新唐書

巻一百十五 列伝第四十 狄仁傑子:光嗣 族孫:兼謨 郝處俊孫:象賢 朱敬則兄:仁軌

狄仁傑

狄仁傑、字は懷英、へい州太原の人なり。兒童の時、門人に被害せられたる者あり、吏来たりて詰問す。衆は爭ひ辨對すれども、仁傑は書を誦して止めず。吏之を譲る。答へて曰く、「黄卷の中、方に聖賢と對せんとす。何ぞ暇あらんや俗吏の語に偶はんや」と。明經に挙げられ、汴州參軍に調ぜらる。吏に誣訴せられ、黜陟使閻立本召して訊問す。其の才を異とし、謝して曰く、「仲尼は過ちを觀て仁を知ると稱す。君は滄海の遺珠と謂ふべし」と。薦めて并州法曹參軍を授く。親は河陽に在り。仁傑、太行山に登り、顧み返れば、白雲孤り飛ぶを見る。左右に謂ひて曰く、「吾が親其の下に舍る」と。瞻望悵然として久しく、雲移りて乃ち去ることを得。同府の參軍鄭崇質、母老いて且つ疾あり、絶域に使はるべし。仁傑謂ひて曰く、「君、親に萬里の憂を貽すべけんや」と。長史藺仁基に詣りて代はりて行かんことを請ふ。仁基其の誼を咨美し、時に方に司馬李孝廉と平らかならず、相ひ誡めて曰く、「吾等少しく愧づべし」と。則ち相ひ待つこと初めの如し。毎に曰く、「狄公の賢、北斗以南、一人のみ」と。

稍く大理丞に遷る。歳中に久しき獄を斷ずること萬七千人、時に平恕と稱せらる。左威えい大將軍權善才・右監門中郎將範懷義、誤りて昭陵の柏を斧るに坐し、罪は免に當たるべし。高宗詔して之を誅せんとす。仁傑奏して死すべからずとす。帝怒りて曰く、「是れ我をして不孝の子たらしむ。必ず之を殺さむ」と。仁傑曰く、「漢に高廟の玉環を盜める者あり、文帝之を族に當てんと欲す。張釋之廷に諍めて曰く、『假令長陵の一抔の土を取らば、何を以て其の法を加へん』と。是に於て罪は棄市に止む。陛下の法は象魏に在り、固より差等あり。死に至らざるを犯して之を死に致すは、何ぞや。今一柏を誤りて伐ち、二臣を殺さば、後世陛下を何如なる主と謂はんや」と。帝意解け、遂に死を免ず。数日を経て、侍御史を授く。左司郎中王本立、寵に怙りて自ら肆にす。仁傑其の惡を劾奏す。詔有りて之を原ふ。仁傑曰く、「朝廷賢を借り乏しむと雖も、本立の如き者は鮮からず。陛下有罪を惜しみ、成法を虧くは、奈何。臣願はくは先づ斥けられ、群臣の戒めと爲らん」と。本立罪に抵る。繇りて朝廷肅然たり。岐州に使はる。亡卒数百、行人を剽掠し、道通ぜず。官捕へて盜黨を繫ぎ窮めて訊くも、余曹紛紛として制すべからず。仁傑曰く、「是れ其の計窮まり、且つ患ひと爲らんとす」と。乃ち明らかに首原の格を開き、繫がるる者を出だし、稟して之を縱ち、相ひ曉することを使ふ。皆自ら縛して歸る。帝其の權宜に達するを歎ず。

度支郎中に遷る。帝汾陽宮に幸す。知頓使と爲る。并州長史李沖玄、道〓石女祠に出づるを以て、俗に盛服して過ぐる者は風雷の變を致すと言ふ。更に卒数萬を發して馳道を改めしむ。仁傑曰く、「天子の行、風伯塵を清め、雨師道を灑ぐ。何ぞ〓石女を避けんや」と。其の役を止む。帝之を壯とし、曰く、「真の丈夫なり」と。出でて甯州刺史と爲り、戎落を撫和し、其の歡心を得、郡人碑を勒して以て頌す。入り拜して冬官侍郎・持節江南巡撫使と爲る。呉・楚の俗、淫祠多し。仁傑一に禁止し、凡そ千七百房を毀ち、止むるに夏禹・呉太伯・季劄・伍員の四祠を留むるのみ。

