新唐書

巻一百一十 列傳第三十五 諸夷蕃將 諸夷蕃將 史大柰 馮盎 阿史那社爾 阿史那忠 執失思力 契苾何力子:明 黑齒常之

巻一百一十 列傳第三十五 諸夷蕃將 諸夷蕃將 史大柰 馮盎 阿史那社爾 阿史那忠 執失思力 契苾何力子:明 黑齒常之

史大柰

原文史大柰

史大柰は、元来西突厥とっけつの特勒(テギン)であり、処羅可汗と共に隋に入り、煬帝に仕えた。遼東征伐に従軍し、功労を重ねて金紫光禄大夫となった。後にその部衆を楼煩に分置した。

原文史大柰,本西突厥特勒也,與處羅可汗入隋,事煬帝。從伐遼,積勞為金紫光祿大夫。後分其部於樓煩。

高祖が太原で挙兵すると、大柰は配下の衆を率いてその麾下に属した。桑顕和が飲馬泉で戦い、諸軍が退却した時、大柰は精鋭の騎兵数百をもって顕和の背後を撃ち、これを破り、軍勢は奮い立った。光禄大夫を授けられた。長安平定に従い、功績が多かったため、帛五千匹を賞賜され、史の姓を賜った。秦王(李世民)に従って薛挙・王世充・竇建徳・劉黒闥を平定し、功績は格別で、前後合わせて侍女三人・雑彩一万段を賜った。貞観初年、累進して右武衛大将軍に昇り、検校豊州都督を兼ね、竇国公に封ぜられ、食封三百戸を与あずかえられた。死去すると、輔国大将軍を追贈された。

原文高祖興太原,大柰提其眾隸麾下。桑顯和戰飲馬泉,諸軍卻,大柰以勁騎數百背擊顯和,破之,軍遂振。授光祿大夫。從平長安,以多,賞帛五千匹,賜姓史。從秦王平薛舉、王世充、竇建德、劉黑闥,功殊等,積前後賜侍女三、雜彩萬段。貞觀初,擢累右武衛大將軍,檢校豐州都督,封竇國公,食封戶三百。卒,贈輔國大將軍。

馮盎

原文馮盎

馮盎は、字あざなを明達といい、高州良徳の人である。元は北燕の馮弘の裔孫である。馮弘は国を挙げて魏に降ることができず、高麗に亡命し、子の馮業に三百人を率いさせ海を渡って晋に帰順させた。馮弘が滅んだ後、馮業は番禺に留まり、孫の馮融の代に至り、梁に仕えて羅州刺史となった。子の馮宝は、越の大姓である洗氏の娘を妻に迎え、遂に首領となり、本郡の太守を授けられ、馮盎に至って三代目であった。

原文馮盎,字明達,高州良德人,本北燕馮弘裔孫。弘不能以國下魏,亡奔高麗,遣子業以三百人浮海歸晉。弘已滅,業留番禺,至孫融,事梁為羅州刺史。子寶,聘越大姓洗氏女為妻,遂為首領,授本郡太守,至盎三世矣。

隋の仁寿初年、馮盎は宋康県令であった時、潮州・成州など五州の獠が反乱を起こした。馮盎は京師に馳せ参じ、討伐を請うた。文帝は左僕射楊素に命じて賊の情勢を論議させたところ、楊素は彼を異才と認め、「蛮夷の中にこのような人物が生まれるとは思わなかった」と言った。直ちに詔を下して馮盎に江・嶺の兵を発して賊を討たせ、平定させ、漢陽太守に任じた。煬帝の遼東征伐に従い、左武衛大将軍に遷った。隋が滅ぶと、嶺表に逃れ帰り、酋長たちを嘯集し、五万の衆を有した。番禺・新興の賊帥高法澄・洗宝徹らは林士弘の指揮を受け、官吏を殺害した。馮盎は兵を率いてこれを撃破した。宝徹の兄の子、名は智臣、また兵を集めて抗戦した。馮盎が進軍討伐し、両軍がまさに合戦せんとした時、馮盎は甲冑を脱ぎ捨てて大呼した、「お前たちは私を知っているか」。衆は戈を捨て、肌を脱いで拝礼し、賊は潰走した。宝徹・智臣らを生け捕りにし、遂に番禺・蒼梧・朱崖の地を領有し、総管を自称した。ある者が馮盎に勧めて言うには、「隋末に崩壊し、海内は震動騒然、唐は天命に応じたが、教化はまだ行き渡らず、嶺南越地は帰属する所がない。公は二十州を平定し、数千里の地を有し、名位が正されていない。南越王の号を称せられよ」。馮盎は言った、「私は越の地に五代住み、州牧・方伯は我が一姓のみ、子女玉帛は私が有している。人生の富貴は、私のように稀である。常に祖先の業を辱めることを恐れているのに、なお自ら王を称することができようか」。

原文隋仁壽初,盎為宋康令,潮、成等五州獠叛,盎馳至京師,請討之。文帝詔左僕射楊素與論賊形勢,素奇之,曰:「不意蠻夷中乃生是人!」即詔盎發江、嶺兵擊賊,平之,拜漢陽太守。從煬帝伐遼東,遷左武衛大將軍。隋亡,奔還嶺表,嘯署酋領,有眾五萬。番禺、新興名賊高法澄、洗寶徹等受林士弘節度,殺官吏,盎率兵破之。寶徹兄子曰智臣,復聚兵拒戰,盎進討,兵始合,輒釋胄大呼曰:「若等識我耶?」眾委戈,袒而拜,賊遂潰,擒寶徹、智臣等,遂有番禺、蒼梧、硃崖地,自號總管。或說盎曰:「隋季崩蕩,海內震騷,唐雖應運,而風教未孚,嶺越無所系屬。公克平二十州,地數千里,名位未正,請南越王號。」盎曰:吾居越五世矣,牧伯惟我一姓,子女玉帛吾有也,人生富貴,如我希矣。常恐忝先業,尚自王哉?」

武徳五年、初めて領地を以て降伏した。高祖はこれを高・羅・春・白・崖・儋・林・振の八州に分け、馮盎に上柱国・高州総管を授け、越国公に封じた。その子の智戴を春州刺史に、智彧を東合州刺史に任じた。馮盎は耿国公に転封された。貞観初年、ある者が馮盎が反逆したと告げた。馮盎は兵を挙げて境を守った。太宗は右武衛将軍藺暮に詔して江淮の甲卒を発し、討伐させようとした。魏徴が諫めて言うには、「天下は初めて平定され、戦乱の傷はまだ癒えず、大兵の後、疫病がまさに発生しようとしている。かつ王者の兵は蛮夷のために動かすべきではなく、勝っても武勇とはならず、勝たなければ辱めとなる。かつ馮盎は天下未定の時に州県を攻略し、遠方の夷を動揺させなかった。今、四海は既に平らかであるのに、なお何事があろうか。反逆の形跡がないならば、徳を以て懐柔すべきである。馮盎は恐れ、必ず自ら来朝するであろう」。帝は散騎常侍韋叔諧を遣わして馮盎を諭させた。馮盎は智戴を入朝させ侍衛させた。帝は言った、「魏徴の一言は、十万の軍勢に勝る」。時に藺暮の軍は既に出発しており、功績を立てようとし、副将を遣わして馮盎が攻撃可能な状況を上奏したが、帝は許さず、兵を引き揚げさせた。

原文武德五年,始以地降,高祖析為高、羅、春、白、崖、儋、林、振八州,授盎上柱國、高州總管,封越國公。拜其子智戴為春州刺史,智彧為東合州刺史。盎徙封耿。貞觀初,或告盎叛,盎舉兵拒境。太宗詔右武衛將軍藺暮發江淮甲卒將討之,魏征諫曰:「天下初定,創夷未復,大兵之余,疫癘方作,且王者兵不宜為蠻夷動,勝之不武,不勝為辱。且盎不及未定時略州縣,搖遠夷,今四海已平,尚何事?反未狀,當懷之以德,盎懼,必自來。」帝乃遣散騎常侍韋叔諧喻盎,盎遣智戴入侍。帝曰:「征一言,賢於十萬眾。」時暮兵已出,欲遂有功,遣副將上盎可擊狀,帝不許,罷之。

五年、馮盎が来朝し、宴席と賜物は甚だ厚かった。まもなく羅州・竇州の諸洞の獠が反乱した。詔して馮盎に衆二万を率いて諸軍の先鋒とならしめた。賊は険阻な地に拠って攻め難かった。馮盎は弩を手に取り左右の者に言った、「矢が尽きれば、勝負は決するであろう」。七矢を放って七人を斃し、賊は退走した。馮盎は兵を放ってこれを追撃し、千余級を斬首した。帝は智戴に帰省させて慰労させ、賞賜は数え切れず、奴婢は一万人に及んだ。馮盎は善政を行い、帳簿を精査し、奸悪を摘発して、民の歓心を得た。死去すると、左驍衛大将軍・荊州都督を追贈された。

