新唐書

巻一百一十一 列傳第三十六 郭孝恪 張儉 王方翼子:珣 蘇烈 薛仁貴子:訥 楚玉 孫:嵩 曾孫:平 玄孫:從 程務挺 王孝傑 唐璿 張仁愿 王晙

郭孝恪

郭孝恪は許州陽翟の人である。若くして奇節あり、資産を治めず、父兄は無頼と見做した。隋末の乱に際し、数百の少年を率いて李密に附く。密は喜び、「世に汝・潁には奇士多しと言うが、誤りではない」と言い、彼に李勣と共に黎陽を守らせた。密が敗れると、勣は孝恪を遣わして帰順を請わしめ、陽翟郡公に封じ、宋州刺史に任じた。詔により勣と共に武牢以東を経略し、平定した州県の官吏選補を委任された。

竇建德が洛陽らくようを救援した時、孝恪は秦王に謁し、計略を進言した。「王世充は力尽き計窮まり、その縛り上げは足を上げて待つばかりである。建德は全軍を率いて遠来し、糧餉は遮断されており、これは天が滅ぼす時であろう。武牢を固守し、軍を汜水に置き、機に応じて変化に対応すれば、必ずや生け捕り殲滅できるでしょう」。王はこれを認めた。賊が平定され、洛陽宮で大酒宴が開かれた時、王は諸将に言った。「孝恪は賊を捕らえる策を立て、王長先(李勣)は漕運路を下った。その功は確かに諸君の右にある」。上柱国に遷る。貝・趙・江・涇の四州刺史を歴任し、赴任地ごとに有能の名声があった。左ぎょう衛将軍に改め、累進して金紫光禄大夫を加えられた。

貞観十六年、涼州都督ととくに任じられ、安西都護・西州刺史に改められた。その地は高昌の旧都であり、流刑の罪人と鎮兵が雑居し、砂礫に限られ中国と隔絶していたが、孝恪は誠意を以て撫慰統御し、その歓心を尽くして得た。初め、王師が高昌を滅ぼした時、捕虜とした焉耆の生口七百人を焉耆王に返還する詔があった。王が叛いて欲谷設可汗に帰したため、孝恪はこれを撃つことを請い、直ちに西州道行軍総管に任じられ、歩騎三千を率いて銀山道より出撃し、夜襲してその王龍突騎支を捕虜とした。帝は喜び、璽書を降して褒め労った。

まもなく昆丘道副大総管に任じられ、龜茲を進討し、その国城を破った。そこで自ら留守し、残軍を分道進撃させた。龜茲の国相那利が遁走した。孝恪は残部が未平定のため、外に出て営を張った。国人で孝恪に言う者があった。「那利は平素より士心を得ております。今亡命して外におり、勢い変事を為すでしょう。城中にも異志を抱く者が少なくありません。どうかご備えください」。孝恪はその言を軽んじ、備えを設けなかった。那利は果たして衆を率いて密かに城内の胡人と内応し、城に迫り鬨の声を上げたので、ようやく気付き、千余人を率いて合戦した。城中が挙って那利に応じ、孝恪は必死に戦い、流れ矢に当たって卒した。子の待詔もまた戦死した。将軍曹継叔が進兵し、再びその城を奪回した。太宗は孝恪が斥候を明らかにせず、ついに顛覆に至ったことを責め、その官を奪った。後に死戦を哀れみ、改めて哀悼の礼を挙げた。高宗が即位すると、官爵を追還し、待詔に遊撃将軍を追贈し、賻として物三百段を賜った。

次子の待封は、左豹韜衛将軍に官した。咸亨初年、薛仁貴に副えて吐番を討ち、大非川で戦い、敗績し、死罪を赦されて庶民となった。

張儉

張儉、字は師約、京兆新豊の人である。隋の相州刺史・皖城郡公張威の孫。父の植は、車騎将軍・連城県公。

儉は、高祖こうその従外孫である。高祖が挙兵すると、儉は功により右衛郎将に除され、朔州刺史に遷った。時に頡利可汗が強盛で、求取する毎に、遣わす書は詔勅と称し、辺吏は奉承して敢えて退けなかった。及んで儉に至り、独り拒絶して受けなかった。大いに民に営田を勧め、歳に穀数十万斛を収めた。霜害や旱害があっても、百姓に相互に救済するよう勧め、餓死者を免れさせ、州は無事安泰であった。李靖が既に突厥を平定した後、思結部という部族が、困窮して儉に帰した。儉はこれを受け入れ安んじ輯めた。磧北にいる者たちは、親戚が私的に往来して省問したが、儉は禁じず、羈縻を示すのみであった。儉が勝州に転じた後、後任の将がその事情を察せず、急いで思結が叛いたと奏上した。朝廷は進討を議したが、時に儉は母喪中であったが、喪服を奪われ使者としてこれを撫納することとなった。儉は単騎でその部に入り、酋帥を召して慰諭し、腹心を推して接すると、皆匍匐して帰順した。そこで挙げて代州に移住させ、遂に検校代州都督となった。儉は墾田と力耕を勧め、歳々豊作となり、私的な蓄えが豊かで実った。儉は虜が驕り易いことを恐れ、平糴法を建て、官に納入させると、虜は喜び、これにより倉庫の斛は余剰が流れるほどになった。

営州都督に遷り、兼ねて護東夷校尉こういを領した。事に坐して免官されたが、詔により白衣のまま職務を領した。営州の管轄区域は契丹・奚・〓・靺鞨諸蕃と境を接し、高麗が衆を引きいて入寇したので、儉は兵を率いてこれを破り、捕虜斬殺することほぼ尽くした。再び営州都督に任じられた。太宗が遼東征討に臨むに当たり、儉を遣わして蕃兵を率いて先に進軍させ、地を略して遼西に至ったが、川が増水し、長く渡河できなかった。帝は畏懦と見做し、召還した。洛陽宮で引見されると、水草の美悪・山川の険易、並びに長く進まなかった事情を陳述した。帝は喜び、行軍総管に任じ、諸蕃の騎兵を領させ、六軍の前鋒と為した。時に高麗の斥候が莫離支が来ると言ったので、帝は詔して儉に新城路より邀撃させたが、虜は敢えて出てこなかった。儉は進んで遼水を渡り、建安城に趨り、賊を破り、数千級を斬った。累進して皖城郡公に封ぜられた。後に東夷校尉官を都護府に改め、即ち儉を以て都護とした。永徽初年、金紫光禄大夫を加えられた。卒す、年六十、謚して密という。

儉の兄大師は、太僕卿・華州刺史・武功県男。

弟の延師は、左衛大将軍・范陽郡公。性格は謹み畏れ、羽林兵を統率すること三十年、未だ嘗て過ちがなかった。卒すと、荊州都督を追贈され、謚して敬といい、昭陵に陪葬された。

儉兄弟三人の門には皆戟が立てられ、当時「三戟張家」と号された。

王方翼

王方翼、字は仲翔、へい州祁の人なり。祖父の裕は、隨州刺史となり、同安大長公主をし、官は開府儀同三司に至り、卒し、諡して文と曰う。

方翼は早く孤となり、哀毀すること成人の如く、時に孝童と号す。母の李は、主(公主)に斥けられ、鳳泉墅に居る。方翼なお幼く、雑庸保(雑役の者)に交じり、苦役を執りて日を棄てず、田を墾き樹を植え、林垠を治め、既に墻屋を完うし、松をきて墨を丸め、富家となる。主薨じ、京師に還る。嘗て夜行し、長人丈余を見て、弓を引きて射て之を仆す、乃ち配木(木偶)なり。太宗聞き、右千牛にく。高宗立ち、而して從祖の女弟(従姉妹)皇后となる、安定令に調ととのえ、大姓を誅滅し、奸豪脅息す。瀚海都護司馬にうつる、事に坐して下遷し朔州尚德府果毅となり、歳余して代わりて還る。母喪に居り、哀瘠甚だしく、帝侍医を遣わして療視せしむ。其の友趙持満誅死し、屍諸道(屍を道に晒す)、親戚敢えて視る者莫し、方翼曰く「欒布彭越を哭すは、義なり;周文王骼かくを掩うは、仁なり。友義を絶ち、主仁を蔽わば、何を以てか君に事えん」と。遂に往きて其の屍を哭し、礼を具えて収葬す。金吾劾してつなぐ、帝之を嘉し、罪せず。

