新唐書

巻一百二十一 列傳第四十六 劉鍾崔二王

巻一百二十一 列傳第四十六 劉鍾崔二王

劉幽求

原文劉幽求

劉幽求は冀州武強の人である。聖暦年間に制科に挙げられて及第した。閬中尉に任ぜられたが、刺史が礼を尽くさなかったので官を棄てて去った。久しくして朝邑尉を授けられた。桓彦範らが張易之・昌宗を誅したが、武三思を殺さなかったとき、幽求は彦範に言った、「公らは葬る地もなくなるであろう。早く計らわねば、後で臍を噛むことになろう」と。従わなかった。その後、五王は皆三思に陥れられて死んだ。

原文劉幽求,冀州武強人。聖歷中,舉制科中第。調閬中尉,刺史不禮,棄官去。久之,授朝邑尉。桓彥範等誅張易之、昌宗,而不殺武三思,幽求謂彥範曰:「公等無葬地矣。不早計,後且噬臍。」不從。既,五王皆為三思構死。

臨淄王が入って韋庶人を誅するにあたり、大策に参画し、その夜の号令詔勅はすべて彼の手から出た。功により中書舎人を授けられ、機務に参与し、爵は中山県男、実封二百戸、二子に五品官を授け、二代ともに刺史を追贈された。睿宗が立つと、尚書右丞・徐国公に進み、封戸を五百戸に増やされ、物千段・奴婢二十人・邸第一区・良田千畝・金銀雑物を賜り、これに相当した。

原文臨淄王入誅韋庶人,預參大策,是夜號令詔敕一出其手。以功授中書舍人,參知機務,爵中山縣男,實封二百戶,授二子五品官,二代俱贈刺史。睿宗立,進尚書右丞、徐國公,增封戶至五百,賜物千段、奴婢二十人、第一區、良田千畝、金銀雜物稱是。

景雲二年、戸部尚書として政事を罷めた。一旬も経たずに吏部に遷り、侍中に拝された。璽書の詔に曰く、「頃者王室造らず、中宗世を厭い、戚孽専ら乱り、将に社稷を隕さんとす。朕と王公とは皆難に幾からんとす。幽求は危きに処りて奮起を思い、聖儲を翊賛し、義士と協和し、元悪を震殄せり。国家の復存するは、幽求に頼るなり。その功は茂りたり。朕用て之を嘉す。土宇を胙とすと雖も、賦入未だ広からず。昔、西漢封を行い、更に多戸を択び、東京賞を定め、復た大邑を増す。宜しく実封二百戸を加賜し、子子孫孫国を伝えて絶ゆること無く、特十死を免じ、諸れの鉄券に銘し、以て其の功を伝うべし」と。先天元年、尚書右僕射・同中書門下三品となり、国史を監修した。

原文景雲二年,以戶部尚書罷政事。不旬月,遷吏部,拜侍中。璽詔曰:「頃王室不造,中宗厭代,戚孽專亂,將隕社稷,朕與王公皆幾於難。幽求處危思奮,翊贊聖儲,協和義士,震殄元惡。國家之復存,繄幽求是賴,厥庸茂焉,朕用嘉之。雖胙以土宇,而賦入未廣。昔西漢行封,更擇多戶;東京定賞,復增大邑。宜加賜實封二百戶,子子孫孫傳國無絕,特免十死,銘諸鐵券,以傳其功。」先天元年,為尚書右仆射、同中書門下三品,監修國史。

幽求は自ら国に功有りと謂い、諸臣の右に在りて、意望満たされず、竇懐貞が左僕射となり、崔湜が中書令となったので、甚だ不平で、言面に現れた。やがて湜らが太平公主に附き、逆計有り。幽求は右羽林将軍張暐と計を定め、暐をして玄宗に説かしめて曰く、「湜らは皆太平の党与なり、日夜陰計す。若し早く図らざれば、将に大害を産さん。太上は高枕を得ざるべし。臣請う、羽林兵を督して之を除かん」と。帝許した。未だ発せざるに、暐が侍御史鄧光賓に漏らしたので、帝懼れ、即ち其の状を列ねた。睿宗は幽求らを吏に属し、疏を以て親を間うと劾奏し、罪は死に応ずとした。帝密かに右せんと申したので、乃ち幽求を封州に、暐を峰州に、光賓を繡州に流した。明年、太平公主誅され、即日召して旧官に復し、軍国事を知らしめ、封戸を還し、錦衣一襲を賜った。

原文幽求自謂有勞於國,在諸臣右,意望未滿,而竇懷貞為左仆射,崔湜為中書令,殊不平,見於言面。已而湜等附太平公主,有逆計。幽求與右羽林將軍張暐定計,使暐說玄宗曰:「湜等皆太平黨與,日夜陰計,若不早圖,且產大害,太上不得高枕矣。臣請督羽林兵除之。」帝許之。未發也,而暐漏言於侍御史鄧光賓,帝懼,即列其狀。睿宗以幽求等屬吏,劾奏以疏間親,罪應死。帝密申右之,乃流幽求於封州、暐於峰州、光賓於繡州。明年,太平公主誅,即日召復舊官,知軍國事,還封戶,賜錦衣一襲。

