新唐書

巻一百二十二 列傳第四十七 魏韋郭

魏元忠

魏元忠は宋州宋城の人である。太学生となり、放縦にして行いを慎まず、長く官途に就けなかった。盩厔の人江融は兵術に通暁しており、元忠は彼に従って交わり、その学ぶところをことごとく伝授された。儀鳳年中、吐蕃がたびたび辺境を侵すに及び、元忠は洛陽らくよう宮において封事を上奏し、将を命じ兵を用いる要諦について次のように述べた。

天下の権柄には二つあり、文と武のみである。勝利を制し人を制するに至っては、その道は一つである。今、武を言う者はまず騎射を先とし、権謀と方略を考察せず、文を言う者はまず篇章を第一とし、経綸を取らない。臣が観るに、魏・晉・齊・梁にも才能は確かに乏しくなかったが、どうして治乱に益したであろうか。養由基は射術で鎧の札を貫くことができたが、鄢陵の敗走を止めることはできず、陸機は識見で亡国の理を弁じることができたが、河橋の敗戦を救うことはなかった。はっきりと見て取れることである。およそ才能は世に生まれ、世はまさに才能を必要とする。いかなる世に才能が生まれないことがあろうか。いかなる才能が世に資さないことがあろうか。ゆえに物には求めないことはあっても、物のない年はなく、士には用いないことはあっても、士のいない時はないのである。志士は富貴にあっても賤貧にあっても、皆、功名を立てて後世に伝えようと考える。しかし、知己は難く、遭遇する機会は稀である。琬琰を懐いて煨塵に就き、棟幹を抱いて溝壑に困する士を、悠悠たる俗人はただこの士の貧賤を見るのみで、どうしてその方略を知ることができようか。故に漢は韓信かんしんを拝したとき、全軍が驚き笑い、しょくは魏延を用いたとき、群臣が不満を抱いた。これは富貴にある者は善を行いやすく、貧賤にある者は功を立てにくいからである。昔、漢の文帝は魏尚の賢を知らずしてこれを囚え、李広の才を知りながら用いず、かえってその生まれる時を得なかったことを嘆いた。広の才をもってすれば、天下に並ぶものはない。時にちょうど匈奴に事える歳でありながら、ついに任用されなかった。ゆえに近くにいる尚・広の賢を知らず、遠く廉頗・李牧を思い、馮唐はこれをもって、その才能があっても用いることができないことを知ったのである。これは身が時の主君に知られながら、その才能を尽くすことができない例である。晉の羊祜が呉を挙げることを謀ったとき、賈充・荀勖がこれを沮んだ。祜は嘆いて言った、「天下の事、意の如くならざること十常に七八あり」。二人の意見が同じでなかったため、ついに大挙しなかった。これは功を立てる地位にありながら、その志を展開することができなかった例である。布衣の人が、奇策を抱いて、朝に奏上すれば夕に召されることを望むのは、どうして容易に得られようか。臣は願わくば、文武五品以上の者を歴訪して、智は羊祜の如く、武は李広の如きでありながら、その才能を馳せることができない者がいないかどうか尋ねてみたい。それぞれにその志を言わせ、長く職を失うことのないようにすべきである。

また次のように述べた。

人に常の俗はないが、政治には治乱がある。軍に常の勝ちはないが、将には有能・無能がある。兵は王者の大事であり、存亡がこれにかかっている。将がその任に適さなければ、人を滅ぼし国を敗る。齊の段孝玄が言った、「大兵を執ること盤水を擎ぐが如し、一度蹉跌すれば、止めんことを求むるも得べしや」。周亜夫は堅壁をもって呉・楚を挫き、司馬懿は営を閉じて諸葛亮を困らせた。これらは皆、全軍をもって勝利を制し、戦わずして敵を退却させたものである。これによって知る、大将が戦場に臨むには、智を根本とすべきことを。今の人材任用は、多くが将家の子や、戦死した者の孤児であり、進用されるのは幹略によるものではない。たとえ力を尽くし誠を尽くしても、傾敗を免れない。どうしてこれを用いることができようか。かつて功を建てた者は、その成し遂げたことを言い、その出自を言わず、その能力を言い、その依拠したものを言わない。陳湯・呂蒙・馬隆・孟観らは皆、貧賤の出身でありながら、勲功は甚だ高く、その家が代々将帥であったとは聞かない。ゆえに陰陽が和せず、士を抜擢して相とし、蛮貊が朝廷に服さず、校尉こういを抜擢して将とするのである。今、四海の広さ、億兆の衆をもってすれば、どうして卓越した士がいないことがあろうか。臣は恐らく、これを考えていないのであろう。また、賞は礼の基礎であり、罰は刑の根本である。礼が尊ばれれば謀臣はその能を尽くし、賞が厚ければ義士はその死を軽んじ、刑が正しければ君子はその心を励まし、罰が重ければ小人はその過ちを戒める。賞罰は軍国の綱紀であり、政教の薬石である。吐蕃は本来強敵ではないのに、薛仁貴・郭待封はついに甲冑を棄て軍を喪い、脱身して免れた。国家の政が寛大で、罪は削除されるのみであり、網が舟を呑むほどの大罪を漏らすこと、これに過ぎるものがあろうか。たとえ陛下が後効を収めようと顧みられても、朝廷に欠けているのは、まさかこの一二人だけではないであろう。賞が善を勧めなければ、善を止めるといい、罰が悪を懲らさなければ、悪を放任するという。臣は誠に疎遠で賤しい身であり、この事柄に干渉すべきではないが、どうして陛下の君臣の間に薄厚を生じさせようとするであろうか。ただ刑賞が一度損なわれれば、百年たっても回復しないからである。ゆえに国に賞罰がなければ、堯・舜であっても為すことができない。今、罰が既に行われず、賞もまた信じ難いので、議する者は皆、近ごろの出征では、賞の等級を虚しく立てて実がないと言う。大要を忘れた臣下が、勲功に賞を与え、府庫を尽くすことを恐れ、錐刀の末に留意して、これをもって中国の益となすと思い込んでいるからである。いわゆる毫厘を惜しんで千里を失う者である。かつて黔首は微賤ではあるが、欺くことはできない。どうして信頼できない命令を仮託し、虚しい賞の等級を設けることがあろうか。蘇定方が遼東を平定し、李勣が平壌を破って以来、賞は行われず、勲功もまた埋もれて廃れ、年月が紛糾し、真偽が入り混じっている。臣は考えるに、吏が法を奉じず、京師から怠慢が始まり、偽りの勲功が生じるのは、主司の過失である。その法則は遠くなく、近くは尚書省の中にある。しかし、一台郎を斬り、一令史を戮して、天下に知らしめたとは聞かない。陛下はどうして遠くを照らしながら近くを照らさないのか。神州は教化の首であり、文昌は政務の根本である。治乱はここにかかっている。ゆえに臣は死を冒して言うのである。明鏡は形を映すためであり、往事は今を知るためである。臣は近い例を借りて諭したい。貞觀年中、萬年尉の司馬玄景は文書を弄び智を飾り、利を得ようとした。太宗はこれを都市に棄てた。後に高麗を征したとき、総管張君乂は賊を撃たず進まなかったので、旗下でこれを斬った。臣は思うに、偽勲の罪は玄景よりも多く、仁貴らの敗北は君乂よりも重い。早くこれを誅していたならば、諸将はどうしてまた背くことがあったであろうか。慈父には敗子が多く、厳しい家には強暴な奴隷はいない。かつて人主の病は広大でないことにあり、人臣の病は倹約しないことにある。臣は恐らく陛下の病は広大でないことにあり、その過ちは慈父にある。これは日月の蝕のようなものである。また今、将吏は貪暴で、求めるのは口馬・財利のみである。臣は恐れる、戎狄が平定されることは、一朝一夕には望めないであろうと。およそ人の識見が遠大でなければ、皆、吐蕃と戦うときは、前隊が尽きて後隊がようやく進むと言い、鎧は堅く騎兵は多く、山には瘴気があり、官軍が遠く入っても、前に得るものはなく、数百万の穀物を蓄積しなければ、大挙する資力がないと言う。臣は思うに、吐蕃が中国を見るのは、孤星が太陽に対するようなものであり、自然の大小、疑いない明暗がある。夷狄は禽獣であっても、その生命を愛することを知っている。どうして前が尽きて死に、後が進むことを肯んじようか。これはその民を残酷に追い立てるのであって、下の者の願うところではない。必ずや戦いに死を顧みないならば、兵法では敵がよく戦うことを許し、智謀と計算をもってこれを取るべきである。どうして克服できないことを憂えようか。もし将がよく敵を殺し、横たわる屍が野を蔽い、その頭顱を集めて京観とすれば、この虜は官軍の鐘鼓を聞き、塵を見て退却するであろう。どうして前隊が皆死ぬ暇があろうか。仁貴らが軍を覆し士気を喪って以来、虜は山谷で跳梁することを得たのである。また、軍を進めるには必ず馬力に頼る。数十万に満たなければ、虜と争うことはできない。臣は請う、天下の王公から平民に至るまで、籍に掛かった口ごとに、人頭税として百銭を納めさせ、また天下の馬禁を緩めて、民に大馬に乗ることを許し、その数を制限せず、官がその総数を記録し、隠すことを得させないようにすることを。三年と経たずして、民間に蓄えられた馬は五十万に達し、そこで詔を下して州県に、収めた口銭をもってこれを買わせる。もし王師が大挙すれば、一朝にして用いることができる。かつて虜は騎兵をもって強さとしている。もし一切の人に乗馬させれば、市場でその良馬を買い取り、中国の益とすることができる。これによって虜の兵勢の盛んなことを次第に消耗させることができれば、国家の利益である。

