張廷珪
張廷珪は、河南道済源県の人である。慷慨として志操と節度があった。進士に及第し、白水県尉に補せられた。制科に挙げられて異等となった。累進して監察御史に至り、糾弾は公平で公正であった。武后が天下の僧侶から税銭を徴収し、白司馬阪に仏祠を営もうとしたとき、廷珪は諫めて言うには、「四海の財を傾け、万民の力を尽くし、山の木を伐り尽くして塔とし、冶金の極みを尽くして像を造るも、なお有為の法に過ぎず、尊ぶに足らぬ。澗穴を埋め、虫蟻を圧殺すること、億万に及ぶ。工員は貧窮し、駆り使われて労苦し、飢渇により、疫病がまさに起こらんとしている。また僧尼は乞食して自らを養い、州県は督促して輸送させ、火急に迫り、売り払って充てるは、浮屠のいう随喜に非ず。今、天下は虚しく竭き、蒼生は凋弊している。まずは辺境を整え、府庫を充実させ、人力を養うべきである」と。后はこれを善しとし、長生殿に召し出して賞賜と慰労を厚くし、これにより工役を中止させた。
詔して河南・河北の牛羊、荊州・益州の奴婢を買い入れ、登州・萊州に監を置き、軍資を広めようとしたとき、廷珪は上書して言うには、「今、河南では牛疫が流行し、十頭に一頭も残っていない。詔では和市と雖も、抑奪に甚だしい。一律に買い上げれば価格の基準が定まらず、選別すれば官吏が賄賂を求める。これでは牛は再び疫病にかかり、農民は重ねて傷つく。高原の耕地が牧場に奪われ、両州には丁田が復たなくなり、牛羊が踏み荒らせば、挙境何を頼りとしようか。荊・益の奴婢は多く国家の戸口であり、奸豪が掠め買いし、一旦官に入れば、永く免れる期はない。南北は風土が異なり、至れば必ず病気を生ず。これは損あって益なし。また聞くところによれば、君主の恃むところは民にあり、民の恃むところは食にあり、食の資るところは耕にあり、耕の資るところは牛にある。牛が廃れば耕は廃し、耕が廃すれば食は去り、食が去れば民は亡び、民が亡びて何を恃んで君主たらんや。羊は軍国の急務ではなく、仮令繁殖させても、利を射るべからず」と。后はこれにより中止した。
張易之が誅殺された後、その党与を徹底的に処罰しようという議論があった。廷珪は建言して言うには、「古より革命を行うには、必ず人心を帰することを務め、刑罰で治めようとはしなかった。今、唐の歴数は移らず、天地は再び主を為す。仁徳の教化をもって寛大に宥すべきである。かつて易之が盛んな時、趨附奔走した者は半天下に及び、悉く誅すれば既に暴虐であり、一二を罰すれば法は平らかでない。一切を洗い流し赦すべきである」と。中宗はこれを容れた。
神龍初年、詔して白司馬阪に再び仏祠を営もうとした。廷珪はちょうど詔を奉じて河北に赴く途中、その場所を通りかかり、営築の労苦が甚だしいのを見て、思いを抑えきれず、上書して激しく諫争し、かつ言うには、「中興の初めより、詔書を下し、不急の務を弛め、少監楊務廉を斥けて、中外に示された。今、土木の工事が再び興り、前の詔に相応しくない。土を掘り木を伐り、生気を害している。願わくはこれを罷め、窮乏を和らげられたい」と。帝は省みなかった。まもなく中書舎人となった。再び遷って礼部侍郎となった。
玄宗の開元初年、大旱魃があり、関中は飢饉となった。詔して直言を求めた。廷珪は上疏して言うには、「古に多難は国を興し、深憂は聖を啓くという。事が危うければ志は鋭く、情が苦しければ慮りは深くなる故に、禍を転じて福と為すことができるのである。景龍・先天の間、凶党が乱を構え、陛下は神武をもって、氛垢を汛掃し、日月の照らすところ、潤沢を受けざるはなく、明らかなる上帝は、宜しく大いなる福を賜うべきである。しかるに近頃陰陽の候に過ちがあり、九穀は実りを失い、関輔は特に甚だしい。臣が天意を思うに、おそらく陛下が春秋に富み、一朝にして大功を成し、堯・舜を軽んじて法とせず、秦・漢を思って自ら高しとし給う故に、咎の異を明らかに示し、一日一日と慎み、大和を永く保たんことを欲し給うのであろう。これは皇天が陛下を眷顧すること深きによる。陛下はこの美しい御旨を奉じて畏れ慎まざるを得ないのではないか。誠に願わくは心を約め志を削ぎ、先王の書を考へ、素樸の道を敦くし、端士を登用し、佞人を放逐し、後宮を屏け、外廄を減らし、場に蹴鞠の戯れなく、野に従禽の楽しみ絶え、遠境を促し、県戍を罷め、惸独を恵み矜れ、薄き徭賦を蠲免し、淫巧を去り、珠璧を捐て、欲すべきものを見せずして、心を乱さしめ給わんことを。或いは天戒は畏るるに足らずと言うも、上帝が怒り、風雨迷錯し、荒饉日々に甚だしければ、もって下を済すこと無からん。或いは人の窮は恤むに足らずと言うも、億兆携離し、愁苦昏墊すれば、もって上を奉ずること無からん。これは安危の繫るところ、禍福の源である。どうして察し給わぬのか。今、受命伊始、華夷の百姓は清き耳を澄まして聴き、刮目して視て、聞見することを冀っている。何ぞ急にその望みを孤にせんや」と。
再び遷って黄門侍郎となった。監察御史蔣挺が法に坐し、詔して朝堂で決杖せんとしたとき、廷珪は執奏して言うには、「御史に譴ありと雖も、殺すべきは殺すべし、辱しむべからず」と。士大夫はその体を知るに服した。
王琚が節を持って天兵諸軍を巡行し、方に還ったところ、再び詔して塞下を行かせようとした。議者は皆、回紇を襲撃しようとするのだと言った。廷珪は五つの不可を陳べ、かつ言うには、「中国は歩兵多く騎兵少なく、人は一石の糧を携え、甲冑百斤を負い、盛夏に長駆し、昼夜休まず、労逸相絶すれば、その勢い敵せず、一なり。軍を出して敵を掩うには、兵数万なければ行うべからず、農を廃し饋送を広くすれば、飢歳には支えられず、二なり。千里を遠襲すれば、その誰か知らざらん。賊には斥候あり、必ず能く予防すべし、三なり。狄人は獣の如く磧漠に居り、これを石田に譬えれば、克つも補うこと無し、四なり。天下に豊年無く、人を養い兵を息むべき時なり、五なり」と。また十道按察使を復置し、州県を巡視することを請うた。帝は然りとしてこれを容れ、よって詔して陸象先らを分かちて十道に使わしめた。時に使者を遣わして繒錦を持たせ、石国に至り犬馬を買わせようとした。廷珪は言うには、「犬馬はその土地の気性に合わなければ飼育せず、珍禽異獣は国に育たず。遠方の人を労して異物を致すべからず。願わくは益なき故を省み、必然の急を救われ、天下の幸いとせられたい」と。
禁中の言葉を漏らした罪に坐し、沔州刺史に出された。頻りに蘇州・宋州・魏州の三州に転任した。初め、景龍年中、宗楚客・紀処訥・武廷秀・韋温らの封戸は多く河南・河北にあり、朝廷に諷して詔を下させ、両道の蚕産に適したものを、水旱の時にも蚕で租税を折納できるようにさせた。廷珪は言うには、「両道は大河に倚り、地は雄大で奥深く、股肱の地として人物が集まる。宜しくその歓心を得るべきであり、どうしてその患いを恤まずしてその力を尽くすことができようか。もし桑蚕に適するという理由で別税を加えるならば、隴右の羊馬、山南の椒漆、山の銅錫鉛鍇、海の蜃蛤魚鹽も、水旱の時には皆免れるべきであり、どうして河南・河北のみが王度の外にあることがあろうか。願わくは貞観・永徽の故事に依り、令に準じて折免されたい」と。詔して可とした。在官中は威徳と教化があった。入朝して少府監となり、範陽県男に封ぜられた。太子詹事をもって致仕した。卒す。工部尚書を贈られ、諡して貞穆といった。