原文五年,盎來朝,宴賜甚厚。俄而羅、竇諸洞獠叛,詔盎率眾二萬為諸軍先鋒。賊據險不可攻,盎持弩語左右曰:「矢盡,勝負可知矣。」發七矢斃七人,賊退走,盎縱兵乘之,斬首千余級。帝詔智戴還慰省,賞予不可計,奴婢至萬人。盎善為治,閱簿最,擿奸伏,得民歡心。卒,贈左驍衛大將軍、荊州都督。

子は三十人、智戴が著名である。勇猛にして謀略があり、衆を撫で慰め、士卒に死力を尽くさせ、酋帥たちも皆喜んで彼に属した。かつて父に従って洛陽に至り、配下の精鋭兵を率いて宿衛した。煬帝が弑逆されると、配下を率いて逃れ帰った。当時、盗賊が多く、嶺の山路は絶えていた。智戴は転戦しながら前進した。高源に至ると、俚の帥が脅して謀主とならせようとしたが、ちょうど馮盎が到着し、智戴は馮盎と共に去ることができた。後に朝廷に入ると、帝は労いと賜物を一等加えて与え、衛尉少卿を授けた。彼が兵術に長けていると聞き、雲を指して問うた、「下に賊がいるが、今、撃つことができるか」。答えて言うには、「雲の形が樹のようであり、方角は辰(東南東)で、五行は金に当たる。金は鋭利で木は柔らか、撃てば勝ちます」。帝はその答えを奇とした。累進して左武衛将軍となった。死去すると、洪州都督を追贈された。

原文子三十人,智戴知名,勇而有謀,能撫眾,得士死力,酋師皆樂屬之。嘗隨父至洛陽,統本部銳兵宿衛。煬帝弒,引其下逃歸。時盜賊多,嶺嶠路絕,智戴轉戰而前。至高源,俚帥脅為謀主,會盎至,智戴得與盎俱去。後入朝,帝勞賜加等,授衛尉少卿。聞其善兵,指雲問曰:「下有賊,今可擊乎?」對曰:「雲狀如樹,方辰在金,金利木柔,擊之勝。」帝奇其對。累遷左武衛將軍。卒,贈洪州都督。

馮盎の族人の子猷は、豪侠として知られた。貞観年間、入朝し、金一船を載せて自ら従えた。高宗の時、御史の許瓘を遣わしてその財産を視察させた。許瓘が洞に至ると、子猷は出迎えず、後に子弟数十人を率い、銅鼓を打ち、盾をかぶり、許瓘を捕らえてその罪を上奏した。帝は急ぎ御史の楊璟を遣わして検問させた。楊璟が到着すると、へりくだった言葉で彼と交わり、罪を許瓘に帰した。子猷は喜び、金二百両・銀五百両を贈った。楊璟は受け取らなかった。子猷は言った、「君がこれを受け取らなければ、また留まって帰ることができなくなる」。楊璟はこれを受け取り、帰朝してその状況を奏上した。帝はそれを納めるよう命じた。

原文盎族人子猷,以豪俠聞。貞觀中,入朝,載金一舸自隨。高宗時,遣御史許瓘視其貲。瓘至洞,子猷不出迎,後率子弟數十人,擊銅鼓、蒙排,執瓘而奏其罪。帝馳遣御史楊璟驗訊。璟至,卑辭以結之,委罪於瓘。子猷喜,遺金二百兩、銀五百兩。璟不受。子猷曰:「君不取此,且留不得歸。」璟受之,還奏其狀,帝命納焉。

阿史那社爾

原文阿史那社爾

阿史那社爾は、突厥の処羅可汗の次子である。十一歳で智勇をもって知られた。拓設(タクシャド)に任ぜられ、磧北に牙を建て、頡利可汗の子の欲谷設と分かれて鉄勒・回紇かいこつ・仆骨・同羅の諸部を統治した。処羅が死去すると、礼に従って哀悼し憔悴した。衆を治めること十年、賦課や徴収を行わなかった。ある者が厚く賦税を課して自らを豊かにするよう勧めたが、答えて言うには、「部落が豊かであれば、私にとっては十分である」。故に首領たちは皆彼を敬愛した。頡利がしばしば兵を用いたが、社爾は諫めたが、聞き入れられなかった。

原文阿史那社爾,突厥處羅可汗之次子。年十一,以智勇聞。拜拓設,建牙磧北,與頡利子欲谷設分統鐵勒、回紇、仆骨、同羅諸部。處羅卒,哀毀如禮。治眾十年,無課斂。或勸厚賦以自奉,答曰:「部落豐余,於我足矣。」故首領鹹愛之。頡利數用兵,社爾諫,弗納。

貞観元年、鉄勒・回紇・薛延陀などが反乱し、馬獵山で欲谷設を破った。社爾はこれを助けて撃ったが、勝てなかった。翌年、残った衆を率いて西に保ち、可汗浮図城に拠った。ちょうど頡利が滅び、西突厥の統葉護可汗もまた死に、奚利必咄陸可汗と泥孰が国を争った。社爾は兵を率いてこれを襲い、その国の半分を得、十余万の衆を有し、乃ち自ら都布可汗と号した。諸部に言うには、「初めに乱を起こして我が国を破ったのは、延陀である。今、私は西方を領有しながら、延陀を平定しなければ、先可汗を忘れることであり、孝ではない。事、もし勝たずとも、死んでも恨みはない」。酋長たちは皆言った、「我々は新たに西方を得たばかりで、留まって撫定する必要がある。今、これを捨てて遠く延陀を撃てば、延陀を捕らえられないうちに、葉護の子孫が再び我が国を奪うであろう」。社爾は従わず、騎兵五万を選び、延陀を磧北で討った。戦いは百日に及び、兵士はその長期を苦にし、次第に潰走した。延陀が攻撃を放つと、大敗し、乃ち逃れて高昌を保った。衆はわずか一万人となり、また西突厥とも不和となり、これにより衆を率いて内属した。

原文貞觀元年,鐵勒、回紇、薛延陀等叛,敗欲谷設於馬獵山,社爾助擊之,弗勝。明年,將余眾西保可汗浮圖城。會頡利滅,西突厥統葉護又死,奚利必咄陸可汗與泥孰爭國,社爾引兵襲之,得其半國,有眾十余萬,乃自號都布可汗。謂諸部曰:「始為亂破吾國者,延陀也,今我據西方,而不平延陀,是忘先可汗,非孝也。事脫不勝,死無恨。」酋長皆曰:「我新得西方,須留撫定。今直棄之,遠擊延陀,延陀未擒,葉護子孫將復吾國。」社爾不從,選騎五萬,討延陀磧北,連兵十旬,士苦其久,稍潰去。延陀縱擊,大敗之,乃走保高昌,眾才萬人,又與西突厥不平,由是率眾內屬。

十年に入朝し、左驍衛大将軍を授けられ、その部衆を霊州に置かせた。衡陽長公主に尚めあわせしめ、駙馬都尉とし、衛戍の屯兵を管轄させた。十四年、交河道行軍総管として高昌を平定した。諸将は皆賞賜を受けたが、社爾は詔を受けていないとして、秋毫も敢えて取らず、別詔を見て、その後で受け取った。また取ったものは皆老弱や古びた物ばかりであった。太宗はその清廉を称え、高昌の宝鈿刀・雑彩千段を賜い、詔して検校北門左屯営を兼ねさせ、畢国公に封じた。遼東征伐に従軍し、流れ矢に当たったが、抜き取って再び戦い、配下の兵士は奮い立って、皆功績を立てた。帰還すると、鴻臚卿を兼ねるよう昇進させた。

原文十年入朝,授左驍衛大將軍,處其部於靈州。詔尚衡陽長公主,為駙馬都尉,典衛屯兵。十四年,以交河道行軍總管平高昌,諸將鹹受賞,社爾以未奉詔,秋毫不敢取,見別詔,然後受,又所取皆老弱陳弊。太宗美其廉,賜高昌寶鈿刀、雜彩千段,詔檢校北門左屯營,封畢國公。從征遼東,中流矢,揠去復戰,所部奮厲,皆有功。還,擢兼鴻臚卿。

二十一年、昆丘道行軍大総管として、契苾何力・郭孝恪・楊弘禮・李海岸等の五将軍とともに、鉄勒十三部及び突厥騎兵十万を発して亀茲を討つ。軍は西突厥に駐屯し、処蜜・処月を撃ちてこれを破る。焉耆の西より進入し、兵を不意に出だせば、亀茲は震恐す。進んで磧石に屯し、伊州刺史韓威は千騎を以て先に進み、右驍衛将軍曹継叔これに次ぐ。多褐城に至る。その王は衆五万を率いて戦を拒ぐ。韓威は偽って退却し、王は兵を悉くして北を逐う。韓威と曹継叔と合し、殊死しゅしの戦をなして、これを大破す。社爾、よって都城を抜く。王は軽騎にて遁走す。社爾は郭孝恪を留めて守らせ、自ら精騎を率いて追躡し、六百里を行く。王は大撥換城に拠り、険を嬰いて自ら固む。社爾は攻むること凡そ四十日、これを陥れ、その王を擒え、併せて五大城を下す。左衛郎将権祗甫を遣わし諸酋長に徇らしめ、禍福を示せば、降る者七十余城、威信を宣諭して、歓服せざるは莫し。石に刻して功を紀し、還る。よって于闐王を説きて入朝せしむ。王は馬畜三百を献じて軍に餉る。西突厥・焉耆・安国は皆争って師を犒う。郭孝恪の軍中に在りしとき、床帷・器用多く金玉を飾り、以て社爾に遺すも、社爾は受けず。帝聞きて曰く、「二将の優劣、復た人に問わず」と。帝崩ず。身を以て殉ぜんことを請い、陵寢を衛わんとす。高宗は許さず。右衛大将軍に遷る。永徽六年に卒す。輔国大将軍・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬す。冢を治めて葱山に象り、謚して元と曰う。

