新唐書

巻一百二十 列傳第四十五 五王

桓彥範

桓彥範、字は士則、潤州丹陽の人。門蔭により右翊衛に調じ、司衛主簿に遷る。狄仁傑曰く、「君の才は、自ら光大すべし、初めを憂うるなかれ」と。厚く礼を為す。尋いで監察御史に擢でられ、累遷して中丞となる。

張柬之、将に易之等を誅せんとし、引きて与に策を定む。ここに於いて、彥範・敬暉を以て左・右羽林将軍と為し、禁兵を属す。時に中宗、毎に北門に起居し、因りて謁して秘計を陳ぶるを得たり。神龍元年正月、彥範・暉、羽林兵を率い、将軍李湛・李多祚・楊元琰・薛思行等と千騎五百人を以て賊を討つ。湛・多祚をして東宮に就き中宗を迎えて玄武門に至らしめ、彥範等は関を斬って入る。士皆鼓噪す。時に武后は迎仙宮の集仙殿に処る。易之等を廡下に斬る。后、変を聞きて起ち、中宗を見て曰く、「乃ち汝か。豎子誅せられたり、還りて宮すべし」と。彥範進みて曰く、「太子今帰るべからず。往時天皇群臣を棄て、愛子を以て陛下に托す。今久しく東宮に居り、群臣天皇の徳を思う。刃に血せずして内難を清む。此れ天意人事の李氏に帰するなり。臣等謹んで天意を奉じ、惟うらくは陛下位を伝え、万世絶えざらんことを。天下の幸いなり」と。后乃ち臥し、復た言わず。明日、中宗復位し、彥範を以て侍中と為し、譙郡公に封じ、実封五百戸を賜う。

上書して帝を戒めて曰く、

『詩』は『関雎』を始めと為し、后妃は人倫の本、治乱の端なりと言う。故に舜の興は皇・英に以てし、周の興は任・姒に以てす。桀は南巢に奔り、禍は末嬉に階り、魯桓は国を滅ぼし、惑は斉姜に始まる。伏して見るに、陛下朝に臨み政を視るに、皇后必ず帷を殿上に施し、政事を預りて聞く。臣愚かに謂う、古の王者婦人に謀るは、皆国を破り身を亡ぼし、轅を傾け路に継ぐ。且つ陰を以て陽に乗ずるは天に違う。婦を以て夫に凌ぐは人に違う。天に違えば祥ならず、人に違えば義ならず。故に『書』に曰く、「牝鶏の晨は、惟だ家の索くるなり」と。『易』に曰く、「遂ぐる攸無く、饋に在り」と。婦人の外政を預るべからざるを言うなり。伏して願わくは上、社稷を重しと為し、皇后をして正殿に居らず、外朝に幹せず、深く宮掖に居り、陰教を修めて以て天子を輔佐せしめよ。

又道路籍籍として、皆云う、胡僧慧範は浮屠法に托し、詭りて后妃を惑わし、禁奥に出入し、朝政を瀆撓すと。陛下嘗て軽騎微服し、数え其の居を幸す。上下汙慢し、君臣虧替す。臣謂う、化を興し治を致して以て国家を康乂するは、善を進め悪を棄つるに由る。孔子曰く、「左道を執りて以て政を乱す者は殺し、鬼神を仮りて以て人を危うくする者は殺す」と。今慧範は政を乱し人を危うくする者なり。急ぎ誅せざれば、将に変有らん。悪を除くは本を務む。願わくは早く之を裁せよ。

帝孱昏にして、左右に狃い、能く省納する所有らず。

俄に墨敕を以て方士鄭普思を秘書監と為し、葉靜能を国子祭酒と為す。彥範執りて不可とす。帝曰く、「要は已に之を用いり、止むべからず」と。彥範曰く、「陛下始めて復位し、制詔す、『軍国皆貞観の故事を用う』と。貞観の時は、魏徴・虞世南・彦師古を以て監と為し、孔穎達を以て祭酒と為す。普思等の如き方伎猥下、安んぞ前烈の蹤を継ぐに足らん。臣恐らくは物議、陛下官に才を択ばず、天秩を以て私愛に加うと謂わん」と。従わず。