高宗はこれを善しとし、秘書省正字に任じ、中書省に直し、仗内供奉とした。

監察御史に遷る。帝が嘗て閑かに曰く、「外間は朕を如何なる主と為すや」と。対えて曰く、「周の成・康、漢の文・景なり」と。「然らば則ち遺恨有りや」と曰う。曰く、「之れ有り。王義方は一世の豪英なりしも、而して草萊に死す。議者は陛下の賢を用いる能わざるを謂う」と。帝曰く、「我適に之を用いんとす、其の死を聞く、顧みるに已に及ぶ無し」と。元忠曰く、「劉蔵器は行ひ才に副う、陛下の知る所、今七十にして尚書郎たり。徒らに彼を嘆きて又此れを棄つ」と。帝黙然として慚づ。

殿中侍御史に遷る。徐敬業兵を挙ぐ。詔して元忠に李孝逸の軍を監せしむ。臨淮に至り、而して偏将雷仁智賊に敗る。孝逸其の鋒を懼れ、兵を按じて未だ敢えて前らざる。元忠曰く、「公は宗室の将たり、天下の安危是れに係る。海内承平久しく、狂狡の窃発を聞けば、皆耳を傾け心をぎょうげて以て其の誅を待つ。今軍進まず、遠近をして情を解かしむ。万に一朝廷他将を以て公に代うる有らば、将に何をか辞せん」と。孝逸之然りとし、乃ち部分して進討す。時に敬業下阿谿に保ち、弟敬猷淮陰に屯す。咸に「先づ下阿を撃つべし、下阿敗れば、淮陰自ら破る。今淮陰急なれば、敬業必ず救わん、是れ敵腹背に在り」と請う。元忠曰く、「然らず。賊勁兵尽く下阿を守り、利は一決に在り。苟くも負くる有らば、則ち大事去らん。敬酋は博徒にして戦を知らず、且つ其の兵寡くして易く動揺す。大軍之に臨めば、勢克つに宜し。敬業は直に江都を搗かるるを畏れ、必ず将に我が中路を邀えん。吾今勝に乗じて進み、又逸を以て労を撃てば、之を破る必せり。之を逐うる獣に譬うれば、弱き者先ず禽らる。今必ず禽らるべき弱きを捨てて、難敵の強きに趨るは、計に非ず」と。孝逸乃ち兵を引きて淮陰を撃ち、敬猷身を脱して遁る。遂に進みて敬業を撃ち、之を平ぐ。還る。司刑正を授く。

洛陽令に遷る。周興の獄に陥り死に当たる。揚・楚を平げし功を以て、流罪を得。歳余りして、御史中丞と為り、復た来俊臣に構えらる。将に刑に就かんとし、神色動ぜず。前に死する者宗室の子三十余人、屍前において相枕藉す。元忠顧みて曰く、「大丈夫行ひ此に居る」と。俄かに勅して鳳閣舎人王隠客に騎を馳せて死を免ぜしむ。声市に及び伝わる。諸囚歓叫す。元忠独り堅く坐す。左右命じて起たしむ。元忠曰く、「実否を知らず」と。既にして隠客至り、詔を宣べ已りて、乃ち徐かに謝し、亦た容を改めず。費州に流す。復た中丞と為る。歳余りして、侯思止の獄に陥り、仍って嶺南に放つ。酷吏誅せらる。人多く元忠を訟う者あり。乃ち召して旧官に復す。因りて宴に侍す。武后曰く、「卿累ねて謗鑠を負う、何ぞや」と。対えて曰く、「臣は猶ほ鹿のごとし。羅織の吏は猟者の如し。苟くも臣が肉を須いて之が羹と為さんとせば、彼将に臣を殺して以て進まんとす。臣顧みて何の辜か有らん」と。

聖暦二年、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為り、俄かに検校へい州長史・天兵軍大総管を兼ね、以て突厥に備う。左粛政台御史大夫に遷り、検校洛州長史を兼ね、治め威明と号す。張易之の家奴百姓に暴し、横甚だし。元忠之を笞殺す。権豪憚み服す。俄かに隴右諸軍大使と為り、以て吐蕃を討つ。又た霊武道行軍大総管と為りて突厥を禦ぐ。元忠軍を馭するに持重を以てし、赫々たる功無きと雖も、而も亦た未だ嘗て敗れず。

中宗東宮に在りし時、検校左庶子と為る。時に二張朝廷に勢を傾けたり。元忠嘗て奏して曰く、「臣先帝の顧みを承け、且つ陛下の厚恩を受け、忠を徇う能わず、小人をして君側に在らしむ、臣が罪なり」と。易之等恨み怒り、武后のせざるに因り、即ち共に元忠と司礼丞高戩と謀りて太子を挟み耐久の朋と為さんとすと譖う。遂に制獄に下す。詔して皇太子・相王及び宰相に元忠等を引きて廷に於いて弁せしむ。決する能わず。昌宗乃ち張説を引いて証と為す。説初め偽りて之を許す。是に至りて迫りて状を言わしむ。応ぜず。后又た之を促す。説曰く、「臣聞かず」と。易之等遽かに曰く、「説与に同逆す。説曩に嘗て元忠を伊・周と謂えり。夫れ伊尹は太甲を放ち、周公は王位を摂す。此れ反状明らかに甚だし」と。説曰く、「易之・昌宗安んぞ伊・周を知らん、臣乃ち能く之を知る。伊尹・周公は歴古忠臣と為す。陛下伊・周を学ばしめざれば、将に何をか效めん」と。説又た曰く、「臣知る、易之に附すれば朝夕に宰相と為るべく、元忠に従えば則ち族滅せらる。今敢えて面欺せず、元忠の冤を懼る」と。后其の讒を悟る。然れども重ねて易之に違うを憚り、故に元忠を高要尉に貶す。

中宗位に復し、召して衛尉卿・同中書門下三品と為す。旬を閲ず、兵部尚書に遷り、侍中に進む。武后崩ず。帝喪に居る。軍国事元忠に委ね裁可せしむ。中書令を拝し、斉国公に封ず。神龍二年、尚書右僕射と為り、兵部尚書を知り、当朝用事し、群臣敢えて望む者莫し。謁告して冢に上る。詔して宰相諸司長官上東門に祖道せしめ、錦袍を賜い、千騎四人を給して侍せしめ、銀千両を賜う。元忠家に到り、親戚に於いて賑施する所無し。及んで還るに及び、帝為に白馬寺に幸して之を迎え労う。

安楽公主私に太子を廃し、皇太女と為らんことを請う。帝以て元忠に問う。元忠曰く、「公主にして皇太女と為らば、駙馬都尉当に何の名と為すべき」と。主恚りて曰く、「山東の木強礼を知らんや。阿母子尚お天子と為る。我何をか嫌わん」と。宮中武后を阿母子と謂う。故に主之を称す。元忠固く不可と称す。是より語塞ぐ。

武三思用事す。京兆韋月将・渤海高軫上書して其の悪を言う。帝之を搒殺す。後敢えて言う者莫し。王同皎三思を誅せんと謀り、克たず、反って族せらる。元忠其の間に居り、依違して建明する所無し。初め、元忠武後に相たり、清正の名有り。是に至りて政を輔け、天下傾望し、王室を幹正せんことを冀う。而して稍々権幸を憚り、善を賞し悪を罰する能わず、誉望大いに減ず。陳郡の男子袁楚客なる者書を以て之を規るに曰く、

