新唐書

巻一百二十四 列傳第四十九 姚崇 宋璟

姚崇

姚崇、字は元之、陝州硤石の人。父は懿、字は善懿、貞観年間に巂州都督ととくとなり、幽州大都督を追贈され、諡は文獻。

崇は若くして倜儻、気節を尚び、長じて乃ち学を好む。仕えて孝敬挽郎となり、下筆成章に挙げられ、濮州司倉参軍を授かり、五遷して夏官郎中となる。契丹が河北を擾し、兵の檄文叢進するも、崇の奏決は流るるが如く、武后賢しとして、即ち侍郎に拝す。後に嘗て左右に語りて曰く、「往時周興・来俊臣等数詔獄を治め、朝臣相逮引し、一切承反す。朕其の枉たるを意ひ、更に近臣をして臨問せしむるに、皆其の手牒を得て冤しからず、朕疑ふ所なく、即ち其の奏を可とす。俊臣等誅せられしより、遂に反する者無し、然らば則ち向の論死は冤無きを得たりや」と。崇曰く、「垂拱以後、被告する者は類て自ら誣ぐ。当の時は、告言を以て功と為すを以て、故に天下号して『羅織』と曰ひ、漢の鉤党に甚だし。陛下近臣をして覆訊せしむと雖も、彼尚自保せず、敢へて一手を搖がして酷吏の意に悖らんや。且つ問はれて承へざれば、則ち重ねて其の惨に罹る、張虔勖・李安静等の如き皆是なり。今天の霊に頼り、陛下を発寤せしめ、凶豎殲夷し、朝廷乂安す。臣一門百口を以て内外の官に復た反する者無きを保す。陛下告牒を置きて推さず、後若し反の端有らば、臣請ふ知りて告げざるの罪に坐せられん」と。后悦びて曰く、「前の宰相は務めて順可し、我をして淫刑の主たらしむ。公の言を聞きて、乃ち朕が心を得たり」と。銀千両を賜ふ。

聖暦三年、同鳳閣鸞台平章事に進む。鳳閣侍郎に遷り、俄に相王府長史を兼ね、母老いたるを以て政を納めて帰侍せんとす。乃ち詔して相王府長史を以て疾に侍らしむ。月余りして、復た夏官尚書・同鳳閣鸞台三品を兼ぬ。崇建言す、「臣相王に事ふ。而して夏官は本兵なり。臣死を惜しまざるに非ず、王に益せざるを恐る」と。乃ち詔して春官に改む。張易之私に崇に請ふ有り、崇納れず。易之后に譖り、司僕卿に降し、猶同鳳閣鸞台三品。出でて霊武道大総管と為る。

張柬之等二張を誅せんと謀る。崇適に屯所より還るに遭ひ、遂に計議に参ず。功を以て梁県侯に封ぜられ、実封二百戸。后上陽宮に遷るに及び、中宗百官を率ひて起居す。王公更相慶す。崇独り流涕す。柬之等曰く、「今豈に涕泣の時ならんや。公の禍此より始まらんことを恐る」と。崇曰く、「比に逆を討つに与るも、以て功を語るに足らず。然れども天后に事ふること久し。旧主に違ひて泣くは、人臣の終節なり。此より罪を獲るも甘心なり」と。俄に亳州刺史と為る。後五王害せられ、而して崇独り免る。宋・常・越・許の四州を歴る。睿宗立ち、兵部尚書・同中書門下三品に拝し、中書令に進む。

玄宗東宮に在りし時、太平公主政を干し、宋王成器等閑廄・禁兵を分典す。崇と宋璟、主を東都に就かしめ、諸王を出して刺史と為し、以て人心を壱にせんことを建請す。帝以て主に謂ふ。主怒る。太子懼れ、上疏して崇等王室を槊間せしとし、罪を加へんことを請ふ。申州刺史に貶せらる。徐・潞二州に移り、揚州長史に遷る。政条簡肅、人碑に紀徳す。同州刺史に徙る。