開元初め、尚書左丞相に進み、黄門監を兼ねたが、俄かに太子少保で罷めた。姚崇は元より彼を忌み、幽求が鬱怏として散職にあり、怨言有りと奏した。詔して有司に鞫治せしむ。宰相盧懐慎ら奏言して、「幽求は軽肆にして恭しからず、大臣の礼を失い、崖分の節に乖く」と。翌日、睦州刺史に貶し、実封戸六百を削った。杭・郴二州に遷され、恚憤して道中に卒した。年六十一。礼部尚書を贈られ、諡して文献といった。六年、詔して蘇瑰とともに睿宗廟廷に配享す。建中年中、司徒を追贈された。

原文開元初,進尚書左丞相,兼黃門監,俄以太子少保罷。姚崇素忌之,奏幽求郁怏散職,有怨言。詔有司鞫治,宰相盧懷慎等奏言:「幽求輕肆不恭,失大臣禮,乖崖分之節。」翌日,貶睦州刺史,削實封戶六百。遷杭、郴二州,恚憤卒於道,年六十一。贈禮部尚書,謚曰文獻。六年,詔與蘇瑰配享睿宗廟廷。建中中,追贈司徒。

鐘紹京

原文鐘紹京

鐘紹京は虔州贛の人である。初め司農録事となり、書を善くして鳳閣に直った。武后の時、諸宮殿・明堂及び九鼎の銘を署し、皆その筆跡であった。景龍中、苑総監となり、韋氏の難を討つに会い、紹京は戸奴・丁夫を率いて従った。事平らぎ、夜に中書侍郎を拝し、機務に参与した。明日、中書令・越国公に進み、実封五百戸、賞賜は劉幽求らと等しかった。路に当たるや、賞罰を以て自ら肆にし、当時これを悪んだ。因って上疏して官を譲り、睿宗は薛稷の謀を用い、戸部尚書に進め、出て彭州刺史とした。

原文鐘紹京,虔州贛人。初為司農錄事,以善書直鳳閣。武後時署諸宮殿、明堂及銘九鼎,皆其筆也。景龍中,為苑總監,會討韋氏難,紹京帥戶奴、丁夫從。事平,夜拜中書侍郎,參知機務。明日,進中書令、越國公,實封五百戶,賚賜與劉幽求等。既當路,以賞罰自肆,當時惡之。因上疏讓官,睿宗用薛稷謀,進戶部尚書,出為彭州刺史。

玄宗即位し、復た戸部尚書を拝し、実封を増やされ、太子詹事に改めた。姚崇に喜ばれず、幽求とともに怨望を以て罪を得、果州刺史に貶され、封邑百戸を賜った。後、他事に坐し、懐恩尉に貶され、階封を悉く奪われ、再び温州別駕に遷った。十五年、入朝し、帝に見えて泣いて曰く、「陛下は疇日の事を忘れたるか、忍びて臣をして草莽に棄死せしむるや。且つ同時に功を立てし者、今骨已に朽ち、独り臣のみ在り。陛下垂れ湣まざるか」と。帝惻然とし、即日太子右諭徳を授けた。久しくして少詹事に遷った。年八十を逾え、官のまま寿を終えた。紹京は書画を嗜み、王羲之・献之・褚遂良の真跡を、家に蔵するもの数十百巻に至った。建中年中、太子太傅を追贈された。

原文玄宗即位,復拜戶部尚書,增實封,改太子詹事。不為姚祟所喜,與幽求並以怨望得罪,貶果州刺史,賜封邑百戶。後坐它事,貶懷恩尉,悉奪階封,再遷溫州別駕。十五年入朝,見帝泣曰:「陛下忘疇日事邪,忍使棄死草莽!且同時立功者,今骨已朽,而獨臣在,陛下不垂湣乎?」帝惻然,即日授太子右諭德。久之,遷少詹事。年逾八十,以官壽卒。紹京嗜書畫,如王義之、獻之、褚遂良真跡,藏家者至數十百卷。建中中,追贈太子太傅。

崔日用

原文崔日用

崔日用は滑州霊昌の人である。進士第に擢でられ、芮城尉となった。大足元年、武后が長安に幸するに、陝州刺史宗楚客は頓峙を委ね、饋献豊かに甘く、賓使者を過ぐるを称した。楚客その能を嘆き、亟に之を薦め、新豊尉に擢でられ、監宗御史に遷った。陰に安楽公主に附き、稍く遷るを得た。神龍中、鄭普思が女を後宮に納れるや、日用劾奏した。中宗初め省みず、廷争切至にして、普思は是より罪を得た。時に諸武たる三思・延秀及び楚客ら権寵交わって煽り、日用多く結納し、驟ちに兵部侍郎を拝した。内殿に宴し、酒酣に、起ちて《回波舞》を為し、学士を求め、即ち詔して脩文館学士を兼ねしむ。

