新唐書

巻一百二十三 列傳第四十八 李蕭盧韋趙和

李嶠

李嶠、字は巨山、趙州贊皇の人である。早く孤となり、母に仕えて孝行であった。幼少の時、夢に人が双筆を遺すを見て、この時より文辞あり、十五にして『五経』を通じ、薛元超に称された。二十にして進士第に擢げられ、初め安定尉に調せられた。制策甲科に挙げられ、長安ちょうあんに遷った。時に畿尉で文章の名ある者は、駱賓王・劉光業、嶠は最も年少にして、彼らと等夷であった。

監察御史を授けられた。高宗が邕・巖二州の叛獠を撃たんとし、詔してその軍を監せしめると、嶠は洞に入り諭してこれを降し、これにより兵を罷めた。稍く給事中に遷った。時に来俊臣が狄仁傑・李嗣真・裴宣禮らの獄を構えたが、死に抵せんとし、勅して嶠と大理少卿張徳裕・侍御史劉憲に覆験せしめた。徳裕らは内にその冤を知りながら、敢えて異を唱えなかった。嶠は曰く、「その枉を知りて申さざるは、是れ義を見て為さざる者と謂うなり」と。遂に二人と共にその枉を列挙し、武后の旨に忤い、潤州司馬に出された。久しくして乃ち召されて鳳閣舎人と為り、文冊大号令は多く彼がこれを主とした。

初めて右御史台を置き、州県の吏の善悪・風俗の得失を察せしめた時、嶠は上疏して曰く、「禁網は疎に、法象は簡なるべし。簡なれば則ち法行い易くして煩雑ならず、疎なれば則ち羅う所広くして苛細ならず。伏して見るに垂拱の時、諸道巡察使の科条四十有四、至って別勅令また三十。而して使は三月を以て出で、十一月を尽くして事を奏す。毎道の察する吏、多きは二千、少なくも千計なり。要は品核して才行を褒貶するに在り。今期会迫促し、奔逐暇あらず、能く其の能を詳究せんと欲するは、亦た艱しからずや。此れ職に隳ちたるに非ず、才限り有り、力逮わざるのみ。臣願わくは其の功程を量りて以て節制と為し、器を用に周し、力を時に済せしめ、然る後に得失精核すべし」と。又た言う、「今察按する所は、漢の六条に準じてこれを推広すれば、則ち包まざる無し。烏ぞ多く事目を張らんや。且つ朝廷万機事無きに非ず。而して機事の動、常に四方に在り。故に出使者冠蓋相望む。今已に使を置く。則ち外州の事悉くこれを専にするを得、伝駅減ず。請う、率ね十州に一御史を置き、期歳を以て限りと為し、其の身の属県に到り、閭裏を過ぎ、奸訛を督察し、風俗を采るを容れ、然る後に其の成功を課すべし。且つ御史は出入天禁し、己を励み自ら脩め、他の吏に比べて百倍す。按劾回庸し、隠欺を糾擿するは、他の吏に比べて十倍す。陛下誠に臣の言を用い、能者を妙択してこれに委ねば、力を尽くし死に效わざる莫からん」と。武后これを善とし、制を下して天下を二十道に析ち、使者に堪うる者を択ばしめた。衆議の沮止する所となりて止んだ。

俄にして天官侍郎事を知り、麟台少監・同鳳閣鸞台平章事に進んだ。鸞台侍郎に遷った。時に張錫が政を輔けたが、嶠はその出であるため、罷められて成均祭酒と為った。俄にして文昌左丞を検校し、東都に留守した。長安三年、本官を以て復た平章事と為り、納言を知った。内史に遷ったが、嶠は劇を辞し、復た成均祭酒・平章事と為った。

武后将に白司馬阪に大像を建てんとすると、嶠は諫めて曰く、「像を造るは浮屠に銭を輸せしむと雖も、然れども州県の承辦せざれば済ます能わず。是れ名は税せずと雖も実はこれを税するなり。臣、天下の編戸を計るに、貧弱者衆く、舎を売り田を帖して王役に供する者有り。今像を造る銭十七万緡を積む。若しこれを窮人に頒たば、家に千銭を与うれば、則ち十七万戸の饑寒の苦を紓う。徳窮まり無し」と。納れられなかった。