今上皇帝は新たにその徳を服し、官を任ずるには賢才のみを選び、左右にはその人を得て、これにより大化を布き、古誼を充たし、以て天下を正さんとす。君侯(魏元忠)はどうして黙従に事えていられようか。苟も社稷に利あらば、専断すべし。天下を安んずる者は先ずその本を正す。本正しければ天下固く、国の興亡はこれに係る。太子は天下の本なり、譬えば大樹の如し。本なければ枝葉零悴す。国に太子なければ、朝野安からず。儲君には次第に及ぶ勢いあり、故に師保は君人の道を教え、以てその徳を蘊崇し、天下を重んずる所以なり。今皇子既に長ずるも、嫡嗣定まらず、これ天下に本なきなり。天下に本なければ、猶樹にして根を亡くすが如く、枝葉何を以てか存せん。願わくは君侯、清宴の間に在りて上(中宗)に言い、賢を択びてこれを立てしめよ。これ天下を安んずるの道なり。空しくして置かざるは、朝廷の一失なり。女には内則あり、男には外傅あり、豈に相濫れんや。幕府は丈夫の職なり。今公主並びに府を開き吏を置き、女を以て男の職に処す、いわゆる陰を長じ陽を抑えるなり。而して陰陽愆らず、風雨時に若くするを望む、得べけんや。これ朝廷の二失なり。今度人既に多く、緇衣半道に満つ。本業に依らず、専ら重宝を以て権門に附し、皆定直あり。昔の売官は、銭公府に入り、今の売度は、銭私家に入る。これをもって道に入るは、徒らに遊食するのみ。これ朝廷の三失なり。唯だ名と器のみは、以て人に仮すべからず。故に曰く「天工は、人そのこれを代う」と。天に代わるは、材なければ不可なり。その人に非ずして代われば、必ず天意を失う。天意を失いて患禍なきは、未だこれあらざるなり。今倡優の輩、耳目の好に因り、遂に官を授く。朝廷を軽んじ、正法を乱すに非ずや。人君に私無し。私怒は物を害し、私賞は財を費やす。況んや私に人に官をやるをや。これ朝廷の四失なり。賢者は邦家の光なり。これを用いれば治を致し、これを棄てれば乱を生ず。近く詔して多士を博く求めしも、賢を好むの名はあれど、賢を得るの実無し。蓋し有司の士を選ぶや、賄わざれば即ち勢いなり。上は天心を失い、下は人望に違う。官の為に吏を択ぶに非ず、乃ち人の為に官を択ぶなり。葛洪に言あり、「秀才を挙ぐるも書を知らず、孝廉を察するも泥の如く濁り、高第賢良は蛙の如く吝し」と。これ朝廷の五失なり。閹豎は、宮掖の掃除の事に給し、古は奴隸を以てこれを畜う。中古以来、大道乖喪し、賢哲を疎んじ、近習に親しみ、乃ち事をこれに委ね、権をこれに授く。故に豎刁は斉を乱し、伊戾は宋を敗る。君側の人、衆の畏懼する所、いわゆる鷹頭の蠅、廟垣の鼠なり。後漢の時用事尤も甚だしく、晩節遂に天下を乱す。今大君中興すれども、独り閹豎坐して班秩を升り、正闕無く、率ね員外を授け、乃ち千人に盈ち、青紫を綰き、府蔵を耗す。前事の験、後事の師たり。これ朝廷の六失なり。古は茅茨采椽、以て儉約を子孫に遺し、力を愛する所以なり。今公主の賞する所は庫府を傾け、造る所は皆官供す。その疏築する台沼、崇峙する観廡、山に本石無く、木に近産無し。これを造るに終歳し、功用絶えず。君たる所以は人を養うにあり、人を害するに非ざるなり。今外戚養うを助けずして反ってこれを害す。是れ人主をして謗を天下に受けしむるなり。これ朝廷の七失なり。官は以て人を安んずるにあり、以て人を害するに非ざるなり。先王は人治まらんことを欲すれば必ず材を選び、人安からんことを欲すれば必ず事を省みる。これ誠に天下の憂いを同じくするなり。人に楽あれば、君これとともにし、君に楽あれば、人これを慶す。もって同楽と謂うべし。かくの如くすれば、則ち上下間無く、均しく一体なり。今天下困窮し、州牧・県宰、選進に非ざるを以てし、割剝自私し、人聊生する無し。是れ下に憂い有りて上恤わざるなり。而して更に員外に官を置く、桀を助くに非ずや。夫人情自ら員外の吏を以てすれば、下己を畏れざるを恐れ、必ず峻法を以てこれを懼しめ、財己に奉ぜざるを恐れ、必ず枉道を以てこれを奪わんとす。乱れざらんと欲して、得べけんや。古語にこれ有り、十羊九牧、羊既に食を得ず、人亦息を得ず。『書』に曰く「官必ずしも備えず、惟だその人」と。この言は正員にすら猶おその備え難きを謂う。況んや員の外をや。これ朝廷の八失なり。政多くより出ずるは、大乱の漸なり。近く数夫人を封ずるは、皆先帝の宮嬪なり。以て内職を備うるとなせば、則ち外を知るべからず。内職を備えざれば、則ち自ら外に処すべし。而して禁掖に出入せしめ、内言必ず出で、外言必ず入らしむ。固より将に君の法を弄ばんとす。縦して禁めざるは、宗廟を重んじ国家を固くする所以に非ざるなり。孔子曰く「彼の婦の口は、以て出走すべく、彼の婦の謁は、以て死敗すべし」と。これ朝廷の九失なり。道を以てその君に事えざる者は、天下を危うくする所以なり。天下を危うくする臣は逐わざるべからず。天下を安んずる臣は任ざるべからず。今鬼神を引き左道を執りて以て主を惑わす者有り。鬼神に托して知り難しとなし、故にその詐を致し、非才の地に拠り、非徳の禄を食む。これ国盗なり。『伝』に曰く「国将に興らんとすれば民に聴き、将に亡ばんとすれば神に聴く」と。今幾ばくか神に聴かんとするか。これ朝廷の十失なり。君侯正しからざれば、誰か与にこれを正さん。

元忠は書を得て益々慚じ、三思の専権を以て、これを誅する策有らんことを思う。会に節湣太子兵を起こし、その謀に与かりて聞く。太子既に三思を誅し、兵を引いて闕下に走る。元忠の子太仆少卿升、永安門に於いて遇う。太子脅して従戦せしめ、已にして殺さる。議者未だ逆順を弁ぜざるに、元忠声を誦して言う、「既に賊を誅して天下に謝す。鼎鑊に死すと雖も甘心す。惟だ皇太子の没するを恨みとす」と。帝はその嘗て功有り、且つ高宗・武后の素より礼せし所なるを以て、問わずに置く。宗楚客・紀処訥大いに怒り、固くその族を夷すを請うも、聴かず。元忠自ら安からず、政事及び国封を上る。詔して特進・斉国公を以て致仕せしめ、朔望に朝せしむ。楚客等右衛郎将姚廷筠を引きて御史中丞と為し、反状を暴奏す。これにより渠州司馬に貶す。楊再思・李嶠皆楚客に順い希い、元忠の罪を傅致す。唯だ蕭至忠議して当にこれを申宥すべしとす。楚客復た再思と冉祖雍を遣わして奏す、元忠は逆に縁りて内に処すべからずと。監察御史袁守一固く誅を行わんことを請い、遂に務川尉に貶す。守一復た劾す、「天後嘗て豫せず、狄仁傑陛下の監国を請うしに、元忠これを止めき。これその逆久しく萌せしなり」と。帝楊再思に謂いて曰く、「守一は是に非ず。君に事うる者はその心を一にす。豈に上少しく疾えれば遽に異論あらんや。朕未だ元忠の過ちを見ざるなり」と。

元忠涪陵に至りて卒す。年七十余。景龍四年、尚書左僕射・斉国公・本州刺史を贈る。睿宗詔して定陵に陪葬せしめ、実封一百五十戸を以てその子晃に賜う。開元六年、謚して貞と曰う。

元忠始め名は真宰と曰う。諸生として高宗に見え、高宗慰めて遣わす。謝するを知らず即ち出で、儀挙自ら安んず。帝目送して薛元超に謂いて曰く、「是の子未だ朝廷の儀を習わざれど、然れども名虚しからず謂う、真の宰相なり」と。武后の母の諱を避け、今の名に改む。

韋安石

韋安石は京兆萬年の人である。曾祖父の孝寬は、周の大司空しくう・鄖國公となった。祖父の津は、隋の大業の末年に民部侍郎となり、元文都らとともに洛陽に留守し、李密を拒んで上東門で戦い、密に捕らえられた。後に王世充が文都を殺したが、津だけは免れた。密が敗れると、再び洛陽に帰った。世充が平定されると、高祖こうそ(李淵)は平素より津と親しかったので、諫議大夫・檢校黃門侍郎・陵州刺史を授け、その地で卒した。父の琬は成州刺史に仕えた。

