新唐書

巻一百一十七 列傳第四十二 裴炎從子:伷先 劉禕之 魏玄同 李昭德 吉頊

巻一百一十七 列傳第四十二 裴炎從子:伷先 劉禕之 魏玄同 李昭德 吉頊

裴炎

原文裴炎

裴炎、字あざなは子隆、絳州聞喜の人なり。寛厚にして、寡言笑、奇節有り。弘文生に補せられ、休澣の日、他の生或いは出遊すれども、炎は読書して廃せず。有司其の状を薦めんと欲すれども、業未だ就かざるを以て、挙げられずと辞し、服勤十年、特に『左氏春秋』に通ず。明経に挙げられ及第す。濮州司倉参軍に補せられ、御史・起居舎人を歴任し、漸く黄門侍郎に遷る。調露二年、同中書門下三品となる。進みて侍中に拝せらる。高宗東都に幸す、皇太子を京師に留め、炎を以て調護せしむ。帝豫せず、太子国を監す、詔して炎と劉斉賢・郭正一をして東宮に於いて政事を平章せしむ。及び大漸に及び、遺命を受けて太子を輔け、是れ中宗なり。中書令に改む。旧くは、宰相門下省に於いて事を議し、政事堂と号す。長孫無忌は司空を以て、房玄齢は仆射を以て、魏徴は太子太師を以て、皆門下省事を知る。炎に至り、中書令を以て政事筆を執る故に、政事堂を中書省に徙す。

原文裴炎,字子隆,絳州聞喜人。寬厚,寡言笑,有奇節。補弘文生,休澣,它生或出遊,炎讀書不廢。有司欲薦狀,以業未就,辭不舉,服勤十年,尤通《左氏春秋》。舉明經及第。補濮州司倉參軍,歷御史、起居舍人,浸遷黃門侍郎。調露二年,同中書門下三品。進拜侍中。高宗幸東都,留皇太子京師,以炎調護。帝不豫,太子監國,詔炎與劉齊賢、郭正一於東宮平章政事,及大漸,受遺輔太子,是爲中宗。改中書令。舊,宰相議事門下省,號政事堂,長孫無忌以司空、房玄齡以仆射、魏徵以太子太師皆知門下省事,至炎,以中書令執政事筆,故徙政事堂於中書省。

中宗、后の父韋玄貞を侍中と為さんと欲し、及び乳媼の子に五品官を授けんとす。炎固く執りて従わず、帝怒りて曰く、「我意は国を玄貞に譲らんとす、豈に不可ならんや。何ぞ侍中を惜しまんや」と。炎懼れ、因りて武后と謀りて帝を廃せんとす。后、炎及び劉禕之に命じ、羽林将軍程務挺・張虔勖を率い兵を勒して宮に入り、太后の令を宣し、帝を扶けて殿より下らしむ。帝曰く、「我何の罪か有る」と。后曰く、「天下を以て玄貞に与うるは、安んぞ罪無からんや」と。乃ち帝を廃して廬陵王と為し、更に豫王を立てて皇帝と為す。定策の功を以て、永清県男に封ぜらる。

原文中宗欲以後父韋玄貞爲侍中及授乳媼子五品官,炎固執不從,帝怒曰:「我意讓國與玄貞,豈不可?何惜侍中邪?」炎懼,因與武後謀廢帝。後命炎洎劉禕之率羽林將軍程務挺、張虔勖勒兵入宮,宣太后令,扶帝下殿,帝曰:「我何罪?」後曰:「以天下與玄貞,安得無罪?」乃廢帝爲盧陵王,更立豫王爲皇帝。以定策功,封永清縣男。

后既に政を執り、稍々自ら肆にす。是に於いて武承嗣七廟を立て、其の先を追王せんことを請う。炎諫めて曰く、「太后は天下の母、盛徳を以て朝に臨み、宜しく至公を存すべし。祖考を追王するを容れず、自ら私するを示す。且つ独り呂氏の事を見ざるか」と。后曰く、「呂氏の王たるは、権生人に属す。今先世を追崇するは、在亡跡異なり、安んぞ同じくせんや」と。炎曰く、「蔓草は図り難く、漸は長ずべからず」と。后悦ばずして罷む。承嗣又た太后に諷して韓王元嘉・魯王霊夔を誅し、以て宗室の望みを絶たんとす。劉禕之・韋仁約は畏れて黙し敢えて言わず、炎独り固く争う。后愈々怒りを銜む。未だ幾ばくもせず、河東県侯の爵を賜う。

原文後已持政,稍自肆,於是武承嗣請立七廟,追王其先,炎諫曰:「太后天下母,以盛德臨朝,宜存至公,不容追王祖考,示自私。且獨不見呂氏事乎!」後曰:「呂氏之王,權屬生人,今追崇先世,在亡跡異,安得同哉!」炎曰:「蔓草難圖,漸不可長。」後不悅而罷。承嗣又諷太后誅韓王元嘉、魯王靈夔,以絶宗室望,劉禕之、韋仁約畏默不敢言,炎獨固爭,後愈銜怒。未幾,賜爵河東縣侯。

豫王と雖も帝と為るも、未だ嘗て天下の事を省みず。炎謀りて太后の龍門に出遊するに乗じ、兵を以て之を執り、政を天子に還さんとす。会うこと久雨にて、太后出でずして止む。徐敬業兵を興す。后之を討たんと議す。炎曰く、「天子年長ず。政に豫せざる故に、豎子に辞有り。今若し子に復して明辟せしめば、賊は討たずして解く」と。御史崔詧曰く、「炎は顧托を受け、身は大権を総べ、乱を聞きて討たず、乃ち太后に政を帰せんことを請う。此れ必ず異図有り」と。后乃ち炎を捕え詔獄に送り、御史大夫騫味道・御史魚承曄を遣わし参鞫せしむ。鳳閣侍郎胡元範曰く、「炎は社稷の臣、国に功有り、心を悉くして上に事え、天下の知る所なり。臣其の反かえせざるを明らかにす」と。納言劉斉賢・左衛率蒋儼継ぎて之を弁す。后曰く、「炎の反するに端有り、卿の未だ知らざるを顧みるのみ」と。元範・斉賢曰く、「若し炎反せば、臣輩も亦た反せり」と。后曰く、「朕は炎の反するを知る。卿輩は反せず」と。遂に都亭駅に於いて斬る。