時に武三思、太后を遷すを以て恚みを銜み、諸武に利あらざるを慮る。而して韋后は雅より帝の寵畏する所となり、且つ三思と蒸乱す。ここに由りて朋讒奇中す。未だ幾もなく、彥範等の政事を罷む。五月、特進を加え、扶陽郡王に封じ、韋姓を賜い、后の属籍に同じくす。金銀・錦繡を錫い、皆鉄券を以て十死を恕し、朔望に朝せしむ。尋いで出でて洺州刺史と為り、濠州に改む。王同皎、三思を誅せんと謀る。事泄る。三思、彥範等を同逆と誣え、陰に許州司功参軍鄭愔をして変を上らしむ。乃ち彥範を瀧州司馬に貶し、敬暉を崖州司馬に貶し、袁恕己を竇州司馬に貶し、崔玄暐を白州司馬に貶し、張柬之を新州司馬に貶し、勛封を悉く奪う。三思又韋后の隠穢を疏し、道に榜して、之を廃せんことを請う。帝震怒す。三思猥りに曰く、「此れ殆ど彥範輩の為す所なり」と。命す、御史大夫李承嘉に状を鞫せしめ、其の人を物色せしむ。承嘉即ち奏す、「彥範・暉・柬之・恕己・玄暐は暴訕して変を搖がし、内に廃后を托し、而して実は君を危うくす。人臣将と無く、当に誅に伏すべし」と。詔して有司に罪を議せしむ。大理丞李朝隠執りて奏す、「彥範等未だ訊せずして即ち誅せば、恐らくは讎家の誣蔑する所と為らん。請う御史を遣わして実を按ぜしめよ」と。卿裴談は即ち誅斬し、家を籍没せんことを請う。帝業嘗て以て不死を許せり。遂に州に流し、終身禁錮す。子弟年十六以上は嶺外に謫徙す。承嘉を金紫光禄大夫・襄武郡公に擢で、後又彩五百段・錦被一を賜う。談を進めて刑部尚書と為し、而して朝隠を貶す。三思又節湣太子に諷して請わしむ、彥範等の三族を夷せんことを。帝従わず。三思、五人者将に復用せられんことを慮り、乃ち崔湜の計を納れ、周利貞を遣わし制を矯って之を殺さしむ。利貞、貴州に至り、彥範に逢う。即ち縛し竹槎の上に曳き、肉尽き、杖殺す。年五十四。

睿宗即位し、彥範等並びに官爵を追復し、実封二百戸を賜い、其の子孫を還し、謚して忠烈と曰う。開元六年、詔して暉・玄暐・柬之・恕己と共に王家に勤労し、皆中宗廟庭に配享す。建中三年、復た彥範を贈りて司徒しとと為し、暉を太尉と為し、玄暐を太子太師と為し、柬之を司徒と為し、恕己を太子太傅と為す。

彥範は属文に工なり。然れども甚だ喜んで書を観ず。志す所は惟だ忠孝の大略のみ。居るに言う能わざるが若し、及んで帝前に議論するに、詰譲せらるるも、而して辞安く色定まり、弁色愈々切なり。

二張を誅殺するに当たり、柬之は景運門に兵を率い、遂に諸武を滅ぼさんとした。洛州長史薛季昶が勧めて言うには、「二凶は誅されたとはいえ、産や祿(呂産・呂祿の故事)がまだ残っている。これを除くことを請う」と。日が暮れ事が急であったため、彦範は広く殺すことを欲せず、因って言うには、「三思は机上の肉に過ぎぬ。天子の手掛かりとして残しておこう」と。季昶は嘆いて言うには、「我に死すべき所なし!」と。やがて三思が密かに宮中に入り、韋后に因って逆に朝権を盗んだ。同じ功績の者は嘆いて言うには、「我を死に至らしめた者は、桓君(彦範)である」と。彦範もまた言うには、「主上は昔、英王であった故、我は武氏を留めて自ら誅定させようとした。今や大事は既に去った。天の致す所ではあるまいか!」と。初め、事を起こさんとする時、その母に告げた。母は言うには、「忠と孝は並び立たず、義を先にして国家に尽くすがよい」と。

李福業

御史李福業という者は、かつて彦範と謀り、彦範が殺された時、福業もまた番禺に流された。後に逃亡して吉州参軍敬元礼の家に匿われたが、吏に捕らえられ、元礼も共に連座して死罪となった。福業が刑に臨む時、元礼に謝して言うには、「子には親があるのに、我は甚だ慚愧し恨む」と。元礼は言うには、「公が困窮して我に帰って来られた。我として止むを得ようか?」と。見る者はこれを哀しんだ。

時に監察御史盧襲秀もまた桓・敬(彦範・敬暉)と親善した罪に連座し、冉祖雍に取り調べられたが、屈しなかった。ある者が報せて言うには、「南の使いが至り、桓・敬は既に死んだ」と。襲秀は涙を流した。祖雍は怒って言うには、「彦範らは国に背いた。君は涙を流すのか。且つ君が獄に下った時、諸弟は皆酒を飲み放縦して憂いの色がなかった。何故か?」と。対えて言うには、「我が何を背いたというのか。ただ彦範と親善した罪に坐するのみ。今、諸弟を皆殺しにするならばそれまでだが、もし襲秀だけを殺すならば、恐らく公は高枕で眠ることはできぬであろう!」と。祖雍は顔色を動かし、その手を握って言うには、「必ずや公を生かそう」と。遂に連座を免れた。

盧襲秀

襲秀の祖父は方慶、武徳年間に察非掾となり、秦王(李世民)は彼を器重した。かつて彼を引きいて建成の事を議したが、方慶は辞して言うには、「母が老いております。身を乞うて帰り養いたい」と。王はこれ以上迫らなかった。貞観年間に、稿城令となった。彦範の弟玄範は、官は常州刺史に至り、臣範は工部侍郎となった。