再び肅州刺史に遷る。州に隍塹(堀)無く、寇攻め易し、方翼乃ち卒を発して楼堞を建て、多楽水をさらいて自ら環らしめ、烽邏精明なり。儀鳳間、河西蝗す、独り方翼の境に至らず、而して他郡の民或いは餒死す、皆重繭して方翼の治下に走る。乃ち私銭を出して水硙(水車)を作り、其の贏(余り)を簿(記録)し、以て饑瘵を済い、舎数十百楹を構えて之に居らしめ、全活甚だ衆し、芝其の地に産す。

裴行儉遮匐を討つに、副と為すを奏し、兼ねて檢校安西都護と為し、故都護杜懷寶を徙めて庭州刺史と為す。方翼碎葉城を築き、面三門、紆還多趣(曲がりくねり趣多く)して以て出入をいつわり、五旬にして畢る。西域の胡縱観し、其の方略を測る莫く、悉く珍貨を献ず。未だ幾ばくもせず、方翼を徙めて庭州刺史と為し、而して懷寶自ら金山都護より更に安西を鎮す、遂に蕃戎の和を失う。

永淳初、十姓阿史那車簿啜叛き、弓月城を囲む、方翼軍を引きて伊麗河に戦う。之を敗り、首千級を斬る。俄にして三姓咽面の兵十万踵いて至る、方翼熱海にやどり、進みて戦い、矢臂に著く、佩刀を引きて断ち去る、左右知る者莫し。所部の雑虜謀りて方翼を執りて内応せんとす、方翼悉く召し会して軍中に、厚く賜い、以て次第に壁外に出で、之を縛る。たまたま大風、金鼓にまじり、而して号呼聞こゆる者無く、七千人を殺す。即ち騎を遣わし分道して咽面等を襲わしむ、皆驚き潰え、烏鶻兵を引きて遁げ去り、首領突騎施等三百人をとらえ、西戎震服す。初め、方翼葛水に次り、暴漲し、師度る可からず、沈祭以て禱る、師渉りてわたる。又七月葉河に次り、舟無く、而して冰一昔ひとよにして合す。時に以て祥と為す。

西域平ぎ、功を以て夏州都督に遷る。牛疫にさかい、民田作を廃す、方翼耦耕法を為し、機鍵を張り、力省くして功多く見え、百姓順頼す。明年、方翼を召して西域の事を議し、奉天宮に引見し、食を賜う帝前、帝衣に汚濯よごれあらいたる処有るを見て、其の故を問う、具に熱海苦戦の状に対う。其の創を視、帝咨嗟すること久しく、賜賚良く厚し。

俄にして妖賊白鐵餘綏州に反すに、詔して方翼と程務挺をして之を討たしむ。飛■(石弾)を以て賊を撃ち、其の柵に火を放ち、之を平げ、太原郡公に封ず。阿史那元珍入寇す、詔を被り進撃す。時に庫に完鎧無く、方翼六板を断ち、虎の文を画き、鉤聯解合(かぎで連結し解け合う)す、賊馬忽ち見て、奔駭し、遂に敗れ、大将二を獲、因りて桑乾・舍利二部を降す。

武后の時、王后の属(一族)に在る者無く、方翼自ら功多しと視、せられざるをこいねがう、而して后内に罪に因りて之を除かんと欲す、得ず。務挺の殺さるるに及び、即ち並びに方翼を坐せ、追い入朝せしめ、捕えて獄に送り、崖州に流す、道に卒す、年六十三。神龍初、官爵を復す。方翼書を善くし、魏叔琬と斉名す。

方翼の子 珣

子の珣、字は伯玉、兄の璵・弟の瑨と文学を以て称せられ、時に「三王」と号す。天授初、珣進士第に及第し、制科に応じ、藍田尉に遷る。抜萃を以て長安ちょうあん尉に擢かれ、因りて進見す、武后召して刑政を問い、之を嘉す。其の族氏をたずぬるに、対えて曰く「廃后は、臣が姑なり」と。后悦ばず、左遷して亳州司法参軍と為す。神龍初、河南丞と為り、武三思詔をいつわりて臨川令に貶す。宋璟政をたすけ、召して侍御史を授く。許州長史に出ず。歳旱ひでり、珣時に刺史の事をり、廩を開きて民をすくい、即ち自ら劾す、玄宗之を赦す。累遷して工部侍郎に至る。而して瑨は中書舍人に至る。珣嘗て秘書少監を為し、数年にして瑨職を継ぐ。終わりに右散騎常侍さんきじょうじ、卒す。戸部尚書を贈られ、諡して孝と曰う。

子の鋗、天寶中にりて右補闕・殿中侍御史と為る。瑨の子の鉷は、自ら傳有り。

蘇烈

蘇烈、字は定方、字を以て行わる、冀州武邑の人、後始平に徙る。父の邕、隋の季に当たり、里中の数千人を率いて本郡の為に賊を討つ。定方驍悍にして気決有り、年十五、父に従いて戦い、しばしば先んじて陣に登り陥る。邕卒し、代わりて其の衆を領し、劇賊張金稱・楊公卿を破り、北を追うこと数十里、是より賊境をてず、鄕党之に頼る。

貞観初、匡道府折衝と為り、李靖に従いて突厥の頡利を磧口に襲う、彀馬(弓を引く騎兵)二百を率いて前鋒と為り、霧に乗じて行く、賊を去ること一里許、霧霽る、牙帳を見、馳せて数十百人を殺し、頡利及び隋の公主惶窘して各遁げ去り、靖亦尋まもなく至り、余党悉く降る。再び左衛中郎将に遷る。程名振と高麗を討ち、之を破る。右屯衛將軍・臨清縣公に拝す。

葱山道大総管程知節に従い賀魯を征討し、鷹娑川に至る。賀魯は二万騎を率いて来て抵抗し、総管蘇海政は連戦して決せず、鼠尼施らがさらに二万騎を引き連れて援軍となった。定方は兵士を休ませ始め、塵埃の立ち上るのを見て、精鋭の騎兵五百を率い、嶺を越えて馳せ賊の陣営を突き、賊の衆は大いに潰え、千余人を殺し、棄てられた鎧仗・牛馬は山野に累々として数えきれなかった。副総管王文度はその功を妬み、誤って知節に言うには、「賊は逃げたとはいえ、軍の死傷者は多い。今は輜重を陣の間に結び、甲冑を着けて進み、賊が来れば即ち戦う、これをもって万全と謂うべきである」と。また詔を偽って軍を収め深入りさせなかった。ここにおいて馬は痩せ兵士は疲労し、闘志を失った。定方は知節を説いて言うには、「天子は賊を討てと詔したのに、今は反って自ら守るのみでは、何の功を立てようか。かつ公は大将として、閫外の事を専らにできず、顧みるに副将が専らにできるとは、理の然るべきことではない。どうして文度を囚えて天子の命を待たないのか」と。従わなかった。怛篤城に至り、胡人が降った。文度はみだりに言うには、「軍が還る時に降る者は、かつ賊となるであろう、殺してその財貨を取るに如かず」と。定方は言うには、「これは自ら賊となるのみで、どうして叛を伐つと言えようか」と。財貨を分ける時、定方は一切取らなかった。高宗はこれを知り、知節らが還ると、悉く吏に下し、死罪に当たるが、許されて庶民となった。