張易之の敗に坐し、附会して貶せられ州刺史と為ったが、未だ行かず、通州に改められた。数月、吏部侍郎として召され、俄にして尚書に遷った。神龍二年、韋安石に代わり中書令と為った。

嶠が吏部に在った時、陰に時望を藉りて宰相に復せんと欲し、乃ち奏して員外官数千を置かしめた。既に吏衆猥り、府庫虚耗すると、乃ち上書して時に帰咎し、因って向の非を蓋い、曰く、

元首の尊、居には重門撃柝の衛有り、出には清警戒道の禁有り。以て非常を備え、異望を息ます所以なり。誠に挙動を易うべからず、防閑を慢るべからざるなり。陛下崇邃を厭い、尊厳を軽んじ、微服潜遊し、廛を閲し市を過ぐ。行路私に議し、朝廷驚懼す。禍意外に産するが如きは、縦え自ら惜しまずとも、宗廟蒼生を奈何せん。

又た職を分ち官を建つるは、濫るべからず。伝に曰く、「官必ずしも備えず、惟だ其人なり」と。帝室中興より以来、爵賞を慎まざるを以て恵と為し、級を冒し階を躐え、朝に升り夕に改む。正闕給わず、員外を以て加う。内には則ち府庫殫れ、外には則ち黎庶害を蒙る。賢を求めて治を助くるの道に非ざるなり。願わくは班栄を愛し、匪服の議を息ましめよ。今文武六十以上、而して天造含容、皆これを矜恤す。老病者は已に解けて還授し、員外者は既に遣りて復た留む。恐らくは是れ以て敝を消し時を救うに非ざるなり。請う、有司を勅して其の用う可きを料りて進め、用う可からざるを退けしめよ。又た遠方の夷人は治事に堪えず。国家向う務め撫納してこれを官す。功を立てたる酋長に非ざれば、類く俸禄を糜す。願わくは要ならざるを商度し、一切還し放たしめよ。

又た『易』に称す、「何を以て位を守るかを仁と曰い、何を以て人を聚むかを財と曰う」と。今百姓乏窶し、居処安んぜず。以て位を守るべからず。倉儲蕩耗し、財力傾殫す。以て人を聚むに足らず。山東は水潦に病み、江左は輸転に困す。国は上に匱し、人は下に窮す。今辺埸少しく曌かずんば、恐らくは逋亡遂に多く、盗賊群行す。何の財を以てか召募し、何の衆を以てか閑遏せん。又た寺観を崇めて作す、功費浩広なり。今山東歳饑え、糟糠厭わず。而して艱厄の会に投じ、庸・調の半を収め、籲嗟の物を以て、土木を栄す。恐らくは怨三霊に結び、謗四海に蒙らん。

又た比来征戍に縁り、巧詐百情、役を破り身を隠し、規って租賦を脱せんとす。今道人私度する者幾数十万、其中高戸多丁、黠商大賈、詭りて台符を作し、羼名偽度す。且つ国計軍防、並びに丁口を仰ぐ。今丁皆出家し、兵悉く道に入る。征行租賦、何を以てかこれに備えん。

又た貴近に重賂し、府若史を補い、籍産を移没し、州県の甲等を以て更に下戸と為す。当道の城鎮、至って捉駅する者無く、役小弱に逮えば、即ち其の家を破る。願わくは十道使に訪察括取を許し、奸猾隠るるを得ざらしめよ。

又た太常楽戸已に多し。復た散楽を求訪す。独り大鼓を持つ者已に二万員、願わくは量りてこれを留め、余は勒して籍に還し、以て妄費を杜がん。

中宗は李嶠が宰相の身でありながら自ら政事の失策を陳述し、官を罷めることを請い、他に罪を転嫁しないのを見て、手詔を下して詰問責めた。李嶠は恐れおののき、再び政務を執った。

