし、罪を加へんことを請ふ。申州刺史に貶せらる。徐・潞二州に移り、揚州長史に遷る。政条簡肅、人碑に紀徳す。同州刺史に徙る。
中宗の時、近戚僧尼の度を奏し、温戸強丁賦役を避くるに因る。是に至り、崇建言す、「仏は外に在らず、之を心に悟る。事を行ひ利益し、蒼生をして安穩ならしむる、是を仏理と謂ふ。何ぞ奸人を用ひて真教を汨さんや」と。帝之を善しとし、詔して天下に僧の偽濫を汰し、発して農と為る者余万二千人。
崇嘗て帝の前に於て郎吏を序次す。帝左右を顧み、其の語を主とせず。崇懼れ、再三之を言ふ。卒に答へず。崇趨りて出づ。内侍高力士曰く、「陛下新に即位し、宜しく大臣と裁可すべし。今崇亟に言ふに、陛下応ぜず。虚懐誨を納るる者に非ず」と。帝曰く、「我崇を政に任ず。大事は吾当に与に決すべし。郎吏を用ふるに至りては、崇顧みて能はずして重ねて我を煩はすや」と。崇聞きて乃ち安んず。是より賢を進め不肖を退けて天下治まる。
開元四年、山東に大蝗あり、民は祭り且つ拝し、坐して苗を食うを見るも敢えて捕えず。崇、奏して曰く、「『詩』に云う、『彼の蟊賊を秉り、付畀す炎火に。』漢の光武の詔に曰く、『時政に順うを勉め、農桑を勧督す。彼の螟域を去り、以て蟊賊に及ぼす。』これ蝗を除くの誼なり。且つ蝗は人を畏れて易く駆き、又田は皆主あり、その地を自救せしめば、必ず勧むるを憚らざらん。請う、夜に火を設け、その旁に坎を穿ち、且つ焚き且つ瘞せば、蝗乃ち尽くすべし。古に討除して勝たざる者有り、特だ人の命を用いざるのみ。」乃ち御史を出して捕蝗使と為し、道を分かちて蝗を殺さしむ。汴州刺史倪若水、言上して曰く、「天災を除く者は徳を以てすべし、昔、劉聰、蝗を除くも克たずして害愈甚だし。」御史を拒み命に応ぜず。崇、書を移してこれを誚りて曰く、「聰は偽主なり、徳は祆に勝たず、今は祆は徳に勝たず。古の良守は、蝗その境を避く、徳を修めば免る可しと謂う、彼は将に徳無きを致して然るか。今、坐して苗を食うを見、忍びて救わず、因りて無年と為らば、刺史其れ何と謂わん。」若水懼れ、乃ち捕うるを縦し、蝗十四万石を得たり。時に議者喧嘩し、帝疑い、復た崇に問う。対えて曰く、「庸儒は文に泥みて変を知らず。事固より経に違いて道に合い、道に反して権に適う者有り。昔、魏の世、山東に蝗あり、小忍して除かず、至って人相食むに至る。後、秦に蝗あり、草木皆尽き、牛馬至って毛を相啖む。今、飛蝗の在る所充満し、加うるに復た蕃息す。且つ河南・河北の家に宿蔵無く、一たび獲ざれば則ち流離す。安危これに係る。且つ蝗を討つは縦え尽くさずと雖も、養いて患を遺すに愈れるか。」帝然りとす。黄門監盧懷慎曰く、「凡そ天災は、安んぞ人力を以て制すべけんや。且つ蟲を殺すこと多ければ、必ず和気に戾る。願わくは公、これを思え。」崇曰く、「昔、楚王、蛭を吞みて厥の疾瘳え、叔敖、虵を断ちて福乃ち降る。今、蝗幸いに駆く可し、若し之を縦すれば、穀将に尽きん、百姓を如何せん。蟲を殺して人を救う、禍は崇に帰す、以て公に諉せず。」蝗害遂に息む。