安石は明経に挙げられ、乾封尉に任じられると、雍州長史の蘇良嗣が彼を器重した。永昌元年、雍州司兵參軍に遷った。良嗣が国政を執るとき、安石に言った。「大才は大用に当てるべきで、州県で徒労させるようなことがあろうか。」武后に推薦し、膳部員外郎に抜擢し、并州司馬に遷った。善政があり、后は手制を下して労い問い、徳州刺史・鄭州刺史に昇進した。安石の性質は方正で重厚、軽々しく笑い言わず、その政は清厳を尚び、吏民は尊び畏れた。

久視年間、文昌右丞に遷り、鸞臺侍郎として同鳳閣鸞臺平章事となり、太子左庶子を兼ね、なお侍読を務め、まもなく納言事を知った。時に張易之・張昌宗兄弟および武三思が寵愛して横暴であったが、安石はしばしば彼らを折り辱めた。殿中で侍宴したとき、易之が蜀の商人宋子らを引き入れて博戯を御前で行わせると、安石は跪いて奏上した。「商人らは賤しい類い、殿上で戯れるべきにあらず。」左右を見て引き出させた。座は皆顔色を失ったが、后は安石の言葉が正しいとして、顔色を改めて慰労した。鳳閣侍郎の陸元方は自ら及ばないと思い、退いて人に告げて言った。「韋公は真の宰相なり。」后がかつて興泰宮に行幸したとき、疾道(近道)を行くことを議した。安石が言うには、「この道は板築で作られたもので、自然の堅固さではない。千金の子ですら堂の端に垂れることを戒める。まして万乗の君が軽々しく危険に乗ずることができようか。」后は輦を回した。長安ちょうあん二年、同鳳閣鸞臺三品となり、まもなくまた納言を知り、檢校揚州大都督ととく府長史となった。神龍元年、政事を罷められたが、まもなくまた同三品に復し、中書令に遷り、相王府長史を兼ね、鄖國公に封ぜられ、封戸三百を賜り、特進を加えられ、侍中となった。中宗と韋后は正月の望夜にその邸に行幸し、賜り物は数えきれなかった。帝が安楽公主の池に行幸したとき、主(公主)が御船をお願いした。安石が言うには、「軽舟に御し、不測に乗ずるは、帝王の事にあらず。」そこで止めた。

睿宗が立つと、太子少保を授けられ、郇國公に改封され、また侍中・中書令となり、開府儀同三司に進んだ。太平公主に異謀があり、安石を引き入れようと、しばしばその婿の唐晙を通じて招いたが、拒んで行かなかった。帝がある日安石を召して言った。「朝廷は東宮(太子)に傾心している。卿はどうして察知しないのか。」答えて言った。「太子は仁孝、天下に称えられ、かつ大功がある。陛下は今どうして亡国の言葉を口にされよう。これは必ず太平公主の計略である。」帝は驚いて言った。「卿は言うな。朕は知っている。」主(公主)は密かにこれを聞き、飛変(急な変事の訴え)を捏造して、彼を訊問しようとしたが、郭元振の保護により免れた。尚書右僕射兼太子賓客・同三品に遷り、まもなく政事を罷められ、東都留守となった。

ちょうど妻の薛が婿の婢を怨み、笞打ち殺したため、御史中丞楊茂謙に弾劾され、蒲州刺史に左遷され、青州に移された。安石が蒲州にいたとき、太常卿の姜皎が何か請願したが、拒絶した。皎の弟の晦が中丞となり、安石がかつて中宗に宰相として仕え、遺制を受けながら、宗楚客・韋温が勝手に相王(睿宗)の輔政の言葉を削ったことについて、安石が是正を建てなかったことをとがめ、侍御史の洪子輿に弾劾させようとしたが、子輿は赦令が改まったことを理由に従わなかった。監察御史の郭震がこれを奏上し、詔により韋嗣立・趙彦昭らとともに皆貶謫され、安石は沔州別駕となった。皎はまた、安石が定陵の造営を監督した際、何かを盗み没したと奏上し、詔によりその贓物を没収した。安石は嘆いて言った。「ただ我が死を待つばかりなり。」憤りを発して卒した。享年六十四。開元十七年、蒲州刺史を追贈された。天宝初年、左僕射・郇國公を加贈され、諡は文貞。子は二人、陟と斌である。

子 陟

陟は字を殷卿といい、弟の斌とともに幼少より異常に秀敏であった。安石は晩年に子を得て、これを愛した。神龍元年、安石が中書令となったとき、陟はわずか十歳で、温王府東閣祭酒・朝散大夫を授かった。風格は方正で整い、文辞を善くし、書には楷法があり、一時の知名の士は皆彼と交遊した。開元年間に喪に服し、父が志を得ずに没したため、斌とともに門を閉ざして八年間出なかった。親友が代わる代わる訪れて諭すと、ようやく強いて洛陽令となった。宋璟は陟を見て嘆じて言った。「盛徳の遺範は、尽くここにある。」累進して吏部郎中となり、中書令の張九齢が彼を引きいて中書舎人とし、孫逖・梁渉とともに詔勅の起草を司り、時に才を得たと称された。

礼部侍郎に遷った。陟は特に人物の鑑定裁断に長けていた。故事では、人材を取るのに一日の試験で高下を決めていた。陟は自ら得意とするものを申告させ、まずその能力に就いて試験し、それから正式に考課した。これによって遺材がなくなった。吏部侍郎に遷ると、選人に偽って集まる者が多く、正規の選調と混同していた。陟は風采があり、摘発弁別して服さない者はなく、数百名を罷免正したので、銓綜(選考総括)は公平と号された。しかし威厳を任じ、時に罵詈詰問に至り、議論する者はその峻烈を非難した。また自ら門地品第をもって三公の階に座すべきと考え、平素は簡素で尊大、同僚たちを疎んじて見た。しかし道義をもって合う者には、たとえ後進の布衣であっても礼を均しくした。

李林甫はその名声の高さを憎み、己を脅かすことを恐れ、襄陽太守に出し、河南採訪使に移した。判官の員錫は訊問覆審に巧みで、支使の韋元甫は書奏に巧みであり、時に「員推韋状」と号されたが、陟は皆これを倚任した。まもなく郇國公を襲封したが、事に坐して鐘離・義陽の太守に貶され、後に河東太守となった。失職したため、内心怏怏とし、廉隅を毀ち、権幸に賄賂を贈って自ら結ぼうとした。天宝十二載、華清宮で考課を受けたとき、楊国忠はその才を忌み、拾遺の呉豸之に言った。「そなたは陟の罪を発覚させられるか。御史の職を与えよう。」豸之はそこで陟が賄賂を贈ったことを弾劾し、国忠はまた甥婿の韋元誌に左証させた。陟は惶恐し、吉温に賄賂を贈って救いを求めた。これにより共に罪を得、陟は桂嶺尉に貶され、赴任しなかったため平楽に移された。ちょうど安禄山が洛陽を陥落させ、弟の斌が賊に没した。国忠は陟が賊と通じたことをでっち上げようと、守吏に密かに諭し、陟を脅迫して憂死させようとした。州の豪傑が共に説いて言った。「昔、張説が流罪になったとき、陳氏に匿われて免れた。今もし詔書が下れば、誰が公を庇えよう。願わくは公、扁舟に乗って遁れ去られよ。事が鎮まってから出られれば、また美ならずや。」陟は慨然として言った。「命これ爾り。どうして刑を逃れようか。」そこで謝って遣わし、堅く臥して出なかった。

一年余りして、粛宗が即位すると、呉郡太守として起用され、使者が急ぎ追ったが、到着しないうちに、永王の兵乱が起こった。陟に招諭を委ねたので、御史大夫・江東節度使を授かった。高適・来瑱と安州で会した。陟は言った。「今、中原未だ平らかでなく、江淮は騒然と離反している。もし盟をととのえて質信とし、四方に示して、我らが心を協わせ力を戮することを知らしめなければ、成功の道はない。」そこで瑱を地主に推し、載書(盟書)を作り、壇に登って言った。「淮西節度使瑱・江東節度使陟・淮南節度使適は、国の威命を奉じ、三垂(三方の辺境)を糾合し、兇慝を翦除す。好悪これを同じくし、異志あることなかれ。この盟にかわるものあれば、命を墜とし族を亡ぼし、生育をざるべし。皇天後土、祖宗の明神、実にこの言を鑒みたまえ。」辞旨は慷慨、士卒は皆涙を落とした。