三年、修文館大学士を加えられ、趙国公に封ぜられ、特進として同中書門下三品となった。睿宗が即位すると、政事を罷められ、下って懐州刺史に除され、致仕した。初め、中宗が崩御した際、李嶠は密かに相王(睿宗)の諸子を京師に留めておくべきではないと請うたことがあった。玄宗が帝位を継ぐと、その上表文が宮中で発見され、ある者はこれを誅すよう請うた。張説が言うには、「李嶠は確かに順逆を理解していなかったが、当時のために謀ったのであり、主でない者に吠えたのであって、後から罪を追及すべきではない」と。天子もまた幾度も赦しがあったことを顧み、遂に免じて滁州別駕に貶し、子の虔州刺史暢に従って任地に赴くことを許した。後に廬州別駕に改められ、死去した。享年七十。

李嶠は才思に富み、著作すると人々は多く伝え誦した。武后の時、汜水で瑞石が得られ、李嶠は御史として『皇符』一篇を上ったが、世に嘲笑軽蔑された。しかしその仕官は初めは王勃・楊盈川と接し、中期には崔融・蘇味道と名声を並べ、晩年には諸人が没した後、文章の宿老として、当時の学者はこれを手本とした。

蕭至忠

蕭至忠は沂州丞県の人である。祖父の徳言は秘書少監であった。至忠は若い時、友人と路上で待ち合わせをしたが、雨雪が降り、人々は避けたが、至忠は言った、「どうして人と約束しておきながら信を失うことがあろうか」と。遂に友人が到着するまで去らず、人々は嘆服した。伊闕・洛陽らくようの尉として仕え、監察御史に遷り、鳳閣侍郎蘇味道の贓罪・貪婪を弾劾上奏し、抜擢されて吏部員外郎に任ぜられた。至忠は裁断に長け、名声が当時に聞こえた。中宗の神龍初年、御史中丞となった。初め、至忠が御史であった時、李承嘉が大夫であったが、かつて諸御史を責めて言った、「弾劾事案を大夫に諮問しないことがあるが、それでよいのか」と。衆は敢えて答えなかったが、至忠だけが言った、「故事では、御史台には長官はない。御史は天子の耳目であり、その請い奏することは専ら上達すべきである。もし大夫が許してから論じるならば、大夫を弾劾する者は、また誰に申し開きすればよいのか」と。承嘉は恥じた。この時、承嘉は戸部尚書であったが、至忠は祝欽明・竇希玠と承嘉らの罪を弾劾し、百官は震え恐れた。吏部侍郎に遷り、なお中丞を兼ねた。

節湣太子が兵を以て武三思を誅殺しようとして敗れると、宗楚客らは侍御史冉祖雍を唆して変事を上告させ、相王(睿宗)が太子と謀ったと述べた。帝がこれを取り調べようとすると、至忠は泣いて言った、「かつて天後(武則天)が相王を太子にしようとした時、王は幾日も食事をとらず、ただ陛下を迎えることを請い、その譲りの徳は天下に知られない者はなかった。陛下は貴くして天子たるに、一弟を容れることができず、人の罠にかけられようとするのか。ひそかに陛下の為すべきことではないと思う」と。帝はその言を容れ、やめた。まもなく中書侍郎・同中書門下平章事を授けられた。上疏して時政を陳述した。

治を求める道は、まず賢才を用いることにある。もしその才でなければ官は空位となり、官が空位となれば事は廃れ、事が廃れれば人々は害され、歴代が衰微するのはこのためである。今、職を授け人を用いるのに、多くは貴要の者による粉飾に因り、上下互いに欺き、苟も得られればそれでよいとする。官爵は公の器であり、恩幸は私の恵みである。王者はただ金帛で富ませ、梁肉で食わせ、以て私的な恩沢を保つべきである。もし公の器を私的に用いれば、公義は行われず労苦する者は心を離し、私的な請託が開かれ正しい言論が塞がれる。日々月々に削られ、ついに凋弊を見るに至る。

今、官位は既に広く、冗員はさらに倍増している。陛下は尽きることなき恩沢を降し、近戚は際限なき請願をなし、台閣の内には朱紫(高官)が満ち、官の秩はますます軽く、恩賞はますます頻繁である。才ある者は用いられず、用いられる者は才なく、故に人は効力を尽くさず、官はその人を得ず、治を求めることは固より難しい。