文昌右丞に轉じ、出でて州刺史と爲る。時に越王兵敗れ、支黨余二千人、死を論ぜらる。仁傑其の械を釋き、密かに疏して曰く、「臣陳ぶる所有らんと欲す。逆人を申理するが如し。言はざれば、且つ陛下の欽恤の意を累す。表成りて復た毀つ。自ら定むること能はず。然れども此れ皆本惡に非ず、詿誤して此に至る」と。詔有りて悉く邊に戍せしむ。囚寧州を出づるに、父老迎へ勞して曰く、「狄使君汝を活かしめしや」と。因りて相與に碑下に哭す。囚齋すること三日にして乃ち去る。流所に至りても、亦た爲に碑を立つ。初め、宰相張光輔、越王を討つ。軍中功に恃み、多く暴索す。仁傑之を拒ぐ。光輔怒りて曰く、「州將元帥を輕んずるか」と。仁傑曰く、「河南を亂す者は一の越王なり。公士三十萬を董して以て亂を平ぐ。縱令暴橫せしめ、無辜の人をして咸く塗炭に墜ちしむれば、是れ一の越王死し、百の越王生ずるなり。且つ王師の至るに、民歸順すること萬を以て計ふ。自ら縋りて下り、四面蹊を成す。奈何ぞ邀賞の人を縱ちて降を殺し、以て功と爲すをして、冤痛天に徹せしむる。上方の斬馬劍を得て君の頸に加はらば、死すと雖も恨みなし」と。光輔還り、仁傑遜らざるを奏す。左授して復州刺史と爲す。徙りて洛州司馬と爲る。

天授二年、地官侍郎を以て同鳳閣鸞臺平章事と爲る。武后謂ひて曰く、「卿汝南に善政有り。然れども卿を譖る者有り。之を知らんと欲するか」と。謝して曰く、「陛下以て過ちと爲さば、臣當に之を改むべし。以て過ち無しと爲さば、臣の幸ひなり。譖る者は乃ち願はくは知らず」と。后其の長者なるを歎ず。時に太學生謁急す。后亦た報可す。仁傑曰く、「人君は惟だ生殺の柄を以て人に假るべからず。簿書期會に至りては、宜しく有司を責むべし。尚書省事を決するに、左・右丞は杖を句はず、左・右丞相は徒を判せず。況んや天子をや。學徒告を取るは、丞・簿の職のみ。若し報可と爲さば、則ち胄子数千、凡そ幾詔ならんや。令を定めて之を示すのみ」と。后其の言を納る。

會ひて來俊臣の構ふる所と爲り、捕へ送られて制獄に就く。時に、反を訊ぬる者一問して即ち臣す。聽けて死を減ず。俊臣仁傑を引いて對せしむ。答へて曰く、「周革命有り。我乃ち唐の臣なり。反すること固より實なり」と。俊臣乃ち挺して繫ぐ。其の屬王德壽、情を以て謂ひて曰く、「我意少く遷らんことを求む。公我が爲に楊執柔を引いて黨と爲せ。公且つ死を免れん」と。仁傑歎じて曰く、「皇天后土、仁傑をして此れを爲さしむるか」と。即ち首を以て柱に觸れ、血沫面に流る。德壽懼れて謝す。守者漸く弛む。即ち筆を丐ひて帛に書し、褚衣の中に置き、好く吏に謂ひて曰く、「方に暑し。請ふ家に付けて絮を徹せしめよ」と。仁傑の子光遠、書を得て變を上る。后使を遣はして案視せしむ。俊臣仁傑に冠帶して使者に見ゆることを命じ、私に德壽に謝死の表を作らしめ、使に附して以て聞かしむ。后乃ち仁傑を召して見、謂ひて曰く、「反を承くは何ぞや」と。對へて曰く、「反を承けずんば、笞掠に死せん」と。其の表を示す。曰く、「之無し」と。后代はりて署するを知り、因りて死を免ず。武承嗣屢請ひて之を誅せんとす。后曰く、「命已に行はる。返すべからず」と。時に同く誣はるる者、鳳閣侍郎任知古等七族、悉く貸すことを得。御史霍獻可、首を以て殿陛に叩き苦爭し、必ず仁傑等を殺さんと欲す。乃ち仁傑を彭澤令に貶す。邑人爲に生祠を置く。

萬歳通天中、契丹冀州を陷す。河北震動す。仁傑を擢きて魏州刺史と爲す。前刺史賊の至るを懼れ、民を驅りて城を保たしめ、守具を修む。仁傑至りて曰く、「賊遠くに在り。何ぞ自ら民を疲れしむる。萬一虜來らば、吾自ら之を辦す。何ぞ若輩に預からん」と。悉く縱ちて田に就かしむ。虜聞き、亦た引き去る。民之を愛仰し、復た爲に祠を立つ。俄に轉じて幽州都督ととくと爲り、紫袍・龜帶を賜ふ。后自ら金字十二を袍に製し、以て其の忠を旌す。