薛季昶

薛季昶という者は、絳州龍門の人である。武后の時に上書し、布衣から抜擢されて監察御史となり、累がもとで左遷されて平遙尉となったが、再び御史に任ぜられた。屡々詔旨の通りに獄を按じ、給事中に抜擢された。夏官郎中侯味虚が兵を率いて契丹を討ったが、利あらず、妄りに「賊の行軍に蛇虎が先導した」と言った。后はその詭弁を憎み、季昶を河北道按察使に任じた。季昶は馳せ至って軍中に至り、味虚を斬って上聞し、北方に威を震うった。稿城尉呉沢が駅使を射殺し、民の女の髪を剃ってかもじとしたが、州はこれを弾劾できず、季昶は杖殺した。然る後に恩信を布き、善良な者を表彰した。或いは伝えるに、季昶がかつて味虚に笞打たれて辱められた故、深く文を曲げて怨みに報いたという。給事中から数ヶ月で御史中丞となったが、事に坐して左遷された。久しくして雍州長史に入り、文昌左衛に遷り、洛州長史となった。易之らを誅する功に預かり、戸部侍郎に進んだ。五王が権柄を失うと、季昶を出して荊州長史とし、儋州司馬に貶した。初め、季昶は昭州首領周慶立及び広州司馬光楚客と不和であり、二つの怨みを恐れて赴任しようとしなかった。嘆いて言うには、「我ここに至るか!」と。即ち棺を整え沐浴し、仰薬して死んだ。昭州に葬られた。睿宗が立つと、詔して左御史大夫を追贈し、彦範らと同様に一子に官を賜うた。

季昶は剛烈であったが、先入の言葉を真実として喜んで受け入れる癖があり、後で弁明があっても、聞き入れられなかった。しかし故旧を厚く愛し、名士を礼遇した。その長所は欠点を覆うに足るものであった。

楊元琰

楊元琰という者は、字は温、虢州閺郷の人で、漢の太尉楊震の十八代目の孫である。生まれて数歳になっても言葉を発さず、相者が見て言うには、「語遅き者は神定まり、必ず重器とならん」と。成長すると、眉秀で美しい鬚髯を備え、肩は高く頤は広かった。父の喪に服し、七日間食さなかった。喪が明けると、梓州参軍に補され、平棘令となり、考課第一となり、御史府がその政績を上表し、璽書で褒め励ました。再び抜擢されて永寧軍副使となったが、権力者に逆らい免官された。載初年中、安南副都護となり、三度転じて荊府長史となり、五度刺史に遷り、皆風教と実績があった。

初め、張柬之が代わって荊州に赴任した時、共に船に乗って江中を下り、外戚(武氏)の革命について私語した。元琰は悲憤慷慨して涙を流し、志は王室に在った。柬之が執政すると、故に彼を引きいて右羽林将軍とし、言うには、「江上の言葉を、君は忘れまい。今こそ努めよ!」と。乃ち李多祚らと計を定めて二張を斬った。雲麾将軍に進み、弘農郡公に封ぜられ、実封五百戸を賜り、鉄券を与えられ十死を恕された。敬暉らが武三思に陥れられると、元琰は禍が未だ已まぬことを知り、乃ち計略を用いて髪を剃り浮屠に事えることを請い、官爵封土を全て返上した。中宗は許さなかった。暉が聞き、尚戯れて言うには、「胡頭(胡人の頭)は剃髪すべし」と。鬚髯が多いのが胡人に似ているからである。元琰は言うには、「功成って退かざれば、亡びを懼れる。我は空言をせぬ」と。暉はこれを感じ入ったが、既に計らうに及ばなかった。暉らが死んだ後、元琰だけが全うした。

再び衛尉卿に遷り、また上官封を願い出て、その親への追贈を願った。帝は哀れみ、越州都督ととく長史を追贈した。李多祚が太子の難(節愍太子の乱)で死ぬと、元琰は厚く親善した罪に坐し、獄に繋がれたが、蕭至忠が救って免れた。睿宗が立つと、数度上書して骸骨を乞うたが、聞き入れられなかった。四度遷って刑部尚書となり、魏国公に封ぜられた。太子賓客に転じ、詔して東宮に位を設け、太子が拝礼した。やがて致仕した。開元六年に卒し、七十九歳、諡は忠といった。生前に蓄えを残さず、内外でその家に食する者は常に数十人であった。臨終に、諸子に薄葬を命じた。

元琰の子 仲昌

子の仲昌、字は蔓。経書に通じて修文生となった。累次任官したが、甚だ顕著ではなかった。河陽尉として対策し、玄宗に第一に抜擢され、蒲州法曹参そうしん軍を授かり、判は異等に入り、監察御史に遷った。累がもとで孝義令となった。鸞が庭の樹に降りたので、太守蕭恕がその政績を上表し、下邽に転じた。終に吏部郎中となった。仲昌は吏事に長ける資質があった。常に父の邑の租税を分けて宗族を救済した。自らを倹約し、人と交わることを善くし、士人は彼と遊ぶことを楽しんだという。