また宰相や要職の子弟は、多く美爵に居り、ともに才芸に乏しいのに、互いに依頼し託す。『詩』に云う、「私人之子、百寮是試。或以其酒、不以其漿、鞙鞙佩遂、不以其長」と。これは王政が公平でなく衆官が職を廃し、私的な家の子が栄える班列に試みられ、ただその佩びるものを長くするだけであるという意味である。臣は願わくば陛下に爵賞を愛惜し、官を虚しく授けることなく、大雅の士を枢近に進め、小人を閑左に退け、政令を唯一にし、私が公を害することなく、そうすれば天下は幸いである。かつて貞觀の故事では、宰相の子弟は多く外職に居り、ただ強宗を抑えるだけでなく、また賢才を選ぶためでもあった。宰相および諸司長官の子弟より、みな外官を授け、共に百姓を安んじ、表裏相統べさせられたい。

帝は採用しなかった。まもなく侍中・中書令となった。当時、楚客は奸を懐き党を植え、韋巨源・楊再思・李嶠は自らの安泰を務めて、補弼匡正するところがなく、至忠はその間にあって、ただ詭随せず、当時の声望は一致して重んじられた。帝もまた言った、「宰相の中で、至忠が最も我を憐れんでくれる」と。韋后はかつてその弟の洵と至忠の夭折した娘のために冥婚を行った。至忠もまた娘を后の舅である崔従礼の子の無诐に嫁がせた。両家が婚礼を合わせるに、帝は蕭氏を主とし、后は崔氏を主とし、時に「天子が娘を嫁がせ、皇后が嫁を娶る」と言われた。

唐隆元年、韋后の党として連座すべきであったが、太平公主が取りなして、晋州刺史として出され、治績に名声があった。默啜が大臣を遣わして朝貢に来た時、至忠の酂国公としての風采を見て、逡巡して畏れ俯し、人に謂って言った、「この人は天子を補佐すべきであるのに、どうして外に居るのか」と。太平公主が次第に権勢を振るうようになると、至忠は自ら接近して取り入り、かつ帰還を請うた。公主は至忠の子が千牛備身として韋氏の難に死んだことを以て、怨みを抱き動かし易いと考え、己を助けることができるとして、帝に請うた。刑部尚書に拝され、再び中書令となり、酂国公に封ぜられ、ついに公主の逆謀に参与した。先天二年、公主が敗れると、至忠は南山に逃げ込んだ。数日後、捕らえられ誅殺され、その家は没収された。

至忠は初め朝廷にあって、風望があり、容姿挙動は閑雅敏捷で、名臣として推された。外見は方正剛直で、不法を糾弾摘発したが、内には節操がなく、時勢の軽重を見て去就した。初め御史となった時、桓彦範らは大いに引き立て重用した。五王が政権を失うと、武三思に因って中丞を得、安楽公主に附いて宰相となった。韋氏が敗れると、急いで韋洵の墳墓を発き、その娘の棺を持ち帰った。後に太平公主に依り、再び国政を執った。かつて公主の邸宅を出た時、宋璟に遇い、璟が戯れて言った、「蕭傅に望むところではない」と。至忠は言った、「善いかな、宋生の言」と。しかし自ら立ち返ることはできなかった。妹が蔣欽緒に嫁いだが、欽緒は毎度これを戒めたが、至忠は聞き入れなかった。欽緒は嘆いて言った、「九世の卿族を、一挙にして滅ぼすとは、哀れむべきことよ」と。賓客と接することを好まず、簡素倹約を以て自ら高しとし、故に生前の賜り物は、遺贈施与することがなく、没収された時、珍宝は数えきれなかった。しかし玄宗はその人となりを賢しとし、後に源乾曜を得ると、急いでこれを用い、高力士に謂って言った、「吾が乾曜を進用するのが早いのを知っているか。吾はその容貌言動が蕭至忠に似ているからだ」と。力士が言った、「彼はかつて陛下に背いたのではありませんか」と。帝は言った、「至忠は誠に国の器であったが、ただ晩年に誤っただけである。その初めを賢しとしないと言えようか」と。

弟の元嘉は工部侍郎、広微は工部員外郎であった。

盧藏用

盧藏用、字は子潛、幽州范陽の人である。父の敬は魏州長史で、才吏と号された。藏用は文を綴ることができ、進士に挙げられたが、官職に補されなかった。兄の徵明と共に終南山・少室山の二山に隠れ、練気を学び、辟穀を行い、衡山・廬山に登り、岷山・峨眉山に彷徨した。陳子昂・趙貞固と親善であった。

