新唐書

巻一百一十一 列傳第三十六 郭孝恪 張儉 王方翼子:珣 蘇烈 薛仁貴子:訥 楚玉 孫:嵩 曾孫:平 玄孫:從 程務挺 王孝傑 唐璿 張仁愿 王晙

巻一百一十一 列傳第三十六 郭孝恪 張儉 王方翼子:珣 蘇烈 薛仁貴子:訥 楚玉 孫:嵩 曾孫:平 玄孫:從 程務挺 王孝傑 唐璿 張仁愿 王晙

郭孝恪

原文郭孝恪

郭孝恪は許州陽翟の人である。若くして奇節あり、資産を治めず、父兄は無頼と見做した。隋末の乱に際し、数しばしば百の少年を率いて李密に附く。密は喜び、「世に汝・潁には奇士多しと言うが、誤りではない」と言い、彼に李勣と共に黎陽を守らせた。密が敗れると、勣は孝恪を遣わして帰順を請わしめ、陽翟郡公に封じ、宋州刺史に任じた。詔により勣と共に武牢以東を経略し、平定した州県の官吏選補を委任された。

原文郭孝恪,許州陽翟人。少有奇節,不治貲產,父兄以爲無賴。隋亂,率少年數百附李密。密喜,謂曰:「世言汝、潁多奇士,不謬也。」使與李勣守黎陽。密敗,勣遣孝恪送款,封陽翟郡公,拜宋州刺史。詔與勣經略武牢以東,所定州縣,委以選補。

竇建德が洛陽を救援した時、孝恪は秦王に謁し、計略を進言した。「王世充は力尽き計窮まり、その縛り上げは足を上げて待つばかりである。建德は全軍を率いて遠来し、糧餉は遮断されており、これは天が滅ぼす時であろう。武牢を固守し、軍を汜水に置き、機に応じて変化に対応すれば、必ずや生け捕り殲滅できるでしょう」。王はこれを認めた。賊が平定され、洛陽宮で大酒宴が開かれた時、王は諸将に言った。「孝恪は賊を捕らえる策を立て、王長先(李勣)は漕運路を下った。その功は確かに諸君の右にある」。上柱国に遷る。貝・趙・江・涇の四州刺史を歴へ任し、赴任地ごとに有能の名声があった。左驍衛将軍に改め、累進して金紫光禄大夫を加えられた。

原文竇建德之援洛也,孝恪上謁秦王,進計曰:「王世充力竭計窮,其面縛可跂足待。建德悉眾遠來,糧餉阻絶,殆天亡時也。若固守武牢,以軍汜水,逐機應變,擒殄必矣!」王然之。賊平,置酒大會洛陽宮,語諸將曰:「孝恪策擒賊,王長先下漕,功固在諸君右。」遷上柱國。歷貝、趙、江、涇四州刺史,所至有能名。改左驍衛將軍,累加金紫光祿大夫。

貞観十六年、涼州都督に任じられ、安西都護・西州刺史に改められた。その地は高昌の旧都であり、流刑の罪人と鎮兵が雑まじ居し、砂礫に限られ中国と隔絶していたが、孝恪は誠意を以て撫慰統御し、その歓心を尽くして得た。初め、王師が高昌を滅ぼした時、捕虜とした焉耆の生口七百人を焉耆王に返還する詔があった。王が叛いて欲谷設可汗に帰したため、孝恪はこれを撃つことを請い、直ちに西州道行軍総管に任じられ、歩騎三千を率いて銀山道より出撃し、夜襲してその王龍突騎支を捕虜とした。帝は喜び、璽書を降して褒め労った。

原文貞觀十六年,拜涼州都督,改安西都護、西州刺史。其地高昌舊都,流徙罪人與鎮兵雜,限以沙磧,隔絶中國,孝恪推誠撫禦,盡得其歡心。初,王師滅高昌,詔以所虜焉耆生口七百還焉耆王。王叛歸欲谷設可汗,孝恪請擊之,即拜西州道行軍總管,率步騎三千出銀山道,夜襲其王龍突騎支,虜之。帝悅,降璽書褒勞。

まもなく昆丘道副大総管に任じられ、龜茲を進討し、その国城を破った。そこで自ら留守し、残軍を分道進撃させた。龜茲の国相那利が遁走した。孝恪は残部が未平定のため、外に出て営を張った。国人で孝恪に言う者があった。「那利は平素より士心を得ております。今亡命して外におり、勢い変事を為すでしょう。城中にも異志を抱く者が少なくありません。どうかご備えください」。孝恪はその言を軽んじ、備えを設けなかった。那利は果たして衆を率いて密かに城内の胡人と内応し、城に迫り鬨の声を上げたので、ようやく気付き、千余人を率いて合戦した。城中が挙って那利に応じ、孝恪は必死に戦い、流れ矢に当たって卒した。子の待詔もまた戦死した。将軍曹継叔が進兵し、再びその城を奪回した。太宗は孝恪が斥候を明らかにせず、ついに顛覆に至ったことを責め、その官を奪った。後に死戦を哀れみ、改めて哀悼の礼を挙げた。高宗が即位すると、官爵を追還し、待詔に遊撃将軍を追贈し、賻として物三百段を賜った。

原文俄拜昆丘道副大總管,進討龜茲,破其國城,乃自留守,遣餘軍分道進。龜茲國相那利遁去。孝恪以餘部未平,出營於外。國人有謂孝恪曰:「那利素得士心,今亡在外,勢必爲變,城中頗有異志,願公備之。」孝恪忽其言,不設備。那利果率眾陰與城內胡爲應,薄城鼓噪,始覺之,乃率千餘人合戰,城中舉應那利,孝恪殊死鬥,中流矢卒,子待詔亦歿。將軍曹繼叔進兵,復拔其城。太宗責孝恪斥候不明,至顛覆,奪其官。後湣死戰,更爲舉哀。高宗即位,追還官爵,贈待詔遊擊將軍,賻物三百段。

次やど子の待封は、左豹韜衛将軍に官した。咸亨初年、薛仁貴に副えて吐番を討ち、大非川で戦い、敗績し、死罪を赦されて庶民となった。

原文次子待封,官左豹韜衛將軍。咸亨初,副薛仁貴討吐番,戰大非川,敗績,貸死爲民。

張儉

原文張儉

張儉、字あざなは師約、京兆新豊の人である。隋の相州刺史・皖城郡公張威の孫。父の植は、車騎将軍・連城県公。

原文張儉,字師約,京兆新豐人。隋相州刺史、皖城郡公威孫。父植,車騎將軍、連城縣公。

儉は、高祖の従外孫である。高祖が挙兵すると、儉は功により右衛郎将に除され、朔州刺史に遷った。時に頡利可汗が強盛で、求取する毎に、遣わす書は詔勅と称し、辺吏は奉承して敢えて退けなかった。及んで儉に至り、独り拒絶して受けなかった。大いに民に営田を勧め、歳に穀数十万斛こくを収めた。霜害や旱害があっても、百姓に相互に救済わたするよう勧め、餓死者を免れさせ、州は無事安泰であった。李靖が既に突厥とっけつを平定した後、思結部という部族が、困窮して儉に帰した。儉はこれを受け入れ安んじ輯めた。磧北にいる者たちは、親戚が私的に往来して省問したが、儉は禁じず、羈縻を示すのみであった。儉が勝州に転じた後、後任の将がその事情を察せず、急いで思結が叛いたと奏上した。朝廷は進討を議したが、時に儉は母喪中であったが、喪服を奪われ使者としてこれを撫納することとなった。儉は単騎でその部に入り、酋帥を召して慰諭し、腹心を推して接すると、皆匍匐して帰順した。そこで挙げて代州に移住させ、遂に検校代州都督となった。儉は墾田と力耕を勧め、歳々豊作となり、私的な蓄えが豊かで実った。儉は虜が驕り易いことを恐れ、平糴法を建て、官に納入させると、虜は喜び、これにより倉庫の斛は余剰が流れるほどになった。

原文儉,高祖從外孫也。高祖起,儉以功除右衛郎將,遷朔州刺史。時頡利可汗方強,每有求取,所遣書輒稱詔敕,邊吏奉承不敢卻。及儉,獨拒不受。大教民營田,歳收谷數十萬斛。雖霜旱,勸百姓相振贍,免饑殍,州以完安。李靖既平突厥,有思結部者,窮歸於儉,儉受而安輯之。其在磧北者,親戚私相過省,儉不禁,示羈縻而已。儉徙勝州,後將不察其然,遽奏思結叛,朝廷議進討,時儉以母喪,奪服爲使者撫納之。儉單騎入其部,召酋帥慰諭,推腹心,咸匍匐歸命,因舉徙代州,遂檢校代州都督。儉勸墾田力耕,歳數稔,私蓄富實。儉恐虜易驕,乃建平糴法,入之官,虜悅喜,由是儲斛流贏。

営州都督に遷り、兼ねて護東夷校尉を領した。事に坐ざして免官されたが、詔により白衣のまま職務を領した。営州の管轄区域は契丹きったん・奚・〓・靺鞨まっかつ諸蕃と境を接し、高麗が衆を引きいて入寇したので、儉は兵を率いてこれを破り、捕虜斬殺することほぼ尽くした。再び営州都督に任じられた。太宗が遼東征討に臨むに当たり、儉を遣わして蕃兵を率いて先に進軍させ、地を略して遼西に至ったが、川が増水し、長く渡河できなかった。帝は畏懦と見做し、召還した。洛陽宮で引見されると、水草の美悪・山川の険易、並びに長く進まなかった事情を陳述した。帝は喜び、行軍総管に任じ、諸蕃の騎兵を領させ、六軍の前鋒と為した。時に高麗の斥候が莫離支が来ると言ったので、帝は詔して儉に新城路より邀撃させたが、虜は敢えて出てこなかった。儉は進んで遼水を渡り、建安城に趨り、賊を破り、数千級を斬った。累進して皖城郡公に封ぜられた。後に東夷校尉官を都護府に改め、即ち儉を以て都護とした。永徽初年、金紫光禄大夫を加えられた。卒す、年六十、謚して密という。

原文遷營州都督,兼護東夷校尉。坐事免,詔白衣領職。營州部與契丹、奚、〓、靺鞨諸蕃切畛,高麗引眾入寇,儉率兵破之,俘斬略盡。復拜營州都督。太宗將征遼東,遣儉率蕃兵先進,略地至遼西,川漲,久未度。帝以爲畏懦,召還。見洛陽宮,陳水草美惡、山川險易,並久不進狀。帝悅,拜行軍總管,使領諸蕃騎,爲六軍前鋒。時高麗候者言莫離支且至,帝詔儉自新城路邀擊,虜不敢出。儉進度遼,趨建安城,破賊,斬數千級。累封皖城郡公。後改東夷校尉官爲都護府,即以儉爲都護。永徽初,加金紫光祿大夫。卒,年六十,謚曰密。

儉の兄大師は、太僕卿・華州刺史・武功県男。

原文儉兄大師,太僕卿、華州刺史、武功縣男。

弟の延師は、左衛大将軍・范陽郡公。性格は謹み畏れ、羽林兵を統率すること三十年、未だ嘗て過ちがなかった。卒すと、荊州都督を追贈され、謚して敬といい、昭陵に陪葬された。

原文弟延師,左衛大將軍、范陽郡公。性謹畏,黃羽林兵三十年,未嘗有過。卒,贈荊州都督,謚曰敬,陪葬昭陵。

儉兄弟三人の門には皆戟が立てられ、当時「三戟張家」と号された。

原文儉兄弟三人門皆立戟,時號「三戟張家」。

王方翼

原文王方翼

王方翼、字は仲翔、并州祁の人なり。祖父の裕は、隨州刺史となり、同安大長公主を尚めし、官は開府儀同三司に至り、卒し、諡して文と曰う。

原文王方翼,字仲翔,并州祁人。祖裕,隨州刺史,尚同安大長公主,官開府儀同三司,卒,謚曰文。

方翼は早く孤となり、哀毀すること成人の如く、時に孝童と号す。母の李は、主(公主)に斥けられ、鳳泉墅に居る。方翼なお幼く、雑庸保(雑役の者)に交じり、苦役を執りて日を棄てず、田を墾き樹を植え、林垠を治め、既に墻屋を完うし、松を燎たきて墨を丸め、富家となる。主薨じ、京師に還る。嘗て夜行し、長人丈余を見て、弓を引きて射て之を仆す、乃ち配木(木偶)なり。太宗聞き、右千牛に擢ぬく。高宗立ち、而して從祖の女弟(従姉妹)皇后となる、安定令に調ととのえ、大姓を誅滅し、奸豪脅息す。瀚海都護司馬に徙うつる、事に坐して下遷し朔州尚德府果毅となり、歳余して代わりて還る。母喪に居り、哀瘠甚だしく、帝侍医を遣わして療視せしむ。其の友趙持満誅死し、屍諸道(屍を道に晒す)、親戚敢えて視る者莫し、方翼曰く「欒布彭越を哭すは、義なり;周文王骼かくを掩うは、仁なり。友義を絶ち、主仁を蔽わば、何を以てか君に事えん」と。遂に往きて其の屍を哭し、礼を具えて収葬す。金吾劾して繫つなぐ、帝之を嘉し、罪せず。