ここに於いて、帝方に万機に躬り、朝夕に詢い逮う。他の宰相は帝の威決を畏れ、皆謙り憚る。独り崇のみ佐けて裁決す。故に専任を得たり。崇の第は賒く僻なり。因りて近くに客廬を舎す。会に懷慎卒し、崇病{疒占}して移告す。凡そ大政事は、帝必ず源乾曜をして就きて咨らしむ。乾曜の奏する所善ければ、帝則ち曰く、「是れ必ず崇の画く所なり。」合わざる有れば、則ち曰く、「胡ぞ崇に問わざる。」乾曜、その未だせざるを謝す。乃ち已む。帝、崇をして自ら近きに在らしめんと欲し、詔して四方館に寓するを徙し、日に食飲起居を問い遣わす。高医・尚食、踵いて道う。崇、館局の華大なるを以て、敢えて居らず。帝、人をして崇に語らしめて曰く、「禁中に処せざるを恨む。此れ何ぞ避く。」久しくして、紫微史趙誨、夷人の賕を受け、当に死すべし。崇、素より親倚す。奏に署して営みて減ぜんとす。帝悦ばず。時に京師を曲赦す。惟だ誨のみ原せず。崇惶懼し、上って宰政を還し、宋璟を引いて代えしむ。乃ち開府儀同三司を以て政事を罷む。
八年、太子少保を授く。疾を以て拝せず。明年卒す。年七十二。揚州大都督を贈り、諡して文獻と曰う。十七年、太子太保を追贈す。
崇、貲産を析き、諸子をして各々定分有らしむ。治令に曰く、
比に見るに、達宦の裔多く貧困に至り、銖尺を是れ競う。曲直を論ぜず、均しく絜を受け、詆せらる。田宅水磑既にこれを共有し、至って相推倚して以て頓廢す。陸賈・石苞、古の達者なり。亦た先ず定分有りて、以て後の爭を絶つ。昔、楊震・趙明・盧植・張奐皆な薄葬を以てす。真識の身を去るを知り、朽ちるを速やかにするを貴ぶ耳。夫れ厚葬の家は俗に流れ、奢靡を以て孝と為し、死者に屍を戮し骸を暴せしむ。痛ましからずや。死者は知無く、自ら糞土に同じ。豈に奢葬を煩わすべけんや。其れ知有らしめば、神は柩に在らず。何ぞ貲を破り侈に徇うを用いん。吾亡びなば、常服を以て斂れ。四時の衣各一稱。性、冠衣を喜ばず。墓に入るるに毋からしめよ。紫衣玉帯、足りて体に便なり。今の佛經は、羅什の訳する所、姚興これと対翻す。而して興の命延びず、国も亦た随って滅ぶ。梁武帝は身を以て寺奴と為り、斉の胡太后は六宮を以て道に入る。皆な亡国殄家す。近く孝和皇帝は使を発して生を贖い、太平公主・武三思等は人を度し寺を造る。身夷戮に嬰り、天下の笑いと為る。五帝の時は、父は子を喪わず、兄は弟を哭かず。仁寿を致し、凶短無し。下って三王に逮ぶ。国祚延久す。其の臣は則ち彭祖・老聃皆な長齢を得たり。此時に佛無し。豈に經を抄し像を鑄くの力か。死喪に縁りて經像を造り、以て追福と為す。夫れ死は生の常、古より免れざる所。彼の經と像、何の施為かあらん。兒曹慎みて此れを為すこと得ざれ。崇は尤も吏道に長け、処決に淹思無し。三たび宰相と為り、常に兵部を兼ぬ。故に屯戊斥候・士馬儲械、諳記せざる無し。玄宗初めに立ち、大臣故老を賓禮し、雅く崇を尊遇す。每たび便殿に見えば、必ず之が為に興ち、去れば輒ち軒に臨みて以て送る。他の相これに如かず。時に権戚の政を幹うるの後を承け、綱紀大いに壞る。先天の末、宰相十七人に至り、台省の要職数う可からず。崇は常に先ず有司をして冗職を罷め、制度を修め、百官を択び各々其の材に当たらしめ、広く釋道せざるを請い、数え移吏せざるを請う。繇りて天子は下に責成し、而して権は上に帰す。