廷珪は姿儀が雄偉で、八分書を善くし、李邕と親善であった。邕が仕途で躓くと、屡々上表してこれを推薦した。人はその方正で狷介なところを尊んだという。
韋湊
韋湊、字は彦宗、京兆府万年県の人である。祖父の叔諧は、貞観年中に庫部郎中となり、弟の吏部郎中叔謙、兄の主爵郎中季武と同省に在り、時に「三列宿」と号された。
湊は、永淳初年、初めて官に就き婺州参軍事となった。資州司兵に転じ、観察使房昶がその才能を認め、朝廷に上表し、揚州法曹に遷った。州人孟神爽は仁寿県令を罷め、豪奢で放縦、数々法を犯し、貴戚と交わり、吏は敢えて糾そうとしなかった。湊が取り調べて処罰し、杖殺したところ、遠近で服した。入朝して相王府の属官となった。時に姚崇が兼ねて府長史を務め、嘗て言うには、「韋子は識見遠大で文は詳らかである。我れ恨むらくはこれを得るの晩きを」と。六遷して司農少卿となった。宗楚客に逆らい、貝州刺史に出された。
睿宗が即位すると、鴻臚少卿を授けられた。太府に転じ、通事舍人を兼ねた。時に故太子重俊を改葬することとなり、詔を下して謚を加え、また李多祚らの罪を雪ぎ、官を贈ることを議した。湊が上言して曰く、
王者が号令を発するには、必ず大道に法り、善を善として顕著にし、悪を悪として明らかにするものである。賞罰を加えられぬ者には、行跡を考証して謚を立てて褒貶する。臣がその君を議し、子がその父を議して、「霊」や「厲」と称するのは、私をもって公を乱すことを敢えてしないからである。臣が伏して見るに、故太子と多祚らが北軍を擁し、宸居を犯し、扉を破り関を斬り、兵は黄屋を指し、騎は紫微に騰り、和帝(中宗)は玄武門に御して自ら順逆を諭されたが、太子は鞍に据わって自若とし、衆を督して止まなかった。逆党は非を悔い、兵を回して賊を執し、多祚は誅せられ、太子は乃ち遁れ去った。明日、帝は群臣に会し、涕を数行下して曰く、「ほとんど卿らと相見えざらんとす」と。その危うきこと甚だしいものであった。
臣子の礼として、君の位の前を過ぐれば必ず趨り、路馬の芻を蹙めば誅せられる。昔、漢の成帝が太子であった時、行くに馳道を絶つことを敢えなかった。秦の師が冑を免れて周の北門を過ぎた時、王孫満はその必ず敗れるを策した。これを推すならば、太子が宮中に兵を挙げたことは、悖逆こと甚だしい。三思父子を斬ったことを以てこれを嘉するならば、兵を弄して逆を討ち君父を安んずるは可なり。因りて自立を欲したならば、則ち是れ逆となる。又何ぞ褒めるべけんや。この時、韋氏の逆は未だ明らかでなく、義は未だ絶えておらず、太子にとっては母である。子に母を廃する理なし。中宗の命じてこれを廃せしめざれば、則ち又父を劫し母を廃するなり。且つ君或いは君たらずとも、臣安んぞ臣たらざるべけんや。父或いは父たらずとも、子安んぞ子たらざるべけんや。晋の太子申生は謚して恭と曰い、漢の太子拠は謚して戾と曰う。今、太子は乃ち節閔と謚す。臣の未だ諭せざる所なり。願わくは議謚する者と御前において質し、臣の言非なるや、甘んじて鼎鑊の誅を受け、大義を申して天下に示さん。臣の言是なるや、咸く氷解せしめ、復た異議をなさしむるなかれ。もし未だ然らずと曰わば、奈何ぞ後世の乱臣賊子に資として以て言い訳とせしめんや。宜しく謚を易えて経礼に合わしめ、多祚等の罪は「免」と云うて「雪」と云うべからず。
帝は瞿然として、内閣に引き入れ、労って曰く、「誠に卿の言の如し。既に爾りて、奈何とせん」と。対えて曰く、「太子は実に逆なり。以て褒むべからず。請う、行いを質して示さんことを」。時に大臣も亦改めることを重んじ、唯だ多祚等の贈官を罷むるのみであった。
景雲初年、金仙等観を造営するに当たり、湊が諫めて以て曰く、「今は農月にて功を興す。雖も資は公主より出づと雖も、高直にて庸を售れば、則ち農人は耕を捨てて雇を取り、末に趨り本を棄つ。恐らくは天下に其の饑えを受くる者有らん」。聴かず。湊が執り争い、以て「万物生育の時、草木昆蚑の傷伐甚だ多く、仁聖の本意に非ず」と。帝は外に詳議せしめる詔を下した。中書令崔湜・侍中岑羲が曰く、「公は敢えて是とするか」と。湊曰く、「厚禄を食みて、死を顧みず、況んや聖世には必ず死無からんや」。朝廷は為に費を減じて万計に及んだ。出でて陝・汝・岐三州刺史となった。
開元初年、靖陵に碑を建てんと欲し、湊は古の園陵には碑を立てず、又旱魃にて工を興すべからずと諫めて止めさせた。将作大匠に遷る。詔して孝敬皇帝の廟号を義宗と復す。湊諫めて曰く、「伝に云う、『必ずや名を正す』と。礼に、祖は功有り、宗は徳有り、其の廟は百世毀たず。商に三宗有り、周は武王を宗とし、漢の文帝は太宗、武帝は世宗と為す。歴代宗と称する者は、皆海内を制し、徳沢尊ぶべく、昭穆に列して、是を不毀と謂う。孝敬皇帝は未だ南面せず、且つ別に寝廟を立てたり。宗と称する義無し」。遂に罷めた。
右衛大将軍に遷る。玄宗謂いて曰く、「故事に、諸衛大将軍と尚書とは更に之を為す。近時職軽し。故に卿を用いて此の官を重んず。其れ辞する毋れ」。尋いで河南尹に徙り、彭城郡公に封ぜられる。時に洛陽主簿王鈞が賄賂の罪で死に抵る。詔して曰く、「両台御史・河南尹は吏の侵漁を縦す。《春秋》は帥を責むること重し。其れ湊を曹州刺史に出だし、侍御史張洽を通州司馬とせよ」。久しくして太原尹に遷り、北都軍器監を兼ね、辺備を修め挙げた。詔して時服を賜り労勉す。病に及んで、上医を遣わして臨治せしむ。卒す。年六十五。幽州都督を贈られ、謚して文と曰う。子に見素あり。
湊の子、見素。
見素、字は会微。質性仁厚。進士第に及第し、相王府参軍を授かり、父の爵を襲い、累擢して諫議大夫となる。天宝五載、江西・山南・黔中・嶺南道黜陟使となり、吏治を糺弾し、至る所震畏せしめた。文部侍郎に遷る。平判皆口に誦し、銓叙平允。官に頠求有れば、輒ち意を下して聴納し、人多く之を徳とした。
十三載、玄宗雨潦に苦しみ、六十日を閲し、宰相其の人に非ずと謂い、左相陳希烈を罷め、詔して楊国忠に大臣を審択せしむ。時に吉温幸を得て、帝之を用いんと欲す。温は安禄山に厚くせられ、国忠其の進むを懼れ、沮み止む。中書舎人竇華・宋昱と謀り、皆見素の安雅にして制し易きを以てす。国忠入りて帝に白す。帝も亦相王府の属たりし旧恩有りと以て、遂に武部尚書・同中書門下平章事・集賢院学士、門下省事を知らしむるを拝す。
明年、禄山表して蕃将三十二人を請うて漢将に代えんとす。帝之を許す。見素悦ばず、国忠に謂いて曰く、「禄山の反状天下に暴かる。今又蕃を以て漢に代う。難将に作らんとす」。国忠応ぜず。見素曰く、「禍の牙を知りて防ぐ能わず、禍の形を見て制する能わざれば、焉んぞ彼の相を用いん。明日当に懇ろに之を論ぜん」。既に入る。帝迎え諭して曰く、「卿等に禄山を疑う意有るか」。国忠・見素趨下し、涕を流して具に禄山の反すること明らかなり甚だしきを陳ぶ。詔して位に復せしめ、因りて禄山の表を帝の前に置きて乃ち出づ。帝中官袁思芸に令して詔を伝えしめて曰く、「此れ姑く忍びよ。朕徐ろに之を図らん」。是に由りて詔を奉ず。然れども毎に進見するに、嘗て帝に之を言わざること無し。帝其の語を入れず。未幾、禄山反す。帝に従い蜀に入る。陳玄礼の国忠を殺すに当たり、兵其の首を傷つく。衆声を伝えて曰く、「韋公父子を害する毋れ」。免るることを得たり。帝寿王に令して薬を賜り創を傅わしむ。巴西に次ぎ、詔して左相を兼ね、豳国公に封ぜらる。