定方を伊麗道行軍大総管に抜擢し、再び賀魯を征討させ、任雅相・回紇婆潤を副将とした。金山の北より出撃し、先ず処木昆部を撃ち破り、俟斤嬾独祿が衆一万帳を擁して降ったので、定方はこれを慰撫し、その千騎と回紇一万人を発し、進んで曳咥河に至った。賀魯は十姓の兵十万を率いて防戦し、定方の兵が少ないのを軽んじ、左右の翼を伸ばして包囲した。定方は歩卒に命じて高地を占拠させ、槊を集めて外向きにし、自ら勁騎を率いて北の原に陣を布いた。賊は三度歩兵の陣を突いたが、入ることができず、定方はその混乱に乗じてこれを撃ち、三十里にわたって激戦し、数万級を斬首し、賊は大いに奔った。翌日、兵を整えて再び進み、五弩失畢が衆を挙げて降り、賀魯は独り処木昆屈律啜と数百騎で西に逃げた。定方は副将蕭嗣業・回紇婆潤に命じ、雑虜の兵を率いて邪羅斯川に向かい敗走を追撃させ、定方は雅相とともに新たに降附した兵を率いてその退路を断った。大雪に会い、吏が少し休むよう請うたが、定方は言うには、「虜は雪を恃んで、ちょうど宿営を止め、我が進めぬと思っている。もし遠くに遁走させれば、もはや捕らえることはできぬ」と。そこで兵を率いて進み双河に至り、弥射・歩真と合流し、賀魯の居る所から百里の地点で、陣を布きながら進むよう命じ、金牙山に迫った。ちょうど賀魯が狩猟しようとした時、定方は兵を放って撃ち、その牙帳の下の数万人を破り、悉くその部衆は帰順した。賀魯は石国に逃げ、弥射の子元爽が兵を率いて嗣業と会し、賀魯を縛って還った。ここにおいて亭障を修め、蹊隧を列ね、疆畛を定め、病を問い屍を収め、唐の州県は西海の極みに及んだ。高宗が軒前に臨むと、定方は戎服を着て賀魯を奉じて献上した。功を策して左驍衛大将軍・邢国公に任じ、別に子の慶節を武邑県公に封じた。

思結闕俟斤都曼が先に諸胡を鎮めていたが、その部衆及び疏勒・朱俱波・喝般陀の三国を劫いて再び叛いたので、詔して定方を還して安撫大使とした。兵を率いて葉葉水に至り、賊は馬頭川に城を築いていた。定方は精兵一万・騎兵三千を選んでこれを襲い、昼夜三百里を馳せ、その地に至った。都曼は驚き、戦う準備がなく、遂に大敗し、馬保城に逃げて拠った。軍を進めてこれを攻め、都曼は計窮まり、遂に面縛して降った。乾陽殿に俘虜として献上され、有司は法に照らして論ずるよう請うた。定方は頓首して請うて言うには、「臣は先に陛下の意を諭し、死なせぬと許しました。願わくはその命を乞います」と。帝は言うには、「朕は卿のために信を全うしよう」と。そこでこれを赦した。葱嶺以西は遂に平定された。邢州鉅鹿三百戸を食邑として加えられ、左武衛大将軍に遷った。

神丘道大総管として出向し、師を率いて百済を討った。城山より海を渡り熊津口に至ると、賊は江辺に兵を屯させていた。定方は左岸より出て、山に乗って陣を布き、これと戦い、賊は敗れ、死者数千人。王師は潮に乗って上り、舳艪は尾を銜んで進み、鼓を鳴らして鬨の声を上げた。定方は歩騎を率いて両側から導き、真っ直ぐ真都城に向かった。賊は国を傾けて来て、酣戦したが、これを破り、殺し捕虜は一万人、勝に乗じてその外城に入った。王義慈及び太子隆は北に逃げた。定方は進んでその城を包囲した。義慈の子泰が自立して王となり、衆を率いて固守した。義慈の孫文思が言うには、「王と太子が出奔したのに、叔父がどうして勝手に王となれようか。もし王師が還れば、我ら父子はどうして全うできようか」と。そこで左右を率いて城を縋り下り、多くがこれに従い、泰は止めることができなかった。定方は兵士に城に登らせ、唐の旗幟を掲げさせた。ここにおいて泰は門を開いて命を請い、その将禰植が義慈とともに降り、隆及び諸城は降伏を申し出て、百済は平定され、義慈・隆・泰らを捕らえて東都に献上した。

定方が滅ぼした三国は、いずれもその王を生け捕りにし、賞与された珍宝は数えきれず、慶節に尚輦奉御の官を加えた。間もなく、定方は遼東道行軍大総管となり、俄かに平壤道に転じた。浿江において高麗の衆を破り、馬邑山を奪って営とし、遂に平壤を包囲した。大雪に会い、包囲を解いて還った。涼州安集大使に任じられ、吐蕃・吐谷渾を平定せしめた。乾封二年に卒去、七十六歳。帝はこれを悼み、侍臣を責めて言うには、「定方は国に功があった。褒賞し贈官すべきである。汝らが言わぬのは何故か」と。そこで左驍衛大将軍・幽州都督を追贈し、諡して莊といった。

薛仁貴

薛仁貴は、絳州龍門の人である。若い時は貧賤で、田を業としていた。先祖を改葬しようとした時、妻の柳氏が言うには、「夫には世に優れた才能があるが、時機に遇わなければ発揮されない。今天子が自ら遼東を征し、猛将を求めている。これは得難い時機である。君はどうして功名を図り自らを顕わさないのか。富貴して郷里に還り、葬るのは遅くない」と。仁貴はそこで将軍張士貴の下に往き応募した。

安地に至り、郎将劉君邛が賊に包囲されたのに会い、仁貴は馳せてこれを救い、賊将を斬り、その首を馬鞍に結びつけると、賊は皆恐れ伏した。これによって名を知られた。王師が安市城を攻めた時、高麗の莫離支が将高延寿らに命じて兵二十万を率いて防戦させ、山に倚って屯を結んだ。太宗は諸将に命じて分かれてこれを撃たせた。仁貴は驍悍を恃み、奇功を立てようと欲し、白衣を着て自らを顕わし、戟を持ち、腰に二つの弓を鞬め、叫びながら馳せ、向かうところ敵なしであった。軍はこれに乗じ、賊は遂に奔り潰えた。帝はこれを見て、使いを馳せて問わせた。「先鋒の白衣の者は誰か」と。「薛仁貴です」と。帝は召し出して見、嗟嘆し異とし、金帛・口馬を甚だ多く賜い、遊撃将軍・雲泉府果毅に任じ、北門長上を命じた。師が還ると、帝は言うには、「朕の旧将は皆老いた。驍勇を抜擢して閫外の事を任せようと思うが、卿に如く者はない。朕は遼東を得たことを喜ばず、皎将を得たことを喜ぶ」と。右領軍中郎将に遷った。

高宗が萬年宮に行幸した時、山水が暴漲し、夜に玄武門を突いた。宿衛は皆散り走ったが、仁貴は言うには、「天子に緩急ある時、どうして死を恐れられようか」と。そこで門に登って大声で呼び、宮内に警告し、帝は急いで出て高い所に乗った。間もなく水が帝の寝所に入った。帝は言うには、「卿に頼って免れた。始めて忠臣のいることを知った」と。御馬を賜った。

蘇定方が賀魯を討った時、仁貴は上疏して言うには、「臣は聞く、兵を出すに名がなければ、事は成らず、その賊たることを明らかにすれば、敵は初めて服すと。今、泥熟は賀魯に仕えず、そのために破られ、妻子を虜にされた。王師の中で賀魯の部落から転じてその家族を得た者は、宜しく悉く取り上げて還し、厚く賞与して送り返すべきです。そうすれば百姓は賀魯の暴虐と陛下の至徳とを知るでしょう」と。帝はこれを容れ、遂にその家族を還し、泥熟は軍に随って死を効さんと請うた。