然るに権謀術数を資とす。初め同州刺史となった時、張説が宿怨を抱き、趙彦昭に姚崇を弾劾させた。姚崇が国政を執るに及んで、張説は恐れ、密かに岐王のもとに赴き忠誠を申し述べた。ある日、姚崇が朝参し、群臣が退出する際、姚崇は足を引きずり病の様子を装った。帝が召して問うと、答えて曰く、「臣は足を痛めております」と。帝が「それほど痛くはないか」と問うと、「臣は心に憂いがあり、痛みは足にはございません」と。その理由を問うと、曰く、「岐王は陛下の愛弟、張説は輔弼の臣であるのに、密かに車に乗って王家に出入りしております。彼に惑わされることを恐れ、故に憂えております」と。ここにおいて張説を相州刺史に出した。魏知古は姚崇が推挙した者であったが、同列となると、姚崇は次第に彼を軽んじ、吏部尚書を兼務させて東都洛陽の選事を掌らせたので、知古は恨みを抱いた。時に姚崇の二人の子が洛陽におり、賓客と交わり贈り物を受け、旧縁を頼みに請託を行っていた。知古が帰朝すると、ことごとくこれを帝に奏上した。ある日、帝が姚崇を召して曰く、「卿の子は才能があるか、皆どこにおるのか」と。姚崇は帝の意を推し量り、曰く、「臣の二子は東都に分司しておりますが、その人となりは欲が多く慎みが足りず、必ずやかつて魏知古に事を依頼したに違いございません」と。帝は初め姚崇が子を私するか、あるいは隠蔽するかと思い、言葉で微かに動かそうとした。この言葉を聞いて、大いに喜び、問うて曰く、「どうしてそれがわかったのか」と。答えて曰く、「知古は臣が推薦した者でございます。臣の子らは必ずや彼が恩を感じていると思い、請い求めたのでしょう」と。帝はここにおいて姚崇が私せず、知古を軽んじ、斥けようとした。姚崇が曰く、「臣の子が不埒なことをし、陛下の法を乱しておりますのに、知古を追放すれば、外間は必ずや陛下が臣を私していると言うでしょう」と。帝はやめたが、結局知古を罷免して工部尚書とした。
姚崇は初め元崇と名乗ったが、突厥の叱剌と同名であったため、武后の時に字(元之)を用いて通した。開元の世に至り、帝の諱(玄宗の名は隆基)を避け、今の名(崇)に改めた。三人の子、彝、異、弈がおり、皆卿や刺史に至った。
子の弈
曾孫の合
曾孫の合と勗。姚合は元和年中に進士に及第し、武功尉に任じられ、詩を善くし、世に姚武功と称された。監察御史に遷り、累転して給事中となった。奉先・馮翊の二県の民が、牛羊使がその田を奪ったと訴えた。詔により美原主簿の朱儔が再審査したが、不当にも田を使に帰属させた。姚合はその私曲を弾劾して暴き、土地を民に返還させた。陝虢観察使を歴任し、終に秘書監で終わった。
曾孫の勗
姚勗は字を斯勤という。長慶初年に進士に及第し、数度、使府の表奏により召し出され、監察御史に進み、塩鉄使の事務を補佐した。累遷して諫議大夫となり、さらに湖州・常州の刺史を歴任した。宰相の李徳裕と親しく善しみとした。徳裕が令狐綯らに讒言されて追放されると、その一派を探し索め、敢えて労問を通じる者はいなかった。徳裕が海南に流された後、家に資産がなく、病んでも湯薬もない有様であったが、勗は数度、食糧を送り見舞い、時勢の厚薄に流されなかった。終に夔王傅となった。自ら万安山の南の原、姚崇の墳墓の傍らに寿蔵(生前に作る墓)を造り、墓域を「寂居穴」、墳を「復真堂」とし、中に土を穿って床とし「化台」と称し、石に刻んで後世に告げた。
宋璟
宋璟は、邢州南和県の人である。七世の祖の弁は、元魏の吏部尚書であった。璟は耿介として大節を持ち、学を好み、文章を巧みにし、進士に挙げられ及第した。上党尉に任じられ、監察御史となり、鳳閣舎人に遷った。官に在って鯁直公正であり、武后はその才能を高く評価した。張易之が御史大夫の魏元忠に不臣の言葉があると誣告し、張説を証人に引き出そうとした。廷議で弁明しようとした時、張説は恐れ慌てた。璟は張説に謂って曰く、「名義は最も重い。正人を陥れて苟も免れようとすべきではない。これによって貶謫を受けても、その芳香は多い。もし不測の事があれば、我は宮門を叩いて救い、子と共に死のう」と。張説はその言葉に感じ、実情を以て答えたため、元忠は死を免れた。