召し拜して鸞臺侍郎と爲し、復た同鳳閣鸞臺平章事と爲る。時に兵を發して疏勒四鎮を戍らしむ。百姓怨苦す。仁傑諫めて曰く、

天は四夷を生じ、皆先王の封域の外に在り。東は滄海に距り、西は流沙に隔たり、北は大漠を横たえ、南は五嶺に阻まる、天の以て中外を限る所以なり。典籍の紀す所、声教の暨ぶ所より、三代の至らざる者、国家既にこれを兼ぬ。詩人は太原に於ける薄伐を矜り、江漢に於ける化行を誇るも、前代の遐裔にして、我が域中たる、夏・商を過ぎて遠し。今乃ち荒外に武を用い、絶域に功を邀え、府庫の実を竭して、磽確不毛の地を争う。其の人を得るも以て賦を増すに足らず、其の土を獲るも以て耕織すべからず。苟くも冠帯の遠夷を求め、本を固くし人を安んずるを務めざれば、此れ秦皇・漢武の行う所なり。伝に曰く「覆車と軌を同じくする者は未だ嘗て安からず」と。此の言小なれども、以て大を喩うべし。

臣伏して見るに、国家師旅歳に出で、調度の費狃以て浸く広く、右は四鎮を戍り、左は安東に屯し、杼軸空しく匱え、転輸絶えず、行役既に久しく、怨曠する者多し。上之を恤わざれば、則ち政行わず、政行わざれば、則ち害気作し、害気作すれば、則ち虫螟生じ、水旱起こる。方今関東饑饉を薦め、しょく漢流亡し、江・淮より南、賦斂息まず。人本に復せざれば、則ち相率いて盗を為し、本根一たび揺らげば、憂患浅からず。然る所以の者は、皆功を方外に貪り、中国を耗竭するなり。昔漢元帝賈捐之の謀を納れて珠崖を罷め、宣帝魏相の策を用いて車師の田を棄つ。貞観中、九姓を克平し、冊を以て李思摩を拝して可汗と為し、諸部を統べしむ。夷狄叛けば則ち伐ち、降れば則ち撫で、推亡固存の義を得て、遠戍労人の役無し。今阿史那斛瑟羅は、皆陰山の貴種、代々沙漠に雄たり。若し之を四鎮に委ね、以て諸蕃を統べ、可汗に建て、寇患を禦がしめば、則ち国家に継絶の美有り、転輸の苦無し。四鎮を損じ、中国を肥やし、安東を罷め、遼西を実にし、軍費を遠方に省き、甲兵を要塞に並せば、恒・代の鎮重く、而して辺州の備豊かなり。

且つ王者外に寧んずるも、容るるに内危有り。陛下姑く辺兵を勅して謹みて守備せしめ、逸を以て労を待てば、則ち戦士力倍し、主を以て客を禦ぐれば、則ち我其の便を得、壁を堅くし野を清くすれば、寇得る所無し。自然深入すれば顛躓の慮有り、浅入すれば虜獲の益無し。数年を数えずして、二虜討たずして服せん。

又安東を廃し、高姓を復して君長と為し、江南の転餉を省き以て民を息ましむるを請うも、納れられず。

張易之嘗て従容として自安の計を問う。仁傑曰く「惟だ廬陵王を迎うるを勧むるは以て禍を免るべし」と。会うに后武三思を以て太子と為さんと欲し、以て宰相に問う。衆敢えて対する者無し。仁傑曰く「臣観るに天人未だ唐徳に厭かず。比来匈奴辺を犯すに、陛下梁王三思をして勇士を市に募らしむるも、月を逾えても千人に及ばず。廬陵王之に代わるや、浹日せずして、輒ち五万。今継統せんと欲すれば、廬陵王に非ざれば莫し」と。后怒り、議を罷む。久しくして、召して謂いて曰く「朕数夢に双陸勝たず、何ぞや」と。是に於いて、仁傑と王方慶俱に在り、二人同辞に対えて曰く「双陸勝たざるは、子無きなり。天其の意する者は以て陛下を儆しむるか。且つ太子は天下の本、本一たび揺らげば、天下危し。文皇帝身鋒鏑を蹈み、勤労して天下有ち、子孫に伝う。先帝寢疾し、詔して陛下に監国せしむ。陛下神器を掩いて之を取る、十余年、又三思を以て後と為さんと欲す。且つ姑姪と母子孰れか親しき。陛下廬陵王を立てば、則ち千秋万歳の後常に宗廟を享けん。三思立てば、廟姑を祔せず」と。后感悟し、即日徐彦伯を遣わして廬陵王を房州に迎えしむ。王至る。后王を帳中に匿し、仁傑を召して見え、廬陵の事を語る。仁傑敷請切至にして、涕下りて止む能わず。后乃ち王をして出でしめて曰く「爾が太子を還す」と。仁傑降りて拝し頓首して曰く「太子帰るも、知る者有らず、人言紛紛、何をか信ぜん」と。后之を然りとす。更に太子をして龍門に舍らしむ。礼を具えて迎え還し、中外大いに悦ぶ。初め、吉頊・李昭德数太子を還すを請うも、而して后意回らず。唯仁傑毎に母子の天性を以て言と為す。后雖た忮忍なれども、感無き能わず、故に卒に唐の嗣を復す。

