王義方
王義方は泗州漣水の人、魏に客寓す。孤にして且つ貧しく、母に事ふること甚だ謹みあり。経術を淹究し、性謇特にして、高く自ら標樹す。明経に挙げられ、京師に詣づ。客に徒歩にして道に疲れたる者あり、自ら言ふ、「父遠方に宦し、病みて且つ革らんとす。省みんと欲すれど、困して前に進む能はず」と。義方之を哀しみ、乗ずる所の馬を解きて遺し、姓名を告げずして去る。是より誉れ一時に振るふ。貴勢に造請するを肯ぜず、太宗宰相をして其の論を聴かしむ。是に於て尚書外郎獨孤悊儒を以て顕れ、給事中許敬宗悊の確論を推す。義方百家の異同を引逮し、連ねて悊を拠し、直ちに其の上に出づ。左右悊の為に平らかならずと為し、輒ち会を罷む。晋王府参軍に補し、弘文館に直る。魏征之を異とし、夫人の姪を以て妻せんと欲す。辞して取らず。俄にして征薨ず、乃ち女を取る。人其の然るを問ふ。曰く、「初め宰相に附せず、今知己を感知する故なり」と。
素より張亮と善し。亮罪に抵り、故に吉安丞に貶せらる。道すがら南海に至り、舟師酒脯を持ちて福を請ふ。義方水を酌みて誓ひて曰く、「忠にして戾を獲、孝にして尤を見る有らば、四維廓氛し、千里流れ安んぜん。神之を聴かば、神の羞と為すこと無かれ」と。是の時盛夏なり。濤霧蒸湧す。既に祭りて後、天雲開露す。人其の誠を壮とす。吉安は蠻夷に介し、梗悍にして馴れず。義方首領を召し、稍く生徒を選び、為に経書を開陳し、釈奠の礼を行ひ、清歌吹し、登降跽立せしむ。人々悦順す。久しくして、洹水丞に徙る。而して亮の兄の子皎朱崖より還り、義方に依る。将に死せんとして、妻子を諉し、願くは屍を以て帰葬せんとす。義方之を許す。皎の妻少なきを以て、故に之と神に誓ひを為し、奴をして柩を負はしめ、馬を輟りて皎の妻を載せ、身は歩みて之に従ふ。既に皎を原武に葬り、妻を其の家に帰して妻し、而して亮の墓に告げて乃ち去る。雲陽丞に遷る。
附 何彥先
彥先は、齊州全節の人。武后の時、天官侍郎に位す。
員半千
員半千、字は榮期、齊州全節の人。其の先は本より彭城劉氏なり。十世の祖凝之、宋に事へ、起部郎となり、齊の禅を受くるに及び、元魏に奔る。忠烈を以て伍員に自ら比し、因りて姓を員と賜ひ、終に鎮西將軍・平涼郡公と為る。
半千始め名は餘慶と曰ふ。生れて孤となり、従父に鞠愛せられ、鹴草にして書史に通ず。晉州に客す。州童子を挙ぐ。房玄齡之を異とし、詔に対し高第と為り、已に《易》・《老子》を講ずる能ふ。長じて何彥先と共に王義方に事ふ。邁秀を以て賞見せらる。義方常に曰く、「五百歳にして一の賢者生まる。子宜しく之に当るべし」と。因りて今の名に改む。凡そ八科を挙ぐるに、皆中る。咸亨中、上書して自ら陳ぶ、「臣が家の貲は千銭に満たず、田三十畝、粟五十石有り。陛下の神嶽を封じ、豪英を挙ぐるを聞き、故に銭を鬻ぎて京師に走る。朝廷九品に葭莩の親無し。行年三十、志潔操を懐き、未だ一官を蒙らず、力を陳べて天子に帰報する能はず。陛下何ぞ玉陛方寸の地を惜しみて、臣をして肝胆を披露せしめざるや。天下の英才五千を得て、其の長を榷り、一の先に居る者あらば、臣当に都市に伏して死せん」と。書奏すれど、報ひず。
武陟尉に調す。歳旱りて、令殷子良を勧めて粟を発し民を振はしむ。従はず。子良州に謁するに及び、半千悉く之を発す。下頼りて済ふ。刺史大いに怒り、半千を獄に囚ふ。会ふに薛元超節を持ちて河を度り、太守に譲りて曰く、「君民有りて恤ふ能はず、恵を一尉に出ださしむ。尚ほ罪す可きや」と。之を釈す。俄に嶽牧を挙ぐ。高宗武成殿に禦し、問ふ、「兵家に三陣有り。何を謂ふや」と。衆未だ対へず。半千進みて曰く、「臣聞く、古者は星宿孤虚、天陣なり。山川向背、地陣なり。偏伍彌縫、人陣なりと。臣謂へらく然らずと。夫れ師は義を以て出づれば、時雨の若く沛然たり。天の時を得れば、天陣と為す。食を足し費を約し、且つ耕し且つ戦へば、地の利を得れば、地陣と為す。三軍の士を挙ぐること子弟の父兄に従ふが如くすれば、人の和を得れば、人陣と為す。是を捨てては、則ち何を以てか戦はん」と。帝曰く、「善し」と。既に対策し、高第に擢でらる。
華原・武功尉を歴る。卑劇を厭ひ、左衛冑曹参軍を求む。吐蕃に使す。将に行かんとす。武后曰く、「久しく爾が名を聞く。古人と謂へりしが、乃ち朝に在りや。境外の事は行くに足らず。宜しく留りて制に侍すべし」と。即ち詔して閤に入り供奉せしむ。司賓寺主簿に遷る。稍く丘悅・王劇・石抱忠と共に弘文館直学士と為り、又路敬淳と分ちて日を待制し顯福門下にす。累擢して正諫大夫と為り、右控鶴内供奉を兼ぬ。半千控鶴は古に有ること無く、而して任を授くる者は皆浮狹の少年、朝廷の徳選に非ずと為し、之を罷めんことを請ふ。旨に忤ひ、水部郎中に下遷す。会ふに詔して牧守を択ぶ。棣州刺史を除く。復た弘文館に入り学士と為る。武三思用事し、賢を以て忌まる。豪・蘄二州刺史に出づ。半千吏に任を丐はず、常に文雅を以て粉澤し、故に至る所礼化大に行はる。睿宗初め、召して太子右諭德と為し、仍り学士の職を帯ぶ。累封して平原郡公と為る。表を上りて骸骨を丐ふ。詔有りて朝朔望を聴す。