神龍初年、吏部侍郎となった。中宗はその直諫を嘉し、諫議大夫・内供奉を兼ねさせ、仗下(儀仗の下)で得失を言わせた。黄門侍郎に遷った。武三思が帝の寵愛を恃み、数度、璟に請い求めた。璟は厳しく答えて曰く、「今、天子に政権を返上し(中宗が復位し)、王は侯として邸に退くべきであり、どうして尚も朝政に干与できようか。呂産・呂禄の事を御覧にならなかったのですか」と。後に韋月将が三思が宮掖を乱すと告発した。三思は役人に唆して大逆不道の罪に論じさせた。帝は詔して死刑に処そうとした。璟は獄に付して罪を審理するよう請うた。帝は怒り、巾を岸やかにして側門から出て、璟に謂って曰く、「朕は既に誅したと思ったのに、尚も何を請うのか」と。璟が曰く、「人が后が三思と私通していると言っているのに、陛下は問うこともなく即座に斬ろうとされます。臣は密かに議論する者がいることを恐れます。審理した後に刑すべきです」と。帝はますます怒った。璟が曰く、「まず臣を誅してください。そうでなければ、終に詔を奉じません」と。帝は乃ち月将を嶺南に流した。ちょうど京師に還る際、詔して璟に権(臨時の)検校並州長史を命じた。未だ赴任せず、また検校貝州刺史を命じられた。時に河北は水害があり、大飢饉となった。三思が封戸の租税を徴収させようとしたが、璟は拒んで与えず、故に彼に排斥された。杭州・相州の二州刺史を歴任し、政治は清廉で剛毅であり、下僚は敢えて犯す者はいなかった。洛州長史に遷った。
太平公主は東宮(皇太子)に不利を図り、かつて輦を光範門に停め、執政者を待ち受けて諷した。宋璟は言った、「太子は大功があり、宗廟社稷の主である。どうして異議がありえようか」。そこで姚崇と共に上奏して、公主と諸王を外に出そうとしたが、帝は用いなかった。楚州刺史に貶され、兗州・冀州・魏州の三州刺史・河北按察使を歴任し、幽州都督に進み、国子祭酒として東都留守となり、雍州長史に遷った。
玄宗の開元初年、雍州を京兆府とし、再び尹となった。御史大夫に進んだが、小さな累が坐して睦州刺史となり、広州都督に転じた。広州の人は竹や茅で屋根を葺き、火災が多かった。宋璟は彼らに陶瓦で壁を築き、邸宅や店舗を並べることを教え、越の習俗は初めて棟宇の利を知り、災害の憂いがなくなった。召されて刑部尚書に任じられた。四年、吏部尚書兼侍中に遷った。
帝が東都に幸した時、崤谷に滞在し、馳道が狭隘で車騎が渋滞した。帝は河南尹の李朝隠・知頓使の王怡らの官を免じようとした。宋璟は言った、「陛下は春秋に富み、今初めて巡守される。道が治まらないからといって二臣を罪するなら、これによって互いに戒めるようになり、後にこれに蔽われる者が出ましょう」。帝は急いでこれを取りやめさせた。宋璟は謝して言った、「陛下が先ほど怒って責められたのを、臣の言葉で免じられたのは、過ちは上に帰し恩恵は下にあることになります。暫く朝廷で待罪させ、その後詔してその職に戻らせれば、進退とも適切です」。帝はこれを良しとした。累ねて広平郡公に封ぜられた。広州の人が宋璟のために遺愛頌を立てようとした。宋璟は上言した、「頌は徳を伝え功を載せるものです。臣の治績は記録するに足りず、広州の人は臣が国政を担当したため、過分な言葉を並べ、ただ諂諛を成すだけです。これを正したいので、臣から始めて下さい」。詔があり、停止を許された。