粛宗立つ。房琯・崔渙と節を持ち伝国璽及び冊を奉じ、制命を宣揚す。帝曰く、「太子仁孝なり。去る十三載既に伝位の意有り。属に方に水旱有り、左右我を勧めて且つ須らく豊年を待てとす。今帝命を受く。朕は負を釈るるが如し。煩わしく卿等遠く去り、善く之を輔導せよ」。見素涕泣して拝辞す。又命じて見素の子諤及び中書舎人賈至を冊使判官と為し、順化郡にて粛宗に謁見せしむ。粛宗琯の名且つ旧きを聞き、虚懐以て之を待つ。見素嘗て国忠に附せしを以て、礼遇独り減ず。
是の歳十月丙申、星昴を犯す有り、見素帝に言ふ、「昴は胡なり。天道謫見す、応ずる所は人に在り、禄山将に死せんとす」と。帝曰く、「日月知る可き乎」と。見素曰く、「福は徳に応じ、禍は刑に応ず。昴は金にして火を忌む、行当に火位に当たり、昴の昏中は、乃ち其の時なり。既に其の月に死し、亦た其の日に死す。明年正月申寅、禄山其れ殪せんか」と。帝曰く、「賊何如なる死ぞ」と。答へて曰く、「五行の説に、子は妻の生む所を視る。昴は丙申を以て犯す。金は木の妃なり、木は火の母なり。丙火は金と為り、子申も亦た金なり。二金は本同じく末異なり、還た以て相克す、賊殆ど子と首乱者と更に相屠戮するか」と。及て禄山死す、日月皆験す。
賛に曰く、楊国忠本安禄山と寵を争ふ、故に吉温を捕へて以て其の乱を激し、陰に蜀の貲を儲け、天子の出づるを待ち、則ち己と韋見素流涕して禄山の反状を争ひ、将に其の言を信じ、以て其の権を久しうせんとす。見素能く禄山の反を言ふも、能く其の反する所以を言はず、是れ国忠を佐けて王室を敗るなり、玄宗悟らず、仍て之を相とす。卒に後帝に薄くせらる、然れども猶其の要領を完うす、幸ひなり。見素を前知と謂ふは、果たして非なり。
見素の子 諤
諤京兆府司録参軍を歴む。国忠の死するや、軍聚解けず、陳玄礼貴妃を殺して以て衆を安んぜんことを請ふ、帝の意猶予す、諤諫めて曰く、「臣聞く、計を以て色に勝つ者は昌へ、色を以て計に勝つ者は亡ぶと。今宗廟震驚し、陛下神器を棄て、草莽に奔る、惟だ恩を割きて以て社稷を安んずるのみ」と。因りて頭を叩きて血を流す。帝寤り、妃に死を賜ふ、軍乃ち大いに悦ぶ。諤を擢て御史中丞と為し、置頓使と為す。乗輿将に行かんとす、或いは曰く、「国忠死す、蜀に往く可からず、河・隴に之くを請ふ」と、或いは太原・朔方・涼州に幸するを請ひ、或いは京師の如くすと曰ふ、雑然として一ならず。帝の心蜀に向ふも、言ふ能はず。諤曰く、「今兵少なく、賊を捍ぐ能はず、京に還るは万全の計に非ず、扶風に至り、徐ろに去就を図るに如かず」と。帝衆に問ふ、衆之を然りとす、遂に扶風に至り、乃ち西幸を決す。後終に給事中。
諤の従子 顗
顗、字は周仁、諤の弟益の子なり。蚤く孤と為り、姉に事へて恭順なり。長ずるに及び、身帛を衣せず。陰陽象緯に通じ、山川風俗を博く知り、論議曲拠す。門調を以て千牛備身を補す。鄠尉より判入等し、万年尉を授く。御史・補闕を歴む、李約・李正辞と更に進みて諷諫し、数たび大事を移す。裴垍・韋貫之・李絳・崔群・蕭俯皆布衣の旧なり、継ぎて宰相と為り、朝廷の典章多く諮逮す、嘗て曰く、「吾儕五人、智一韋公に及ばず」と。長慶初大理少卿と為る。累遷して給事中に至る。敬宗立ち、御史中丞を授け、戸部侍郎と為し、吏部に徙む。卒す、礼部尚書を贈らる。
著す所の『易縕解』、終始を推演し、深き誼有り。既に士を接するを喜び、後進造門せざる莫し。而して李逢吉方に党与を結び、国政を擅にし、頗る之に傅会す、素議遂に衰ふ。然れども節倹を以て自ら居り、天下其の尚を推すと云ふ。
見素の従子 知人
知人、字は行哲、叔謙の子なり。弱にして古を好む。国子挙を以て校書郎を授かる。高宗の時、州参軍八人を擢て中臺郎と為し、知人は荊府兵曹より司庫員外郎に遷り、兼ねて司戎大夫事を判ず。未だ幾ばくもせずして卒す。子維・繩。
知人の子 維
維、字は文紀。進士対策高第、武功主簿を擢てる。乾陵に役を督め、会ふに歳饑し、力を均しくして功を勧め、人労を知らず。徐敬業の親に坐し、五泉主簿に貶せらる。内江令に徙め、民に耕桑を教ふ、県之を刻して頌す。戸部郎中に遷り、裁剖に善くし、時に員外宋之問詩に善くす、故に時に「戸部二妙」と称す。終に太子右庶子。
知人の子 繩
繩、文辞に長ず。宗属の孤幼を撫養して異情無し。孝廉に挙げらる、母老ゆるを以て仕へんことを肯はず。二十年を踰え、乃ち長安尉を歴む、威京師に行はる。監察御史に擢てられ、更に泗・涇・鄜三州刺史と為る。天宝初、入りて秘書少監と為り、玄宗文を尚び、其の職を尚書丞・郎の如く視る。繩是の図簡を刊し、善職を以て称せらる。終に陳王傅。
知人の孫 虚心
虚心、字は無逸、盧維の子なり。孝廉に挙げらる。大理丞・侍御史に遷る。神龍年中、大獄を按ずるに、僕射竇懷貞・侍中劉幽求は軽重を加えんとすれども、虚心は正に拠りて橈まず。景龍年中、羌の叛くに属し、既に禽捕するも、詔ありて悉く誅せんとす。虚心は唯だ酋長の死を論じ、其の余を原活す。御史中丞に遷る。荊・潞・揚の三大都督府長史を歴任す。荊州に郷豪あり、勢いに負い法を干す。虚心は其の資を籍して官に入る。廬江に盗賊多きを以て、遂に舒城を県とし、盗賊衰微す。入りて工部尚書・東京留守と為る。累ねて南皮郡子に封ぜられ卒す。揚州大都督を贈られ、謚して正と曰う。弟虚舟、洪・魏二州刺史を歴任し、治名有り。入りて刑部侍郎と為る。
初め、維が郎たりし時、廷に柳を蒔く。虚心兄弟の郎省に居るに及び、之に対すれば輙ち容を斂む。叔謙の後より、郎中に至る者数人、世に「郎官家」と号す。
韓思復
韓思復、字は紹出、京兆長安の人なり。祖倫、貞観年中に左衛率を歴任し、長山県男に封ぜらる。思復は少くして孤と為り、年十歳、母為に父の亡き状を語るに、感咽して幾くんぞ絶えんとす。故に倫は特に之を愛し、嘗て曰く「此の児必ず吾が宗を大にせん」と。然れども家富み、金玉・車馬・玩好未だ嘗て省みず。篤く学び、秀才高第に挙げられ、祖の封を襲ぐ。永淳年中、家益々窶し。歳饑え、京兆の杜瑾なる者、百綾を以て思復に餉る。思復方に日に併せて食し、而して綾は完封して発たず。
梁府倉曹参軍に調ぜらる。会に大旱有り、輙ち倉を開きて民を賑わす。州劾責すれども、対えて曰く「人窮すれば則ち濫す。因りて之を活かすに如かず。盗賊と為るを趣けしむる無かれ」と。州能く詘すこと能わず。汴州司戸に転じ、仁恕にして、鞭罰を行わず。親喪を以て官を去り、薪を鬻ぎて自ら給す。姚崇、夏官侍郎たりし時、之を識り、司礼博士に擢ぐ。五遷して礼部郎中と為る。建昌王武攸寧、母亡くし、鼓吹を請う。思復、持して不可とし止む。王同皎に薦めらるるに坐し、始州長史に貶せらる。滁州刺史に遷る。州に銅官有り、人の鏟鑿尤も苦し。思復、他鄙に賈い、費省くして獲多し。黄芝五つ州署に生ず。民之が祥を頌するを刻む。襄州に徙る。