半千五君に事へ、清白の節有り。年老いて衰へず、山水を楽しみ自ら放つ。開元九年、堯山・沮水の間を遊び、其の地を愛し、遂に定居す。卒す。年九十四。即ち彼処に葬る。吏民野中に哭す。
附 石抱忠
抱忠は長安の人である。文名があった。初めて右臺が設置された時、清道率府長史から殿中侍御史となり、進んで檢校天官郎中となり、侍郎の劉奇・張詢古と共に選挙を管掌したが、廉潔に乏しく、劉奇は清平と称されたが、二人は綦連耀の事件に連座して誅殺された。
丘悅に附す。
悅は河南の人である。また論撰を善くし、仕えて岐王傅に至った。
韓思彥
韓思彥は字を英遠といい、鄧州南陽の人である。太學に遊學し、博士の谷那律に師事した。律が匪人に辱められた時、思彥はこれを殺そうとしたが、律が許さなかった。萬年令の李乾祐はその才能を異とし、下筆成章科・誌烈秋霜科に挙げて及第させた。監察御史に任じられ、当世の得失を率直に論じた。高宗が夜間に召し出し、二階を加え、弘文館の待詔とし、内供奉を兼ねた。
劍南を巡察した時、益州の高貲の兄弟が訴訟を起こし、累年決せず、思彥は廚宰に命じて乳を飲ませた。二人は悟り、肩を嚙んで相泣きして言うには、「我らは夷獠であり、孝義を知らず、公は兄弟が共に乳を飲んで生まれたことを以て諭そうとされたのか」と。そこで訴訟を取りやめることを請うた。西洱河に至り、叛蠻を誘って降した。蜀で大饑饉が起こると、倉を開いて民を救済し、その後で上聞に達し、璽書で褒め称えられた。并州に使し、賊が人を殺した時、主犯が立たず、酔った胡人が刀を懐いて汚れたため、拷問して自白させた。思彥はこれを疑い、朝に童児数百を集め、暮れに出し、これを三度繰り返した。そこで問うて、「児が出る時、問う者があるか」と。皆が「ありました」と言う。そこで人相を探り推問し、遂に真の盗賊を捕らえた。
後に太后が昼間に現れる怪異があり、帝に徳を修めて天譴に答えるよう勧めた。帝は中書令の李義府を責めて言うには、「八品の官が得失を言えるのに、卿は富貴に冒没して、何事を主としているのか」と。義府は謝罪した。司農の武惟良が并州の賦二百萬緡を擅用したので、思彥が弾劾して死罪に処そうとしたが、武后が請うて免じた。義府と諸武が共に思彥を讒し、出されて山陽丞となった。初め、尉遲敬德の子孫が大逆に陥った時、思彥が審理してその冤罪を解き、この時に至って黄金と良馬を贈られたが、思彥は受けなかった。官に着いて一月を閲し、自ら免官して去り、江・淮の間に放浪した。久しくして、建州司戸參軍に補された。帝が召して問うて、「卿を久しく見ず、今は何の官か」と。思彥は泣いてその所以を述べた。帝は宰相に言うには、「これもまた甚だ屈している」と。再び召して御史とした。
初め、思彥が蜀にいた時、什邡令の鄧惲を右座に引き、「公は且つ貴くなるであろう、願わくは子孫を公に託さん」と言った。彼が斥けられた時、惲は既に文昌左丞となっていた。
子に琬がある。琬は字を茂貞といい、酒徒と交わることを好み、落魄して行いの検束に乏しかった。姻戚が茂才に挙げるよう勧め、里中で名を動かした。刺史が郷飲の礼を行って餞別し、主人が觶を揚げて言うには、「家に孝、国に忠、今始めて賦に充つ、請うて算なき爵を行わん」と。儒林はこれを栄とした。及第し、また文藝優長科・賢良方正科に挙げられ、連続して合格した。監察御史に任じられた。景雲初年、上言して言うには、
国の安危は政にある。政を法にすれば、暫く安んずるも必ず危うく;徳にすれば、始めは不便であっても終に治まる。法というものは智である;徳というものは道である。智は権宜であり;道は久しく大なることを得る。故に智を以て国を治めれば、国の賊であり;智を以て国を治めなければ、国の福である。