原文崔日用,滑州靈昌人。擢進士第,為芮城尉。大足元年,武後幸長安,陜州刺史宗楚客委以頓峙,饋獻豐甘,稱過賓使者。楚客嘆其能,亟薦之,擢為新豐尉,遷監宗御史。陰附安樂公主,得稍遷。神龍中,鄭普思納女後宮,日用劾奏,中宗初不省,廷爭切至,普思由是得罪。時諸武若三思、延秀及楚客等權寵交煽,日用多所結納,驟拜兵部侍郎。宴內殿,酒酣,起為《回波舞》,求學士,即詔兼脩文館學士。

帝崩じ、韋后専制す。禍の及ぶを畏れ、更に僧普潤・道士王曄を因りて臨淄王に私謁し、以て自ら托し、且つ密かに大計を賛した。王曰く、「謀は身を計うるに非ず、直ちに親の難を紓うるのみ」と。日用曰く、「至孝天を動かし、挙ぐるに克たざる無し。然れども利は先発にあり、然らざれば則ち後憂有り」と。韋氏平らぎ、夜に詔して権雍州長史とし、功により黄門侍郎を授け、機務に参与し、斉国公に封じ、実戸二百を賜った。薛稷と相忿競するに坐し、政事を罷め、婺州長史となった。揚・汴・兗三州刺史を歴任した。

原文帝崩,韋後專制,畏禍及,更因僧普潤、道士王曄私謁臨淄王以自托,且密贊大計。王曰:「謀非計身,直紓親難爾。」日用曰:「至孝動天,舉無不克。然利先發,不則有後憂。」及韋氏平,夜詔權雍州長史,以功授黃門侍郎,參知機務,封齊國公,賜實戶二百。坐與薛稷相忿競,罷政事,為婺州長史。歷揚、汴、允三州刺史。

荊州長史より入り計を奏し、因りて言う、「太平公主逆節萌有り。陛下往には宮府を以て罪有るを討ちたまえり。臣・子の勢須く謀と力を与うべし。今大位に据わり、一下制書定まれり」と。帝曰く、「太上皇を驚かすを畏る、奈何」と。日用曰く、「庶人の孝は、順承して顔色を承る。天子の孝は、惟国家を安んじ、社稷を定むるに在り。若し奸宄をして窃かに発せしめて、以て大業を亡ぼさしむるは、孝と為す可きか。請う、先ず北軍を安んじ、而して後逆党を捕えよ。太上皇には固より驚く所無し」と。帝之を納れた。及び逆を討つに、詔して権検校雍州長史とし、功により封二百戸を益し、吏部尚書に進んだ。

原文由荊州長史入奏計,因言:「太平公主逆節有萌,陛下往以宮府討有罪,臣、子勢須謀與力,今據大位,一下制書定矣。」帝曰:「畏驚太上皇,奈何?」日用曰:「庶人之孝,承順顏色;天子之孝,惟安國家,定社稷。若令奸宄竊發,以亡大業,可為孝乎?請先安北軍而後捕逆黨,於太上皇固無所驚。」帝納之。及討逆,詔權檢校雍州長史,以功益封二百戶,進吏部尚書。

帝の誕生日に際し、日用は『詩経』の大雅・小雅二十篇及び司馬相如の『封禅書』を採ってこれを献上し、以て諷諭を借り、且つ成事を勧告せり。詔有りて衣一副・物五十段を賜い、以て言無くば酬いざるの義を示す。

原文會帝誕日,日用采《詩》《大》、《小雅》二十篇及司馬相如《封禪書》獻之,借以諷諭,且勸告成事。有詔賜衣一副、物五十段,以示無言不酬之義。

久しくして、兄の累に坐し、出でて常州刺史と為る。後に例に以て封戸三百を減じ、汝州に徙る。開元七年、詔して曰く「唐元の際、日用は実に大謀を賛し、功多し、封を減ずるに宜しからず」と。復た二百戸を食む。并州長史に徙り、卒す年五十。并人は其の恵を懐き、吏民数百皆縞服して喪を送る。吏部尚書を贈り、謚して昭と曰う。再び荊州大都督を贈る。

原文久之,坐兄累,出為常州刺史。後以例減封戶三百,徙汝州。開元七年,詔曰:「唐元之際,日用實贊大謀,功多不宜減封,復食二百戶。」徙並州長史,卒年五十。並人懷其惠,吏民數百皆縞服送喪。贈吏部尚書,謚曰昭。再贈荊州大都督。

日用は才弁人に絶し、而して事に敏にして、機に乗じて禍を反し富貴を取る能えり。先天の後、相の復を求むるも、然れども亦獲ず。嘗て人に謂いて曰く「吾が平生の事する所は、皆時に適い制を変じ、始めの謀に専らせず。然れども毎に一たび反思すれば、芒刺の背に在るが若し」と云う。