敬暉

敬暉、字は仲曄、絳州平陽の人。弱冠にして明経に挙げられる。聖暦の初め、衛州刺史となる。この時、河北は突厥の騒擾を受け、秋の最中に城を築こうとしたが、暉は言う、「金城湯池も食糧なくしては守れぬ。どうして農耕を捨てて、城濠の工事に従事せんや」と。民を帰して収穫させ、管内はこれにより安泰を得た。夏官侍郎に遷り、出て太州刺史となり、洛陽らくよう長史に改める。武后が長安に行幸した際、副留守となり、治績と才幹で知られ、璽書を賜って労い、多くの物段を賜う。

長安二年、中臺右丞を授かる。二張誅殺の功により、金紫光禄大夫を加えられ、侍中・平陽郡公となり、実封五百戸、斉国公に進封される。暉は上表して諸武の王者は皆爵位を降下すべきと請い、これにより皆公となる。三思は憤る。まもなく平陽郡王に封ぜられ、特進を加えられて政事を罷む。

初め、易之が既に誅された時、薛季昶が諸武を収捕すべきと請い、暉もまた苦諫したが、聞き入れられなかった。三思が朝政を濁乱すると、暉は毎度机を叩き恨み嘆き、指を弾いて血を流した。まもなく貶謫に及び、さらに瓊州に流され、周利貞に害される。睿宗の時、官爵を追復され、また秦州都督を贈られ、諡して肅湣という。

崔玄暐

崔玄暐、博陵安平の人、本名は畢、武后の時、避諱があり、改める。若くして学問と品行で称され、叔父の秘書少監行功は彼を器とした。明経に挙げられ、高陵主簿となる。父の喪に服し礼を尽くす。廬舎に燕がいて、巣を替えて共に雛を育てた。母の盧氏は賢明な操行があり、常に玄暐を戒めて言う、「わが従兄の辛玄馭が言うには、『子孫が仕官して、貧しくて自活できないと言うのは、これは善いことだ。もし財貨が満ち溢れているというのは、悪いことだ』と。私は常にこれを確論と思っている。近頃、親族や姻戚で仕官する者が、多く財を蓄えて親に奉じるのを見るが、親はその由来を究めようとしない。必ず俸禄から出たのであれば善いが、もしそうでなければ、盗みと何が異なるか。もし今、吏となって、忠清でなければ、天地を戴き履むこと能わぬ。わが意を識るべし」と。故に玄暐の守るところは清白をもって名高い。母が亡くなると、哀毀して、甘露が庭樹に降った。

後に庫部員外郎から累遷して鳳閣舎人となる。長安元年、天官侍郎となり、公事に当たっては耿介として、私的な請謁を受けず、執政者はこれを忌み、文昌左丞に改める。一ヶ月も経たぬうちに、武后は言う、「卿が先に職を改めた時、令史らが斎を設けて互いに慶賀したと聞く。これはその貪欲を恣にせんとするものである。卿は朕のために旧官に戻れ」と。乃ち再び天官侍郎を拝し、厚く彩物を賜う。三年、鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事を授かり、太子左庶子を兼ねる。四年、鳳閣侍郎に遷る。先に、酷吏が数百家を誣告して籍没していたが、玄暐はその冤罪を開陳し、后は感悟して、皆これを原洗した。宋璟が張昌宗の不軌を弾劾した時、玄暐は璟を大いに助けた。及び有司が昌宗の罪を正そうとした時、玄暐の弟の昇が司刑少卿であり、大辟を執論した。兄弟の正を守ることはこの如し。

后が久しく病み、宰相が累月召見されなかった。少し快方に向かった時、玄暐は奏上して言う、「皇太子・相王は皆仁明孝友であります。医薬に侍るべきであり、異姓を引き入れて禁闥に出入りさせるべきではありません」と。后は慰めて受け入れた。二張誅殺の功により中書令・博陵郡公となる。后が上陽宮に遷った時、玄暐を顧みて言う、「諸臣の進用は皆人に因るものだが、ただ暉は我が擢でたる者である。どうしてここに至ったか」と。答えて言う、「これこそが陛下に報いる所以であります」と。まもなく博陵郡王を拝し、政事を罷め、その妻を妃に冊立し、実封五百戸を賜い、検校益州大都督府長史となり、都督事を知る。貶謫に遭い、また古州に流される。道中で病没、年六十九、諡して文獻という。

玄暐は三世にわたり別居せず、家族は和楽として暮らした。貧しくて郊外の別荘に寓居し、一族の者たちは皆遠方から会食に来たが、他の竈はなく、昇とは特に友愛が篤かった。族人の貧しく孤な者は、撫養し教え励ました。後に権勢を握っても、子弟の仕進は常資を超えさせず、当時に重んじられた。若い頃は文章をよくしたが、晩年は自分の長ではないとして、再び構想せず、専ら経術に意を注いだ。