貞観・永徽の間は、農を勧めずして耕す者多く、法を施して犯す者少なく;俗は偷薄ならず、器は窳悪を行わず;吏で貪る者は士人と同列を恥じ、忠正清白の者は比肩して立ち;罰は軽くとも犯さず、賞は薄くとも勧めとなり;位は尊くとも倨らず、家は富みても奢らず;学校は励まさずとも勤め、道仏は懲らさずとも戒め;土木は質朴で厚く、裨販も嗤わず。その故は何か。皇道によるのである。これ以来、巧智を任じ、謇諤を斥け;趨勢する者は進み、道を守る者は退き;諧附する者は黜剝の憂いなく、正直な者は後時の嘆きあり;人々は趨き家は競い、風俗は淪替した。その故は何か。霸道を行ったのである。貞観・永徽の天下も、今日の天下も同じであり、淳朴と澆薄が相反するのは、治によるのである。
巧者は忠孝が立身の階梯であり、仁義が百行の根本であることを知り、それに託して進取を求め、口では是として心は非とし、言は同じくして意は乖き、陛下はどうしてことごとく察し得ようか。貪冒の者を能とし、清貞の者を孤とし、浮沈する者を黠とし、剛正の者を愚とする。位は低くして驕り、家は貧しくして奢る。歳月が漸く漬し、その弊を救わなければ、どうして浮薄を淳厚に変え得ようか。省事に務めずして捉搦に務める。捉搦とは法である。法が設けられて滋章し、滋章すれば盗賊が多くなる。法が国を益するなら、設けるのも可である。近ごろ法令が数度改まり、施行しても益が見えず、止めても損を知らない。譬えば弈者が一手を善しとし、それを繰り返す者がますます善くなるようなもので、故に曰く、法を設けるは事を息むるに如かず、事が息めば巧みは生じない。聖人は乱を未然に防ぐ、天下どうして治まらぬことがあろうか。
永淳の時、雍丘令の尹元貞が婦女に道を治めさせた罪で免官されたが、今では夫婦で女役するのを常として怪しまない。調露の時、河内尉の劉憲が父喪にあった時、その員を請う者があったが、有司は名教に取るべからずとしたが、今では見機と謂う。太宗の朝、司農が市の木橦を倍価で買い罪に当たった時、大理の孫伏伽が言うには、「官が木橦を高く買うので、故に百姓のは安い。臣は司農が大體を識るのを見るも、その過ちを聞かず」と。太宗は「善し」と言った。今では和市が専ら刻剝し、名は和で実は奪う。以前は学生・佐史・里正の一員が欠けるごとに、擬する者十人あったが、今では当選する者が逃亡匿れて免れようとする。以前は選司が従容として礼あり、今では仇敵の賈販のようである。以前は官が交代する時、什物を儲えてその到着を待ったが、今では交替の時、符を執って紛競し在亡を校する。以前は商賈が万里を出入りしたが、今では市井が失業に至る。以前は家に鏹を蔵し粟を積んで相匏したが、今では資産を匿して羸弱を示して相尚ぶ。以前は夷狄が関に款いたが、今では軍が屯して積年になる。以前は召募すれば、人はその勇を賈ったが、今では差勒すれば、闔宗で逃亡する。以前は倉儲が盈衍したが、今では所在空虚である。
流亡の人は羈旅を愛し桑梓を忘れるのではない。斂が重く役が亟で、家産は既に空しく、鄰伍が牽連し、遂に遊人となる。窮して詐り禁を犯し、死を救って刑に抵る。乱れた縄は既に結ばれ、急に引けば解けぬ。今の刻薄な吏は結ぶ者であり、挙劾する吏は引く者であり、解く者はその人を見ない。願わくは奇材卓行の者を取り、能に量りて官を授けよ。
また言うには、
仕官の道が広すぎるため、農商を棄ててこれに趨く。一夫が耕し、一婦が蠶を飼い、百人を衣食させようとして、蓄積に余裕あらしめんと欲するも、どうして得られようか。書が入るも、報いられず。
河北軍を監し、按察使を兼ねる。先天年中、絹を賦するに時ならず、ここにおいて穀は賤しく縑はますます貴くなり、丁別に二縑を課せられ、人多く徙亡す。琬曰く、「御史はすなわち耳目の官なり、知りて言わざれば、なお何をか頼みとせん」と。また上言して曰く、「報を須つれば則ち弊已に甚だし、檄を移して督めを罷むるを聞かしむべし」と。詔して可とす。開元中、殿中侍御史に遷り、事に坐して官を貶せられ、卒す。
蘇安恒
蘇安恒は、冀州武邑の人なり。博學にして、特に『周官』・『春秋左氏』の學に明るし。武后の末年、太子は東宮に還るも、政事には一も與からず、大臣は禍を畏れて敢えて言う者なし。安恒は匭に投じて上書して曰く、「陛下は先聖の顧托を膺け、嗣子の揖讓を受け、天に應じ人に順い、二十餘年、豈に虞舜の褰裳、周公の復辟の事を聞かざらんや。今、太子は孝謹にして、春秋盛壯なり、宸極を統臨せしむれば、陛下自ら天下を撫するに何ぞ異ならん。胡ぞ位を東宮に傳えずして、聖躬を休安せざる。昔より天下に二姓並び興ること無く、且つ梁・河内・建昌諸王は、親を以て封を得たり、萬歳の後良計あらざるを恐る、宜しく退きて公侯に就き、閑簡を以て任ずべし。又、陛下の二十孫、尺土の封無し、長久の計に非ざるなり、都督府の要州を以て分ちて之を王たしむるを請う。縱令今尚幼しと雖も、且つ師傅を立て擇び、德器を養い成し、皇家を藩屏せしむべし」と。書奏す、后は猜克と雖も、感無き能わず、乃ち召見して食を賜い、厚く慰めてこれを遣わす。