入りて給事中を拝す。帝、景龍観を作る。思復諫めて曰く「禍難初めて弭ぎ、土木遽かに興るは、物を憂え人を恤うの急に非ず」と。省みられず。厳善思、譙王重福の事に坐し、捕えられ詔獄に送らる。有司、善思を劾す「汝州刺史に任じ、王と游ぶ。京師に至り、王の謀を暴かず、但だ東都に兵気有りと奏す。反を匿し上を罔くす、誅に伏すべし」と。思復曰く「往くに韋氏内に擅り、社稷を危うくせんと謀る。善思、相府に詣り、陛下必ず即位すと白す。今詔して善思を追うも、書発するや即ち至る。逆節有る者をして、肯て遽かに奔命せしめんや。百官を集めて議せんことを請う」と。議多く同じ。善思死を免れ、静州に流さる。中書舎人に遷り、数たび得失を指言し、頗る納用せらる。
開元初め、諫議大夫と為る。山東大蝗有り。宰相姚崇、使を遣わし分道して捕瘞せしむ。思復上言す「河を夾む州県、飛蝗の至る所、苗輙ち尽く。今游食して洛に至る。使者往来すれども、敢えて顕言せず。且つ天災流行するは、庸ぞ尽く瘞すべけんや。陛下の過を悔い躬を責め、不急の務を損じ、至公の人を任じ、此の誠実を持して譴咎に答えんことを望む。其の蝗を駆る使は一切宜しく罷むべし」と。玄宗之を然りとし、其の疏を出して崇に付す。崇、思復を遣わし山東に使して損ずる所を按ぜしむるを建つ。還りて実を以て言う。崇又た監察御史劉沼を遣わし覆視せしむ。沼、宰相の意に希い、故牒を悉く易えて以て聞こゆ。故に河南数州の賦蠲かることを得ず。崇之を悪み、出して徳州刺史と為す。黄門侍郎を拝す。帝北巡するに、行在巡問賑給大使と為る。御史大夫に遷る。性恬淡にして、繩察を為すを喜ばず。太子賓客に徙り、伯に進爵す。累ねて吏部侍郎に遷る。復た襄州刺史と為り、治行天下に名有り。代わり還り、仍って太子賓客を拝す。卒す。年七十四。謚して文と曰う。天子親しく其の碑に題して「有唐忠孝韓長山之墓」と曰う。故吏盧僎・邑人孟浩然、石を峴山に立つ。
初め、鄭仁傑・李無為なる者、太白山に隠居す。思復少くして二人に従い游び、嘗て曰く「子は清く識り貌古し。宰相に及ばざるを恨む」と。子朝宗。
思復の子 朝宗
朝宗、初め左拾遺を歴任す。睿宗詔して乞寒胡戯を作らしむ。諫めて曰く「昔、辛有、伊川に過ぎ、髪を被りて祭るを見、其の必ず戎と為らんことを知る。今の乞寒胡は、古に非ず法に不法、乃ち狄と為らんか。又た道路藉藉として、皆皇太子微服して之を観ると言う。且つ匈奴邸に在り、刺客卒然に発せば、大憂測るべからず。白龍魚服するは、深く畏るべし。況んや天象変見し、疫癘相仍う。兵を厭い陰を助くるは、是れ益無しと謂う」と。帝善しと称し、特に中上考を賜う。帝位を太子に伝う。朝宗と将軍龐承宗諫めて曰く「太子は睿聖と雖も、宜しく且く盛徳を養成すべし」と。帝聴かず。累ねて荊州長史に遷る。
朝宗の孫 佽
朝宗の孫佽、字は相之、性清簡なり。元和初め進士に第せらる。山南東道使府より入りて殿中侍御史と為る。累ねて桂管観察使に遷る。部二十余州、参軍より県令に至るまで慮るに三百員、吏部の補う所才十一、余は皆観察使の才を商って職を補う。佽下車するや、悉く来り謁す。一吏籍を持して缺員を補わんことを請う。佽教を下して曰く「官に居りて治むれば、吾奪わず。其の法を奉ぜざれば、縱舍を望む無かれ。缺くる者は、須らく籍に按じて任すべきを取って之を任ぜよ」と。会に春服使至る。郷に豪猾有り、厚く進み賄して使者に求めて県令と為らんとす。使者佽に請う。佽之を許す。既に去りて、郷豪を召し法を橈すを責め、其の背を笞し、以て部中に令す。是より豪右畏れて戢む。時に詔して五管監兵を置く。境を尽くす賦も其の費を充たすに足らず。佽儉約を以て処すれば、遂に定制と為る。衆以て難しと為す。卒す。工部侍郎を贈らる。
宋務光
後王過を聞くを楽めば、興らざるは罔し。諫を拒めば、乱れざるは罔し。過を聞くを楽めば則ち下情通じ、下情通ずれば則ち政缺くること無し。此れ興る所以なり。諫を拒めば則ち群議壅がれ、群議壅がれば則ち上孤立す。此れ乱るる所以なり。
臣嘗て天人相与ふるの際を観るに、感有れば必ず応あり、其の間甚だ密なり。是を以て教此に失すれば、変彼に生ず。『易』に曰く、「天象を垂れて吉凶を見す、聖人これに象る」と。窃かに見るに、夏以来、水気勃戾し、天下多く其の災に罹る。洛水暴漲し、百姓を漂損す。『伝』に曰く、「宗廟を簡にし、祠祀を廃すれば、則ち水潤下せず」と。夫れ王者即位すれば、必ず天地を郊祀し、祖宗を厳配す。陛下御極より以来、郊・廟・山川時に薦見せず。又水は陰類、臣妾の道なり。気盛んなれば則ち水泉溢る。頃者虹蜺紛錯し、暑雨滞淫す、陰勝の沴なり。後廷近習或は中饋の職を離れて以て外政を幹く者有り。願はくは天変を深思し、其の萌を杜絶せられんことを。
又春より夏に及び、牛多く病死し、疫気浸淫す。『伝』に曰く、「之を思ふこと睿ならざれば、時に則ち牛禍有り」と。意ふらくは万機の事、陛下未だ躬親せざるか。晁錯曰く、「五帝其の臣及ばざれば、則ち自ら之を親む」と。今朝廷賢佐多しと雖も、然れども能く陛下の清光を仰ぐこと莫し。願はくは法宮に勤思し、大化に凝就し、万方を以て念と為し、声色を以て娛と為さず、百姓を以て憂と為し、犬馬を以て楽と為さざらんことを。臣聞く、三五の君も淫亢を免れずと。顧みるに備御は人の存するに在るのみ。災は細微より興り、之を安んじて怪しまず、禍変已に成るに及び、駭いて之を図るは、猶ほ水決して防を治め、病困して薬を求むるが如し。復た人黽俯すと雖も、尚ほ何をか救はんや。夫れ変を塞ぎ天に応ずるは、実に人事に係る。今霖雨有れば即ち坊門を閉づ。豈に一坊一市能く天道を感発せんや。必ず然らず。故に里人坊門を宰相と呼び、風雨を節宣する能ふと謂ふ。天工人代、乃ち虚設と為る。
又数年以来、公私覂竭し、戸口減耗し、家に接新の儲無く、国に俟荒の蓄乏し。陛下近く朝市を観れば、則ち既に庶く且つ富めりと為す。試みに閭陌を践めば、則ち百姓馬牛の衣を衣、犬彘の食を食ふこと、十室にして九、丁壮は辺塞に尽き、孀孤は溝壑に転ず。猛吏毒を奮ひ、急政資を破る。馬困すれば斯ち佚し、人窮すれば斯ち詐る。起ちて奸盗と為り、従ひて之を刑す、良に嘆ず可し。今人貧にして奢息まず、法設けて偽止まず。長吏貪冒し、選挙私を以てす。稼穡の人少なく、商旅の人衆し。願はくは坦然更化し、身を以て之に先んぜられんことを。凋残の後、其の力役を緩め、久弊の極、敦龐を以て訓ぜんことを。十年の外、生聚方に足らん。
臣聞く、太子は君の貳、国の本、器を守り祧を承け、民を養ひ業を賛する所以なりと。願はくは賢能を択び、早く儲副を建て、社稷を安んじ、黎元を慰められんことを。姻戚の間、謗議の集まる所、疑を積みて患と成り、寵に憑りて災を生ず。之を愛するは適ひて以て之を害するなり。武三思等の如きは、誠に機要に任ずべからず。国家の利器、庸ぞ久しく人に仮す可けんや。秘書監鄭普思・国子祭酒葉靜能は小道浅術を挟み、硃紫に列り、銀黄を取り、国経を虧き、天道に悖る。『書』に曰く、「治を未だ乱れざるに制し、邦を未だ危うからざるに保つ」と。此れ誠に治乱安危の秋なり。願はくは陛下佞人を遠ざけ、有徳に親しみ、乳保の母・妃主の家、時に接見し、媟黷せしむること無からんことを。