玄暐の子 璩

子の璩もまた文才があった。開元二年、詔して曰く、「玄暐・柬之は、神龍の初め、王室を保乂し、奸臣に忌まれ、荒海に謫歿し、流落変遷した。その忠義に感じる。宜しく玄暐の子璩・柬之の孫毖を、並びに朝散大夫とすべし」と。璩は終に礼部侍郎に至る。璩の子は渙。

璩の子 渙

渙は経術を博く綜べ、議論を長ずる。十歳で父の喪に服し、哀毀が人に増し、陸元方はこれを異とした。亳州司功参軍に起家し、還って調を受ける。この時、判を受ける者千余人、吏部侍郎厳挺之は特榻を設けて『彜尊銘』を試し、言う、「子は清廟の器なり。故にこの題を以て命ず」と。累遷して司門員外郎となる。楊国忠は己に附さぬことを憎み、出して巴西太守とする。玄宗が西狩した時、道中で迎え謁す。帝はその占奏を見て、治体に明るしとし、得るの遅きを恨み、房琯もまたこれを薦め、即日に門下侍郎・同中書門下平章事を拝す。

肅宗が立つと、韋見素らと共に行在に赴く。当時、京師は未だ回復せず、挙選も行われない。詔して渙を江淮宣諭選補使とする。遺逸を収采し、親故を以て自ら嫌疑を挟まなかった。常に言う、「才を仰いで誹謗を虞れるは、我が忍ぶところにあらず」と。しかし聴受は甚だ精しくなく、職に任じざるを以て罷められ、左散騎常侍さんきじょうじとし、餘杭太守・江東采訪防禦使を兼ねる。入遷して吏部侍郎・集賢院待制となる。簡淡として自ら処し、時の声望は特に重かった。御史大夫に遷る。

元載が政を輔けると、宦官の董秀と槃結して寵を固め、渙はこれを疾み、進見に因り、慨然として載の奸を論ず。代宗は言う、「載は重慎ではないが、然し中外を協和して間然なく、能臣なり」と。答えて言う、「和を貴ぶは、礼節によるものであります。礼を以てこれを節せずして、どうして和を得られましょう。今、干戈ようやく定まり、品物は治まらんと念う。載は宰相として、制度を明らかにし、海内の耳目を易うべきです。然るに権を怙り党を樹て、法を毀って通と為し、恩を売って恕と為し、下に附して苟くも容れられる。これは国を幽にし主を卑しむる術であり、臣の未だ諭せざるところです」と。帝は黙然とする。会に渙が税地青苗銭物使を兼ね、銭を百官に給するに、吏が下直を以て使の料とし、上直を以て百司の料とした。載は皇城副留守張清に諷してその非を擿発させ、詔して尚書左丞蔣渙に実を按じさせ、かつ載の憎むところとなり、これにより道州刺史に貶される。卒し、太子太傅を贈られ、諡して元という。子は縱。

縦は協律郎より三遷して監察御史となる。時に詔して令長を選ばしむるに会し、藍田令を授けられ、徳化大いに行われ、県人碑を立てて徳を頌す。渙の貶せらるるや、縦は金部員外郎を棄てて就養す。後に汴西水陸運・両税・塩鉄等使と為る。王師田悦を囲みて食乏しく、詔して縦に四節度の糧を餉わしむるに、軍乏しからず。徳宗奉天に出ずるや、方鎮の兵未だ至らず。縦李懐光に奔命を勧め、軍財を悉くして須うる所に称す。懐光の兵久しく戦いて疲れ、河中に次し、遷延して進まず。縦は金帛を以て先ず度りて曰く、「済る者は即ち賜わん」と。衆利に趨いて争って西し、遂に奉天に及ぶ。京兆尹に遷る。上言して曰く、「懐光反覆して情なし、之を備うべし」と。帝の梁州に徙るに及び、追扈して及ばず、左右縦の素より懐光に善きを短とし、殆ど来らざらんとす。帝曰く、「縦を知る者は朕なり、爾輩の及ぶ所に非ず」と。後数日に至り、御史大夫を授く。大綱を処し、細事を急にせず、獄訟は僚属に付するのみ。

兵興より以来、内外の官冗溢し、時に議して並びに省せんとす。縦奏して曰く、「兵未だ息まず、仕進する者の緒、官に在れば則ち累遷し、功有りて褒賞す、廃すべからず。比に選集するに、乃ち闕に拠りて人を留め、怨望滋く結ぶ。朝廷頻りに詔して労を録すと雖も、諸道の優を叙する日広し。若し吏員を停減せば、但だ優を承くる者の叙すべき官無きのみならず、亦た序進する者の勝置すべき路無からんことを恐る」と。詔して可とす。貞元元年、天子郊見し、大礼使と為る。歳旱にして用屈し、縦は文物を撙裁し、儉にして陋ならず。吏部侍郎を除き、尋いで河南尹と為る。時に兵定まるも、民凋耗し、縦は治め簡易にして、細苛を蠲略す。先ず是れ辺を戍る者道洛より由り、儲餼を民に取る。縦始めて官に弁わしめ、五家をして相保たしめ、自ら占いて発斂し、以て胥史の私を絶つ。又伊・洛を引いて高仰を溉ぎ、裏闬を通利し、人甚だ之に宜しとす。入りて太常卿と為り、常山県公を封ぜらる。卒す年六十二、吏部尚書を贈られ、謚して忠と曰う。