原文方翼早孤,哀毀如成人,時號孝童。母李,爲主所斥,居鳳泉墅。方翼尚幼,雜庸保,執苦不棄日,墾田植樹,治林垠,既完墻屋,燎松丸墨,爲富家。主薨,還京師。嘗夜行,見長人丈餘,引弓射仆之,乃配木也。太宗聞,擢右千牛。高宗立,而從祖女弟爲皇后,調安定令,誅滅大姓,奸豪脅息。徙瀚海都護司馬,坐事下遷朔州尚德府果毅,歳餘代還。居母喪,哀瘠甚,帝遣侍醫療視。其友趙持滿誅死,屍諸道,親戚莫敢視,方翼曰:「欒布哭彭越,義也;周文王掩骼,仁也。絶友義,蔽主仁,何以事君?」遂往哭其屍,具禮收葬。金吾劾繫,帝嘉之,不罪。

再び肅州刺史に遷る。州に隍塹(堀)無く、寇攻め易し、方翼乃ち卒を発して楼堞を建て、多楽水を廝さらいて自ら環らしめ、烽邏精明なり。儀鳳間、河西蝗す、独り方翼の境に至らず、而して他郡の民或いは餒死す、皆重繭して方翼の治下に走る。乃ち私銭を出して水硙(水車)を作り、其の贏(余り)を簿(記録)し、以て饑瘵を済い、舎す数十百楹を構えて之に居らしめ、全活甚だ衆し、芝其の地に産す。

原文再遷肅州刺史。州無隍塹,寇易以攻,方翼乃發卒建樓堞,廝多樂水自環,烽邏精明。儀鳳間,河西蝗,獨不至方翼境,而它郡民或餒死,皆重繭走方翼治下。乃出私錢作水硙,簿其贏,以濟饑瘵,構舍數十百楹居之,全活甚眾,芝產其地。

裴行儉遮匐を討つに、副と為すを奏し、兼ねて檢校安西都護と為し、故都護杜懷寶を徙めて庭州刺史と為す。方翼碎葉城を築き、面三門、紆還多趣(曲がりくねり趣多く)して以て出入を詭いつわり、五旬にして畢る。西域の胡縱観し、其の方略を測る莫く、悉く珍貨を献ず。未だ幾ばくもせず、方翼を徙めて庭州刺史と為し、而して懷寶自ら金山都護より更に安西を鎮す、遂に蕃戎の和を失う。

原文裴行儉討遮匐,奏爲副,兼檢校安西都護,徙故都護杜懷寶爲庭州刺史。方翼築碎葉城,面三門,紆還多趣以詭出入,五旬畢。西域胡縱觀,莫測其方略,悉獻珍貨。未幾,徙方翼庭州刺史,而懷寶自金山都護更鎮安西,遂失蕃戎之和。

永淳初、十姓阿史那車簿啜叛き、弓月城を囲む、方翼軍を引きて伊麗河に戦う。之を敗り、首千級を斬る。俄にして三姓咽面の兵十万踵ついて至る、方翼熱海に次り、進みて戦い、矢臂に著く、佩刀を引きて断ち去る、左右知る者莫し。所部の雑虜謀りて方翼を執りて内応せんとす、方翼悉く召し会たまたまして軍中に、厚く賜い、以て次第に壁外に出で、之を縛る。会大風、金鼓に雑り、而して号呼聞こゆる者無く、七千人を殺す。即ち騎を遣わし分道して咽面等を襲わしむ、皆驚き潰え、烏鶻兵を引きて遁げ去り、首領突騎施等三百人を擒とらえ、西戎震服す。初め、方翼葛水に次り、暴漲し、師度る可からず、沈祭以て禱る、師渉りて済る。又七月葉河に次り、舟無く、而して冰一昔ひとよにして合す。時に以て祥と為す。

原文永淳初,十姓阿史那車簿啜叛,圍弓月城,方翼引軍戰伊麗河。敗之,斬首千級。俄而三姓咽面兵十萬踵至,方翼次熱海,進戰,矢著臂,引佩刀斷去,左右莫知。所部雜虜謀執方翼爲內應,方翼悉召會軍中,厚賜,以次出壁外,縛之。會大風,雜金鼓,而號呼無聞者,殺七千人。即遣騎分道襲咽面等,皆驚潰,烏鶻引兵遁去,擒首領突騎施等三百人,西戎震服。初,方翼次葛水,暴漲,師不可度,沈祭以禱,師涉而濟。又七月次葉河,無舟,而冰一昔合。時以爲祥。

西域平ぎ、功を以て夏州都督に遷る。牛疫に属さかい、民田作を廃す、方翼耦耕法を為し、機鍵を張り、力省くして功多く見え、百姓順頼す。明年、方翼を召して西域の事を議し、奉天宮に引見し、食を賜う帝前、帝衣に汚濯よごれあらいたる処有るを見て、其の故を問う、具に熱海苦戦の状に対う。其の創を視、帝咨嗟すること久しく、賜賚良く厚し。

原文西域平,以功遷夏州都督。屬牛疫,民廢田作,方翼爲耦耕法,張機鍵,力省而見功多,百姓順賴。明年,召方翼議西域事,引見奉天宮,賜食帝前,帝見衣有汙濯處,問其故,具對熱海苦戰狀。視其創,帝咨嗟久之,賜賚良厚。

俄にして妖賊白鐵餘綏州に反すに、詔して方翼と程務挺をして之を討たしむ。飛■(石弾)を以て賊を撃ち、其の柵に火を放ち、之を平げ、太原郡公に封ず。阿史那元珍入寇す、詔を被り進撃す。時に庫に完鎧無く、方翼六板を断ち、虎の文を画き、鉤聯解合(かぎで連結し解け合う)す、賊馬忽ち見て、奔駭し、遂に敗れ、大将二を獲、因りて桑乾・舍利二部を降す。

原文俄而妖賊白鐵餘以綏州反,詔方翼與程務挺討之。飛■擊賊,火其柵,平之,封太原郡公。阿史那元珍入寇,被詔進擊。時庫無完鎧,方翼斷六板,畫虎文,鉤聯解合,賊馬忽見,奔駭,遂敗,獲大將二,因降桑乾、舍利二部。

武后の時、王后の属(一族)に在る者無く、方翼自ら功多しと視、坐せられざるを冀こいねがう、而して后内に罪に因りて之を除かんと欲す、得ず。務挺の殺さるるに及び、即ち並びに方翼を坐せ、追い入朝せしめ、捕えて獄に送り、崖州に流す、道に卒す、年六十三。神龍初、官爵を復す。方翼書を善くし、魏叔琬と斉名す。

原文武后時,王后屬無在者,方翼自視功多,冀不坐,而後內欲因罪除之,未得也。及務挺被殺,即並坐方翼,追入朝,捕送獄,流崖州,卒於道,年六十三。神龍初,復官爵。方翼善書,與魏叔琬齊名。

方翼の子 珣

原文方翼子 珣

子の珣、字は伯玉、兄の璵・弟の瑨と文学を以て称せられ、時に「三王」と号す。天授初、珣進士第に及第し、制科に応じ、藍田尉に遷る。抜萃を以て長安尉に擢かれ、因りて進見す、武后召して刑政を問い、之を嘉す。其の族氏を詢たずぬるに、対えて曰く「廃后は、臣が姑なり」と。后悦ばず、左遷して亳州司法参軍と為す。神龍初、河南丞と為り、武三思詔を矯いつわりて臨川令に貶す。宋璟政を輔たすけ、召して侍御史を授く。許州長史に出ず。歳旱ひでり、珣時に刺史の事を仮かり、廩を開きて民を振すくい、即ち自ら劾す、玄宗之を赦す。累遷して工部侍郎に至る。而して瑨は中書舍人に至る。珣嘗て秘書少監を為し、数年にして瑨職を継ぐ。終わりに右散騎常侍、卒す。戸部尚書を贈られ、諡して孝と曰う。

原文子珣,字伯玉,與兄璵、弟瑨以文學稱,時號「三王」。天授初,珣及進士第,應制科,遷藍田尉。以拔萃擢長安尉,因進見,武后召問刑政,嘉之。詢其族氏,對曰:「廢後,臣之姑也。」後不悅,左遷亳州司法參軍。神龍初,爲河南丞,武三思矯制貶臨川令。宋璟輔政,召授侍御史。出許州長史。歳旱,珣時假刺史事,開廩振民,即自劾,玄宗赦之。累遷工部侍郎。而瑨至中書舍人。珣嘗爲秘書少監,數年而瑨繼職。終右散騎常侍,卒。贈戸部尚書,謚曰孝。

子の鋗、天寶中に歴りて右補闕・殿中侍御史と為る。瑨の子の鉷は、自ら傳有り。

原文子鋗,天寶中歷右補闕、殿中侍御史。瑨子鉷,自有傳。

蘇烈

原文蘇烈

蘇烈、字は定方、字を以て行わる、冀州武邑の人、後始平に徙る。父の邕、隋の季に当たり、里中の数千人を率いて本郡の為に賊を討つ。定方驍悍にして気決有り、年十五、父に従いて戦い、数先んじて陣に登り陥る。邕卒し、代わりて其の衆を領し、劇賊張金稱・楊公卿を破り、北を追うこと数十里、是より賊境を舎てず、鄕党之に頼る。

原文蘇烈,字定方,以字行,冀州武邑人,後徙始平。父邕,當隋季,率里中數千人爲本郡討賊。定方驍悍有氣決,年十五,從父戰,數先登陷陣。邕卒,代領其眾,破劇賊張金稱、楊公卿,追北數十里,自是賊不舍境,鄕黨賴之。

貞観初、匡道府折衝と為り、李靖に従いて突厥の頡利を磧口に襲う、彀馬(弓を引く騎兵)二百を率いて前鋒と為り、霧に乗じて行く、賊を去ること一里許、霧霽はる、牙帳を見、馳せて数十百人を殺し、頡利及び隋の公主惶窘して各遁げ去り、靖亦尋まもなく至り、余党悉く降る。再び左衛中郎将に遷る。程名振と高麗を討ち、之を破る。右屯衛將軍・臨清縣公に拝す。

原文貞觀初,爲匡道府折衝,從李靖襲突厥頡利於磧口,率彀馬二百爲前鋒,乘霧行,去賊一里許,霧霽,見牙帳,馳殺數十百人,頡利及隋公主惶窘各遁去,靖亦尋至,餘黨悉降。再遷左衛中郎將。與程名振討高麗,破之。拜右屯衛將軍、臨清縣公。

葱山道大総管程知節に従い賀魯を征討し、鷹娑川に至る。賀魯は二万騎を率いて来て抵抗し、総管蘇海政は連戦して決せず、鼠尼施らがさらに二万騎を引き連れて援軍となった。定方は兵士を休ませ始め、塵埃の立ち上るのを見て、精鋭の騎兵五百を率い、嶺を越えて馳せ賊の陣営を突き、賊の衆は大いに潰え、千余人を殺し、棄てられた鎧仗・牛馬は山野に累々として数えきれなかった。副総管王文度はその功を妬み、誤って知節に言うには、「賊は逃げたとはいえ、軍の死傷者は多い。今は輜重しちょうを陣の間に結び、甲冑を着けて進み、賊が来れば即ち戦う、これをもって万全と謂うべきである」と。また詔を偽って軍を収め深入りさせなかった。ここにおいて馬は痩せ兵士は疲労し、闘志を失った。定方は知節を説いて言うには、「天子は賊を討てと詔したのに、今は反って自ら守るのみでは、何の功を立てようか。かつ公は大将として、閫外の事を専らにできず、顧みるに副将が専らにできるとは、理の然るべきことではない。どうして文度を囚えて天子の命を待たないのか」と。従わなかった。怛篤城に至り、胡人が降った。文度はみだりに言うには、「軍が還る時に降る者は、かつ賊となるであろう、殺してその財貨を取るに如かず」と。定方は言うには、「これは自ら賊となるのみで、どうして叛を伐つと言えようか」と。財貨を分ける時、定方は一切取らなかった。高宗はこれを知り、知節らが還ると、悉く吏に下し、死罪に当たるが、許されて庶民となった。

原文從蔥山道大總管程知節征賀魯,至鷹娑川,賀魯率二萬騎來拒,總管蘇海政連戰未決,鼠尼施等復引二萬騎爲援。定方始休士,見塵起,率精騎五百,逾嶺馳搗賊營,賊眾大潰,殺千餘人,所棄鎧仗、牛馬藉藉山野不可計。副總管王文度疾其功,謬謂知節曰:「賊雖走,軍死傷者眾。今當結輜重陣間,被甲而趨,賊來即戰,是謂萬全。」又矯制收軍不深入。於是馬癯卒勞,無鬥志。定方説知節曰:「天子詔討賊,今反自守,何功之立哉?且公爲大將,而閫外之事不得專,顧副將乃得專之,理不其然!胡不囚文度待天子命?」不從。至怛篤城,有胡人降,文度猥曰:「師還而降,且爲賊,不如殺之,取其貲。」定方曰:「此乃自作賊耳,寧曰伐叛!」及分財,定方一不取。高宗知之,比知節等還,悉下吏,當死,貸爲民。