原文二十一年,以昆丘道行軍大總管與契爾何力、郭孝恪、楊弘禮、李海岸等五將軍發鐵勒十三部及突厥騎十萬討龜茲。師次西突厥,擊處蜜、處月,敗之。入自焉耆西,兵出不意,龜茲震恐。進屯磧石,伊州刺史韓威以千騎先進,右驍衛將軍曹繼叔次之。至多褐城,其王率眾五萬拒戰。威陽卻,王悉兵逐北,威與繼叔合,殊死戰,大破之。社爾因拔都城,王輕騎遁。社爾留孝恪守,自率精騎追躡,行六百里。王據大撥換城,嬰險自固。社爾攻凡四十日,入之,擒其王,並下五大城。遣左衛郎將權祗甫徇諸酋長,示禍福,降者七十余城,宣諭威信,莫不歡服。刻石紀功而還。因說於闐王入朝,王獻馬畜三百餉軍,西突厥、焉耆、安國皆爭犒師。孝恪之在軍,床帷器用多飾金玉,以遺社爾,社爾不受。帝聞,曰:「二將優劣,不復問人矣。」帝崩,請以身殉,衛陵寢,高宗不許。遷右衛大將軍。永徽六年卒,贈輔國大將軍、并州都督,陪葬昭陵,治冢象蔥山,謚曰元。

子の道真、左屯衛大将軍を歴任す。咸亨初め、邏娑道副大総管となり、薛仁貴とともに吐蕃とばんを討ちて吐谷渾を援けんとす。論欽陵に敗れ、その兵を尽く失う。詔して有司に状を問わしめ、死を免じて民と為す。

原文子道真,歷左屯衛大將軍。咸亨初,為邏娑道副大總管,與薛仁貴討吐蕃以援吐谷渾,為論欽陵所敗,盡失其兵。詔有司問狀,免死為民。

阿史那忠

原文阿史那忠

阿史那忠は、字を義節といい、蘇尼失の子なり。資性清謹。功により左屯衛将軍に擢でられ、宗室の女定襄県主を尚す。始めて詔して姓を独り史に著わす。父の喪に居り、哀慕人に過ぐ。時に阿史那思摩を立てて突厥可汗と為すに当たり、忠を以て左賢王と為す。塞に出づるに及び、楽しまず、使者を見れば必ず泣き、入侍を請う。許される。薛国公に封ぜられ、右驍衛大将軍に擢でらる。宿衛四十八年、微細なる隙も無し。人これを金日磾に比す。卒すに及び、鎮軍大将軍を贈られ、謚して貞と曰い、昭陵に陪葬す。

原文阿史那忠者,字義節,蘇尼失子也。資清謹。以功擢左屯衛將軍,尚宗室女定襄縣主,始詔姓獨著史。居父喪,哀慕過人。會立阿史那思摩為突厥可汗,以忠為左賢王。及出塞,不樂,見使者必泣,請入侍,許焉。封薛國公,擢右驍衛大將軍。宿衛四十八年,無纖隙,人比之金日磾卒,贈鎮軍大將軍,謚曰貞,陪葬昭陵。

執失思力

原文執失思力

執失思力は、突厥の酋長なり。貞観年中、隋の蕭后を護送して入朝し、左領軍将軍を授かる。時に頡利敗れ、太宗は思力をして渾・斛こく薩部落を諭して降らしめしむ。稍々親近す。帝、苑中にて兎を逐う。思力諫めて曰く、「陛下は四海の父母たり。乃ち自ら軽んずるは、臣窃かにこれを危ぶむ」と。帝その言を異とす。後に復た鹿を逐う。思力は巾帯を脱ぎて固く諫む。帝これに止まる。

原文執失思力,突厥酋長也。貞觀中,護送隋蕭後入朝,授左領軍將軍。會頡利敗,太宗令思力諭降渾、斛薩部落,稍親近。帝逐兔苑中,思力諫曰:「陛下為四海父母,乃自輕,臣竊殆之。」帝異其言。後復逐鹿,思力脫巾帶固諫,帝為止。

遼東を討つに及び、詔して思力をして金山道に屯せしめ、突厥を領して薛延陀を扞がしむ。延陀の兵十万、河南に寇す。思力は羸弱を示し、確戦せず。賊は深く夏州に入るに至りて、乃ち陣を整えてこれを撃ち破り、六百里を追躡す。時に毘伽可汗死す。磧北に兵を耀かして帰る。復た江夏王李道宗に従い、延陀の余衆を破る。吐谷渾を平らぐるに与る。

原文及討遼東,詔思力屯金山道,領突厥扞薛延陀。延陀兵十萬寇河南,思力示羸,不與確,賊深入至夏州,乃整陣擊敗之,追躡六百里。會毘伽可汗死,耀兵磧北而歸。復從江夏王道宗破延陀余眾。與平吐谷渾。

詔して九江公主を尚せしめ、駙馬都尉に拝し、安国公に封ぜらる。房遺愛と交わるに坐し、高宗はその戦功多きを以て、誅せずして赦し、巂州に流す。主は封邑を削りて偕に往かんことを請う。主は先に卒す。龍朔年中、思力を帰州刺史と為す。卒す。麟徳元年、復た公主の封邑とし、思力に勝州都督を贈り、謚して景と曰う。

原文詔尚九江公主,拜駙馬都尉,封安國公。坐交房遺愛,高宗以其戰多,赦不誅,流巂州。主請削封邑偕往。主前卒。龍朔中,以思力為歸州刺史,卒。麟德元年,復公主封邑,贈思力勝州都督,謚曰景。

契苾何力

原文契苾何力

契苾何力は、鉄勒の哥論易勿施莫賀可汗の孫なり。父の葛は、隋末に莫賀咄特勒と為り、地の吐谷渾に近く、狭隘にして多く癘疫えきあるを以て、熱海上に徙る。何力九歳にして孤と為り、大俟利発と号す。

原文契苾何力,鐵勒哥論易勿施莫賀可汗之孫。父葛,隋末為莫賀咄特勒,以地近吐谷渾,隘翾多癘〓曷,徙去熱海上。何力九歲而孤,號大俟利發。

貞観六年、母とともに衆千余を率いて沙州に詣で内属す。太宗はその部を甘・涼二州に処し、何力を左領軍将軍に擢づ。九年、李大亮・薛万徹・万均とともに赤水川にて吐谷渾を討つ。万均は騎兵を率いて先に進み、賊に包囲される。兄弟皆創を受け馬より堕ち、歩戦す。士卒の死する者十の七八。何力は壮騎を馳せ、囲みを冒して奮撃すれば、虜は披靡して去る。この時、吐谷渾王伏允は突淪川に在り。何力はこれを襲わんと欲す。万均は前の敗れを懲りて、以て不可と為す。何力曰く、「賊に城郭無く、薦草美水を逐って以て生と為す。その不虞に乗ぜざれば、正に鳥驚き魚駭くを恐れ、後にはその巣穴を窺うこと無からん」と。乃ち精騎千余を閲し、直ちにその牙を搗ち、首級数千を斬り、橐駝・馬・牛・羊二十余万を獲、その妻子を俘え、伏允は身を挺して免る。詔ありて大鬥抜谷にて軍を労う。万均は名のその下に出づるを恥じ、乃ち何力を排し、功を引きて自ら名と為す。何力は憤りに勝えず、刀を挺て起ち、将にこれを殺さんとす。諸将これを諫めて止む。

原文貞觀六年,與母率眾千余詣沙州內屬,太宗處其部於甘、涼二州,擢何力左領軍將軍。九年,與李大亮、薛萬徹、萬均討吐谷渾於赤水川。萬均率騎先進,為賊所包,兄弟皆中創墮馬,步鬥,士死十七八。何力馳壯騎,冒圍奮擊,虜披靡去。是時吐谷渾王伏允在突淪川,何力欲襲之,萬均懲前敗,以為不可。何力曰:「賊無城郭,逐薦草美水以為生,不乘其不虞,正恐鳥驚魚駭,後無以窺其巢穴。」乃閱精騎千余,直搗其牙,斬首數千級,獲橐駝、馬、牛、羊二十余萬,俘其妻子,伏允挺身免。有詔勞軍於大鬥拔谷。萬均恥名出其下,乃排何力,引功自名。何力不勝憤,挺刀起,將殺之,諸將勸止。

還るに及び、帝その故を責めて謂う。何力は具に万均の敗状を言う。帝怒り、その官を解きて何力に授けんとす。何力頓首して曰く、「臣を以て万均の官を解かば、恐らくは四夷聞く者、陛下の夷を重んじ漢を軽んずるを謂い、則ち誣告益々多からん。又、夷狄は知無く、漢将は皆然りと謂わば、遠方を示すの義に非ず」と。帝その言を重んじ、乃ち止む。詔ありて北門を宿衛し、屯営事を検校せしめ、臨洮県主を尚す。十四年、蔥山道副大総管と為り、高昌を討つに与り、これを平らぐ。