先天二年、玄宗新豊に武を講ず。故事に、天子行幸し、牧守三百里に在る者は、行在に詣るを得。時に帝亦密かに崇を召す。崇至る。帝方に渭濱に獵す。即ち召して見る。帝曰く、「公獵を知るや」と。対へて曰く、「少しく習ふ所なり。臣年二十、広成沢に居り、鷹を呼び獣を逐ふを以て楽と為す。張憬藏臣当に王佐の位に当るべしと謂ひ、自棄する無かれと。故に節を折りて書を読み、遂に将相に待罪す。然れども少くは獵師と為り、老いて猶能くす」と。帝悦び、俱に馳逐し、緩速旨の如し。帝甚だ歓ぶ。既に罷りて、乃ち天下の事を諮り、袞袞として倦むを知らず。帝曰く、「卿宜しく遂に朕に相へよ」と。崇帝の大度にして治に鋭きを知り、乃ち先づ事を設けて以て帝の意を堅くせんとす。即ち陽は謝せず。帝之を怪しむ。崇因り跪きて奏す、「臣願くは十事を以て聞かしめん。陛下度りて行ふ可からずとせば、臣敢へて辞せん」と。帝曰く、「試みに朕が為に之を言へ」と。崇曰く、「垂拱以来、峻法を以て下を縄す。臣願くは政先づ仁恕を以てせん。可ならんや。朝廷青海に師を覆すも、未だ牽復の悔ひ無し。臣願くは辺功を倖せず。可ならんや。比来壬佞憲網に冒觸するも、皆寵を以て自ら解くを得。臣願くは法近きより行はれん。可ならんや。后氏朝に臨み、喉舌の任閹人の口より出づ。臣願くは宦豎政に与からず。可ならんや。戚裏貢献を以て上に自ら媚ぶ。公卿方鎮浸も亦之を為す。臣願くは租賦の外一に之を絶たん。可ならんや。外戚貴主更相用事し、班序荒雑なり。臣請ふ戚属台省に任ぜられず。可ならんや。先朝大臣を褻狎し、君臣の厳を虧く。臣願くは陛下之を礼を以て接せられん。可ならんや。燕欽融・韋月将忠を以て罪せられ、是より諍臣沮折す。臣願くは群臣皆逆鱗を批り、忌諱を犯すを得ん。可ならんや。武后福先寺を造り、上皇金仙・玉真の二観を造り、費钜百万。臣請ふ道仏の営造を絶たん。可ならんや。漢禄・莽・閻・梁を以て天下を乱す。国家之に甚だし。臣願くは此の鑑戒を推して万代の法と為さん。可ならんや」と。帝曰く、「朕能く之を行はん」と。崇乃ち頓首して謝す。翌日、兵部尚書・同中書門下三品に拝す。梁国公に封ぜらる。紫微令に遷る。固より実封を辞す。乃ち旧食を停め、新封百戸を賜ふ。

中宗の時、近戚僧尼の度を奏し、温戸強丁賦役を避くるに因る。是に至り、崇建言す、「仏は外に在らず、之を心に悟る。事を行ひ利益し、蒼生をして安穩ならしむる、是を仏理と謂ふ。何ぞ奸人を用ひて真教を汨さんや」と。帝之を善しとし、詔して天下に僧の偽濫を汰し、発して農と為る者余万二千人。

崇嘗て帝の前に於て郎吏を序次す。帝左右を顧み、其の語を主とせず。崇懼れ、再三之を言ふ。卒に答へず。崇趨りて出づ。内侍高力士曰く、「陛下新に即位し、宜しく大臣と裁可すべし。今崇亟に言ふに、陛下応ぜず。虚懐誨を納るる者に非ず」と。帝曰く、「我崇を政に任ず。大事は吾当に与に決すべし。郎吏を用ふるに至りては、崇顧みて能はずして重ねて我を煩はすや」と。崇聞きて乃ち安んず。是より賢を進め不肖を退けて天下治まる。

開元四年、山東に大蝗あり、民は祭り且つ拝し、坐して苗を食うを見るも敢えて捕えず。崇、奏して曰く、「『詩』に云う、『彼の蟊賊を秉り、付畀す炎火に。』漢の光武の詔に曰く、『時政に順うを勉め、農桑を勧督す。彼の螟域を去り、以て蟊賊に及ぼす。』これ蝗を除くの誼なり。且つ蝗は人を畏れて易く駆き、又田は皆主あり、その地を自救せしめば、必ず勧むるを憚らざらん。請う、夜に火を設け、その旁に坎を穿ち、且つ焚き且つ瘞せば、蝗乃ち尽くすべし。古に討除して勝たざる者有り、特だ人の命を用いざるのみ。」乃ち御史を出して捕蝗使と為し、道を分かちて蝗を殺さしむ。汴州刺史倪若水、言上して曰く、「天災を除く者は徳を以てすべし、昔、劉聰、蝗を除くも克たずして害愈甚だし。」御史を拒み命に応ぜず。崇、書を移してこれを誚りて曰く、「聰は偽主なり、徳は祆に勝たず、今は祆は徳に勝たず。古の良守は、蝗その境を避く、徳を修めば免る可しと謂う、彼は将に徳無きを致して然るか。今、坐して苗を食うを見、忍びて救わず、因りて無年と為らば、刺史其れ何と謂わん。」若水懼れ、乃ち捕うるを縦し、蝗十四万石を得たり。時に議者喧嘩し、帝疑い、復た崇に問う。対えて曰く、「庸儒は文に泥みて変を知らず。事固より経に違いて道に合い、道に反して権に適う者有り。昔、魏の世、山東に蝗あり、小忍して除かず、至って人相食むに至る。後、秦に蝗あり、草木皆尽き、牛馬至って毛を相啖む。今、飛蝗の在る所充満し、加うるに復た蕃息す。且つ河南・河北の家に宿蔵無く、一たび獲ざれば則ち流離す。安危これに係る。且つ蝗を討つは縦え尽くさずと雖も、養いて患を遺すに愈れるか。」帝然りとす。黄門監盧懷慎曰く、「凡そ天災は、安んぞ人力を以て制すべけんや。且つ蟲を殺すこと多ければ、必ず和気に戾る。願わくは公、これを思え。」崇曰く、「昔、楚王、蛭を吞みて厥の疾瘳え、叔敖、虵を断ちて福乃ち降る。今、蝗幸いに駆く可し、若し之を縦すれば、穀将に尽きん、百姓を如何せん。蟲を殺して人を救う、禍は崇に帰す、以て公に諉せず。」蝗害遂に息む。