永王が敗れると、帝は韋陟を鳳翔に赴かせようとした。初め、季広琛は永王の乱に従ったが、それは彼の本意ではなかったので、韋陟は広琛を歴陽太守に任じるよう上表し、慰撫した。この時、広琛に後日の変心を恐れ、馳せ往って詔の恩を諭して疑念を解かせ、それから召還を促した。帝はかねてより韋陟の名を聞き、宰相に頼ろうとしたが、この時の遅延があって、ためらう意があるかと疑い、御史大夫に任じるにとどめた。杜甫が房琯を論じた際、言葉が迂遠で緩慢であったので、帝は韋陟に崔光遠・顔真卿とともにこれを審理させた。韋陟は奏上して言う、「杜甫の言は狂っているが、諫臣の体を失ってはいない」。帝はこれによって彼を疎んじた。富平人の将軍王去栄がその県令を殺したので、帝はこれを赦そうとしたが、韋陟は言う、「昔、漢の高帝は法を定め、人を殺せば死罪とした。今、陛下は人を殺す者を生かそうとされるが、これはおそらく適切ではない」。当時朝廷はまだ新しく、群臣が殿中に列したとき、互いに弔い泣く者がいた。帝は韋陟が職務に堪えないとして、顔真卿をもって代え、改めて吏部尚書に任じた。久しくして、同族の者が墓の柏を伐ったが、これを制止しなかった罪に坐し、絳州刺史に貶された。後に太常卿を授けられ、呂諲が輔政に入ると、礼部尚書・東京留守に推薦された。史思明が伊・洛に迫ると、李光弼は河陽を守ることを議し、韋陟は東京の官属を率いて関中に入り避難した。詔により吏部尚書を授けられ、永楽に保って収復を図るよう命じられた。卒す。六十五歳。荊州大都督を追贈された。

韋陟は早くから名がありながら、李林甫・楊國忠に排斥されて廃された。及んで粛宗が宰相を選ぶとき、自ら必ず得るものと思ったが、到着が遅れたために用いられなかった。政事を任じる者は皆新進の者で、その風采を望んで畏れ、多くは彼が驕慢で傲慢だと言った。関中に入ったときも、また京師に至ることを許されなかった。鬱々として志を得ず、病にかかり、まさに死のうとして嘆いて言う、「我が道はここで窮まるのか」。性質は奢侈で放縦、衣服や馬を飾ることを好み、侍女や小姓が左右に列する者は常に数十人で、王宮や公主の邸宅に匹敵した。料理を極めて贅沢にし、肥沃な土地を選んで穀物や麦を栽培し、鳥の羽で米を選り分け、毎食、厨房で捨てられるものを見ると、その価値はなお一万銭を下らなかった。公侯の家に宴するとき、山海の珍味を極めても、箸を下ろすことはなかった。常に五彩の箋で書簡を作り、侍妾にこれを主宰させ、返答を裁断させ、意を受けるだけで、皆楷法にかなっていた。韋陟はただ署名するのみで、自ら書く「陟」の字が五つの雲のようだと言い、当時の人はこれを慕い、「郇公五雲体」と号した。しかし家法は整っており、子の韋允に学問に就くよう命じ、夜分に見て、その勤勉さを見ると、翌朝の問安では必ず顔色を和らげた。少しでも怠ると、堂下に立たせて語らなかった。家僮は数十人いたが、門を応じて賓客に接するのは、必ず韋允が主宰した。

永泰元年、尚書左僕射を追贈された。太常博士の程皓が「忠孝」と諡することを議したが、顔真卿は、国に尽くすことと親を養うことは両立せず、二つの行いを合わせて諡とすべきではないと考え、主客員外郎の帰崇敬もまたこれを駁正した。右僕射の郭英乂は学術がなく、結局太常の議を用いたという。

子に韋斌あり。

韋斌は、父が宰相であったときに太子通事舍人を授けられた。若い頃から行いを整え、文芸を好み、容姿や立ち居振る舞いは厳しく峻烈で、大臣の風格があり、韋陟と並び称された。開元中、薛王李業が娘を娶らせ、秘書丞に遷った。天宝中、中書舍人となり、集賢院学士を兼ね、太常少卿に改めた。李林甫が韋堅の獄をでっち上げたとき、韋斌は同族の累で坐し、巴陵太守に貶され、臨汝に移された。久しくして、銀青光禄大夫を拝し、五品に列した。当時、韋陟は河東を守り、従兄の韋由は右金吾衛将軍、韋絳は太子少師で、四つの邸宅が同時に戟を列ね、そのような者は衣冠の家でも稀であった。安禄山が洛陽を陥落させると、韋斌は賊に捕らえられ、黄門侍郎に任じられたが、憂憤して卒した。乾元元年、秘書監を追贈された。

韋斌は天性、質実で篤厚であり、毎回の朝会では、離れて立ったり笑ったり話したりしなかった。かつて大雪が降り、廷にいる者たちは皆、裾を振って立ち直ったが、韋斌は足を動かさず、雪が甚だしく、靴まで埋まるほどになったが、なお恭しさを失わなかった。

韋斌の子に韋況あり。

子の韋況は、若くして王屋山に隠棲し、孔述睿に称賛された。孔述睿が諫議大夫として召されたとき、韋況を右拾遺に推薦したが、拝命しなかった。間もなく、起居郎として召されたが、半年で官を棄てて去り、家を龍門に移した。司封員外郎を授けられたが、病気と称して固辞した。元和初、諫議大夫を授けられ、職に就くよう勧諭されたが、数か月で致仕を乞い、太子左庶子として致仕し、卒した。韋況は代々貴い家柄であったが、志は淡泊で遠大であり、名声や利益に動かされず、当時、その風操を重んじられた。

兄に韋叔夏あり。

韋叔夏は、韋安石の兄である。礼学の家学に通じた。叔父の太子詹事韋琨がかつて言った、「お前は漢の丞相(韋賢・韋玄成)の業を継ぐことができるだろう」。明経科に及第し、太常博士を歴任した。高宗が崩御したとき、喪礼の儀式に欠けたところがあったので、韋叔夏は中書舍人の賈大隱・博士の裴守真とともにその制度を定め、春官員外郎に抜擢された。武后が洛陽に赴き、明堂で祭祀を行うとき、すべての沿革は、韋叔夏・祝欽明・郭山惲らが裁決討議した。一つの議を立てるごとに、衆人は諮問して服した。累遷して成均司業となった。後にまた詔があった、「五礼の儀式や器物について、司礼博士が修革するときは、韋叔夏・祝欽明らの評処を経てから、上聞せよ」。進んで春官侍郎となった。中宗が復位すると、太常少卿に転じ、建立廟社使となり、銀青光禄大夫に進み、累封してはい郡公となり、国子祭酒となった。卒し、兗州都督・脩文館学士を追贈され、諡して文といった。子に韋縚あり。

韋叔夏の子に韋抗あり。

韋縚は、開元時に集賢修撰・光禄卿を歴任し、太常に遷った。

唐が興って、礼の条文は備わっていたが、制度は時々誤りや欠落があり、整っていなかった。顕慶中に至り、許敬宗が建言した、「籩豆は多いことを貴ぶが、宗廟の祭祀は天に匹敵する。大祀は十二、中祀は十、小祀は八とすべきである。大祀・中祀では、簠・簋・〓・俎はいずれも一つ、小祀では〓はなし」。詔で許可された。二十三年、赦令により、籩豆の供え物がまだ十分でないので、礼官と学士に共に議して上聞するよう詔すべきであるとした。韋縚は「宗廟の籩豆はすべて十二に加える」ことを請い、また言う「郊祀の奠では、爵の容量は一合に過ぎず、容量が小さいのは粗末である。これを増大すべきである」。

兵部侍郎の張均・職方郎中の韋述が議して言う、「『礼』に、『天の生ずる所、地の長ずる所、もし薦めるべきものあれば、ことごとく在らざるはない』とある。聖人は孝子の情深く、物類の限りないことを知り、故にこれを節し、物に品を有らしめ、器に数を与え、貴賤に差降をつけ、互いに越えることを得ざらしめた。周の制では、王は食用に六穀を用い、膳に六牲を用い、飲に六清を用い、羞に百二十品を用い、珍に八物を用い、醤に百二十甕を用いるが、祭祀に供えるのは四籩・四豆である。これは祭祀と賓客の豊かさ・倹約を同じくしてはならないことで、古くからのことである。また、嗜好や私的な饌は、時代とともに移り変わるので、聖人は一たび礼によってこれを制約した。平生の嗜みであっても、礼に合わなければ薦めず、嫌いなものであっても、礼に適えば除かない。屈建が祥祭の芰を除くよう命じて言う、『祭典にこれがある。珍異を羞とせず、庶侈を陳べず』と。これは礼外の食物であり、前古より薦められなかった。今、甘美で肥濃なものをすべて祭祀に充てようとすれば、もし旧制を超えれば、どこに極まりがあろうか。籩豆を加えても、備えることはできない。もし、今の珍味が生前の嗜みであるから、神を求めるに方なしと言うならば、簠・簋は除くことができ、盤・盂・杯・案を用いるべきであり、韶・瑀は廃し、箜篌・笙・笛を奏すべきであろう。また、漢以来、陵には寢宮があり、歳時や朔望に常饌を薦めて、固より孝子の心を尽くすことができる。宗廟の法享に至っては、古を変えて俗に従うことはできない。有司の承る所によれば、一升の爵、五升の散である。『礼』に、凡そ宗廟では、貴い者は爵を用い、賤しい者は散を用いる。これは小を貴び大を賤しむことで、倹約を示すのである。従前の通りとすべきである」。