明年、また諫めて曰く、「臣聞く、天下は高祖・太宗の天下なりと。隋は馭を失い、群雄鹿の如く駭き、唐家は親しく戎旅を事とし、以て宇縣を平げ、河を指して誓い、李氏に非ざれば王たず、功臣に非ざれば封ぜず。陛下は正統に居るも、實は唐の舊基なり。日前、太子は諒暗に在り、相王は長嗣に非ず、唐祚中に弱し、故に陛下因りて即位す。今、太子の年德已に盛んなり、尚お大寶を貪り有し、母子の恩を忘れ、其の元良を蔽い、以て神器を據うるは、何ぞ旅顏を以て唐家の宗廟・大帝の陵寢に見えんや。臣謂う、天意人事、李氏に還歸す。物極まれば則ち復し、器滿てば則ち覆る。斷つべくして斷たざれば、將に其の亂を受くべし。誠に能く萬機を高揖し、自ら聖心を怡しましめ、史臣之を書き、樂府之を歌わば、斯れ盛事なり。臣聞く、過ちを見て諫めざるは忠に非ず、死を畏れて言わざるは勇に非ず。陛下臣を以て忠と爲さば、則ち是を擇びて用いよ。以て不忠と爲さば、則ち臣が頭を斬りて以て天下に令せよ」と。書聞かれるも、報いられず。
ここにおいて魏元忠が張易之の克弟に構えられ、獄急なり。安恒獨り申し救いて曰く、
王者は天下を容るるの量有るを以て、故に其の心を濟う。能く天下の善を進むるを以て、故に其の惡を除く。然らずんば、則ち神鬼馮り怒り、陰陽紛舛す。陛下始めて革命し、勤めて政樞を秉り、謀猷を博く逮うし、天下以て明主と爲す。暮年厭怠し、讒佞熾に結び、水火相災い、百姓親しまず、五品遜らず、天下以て暗君と爲す。邪正糅り進み、獄訟冤劇し。何ぞ昔是にして今非なるや。安きに居りて危きを忘るるの失いなり。
竊かに元忠の廉直名有りて、位宰相に在り、忠正を履むを見る。邪佞の徒之を嫉むこと讎の如し。易之兄弟は功無く德無し、但だ馮附を以て、數期を閱ず、位勢隆極し、馬を指し蒲を獻じて、先ず善良を害す。元忠の獄に下りてより、人人偶語し、易之の交亂を謂い、且つ四國に及ばんとす。烈士は髀を撫し、忠臣は口を鉗し、易之の權を懼れ、先ず諫めて戮せらるるを恐れ、虚しく死して名無し。況んや賊虜方に強く、賦斂重く困しむるに、而して自ら讒慝を縱え、遐邇を搖變す。臣恐るらくは四夷低目窺覘し、邊鄙の患と爲り、百姓義に托けて以て君側を清め、逐鹿の人關を叩きて至り、陛衛左右、中より從い應じ、鋒を朱雀の門に爭い、鼎を大明の宮に問わんことを。陛下何を以て之に謝せん。臣今計る者は、雷電の威を收め、恢恢の網を解き、爵を復し位を還し、君臣初めの如くせざるに若かず。則ち天下幸甚なり。陛下縱え佞臣を斬り、人望を塞ぐ能わずと雖も、且つ當に其の榮寵を抑奪し、其の羽翅を翦り、驕橫して社稷の憂いと爲らしむる無からしむべし。
疏奏す、易之等大いに怒り、刺客を遣わして邀え殺さんとす。鳳閣舍人桓彥範等の悉く力を營め解くに賴りて、乃ち免る。
神龍初、習藝館內教と爲る。節湣太子の難に、或る人安恒の豫め謀るを讒す、獄中に死す。睿宗立ち、其の枉たるを知り、詔して諫議大夫を贈る。
薛登
薛登は、常州義興の人なり。父は士通、隋の鷹揚郎將と爲る。江都亂に、州民聞人遂安と城を據えて賊を拒ぐ。武德初、地を持して自ら歸し、東武州刺史を授かる。輔公祏反す、士通賊將西門君儀と戰い、之を破る。平るるに及び、臨汾侯に封ぜらる。泉州刺史に終わる。
登は文史を通貫し、議論を善くし、根證該審にして、徐堅・劉子玄と齊名す。閬中主簿に調う。天授中、累遷して左補闕と爲る。時に選舉濫甚だしく、乃ち上疏して曰く、
比來舉薦を觀るに、類く才を以てせず、聲を馳せ譽を假り、互相に推引す、所謂國に報い賢を求むる者に非ざるなり。古の士を取るや、素行の原を考へ、鄉邑の譽を詢ね、禮讓を崇め、節義を明らかにし、敦樸を先とし、雕文を後とす。故に人勸讓を崇め、士輕浮を去り、賢愚を計り貢ぐを以て州の榮辱と爲す。昔、李陵降りて隴西溯り、幹木隱れて西河美し。名利に勝てば、則ち偷競日銷す。利名に勝てば、則ち貪暴滋に煽る。蓋し冀缺禮讓を以て升りて晉人禮を知り、文翁經術を以て教えて蜀士多く儒と爲る。上好みて下從わざるは未だ有らざるなり。漢世士を求むるや、必ず其の行を觀る。故に士自ら脩め、閭里の推舉を爲し、然る後府寺交ひ辟す。魏は放達を取り、晉は先ず門閥を重んじ、梁・陳は士を薦むるに特だ詞賦を尚ぶ。隋文帝李諤の言を納れ、詔して文章浮詞を禁ず。時に泗州刺史司馬幼之の表典實ならずして罪を得、是より風俗稍改まる。煬帝始めて進士等の科を置き、後生復相馳競し、速きに赴き時に趨き、小文を緝綴し、名づけて策學と曰い、實を指して本と爲さず、浮虛を以て貴しと爲す。