定方を伊麗道行軍大総管に抜擢し、再び賀魯を征討させ、任雅相・回紇かいこつ婆潤を副将とした。金山の北より出撃し、先ず処木昆部を撃ち破り、俟斤嬾独祿が衆一万帳を擁して降ったので、定方はこれを慰撫し、その千騎と回紇一万人を発し、進んで曳咥河に至った。賀魯は十姓の兵十万を率いて防戦し、定方の兵が少ないのを軽んじ、左右の翼を伸ばして包囲した。定方は歩卒に命じて高地を占拠させ、槊を集めて外向きにし、自ら勁騎を率いて北の原に陣を布いた。賊は三度歩兵の陣を突いたが、入ることができず、定方はその混乱に乗じてこれを撃ち、三十里にわたって激戦し、数万級を斬首し、賊は大いに奔った。翌日、兵を整えて再び進み、五弩失畢が衆を挙げて降り、賀魯は独り処木昆屈律啜と数百騎で西に逃げた。定方は副将蕭嗣業・回紇婆潤に命じ、雑虜の兵を率いて邪羅斯川に向かい敗走を追撃させ、定方は雅相とともに新たに降附した兵を率いてその退路を断った。大雪に会い、吏が少し休むよう請うたが、定方は言うには、「虜は雪を恃んで、ちょうど宿営を止め、我が進めぬと思っている。もし遠くに遁走させれば、もはや捕らえることはできぬ」と。そこで兵を率いて進み双河に至り、弥射・歩真と合流し、賀魯の居る所から百里の地点で、陣を布きながら進むよう命じ、金牙山に迫った。ちょうど賀魯が狩猟しようとした時、定方は兵を放って撃ち、その牙帳の下の数万人を破り、悉くその部衆は帰順した。賀魯は石国に逃げ、弥射の子元爽が兵を率いて嗣業と会し、賀魯を縛って還った。ここにおいて亭障を修め、蹊隧を列ね、疆畛を定め、病を問い屍を収め、唐の州県は西海の極みに及んだ。高宗が軒前に臨むと、定方は戎服を着て賀魯を奉じて献上した。功を策して左驍衛大将軍・邢国公に任じ、別に子の慶節を武邑県公に封じた。

原文擢定方伊麗道行軍大總管,復徵賀魯,以任雅相、回紇婆潤爲副。出金山北,先擊處木昆部,破之,俟斤嬾獨祿擁眾萬帳降,定方撫之,發其千騎並回紇萬人,進至曳咥河。賀魯率十姓兵十萬拒戰,輕定方兵少,舒左右翼包之。定方令步卒據高,攢槊外向,親引勁騎陣北原。賊三突步陣,不能入,定方因其亂擊之,鏖戰三十里,斬首數萬級,賊大奔。明日,振兵復進,五弩失畢舉眾降,賀魯獨與處木昆屈律啜數百騎西走。定方令副將蕭嗣業、回紇婆潤率雜虜兵趨邪羅斯川追北,定方與雅相領新附兵絶其後。會大雪,吏請少休,定方曰:「虜恃雪,方止舍,謂我不能進,若縱使遠遁,則莫能擒。」遂勒兵進至雙河,與彌射、步真合,距賀魯所百里,下令陣而行,薄金牙山。方賀魯將畋,定方縱擊,破其牙下數萬人,悉歸所部。賀魯走石國,彌射子元爽以兵與嗣業會,縛賀魯以還。由是脩亭障,列蹊隧,定疆畛,問疾收胔,唐之州縣極西海矣。高宗臨軒,定方戎服奉賀魯以獻。策功拜左驍衛大將軍、邢國公,別封子慶節爲武邑縣公。

思結闕俟斤都曼が先に諸胡を鎮めていたが、その部衆及び疏勒・朱俱波・喝般陀の三国を劫いて再び叛いたので、詔して定方を還して安撫大使とした。兵を率いて葉葉水に至り、賊は馬頭川に城を築いていた。定方は精兵一万・騎兵三千を選んでこれを襲い、昼夜三百里を馳せ、その地に至った。都曼は驚き、戦う準備がなく、遂に大敗し、馬保城に逃げて拠った。軍を進めてこれを攻め、都曼は計窮まり、遂に面縛して降った。乾陽殿に俘虜として献上され、有司は法に照らして論ずるよう請うた。定方は頓首して請うて言うには、「臣は先に陛下の意を諭し、死なせぬと許しました。願わくはその命を乞います」と。帝は言うには、「朕は卿のために信を全うしよう」と。そこでこれを赦した。葱嶺以西は遂に平定された。邢州鉅鹿三百戸を食邑として加えられ、左武衛大将軍に遷った。

原文會思結闕俟斤都曼先鎮諸胡,劫所部及疏勒、硃俱波、喝般陀三國復叛,詔定方還爲安撫大使。率兵至葉葉水,而賊堞馬頭川。定方選精卒萬、騎三千襲之,晝夜馳三百里,至其所。都曼驚,戰無素,遂大敗,走馬保城。師進攻之,都曼計窮,遂面縛降。俘獻於乾陽殿,有司請論如法。定方頓首請曰:「臣向諭陛下意,許以不死,願丐其命。」帝曰:「朕爲卿全信。」乃宥之。蔥嶺以西遂定。加食邢州鉅鹿三百戸,遷左武衛大將軍。

神丘道大総管として出向し、師を率いて百済くだらを討った。城山より海を渡り熊津口に至ると、賊は江辺に兵を屯させていた。定方は左岸より出て、山に乗って陣を布き、これと戦い、賊は敗れ、死者数千人。王師は潮に乗って上り、舳艪は尾を銜んで進み、鼓を鳴らして鬨の声を上げた。定方は歩騎を率いて両側から導き、真っ直ぐ真都城に向かった。賊は国を傾けて来て、酣戦したが、これを破り、殺し捕虜は一万人、勝に乗じてその外城に入った。王義慈及び太子隆は北に逃げた。定方は進んでその城を包囲した。義慈の子泰が自立して王となり、衆を率いて固守した。義慈の孫文思が言うには、「王と太子が出奔したのに、叔父がどうして勝手に王となれようか。もし王師が還れば、我ら父子はどうして全うできようか」と。そこで左右を率いて城を縋り下り、多くがこれに従い、泰は止めることができなかった。定方は兵士に城に登らせ、唐の旗幟を掲げさせた。ここにおいて泰は門を開いて命を請い、その将禰植が義慈とともに降り、隆及び諸城は降伏を申し出て、百済は平定され、義慈・隆・泰らを捕らえて東都に献上した。

原文出爲神丘道大總管,率師討百濟。自城山濟海至熊津口,賊瀕江屯兵,定方出左涯,乘山而陣,與之戰,賊敗,死者數千。王師乘潮而上,舳艫銜尾進,鼓而噪,定方將步騎夾引,直趨真都城。賊傾國來,酣戰,破之,殺虜萬人,乘勝入其郛,王義慈及太子隆北走。定方進圍其城,義慈子泰自立爲王,率眾固守。義慈之孫文思曰:「王與太子出,而叔豈得擅爲王?若王師還,我父子安得全?」遂率左右縋城下,人多從之,泰不能止。定方使士登城,建唐旗幟。於是泰開門請命,其將禰植與義慈降,隆及諸城送款,百濟平,俘義慈、隆、泰等獻東都。

定方が滅ぼした三国は、いずれもその王を生け捕りにし、賞与された珍宝は数えきれず、慶節に尚輦奉御の官を加えた。間もなく、定方は遼東道行軍大総管となり、俄かに平壤道に転じた。浿江において高麗の衆を破り、馬邑山を奪って営とし、遂に平壤を包囲した。大雪に会い、包囲を解いて還った。涼州安集大使に任じられ、吐蕃とばん・吐谷渾を平定せしめた。乾封二年に卒去、七十六歳。帝はこれを悼み、侍臣を責めて言うには、「定方は国に功があった。褒賞し贈官すべきである。汝らが言わぬのは何故か」と。そこで左驍衛大将軍・幽州都督を追贈し、諡して莊といった。

原文定方所滅三國,皆生執其王,賞賚珍寶不勝計,加慶節尚輦奉御。未幾,定方爲遼東道行軍大總管,俄徙平壤道。破高麗之眾於浿江,奪馬邑山爲營,遂圍平壤。會大雪,解圍還。拜涼州安集大使,以定吐蕃、吐谷渾。乾封二年卒,年七十六。帝悼之,責謂侍臣曰:「定方於國有功,當褒贈,若等不言,何邪?」乃贈左驍衛大將軍、幽州都督,謚曰莊。

薛仁貴

原文薛仁貴

薛仁貴は、絳州龍門の人である。若い時は貧賤で、田を業としていた。先祖を改葬しようとした時、妻の柳氏が言うには、「夫には世に優れた才能があるが、時機に遇わなければ発揮されない。今天子が自ら遼東を征し、猛将を求めている。これは得難い時機である。君はどうして功名を図り自らを顕わさないのか。富貴して郷里に還り、葬るのは遅くない」と。仁貴はそこで将軍張士貴の下に往き応募した。

原文薛仁貴,絳州龍門人。少貧賤,以田爲業。將改葬其先,妻柳曰:「夫有高世之材,要須遇時乃發。今天子自征遼東,求猛將,此難得之時,君盍圖功名以自顯?富貴還鄕,葬未晩。」仁貴乃往見將軍張士貴應募。

安地に至り、郎将劉君邛が賊に包囲されたのに会い、仁貴は馳せてこれを救い、賊将を斬り、その首を馬鞍に結びつけると、賊は皆恐れ伏した。これによって名を知られた。王師が安市城を攻めた時、高麗の莫離支が将高延寿らに命じて兵二十万を率いて防戦させ、山に倚って屯を結んだ。太宗は諸将に命じて分かれてこれを撃たせた。仁貴は驍悍を恃み、奇功を立てようと欲し、白衣を着て自らを顕わし、戟を持ち、腰に二つの弓を鞬め、叫びながら馳せ、向かうところ敵なしであった。軍はこれに乗じ、賊は遂に奔り潰えた。帝はこれを見て、使いを馳せて問わせた。「先鋒の白衣の者は誰か」と。「薛仁貴です」と。帝は召し出して見、嗟嘆し異とし、金帛・口馬を甚だ多く賜い、遊撃将軍・雲泉府果毅に任じ、北門長上を命じた。師が還ると、帝は言うには、「朕の旧将は皆老いた。驍勇を抜擢して閫外の事を任せようと思うが、卿に如く者はない。朕は遼東を得たことを喜ばず、皎将を得たことを喜ぶ」と。右領軍中郎将に遷った。

原文至安地,會郎將劉君邛爲賊所圍,仁貴馳救之,斬賊將,系首馬鞍,賊皆懾伏,由是知名。王師攻安市城,高麗莫離支遣將高延壽等率兵二十萬拒戰,倚山結屯,太宗命諸將分擊之。仁貴恃驍悍,欲立奇功,乃著白衣自標顯,持戟,腰鞬兩弓,呼而馳,所向披靡;軍乘之,賊遂奔潰。帝望見,遣使馳問:「先鋒白衣者誰?」曰:「薛仁貴。」帝召見,嗟異,賜金帛、口馬甚眾,授遊擊將軍、雲泉府果毅,令北門長上。師還,帝謂曰:「朕舊將皆老,欲擢驍勇付閫外事,莫如卿者。朕不喜得遼東,喜得皦將。」遷右領軍中郎將。

高宗が萬年宮に行幸した時、山水が暴漲し、夜に玄武門を突いた。宿衛は皆散り走ったが、仁貴は言うには、「天子に緩急ある時、どうして死を恐れられようか」と。そこで門に登って大声で呼び、宮内に警告し、帝は急いで出て高い所に乗った。間もなく水が帝の寝所に入った。帝は言うには、「卿に頼って免れた。始めて忠臣のいることを知った」と。御馬を賜った。

原文高宗幸萬年宮,山水暴至,夜突玄武門,宿衛皆散走,仁貴曰:「當天子緩急,安可懼死?」遂登門大呼,以警宮內,帝遽出乘高。俄而水入帝寢,帝曰:「賴卿以免,始知有忠臣也。」賜以御馬。

蘇定方が賀魯を討った時、仁貴は上疏して言うには、「臣は聞く、兵を出すに名がなければ、事は成らず、その賊たることを明らかにすれば、敵は初めて服すと。今、泥熟は賀魯に仕えず、そのために破られ、妻子を虜にされた。王師の中で賀魯の部落から転じてその家族を得た者は、宜しく悉く取り上げて還し、厚く賞与して送り返すべきです。そうすれば百姓は賀魯の暴虐と陛下の至徳とを知るでしょう」と。帝はこれを容れ、遂にその家族を還し、泥熟は軍に随って死を効さんと請うた。

原文蘇定方討賀魯,仁貴上疏曰:「臣聞兵出無名,事故不成,明其爲賊,敵乃可服。今泥熟不事賀魯,爲其所破,虜系妻子。王師有於賀魯部落轉得其家口者,宜悉取以還,厚加賚遣,使百姓知賀魯爲暴而陛下至德也。」帝納之,遂還其家屬,泥熟請隨軍效死。

