新唐書

巻一百一十七 列傳第四十二 裴炎從子:伷先 劉禕之 魏玄同 李昭德 吉頊

裴炎

裴炎、字は子隆、絳州聞喜の人なり。寛厚にして、寡言笑、奇節有り。弘文生に補せられ、休澣の日、他の生或いは出遊すれども、炎は読書して廃せず。有司其の状を薦めんと欲すれども、業未だ就かざるを以て、挙げられずと辞し、服勤十年、特に『左氏春秋』に通ず。明経に挙げられ及第す。濮州司倉参軍に補せられ、御史・起居舎人を歴任し、漸く黄門侍郎に遷る。調露二年、同中書門下三品となる。進みて侍中に拝せらる。高宗東都に幸す、皇太子を京師に留め、炎を以て調護せしむ。帝せず、太子国を監す、詔して炎と劉斉賢・郭正一をして東宮に於いて政事を平章せしむ。及び大漸に及び、遺命を受けて太子を輔け、是れ中宗なり。中書令に改む。旧くは、宰相門下省に於いて事を議し、政事堂と号す。長孫無忌は司空しくうを以て、房玄齢は仆射を以て、魏徴は太子太師を以て、皆門下省事を知る。炎に至り、中書令を以て政事筆を執る故に、政事堂を中書省に徙す。

中宗、后の父韋玄貞を侍中と為さんと欲し、及び乳おうの子に五品官を授けんとす。炎固く執りて従わず、帝怒りて曰く、「我意は国を玄貞に譲らんとす、豈に不可ならんや。何ぞ侍中を惜しまんや」と。炎懼れ、因りて武后と謀りて帝を廃せんとす。后、炎及び劉禕之に命じ、羽林将軍程務挺・張虔勖を率い兵を勒して宮に入り、太后の令を宣し、帝を扶けて殿より下らしむ。帝曰く、「我何の罪か有る」と。后曰く、「天下を以て玄貞に与うるは、安んぞ罪無からんや」と。乃ち帝を廃して廬陵王と為し、更に豫王を立てて皇帝と為す。定策の功を以て、永清県男に封ぜらる。

后既に政を執り、稍々自ら肆にす。是に於いて武承嗣七廟を立て、其の先を追王せんことを請う。炎諫めて曰く、「太后は天下の母、盛徳を以て朝に臨み、宜しく至公を存すべし。祖考を追王するを容れず、自ら私するを示す。且つ独り呂氏の事を見ざるか」と。后曰く、「呂氏の王たるは、権生人に属す。今先世を追崇するは、在亡跡異なり、安んぞ同じくせんや」と。炎曰く、「蔓草は図り難く、漸は長ずべからず」と。后悦ばずして罷む。承嗣又た太后に諷して韓王元嘉・魯王霊夔を誅し、以て宗室の望みを絶たんとす。劉禕之・韋仁約は畏れて黙し敢えて言わず、炎独り固く争う。后愈々怒りを銜む。未だ幾ばくもせず、河東県侯の爵を賜う。

豫王と雖も帝と為るも、未だ嘗て天下の事を省みず。炎謀りて太后の龍門に出遊するに乗じ、兵を以て之を執り、政を天子に還さんとす。会うこと久雨にて、太后出でずして止む。徐敬業兵を興す。后之を討たんと議す。炎曰く、「天子年長ず。政に豫せざる故に、豎子に辞有り。今若し子に復して明辟せしめば、賊は討たずして解く」と。御史崔詧曰く、「炎は顧托を受け、身は大権を総べ、乱を聞きて討たず、乃ち太后に政を帰せんことを請う。此れ必ず異図有り」と。后乃ち炎を捕え詔獄に送り、御史大夫騫味道・御史魚承曄を遣わし参鞫せしむ。鳳閣侍郎胡元範曰く、「炎は社稷の臣、国に功有り、心を悉くして上に事え、天下の知る所なり。臣其の反せざるを明らかにす」と。納言劉斉賢・左衛率蒋儼継ぎて之を弁す。后曰く、「炎の反するに端有り、卿の未だ知らざるを顧みるのみ」と。元範・斉賢曰く、「若し炎反せば、臣輩も亦た反せり」と。后曰く、「朕は炎の反するを知る。卿輩は反せず」と。遂に都亭駅に於いて斬る。