顕慶三年、詔して程名振の副として遼東を経略せしめ、高麗を貴端城に破り、斬首三千級。明年、梁建方・契苾何力と高麗の大将温沙多門に遇い、横山に戦い、仁貴独り馳せ入り、射る所皆弦に応じて仆す。又石城に戦い、善射する者有り、官軍十余人を殺す、仁貴怒り、単騎突撃し、賊弓矢俱に廃れ、遂に之を生擒す。俄に辛文陵と契丹を黒山に破り、其の王阿卜固を執りて東都に献ず。左武衛将軍に拝し、河東県男に封ぜらる。

詔して鄭仁泰の副として鉄勒道行軍総管と為す。将に行かんとし、内殿に宴し、帝曰く「古、善射に七劄を穿つ者有り、卿試みに五甲を以て射よ」と。仁貴一発にして洞貫す、帝大いに驚き、更に堅甲を取って之を賜ふ。時に九姓の衆十余万、驍騎数十を令して来たり挑戦す、仁貴三矢を発し、輒ち三人を殺す、ここに於て虜気慴み、皆降る。仁貴後患と為らんことを慮り、悉く之を坑す。転じて磧北の余衆を討ち、偽葉護兄弟三人を擒えて以て帰る。軍中歌いて曰く「将軍三箭天山を定め、壮士長歌漢関に入る」と。九姓遂に衰ふ。

鉄勒に思結・多覧葛等の部有り、先づ天山を保つ、及び仁泰至るや、懼れて降る、仁泰納れず、其の家を虜ひて軍に賞す、賊相率い遁去す。候騎有りて言ふ「虜の輜重畜牧野に被る、往き取り可し」と。仁泰騎万四千を選び甲を巻きて馳せ、大漠を絶ち、仙萼河に至るも、虜を見ず、糧尽きて還る。人飢えて相食ひ、比て塞に入るに、余兵纔に二十の一。仁貴も亦た所部を取って妾と為し、賕遣を多く納れ、有司の劾奏する所と為り、功を以て見原さる。

乾封初、高麗の泉男生内附し、将軍龐同善・高偘を遣わして慰納せしむ、弟男建国人を率いて拒み納れず、乃ち詔して仁貴に師を率い同善を援送せしむ。新城に至り、夜虜の襲ふ所と為る、仁貴之を撃ち、数百級を斬る。同善進みて金山に次ぐ、虜に衄れて敢へて前まらず、高麗勝に乗じて進む、仁貴虜を撃ちて二つに断ち、衆即ち潰え、斬馘五千、南蘇・木底・蒼巖の三城を抜き、遂に男生の軍に会す。手詔して労勉す。仁貴鋭を負ひ、卒二千を提げて扶余城を進攻す、諸将兵寡なるを以て勧めて止む。仁貴曰く「善く用ふるに在り、衆に在らず」と。身を帥いて士とし、賊に遇へば輒ち破り、万余人を殺し、其の城を抜き、因りて旁ら海に地を略し、李勣の軍と合す。扶余既に降り、他の四十城相率い款を送り、威遼海に震ふ。詔有りて仁貴に兵二万を率い劉仁軌と平壤を鎮ましむ、本衛大将軍に拝し、平陽郡公に封ぜられ、検校安東都護、治を新城に移す。孤を撫で老を存し、盗賊を検制し、才に随ひて職を任じ、節義を褒崇し、高麗の士衆皆欣然として亡るるを忘る。

咸亨元年、吐蕃寇に入り、命じて邏娑道行軍大総管と為し、将軍阿史那道真・郭待封を率いて之を撃ち、以て吐谷渾を援けしむ。待封嘗て鄯城鎮守と為り、仁貴と等夷たり、是に及び、其の下に居るを恥じ、頗る節度に違ふ。初め、軍大非川に次ぐ、将に烏海に趨かんとす、仁貴曰く「烏海地険にして瘴有り、吾死地に入る、危道と謂ふ可し、然れども速なれば則ち功有り、遅なれば則ち敗る。今大非嶺寛平、二柵を置く可く、輜重を悉く内め、万人を留めて之を守らしめ、吾倍道して賊の整はざるを掩へば、之を滅ぼさん」と。乃ち賫を約し、河口に至り、賊に遇ひ、之を破り、殺掠多し、牛羊万計を獲る。進みて烏海城に至り、以て後援を待つ。待封初め従はず、輜重を領して踵きて進む、吐蕃衆二十万を率いて邀撃し之を取り、糧仗尽く没し、待封険に保つ。仁貴軍を退けて大非川に至る、吐蕃益々兵四十万を来たり戦ふ、王師大いに敗る。仁貴吐蕃の将論欽陵と和を約し、乃ち還るを得、吐谷渾遂に没す。仁貴嘆じて曰く「今歳庚午に在り、星降婁に在り、事西方に有る応へず、鄧艾のしょくに死する所以、吾固より必ず敗るるを知れり」と。詔有りて死を原ひ、名を除かれて庶人と為す。

未だ幾ばくもせず、高麗の余衆叛き、起ちて鶏林道総管と為す。復た事に坐して象州に貶せられ、赦に会ひて還る。帝其の功を思ひ、乃ち召見して曰く「疇歳万年宮にて、卿微くせば、我且に魚と為らんとす。前日九姓を殄し、高麗を破る、爾功居多し。人言ふ向に烏海城下に在りて虜を縱ち撃たず、以て失利に至ると、此れ朕の恨みて疑ふ所なり。今遼西寧かならず、瓜・沙路絶ゆ、卿安んぞ高枕して朕が為に指麾せざるを得んや」と。ここに於て瓜州長史・右領軍衛将軍・検校代州都督に拝し、兵を率いて突厥の元珍を雲州に撃つ。突厥問ひて曰く「唐の将は誰ぞ」と。曰く「薛仁貴なり」と。突厥曰く「吾薛将軍象州に流れて死せりと聞く、安んぞ復た生くを得ん」と。仁貴兜鍪を脱ぎて之を見す、突厥相視みて色を失ひ、馬を下りて羅拜し、稍稍として遁去す。仁貴因りて進撃し、之を大破し、斬首万級、生口三万を獲、牛馬是に称す。

永淳二年卒す、年七十。左驍衛大将軍・幽州都督を贈られ、官に輿を給し、喪を護りて郷里に還す。

仁貴の子 訥

子訥、字は慎言、城門郎を起家し、藍田令に遷る。富人倪氏息銭を訟ふるに肅政臺に於て、中丞来俊臣賕を受け、義倉の粟数千斛を発して之を償ふ。訥曰く「義倉本水旱に備ふ、安んぞ衆人の仰ぐを絶ちて一家を私にせん」と。上に報じて與へず。会に俊臣罪を得、亦た止む。

後、突厥河北を擾し、武后訥を世将と為すを以て、詔して左威衛将軍・安東道経略使を摂せしむ。同明殿に対し、具に言ふ「醜虜暴に馮り、廬陵王を以て言に藉す、今雖も東宮に還るも、議堅く信ぜず。若し太子動かずば、賊討たずして解く」と。後其の言を納る。俄に幽州都督・安東都護に遷る。并州長史に改め、検校左衛大将軍。訥久しく辺に処り、戦功有り。開元初、玄宗新豊に武を講じ、詔して訥を左軍節度と為す。時に諸部頗る序を失ふ、唯だ訥と解琬の軍動かず。帝軽騎を令して之を召す、軍門に至るも、入るを得ず。礼成りて、尤も慰労せらる。