原文及還,帝責謂其故,何力具言萬均敗狀。帝怒,將解其官授何力。何力頓首曰:「以臣而解萬均官,恐四夷聞者,謂陛下重夷輕漢,則誣告益多。又夷狄無知,謂漢將皆然,非示遠之義。」帝重其言,乃止。有詔宿衛北門,檢校屯營事,尚臨洮縣主。十四年,為蔥山道副大總管,與討高昌,平之。

初め、何力の母の姑臧夫人と弟の沙門は涼州に在り。沙門は賀蘭都督と為る。十六年、詔して何力をして母を見に行かしむ。この時、薛延陀の毘伽可汗方に強く、契苾の諸酋争いてこれに附く。乃ちその母・弟を脅して従わしむ。何力驚きてその下に謂いて曰く、「上は爾らに大恩有り、且つ我を厚く遇す。何ぞ遽かに反せんや」と。皆曰く、「可敦・都督去れり。尚お何をか顧みん」と。何力曰く、「弟は往きて侍るは足れり。我は義に国に許す。行くべからず」と。衆これを持し、毘伽の牙下に至る。何力は箕踞し、佩刀を抜きて東に向かい呼ばわって曰く、「唐の烈士、賊延に辱しめられんや。天地日月、吾が志を臨鑒せよ」と。即ち左耳を割き、屈せざるを誓う。毘伽怒り、これを殺さんと欲す。その妻諫めて止む。何力の執えられたるや、或る者これを讒って帝に曰く、「何力の延陀に入るは、涸れたる魚の水を得るが如し。その脱するや必ず遽かならん」と。帝曰く、「然らず。若し人心鉄石の如くならば、殆ど我に背かざるべし」と。時に使者至りて状を言う。帝は泣下す。即ち詔して兵部侍郎崔敦礼に節を持たしめ、延陀に公主を尚すことを許し、因って何力を求めしむ。乃ち還るを得。右驍衛大将軍を授かる。公主の行くに日有り。何力は不可を陳ず。帝曰く、「天子に戯言無し。既にこれを許せば、如何ともすべからず」と。何力曰く、「礼に親迎有り。詔を宣して毘伽をして身を京師に到らしめ、或いは霊武に詣らしむべし。彼は我を畏るれば、必ず来らず。則ち姻、成らず。而して憂憤して出ずる所を知らず、下必ず携貳す。一年に及ばずして、交いに疑沮す。毘伽は素より狼戾なれば、必ず死す。死すれば則ち二子国を争う。内に判わかれ外に携われば、戦わずして擒うべし」と。帝これ然りとす。毘伽果たして敢えて迎えず、郁邑として志を得ず、恚りて死す。少子の抜酌、その庶兄の突利失を殺して自ら立ち、国中乱る。その策の如し。

原文始,何力母姑臧夫人與弟沙門在涼州,沙門為賀蘭都督。十六年,詔何力往視母。於是薛延陀毘伽可汗方強,契苾諸酋爭附之,乃脅其母、弟使從。何力驚謂其下曰:「上於爾有大恩,且遇我厚,何遽反?」皆曰:「可敦、都督去矣,尚何顧?」何力曰:「弟往侍足矣,我義許國,不可行。」眾執之,至毘伽牙下。何力箕踞,拔佩刀東向呼曰:「有唐烈士受辱賊延邪?天地日月,臨鑒吾誌。」即割左耳,誓不屈。毘伽怒,欲殺之,其妻諫而止。何力被執也,或讒之帝曰:「何力入延陀如涸魚得水,其脫必遽。」帝曰:「不然。若人心如鐵石,殆不背我。」會使至言狀,帝泣下。即詔兵部侍郎崔敦禮持節許延陀尚主,因求何力,乃得還。授右驍衛大將軍。公主行有日,何力陳不可。帝曰:「天子無戲言,既許之,叵奈何?」何力曰:「禮有親迎,宣詔毘伽身到京師,或詣靈武。彼畏我,必不來,則姻不成,而憂憤不知所出,下必攜貳,不及一年,交相疑沮。毘伽素狼戾,必死,死則二子爭國。內判外攜,不戰而擒矣。」帝然之。毘伽果不敢迎,郁邑不得誌,恚而死,少子拔酌殺其庶兄突利失自立,國中亂,如其策雲。

帝が高麗を征伐するに当たり、詔して何力を前軍総管と為す。白崖城に至り、賊の槊に中り、創甚だしく、帝自ら薬を傅う。城を抜き、何力を刺した者高突勃を得る。騶使して自ら之を殺さしむるに、辞して曰く、「彼其の主の為に、白刃を冒して臣を刺す、此れ義士なり。犬馬すら猶其の養いを報ず、況んや人においてをや」と。遂に之を赦す。俄にして昆丘道総管を以て亀茲を平らぐ。帝崩じ、身を以て殉ぜんと欲す。高宗諭して止む。

原文帝征高麗,詔何力為前軍總管。次白崖城,中賊槊,創甚,帝自為傅藥。城拔,得刺何力者高突勃,騶使自殺之,辭曰:「彼為其主,冒白刃以刺臣,此義士也。犬馬猶報其養,況於人乎?」卒舍之。俄以昆丘道總管平龜茲。帝崩,欲以身殉,高宗諭止。

永徽年中、西突厥の阿史那賀魯、処月・処蜜・姑蘇・歌邏祿・卑失の五姓を以て叛き、延州を寇し、金嶺を陥とし蒲類を略す。詔して何力を弓月道大総管と為し、左武衛大将軍梁建方を率い、秦・成・岐・雍及び燕然都護の回紇兵八万を統べて之を討たしむ。処月の酋長硃邪孤註、遂に招慰使果毅都尉単道惠を殺し、牢山に拠りて守る。何力等数道に兵を分かち、崖を攀ぢて上り、急ぎ之を攻む。賊大いに潰え、孤註夜遁す。軽騎を以て窮く躡ひ、五百里を行き、孤註戦死す。虜の渠帥きょすい六十人を獲、俘斬万余、牛馬雑畜七万を獲、処蜜の時健俟斤・合支賀等を取って以て帰る。左驍衛大将軍に遷り、郕国公に封ぜらる。

原文永徽中,西突厥阿史那賀魯以處月、處蜜、姑蘇、歌邏祿、卑失五姓叛,寇延州,陷金嶺略蒲類,詔何力為弓月道大總管,率左武衛大將軍梁建方,統秦、成、岐、雍及燕然都護回紇兵人萬討之。處月酋硃邪孤註遂殺招慰使果毅都尉單道惠,據牢山以守。何力等分兵數道,攀〓〗脲而上,急攻之,賊大潰,孤註液遁。輕騎窮躡,行五百里,孤註戰死。虜渠帥六十,俘斬萬余,牛馬雜畜七萬,取處蜜時健俟斤、合支賀等以歸。遷左驍衛大將軍,封郕國公。

顕慶年中、沮江軍行軍大総管と為り、蘇定方及び右驍衛大将軍劉伯英と共に高麗を伐つ。克たず。龍朔初、復た遼東道行軍大総管を拝し、諸蕃三十五軍を率いて進討す。帝自ら師を率いて之に継がんと欲す。鴨緑水に至る。蓋蘇文、男生を遣わして精兵数万を以て険に拒がしむ。衆敢えて渡らざるに、会に氷合う。何力兵を引きて噪ぎて渡る。賊驚き、遂に潰ゆ。斬首三万級、余衆降り、男生身を脱して走る。詔有りて師を斑す。

原文顯慶中,為沮江軍行軍大總管,與蘇定方及右驍衛大將軍劉伯英代高麗。,不克。龍朔初,復拜遼東道行軍大總管,率諸蕃三十五軍進討,帝欲自率師繼之。次鴨綠水,蓋蘇文遣男生以精兵數萬拒險,眾莫敢濟。會冰合,何力引兵噪而濟,賊驚,遂潰。斬首三萬級,余眾降,男生脫身走。有詔斑師。

時に鉄勒九姓叛く。詔して何力を安撫大使と為す。何力軽騎五百を以て馳せて其の部に入る。虜大いに驚く。何力諭して曰く、「朝家、汝らの詿誤を知り、遂に翻動に及べりとす。我をして汝らの過を赦し、自新を得しむ。罪は兇渠に在り、之を取れば則ち已む」と。九姓大いに喜び、共に偽の葉護及び特勒等二百人を擒えて以て帰る。何力其の罪を数え、之を誅す。余衆遂に安んず。士卒道に死する者有れば、所在に令して収瘞せしめ、其の家を蠲護す。

原文時鐵勒九姓叛,詔何力為安撫大使。何力以輕騎五百馳入其部,虜大驚。何力喻曰:「朝家知而詿誤,遂及翻動,使我貰爾過,得自新。罪在兇渠,取之則已。」九姓大喜,共擒偽葉護及特勒等二百人以歸,何力數其罪,誅之,余眾遂安。士卒道死者,令所在收瘞,蠲護其家。