ここに於いて、帝方に万機に躬り、朝夕に詢い逮う。他の宰相は帝の威決を畏れ、皆謙り憚る。独り崇のみ佐けて裁決す。故に専任を得たり。崇の第は賒く僻なり。因りて近くに客廬を舎す。会に懷慎卒し、崇病{疒占}して移告す。凡そ大政事は、帝必ず源乾曜をして就きて咨らしむ。乾曜の奏する所善ければ、帝則ち曰く、「是れ必ず崇の画く所なり。」合わざる有れば、則ち曰く、「胡ぞ崇に問わざる。」乾曜、その未だせざるを謝す。乃ち已む。帝、崇をして自ら近きに在らしめんと欲し、詔して四方館に寓するを徙し、日に食飲起居を問い遣わす。高医・尚食、踵いて道う。崇、館局の華大なるを以て、敢えて居らず。帝、人をして崇に語らしめて曰く、「禁中に処せざるを恨む。此れ何ぞ避く。」久しくして、紫微史趙誨、夷人の賕を受け、当に死すべし。崇、素より親倚す。奏に署して営みて減ぜんとす。帝悦ばず。時に京師を曲赦す。惟だ誨のみ原せず。崇惶懼し、上って宰政を還し、宋璟を引いて代えしむ。乃ち開府儀同三司を以て政事を罷む。

帝、将に東都に幸せんとす。而して太廟の屋自ら壞る。帝、宰相に問う。宋璟・蘇頲、同じく対えて曰く、「三年の喪未だ終わらず、以て行幸すべからず。壞壓の變は、天の以て教戒を示す所なり。陛下宜しく東巡を停め、徳を修めて以て至譴に答うべし。」帝、崇に問う。対えて曰く、「臣聞く、隋、苻堅の故殿を取って以て廟を営み、而して唐これに因る。且つ山は朽壞有って乃ち崩る。況んや木は積年して木自ら当に蠹くべきか。但だ壞と行と会うのみ。行に縁りて壞るに非ず。且つ陛下、関中に無年なるを以て、輪餉労を告ぐ。因りて以て東都に幸す。人の為に為し、己が為に非ざる所以なり。百司已に戒し、供擬既に具わる。請う、車駕を行期の如くせよ。旧廟は復た完くする難し。尽く神主を奉じて太極殿に舎せんか。新廟を作り、誠奉を申し、大孝の徳なり。」帝曰く、「卿の言、正に朕が意に契う。」絹二百匹を賜い、詔して所司に崇の言の如くせしむ。天子遂に東す。因りて詔して五日に一たび参し、閣に入り供奉せしむ。

