新唐書

巻一百一十六 列傳第四十一 二王韋陸二李杜 王綝孫:俌 九世孫:摶 韋思謙子:承慶 嗣立 孫:恒 濟 曾孫:弘景 陸元方子:象先 景倩 景融 五世孫:希聲 從父:餘慶 餘慶子:璪 王及善 李日知 杜景佺 李懷遠子:景伯 孫:彭年

王綝

王綝、字は方慶、字をもって顕れる。その先祖は丹楊より雍州咸陽に移住した。父の弘直は、漢王元昌の友(官名)となった。王は狩猟遊楽を好み、綝は上書して厳しく諫めた。王はやや止めたが、ますます疏遠し斥けた。ついに荊王友に終わった。

方慶は越王府参軍として出仕し、記室の任希古より司馬遷・班固の二史を受けた。希古が他に転任すると、その学業を完成させた。武后の時、累遷して広州都督ととくとなった。南海には毎年崑崙船が外域の珍宝を市するが、前都督の路元睿がその貨物を横領したため、船の首長が憤りに耐えず、彼を殺した。方慶が至ると、秋毫も索め取らなかった。初め、管内の首領は貪婪で、民が府に訴え出ても、府の曹吏は平素より贈賄を受け、いまだかつて治めなかった。方慶は官属に交際せぬよう約し、犯す者は厳しく法により論じたので、境内は清く畏れられた。議論する者は、広州を治めた者で方慶の如きはなく、第一と称し、詔を下して瑞錦・雑彩を賜い、善政を顕彰した。洛州長史に転じ、石泉県子に封ぜられた。鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷り、鳳閣侍郎に進んだ。

神功初年、清辺道大総管武攸宜が契丹を破り凱旋し、俘虜を献上しようとした。内史王及善は孝明皇帝の忌月であることを理由に、鼓吹を備えながらも奏するなと請うた。方慶は言う、「晋の穆帝が后を納れる時、康帝の忌月に当たったが、当時これを疑った。荀詢が『礼には忌日はあるが忌月はない』と言い、月より推せば、忌時・忌年となり、ますます理拠がない、と。世はその言を用いた。臣は思うに、軍が大いに凱旋する時、楽を奏することに差し支えない」と。詔はこれを許可した。武后が玉泉祠に幸する時、山道が険しいため、腰輿に乗ろうとした。方慶は奏上した、「昔、張猛が漢の元帝に『船に乗れば危険、橋を渡れば安泰』と諫めた。帝は橋に従った。今、山の曲がりくねった道は危険で険しく、階段の道は曲がり狭い。楼船に比べても、またさらに危険である。陛下はどうして軽々しく畏るべき道を踏まれるのか」と。后は行幸を取りやめた。方慶はかつて「令によれば、期喪及び大功の喪に、未だ葬らざるは朝賀を聴かず、未だ除服せざるは享宴に与からず、とある。近頃群臣がこれに従わず、教化の秩序が乱れている。これを長くしてはならない」と言った。詔を下して責めを申し述べさせ、内外はこれを畏れた。

后がかつて王羲之の書を求めると、方慶は奏上した、「十世の従祖羲之の書四十余巻を、太宗が求められた時、先臣が巻を分けて上送いたしました。今残っているのはただ一軸のみです。併せて十一世祖の導、十世祖の洽、九世祖の珣、八世祖の曇首、七世祖の僧綽、六世祖の仲宝、五世祖の騫、高祖こうその規、曾祖の褒、及び九世の従祖献之など、合わせて二十八人の書を十巻にまとめました」と。后は武成殿で群臣に遍く示し、詔して中書舎人崔融にその代々の家柄を序せしめ、『宝章集』と号し、また方慶に賜った。士人はその寵遇を羨んだ。老齢を理由に致仕を請い、麟台監に改められ、国史を修した。中宗が再び皇太子となると、方慶を検校左庶子に拝した。

后が季冬に講武を行おうとしたが、有司が時に間に合わず、遂に明年の孟春を用いることになった。方慶は言う、「『月令』によれば『孟冬、天子将帥に命じて武を講じ、射御を習わしめ、角力させる』とある。これは三時は農に務め、一時は武を講じ、安きに危うきを忘れぬ道である。孟春は兵を挙げるべからず。兵は金なり。金は木に勝つ。今まさに春は木が旺んであるのに、金を挙げて盛徳を害し、生気に逆らう。孟春に冬の令を行えば、水潦が害となり、雪霜が大いに激しく、初めて植える種子は実らない。今孟春に講武を行うのは、陰政をもって陽気を犯し、発生の徳を害するもので、臣は水潦が物を害し、霜雪が稼穡を損ない、夏の麦が実らぬことを恐れます。願わくは陛下に時令に違わず、先んじて孟冬に及び、天道に順われますように」と。手制を下して褒め許した。

この年、真に左庶子を拝し、公に進封され、俸禄は職事官三品と同額とされ、兼ねて太子の読書に侍った。方慶は奏上した、「人臣が天子に対して、子の名を斥けた例はありません。晋の山濤が啓事で、皇太子の名を呼ばず、孝敬が太子の時、『弘』を『崇』に改め、はい王が太子の時、『賢』を『文』に改めました。今、東宮の門殿の名には多く忌避すべきものがあります。一様にこれを改め、旧典に合わせるよう請います」と。制はこれを許可した。長安ちょうあん二年に卒去し、兗州都督を贈られ、諡して貞といった。中宗が復位すると、東宮の旧臣として、吏部尚書を贈られた。

方慶は博学で、朝章に練達し、著書二百余篇あり、特に『三礼』に精通した。学ぶ者が諮問すると、応答は深遠で、故に門人が『雑礼答問』に編次した。家に聚めた書は多く、秘府に劣らず、図画はいずれも異本であった。方慶の没後、諸子はこれを継ぐことができず、次第に散逸した。

孫に俌。六世の孫に璵(別に伝あり)。璵の曾孫に摶。

賛に曰く、李徳裕の著書に称す、「方慶が宰相の時、子は眉州司士参軍であった。武后が『君は相位にあるのに、何ゆえ子が遠いのか』と言うと、答えて『廬陵王は陛下の愛子であり、今なお遠方におられます。臣の子がどうして近くにおれましょうか』と。これをもって倉唐が文侯を悟らせた故事に比した」と。ああ、君子なるかな。たとえ倉卒の間にも、君を善に悟らせることを忘れなかった。また建言して太子の名を斥けず、もって群臣を動かし、中興の兆しを示した。いわゆる人の言い難きことを、方慶においては難しくなかった。徳裕の称揚は、虚妄ではない。