炎劾せらるるに及び、或いは其の遜辞を勉む。炎曰く、「宰相獄に下る、理全うすべからず」と。終に節を折らず。其の家を籍す、担石の贏無し。初め、炎裴行儉の突厥を破り功有るを見て、之を沮薄し、乃ち降虜阿史那伏念等五十余人を斬る。議者は其の克を冒すを恨み、且つ国家をして四夷に失信せしむ。以て陰禍知る有りと為す。睿宗立ち、太尉・益州大都督ととくを贈り、謚して忠と曰う。

元範は、申州義陽の人なり。介廉にして才あり。炎の故を以て、巂州に流死す。

炎の従子 伷先

炎の従子伷先。伷先未だ冠せず、蔭を推されて太僕丞と為る。炎死し、坐して嶺南に流さる。変を上り得失を面陳せんことを求む。後召見し、盛気を以て之を待ちて曰く、「炎謀反す、法当に誅すべし。尚何の道か有らん」と。伷先対えて曰く、「陛下は唐家の婦、身は先帝の顧命を荷う。今と雖も朝に臨むも、当に大臣を責任し、須らく東宮の年徳に就き成るを俟ち、子に復して明辟すべし。奈何ぞ遽かに諸武を王とし、宗室を斥けんや。炎は唐の忠臣にして、戮子孫に逮す。海内憤怨す。臣愚かに謂う、陛下宜しく太子を東宮に還し、諸武の権を罷むべし。然らずんば、豪傑時に乗じて動き、懼れざるべからず」と。后怒り、命じて曳き出だし、之を朝堂に杖ち、州に長流す。

歳余り、逃れて帰る。吏に跡捕せられ、北庭に流さる。復た名檢無く、専ら賄に居り、五年にして数千万に至る。降胡の女を娶りて妻と為す。妻に黄金・駿馬・牛羊有り、財を以て自ら雄と為す。客数百人を養う。北庭より京師に属するまで、其の客多く、朝廷の事を廞诇し、聞き知ること十常に七八なり。時に補闕李秦授、武后の為に謀りて曰く、「讖言に『武に代わる者は劉』と。劉に強き姓無し。殆ど流人か。今大臣流放する者数万族、之をして葉乱せしむれば、社稷の憂いなり」と。后然りと謂い、夜に秦授を拝して考功員外郎と為し、使者を分走せしめ、墨詔を賜い、流人を尉安すと雖も、実は之を殺すを命ず。伷先前もって知り、橐駝に金幣・賓客を載せて突厥に奔る。行くこと未だ遠からず、都護兵を遣わして之を追い、格闘するも、執らるる所と為る。械を以て獄に繫ぎ、状を以て聞かしむ。会うこと武後、流人の已に誅せらるるを度り、天下の姍誚を畏れ、更に使者を遣わし十道を安撫し、好言を以て自ら解釈して曰く、「前に使者を遣わし罪有るを慰安せしむれども、朕が意を暁せず、擅に誅殺し、残忍不道なり。朕甚だ自ら咎む。今流人存する者は一切縱ちて還す」と。繇是伷先死せずを得。

中宗位を復し、炎の後を求め、伷先に太子詹事丞を授く。秦・桂・広三州都督に遷る。累に坐して将に誅せられんとす。宰相張説の之を右するに頼り、官を免ぜらる。久しくして乃ち范陽節度使、太原・京兆尹を擢でらる。京師の官冗なるを以て、畿県の員外及び試官を罷むるを奏す。進みて工部尚書と為る。年八十六、東京留守を以て累ねて翼城県公に封ぜられ、官下に卒す。

劉禕之

劉禕之、字は希美、常州晉陵の人なり。父は子翼、字は小心、隋に在りて著作郎と為る。峭直にして行い有り、嘗て僚友の短を面折し、退いて余りの訾無し。李伯薬曰く、「子翼人を詈るも、人皆憾みず」と。貞観初め、之を召すも、母老いを以て辞す。詔して終養を許す。江南道巡察使李襲誉其の孝を嘉し、表して其の居る所を孝慈裏と為す。母既に喪し、召して呉王府功曹参そうしん軍に拝し、終に著作郎・弘文館直学士となる。