長安年間(701-704)、召されて左拾遺に任ぜられた。武后が萬安山に興泰宮を造営したとき、上疏して諫めて言うには、「陛下には離宮別館はもとより多い。さらに人力を窮めて土木の事に従事されます。臣は恐れます。議者(世間の批評者)が陛下を人を愛せず己に奉ずる者と為すことを。かつ近年、穀物は豊作であったが、百姓には蓄えがない。陛下の巡幸は、終わりなく休息がない。斧斤の役(土木工事)は、年月を空しくしない。この時に乗じて徳を施し教化を布かず、さらに宮苑を広げられます。臣は恐れます。下民が容易に堪えられぬことを。今、左右の近臣は、諂う意を以て忠と為し、犯し忤うことを患いとし、遂に陛下に百姓の失業を知らしめず、百姓もまた左右の者が陛下の仁を傷つけるを知らない。忠臣は誅罰を避けずして君を仁に納れ、明主は切なる諫言を厭わずして後世に名を趨らせる。陛下が誠に明制を発し、人を労することを辞とするならば、天下は必ずや力を愛し己を苦しむと為すでしょう。然らずんば、下臣のこの章を下し、執事者と共に議するを得させよ」。従わなかった。

姚元崇が霊武道持節使となったとき、管記として奏薦された。還って県令挙に応じ、甲科に及第し、済陽県令となった。神龍年間(705-707)、累進して中書舎人に抜擢され、数度にわたり偽官を糾駁した。吏部侍郎・黄門侍郎・脩文館学士を歴任した。親族の連累に坐し、工部侍郎に降格した。尚書右丞に進んだ。太平公主に附き、公主が誅殺されると、玄宗は捕らえて斬ろうとしたが、顧みて未だ執政していなかったので、意を解き、乃ち新州に流した。ある者が謀反を告げたが、推問して状無く、驩州に流された。時に交趾が叛くと、蔵用は防禦の労があり、昭州司戸参軍に改められ、黔州長史に遷り、都督ととく事を判じ、始興で卒した。

蔵用は蓍亀九宮の術に長じ、草隷・大小篆・八分に巧みで、琴・囲碁を善くし、思慮は精妙遠大であった。士人はその多能を貴んだ。嘗て俗に陰陽に徇いて拘束畏怖し、至理に背き、変通に泥み、国を有つ者の専らにすべからざることを以てした。謂うには、「天道は人に従うものである。古の政を行う者は、刑獄を濫り用いなければ人の寿命は延び、賦斂を省けば人は富み、法令に常があれば邦は寧かになり、賞罰が中れば兵は強くなる。礼は士の帰するところ、賞は士の死するところであり、礼賞を倦まず行えば、士は先を争う。そうでなければ、時に合わせて罰を行い、日に涓滴のごとく号令を出しても、成功はない。故に賢を任じ能を使うのは、時日を選ばずして利あり、法を明らかにし令を審らかにするのは、卜筮を用いずして吉であり、労を養い功を貴ぶのは、禱祠を行わずして福である」。乃ち『析滞論』を著してその方策を暢達させ、世間は「知言」と称した。子昂と貞固は先に死んだが、蔵用はその孤児を撫育して恩があり、人は終始の交わりを全うする能き者と称した。初め山中に隠れた時は、当世に志があり、人は「随駕隠士」と目した。晩年には権利に徇い、驕り放縦に務めて、平素の節操は尽きてしまった。司馬承禎が嘗て闕下に召し出し、山に還ろうとした時、蔵用は終南山を指して言った、「此の中には大いに嘉き処あり」。承禎は徐に言った、「僕の視る所にては、仕宦の捷徑のみ」。蔵用は慚じた。子無し。

弟 若虛

弟の若虛は、多才で博物に通じていた。隴西の辛怡諫が職方に在った時、異なる鼠を獲た者がいた。豹の頭に虎の胸で、拳の如く大きい。怡諫はこれを鼮鼠と謂って賦を賦した。若虛は言った、「違う。これは許慎の所謂る鼨鼠で、豹の文様で形が小さい」。一座驚き服した。起居郎、集賢院学士の官で終わった。