綝の孫 俌

俌、字は霊亀。明経に及第し、莫州参軍に調され、范陽節度使張守珪の幕府に辟召された。時に契丹屈烈部が侵入を謀り、河北は騒然とした。俌が虜中に至り、禍福を脅して説くと、虜は侵入しなかった。安禄山が叛くと、博陵・常山二郡の太守を拝し、河北招討副使となった。卒去し、太常卿を贈られた。褒より俌に至るまで、六世にわたり石泉に封ぜられたという。俌の孫に遂。

遂は利を興すことを好み、下を厳しく統御した。累遷して鄧州刺史・太府卿・西北供軍使となった。度支の潘孟陽と営田の事を争い、憲宗は怒り、遂を柳州刺史として出した。親吏の韋行素・柳季常が両池の課料を受け取るはずであったが、吏は遂が斥けられたのを見て、即座に罪に当てた。初め、詔書が出ると、左丞の呂元膺が弾劾した、「遂が補吏の贓罪を犯し、法により坐すべきであるのに、詔は『清能にして官に業む』と称している。按ずるに遂の犯したる事状あり、清と謂うべからず。かつ柳は大州にして、治めしむべからず」と。帝はこれを諭し、遂に詔を下した。時に兵が淮西に駐屯し、財賦が急を要したため、遂の幹略強直を頼み、宣歙観察使に拝した。蔡州が既に平定され、軍が東進して李師道を討つに及び、召されて光禄卿・淄青行営糧料使となった。卿の職を辞し、検校左散騎常侍さんきじょうじ兼御史大夫に換えた。初め、兵糧を調達するのに歳三百万を要したが、やがて賊が誅され、遂は余剰の財百万を簿記して献上した。帝はその才能を高く評価した。時に斉を三鎮に分け、即座に遂を沂兗海観察使に拝した。

遂は資性偏狭で苛酷であり、杖による撲打はいずれも制限を超えていた。盛夏に、役所の舎屋の墻垣を修築し、工期の監督は惨く峻烈であった。将吏は平素より悍戾であり、遂はしばしば罵って「反逆の残賊め!」と言った。人々は羞恥と憤りを感じた。裨校の王弁が役人と川で浴していた時、語って「天は今まさに雨が降り、墻はまさに毀たんとしている。我等の罪は同じだ!」と言い、遂に乱を謀った。翌日、遂がちょうど宴会をしていると、弁はその徒党を率いて武器を持って進み出た。遂は驚き、厠の下に隠れたが、捕らえられてその罪を数え上げられ、殺された。その副使の張敦実、官属の李矩甫も皆死んだ。弁は自ら留後を務めた。帝は沂・海が新たに定まったばかりで、青・鄆もまた動揺することを恐れ、乃ち弁を開州刺史に拝した。徐州に至り、械送されて京師に至り、東市で斬られた。監軍は遂の作った杖を上進し、朝廷に示して戒めとしたという。

綝の九世孫に摶あり。

摶は字を昭逸という。進士第に擢でられ、王鐸の滑州節度府に辟されて佐となり、累遷して蘇州刺史となった。久しくして、戸部侍郎として戸部を判じた。乾寧初め、同中書門下平章事に進んだ。董昌が誅せられると、威勝節度使として出された。未だ行かず、検校尚書右僕射・浙東西宣撫使を加えられた。時に錢寔が二浙を兼領することとなり、故に留まって門下侍郎・同中書門下平章事・判度支に拝された。昭宗が嫡子を立てた後、摶は天下を赦すことを因としてその礼を尊大することを請うた。正しく右僕射に拝され、司空しくうに遷り、魯国公に封ぜられた。

初め、宦官の権勢が盛んで、帝はこれを翦ぎ抑えようとした。石門より還ってより、政は一に宰相に決し、群宦は不平を抱き、藩鎮を構えて内に天子を脅かした。摶は言う、「人君は務めて心を平らかにし大体を以てし、万物を御すべし。偏聴は乱を産む、古の戒むるところなり。今、奄人(宦官)が威福を盗み、君上を逼制す。道路の人皆これを知る。方今朝廷多難、未だにわかに除くべからず、当におもむろに計を以てこれを去るべし。事急なれば、将に変有らん」。崔胤は摶と並び位し、素より摶の明達にして謀有るを忌み、即ち摶を劾して宦官の外応なりとす。時に胤は宰相を罷められ、摶が己を擠斥せしを疑い、乃ち厚く朱全忠に結びて己を薦めて復た輔政せしめ、即ち摶が枢密使宋道弼・景務脩と交私し、将に社稷を危うくせんとするを誣う。全忠、因ってあきらかにそのあやまちを疏す。光化三年、工部侍郎に罷められ、溪州刺史に貶せられる。又、崖州司戸参軍事に貶せられ、藍田駅にて死を賜う。

韋思謙

韋思謙、名は仁約、武后の父の諱に近きを以て嫌い、遂に字を以て行わる。その先は雍州杜陵より出で、後に襄陽に客し、更に徙って鄭州陽武の人となる。八歳にして母を喪い、孝を以て聞こゆ。進士第に及第し、累調して応城令となり、負殿(考課下位)して、官に進むことを得ず。吏部尚書高季輔曰く、「予始めて此の一人を得たり。豈に小疵を以て大徳を棄てんや」と。監察御史に擢でられる。常に曰く、「御史出使して、山嶽を動搖し、州県を震懾せしむること能わざれば、職に任じずと為す」と。中書令褚遂良が地を市うも直(値)に如かず、思謙これを劾し、同州刺史に罷む。及び復た相となると、思謙を清水令に出す。或る人これを弔う。答えて曰く、「吾は狷直にして、機に触れば輒ち発す。暇あらば身をおもんぱからんや。丈夫は敢えて言うべき地に当たり、須らく明目張胆して以て天子に報いん。焉んぞ録録として妻子を保たんや」。沛王府長史皇甫公義、これを引いて倉曹参そうしん軍と為し、謂いて曰く、「公は池中の物に非ず。公を屈して数旬の客と為し、以て吾が府を重んぜん」と。