原文日用才辯絕人,而敏於事,能乘機反禍取富貴。先天後,求復相,然亦不獲也。嘗謂人曰「吾平生所事,皆適時制變,不專始謀。然每一反思,若芒刺在背」雲。

子の宗之、封を襲ぐ。亦好学にして、寛博にして風検有り、李白・杜甫と文を以て相知る者なり。

原文子宗之,襲封。亦好學,寬博有風檢,與李白、杜甫以文相知者。

日用の従父兄の日知、字あざなは子駿、少くして孤貧、力学し、明経を以て進み兵部員外郎に至る。張説と共に魏元忠の朔方判官と為り、健吏を以て称せらる。洛州司馬に遷る。譙王重福の変に会し、官司逃ぐるも、日知独り吏卒を率いて屯営を助け賊を撃ち、功を以て銀青光禄大夫を加う。殿中少監に遷り、「厩馬多し、請う分かちて隴右に牧し、関畿の芻調を省かん」と建言す。荊州長史を授け、四遷して京兆尹と為り、安平県侯に封ぜらる。贓に坐し、御史李如璧に劾せられ、歙県丞に貶せらる。後に歴て殿中監に至り、中山郡公に進む。説の執政するや、御史大夫に薦むるも、帝許さず、遂に左羽林大将軍と為り、而して自ら崔隠甫を用う。隠甫是に由りて説を怨む。日知俄かに太常卿を授かる。自ら朝廷に処ること久しと以て、毎に入謁すれば、必ず尚書と歯し、時に「尚書裏行」と謂う。終に潞州長史に至り、謚して襄と曰う。

原文日用從父兄日知,字子駿,少孤貧,力學,以明經進至兵部員外郎。與張說同為魏元忠朔方判官,以健吏稱。遷洛州司馬,會譙王重福之變,官司逃,日知獨率吏卒助屯營擊賊,以功加銀青光祿大夫。遷殿中少監,建言「廄馬多,請分牧隴右,省關畿芻調」。授荊州長史,四遷京兆尹,封安平縣侯。坐贓,為御史李如璧所劾,貶歙縣丞。後歷殿中監,進中山郡公。說執政,薦為御史大夫,帝不許,遂為左羽林大將軍,而自用崔隱甫。隱甫繇是怨說。日知俄授太常卿。自以處朝廷久,每入謁,必與尚書齒,時謂「尚書裏行」。終潞州長史,謚曰襄。

王琚

原文王琚

王琚は、懐州河内の人。少くして孤、敏悟にして才略有り、天文象緯に明るし。従父の隠客嘗て鳳閣侍郎と為りしを以て、故に数え貴近と交わる。時に年甫に冠し、駙馬都尉王同皎を見るに、同皎之を器とす。武三思を刺さんと謀るに会し、琚其の為す所を義とし、即ち周璟・張仲之等と共に計る。事泄れて亡命し、自ら揚州の富商の家に傭う。識りて庸人に非ざるを以て、女を嫁して之に妻せ、厚く資を給す。琚亦之に頼りて済う。睿宗立ち、琚自ら本末を言う。主人厚く賫して長安に還らしむ。玄宗太子と為り、閑に韋・杜の間を遊猟し、樹下に怠り休まんとするに、琚儒服を以て見え、且つ家に過ぐるを請う。太子之を許す。廬する所に至れば、乃ち蕭然として窶陋なり。久しく坐し、牛を殺し酒を進むること殊に豊厚なり。太子駭異す。是より自ら韋・杜に到る毎に、輒ち其の廬に止まる。

原文王琚,懷州河內人。少孤,敏悟有才略,明天文象緯。以從父隱客嘗為鳳閣侍郎,故數與貴近交。時年甫冠,見駙馬都尉王同皎,同皎器之。會謀刺武三思,琚義其為,即與周璟、張仲之等共計。事泄亡命,自傭於揚州富商家,識非庸人,以女嫁之,厚給以貲,琚亦賴以濟。睿宗立,琚自言本末,主人厚賫使還長安。玄宗為太子,閑遊獵韋、杜間,怠休樹下,琚以儒服見,且請過家,太子許之。至所廬,乃蕭然窶陋。坐久,殺牛進酒殊豐厚,太子駭異。自是每到韋、杜,輒止其廬。

初め、太子潞州に在りし時、襄城の張暐銅鞮令と為り、性豪殖にして、賓客弋獵の事を喜び、厚く太子に奉じ、数え其の家に集う。山東の倡人趙元礼女有り、歌舞に善くし、太子に幸せられ、暐の第に止まる。其の後子を生む者は瑛なり。太子既に内難を平げ、暐を召し、宮門郎に拝し、姜皎・崔滌・李令問・王守一・薛伯陽等と並び左右に侍らしむ。令問累ねて殿中少監に擢げられ、守一は太僕少卿と為る。此の数人東宮に以て皆勢天下に重し。

原文初,太子在潞州,襄城張暐為銅鞮令,性豪殖,喜賓客弋獵事,厚奉太子,數集其家。山東倡人趙元禮有女,善歌舞,得幸太子,止暐第,其後生子瑛者也。太子已平內難,召暐,拜宮門郎,與姜交、崔滌、李令問、王守一、薛伯陽等並侍左右。令問累擢殿中少監,守一太仆少卿。此數人以東宮皆勢重天下。

