新唐書

巻一百零九 列傳第三十四 崔楊竇宗祝王 崔義玄子:神基 神慶 孫: 琳 楊再思 竇懷貞 宗楚客 祝欽明 山惲 王璵

崔義玄

崔義玄は貝州武城の人である。隋の大業の乱に際し、李密に謁見したが、密は用いなかった。河内の賊黄君漢が密のために柏崖を守っていた時、義玄は群鼠が河を渡るのを見て天人合一の論を述べた。子思の学を闡発し、孔子の説を継承して思孟学を成し、矛の刃に文様があるのを見て、曰く「これは王敦の滅亡の兆しである」と。そこで君漢を説き、城を帰順させた。そこで君漢を懐州刺史・行軍総管に拝し、義玄を司馬とした。王世充の将高毘が河内を寇すと、義玄はこれを撃退し、多くの屯堡を降した。君漢が掠奪した子女金帛を分け与えようとしたが、拒んで受け取らなかった。功により清丘県公に封ぜられた。太宗が世充を討つに当たり、しばしばその謀を用いた。東都平定後、隰州都督ととく府長史に転じた。貞観初年、左司郎中を歴任し、韓王府長史を兼ね、王友の孟神慶と志趣を異にしたが、ともに介直として任用された。

永徽年間、累遷して婺州刺史となった。時に睦州の女子陳碩真が兵を挙げて反した。初め、碩真は自ら仙人となって去ったと言い、郷里の隣人と別れを告げた。ある者がその詐りを告げたが、後に捕らえられ、詔により釈放され問われなかった。そこで姻戚の章叔胤が妄りに碩真が天から還り、男子に化け、鬼物を使役できると言い、転々と人々を惑わし、これによって衆を幻惑することができた。自ら文佳皇帝と称し、叔胤を僕射とし、睦州を破り、歙を攻めてこれを破壊し、その党を分遣して婺州を包囲した。義玄は兵を発してこれを防いだが、その徒は争って碩真に神霊があると言い、その兵を犯せば必ず宗族が滅びると言い、衆は恐れて用いようとしなかった。司功参軍崔玄籍が曰く「順を仗って兵を起こしても、なお成らず。これは妖人であり、その勢いは長く続かない」と。義玄はそこで玄籍を先鋒に任じ、自ら衆を統率してこれに続いた。下淮戍に至り、その間諜数十人を擒らえた。星が賊の営に墜ちた。義玄曰く「賊は必ず滅びる」と。翌朝奮撃し、左右に盾で防ぐ者がいた。義玄曰く「刺史が邪を避けることがあれば、誰が死を肯うだろうか」と。これを取り除かせた。これによって衆は用いられ、数百級を斬首し、その衆万余を降した。賊平定後、御史大夫に拝された。

義玄には章句の学があり、先儒の疑謬、あるいは音義の通じないものがあれば、諸家を採り、条分節解し、これを是正することができた。高宗は詔して博士と『五経』の義を討論させた。

武氏が皇后となるに当たり、義玄は帝を助けて決断させ、また后の旨により長孫無忌らを按問して誅殺させた。蒲州刺史で終わり、七十一歳で卒した。幽州都督を贈られ、諡して貞といった。后が政を執るとき、揚州大都督を贈り、その家に実封二百戸を賜った。