疏奏すれど省みられず。俄くに監察御史を以て河南道を巡察す。時に滑州は丁少なくして封戸多く、毎に封人を配すれば、皆亡命失業す。務光建言す、「通邑大都は以て封せず。今命侯の家専ら雄奥を択ぶ。滑州七県にして、分封する者五、王賦は侯租に少なく、入家は輸国に倍す。請ふらくは封戸を以て余州に均せんことを」。又請ふ、「食賦を附し租庸歳送し、封使を停め、伝驛の労を息まんことを」。見納せられず。考最を以て、殿中侍御史に進む。右臺に遷る。嘗て汝州参軍事李欽憲を薦む。後名臣と為る。卒す。年四十二。
時に又清源尉呂元泰有り。亦上書して時政を言ふ曰く、「国家は至公の神器、一たび正しければ則ち傾け難く、一たび傾けば則ち正しめ難し。今中興政化の始、幾微の際、慎まざる可けんや。頃より寺塔を営み、僧尼を度し、施与絶えず、所謂急務に非ざるなり。林胡数叛し、獯虜内侵し、帑蔵虚竭し、戸口亡散す。天下人失業して、太平と謂はず、辺兵未だ解けずして、無事と謂はず、水旱災と為りて、年登と謂はず、倉廩未だ実せずして、国富と謂はず。而るに乃ち饑凍を駆役し、木石を彫鐫し、不急を営構し、労費日深し。恐らくは陛下中興の要に非ざらん。比に坊邑相率ひて渾脱隊を為すを見る。駿馬胡服、名づけて『蘇莫遮』と曰ふ。旗鼓相当ふは、軍陣の勢なり。騰逐喧噪は、戦争の象なり。錦繡誇競は、女工を害す。督斂貧弱は、政体を傷つく。胡服相歓ぶは、雅楽に非ず。渾脱を号と為すは、美名に非ず。安んぞ礼義の朝を以て、胡虜の俗を法とせん。『詩』に云ふ、『京邑翼翼たり、四方是れ則とす』と。先王の礼楽に非ずして四方に則を示すは、臣未だ諭せず。『書』に曰く、『謀りて、時に寒きに若く』と。何ぞ必ずしも形体を臝にし、衢路に灌ぎ、鼓舞跳躍して寒を索めんや」と。書聞かれて報ぜず。
辛替否
辛替否、字は協時、京兆万年の人。景龍中左拾遺と為る。時に公主府官属を置き、而して安楽府の補授尤も濫る。武崇訓死し、主故宅を棄て、別に第を築き、侈費過度。又盛んに仏寺を興し、公私廃匱す。替否上疏して曰く、
古の官を建つるは必ずしも備はず。九卿位有りて其の選を闕く。故に賞僭れず、官濫れず。士完行有り、家廉節有り。朝廷奉余り、百姓食余り。下は上に忠し、上は下に礼す。委積倉卒の危無く、垂拱顛沛の患無し。夫れ事耳目を惕ましめ、心慮を動かすもの有り。事古に師ひずして以て今に行はる。臣之を言ふを得たり。陛下賞を百倍し、官を十倍増す。金銀印に供せず、束帛錫に充たず。何の愧か無用の臣・無力の士に愧ざらんところあらんや。
古語に曰く、「福は基より生じ、禍は胎より生ず」と。且つ公主は、陛下の愛子なり。賢を選びて之に嫁し、官を設けて之を輔け、府庫を傾けて之に賜い、壮麗なる第観を以て之に居らしめ、広大なる池御を以て之に嬉しませるは、至重至憐と謂うべし。然れども用いること古義に合わず、行うこと人心に根ざさず、将に愛を変じて憎と成し、福を転じて禍と為さんとす。何ぞや。人の力を竭し、人の財を費やし、人の家を奪うは、怨なり。一女を愛するに、天下に三怨を取る。辺疆の士をして力を尽くさず、朝廷の士をして忠を尽くさしむ。人心散ずるなり。独り愛する所を持するも、何をか恃まんとするか。向使魯王の賞、諸婿と同じからば、則ち今日の福有りて、曩日の禍無かりしならん。人は徒に其の禍を見るのみにして、禍の来る所を知らず。禍を為す所以の者は、寵過ぎるなり。今一宅を棄てて一宅を造り、前の悔を忘れて後の禍を忽せにする。臣窃かに謂う、陛下は乃ち之を憎むなり、之を愛するに非ざるなりと。臣聞く、君は人を以て本と為す。本固ければ則ち邦寧く、邦寧ければ則ち陛下夫婦母子長く相保つと。願わくは外に宰臣と謀り、久安の計を為し、奸臣賊子の以て之を伺う有らしむることなからしめんと。
今疆場は危駭し、倉廩は空虚し、卒の輸は充たず、士の賞は及ばず。而るに大いに寺宇を建て、広く第宅を造る。木を伐ること空山に、棟梁に給せず。土を運ぶこと路を塞ぎ、墻壁に充たず。所謂仏なる者は、清浄慈悲にして、道を体して物を済わしめ、利を以て人を損なわんと欲せず、身を栄えて教を害せんとせず。今三時の月に、山を掘り地を穿つは、命を損うなり。府を殫くし帑を虚しくするは、人を損うなり。広殿長廊は、身を栄やすなり。命を損うは則ち慈悲ならず、人を損うは則ち物を愛せず、身を栄やすは則ち清浄ならず。寧ろ仏者の心か。昔夏は天子たりしも、二十余世にして商之を受け、商二十余世にして周之を受け、周三十余世にして漢之を受く。漢より後、歴代知るべし。咸しく有道の者は長く、無道の者は短し。豈に金玉を窮め塔廟を修して久長の祚を享けんや。臣以為う、彫琢の費を減じて以て不足を周わすは、是れ仏の徳有り。穿掘の苦を息めて以て昆虫を全うするは、是れ仏の仁有り。営構の直を罷めて以て辺垂に給するは、是れ湯・武の功有り。不急の祚を回して以て廉清を購うは、是れ唐・虞の治有り。陛下は其の急なる所を緩め、其の緩なる所を急にし、未来を親しみ、見在を疎んじ、真実を失い、虚無を冀い、俗人の為す所を重んじて、天子の業を軽んず。臣窃かに之を痛む。
今財を出して勢に依り、役を避けて命を亡くす者、類て沙門に度さる。其の未だ度さざる者は、窮民善人のみ。親を抜き知を樹つるは、豈に朋党を離れんや。妻を畜え孥を養うは、私愛無きに非ず。是れ人をして道を毀たしむるなり、道を広めて人を求むるに非ざるなり。陛下常に池塹を填め、苑囿を捐てて、以て貧人を賑わさんと欲す。今天下の寺数無し。一寺は陛下の一宮に当たり、壮麗用度尚或いは之に過ぐ。天下の財の十分にして仏に七八有り。陛下何の有るか。役せしむるも食せざる人、衣せざるの士と雖も、猶尚給せず。況んや必ず天生地養、風動雨潤を待ちて後に之を得んや。臣聞く、国に九年の儲無きを、其の国に非ずと曰う。今倉廩を計り、府庫を度るに、百僚の共給、万事の用度、臣恐らくは歳を卒えざらんと。假如し兵旱相乗ずれば、則ち沙門は甲冑を擐く能わず、寺塔は饑饉を穣うに足らざらん。
帝省みず。睿宗立ち、斜封官千余人を罷む。俄に詔して之を復す。方に金仙・玉真観を営む。替否、左補闕を以て上疏して曰く。
臣謂う、古の用度時ならず、爵賞当たらず、国破れ家亡ぶる者は、口説くは身に逢うに若かず、耳に聞くは目に見るに若かず。臣請う、有唐の治道の得失を以て、陛下の及んで見る所を言わんと。
太宗は、陛下の祖なり。乱を撥き極を立て、至治の体を得たり。官を省み吏を清くし、天下の職司を挙ぐるに虚授無く、天下の財帛を用うるに枉費無し。賞は必ず功を待ち、官は必ず才を得たり。為すこと成らざる無く、征すること服さざる無し。寺観を多くせずして福祿至り、僧尼を度さずして咎殃滅ぶ。陰陽愆らず、五穀遂に成り、粟腐れ帛爛る。万里貢賦し、百蛮款に帰す。国を享くること久長にして、多年所を歴たり。陛下何を憚りて之に法らざるか。
中宗は、陛下の兄なり。先帝の業に居りて、先帝の化を忽せにし、賢臣の言を聴かずして、子女の意を悦ぶ。虚に禄を食む者数千人、妄に士を食む者百余戸。寺を造り財を蠹むこと数百億、人を度して租・庸を免ずること数十万。是の故に国家の出づる所日々に加わり、入る所日々に減ず。倉は半歳の儲に乏しく、庫は一時の帛無し。悪む所の者は逐い、逐うは必ず忠良。愛する所の者は賞し、賞するは皆讒慝なり。朋佞喋喋として、交いに相傾動す。百姓の食を奪いて以て残兇を養い、万人の衣を剝いて以て土木を塗る。人怨み神怒り、親忿み衆離る。水旱疾疫、六年の間に、三禍変と為る。国を享くること永からず、凶婦に終を受けて、万代に譏を取られ、四夷に笑を詒す。陛下の見る所なり。若し太宗の国を治むるに法らば、太山の安も致す可し。中宗の国を治むるに法らば、累卵の危も亦致す可し。