琚是の時方に諸暨県主簿を補し、東宮に過ぎ謝せんとし、廷中に至り、徐行高視す。侍衛何ぞ止めて曰く「太子在り!」と。琚怒りて曰く「外に惟だ太平公主を聞くも、太子有るを聞かず。太子本より社稷に功有り、君親に孝なり、安ぞ此の声を得んや」と。太子遽かに召して見る。琚曰く「韋氏躬り弑逆を行い、天下動揺し、人李氏を思う。故に殿下之を取る易し。今天下已に定まり、太平専ら功を立てんと思い、左右の大臣多く其の用と為り、天子元妹を以て、能く其の過を忍ぶ。臣窃かに殿下の為に寒心す」と。太子座を命じ、且つ泣いて曰く「計将に安くか便ならん」と。琚曰く「昔、漢の蓋主昭帝を供養し、其の後上官桀と謀りて霍光を殺さんとし、天子に及ばざるも、而して帝猶大義を以て之を去る。今太子功天下を定め、公主乃ち敢えて妄りに図り、大臣党を樹て、廃立の意有り。太子誠に張説・劉幽求・郭元振等を召して之に計らば、憂い紓ぐ可し」と。太子曰く「先生何を以て自ら隠れ而して日寡人と遊ぶや」と。琚曰く「臣丹沙に善くし、且つ諧隠に工なり、願わくは優人に比せん」と。太子喜び、相知るの晚きを恨む。翌日、詹事府司直・内供奉を授け、兼ねて崇文学士とす。日に諸王及び姜皎等を以て入侍するも、独り琚常に秘謀に預かる。一月を踰えず、太子舎人に遷り、兼ねて諫議大夫とす。太子内禅を受け、中書侍郎に擢ぐ。

原文琚是時方補諸暨縣主簿,過謝東宮,至廷中,徐行高視,侍衛何止曰:「太子在!」琚怒曰:「在外惟聞太平公主,不聞有太子。太子本有功於社稷,孝於君親,安得此聲?」太子遽召見,琚曰:「韋氏躬行弒逆,天下動搖,人思李氏,故殿下取之易也。今天下已定,太平專思立功,左右大臣多為其用,天子以元妹,能忍其過,臣竊為殿下寒心。」太子命坐,且泣曰:「計將安便?」琚曰:「昔漢蓋主供養昭帝,其後與上官桀謀殺霍光,不及天子,而帝猶以大義去之。今太子功定天下,公主乃敢妄圖,大臣樹黨,有廢立意。太子誠召張說、劉幽求、郭元振等計之,憂可紓也。」太子曰:「先生何以自隱而日與寡人遊?」琚曰:「臣善丹沙,且工諧隱,願比優人。」太子喜,恨相知晚。翌日授詹事府司直、內供奉,兼崇文學士。日以諸王及姜皎等入侍,獨琚常豫秘謀。不逾月,遷太子舍人,兼諫議大夫。太子受內禪,擢中書侍郎。

公主の謀益々甚だしく、幽求・暐先んずる事を謀りて之を誅せんとす。侍御史鄧光賓謀を漏らし、克たず、皆罪を得る。久しくして、琚事の迫るを見て、帝に決策を請う。先天二年七月、乃ち岐王・薛王・姜皎・李令問・王毛仲・王守一と鉄騎を以て承天門に至る。太上皇外嘩噪するを聞き、郭元振を召して承天楼に升らしめ、関を閉じて以て拒がしむ。俄にして侍御史任知古朝堂に数百人を召募するも、入るを得ず。少選して、琚帝に従い楼下に至り、蕭至忠・岑羲・竇懐貞を誅し、常元楷・李慈を北闕下に斬り、賈膺福・李猷を内客省に斬る。事平ぎ、琚戸部尚書に進み趙国公に封ぜられ、皎は工部尚書楚国公、毛仲は輔国大将軍霍国公、守一は太常卿晋国公に封ぜられ、各実戸五百を食む。令問は殿中監宋国公に封ぜられ、実戸三百を食む。琚・皎・令問辞して就かず、旧官を以て戸二百を増す。是に於て帝内殿に燕を召し、金銀雑皿皆一牀・帛二千・第一区を賜う。

原文公主謀益甚,幽求、暐謀先事誅之,侍御史鄧光賓漏謀,不克,皆得罪。久之,琚見事迫,請帝決策。先天二年七月,乃與岐王、薛王、姜皎、李令問、王毛仲、王守一以鐵騎至承天門。太上皇聞外嘩噪,召郭元振升承天樓,閉關以拒,俄而侍御史任知古召募數百人於朝堂,不得入。少選,琚從帝至樓下,誅蕭至忠、岑義、竇懷貞,斬常元楷李慈北闕下、賈膺福李猷於內客省。事平,琚進戶部尚書、封趙國公,皎工部尚書、楚國公,毛仲輔國大將軍、霍國公,守一太常卿、晉國公,各食實戶五百;令問殿中監、宋國公,實戶三百。琚、皎、令問辭不就,以舊官增戶二百。於是帝召燕內殿,賜金銀雜皿皆一床、帛二千、第一區。

帝の琚に眷委すること特異にして、大政事に預かり、時に「内宰相」と号す。毎に閤中に見え、日薄きを視て乃ち出づるを得。休日に遇えば、使者第に至りて之を召し、而して皇后亦尚宮をして琚の母を労わしめ、賜賚接足す。群臣望み無き能わず。或る者帝に説いて曰く「王琚・麻嗣宗皆譎詭縦横にして、之と危きを履むべくも、之と安きを共にすべからず。方に天下已に定まるを以て、宜しく益々純朴経術の士を求めて以て自ら輔けん」と。帝悟り、稍々之を疎んず。俄かに御史大夫を拝し、節を持ちて天兵以北諸軍を巡る。紫微侍郎に改む。道未だ至らざるに、沢州刺史を拝し、封戸百を削る。九刺史を歴て、復た封戸す。又六州・二郡を改む。