原文豫王雖爲帝,未嘗省天下事。炎謀乘太后出遊龍門,以兵執之,還政天子。會久雨,太后不出而止。徐敬業兵興,後議討之,炎曰:「天子年長矣,不豫政,故豎子有辭。今若復子明辟,賊不討而解。」御史崔詧曰:「炎受顧托,身總大權,聞亂不討,乃請太后歸政,此必有異圖。」後乃捕炎送詔獄,遣御史大夫騫味道、御史魚承曄參鞫之。鳳閣侍郎胡元範曰:「炎社稷臣,有功於國,悉心事上,天下所知,臣明其不反。」納言劉齊賢、左衛率蔣儼繼辨之,後曰:「炎反有端,顧卿未知耳。」元範、齊賢曰:「若炎反,臣輩亦反矣。」後曰:「朕知炎反,卿輩不反。」遂斬於都亭驛。

炎劾せらるるに及び、或いは其の遜辞を勉む。炎曰く、「宰相獄に下る、理全うすべからず」と。終に節を折らず。其の家を籍す、担石の贏無し。初め、炎裴行儉の突厥とっけつを破り功有るを見て、之を沮薄し、乃ち降虜阿史那伏念等五十余人を斬る。議者は其の克を冒すを恨み、且つ国家をして四夷に失信せしむ。以て陰禍知る有りと為す。睿宗立ち、太尉・益州大都督を贈り、謚して忠と曰う。

原文炎被劾,或勉其遜辭,炎曰:「宰相下獄,理不可全。」卒不折節,籍其家,無擔石之贏。初,炎見裴行儉破突厥有功,沮薄之,乃斬降虜阿史那伏念等五十餘人,議者恨其冒克,且使國家失信四夷,以爲陰禍有知雲。睿宗立,贈太尉、益州大都督,謚曰忠。

元範は、申州義陽の人なり。介廉にして才あり。炎の故を以て、巂州に流死す。

原文元範者,申州義陽人。介廉有才,以炎故,流死巂州。

炎の従子 伷先

原文炎從子 伷先

炎の従子伷先。伷先未だ冠せず、蔭を推されて太僕丞と為る。炎死し、坐して嶺南に流さる。変を上り得失を面陳せんことを求む。後召見し、盛気を以て之を待ちて曰く、「炎謀反す、法当に誅すべし。尚何の道か有らん」と。伷先対えて曰く、「陛下は唐家の婦、身は先帝の顧命を荷う。今と雖も朝に臨むも、当に大臣を責任し、須らく東宮の年徳に就き成るを俟ち、子に復して明辟すべし。奈何ぞ遽かに諸武を王とし、宗室を斥けんや。炎は唐の忠臣にして、戮子孫に逮す。海内憤怨す。臣愚かに謂う、陛下宜しく太子を東宮に還し、諸武の権を罷むべし。然らずんば、豪傑時に乗じて動き、懼れざるべからず」と。后怒り、命じて曳き出だし、之を朝堂に杖ち、州に長流す。

原文炎從子伷先。伷先未冠,推蔭爲太仆丞。炎死,坐流嶺南。上變求面陳得失,後召見,盛氣待之,曰:「炎謀反,法當誅,尚何道?」伷先對曰:「陛下唐家婦,身荷先帝顧命,今雖臨朝,當責任大臣,須東宮年就德成,復子明辟,奈何遽王諸武、斥宗室?炎爲唐忠臣,而戮逮子孫,海內憤怨。臣愚謂陛下宜還太子東宮,罷諸武權。不然,豪傑乘時而動,不可不懼!」後怒,命曳出,杖之朝堂,長流州。

歳余り、逃れて帰る。吏に跡捕せられ、北庭に流さる。復た名檢無く、専ら賄に居り、五年にして数千万に至る。降胡の女を娶りて妻と為す。妻に黄金・駿馬・牛羊有り、財を以て自ら雄と為す。客数百人を養う。北庭より京師に属するまで、其の客多く、朝廷の事を廞诇し、聞き知ること十常に七八なり。時に補闕李秦授、武后の為に謀りて曰く、「讖言に『武に代わる者は劉』と。劉に強き姓無し。殆ど流人か。今大臣流放する者数万族、之をして葉乱せしむれば、社稷の憂いなり」と。后然りと謂い、夜に秦授を拝して考功員外郎と為し、使者を分走せしめ、墨詔を賜い、流人を尉安すと雖も、実は之を殺すを命ず。伷先前もって知り、橐駝に金幣・賓客を載せて突厥に奔る。行くこと未だ遠からず、都護兵を遣わして之を追い、格闘するも、執らるる所と為る。械を以て獄に繫ぎ、状を以て聞かしむ。会うこと武後、流人の已に誅せらるるを度り、天下の姍誚を畏れ、更に使者を遣わし十道を安撫し、好言を以て自ら解釈して曰く、「前に使者を遣わし罪有るを慰安せしむれども、朕が意を暁せず、擅に誅殺し、残忍不道なり。朕甚だ自ら咎む。今流人存する者は一切縱ちて還す」と。繇是伷先死せずを得。

原文歳餘,逃歸,爲吏跡捕,流北庭。無復名檢,專居賄,五年至數千萬。娶降胡女爲妻,妻有黃金、駿馬、牛羊,以財自雄。養客數百人。自北庭屬京師,多其客,廞诇朝廷事,聞知十常七八。時補闕李秦授爲武後謀曰:「讖言『代武者劉』,劉無強姓,殆流人乎?今大臣流放者數萬族,使之葉亂,社稷憂也。」後謂然,夜拜秦授考功員外郎,分走使者,賜墨詔,尉安流人,實命殺之。伷先前知,以橐駝載金幣、賓客奔突厥。行未遠,都護遣兵追之,與格鬥,爲所執。械繫獄,以狀聞。會武後度流人已誅,畏天下姍誚,更遣使者安撫十道,以好言自解釋曰:「前使使慰安有罪,而不曉朕意,擅誅殺,殘忍不道,朕甚自咎。今流人存者一切縱還。」繇是伷先得不死。

中宗位を復し、炎の後を求め、伷先に太子詹事丞を授く。秦・桂・広三州都督に遷る。累に坐して将に誅せられんとす。宰相張説の之を右するに頼り、官を免ぜらる。久しくして乃ち范陽節度使せつどし、太原・京兆尹を擢でらる。京師の官冗なるを以て、畿県の員外及び試官を罷むるを奏す。進みて工部尚書と為る。年八十六、東京留守を以て累ねて翼城県公に封ぜられ、官下に卒す。