明年、契丹・奚・突厥連和し、数へて辺に入る、訥建議して討つを請ふ、詔して監門将軍杜賓客・定州刺史崔宣道をして訥と衆二万を帥ひて檀州より出ださしむ。賓客議す「方に暑く、士戈を負ひ糧を贏けて深く討つは、恐らく功無からんことを慮る」と、姚元崇も亦た不可と持す、訥独り曰く「夏草薦茂り、羔犢方に息み、饋饟を費やさずして盗資に因り、国威霊を振ふ、失ふ可からず」と。天子方に威を四夷に誇らんと欲し、奇功を喜び、乃ち訥の言を聴き、而して紫微黄門三品を授けて以て之を重んず。師灤河に至り、賊と遇ふ、諸将約の如くせず、虜の覆はるる所と為り、其の軍を尽く亡す。訥身を脱して走り、而して宣道及び大将李思敬等八人を罪し、詔有りて斬りて以て徇し、独り賓客免れ、訥の官爵を尽く奪ふ。

間もなく吐蕃の大酋長坌達延・乞力徐らが兵十万を率いて臨洮を寇し、蘭州に入り、牧馬を掠奪した。詔して訥に白衣のまま羽林将軍を摂せしめ、隴右防禦使と為し、王晙と共にこれを撃たしめた。賊に追い及び、武階驛で戦い、犄角の勢いでこれを脅かし、その衆を破った。北に尾けて洮水に至り、また長城堡で戦い、数万を殺鹵し、その酋長六指鄕彌洪を擒らえ、掠奪したもの及び仗械を悉く収め、その数は計り知れなかった。時に帝は自ら北伐を将いようとしていたが、訥の大勝により、遂に行軍を止めた。紫微舍人倪若水を命じて即時に軍中に赴き功績の状況を昇進させ、訥を左羽林大将軍に拝し、再び平陽郡公に封じ、子の暢を朝散大夫とした。また涼州鎮軍大総管を授け、赤水・建康・河源の辺州は皆その節度に隷属させた。間もなく朔方行軍大総管となった。久しくして、老齢を以て致仕した。卒す。年七十二。太常卿を贈られ、謚して昭定と曰う。

訥は性質沈勇にして寡言、その兵を用いるに、大敵に臨むに益々壮なり。

訥の弟 楚玉

弟楚玉は、開元中に范陽節度使となり、職務を果たさずして廃された。子の嵩を生む。

楚玉の子 嵩

嵩は燕・薊の間に生まれ、気概豪邁にして、産利に事えることを肯んぜず、膂力と騎射を以て自ら将とした。安祿山の乱に与し、晩年は史朝義に仕えて相州を守った。仆固懐恩が朝義を破り、河朔に長駆すると、嵩は震懼し、軍門に迎えて拝した。懐恩はこれを釈放し、検校刑部尚書・相衛洺邢等州節度使に奏した。大乱の後であったため、人々もまた禍を厭い、嵩は謹んで職務を奉じ、頗る治名があった。大暦初め、高平郡王に封ぜられ、実封二百戸、その軍を昭義と号した。検校尚書右僕射に遷り、更に平陽に封ぜられた。七年に卒す。太保を贈られた。

詔してその弟㟧に留後事を知らしめ、累進して検校太子少師を加えられた。十年、その将裴誌清に逐われ、兵を率いて田承嗣に帰した。㟧は洺州に奔った。入朝を請い、銀臺門に降服して罪を待ち、赦された。そこでその地を分ち、嵩の族子の択を相州刺史とし、雄を衛州刺史とし、堅を洺州刺史とした。承嗣は雄を誘って乱を起こさせようとしたが、従わず、客を遣わしてこれを刺殺させた。

初め、嵩は蹴踘を好んだ。隠士劉鋼がこれを止めるよう勧めて曰く、「楽しみは甚だ衆し、何ぞ危険に乗じて刻の歓びを邀えんや」と。嵩は悦び、その形を図って座右に置いた。嵩の子は平。

嵩の子 平

平は字を坦途といい、十二歳で磁州刺史となった。父の喪に服すと、軍吏が故事に依って留務を知るよう脅したが、偽ってこれを許し、後に㟧に譲り、夕べに喪を以て帰った。累進して右衛将軍を授けられ、宿衛三十年を経た。宰相杜黄裳がこれを抜擢して汝州刺史とし、治績に風采があった。王師が蔡を討つに当たり、左龍武大将軍より鄭滑節度使を授けられ、数戦して功があった。初め、黄河が瓠子で溢れ、東に滑を泛び、城に距ること僅か二里ばかりであった。平は故道を按じて黎陽の西南に出ることを求め、そこでその佐の裴弘泰を遣わして魏博節度使田弘正に請わせたところ、弘正はこれを許した。そこで民田で当たる所を籍に取り、他の地と換え、二十里の道を疏浚し、以て水の悍さを釃し、河南に壖田七百頃を還した。これより滑人は患い無し。入って左金吾衛大将軍となった。間もなく、再び鄭滑を帥いた。

李師道が平らげられると、詔して淄・青・齊・登・萊の五州を分けて平盧軍と為し、平を徙めて節度使とした。王庭湊が牛元翼を囲み、棣州が危うくなると、詔して平に出援せしめた。平は将の李叔佐に兵二千を率いて往かせたが、刺史王稷の饋餉が陋狹であったため、衆は潰れて帰り、突将の馬士端を推して帥と為し、屯する兵士一万人を劫い、州の堞に迫った。城中の兵は寡く、平は公帑と家財を悉くして鋭卒二千を募り迎え戦い、奇兵を以て賊の輜重を掩い、賊は狼顧し、遂に大敗して降り、余党は平らげられた。謀乱した者二千人を引き出して堂皇の下で斬り、脅従した者は皆放ちて田里に還した。威は一方を震わせた。詔して検校尚書右僕射に遷し、魏国公に封ぜられた。鎮すること六年、兵鎧は完礪し、徭賦は均一であった。宝暦初め、入朝するに、民が路を遮り留まらんことを願い、数日を経て出で得た。検校司空しくう・河中降隰節度使を拝し、再び晉・慈二州を隷属させ、兵三千を増やした。検校司徒しとに進み、更に韓に封ぜられ、太子太保を召し拝された。司徒を以て致仕した。卒す。年八十。太傅を贈られた。

平の子 從

子の從は、字を順之といい、廕を以て左清道率府兵曹参そうしん軍を授かり、累遷して汾州刺史となり、文谷・濾河の二水に堤を築き、引いて公私の田を溉ぎ、汾人はこれを利した。濮州に徙り、粟二万斛を儲えて凶災に備えた。時に山東に大水があり、詔して右司郎中趙傑を賑恤使と為すと、傑はその才を表し、将作監に擢でられた。終わりに左領軍衛上将軍。工部尚書を贈られた。

程務挺

程務挺は、洺州平恩の人である。父の名振は、隋の大業末、竇建德に仕えて普楽令となり、盗賊は境を跡付けなかった。間もなく賊を棄てて自ら帰順し、高祖は詔して永寧令を授け、兵を率いて河北を経略せしめた。即ち夜に鄴県を襲い、男女千余人を俘虜として帰った。数舍を去り、乳を飲ませている婦人九十余人を閲してこれを還した。鄴人はその仁に感じた。劉黒闥が洺州を陥落させると、名振は刺史陳君賓と共に自ら抜けて帰ったが、母と妻は賊に捕らえられた。名振は衆千余を率い、冀・貝・滄・瀛等州を掠め、糧道を邀え撃ち、賊の水陸の餉具を悉く毀った。黒闥は怒り、その母と妻を殺した。賊が平らぐと、手ずから黒闥を斬り、その首を以て母を祭ることを請うた。営州長史に拝し、東平郡公に封ぜられ、物二千段・黄金三百両を賜った。洺州刺史に転じた。太宗が遼東を征するに当たり、方略を召し問うたが、旨に合わなかった。帝は勃然としてこれを詰ったが、名振の弁対は益々詳しく、帝の意は解け、左右に謂って曰く、「房玄齢は常に朕の前に在りて、朕が余人を嗔るを見れば、色も主たること能わず。名振は生平朕を識らず、一旦誚譲するに、辞吐屈せず、奇士なるかな」と。右驍衛将軍・平壤道行軍総管を拝した。沙卑城を攻め、独山陣を破るに、皆少を以て衆を撃ち、名将と号された。営州都督に遷り、東夷都護を兼ねた。貴端水で高麗を撃ち、その新城を焚いた。晉・蒲二州刺史、鏤方道総管を歴任した。卒す。右衛大将軍を贈られ、謚して烈と曰う。