子に神基あり

子の神基が爵を襲いだ。神基は長寿年間、司賓卿・同鳳閣鸞臺平章事となった。酷吏に陥れられて嶺南に流された。中宗の初年、漸く用いられて大理卿となった。

神基の弟に神慶あり

弟の神慶は明経に挙げられ、武后の時、累遷して萊州刺史となった。朝廷に入り、億歳殿で待制し、奏事が旨に適った。後に歴官において佳政があり、かつその父が己に功があったため、抜擢してへい州長史に拝し、謂って曰く「并州は朕の郷里であり、宿兵が多い。前の長史は皆尚書がこれを為した。今卿に授ける。委任の重きを知るべし」と。そこで親しく按行図を作り、日を謀って遣わした。神慶が初めて着任すると、詔があり銭幣法を改めた。州県に布告したが、俄かに物価が高騰し、百賈が驚擾した。神慶は朝廷にその非を質すと、果たして豪猾の妄りに為したものであった。后は喜び、制を下して褒め称えた。初め、州は汾を隔てて東・西二城であったが、神慶は水を跨ぎ堞を連ね、合わせて一つにし、防禦兵を毎年数千人省いた。神基が獄に下されると、馳せ赴いて都に変事を告げ、召見を得た。后は獄案を示した。神慶が申し理め、死罪を減ずることができたが、これによって歙州司馬に貶ぜられた。

神慶の子に琳あり

神慶の子琳は政事に明るく、開元年間、高仲舒と共に中書舎人となった。侍中宋璟は親しく礼遇し、訪ねる度に嘗て曰く「古事は仲舒に問い、今事は琳に問えば、尚何の疑いがあろうか」と。累遷して太子少保となった。天宝二年に卒すと、秘書監潘肅がこれを聞き、涙して曰く「古の遺愛なり」と。琳の長子儼は諫議大夫である。

その群従数十人は、興寧里より大明宮に謁し、冠蓋騶哄相望んだ。毎年時節に家で宴を開くときは、一つの榻に笏を置き、なおその上に重ね積んだ。琳と弟の太子詹事珪・光禄卿瑶は皆棨戟を列ね、世に「三戟崔家」と号した。開元・天宝の間、中外の宗属に緦麻の喪がなかった。初め、玄宗が相を命ずる毎に、皆その名を先に書いた。ある日、琳らの名を書いて金甌で覆った。折しも太子が入ると、帝が謂って曰く「これは宰相の名である。自らこれを推し量れば誰か。当たれば且つ酒を賜わん」と。太子曰く「崔琳・盧従願ではありますまいか」と。帝曰く「然り」と。太子に酒を賜った。時に両人は宰相の望みがあり、帝は数度彼らを相にしようとしたが、族が大きいため、付き従う者が多いことを恐れ、遂に用いなかった。

楊再思

楊再思は鄭州原武の人、明経に及第し、人となりへつらいにして智あり。初め、玄武尉に補せられ、使いとして京師に至り、旅舎に宿る。盗人がその衣嚢を窃む。再思これに遇い、盗人窮して謝す。再思曰く、「汝、貧しきを苦しむ、故に此に至る。嚢中の檄は用いる所なし、幸いに留めよ、他の物は持ち去るべし」と。初め人に言わず、ただ借りて以て還る。累遷して天官員外郎、左粛政御史中丞を歴任す。延載の初め、鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に抜擢され、兼左粛政御史大夫を加えられ、鄭県侯に封ぜられ、内史に遷る。

宰相の位に十余年居り、阿匼あこうして容を取るのみで、薦挙して達する所なし。人主の喜ばざる者あればこれを毀ち、善くする所あればこれを誉む。畏慎して恭を足し、未だ物にさからわず。或る人曰く、「公位尊し、何ぞ自ら屈折するや」と。答えて曰く、「世路甚だ艱難、直なる者は先ず禍に遭う。然らずば、豈に吾が躯を全うせんや」と。時に水害あり、坊門を閉じて以てはらう。再思朝に入る。車泥濘に陥り、牛を叱して前らず、いかりて曰く、「癡宰相陰陽を和せずして、坊門を閉じ、我を行くに艱しからしむ」と。再思吏を遣わして謂いて曰く、「汝が牛自ら弱し、独り宰相を責むるを得ず」と。

張昌宗事に坐し、司刑少卿桓彦範その官を劾免す。昌宗朝に訴う。武后その釈明を意とし、宰相に問うて曰く、「昌宗国に功有りや」と。再思曰く、「昌宗陛下の為に丹を治め、して癒ゆ、これ功有りと為す」と。后悦び、昌宗官に還る。ここより天下彦範を貴び、再思を賤しむ。左補闕戴令言「両脚狐」の賦を作りて以てこれを譏る。再思怒り、令言を長社令に謫す。士ますますわらい騒ぐ。