尋いで納言に拝し、右粛政御史大夫を兼ぬ。突厥趙・定に入り、殺掠甚だ衆し。詔して仁傑を河北道行軍元帥と為し、便宜を仮す。突厥得たる所の男女万計を尽く殺し、五回道より去る。仁傑追うも逮ぶ能わず。更に河北安撫大使に拝す。時に民多く賊に脅従す。賊已に去り、誅を懼れ、逃匿す。仁傑上疏して曰く「議者以て虜寇に入るを以て、始めて人の逆順を明らかにす、或いは迫脅せられ、或いは願いて従い、或いは偽官を受け、或いは招慰と為すと為す。誠に山東の人気を重んずるを以て、一たび往きて死すも悔いと為さず。比来軍興に縁り、調発煩重、家産を傷破し、屋を剔ぎ田を売るも、人為に售げず。又官吏侵漁し、州県科役し、督趣鞭笞し、情危く事迫り、礼義に循わず、犬羊に跡を投じ、以て賒死を図る。此れ君子の愧ずる所にして、小人の常なり。民猶お水の如し、壅ぐれば則ち淵と為り、疏くすれば則ち川と為る。通塞流に随う、豈に常性有らんや。昔董卓の乱、神器播越す。卓已に誅禽せられ、部曲赦無し。故に事窮まりて変生じ、毒を京室に流す。此れ恩溥く洽わざるに由り、機先に失うなり。今罪を負うの伍、潜かに山沢に竄く。之を赦すれば則ち出で、赦せざれば則ち狂せん。山東の群盗、茲に縁りて聚結す。故に臣以て辺鄙暫く警むるは憂うるに足らず、中土寧からざるは慮う可きと為す。大国を持つ者は以て小に治むべからず、事広き者は以て細に分くべからず。人主の務むる所、常法を検せず。願わくは曲く河北を赦し、一たび罪を問わず」と。詔して可とす。

還りて、内史を除く。后三陽宮に幸す。王公皆従う。独り仁傑に第一区を賜い、眷礼卓異、時に輩する者無し。是の時李楷固・駱務整契丹を討ち、之を克ち、俘を含樞殿に献ず。后大いに悦ぶ。二人の者、本契丹李尽忠の部将。尽忠寇に入る。楷固等数王師を挫く。后降る。有司法の如く論ずるを請う。仁傑其のぎょう勇任す可きを称し、若し死を貸さば、必ず恩を感し節を納れ、以て功を責む可しと。是に至り凱旋す。后酒を挙げて仁傑に属し、其の人を知るを賞す。楷固に左玉鈐衛大将軍・燕国公を授け、姓を武と賜い、務整に右武威衛将軍を授く。

后将に浮屠の大像を造らんとし、費を度るに数百万、官足る能わず。更に天下の僧に詔して日ごとに一銭を施し以て之を助く。仁傑諫めて曰く「工鬼を役せざれば、必ず人を役す。物天より降らず、終に地より出づ。百姓を損せずして、将に何をか求めん。今辺垂未だ寧からず、宜しく征鎮の傜を寛め、不急の務を省くべし。就令工作を顧み、以て窮人を済わんも、既に農時を失い、是れ本を棄つるなり。且つ官助無くば、理を得て成る可からず。既に官財を費やし、又人力を竭くす。一方難有らば、何を以て之を救わん」と。后是に由りて役を罷む。

聖暦三年卒す。年七十一。文昌右相を贈り、諡して文恵と曰う。仁傑の薦進する所、張柬之・桓彦範・敬暉・姚崇等の若きは、皆中興の名臣と為る。始め母喪に居るに、白鵲馴擾の祥有り。中宗即位し、司空しくうを追贈す。睿宗又梁国公に封ず。子光嗣・景暉。

仁傑の子光嗣。

光嗣は、聖暦の初めに司府丞となった。則天武后が宰相に命じて各々尚書郎一人を推挙させたところ、仁傑が光嗣を推薦し、これにより地官員外郎に任ぜられ、その職務に適うことで知られた。后は言った、「祁奚が内に挙げて、果たして人を得た。」淄・許・貝の三州刺史を歴任した。母の喪に服していたが、喪中を奪って太府少卿に任ぜられようとしたが、固く辞退した。睿宗はその誠実さを嘉して、これを許した。累進して揚州長史となったが、罪により歙州別駕に貶せられ、卒した。