韋巨源

韋巨源は、安石と同じ家系で、後周の京兆尹韋総の曾孫である。祖父の貞伯は、鄖国公を襲封し、隋に入り、舒国公に改封された。巨源は吏事の才幹があり、武后の時に累進して夏官侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。その治め方は細碎で大體がなく、省中の遺漏隠れたことを句校し、下に符をして徴収し少しも免除せず、その利を収めたが、下民は怨み苦しんだ。李昭徳の連累に坐し、鄜州刺史に貶された。累進して地官尚書に拝された。

神龍初年(705)、吏部尚書として同中書門下三品となった。時に要官に欠員があり、執政者は順次にその親族を用い、巨源が筆を執り、十人を除目しようとした時、楊再思はその一人を得た。試みに残りの授官を問うと、皆、諸宰相の近属であった。再思は喟然として言った、「吾らは誠に天下に負うところあり」。巨源は言った、「時がそうなっているだけだ」。この時、賢く徳ある者でも、終に進むことを得ず、士大夫は心を解く者無かりき。時に安石が中書令となり、親族を避けて政事を罷めた。

間もなく侍中に遷り、舒国公となった。韋后と昆弟の縁を叙し、属籍に附した。武三思の封戸は貝州にあり、大水に罹った。刺史の宋璟はその租を免ずることを議したが、巨源は蚕桑で輸納できるとし、これにより河朔の人で流離する者が多かった。景龍二年(708)。韋后が自ら衣笥に五色の雲があると言うと、巨源はその偽りを唱え、中宗に天下に宣布するよう勧め、帝はその言に従い、これにより大赦を行った。巨源は帝が昏惑しているのを見て、乃ち宗楚客・鄭愔・趙延禧等と共に祥瑞や妖異を推し処し、密かに韋氏が武后の故事を行うよう導いた。間もなく尚書左仆射に遷り、仍って政事を知った。帝が南郊の祭祀を行おうとした時、巨源は后を亜献とし、自ら終献となるよう請うた。臨淄王(後の玄宗)が諸韋を平定した時、家人は避けるよう請うたが、巨源は言った、「吾は大臣、難に遭って赴かぬを見容れられぬ」。都街に出ると、乱兵に殺され、八十歳であった。

睿宗が立つと、特進・荊州大都督を追贈された。博士の李処直は「昭」と諡するよう請うたが、戸部員外郎の李邕は、巨源が武三思に附いて宰相となり、韋后の親族に托ったことを以て、「昭」の諡は適切でないとした。処直は執って改めず、邕はその悪を列挙して陳べたが、用いられなかった。然れども世間は皆、邕を正しいとした。韋氏では安石及び武后の時の宰相韋待価・巨源は皆近親で、その族で大官に至った者は、また数十人に及んだ。

趙彦昭

趙彦昭、字は奐然、甘州張掖の人。父の武孟は、若い時遊猟に耽り、獲物を母に贈った。母は泣いて言った、「汝は書を好まずして放蕩する。吾は何を望めばよいのか」。食事を取らなかった。武孟は感激し、遂に力学し、書記に淹博であった。長安丞から右台侍御史となり、『河西人物志』十篇を著した。

彦昭は若い時豪邁で、風骨秀爽であった。進士に及第し、南部尉に調ぜられた。郭元振・薛稷・蕭至忠と親善した。新豊丞から左台監察御史となった。景龍年間(707-710)、累進して中書侍郎・同中書門下平章事となった。金城公主が吐蕃に嫁ぐ時、初め紀処訥を使者としようとしたが、処訥が辞したので、乃ち彦昭に授けた。彦昭は顧みて己が外に処せられることを、権寵が奪われ移ることを恐れ、喜ばなかった。司農卿の趙履温が言った、「公は天の宰(宰相)でありながら、一介の使者となるのは、鄙しいことではないか」。彦昭はどうすればよいかと問うと、履温は乃ち安楽公主に請うて留めさせ、遂に将軍の楊矩が代わった。睿宗が立つと、宋州刺史として出され、連累に坐して帰州に貶された。間もなく涼州都督を授けられ、政は厳しく、下僚は皆股が慄いた。入朝して吏部侍郎となり、節を持って辺境を巡察した。御史大夫に遷った。蕭至忠等が誅殺されると、郭元振・張説が彦昭も秘かに謀議に参与したと進言し、刑部尚書に改め、耿国公に封ぜられ、実封百戸を与えられた。