顕慶三年、詔して程名振の副として遼東を経略せしめ、高麗を貴端城に破り、斬首三千級。明年、梁建方・契苾何力と高麗の大将温沙多門に遇い、横山に戦い、仁貴独り馳せ入り、射る所皆弦に応じて仆す。又石城に戦い、善射する者有り、官軍十余人を殺す、仁貴怒り、単騎突撃し、賊弓矢俱に廃れ、遂に之を生擒す。俄に辛文陵と契丹を黒山に破り、其の王阿卜固を執りて東都に献ず。左武衛将軍に拝し、河東県男に封ぜらる。

原文顯慶三年,詔副程名振經略遼東,破高麗於貴端城,斬首三千級。明年,與梁建方、契苾何力遇高麗大將溫沙多門,戰橫山,仁貴獨馳入,所射皆應弦仆。又戰石城,有善射者,殺官軍十餘人,仁貴怒,單騎突擊,賊弓矢俱廢,遂生擒之。俄與辛文陵破契丹於黑山,執其王阿卜固獻東都。拜左武衛將軍,封河東縣男。

詔して鄭仁泰の副として鉄勒道行軍総管と為す。将に行かんとし、内殿に宴し、帝曰く「古、善射に七劄を穿つ者有り、卿試みに五甲を以て射よ」と。仁貴一発にして洞貫す、帝大いに驚き、更に堅甲を取って之を賜ふ。時に九姓の衆十余万、驍騎数十を令して来たり挑戦す、仁貴三矢を発し、輒ち三人を殺す、ここに於て虜気慴み、皆降る。仁貴後患と為らんことを慮り、悉く之を坑す。転じて磧北の余衆を討ち、偽葉護兄弟三人を擒えて以て帰る。軍中歌いて曰く「将軍三箭天山を定め、壮士長歌漢関に入る」と。九姓遂に衰ふ。

原文詔副鄭仁泰爲鐵勒道行軍總管。將行,宴內殿,帝曰:「古善射有穿七劄者,卿試以五甲射焉。」仁貴一發洞貫,帝大驚,更取堅甲賜之。時九姓眾十餘萬,令驍騎數十來挑戰,仁貴發三矢,輒殺三人,於是虜氣懾,皆降。仁貴慮爲後患,悉坑之。轉討磧北餘眾,擒偽葉護兄弟三人以歸。軍中歌曰:「將軍三箭定天山,壯士長歌入漢關。」九姓遂衰。

鉄勒に思結・多覧葛等の部有り、先づ天山を保つ、及び仁泰至るや、懼れて降る、仁泰納れず、其の家を虜ひて軍に賞す、賊相率い遁去す。候騎有りて言ふ「虜の輜重畜牧野に被る、往き取り可し」と。仁泰騎万四千を選び甲を巻きて馳せ、大漠を絶ち、仙萼河に至るも、虜を見ず、糧尽きて還る。人飢えて相食ひ、比て塞に入るに、余兵纔に二十の一。仁貴も亦た所部を取って妾と為し、賕遣を多く納れ、有司の劾奏する所と為り、功を以て見原さる。

原文鐵勒有思結、多覽葛等部,先保天山,及仁泰至,懼而降,仁泰不納,虜其家以賞軍,賊相率遁去。有候騎言:「虜輜重畜牧被野,可往取。」仁泰選騎萬四千卷甲馳,絶大漠,至仙萼河,不見虜,糧盡還。人饑相食,比入塞,餘兵纔二十之一。仁貴亦取所部爲妾,多納賕遣,爲有司劾奏,以功見原。

乾封初、高麗の泉男生内附し、将軍龐同善・高偘を遣わして慰納せしむ、弟男建国人を率いて拒み納れず、乃ち詔して仁貴に師を率い同善を援送せしむ。新城に至り、夜虜の襲ふ所と為る、仁貴之を撃ち、数百級を斬る。同善進みて金山に次ぐ、虜に衄れて敢へて前まらず、高麗勝に乗じて進む、仁貴虜を撃ちて二つに断ち、衆即ち潰え、斬馘五千、南蘇・木底・蒼巖の三城を抜き、遂に男生の軍に会す。手詔して労勉す。仁貴鋭を負ひ、卒二千を提げて扶余城を進攻す、諸将兵寡なるを以て勧めて止む。仁貴曰く「善く用ふるに在り、衆に在らず」と。身を帥いて士とし、賊に遇へば輒ち破り、万余人を殺し、其の城を抜き、因りて旁ら海に地を略し、李勣の軍と合す。扶余既に降り、他の四十城相率い款を送り、威遼海に震ふ。詔有りて仁貴に兵二万を率い劉仁軌と平壤を鎮ましむ、本衛大将軍に拝し、平陽郡公に封ぜられ、検校安東都護、治を新城に移す。孤を撫で老を存し、盗賊を検制し、才に随ひて職を任じ、節義を褒崇し、高麗の士衆皆欣然として亡るるを忘る。

原文乾封初,高麗泉男生內附,遣將軍龐同善、高偘往慰納,弟男建率國人拒弗納,乃詔仁貴率師援送同善。至新城,夜爲虜襲,仁貴擊之,斬數百級。同善進次金山,衄虜不敢前,高麗乘勝進,仁貴擊虜斷爲二,眾即潰,斬馘五千,拔南蘇、木底、蒼巖三城,遂會男生軍。手詔勞勉。仁貴負銳,提卒二千進攻扶餘城,諸將以兵寡勸止。仁貴曰:「在善用,不在眾。」身帥士,遇賊輒破,殺萬餘人,拔其城,因旁海略地,與李勣軍合。扶餘既降,它四十城相率送款,威震遼海。有詔仁貴率兵二萬與劉仁軌鎮平壤,拜本衛大將軍,封平陽郡公,檢校安東都護,移治新城。撫孤存老,檢制盜賊,隨才任職,褒崇節義,高麗士眾皆欣然忘亡。

咸亨元年、吐蕃寇に入り、命じて邏娑道行軍大総管と為し、将軍阿史那道真・郭待封を率いて之を撃ち、以て吐谷渾を援けしむ。待封嘗て鄯城鎮守と為り、仁貴と等夷たり、是に及び、其の下に居るを恥じ、頗る節度に違ふ。初め、軍大非川に次ぐ、将に烏海に趨かんとす、仁貴曰く「烏海地険にして瘴有り、吾死地に入る、危道と謂ふ可し、然れども速なれば則ち功有り、遅なれば則ち敗る。今大非嶺寛平、二柵を置く可く、輜重を悉く内め、万人を留めて之を守らしめ、吾倍道して賊の整はざるを掩へば、之を滅ぼさん」と。乃ち賫を約し、河口に至り、賊に遇ひ、之を破り、殺掠多し、牛羊万計を獲る。進みて烏海城に至り、以て後援を待つ。待封初め従はず、輜重を領して踵きて進む、吐蕃衆二十万を率いて邀撃し之を取り、糧仗尽く没し、待封険に保つ。仁貴軍を退けて大非川に至る、吐蕃益々兵四十万を来たり戦ふ、王師大いに敗る。仁貴吐蕃の将論欽陵と和を約し、乃ち還るを得、吐谷渾遂に没す。仁貴嘆じて曰く「今歳庚午に在り、星降婁に在り、事西方に有る応へず、鄧艾の蜀に死する所以、吾固より必ず敗るるを知れり」と。詔有りて死を原ひ、名を除かれて庶人と為す。

原文咸亨元年,吐蕃入寇,命爲邏娑道行軍大總管,率將軍阿史那道真、郭待封擊之,以援吐谷渾。侍封嘗爲鄯城鎮守,與仁貴等夷,及是,恥居其下,頗違節度。初,軍次大非川,將趨烏海,仁貴曰:「烏海地險而瘴,吾入死地,可謂危道,然速則有功,遲則敗。今大非嶺寬平,可置二柵,悉內輜重,留萬人守之,吾倍道掩賊不整,滅之矣。」乃約賫,至河口,遇賊,破之,多所殺掠,獲牛羊萬計。進至烏海城,以待後援。待封初不從,領輜重踵進,吐蕃率眾二十萬邀擊取之,糧仗盡沒,待封保險。仁貴退軍大非川,吐蕃益兵四十萬來戰,王師大敗。仁貴與吐蕃將論欽陵約和,乃得還,吐谷渾遂沒。仁貴嘆曰:「今歳在庚午,星在降婁,不應有事西方,鄧艾所以死於蜀,吾固知必敗。」有詔原死,除名爲庶人。

未だ幾ばくもせず、高麗の余衆叛き、起ちて鶏林道総管と為す。復た事に坐して象州に貶せられ、赦に会ひて還る。帝其の功を思ひ、乃ち召見して曰く「疇歳万年宮にて、卿微くせば、我且に魚と為らんとす。前日九姓を殄し、高麗を破る、爾功居多し。人言ふ向に烏海城下に在りて虜を縱ち撃たず、以て失利に至ると、此れ朕の恨みて疑ふ所なり。今遼西寧かならず、瓜・沙路絶ゆ、卿安んぞ高枕して朕が為に指麾せざるを得んや」と。ここに於て瓜州長史・右領軍衛将軍・検校代州都督に拝し、兵を率いて突厥の元珍を雲州に撃つ。突厥問ひて曰く「唐の将は誰ぞ」と。曰く「薛仁貴なり」と。突厥曰く「吾薛将軍象州に流れて死せりと聞く、安んぞ復た生くを得ん」と。仁貴兜鍪を脱ぎて之を見す、突厥相視みて色を失ひ、馬を下りて羅拜し、稍稍として遁去す。仁貴因りて進撃し、之を大破し、斬首万級、生口三万を獲、牛馬是に称す。

原文未幾,高麗餘眾叛,起爲雞林道總管。復坐事貶象州,會赦還。帝思其功,乃召見曰:「疇歳萬年宮,微卿,我且爲魚。前日殄九姓,破高麗,爾功居多。人有言向在烏海城下縱虜不擊,以至失利,此朕所恨而疑也。今遼西不寧,瓜、沙路絶,卿安得高枕不爲朕指麾邪?於是拜瓜州長史、右領軍衛將軍、檢校代州都督,率兵擊突厥元珍於雲州。突厥問曰:「唐將爲誰?」曰:「薛仁貴。」突厥曰:「吾聞薛將軍流象州死矣,安得復生?」仁貴脫兜鍪見之,突厥相視失色,下馬羅拜,稍稍遁去。仁貴因進擊,大破之,斬首萬級,獲生口三萬,牛馬稱是。

永淳二年卒す、年七十。左驍衛大将軍・幽州都督を贈られ、官に輿を給し、喪を護りて郷里に還す。

原文永淳二年卒,年七十。贈左驍衛大將軍、幽州都督,官給輿,護喪還鄕里。

仁貴の子 訥

原文仁貴子 訥

子訥、字は慎言、城門郎を起家し、藍田令に遷る。富人倪氏息銭を訟ふるに肅政臺に於て、中丞来俊臣賕を受け、義倉の粟数千斛を発して之を償ふ。訥曰く「義倉本水旱に備ふ、安んぞ衆人の仰ぐを絶ちて一家を私にせん」と。上に報じて與へず。会に俊臣罪を得、亦た止む。

原文子訥,字慎言,起家城門郎,遷藍田令。富人倪氏訟息錢於肅政臺,中丞來俊臣受賕,發義倉粟數千斛償之。訥曰:「義倉本備水旱,安可絶眾人之仰私一家?」報上不與。會俊臣得罪,亦止。

後、突厥河北を擾し、武后訥を世将と為すを以て、詔して左威衛将軍・安東道経略使を摂せしむ。同明殿に対し、具に言ふ「醜虜暴に馮り、廬陵王を以て言に藉す、今雖も東宮に還るも、議堅く信ぜず。若し太子動かずば、賊討たずして解く」と。後其の言を納る。俄に幽州都督・安東都護に遷る。并州長史に改め、検校左衛大将軍。訥久しく辺に処り、戦功有り。開元初、玄宗新豊に武を講じ、詔して訥を左軍節度と為す。時に諸部頗る序を失ふ、唯だ訥と解琬の軍動かず。帝軽騎を令して之を召す、軍門に至るも、入るを得ず。礼成りて、尤も慰労せらる。

原文後突厥擾河北,武后以訥世將,詔攝左威衛將軍、安東道經略使。對同明殿,具言:「醜虜馮暴,以廬陵王藉言,今雖還東宮,議不堅信。若太子無動,賊不討而解。」後納其言。俄遷幽州都督、安東都護。改并州長史,檢校左衛大將軍。訥久處邊,有戰功。開元初,玄宗講武新豐,詔訥爲左軍節度。時諸部頗失序,唯訥與解琬軍不動。帝令輕騎召之,至軍門,不得入。禮成,尤見慰勞。

明年、契丹・奚・突厥連和し、数へて辺に入る、訥建議して討つを請ふ、詔して監門将軍杜賓客・定州刺史崔宣道をして訥と衆二万を帥ひて檀州より出ださしむ。賓客議す「方に暑く、士戈を負ひ糧を贏けて深く討つは、恐らく功無からんことを慮る」と、姚元崇も亦た不可と持す、訥独り曰く「夏草薦茂り、羔犢方に息み、饋饟を費やさずして盗資に因り、国威霊を振ふ、失ふ可からず」と。天子方に威を四夷に誇らんと欲し、奇功を喜び、乃ち訥の言を聴き、而して紫微黄門三品を授けて以て之を重んず。師灤河に至り、賊と遇ふ、諸将約の如くせず、虜の覆はるる所と為り、其の軍を尽く亡す。訥身を脱して走り、而して宣道及び大将李思敬等八人を罪し、詔有りて斬りて以て徇し、独り賓客免れ、訥の官爵を尽く奪ふ。