頃淫雨解けず、穀は壟に荒れ、麦は場に爛る。秋に入りて亢旱し、霜損じ蟲暴れ、草木枯黄す。下人咨嗟して、未だ済う所を知らず。而るに寺を営み観を造る、日時に継ぐ。道路流言す、計うるに緡錢百余万を用うと。陛下知るや、倉に幾歳の儲有り、庫に幾歳の帛有り、百姓何をか以て活かん、三辺何をか以て輸せんと。民散じ兵乱るるは、職て此れ由るなり。而るに百万を以て無用の観を構え、天下の怨を受く。陛下は太宗の治本を棄つるを忍び、中宗の乱階を棄つるを忍ばず。太宗の久長の謀を棄つるを忍び、中宗の短促の計を棄つるを忍ばず。何を以て祖宗を継ぎ、万国を観んや。陛下韋氏に在りし時、群兇に切歯せり。今貴きこと天子と為るも、其の事を改めず。恐らくは復た陛下に切歯する者有らん。
往時に明敕を見るに、一に貞観の故事を用う。且つ貞観に寺観を営み、浮屠・黄老を加え、無用の官を益し、不急の務を行うる者有りしや。往時和帝の悖逆を憐むや、宗晉卿第宅を為すを勧め、趙履溫園亭を為すを勧む。工徒未だ息まず、義兵交いに馳す。亭遊ぶを得ず、宅息むを得ず。邪僻の説を信じ、骨肉の刑を成す。陛下の見る所なり。今茲の二観、晋卿の徒の陰に勧めて之を為し、骨肉を娛しまんことを冀うに得ざらんや。察せざる可からず。惟うに陛下は二観を停めて以て豊年を須い、費やす所の財を以て貧窮に給し府庫を填めば、則ち公主の福窮まり無からん。
疏奏す。帝用うる能わず。然れども切直を嘉す。
稍く遷りて右臺殿中侍御史と為る。雍令劉少微、権を恃みて贓を貪る。替否之を按ず。岑羲屡りて以て請う。替否曰く、「我憲司と為り、勢を懼れて罪を縱うは、王法を何と謂わん」と。少微死に坐す。累遷して潁王府長史と為る。卒す。年八十。
李渤
李渤、字は浚之、魏の横野将軍・申国公李発の裔なり。父の鈞は殿中侍御史たりしが、母を養ふ能はざるを以て世に廃せらる。渤之を恥ぢ、仕ふるを肯はず、志を学に刻み、仲兄の涉と偕に廬山に隠る。嘗て列禦寇の粟を拒ぎしを以て、其の妻怒るは、是れ婦無きなり;樂羊子の金を捨つるを、妻之を譲るは、是れ夫無きなりとす。乃ち古へに徳高く蹈む者を聯ね、楚の接輿・老萊子・黔婁先生・於陵子・王孺仲・梁鴻の六人を以て、其の行を圖象し贊し、因りて以て自ら儆む。久しくして、更に少室に徙る。
元和の初め、戸部侍郎李巽・諫議大夫韋況交章して之を薦ぐ。詔して右拾遺を以て召す。是に於て河南少尹杜兼、吏を遣はし詔・幣を持ちて即ち山に敦促す。渤上書して謝して曰く、「昔、屠羊説言へる有り、『位は三旌、祿は萬鐘、屠羊より貴きを知る、然れども吾が君をして妄りに施すべからず』と。彼れ賤賈なりと雖も、猶ほ己を忘れ君を愛する能ふ。臣、榮を盜みて以て欲する所を濟はんと欲すと雖も、屠羊に愧ぢざるを得んや」と。拜さず。洛陽令韓愈、書を遺して曰く、
詔有り河南に拾遺公を敦喻す。朝廷の士、頸を引き東を望み、景星・鳳鳥の始めて見るが若く、先づ睹むを爭ひて快と爲す。方今天子仁聖、大小の事皆宰相より出づ。善言を樂しむこと聞くを得ざるが如く、大位に即くより此れ、凡そ出でて施す所の者、宜しきを得ざる無し。勤儉の聲、寬大の政、幽閨の婦女・草野の小子飽くまで聞きて厭ふて之を道ふ。愈、古に通ぜず、請ふ先生に問ふ、茲れ太平の世に非ずや。加ふるに又た人力に非ずして至る者有り、年穀屢く熟し、符貺委く至る。干紀の奸戰はずして拘累し、強梁の兇銷鑠縮慄し、風を迎へて委伏す。其の一事未だ正に就かざる有らば、成らざる人を視るが若し。四海の環る所、一夫甲にして兵する者無し。若し此時なり、遺公疾く起ちて天下の士と樂しみて之を享けざれば、斯れ時無きなり。昔、孔子爲すべからざるを知りて爲すを已めず、跡諸侯の國に接す。今、爲すべきの時、自ら深山に藏れ、牢く關して固く拒めば、即ち仁義の者と守りを異にせり。想ふに遺公、冠帶して車に就き、惠然として肯へて來り、畜積する所を舒べ、以て盛德の闕を補綴し、利時を加へ、名將來に垂れんことを。踴躍懷企し、頃刻を以て冀ふ。又た切に朝廷の議を聞くに、必ず遺公を起すとす。使者往きて若し許さずんば、即ち河南必ず行を繼げんとす。拾遺徵して若し至らずんば、更に高秩を加へんとす。是くの如く辭少にして就くこと多きは、廉を傷つけ義を害す。遺公必ず爲さざるなり。善人其の類を進むるは、皆公に望み有り。公起たざれば、是れ天子をして盡く良臣を得ざらしめ、君子をして盡く顯位を得ざらしめ、人庶をして盡く惠利を被らざらしむるなり。其の害細ならず。必ず審察して諦思ひ、務めて孔子の道に合はしむるを善とせよ。
渤、心に其の言を善しとし、始めて家を出で東都に至る。朝廷に闕政有る毎に、輒ち章を附して列上す。
至德以來、天下治平を致さんと思ひ、今に至るまで稱せざるは、人倦みて變を知らざるなり。天變通の運を以て陛下に遺す。陛下順ひて之を革せば、則ち悠久なり。平蔡の勢に乘じ、德を以て恆・兗を羈服し濟はざる無からしむべし。則ち恩威暢かなり。昔、舜・禹匹夫を以て四海に宅す、其の烈彼の如し。今、五聖を以て太平を營む、其の難此の如し。臣、宰相群臣術略を蘊晦し、啟沃未だ盡くさざる所有りて、陛下をして翹然として文・武・禹・湯を思ひて獲ざらしむるを恐る。宜しく六官を正し、九疇を敘し、王制・月令を修め、孝悌を崇くし、九族を敦くし、諫路を廣くし、選舉を黜し、俊造を復し、四民を定め、佛・老を省抑し、刑を明らかにし令を行ひ、兵を治め戎を御ふべし。願くは宰相公卿大夫に下し議せしめ、博く海内の名儒を引き、大いに學館を開き、群臣と參講し、經に據り古を稽へ、時に應じ俗に便なる者を以て、切磋周復せしめ、制度を作り、宣父の周を繼ぐの言に合はしむべし。謹みて五事を上る。一に禮樂、二に食貨、三に刑政、四に議都、五に讎を辨ず。
穆宗立ち、召して考功員外郎に拜す。歳終り、當に考を校すべし。渤、宰相より以下を升黜し、上奏して曰く、「宰相俯・文昌・值、陛下即位し、功を責むるに倚る。安危治亂之に繫るなり。方に陛下大臣を敬ひ、未だ左右に暱比し自ら驕るの心有らず。而して天下の事一に之を付す。俯等至公を推さず、先王の道德を陳べず、又た舊典を振拔せず、百司の本を復せず。政の興廢賞罰に在り。俯等一首公を慰め、天下の吏をして勸むる所あるを聞かず。一不職を黜し、尸祿をして懼るる所あるを聞かず。士の邪正混然として章無し。陛下比に驪山に幸す。宰相・學士皆股肱心腹、宜しく皆之を知るべし。事に先ちて諫めず、君を過に陷る。俯と學士杜元穎等、請ふ考中下。御史大夫李絳・左散騎常侍張惟素・右散騎常侍李益、驪山に幸するを諫め、鄭覃等畋游を諫む。事君の禮を得たり。請ふ考上下。崔元略當に考上下すべし。前に翬を考するに實ならず。翬賄を以て死す。請ふ中中に降す。大理卿許季同、翬を任ずる者、應に考中下すべし。然れども頃に劉闢に陷り、家を棄てて歸る。宜しく厥の過を補ふべし。考中中。少府監裴通職を修め舉ぐ。考應に中上すべし。母を封ずるに、嫡を舍てて生む所を追ふを以て、請ふ考中下」と。奏入りて、報ぜず。會に渤急を請ふ。馮宿考功を領す。「考課令歳中の善惡を取るを以て上下と爲し、郎中京官四品以下を校して黜陟す。三品以上を以て清望官と爲し、歳に名を進めて内考を聽く。有司の得て專にする所に非ず。渤舊事を舉げて褒貶と爲し、朝廷の制に違ふ。請ふ故事の如くせん」と。渤の議遂に廢す。