易之の兄司礼少卿同休、公卿を請いてその寺に宴す。酒酣たけなわにして、戯れて曰く、「公の面高麗に似たり」と。再思欣然とし、こくりて巾上に綴じ、紫袍をあらためて披き、高麗舞を為し、挙動節に合い、満座鄙いやしみて笑う。昌宗は姿貌を以てちょうす。再思毎に曰く、「人言う六郎蓮華に似たりと、然らず。正に蓮華六郎に似たりと謂うのみ」と。その巧諛無恥、此の類の如し。しばらくして検校右庶子。

中宗立つ。戸部尚書・同中書門下三品・京師留守に拝され、弘農郡公に封ぜられ、兼揚州長史を加えられ、検校中書令となる。侍中に改め、鄭国公、実封三百戸を賜り、順天皇后奉冊使と為る。武三思王同晈をいて陥れる。再思李嶠・韋巨源と獄を按ず。意にい同晈を死にてしむ。衆以て冤と為す。復た中書令に拝され、国史を監修す。尚書右僕射に遷り、なお同三品。卒す。特進・并州大都督を贈られ、乾陵に陪葬し、諡して恭と曰う。

弟季昭、茂才に及第し、殿中侍御史と為る。武后駙馬都尉薛紹を誅す。紹の兄顗は斉州刺史たり。命じて季昭にこれを按ぜしむ。反状を得ず。后怒り、沙州に放つ。赦されて還り、懐州司馬と為る。

竇懷貞

竇懷貞、字は従一、左相徳玄の子。少より詭激にして、衣服はやつつつましく、輿馬の豪侈なる事を為さず。仕えて累遷し清河令、治状有り。後に越州都督・揚州長史に遷る。

神龍年中、左御史大夫兼検校雍州長史に進む。歳除(大晦日)に会す。中宗夜近臣を宴し、謂いて曰く、「卿妻をうしなうと聞く、今継室せんと欲す、可ならんや」と。懷貞唯唯いいす。俄くして禁中宝扇障衛し、翟衣てきいたる者出づ。已にして乃ち韋后のおうにゅうおう王氏、所謂莒国夫人なる者、もと蛮婢なり。懷貞これを納れて辞せず。又后の先諱を避け、而以て字を以て称す。世媼婿を阿赩あしゃくと謂う。懷貞謁見奏請する毎に、すなわち自ら「皇后阿赩」と署す。而して人或いは「国赩」と謂うも、軒然けんぜんとして訴えず、以て后にびる。時政令多門、赤尉墨制をりて御史に授かる者衆し。或る人戯れて曰く、「尉の台に入ること多し、而して県はととのうや」と。対えて曰く、「異日に辦う」と。その故を問う。答えて曰く、「佳吏在り、僥幸去る、故に辦う」と。聞く者皆笑う。又宗楚客・安楽公主等に附いて以て貴位を取り、素議に斥せられ、名称尽くす。韋后敗る。妻を斬りその首を献ぐ。濠州司馬に貶せられ、再び益州長史にうつる。乃ち復た故の名にす。