原文明年,契丹、奚、突厥連和,數入邊,訥建議請討,詔監門將軍杜賓客、定州刺史崔宣道與訥帥眾二萬出檀州。賓各議「方暑,士負戈贏糧深討,慮恐無功」,姚元崇亦持不可,訥獨曰:「夏草薦茂,羔犢方息,不費饋饟因盜資,振國威靈,不可失也。」天子方欲誇威四夷,喜奇功,乃聽訥言,而授紫微黃門三品以重之。師至灤河,與賊遇,諸將不如約,爲虜覆,盡亡其軍。訥脫身走,而罪宣道及大將李思敬等八人,有詔斬以徇,獨賓客免,盡奪訥官爵。

間もなく吐蕃の大酋長坌達延・乞力徐らが兵十万を率いて臨洮を寇し、蘭州に入り、牧馬を掠奪した。詔して訥に白衣のまま羽林将軍を摂せしめ、隴右防禦使と為し、王晙と共にこれを撃たしめた。賊に追い及び、武階驛で戦い、犄角の勢いでこれを脅かし、その衆を破った。北に尾けて洮水に至り、また長城堡で戦い、数万を殺鹵し、その酋長六指鄕彌洪を擒らえ、掠奪したもの及び仗械を悉く収め、その数は計り知れなかった。時に帝は自ら北伐を将いようとしていたが、訥の大勝により、遂に行軍を止めた。紫微舍人倪若水を命じて即時に軍中に赴き功績の状況を昇進させ、訥を左羽林大将軍に拝し、再び平陽郡公に封じ、子の暢を朝散大夫とした。また涼州鎮軍大総管を授け、赤水・建康・河源の辺州は皆その節度に隷属させた。間もなく朔方行軍大総管となった。久しくして、老齢を以て致仕した。卒す。年七十二。太常卿を贈られ、謚して昭定と曰う。

原文俄而吐蕃大酋坌達延、乞力徐等眾十萬寇臨洮,入蘭州,剽牧馬,詔訥白衣攝羽林將軍,爲隴右防禦使,與王晙擊之。追及賊,戰武階驛,犄角劫之,破其眾;尾北至洮水,又戰長城堡,殺鹵數萬,擒其酋六指鄕彌洪,悉收所掠及仗械不貲。時帝欲自將北伐,及訥大克,乃止行。命紫微舍人倪若水即軍陟功狀,拜訥左羽林大將軍,復封平陽郡公,以子暢爲朝散大夫。又授涼州鎮軍大總管,赤水、建康、河源邊州皆隸節度。俄爲朔方行軍大總管。久之,以老致仕。卒,年七十二,贈太常卿,謚曰昭定。

訥は性質沈勇にして寡言、その兵を用いるに、大敵に臨むに益々壮なり。

原文訥性沈勇寡言,其用兵,臨大敵益壯。

訥の弟 楚玉

原文訥弟 楚玉

弟楚玉は、開元中に范陽節度使せつどしとなり、職務を果たさずして廃された。子の嵩を生む。

原文弟楚玉,開元中爲范陽節度使,以不職廢。生子嵩。

楚玉の子 嵩

原文楚玉子 嵩

嵩は燕・薊の間に生まれ、気概豪邁にして、産利に事えることを肯んぜず、膂力と騎射を以て自ら将とした。安祿山の乱に与し、晩年は史朝義に仕えて相州を守った。仆固懐恩が朝義を破り、河朔に長駆すると、嵩は震懼し、軍門に迎えて拝した。懐恩はこれを釈放し、検校刑部尚書・相衛洺邢等州節度使に奏した。大乱の後であったため、人々もまた禍を厭い、嵩は謹んで職務を奉じ、頗る治名があった。大暦初め、高平郡王に封ぜられ、実封二百戸、その軍を昭義と号した。検校尚書右僕射に遷り、更に平陽に封ぜられた。七年に卒す。太保を贈られた。

原文嵩生燕、薊間,氣豪邁,不肯事產利,以膂力騎射自將。豫安祿山亂,晩爲史朝義守相州。仆固懷恩破朝義,長驅河朔,嵩震懼,迎拜軍門,懷恩釋之,奏爲檢校刑部尚書、相衛洺邢等州節度使。方大亂後,人亦厭禍,嵩謹奉職,頗有治名。大歷初,封高平郡王,實封二百戸,號其軍爲昭義。遷檢校尚書右僕射,更封平陽。七年卒,贈太保。

詔してその弟㟧に留後事を知らしめ、累進して検校太子少師を加えられた。十年、その将裴誌清に逐われ、兵を率いて田承嗣に帰した。㟧は洺州に奔った。入朝を請い、銀臺門に降服して罪を待ち、赦された。そこでその地を分ち、嵩の族子の択を相州刺史とし、雄を衛州刺史とし、堅を洺州刺史とした。承嗣は雄を誘って乱を起こさせようとしたが、従わず、客を遣わしてこれを刺殺させた。

原文詔其弟㟧知留後事,累加檢校太子少師。十年,爲其將裴誌清所逐,以兵歸田承嗣。㟧奔洺州。請入朝,降服待罪銀臺門,赦之。乃分其地,以蒿族子擇爲相州刺史,雄衛州刺史,堅洺州刺史。承嗣誘雄亂,不從,遣客刺殺之。

初め、嵩は蹴踘を好んだ。隠士劉鋼がこれを止めるよう勧めて曰く、「楽しみは甚だ衆し、何ぞ危険に乗じて晷刻の歓びを邀えんや」と。嵩は悦び、その形を図って座右に置いた。嵩の子は平。

原文初,嵩好蹴踘,隱士劉鋼勸止曰:「爲樂甚眾,何必乘危邀晷刻歡?」嵩悅,圖其形坐右。嵩子平。

嵩の子 平

原文嵩子 平

平は字を坦途といい、十二歳で磁州刺史となった。父の喪に服すと、軍吏が故事に依って留務を知るよう脅したが、偽ってこれを許し、後に㟧に譲り、夕べに喪を以て帰った。累進して右衛将軍を授けられ、宿衛三十年を経た。宰相杜黄裳がこれを抜擢して汝州刺史とし、治績に風采があった。王師が蔡を討つに当たり、左龍武大将軍より鄭滑節度使を授けられ、数戦して功があった。初め、黄河が瓠子で溢れ、東に滑を泛び、城に距ること僅か二里ばかりであった。平は故道を按じて黎陽の西南に出ることを求め、そこでその佐の裴弘泰を遣わして魏博節度使田弘正に請わせたところ、弘正はこれを許した。そこで民田で当たる所を籍に取り、他の地と換え、二十里の道を疏浚し、以て水の悍さを釃し、河南に壖田七百頃を還した。これより滑人は患い無し。入って左金吾衛大将軍となった。間もなく、再び鄭滑を帥いた。

原文平字坦途,年十二,爲磁州刺史。父喪,軍吏以故事脅知留務,偽許之,已而讓㟧,夕以喪歸。累授右衛將軍,宿衛三十年。宰相杜黃掌擢爲汝州刺史,治有風績。王師討蔡,繇左龍武大將軍授鄭滑節度使,數戰有功。始,河溢瓠子,東泛滑,距城才二里所。平按求故道出黎陽西南,因命其佐裴弘泰往請魏博節度使田弘正,弘正許之。乃籍民田所當者易以它地,疏道二十里,以釃水悍,還壖田七百頃於河南,自是滑人無患。入爲左金吾衛大將軍。未幾,復帥鄭滑。

李師道が平らげられると、詔して淄・青・齊・登・萊の五州を分けて平盧軍と為し、平を徙めて節度使とした。王庭湊が牛元翼を囲み、棣州が危うくなると、詔して平に出援せしめた。平は将の李叔佐に兵二千を率いて往かせたが、刺史王稷の饋餉が陋狹であったため、衆は潰れて帰り、突将の馬士端を推して帥と為し、屯する兵士一万人を劫い、州の堞に迫った。城中の兵は寡く、平は公帑と家財を悉くして鋭卒二千を募り迎え戦い、奇兵を以て賊の輜重を掩い、賊は狼顧し、遂に大敗して降り、余党は平らげられた。謀乱した者二千人を引き出して堂皇の下で斬り、脅従した者は皆放ちて田里に還した。威は一方を震わせた。詔して検校尚書右僕射に遷し、魏国公に封ぜられた。鎮すること六年、兵鎧は完礪し、徭賦は均一であった。宝暦初め、入朝するに、民が路を遮り留まらんことを願い、数日を経て出で得た。検校司空・河中降隰節度使を拝し、再び晉・慈二州を隷属させ、兵三千を増やした。検校司徒に進み、更に韓に封ぜられ、太子太保を召し拝された。司徒を以て致仕した。卒す。年八十。太傅を贈られた。

原文李師道平,詔分淄、青、齊、登、萊五州爲平盧軍,徙平爲節度使。王庭湊圍牛元翼,棣州危,詔平出援。平遣將李叔佐率兵二千往,刺史王稷饋餉陋狹,眾潰而歸,推突將馬士端爲帥,劫屯士萬人,薄州堞。城中兵寡,平悉公帑家貲募銳卒二千迎戰,以奇兵掩賊輜重,賊狼顧,遂大敗,降,餘黨平。引謀亂者二千人斬堂皇下,脅從皆縱還田里,威震一方。詔遷檢校尚書右僕射,封魏國公。在鎮六年,兵鎧完礪,徭賦均一。寶歷初,入朝,民鄣路願留,數日得出。拜檢校司空、河中降隰節度使,復得隸晉、慈二州,益兵三千。進檢校司徒,更封韓召拜太子太保。以司徒致仕。卒,年八十,贈太傅。

平の子 從

原文平子 從

子の從は、字を順之といい、廕を以て左清道率府兵曹参軍を授かり、累遷して汾州刺史となり、文谷・濾河の二水に堤を築き、引いて公私の田を溉ぎ、汾人はこれを利した。濮州に徙り、粟二万斛を儲えて凶災に備えた。時に山東に大水があり、詔して右司郎中趙傑を賑恤使と為すと、傑はその才を表し、将作監に擢でられた。終わりに左領軍衛上将軍。工部尚書を贈られた。

原文子從,字順之,以廕授左清道率府兵曹參軍,累遷汾州刺史,隄文谷、濾河二水,引溉公私田,汾人利之。徙濮州,儲粟二萬斛以備凶災。於是山東大水,詔右司郎中趙傑爲賑恤使,傑表其才,擢將作監。終左領軍衛上將軍。贈工部尚書。

程務挺

原文程務挺

程務挺は、洺州平恩の人である。父の名振は、隋の大業末、竇建德に仕えて普楽令となり、盗賊は境を跡付けなかった。間もなく賊を棄てて自ら帰順し、高祖は詔して永寧令を授け、兵を率いて河北を経略せしめた。即ち夜に鄴県を襲い、男女千余人を俘虜として帰った。数舍を去り、乳を飲ませている婦人九十余人を閲してこれを還した。鄴人はその仁に感じた。劉黒闥が洺州を陥落させると、名振は刺史陳君賓と共に自ら抜けて帰ったが、母と妻は賊に捕らえられた。名振は衆千余を率い、冀・貝・滄・瀛等州を掠め、糧道を邀え撃ち、賊の水陸の餉具を悉く毀った。黒闥は怒り、その母と妻を殺した。賊が平らぐと、手ずから黒闥を斬り、その首を以て母を祭ることを請うた。営州長史に拝し、東平郡公に封ぜられ、物二千段・黄金三百両を賜った。洺州刺史に転じた。太宗が遼東を征するに当たり、方略を召し問うたが、旨に合わなかった。帝は勃然としてこれを詰ったが、名振の弁対は益々詳しく、帝の意は解け、左右に謂って曰く、「房玄齢は常に朕の前に在りて、朕が余人を嗔るを見れば、色も主たること能わず。名振は生平朕を識らず、一旦誚譲するに、辞吐屈せず、奇士なるかな」と。右驍衛将軍・平壤道行軍総管を拝した。沙卑城を攻め、独山陣を破るに、皆少を以て衆を撃ち、名将と号された。営州都督に遷り、東夷都護を兼ねた。貴端水で高麗を撃ち、その新城を焚いた。晉・蒲二州刺史、鏤方道総管を歴任した。卒す。右衛大将軍を贈られ、謚して烈と曰う。

原文程務挺,洺州平恩人。父名振,隋大業末,仕竇建德爲普樂令,盜不跡境。俄棄賊自歸,高祖詔授永寧令,使率兵經略河北,即夜襲鄴縣,俘男女千餘人以歸,去數舍,閱婦人方乳者九十餘人,還之,鄴人感其仁。劉黑闥陷洺州,名振與刺史陳君賓自拔歸,母妻爲賊所得。名振率眾千餘,掠冀、貝、滄、瀛等州,邀擊糧道,悉毀賊水陸餉具。黑闥怒,殺其母妻。賊平,請手斬黑闥,以其首祭母。拜營州長史,封東平郡公,賜物二千段、黃金三百兩。轉洺州刺史。太宗征遼東,召問方略,不合旨,帝勃然詰之,名振辯對益詳,帝意解,謂左右曰:「房玄齡常在朕前,見朕嗔餘人,色不能主。名振生平未識我,一旦誚讓,而辭吐不屈,奇士哉!」拜右驍衛將軍,平壤道行軍總管。攻沙卑城,破獨山陣,皆以少擊眾,號爲名將。遷營州都督,兼東夷都護。擊高麗於貴端水,焚其新城。歷晉、蒲二州刺史,鏤方道總管。卒,贈右衛大將軍,謚曰烈。