景暉は、魏州司功参軍の官にあり、貪婪で暴虐な行いをし、民はこれを苦しみ、その父(狄仁傑)の生祠を共に毀ち、再び祀らなくなった。元和年間に至り、田弘正が魏博を鎮守した時、初めてその修復を奏上し、血食(生贄の祭祀)が絶えることがなくなった。族孫に兼謨がいる。

(仁傑の族孫)兼謨

兼謨、字は汝諧、進士に及第した。襄陽の使府に辟召され、剛直で公正、祖先の風があった。令狐楚が政権を執ると、左拾遺に推薦され任ぜられ、たびたび上書して事を言った。刑部郎中、蘄・鄧・鄭の三州刺史を歴任した。歳に旱魃と飢饉があり、穀物を発して救済し、民は流離しなかった。蘇州刺史に転じ、その治績が最も優れていたため、給事中に抜擢された。左蔵の史が度支の縑帛を盗んだ。文宗は既に赦したことを理由に詔して治めさせまいとしたが、兼謨は詔書を封還した。帝が問うと、答えて言った、「典史が贓物を犯したのは、免じることはできません。」帝は言った、「朕は既にその長官を赦した。吏もまた宥すべきである。信を失うよりは、寧ろ罪人を失う方がましだ。」しばらくして言った、「後、もしも事に不可なるものがあれば、詔書を還すことを憚ってはならない。」御史中丞に遷った。帝は言った、「御史臺は朝廷の綱紀である。一つの臺が正しければ、朝廷は治まる。朝廷が正しければ、天下は治まる。畏れ憚って顧み躊躇すれば、その職務は廃れる。卿は梁公(狄仁傑)の後裔である。家の名声を嗣ぐべきであり、慎まざるべからず。」兼謨は頓首して謝した。江西観察使呉士矩がその軍への給与を加増し、上供の銭数十万を擅用した。兼謨が弾劾して奏上した、「観察使は陛下のために土地を守り、国の詔条を宣べる者です。軍を臨んで士卒を賞するには、州に定数があることを知りながら、与奪を己に由らせ、一方に弊害を残し、諸道の不満を招いています。有司に付して罪を治めさせて下さい。」士矩はこれにより蔡州別駕に貶せられた。兵部侍郎、河東節度使を歴任した。還って尚書左丞となった。武宗の子の峴が益王に封ぜられると、兼謨を傅と命じた。まもなく天平節度使を領したが、病気を理由に辞し、秘書監として洛陽らくように帰り、東都留守に遷り、卒した。

郝処俊

郝処俊は、安州安陸の人である。父の相貴は、隋の乱に乗じて、妻の父の許紹と共に峽州を占拠し、唐に帰順して、滁州刺史に任ぜられ、甑山県公に封ぜられた。処俊はわずか十歳で孤児となり、旧吏が千匹の縑を贈ろうとしたが、既に辞退して受け取らなかった。成長すると、学問を好み、『漢書かんじょ』を愛読し、その大略を暗誦した。貞観年間に進士に及第し、著作佐郎に初任官して、父の爵位を襲った。兄弟は仲睦まじく、諸舅に仕えること甚だ恭謹であった。再転して滕王友となったが、王府の属官となることを恥じて、官を棄てて去った。久しくして、召されて太子司議郎に任ぜられ、累進して吏部侍郎となった。高麗が叛くと、詔して李勣を浿江道大総管とし、処俊がその副となった。軍が敵境に入り、まだ陣を布いていないうちに、賊が急に到来し、全軍が危惧した。処俊は胡床に据わり、体は肥満していたが、平然と乾飯を食べて顧みず、密かに精鋭を選んで撃たせ、虜は退いた。衆はその謀略を雄壮と感じた。

東台侍郎に任ぜられた。時に浮屠(僧侶)の盧伽逸多が丹薬を調合し、「寿命を延ばすことができる」と言った。高宗はついにこれを服用しようとしたが、処俊が諫めて言った、「寿命の長短は元々天命にあり、異国の薬剤を、どうして軽々しく服用できましょうか。昔、先帝(太宗)は浮屠の那羅邇娑寐に詔してその方書に従って秘薬を調合させ、霊芝や怪石を採取し、数年を経てようやく完成させました。先帝がそれを服用すると、まもなく重篤となり、名医もどうすることもできませんでした。群臣はその者を公然と誅戮するよう請いましたが、議論する者は夷狄に笑いを取ることを恐れ、故に法は行われませんでした。前の鑑は遠くありません。どうか陛下は深くお察し下さい。」帝はその言葉を容れ、ただ盧伽逸多を懐化大将軍に任じ、処俊を同東西台三品に進めた。