原文帝於琚眷委特異,豫大政事,時號「內宰相」。每見閤中,視日薄乃得出。遇休日,使者至第召之,而皇后亦使尚宮勞琚母,賜賚接足,群臣不能無望。或說帝曰:「王琚、麻嗣宗皆譎詭縱橫,可與履危,不可與共安。方天下已定,宜益求純樸經術士以自輔。」帝悟,稍疏之。俄拜御史大夫,持節巡天兵以北諸軍。改紫微侍郎,道未至,拜澤州刺史,削封戶百。歷九刺史,復封戶。又改六州、二郡。

王琚は自ら勲功を立てた者と自負し、天宝の時には旧臣となり、性質は豪奢を好み、その方面の任にあっては、古きを去り新しきに就き、饋遺を受けること数百万に至り、侍児数十人、宝帳を備え、家門三百口を養う。志を失うや、次第に自ら放恣となり、法度を遵守することができず。州にあっては官属・小史・酋豪と飲み戯れ、摴博・蔵鉤を以て楽しみとす。官を移るごとに、車馬数里に絶えず。賓客・女伎を従えて馳射し、凡そ四十年。李邕はもとより琚と善くし、皆華首にして外遷し、書疏を往復し、譴謫留落を以て慊とす。右相李林甫は琚が功を恃み気ままに振る舞うことを恨み、これを除かんと欲し、人をして琚の宿贓を劾発せしめ、封階を削り、江華員外司馬に貶す。また羅希奭をして深くその罪を按じさせしめ、琚懼れて仰薬すれども、未だ死に至らず、希奭これを縊る。時に人はその無罪を哀れむ。初め、琚が中書侍郎たりし時、母は洛陽に居り、京師に来りて琚を譲りて曰く、「汝が家の上世は皆州県の職にあり、今汝は攻城野戦の労なく、諂佞を以て容れられ、海内切歯す。吾は汝が家の墳墓、人復た掃除する者なからんことを恐る」と。琚ついに免れず。宝応元年、太子少保を贈る。

原文琚自以立勛,至天寶時為舊臣,性豪侈,其處方面,去故就新,受饋遺至數百萬,侍兒數十,寶帳備具,闔門三百口。既失誌,稍自放,不能遵法度。在州與官屬小史酋豪飲謔、摴博、藏鉤為樂。每徙官,車馬數里不絕。從賓客女伎馳弋,凡四十年。李邕故與琚善,皆華首外遷,書疏往復,以譴謫留落為慊。右相李林甫恨琚恃功使氣,欲除之,使人劾發琚宿贓,削封階,貶江華員外司馬。又使羅希奭深按其罪,琚懼,仰藥,未及死,希奭縊之。時人哀其無罪。始,琚為中書侍郎,母居洛陽,來京師,讓琚曰:「爾家上世皆州縣職,今汝無攻城野戰勞,以謅佞取容,海內切齒,吾恐汝家墳墓無人復掃除也。」琚卒不免。寶應元年,贈太子少保。

太平公主誅滅の後、張暐は召し還されて大理卿と為り、鄧国公に封ぜられ、実封三百戸、京兆尹に進み、入りては宴楽に侍し、出でては京邑を主り、時に人はこれを寵と為すも、然れども自らは幹治を以て称せらる。累遷して太子詹事、尚書左右丞を判じ、再び羽林大将軍と為り、三たび左金吾大将軍に至り、年高を以て特進を加う。子の履冰・季良、弟の晤、仕えて皆清近なり。暐嘗て郷里に還りて墳墓に詣でし時、帝詩及び錦袍繒彩を賜う。駅馬に乗りて道に就き、子弟の車馬連咽す。使者賜賚し、州県に勅して供擬せしめ、居処尊顯なり。天宝五載卒す、年九十、開府儀同三司を贈る。履冰は金吾将軍を歴任し、季良は殿中監、俱に棨戟を列ねる。

原文太平之誅,張暐召還為大理卿,封鄧國公,實封戶三百,進京兆尹,入侍宴樂,出主京邑,時人以為寵,然自以幹治稱。累遷太子詹事,判尚書左右丞,再為羽林大將軍,三至左金吾大將軍,以年高加特進。子履冰、季良,弟晤,仕皆清近。暐嘗還鄉上冢,帝賜詩及錦袍繒彩。乘驲就道,子弟車馬聯咽。使者賜賚,敕州縣供擬,居處尊顯。天寶五載卒,年九十,贈開府儀同三司。履冰,歷金吾將軍,季良,殿中監,俱列棨戟。

王毛仲

原文王毛仲

王毛仲は高麗の人なり。父は事に坐し、官奴に没せられ、毛仲を生む、故に長じて臨淄王に事う。王潞州に出でし時、李守徳という者あり、人の奴と為り、騎射に善くし、王これを買い得て、並びに左右に侍らしむ。而して毛仲は明悟なり。景龍中、王長安に還る、二人常に房箙を負いて従う。王数たび万騎の帥長及び豪俊を引き、飲食金帛を賜い、その歓心を得る。毛仲は旨を暁り、亦誠を布きて結納し、王これを嘉す。