務挺は若くして父に従い征討に従軍し、勇力をもって知られ、右領軍衛中郎将に任ぜられた。雲州において突厥の六万騎を破る。時に偽可汗阿史那伏念が叛き、総管李文暕ら三将が次々に敗走した。詔により裴行儉がこれを討ち、務挺を副将とし、検校豊州都督を兼ねた。時に伏念は金牙山に屯し、務挺は副総管唐玄表とともに兵を率いて赴いた。伏念は恐れ、間道を通って行儉に降った。故に裴炎は行儉の功にあらずとし、務挺を右武衛将軍に遷し、平原郡公に封じた。

原文務挺少從父征討,以勇力聞,拜右領軍衛中郎將。破突厥六萬騎於雲州。會偽可汗阿史那伏念叛,總管李文暕等三將以次奔敗。詔裴行儉討之,以務挺副,檢校豐州都督。時伏念屯金牙山,務挺與副總管唐玄表引兵赴之,伏念懼,乃間道降於行儉,故裴炎以爲非行儉功,遷務挺右武衛將軍,封平原郡公。

綏州の部落稽の白鉄餘が城平に拠って叛き、偽号を建て百官を置き、綏徳・大斌を攻め、官吏を殺し、家屋を焼いた。詔により務挺は夏州都督王方翼とともにこれを討ち、務挺は白鉄餘を生け捕りにした。左驍衛大将軍に進み、検校左羽林軍を兼ねる。嗣聖初年、右領軍大将軍張虔勖らとともに中宗を廃し豫王を皇帝に立てることに与り、累ねて褒賞を受けた。左武衛大将軍として単于道安撫大使となり、突厥を防ぐ。務挺は綏撫と防禦に長け、兵士はその威厳と慈愛に服し、突厥はこれを憚り、敢えて辺境を侵さなかった。

原文綏州部落稽白鐵餘據城平叛,建偽號,署置百官,進攻綏德、大斌,殺官吏,火區舍。詔務挺與夏州都督王方翼討之,務挺生擒白鐵餘。進左驍衛大將軍,檢校左羽林軍。嗣聖初,與右領軍大將軍張虔勖等豫廢中宗、立豫王爲皇帝,累被褒賚。以左武衛大將軍爲單于道安撫大使,禦突厥。務挺善綏禦,士服其威愛,突厥憚之,不敢盜邊。

裴炎が獄に下ると、務挺は密かに上表してその冤罪を申し立てた。また平素より唐之奇・杜求仁と親しくしていたため、或る者が務挺が炎及び徐敬業と密かに結託していると上言した。後に左鷹揚将軍裴紹業を遣わし、軍中においてこれを斬り、その家を没収した。突厥は務挺の死を聞き、相率いて慶賀し、祠を立て、毎度出師するごとに必ず祈った。

原文裴炎下獄,務挺密表申治,又素與唐之奇、杜求仁善,或言務挺與炎及徐敬業潛相援結,後遣左鷹揚將軍裴紹業即軍中斬之,籍其家。突厥聞務挺死,率相慶,爲立祠,每出師,輒禱焉。

王孝傑

原文王孝傑

王孝傑は京兆新豊の人である。若くして軍功により進んだ。儀鳳年中、劉審禮が吐蕃を討つに当たり、孝傑は副総管として大非川で戦い、虜に捕らえられた。贊普(吐蕃王)がこれを見て、「その貌は我が父に似ている」と言い、故に死なせず、帰した。武后の時、右鷹揚衛将軍となった。孝傑は虜中に長く居たので、その虚実を悉く知っていた。長寿元年、武威道総管となり、阿史那忠節とともに吐蕃を討ち、亀茲・于闐・疏勒・碎葉等の城を陥れた。武后は言った、「貞観年中、西境は四鎮にあり、その後よく守らず、これを吐蕃に棄てた。今、故土ことごとく復し、これは孝傑の功である」と。乃ち左衛大将軍に遷す。夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品に進み、清源県男に封ぜられる。證聖初年、再び朔方道総管となり、吐蕃と戦って利あらず、免官された。

原文王孝傑,京兆新豐人。少以軍功進。儀鳳中,劉審禮討吐蕃,孝傑以副總管戰大非川,爲虜執,贊普見之,曰「貌類吾父」,故不死,歸之。武后時,爲右鷹揚衛將軍。孝傑居虜中久,悉其虛實。長壽元年,爲武威道總管,與阿史那忠節討吐蕃,克龜茲、于闐、疏勒、碎葉等城。武后曰:「貞觀中,西境在四鎮,其後不善守,棄之吐蕃。今故土盡復,孝傑功也。」乃遷左衛大將軍。進夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品,清源縣男。證聖初,復爲朔方道總管,與吐蕃戰不利,免。

時に契丹の李盡忠らが叛き、詔により白衣(無官)の身から清辺道総管に起用され、兵十八万を率いてこれを討った。軍は東硤石谷に至り、賊と遭遇する。道は隘く虜は衆し。孝傑は鋭兵を率いて先駆け、谷を出て陣を整え、賊と戦った。然るに後軍総管蘇宏暉がその軍を退かせ、援軍は至らず、虜の攻撃を受け、軍は潰え、孝傑は谷に堕ちて死に、兵士は互いに踏み躙られて尽きた。初め、平州に進軍した時、白鼠が昼間に営屯に侵入して伏した。皆が「鼠は坎の精、胡の象なり、白質は命に帰す、天の亡ぼす兆しなり」と言った。戦いにおいて、乃ち孝傑が覆されたのである。時に張説が管記として還り状況を報告した。後に問うと、説は詳しく陳べた、「孝傑は心を国家に尽くし、敢えて深く入り、少をもって衆に当たり、敗れたりとはいえ、その功は記録すべきです」と。乃ち夏官尚書・耿国公を追贈し、その子無択を朝散大夫とした。使者を遣わして宏暉を斬らせようとしたが、使者が未だ到らぬうちに宏暉は既に功を立てたので、遂に罪を贖わせた。

原文會契丹李盡忠等叛,有詔起白衣爲清邊道總管,將兵十八萬討之。軍至東硤石谷,與賊接。道隘虜眾,孝傑率銳兵先驅,出谷整陣,與賊戰,而後軍總管蘇宏暉以其軍退,援不至,爲虜所乘,軍潰,孝傑墮谷死,士相蹂且盡。初,進軍平州,白鼠晝入營屯伏。皆謂「鼠坎精,胡象也,白質歸命,天亡之兆」。及戰,乃孝傑覆焉。時張説以管記還白狀,後問之,説具陳:「孝傑乃心國家,敢深入,以少當眾,雖敗,功可録也。」乃贈夏官尚書、耿國公,以其子無擇爲朝散大夫。遣使者斬宏暉,使未至而宏暉已立功,遂贖罪。

唐璿

原文唐璿

唐璿は字を休璟といい、字をもって行われる。京兆始平の人である。曾祖父の規は後周の驃騎大将軍であった。休璟は幼くして孤となり、馬嘉運に『易』を授かり、賈公彦に『礼』を伝えられ、明経科に高第で及第した。呉王府典簽となり、改めて営州戸曹参軍となった。時に突厥が奚・契丹を誘って叛いたので、都督周道務が兵を休璟に授け、独護山においてこれを破り、斬獲多く、朔州長史に遷った。

原文唐璿,字休璟,以字行,京兆始平人。曾祖規,爲後周驃騎大將軍。休璟少孤,授《易》於馬嘉運,傳《禮》於賈公彥,舉明經高第。爲呉王府典簽,改營州戸曹參軍。會突厥誘奚、契丹叛,都督周道務以兵授休璟,破之於獨護山,數馘多,遷朔州長史。

永淳年中、突厥が豊州を囲み、都督崔智辯が戦死した。朝廷は豊州を棄て霊・夏を保つことを議した。休璟は不可とし、上疏して言った、「豊州は河を控え寇を扼し、襟帯と号せられ、秦・漢以来、常に郡県と為してきた。土田は良美にして、耕牧に適す。隋末の喪乱に、堅守できず、乃ち寧・慶に遷就したため、戎羯が利に乗じて交侵し、始めて霊・夏を辺境と為した。唐初、人を募ってこれを実らせ、西北の一隅は完固を得た。今これを廃すれば、則ち河傍の地は再び賊の有するところとなり、霊・夏も亦自ら安んずるに足らず、国家の利にあらず」と。高宗はその言に従った。垂拱年中、安西副都護に遷る。時に吐蕃が焉耆を破り、安息道大総管韋待価らが敗れたので、休璟はその潰亡を収拾し、以て西土を安定させ、霊州都督を授けられた。乃ち方略を陳べ、四鎮の回復を請うた。武后が王孝傑を遣わして亀茲等の城を抜いたのは、休璟の提唱によるものであった。

原文永淳中,突厥圍豐州,都督崔智辯戰死,朝廷議棄豐保靈、夏。休璟以爲不可,上疏曰:「豐州控河遏寇,號爲襟帶,自秦、漢以來,常郡縣之。土田良美,宜耕牧。隋季喪亂,不能堅守,乃遷就寧、慶,戎羯得以乘利而交侵,始以靈、夏爲邊。唐初,募人以實之,西北一隅得以完固。今而廢之,則河傍地復爲賊有,而靈、夏亦不足自安,非國家利也。」高宗從其言。垂拱中,遷安西副都護。會吐蕃破焉耆,安息道大總管韋待價等敗,休璟收其潰亡,以定西土,授靈州都督。乃陳方略,請復四鎮。武后遣王孝傑拔龜茲等城,自休璟倡之。

聖暦年中、涼州都督・右粛政御史大夫・持節隴右諸軍副大使を授けられた。吐蕃の大将曲莽布支が騎兵数万を率いて涼州に寇し、洪源谷に入った。休璟は兵数千を率いて高みに臨みこれを望み、賊の旗鎧の鮮明なるを見て、麾下に謂って言った、「吐蕃は欽陵が死し、贊婆が降って以来、莽布支は新たに兵を将い、武を示さんと欲し、且つその下は皆、貴臣酋豪の子弟なり。騎は精なりといえども、戦に習わず。吾れ諸君の為にこれを取らん」と。乃ち甲を被り先に登り、六戦して皆克ち、二将を斬り、首級二千五百を獲て、京観を築いて還った。吐蕃が和を請うて来た。宴の席で、使者が屡々休璟を窺った。後に問うと、答えて言った、「洪源の戦いにおいて、この将軍が多く我が士卒を殺し、その勇は比類なし。今、識らんことを願う」と。后は嗟嘆し、右武威・金吾二衛大将軍に抜擢した。

原文聖歷中,授涼州都督、右肅政御史大夫、持節隴右諸軍副大使。吐蕃大將曲莽布支率騎數萬寇涼州,入洪源谷,休璟以兵數千臨高望之,見賊旗鎧鮮明,謂麾下曰:「吐蕃自欽陵死,贊婆降,莽布支新將兵,欲以示武,且其下皆貴臣酋豪子弟,騎雖精,不習戰,吾爲諸君取之。」乃被甲先登,六戰皆克,斬二將,獲首二千五百,築京觀而還。吐蕃來請和,既宴,使者屢覘休璟,後問焉,對曰:「洪源之戰,是將軍多殺臣士卒,其勇無比,今願識之。」後嗟異,擢爲右武威、金吾二衛大將軍。

西突厥の烏質勒が諸蕃との和を失い、兵を挙げて相攻い、安西道は閉ざされた。武后は詔して休璟に宰相と計議させたが、少しも躊躇せず、施行すべきことを図示した。既にして辺州より屯置を建請し、ことごとく休璟の策の如くであった。后は言った、「卿を用いるのが遅かったことを恨む」と。夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品に進拝された。后は楊再思・李嶠・姚元崇らを誚って言った、「休璟は辺事に通暁しているが、卿ら輩は十もその一に当たらない」と。太子右庶子に改め、仍って政事を知る。

原文西突厥烏質勒失諸蕃和,舉兵相攻,安西道閉。武后詔休璟與宰相計議,不少選,畫所當施行者。既而邊州建請屯置,盡如休璟策。後曰:「恨用卿晩。」進拜夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品。後誚楊再思、李嶠、姚元崇等曰:「休璟諫知邊事,卿輩十不當一。」改太子右庶子,仍知政事。

時に契丹が塞内に入り、再び夏官尚書として検校幽営等州都督・安東都護を兼ねた。時に中宗が皇太子であった。休璟が行かんとするに当たり、進み啓して言った、「易之兄弟は恩寵過幸にして、数えしばしば禁閫に入るは、人臣の宜しくすべきところにあらず。願わくは防察を加えられんことを」と。帝が復位すると、召して輔国大将軍・同中書門下三品・酒泉郡公を授け、謂って言った、「初め公を召して事を計らんと欲したが、北狄の憂いありし。前日の直言、今なお忘れず」と。特進・尚書右僕射を加えられ、邑戸三百を賜り、宋国公に封ぜられた。