侍御史に改められ、高宗これを賢しとし、毎に召して語らう。甚だ倦むと雖も、軒檻に徙倚たよりもたれし、猶お数刻にして罷む。疑獄劇事、多くこれと参裁す。武候将軍田仁会、御史張仁祎を誣奏す。帝、廷にて詰う。仁祎懦にして対うるを得ず。思謙、そのえいを弁じ、因って仁会がいつわりを営みて人を不測に陥れるを言う。詞旨詳暢、帝これを善しとし、仁祎坐せず。累遷して右司郎中・尚書左丞となり、綱轄を振い明らかにし、朝廷肅然たり。御史大夫に進む。

思謙の子 承慶

承慶は字を延休という。性謹畏、継母に事えて篤孝たり。進士第に擢でられ、雍王府参軍を補し、府中の文翰悉くこれを委ぬ。王、太子となるに及び、司議郎に遷る。

儀鳳中、詔して太子に国を監せしむ。太子稍々声色を嗜み、土功を興す。承慶、造作玩好の浮華広きを見、倡優鼓吹の讙嘩し、戸奴小人皆左右に親しみ、顔色を承くるを得るを、恐らくは是に因りて威福を作さんと。宜しく繩察を加うべしとし、乃ち上疏して極めてその端を陳べ、又『諭善箴』を進む。太子頗る嘉納す。承慶嘗て謂う、人の以て擾濁浮躁する所以は、之を心に本づくと。乃ち『霊台賦』を著し、当世を譏揣し、亦自らその志を広む。太子廃せられ、烏程令に出される。累遷して鳳閣舎人となり、天官の選を掌る。属文敏にして留思無く、大詔令と雖も、未だ嘗て稿を著さず。大臣の意に失い、沂州刺史に出される。

明堂災す。上疏して諫め、以って「文明・垂拱の後、政を執る者歳に満たず、率ね罪を以て去る。大抵皆悪逆不道なり。夫れ大廈を構え、巨川を済わんには、必ず文梓・艅艎を択ぶ。若ししばしば毀ちて敗るれば、則ち是れ朽木を庇い、膠船に乗ずるなり。臣謂う、陛下賢を求むるの意切にして、人を取るの路寛なり。故に一言合う有れば、而して大任を付す。夫れ堯の舜を挙ぐるも、猶お諸の難を歴試す。況んや庸庸の者をして超えて輔相に処し、以て百揆万機を小人にあたえんや」と。書聞かれて報いず。未だ幾ばくもなく、復た舎人となり、選を掌る。病みて免ぜられ、太子諭徳に改む。歴て・虢二州刺史、善政有り。天官侍郎に転じ、国史を修む。凡そ三たび選を掌り、銓授平允、議者これを公とす。

長安中、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に拝される。張易之誅せらる。承慶は素より附離せるを以て、免冠して罪を待つ。時に議して赦令を草す。咸く承慶を推す。召してしてこれを為さしむ。橈色誤辞無く、筆を援いて就く。衆その壮なるを嘆ず。然れども累を以て猶お嶺表に流される。歳余り、辰州刺史に拝せられる。未だ行かず、秘書員外少監として召され、兼ねて国史を脩め、扶陽県子に封ぜられる。詔して『武后紀聖文』を撰せしむ。中宗これを善しとす。黄門侍郎に遷る。未だ拝せずして卒す。帝これを悼み、その弟相州刺史嗣立を召して葬に会せしめ、因って黄門侍郎に拝してその位を継がしむ。礼部尚書を贈り、謚して温と曰う。

思謙の子 嗣立

嗣立は字を延構といい、承慶と異母なり。少くして友悌、母の承慶に遇するや厳しく、毎に笞せらるるや、輒ち衣を解きて代わらんことを求め、母聴かず。即ち奴を遣わして自ら捶たしむ。母感寤し、均しく愛す。世に晉の王覧に比す。進士に第し、累調して双流令となり、政は二川の最たり。承慶が鳳閣舎人を解かる。武后、嗣立を召して謂いて曰く、「爾が父嘗て二子忠且孝、朕に事うるに堪えたりと称す。ちかごろ兄弟称職、爾が父の言う如し。今卿兄弟をして自ら相代わらしめん」。即ち鳳閣舎人に拝す。

時に学校廃れ、刑濫れて善人に及ぶ。乃ち上書して極めて陳ぶ、「永淳の後、庠序隳散し、胄子衰缺し、儒学の官軽く、章句の選弛む。貴閥の後生は僥倖を以て升り、寒族の平流は替業を以て去る。垂拱の間、仕入弥多く、公行私謁し、選補逾いよいよ濫る。経術聞かず、猛暴相誇る。陛下誠に明詔を下し、三館の生徒を追い、王公以下の子弟を勅して一人太学に入らしめ、師儒を尊尚し、発揚勧奨せば、海内向うを知らん。然る後に審かに銓総に畀え、各その能を程す。これを以て人に臨まば、則ち官曠ること無く、民業を楽しまん」と。

また曰く、「揚州・豫州以来、大獄が屡々起こり、窮めて治め連ねて捕らえ、数年絶えず。大猾(大悪党)は隙を窺い、陰に相影会し、似たるを構えるの言を以て、赦さざるの辜を正し、恣に楚惨を行い、おおむね自ら誣服す。王公士人、頸を連ねて戮せらるるに至る。道路に藉藉として、皆其の非なるを知るも、而して鍛練已に成り、翻動すべからず。小なれば則ち身誅せられ、大なれば則ち族夷せらる。相縁りて共に坐する者、庸ぞ勝え道わんや。彼は皆讎を報い嫌を復し、苟くも功を図り官賞を求むるのみ。臣願わくは陛下、天地の施・雷雨の仁を廓め、垂拱以来、罪の重軽を問わず赦さざる所の者を取り、普く皆原洗せられんことを。死者は官に還し、生者は恩に霑わば、則ち天下瞭然として、向に陷せし罪の陛下の意に非ざるを知らん」と。