景雲の初め、殿中監を以て召され、一月をて左御史大夫・同中書門下平章事に遷り、中山県公に封ぜられる。再び侍中に遷る。時に太平公主政をおかす。懷貞己を傾けて附離し、日視事退く毎に、輒ち主の第に詣り、その欲する所を刺取す。睿宗金仙・玉真二公主の為に観を営み、費鉅万。諫者交疏して止まず。唯だ懷貞これを勧めて成し、みずから役作を護る。族弟維鍌諫めて曰く、「公位上袞じょうこん、献可替否を思い以て天子を輔くるべし。而して瓦木を計校し、工匠の間に雑廁し、海内をして何をか瞻仰せしめんや」と。答えず、繕治を督して益々急なり。時の語に曰く、「前は後国赩と作り、後は主邑丞と為す」と。事を公主にすること邑官の属の如きを言うなり。位に在ること半歳、事とすべき所なし。帝承天門に引見し、切にこれを責む。俄くして李日知・郭元振・張説と皆罷く。左御史大夫と為る。時に、歳(木星)左執法を犯す。術家又言う懷貞且まさに禍有らんと。大いに懼れ、表を上りて安国寺の奴たらんことを請う。許さず。一年をえて、復た同中書門下三品、兼太子詹事、国史を監修す。又尚書右僕射兼御史大夫を以てし、軍国の重事宜しく共に平章すべしと。玄宗内禅を受く。左僕射に進み、魏国公に封ぜられる。太平公主と謀逆す。既に敗れ、水に投じて死す。その屍を追って戮し、姓を毒氏に改む。然れども生平得たる俸禄は、悉く親族に散じて留蓄せず。敗るる時、家唯だ粗米数石のみ。

性諂詐にして、善く権貴に諧結す。宦者用事するを、特に畏奉す。或いはひげ無き者を見て、誤ってこれに礼す。監察御史魏伝弓中人輔信義を嫉み、その奸を劾奏せんと欲す。懷貞曰く、「これは安楽の信任する者なり、奈何ぞこれをたださん」と。伝弓曰く、「王綱壊れんとす、正に此の属に坐す。今日これを殺し、明日誅せらるるも、悔ゆる所無し」と。懷貞猶ほ固くこれを止む。伝弓は、鉅鹿の人、忠謇の士なり。終に司農丞。

懷貞の従子兢、字は思慎、明経に挙げられ、英王府参軍・尚乗直長と為る。郪令に調ととのう。郵舎道路を修め、冠婚喪紀の法を設く。百姓これに徳す。

宗楚客

宗楚客、字は叔敖、その先は南陽の人。曾祖丕、後梁の南弘農太守、梁滅びて隋に入り、河東の汾陰に居る。故に蒲州の人と為る。父岌、魏王泰の府に仕え、謝偃等と『括地志』を撰す。

楚客は武后の従姉の子、長さ六尺八寸、明皙にして美須髯。進士に及第し、累遷して戸部侍郎。兄秦客、垂拱年中、武後に革命を勧め、内史に進む。而して弟晋卿は羽林兵をつかさどる。後に兄弟並びに奸贓に坐して嶺外に流される。歳余りして秦客死す。而して楚客等還る。俄くして検校夏官侍郎・同鳳閣鸞臺平章事。武懿宗と協わず。時に将作の材を賜わりて第を営む。僭侈過度、懿宗に劾せられ、文昌左丞より播州司馬に貶せられ、晋卿は峰州に流される。ようや州長史と為り、少府少監・岐陜二州刺史に遷る。久しくして、復た夏官侍郎を以て同鳳閣鸞臺平章事。邵王の妓をめとるに坐し、原州都督に貶せられる。

神龍の初め、太僕卿・郢國公となった。武三思が引き立てて兵部尚書とし、晉卿を将作大匠とした。節湣太子が敗れると、鄠に逃れたが、殺され、その首を殊別にして三思らの柩に祭ったのは、楚客が請うたのである。まもなく同中書門下三品となった。韋後・安樂公主は親しく頼みとし、紀處訥と党をなして、世に「宗紀」と号した。