原文會契丹入塞,復以夏官尚書檢校幽營等州都督、安東都護。時中宗爲皇太子,休璟將行,進啟曰:「易之兄弟恩寵過幸,數入禁閫,非人臣所宜,願加防察。」帝復位,召授輔國大將軍、同中書門下三品、酒泉郡公。謂曰:「初欲召公計事,以有北狄憂,前日直言,今未忘也。」加特進、尚書右僕射,賜邑戸三百,封宋國公。

この年、大水があり、上疏して自らを劾して免官を請うたが、許されなかった。累遷して検校吏部尚書となった。景龍二年に致仕した。未だ幾ばくもなく、再び起用されて太子少師・同中書門下三品となり、国史の監修を兼ねた。景雲初年、特進として朔方行軍大総管となり、突厥に備えた。旧封を停め、別に百戸を賜る。明年、再び老を請い、一品の全禄を与えられた。延和元年に卒す。八十六歳。荊州大都督を追贈され、諡して忠といった。

原文是歳大水,上疏自劾免,不許。累遷檢校吏部尚書。景龍二年致仕。未幾,復起爲太子少師、同中書門下三品,監脩國史。景雲初,以特進爲朔方行軍大總管,備突厥;停舊封,別賜百戸。明年,復請老,給一品全祿。延和元年卒,年八十六,贈荊州大都督,謚曰忠。

休璟は儒者として兵を知ることを以て号し、碣石より四鎮を越え、その間綿々たる地幾万裏、山川夷坦にして、障塞の要、皆能くこれを言う、故に行師料敵未だ嘗て敗れず。初め封を得て、賦絹数千を以て散じて其の族を賙い、又財数十万を出して大いに塋墓を為し、尽く其の五服の親を葬り、当時称重せらる。惟だ張仁愿の議、受降城を築くを以てし、而して休璟独り不可と謂い、卒に之を就く、而して漠南虜患無し。初めて老い、已に八十を逾え、猶権近に托倚して復用を求む。是に於いて賀婁尚宮方に用事し、附する者輒ち栄赫なり、休璟乃ち子をして其の義女を娶らしむ、故に復た宰相を起し、頗る時に譏訾せらる。其の国に当たり、亦た它に毘益無しと云う。

原文休璟以儒者號知兵,自碣石逾四鎮,其間綿地幾萬里,山川夷坦,障塞之要,皆能言之,故行師料敵未嘗敗。初得封,以賦絹數千散赒其族,又出財數十萬大爲塋墓,盡葬其五服親,當時稱重。惟張仁愿議築受降城,而休璟獨謂不可,卒就之,而漠南無虜患。始老,已逾八十,猶托倚權近求復用。於是賀婁尚宮方用事,附者輒榮赫,休璟乃爲子娶其義女,故復起宰相,頗爲時譏訾。其當國,亦無它毘益云。

子先慎は陳州刺史に至り、先択は右金吾衛将軍となる。

原文子先慎至陳州刺史,先擇爲右金吾衛將軍。

張仁愿

原文張仁愿

張仁愿は、華州下邽の人なり。本名は仁亶、睿宗の諱いみな音近きを以て之を避く。文武の材有り。武后の時、累遷して殿中侍御史となる。御史郭弘霸なる者、後を称して乃ち弥勒仏身なりとし、又鳳閣舎人張嘉福・王慶之武承嗣を以て皇太子と為さんことを請い、仁愿を邀いて章を聯ねしむ、仁愿正色して之を拒ぐ。後王孝傑吐刺軍総管と為り、吐蕃と戦いて利あらず、仁愿其の軍を監し、因りて入りて状を言う、孝傑坐して免ぜられ、仁愿を擢て侍御史とす。

原文張仁愿,華州下邽人。本名仁亶,以睿宗諱音近避之。有文武材。武后時,累遷殿中侍御史。御史郭弘霸者,稱後乃彌勒佛身,又鳳閣舍人張嘉福、王慶之請以武承嗣爲皇太子,邀仁愿聯章,仁愿正色拒之。後王孝傑爲吐刺軍總管,與吐蕃戰不利,仁愿監其軍,因入言狀,孝傑坐免,擢仁愿侍御史。

万歳通天中、監察御史孫承景清辺軍を監し、戦い還り、自ら先鋒矢石に当たる状を図す。武后嘆じて曰く、「御史乃ち能く是の如くか!」と。右粛政台御史中丞に擢て、詔して仁愿に即ち其の麾下の功を叙せしむ。仁愿先ず承景に破敵の曲折を問う、承景実に行わず、問う所皆窮す。仁愿劾奏して承景の上を罔くし、虜級を虚列するを以てす。崇仁令に貶し、仁愿を以て代わり中丞と為し、幽州都督を検校す。

原文萬歳通天中,監察御史孫承景監清邊軍,戰還,自圖先鋒當矢石狀。武后嘆曰:「御史乃能如是乎!」擢爲右肅政臺中丞,詔仁愿即敘其麾下功。仁愿先問承景破敵曲折,承景實不行,所問皆窮。仁愿劾奏承景罔上,虛列虜級。貶爲崇仁令,以仁愿代爲中丞,檢校幽州都督。

默啜趙・定を寇し、還りて塞を出づ、仁愿兵を以て之を邀う、賊引き去り、矢其の手に著く、武后使いを遣わして労問し、薬を賜いて註傅せしむ。并州都督長史に遷る。神龍中、左屯衛大将軍に進み、兼ねて洛州長史を検校す。会に穀貴多く盗有り、仁愿一切捕殺し、胔府門に積み、畿甸震懾し、敢えて犯す者無し。是に先だち、賈敦頤嘗て長史と為り、政績有り、時人為之に語りて曰く、「洛に前賈後張有り、京兆三王に敵す」と。

原文默啜寇趙、定,還出塞,仁愿以兵邀之,賊引去,矢著其手,武后遣使勞問,賜藥註傅。遷并州都督長史。神龍中,進左屯衛大將軍,兼檢校洛州長史。會谷貴多盜,仁愿一切捕殺,胔積府門,畿甸震懾,無敢犯。先是,賈敦頤嘗爲長史,有政績,時人爲之語曰:「洛有前賈后張,敵京兆三王。」

三年、朔方軍総管沙咤忠義突厥に敗れ、詔して仁愿に御史大夫を摂せしめて之に代わらしむ。既に至れば、賊已に去り、兵を引いて踵き撃ち、夜其の営を掩い、之を破る。初め、朔方軍と突厥河を以て界と為し、北崖に拂雲祠有り、突厥毎に辺を犯すに、必ず先ず祠に謁し禱解し、然る後兵を料りて度りて南す。時默啜悉く兵をして西に突騎施を撃たしむ、仁愿虚に乗じて漠南の地を取ることを請い、河北に於いて三受降城を築き、虜の南寇の路を絶たんことを。唐休璟以て為すに「両漢以来皆北に河を守る、今城を虜の腹中に築けば、終に為す所有るに至らん」と。仁愿固く請い、中宗之に従う。表して歳満の兵を留めて以て功を助けしむ、咸陽の兵二百人逃れて帰る、仁愿之を擒え、尽く城下に斬り、軍中股慄し、役者尽力し、六旬にして三城就く。拂雲を以て中城と為し、南は朔方に直し、西城は南は霊武に直し、東城は南は楡林に直し、三壘相距ること各四百餘里、其の北皆大磧なり、地を斥けて三百里にして遠し。又牛頭朝那山の北に烽候千八百所を置く。是より突厥敢えて山を逾えて馬を牧わず、朔方益々寇無く、歳に費を損すること億計り、鎮兵数万を減ず。初め三城を建つるに、壅門・曲敵・戦格を置かず。或いは曰く、「辺城に守備無くば、可か」と。仁愿曰く、「兵は攻取を貴び、退守を賤しむ。寇至れば、当に力を併せて出でて拒ぐべし、敢えて回りて城を望む者は斬る、何事ぞ守備を為さん、退きて其の心を忸ねしめんや」と。後常元楷代わりて総管と為り、初めて壅門を築き、議者益々仁愿を重んじて元楷を軽んず。

原文三年,朔方軍總管沙咤忠義爲突厥所敗,詔仁愿攝御史大夫代之。既至,賊已去,引兵踵擊,夜掩其營,破之。始,朔方軍與突厥以河爲界,北崖有拂雲祠,突厥每犯邊,必先謁祠禱解,然後料兵度而南。時默啜悉兵西擊突騎施,仁愿請乘虛取漠南地,於河北築三受降城,絶虜南寇路。唐休璟以爲「兩漢以來皆北守河,今築城虜腹中,終爲所有」。仁愿固請,中宗從之。表留歳滿兵以助功,咸陽兵二百人逃歸,仁愿擒之,盡斬城下,軍中股栗,役者盡力,六旬而三城就。以拂雲爲中城,南直朔方,西城南直靈武,東城南直榆林,三壘相距各四百餘里,其北皆大磧也,斥地三百里而遠。又於牛頭朝那山北置烽候千八百所。自是突厥不敢逾山牧馬,朔方益無寇,歳損費億計,減鎮兵數萬。初建三城也,不置壅門、曲敵、戰格。或曰:「邊城無守備,可乎?」仁愿曰:「兵貴攻取,賤退守。寇至,當並力出拒,敢回望城者斬,何事守備,退忸其心哉!」後常元楷代爲總管,始築壅門,議者益重仁愿而輕元楷。

景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品を拝し、韓国公に封ぜらる。春還朝し、秋復た軍を督して辺を備え、帝為に詩を賦して道を祖し、賞賚貲すべからず。鎮軍大将軍に遷る。睿宗立ち、乃ち致仕す。兵部尚書を加えられ、祿を稟して全く給す。開元二年卒し、太子少保を贈らる。

原文景龍二年,拜左衛大將軍、同中書門下三品,封韓國公。春還朝,秋復督軍備邊,帝爲賦詩祖道,賞賚不貲。遷鎮軍大將軍。睿宗立,乃致仕。加兵部尚書,稟祿全給。開元二年卒,贈太子少保。

仁愿将と為り、号令厳しく、将吏信伏し、辺を按じ師を撫すに、賞罰必ず功罪を直す。後人之を思い、為に祠を立て受降城に、出師輒ち享く。宰相文武兼ぬる者、当時李靖・郭元振・唐休璟・仁愿を称す云う。朔方に在りて、奏して御史張敬忠・何鸞・長安尉寇泚・鄠尉王易従・始平主簿劉体微を用いて分って軍事を総べしめ、太子文学柳彦昭を管記と為し、義烏尉晁良貞を随機と為し、皆著称し、後大官に至り、世仁愿の人を知るを名づく。子之輔は、趙州刺史に至る。

原文仁愿爲將,號令嚴,將吏信伏,按邊撫師,賞罰必直功罪。後人思之,爲立祠受降城,出師輒享焉。宰相文武兼者,當時稱李靖、郭元振、唐休璟、仁愿云。在朔方,奏用御史張敬忠、何鸞、長安尉寇泚、鄠尉王易從、始平主簿劉體微分總軍事,太子文學柳彥昭爲管記,義烏尉晁良貞爲隨機,皆著稱,後至大官,世名仁愿知人。子之輔,至趙州刺史。

張敬忠は、監察御史より累遷して吏部郎中となり、開元七年平盧節度使を拝す。

原文張敬忠,自監察御史累遷吏部郎中,開元七年拜平盧節度使。

王晙

原文王晙

王晙は、滄州景城の人、後に洛陽に徙る。父行果は、長安尉と為り、知名なり。晙少くして孤、学を好む。祖有方之を奇とし、曰く、「是の子当に吾が宗を興すべし」と。長じて豪曠、銜検の事を為すを楽しまず。明経第を擢て、初め清苑尉に調え、歴りて殿中侍御史を除く。会に朔方元帥魏元忠賊を討ちて利あらず、劾奏して副将韓思忠の敗るるを以てす、律当に誅すべし。晙以て「思忠は偏裨、権已に制せず、且つ其の人勇智惜むべし、宜しく独り誅すべからず」とし、固く争い、釈るるを得、晙亦た出でて渭南令と為る。

原文王晙,滄州景城人,後徙洛陽。父行果,爲長安尉,知名。晙少孤,好學。祖有方奇之,曰:「是子當興吾宗。」長豪曠,不樂爲銜檢事。擢明經第,始調清苑尉,歷除殿中侍御史。會朔方元帥魏元忠討賊不利,劾奏副將韓思忠敗,律當誅。晙以「思忠偏裨,權不己制,且其人勇智可惜,不宜獨誅」,固爭,得釋,晙亦出爲渭南令。