今、士を挙げることは、特にその本旨に背いている。明らかな詔勅が下るや、早くも府寺の庭に駆けつけ、王公の邸宅に出入りし、文章を献じて恩寵を求め、奏記を奉って報いを誓う。故に俗に挙人を皆「覓挙」と称する。覓とは、自ら求めることであり、彼らが知って推挙する意味ではない。これにより、耿介の士は自ら進むことを恥じ、常に従う小人は疎遠な者を捨てて親しい者に取り入る。願わくは陛下、明らかな制度を下し、峻厳な科条を頒ち、当たらぬ遊説の言葉を断ち、実用に適う良策を収め、文官には官職の効験を試し、武官には守禦の技を閲せられよ。昔、呉起が戦おうとする時、左右が剣を進めたが、呉子はこれを辞した。諸葛亮が陣に臨むも、自ら戎服を着けず、弓剣の用を取らなかったのである。漢武帝は司馬相如の文を聞き、同時代にいないことを恨んだが、彼が至っても、終に公卿の位に処さなかった。任に適わぬ故である。漢の法では、挙げた主は終身保任の責を負った。楊雄が田儀のことで坐し、成子が魏相を得たように、賞罰の令が行われれば、請謁の心は絶え、退譲の義が顕わになれば、貪競の道は消える。年限を寛げて簡汰を容れ、不実ならば免官し、人を得れば賞を加えよ。自然と賢を見て隠さず、禄を貪って専有することはなくなるであろう。
時に四夷の質子多く京師に在り、論欽陵・阿史徳元珍・孫万栄の如きは、皆入侍して中国の法度を見、還るに及び、並びに辺害と為る。登諫めて曰く、
臣聞く、戎・夏雑ぜずは、古の戒むる所なり。故に塞外に斥けて居らしめ、時に朝謁し、事已れば則ち帰るは、三王の法なり。漢・魏以来、衣冠を革襲し、室を京師に築き、帰国せしめず。其の利害を較ぶるに、三王是にして漢・魏非なり、辺を拒つは長くして質子は短し。昔、晋の郭欽・江統、夷狄を中夏に処すれば必ず変有らんとし、武帝納れず、卒に永嘉の乱有り。伏して見るに、突厥・吐蕃・契丹、往きて因りて入侍し、並びに奨遇を被り、官は戎秩に、歩みは黌門に、服は氈罽を改め、語は楚夏を習い、図史の成敗を窺い、山川の険易に熟す。国家と雖も冠帯の名有りと、而も狼子孤恩、患必ず後に在らん。
昔、申公晋に奔り、子の狐庸をして呉の行人と為らしめ、呉に戦陣を教え、之をして楚に叛かしむ。漢、五部匈奴を汾・晋に遷す、卒に劉・石を以て難を作す。窃かに計るに、秦天下を併せ、及び劉・項兵を用ゆるに、人士凋散し、冒頓の盛なるを以て、中国の虚に乗ずるに、而るに高祖平城に困厄し、匈奴卒に中国に入らず者は、其の磧漠に生長し、穹廬は城郭に賢り、氈罽は章紱に美しと謂い、既に習う所に安んず、是を以て中国を窺う心無く、漢を楽しまざる故なり。元海、五部散亡の余にして能く自ら振るう者は、少く内地に居り、漢法を明習し、単于の陋を鄙み、帝王の称を窃む。其の未だ嘗て内徙せざらしめば、辺人の繒彩・曲糵を劫いて陰山に帰るに過ぎざらんのみ。
今、皇風の覃う所、含識革面し、方に由余の忠を効し、日磾の節を尽くさんとす。然れども臣、備え豫ふるに謹せざれば、則ち夷狄兵を称するは方外に在らずと慮う、謀を貽すの道に非ざらんや。臣謂う、願いて侍子に充たんとする者は一切禁絶し、先に国に在る者は帰蕃せしめざらば、則ち夷人は疆を保ち、辺邑争い無からんと。
武后納れず。
久しくして、出でて常州刺史と為る。宣州の賊鐘大眼の乱に属し、百姓潰震す。登厳に守備を勒し、闔境安んずるを頼む。再び遷りて尚書左丞。景雲中、御史大夫と為る。僧慧範、太平公主の勢を怙り、民の邸肆を奪い、官直す能わず。登将に之を治めんとす。或いは自安を以て勧むる有り。答えて曰く、「憲府枉を直す、朝に奏して暮に黜せらるるも可なり。」遂に劾奏す。反って主の為に構えられ、出でて岐州刺史。遷りて太子賓客。開元初、東都留守と為り、再び太子賓客と為る。登本名は謙光、皇太子の名と同じきを以て、詔して今の名を賜う。子に坐して累り田里に帰る。家貧しきを苦しむ。詔して致仕の禄を給う。卒す。年七十三。贈りて晋州刺史。
王求禮
王求禮は、許州長社の人なり。武后の時、左拾遺・監察御史と為る。后方に明堂を営み、彫飾譎怪にして、侈にして法に不法。求礼以て為す、「鉄鸑金龍・丹雘珠玉は、乃ち商の瓊台・夏の瑶室の比なり、古の所謂茅茨棌椽なるに非ず。軒轅以来、牛に服し馬に乗ず。今、輦を以て人に負わしむれば、則ち人畜に代わる」と。上書して譏切す。久しく報いず。