八年、太子少保を授く。疾を以て拝せず。明年卒す。年七十二。揚州大都督を贈り、諡して文獻と曰う。十七年、太子太保を追贈す。

崇、貲産を析き、諸子をして各々定分有らしむ。治令に曰く、

比に見るに、達宦の裔多く貧困に至り、銖尺を是れ競う。曲直を論ぜず、均しく絜を受け、詆せらる。田宅水磑既にこれを共有し、至って相推倚して以て頓廢す。陸賈・石苞、古の達者なり。亦た先ず定分有りて、以て後の爭を絶つ。昔、楊震・趙明・盧植・張奐皆な薄葬を以てす。真識の身を去るを知り、朽ちるを速やかにするを貴ぶ耳。夫れ厚葬の家は俗に流れ、奢靡を以て孝と為し、死者に屍を戮し骸を暴せしむ。痛ましからずや。死者は知無く、自ら糞土に同じ。豈に奢葬を煩わすべけんや。其れ知有らしめば、神は柩に在らず。何ぞ貲を破り侈に徇うを用いん。吾亡びなば、常服を以て斂れ。四時の衣各一稱。性、冠衣を喜ばず。墓に入るるに毋からしめよ。紫衣玉帯、足りて体に便なり。今の佛經は、羅什の訳する所、姚興これと対翻す。而して興の命延びず、国も亦た随って滅ぶ。梁武帝は身を以て寺奴と為り、斉の胡太后は六宮を以て道に入る。皆な亡国殄家す。近く孝和皇帝は使を発して生を贖い、太平公主・武三思等は人を度し寺を造る。身夷戮に嬰り、天下の笑いと為る。五帝の時は、父は子を喪わず、兄は弟を哭かず。仁寿を致し、凶短無し。下って三王に逮ぶ。国祚延久す。其の臣は則ち彭祖・老聃皆な長齢を得たり。此時に佛無し。豈に經を抄し像を鑄くの力か。死喪に縁りて經像を造り、以て追福と為す。夫れ死は生の常、古より免れざる所。彼の經と像、何の施為かあらん。兒曹慎みて此れを為すこと得ざれ。崇は尤も吏道に長け、処決に淹思無し。三たび宰相と為り、常に兵部を兼ぬ。故に屯戊斥候・士馬儲械、諳記せざる無し。玄宗初めに立ち、大臣故老を賓禮し、雅く崇を尊遇す。每たび便殿に見えば、必ず之が為に興ち、去れば輒ち軒に臨みて以て送る。他の相これに如かず。時に権戚の政を幹うるの後を承け、綱紀大いに壞る。先天の末、宰相十七人に至り、台省の要職数う可からず。崇は常に先ず有司をして冗職を罷め、制度を修め、百官を択び各々其の材に当たらしめ、広く釋道せざるを請い、数え移吏せざるを請う。繇りて天子は下に責成し、而して権は上に帰す。

然るに権謀術数を資とす。初め同州刺史となった時、張説が宿怨を抱き、趙彦昭に姚崇を弾劾させた。姚崇が国政を執るに及んで、張説は恐れ、密かに岐王のもとに赴き忠誠を申し述べた。ある日、姚崇が朝参し、群臣が退出する際、姚崇は足を引きずり病の様子を装った。帝が召して問うと、答えて曰く、「臣は足を痛めております」と。帝が「それほど痛くはないか」と問うと、「臣は心に憂いがあり、痛みは足にはございません」と。その理由を問うと、曰く、「岐王は陛下の愛弟、張説は輔弼の臣であるのに、密かに車に乗って王家に出入りしております。彼に惑わされることを恐れ、故に憂えております」と。ここにおいて張説を相州刺史に出した。魏知古は姚崇が推挙した者であったが、同列となると、姚崇は次第に彼を軽んじ、吏部尚書を兼務させて東都洛陽らくようの選事を掌らせたので、知古は恨みを抱いた。時に姚崇の二人の子が洛陽におり、賓客と交わり贈り物を受け、旧縁を頼みに請託を行っていた。知古が帰朝すると、ことごとくこれを帝に奏上した。ある日、帝が姚崇を召して曰く、「卿の子は才能があるか、皆どこにおるのか」と。姚崇は帝の意を推し量り、曰く、「臣の二子は東都に分司しておりますが、その人となりは欲が多く慎みが足りず、必ずやかつて魏知古に事を依頼したに違いございません」と。帝は初め姚崇が子を私するか、あるいは隠蔽するかと思い、言葉で微かに動かそうとした。この言葉を聞いて、大いに喜び、問うて曰く、「どうしてそれがわかったのか」と。答えて曰く、「知古は臣が推薦した者でございます。臣の子らは必ずや彼が恩を感じていると思い、請い求めたのでしょう」と。帝はここにおいて姚崇が私せず、知古を軽んじ、斥けようとした。姚崇が曰く、「臣の子が不埒なことをし、陛下の法を乱しておりますのに、知古を追放すれば、外間は必ずや陛下が臣を私していると言うでしょう」と。帝はやめたが、結局知古を罷免して工部尚書とした。

姚崇は初め元崇と名乗ったが、突厥の叱剌と同名であったため、武后の時に字(元之)を用いて通した。開元の世に至り、帝の諱(玄宗の名は隆基)を避け、今の名(崇)に改めた。三人の子、彝、異、弈がおり、皆卿や刺史に至った。