未だ幾ばくもせず、蓋蘇文死に、男生弟に逐はる。子をして闕に詣りて降を請わしむ。乃ち何力を遼東道行軍大総管・安撫大使に拝し、之を経略せしむ。李勣に副い、共に高麗に向かう。勣既に新城を抜き、何力を留めて守らしむ。時に高麗兵十五万、遼水に屯し、靺鞨まっかつ数万衆を引きて南蘇城に拠る。何力奮撃して之を破り、斬首一万級、勝に乗じて進み八城を抜く。兵を引きて還り、勣と会合し、辱夷・大行の二城を攻め、之を克つ。進みて扶余を抜く。勣兵を勒して未だ進まず、何力兵五十万を率いて先ず平壌に向かう。勣継いで進み、凡そ七月攻めて、之を抜き、其の王を虜えて以て献ず。鎮軍大将軍に進み、左衛大将軍を行い、涼に徙封さる。

原文未幾,蓋蘇文死,男生為弟所逐,使子詣闕請降,乃拜何力為遼東道行軍大總管、安撫大使經略之,副李勣同趨高麗勣已拔新城,留何力守。時高麗兵十五萬屯遼水,引靺鞨數萬眾據南蘇城,何力奮擊,破之,斬首萬級,乘勝進拔八城。引兵還,與勣會合,攻辱夷、大行二城,克之。進拔扶余。勣勒兵未進,何力率兵五十萬先趨平壤,勣繼進,攻凡七月,拔之,虜其王以獻。進鎮軍大將軍,行左衛大將軍,徙封涼。

総章・儀鳳の間、吐蕃吐谷渾を滅ぼし、勢い益々張る。鄯・廓・河・坊等州に入寇す。詔して周王を洮州道、相王を涼州道行軍元帥と為し、何力等を率いて之を討たしむ。二王行かず、亦た会に何力卒す。輔国大将軍・并州大都督を贈り、昭陵に陪葬し、謚して毅と曰う。

原文總章、儀鳳間,吐蕃滅吐谷渾,勢益張,入寇鄯、廓、河、坊等州,詔周王為洮州道、相王為涼州道行軍元帥,率何力等討之。二王不行,亦會何力卒。贈輔國大將軍、并州大都督,陪葬昭陵,謚曰毅。

初め、龍朔年中、司稼少卿梁脩仁、新たに大明宮を作り、白楊を庭に植え、何力に示して曰く、「此の木成り易く、数年ならずして庇うべし」と。何力答えず、只だ「白楊多悲風、蕭蕭愁殺人」の句を誦す。脩仁驚き悟り、更に桐を以て植え替う。

原文始,龍朔中,司稼少卿梁脩仁新作大明宮,植白楊於庭,示何力曰:「此木易成,不數年可庇。」何力不答,但誦「白楊多悲風,蕭蕭愁殺人」之句,脩仁驚悟,更植以桐。

子、明。

原文子明

明、字は若水、孺褓にして上柱国を授かり、漁陽県公に封ぜらる。年十二、奉輦大夫に遷る。李敬玄吐蕃を征するに、明は柏海道経略使と為り、戦多く、左威衛大将軍に進み、封を襲ぎ、錦袍・宝帯を賜い、他の物蕃夥なり。嫡子に三品官を擢ぐ。再び鶏田道大総管に遷り、烏徳鞬山に至り、二万帳を誘いて附かしむ。武后の時、明の妻及び母の臨洮県主、皆武姓を賜わる。左鷹揚衛大将軍を以て卒す。年四十六。涼州刺史を贈られ、謚して靖と曰う。

原文子明,字若水,孺褓授上柱國,封漁陽縣公。年十二,遷奉輦大夫。李敬玄征吐蕃,明為柏海道經略使,以戰多,進左威衛大將軍,襲封,賜錦袍、寶帶,它物蕃夥。擢嫡子三品官。再遷雞田道大總管,至烏德鞬山,誘附二萬帳。武後時,明妻及母臨洮縣主皆賜姓武。以左鷹揚衛大將軍卒,年四十六,贈涼州刺史,謚曰靖。

明、性淹厚にして、学を喜び、弁論に長ず。子、聳、爵を襲ぐ。

原文明性淹厚,喜學,長辯論。子聳,襲爵。

黒歯常之。

原文黑齒常之

黒歯常之、百済くだら西部の人なり。長さ七尺余、驍毅にして謀略有り。百済の達率兼風達郡将と為る。唐の刺史の如し。蘇定方百済を平らぐるに、常之其の部を以て降る。而して定方老王を囚え、兵を縦して大いに掠む。常之懼れ、左右の酋長十余人与に遁れ去り、逋亡を嘯合し、任存山に依りて自ら固む。旬日ならずして帰する者三万。定方兵を勒して之を攻むるも克たず。常之遂に二百余城を復す。龍朔年中、高宗使を遣わして招諭す。乃ち劉仁軌に詣りて降る。累遷して左領軍員外将軍・洋州刺史と為る。

原文黑齒常之,百濟西部人。長七尺余,驍毅有謀略。為百濟達率兼風達郡將,猶唐刺史雲。蘇定方平百濟,常之以所部降。而定方囚老王,縱兵大掠,常之懼,與左右酋長十余人遁去,嘯合逋亡,依任存山自固,不旬日,歸者三萬。定方勒兵攻之,不克,常之遂復二百余城。龍朔中,高宗遣使招諭,乃詣劉仁軌降。累遷左領軍員外將軍、洋州刺史。

儀鳳三年、李敬玄・劉審礼に従い吐蕃を撃つ。審礼敗れ、敬玄還らんと欲すも、泥溝に阻まれ、兵出づるを得ず。賊高く屯して官軍を圧す。常之夜に敢死の士五百人を率いて其の営を掩い、殺掠数百人、賊の酋長跋地設軍を棄てて走る。帝其の才を嘆じ、左武衛将軍に擢げ、左羽林軍を検校し、金帛を賜うこと殊等なり。進みて河源軍副使と為る。調露年中、吐蕃、使の贊婆等をして入寇せしめ、良非川に屯す。李敬玄の敗るるに、常之精騎三千を引きて夜其の軍を襲い、斬首二千級、羊馬数万を獲、贊婆等単騎にして去る。即ち河源道経略大使を拝す。因りて河源は賊の衝に当たるを以て、兵を増して鎮守すべく、而して運饟須らく広くすべしと建言す。乃ち地を斥けて烽七十所を置き、田五千頃を墾き、歳に粟斛百余万を収む。是に由りて食衍え士精しく、戍邏備え有り。永隆二年、贊婆青海に営す。常之馳せて其の屯を掩い、之を破り、悉く糧廥を焼き、羊・馬・甲首を獲ること貲ふべからず。詔書を以て労賜す。凡そ軍に蒞むこと七年、吐蕃檐畏し、敢えて辺を盗まず。燕国公に封ぜらる。

原文儀鳳三年,從李敬玄、劉審禮擊吐蕃。審禮敗,敬玄欲引還,阻泥溝,兵不得出,賊屯高壓官軍。常之夜率敢死士五百人掩其營,殺掠數百人,賊酋跋地設棄軍走。帝嘆其才,擢左武衛將軍,檢校左羽林軍,賜金帛殊等。進為河源軍副使。調露中,吐蕃使贊婆等入寇,屯良非川。李敬玄之敗,常之引精騎三千夜襲其軍,斬首二千級,獲羊馬數萬,贊婆等單騎去。即拜河源道經略大使。因建言河源當賊沖,宜增兵鎮守,而運饟須廣。乃斥地置烽七十所,墾田五千頃,歲收粟斛百余萬。由是食衍士精,戍邏有備。永隆二年,贊婆營青海,常之馳掩其屯,破之,悉燒糧廥,獲羊、馬、甲首不貲。詔書勞賜。凡蒞軍七年,吐蕃檐畏,不敢盜邊。封燕國公。

垂拱年中、突厥復た塞を犯す。常之兵を率いて追撃し、両井に至る。忽ち賊と遇う。賊騎三千方に甲を擐う。常之其の囂しきを見て、二百騎を以て之を突く。賊皆甲を棄てて去る。其の暮、賊大いに至る。常之潜かに人をして木を伐たしめ、炬を列ねて営中にし、烽燧の若く然らしむ。会に風起こる。賊救い至れるかと疑い、遂に夜遁す。久しくして、燕然道大総管と為り、李多祚・王九言等と共に突厥の骨咄祿・元珍を黄花堆に撃ち、之を破り、奔るを追うこと四十里、賊潰えて磧北に帰す。会に左監門衛中郎将爨宝璧、窮く追いて功を要せんと欲す。詔して常之と共に計らしむ。宝璧独り進み、虜に覆され、挙軍没す。宝璧吏に下り誅せらる。常之坐して功無し。会に周興等其の右鷹揚将軍趙懐節と反すと誣う。捕え詔獄に系し、繯に投じて死す。