務挺は若くして父に従い征討に従軍し、勇力をもって知られ、右領軍衛中郎将に任ぜられた。雲州において突厥の六万騎を破る。時に偽可汗阿史那伏念が叛き、総管李文暕ら三将が次々に敗走した。詔により裴行儉がこれを討ち、務挺を副将とし、検校豊州都督を兼ねた。時に伏念は金牙山に屯し、務挺は副総管唐玄表とともに兵を率いて赴いた。伏念は恐れ、間道を通って行儉に降った。故に裴炎は行儉の功にあらずとし、務挺を右武衛将軍に遷し、平原郡公に封じた。

綏州の部落稽の白鉄餘が城平に拠って叛き、偽号を建て百官を置き、綏徳・大斌を攻め、官吏を殺し、家屋を焼いた。詔により務挺は夏州都督王方翼とともにこれを討ち、務挺は白鉄餘を生け捕りにした。左驍衛大将軍に進み、検校左羽林軍を兼ねる。嗣聖初年、右領軍大将軍張虔勖らとともに中宗を廃し王を皇帝に立てることに与り、累ねて褒賞を受けた。左武衛大将軍として単于道安撫大使となり、突厥を防ぐ。務挺は綏撫と防禦に長け、兵士はその威厳と慈愛に服し、突厥はこれを憚り、敢えて辺境を侵さなかった。

裴炎が獄に下ると、務挺は密かに上表してその冤罪を申し立てた。また平素より唐之奇・杜求仁と親しくしていたため、或る者が務挺が炎及び徐敬業と密かに結託していると上言した。後に左鷹揚将軍裴紹業を遣わし、軍中においてこれを斬り、その家を没収した。突厥は務挺の死を聞き、相率いて慶賀し、祠を立て、毎度出師するごとに必ず祈った。

王孝傑

王孝傑は京兆新豊の人である。若くして軍功により進んだ。儀鳳年中、劉審禮が吐蕃を討つに当たり、孝傑は副総管として大非川で戦い、虜に捕らえられた。贊普(吐蕃王)がこれを見て、「その貌は我が父に似ている」と言い、故に死なせず、帰した。武后の時、右鷹揚衛将軍となった。孝傑は虜中に長く居たので、その虚実を悉く知っていた。長寿元年、武威道総管となり、阿史那忠節とともに吐蕃を討ち、亀茲・于闐・疏勒・碎葉等の城を陥れた。武后は言った、「貞観年中、西境は四鎮にあり、その後よく守らず、これを吐蕃に棄てた。今、故土ことごとく復し、これは孝傑の功である」と。乃ち左衛大将軍に遷す。夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品に進み、清源県男に封ぜられる。證聖初年、再び朔方道総管となり、吐蕃と戦って利あらず、免官された。

時に契丹の李盡忠らが叛き、詔により白衣(無官)の身から清辺道総管に起用され、兵十八万を率いてこれを討った。軍は東硤石谷に至り、賊と遭遇する。道は隘く虜は衆し。孝傑は鋭兵を率いて先駆け、谷を出て陣を整え、賊と戦った。然るに後軍総管蘇宏暉がその軍を退かせ、援軍は至らず、虜の攻撃を受け、軍は潰え、孝傑は谷に堕ちて死に、兵士は互いに踏み躙られて尽きた。初め、平州に進軍した時、白鼠が昼間に営屯に侵入して伏した。皆が「鼠は坎の精、胡の象なり、白質は命に帰す、天の亡ぼす兆しなり」と言った。戦いにおいて、乃ち孝傑が覆されたのである。時に張説が管記として還り状況を報告した。後に問うと、説は詳しく陳べた、「孝傑は心を国家に尽くし、敢えて深く入り、少をもって衆に当たり、敗れたりとはいえ、その功は記録すべきです」と。乃ち夏官尚書・耿国公を追贈し、その子無択を朝散大夫とした。使者を遣わして宏暉を斬らせようとしたが、使者が未だ到らぬうちに宏暉は既に功を立てたので、遂に罪を贖わせた。

唐璿

唐璿は字を休璟といい、字をもって行われる。京兆始平の人である。曾祖父の規は後周の驃騎大将軍であった。休璟は幼くして孤となり、馬嘉運に『易』を授かり、賈公彦に『礼』を伝えられ、明経科に高第で及第した。呉王府典簽となり、改めて営州戸曹参軍となった。時に突厥が奚・契丹を誘って叛いたので、都督周道務が兵を休璟に授け、独護山においてこれを破り、斬獲多く、朔州長史に遷った。

永淳年中、突厥が豊州を囲み、都督崔智辯が戦死した。朝廷は豊州を棄て霊・夏を保つことを議した。休璟は不可とし、上疏して言った、「豊州は河を控え寇を扼し、襟帯と号せられ、秦・漢以来、常に郡県と為してきた。土田は良美にして、耕牧に適す。隋末の喪乱に、堅守できず、乃ち寧・慶に遷就したため、戎羯が利に乗じて交侵し、始めて霊・夏を辺境と為した。唐初、人を募ってこれを実らせ、西北の一隅は完固を得た。今これを廃すれば、則ち河傍の地は再び賊の有するところとなり、霊・夏も亦自ら安んずるに足らず、国家の利にあらず」と。高宗はその言に従った。垂拱年中、安西副都護に遷る。時に吐蕃が焉耆を破り、安息道大総管韋待価らが敗れたので、休璟はその潰亡を収拾し、以て西土を安定させ、霊州都督を授けられた。乃ち方略を陳べ、四鎮の回復を請うた。武后が王孝傑を遣わして亀茲等の城を抜いたのは、休璟の提唱によるものであった。

聖暦年中、涼州都督・右粛政御史大夫・持節隴右諸軍副大使を授けられた。吐蕃の大将曲莽布支が騎兵数万を率いて涼州に寇し、洪源谷に入った。休璟は兵数千を率いて高みに臨みこれを望み、賊の旗鎧の鮮明なるを見て、麾下に謂って言った、「吐蕃は欽陵が死し、贊婆が降って以来、莽布支は新たに兵を将い、武を示さんと欲し、且つその下は皆、貴臣酋豪の子弟なり。騎は精なりといえども、戦に習わず。吾れ諸君の為にこれを取らん」と。乃ち甲を被り先に登り、六戦して皆克ち、二将を斬り、首級二千五百を獲て、京観を築いて還った。吐蕃が和を請うて来た。宴の席で、使者が屡々休璟を窺った。後に問うと、答えて言った、「洪源の戦いにおいて、この将軍が多く我が士卒を殺し、その勇は比類なし。今、識らんことを願う」と。后は嗟嘆し、右武威・金吾二衛大将軍に抜擢した。

西突厥の烏質勒が諸蕃との和を失い、兵を挙げて相攻い、安西道は閉ざされた。武后は詔して休璟に宰相と計議させたが、少しも躊躇せず、施行すべきことを図示した。既にして辺州より屯置を建請し、ことごとく休璟の策の如くであった。后は言った、「卿を用いるのが遅かったことを恨む」と。夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品に進拝された。后は楊再思・李嶠・姚元崇らを誚って言った、「休璟は辺事に通暁しているが、卿ら輩は十もその一に当たらない」と。太子右庶子に改め、仍って政事を知る。