原文中宗復位,求炎後,授先太子詹事丞。遷秦、桂、廣三州都督。坐累且誅,賴宰相張説右之,免官。久乃擢范陽節度使,太原、京兆尹。以京師官冗,奏罷畿縣員外及試官。進工部尚書。年八十六,以東京留守累封翼城縣公,卒官下。

劉禕之

原文劉禕之

劉禕之、字は希美、常州晉陵の人なり。父は子翼、字は小心、隋に在りて著作郎と為る。峭直にして行い有り、嘗て僚友の短を面折し、退いて余りの訾無し。李伯薬曰く、「子翼人を詈るも、人皆憾みず」と。貞観初め、之を召すも、母老いを以て辞す。詔して終養を許す。江南道巡察使李襲誉其の孝を嘉し、表して其の居る所を孝慈裏と為す。母既に喪し、召して呉王府功曹参軍に拝し、終に著作郎・弘文館直学士となる。

原文劉禕之,字希美,常州晉陵人。父子翼,字小心,在隋爲著作郎。峭直有行,嘗面折僚友短,退無餘訾。李伯藥曰:「子翼詈人,人都不憾。」貞觀初,召之,辭以母老,詔許終養。江南道巡察使李襲譽嘉其孝,表所居爲孝慈裏。母已喪,召拜吳王府功曹參軍,終著作郎、弘文館直學士。

禕之少くして孟利貞・高智周・郭正一と俱に文辞を以て称せられ、「劉孟高郭」と号し、並びに昭文館に直る。俄かに右史・弘文館直学士に遷る。上元中、元万頃等と偕に召されて禁中に入り、新書を論次とどますること凡そ千余篇。高宗又た密かに与に時政を参決し、以て宰相の権を分つ。時に「北門学士」と謂う。兄懿之、亦た給事中、両省に同ず。先ず是り、姉は内官と為る。武后、外家に遣わして疾を問わしむ。禕之因りて賀蘭敏之に私し之を省る。坐して巂州に流さる。後、丐いて還り、中書舎人を除かる。

原文禕之少與孟利貞、高智周、郭正一俱以文辭稱,號「劉孟高郭」,並直昭文館。俄遷右史、弘文館直學士。上元中,與元萬頃等偕召入禁中,論次新書凡千餘篇。高宗又密與參決時政,以分宰相權,時謂「北門學士」。兄懿之,亦給事中,同兩省。先是,姊爲內官,武後遣至外家問疾,禕之因賀蘭敏之私省之,坐流巂州。後爲丐還,除中書舍人。

儀鳳年間、吐蕃とばんが辺境を侵すや、帝は侍臣に訪ねてこれを処置し、討伐する方策を問うたが、人々の謀は異なり、禕之のみが帝を勧めて言うには、「夷狄は禽獣の如く、たとえ侵陵を受けても、これを論ずるに足らず、願わくは威を収め、百姓の急を緩められよ」と。帝はその言を内に納れた。まもなく相王府司馬に任ぜられ、検校中書侍郎となった。帝は彼に言うには、「卿の家は忠孝なり、朕の子は卿に頼って師の矩範を得ん、冀わくは蓬が麻の中に在りて扶けずして挺つが如くならんことを」と。

原文儀鳳中,吐蕃寇邊,帝訪侍臣所以置之、討之之宜,人人異謀,礻之獨勸帝:「夷狄猶禽獸,雖被馮陵,不足校,願戢威,紓百姓之急。」帝內其言。俄拜相王府司馬。檢校中書侍郎,帝謂曰:「卿家忠孝,朕子賴卿以師矩,冀蓬在麻不扶而挺也。」

後に則天武后が睿宗を立てて帝と為すや、その大議に参じたことを以って、ますます親しみ、中書侍郎・同中書門下三品に抜擢し、臨淮県男の爵を賜う。この時、詔令は叢雑繁瑣を極め、禕之の思致は華麗敏捷にして、裁断し口述するに、少しの間も待たずして成った。司門員外郎房先敏は累に坐して衛州司馬に貶せられ、相府に訴えると、内史騫味道は言うには、「太后のご旨なり」と。禕之は言うには、「これは上(皇帝)が有司の奏に従われたものなり」と。後にこれを聞き、味道が非を上に帰したとして、青州刺史に貶し、禕之に太中大夫を加え、物百段を賜う。後に因って言うには、「君は元首、臣は股肱なり、手足の疾を腹背に移すは、尚ほ一体と言えようか。禕之は咎を己に引き、忠臣なり」と。納言王德真が推して順じて言うには、「戴至徳は異才無しと雖も、ただ善を君に帰することを能くし、時に服せらる」と。后は言うには、「善し」と。後に私かに鳳閣舍人賈大隱に語りて言うには、「后は昏きを廃し明きを立てることを能くす、何ぞ政を反して以て天下を安んぜざる」と。大隱がその言を上表するや、后は怒って言うには、「禕之、乃ち我に背けり」と。垂拱年中、或る者禕之を告げて、帰誠州都督孫萬榮より金を受け、許敬宗の妾と私通せりと。太后は肅州刺史王本立を遣わして鞫治せしめ、敕を以って禕之に示すと、禕之は言うには、「鳳閣鸞臺を経ざれば、何をか敕と謂わん」と。后はこれをもって制使に拒むと為し、家に於いて死を賜う。年五十七。

原文後既立王爲帝,以其參奉大議,愈親之,擢中書侍郎、同中書門下三品,賜爵臨淮縣男。方是時,詔令叢繁,禕之思致華敏,裁可占授,少選可待也。司門員外郎房先敏坐累貶衛州司馬,訴於相府,內史騫味道謂曰:「太后旨。」禕之曰:「乃上從有司所奏雲。」後聞,以味道歸非於上,貶青州刺史,加禕之太中大夫,賜物百段。後因曰:「君爲元首,臣爲股肱,以手足疾移於腹背,尚爲一體乎?礻之引咎於已,忠臣也。」納言王德真推順曰:「戴至德無異才,惟能歸善於君,爲時所服。」後曰:「善。」後私語鳳閣舍人賈大隱曰:「後能廢昏立明,盍反政以安天下?」大隱表其言,後怒曰:「禕之乃負我!」垂拱中,或告禕之,受歸誠州都督孫萬榮金,與許敬宗妾私通,太后遣肅州刺史王本立鞫治,以敕示禕之,禕之曰:「不經鳳閣鸞臺,何謂之敕!」後以爲拒制使,賜死於家,年五十七。