子の弈

姚弈は若い頃から行いを慎み謹んだ。初め、姚崇は彼が官位を越えずに吏務の道を習い知るようにさせようとしたので、右千牛から太子舎人に至るまで、皆平穏に昇進させた。開元年中、五陵(唐の皇帝陵)に祭祀があり、役人が鷹犬を従えたが、弈は「礼に非ず」と奏上してこれを止めさせた。煩劇な地の統治を請い、睢陽太守となり、召されて太僕卿に任じられた。後に尚書右丞となった。子の閎は、右相牛仙客の幕府にいた。仙客が重病となると、閎は強いて仙客に姚弈と盧奐を宰相に推薦させようとした。仙客の妻がこれを帝に奏上したため、閎は死罪に処せられ、弈は永陽太守に貶められ、そこで没した。

曾孫の合

曾孫の合と勗。姚合は元和年中に進士に及第し、武功尉に任じられ、詩を善くし、世に姚武功と称された。監察御史に遷り、累転して給事中となった。奉先・馮翊の二県の民が、牛羊使がその田を奪ったと訴えた。詔により美原主簿の朱儔が再審査したが、不当にも田を使に帰属させた。姚合はその私曲を弾劾して暴き、土地を民に返還させた。陝虢観察使を歴任し、終に秘書監で終わった。

曾孫の勗

姚勗は字を斯勤という。長慶初年に進士に及第し、数度、使府の表奏により召し出され、監察御史に進み、塩鉄使の事務を補佐した。累遷して諫議大夫となり、さらに湖州・常州の刺史を歴任した。宰相の李徳裕と親しく善しみとした。徳裕が令狐綯らに讒言されて追放されると、その一派を探し索め、敢えて労問を通じる者はいなかった。徳裕が海南に流された後、家に資産がなく、病んでも湯薬もない有様であったが、勗は数度、食糧を送り見舞い、時勢の厚薄に流されなかった。終に夔王傅となった。自ら万安山の南の原、姚崇の墳墓の傍らに寿蔵(生前に作る墓)を造り、墓域を「寂居穴」、墳を「復真堂」とし、中に土を穿って床とし「化台」と称し、石に刻んで後世に告げた。

宋璟

宋璟は、邢州南和県の人である。七世の祖の弁は、元魏の吏部尚書であった。璟は耿介として大節を持ち、学を好み、文章を巧みにし、進士に挙げられ及第した。上党尉に任じられ、監察御史となり、鳳閣舎人に遷った。官に在って鯁直公正であり、武后はその才能を高く評価した。張易之が御史大夫の魏元忠に不臣の言葉があると誣告し、張説を証人に引き出そうとした。廷議で弁明しようとした時、張説は恐れ慌てた。璟は張説に謂って曰く、「名義は最も重い。正人を陥れて苟も免れようとすべきではない。これによって貶謫を受けても、その芳香は多い。もし不測の事があれば、我は宮門を叩いて救い、子と共に死のう」と。張説はその言葉に感じ、実情を以て答えたため、元忠は死を免れた。

宋璟は後に左台御史中丞に遷った。ちょうど匿名の文書が張昌宗が相工を引きいて吉凶を観させたと告げたので、璟は徹底的に糾明するよう請うた。武后が曰く、「易之らは既に朕に自ら申し述べた」と。璟が曰く、「謀反は自首したからといって容赦すべきではなく、官吏に下して国法を明らかにすべきです。易之らは貴寵しておりますので、臣が言えば禍いがあるでしょうが、義に激せられ、死んでも悔いはありません」と。后は快く思わず、姚璹が急いで詔を伝えて退出させようとした。璟が曰く、「今、親しく徳音を奉じております。宰相が勝手に王命を宣するには及びません」と。后の怒りは解け、易之らを収監することを許した。間もなく詔してこれを赦し、二張(易之・昌宗)に命じて璟に謝罪させた。璟は会わず、曰く、「公事は公に言うべきである。もし私的に会えば、法に私なしとはいえませぬ」と。左右を顧みて歎じて曰く、「あの小僧の頭を先に打ち砕いて国法を乱させなかったことを悔いる」と。かつて朝堂で宴会があった時、二張は卿の三品の列に並び、璟は階六品で下座にいた。易之は璟に媚びへつらい、空いた席を指して揖して曰く、「公は第一人者、何ぞ下座におられるのか」と。璟が曰く、「才能劣り品卑しきが、卿が第一とは何の謂いか」と。当時、朝廷では易之らが内寵であるため、その官を名指さず、易之を「五郎」、昌宗を「六郎」と呼んでいた。鄭善果が璟に謂って曰く、「公はどうして五郎を卿と呼ぶのか」と。璟が曰く、「官によって正に卿たるべきである。君は彼の家奴ではない、何ぞ郎と言うことがあろうか」と。ちょうど喪に服し、喪明けで入朝した時、公卿が順に挨拶し、礼意を通じた。易之らが後から来て、早足で前に進んだ。璟は笏を挙げて退き、揖して唯々としただけである。故に積怨を生じ、常に中傷しようとしたが、武后がこれを知り、難を免れた。然し数度、旨に逆らったため、詔して揚州の獄事を審理させようとした。璟が奏上して曰く、「州県を審理するのは、監察御史の職務でございます」と。また詔して幽州都督の屈突仲翔を審理させようとしたが、辞して曰く、「御史中丞は大事でなければ出使しません。仲翔の罪は贓罪に止まります。今、臣を使わしめるのは、必ずや臣を危うくしようとする者がいるからでしょう」と。既にして詔して李嶠に副えて隴・しょくに出使させようとした。璟はまた言上して曰く、「隴右に変事はありません。臣が中丞として李嶠に副うのは、朝廷の故事に非ず」と。終に辞した。易之は初め璟が出れば弾劾して誅殺しようと望んだが、計略が行かず、そこで璟の家の婚礼を窺い、客を遣わして刺殺させようとした。璟に告げる者があり、璟は低い車に乗って他所に宿り、刺客は手を下すことができなかった。間もなく二張が死んだため、難を免れた。