契丹叛き、孫万栄をして河北を寇せしむ。詔して河内王武懿宗をして之を禦がしむ。懦擾して進まず、賊数州を敗りて去る。懿宗乃ち条に華人の賊に詿誤する者数百族を、誅せんことを請う。求礼劾奏して曰く、「詿誤の人は良き辺吏の教習無く、城完固せず、虜に脅制せられ、寧ぞ素より叛心を持たんや。懿宗兵数十万を擁し、敵の至るを聞き、走りて城邑を保つ。今乃ち禍を無辜の人に移す、亦過ちならずや。請う、懿宗の首を斬りて以て河北に謝せんことを。」懿宗大いに懼る。後、其の人を尽く赦す。
是の時に当たり、契丹幽州を陥れ、饋免屈竭す。左相豆盧欽望、京官九品以上の両月の奉を停めて軍興を助けんことを請う。求礼曰く、「公の禄は万鐘、正に輟むべし。禄を仰ぐの人奈何。」欽望拒みて応ぜず。既に奏す。求礼階を歴りて進みて曰く、「天子四海に富み、何ぞ九品の奉を待ち、宰相をして之を奪わしめて以て軍国の用を済さしめんや。」姚璹曰く、「秦・漢皆税算を以て軍を佐けたり。求礼は大体を識らず。」対えて曰く、「秦・漢は天下を虚しくして辺に事えしむ。奈何ぞ陛下をして之に效わしめんや。」後曰く、「止めよ。」
柳澤
柳澤は、蒲州解の人なり。曾祖亨、字は嘉礼、隋の大業末、王屋長と為り、李密に陥り、已にして京師に帰る。姿貌魁異、高祖之を奇とし、外孫の竇を以て之に妻す。三遷して左衛中郎将、寿陵県男。罪を以て邛州刺史に貶せられ、進みて散騎常侍。代わり還り、数年調うるを得ず。兄の喪を持ち、方に葬らんとし、会に太宗南山に幸す。因りて召見を得、之を哀しむ。数日、入りて北門に対し、光禄少卿に拝す。亨は射獵に檢無し。帝之に謂いて曰く、「卿は朕に旧く且つ親なり。然れども多く交遊す。今より宜しく少しく戒むべし。」亨是より痛く飭厲し、賓客に謝し、身静かに素に安んじ、吏事に力を尽くす。終に検校岐州刺史。贈りて礼部尚書・幽州都督。謚して恭と曰う。
澤は耿介にして言笑少なく、風度方厳なり。景雲中、右率府鎧曹参軍と為り、四歳遷らず。是に先立ち、中宗の時、長寧・宜城・定安諸公主及び后の女弟・昭容上官と其の母鄭・尚宮柴・隴西夫人趙及び姻聯数十族、皆能く墨勅を降して官を授け、号して斜封と曰う。及び姚元崇・宋璟政を輔くるに及び、白して斜封官数千員を罷む。元崇等罷め去り、太平公主尽く奏して之を復す。澤闕に詣で上疏して曰く、
臣聞く、薬毒からざれば以て疾を蠲うべからず、詞切からざれば以て過を補うべからずと。故に甘旨を習う者は、摂養の方に非ず、諛佞に邇る者は、治安の宜に非ず。臣竊かに見るに、神龍以来、綱紀大いに壊れ、内寵は命を専らにし、外嬖は権を制し、貴に因り勢に憑り、官を売り爵を鬻ぐ。妃主の門は商賈の如く、挙選の署は阛阓の若し、屠販の者は邪により官を忝し、廃黜の者は奸により進を冒す。天下混乱し、幾くにか社稷を危うくす。陛下の聰明神武に頼り、溺を拯い墜を挙ぐ。耳目の親しくする所、豈に鑒誡を忘るべけんや。且つ斜封の官は、皆仆妾の私謁にして、先帝を迷謬せしむ。豈に尽く先帝の意ならんや。陛下即位の初め、元崇等の計を用い、悉く以て停廃せしむ。今また収用す。若し斜封の人棄つべからざれば、韋月将・燕欽融は褒贈すべからず、李多祚・鄭克義は蕩雪を容るべからず。陛下何ぞ此れに忍びずして彼れに忍び、善悪を混併せしめ、反覆相攻たしめ、人に非を道い、人に僻を勧むるや。今天下咸に称す、太平公主と胡僧慧範と此れを以て陛下を誤らすと。故に語に曰く、「姚・宋相と為りては、邪正に如かず、太平事を用うれば、正邪に如かず」と。臣流遁の遠きに致り、小を積みて大と為り、微を累ねて高と成るを恐る。何ぞ傷つくと言うなかれ、其の禍長からん。何ぞ害あると言うなかれ、其の禍大ならん。
又た言う。
尚医奉御彭君慶は巫覡の小伎を以て超えて三品を授けらる。奈何ぞ名器を軽用し、其の人に非ざる者に加えんや。臣聞く、一人を賞して千万人悦ばば、之を賞す。一人を罰して千万人勧まば、之を罰す。惟れ陛下裁察あれ。疏入るも、報いず。沢入調す。会に詔有り、選者は事を言うを得。乃ち上書して曰く。
頃者韋氏蠱乱し、奸臣悪を同じくし、政は賄を以て成り、官は寵を以て進み、言正しき者は戾を獲、行殊なる者は疑いを見、海内寒心し、人用保たず。陛下は神聖勇智にして、宗社を已に危きに安んじ、黎苗の将に溺れんとするを振う。乃ち今煩を蠲ぎ徭を省き、法明らかに徳挙がり、万邦愷楽し、室家胥びて歓ぶ。詩に曰く、「初め有らざるは莫し、克く終わり有るは鮮し」と。惟れ陛下其の初めを慎み、其の終わりを脩めよ。書に曰く、「惟れ徳小なるも罔く、万邦惟れ慶ぶ。惟れ徳ならざるは大なるも罔く、厥の宗を墜す」と。甚だ懼るべし。