初め、禕之が罪を得しとき、睿宗は旧属としてこれを申理せんとし、姻友も釈放を得んと冀った。禕之は言うには、「我れ死す。太后の威福は己に由り、而して帝の営救は、我が禍を速んずるなり」と。獄中に在って上疏して自ら陳ぶ。誅せられんとするに臨み、洗沐し、神色自若たり。その子に命じて筆を執らしめ表を口述せしむるに、子は号泣塞がりて書く能わず、禕之乃ち自ら筆を捉え、数紙を得たり。詞は懇ろにして哀切、人皆これを傷しむ。麟臺郎郭翰、太子文学周思鈞、その文を悵嘆す。后これを悪み、翰を巫州司法参軍に貶し、思鈞を播州司倉参軍に貶す。睿宗位を嗣ぐや、禕之に中書令を贈る。

原文初,禕之得罪,睿宗以舊屬申理之,姻友冀得釋。禕之曰:「吾死矣。太后威福由己,而帝營救,速吾禍也!」在獄上疏自陳。臨誅,洗沐,神色自若。命其子執筆占爲表,子號塞不能書,禕之乃自捉筆,得數紙,詞懇哀到,人皆傷之。麟臺郎郭翰、太子文學周思鈞悵嘆其文,後惡之,貶翰巫州司法參軍,思鈞播州司倉參軍。睿宗嗣位,贈禕之中書令。

郭翰は、嘗て御史となり、隴右を巡察す。多く按劾すべきものあり。寧州に次るに、時に狄仁傑刺史たり。民争って異政有りと言う。翰は館に就き、筆紙を案に置き、僚属に謂いて言うには、「其の境に入りて、其の政を知るべし。願わくは使君の美を朝に薦げ、久しく留まる毋れ」と。即ち駕を命じて去る。性寛簡にして、『老子』を読んで「其の光を和し、其の塵に同ず」に至り、慨然として言うには、「大雅の君子、以て其の身を保つ」と。乃ち憲官を辞し、麟臺郎に改まるという。

原文翰者,嘗爲御史,巡察隴右。多所按劾。次寧州,時狄仁傑爲刺史,民爭言有異政。翰就館,以筆紙置於案,謂僚屬曰:「入其境,其政可知,願薦使君美於朝,毋久留。」即命駕去。性寬簡,讀《老子》至「和其光,同其塵」,慨然曰:「大雅君子,以保其身。」乃辭憲官,改麟臺郎云。

魏玄同

原文魏玄同

魏玄同、字は和初、定州鼓城の人。祖父士廓、斉に仕えて軽車将軍となる。玄同は進士に擢第し、長安令に調ぜられる。累遷して司列大夫となる。上官儀と善しとすることに坐し、嶺外に流される。既に廃せられて後、自らを護り藉かばわず、乃ち馳逐して生事を為す。上元初年、赦に会って還り、工部尚書劉審礼その材を表し、岐州長史に拝ぜられる。再び吏部侍郎に遷る。永淳元年、詔して中書・門下と共に進止平章事を承受す。鉅鹿男に封ぜらる。選挙法の弊を言う上疏を上る。曰く、

原文魏玄同,字和初,定州鼓城人。祖士廓,仕齊爲輕車將軍。玄同進十擢第,調長安令。累官司列大夫。坐與上官儀善,流嶺外。既廢,不自護藉,乃馳逐爲生事。上元初,會赦還,工部尚書劉審禮表其材,拜岐州長史。再遷吏部侍郎。永淳元年,詔與中書、門下同承受進止平章事。封鉅鹿男。上疏言選舉法弊曰:

方今、人富を加えず、盗賊衰えず、礼誼薄らぐは、下吏職に称せず、庶官其の才に非ざるが故なり。人を取るの道、未だ尽くさざる所有るなり。武徳・貞観の時は、諸事草創、人物固より乏し。天、大聖を祚し、国を享くること永年、異人間出す。諸色の人流、歳に千計、官には常員有り、人には定限無く、選集猥りに至りて、十も一を収めず、取捨淆乱す。

原文方今人不加富、盜賊未衰、禮誼浸薄者,下吏不稱職,庶官非其才,取人之道有所未盡也。武德、貞觀,庶事草創,人物固乏。天祚大聖,享國永年,異人間出。諸色人流,歳以千計,官有常員,人無定限,選集猥至,十不收一,取舍淆紊。

夏・商以前は、制度多く闕けり。周に至りて、煥然として観るべし。諸侯の臣は皆天子に命ぜられず、王朝の庶官は一職に専らせず。穆王は伯冏を以って太仆正と為し、命じて曰く、「慎んで乃ち僚を簡べよ」と。これは自ら下吏を択ぶの言なり。太仆正は、ただ中大夫に過ぎざるに、尚ほ僚属をこれに委ぬ。則ち三公・九卿も亦た当然なり。故に太宰・内史は並びに爵禄の廃置を掌り、司徒・司馬は別に賢を興す詔事を掌る。是れ群司を分任して数職に統ぶるなり。王は其の大なる者を命じ、自ら其の小なる者を択ぶ。

原文夏、商以前,制度多闕。至周,煥然可觀。諸侯之臣不皆命天子,王朝庶官不專一職。穆王以伯冏爲太仆正,命曰:「慎簡乃僚。」此乃自擇下吏之言也。太仆正,特中大夫耳,尚以僚屬委之,則三公、九卿亦當然也。故太宰、內史並掌爵祿廢置,司徒、司馬別掌興賢詔事。是分任群司而統以數職,王命其大者,而自擇其小者。

漢の制、諸侯は自ら四百石以下の吏を置き、其の傅・相・大臣は則ち漢がこれを置く。州郡の掾史・督郵・從事は、悉く牧守にこれを任す。

原文漢制,諸侯自置吏四百石以下,其傅、相大臣則漢爲置之;州郡掾史、督郵、從事,悉任之牧守。

魏・晋以後より始めて吏部に帰し、今に至る。刀筆を以って才を量り、簿書を以って行いを察す。法は世と共に弊れり、其の来ること久し。尺丈の量、鍾庾の器、及ばざる所は則ち度る能わず、受けざる所は則ち容るる無し。況んや天下の大、士類の衆、数人の手に委すべけんや。又た其の任に屍しする者、間に其の選に非ざるあり、人為めに官を択び、身為めに利を択び、下筆は親疏に係り、措情は勢要を観る。悠悠たる風塵、此れに焉んぞ奔競せざらん。百行を一面に折し、九能を数言に断つ、亦た難からずや。