景龍二年、詔して突厥の娑葛を金河郡王としたが、その部の闕啜忠節が楚客らに賄賂してこれを罷めさせたので、娑葛は怨み、兵を率いて辺境を患わせた。監察御史崔琬が朝廷で奏上した、「楚客・處訥は威福を専らにし、君を無きがごとき心あり、境外の交わりを受け、国のために怨みを取る。晉卿は贓私に専らに徇り、驕恣跋扈す。ともに収めて獄に付し、三司に推鞫せしむべし」と。故事によれば、大臣が御史に対仗して弾劾されれば、必ず趨り出て、朝堂に立ちて罪を待つ。楚客はすなわち厲色大言して、「性忠鯁にして、琬に誣詆された」と言った。中宗は窮めることができず、詔して琬と楚客・處訥に兄弟の約をさせて両方を解かせたので、世は帝を「和事天子」と謂った。まもなく中書令に遷った。韋氏が敗れると、晉卿とともに誅された。

楚客は性明達であった。武後の時、突厥の沓實力吐敦という者が降ったが、その部落は平夏にあった。ちょうど辺境からの書状が届き、吐敦が反したと言うので、楚客は兵部員外郎として、後に召されて方略を問われ、対えて言った、「吐敦という者は、臣が昔に語ったことがあるが、その人忠義和厚にして、かつ国家が恩を与えれば必ず反さない。その兄の子の默子という者は、狡悍にして、吐敦と和せず、今叛くと言うのは、默子の仕業と疑われるが、しかし為す能わざるなり」と。まもなく夏州から表があって、默子が部落を劫いて北に奔り、州兵と吐敦に擒えられたと。後に張仁亶が三城を築くことを請うたが、議者の中には同意しない者もあり、ただ楚客が言った、「万世の利なり」と。しかし権利に冒され、かつて右補闕趙廷禧に符命を陳べて帝に媚びるよう諷し、曰く、「唐は天下を有し、百世周を継ぐべし。陛下は母より禅を受け、周・唐一統す。その符兆八つあり、天皇再び陛下を周王と為すは、これ唐に於いて周を興す。則天陛下を皇太子と立てるは、これ周に於いて唐を興す。一なり。天後文王廟を立てる、二なり。唐同泰の『洛水図』に云う『永昌帝業』、三なり。讖に曰く『百代宗を移さず』、四なり。孔子曰く『百世周を継ぐ』、五なり。『桑條韋歌』、二聖在位九十八年に応じ、而して子孫相承九十八世、六なり。乃ち二月慶雲五色、天応えて和す、七なり。去る六月九日、内より瑞蒜出づ、八なり。則天を一世と起し、聖朝を二世とし、後子孫相承九十八、その数正に百世に満つ。唐の歴は乃ち三千余年なり」と。帝は大いに喜び、延禧を諫議大夫に擢げた。識者は楚客らが神を欺き君を誣いるとして、かつ大咎あるべしとした。またかつて密かにその党に語って曰く、「初め、吾卑位に在りしとき、宰相を殊に愛せり。及びこれに居りて、また天子を思う。南面一日足れり」と。外は韋氏に附きながら、内には逆謀を畜えていたので、故に卒いに敗れた。

晉卿は髭貌雄偉にして、声は鐘の如し。学ばざるも、然るに性倜儻たり。垂拱の後、武後に任用され、宮苑・閑廄・内外の衆作、総べざるなし。中嶽を開き、明堂を造り、九鼎を鋳るに、力あり。

紀處訥は、秦州上邽の人。人となり魁岸にして、髭長さ数尺。その妻は武三思の妻の姉であり、三思と通ずることを許したので、これにより款昵し、進んで太府卿となった。神龍元年夏、大旱し、穀価騰踴す。中宗召して人を救う所以を問う。三思これを知り、陰に太史迦葉誌忠に諷して奏せしむ、「この夜摂提太微に入り、帝坐に近し。これ天子と大臣接し、忠を納るるの符あり」と。帝これを信じ、詔を下して褒美し、處訥に衣一副・彩六十段を賜う。楚客とともに三品を同うし、進んで侍中となった。後に誅された。

祝欽明

祝欽明、字は文思、京兆始平の人。父の綝、字は叔良、少にして経に通じ、諸家の疑異を質す書を著わすこと頗る多し。門人の張後胤、既に顕宦となり、朝廷に薦め、詔して対策せしむるに高第となり、終に無極尉となった。