禕之少くして孟利貞・高智周・郭正一と俱に文辞を以て称せられ、「劉孟高郭」と号し、並びに昭文館に直る。俄かに右史・弘文館直学士に遷る。上元中、元万頃等と偕に召されて禁中に入り、新書を論次すること凡そ千余篇。高宗又た密かに与に時政を参決し、以て宰相の権を分つ。時に「北門学士」と謂う。兄懿之、亦た給事中、両省に同ず。先ず是り、姉は内官と為る。武后、外家に遣わして疾を問わしむ。禕之因りて賀蘭敏之に私し之を省る。坐して巂州に流さる。後、丐いて還り、中書舎人を除かる。

儀鳳年間、吐蕃が辺境を侵すや、帝は侍臣に訪ねてこれを処置し、討伐する方策を問うたが、人々の謀は異なり、禕之のみが帝を勧めて言うには、「夷狄は禽獣の如く、たとえ侵陵を受けても、これを論ずるに足らず、願わくは威を収め、百姓の急を緩められよ」と。帝はその言を内に納れた。まもなく相王府司馬に任ぜられ、検校中書侍郎となった。帝は彼に言うには、「卿の家は忠孝なり、朕の子は卿に頼って師の矩範を得ん、冀わくは蓬が麻の中に在りて扶けずして挺つが如くならんことを」と。

後に則天武后が睿宗を立てて帝と為すや、その大議に参じたことを以って、ますます親しみ、中書侍郎・同中書門下三品に抜擢し、臨淮県男の爵を賜う。この時、詔令は叢雑繁瑣を極め、禕之の思致は華麗敏捷にして、裁断し口述するに、少しの間も待たずして成った。司門員外郎房先敏は累に坐して衛州司馬に貶せられ、相府に訴えると、内史騫味道は言うには、「太后のご旨なり」と。禕之は言うには、「これは上(皇帝)が有司の奏に従われたものなり」と。後にこれを聞き、味道が非を上に帰したとして、青州刺史に貶し、禕之に太中大夫を加え、物百段を賜う。後に因って言うには、「君は元首、臣は股肱なり、手足の疾を腹背に移すは、尚ほ一体と言えようか。禕之は咎を己に引き、忠臣なり」と。納言王德真が推して順じて言うには、「戴至徳は異才無しと雖も、ただ善を君に帰することを能くし、時に服せらる」と。后は言うには、「善し」と。後に私かに鳳閣舍人賈大隱に語りて言うには、「后は昏きを廃し明きを立てることを能くす、何ぞ政をかえして以て天下を安んぜざる」と。大隱がその言を上表するや、后は怒って言うには、「禕之、乃ち我に背けり」と。垂拱年中、或る者禕之を告げて、帰誠州都督孫萬榮より金を受け、許敬宗の妾と私通せりと。太后は肅州刺史王本立を遣わして鞫治せしめ、敕を以って禕之に示すと、禕之は言うには、「鳳閣鸞臺を経ざれば、何をか敕と謂わん」と。后はこれをもって制使に拒むと為し、家に於いて死を賜う。年五十七。

初め、禕之が罪を得しとき、睿宗は旧属としてこれを申理せんとし、姻友も釈放を得んと冀った。禕之は言うには、「我れ死す。太后の威福は己に由り、而して帝の営救は、我が禍を速んずるなり」と。獄中に在って上疏して自ら陳ぶ。誅せられんとするに臨み、洗沐し、神色自若たり。その子に命じて筆を執らしめ表を口述せしむるに、子は号泣塞がりて書く能わず、禕之乃ち自ら筆を捉え、数紙を得たり。詞は懇ろにして哀切、人皆これを傷しむ。麟臺郎郭翰、太子文学周思鈞、その文を悵嘆す。后これを悪み、翰を巫州司法参軍に貶し、思鈞を播州司倉参軍に貶す。睿宗位を嗣ぐや、禕之に中書令を贈る。

郭翰は、嘗て御史となり、隴右を巡察す。多く按劾すべきものあり。寧州にとどまるに、時に狄仁傑刺史たり。民争って異政有りと言う。翰は館に就き、筆紙を案に置き、僚属に謂いて言うには、「其の境に入りて、其の政を知るべし。願わくは使君の美を朝に薦げ、久しく留まる毋れ」と。即ち駕を命じて去る。性寛簡にして、『老子』を読んで「其の光を和し、其の塵に同ず」に至り、慨然として言うには、「大雅の君子、以て其の身を保つ」と。乃ち憲官を辞し、麟臺郎に改まるという。