會に魏博節度使田弘正表して渤を副とす。元穎劾奏して曰く、「渤直を賣り名を售り、狂躁を資け、干進已まず、外に方鎮に交はりて尉薦を求む。朝に在るに宜しからず」と。出でて虔州刺史と爲る。渤奏して信州移稅錢二百萬を還し、賦米二萬石を免じ、冗役千六百人を廢す。觀察使狀を上る。歳を閱ずして、江州刺史に遷る。
職方郎中として朝廷に入り、諫議大夫に進んだ。時に敬宗は紫宸殿で朝を遅くし、入閣の際、帝が久しく出ず、群臣は屏風の外に立ち、ついには倒れ伏す者までいた。渤は宰相に会って曰く、「昨日は朝が遅いことを論じましたが、今日はさらに遅くなりました。これは諫官が主上の意志を動かせないからです。渤は閣を出て待罪いたします」と。ちょうど仗が呼ばれたので、やめた。退いて上疏して曰く、「今日入閣され、陛下は時に応じて群臣にお会いにならず、群臣は皆道に散らばり、足を引きずり寄りかかっております。足を引きずり寄りかかる姿が外に現れれば、憂いと思いは内に結ばれます。憂いと倦怠が積もれば、必ず災いが生じ、小さいものは旱魃や妖孽となり、大きいものは兵乱となります。《礼》に『三度諫めて聴かれなければ、逃れる』とあります。陛下は新たに即位され、臣が三度諫めました。社稷が危うくなることを恐れます」と。また言うには、「左右常侍の職は規諫することですが、沈黙を守って事を為さず、もし官を設けて実を責めないなら、罷める方がましです」と。まもなく理匭使を充てられ、建言して曰く、「大事なことは上聞に達し、次は宰相に申し出、下は有司に移す。有司が不当ならば、再び匭に投函することを許す。妄訴する者はその罪一等を加え、越訴を絶つ」と。詔で許可された。
時に政は近幸に移り、紀律は蕩然として無く、渤は剛直で患を顧みず、封事を通すのに日が欠けることがなかった。天子は幼く暗愚であったが、感寤し、給事中に抜擢し、金紫服を賜った。
五坊の卒が夜に闘い、県人を傷つけた。鄠県令崔発は怒り、吏に命じて捕らえさせたが、その一人は宦官であったので、釈放した。帝は大いに怒り、発を捕らえて御史獄に送った。大赦と改元があり、発は囚人として鶏竿の下に座らせられたが、まもなく宦官数十人が棒を持って乱打し、発は顔を傷つけ歯を折られ、ほとんど死にかけた。吏が哀願してようやく去った。やがて囚人たちは皆釈放されたが、発だけは赦されなかった。渤が上疏して曰く、「県令が宦官を引きずり辱め、宦官が御囚を殴打した、その罪は同じです。しかし県令の罪は赦前、宦官の罪は赦後であり、法に置かなければ、臣は四夷がこれを聞いて、侮り背く心を生じることを恐れます」と。渤はまた公然と言った、「以前、神策軍が幔城で、京兆尹が進上する食器の牙盤を奪い、時を移さずに処罰しなかったので、宦官がますます横暴になったのです」と。帝が左右に問うと、皆「そのようなことはない」と言った。帝は渤に党派があると思い、桂管観察使として出させた。ある日、宰相李逢吉らが帝に会って曰く、「発が宦官に暴行したのは、確かに不敬ですが、その母は故宰相韋貫之の姉で、八十歳、発を憂いて病気になっております。陛下は孝をもって治めておられます。少しでも延ばしては」と。帝は哀れに思って曰く、「これまで諫官はただ発が冤罪だとばかり言い、このことを語らなかった」と。すぐに使者を遣わして発を家に送り、その母を慰撫した。韋氏は詔を拝し、泣きながら使者に対し発を四十回杖った。それでも官を奪った。文宗の時に至り、発を懐州長史に用いた。
桂州には漓水があり、海陽山から出る。世に言うには、秦が史禄に命じて粤を伐ち、漕運のために開鑿し、馬援が徴側を討つ時、再び治めて糧運を通じさせた。後に江水に潰かれて毀たれ、渠は遂に浅く廃れ、毎回糧秣を輸送するのに、数十戸を役して一艘を渡していた。渤は旧道を浚渫し、堰き止め放流を適宜に行い、舟楫の便を良くした。一年余りして、病で洛陽に帰った。大和年中、召されて太子賓客に任じられた。卒す。年五十九。礼部尚書を贈られた。
渤は、孤高な操りを自ら守り、世に苟も迎合せず、人皆これを沽激と謂った。屡々言論で斥けられたが、剛直さは少しも衰えず、節を守る者はこれを尊んだ。
裴潾
裴潾は、本来河東聞喜の人である。篤学で、隷書を善くした。蔭任で仕えた。元和初め、累遷して左補闕となった。時に両河で用兵があり、憲宗は宦官を館驛使に任じ、出納を検査させた。曹進玉という者がおり、特に恩寵を恃んで甚だ倨傲であり、使者が通ると、引きずり辱めることさえした。宰相李吉甫が奏上してこれを罷めさせた。蔡州を伐つに当たり、再び中人に使を領させた。潾が諫めて曰く、「凡そ駅には、官が専らこれを掌り、畿内は京兆尹、諸道は観察使・刺史が監臨し、御史台はまた御史がこれを使として、過失欠陥を察します。それでも職務を果たさないなら、明らかに科条を以て督責すべきで、誰が恐れ慎まないでしょうか。もし再び宮闈の臣にこれを領させれば、内の人が外事に及び、職分が乱れます。事が善からぬ時は、初めに戒め、体制に非があれば、必ずしも大きくなくともです。今太平を開き、本を澄まし末を正す時、侵官の源、出位の漸を塞ぐべきです」と。帝は用いなかったが、その忠を嘉し、起居舎人に抜擢した。
帝は方士を喜び、柳泌が帝のために丹薬を調製し、長寿を求めた。帝が薬を服用すると、内に躁病と渇きを生じた。潾が諫めて曰く、
「天下の害を除く者は、常に天下の利を受け、天下の楽を共にする者は、常に天下の福を享けます。故に上は黄帝・顓頊・堯・舜・禹・湯・文・武より、皆功を以て生民を済い、天は皆耆寿を以て報い、栄えを垂れて疆界無し。陛下は孝を以て宗廟を安んじ、仁を以て黎庶を治め、襖兇を攘い剗ぎ、太平を再び張り、賢俊を賓礼し、終始を以て待ちます。神功聖徳は、前古の及ぶところではありません。陛下自らこれを行えば、天地宗廟は必ず陛下に億万の永きを相います。今、方士韋山甫・柳泌らが丹術を以て自ら神とし、互いに称え引き合い、詭りて陛下の延年を為します。臣は謂う、士で道ある者は皆名を匿し影を滅し、世に求めること無く、どうして貴近に干謁し、自らその伎を売るでしょうか。今来る者は、道を知ると言うのではなく、皆利を求めて来るのです。飛煉して神となると自ら言い、権勢と賄賂を誘い、偽り窮まり情実を得て、遁走逃亡を恥じません。どうしてその術を信じ、その薬を服用できましょうか。
臣は聞く、人は味を食い、声を別け、色を被って生くる者なり。味は以て気を行わしめ、気は以て志を実らしむ。水火塩梅を以て魚肉を烹り、宰夫これを和し、味を以てこれを斉う。君子これを食し、以てその心を平らぐ。三牲五穀は、五行を稟けて生じ、五味として発す。天地これを生じ、以て人に奉ず。聖人は節調し、以て康強を致す。薬剤というものは、疾を御するためのもので、常に進める餌でしょうか。況や金石の性は酷烈に託し、焼治すること積年、炎を包み毒を産し、容易に制すべからず。秦・漢の君もまた方士を信じました。盧生・徐福・欒大・李少君の如き、後皆詐譎にして成功無し。事は前策に暴かれ、皆験視すべし。