帝はかつて宋璟と蘇頲に皇子の名と公主の号を制定させ、そこで封ずる順序を定め、さらに別に一つの美称と佳邑を選んで封上するよう詔した。宋璟は奏言した、「七子を均しく養うことは、詩人が称えるところです。今もし同等に別封すれば、あるいは母の寵愛や子への偏愛により、鳩の公平を傷つける恐れがあります。昔、袁盎が慎夫人の席を退けさせ、文帝がこれを受け入れ、夫人も嫌がらなかったのは、長久の計を得たからです。臣は別封いたしません」。帝はその賢を歎賞し重んじた。
皇后の父である王仁籞が卒し、葬ろうとした時、昭成皇后の家の竇孝諶の故事を用い、墳の高さを五丈一尺としようとした。宋璟らは令の規定通りにするよう請うた。帝はすでに許可したが、翌日、また孝諶の例によるよう詔した。宋璟は詔を返して言った、「倹は徳の恭しいもの、侈は悪の大なるものです。礼を僭越し厚葬することは、前世の戒めるところであり、故に古は墓を作っても墳を築きませんでした。人子は哀痛に迷う時は礼で自ら制する暇がなく、故に聖人が斉・斬・緦・免の喪服と、衣衾棺槨にそれぞれ度数を定めたのです。賢者といえども、その私懐を断ち切ります。衆皆奢に務める中、独り倹を以てする、これこそ至徳要道というものです。中宮がもし孝諶が制を越えたと言うなら、初め非とする者はなく、一つの命令は固より法とするに足りません。貞観の時、長楽公主を降嫁するに、魏徴は長公主より加えてはならないと言い、太宗は喜んで受け入れ、文徳皇后は使者を降して厚く謝しました。韋庶人はその父を追王し、酆陵を擅作しましたが、禍は踵を返す間もなく及びました。国家は人情に際限がないことを知っているので、制度を定め、人によって動揺せず、法を愛憎によって変えません。近頃、世間では競って奢侈な葬儀を務めています。今、后父という重戚で、用が乏しいことを憂えず、高塚大寝で人がいないことを畏れず、百事官給で一朝に成し得るのに、わざわざ繰り返し上聞するのは、朝廷の政と中宮の美を成そうとするからです。もし中宮の情が奪い難いなら、令に準じて一品陪陵とし、墳を四丈とされれば、およそ適宜に合うでしょう」。帝は言った、「朕は常に身を正して天下の紀綱としたい。后に対して私心があろうか。しかし人が言い難いことを、公らはよく言えた」。即座にその奏を許可した。また使者を遣わして彩絹四百匹を賜った。
日食があった。帝は素服で変異を待ち、囚人を録して多くを赦免・放免し、災害を賑恤し、不急の務めを罷めた。宋璟は言った、「陛下が徳音を降し、民の苦しみを恤み、軽い罪は赦されましたが、流罪・死罪は免れません。これは古が赦を慎んだ所以です。議する者がただ月蝕には刑を修め、日蝕には徳を修めるとか、あるいは分野の変だと言って、揣摩迎合を望むのを恐れます。臣は思うに、君子の道が長じ、小人の道が消えることです。女謁を止め、讒夫を放つ、これが徳を修めるというものです。囹圄を擾さず、兵甲を瀆さず、官が苛治せず、軍が軽進しない、これが刑を修めるというものです。陛下が常にこれを念とされれば、たとえ虧食があっても、転じて福となすでしょう。何を憂えましょうか。かつ君子は言が行を浮かべることを恥じます。天を誠で勧め、空文に事寄せないことを願います」。帝は嘉納した。後に開府儀同三司で政事を罷めた。