原文垂拱中,突厥復犯塞,常之率兵追擊,至兩井,忽與賊遇,賊騎三千方擐甲,常之見其囂,以二百騎突之,賊皆棄甲去。其暮,賊大至,常之潛使人伐木,列炬營中,若烽燧然。會風起,賊疑救至,遂夜遁。久之,為燕然道大總管,與李多祚王九言等擊突厥骨咄祿、元珍於黃花堆,破之,追奔四十里,賊潰歸磧北。會左監門衛中郎將爨寶璧欲窮追要功,詔與常之共計,寶壁獨進,為虜所覆,舉軍沒,寶璧下吏誅,常之坐無功。會周興等誣其與右鷹揚將軍趙懷節反,捕系詔獄,投繯死。

常之、下を禦うに恩有り。乗る所の馬、士に蜺さる。或人其の罪を請う。答えて曰く、「何ぞ遽かに私馬を以て官兵を鞭たんや」と。前後の賞賜を麾下に分かち、留むる資無し。及び死するに及び、人皆其の枉れるを哀しむ。

原文常之禦下有恩,所乘馬為士所蜺,或請罪之。答曰:「何遽以私馬鞭官兵乎?」前後賞賜分麾下,無留貲。及死,人皆哀其枉。

李謹行

原文李謹行

李謹行は靺鞨の人である。父の突地稽は部族の酋長であった。隋の末年に、配下千余りを率いて内附し、営州に居住し、金紫光禄大夫・遼西太守を授けられた。武徳初年、朝貢を奉じ、その部を燕州とし、総管を授けられた。劉黒闥が叛くと、突地稽はみずから定州に赴き、秦王に上書して節度を請うた。戦功により耆国公に封ぜられ、部族を移して昌平に居住した。高開道が突厥の兵を率いて幽州を攻めると、突地稽は邀撃してこれを破った。貞観初年、右衛将軍に進み、李氏を賜り、卒した。

原文李謹行,靺鞨人。父突地稽,部酋長也。隋末,率其屬千余內附,居營州,授金紫光祿大夫、遼西太守。武德初,奉朝貢,以其部為燕州,授總管。劉黑闥叛,突地稽身到定州,上書秦王,請節度。以戰功封耆國公,徙部居昌平。高開道以突厥兵攻幽州,突地稽邀擊,敗之。貞觀初,進右衛將軍,賜氏李,卒。

謹行は容貌魁偉で、勇気は軍中に冠たり、累遷して営州都督となり、家童は数千に至り、財をもって自ら雄とし、夷人はこれを畏れた。積石道経略大使となり、論欽陵が衆十万を率いて湟中に寇すと、斥候・巡邏は知らず、兵士の樵採は半ば散じていた。謹行は虜の来襲を聞くや、ただちに旗を立て鼓を伐ち、門を開いて待ち受けた。欽陵は伏兵あるかと疑い、進むことを敢えなかった。上元三年、青海において吐蕃を破り、璽書を賜り労勉され、燕国公に封ぜられた。卒し、幽州都督を贈られ、乾陵に陪葬された。

原文謹行偉容貌,勇蓋軍中,累遷營州都督,家童至數千,以財自雄,夷人畏之。為積石道經略大使,論欽陵眾十萬寇湟中,候邏不知,士樵采半散。謹行聞虜至,即植旗伐鼓,開門以伺。欽陵疑有伏,不敢進。上元三年,破吐蕃於青海,璽書勞勉,封燕國公。卒,贈幽州都督,陪葬乾陵。

泉男生

原文泉男生

泉男生、字は元徳、高麗の蓋蘇文の子である。九歳にして、父の任により先人となった。中裏小兄に遷り、これは唐の謁者に相当する。また中裏大兄となり、国政を知り、すべての辞令は皆男生がこれを主宰した。中裏位頭大兄に進んだ。久しくして莫離支となり、三軍大将軍を兼ね、大莫離支を加えられ、出て諸部を巡察した。ところが弟の男建・男産が国事を知ると、ある者が「男生は君らが己を逼迫するのを憎み、除かんとしている」と言った。建・産はこれを信じなかった。また男生に謂う者ありて「君を納れざらんとす」と。男生は間諜を遣わしたが、男建に捕らえられ、すなわち高蔵の命と偽って召したので、男生は懼れて入らなかった。男建はその子の献忠を殺した。男生は走って国内城に保ち、その衆を率いて契丹きったん・靺鞨の兵とともに内附し、子の献誠を遣わして朝廷に訴えた。高宗は献誠を右武衛将軍に拝し、乗輿・馬・瑞錦・宝刀を賜り、還って報ぜしめた。詔して契苾何力に兵を率いてこれを援けしめ、男生はようやく免れた。平壌道行軍大総管を授け、持節安撫大使を兼ね、哥勿・南蘇・旨巖等の城を挙げて降った。帝はまた西台舎人李虔繹を軍中に遣わして慰労し、袍帯・金扣七事を賜った。

原文泉男生,字元德,高麗蓋蘇文子也。九歲,以父任為先人。遷中裏小兄,猶唐謁者也。又為中裏大兄,知國政,凡辭令,皆男生主之。進中裏位頭大兄。久之,為莫離支,兼三軍大將軍,加大莫離支,出按諸部。而弟男建、男產知國事,或曰:「男生惡君等逼己,將除之。」建、產未之信。又有謂男生:「將不納君。」男生遣諜往,男建捕得,即矯高藏命召,男生懼,不敢入。男建殺其子獻忠。男生走保國內城,率其眾與契丹、靺鞨兵內附,遣子獻誠訴諸朝。高宗拜獻誠右武衛將軍,賜乘輿、馬、瑞錦、寶刀,使還報。詔契苾何力率兵援之,男生乃免。授平壤道行軍大總管,兼持節安撫大使,舉哥勿、南蘇、旨巖等城以降。帝又命西臺舍人李虔繹就軍慰勞,賜袍帶、金扣七事。

明年、召し入朝せしめ、詔して過ぐる州県の伝舎に鼓吹を作らしめ、右羽林将軍李同が飛騎の仗をもって廷寵を示した。遼東大都督・玄菟郡公に遷り、京師に邸宅を賜った。よって詔して軍に還らしめ、李勣とともに平壌を攻め、浮屠の信誠を内間とし、高麗の鋭兵を引き入れて潜ませ、高蔵を擒にした。詔して子を遣わし手制・金皿を齎らせ、すなわち遼水において労賜した。還りて、右衛大将軍・卞国公に進み、宝器・宮侍女二・馬八十を賜った。儀鳳二年、詔して遼東を安撫せしめ、州県を置き、流冗を招き、賦を平らかに斂め、力役を罷め、民はその寛大を悦んだ。卒す、年四十六、帝は哀を挙げ、并州大都督を贈った。喪が都に至ると、詔して五品以上の官にこれを哭せしめ、諡して襄と曰い、碑を勒して功を著わした。

原文明年,召入朝,詔所過州縣傳舍作鼓吹,右羽林將軍李同以飛騎仗廷寵。遷遼東大都督、玄菟郡公,賜第京師。因詔還軍,與李勣攻平壤,使浮屠信誠內間,引高麗銳兵潛入,擒高藏。詔遣子賫手制、金皿,即遼水勞賜。還,進右衛大將軍、卞國公,賜寶器、宮侍女二、馬八十。儀鳳二年,詔安撫遼東,並置州縣,招流冗,平斂賦,罷力役,民悅其寬。卒,年四十六,帝為舉哀,贈并州大都督。喪至都,詔五品以上官哭之,謚曰襄,勒碑著功。

男生は純厚にして礼あり、奏対は敏弁、射芸に善かった。その初めて至りしとき、斧鑕に伏して罪を待ちしに、帝これを宥し、世はこれをもって称した。

原文男生純厚有禮,奏對敏辯,善射藝。其初至,伏斧锧待罪,帝宥之,世以此稱焉。

子の献誠

原文子獻誠

献誠、天授年中に右衛大将軍兼羽林衛となる。武后嘗て金幣を出し、宰相・南北牙の群臣に命じて善射の者五輩を挙げさせ、中たる者に賜わんとした。内史張光輔が献誠を挙げると、献誠は右玉鈐衛大将軍薛吐摩支に譲り、摩支は固く辞した。献誠曰く「陛下は善射者を択ばるるも、皆華人にあらず。臣は唐官が射を恥とするを恐れ、これを罷むるに如かず」と。后嘉して納れた。来俊臣嘗て貨を求むるも、献誠答えず、すなわちその謀反を誣い、縊り殺した。後に後その冤を知り、右羽林衛大将軍を贈り、礼をもって改葬した。

原文獻誠,天授中以右衛大將軍兼羽林衛。武后嘗出金幣,命宰相、南北牙群臣舉善射五輩,中者以賜。內史張光輔舉獻誠,獻誠讓右玉鈐衛大將軍薛吐摩支,摩支固辭。獻成曰:「陛下擇善射者,然皆非華人。臣恐唐官以射為恥,不如罷之。」后嘉納。來俊臣嘗求貨,獻誠不答,乃誣其謀反,縊殺之。後後知其冤,贈右羽林衛大將軍,以禮改葬。

李多祚

原文李多祚

李多祚、その先祖は靺鞨の酋長で、「黄頭都督」と号し、後中国に入り、世系は湮遠である。多祚に至り、驍勇にして射に善く、軍功により累遷して右鷹揚大将軍となった。黒水靺鞨を討ち、その渠長を誘い、酒を置き高会し、酔いに乗じてこれを斬り、その衆を撃破した。室韋及び孫万栄の叛には、多祚は諸将とともに進討し、労により右羽林大将軍に改め、すなわち北門の衛兵を領した。