原文自魏、晉以後,始歸吏部,而迄於今。以刀筆量才,簿書察行,法與世弊,其來久矣。尺丈之量,鍾庾之器,非所及則不能度,非所受則無以容,況天下之大、士類之眾,可委數人手乎!又屍厥任者,間非其選,至爲人擇官,爲身擇利,下筆系親疏,措情觀勢要,悠悠風塵,此焉奔競,使百行折之一面,九能斷之數言,不亦難乎。

且つ臣聞く、官に蒞む者は、学無きべからずと。伝に曰く、「学を以って政に従うと聞くも、政を以って学に入ると聞かず」と。今、貴戚の子弟は一に皆早く仕え、弘文・崇賢・千牛・輦脚の類、程較既に浅く、技能亦た薄し。而して門閥素より有り、資望自ずから高し。夫れ所謂胄子とは、必ず諸学に裁せられ、少くしては業を受け、長じて官に入り、然る後に家事を移し国に事う、これを徳進と謂う。少くして仕うれば則ち学を務めず、軽く試みれば則ち才無し。又た勲官・三衛・流外の属は、州県の挙を待たず、直ちに書判を取る。先徳後言の誼に非ず。

原文且臣聞蒞官者,不可以無學。傳曰:「學以從政,不聞以政入學。」今貴戚子弟一皆早仕,弘文、崇賢、千牛、輦腳之類,程較既淺,技能亦薄,而門閥有素,資望自高。夫所謂胄子者,必裁諸學,少則受業,長而入官,然後移家事國,謂之德進。夫少仕則不務學,輕試則無才。又勛官、三衛、流外之屬,不待州縣之舉,直取書判,非先德後言之誼。

臣聞く、国の人を用うるは、人の財を用うるが如し。貧者は糟糠に止まり、富者は粱肉余す。故に衰弊の乏しきに当たっては、則ち朽鈍を磨策して以ってこれを馭し、太平多士の時は、則ち髦俊を遴柬して以ってこれを使う。今、選者は猥りに多く、宜しく簡練を急とすべし。窃かに制書を見るに、三品より九品に至るまで並びに士を薦むるを得と。これは誠に仄席旁求の意なり。但だ褒貶明らかならず、故に上は黜責を憂えず、下は尽く搜揚せず、挙ぶる所を慎まずして、苟くも命に応ずるなり。且つ惟れ賢は賢を知る、聖人の篤論なり。皋陶既に挙げられて、仁ならざる者遠ざく。身苟くも濫りに進まば、何ぞ人を知るに及ばん。挙ぶる者の賢を択ばずして、挙げらるる者の濫を責むるは、得べからざるなり。陛下の聖明、国家の徳業を以ってして、而も経久の策を建てず、ただ魏・晋の遺風を顧望するは、臣窃かにこれを惑う。願わくは少しく周・漢の規に遵い、以って吏部の選を分かたん。即ち用うる所詳らかにして、失う所鮮からん。

原文臣聞國之用人,如人用財,貧者止糟糠,富者餘粱肉。故當衰弊之乏,則磨策朽鈍以馭之;太平多士,則遴柬髦俊而使之。今選者猥多,宜以簡練爲急。竊見制書,三品至九品並得薦士,此誠仄席旁求意也。但褒貶不明,故上不憂黜責,下不盡搜揚,莫慎所舉,而茍以應命。且惟賢知賢,聖人篤論。臯陶既舉,不仁者遠。身茍濫進,庸及知人?不擇舉者之緊,而責所舉之濫,不可得已。以陛下聖明,國家德業,而不建經久之策,但顧望魏、晉遺風,臣竊惑之。願少遵周、漢之規,以分吏部選,即所用詳,所失鮮矣。

納れられず。進んで文昌左丞・鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺三品に拝ぜらる。地官尚書に遷り、検校納言となる。玄同は裴炎と交わりを締め、終始を保つことを能くす。故に「耐久朋」と号す。

原文不納。進拜文昌左丞、鸞臺侍郎、同鳳閣鸞臺三品。遷地官尚書,檢校納言。玄同與裴炎締交,能保終始,故號「耐久朋」。

先に、狄仁傑が太原の運送を監督し、米一万斛こくを失い、誅殺されんとしたが、玄同が救って免れた。ところが河陽令の周興はこれを知らず、数度にわたり朝堂で命令を待った。玄同が言うには、「明府は去るべし、久しく留まるなかれ」と。興はこれを己を沮むものと思い、恨みを抱き、この時に至って玄同を誣いて「太后は老いたり、皇嗣を復すべし」と言ったと告げた。后は察せず、家にて死を賜い、年七十三。初め、監察御史の房済が刑を監し、言うには、「丈人、何ぞ上変せざる。召見を冀い、自ら陳するを得ん」と。玄同は言う、「人に殺さるると鬼に殺さるるとは等しきのみ、告事人たることを為さじ」と。玄同の子、恬、字は安礼、親に事えて孝を以て聞こゆ。進士に及第し、御史主簿となる。開元中、潁王傅に至る。

原文先是,狄仁傑督太原運,失米萬斛,將坐誅,玄同救免。而河陽令周興未知也,數於朝堂聽命。玄同曰:「明府可去矣,毋久留。」興以爲沮己,銜之,至是誣玄同言「太后老矣,當復皇嗣」。後不察,賜死於家,年七十三。初,監察御史房濟監刑,謂曰:「丈人盍上變?冀召見,得自陳。」玄同曰:「人殺與鬼殺等耳,不能爲告事人!」玄同子恬,字安禮,事親以孝聞。第進士,爲御史主簿。開元中。至潁王傅。

李昭德

原文李昭德

李昭德は、雍州長安の人である。父は乾祐、貞観初めに殿中侍御史となった。鄃令の裴仁軌が門卒を私役し、太宗はこれを斬らんとしたが、乾祐は言う、「法令は天下と共にするもの、陛下独り有するに非ず。仁軌は軽罪を以て極刑に致すは、画一の制に非ず。刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所なし」と。帝の意解け、これにより死を免れた。侍御史に遷る。母卒し、墓側に廬し、土を負いて墳を成す。帝は使いを遣わして弔い、その閭を異とすることを表す。治書侍御史を歴任し、能名有り。永徽初め、御史大夫に擢でられ、褚遂良に悪まれて、邢・魏二州刺史として出される。乾祐は強直ながらも、小人に昵す。嘗て書を善き吏に与え、朝廷の事を刺取し、その辞を迷わし隠すが、吏に売られ、遂良が朝に発白し、流州に坐す。台拝して滄州刺史となる。入って司刑太常伯となり、雍州司功参軍の崔擢を挙げて尚書郎とす。報いを得ず、私に擢に所以然を語る。後に擢が罪を犯し、乾祐が禁中の語を漏らしたことを告げて自ら贖い、詔して官を免じ、卒す。