魏玄同

魏玄同、字は和初、定州鼓城の人。祖父士廓、斉に仕えて軽車将軍となる。玄同は進士に擢第し、長安ちょうあん令に調ぜられる。累遷して司列大夫となる。上官儀と善しとすることに坐し、嶺外に流される。既に廃せられて後、自らを護りかばわず、乃ち馳逐して生事を為す。上元初年、赦に会って還り、工部尚書劉審礼その材を表し、岐州長史に拝ぜられる。再び吏部侍郎に遷る。永淳元年、詔して中書・門下と共に進止平章事を承受す。鉅鹿男に封ぜらる。選挙法の弊を言う上疏を上る。曰く、

方今、人富を加えず、盗賊衰えず、礼誼薄らぐは、下吏職に称せず、庶官其の才に非ざるが故なり。人を取るの道、未だ尽くさざる所有るなり。武徳・貞観の時は、諸事草創、人物固より乏し。天、大聖を祚し、国を享くること永年、異人間出す。諸色の人流、歳に千計、官には常員有り、人には定限無く、選集猥りに至りて、十も一を収めず、取捨淆乱す。

夏・商以前は、制度多く闕けり。周に至りて、煥然として観るべし。諸侯の臣は皆天子に命ぜられず、王朝の庶官は一職に専らせず。穆王は伯冏を以って太仆正と為し、命じて曰く、「慎んで乃ち僚を簡べよ」と。これは自ら下吏を択ぶの言なり。太仆正は、ただ中大夫に過ぎざるに、尚ほ僚属をこれに委ぬ。則ち三公・九卿も亦た当然なり。故に太宰・内史は並びに爵禄の廃置を掌り、司徒しと・司馬は別に賢を興す詔事を掌る。是れ群司を分任して数職に統ぶるなり。王は其の大なる者を命じ、自ら其の小なる者を択ぶ。

漢の制、諸侯は自ら四百石以下の吏を置き、其の傅・相・大臣は則ち漢がこれを置く。州郡の掾史・督郵・從事は、悉く牧守にこれを任す。

魏・晋以後より始めて吏部に帰し、今に至る。刀筆を以って才を量り、簿書を以って行いを察す。法は世と共に弊れり、其の来ること久し。尺丈の量、鍾庾の器、及ばざる所は則ち度る能わず、受けざる所は則ち容るる無し。況んや天下の大、士類の衆、数人の手に委すべけんや。又た其の任にする者、間に其の選に非ざるあり、人為めに官を択び、身為めに利を択び、下筆は親疏に係り、措情は勢要を観る。悠悠たる風塵、此れに焉んぞ奔競せざらん。百行を一面に折し、九能を数言に断つ、亦た難からずや。

且つ臣聞く、官に蒞む者は、学無きべからずと。伝に曰く、「学を以って政に従うと聞くも、政を以って学に入ると聞かず」と。今、貴戚の子弟は一に皆早く仕え、弘文・崇賢・千牛・輦脚の類、程較既に浅く、技能亦た薄し。而して門閥素より有り、資望自ずから高し。夫れ所謂胄子とは、必ず諸学に裁せられ、少くしては業を受け、長じて官に入り、然る後に家事を移し国に事う、これを徳進と謂う。少くして仕うれば則ち学を務めず、軽く試みれば則ち才無し。又た勲官・三衛・流外の属は、州県の挙を待たず、直ちに書判を取る。先徳後言の誼に非ず。

臣聞く、国の人を用うるは、人の財を用うるが如し。貧者は糟糠に止まり、富者は粱肉余す。故に衰弊の乏しきに当たっては、則ち朽鈍を磨策して以ってこれを馭し、太平多士の時は、則ち髦俊を遴柬して以ってこれを使う。今、選者は猥りに多く、宜しく簡練を急とすべし。窃かに制書を見るに、三品より九品に至るまで並びに士を薦むるを得と。これは誠に仄席旁求の意なり。但だ褒貶明らかならず、故に上は黜責を憂えず、下は尽く搜揚せず、挙ぶる所を慎まずして、苟くも命に応ずるなり。且つ惟れ賢は賢を知る、聖人の篤論なり。皋陶既に挙げられて、仁ならざる者遠ざく。身苟くも濫りに進まば、何ぞ人を知るに及ばん。挙ぶる者の賢を択ばずして、挙げらるる者の濫を責むるは、得べからざるなり。陛下の聖明、国家の徳業を以ってして、而も経久の策を建てず、ただ魏・晋の遺風を顧望するは、臣窃かにこれを惑う。願わくは少しく周・漢の規に遵い、以って吏部の選を分かたん。即ち用うる所詳らかにして、失う所鮮からん。