原文李多祚,其先靺鞨酋長,號「黃頭都督」,後入中國,世系湮遠。至多祚,驍勇善射,以軍功累遷右鷹揚大將軍。討黑水靺鞨,誘其渠長,置酒高會,因醉斬之,擊破其眾。室韋及孫萬榮之叛,多祚與諸將進討,以勞改右羽林大將軍,遂領北門衛兵。

張柬之が二張を誅せんとし、多祚が平素感慨に感じ、義をもって動かしうるとし、乃ち従容として謂いて曰く「将軍北門に居ること幾何」と。曰く「三十年なり」と。「将軍は鐘を撃ち鼎を食み、貴重当世なるは、大帝の恩にあらずや」と。多祚は泣き数行下り、曰く「死すとも忘れず」と。柬之曰く「将軍感恩を知れば、則ち報ゆる所以を知らん。今東宮にあるは乃ち大帝の子なり。而るに嬖豎朝を擅にし、宗社を危逼す。国家の廃興は将軍に在り。将軍誠に意あらんや。今日を捨てて尚ほ何れの処にか在らん」と。答えて曰く「苟くも王室に縁らば、惟だ公の使う所に従わん」と。乃ち天地を引いて自ら誓い、辞気毅然たり、柬之遂に謀を定めた。敬暉・李湛を右羽林将軍とし、命じて禁兵を総べしめ、多祚・王同皎とともに太子を請いて玄武門に至らしめ、関を斬って入った。長生殿に及び、武後に白して曰く「諸将、逆臣易之・昌宗を誅す。大謀漏るるを恐れ、敢えて予め奏せず、頓首して帰死を請う」と。后は病臥し、顧みて湛に曰く「我れ而が父子に薄からず、亦これに預かるか」と。

原文張柬之將誅二張,以多祚素感概,可動以義,乃從容謂曰:「將軍居北門幾何?」曰:「三十年矣。」「將軍擊鐘鼎食,貴重當世,非大帝恩乎?」多祚泣數行下,曰:「死且不忘!」柬之曰:「將軍知感恩,則知所以報,今在東宮乃大帝子,而嬖豎擅朝,危逼宗社。國家廢興在將軍,將軍誠有意乎?舍今日尚何在?」答曰:「茍緣王室,惟公所使。乃引天地以自誓,辭氣毅然,柬之遂定謀。以敬暉、李湛為右羽林將軍,命總禁兵,與多祚、王同皎請太子至玄武門,斬關入。及長生殿,白武後曰:「諸將誅逆臣易之、昌宗,恐漏大謀,不敢豫奏,頓首請歸死。」後病臥,顧湛曰:「我於而父子不薄,亦豫是邪?」

中宗復位し、多祚を遼陽郡王に封じ、実封八百戸を食み、子の承訓を衛尉少卿とした。湛は大将軍に遷り、趙国公に封ぜられ、実封五百戸を食んだ。帝が太廟に祠るに、特詔して多祚と相王に輿に登り夾侍せしめた。監察御史王覿は多祚は夷人なり、功あれども、輿輦を共にすべからずと謂う。帝曰く「朕は心腹に推す、卿復た言うなかれ」と。

原文中宗復位,封多祚遼陽郡王,食實戶八百,子承訓為衛尉少卿。湛遷大將軍,封趙國公,食實戶五百。帝祠太廟,特詔多祚與相王登輿夾侍。監察御史王覿謂多祚夷人,雖有功,不宜共輿輦。帝曰:「朕推以心腹,卿勿復言。」

崔玄𬀩等が罪を得ると、多祚は禍の及ぶを畏れ、故に陽りて韋氏に厚くした。節湣太子が武三思を誅せんとし、多祚は成王千里とともに兵を率いて先ず玄武楼下に至り、詳しく三思を誅する所以の状を言い、兵を按じて戦わず。宮闈令楊思勖方に帝に侍す、即ち刀を挺ててその婿の羽林中郎将野呼利を斬り、兵は因って沮潰し、多祚はその下の者に殺され、二子も亦害せられ、その家を籍没した。景雲初年、官爵を追復し、併せて家属を宥した。

原文崔玄〓等得罪,多祚畏禍及,故陽厚韋氏。節湣太子誅武三思,多祚與成王千里率兵先至玄武樓下,具言所以誅三思狀,按兵不戰。宮闈令楊思勖方侍帝,即挺刀斬其婿羽林中郎將野呼利,兵因沮潰,多祚為其下所殺,二子亦見害,籍沒其家。景雲初,追復官爵,並宥家屬。

李湛

原文李湛

李湛は、義府の最も末の子にして、字は興宗、沈着温厚にして器量あり。六歳にして周王府文学を授かり、累遷して右散騎常侍となり、河間郡公を襲封す。武后が上陽宮に移徙せしとき、湛を留めて宿衛せしむ。まもなく、また右散騎常侍となり、鉄券を賜う。武三思これを憎み、果州刺史に貶す。洺州・絳州の二州を歴任し、累遷して左領軍大将軍となる。開元十年に卒す。幽州都督を贈られる。初め、義府は武后を立てしが故に宰相を得たるも、湛は中興の功臣たり。世、その父の悪を以て貶せずとす。

原文湛者,義府最幼子,字興宗,沈厚有度。六歲,授周王府文學,累遷右散騎常侍,襲河間郡公。武后徙上陽宮,留湛宿衛。頃之,復為右散騎常侍,賜鐵券。三思惡之,貶果州刺史。歷洺、絳二州,累遷左領軍大將軍。開元十年卒,贈幽州都督。初,義府以立武后故得宰相,而湛為中興功臣,世不以其父惡為貶雲。

論弓仁

原文論弓仁

論弓仁は、本は吐蕃の族なり。父の欽陵、世々その国を相く。聖暦二年、弓仁、統ぶる所の吐渾七千帳を以て自ら帰順し、左玉鈐衛将軍を授けられ、酒泉郡公に封ぜらる。神龍三年、朔方軍前鋒遊弈使と為る。時に張仁願三受降城を築く。弓仁兵を以て諾真水・草心山に出でて邏衛と為る。

原文論弓仁,本吐蕃族也。父欽陵,世相其國。聖歷二年,弓仁以所統吐渾七千帳自歸,授左玉鈐衛將軍,封酒泉郡公。神龍三年,為朔方軍前鋒遊弈使。時張仁願築三受降城,弓仁以兵出諾真水、草心山為邏衛。

開元初め、突厥九姓乱る。弓仁軍を率いて漠を度り、白檉林を逾え、火抜部の喻多真種落を収め、これを降す。趯跌思太叛く。赤柳澗に戦う。弓仁の騎兵わずか五百、新堡より進む。時に賊四囲これを環す。衆敵せず。弓仁牛を椎きて士に誓い、自若たり。再宿して囲を潰して出づ。人その壮挙を服す。凡そ大小数百の戦を閲し、未だ嘗て負くることなし。宝玉・甲第・良田を賜い、等列比ぶる者なし。累遷して左驍衛大将軍・朔方副大使となる。病に会す。玄宗上医を遣わし馳せて視せしむ。卒す。年六十六。撥川郡王を贈られ、諡して忠と曰う。

原文開元初,突厥九姓亂,弓仁引軍度漠,逾白檉林,收火拔部喻多真種落,降之。趯跌思太叛,戰赤柳澗,弓仁騎才五百,自新堡進,時賊四環之,眾不敵,弓仁椎牛誓士自若,再宿潰圍出,人服其壯。凡閱大小戰數百,未嘗負。賜寶玉、甲第、良田,等列莫與比。累遷左驍衛大將軍、朔方副大使。會病,玄宗遣上醫馳視。卒,年六十六,贈撥川郡王,謚曰忠。

孫惟貞

原文孫惟貞

孫惟貞。惟貞、名は瑀、字をもって行わる。志嚮恢大なり。開元末、左武衛将軍と為る。粛宗霊武に在りしとき、衛尉少卿として綏州・銀州に兵を募る。旬を閲し、衆数万。鳳翔に還るに従い、光禄卿に遷り、元帥前鋒討撃と為る。陜州に戦い、功を以て殿中監に進む。史思明河陽に於いて李光弼を攻む。周摯兵二十万を以て城下に陣す。惟貞鋭卒数千を請い、数門を鑿ちて出づ。旦より午に及び、苦戦してこれを破る。光弼表して開府儀同三司と為す。光弼史朝義を討つに、惟貞をして徐州を守らしむ。賊将謝欽讓陳を拠る。乃ち惟貞に潁州刺史を仮し、賊将を斬り、降る者万人。蕭国公に封ぜられ、実封百戸。光弼病み、表して自ら代わらしむ。左領軍衛大将軍に擢てられ、英武軍使と為り、卒す。