原文李昭德,雍州長安人。父乾祐,貞觀初爲殿中侍御史。鄃令裴仁軌私役門卒,太宗欲斬之,乾祐曰:「法令與天下共之,非陛下獨有也。仁軌以輕罪致極刑,非畫一之制。刑罰不中,則民無所措手足。」帝意解,繇是免死。遷侍御史。母卒,廬墓側,負土成墳。帝遣使就吊,表異其閭。歷治書侍御史,有能名。永徽初,擢御史大夫,爲褚遂良所惡,出爲邢、魏二州刺史。乾祐雖強直,而昵小人。嘗爲書與所善吏,刺取朝廷事,迷隱其辭,爲吏所賣,遂良白髮於朝,坐流州。臺拜滄州刺史。入爲司刑太常伯,舉雍州司功參軍崔擢爲尚書郎,不得報,私語擢所以然。後擢犯罪,告乾祐漏禁中語以自贖,詔免官,卒。

昭德は強幹にして父の風有り、明経に擢でられ、累官して御史中丞となる。永昌初め、事に坐して振州陵水尉に貶せられる。還って夏官侍郎となる。如意元年、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事を拝す。武后が神都を営むに、昭德は文昌台及び定鼎・上東諸門を規創し、標置華壮なり。洛に二橋有り、司農卿の韋機はその一を直ちに長夏門に徙し、民これを利す。その一橋は廃し、巨万の計を省く。然れども洛水歳々に淙嚙し、繕う者労を告ぐ。昭德始めて石を累ねて柱に代え、その前を鋭くし、暴濤を廝殺して、水怒る能わず、これより患い無し。俄かに内史を検校す。薛懷義が突厥を討つに、昭德を行軍長史とす。虜を見ずして還る。

原文昭德強幹有父風,擢明經,累官御史中丞。永昌初,坐事貶振州陵水尉。還爲夏官侍郎。如意元年,拜鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事。武后營神都,昭德規創文昌臺及定鼎、上東諸門,標置華壯。洛有二橋,司農卿韋機徙其一直長夏門,民利之,其一橋廢,省巨萬計。然洛水歳淙嚙之,繕者告勞。昭德始累石代柱,銳其前,廝殺暴濤,水不能怒,自是無患。俄檢校內史。薛懷義討突厥,以昭德爲行軍長史,不見虜還。

武承嗣が文昌左相に任ぜられしに、昭德諫めて言う、「承嗣は既に王なり、機衡を典すべからず、以て衆庶を惑わす。且つ父子猶お相い篡奪す、況んや姑侄をや」と。后は矍然として言う、「我これを思わざりき」と。乃ち承嗣を罷めて太子少保とす。洛陽人王慶之が険佞数百人を率いて承嗣を以て皇太子と為さんことを請う。后は許さず。固く請う。后は昭德を遣わしてその故を詰む。昭德は慶之を笞殺し、余党散走す。因りて奏して言う、「古より侄天子と為りて姑の為に廟を立つること有りや。親親を以て言えば、天皇は陛下の夫なり。皇嗣は陛下の子なり。子孫に伝うべきは万世の計なり。陛下は天皇の顧托を承けて天下を有ち、又承嗣を立てば、臣は天皇来りて食せざるを見ん」と。后は乃ち止む。承嗣は恨み、これを譖短す。后は言う、「我は昭德を任じて安枕を得るは、是れ我が労を代うるなり、汝の知る所に非ず」と。或る人洛水の白石にして赤文有るものを獲て、闕下に献じて言う、「此の石は赤心なり、故に以て献ず」と。昭德は叱して言う、「洛水の余石は豈に尽く能く反せんや」と。時に来俊臣・侯思止が文法を舞い、数えざる大臣を誅陥し、人皆懼れ慴る。昭德毎にその誣罔不道の状を奏し、遂に思止を榜殺し、その党稍々摧沮す。

原文武承嗣任文昌左相,昭德諫曰:「承嗣已王,不宜典機衡,以惑眾庶。且父子猶相篡奪,況姑侄乎?」後矍然曰:「我未之思也。」乃罷承嗣爲太子少保。洛陽人王慶之率險佞數百人請以承嗣爲皇太子,後不許;固請,後遣昭德詰其故。昭德笞殺慶之,餘黨散走。因奏曰:「自古有侄爲天子而爲姑立廟乎?以親親言之,天皇,陛下夫也;皇嗣,陛下子也。當傳之子孫爲萬世計。陛下承天皇顧托而有天下,又立承嗣,臣見天皇不來食矣。」後乃止。承嗣恨,譖短之。後曰:「吾任昭德而獲安枕,是代我勞,非而所知也。」有人獲洛水白石而赤文者,獻闕下曰:「此石赤心,故以獻。」昭德叱曰:「洛水余石豈盡能反邪?」時來俊臣、侯思止舞文法,數誅陷大臣,人皆懾懼。昭德每奏其誣罔不道狀,卒榜殺思止,其黨稍摧沮。

然れども昭德は頗る権を怙り、衆に指目せらる。魯王府功曹参軍の丘愔が上疏して言う、「臣聞く、魏冉は庶族を誅して以て秦を安んず、忠なり。諸侯を弱めて以て国を強くす、功なり。然れども出入自ら専にし、撃断無忌、威人主を震し、王有るを聞かず。張祿一言にして卒に憂死を用いらる。向使昭王即時に覚悟せずんば、則ち秦の覇業或いは子孫に伝えざらん。陛下天授以前、万機独断し、公卿百執具職のみ。長寿以来、細政に厭怠し、昭德を擢委し、権綱に乗総せしむ。而して才小任重く、負気強愎、下民を聾盲し、同列を芻狗し、慶賞を刻薄し、多く矯虔する所有り。声威翕習し、天下杜口す。臣伏して南台の敕目を見るに、群臣奏請し、陛下制して已に曰く『可』と。而して昭德建言して不可とし、制又これに従う。且つ人臣機密に参奉し、献可替否し、事或いは便利なれども、予め咨謀せずして、画可已に行われ、方に駁異を興す。是れ擅命を揚露し、以て人に示し、美を帰し咎を引く、誼此に類せず。一切奏讞、皆風指を承け、陰相傅会す。臣その胆を観るに、乃ち身より大なり。鼻息の沖する所、上りて雲漢を払う。夫れ小家生を治むるも、千百の貲有り、将に人に托せんとすれば、尚お授くるを失わんことを憂う。況んや天下の重きをや、軽く委寄すべけんや。履霜堅冰、その漸を防ぐを須う。大権一たび去れば、これを収むること良に難し。願わくは陛下臣の言を察せられよ」と。又果毅の鄧註が『石論』数千言を著し、その専恣を述ぶ。鳳閣舎人の逄弘敏以て聞こゆ。后これによりてこれを悪み、姚璹に謂いて言う、「誠に言う如くならば、昭德固より国に負う」と。乃ち欽州南賓尉に貶す。俄かに召して監察御史を授く。