長安年中、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に拝せらる。時に州県其人に非ざるを以て、后憂いとす。李嶠・唐休璟曰く、「今朝廷内官を重んじ、外職を軽んず。毎に牧守を除くに、皆訴えて行かず。過累に非ざれば遣わさず。請う、臺閣の賢者を撰び分かち大州を典せしめ、近臣より始めん」と。后曰く、「誰か朕が為に行かん」と。嗣立曰く、「内機要を典むるは、臣の堪うる所に非ず。請う先んじて行き以て群臣に示さん」と。后悦び、本官を以て検校汴州刺史と為し、是に由り左肅政大夫楊再思等十八人悉く外に補せらる。未だ幾ばくもせず、承慶政事を知る。嗣立は成均祭酒を以て魏・洺二州に徙り、政に他異無し。二張に善きに坐し、饒州長史に貶せらる。相州刺史より入りて黄門侍郎と為る。太府卿・修文館大学士に転ず。

中宗景龍年中、兵部尚書・同中書門下三品に拝せらる。時に観寺を崇飾し、用度百出す。又恩幸食邑する者眾く、封戸凡そ五十四州、皆天下の上腴を占む。一封数州に分かち食し、土の宜しきに随い、利入を牟り取る。安楽・太平公主に至りては、率高く貲多き丁家を取る。復た平民の如く損免する所有ること無く、封戸と為る者は軍興に亟し。監察御史宋務光建言す、「願わくは封を停め徵し、一切租庸に附して輸送せしめん」と。納れず。嗣立建言す。

今稟帑耗竭し、一歳の儲無し。仮令水旱に遇わば、人須い赈給し、時に軍興せば、士資装を待つ。陛下何を以てか之を具せん。伏して見るに、寺観を営立するは、累年絶えず、鴻侈繁麗、務めて相矜勝ち、大抵費常に千万以上。木石を転徙し、功を廢し農を害す。地蔵開発し、蟄蟲露を傷む。上聖至慈、理必ず然らず。之を道法に準ずれば乖き、之を生人に質すれば損す。陛下豈是を思わざらんや。

又食封の家、日月猥眾し、凡そ戸部の丁六十万を用い、人課二絹とすれば、則ち固より一百二十万。臣見るに太府歳調絹纔かに百万匹、少なきときは則ち十の二、貸免する所有り、曾て半ばに在らず。諸の封家に比すれば、入る所已に寡し。国初功臣、共に天下を定め、食封三十家に満たず。今横恩特賜、家百四十以上に至る。天下の租賦、公に在りて足らず、而して私に余り有り。又封家徵求、各奴皂を遣わし、凌突侵漁し、百姓怨嘆す。或いは貿易断盗し、誅責紛紜、曾て少しく息まず。下民窶乏、何を以てか命に堪えん。臣願わくは丁課を以て一たび太府に送り、封家は左藏に詣り仰ぎ給い、自ら徵するを禁止し、以て重困を息まん。

臣聞く、官を設け吏を建つるは、本より人を治め而して務めて之を安んずるに在りと。官其の人を得れば、則ち天下治まる。古者は士を取るに、先ず鄕曲の譽を以てし、然る後に州に辟く。州已に試み、然る後に五府に辟く。五府著聞し、乃ち諸朝に升す。得て謂わざらんや、擇ぶ所悉くして歷る所深しと。今の人を取るや、未だ試みずして遽に遷し、務めて進み僥幸を求め、比肩して踵を系ぐ。故に文者は官を治むれば、則ち回邪贓汙し、武者は軍を治むれば、則ち庸懦怯弱なり。補授限り無く、員外に官を置き、吏は供承に困し、官は資奉に竭く。国家の大事、豈に此れより甚だしき有らんや。

古者は、爵を設けて士を待ち、才ある者之れ有り。才なき者進まば、則ち才ある者の路塞がる。賢人正に據り、僥幸の門を遠ざく。僥幸開けば、則ち賢者隱る。賢者隱れば、則ち人安からず。人安からざれば、国将に危うからん。刺史・縣令は、人を治むるの首なり。比年簡擇を加えず、京官負いに坐し及び聲稱下る者乃ち州を典とし、吏部年高く刀筆に善からざる者乃ち縣に擬す。朝軽く人を用う、何を以てか国を治めん。願わくは有司に下し、精く加うるに汰擇を以てせん。凡そ諸曹侍郎・兩省・二臺及び五品以上の清望官は、当に先ず刺史・縣令を選用すべし。冀うらくは守宰職に称い、以て太平を興さんことを。

帝聴かず。

嗣立は韋后と屬疏なり。帝特詔して屬籍に附し、顧待甚だ渥し。別第を山鸚鵡谷に営む。帝臨幸し、從官に命じて詩を賦せしめ、序を制して篇に冠し、賜況優備なり。因りて嗣立を逍遙公に封じ、居る所を清虛原幽棲谷と名づく。嗣立木杯・藤盤数十物を献ず。唐隆初、中書令に拝せらる。韋后敗れ、幾くんか乱に死せんとす。寧王救い免る。出でて許州刺史と為り、策を定めて睿宗を立つるに以て、賜封百戸、汝州に徙る。入りて国子祭酒・太子賓客と為る。宗楚客等遺制の事を削るに坐し、正しく執らざるを以て、岳州別駕に貶せらる。再び徙りて陳州刺史と為る。開元中、河南道巡察使其の廉を表し、復用せんと欲す。会いて卒す。年六十六。兵部尚書を贈られ、謚して孝と曰う。

初め、嗣立承慶に代わりて鳳閣舍人・黄門侍郎と為り、承慶亦た代わりて天官侍郎及び知政事と為る。父子並びに宰相と為り、世其の比罕なり。二子恒・濟有り、知名なり。

嗣立の子 恒

恒、開元初め碭山令と為り、政寬惠にして、吏民之を愛す。天子東巡し、州縣供張す。皆鞭撲して趣めて辦す。恒は威を立たずして事給う。姑の子御史中丞宇文融、恒に経済の才有りと薦し、其の位を以て譲り、擢て殿中侍御史と為す。累て転じて給事中と為り、隴右・河西黜陟使と為る。時に河西節度使蓋嘉運、左右の援を恃み、横恣にして法に不法し、妄りに功状を列す。恒之を劾奏す。人其の恐るるに代わり、出でて陳留太守と為り、卒す。

嗣立の子 濟

濟、開元初め鄄城令に調ず。或いは言う、吏部縣令を選ぶに其人に非ずと。既に眾謝す。詔有りて以て人を安んずる所以を問う。対する者凡そ二百人、惟だ濟第一に居り、対すること能わざる者は悉く官を免ぜらる。是に於て濟を擢て醴泉令と為し、侍郎盧從願・李朝隱並びに刺史に貶せらる。濟四たび遷りて戸部侍郎と為り、太原尹と為る。『先德詩』四章を著す。世其の典懿を服す。天寶中、尚書左丞を授けらる。凡そ三世之に居る。濟文雅にして、頗る能く政事を脩飾し、至る所治稱有り。終に馮翊太守。子奧、夏令、亦た能政を以て聞こゆ。