時に契丹が塞内に入り、再び夏官尚書として検校幽営等州都督・安東都護を兼ねた。時に中宗が皇太子であった。休璟が行かんとするに当たり、進み啓して言った、「易之兄弟は恩寵過幸にして、数えしばしば禁閫に入るは、人臣の宜しくすべきところにあらず。願わくは防察を加えられんことを」と。帝が復位すると、召して輔国大将軍・同中書門下三品・酒泉郡公を授け、謂って言った、「初め公を召して事を計らんと欲したが、北狄の憂いありし。前日の直言、今なお忘れず」と。特進・尚書右僕射を加えられ、邑戸三百を賜り、宋国公に封ぜられた。

この年、大水があり、上疏して自らを劾して免官を請うたが、許されなかった。累遷して検校吏部尚書となった。景龍二年に致仕した。未だ幾ばくもなく、再び起用されて太子少師・同中書門下三品となり、国史の監修を兼ねた。景雲初年、特進として朔方行軍大総管となり、突厥に備えた。旧封を停め、別に百戸を賜る。明年、再び老を請い、一品の全禄を与えられた。延和元年に卒す。八十六歳。荊州大都督を追贈され、諡して忠といった。

休璟は儒者として兵を知ることを以て号し、碣石より四鎮を越え、その間綿々たる地幾万裏、山川夷坦にして、障塞の要、皆能くこれを言う、故に行師料敵未だ嘗て敗れず。初め封を得て、賦絹数千を以て散じて其の族を賙い、又財数十万を出して大いに塋墓を為し、尽く其の五服の親を葬り、当時称重せらる。惟だ張仁愿の議、受降城を築くを以てし、而して休璟独り不可と謂い、卒に之を就く、而して漠南虜患無し。初めて老い、已に八十を逾え、猶権近に托倚して復用を求む。是に於いて賀婁尚宮方に用事し、附する者輒ち栄赫なり、休璟乃ち子をして其の義女を娶らしむ、故に復た宰相を起し、頗る時に譏訾せらる。其の国に当たり、亦た它に毘益無しと云う。

子先慎は陳州刺史に至り、先択は右金吾衛将軍となる。

張仁愿

張仁愿は、華州下邽の人なり。本名は仁亶、睿宗の諱音近きを以て之を避く。文武の材有り。武后の時、累遷して殿中侍御史となる。御史郭弘なる者、後を称して乃ち弥勒仏身なりとし、又鳳閣舎人張嘉福・王慶之武承嗣を以て皇太子と為さんことを請い、仁愿を邀いて章を聯ねしむ、仁愿正色して之を拒ぐ。後王孝傑吐刺軍総管と為り、吐蕃と戦いて利あらず、仁愿其の軍を監し、因りて入りて状を言う、孝傑坐して免ぜられ、仁愿を擢て侍御史とす。

万歳通天中、監察御史孫承景清辺軍を監し、戦い還り、自ら先鋒矢石に当たる状を図す。武后嘆じて曰く、「御史乃ち能く是の如くか!」と。右粛政台御史中丞に擢て、詔して仁愿に即ち其の麾下の功を叙せしむ。仁愿先ず承景に破敵の曲折を問う、承景実に行わず、問う所皆窮す。仁愿劾奏して承景の上を罔くし、虜級を虚列するを以てす。崇仁令に貶し、仁愿を以て代わり中丞と為し、幽州都督を検校す。

默啜趙・定を寇し、還りて塞を出づ、仁愿兵を以て之を邀う、賊引き去り、矢其の手に著く、武后使いを遣わして労問し、薬を賜いて註傅せしむ。并州都督長史に遷る。神龍中、左屯衛大将軍に進み、兼ねて洛州長史を検校す。会に穀貴多く盗有り、仁愿一切捕殺し、胔府門に積み、畿甸震懾し、敢えて犯す者無し。是に先だち、賈敦頤嘗て長史と為り、政績有り、時人為之に語りて曰く、「洛に前賈後張有り、京兆三王に敵す」と。

三年、朔方軍総管沙咤忠義突厥に敗れ、詔して仁愿に御史大夫を摂せしめて之に代わらしむ。既に至れば、賊已に去り、兵を引いて踵き撃ち、夜其の営を掩い、之を破る。初め、朔方軍と突厥河を以て界と為し、北崖に拂雲祠有り、突厥毎に辺を犯すに、必ず先ず祠に謁し禱解し、然る後兵を料りて度りて南す。時默啜悉く兵をして西に突騎施を撃たしむ、仁愿虚に乗じて漠南の地を取ることを請い、河北に於いて三受降城を築き、虜の南寇の路を絶たんことを。唐休璟以て為すに「両漢以来皆北に河を守る、今城を虜の腹中に築けば、終に為す所有るに至らん」と。仁愿固く請い、中宗之に従う。表して歳満の兵を留めて以て功を助けしむ、咸陽の兵二百人逃れて帰る、仁愿之を擒え、尽く城下に斬り、軍中股慄し、役者尽力し、六旬にして三城就く。拂雲を以て中城と為し、南は朔方に直し、西城は南は霊武に直し、東城は南は楡林に直し、三壘相距ること各四百餘里、其の北皆大磧なり、地を斥けて三百里にして遠し。又牛頭朝那山の北に烽候千八百所を置く。是より突厥敢えて山を逾えて馬を牧わず、朔方益々寇無く、歳に費を損すること億計り、鎮兵数万を減ず。初め三城を建つるに、壅門・曲敵・戦格を置かず。或いは曰く、「辺城に守備無くば、可か」と。仁愿曰く、「兵は攻取を貴び、退守を賤しむ。寇至れば、当に力を併せて出でて拒ぐべし、敢えて回りて城を望む者は斬る、何事ぞ守備を為さん、退きて其の心を忸ねしめんや」と。後常元楷代わりて総管と為り、初めて壅門を築き、議者益々仁愿を重んじて元楷を軽んず。

景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品を拝し、韓国公に封ぜらる。春還朝し、秋復た軍を督して辺を備え、帝為に詩を賦して道を祖し、賞賚貲すべからず。鎮軍大将軍に遷る。睿宗立ち、乃ち致仕す。兵部尚書を加えられ、祿を稟して全く給す。開元二年卒し、太子少保を贈らる。

仁愿将と為り、号令厳しく、将吏信伏し、辺を按じ師を撫すに、賞罰必ず功罪を直す。後人之を思い、為に祠を立て受降城に、出師輒ち享く。宰相文武兼ぬる者、当時李靖・郭元振・唐休璟・仁愿を称す云う。朔方に在りて、奏して御史張敬忠・何鸞・長安尉寇泚・鄠尉王易従・始平主簿劉体微を用いて分って軍事を総べしめ、太子文学柳彦昭を管記と為し、義烏尉晁良貞を随機と為し、皆著称し、後大官に至り、世仁愿の人を知るを名づく。子之輔は、趙州刺史に至る。

張敬忠は、監察御史より累遷して吏部郎中となり、開元七年平盧節度使を拝す。

王晙

王晙は、滄州景城の人、後に洛陽に徙る。父行果は、長安尉と為り、知名なり。晙少くして孤、学を好む。祖有方之を奇とし、曰く、「是の子当に吾が宗を興すべし」と。長じて豪曠、銜検の事を為すを楽しまず。明経第を擢て、初め清苑尉に調え、歴りて殿中侍御史を除く。会に朔方元帥魏元忠賊を討ちて利あらず、劾奏して副将韓思忠の敗るるを以てす、律当に誅すべし。晙以て「思忠は偏裨、権已に制せず、且つ其の人勇智惜むべし、宜しく独り誅すべからず」とし、固く争い、釈るるを得、晙亦た出でて渭南令と為る。