原文王毛仲,高麗人。父坐事,沒為官奴,生毛仲,故長事臨淄王。王出潞州,有李守德者,為人奴,善騎射,王市得之,並侍左右,而毛仲為明悟。景龍中,王還長安,二人常負房箙以從。王數引萬騎帥長及豪俊,賜飲食金帛,得其歡心。毛仲曉旨,亦布誠結納,王嘉之。

韋后が称制し、韋播・高嵩を羽林将軍と為し、万騎を押さえ、苛峭を以て威を樹つ。果毅葛福順・陳玄禮、王に訴う。王方に劉幽求・薛宗簡及び利仁府折衝麻嗣宗と謀りて大計を挙げんとし、幽求これを諷す、皆死を効さんことを願い、遂に韋氏を討ち入る。守徳は帝に従い苑中に止まるも、毛仲は匿れて出でず、事定まって数日、乃ち還る、これを責めず、例に擢げて将軍と為す。

原文韋後稱制,令韋播、高嵩為羽林將軍,押萬騎,以苛峭樹威。果毅葛福順、陳玄禮訴於王,王方與劉幽求、薛宗簡及利仁府折沖麻嗣宗謀舉大計,幽求諷之,皆願效死,遂入討韋氏。守德從帝止苑中,而毛仲匿不出,事定數日,乃還,不之責,例擢將軍。

王皇太子と為り、毛仲をして東宮馬駝鷹狗等坊を知らしむ。旬歳に至らず、大将軍に至り、階三品。蕭至忠等を誅するに与り、功を以て輔国大将軍に進み、検校内外閑廄、監牧使を知り、霍国公に進封せられ、実封五百戸。諸王及び姜皎等と禁中に侍し、連榻に坐するに至る。帝暫く見ざれば、惘惘として失うこと有るが若く、見れば則ち釋然たり。開元九年、詔して持節朔方道防御討撃大使と為り、左領軍大総管王晙・天兵軍節度使せつどし張説・幽州節度使裴伷先等と数たび事を計る。

原文王為皇太子,以毛仲知東宮馬駝鷹狗等坊。不旬歲,至大將軍,階三品。與誅蕭至忠等,以功進輔國大將軍,檢校內外閑廄,知監牧使,進封霍國公,實封戶五百。與諸王及姜皎等侍禁中,至連榻而坐。帝暫不見,惘惘若有失,見則釋然。開元九年,詔持節為朔方道防禦討擊大使,與左領軍大總管王晙、天兵軍節度使張說、幽州節度使裴伷先等數計事。

毛仲は初め飾擢を見られ、頗る法を堅持し、権貴を避けざるを以て喜ぶべき事と為す。両営の万騎及び閑廄の官吏これを憚りて敢えて犯す者なく、官田の草萊と雖も、樵斂欺くことを敢えず。牧事に於いては特に力を尽くし、娩息計うべからず。初め馬二十四万を監む、後乃ち四十三万に至り、牛羊皆数倍す。茼麦・苜蓿千九百頃を蒔きて冬に備う。死畜を市い、絹八万を售る。厳道の僰僮千口を募りて牧圉と為す。芻菽を検勒して漏隠無く、歳に数万石を贏す。帝に従い東封し、牧馬数万匹を取り、毎色一隊、相間うること錦繡の如く、天子これを才とす。還りて開府儀同三司を加えらる。開元以後、唯だ王仁皎・姚崇・宋璟及び毛仲これを得たり。

原文毛仲始見飾擢,頗持法,不避權貴為可喜事。兩營萬騎及閑廄官吏憚之無敢犯,雖官田草萊,樵斂不敢欺。於牧事尤力,娩息不訾。初監馬二十四萬,後乃至四十三萬,牛羊皆數倍。蒔茼麥、苜蓿千九百頃以禦冬。市死畜,售絹八萬。募嚴道僰僮千口為牧圉。檢勒芻菽無漏隱,歲贏數萬石。從帝東封,取牧馬數萬匹,每色一隊,相間如錦繡,天子才之。還,加開府儀同三司,自開元後,唯王仁皎、姚崇、宋璟及毛仲得之。