嗣立の孫 弘景

嗣立の孫弘景は、進士第に擢でられ、数度節度使の幕府を補佐した。左補闕として召されて翰林學士となった。蘇光榮が涇原節度使となった時、弘景が詔勅を起草すべきところ、文辞が旨に叶わず、學士を罷免された。累遷して度支郎中となった。張仲方が李進甫の諡を貶して罪を得た際、憲宗は弘景が摘発を助けたと考え、綿州刺史として出させた。李夷簡が淮南を鎮守する時、自らの副官として奏上した。召されて入朝し、再び遷って給事中となった。駙馬都尉劉士涇が権力者に賄賂し、太僕卿に擢でられた時、弘景は詔書を返上した。穆宗は諭して「その先人(劉)昌に功あり、朕が功を念い親を睦まわす所以なり」と言わせたが、弘景は固執した。帝は怒り、安南に宣慰使として遣わした。これにより名を知られた。

時に蕭俯が政を輔け、弘景の議論は常にこれを助けた。還朝し、再び遷って吏部侍郎となり、選考を公平に整え、貴幸な者らはその厳しさを畏れ、私情をもって退けることができなかった。陜虢觀察使を歴任し、召されて尚書左丞に拝され、吏部選考が除した六十余りの官が不適当に資格を進めたことを駁正した。これにより鄭絪・丁公著・楊嗣復らは皆俸禄を削られ、郎吏は粛然とし、風聞して行いを整えた。吏部員外郎楊虞卿は累次吏に下され、詔により弘景が御史と共に詳しく審理した。虞卿が私に門を造った時、弘景は厳しく言った「詔をもって公を按ずるに、尚私謁すべきや」。虞卿は多くの朋党の助けがあり、必ず受け入れられると自負していたが、この時、惶恐して去った。礼部尚書・東都留守に遷った。卒去、年六十六、尚書左僕射を贈られた。

弘景は直道をもって進み、議論は公正を保ち節操あり、当時の風教が倚頼するところとなり、長慶の名卿となった。

陸元方

陸元方、字は希仲、蘇州呉の人。陳の給事黃門侍郎琛の曾孫。伯父柬之は、書を善くする名家で、太子司議郎に官した。元方は初め明経に及第し、後に八科に挙げられ皆中った。累転して監察御史となった。武后の時、嶺外に使いし、海を渡ろうとした時、風濤が驚くほど激しく、舟人は恐れた。元方は言った「吾は命を受けて私せず、神豈に我を害せんや」。急ぎ渡海を促すと、風は遂に止んだ。使いより還り、殿中侍御史に除され、鳳閣舍人・秋官侍郎に擢でられた。来俊臣に陥れられたが、后は罪に問わず。鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に遷った。李昭德に附会した罪で坐し、綏州刺史に貶された。天官侍郎に擢でられ、司えい卿を兼ねた。或る者がその推薦引き立ては皆親族党与であると言い、后は怒り、官を免じて白衣のまま職務を領させた。元方は以前の如く人を推薦し、后は召して責めた。対えて言う「臣の知る所を挙ぐるなり、仇党を問う暇あらず」。またその友崔玄暐に宰相の才あることを推薦した。后は他意なきを知り、再び鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に拝した。后が嘗て外朝の事を問うた時、対えて言う「臣は宰相の位を備え、大事は当に奏上すべし、民間の細事は敢えて聞かしむるに足らず」。旨に逆らい、下って太子右庶子となった。文昌左丞に進み、卒した。

元方は元来清廉慎重で、再び政を執る時、群臣を進退する度に、后は必ず先ず彼に訪問し、外朝は秘して知る者無し。臨終に際し、奏稿を取って焼き、言った「吾が陰徳は人に在り、後必ず興る者あらん」。また言った「吾は寿を得るべきなり、但だ選事を領すること久しく、吾が神を耗傷す」。一つの箱あり、平生より緘鑰したもの、歿後、家人が開くと、乃ち前後の詔勅であった。越州都督を贈られた。

諸子は皆才美しく、而して象先・景倩・景融は特に知名なり。

元方の子 象先

象先は器識沈邃にして、制科に高第で挙げられ、揚州參軍事となった。時に吉頊が元方と共に吏部侍郎となり、頊は象先を洛陽らくよう尉に擢でようとしたが、元方は肯じなかった。頊は言う「官の為に人を択ぶに、豈に吏部の子を以て至公を廃せんや」。遂に授けた。俄かに監察御史に遷る。累授して中書侍郎となった。景雲年中、同中書門下平章事に進み、國史を監修した。

初め、太平公主は謀りて崔湜を引きて宰相とせんとし、湜は言った「象先は人望有り、宜しく枢近を幹ぶべし、若し然らざれば、湜敢えて辞す」。主は已むを得ず其の事を言い、遂に共に政事を知らしめた。然れども其の性恬静寡欲にして、議論高簡、時に推されて向われた。湜は嘗て言う「陸公は人に一等を加う」。公主が権を擅にすると、宰相は争ってこれに附したが、象先は嘗て往き謁せず。及び謀逆を図り、宰相を召して議し、言う「寧王は長なり、嫡を廃し庶を立つるべからず」。象先は言う「帝(玄宗)の立つるを得たるは、何ぞや」。主は言う「帝は一時の功有り、今徳を失う、安んぞ廃せざらんや」。対えて言う「功を以て立つる者は、必ず罪を以て廃す。今天子の過失を聞かず、安んぞ廃せん」。主は怒り、更に竇懷貞らと謀り、遂に誅殺された。時に象先は蕭至忠・岑羲らと坐し、主によって進められた者として、将に同誅せんとしたが、玄宗は急ぎ召して免じ、言う「歳寒くして然る後に松柏の後に凋むを知るなり」。保護の功を以て、兗國公に封じ、封戸二百を賜う。