景龍末、桂州都督を授かる。州に兵有り、旧常に衡・永に餉を仰ぐ。晙初めて羅郛を築き、戍卒を罷め;江を埭し、屯田数千頃を開き、以て転漕を息め、百姓之に頼る。後帰りて上冢を求め、州人闕に詣りて留む。詔有りて曰く、「桂往に寇暴に罹り、戸口雕{疒齊}す、宜しく即ち留まり、以て政の成るを須つべし」と。桂に在ること期年を逾え、人丐うて石を刻み徳を頌せんことを。初め、劉幽求封州に放たれ、広州都督周利貞必ず之を殺さんと欲し、道晙の出す所に出づ、晙其の故を知り、留めて遣わさず。利貞書を移して督趣す、幽求懼れて曰く、「勢い且つ全うし難く、正に君を累すを恐る、奈何」と。晙曰く、「公の坐するは、朋友の絶つ所に非ず。晙在り、終に忍びず公の罪無くして死に就かしむるを」と。俄に崔湜等誅せられ、幽求復た政を執り、故に詔して幽求に刻石の辞を為さしむ。鴻臚少卿に遷り、朔方軍副大総管・安北大都護を充し、豊安・安遠等城並びに節度を授かる。太僕少卿・隴右群牧使に進む。

原文景龍末,授桂州都督。州有兵,舊常仰餉衡、永。晙始築羅郛,罷戍卒;埭江,開屯田數千頃,以息轉漕,百姓賴之。後求歸上冢,州人詣闕留。有詔:「桂往罹寇暴,戸口雕{疒齊},宜即留,以須政成。」在桂逾期年,人丐刻石頌德。初,劉幽求放封州,廣州都督周利貞必欲殺之,道出晙所,晙知其故,留不遣。利貞移書督趣,幽求懼曰:「勢且難全,正恐累君,奈何?」晙曰:「公之坐,非朋友所絶。晙在,終不忍公無罪就死。俄崔湜等誅,幽求復執政,故詔幽求爲刻石辭。遷鴻臚少卿,充朔方軍副大總管、安北大都護,豐安、安遠等城並授節度。進太僕少卿、隴右群牧使。

開元二年、吐蕃精甲十万を以て臨洮を寇し、大来谷に次ぎ、其の酋坌達延兵を以て踵きて前にす。晙率いる所部二千と臨洮軍と合し、奇兵七百を料り、胡服に易え、夜襲い、賊を去ること五里、令して曰く、「前是れ寇なり、士大呼し、鼓角之に応ぜよ」と。賊驚き、疑うらくは伏旁に在りと、自ら相闘い死する者万計り。俄にして薛訥武階に至り、大来を距ること二十里、賊両軍の間に陣し、互に一舍にして近し。晙往きて訥を迎え、夜壮士をして枚を銜ましめて鏖突せしめ、虜駭き引き去り、洮水に追い至り、之を敗り、俘獲積むが如し。功を以て銀青光禄大夫・清源県男を加えられ、原州都督を兼ぬ;子珽を以て朝散大夫と為す。又并州都督長史に進む。

原文開元二年,吐蕃以精甲十萬寇臨洮,次大來谷,其酋坌達延以兵踵而前。晙率所部二千與臨洮軍合,料奇兵七百,易胡服,夜襲,去賊五里,令曰:「前是寇,士大呼,鼓角應之。」賊驚,疑伏在旁,自相鬥死者萬計。俄而薛訥至武階,距大來二十里,賊陣兩軍間,互一舍而近。晙往迎訥,夜使壯士銜枚鏖突,虜駭引去,追至洮水,敗之,俘獲如積。以功加銀青光祿大夫、清源縣男,兼原州都督;以子珽爲朝散大夫。又進并州都督長史。

翌年、突厥の默啜が拔曳固に殺され、その配下多く降伏し、河曲に分置された。やがて小殺が降伏を継ぐと、降伏者は次第に叛き去った。王晙が上言して曰く、

原文明年,突厥默啜爲拔曳固所殺,其下多降,分置河曲。既而小殺繼降,降者稍稍叛去。晙上言:

突厥は向こうにおいて国乱あり、故に塞に款き、部落と隔て無し。延いて素より北風を望み、何ぞ嘗て之を忘れんや。今河曲に徙り処し、内に辺の罅を伺わしむれば、久しからずして必ず患いとならん。比者、要約を受けず、兵已に屡動し、擅に烽区を作り、障を閉じて行李を妨ぐ。虜脱して南牧せば、降帳必ず連衡して、以て相応接し、表裏敵有り、韓信・彭越・孫武・呉起と雖も、功を成す所無からん。農隙に至り、朔方軍に大いに兵を陳べしめ、酋豪を召し、禍福を告げ、金繒を啗わし、且つ南方の麋鹿魚米の饒なるを言い、併せて淮右・河南の寛郷に遷置し、之に程糧を与えよ。一時の労と雖も、然れども二十年ならずして、漸く諸華に服し、料って以て兵に充てば、則ち皆勁卒なり。議者若し降狄を以て南に処すべからずと謂わば、則ち高麗の旧俘は沙漠の西に置き、城傍の編夷は青・徐の右に居る、何ぞ独り降胡の徙すべからざるや、と。

原文突厥向以國亂,故款塞,與部落無間也。延素北風,何嘗忘之?今徙處河曲,使內伺邊罅,久必爲患。比者不受要約,兵已屢動,擅作烽區,閉障行李。虜脫南牧,降帳必與連衡,以相應接,表裏有敵,雖韓、彭、孫、呉,無所就功。請至農隙,令朔方軍大陳兵,召酋豪,告以禍福,啗以金繒,且言南方麋鹿魚米之饒,並遷置淮右、河南寬鄕,給之程糧。雖一時之勞,然不二十年,漸服諸華,料以充兵,則皆勁卒。議者若謂降狄不可以南處,則高麗舊俘置沙漠之西,城傍編夷居青、徐之右,何獨降胡不可徙歟?

臣復た料るに、議者は必ず曰く、「故事、河曲に置く、前日已に寧し、今独り異なる無し」と。且つ往者頡利破亡し、辺鄙安定せし故に、降戸以て久安を得たり。今虜未だ殄滅せず、此の降人皆戚属なり、固より往年と同じからず。臣三策を以て之を料らんことを請う。其の部落を悉く内地に置き、精兵の実を獲、黠虜の患を閉ざす、此れ上策なり。亭障の下、蕃華参処し、広く屯戍し、備擬と為し、費甚だ人を労す、下策なり。之を胡塞に置き、禍萌を滋成す、此れ策無きなり。然らずんば、前に河冰に至り、且つ必ず変有らん、と。

原文臣復料議者必曰:「故事,置於河曲,前日已寧,今無獨異。」且往者頡利破亡,邊鄙安定,故降戸得以久安。今虜未殄滅,此降人皆戚屬,固不與往年同已。臣請以三策料之:悉其部落置內地,獲精兵之實,閉黠虜之患,此上策也;亭障之下,蕃華參處,廣屯戍,爲備擬,費甚人勞,下策也;置之胡塞,滋成禍萌,此無策也。不然,前至河冰,且必有變。

書未だ報いずして、虜已に叛く。乃ち王晙に勅し、并州の兵を将いて河を済みて討たしむ。晙間行し、甲を巻き幕を舎て山谷に趨く。夜雪に遇い、期を失わんことを恐れ、神に誓いて曰く、「晙君に事えて忠を以てせず、罪有るを討たずんば、天の殛する所、当に自ら罰を蒙るべし、士衆に罪無し。心誠に忠にして、而して天之を監みたまわば、則ち雪を止め風を反らし、以て成功を奨めよ」と。俄にして和霽す。時に叛胡二道に分かれて走る。晙東道より自ら追いて之に及び、級三千を獲る。功を以て左散騎常侍・朔方行軍大総管に遷る。御史大夫に改む。趯跌部及び仆固都督勺磨等、散じて受降城の鄙に保ち、潜かに突厥を引きて内擾す。晙密かに上に言い、尽く誘いて之を誅す。兵部尚書を拝し、復た朔方軍大総管と為る。

原文書未報,而虜已叛,乃敕晙將并州兵濟河以討。晙間行,卷甲舍幕趨山谷,夜遇雪,恐失期,誓於神曰:「晙事君不以忠,不討有罪,天所殛者,當自蒙罰,士眾無罪。心誠忠,而天監之,則止雪反風,以獎成功。」俄而和霽。時叛胡分二道走,晙自東道追及之,獲級三千。以功遷左散騎常侍、朔方行軍大總管。改御史大夫。趯跌部及仆固都督勺磨等散保受降城之鄙,潛引突厥內擾,晙密言上,盡誘而誅之。拜兵部尚書,復爲朔方軍大總管。

九年、蘭池胡の康待賓、長泉に拠りて反し、六州を陥す。詔して郭知運に王晙とともに討平せしむ。清源公に封じ、一子に官す。玄宗、宮人を以て知運等に賜う。晙独り敢えて取らず、曰く、「臣の君に事うるは、猶子の父に事うるが如し、詎んぞ常に近く囲掖に侍りて臣子敢えて当たらんや。誓って死を以て免れん」と。聴かる。初め、晙奏して曰く、「朔方の兵力余り有り、願わくは知運を罷め、独り戍を当たらしめよ」と。未だ報いずして、知運至る。故に協わず。晙の降附せしむる所、知運輒ち縱撃す。賊、晙の己を売るを意い、乃ち復た叛く。晙坐して梓州刺史に貶せらる。太子詹事・中山郡公に改む。吏部尚書・太原尹に進む。張説に代わりて兵部尚書・同中書門下三品と為り、朔方軍節度大使を充て、河北・河西・隴右・河東の軍尽く属す。是の冬、帝親しく郊り、大礼に追会す。晙、冰壮を以て、将兵を留めて辺を待たしむるを請う。手勅して慰勉す。会うところ人有り、許州刺史王喬の謀反を告ぐ。辞、晙に逮う。詔して源乾曜・張説に雑訊せしむ。状無し。党与を以て蘄州刺史に貶せらる。定州に遷る。復た戸部尚書を以て朔方軍節度使と為る。卒す。尚書左丞相を贈られ、謚して忠烈と曰う。

原文九年,蘭池胡康待賓據長泉反,陷六州,詔郭知運與晙討平之。封清源公,官一子。玄宗以宮人賜知運等,晙獨不敢取,曰:「臣之事君,猶子事父,詎有常近圍掖而臣子敢當乎?誓死以免。」見聽。初,晙奏:「朔方兵力有餘,願罷知運,獨當戍。」未報,而知運至,故不協。晙所降附,知運輒縱擊,賊意晙賣己,乃復叛。晙坐貶梓州刺史。改太了詹事、中山郡公。進吏部尚書、太原尹。代張説爲兵部尚書、同中書門下三品,充朔方軍節度大使,河北、河西、隴右、河東之軍盡屬。是冬,帝親郊,追會大禮,晙以冰壯,請留將兵待邊,手敕慰勉。會有人告許州刺史王喬謀反,辭逮晙,詔源乾曜、張説雜訊,無狀,以黨與貶蘄州刺史。遷定州。復以戸部尚書爲朔方軍節度使。卒,贈尚書左丞相,謚曰忠烈。

晙、気貌偉特にして、時に熊虎の相と謂わる。節義を感慕し、古人の風有り。其の下を操るに肅壹にして、吏人畏愛す。始め、二張の魏元忠を誣うるに、晙独り上疏して申治す。宋璟曰く、「魏公全うせり、子再び逆鱗に触る、其れ殆からんか」と。晙曰く、「魏公、忠を以て罪を得たり。苟くも弁え得ば、死すと雖も悔い無し」と。

原文晙氣貌偉特,時謂爲熊虎相。感慕節義,有古人風。其操下肅壹,吏人畏愛。始,二張之誣魏元忠,晙獨上疏申治。宋璟曰:「魏公全矣,子再觸逆鱗,其殆乎!」晙曰:「魏公以忠獲罪,茍得辨,雖死弗悔。」

晙卒したる後、信安王李祎、幽州において奚を討ち、捷を奏し、且つ言う、「戦時、士咸く晙と部将高昭の兵を麾いて敵に赴くを見たり」と。天子嗟異す。戸部郎中陽伯成上疏し、晙の墓を封じ、之を表異し、其の子孫を優するを請う。帝乃ち使者を遣わし晙の廟を祭り、諸子の官を進む。

原文晙卒後,信安王祎討奚於幽州,各捷,且言「戰時,士咸見晙與部將高昭麾兵赴敵」,天子嗟異。戸部郎中陽伯成上疏,請封晙墓,表異之,優其子孫。帝乃遣使祭晙廟,進諸子官。

史評

原文史評

贊して曰く、「唐の能く夷荒を威振し、封域を斥大する所以の者は、亦た虎臣有りて之が牙距と為るなり。師行数千万里に至り、窮討殊鬥し、其の国を獵取すること鹿豕の如くするは、謂う可し、選んで其の才に値うや、と。夫れ宰相は天に代わりて物を秩し、化を燮えて人神とす、惟だ徳有る者之に宜し。若し唐休璟・張仁愿、用いて以て丞弼と為さば、強いて其の不能をせざるに非ずや。功名の地に据うれば、則ち綽綽たり、と。

原文贊曰:「唐所以能威振夷荒、斥大封域者,亦有虎臣爲之牙距也。至師行數千萬里,窮討殊鬥,獵取其國由鹿豕然,可謂選值其才歟!夫宰相代天秩物,燮化人神,惟有德者宜之。若休璟、仁愿,用以丞弼,非強所不能邪?據功名之地,則綽綽矣。