京兆人の権梁山が謀逆を図った。勅して河南尹の王怡に馳伝して往き按問させた。牢獄は囚人で満ち、長く決せず、そこで宋璟を京留守とし、その獄を覆審させた。初め、梁山は婚礼の集まりと偽称し、多く借り受けていた。吏は貸した人々をも連座させようとした。宋璟は言った、「婚礼の借り求めは大同小異であり、狂った謀り事は突然のことで、防ぎ予測できるものではない。知っていて貸さなければ、これこそ反逆に加担することだ。貸した者が知らなければ、何の罪があろうか」。数百人を平然と放免した。
宋璟は風度が凝遠で、人はその度量を測り知れなかった。初め、広州から入朝する時、帝は内侍の楊思勖を駅に遣わして迎えさせたが、一言も交わさなかった。思勖は自ら将軍として貴幸であることを恃み、帝に訴えた。帝はますます嗟歎して重んじた。宋璟が宰相となってからは、政刑を清めることに務め、官人をして皆職に任じさせた。聖暦の後、突厥の默啜はその強を恃み、しばしば辺境を窺い、九姓の抜曳固を侵したが、勝ちに乗じて軽々しく出て、その狙撃を受けて斬られた。入蕃使の郝霊佺がその首を京師に伝えた。霊佺は自ら帰れば必ず厚く賞せられると考えた。宋璟は天子が若いことを顧み、後に寵を干し利に蹈む者が威武を誇り、国のために事を生ずることを恐れ、故にこれを抑え、一年余りして、ようやく右武衛郎将を授けた。霊佺は恚憤して食を絶ち死んだ。張嘉貞が後に宰相となり、堂案を閲して、その危言切議を見るに、声を失って歎息しないことはなかった。六人の子:昇・尚・渾・恕・華・衡。
子の昇。
昇は太僕少卿。尚は漢東太守。
子の渾。
渾は李林甫と親しく、諫議大夫・平原太守・御史中丞・東京採訪使を歴任した。平原においては、暴斂して昇進を求め、民の一年分の庸・租を重ねて取り立てるに至った。東畿を巡察する際、薛稷の甥の娘で鄭氏という寡婦が美しかったので、渾は河南尉の楊朝宗に聘わせて自ら娶り、朝宗を赤尉に推薦した。恕は、都官郎中として劍南採訪判官となり、しばしば貪欲で放縦、法に背き、ひそかに刺客を養った。天寶年間、渾・恕・尚はいずれも贓罪により失脚し、渾は高要に流され、恕は海康に流され、尚は臨海長史に貶された。華と衡もまた、貪汙の罪に坐した。廣德年間、渾は起用されて太子諭德となったが、世間の評判は穢く軽んじられ、江嶺に流されて死んだ。兄弟は皆、荒淫・酒宴・戯れ遊ぶ者であったが、衡が最も険悪で背徳であり、廣平公(姚崇)の家風は衰えたのである。
贊
贊して曰く、姚崇は十事を以て天子に要説し、その後輔政した。顧みれば偉大ならずや、しかるに旧史は伝えず。開元初年に観るに、皆既に施行されており、信じて誣うるに足らず。宋璟の剛正はまた崇を過ぎ、玄宗は平素より尊び憚り、常に意を屈して聴き納れた。故に唐の史臣は、崇は応変に善くして天下の務めを成し、璟は文を守るに善くして天下の正を保つと称えた。二人の道は同じからずとも、治に帰するは同じ、これ天の唐を佐けて中興せしむる所以なり。嗚呼、崇は天子に辺功を求めざるを勧め、璟は辺臣を賞せんと肯わず、而して天寶の乱、ついにその害を蹈む。先見の明有りと謂うべし。然れども唐三百年、輔弼の者少なからず、独り前に房・杜を称え、後に姚・宋を称うるは何ぞや。君臣の遇合、蓋し難きかな。