初め、難が起こりし時、睿宗は承天樓に御し、群臣稍々集まる。帝は麾して言う「朕を助くる者は留れ、然らざれば去れ」。ここに於いて名を投じて自ら験する者有り。事平らぎ、玄宗は投げられた名簿を得、詔して象先に収め按ぜしめた。象先は悉くこれを焼いた。帝は大怒し、併せて罪を加えんと欲す。頓首して謝し言う「君の難に赴くは、忠なり。陛下方に徳を以て天下を化せんとす、奈何ぞ行義の人を殺さんや。故に臣は命に違いて、反側する者を安んず。其れ敢えて死を逃れんや」。帝は悟り、之を善しとした。時に蕭至忠・岑羲らの党与を窮めて治めし時、象先は密かに申し救い、保全すること甚だ衆く、当時知る者無し。

罷められて益州大都督府長史・劍南按察使となり、政を行うに仁恕を尚ぶ。司馬韋抱真が諫めて言う「公は峻なる撲罰を以て威を示すべし、然らずんば、民慢にして且つ畏るる所無からん」。答えて言う「政は之を治むるに在るのみ、必ずしも刑法を以て威を樹つるに非ず」。遂に従わず、而してしょくは化した。累遷して蒲州刺史となり、河東按察使を兼ねた。小吏に罪有り、誡めて遣わす。大吏が白し争い、杖とすべきと為す。象先は言う「人情大抵相遠からず、彼吾が言を曉らざるを謂うか。必ず責むるならば、当に汝を以て始めとすべし」。大吏は慚じて退く。嘗て言う「天下本無事、庸人の之を擾らして煩いと為すのみ。第に其の源を澄ます、何ぞ簡ならざるを憂えんや」。故に至る所民吏之を懐いた。

入朝して太子詹事となり、戸部尚書を歴任し、吏部選事を知り、母喪に遭い免ぜられる。起復して揚州大都督府長史となる。太子少保に遷る。卒す、年七十二、尚書左丞相を贈られ、諡して文貞と曰う。初め、象先の名は景初、睿宗は言う「子能く先構を紹ぐ、是れ賢に象る者を謂う」。乃ち名を賜う。

象先の弟 景倩

弟景倩は撫溝丞となった。河南按察使畢構が州縣の殿最を覆査し、必ず実を得んと欲した。ある吏が状を言う「某は強いて清し、某は詐りて清し、惟だ景倩のみ真に清しと曰う」。終に監察御史となる。

象先の弟に景倩あり。

景融は身長七尺、姿質美しく、内は寛大にして外は篤厚なり。博学にして筆札をよくす。蔭補により千牛となり、新鄭令に転じ、政に風績あり、累遷して工部尚書・東京留守となる。卒し、広陵郡都督を贈られる。景融は象先に対し、後母の弟なり。象先が笞打たるる時、景融は諫め、入れられざれば自らむちを執り、母はその威を損じ、人多くその友を称す。

景倩の四世孫に希聲あり。

四世孫希聲。希聲は博学にして文を属するに善く、『易』・『春秋』・『老子』に通じ、論著甚だ多し。商州刺史鄭愚、表して属と為す。後に去り、義興に隠る。久しくして、召されて右拾遺と為る。時に憸腐(邪悪な者)権を秉り、歳たびたび凶作、梁・宋は特に甚だし。希聲、州県の刓敝(疲弊)を見て、上言し盗賊を謹み視るべしとす。明年、王仙芝反し、数十州に株蔓し、遂に制すべからず。累擢して歙州刺史となる。昭宗その名を聞き、召して給事中と為し、戸部侍郎・同中書門下平章事を拝す。在位に軽重無く、太子少師を以て罷む。李茂貞等兵を以て京師を犯すに及び、輿に疾を乗せて避難す。卒し、尚書左僕射を贈られ、謚して文と曰う。元方の従父に餘慶あり。

元方の従父に餘慶あり。

餘慶は、陳の右衛將軍珣の孫、方雅にして祖風有り。既に冠し、名未だ顕れず、兄玄表唶せきして曰く「爾の名宦立たず、奈何いかんせん」と。餘慶感激し、戸を閉ざして書を誦すること三年、博学を以て称せらる。制策甲科に挙げられ、蕭尉を補す。累遷して陽城尉となる。武后嵩山を封ずるに、辦具の労を以て、擢て監察御史と為る。聖暦初、霊・勝二州の党項、北胡を誘いて辺を寇す、詔して餘慶に招慰せしめ、恩信を以て諭す、蕃酋衆を率いて内附す。殿中侍御史・鳳閣舎人に遷る。後に嘗て殿上に詔を草せしむるを命ぜらるるも、恐懼して一詞も得ず、左司郎中に降る。久しくして、広平郡公に封ぜられ、太子右庶子と為る。

餘慶は寒品晩進に対し、必ず悉く力を尽くして薦藉す。人過ち有れば、輒ち面折し、退いて一言も無し。開元初、河南・河北宣撫使と為り、富春の孫逖・京兆の韋述・呉興の蔣冽・河南の達奚珣を薦め、後皆知名の士と為る。大理卿に遷る。終に太子詹事に至り、謚して莊と曰う。

趙貞固・盧蔵用・陳子昂・杜審言・宋之問・畢構・郭襲微・司馬承禎・釈懐一と雅く善し、時に「方外十友」と号す。餘慶の才は子昂等に逮ばざれども、風流敏辯は之に過ぐ。

初め、武后の時、酷吏用事し、中宗の朝には、幸臣貴主斜封大に行われ、啗利嗇禍(利を貪り禍を惜しまぬ)の人、相と乾没し、亟に貴び驟に用いられると雖も、戮は踵を反さず。餘慶は道を以て自ら将い、仕えて赫赫たらずと雖も、終に悔尤無し。

餘慶の子に璪あり。

子璪、字は仲采。明経に挙げられ、長安尉を補し、清幹を以て称せらる。開元初、中朝臣の子弟は京畿に任ぜられず、新郷令に改めらる、人為に祠を立つ。按察使宇文融の薦を用い、澠池令に遷る。累遷して兵部郎中となり、柬躭騎使を兼ぬ。還りて除かれて洛陽令と為る、時に車駕洛に在り、奸豪を摧勒し、人敢えて犯さず、中書令蕭嵩に器とせらる。嵩罷むると、佗の宰相嵩の短を陰にたずねしむるに、璪曰く「人と交わり、過ち有り且つ言うべからず、況んや無きに於いてをや」と。是を以て貴近に忤い、出でて太原少尹と為る。累徙して西河太守となり、平恩県男に封ぜらる。属邑多く虎有り、前守檻阱を設く、璪至りて之を徹す、而して虎暴を為さず。