咸亨の初め、帝が東都に幸した時、皇太子が国を監し、諸宰相は皆留まったが、処俊のみが従った。帝はかつて言った、「王者に外はない。何のために守りを固めるのか。重門を閉ざし、柝を打つのは、不慮の事態に備えるためか。私はかつて秦の法は寛大であったかと疑った。荊軻は一介の匹夫に過ぎない。匕首を窃かに発した時、群臣は皆戟を持って侍っていたが、敢えて拒む者はなかった。これは習いが慢心させたためではないか。」処俊が答えて言った、「これは法が厳しすぎたからです。秦の法では、殿上に昇った者は三族を誅する。人は皆族誅を恐れ、どうして敢えて拒むことがありましょうか。魏の曹操が令を著して言った、『京城に変事があれば、九卿は各々その府を守れ。』後に厳才が乱を起こし、徒党数十人を率いて左掖門を攻撃した。曹操は銅雀台に登ってこれを望んだが、敢えて救う者はなかった。時に王脩が奉常であったが、変事を聞き、車騎を召したがまだ到らず、官属を率いて歩いて宮門に至った。曹操は言った、『あれは来る者は、必ずや王脩であろう。』これは王脩が変事を察知し、機微を見抜いたからこそ、法を冒して難に赴いたのです。もしも常規に拘っていたならば、禍は成就してしまったでしょう。故に王者が法を設けるには、急であってはならず、また緩慢であってもなりません。『詩経』に『位に懈かず、人のこれに安んずる所』とは仁であり、『寇虐を式遏し、慝を作らしむること無かれ』とは刑です。『書経』に『高明は柔克し、沈潜は剛克す』とは中道です。」帝は言った、「善い。」

中書侍郎に転じ、国史を監修した。初め、顕慶年間に、令狐徳棻・劉胤之が国史を撰したが、その後許敬宗がさらに加えて編次した。帝は敬宗の記述が事実を失っていることを恨み、改めて宰相に刊正を命じ、かつて言った、「朕はかつて先帝に従って未央宮に幸した時、辟仗(先払いの儀仗)が過ぎた後、草むらに横刀を伏せている者がいた。先帝は手綱を引き馬を止め、朕に言われた、『事が発覚すれば、当に死すべき者は数十人に及ぶであろう。汝は命じてこれを出させよ。』史臣はただこのことを実録として記すべきである。」処俊は言った、「先帝の仁恩は広大で、この類い一つではありません。臣の弟の処傑が供奉に選ばれた時、三衞の者が誤って御衣を払った者がいて、甚だ懼れた。先帝は言われた、『左右に御史はいない。私は汝を罪に問わない。』」帝は言った、「このことは史臣が載るべきである。」処俊はそこで左史の李仁実に偽りの言辞を削除整理させようと上表したが、仁実が死んだために止んだ。

上元の初め、帝が翔鸞閣で大酺を観覧した。時に赤県と太常の音技(楽人)が東西の朋(組)に分かれていた。帝は雍王の賢に東を主宰させ、周王の顕に西を主宰させ、それによって勝負を競わせようとした。処俊は言った、「礼が童子に誑い(嘘)がないことを示すのは、その欺詐の心が生じることを恐れるからです。二王は年若く、心の操りは未だ定まっていません。公に朋党を作って互いに誇らせ、あの俳児優子(芸人)たちが、言辞に度を失い、勝負に争い、互いに譏誚あざけりし合うことは、仁義を導き、雍和(和やかさ)を示すものではありません。」帝は急いで止め、歎じて言った、「処俊の遠識は、衆臣の及ぶところではない。」中書令に遷り、太子賓客を兼ね、兵部尚書を検校した。

帝は病弱であり、位を武后に譲ろうとしたが、処俊は諫めて言うには、「天子は陽道を治め、后は陰徳を治める。されば帝と后とは、日と月、陽と陰の如く、各々その主とするところあり、互いに奪うことなし。もしその序を失えば、上は天に譴責を見せ、下は人に災いを降す。昔、魏の文帝は令を著し、帝崩ずれば、皇后の臨朝を許さず。今、陛下何ぞ身を以て位を天后に伝えんと欲するや。天下は高祖こうそ・太宗の天下にして、陛下の天下にあらず。正に宗廟を謹んで守り、子孫に伝うべきなり。国を持ちて人に与え、その家を喪うべからず」と。中書侍郎李義琰は言う、「処俊の言は従うべし。惟うに陛下は疑うことなかれ」と。事遂に沮む。また太子左庶子を兼ね、侍中に拝され、罷められて太子少保となる。開耀元年に卒す。年七十五。開府儀同三司・荊州大都督を贈られる。帝はその忠を哀歎し、光順門にて挙哀し、少牢を以て祭り、賻として絹布八百段・米粟八百石を賜い、百官に赴哭を詔し、官に葬事を庀らしむ。子の北叟は固く辞すも、聴かれず。裴炎、帝に白して曰く、「処俊、死に臨み、臣に諉えて曰く、『生くるも国に益なく、死して煩費すべからず。凡そ詔賜は、願わくは一に之を罷めよ』と」と。帝聞きて惻然とし、その意に答え、賻物のみに止む。