納れられず。進んで文昌左丞・鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺三品に拝ぜらる。地官尚書に遷り、検校納言となる。玄同は裴炎と交わりを締め、終始を保つことを能くす。故に「耐久朋」と号す。

先に、狄仁傑が太原の運送を監督し、米一万斛を失い、誅殺されんとしたが、玄同が救って免れた。ところが河陽令の周興はこれを知らず、数度にわたり朝堂で命令を待った。玄同が言うには、「明府は去るべし、久しく留まるなかれ」と。興はこれを己を沮むものと思い、恨みを抱き、この時に至って玄同を誣いて「太后は老いたり、皇嗣を復すべし」と言ったと告げた。后は察せず、家にて死を賜い、年七十三。初め、監察御史の房済が刑を監し、言うには、「丈人、何ぞ上変せざる。召見を冀い、自ら陳するを得ん」と。玄同は言う、「人に殺さるると鬼に殺さるるとは等しきのみ、告事人たることを為さじ」と。玄同の子、恬、字は安礼、親に事えて孝を以て聞こゆ。進士に及第し、御史主簿となる。開元中、潁王傅に至る。

李昭德

李昭德は、雍州長安の人である。父は乾祐、貞観初めに殿中侍御史となった。鄃令の裴仁軌が門卒を私役し、太宗はこれを斬らんとしたが、乾祐は言う、「法令は天下と共にするもの、陛下独り有するに非ず。仁軌は軽罪を以て極刑に致すは、画一の制に非ず。刑罰中らざれば、則ち民手足を措く所なし」と。帝の意解け、これにより死を免れた。侍御史に遷る。母卒し、墓側に廬し、土を負いて墳を成す。帝は使いを遣わして弔い、その閭を異とすることを表す。治書侍御史を歴任し、能名有り。永徽初め、御史大夫に擢でられ、褚遂良に悪まれて、邢・魏二州刺史として出される。乾祐は強直ながらも、小人に昵す。嘗て書を善き吏に与え、朝廷の事を刺取し、その辞を迷わし隠すが、吏に売られ、遂良が朝に発白し、流州に坐す。台拝して滄州刺史となる。入って司刑太常伯となり、雍州司功参軍の崔擢を挙げて尚書郎とす。報いを得ず、私に擢に所以然を語る。後に擢が罪を犯し、乾祐が禁中の語を漏らしたことを告げて自ら贖い、詔して官を免じ、卒す。

昭德は強幹にして父の風有り、明経に擢でられ、累官して御史中丞となる。永昌初め、事に坐して振州陵水尉に貶せられる。還って夏官侍郎となる。如意元年、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事を拝す。武后が神都を営むに、昭德は文昌台及び定鼎・上東諸門を規創し、標置華壮なり。洛に二橋有り、司農卿の韋機はその一を直ちに長夏門に徙し、民これを利す。その一橋は廃し、巨万の計を省く。然れども洛水歳々に淙嚙し、繕う者労を告ぐ。昭德始めて石を累ねて柱に代え、その前を鋭くし、暴濤を廝殺して、水怒る能わず、これより患い無し。俄かに内史を検校す。薛懷義が突厥を討つに、昭德を行軍長史とす。虜を見ずして還る。

武承嗣が文昌左相に任ぜられしに、昭德諫めて言う、「承嗣は既に王なり、機衡を典すべからず、以て衆庶を惑わす。且つ父子猶お相い篡奪す、況んや姑侄をや」と。后は矍然として言う、「我これを思わざりき」と。乃ち承嗣を罷めて太子少保とす。洛陽らくよう人王慶之が険佞数百人を率いて承嗣を以て皇太子と為さんことを請う。后は許さず。固く請う。后は昭德を遣わしてその故を詰む。昭德は慶之を笞殺し、余党散走す。因りて奏して言う、「古より侄天子と為りて姑の為に廟を立つること有りや。親親を以て言えば、天皇は陛下の夫なり。皇嗣は陛下の子なり。子孫に伝うべきは万世の計なり。陛下は天皇の顧托を承けて天下を有ち、又承嗣を立てば、臣は天皇来りて食せざるを見ん」と。后は乃ち止む。承嗣は恨み、これを譖短す。后は言う、「我は昭德を任じて安枕を得るは、是れ我が労を代うるなり、汝の知る所に非ず」と。或る人洛水の白石にして赤文有るものを獲て、闕下に献じて言う、「此の石は赤心なり、故に以て献ず」と。昭德は叱して言う、「洛水の余石は豈に尽く能く反せんや」と。時に来俊臣・侯思止が文法を舞い、数えざる大臣を誅陥し、人皆懼れ慴る。昭德毎にその誣罔不道の状を奏し、遂に思止を榜殺し、その党稍々摧沮す。