景龍末、桂州都督を授かる。州に兵有り、旧常に衡・永に餉を仰ぐ。晙初めて羅郛を築き、戍卒を罷め;江を埭し、屯田数千頃を開き、以て転漕を息め、百姓之に頼る。後帰りて上冢を求め、州人闕に詣りて留む。詔有りて曰く、「桂往に寇暴に罹り、戸口雕{疒齊}す、宜しく即ち留まり、以て政の成るを須つべし」と。桂に在ること期年を逾え、人丐うて石を刻み徳を頌せんことを。初め、劉幽求封州に放たれ、広州都督周利貞必ず之を殺さんと欲し、道晙の出す所に出づ、晙其の故を知り、留めて遣わさず。利貞書を移して督趣す、幽求懼れて曰く、「勢い且つ全うし難く、正に君を累すを恐る、奈何」と。晙曰く、「公の坐するは、朋友の絶つ所に非ず。晙在り、終に忍びず公の罪無くして死に就かしむるを」と。俄に崔湜等誅せられ、幽求復た政を執り、故に詔して幽求に刻石の辞を為さしむ。鴻臚少卿に遷り、朔方軍副大総管・安北大都護を充し、豊安・安遠等城並びに節度を授かる。太僕少卿・隴右群牧使に進む。

開元二年、吐蕃精甲十万を以て臨洮を寇し、大来谷に次ぎ、其の酋坌達延兵を以て踵きて前にす。晙率いる所部二千と臨洮軍と合し、奇兵七百を料り、胡服に易え、夜襲い、賊を去ること五里、令して曰く、「前是れ寇なり、士大呼し、鼓角之に応ぜよ」と。賊驚き、疑うらくは伏旁に在りと、自ら相闘い死する者万計り。俄にして薛訥武階に至り、大来を距ること二十里、賊両軍の間に陣し、互に一舍にして近し。晙往きて訥を迎え、夜壮士をして枚を銜ましめて鏖突せしめ、虜駭き引き去り、洮水に追い至り、之を敗り、俘獲積むが如し。功を以て銀青光禄大夫・清源県男を加えられ、原州都督を兼ぬ;子珽を以て朝散大夫と為す。又并州都督長史に進む。

翌年、突厥の默啜が拔曳固に殺され、その配下多く降伏し、河曲に分置された。やがて小殺が降伏を継ぐと、降伏者は次第に叛き去った。王晙が上言して曰く、

突厥は向こうにおいて国乱あり、故に塞に款き、部落と隔て無し。延いて素より北風を望み、何ぞ嘗て之を忘れんや。今河曲に徙り処し、内に辺の罅を伺わしむれば、久しからずして必ず患いとならん。比者、要約を受けず、兵已に屡動し、擅に烽区を作り、障を閉じて行李を妨ぐ。虜脱して南牧せば、降帳必ず連衡して、以て相応接し、表裏敵有り、韓信かんしん・彭越・孫武・呉起と雖も、功を成す所無からん。農隙に至り、朔方軍に大いに兵を陳べしめ、酋豪を召し、禍福を告げ、金繒を啗わし、且つ南方の麋鹿魚米の饒なるを言い、併せて淮右・河南の寛郷に遷置し、之に程糧を与えよ。一時の労と雖も、然れども二十年ならずして、漸く諸華に服し、料って以て兵に充てば、則ち皆勁卒なり。議者若し降狄を以て南に処すべからずと謂わば、則ち高麗の旧俘は沙漠の西に置き、城傍の編夷は青・徐の右に居る、何ぞ独り降胡の徙すべからざるや、と。

臣復た料るに、議者は必ず曰く、「故事、河曲に置く、前日已に寧し、今独り異なる無し」と。且つ往者頡利破亡し、辺鄙安定せし故に、降戸以て久安を得たり。今虜未だ殄滅せず、此の降人皆戚属なり、固より往年と同じからず。臣三策を以て之を料らんことを請う。其の部落を悉く内地に置き、精兵の実を獲、黠虜の患を閉ざす、此れ上策なり。亭障の下、蕃華参処し、広く屯戍し、備擬と為し、費甚だ人を労す、下策なり。之を胡塞に置き、禍萌を滋成す、此れ策無きなり。然らずんば、前に河冰に至り、且つ必ず変有らん、と。

書未だ報いずして、虜已に叛く。乃ち王晙に勅し、并州の兵を将いて河を済みて討たしむ。晙間行し、甲を巻き幕を舎て山谷に趨く。夜雪に遇い、期を失わんことを恐れ、神に誓いて曰く、「晙君に事えて忠を以てせず、罪有るを討たずんば、天の殛する所、当に自ら罰を蒙るべし、士衆に罪無し。心誠に忠にして、而して天之を監みたまわば、則ち雪を止め風を反らし、以て成功を奨めよ」と。俄にして和霽す。時に叛胡二道に分かれて走る。晙東道より自ら追いて之に及び、級三千を獲る。功を以て左散騎常侍・朔方行軍大総管に遷る。御史大夫に改む。趯跌部及び仆固都督勺磨等、散じて受降城の鄙に保ち、潜かに突厥を引きて内擾す。晙密かに上に言い、尽く誘いて之を誅す。兵部尚書を拝し、復た朔方軍大総管と為る。

九年、蘭池胡の康待賓、長泉に拠りて反し、六州を陥す。詔して郭知運に王晙とともに討平せしむ。清源公に封じ、一子に官す。玄宗、宮人を以て知運等に賜う。晙独り敢えて取らず、曰く、「臣の君に事うるは、猶子の父に事うるが如し、詎んぞ常に近く囲掖に侍りて臣子敢えて当たらんや。誓って死を以て免れん」と。聴かる。初め、晙奏して曰く、「朔方の兵力余り有り、願わくは知運を罷め、独り戍を当たらしめよ」と。未だ報いずして、知運至る。故に協わず。晙の降附せしむる所、知運輒ち縱撃す。賊、晙の己を売るを意い、乃ち復た叛く。晙坐して梓州刺史に貶せらる。太子詹事・中山郡公に改む。吏部尚書・太原尹に進む。張説に代わりて兵部尚書・同中書門下三品と為り、朔方軍節度大使を充て、河北・河西・隴右・河東の軍尽く属す。是の冬、帝親しく郊り、大礼に追会す。晙、冰壮を以て、将兵を留めて辺を待たしむるを請う。手勅して慰勉す。会うところ人有り、許州刺史王喬の謀反を告ぐ。辞、晙に逮う。詔して源乾曜・張説に雑訊せしむ。状無し。党与を以て蘄州刺史に貶せらる。定州に遷る。復た戸部尚書を以て朔方軍節度使と為る。卒す。尚書左丞相を贈られ、謚して忠烈と曰う。

晙、気貌偉特にして、時に熊虎の相と謂わる。節義を感慕し、古人の風有り。其の下を操るに肅壹にして、吏人畏愛す。始め、二張の魏元忠を誣うるに、晙独り上疏して申治す。宋璟曰く、「魏公全うせり、子再び逆鱗に触る、其れ殆からんか」と。晙曰く、「魏公、忠を以て罪を得たり。苟くも弁え得ば、死すと雖も悔い無し」と。

晙卒したる後、信安王李祎、幽州において奚を討ち、捷を奏し、且つ言う、「戦時、士咸く晙と部将高昭の兵を麾いて敵に赴くを見たり」と。天子嗟異す。戸部郎中陽伯成上疏し、晙の墓を封じ、之を表異し、其の子孫を優するを請う。帝乃ち使者を遣わし晙の廟を祭り、諸子の官を進む。

史評

贊して曰く、「唐の能く夷荒を威振し、封域を斥大する所以の者は、亦た虎臣有りて之が牙距と為るなり。師行数千万里に至り、窮討殊鬥し、其の国を獵取すること鹿豕の如くするは、謂う可し、選んで其の才に値うや、と。夫れ宰相は天に代わりて物を秩し、化を燮えて人神とす、惟だ徳有る者之に宜し。若し唐休璟・張仁愿、用いて以て丞弼と為さば、強いて其の不能をせざるに非ずや。功名の地に据うれば、則ち綽綽たり、と。