原文孫惟貞。惟貞,名瑀,以字行。誌向恢大。開元末,為左武衛將軍。肅宗在靈武,以衛尉少卿募兵綏、銀,閱旬,眾數萬。從還鳳翔,遷光祿卿,為元帥前鋒討擊。戰陜州,以功進殿中監。史思明攻李光弼於河陽,周摯以兵二十萬陣城下,惟貞請銳卒數千,鑿數門出,自旦及午,苦戰破之。光弼表為開府儀同三司。光弼討史朝義,以惟貞守徐州。賊將謝欽讓據陳,乃假惟貞潁州刺史,斬賊將,降者萬人。封蕭國公,實封百戶。光弼病,表以自代。擢左領軍衛大將軍,為英武軍使,卒。

尉遅勝

原文尉遲勝

尉遅勝は、本は于闐国の王なり。天宝中、朝に入り、名玉・良馬を献ず。玄宗宗室の女を以てこれに妻せしめ、右威衛将軍・毘沙府都督を授く。帰国し、安西節度使せつどし高仙芝とともに薩毘・播仙を撃ち破る。累進して光禄卿となる。

原文尉遲勝,本王於闐國。天寶中,入朝,獻名玉、良馬。玄宗以宗室女妻之,授右威衛將軍、毘沙府都督。歸國,與安西節度使高仙芝擊破薩毘、播仙。累進光祿卿。

安禄山反す。勝弟の曜に国事を摂行せしめ、身みずから兵五千を率いて難に赴く。国人固く勝を留めんとす。勝少女を質としして行く。粛宗これを嘉し、特進を拝し、殿中監を兼ぬ。広徳中、驃騎大将軍に進み、還遣せらるるも、固く留まり宿衛を請う。開府儀同三司を加えられ、武都郡王に封ぜられ、実封百戸。勝国を曜に授けんことを請う。詔して可とす。勝留まること既にして、乃ち池観を穿ち築き、賓客を厚くす。士大夫多くこれに従いて遊ぶ。徳宗に従い興元に至り、右領軍将軍と為り、睦王傅を歴任す。貞元初、曜上言す「国中にては嫡を以て嗣を承く。今勝国を譲る。請うその子鋭を立てん」と。帝鋭を遣わして王を襲わしめんとす。勝固く辞し、「曜久しく国事を行い、人これに安んず。鋭は京華に生まれ、その俗を習わず。遣わすべからず」とす。当の時、兄弟国を譲る、人賢しとせざるなし。睦府除かれて、原王傅に徙る。卒す。涼州都督を贈られる。

原文安祿山反,勝使弟曜攝國事,身率兵五千赴難。國人固留勝,勝以少女為質而行。肅宗嘉之,拜特進,兼殿中監。廣德中,進驃騎大將軍,遣還,固請留宿衛。加開府儀同三司,封武都郡王,實封百戶。勝請授國於曜,詔可。勝既留,乃穿築池觀,厚賓客,士大夫多從之遊。從德宗至興元,為右領軍將軍,歷睦王傅。貞元初,曜上言:「國中以嫡承嗣,今勝讓國,請立其子銳。」帝欲遣銳襲王。勝固辭,以「曜久行國事,人安之;銳生京華,不習其俗,不可遣」。當是時,兄弟讓國,人莫不賢之。睦府除,徙原王傅。卒,贈涼州都督。

尚可孤

原文尚可孤

尚可孤、字は可孤、東部鮮卑宇文の別種にして、世々松州・漠州の間に処る。天宝末、范陽節度使安禄山に隷し、また史思明に事う。上元中、賊の在所より帰順し、累授して左・右威衛大将軍となり、白水県伯に封ぜられ、神策大将と為る。功を以て太常卿を試みらる。馮翊郡王に徙封せられ、実封一百五十戸を食む。

原文尚可孤,字可孤,東部鮮卑宇文之別種,世處松、漠間。天寶末,隸范陽節度使安祿山,復事史思明。上元中,自賊所歸,累授左、右威衛大將軍,封白水縣伯,為神策大將。以功試太常卿。徙封馮翊郡王,食寶戶一百五十。

魚朝恩衛兵を主とし、その勇を器とし、養子と為し、名づけて智徳と曰う。兵三千を将いしめ、扶風・武功に屯せしむ。十余年を歴し、隊伍閑整たり。朝恩死す。詔して姓を賜い李とし、名を嘉勛とす。李希烈叛く。擢てられ招討と為り、荊襄に応援し、本の姓名に復せしむ。累戦して功あり。

原文魚朝恩主衛兵,器其勇,養為子,名智德。使將兵三千,屯扶風、武功,歷十余年,隊伍閑整。朝恩死,詔賜氏李,名嘉勛。李希烈叛,擢為招討,應援荊襄,使復本姓名,累戰有功。

硃泚の難に、可孤を召す。可孤兵三千を率い、襄州・鄧州を道として西す。賊兵の鋭きに属し、乃ち七盤に壁す。偽将仇敬忠等来り寇す。可孤これを撃ちて却け、遂に藍田を収む。徳宗将に梁州に遷らんとし、命して兵を引き灞上を守らしめ、神策・京畿・渭南・商州節度招討使を拝す。敬忠拒み戦う。可孤急撃してこれを斬る。進軍して李晟とともに長安を収め、先鋒と為る。功を以て検校尚書右僕射を加えられ、馮翊郡王に封ぜられ、実封二百戸を食む。また諸軍と会し進んで李懐光を討ち、沙苑に次り、軍中に卒す。司空を贈られる。

原文硃泚之難,召可孤,可孤率兵三千,道襄、鄧而西,屬賊兵銳,乃壁七盤。偽將仇敬忠等來寇,可孤擊卻之,遂收藍田。德宗將遷梁州,命引兵守灞上,拜神策、京畿、渭南、商州節度招討使。敬忠拒戰,可孤急擊斬之。進軍與李晟收長安,為先鋒。以功加檢校尚書右僕射,封馮翊郡王,食實戶二百。又會諸軍進討李懷光,次沙苑,卒於軍,贈司空。

可孤性謹審沈壮にして、勲労あること既にすれども、未だ嘗て自ら功を論ぜず、衆を禦うること公厳なり。李晟しばしばこれを称す。

原文可孤性謹審沈壯,既有勛勞,未嘗自論功,禦眾公嚴,晟數稱之。

裴玢

原文裴玢

裴玢、その五世の祖は糾、もと疏勒国の王なり、武徳中に来朝し、鷹揚大将軍を拝し、天山郡公に封ぜられ、留まって去らず、遂に京兆に籍を置く。

原文裴玢,五世祖糾,本王疏勒,武德中來朝,拜鷹揚大將軍,封天山郡公,留不去,遂籍京兆。

玢は初め金吾将軍論惟明に事えて傔力たり。徳宗奉天に在りし時、功によりて忠義郡王に封ぜらる。惟明に従い鄜坊を鎮め、牙将に署せらる。後、節度使王棲曜卒す、中軍将何朝宗夜に火を放ち乱を為す、玢独り匿れて出でず。遅明、朝宗を擒えて命を待つ。詔ありて軍司馬崔輅と並びに之を斬り、同州刺史劉公済を以て節度を領せしめ、玢を擢て司馬とす。年を踰え、公済卒す、乃ち玢に節度使を授く。元和二年、山南西道に徙る。

原文玢初事金吾將軍論惟明為傔力。德宗在奉天,以功封忠義郡王。從惟明鎮鄜坊,署牙將。後節度使王棲曜卒,中軍將何朝宗夜縱火作亂,玢獨匿不出。遲明,擒朝宗以待命。有詔並軍司馬崔輅斬之,以同州刺史劉公濟領節度,擢玢為司馬。逾年,公濟卒,乃授玢節度使。元和二年,徙山南西道。

玢治を為すに厳棱にして、権勢を畏れて遠ざかり、貢奉を務めず。蔬食弊衣、居処は風雨を避くるを取るのみ。倉庫完実し、百姓之に安んず、当世の将帥未だ及ぶ者なし。疾を以て位を辞す。朝に入り、騶仗を事とせず。妻は竹輿に乗り、二侍婢、黄碧の縑服たり。七年卒す、尚書左僕射を贈られ、謚して節と曰う。

原文玢為治嚴棱,畏遠權勢,不務貢奉。蔬食弊衣,居處取避風雨而已。倉庫完實,百姓安之,當世將帥未有及者。以疾辭位。入朝,不事騶仗。妻乘竹輿,二侍婢,黃碧縑服。七年卒,贈尚書左僕射,謚曰節。

史評

原文史評

賛して曰く、夷狄の性は惇固にして、其の能く義の在る所を知る者は、鷙挺にして遷すべからず、蓋し巧は足らずして諒は常に余り有り。大柰等の君に事うるを観るに、皆其の志を一にして、顧望有ること無し、用て能く功績光明にして、天子の倚信と為る。渾瑊・趯跌・光顔の輩に至りては、烈は窮まり無く垂る、惟だ其の諒余り有るが故なり。瑊・光顔は自ら伝有り、今其の人を類して之を篇に著す。

原文贊曰:夷狄性惇固,其能知義所在者,鷙挺不可遷,蓋巧不足而諒常有余。觀大柰等事君,皆一其誌,無有顧望,用能功績光明,為天子倚信。至渾瑊、趯跌、光顏輩,烈垂無窮,惟其諒有余故也。瑊、光顏自有傳,今類其人著之篇。