初め、渙は元載に抑えられ、縦は載の世に終わり、聞達を求めず。渙に嬖妾有り、縦は母の如く之に事う。妾剛酷にして、縦顕官と雖も数たび笞詬すれども、然れども率い妻子して顔色を候い、承養懈らず、時に以て難しと為す。孫碣。

渙の孫 碣

碣、字は東標、進士第に及び、右拾遺に遷る。武宗方に沢潞を討たんとし、碣劉稹の降を納るべく請い建つるも、旨に忤い、鄧城令に貶せらる。稍く転じて商州刺史と為る。河南尹・右散騎常侍に擢で、再び河南尹と為る。邑に大賈王可久有り、貨を転じて江・湖の間に在り。龐勛の乱に値い、其の資を尽くして亡い、帰るを得ず。妻卜者楊乾夫に詣りて在亡を咨る。乾夫は名は数に善くし、而して内に妻の色を悦び、且つ其の富を利とす。既に占いて、陽かに驚きて曰く、「乃夫殆ど還らず」と。即ち陰に百金を以て媒者に謝し、之を聘うるを誘い、妻乃ち乾夫に嫁ぎ、遂に富人と為る。他年徐州平らぎ、可久甚だ困し、衣食を丐いて閭裏に帰り、往きて妻を見る。乾夫大いに怒り、之を詬逐す。妻吏に詣りて自ら言うも、乾夫厚く賄を納れ、可久反って罪を得る。再び訴うるも、復た誣に坐す。可久恨嘆し、遂に明を失う。碣の来るに及び、可久冤を陳ぶ。碣其の情を得て、即ち吏に勅して乾夫並びに前の獄史を掩えて獄に下し、賕奸を悉く発し、一日にして之を殺し、妻を以て可久に還す。時に淫潦すれども、獄決して霽ゆ。都民相語い、道に歌舞す。陝虢観察使に徙る。軍乱し、懐州司馬に貶せられ、卒す。

張柬之

張柬之、字は孟将、襄州襄陽の人。少く経史に渉り、太学生を補う。祭酒令狐徳棻其の才を異とし、便ち以て王佐を期す。進士第に中り、始め清源丞に調う。永昌元年、賢良を以て召され、時に年七十余なり。対策する者千余、柬之第一と為る。監察御史を授けられ、鳳閣舎人に遷る。時に突厥黙啜女有りて和親を請い、武后武延秀をして之を娶らしめんと欲す。柬之奏して曰く、「古に天子夷狄の女を取る者無し」と。旨に忤い、合・しょく二州刺史に出さる。故事、歳に兵五百を以て姚州を戍る。地険しく瘴有り、屯に到れば輒ち死す。柬之其の弊を論じて曰く、

臣按ずるに姚州は、古哀牢国、域土荒外に在り、山岨しく水深し。漢世未だ中国と通ぜず、唐蒙夜郎・滇笮を開くも、哀牢は附かず。東漢光武の末、始めて内属を請い、永昌郡を置きて之を統ぶ。其の塩布氈罽を賦して以て中土を利す。其の国西は大秦、南は交趾、奇珍の貢闕けず。劉備蜀に据わり、甲兵充たず、諸葛亮五月に瀘を度り、其の産入を収めて以て軍を益し、張伯岐をして勁兵を選取せしめ、以て武備を増す。故に『蜀志』称す、亮南征の後、国以て富饒と為ると。此れ前世郡を置くは、其の利を以てするなり。今塩布の税供へず、珍奇の貢入らず、戈戟の用戎行に実せず、賨貨の資大国に輸せず。而して空しく府庫を竭し、平人を駆率し、蛮夷に役せられ、肝脳地に塗る。臣窃かに陛下の為に之を惜しむ。

昔漢博南山を歴り、蘭倉水に渉り、更に博南・哀牢二県を置く。蜀人愁苦し、行く者歌を作りて曰く、「博南を歴り、蘭津を越え、蘭倉を度りて、他人の為す」と。蓋し其の珍奇の利を貪りて、蛮夷に駆役せらるるを譏るなり。漢其の利を獲ると雖も、人且つ怨歌す。今国儲を減耗し、費調日引にし、陛下の赤子をして身野草に膏し、骸骨帰らず、老母幼子哀号して祭を望むこと千里の外。朝廷絲発の利無く、而して百姓終身の酷を蒙る。臣窃かに国家の為に之を痛む。