然れども昭德は頗る権を怙り、衆に指目せらる。魯王府功曹参軍の丘愔が上疏して言う、「臣聞く、魏冉は庶族を誅して以て秦を安んず、忠なり。諸侯を弱めて以て国を強くす、功なり。然れども出入自ら専にし、撃断無忌、威人主を震し、王有るを聞かず。張祿一言にして卒に憂死を用いらる。向使昭王即時に覚悟せずんば、則ち秦の覇業或いは子孫に伝えざらん。陛下天授以前、万機独断し、公卿百執具職のみ。長寿以来、細政に厭怠し、昭德を擢委し、権綱に乗総せしむ。而して才小任重く、負気強愎、下民を聾盲し、同列を芻狗し、慶賞を刻薄し、多く矯虔する所有り。声威翕習し、天下杜口す。臣伏して南台の敕目を見るに、群臣奏請し、陛下制して已に曰く『可』と。而して昭德建言して不可とし、制又これに従う。且つ人臣機密に参奉し、献可替否し、事或いは便利なれども、予め咨謀せずして、画可已に行われ、方に駁異を興す。是れ擅命を揚露し、以て人に示し、美を帰し咎を引く、誼此に類せず。一切奏讞、皆風指を承け、陰相傅会す。臣その胆を観るに、乃ち身より大なり。鼻息の沖する所、上りて雲漢を払う。夫れ小家生を治むるも、千百の貲有り、将に人に托せんとすれば、尚お授くるを失わんことを憂う。況んや天下の重きをや、軽く委寄すべけんや。履霜堅冰、その漸を防ぐを須う。大権一たび去れば、これを収むること良に難し。願わくは陛下臣の言を察せられよ」と。又果毅の鄧註が『石論』数千言を著し、その専恣を述ぶ。鳳閣舎人の逄弘敏以て聞こゆ。后これによりてこれを悪み、姚璹に謂いて言う、「誠に言う如くならば、昭德固より国に負う」と。乃ち欽州南賓尉に貶す。俄かに召して監察御史を授く。

万歳通天二年、来俊臣が逆謀を以て誣う。既にして俊臣もまた獄に下り、同日に誅さる。時に甚だ雨多く、衆庶昭德を冤しまざる無く、俊臣を快しとす。神龍二年、左御史大夫を贈る。建中三年、司空を加贈す。

吉頊

吉頊は、洛州河南の人である。長さ七尺、性陰克にして、敢えて事を言う。進士に挙げられて及第す。明堂尉に調う。父の哲は易州刺史となり、賕に坐して死に当たる。頊往きて武承嗣に見え、自ら陳して二女弟有り、王の巾盥者に侍らんことを請う。承嗣喜び、犢車を以てこれを迎う。三日言わず。その故を問う。答えて言う、「父法を犯して将に死せんとす、故にこれを憂う」と。承嗣が表して哲の死を貸し、頊を龍監に遷す。

劉思禮が謀反す。頊上変事す。后は武懿宗に命じて雑訊せしめ、因りて囚を諷して近臣高閥生平に牾る所の者凡そ三十六姓を引き、捕えて詔獄に系し、搒楚百惨を以てその獄を成し、同日に論死す。天下これを冤む。右粛政台中丞に擢でらる。

来俊臣が獄に下り、司刑死を以て当つとす。状三日下らず。頊武後に従い苑中に遊ぶ。因りて間言して言う、「臣は陛下の耳目たり、俊臣の状入りて出でざるを知る。人疑うを以てす」と。后は言う、「朕は俊臣に功有りとす、徐にこれを思う」と。頊は言う、「於安遠が虺貞の反を告ぐ、今は成州司馬たり。俊臣は忠良を誣殺し、罪悪山の如し、国の蝥賊なり、尚お何をか惜しまん」と。ここにおいて后は俊臣を斬り、而して安遠を召して尚食奉禦とす。