神龍初年、吏部侍郎となった。中宗はその直諫を嘉し、諫議大夫・内供奉を兼ねさせ、仗下(儀仗の下)で得失を言わせた。黄門侍郎に遷った。武三思が帝の寵愛を恃み、数度、璟に請い求めた。璟は厳しく答えて曰く、「今、天子に政権を返上し(中宗が復位し)、王は侯として邸に退くべきであり、どうして尚も朝政に干与できようか。呂産・呂禄の事を御覧にならなかったのですか」と。後に韋月将が三思が宮掖を乱すと告発した。三思は役人に唆して大逆不道の罪に論じさせた。帝は詔して死刑に処そうとした。璟は獄に付して罪を審理するよう請うた。帝は怒り、巾を岸やかにして側門から出て、璟に謂って曰く、「朕は既に誅したと思ったのに、尚も何を請うのか」と。璟が曰く、「人が后が三思と私通していると言っているのに、陛下は問うこともなく即座に斬ろうとされます。臣は密かに議論する者がいることを恐れます。審理した後に刑すべきです」と。帝はますます怒った。璟が曰く、「まず臣を誅してください。そうでなければ、終に詔を奉じません」と。帝は乃ち月将を嶺南に流した。ちょうど京師に還る際、詔して璟に権(臨時の)検校並州長史を命じた。未だ赴任せず、また検校貝州刺史を命じられた。時に河北は水害があり、大飢饉となった。三思が封戸の租税を徴収させようとしたが、璟は拒んで与えず、故に彼に排斥された。杭州・相州の二州刺史を歴任し、政治は清廉で剛毅であり、下僚は敢えて犯す者はいなかった。洛州長史に遷った。

睿宗が即位すると、吏部尚書・同中書門下三品に任じられた。玄宗が東宮にあった時、右庶子を兼ねた。先に崔湜・鄭愔が選挙を掌った時、外戚や近習が干渥して、二年分の欠員を繰り上げて任用してもなお不足し、さらに比冬選を置いたため、流品が混淆した。宋璟は侍郎の李乂・盧從願と共にこれを澄明に改革し、銓衡は公平で妥当となった。

太平公主は東宮(皇太子)に不利を図り、かつて輦を光範門に停め、執政者を待ち受けて諷した。宋璟は言った、「太子は大功があり、宗廟社稷の主である。どうして異議がありえようか」。そこで姚崇と共に上奏して、公主と諸王を外に出そうとしたが、帝は用いなかった。楚州刺史に貶され、兗州・冀州・魏州の三州刺史・河北按察使を歴任し、幽州都督に進み、国子祭酒として東都留守となり、雍州長史に遷った。

玄宗の開元初年、雍州を京兆府とし、再び尹となった。御史大夫に進んだが、小さな累が坐して睦州刺史となり、広州都督に転じた。広州の人は竹や茅で屋根を葺き、火災が多かった。宋璟は彼らに陶瓦で壁を築き、邸宅や店舗を並べることを教え、越の習俗は初めて棟宇の利を知り、災害の憂いがなくなった。召されて刑部尚書に任じられた。四年、吏部尚書兼侍中に遷った。