往くに諸葛亮南中を破り、即ち渠率を用いて之を統べ、漢官を置かず、戍兵を留めず。官を置き兵を留むるに三不易有りと言う。官を置けば必ず夷漢雑居し、猜嫌将に起らん。兵を留めば糧を転じ、患滋く重し。後忽ち反叛せば、労費必ず甚だし。故に粗に綱紀を設け、自然に久定す。臣謂う、亮の策は、誠に羈縻蛮夷の要を尽くす。今姚州の官属は、即ち固辺厭寇の心無く、又亮の且つ縱かしめ且つ擒うるの伎無し。唯だ詭謀狡算を以て、恣りに情を割剝し、酋渠を扇動し、遣わして朋党を成さしむ。支を折りて諂笑し、蛮夷に媚を取り、跪き伏して趨り、復た恥と為すこと無し。子弟を提挈し、兇愚を嘯引し、聚い会いて蒲博し、一擲累万。凡そ逃亡の命を逋るる者彼の州に在るは、戸赢二千、専ら剽奪を事とす。且つ姚州は本龍朔中武陵主簿石子仁の奏置する所、其の後長史李孝讓・辛文協群蛮に死し、詔して郎将趙武貴を遣わして討撃せしむるも、兵噍類無く、又將軍李義総を以て継ぎ往かしむるも、郎将劉恵基戦死し、其の州遂に廃す。臣窃かに以うるに、亮に三不易有り、其の言卒に験わる。

垂拱中、蛮郎将王善宝・昆州刺史爨乾福復た州を置くことを請い、課税自ら支え、旁ら蜀に取らずと言う。置くに及び、州掾李棱蛮に殺さる。延載中、司馬成琛更に瀘南七鎮を置き、蜀兵を以て戍らしむ。蜀始めて擾る。且つ姚府総管五十七州の間、皆巨猾の遊客なり。国家官を設くるは、以て俗を正し奸を防がんと為す。而して恥無きの吏、敗謬此に至る。今劫害未だ止まず、恐らくは驚擾の禍日滋ん。宜しく姚州を罷め、巂府に隷し、歳時朝覲を蕃国と同じくすべし。瀘南諸鎮を廃し、而して関を瀘北に設け、命使に非ざれば、交通を許さず。巂の屯兵を増し、清良の吏を択びて以て之を統ぶべし。臣愚以為う、便なりと。

上疏したが採用されなかった。まもなく荊州大都督府長史となった。

長安年間、武后が狄仁傑に言った、「どこかで一人の奇士を得て用いたいものだ」。仁傑は言った、「陛下が文章と経歴を求めるなら、今の宰相李嶠・蘇味道で十分です。まさか文士が卑小で、天下の大事を成し遂げるのに足りないとお思いですか」。后は「そうだ」と言った。仁傑は言った、「荊州長史張柬之は年老いてはいるが、宰相の器です。用いれば必ず国のために節を尽くすでしょう」。即時に召して洛州司馬とした。ある日また人を求めた。仁傑は言った、「臣はかつて張柬之を推薦しましたが、用いられませんでした」。后は「昇進させた」と言った。仁傑は言った、「臣が宰相として推薦したのに司馬になったのは、用いたことにはなりません」。そこで司刑少卿を授け、秋官侍郎に昇進させた。後に姚崇が霊武軍使となり、出発しようとしたとき、后が詔を下して外司で宰相となれる者を挙げさせた。崇は言った、「張柬之は沈着で厚みがあり謀略があり、大事を断ずることができます。その人は年老いているので、ただ急いで用いるべきです」。即日に召見し、同鳳閣鸞臺平章事を拝し、鳳閣侍郎に進めた。

二張を誅殺するにあたり、柬之がまずその謀を発した。功により天官尚書・同鳳閣鸞臺三品・漢陽郡公に抜擢され、実封五百戸を与えられた。半年もたたないうちに、漢陽郡王として特進を加えられ、政事から罷免された。柬之はすでに権力を失い、襄州に帰って療養したいと願い、そこで襄州刺史を授けられた。中宗は詩を賦して餞別し、また詔して群臣に定鼎門外で餞別させた。州に至ると、部下を法によって統制し、親旧といえども容赦なく、ちょうど漢水が漲って城郭を嚙んだので、柬之は塁を利用して堤とし、激流の勢いを防ぎ、全境がこれに頼った。また王爵を辞退しようとしたが、許されなかった。まもなく貶謫に及び、また瀧州に流され、憂憤して卒した。享年八十二。景雲元年、中書令を追贈し、諡して文貞といい、一子に官を授けた。柬之は剛直で付和雷同せず、また学問に深く、書を論じて数十篇を編んだ。

子に願・漪がいた。願は官に至って襄州刺史となった。漪は著作佐郎として父に従い襄陽におり、家の功績を頼みとして郷人をぞんざいに扱い、郷人はこれを怨んだ。

初め、易之らが誅殺された後、中宗がまだ監国として武氏の廟に告げたところ、天が久しく曇って晴れなかった。侍御史崔渾が奏上した、「陛下が国を復興されたなら、唐家の位号を正し、天下の心に応ずべきです。どうしてまだ武氏の廟に告げられるのですか。これを毀ち、唐の宗廟を復するようお願いします」。帝は嘉納した。この日詔書が下ると、曇りが晴れ、皆が天人の応であると思った。

