劉幽求
劉幽求は冀州武強の人である。聖暦年間に制科に挙げられて及第した。閬中尉に任ぜられたが、刺史が礼を尽くさなかったので官を棄てて去った。久しくして朝邑尉を授けられた。桓彦範らが張易之・昌宗を誅したが、武三思を殺さなかったとき、幽求は彦範に言った、「公らは葬る地もなくなるであろう。早く計らわねば、後で臍を噛むことになろう」と。従わなかった。その後、五王は皆三思に陥れられて死んだ。
幽求は自ら国に功有りと謂い、諸臣の右に在りて、意望満たされず、竇懐貞が左僕射となり、崔湜が中書令となったので、甚だ不平で、言面に現れた。やがて湜らが太平公主に附き、逆計有り。幽求は右羽林将軍張暐と計を定め、暐をして玄宗に説かしめて曰く、「湜らは皆太平の党与なり、日夜陰計す。若し早く図らざれば、将に大害を産さん。太上は高枕を得ざるべし。臣請う、羽林兵を督して之を除かん」と。帝許した。未だ発せざるに、暐が侍御史鄧光賓に漏らしたので、帝懼れ、即ち其の状を列ねた。睿宗は幽求らを吏に属し、疏を以て親を間うと劾奏し、罪は死に応ずとした。帝密かに右せんと申したので、乃ち幽求を封州に、暐を峰州に、光賓を繡州に流した。明年、太平公主誅され、即日召して旧官に復し、軍国事を知らしめ、封戸を還し、錦衣一襲を賜った。
開元初め、尚書左丞相に進み、黄門監を兼ねたが、俄かに太子少保で罷めた。姚崇は元より彼を忌み、幽求が鬱怏として散職にあり、怨言有りと奏した。詔して有司に鞫治せしむ。宰相盧懐慎ら奏言して、「幽求は軽肆にして恭しからず、大臣の礼を失い、崖分の節に乖く」と。翌日、睦州刺史に貶し、実封戸六百を削った。杭・郴二州に遷され、恚憤して道中に卒した。年六十一。礼部尚書を贈られ、諡して文献といった。六年、詔して蘇瑰とともに睿宗廟廷に配享す。建中年中、司徒を追贈された。
鐘紹京
鐘紹京は虔州贛の人である。初め司農録事となり、書を善くして鳳閣に直った。武后の時、諸宮殿・明堂及び九鼎の銘を署し、皆その筆跡であった。景龍中、苑総監となり、韋氏の難を討つに会い、紹京は戸奴・丁夫を率いて従った。事平らぎ、夜に中書侍郎を拝し、機務に参与した。明日、中書令・越国公に進み、実封五百戸、賞賜は劉幽求らと等しかった。路に当たるや、賞罰を以て自ら肆にし、当時これを悪んだ。因って上疏して官を譲り、睿宗は薛稷の謀を用い、戸部尚書に進め、出て彭州刺史とした。
玄宗即位し、復た戸部尚書を拝し、実封を増やされ、太子詹事に改めた。姚崇に喜ばれず、幽求とともに怨望を以て罪を得、果州刺史に貶され、封邑百戸を賜った。後、他事に坐し、懐恩尉に貶され、階封を悉く奪われ、再び温州別駕に遷った。十五年、入朝し、帝に見えて泣いて曰く、「陛下は疇日の事を忘れたるか、忍びて臣をして草莽に棄死せしむるや。且つ同時に功を立てし者、今骨已に朽ち、独り臣のみ在り。陛下垂れ湣まざるか」と。帝惻然とし、即日太子右諭徳を授けた。久しくして少詹事に遷った。年八十を逾え、官のまま寿を終えた。紹京は書画を嗜み、王羲之・献之・褚遂良の真跡を、家に蔵するもの数十百巻に至った。建中年中、太子太傅を追贈された。
崔日用
帝崩じ、韋后専制す。禍の及ぶを畏れ、更に僧普潤・道士王曄を因りて臨淄王に私謁し、以て自ら托し、且つ密かに大計を賛した。王曰く、「謀は身を計うるに非ず、直ちに親の難を紓うるのみ」と。日用曰く、「至孝天を動かし、挙ぐるに克たざる無し。然れども利は先発にあり、然らざれば則ち後憂有り」と。韋氏平らぎ、夜に詔して権雍州長史とし、功により黄門侍郎を授け、機務に参与し、斉国公に封じ、実戸二百を賜った。薛稷と相忿競するに坐し、政事を罷め、婺州長史となった。揚・汴・兗三州刺史を歴任した。