欽明は明経に擢げられ、東臺典儀となった。永淳・天授の間、また英才傑出・業奧『六経』等の科に中り、著作郎に拝され、太子率更令となった。中宗が東宮に在るとき、欽明は兼ねて侍読となり、太子に経を授け、弘文館学士を兼ねた。中宗が位に復すると、国子祭酒・同中書門下三品に擢げられた。進んで礼部尚書となり、魯國公に封ぜられ、実封三百戸を食んだ。桓彥範・崔玄〓・袁恕巳・敬暉ら皆これに従って『周官』の大義を受け、朝廷これを尊んだ。親の忌日を匿したことを以て、御史中丞蕭至忠に劾せられ、申州刺史に貶せられた。入って国子祭酒となった。

景龍三年、天子将に郊祀せんとす。欽明は国子司業郭山惲と陰に韋後の意を迎え、謬りに議を立てて曰く、

『周官』に天神を祀と曰い、地祇を祭と曰い、宗廟を享と曰う。『大宗伯』に曰く、「大神を祀り、大祇を祭り、大鬼を享く。王故あって預からざれば、則ち摂りて薦む」と。追師は後の首服を掌り、祭祀を待つ。内司服は後の六服を掌り、祭祀すれば則ち供す。また九嬪、凡そ大祭祀、後裸献すれば則ち瑤爵を賛す。然らば後は当に天子を助けて天神を祀り、地祇を祭るべし。鄭玄は称す、闕狄は後王を助けて群小祀を祭る服なりと。小祀すら尚お助く、況んや天地においてをや。闕狄の上、祎・礻俞・狄、三服皆以て助祭す。祎衣の大祀を助くるを知るなり。王の祭服二つあり、曰く先王兗冕、先公冕。故に後の助祭も、亦た祎衣を以て先王を祭り、礻俞狄を以て先公を祭る。天地を助祭するを言わざるは、此れを挙げて彼を明らかにし、三隅を反すなり。『春秋外伝』に、禘郊に、天子親らその牛を射、王後親らその粢を春くと。世婦は後の礼事を詔し、宗廟に専ら主せず。『祭統』に曰く、「祭とは、必ず夫婦親しく之れを行う。以て内外の官を備うる所以なり」と。哀公孔子に問うて曰く、「冕して親迎するは、已に重からずや」と。答えて曰く、「二姓の好を合し、以て先聖の後を継ぎ、以て天地宗廟社稷の主と為す。君何を以て已に重しと謂うや」と。則ち後宜しく祭を助くべきを知る。臣請う、経誼に因り、儀典を制せんと。

帝は睿ならざるも、猶おこれを疑い、礼官を召して質問した。ここにおいて太常博士唐紹・蔣欽緒対えて曰く、「欽明の引く所は、皆宗廟の礼にして、天地を祭る者にあらず。周・隋以上、皇后助祭の事なし」と。帝は宰相に参訂せしめ、紹・欽緒はまた博士彭景直を引いて共に議して曰く、