袁恕己

袁恕己は滄州東光の人である。累任して司刑少卿となり、相王府司馬を兼ねた。二張誅殺に参与し、また相王に従って南衙の兵を統率し非常事態に備え、功により銀青光禄大夫・中書侍郎・同中書門下三品を加えられ、南陽郡公に封ぜられ、実封五百戸を与えられた。

将作少匠楊務廉という者は、工巧をもって進んだ。恕己は彼がまた遊興と奢侈の端を開くことを恐れ、中宗に言った、「務廉は九卿の位にありながら、忠言や良策は聞こえず、ひたすら建築に専念して上に媚びています。斥けなければ、徳を明らかにすることはできません」。そこで陵州刺史を授けた。

まもなく、中書令・特進・南陽郡王を拝し、政事から罷免された。例に及んで貶謫され、また環州に流され、周利貞に迫られて、恕己は平素から黄金を服用していた。この時、野葛を数升飲んだが死なず、憤懣して土を掬って食べ、爪が尽きても絶えず、遂に打ち殺された。諡して貞烈といった。孫に高がいる。

恕己の孫 高

高は字を公頤という。若い頃から慷慨として節操があった。進士に及第した。代宗の時、累進して給事中となった。建中年間、京畿観察使を拝したが、連座して貶められ韶州長史となり、また給事中を拝した。徳宗が盧杞を起用して饒州刺史としようとしたとき、高が詔を起草すべきところ、宰相の盧翰・劉従一に会って言った、「杞が国政を執ったとき、偽りを矯め陰険に賊害し、忠義を斥け、明徳を侮り、天の常道を反易し、宗廟をして守りを失わせ、天下に禍害をもたらしました。朝廷が法をもって処置せず、わずかに貶黜を示しただけです。今また大州を授けようとすれば、天下は何と言うでしょうか」。翰らは喜ばず、舎人に命じて詔を作らせた。詔が出ると、高は執って下さず、奏上した、「陛下が杞を宰相に用いられてから三年、下に附き上を欺き、陛下をして草莽に在らしめました。群臣はその肉を食らいたいと願っても飽きません。漢の法では、三光が現れず、雨や旱魃が時ならざるときは、皆宰相が罪を請い、小さいものは免官、大きいものは誅殺されます。杞の罪は万誅に値しますが、陛下は誅殺せず赦し、ただ新州に貶しただけで、まもなくまた内に移し、今また刺史を拝させようとしています。誠に天下の望みを失います」。帝は言った、「杞は及ばなかったが、それは朕の過ちだ。朕はすでに再び赦した」。高は答えた、「杞は天性が詭険であり、及ばないのではなく、彼が本来そうなのです。赦すというのは、ただその罪を赦すのであって、刺史を授けるべきではありません。外廷にお尋ねになり、また中人に命じて民の意見を聞かれるよう願います。もし億兆の民が臣の言葉と異なるなら、臣は先に死を請います」。諫官もまた帝の前で力説した。帝は言った、「上佐とするのはよいか」。群臣は詔に従った。翌日、使者を遣わして高を慰めて言った、「朕は卿の言葉が切実であると思い、すでに奏の通りにした」。太子少保韋倫は言った、「高の言葉は勁挺であり、これぞ陛下の良臣です。優れた礼遇を加えるべきです」。

貞元二年、帝は大盗の後に関輔の百姓が貧しく、田の多くが荒れているのを憂い、詔して諸道から耕牛を集め、京兆府に委ねて勧課させた。地の広さに応じて牛を与え、五十畝に満たない者には与えないとした。高は、聖心の憂いは窮乏にあると考え、今田が五十畝に及ばない者は即ち窮人であるから、両戸で一牛を共に与えるよう請うた。従われた。卒した。享年六十。朝廷内外が嘆惜した。憲宗の時、李吉甫がその忠直を言上し、特に礼部尚書を追贈した。

文宗開成三年、また詔した、玄暐の曾孫の郢を監察御史とし、暉の曾孫の元膺を河南丞とし、柬之の四世孫の憬を寿安尉とし、恕己の曾孫の徳文を校書郎とした。初め、帝が御史中丞の狄兼暮に、仁傑の功績について尋ね、また五王の遺烈について言及したので、その子孫を求め、官をもって秩した。ただ彦範の後裔については聞こえなかったという。

贊にいう、五王は衛兵を率いて寵臣を誅し、唐室を中興し、十日と経たずして天下は平然とした。その謀は深かった。しかし中宗を英王と称し、諸武をことごとく誅さず、天子がこれによって威を借りることを許したのは、なんと浅はかであったか。禍の芽がひとたび開かれると、艶后や小児に乗ぜられ、劫持され辱められ、まるで豚を放つかのようであった。なぜか。また神がその明を奪い、韋氏の毒を厚くして、先天の業を興させたのであろうか。そうでなければ、李を安んじた功績は、漢の陳平・周勃よりもはるかに賢かったであろう。