然れども資性小人、志既に満ち、驕り無からざるを得ず、遂に兵部尚書を求めんとす。帝悦ばず、毛仲鞅鞅たり。葛福順と姻家を為すに及び、而して守徳及び左監門将軍盧龍子唐地文・左右威衛将軍王景耀高広済数十人、毛仲と相倚杖して奸を為す。毛仲は旧恩を恃み、最も不法なり。中使その家に至りて詔を称するも、毛仲甚だ恭しからず、位卑き者は、或いは踞って見、意に迕えば即ち侮誶し、気を以てこれを淩ぎ、直ちにその上に出づ。高力士・楊思勗等これを銜む。毛仲に両妻あり、その一は上の賜う所、皆国色あり。嘗て子を生む、帝命じて力士をして就きて賜わしめ、仍て子に五品官を授く。還りて問うて曰く、「毛仲喜べるか」と。力士奏す、「毛仲臣を熟視して曰く、『是の子亦た何ぞ三品官を辱しむる』と」と。帝怒りて曰く、「前に毛仲我に負うも、未だ意と為さず、今嬰児を以て顧みて云々す」と。力士等帝の怒るを知り、他日、従容として曰く、「北門の奴官は皆毛仲の与うる所、これを除かざれば、必ず大患を起こさん」と。後、毛仲太原に移書して甲仗を索む、少尹厳挺之これを聞くに以てす。帝毛仲の遂に乱らんことを恐れ、その状を匿す。十九年、詔有りて州に貶し、福順は壁州、守徳は厳州、盧龍子唐地文は振州、王景耀は党州、高広済は道州に、並びに別駕員外置と為す。毛仲の四子悉く官を奪われ、悪地に貶せられ、縁坐する者数十人。詔有りて毛仲を零陵に於いて縊る。

原文然資小人,誌既滿,不能無驕,遂求為兵部尚書,帝不悅,毛仲鞅鞅。及與葛福順為姻家,而守德及左監門將軍盧龍子唐地文、左右威衛將軍王景耀高廣濟數十人與毛仲相倚杖為奸。毛仲恃舊,最不法。中使至其家稱詔,毛仲不甚恭,位卑者,或踞見,迕意即侮誶,以氣淩之,直出其上。高力士、楊思勖等銜之。毛仲有兩妻,其一上所賜,皆有國色。嘗生子,帝命力士就賜,仍授子五品官,還,問曰:「毛仲喜乎?」力士奏:「毛仲熟視臣曰:『是子亦何辱三品官?』」帝怒曰:「前毛仲負我,未嘗為意,今以嬰兒顧云云。」力士等知帝怒,它日,從容曰:「北門奴官皆毛仲所與,不除之,必起大患。」後毛仲移書太原索甲仗,少尹嚴挺之以聞,帝恐毛仲遂亂,匿其狀。十九年,有詔貶州,福順壁州,守德嚴州,盧龍子唐地文振州,王景耀黨州,高廣濟道州,並為別駕員外置。毛仲四子悉奪官,貶惡地,緣坐數十人。有詔縊毛仲於零陵。

守徳は本名宜得、功を立てて乃ち今の名に改む、位は武衛将軍。嘗て故主に道に遇う、主は走りて避く、守徳左右を命じてこれを迎えて第に至らしめ、親しく食を上げ酒を奉る、主は流汗して敢えて当たらず。数日、入りて奏して曰く、「臣国恩を蒙ること過分なり、而して故主は寸禄無し、官を解きてこれを授けんことを請う」と。帝その志を嘉し、郎将に擢ぐ。

原文守德本名宜得,立功乃改今名,位武衛將軍。嘗遇故主於道,主走避,守德命左右迎之至第,親上食奉酒,主流汗不敢當。數日,入奏曰:「臣蒙國恩過分,而故主無寸祿,請解官授之。」帝嘉其誌,擢為郎將。

陳玄禮は宮禁を宿衛し、淳篤を以て自らを検す。帝嘗て虢国夫人の第に幸せんと欲す、諫めて曰く、「未だ宣勅せず、軽々しく去就すべからず」と。帝この為に止む。後華清宮に在りし時、正月望夜、帝将に出遊せんとす、復た諫めて曰く、「宮外は曠野にして備豫無し、陛下必ず出遊せば、城闕に帰らんことを願う」と。帝これを奪うこと能わず。安禄山反す、謀りて楊国忠を闕下に誅せんとすれども克たず、馬嵬に至り、卒にこれを誅す。蜀に入るに従う。還りて蔡国公に封ぜらる。李輔国の帝を西内に遷すに及び、玄禮は老いて卒す。

原文陳玄禮宿衛宮禁,以淳篤自檢。帝嘗欲幸虢國夫人第,諫曰:「未宣敕,不可輕去就。」帝為止。後在華清宮,正月望夜,帝將出遊,復諫曰:「宮外曠野無備豫,陛下必出遊,願歸城闕。」帝不能奪。安祿山反,謀誅楊國忠闕下,不克,至馬嵬,卒誅之。從入蜀。還,封祭國公。及李輔國遷帝西內,玄禮以老卒。

贊

原文贊

贊して曰く、幽求の謀、紹京の果、日用之の智、琚の弁、皆足りて危を済い難を紓く、方に多故の時、必ずこれを資りて以て成功する者なり。雄邁の才、その奇を用いざれば則ち厭然として満たず、誠にこれと共に治平を為すべからざるかな。姚崇が功臣を用いざるを勧むるは、宜なり。然れども幽求等を待つこと恨むらくは太だ薄きと云う。毛仲は小人、志を得て驕る、論ずるに足らざるのみ。

原文贊曰:幽求之謀,紹京之果,日用之智,琚之辯,皆足濟危紓難,方多故時,必資以成功者也。雄邁之才,不用其奇則厭然不滿,誠不可與共治平哉!姚崇勸不用功臣,宜矣。然待幽求等恨太薄雲。毛仲小人,誌得而驕,不足論已。