夫れ驕奢は親貴より起こり、綱紀は寵幸に乱る。之を親貴に禁めば、則ち天下従う。之を寵幸に制せば、則ち天下畏る。親貴為して禁めず、寵幸撓して制せざれば、故に政常ならず、令一ならず。則ち奸詐起こりて暴乱生ず。朝に施し暮に戮すと雖も、而して法行われず。陛下親しみ愛せんと欲せば、之を安んじ之を福するに若くは莫し。夫れ寵禄の過ぎるは、罪の階なり。之を安んずるというか。驕奢の淫なるは、危の梯なり。之を福するというか。前事忘れざるは、後の師なり。陛下俊哲を敷求し、朝夕に誨を納れしめよ。其れ耳に逆い心に謬れる者有らば、速やかに罰せず、姑く之を道に求めよ。耳に順い身に便なる者有らば、急に賞せず、姑く之を非道に求めよ。淫巧を羞ずる者を拒めば、則ち淫巧息む。忠讜を進むる者を賞すれば、則ち忠讜進む。
臣聞く、富に生まるる者は驕り、貴に生まるる者は傲ると。書に曰く、「逸に淫するなかれ、楽に遊ぶなかれ」と。今儲宮肇めて建ち、王府復た啓く。願わくは温良・博聞・恭儉・忠鯁なる者を采りて之が僚友と為し、仍て東宮に拾遺・補闕を置くことを請い、朝夕に講論せしめ、出入に侍従せしめ、訓誥を授け、交えて逮わざるを修めしめよ。
臣又た聞く、「馳騁畋獵は、人をして発狂せしむ」と。今貴戚は球を打ち鼓を撃ち、鷹を飛ばし犬を奔らせ、宵人に狎比し、藪沢に盤遊す。書に曰く、「内に色荒を作し、外に禽荒を作す」と。惟れ陛下謀訓を誕降し、学業を以て勧め、好悪を以て示し、成敗を以て陳べば、則ち長く福祿を享けん。
臣聞く、「富は驕と期せずして驕自ら至り、驕は罪と期せずして罪自ら至り、罪は死と期せずして死自ら至る」と。頃の韋庶人・安楽公主・武延秀等は貴く且つ寵れりと謂うべし。権は人主に侔ひ、威は天下を震う。然れども侈を怙て徳を滅ぼし、神怒り人棄つ。豈に之を愛すること太極、富ますこと太多きと謂わざらんや。「殷鑒遠からず、夏後の世に在り」。今陛下何をか勧む。其れ皇祖謀訓の則か。陛下何をか懲らす。其れ孝和寵任の失か。故に愛して其の悪を知り、憎んで其の善を知る。夫れ寵愛の心免れ能わざる者無し。其の甚だしきを去り、礼を以て之を閑かば、則ち可なり。諸王・公主・駙馬は、陛下の親愛する所なり。枉を矯え監戒するは、宜しく其の初めに在りて、寵に居りて危を思わしめ、過を観て務めて善を務めしむべし。書に曰く、「三風十愆、卿士身に一有らば、家必ず喪び、邦君身に一有らば、国必ず亡ぶ」と。惟れ陛下奢僭驕怠を黜け、樸素行業を進め、以て其の非心を勖めよ。
臣聞く、「常に厥の徳を保てば、厥の位を保つ。厥の徳常ならざれば、九有以て亡ぶ」と。願わくは陛下無益を作さず、私門を啓かず、刑を差えず、賞を濫さず。則ち惟れ徳是れ輔け、惟れ人の懐う所となり、天祿永く終わらん。睿宗之を善しとし、監察御史に拝す。
開元中、殿中侍御史に転じ、嶺南選を監す。時に市舶使・右威衛中郎将周慶立は奇器を造りて進む。沢上書して曰く、「『可欲を見ざれば、心をして乱れざらしむ』とは、是れ可欲を見て心必ず乱るるを知るなり。慶立は詭物を雕制し、奇器を造作し、浮巧を以て珍玩と為し、譎怪を以て異宝と為す。乃ち治国の巨蠹にして、明王の厳罰すべき所なり。昔露臺に費無くとも、明君忍びず。象箸は大ならずとも、忠臣憤嘆す。慶立は聖意に媚びんことを求め、上心を揺蕩す。陛下信じて之を使わんか、是れ天下に淫を宣ぶるなり。慶立矯めて之を為さんか、是れ禁典の赦す所無きなり。陛下新に即位し、固より宜しく菲薄を昭宣し、広く節儉を示すべし。豈に怪好を以て四方に示すべけんや」と。書奏す。玄宗善しと称す。歴遷して太子右庶子と為る。鄭州刺史と為るも、行かずして卒す。兵部侍郎を贈らる。
沢の従祖に範・奭有り。
範は、貞観中に侍御史と為る。時に呉王恪は田獵を好む。範之を弾治す。太宗曰く、「権万紀は能く恪を輔道せず、罪死に当たる」と。範進みて曰く、「房玄齢陛下に事うるも、猶畋獵を諫止むる能わず。豈に宜しく独り万紀を罪せんや」と。帝怒り、衣を拂て起つ。頃之、召して謂いて曰く、「何ぞ廷に我を折る」と。範謝して曰く、「主聖なれば則ち臣直し。陛下仁明なれば、臣敢えて愚を尽くさざらんや」と。帝乃ち解く。高宗の時、歴て尚書右丞・揚州大都督府長史と為る。
奭は字を子邵とす。父隋の時に高麗に使いして卒するに、故に往きて喪を迎え、号踴して哀を尽くす。夷人の慕う所と為る。貞観中、累遷して中書舎人と為る。外孫皇后と為るに及び、中書侍郎に遷り、進んで中書令と為る。皇后媚道を挟みて覚め、吏部尚書に罷む。後廃せられ、愛州刺史に貶せらる。許敬宗等奭を構えて宮掖に通じ、鴆毒を行わんと謀り、褚遂良と朋党す、罪大逆と為す。使いを遣わして之を殺し、其の家を没し、期以上の親は並びに嶺表に流し、奭の房は桂州に隷して奴婢と為す。
馮元常