帝が東都に幸した時、崤谷に滞在し、馳道が狭隘で車騎が渋滞した。帝は河南尹の李朝隠・知頓使の王怡らの官を免じようとした。宋璟は言った、「陛下は春秋に富み、今初めて巡守される。道が治まらないからといって二臣を罪するなら、これによって互いに戒めるようになり、後にこれに蔽われる者が出ましょう」。帝は急いでこれを取りやめさせた。宋璟は謝して言った、「陛下が先ほど怒って責められたのを、臣の言葉で免じられたのは、過ちは上に帰し恩恵は下にあることになります。暫く朝廷で待罪させ、その後詔してその職に戻らせれば、進退とも適切です」。帝はこれを良しとした。累ねて広平郡公に封ぜられた。広州の人が宋璟のために遺愛頌を立てようとした。宋璟は上言した、「頌は徳を伝え功を載せるものです。臣の治績は記録するに足りず、広州の人は臣が国政を担当したため、過分な言葉を並べ、ただ諂諛を成すだけです。これを正したいので、臣から始めて下さい」。詔があり、停止を許された。

帝はかつて宋璟と蘇頲に皇子の名と公主の号を制定させ、そこで封ずる順序を定め、さらに別に一つの美称と佳邑を選んで封上するよう詔した。宋璟は奏言した、「七子を均しく養うことは、詩人が称えるところです。今もし同等に別封すれば、あるいは母の寵愛や子への偏愛により、鳩の公平を傷つける恐れがあります。昔、袁盎が慎夫人の席を退けさせ、文帝がこれを受け入れ、夫人も嫌がらなかったのは、長久の計を得たからです。臣は別封いたしません」。帝はその賢を歎賞し重んじた。

皇后の父である王仁籞が卒し、葬ろうとした時、昭成皇后の家の竇孝諶の故事を用い、墳の高さを五丈一尺としようとした。宋璟らは令の規定通りにするよう請うた。帝はすでに許可したが、翌日、また孝諶の例によるよう詔した。宋璟は詔を返して言った、「倹は徳の恭しいもの、侈は悪の大なるものです。礼を僭越し厚葬することは、前世の戒めるところであり、故に古は墓を作っても墳を築きませんでした。人子は哀痛に迷う時は礼で自ら制する暇がなく、故に聖人が斉・斬・緦・免の喪服と、衣衾棺槨にそれぞれ度数を定めたのです。賢者といえども、その私懐を断ち切ります。衆皆奢に務める中、独り倹を以てする、これこそ至徳要道というものです。中宮がもし孝諶が制を越えたと言うなら、初め非とする者はなく、一つの命令は固より法とするに足りません。貞観の時、長楽公主を降嫁するに、魏徴は長公主より加えてはならないと言い、太宗は喜んで受け入れ、文徳皇后は使者を降して厚く謝しました。韋庶人はその父を追王し、酆陵を擅作しましたが、禍は踵を返す間もなく及びました。国家は人情に際限がないことを知っているので、制度を定め、人によって動揺せず、法を愛憎によって変えません。近頃、世間では競って奢侈な葬儀を務めています。今、后父という重戚で、用が乏しいことを憂えず、高塚大寝で人がいないことを畏れず、百事官給で一朝に成し得るのに、わざわざ繰り返し上聞するのは、朝廷の政と中宮の美を成そうとするからです。もし中宮の情が奪い難いなら、令に準じて一品陪陵とし、墳を四丈とされれば、およそ適宜に合うでしょう」。帝は言った、「朕は常に身を正して天下の紀綱としたい。后に対して私心があろうか。しかし人が言い難いことを、公らはよく言えた」。即座にその奏を許可した。また使者を遣わして彩絹四百匹を賜った。

日食があった。帝は素服で変異を待ち、囚人を録して多くを赦免・放免し、災害を賑恤し、不急の務めを罷めた。宋璟は言った、「陛下が徳音を降し、民の苦しみを恤み、軽い罪は赦されましたが、流罪・死罪は免れません。これは古が赦を慎んだ所以です。議する者がただ月蝕には刑を修め、日蝕には徳を修めるとか、あるいは分野の変だと言って、揣摩迎合を望むのを恐れます。臣は思うに、君子の道が長じ、小人の道が消えることです。女謁を止め、讒夫を放つ、これが徳を修めるというものです。囹圄を擾さず、兵甲を瀆さず、官が苛治せず、軍が軽進しない、これが刑を修めるというものです。陛下が常にこれを念とされれば、たとえ虧食があっても、転じて福となすでしょう。何を憂えましょうか。かつ君子は言が行を浮かべることを恥じます。天を誠で勧め、空文に事寄せないことを願います」。帝は嘉納した。後に開府儀同三司で政事を罷めた。