王及善

王及善、洺州邯鄲の人。父君愕、沈謀有り。隋乱れ、へい州人王君廓邯鄲を掠む、君愕往きて説きて曰く「隋氏禦を失い、豪俊共に其の乱を救う、宜しく遺氓を撫納して之を保全し、時変を観て真主を待つべし。足下は尺寸の地無く、兼旬の糧無く、衆を劫して興り、但だ残剽を恣にす、過ぐる所失望せしむ、窃に足下の為に之を羞ず」と。君廓謝して曰く「計安くにか出づ」と。答えて曰く「井陘の険先ず取るべし」と。君廓其の言に従い、遂に井陘山に屯す。高祖関に入るに及び、君廓と偕に来たり、君愕を拝して大將軍と為し、新興県公に封じ、累遷して左武衛將軍と為る。太宗に従い遼を征し、左屯営兵を領し、高麗と駐蹕山に戦い、陣に死す、左衛大將軍・幽州都督・邢国公を贈られ、昭陵に陪葬せらる。

及善は父の死事を以て、朝散大夫を授けられ、邢国公の爵を襲ぐ。皇太子弘立つに及び、及善を擢て左奉裕率と為す。太子宮に宴し、宮臣に命じて擲倒せしむるに、及善辞して曰く「殿下自ら優人有り、臣苟くも令を奉ずれば、羽翼の美に非ず」と。太子之に謝す。高宗聞き、絹百匹を賜う。右千牛衛將軍を除く、帝曰く「爾が忠謹を以て、故に三品の要職に擢ぐ。群臣は搜辟に非ざれば、朕が所に至ることを得ず。爾大横刀を佩びて朕が側に在り、亦た此の官の貴きを知るか」と。病にて免ぜらる。召されて衛尉卿と為る。垂拱中、司属卿を歴る。山東饑え、詔して巡撫賑給使と為す。春官尚書を拝す。出でて秦州都督・益州長史と為り、光禄大夫を加えられ、老病を以て致仕す。

神功元年、契丹山東を擾す、擢て魏州刺史と為し、武后労して曰く「逆虜辺を盗み、公病と雖も、妻子と行くべし、日三十里、朕が為に臥して治め、屏蔽と為れ」と。因りて朝政の得失を延問す、及善治乱の宜き所を陳ぶ、后悦びて曰く「寇を禦るは末なり、政を輔くるは本なり、公行くべからず」と。留めて内史を拝す。来俊臣獄に繫がり当に死すべく、后誅せずに釈さんと欲す、及善曰く「俊臣凶狡不道、亡命を引き、善良を汙戮し、天下之を疾む。元悪を剿絶せずんば、且つ乱を搖がし禍を胎し、憂未だおわらず」と。后之を納る。廬陵王の還るに、密かに其の謀を賛す。既に皇太子と為り、又外朝に出づることを請い、以て群臣を安んず。

及善は文才に富むわけではないが、清廉正直で自らを律し、事に臨んではその志を奪うことができず、大臣たる節操を備えていた。時に二張(張易之・張昌宗)が寵を恃んで驕り、しばしば侍宴の際に人臣の礼を失うことがあったが、及善はたびたびこれを制止した。則天武后は快く思わず、「卿は年が高いゆえ、遊宴に侍するには適さない。ただ閣中の事務を監督せよ」と言った。及善はすぐに病気を理由に一月余り出仕せず、武后も再び問うことはなかった。及善は嘆いて言った、「中書令たる者が一日も天子に会わずにいられようか」と。そこで致仕を願い出たが、なおも許されず、文昌左相・同鳳閣鸞臺三品に改められた。死去、八十二歳。益州大都督を追贈され、諡は貞、乾陵に陪葬された。

李日知

李日知は、鄭州滎陽けいようの人である。進士に及第した。天授年間(690-692)、司刑丞を歴任した。当時は法令が厳しく、官吏は競って残酷なことをしたが、日知は平穏で寛大であり、ことさらに罪を構成することはなかった。かつて一人の囚人の死刑を免じようとしたところ、少卿の胡元礼がどうしても認めず、「私がこの官を去らなければ、囚人は生きる道はない」と言った。日知は言った、「私がこの官を去らなければ、囚人に死ぬ法はない」。ともに上申文書を提出して裁決を仰ぎ、武后は日知の意見を用いた。

神龍初年(705)、給事中となった。母が老いて病んでいたので、急を告げて帰省し侍ったところ、数日で鬚や髪が白くなった。母は封を受ける前に亡くなった。ちょうど葬儀を行おうとした時、役人が贈位の詔書を持って来た。日知は道中で気絶して倒れ、左右の者は泣いて、見るに忍びなかった。巡察使の路敬潛がその孝行を表彰しようとし、事績を求めるよう使者を遣わしたが、日知は辞退して報告しなかった。喪が明けると、累進して黄門侍郎となった。

景雲初年(710)、同中書門下平章事となり、御史大夫に転じ、引き続き政事を知った。初め、安楽公主の邸宅が完成した時、中宗が行幸し、従官を集めて宴を開き、詩を賦した。日知の最終の章句は、ただひとり規戒の意を含んでいた。睿宗は後日、彼に言った、「あの時は朕でさえも諫めることはできなかった。公が直諫しなければ、どうしてあのようにできようか」。すぐに侍中に任じた。先天元年(712)、罷免されて刑部尚書となった。たびたび致仕を願い出て、許された。日知は願い出ようとする時、家の者に相談せず、帰宅してから身支度を始めた。妻が驚いて言った、「財産も何もないのに、どうしてそんなに急いで辞めるのですか」。日知は言った、「官位がここまで至ったのは、すでに我が分を過ぎている。人としてどこまで飽き足りるということがあろうか。もし心に飽き足りなければ、一日として満足することはない」。罷免されてからは、田園を経営せず、ただ庭園の池を整え、賓客を招いて楽しんだ。開元三年(715)に死去。

日知は貴くなり、諸子がまだ幼い頃から、皆名門と婚姻を結んだので、当時の人々はこれを非難した。後に末子の伊衡が妾を妻とし、田宅を売り払い、ついには兄弟が争って訴訟するに至り、家法は廃れたという。