太子賓客崔沔が言うには、「古えには、飲食するに当たり、必ず先ず厳かに献ずることを重んじ、火を用いずに化せざる時は、毛血の薦あり、麹糵を用いずに醸さざる時は、玄酒の奠あり。後王に至り、酒醴を作り、犠牲を用うるに及びて、故に三牲・八簋・五斉・九献あり。然れども神は玄を尚び、存すべくして測るべからず。祭は敬を主とし、備うべくして廃すべからず。蓋し薦は新を貴び、味は褻を尚ばず。備物と曰うと雖も、猶お節制存す。鉶・俎・籩・豆・簠・簋・尊・罍は、周人の時饌なり。その用は燕享賓客に通ず。周公乃ち毛血玄酒と共に薦ぐ。晋の中郎盧諶の家祭は、皆な晋の日食なり。則ち当時の食は、祀に闕くべからざる已。唐家の清廟時享は、礼饌備進、周の法なり。園寢上食は、時膳具陳、漢の法なり。職貢助祭は、遠物を致すなり。新有れば必ず薦ぐるは、時令に順うなり。苑囿躬稼の入る所、搜田親発の中る所は、皆な宜に因りて薦げ、薦げて後に食す。則ち濃腴鮮美尽く在り。又勅して有司に令に著けしめ、必ずしも籩豆の数を加うるに及ばず。大凡そ祭器は、物の宜しきに視る。故に大羹は古饌なり、〓に盛る。〓は古器なり。和羹は時饌なり、鉶に盛る。鉶は時器なり。古饌ありて時器を用うる者は、則ち毛血は盤に、玄酒は尊にす。未だ時饌を進めて古器を用うる者あらず。古は質にして今は文なり、称わざる所有るなり。籩豆十二を加うると雖も、未だ天下の美を尽くすに足らず、而して諸廟に措くは、徒らに近き侈りを以てして訾柢せらるるを見ん。臣聞く、墨家の流は清廟より出ず、是れ廟は儉を貴び奢を尚ばざるなり」と。礼部員外郎楊仲昌・戸部郎中陽伯成・左衛兵曹参そうしん軍劉秩等、旧礼の如くにすべしと請う。宰相奏白す。玄宗曰く、「朕祖宗の休徳を承け、粢盛を享祀す。実に豊潔を貴ぶ。法に応ぜざる有るが如くんば、亦敢て用いず」と。乃ち太常に詔し、品味増す可きを択びて稍々加えしむ。縚又請う、室ごとに籩・豆各六を加え、毎四時に新果珍饔を以て之を実すべしと。制して「可」とす。又詔す、「献爵は薬升の容るる所を視て、以て古に合わしむ」と。

二十三年、詔書して服紀未だ通ぜざる所あるを、礼官学士に詳議せしむ。縚上言す、「『礼』『喪服』に、舅は緦麻三月。従母は小功五月。『伝』に曰く、『何を以て小功とする、名を以て加うるなり』と。而して堂姨・舅母は、恩の及ばざる所なり。外祖父母は小功五月。『伝』に曰く、『何を以て小功とする、尊を以て加うるなり』と。舅は緦麻三月、皆な情親にして属疏なり。外祖は正尊、服従母に同じ。姨・舅一等にして、而して軽重有り。堂姨・舅は親未だ疏ならずして、相為に服せず。親舅母は同爨に如かず。其れ亦古意未だ暢ならざる所有り。且つ外祖小功、此れ正尊たり、請う大功に進めん。姨・舅は儕親、服宜しく等しきべし、請う舅を小功に進めん。堂姨舅は疏を以て親舅従母より一等降す。親舅母は古え未だ服有らず、請う袒免に従わん」と。

ここに於いて韋述議して曰く、「高祖より玄孫に至るまで並びに身を之れ九族と謂う。近きより及び遠き、其の軽重を差し、遂に五服と為す。『伝』に曰く、『外親の服皆な緦』と。鄭玄曰く、『外親の服は異姓、正服緦を過ぎず』と。外祖父母小功は、尊を以て加う。従母小功は、名を以て加う。舅・甥・外孫・中外昆弟は、皆な緦。匹を以てこれを言えば、外祖は則ち祖なり、舅は則ち伯叔なり。父母の恩殊ならずして、而して独り外に殺する者は以て有るなり。禽獣は母を知りて父を知らず。野人は則ち父母等し。都邑の士は則ち禰を尊ぶことを知り、大夫は則ち祖を尊ぶことを知り、諸侯は太祖に及び、天子は始祖に及ぶ。聖人は天道を究め、祖禰を厚くし、姓族を系ぎ、子孫を親しむ。則ち母党の本族に対するは、同じからざること甚だ明らかなり。家に二尊無く、喪に二斬無し。人の奉ずる所、貳すべからざるなり。人の後と為りては、其の父母の喪を降す。女子嫁しては、其の家の喪を殺す。存する所は遠く、抑うる所は私なり。若し外祖及び舅を一等加え、而して堂舅及び姨に服を著せば、則ち中外其の別幾何ぞ。且つ五服には上殺の義有り。伯叔父母は服大功、従父昆弟も亦大功、其の祖より出ずるを以て、服祖を過ぐるを得ざるなり。従祖祖父母・従祖父母・従祖昆弟は皆な小功、其の曾祖より出ずるを以て、服曾祖を過ぐるを得ざるなり。族祖祖父母・族祖父母・族昆弟は皆な緦、其の高祖より出ずるを以て、服高祖を過ぐるを得ざるなり。堂姨・舅は外曾祖より出ず。若し之が為に服せば、則ち外曾祖父母・外伯叔祖父母も亦制服す可きなり。外祖大功に至らば、則ち外曾祖は小功、外高祖は緦。推し広むれば、本族と異ならず。親を棄て疏を録す、順と謂うべからず。且つ服には皆な報有り。則ち堂甥・外曾孫・姪女の子は皆な当に服すべし。聖人豈に其の骨肉恩愛を薄くせんや。本を公に尽くす者は末を私にす。義断る所有り、已むを得ざるなり。苟くも加う可くんば、則ち減ず可し。是の如くんば、礼隳つ可し。請う古の如くにすべし」と。楊仲昌又言す、「舅服小功は、魏徴嘗て之を進めたり。今の請う所、正に徴の論に同じ。堂舅・堂姨・舅母は、皆な袒免に升らば、則ち外祖父母は大功に進む。外孫に報するを加えざる乎。外孫にして大功を以て報せば、則ち本宗の庶孫は何等を用うるや」と。

帝手勅して曰く、「朕謂う、親姨・舅は服小功とす。則ち舅母は舅に於いて三年の喪有り、舅に全く降するを得ず。宜しく緦を服すべし。堂姨・舅は古え未だ服有らず。朕九族を睦厚にせんと思う。宜しく袒免とすべし。古えに同爨緦有り。若し堂姨・舅を同爨に比せば、已に厚からずや。『伝』に曰く、『外親の服皆な緦』と。是れ亦堂姨・舅を隔てず。若し服する所本を過ぐるを得ずと謂い、而して復た外曾祖父母・外伯叔父母に制服せば、亦何の傷か有らん。皆な親親敦本の意なり」と。

侍中裴耀卿・中書令張九齢・礼部尚書李林甫奏言す、「外服に降無し。甥は舅母の為に服し、舅母も亦之に報ず。夫の甥既に報ずれば、則ち夫の姨・舅又当に服すべし。恐らくは引く所益々疏ならん。臣等愚、皆な及ばざる所なり」と。詔して曰く、「従服六、此れ其の一なり。降殺礼に文無し。皆な身より親を率いて之が数を為す。姨・舅は属近く、親を以てこれを言えば、亦姑伯の匹たり。引く所疏なりと曰う可けんや。婦人は夫に従う者なり。夫は姨舅に既に服す。夫に従いて服するは、是れ睦親と謂う。卿等宜しく熟計すべし」と。耀卿等奏言す、「舅母は緦、堂姨舅は袒免。請う制旨に準じ、我より古を為し、諸儒の議を罷めん」と。制して曰く、「可」と。

初め、帝詔して歳ごとに公卿を率い東郊に気を迎え、三時に至り、常に孟月を以て正寝に於いて『時令』を読む。二十六年、縚に詔して月ごとに『令』一篇を奏せしめ、朔日に宣政側に榻を設け、東向に案を置き、縚坐して之を読み、諸司官長悉く殿に升り坐して聴かしむ。歳余りして罷む。