原文然昭德頗怙權,爲眾指目。魯王府功曹參軍丘愔上疏曰:「臣聞魏冉誅庶族以安秦,忠也。弱諸侯以強國,功也;然出入自專,擊斷無忌,威震人主,不聞有王,張祿一言而卒用憂死。向使昭王不即覺悟,則秦之霸業或不傳子孫。陛下天授以前,萬機獨斷,公卿百執具職而已。自長壽以來,厭怠細政,擢委昭德,乘總權綱,而才小任重,負氣強愎,聾盲下民,芻狗同列,刻薄慶賞,多所矯虔,聲威翕習,天下杜口。臣伏見南臺敕目,群臣奏請,陛下制已曰『可』,而昭德建言不可,制又從之。且人臣參奉機密,獻可替否,事或便利,不豫咨謀,而畫可已行,方興駁異,是揚露擅命,以示於人,歸美引咎,誼不類此,一切奏讞,皆承風指,陰相傅會。臣觀其膽,乃大於身,鼻息所沖,上拂雲漢。夫小家治生,有千百之貲,將以托人,尚憂失授,況天下之重,可輕委寄乎?履霜堅冰,須防其漸。大權一去,收之良難。願陛下察臣之言。」又果毅鄧註著《石論》數千言,述其專恣,鳳閣舍人逄弘敏以聞。後由是惡之,謂姚璹曰:「誠如所言,昭德固負國矣!」乃貶欽州南賓尉。俄召授監察御史。

万歳通天二年、来俊臣が逆謀を以て誣う。既にして俊臣もまた獄に下り、同日に誅さる。時に甚だ雨多く、衆庶昭德を冤しまざる無く、俊臣を快しとす。神龍二年、左御史大夫を贈る。建中三年、司空を加贈す。

原文萬歳通天二年,來俊臣誣以逆謀,既而俊臣亦下獄,同日誅。時甚雨,眾庶莫不冤昭德而快俊臣。神龍二年,贈左御史大夫。建中三年,加贈司空。

吉頊

原文吉頊

吉頊は、洛州河南の人である。長さ七尺、性陰克にして、敢えて事を言う。進士に挙げられて及第す。明堂尉に調う。父の哲は易州刺史となり、賕に坐して死に当たる。頊往きて武承嗣に見え、自ら陳して二女弟有り、王の巾盥者に侍らんことを請う。承嗣喜び、犢車を以てこれを迎う。三日言わず。その故を問う。答えて言う、「父法を犯して将に死せんとす、故にこれを憂う」と。承嗣が表して哲の死を貸し、頊を龍監に遷す。

原文吉頊,洛州河南人。長七尺,性陰克,敢言事。舉進士及第。調明堂尉。父哲爲易州刺史,坐賕當死,頊往見武承嗣,自陳有二女弟,請侍王巾盥者。承嗣喜,以犢車迎之。三日未言,問其故,答曰:「父犯法且死,故憂之。」承嗣爲表貸哲死,遷頊龍爲監。

劉思禮が謀反す。頊上変事す。后は武懿宗に命じて雑訊せしめ、因りて囚を諷して近臣高閥生平に牾る所の者凡そ三十六姓を引き、捕えて詔獄に系し、搒楚百惨を以てその獄を成し、同日に論死す。天下これを冤む。右粛政台中丞に擢でらる。

原文劉思禮謀反,頊上變事,後命武懿宗雜訊,因諷囚引近臣高閥生平所牾者凡三十六姓,捕系詔獄,搒楚百慘,以成其獄,同日論死,天下冤之。擢右肅政臺中丞。

来俊臣が獄に下り、司刑死を以て当つとす。状三日下らず。頊武後に従い苑中に遊ぶ。因りて間言して言う、「臣は陛下の耳目たり、俊臣の状入りて出でざるを知る。人疑うを以てす」と。后は言う、「朕は俊臣に功有りとす、徐にこれを思う」と。頊は言う、「於安遠が虺貞の反を告ぐ、今は成州司馬たり。俊臣は忠良を誣殺し、罪悪山の如し、国の蝥賊なり、尚お何をか惜しまん」と。ここにおいて后は俊臣を斬り、而して安遠を召して尚食奉禦とす。

原文來俊臣下獄,司刑當以死,狀三日不下。頊從武後遊苑中,因間言:「臣爲陛下耳目,知俊臣狀入不出,人以爲疑。」後曰:「朕以俊臣有功,徐思之。」頊曰:「於安遠告虺貞反,今爲成州司馬。俊臣誣殺忠良,罪惡如山,國蝥賊也,尚何惜?」於是後斬俊臣,而召安遠爲尚食奉禦。

突厥が趙州・定州を陥落させると、検校相州刺史を授け、かつ兵を募って虜の南進を防がせようとした。頊は武事を知らぬと辞退すると、則天武后は言った、「賊は敗走しつつある、卿が坐して鎮めるのを頼みとするのみである」。初め、太原の温彬茂が高宗の時に死に、一笥の書を封じて、妻に託して言った、「我が死後、年が垂拱に及んだならばこれを献上せよ」。垂拱の初め、妻がその書を上ると、則天武后の革命の事および突厥が趙州に至って去ることを言っており、故に武后は虜がまさに還ることを知ったのである。頊が到着すると、兵士を募っても応じる者は無かったが、やがて詔して皇太子を元帥とすると、応募する者が日に数千となった。頊が還って状況を言上すると、武后は言った、「人心はかくの如きものか。卿は群臣にこれを語ってよい」。頊が朝でこの言葉を誦すると、諸武はこれを憎んだ。