『周官』に云う所の祀・祭・享は、皆互いに言い換えている。『典瑞』に「両圭以て地を祀る」、『司几筵』に「祀先王の昨席を設く」、『内宗』に「宗廟の祭祀を掌る」とある。伝に曰く「聖人のみ能く帝を饗す」と。「春秋祭祀、時に之を思う」と。これ祀天を享と称し、享廟を祭と称する所以である。礼家が凡そ大祭祀と称するは、天のみを主とせず。『爵人』に「大祭祀、量人と与に挙斎の卒爵を受く」とある。祭天には祼なく、則ち九嬪瑤爵を賛す。容廟を大祭祀と称する所以である。欽明は『大宗伯』の職に拠り、以て後に祭天地の礼有りと謂う。経を按ずるに、「凡そ大神を祀り、大祇を祭り、大鬼を享け、執事を帥いて宿を卜し、滌濯を視、玉鬯に涖し、牲鑊を省み、玉盥を奉じ、大号を制す。若し王祭祀に与からずば、則ち位を摂す」と。凡より推すに、兼ねて王の天地宗廟を祭るを言う。下に言う「凡そ大祭祀、王后与からずば、則ち摂りて薦む」と。直に王后の廟を祭る一凡のみ。若し天地を助祭すべき当り、重凡を列すべからず。且つ内宗・外宗の掌る所は、皆王后の廟薦を佐くるに在りて、天地を祭るを佐くる語無し。もし天地を助祭する有らば、誰か当に賛佐すべき者ぞ。是れ則ち摂薦は宗廟の為なること甚だ明らかなり。内司服は后の祭服を掌るも、祭天の服無し。礼家の説に曰く「后は天地五嶽を助祭せず、故に具服無し」と。又言う「后に五輅有り、重翟を以て先王先公に従祭し、厭翟を以て諸侯に従饗し、安車を以て朝夕王に見え、翟車を以て桑を采り、輦車を以て遊宴す」と。此を按ずるに、后に祭天の車無きこと甚だ明らかなり。然るに后の王を助けて天地を祭るは、古より聞く所無し。

時に左僕射韋巨源、后を助けて帝を掎掣し、政事を奪う。即ち欽明の議を伝え、帝果たして其の言を用い、皇后を以て亜献と為す。大臣李嶠等の女を取って斎娘と為し、豆籩を奉らしむ。礼成りて、詔して斎娘に夫有る者は悉く官を進む。

初め、后の属婚に、禁中に上食す。帝群臣と宴し、欽明自ら『八風舞』能くすと言う。帝之を許す。欽明体肥醜く、地に据り頭を揺らし目を睆かせ、左右顧眄す。帝大いに笑う。吏部侍郎盧藏用嘆いて曰く「是れ『五経』を挙げて地を掃うなり」と。景雲初め、侍御史倪若水劾奏す「欽明・山惲等は腐儒にして行い無く、諂佞を以て常を乱し作を改め、百王の伝うる所、一朝に惰放す。今聖徳中興す、宜しく小人をして朝に在らしむべからず。請う遠く之を斥け、以て具臣を粛にすべし」と。乃ち欽明を饒州刺史に貶し、山惲を括州刺史に貶す。欽明は『五経』に於いて該淹たり。自ら不孝に坐して免ぜられ、以て澡祓する無きを見て、乃ち韋氏に阿附し、再用を図る。又是に坐して逐わるを見る。諸儒共に之を羞づ。後に洪州都督に徙り、入りて崇文館学士と為り、卒す。

賛に曰く「欽明、経を以て中宗に授け、朝の大儒と為る。乃ち聖を詭り僻説を引き、艶妻を引いて郊に上帝に見えしめ、腥徳播聞し、胙を享けて終わらず。蓋し少正卯の非に順いて沢す、荘周の詩書を以て冢を破る者と科を同じくす。独り腰領を保ちて家簀に死す、寧ろ幸いせざるか。後の儒を托けて奸を為す者は、少しく戒むべし云う」と。

山惲

山惲は、河東の人なり。善く『礼』を治む。景龍中、累遷して国子司業と為る。帝昵宴近臣及び修文学士し、詔して遍く伎を為さしむ。工部尚書張錫は『談容娘舞』を為し、将作大匠宗晋卿は『渾脱舞』を為し、左衛将軍張洽は『黄麞舞』を為し、給事中李行言は『賀車西河曲』を歌い、余臣各々陳する所有り。皆鄙黷なり。而して惲出でて奏す「我が習う所は、惟だ詩を誦するを知るのみ」と。乃ち『鹿鳴』・『蟋蟀』の二篇を誦す。未だ畢らざるに、中書令李嶠其の近く規諷するを以て、之を止む。帝其の直を嘉し、詔を下して褒咨し、服一称を賜う。其の後欽明と僻論を以て世に阿い、其の守を終うる能わず。久しくして、復た国子司業を拝す。