馮元常は、相州安陽の人、其の先は蓋し長樂信都の著姓なり。曾祖子琮は、北齊の右僕射。叔祖慈明は、文辭有り、隋に仕えて内史舍人となる。詔を奉じて李密を討つに、密の将に縛せられ、身数創し、密厚く礼し、情に謂ひて曰く、「東都危蹙す、我四方の賢豪を率ひて功業を建てんと欲す、幸ひに公同じくせよ。」と。慈明曰く、「公家事先帝にし、名は王室に在り、乃ち玄感を挟みて兵を挙げ、亡命今に至り、復た反噬を図る、何ぞや。」と。密之を囚ふ。俄にして翟護に殺さる。武德初、吏部尚書を贈り、謚して壯武と曰ふ。
元常、明経に挙げて及第し、浚儀尉に調ず。高宗の時、累擢して監察御史・劍南道巡察使となり、利を興し害を除き、蜀人順頼す。尚書左丞を歴任す。嘗て密かに帝に諫めて中宮の権重きを、宜しく少しく抑ふべしと、帝其の計を置くも、而して内に然りとし、是に由りて武后の悪む所と為る。元常在職に脩挙し、識鑒澄遠、帝委遇特だ厚し。及不豫に及び、詔して百司の奏事を平章せしむ。武后朝に擅り、嵩陽令樊文瑞石を進む。後石を朝堂に暴き百官に示す。元常奏して石妄偽なり、以て群臣に示すべからずと。後怒り、出して隴州刺史と為す。会に天下の嶽牧乾陵に集まる、後元常の会を得るを欲せず、故に道を徙めて眉州刺史と為す。劍南に光火盗有り、夜人を掠ひ、晝山谷に伏す。元常恩信を以て諭し、悔過自新を約し、賊相率ひて甲を脱ぎ面縛す。賊平ぎ、転じて廣州都督となり、詔して便驛に官を走らしむ。安南酋領李嗣仙、都護劉延祐を殺し、州縣を劫し、詔して元常之を討たしむ。士卒を率ひて航海し、馳檄先づ禍福を示し、賊党多く降る。元常兵を縦して首悪を斬りて還る。功有ると雖も、猶ほ旨に拂ふを以て怨み見られ、功を録せず。凡そ三徙し、終に京師に至るを得ず、卒に酷吏周興の陥れる所と為り、追ひて都に赴き、獄に下りて死す。
元常閨門雍睦し、礼法有り、小功の喪と雖も私室に禦さず。神龍中、其の家を旌し、大いに署して曰く「忠臣之門」。天下其の節を高しとし、凡そ名族皆婚を通ぜんと願ふ。
従弟元淑は、後時に及び、清漳・浚儀・始平三県令を歴任し、善を右し悪を去り、人神明と称す。奴仆と日一食し、馬日一秣し、至る所妻子を挈せず、奉余を斥けて以て貧窮に給す。或ひは其の名に近きを譏るも、元淑曰く、「吾が性なり、苦しみと為さず。」と。中宗璽書を降して労勉し、状を史官に付す。元淑約潔は元常に過ぐれども、然れども剛直は及ばず。終に祠部郎中。
蔣欽緒
蔣欽緒は、萊州膠水の人。頗る文辭に工み、進士第に擢でられ、累遷して太常博士。中宗始めて親しく郊し、國子祭酒祝欽明建言し、皇后応に亞献すべしと、韋氏に媚びんと欲す。天子之を疑ひ、詔して禮官に議せしむ。衆曲意阿徇すれども、欽緒獨り抗言して不可とし、諸儒其の節を壯とす。
吏部員外郎を歴任す。初め、韓琬高郵主簿となり、京師に使し、自ら其の才を負ひ、不遇の言有りて客舎に題す。他日、欽緒之を見て笑ひて曰く、「是の子後時を嘆くか。」と。久しうして、琬賢良方正に挙げられ、欽緒其の文を擢して異等とし、因りて謂ひて曰く、「朋友の過免れ未だや。」と。琬曰く、「今日乃ち君子の心を見る。」と。其の務めて士類を薦引する此の如し。
性孤潔自守し、唯だ賈曾・郭利貞と相友すと云ふ。
子沇も亦た専潔博學、少しく名有り。孝廉を以て洛陽尉を授けられ、遷りて監察御史となり、兄演・溶・弟清と俱に才吏と為り、名を天寶の間に有す。初め、河南尹韓朝宗・裴迥嘗て訊覆檢句を委ぬ。而して處事平らかに、剖斷精允にして、群寮望む能はざる所なり。乾元中、陸渾・盩厔・咸陽・高陵四県令を歴任し、美政流行し、長老之を紀す。郭子儀軍其の県に出づ、麾下に敕して曰く、「蔣沇は賢令なり、供億当に素より有るべし、士蔬飯を得て足れり、其の清を撓ぐること毋れ。」と。遷りて長安令となり、刑部郎中を以て侍御史を兼ね、渭橋運出納使を領す。
元載政を執る、守道の士類遷らず、沇故を以て郎位に滞り、調を得ず。常袞相に代り、士議沇の屈するを恨むを聞き、故に擢て御史中丞・東都副留守と為す。再び遷りて大理卿となり、法を執るに明審にして、職に称すと號せらる。德宗奉天に出づ、沇行在に奔る。賊に拘へられ、偽職を署せんと誘ふ。沇食を絶ちて命に応ぜず、里中に竄伏し、復た見えず。京師平ぎ、乃ち出で、擢て右散騎常侍と為す。卒す年七十四、贈りて工部尚書。
清は、明経に挙げて中第し、鞏丞に調ず。東京留守李靰之を賢とし、表して判官と為す。憕と同く安祿山の乱に死し、贈りて禮部侍郎。敬宗の時、其の孫鄅を録して伊闕令と為す。初め、清難を蒙るに、秩卑を以て謚に及ばず。太和初、其の出吏部郎中王高之を朝に言ひ、追謚して忠と曰ふ。