彦昭は本来、権幸によって進んだ。中宗の時、巫の趙某が鬼道を以て禁掖に出入りし、彦昭は姑としてこれに事えた。嘗て婦人の服を着て、車に乗り妻と共に謁見し、その宰相を得たのは、巫の力であった。ここに至り殿中侍御史の郭震がその旧悪を弾劾して暴露した。時に姚崇が執政し、その人となりを悪み、江州別駕に貶し、そこで卒した。

和逢堯

和逢堯は、岐州岐山の人である。武后の時、鼎を背負って闕下に詣で上書し、自ら願って天子を助け百度を和飪せんと称した。有司が譲りて曰く、「昔桀は道なく、伊尹は鼎を負って湯に仕えたり。今天子は聖明にして、百司以て和す、尚何ぞ調ぶる所あらんや」と。逢堯は答える能わず、流されて莊州に至る。十餘年を経て、乃ち進士に挙げられ高第となり、累ねて監察御史に擢でられる。

突厥の默啜、公主を尚せんことを請う。逢堯は御史中丞として鴻臚卿を摂し、報じて可とす。默啜、貴近の頡利を遣わして来たりて曰く、「詔して金鏤の具鞍を送るは、乃ち金を塗るのみ、天子の意に非ず。使者は信ずべからず、公主を得ると雖も、猶ほ実に非ず、和親を罷めんことを請う」と。馳せ去らんと欲す。左右色動く。逢堯呼びて曰く、「我は大国の使なり、我が辞を受けずして、輒ち去る可けんや」と。乃ち其の人を牽き持して謂ひて曰く、「漢法は女婿を重んじて鞍具を送るは、安く且つ久からんと欲するなり、金を以て貴しとせず。可汗は乃ち金を貪りて信を貴ばざるか」と。默啜聞きて曰く、「漢使の吾が国に至る衆し、斯れは鉄石を食う人なり、易うべからず」と。因りて礼を備えて見ゆ。逢堯之を説きて曰く、「天子は昔単於都護たりし時、思ひて可汗と旧好を通ぜんとす。可汗は当に風に向ひ義を慕ひ、冠冕を襲ひ、諸蕃に重からんことを取るべし」と。默啜之を信じ、為に発を斂め紫衣を着け、南面して再拝し臣と称し、子を遣わして朝せしむ。逢堯は使として指有るを以て、戸部侍郎に擢でらる。太平公主に善しと坐し、斥けられて朗州司馬となり、終に柘州刺史に至る。逢堯は詼詭にして、大事に当たりて敢へて僥福す。故に卒に附麗を以て廢せらる。然れども唐興りて使者を奉ずる者、逢堯を称す。

贊して曰く、異なるかな、玄宗の蕭至忠を器とすることは、亦惑へるに非ずや。至忠は本より賢に非ずして、賢に寄せて奸利をなす。之を失へば則ち利を邀けて以て賢を喪ふ。艷後に姻し、寵主を挟み、宰相を取り、王室を間はんと謀る。身誅され家破れ、臭を遺して窮まり無し。而るに帝は乾曜の之に似たるを以て、遽かに国に当たらしむ。是れ帝の挙げて至忠の用ふべからざるを知らず、又乾曜の用ふべき所を知らざるなり。或いは帝の罪を以て才を掩はずと称す、益々怪しみ嘆ず可し。嗚呼、力士は誠に腐夫庸人にして、能く天子の迷を発擿せず。若し曰く「至忠は初めに賢なれば、固より末に繆ること無く、既に末に繆れば、果たして初めに賢ならず。惟だ陛下之を図れ」とせば、是くの如くならば、帝は往失を悟り来鑑を精にせん。其の後に李林甫を相とし、安祿山を将とせるは、皆不明に基づく。身は岷陬に播き、信に自ら之を取れるか。