荊州長史より入り計を奏し、因りて言う、「太平公主逆節萌有り。陛下往には宮府を以て罪有るを討ちたまえり。臣・子の勢須く謀と力を与うべし。今大位に据わり、一下制書定まれり」と。帝曰く、「太上皇を驚かすを畏る、奈何」と。日用曰く、「庶人の孝は、順承して顔色を承る。天子の孝は、惟国家を安んじ、社稷を定むるに在り。若し奸宄をして窃かに発せしめて、以て大業を亡ぼさしむるは、孝と為す可きか。請う、先ず北軍を安んじ、而して後逆党を捕えよ。太上皇には固より驚く所無し」と。帝之を納れた。及び逆を討つに、詔して権検校雍州長史とし、功により封二百戸を益し、吏部尚書に進んだ。
帝の誕生日に際し、日用は『詩経』の大雅・小雅二十篇及び司馬相如の『封禅書』を採ってこれを献上し、以て諷諭を借り、且つ成事を勧告せり。詔有りて衣一副・物五十段を賜い、以て言無くば酬いざるの義を示す。
久しくして、兄の累に坐し、出でて常州刺史と為る。後に例に以て封戸三百を減じ、汝州に徙る。開元七年、詔して曰く「唐元の際、日用は実に大謀を賛し、功多し、封を減ずるに宜しからず」と。復た二百戸を食む。并州長史に徙り、卒す年五十。并人は其の恵を懐き、吏民数百皆縞服して喪を送る。吏部尚書を贈り、謚して昭と曰う。再び荊州大都督を贈る。
日用は才弁人に絶し、而して事に敏にして、機に乗じて禍を反し富貴を取る能えり。先天の後、相の復を求むるも、然れども亦獲ず。嘗て人に謂いて曰く「吾が平生の事する所は、皆時に適い制を変じ、始めの謀に専らせず。然れども毎に一たび反思すれば、芒刺の背に在るが若し」と云う。
子の宗之、封を襲ぐ。亦好学にして、寛博にして風検有り、李白・杜甫と文を以て相知る者なり。
日用の従父兄の日知、字は子駿、少くして孤貧、力学し、明経を以て進み兵部員外郎に至る。張説と共に魏元忠の朔方判官と為り、健吏を以て称せらる。洛州司馬に遷る。譙王重福の変に会し、官司逃ぐるも、日知独り吏卒を率いて屯営を助け賊を撃ち、功を以て銀青光禄大夫を加う。殿中少監に遷り、「厩馬多し、請う分かちて隴右に牧し、関畿の芻調を省かん」と建言す。荊州長史を授け、四遷して京兆尹と為り、安平県侯に封ぜらる。贓に坐し、御史李如璧に劾せられ、歙県丞に貶せらる。後に歴て殿中監に至り、中山郡公に進む。説の執政するや、御史大夫に薦むるも、帝許さず、遂に左羽林大将軍と為り、而して自ら崔隠甫を用う。隠甫是に由りて説を怨む。日知俄かに太常卿を授かる。自ら朝廷に処ること久しと以て、毎に入謁すれば、必ず尚書と歯し、時に「尚書裏行」と謂う。終に潞州長史に至り、謚して襄と曰う。
王琚
王琚は、懐州河内の人。少くして孤、敏悟にして才略有り、天文象緯に明るし。従父の隠客嘗て鳳閣侍郎と為りしを以て、故に数え貴近と交わる。時に年甫に冠し、駙馬都尉王同皎を見るに、同皎之を器とす。武三思を刺さんと謀るに会し、琚其の為す所を義とし、即ち周璟・張仲之等と共に計る。事泄れて亡命し、自ら揚州の富商の家に傭う。識りて庸人に非ざるを以て、女を嫁して之に妻せ、厚く資を給す。琚亦之に頼りて済う。睿宗立ち、琚自ら本末を言う。主人厚く賫して長安に還らしむ。玄宗太子と為り、閑に韋・杜の間を遊猟し、樹下に怠り休まんとするに、琚儒服を以て見え、且つ家に過ぐるを請う。太子之を許す。廬する所に至れば、乃ち蕭然として窶陋なり。久しく坐し、牛を殺し酒を進むること殊に豊厚なり。太子駭異す。是より自ら韋・杜に到る毎に、輒ち其の廬に止まる。
初め、太子潞州に在りし時、襄城の張暐銅鞮令と為り、性豪殖にして、賓客弋獵の事を喜び、厚く太子に奉じ、数え其の家に集う。山東の倡人趙元礼女有り、歌舞に善くし、太子に幸せられ、暐の第に止まる。其の後子を生む者は瑛なり。太子既に内難を平げ、暐を召し、宮門郎に拝し、姜皎・崔滌・李令問・王守一・薛伯陽等と並び左右に侍らしむ。令問累ねて殿中少監に擢げられ、守一は太僕少卿と為る。此の数人東宮に以て皆勢天下に重し。