京兆人の権梁山が謀逆を図った。勅して河南尹の王怡に馳伝して往き按問させた。牢獄は囚人で満ち、長く決せず、そこで宋璟を京留守とし、その獄を覆審させた。初め、梁山は婚礼の集まりと偽称し、多く借り受けていた。吏は貸した人々をも連座させようとした。宋璟は言った、「婚礼の借り求めは大同小異であり、狂った謀り事は突然のことで、防ぎ予測できるものではない。知っていて貸さなければ、これこそ反逆に加担することだ。貸した者が知らなければ、何の罪があろうか」。数百人を平然と放免した。

十二年、東に泰山を巡幸するに当たり、宋璟は再び留守となった。帝が出発しようとして言った、「卿は国の元老である。別れて時を経るので、朕に遺すべき嘉謀があるはずだ」。宋璟は一二の事を極言した。手制で答えて言った、「進言したことは座右に書き、出入りに見て省み、以て終身を戒めよう」。賜与は優渥で、吏部尚書を兼ねた。十七年、尚書右丞相となり、張説が左丞相、源乾曜が太子少傅となり、同日に拝された。詔があり、太官に饌を設けさせ、太常に楽を奏させ、百官を尚書省東堂に会した。帝は三傑の詩を賦し、自ら書いて賜った。二十年、致仕を請い、許され、なお全禄を賜った。洛に退居した。乗輿が東幸した時、宋璟は道左で謁した。詔して栄王に労問させ、別に使者を遣わして薬餌を賜った。二十五年に卒した。七十五歳。太尉を贈られ、諡して文貞といった。

宋璟は風度が凝遠で、人はその度量を測り知れなかった。初め、広州から入朝する時、帝は内侍の楊思勖を駅に遣わして迎えさせたが、一言も交わさなかった。思勖は自ら将軍として貴幸であることを恃み、帝に訴えた。帝はますます嗟歎して重んじた。宋璟が宰相となってからは、政刑を清めることに務め、官人をして皆職に任じさせた。聖暦の後、突厥の默啜はその強を恃み、しばしば辺境を窺い、九姓の抜曳固を侵したが、勝ちに乗じて軽々しく出て、その狙撃を受けて斬られた。入蕃使の郝霊佺がその首を京師に伝えた。霊佺は自ら帰れば必ず厚く賞せられると考えた。宋璟は天子が若いことを顧み、後に寵を干し利に蹈む者が威武を誇り、国のために事を生ずることを恐れ、故にこれを抑え、一年余りして、ようやく右武衛郎将を授けた。霊佺は恚憤して食を絶ち死んだ。張嘉貞が後に宰相となり、堂案を閲して、その危言切議を見るに、声を失って歎息しないことはなかった。六人の子:昇・尚・渾・恕・華・衡。

子の昇。

昇は太僕少卿。尚は漢東太守。

子の渾。

渾は李林甫と親しく、諫議大夫・平原太守・御史中丞・東京採訪使を歴任した。平原においては、暴斂して昇進を求め、民の一年分の庸・租を重ねて取り立てるに至った。東畿を巡察する際、薛稷の甥の娘で鄭氏という寡婦が美しかったので、渾は河南尉の楊朝宗に聘わせて自ら娶り、朝宗を赤尉に推薦した。恕は、都官郎中として劍南採訪判官となり、しばしば貪欲で放縦、法に背き、ひそかに刺客を養った。天寶年間、渾・恕・尚はいずれも贓罪により失脚し、渾は高要に流され、恕は海康に流され、尚は臨海長史に貶された。華と衡もまた、貪汙の罪に坐した。廣德年間、渾は起用されて太子諭德となったが、世間の評判は穢く軽んじられ、江嶺に流されて死んだ。兄弟は皆、荒淫・酒宴・戯れ遊ぶ者であったが、衡が最も険悪で背徳であり、廣平公(姚崇)の家風は衰えたのである。

贊して曰く、姚崇は十事を以て天子に要説し、その後輔政した。顧みれば偉大ならずや、しかるに旧史は伝えず。開元初年に観るに、皆既に施行されており、信じて誣うるに足らず。宋璟の剛正はまた崇を過ぎ、玄宗は平素より尊び憚り、常に意を屈して聴き納れた。故に唐の史臣は、崇は応変に善くして天下の務めを成し、璟は文を守るに善くして天下の正を保つと称えた。二人の道は同じからずとも、治に帰するは同じ、これ天の唐を佐けて中興せしむる所以なり。嗚呼、崇は天子に辺功を求めざるを勧め、璟は辺臣を賞せんと肯わず、而して天寶の乱、ついにその害を蹈む。先見の明有りと謂うべし。然れども唐三百年、輔弼の者少なからず、独り前に房・杜を称え、後に姚・宋を称うるは何ぞや。君臣の遇合、蓋し難きかな。