処俊は資質倹素、土木形骸の如し。然れども事に臨み敢えて言い、政を執るより以来、帝前の議論は諄諄として、必ず経義を傅え、凡そ規献する所は、大臣の体を得たり。武后はこれを忌むも、その操履に玷なきを以て、害うこと能わず。舅の許圉師と同じ里に居り、共に宦達す。郷人の田氏・彭氏は高貲を以て顕る。故に江・淮の間に語りて曰く、「貴きこと郝・許の如く、富めること田・彭の如し」と。

処俊の孫、象賢。

孫の象賢は、垂拱年中、太子通事舍人となる。后は素より処俊を銜み、故に事に因りてこれを誅す。刑に臨み、極罵して乃ち死す。后怒り、令してその屍を離磔し、祖・父の棺塚を斫夷せしむ。是より後世に至るまで、人を刑せんとする時は、必ず先ず木丸を以て口を窒ぐと云う。

朱敬則。

朱敬則、字は少連、亳州永城の人。孝義を以て世に旌顕せられ、一門六闕相望む。敬則は志尚恢博、学を好み、節義然諾を重んじ、善く人と交わり、その急難を振い、報を人に責めず。左史江融・左僕射魏元忠と善し。咸亨年中、高宗その名を聞き、召見し、これを異とす。中書令李敬玄に毀らるるにより、故に洹水尉を授かる。久しくして、右補闕を除く。

初め、武后制を称す。天下頗る流言有り、遂に告密羅織の路を開き、大獄を興し、将相大臣を誅す。是に至り、既に革命し、事益々寧し。敬則諫めて曰く、

臣聞く、李斯の秦に相たるや、申・商の法を行い、刑名の家を重んじ、私門を杜ぎ、公室を張る。無用の費を棄て、不急の官を損じ、日を惜しみ功を愛し、亟に戦い疾く耕す。既に庶くして富み、遂に諸侯を屠る。これ救弊の術なり。故に曰く、「刻薄は進趨に施すべく、変詐は攻戦に陳ずべし」と。天下已に平らかなれば、故に之を以て寛簡に易え、淳和を以て潤すべし。秦は乃ち然らず、淫虐滋しく甚だしく、往きて反らず、卒に土崩に至る。これ変を知らざるの禍なり。

陸賈・叔孫通、漢祖に事え、滎陽けいよう・成皋の間に当たり、糧餉窮まり、智勇困す。未だ嘗て一説を開き、一奇を効することを敢えず、唯だ豪猾貪暴の人を進む。区宇適に定まるに及び、乃ち《詩》・《書》を陳べ、礼・楽を説き、王道を開く。高帝忿然として曰く、「吾れ馬上にて之を得たり。安んぞ《詩》・《書》に事えん」と。対えて曰く、「馬上にて之を得たり。馬上にて之を治むることを得んや」と。帝默然たり。ここにおいて賈は《新語》を著し、通は礼儀を定む。これ変を知るの善きなり。向使高帝二子を斥け、《詩》・《書》を置き、攻戦を重んじ、首級を尊ばば、則ち復道に功を争い、剣を抜き柱を撃ち、漏の保たれざるに至らん。何ぞ十二帝二百年あらんや。故に曰く、仁義は聖人の蘧廬、礼は先王の陳跡なり。祠祝畢れば、芻狗は捐てらる。淳精流れば、糟粕は棄てらる。仁義尚お爾り。況んや其の軽きをや。

国家、文明以来、天地草昧、内には流言有り、外には構難有り。故に鉤距を設けざれば、以て人に順うこと無く、刑罰を切にせざれば、以て暴を息ますこと無し。ここにおいて神器を置き、告端を開く。故に能く房闈を出でずして、天下晏然として主を易う。臣聞く、急に趨る者は善き跡無く、柱を促する者は和声無し。溺を拯うには行いを規せず、饑を療するには鼎食せず。即ち向時の秘策は、今の芻狗なり。願わくは秦・漢の失を鑒み、時事の宜を考え、蘧廬を毀ち、糟粕を遺わしめ、寛大の令を下し、曠蕩の沢を流し、萋斐の角牙を去り、奸険の芒刃を頓え、羅織の妄源を塞ぎ、朋党の険跡を掃い、曠然として天下をして更始せしめよ。豈に楽しからずや。