琚是の時方に諸暨県主簿を補し、東宮に過ぎ謝せんとし、廷中に至り、徐行高視す。侍衛何ぞ止めて曰く「太子在り!」と。琚怒りて曰く「外に惟だ太平公主を聞くも、太子有るを聞かず。太子本より社稷に功有り、君親に孝なり、安ぞ此の声を得んや」と。太子遽かに召して見る。琚曰く「韋氏躬り弑逆を行い、天下動揺し、人李氏を思う。故に殿下之を取る易し。今天下已に定まり、太平専ら功を立てんと思い、左右の大臣多く其の用と為り、天子元妹を以て、能く其の過を忍ぶ。臣窃かに殿下の為に寒心す」と。太子座を命じ、且つ泣いて曰く「計将に安くか便ならん」と。琚曰く「昔、漢の蓋主昭帝を供養し、其の後上官桀と謀りて霍光を殺さんとし、天子に及ばざるも、而して帝猶大義を以て之を去る。今太子功天下を定め、公主乃ち敢えて妄りに図り、大臣党を樹て、廃立の意有り。太子誠に張説・劉幽求・郭元振等を召して之に計らば、憂い紓ぐ可し」と。太子曰く「先生何を以て自ら隠れ而して日寡人と遊ぶや」と。琚曰く「臣丹沙に善くし、且つ諧隠に工なり、願わくは優人に比せん」と。太子喜び、相知るの晚きを恨む。翌日、詹事府司直・内供奉を授け、兼ねて崇文学士とす。日に諸王及び姜皎等を以て入侍するも、独り琚常に秘謀に預かる。一月を踰えず、太子舎人に遷り、兼ねて諫議大夫とす。太子内禅を受け、中書侍郎に擢ぐ。
帝の琚に眷委すること特異にして、大政事に預かり、時に「内宰相」と号す。毎に閤中に見え、日薄きを視て乃ち出づるを得。休日に遇えば、使者第に至りて之を召し、而して皇后亦尚宮をして琚の母を労わしめ、賜賚接足す。群臣望み無き能わず。或る者帝に説いて曰く「王琚・麻嗣宗皆譎詭縦横にして、之と危きを履むべくも、之と安きを共にすべからず。方に天下已に定まるを以て、宜しく益々純朴経術の士を求めて以て自ら輔けん」と。帝悟り、稍々之を疎んず。俄かに御史大夫を拝し、節を持ちて天兵以北諸軍を巡る。紫微侍郎に改む。道未だ至らざるに、沢州刺史を拝し、封戸百を削る。九刺史を歴て、復た封戸す。又六州・二郡を改む。
太平公主誅滅の後、張暐は召し還されて大理卿と為り、鄧国公に封ぜられ、実封三百戸、京兆尹に進み、入りては宴楽に侍し、出でては京邑を主り、時に人はこれを寵と為すも、然れども自らは幹治を以て称せらる。累遷して太子詹事、尚書左右丞を判じ、再び羽林大将軍と為り、三たび左金吾大将軍に至り、年高を以て特進を加う。子の履冰・季良、弟の晤、仕えて皆清近なり。暐嘗て郷里に還りて墳墓に詣でし時、帝詩及び錦袍繒彩を賜う。駅馬に乗りて道に就き、子弟の車馬連咽す。使者賜賚し、州県に勅して供擬せしめ、居処尊顯なり。天宝五載卒す、年九十、開府儀同三司を贈る。履冰は金吾将軍を歴任し、季良は殿中監、俱に棨戟を列ねる。
王毛仲
王毛仲は高麗の人なり。父は事に坐し、官奴に没せられ、毛仲を生む、故に長じて臨淄王に事う。王潞州に出でし時、李守徳という者あり、人の奴と為り、騎射に善くし、王これを買い得て、並びに左右に侍らしむ。而して毛仲は明悟なり。景龍中、王長安に還る、二人常に房箙を負いて従う。王数たび万騎の帥長及び豪俊を引き、飲食金帛を賜い、その歓心を得る。毛仲は旨を暁り、亦誠を布きて結納し、王これを嘉す。
韋后が称制し、韋播・高嵩を羽林将軍と為し、万騎を押さえ、苛峭を以て威を樹つ。果毅葛福順・陳玄禮、王に訴う。王方に劉幽求・薛宗簡及び利仁府折衝麻嗣宗と謀りて大計を挙げんとし、幽求これを諷す、皆死を効さんことを願い、遂に韋氏を討ち入る。守徳は帝に従い苑中に止まるも、毛仲は匿れて出でず、事定まって数日、乃ち還る、これを責めず、例に擢げて将軍と為す。