原文突厥陷趙、定,授檢校相州刺史,且募兵制虜南向。頊辭不知武,後曰:「賊方走,藉卿坐鎮耳。」初,太原溫彬茂死高宗時,封一笥書,諉妻曰:「吾死後,須年及垂拱獻之。」垂拱初,妻上其書,言後革命事及突厥至趙去,故後知虜且還。頊至,募士無應者,俄詔以皇太子爲元帥,應募日數千。頊還言狀,後曰:「人心若是耶?卿可爲群臣道之。」頊誦語於朝,諸武惡之。

初め、頊は張易之・殿中少監田帰道・鳳閣舎人薛稷・正諫大夫員半千・夏官侍郎李迥秀と親しく、皆、控鶴内供奉となった。頊はまた強敏であったので、武后は腹心として頼りにした。聖暦二年、天官侍郎・同鳳閣鸞台平章事に進んだ。刺史であった時、武懿宗が契丹きったんを討ち、退いて相州を保った。殿中で功を争い、懿宗は醜く背が低く俯きかがんでいたので、頊は厳しい言葉でこれを責め、容赦するところが無かった。武后は怒って言った、「我が在世中は、諸武を頼みとしているが、他日どうして保てようか」。これを恨んだ。

原文始,頊善張易之、殿中少監田歸道、鳳閣舍人薛稷、正諫大夫員半千、夏官侍郎李迥秀,皆爲控鶴內供奉。頊又強敏,故後倚爲腹心。聖歷二年,進天官侍郎、同鳳閣鸞臺平章事。爲刺史時,武懿宗討契丹,退保相州。後爭功殿中,懿宗陋短俯僂,頊嚴語侵之,無所容假。後怒曰:「我在,乃藉諸武,它日安可保?」銜之。

張易之兄弟は寵愛が盛んなことを以て、自らの安泰を考え、頊に計らいを問うた。頊は言った、「公家は幸いによって進んだのであって、天下に対して大功が無く、勢い必ず危うい。我に不朽の策あり、これを献じたい。身を保つのみならず、かつ世々に封土を絶やさぬであろう」。易之が涙を流して請うと、頊は言った、「天下は唐を思うこと久しい。廬陵王は外に斥けられ、相王は幽閉されている。上は春秋高く、武氏の諸王は、海内が属望する者ではない。公何ぞ従容として相王・廬陵王を立て、人望に副うよう請わぬのか。これこそ弔いを賀いに変える資である」。易之・昌宗が隙を見て頊の教えの如くすると、武后の考えは定まった。後に頊が謀りごとに関わったことを知り、召見して様子を問うと、頊は答えて言った、「廬陵王・相王は皆陛下の子であり、先帝は陛下に顧み託された。速やかに付託すべきである」。そこで中宗を還した。

原文張易之兄弟以寵盛,思自全,問頊計安出。頊曰:「公家以幸進,非有大功於天下,勢必危。吾有不朽策,願效之,非止保身,且世世不絶胙。」易之流涕請,頊曰:「天下思唐久矣!廬陵斥外,相王幽閉。上春秋高,武諸王,非海內屬意。公盍從容請相王、廬陵,以副人望?易吊爲賀之資也。」易之、昌宗乘間如頊教,後意乃定。既而知頊與謀,召見問狀,頊對:「廬陵、相王皆陛下子,先帝顧托於陛下,當速有所付。」乃還中宗。

翌年、頊は弟が偽官を冒した罪に坐して琰川尉に貶せられ、辞去する際、召見されると、泣いて言った、「臣が国を去れば、再び謁すること無からん。願わくば言うところあり。然れども病は急なり、しばしの間を請う」。武后は座を命じると、頊は言った、「水土は皆一つの壺にある、争い有りや」。曰く、「無し」。曰く、「これをもって泥と為す、争い有りや」。曰く、「無し」。曰く、「泥をもって仏と道とを為す、争い有りや」。曰く、「これ有り」。頊は頓首して言った、「臣と雖も以て有りとす。そもそも皇子と外戚とは、分有れば両者安んず。今、太子は再び立てられ、外家の諸王は並び封ぜられている。陛下は何を以てこれを和せんとするか。貴賤親疏の明らかならざるは、これ必ず争わしむる所以であり、臣は両者安からざるを知る」。武后は言った、「朕は知っている。既に然るを、どうせん」。頊はまもなく始豊尉に移され、江都に客死した。

原文明年,頊坐弟冒僞官貶琰川尉,及辭,召見,泣曰:「臣去國,無復再謁,願有所言。然疾棘,請須臾間。」後命坐,頊曰:「水土皆一盎,有爭乎?」曰:「無。」曰:「以爲塗,有爭乎?」曰:「無。」曰:「以塗爲佛與道,有爭乎?」曰:「有之。」頊頓首曰:「雖臣亦以爲有。夫皇子、外戚,有分則兩安。今太子再立,而外家諸王並封,陛下何以和之?貴賤親疏之不明,是驅使必爭,臣知兩不安矣。」後曰:「朕知之,業已然,且奈何?」頊尋徙始豐尉,客江都,卒。

中宗が立ったのは、実に頊がこれを唱えたのであるが、罪を得たために、知る者無かった。睿宗の初め、その忠を明らかにする者があり、そこで詔を下して御史大夫を追贈した。

原文中宗之立,頊實倡之,會得罪,無知者。睿宗初,有發明其忠,乃下詔贈御史大夫。

賛

原文(段落全体)贊曰:異乎,炎之暗於幾也!知中宗之不君,不知武後之盜朝,假虎翼而責其搏人,死固宜哉!昭德、頊進不以道,君子恥之。雖然,一情區區,抑武興唐,其助有端,則賢炎遠矣。祎之、玄同漏言及誅,不失所以事君者雲。

賛して言う。異なるかな、炎の幾に暗きことよ。中宗の君たらずを知りて、武后の朝を盗むを知らず。虎に翼を仮してその人を搏つことを責む、死すること固より宜なり。昭德・頊は道を以て進まず、君子これを恥ず。然りと雖も、一情区区として、武を抑え唐を興す、その助けに端有り、則ち炎より賢ること遠し。禕之・玄同は言を漏らして誅せらるるも、以て君に事うる所以を失わざる者と云う。

原文(段落全体)贊曰:異乎,炎之暗於幾也!知中宗之不君,不知武後之盜朝,假虎翼而責其搏人,死固宜哉!昭德、頊進不以道,君子恥之。雖然,一情區區,抑武興唐,其助有端,則賢炎遠矣。祎之、玄同漏言及誅,不失所以事君者雲。