杜景佺

杜景佺は、冀州武邑の人である。性格は厳格で公正であった。明経に挙げられて及第した。累進して殿中侍御史となった。出向して益州録事参軍となった。時に隆州司馬の房嗣業が州司馬に転任することになり、詔書がまだ下っていないのに、すぐに職務を執ろうとし、先に役人を鞭打って責め、威を示そうとした。景佺は言った、「公は司馬に任命されたとはいえ、州にはその命令が届いていない。どうして数日の俸禄を急ぐのですか」。嗣業は怒って聞き入れなかった。景佺は言った、「公はわずかな詔書の写しを持っているだけで、真偽も定かではない。すぐに一府をかき乱そうとするのは、李敬業の揚州での禍(684年の反乱)と同類ではありませんか」。左右の者を叱って退けさせた。その後、嗣業は荊州司馬に任じられ、役人たちは歌った、「録事の意、天に通ず;州司馬、威風を折る」と。これによって次第に有名になった。

中央に入って司刑丞となり、徐有功・来俊臣・侯思止とともに詔獄を専門に扱い、当時「徐・杜に遇えば生く、来・侯に遇えば死す」と称された。秋官員外郎に改められ、侍郎の陸元方とともに員外郎侯味虚の罪を審理した。推問が終わると、すぐに釈放した。武后は報告を待たなかったことを怒り、元方は大いに恐れたが、景佺ひとりが言った、「陛下は六品・七品の官について、文書による審議が決まったら、外で待機させるよう明詔されました。今、たとえ臣を罪にしようとしても、明詔をどうなさいますか」。宰相が言った、「詔は司刑のためであって、秋官(刑部)に関係あることか」。景佺は言った、「詔令が一旦公布されれば、御史台・大理寺の区別はありません」。武后は彼が法を守る者と認め、鳳閣舎人に抜擢した。洛州司馬に遷った。

延載元年(694)、検校鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事となった。武后がかつて晩秋に梨の花を出して宰相に見せ、祥瑞だとした。一同は祝賀して言った、「陛下の徳が草木にまで及び、故に秋に再び花が咲いたのです。周の仁政が『行葦』の詩に歌われたのに匹敵します」。景佺ひとりが言った、「陰陽は互いにその秩序を侵してはならず、乱れれば災いとなります。故に『冬に過ぎた陽気なく、夏に伏した陰気なく、春に冷たい風なく、秋に長雨なし』と言います。今、草木は黄葉して落ちるのに、木が再び花を咲かせるのは、陰陽を乱しています。ひそかに恐れるのは、陛下の徳を布き令を施すことに、欠け乱れがあるのではないかと。臣は宰相の位にあり、天を助けて万物を治めます。治めて和せざるは、臣の罪です」。頓首して罪を請うた。武后は言った、「真の宰相だ」。時に李昭德が投獄されると、景佺は苦しんで救済を申し立てた。武后は面と向かって欺いたとして、左遷して秦州刺史とした。中央に召されて司刑卿となった。聖暦元年(698)、再び鳳閣侍郎同鳳閣鸞臺平章事となった。契丹が侵入し、河北の数州を陥落させた。敵が去った後、武懿宗がその罪をすべて論じようとしたが、景佺は脅されて従った者は許すべきだとし、武后はその意見に従った。罷免されて秋官尚書となった。省中の言葉を漏らした罪に坐し、司刑少卿に降格された。出向して并州長史となり、道中で病没した。相州刺史を追贈された。初名は元方、垂拱年間(685-688)に今の名に改めた。

李懷遠

李懷遠は、字を広德といい、邢州柏仁の人である。幼くして孤となり、学問を好んだ。同族の者が高い官蔭を利用させようとしたが、懷遠は辞退し、退いて言った、「人の勢いを頼ることは、高潔な士は恥じるところだ。仮の官蔭で官に就くことが、我が志であろうか」。四科に及第し、累転して司礼少卿となり、出向して本州刺史となった。冀州に改められ、揚・益二都督府長史に遷り、同州刺史に転じた。政治は清廉簡素を尊んだ。累進して鸞臺侍郎となり、同鳳閣鸞臺平章事に進み、平郷県男に封じられた。左散騎常侍同中書門下三品となり、趙郡公に爵位を進め、実封三百戸を賜った。老齢のため、致仕を許された。中宗が京師に還ると、召されて東都留守を管知し、再び同中書門下三品を加えられた。

懷遠は長く貴い地位にあったが、ますます質素にし、住居を立派にしなかった。かつて鈍足の馬に乗っていたところ、僕射の豆盧欽望が言った、「公は貴顕なのに、それでよいのですか」。答えて言った、「私はそのおとなしいのを幸いとし、他の駿馬を望みません」。神龍二年(706)に死去すると、帝は錦の衾を賜って遺体を収め、自ら文を作って祭り、侍中を追贈し、諡を成といった。

懷遠の子 景伯

子の景伯は、景龍年間(707-710)に諫議大夫となった。中宗が侍臣と朝集使を宴した。酒が酣になった時、それぞれに『回波詞』を作るよう命じた。ある者は諂言をもって上に媚び、ある者は謬った寵愛を求めた。景伯に至っては、ただひとり箴規の言葉をもって帝を諷したので、帝は悦ばなかった。中書令の蕭至忠が言った、「真の諫官である」。景雲年間(710-711)、太子右庶子に進んだ。時に都督府を置くのは誤りだという建言があり、詔して群臣に広く議論させた。景伯と太子舎人の盧俌は議して言った、「今、天下の諸州が都督に分属し、生殺刑賞の権を専らにしている。もし人を得ずしてこれを授ければ、権力が重くなり禍いが生じ、強幹弱枝・国を治め物事を正す道理に適いません。都督を廃し、御史を留め、時に応じて巡察させ、位は低くとも任は重くして、奸宄を制するのが便利です」。これによって都督の設置は停止された。終官は右散騎常侍。

景伯の子、彭年。

子の彭年は才あり、物事を分析し明らかに悟る。歴任して中書舎人・吏部侍郎に遷る。李林甫と親しく交わる。常に山東の名族を慕い、婚姻を結び、清要な官列に引き入れる。選挙を掌ること七年、ついに贓罪にて敗れ、長く臨賀郡に流される。天宝十二載、抜擢されて済陰太守となり、馮翊に転ず。天子蜀に幸するに及び、賊に陥り、偽官を以て脅され、憂憤して死す。礼部尚書を追贈される。