《礼》に曰く、『君の薬は、臣先ずこれを嘗む。父の薬は、子先ずこれを嘗む』と。臣と子は同じです。願わくは、調製した薬剤を、その者に服させ、一年を終えて真偽を考うれば、験し無きことはありません」と。
帝は怒り、江陵令に貶した。
穆宗が即位し、張泌らが誅殺されると、李潾を召し出し、再び刑部郎中に遷す。前率府倉曹参軍の曲元衡が民の柏公成の母を杖打ちして死なせたが、役所は死亡が辜限の外にあるとして、元衡の父の官蔭により贖金を推挙し、公成は賄賂を受け取って訴えず、赦免された。李潾が議して曰く、「杖捶は、官がその管轄する部下に施すものであり、管轄外の者に対しては、たとえ罪があっても必ず役所に請うべきであり、擅りに行ってはならないことは明らかである。元衡は官に在らず、公成の母はその管轄下に非ず、官蔭をもって免ずるべからず。公成は仇家より賄賂を取り、母の死を利とし、天性に逆らい、誅に伏すべきである」。詔があり、元衡は流罪、公成は死罪と論ぜられた。久しくして、給事中より汝州刺史となり、法を越えて人を杖打ちして即死させたため、太子左庶子として東都に分司す。左散騎常侍・集賢殿学士に遷り、刑部侍郎に改め、華州刺史となる。召されて兵部侍郎に拝し、出て河南尹となり、再び旧官に還る。卒し、戸部尚書を贈られ、諡して敬という。
李潾は道を以て自ら任じ、心を尽くして上に事え、党派への付和雷同を憎み、権勢近臣に操られなかった。嘗て古今の辞章を集め、梁の昭明太子の『文選』を継ぎ、自ら『大和通選』と号し、これを献上した。当時の文士で彼と交遊しなかった者は皆採らなかったので、世間はその狭量を恨んだ。憲宗は結局薬によって天下を棄てたので、世間はますます李潾が物言いを知っていたと謂う。
穆宗は張泌を誅したが、その後次第にまた方士に惑わされた。布衣の張皋という者が上疏して曰く、「神慮澹ければ則ち血気和らぎ、嗜欲勝れば則ち疾疹作る。古の聖賢は務めて自ら頤養し、外物をもって耳目を橈めず、声色をもって情性を敗らず、これによりて和平自ずから臻り、福慶用いて昌んず。『易』に『妄りなき疾、薬を用いずして喜び有り』とあり、『詩』に『天より康を降し、福穰穰として降る』とあり、これ天人の符なり。然らば則ち薬は以て疾を攻むるもの、疾無ければ薬を用いず。高宗の時、処士孫思邈は養生に達し、その言に曰く『人、故無くして薬を餌すべからず。薬は偏って助くる所あれば、則ち蔵気平らかならず』と。この論を推す、謂うべし達見至理なり。夫れ寒暑は賊となり、節宣度に乖れば、医に資する有り、尚お重んじて慎むべし。故に『礼』に称えて『医三世ならざれば、その薬を服さず』と。庶士すら然り、況んや天子においてをや。先帝は晩節方士を喜び、累危疾を致せり、陛下の自ら知る所、前の覆轍を蹈むべからず、後の悔いを迎うべからず。今人人窃に議すれども、ただ忤旨を畏れ、敢えて言う者無し。臣は蓬菣の生、寵を邀むるに非ず、顧みるに忠義為すべき者、聞きて黙すれば則ち安からず、願わくは陛下忽せにすること無かれ」。帝その言を善しとし、詔して張皋を訪わせたが、得られなかった。
李中敏
李中敏、字は藏之、系は隴西に出づ。元和年中、進士第に擢でられる。性剛峭、杜牧・李甘と善し、その文辞気節は大抵相上下す。沈伝師が江西を観察する時、判官として辟す。入りて侍御史に拝す。
累遷して諫議大夫となり、理匭使となり、建言す、「上書する者は匭に納めんとす、役所先ずその副を審らかにし、不可あれば輒ちこれを却す。臣謂う、匭は禁中より出で、暮れに入る、下の為に必ず達する路を開き、聡明を広め、枉りを直し結びを解く。若し役所先ず可否を裁くあらば、事重密ならざるを恐れ、窮塞自ら意を申すを得ざるなり。請う一にこれを上に裁せしめん」。詔して可とす。給事中に遷る。仇士良が開府の階をもってその子を蔭せんとす、中敏曰く、「内謁者監安んぞ子有らん」。士良慚恚す。これによりて復た官を棄て去る。開成末、婺・杭二州刺史となり、官に卒す。
李款
中敏の善くする所の李款、字は言源。長慶初め進士第に及第し、侍御史となる。鄭注が邠寧より朝に入るや、款は閣に伏して劾奏す、「注は内に敕使に通じ、外に朝臣を結び、両地に往来し、卜射賕謝す」。帝省みず。後漸く用いられ事有り、款は斥け去らる。注死し、倉部員外郎より累遷して江西観察使となる。終に澶王傅。
李甘
李甘、字は和鼎。長慶末、進士第に及第し、賢良方正異等に挙げらる。累擢して侍御史となる。鄭注が禁中に侍講し、宰相を求め、朝廷嘩然として将にこれを用いんとす。甘顕かに倡えて曰く、「宰相は天に代わりて物を治むる者、当に先ず徳望を重んじ、後に文芸をすべし。注何人ぞ、宰相を得んと欲する。白麻出ずれば、我必ずこれを壊さん」。既にして麻出ずるや、乃ち趙儋を以て鄜坊節度使と為す。甘は軽肆に坐し、封州司馬に貶せらる。而して李訓も内にまた鄭注を悪む、これによりて注は終に相ならず。甘は終に貶に終わる。
初め、河南の人楊牢、字は松年、至行有り。李甘未だ顕れざる時、書を以て尹に薦めて曰く、「執事の部の孝童楊牢、父茂卿、田氏の府に従い、趙軍反し、田氏を殺し、茂卿死す。牢の兄蜀、三たび往きて父の喪を索むるも、死を慮りて果たして至らず。牢自ら洛陽より常山二千里を走り、叛壘に号伏し、発を委て骸を羸れしめ、憐れむべき状有り、讎意感解し、尸を以てこれを還す。単縗冬月、往来太行の間、凍膚皸瘃し、哀を銜みて雨血す。行路稠人牢の為に泣き、帰りてその子を責め、牢を以てこれを勉む。牢が児として操を践むこと此の如し、未だ聞かず執事門を唁し書を以てこれを顕すを、豈に風を樹て教を扶くるの意ならんや。且つ鄕人は能く疽を嚙み昚を刳り、親の病を急ぐは、皆一時の決断なるのみ、猶おその閭を表し、これより徭を脱し、上に大礼有れば則ち粟帛を以て差問す。今河北驕叛し、万師も攘う能わざるに、牢は徒歩して仇の手より尸を請い、夫れ腐を含み瘡を忍ぶ者と孰れか多からん。牢は乳を絶つ即ち能く詩し、洛陽の児曹牢より壮なる者皆その下に出づ。牢の喪を贖うを聞き、潞帥その費を償い、その葬るや、滑帥財を賻す、これ執事の事、他人既にこれを篡えり。即ち牢を上に称する者有らば、執事能くその後を恨まざらんや」。その激卬自任この類い。牢後また進士第に擢でらる。
贊
賛して曰く、下をもって上を摩するは、士の甚だ患うる所なり、然れども名を取ること最も多し、故に上徳を失えば則ち下と名を争い、而して後に誅夷斥竄の事有り。然れども或いは古に依りて言を肆にし、高くして従い難く、以て主を邀えて直を賈う者は、これを逆らうは道を傷つくるに似たり、これを行うは時に切ならず、これ言事の常の弊なり。若し廷珪数子は、優游として弥縫し、皆時に中り病む、所謂直を賈いて自ら栄とする者に非ざるなり。渤の晏朝を争い、潾の方士を諫め、甘んじて鄭注の宰相と作すべからざるを斥け、寵を排し危を救うに至りては、爾ならざるを得ざるなり、賢なるかな。