突厥が趙州・定州を陥落させると、検校相州刺史を授け、かつ兵を募って虜の南進を防がせようとした。頊は武事を知らぬと辞退すると、則天武后は言った、「賊は敗走しつつある、卿が坐して鎮めるのを頼みとするのみである」。初め、太原の温彬茂が高宗の時に死に、一笥の書を封じて、妻に託して言った、「我が死後、年が垂拱に及んだならばこれを献上せよ」。垂拱の初め、妻がその書を上ると、則天武后の革命の事および突厥が趙州に至って去ることを言っており、故に武后は虜がまさに還ることを知ったのである。頊が到着すると、兵士を募っても応じる者は無かったが、やがて詔して皇太子を元帥とすると、応募する者が日に数千となった。頊が還って状況を言上すると、武后は言った、「人心はかくの如きものか。卿は群臣にこれを語ってよい」。頊が朝でこの言葉を誦すると、諸武はこれを憎んだ。

初め、頊は張易之・殿中少監田帰道・鳳閣舎人薛稷・正諫大夫員半千・夏官侍郎李迥秀と親しく、皆、控鶴内供奉となった。頊はまた強敏であったので、武后は腹心として頼りにした。聖暦二年、天官侍郎・同鳳閣鸞台平章事に進んだ。刺史であった時、武懿宗が契丹を討ち、退いて相州を保った。殿中で功を争い、懿宗は醜く背が低く俯きかがんでいたので、頊は厳しい言葉でこれを責め、容赦するところが無かった。武后は怒って言った、「我が在世中は、諸武を頼みとしているが、他日どうして保てようか」。これを恨んだ。

張易之兄弟は寵愛が盛んなことを以て、自らの安泰を考え、頊に計らいを問うた。頊は言った、「公家は幸いによって進んだのであって、天下に対して大功が無く、勢い必ず危うい。我に不朽の策あり、これを献じたい。身を保つのみならず、かつ世々に封土を絶やさぬであろう」。易之が涙を流して請うと、頊は言った、「天下は唐を思うこと久しい。廬陵王は外に斥けられ、相王は幽閉されている。上は春秋高く、武氏の諸王は、海内が属望する者ではない。公何ぞ従容として相王・廬陵王を立て、人望に副うよう請わぬのか。これこそ弔いを賀いに変える資である」。易之・昌宗が隙を見て頊の教えの如くすると、武后の考えは定まった。後に頊が謀りごとに関わったことを知り、召見して様子を問うと、頊は答えて言った、「廬陵王・相王は皆陛下の子であり、先帝は陛下に顧み託された。速やかに付託すべきである」。そこで中宗を還した。

翌年、頊は弟が偽官を冒した罪に坐して琰川尉に貶せられ、辞去する際、召見されると、泣いて言った、「臣が国を去れば、再び謁すること無からん。願わくば言うところあり。然れども病は急なり、しばしの間を請う」。武后は座を命じると、頊は言った、「水土は皆一つの壺にある、争い有りや」。曰く、「無し」。曰く、「これをもって泥と為す、争い有りや」。曰く、「無し」。曰く、「泥をもって仏と道とを為す、争い有りや」。曰く、「これ有り」。頊は頓首して言った、「臣と雖も以て有りとす。そもそも皇子と外戚とは、分有れば両者安んず。今、太子は再び立てられ、外家の諸王は並び封ぜられている。陛下は何を以てこれを和せんとするか。貴賤親疏の明らかならざるは、これ必ず争わしむる所以であり、臣は両者安からざるを知る」。武后は言った、「朕は知っている。既に然るを、どうせん」。頊はまもなく始豊尉に移され、江都に客死した。

中宗が立ったのは、実に頊がこれを唱えたのであるが、罪を得たために、知る者無かった。睿宗の初め、その忠を明らかにする者があり、そこで詔を下して御史大夫を追贈した。

賛して言う。異なるかな、炎の幾に暗きことよ。中宗の君たらずを知りて、武后の朝を盗むを知らず。虎に翼を仮してその人を搏つことを責む、死すること固より宜なり。昭德・頊は道を以て進まず、君子これを恥ず。然りと雖も、一情区区として、武を抑え唐を興す、その助けに端有り、則ち炎より賢ること遠し。禕之・玄同は言を漏らして誅せらるるも、以て君に事うる所以を失わざる者と云う。