后その言を善しとす。正諫大夫に遷り、国史を修むるを兼ぬ。乃ち史官の選を高くすることを請い、名才を求む。侍中韋安石嘗てその稿史を閲し、歎じて曰く、「董狐何を以てか加えん。世人史官の権の宰相に重きを知らず。宰相は但だ生人を制する能く、史官は兼ねて生死を制す。古の聖君賢臣の畏懼する所以なり」と。時に賦斂繁重、民多く蕩析す。后数えず禁中に召し入れて失得を訪う。同鳳閣鸞臺平章事に進む。張易之、魏元忠・張説を構え、これを誅せんと欲す。敢えて言う者無し。敬則独り奏して曰く、「元忠・説は心を秉りて忠一なり。而して坐する所名無し。これを殺せば天下の望を失わん」と。乃ち死を免る。

老疾を以て政事に還り、俄かに成均祭酒・冬官侍郎に改む。易之等名儒を集めて《三教珠英》を撰し、又武三思・李嶠・蘇味道・李迥秀・王紹宗等十八人の像を絵りて図と為し、敬則を引かんと欲すも、固く辞して与からず。世その人たるを潔しとす。出でて鄭州刺史と為り、遂に致仕す。侍御史冉祖雍、王同皎と善しと誣奏す。涪州刺史に貶せらる。既にその罪に非ざることを明らかにし、廬州に改む。代わりて還るに、淮南の一物無く、乗ずる所は一馬に止まり、子の曹は歩従して帰る。卒す。年七十五。

敬則は三従の昆弟と四十年居り、貲産異なること無し。政を執るに及び、毎に用人を以て先と為し、細務は省みず。嶺表の蛮叛く。裴懐古に文武の才有るを以て、用いて桂州都督と為し、蛮その威恵に服し、相率いて降る。魏知古を薦めて鳳閣舎人と為し、張思敬を薦めて右史と為す。皆称職す。初め、二張の権寵盛んなり。敬則密かに敬暉に謂いて曰く、「公若し太子の令を仮り、北軍を挙げて易之兄弟を誅せば、両飛騎の力のみ」と。暉卒にその策を用う。始め崔実・仲長統・王朗・曹冏、封建を論じ、秦を指して失と為す。敬則は秦・漢の世礼義陵遲し、周の制を用いて諸侯を封ずるに復すべからずと以為い、論を著してこれを明らかにす。儒者以て知言と為す。

睿宗が帝位を嗣ぐと、嘗て言うには、「神龍以来、本朝に忠なる者は、李多祚・王同晈・韋月將・燕欽融は既に褒め復せられたが、尚ほ遺れる者あらんや」と。劉幽求曰く、「硃敬則は忠正義烈にして、天下の推する所なり。往時、宗楚客・冉祖雍等に誣せられ、刺史を守るに謫せられたり。長安ちょうあん中、嘗て臣に語りて曰く、『相王必ず命を受くべし、当に悉く心を以て之に事へよ』と。韋氏の紀を幹むるに及び、臣遂に危きを見て難に赴く。天其の衷を誘ふと雖も、亦た敬則の之を啓く所なり」と。ここに於て秘書監を追贈し、諡して元と曰ふ。

敬則の兄仁軌

敬則の兄仁軌、字は德容、隠居して親を養ふ。常に子弟を誨へて曰く、「終身路を譲れば、百歩を枉げず。終身畔を譲れば、一段を失はず」と。赤烏・白鵲有りて、居る所の樹に棲む。按察使趙承恩其の異を表す。卒するに及び、郭山惲・員半千・魏知古共に諡して孝友先生と爲す。

贊して曰く、武后は唐の中衰に乗じ、殺生の柄を操り、天下を劫制して神器を攘む。仁傑は恥を蒙り忠を奮ひ、権を以て大謀を謀り、張柬之等を引き、卒に唐室を復す。功は一時に蓋ひ、人の及ぶ所を知らず。故に唐の呂溫之を頌して曰く、「日を虞淵に取り、光を咸池に洗ふ。潜かに五龍を授け、之を夾して以て飛ばしむ」と。世以て名言と爲す。方に高宗天下を挙げて以て後に禅らんとす、処俊固く爭ひ、妻をして夫に乗せず、陰をして陽に反らしめず、奸人の怨みを銜むに至り、胔を仇して以て逞しむ。蓋し所謂誼主に形はる者か。敬則一諫して、羅織の獄衰ふ。時にして後に言ふ者か。