高宗上元三年、将に袷享を行わんとす。議する者、『礼緯』に三年に袷し、五年に禘すとあり、『公羊』家は五年に再び殷祭すとす。二家舛互し、諸儒決すること能わず。太学博士史玄璨曰く、「『春秋』に、僖公三十三年十二月に薨ず。文公の二年八月丁卯、大享す。『公羊』曰く、『袷なり』と。則ち三年の喪畢りて、新君の二年に当に袷すべく、明年に当に群廟を禘すべし。又、宣公八年、僖公を禘す。宣公八年皆禘有り、則ち後禘前禘より距ること五年。此れ則ち新君の二年に袷し、三年に禘するのみ。後五年に再び殷祭すれば、則ち六年に当に袷し、八年に禘す。昭公十年、斉帰薨ず。十三年、喪畢りて当に袷すべし、平丘の会の為にす。冬、公晋に如く、十四年に至りて袷し、十五年禘す。『伝』に曰く『武宮に事有り』とは是れなり。十八年に至りて袷し、二十年禘す。二十三年袷し、二十五年禘す。昭公二十五年『襄宮に事有り』とは是れなり。則ち禘後三年にして袷し、又二年にして禘す、礼に合う」と。議遂に定まる。後、睿宗の喪畢りて、廟に袷す。開元二十七年に至り、禘祭五、袷祭七。是の歳、縚奏す、「四月嘗て已に禘し、孟冬又袷す、祀礼叢数なり、請うらくは夏禘を以て大祭の源と為さん」と。是より相循い、五年に再祭す。

縚、終に太子少師に至る。

従父兄の子 抗

抗は、安石の従父兄の子なり。弱冠にして明経に挙げられ、累ねて吏部郎中に至る。景雲初め、永昌令と為り、輦轂繁要なるも、抗は威刑を事とせずして治め、前令及びぶ者無し。右御史臺中丞に遷り、邑民闕に詣でて留めんと請うも、聴かず、乃ち碑を立てて其の恵を著わす。開元三年、太子左庶子より益州大都督府長史と為り、黄門侍郎を授かる。河曲の胡康待賓叛す、詔して節を持ちて慰撫せしむ。抗は武略を以て長とする所に非ず、疾を称して逗留し、賊に及ばずして返る。俄にして王晙に代わりて御史大夫と為り、京畿按察を兼ぬ。弟の拯方に万年令と為り、兄弟本部を領す、時に以て栄と為す。御史を薦むるに其人に非ざるに坐し、安州都督を授かり、蒲州刺史に改む。入りて大理卿と為り、進みて刑部尚書、吏部選を分掌し、卒す。抗は歴職清儉を以てし、産を治めず、及び終るに葬るに以てする無く、玄宗之を聞き、特ちに槥車を給す。太子少傅を贈られ、謚して貞と曰う。

表したる所の奉天尉梁升卿・新豊尉王倕・華原尉王燾は、皆僚属と為り、後皆顕人と為る。升卿は学に渉り書に工なり、八分に於いて尤も工なり、広州都督を歴任し、『東封朝覲碑』を書き、時に絶筆と為る。倕は累ねて河西節度使に遷り、天宝中、功辺に聞こゆ。其の他の辟挙する所、王維・王縉・崔殷等の如きは、皆一時の選なりという。

郭震

郭震、字は元振、魏州貴郷の人、字を以て顕る。長さ七尺、美須髯、少にして大志有り。十六、薛稷・趙彦昭と同く太学生と為り、家嘗て資銭四十万を送る、会に缞服する者門を叩き、自ら「五世未だ葬らず、願わくは仮りて以て喪を治めん」と曰う。元振挙げて之に与え、少も吝む所無く、一たび名氏を質さず。稷等嘆駭す。十八進士に挙げられ、通泉尉と為る。任侠して気を使い、小節を撥ち去り、嘗て盗鋳及び部中の口千余を掠売し、以て賓客に餉遺し、百姓苦しみを厭う。武后其の為す所を知り、召して詰めんと欲す、既に語りて、之を奇とし、為す所の文章を索め、『宝剣篇』を上る、后覧みて嘉嘆し、詔して学士李嶠等に示す、即ち右武衛鎧曹参軍を授け、奉宸監丞に進む。

会に吐蕃和を乞う、其の大将論欽陵四鎮の兵を罷め、十姓の地を披かんことを請う、乃ち元振を以て使を充て、因りて虜情を覘わしむ。還りて、疏を上りて曰く、

利は或いは害を生じ、害も亦た利を生ず。国家の患うる所は、唯だ吐蕃と默啜のみ、今皆和附す、是れ将に中国に大利せんとす。若し之を図るに審らかならざれば、害且つ之に随う。欽陵十姓の地を裂き、四鎮の兵を解かんと欲す、此れ動静の機、軽んずべからず。若し直ちに其の意を遏ば、恐らくは辺患必ず前に甚だしからん、宜しく策を以て之を緩くし、其の和望を絶えざらしめ、而して悪の萌すを得ざらしむべし、固より当に取舍を審らかにすべし。夫れ外に患うる者は、十姓・四鎮是れなり。内に患うる者は、甘・涼・瓜・肅是れなり。関隴の屯戍、向う三十年、力用困竭す、脱や甘・涼に一日の警有らば、豈に広く調発に堪えんや。国を善く為す者は、先ず内を料りて以て外に敵し、外に貪りて以て内を害せず、然る後に安平を保つ可し。欽陵は四鎮己に近きを以て、我が侵掠を畏る、此れ吐蕃の要なり。然れども青海・吐渾蘭・鄯に密邇し、易く我が患と為り、亦た国家の要なり。今宜しく欽陵に報じて曰く、「四鎮は本より諸蕃の走集を扼し、以て其の力を分かち、併兵して東侵するを得ざらしむ。今之を委ねば、則ち番力益々強く、易く以て擾動す、後東意無きを保たば、当に吐渾諸部・青海の故地を我に帰せしめ、則ち俟斤部落は吐蕃に還さん」と。此れ以て欽陵の口を杜ぐに足り、而して和議未だ絶えず。且つ四鎮久しく附き、其の国に倚るの心、豈に吐蕃と等しからんや。今未だ利害情実を知らずして之を分裂せば、恐らくは諸国の意を傷つけん、制禦の算に非ず。

后之に従う。

又言う、「吐蕃徭戍に倦むこと久しく、皆和を解かんことを願う。欽陵の四鎮を裂き、専ら其の国を制せんと欲するを以て、故に未だ款を帰さず。陛下誠に能く歳々和親使を発し、而して欽陵常に従わざれば、則ち其の下必ず怨み、設い大挙せんと欲すとも、固より能わず、斯れ離間の漸なり」と。后其の計を然りとす。後数年、吐蕃君臣相猜携し、卒に欽陵を誅し、而して其の弟の贊婆等来降す、因りて詔して元振に河源軍大使夫蒙令卿と騎を率いて往き迎えしむ。主客郎中を授く。

久しくして、突厥・吐蕃兵を聯ねて涼州を寇す。后方に洛城門に宴を禦う、辺遽至る、因りて楽を輟め、元振を涼州都督と為し、即ち之を遣わす。初め、州境輪広才か四百里、虜来れば必ず城下に傅る。元振始めて南硤口に和戎城を置き、北磧に白亭軍を置き、要路を制束し、遂に境を千五百里に拓く、是より州に虜憂無し。又、甘州刺史李漢通を遣わして屯田を辟き、水陸の利を尽くし、稻収豊衍す。旧く涼州の粟斛数千に售る、是に至りて歳数登り、匹縑数十斛に易るに至り、支廥十年、牛羊野に被る。涼を治むること五歳、善く撫禦し、夷夏畏慕し、令行き禁止され、道に遺を挙げず。河西諸郡生祠を置き、碑を掲げて徳を頌す。

神龍年間、左ぎょう衛將軍・安西大都護に遷る。西突厥の酋長烏質勒の部落は盛んにして強く、塞に款き和を願う。元振は即ち牙帳に至り事を計る。会うに大雨雪、元振は立ちて動かず、夕に至りて凍冽す。烏質勒は既に老い、数えしばしば拝伏し、寒さに勝えず、会罷して即ち死す。その子娑葛、元振がその父を計殺せしと以て、兵を勒して襲撃を謀る。副使解琬これを知り、元振に夜遁を勧む。元振は聴かず、堅く臥して営を為し、疑わざる者の如し。明日、素服を以て往きて弔い、道にて娑葛の兵に逢う。虜は元振の来るを意にせず、遂に敢えて逼らず、揚言して迎衛す。進みてその帳に至り、弔贈の礼を修め、哭すること甚だ哀し。数十日を留まりて喪事を助く。娑葛は義に感じ、更に使いを遣わし、馬五千・駱駝二百・牛羊十余万を献ず。制詔して元振を金山道行軍大総管と為す。