王皇太子と為り、毛仲をして東宮馬駝鷹狗等坊を知らしむ。旬歳に至らず、大将軍に至り、階三品。蕭至忠等を誅するに与り、功を以て輔国大将軍に進み、検校内外閑廄、監牧使を知り、霍国公に進封せられ、実封五百戸。諸王及び姜皎等と禁中に侍し、連榻に坐するに至る。帝暫く見ざれば、惘惘として失うこと有るが若く、見れば則ち釋然たり。開元九年、詔して持節朔方道防御討撃大使と為り、左領軍大総管王晙・天兵軍節度使張説・幽州節度使裴伷先等と数たび事を計る。
毛仲は初め飾擢を見られ、頗る法を堅持し、権貴を避けざるを以て喜ぶべき事と為す。両営の万騎及び閑廄の官吏これを憚りて敢えて犯す者なく、官田の草萊と雖も、樵斂欺くことを敢えず。牧事に於いては特に力を尽くし、娩息計うべからず。初め馬二十四万を監む、後乃ち四十三万に至り、牛羊皆数倍す。茼麦・苜蓿千九百頃を蒔きて冬に備う。死畜を市い、絹八万を售る。厳道の僰僮千口を募りて牧圉と為す。芻菽を検勒して漏隠無く、歳に数万石を贏す。帝に従い東封し、牧馬数万匹を取り、毎色一隊、相間うること錦繡の如く、天子これを才とす。還りて開府儀同三司を加えらる。開元以後、唯だ王仁皎・姚崇・宋璟及び毛仲これを得たり。
然れども資性小人、志既に満ち、驕り無からざるを得ず、遂に兵部尚書を求めんとす。帝悦ばず、毛仲鞅鞅たり。葛福順と姻家を為すに及び、而して守徳及び左監門将軍盧龍子唐地文・左右威衛将軍王景耀高広済数十人、毛仲と相倚杖して奸を為す。毛仲は旧恩を恃み、最も不法なり。中使その家に至りて詔を称するも、毛仲甚だ恭しからず、位卑き者は、或いは踞って見、意に迕えば即ち侮誶し、気を以てこれを淩ぎ、直ちにその上に出づ。高力士・楊思勗等これを銜む。毛仲に両妻あり、その一は上の賜う所、皆国色あり。嘗て子を生む、帝命じて力士をして就きて賜わしめ、仍て子に五品官を授く。還りて問うて曰く、「毛仲喜べるか」と。力士奏す、「毛仲臣を熟視して曰く、『是の子亦た何ぞ三品官を辱しむる』と」と。帝怒りて曰く、「前に毛仲我に負うも、未だ意と為さず、今嬰児を以て顧みて云々す」と。力士等帝の怒るを知り、他日、従容として曰く、「北門の奴官は皆毛仲の与うる所、これを除かざれば、必ず大患を起こさん」と。後、毛仲太原に移書して甲仗を索む、少尹厳挺之これを聞くに以てす。帝毛仲の遂に乱らんことを恐れ、その状を匿す。十九年、詔有りて州に貶し、福順は壁州、守徳は厳州、盧龍子唐地文は振州、王景耀は党州、高広済は道州に、並びに別駕員外置と為す。毛仲の四子悉く官を奪われ、悪地に貶せられ、縁坐する者数十人。詔有りて毛仲を零陵に於いて縊る。
守徳は本名宜得、功を立てて乃ち今の名に改む、位は武衛将軍。嘗て故主に道に遇う、主は走りて避く、守徳左右を命じてこれを迎えて第に至らしめ、親しく食を上げ酒を奉る、主は流汗して敢えて当たらず。数日、入りて奏して曰く、「臣国恩を蒙ること過分なり、而して故主は寸禄無し、官を解きてこれを授けんことを請う」と。帝その志を嘉し、郎将に擢ぐ。
陳玄禮は宮禁を宿衛し、淳篤を以て自らを検す。帝嘗て虢国夫人の第に幸せんと欲す、諫めて曰く、「未だ宣勅せず、軽々しく去就すべからず」と。帝この為に止む。後華清宮に在りし時、正月望夜、帝将に出遊せんとす、復た諫めて曰く、「宮外は曠野にして備豫無し、陛下必ず出遊せば、城闕に帰らんことを願う」と。帝これを奪うこと能わず。安禄山反す、謀りて楊国忠を闕下に誅せんとすれども克たず、馬嵬に至り、卒にこれを誅す。蜀に入るに従う。還りて蔡国公に封ぜらる。李輔国の帝を西内に遷すに及び、玄禮は老いて卒す。
贊
贊して曰く、幽求の謀、紹京の果、日用之の智、琚の弁、皆足りて危を済い難を紓く、方に多故の時、必ずこれを資りて以て成功する者なり。雄邁の才、その奇を用いざれば則ち厭然として満たず、誠にこれと共に治平を為すべからざるかな。姚崇が功臣を用いざるを勧むるは、宜なり。然れども幽求等を待つこと恨むらくは太だ薄きと云う。毛仲は小人、志を得て驕る、論ずるに足らざるのみ。