烏質勒の将闕啜忠節は娑葛と怨みを交え、屡々相侵し、而して闕啜は兵弱くして支えず。元振は奏請して闕啜を追い入れて宿衛せしめ、部落を徙して瓜・沙の間に置かんとす。詔してこれを許す。闕啜遂に行く。播仙城に至り、経略使周以悌に遇う。以悌これを説きて曰く、「国家は厚き秩を以て君を待つは、部落に兵有る故なり。今独り行きて朝に入らば、一矰旅の胡人に過ぎず、何を以てか自ら全からん」と。乃ち重宝を以て宰相に賂り、朝に入ること無く、安西の兵を発して吐蕃を導き娑葛を撃たしめ、阿史那献を請いて可汗と為し以て十姓を招き、郭虔瓘を請いて抜汗那に使せしめその鎧馬を搜し以て軍を助けしめんことを求む。既に復讐を得て、部落更に存せんと。闕啜これを然りとし、即ち兵を勒して于闐の坎城を撃ち、これを下す。因りて獲たる所に依り、人を遣わし間道を以て黄金を賫し、分かち遺わして宗楚客・紀処訥にし、その謀に就かしむ。元振これを知り、上疏して曰く、

国家往時に吐蕃に十姓・四鎮を与えずして辺を擾さざりしは、蓋しその諸豪泥婆羅等の属国自ら携貳有り、故に贊普南征し、身寇庭に殞ち、国中大乱し、嫡庶競い立ち、将相権を争い、自ら相翦屠し、士畜疲癘し、財力困窮し、人事・天時を顧みて両つながら諧契せず、以て漢に志を屈せしむる所以にして、実に十姓・四鎮を忘るるに非ざるなり。もしその力有らば、後且つ必ず争わん。今忠節忽ちに国家の大計をし、吐蕃の郷導主人たらんと欲す。四鎮の危機恐らくはここより啓かん。吐蕃志を得ば、忠節も亦た賊の掌股の中に在るべく、若し復た我に事えんことを得んや。往時吐蕃は国に対し恩力有ること無く、猶お十姓・四鎮を争わんと欲せり。今若し効力を樹て恩をなせば、則ち于闐・疏勒を分かたんことを請うは、何の理を以てかこれを抑えん。且つその国の諸蛮及び婆羅門方に自ら嫌阻す。仮令我に助討を求むる者あらば、亦た何を以てかこれを拒がん。是を以て古の賢人は、夷狄の妄りに恵むを願わず。その力を欲せざるに非ざるなり、後求むること厭うこと無きを懼れ、益すに中国の事を生ずるを以てなり。臣愚かに以為うに、吐蕃の力を用うるは、その便を見ざるなり。又た阿史那献を請う者は、豈に可汗の子孫能く十姓を招綏するを以てに非ざらんや。且つ斛瑟羅及び懐道と献の父元慶・叔仆羅・兄俀子は、倶に可汗の子孫なり。往時四鎮は他匐十姓の乱を以て、元慶を請いて可汗と為すも、卒に亦た招来すること能わず、而して元慶は賊に没し、四鎮淪陷す。忠節も亦た嘗て斛瑟羅及び懐道を以て可汗と為さんことを請えり。十姓未だ附かずして碎葉幾くんば危うからんとす。又た吐蕃も亦た嘗て俀子・仆羅並びに抜布を以て可汗と為せり。亦た十姓を得ること能わずして皆自ら亡滅す。これ他に非ず、その子孫に下を恵むの才無く、恩義素より絶ゆる故なり。豈に招懐する能わざるのみならんや、且つ復た四鎮の患と為らん。則ち可汗の子孫を冊くはその効固より試みられたり。献は又たその父兄より遠く、人心何に由りて即ち附かん。若し兵力十姓を取るに足らば、必ずしも須いず可汗の子孫を。又た郭虔瓘を以て抜汗那に兵を搜し馬を税せんことを請う。往時虔瓘は既に嘗て忠節とともに擅にその国に入る。臣時に疏勒に在りしも、一甲一馬を得たりと聞かず。而して抜汗那は忿みを挟み侵擾し、南に吐蕃を導き、俀子を将いて以て四鎮を擾さしむ。且つ虔瓘往時に抜汗那国に至るや、四面に助け無く、虚邑を履むが若し。猶お俀子を引いて敝と為す。況んや今北に娑葛有り、虔瓘の西するを知らば、必ず引きて相援けしめん。抜汗那は堅城に倚りて内に抗し、突厥は外に邀い伺う。虔瓘等豈に復た往年の如く安易の幸を得んや。

疏奏すれども省みられず。

楚客等因りて建てて、摂御史中丞馮嘉賓を遣わし節を持ちて闕啜を安撫せしめ、御史呂守素を以て四鎮を処置せしめ、牛師奨を以て安西副都護と為し、元振に代わりて甘・涼の兵を領せしめ、吐蕃を召して並び力めて娑葛を撃たしめんとす。娑葛の使い娑臘、楚客の謀を知り、馳せてこれを報ず。娑葛怒り、即ち兵を発して安西・撥換・焉耆・疏勒より各五千騎を出す。ここにおいて闕啜は計舒河に在りて嘉賓と会す。娑葛の兵奄かに至り、闕啜を禽え、嘉賓を殺し、又た呂守素を僻城にて、牛師奨を火焼城にて殺す。遂に安西を陥し、四鎮の路絶つ。元振は疏勒水上に屯し、未だ敢えて動かず。楚客復た表して周以悌を以て元振に代え、且つ阿史那献を以て十姓可汗と為し、軍を焉耆に置きて以て娑葛を取らんとす。娑葛、元振に書を遺わし、且つ言う、「唐に仇無し。而るに楚客等は闕啜の金を受け、兵を加えて我を撃滅せんと欲す。故に死を懼れて闘う。且つ楚客を斬らんことを請う」と。元振その状を奏す。楚客大いに怒り、元振に異図有りと誣い、将を召してこれを罪せんとす。元振、子の鴻をして間道を以て奏し、留まりて西土を定めんことを乞い、敢えて京師に帰らざらんとす。以悌乃ち罪を得、白州に流され、而して娑葛を赦す。

睿宗立ち、召して太仆卿と為す。将に行かんとす。安西の酋長に剺面して哭送する者有り。旌節玉門関を下り、涼州を去ること猶八百里、城中争いて壺漿を具えて歓迎す。都督嗟嘆して以て聞かしむ。景雲二年、同中書門下三品に進み、吏部尚書に遷り、館陶県男に封ぜらる。先天元年、朔方軍大総管と為り、豊安・定遠城を築き、兵保頓を得しむ。明年、兵部尚書を以て復た同中書門下三品と為る。

玄宗太平公主を誅するに当たり、睿宗承天門に禦す。諸宰相は走り伏して外省に至る。独り元振兵を総べて帝を扈い、事定まり、中書に宿すること十四夕にして乃ち休む。代国公に進封せられ、実封四百戸、一子に官を賜い、物千段を賜う。俄に又た御史大夫を兼ね、復た朔方大総管と為り、以て突厥に備う。未だ行かず、会うに玄宗山に武を講ず。既に三令し、帝親く鼓を鳴らす。元振遽かに奏して礼止めんとす。帝軍容整わざるを怒り、坐を纛の下に引き、将にこれを斬らんとす。劉幽求・張説、馬に扣いて諫めて曰く、「元振は大功有り。罪有ると雖も、当に宥すべし」と。乃ち死を赦し、新州に流す。開元元年、帝旧功を思い、起して饒州司馬と為す。怏怏として志を得ず、道に病み卒す。年五十八。十年、太子少保を贈らる。

元振は少くより雄邁なりと雖も、貴に及びては、居処乃ち儉約にし、手に書を置かず、人その喜慍を見ること莫し。宣陽里に宅を建つ。未だ嘗て一たびも諸院の廄に至らず。朝より還り、親に対し欣欣たり。退きて室に就けば、儼如たり。国初より仕えて宰相に至りて親具する者は、唯元振のみと云う。

賛して曰く、魏、韋は皆感慨して奮い立ち、似たり。及んで惸上側臣の間に在り、機に臨み会うも、一たびも手を引いて奸邪の謀を揕わず、誠に鄙むべし。至りて後艷主に牴し、烝譖を以て宗社を撼かすも、亦肯て従わざりき。古の所謂具臣なる者は、諒なるかな。元振は功顕れ節完く、一跌未だ復せず、世其の蚤歿を恨むと云う。