王璵

王璵は、方慶の六世孫なり。少くして礼家の学を為す。玄宗位に在ること久しく、老子の道を推崇し、神仙の事を好み、祠祭を広く修め、祈らざる神無し。璵上言し、壇を東郊に築き青帝を祀るを請う。天子其の言に入り、太常博士・侍御史に擢で、祠祭使と為す。璵専ら祠解を以て帝の意に中り、禳祓する所有れば、大抵巫覡に類す。漢以来葬喪には皆瘞錢有り。後世裏俗稍々紙を以て錢に寓し鬼事と為す。是に至りて璵乃ち之を用う。

肅宗立ち、累遷して太常卿と為り、又祠禱を以て寵見す。乾元三年、蒲同絳等州節度使を拝し、俄かに中書侍郎同中書門下平章事と為る。時に大兵の後、天下治まらんことを願う。璵望軽く、他才無く、士議諧可せず。既に驟かに政を得て、中外悵駭す。乃ち太一壇を置くを奏し、帝に身をして九宮祠に見えしむるを勧む。帝是より専意し、他の議能く奪うこと能わず。帝嘗て豫せず。太卜建言して祟は山川に在りとす。璵女巫を遣わし伝乗して分かちて天下の名山大川に禱らしむ。巫は皆盛服し、中人護領す。至る所州縣に幹托し、賂遺狼藉す。時に一巫美にして蠱しく、悪少年数十を以て自ら随い、尤も憸狡にして法に不法なり。黄州に馳せ入る。刺史左震晨に館に至り事を請う。門鐍啓かず。震怒り、鐍を破り入り、巫を取って廷下に斬り、従う所の少年を悉く誅し、其の贓を籍して十余万を得。因りて中人を還し遣わす。既に以て聞かしむ。璵詰うること能わず。帝も亦罪を加えず。明年、璵を罷めて刑部尚書と為し、又出でて淮南節度使と為り、猶祠祭使を兼ね、浙東に徙る。召し入り、再遷して太子少師と為る。卒す。開府儀同三司を贈り、謚して簡懷と曰う。

初め、王璵は鬼神に託して将相の位に至り、当時、左道によって進む者、紛紛として出でたり。李國禎は、術士として顕れ、廣德の初め、建言して曰く「唐家の仙系、宜しく福區を崇表し、神靈を招致すべし。昭應の南山を度して天華上宮・露臺・大地婆父祠を作り、並びに三皇・道君・太古天皇・中古伏羲・女媧等、各堂皇を為し、百戸を給して掃除せしむべし」と。又、即ち義扶谷の故湫に龍を祠り、房宇を置く。詔有りて之に従う。乃ち地を除き工を課す。時に歳饑饉、人、命に堪えず。昭應令梁鎮、上疏して切に諫め、以て七つの不可有りと為す。「天地の神、之を推して尊極なる者は、地を掃きて祭るべく、精意を以て享くべし。今、先王の典を廃し、人の為に福を祈る。福未だ至らずして人已に困す。又、神に違ひ人を虐ぐ、何に従ひてか福を致さんや。宗廟、月に三祭無し。此れ然るべからず。婆父の鄙語、経に見えず。若し地の為に祖廟を建てば、上天必ず向背の責を貽す。夫れ湫は、龍の托する所なり。今、湫竭きて久し、龍安くにか存せん。龍の穴を崇去するに宜しからず、生人の産を破るべからず。若し三皇・五帝・道君等は、両京及び都する所各宮廟有り、春秋彜饗す。此れ復た営造するは、是れ神を瀆すと謂ふ。夫れ休咎豐兇は本づく所五事に在りて、山川百神の明に在らず」と。即ち國禎等を劾して曰く「衆を動かせば則ち人を得、工を興せば則ち利を獲、祭祀すれば則ち胙を受け、主執すれば則ち権を市ひ、天聽を罔し、粢糈を負抱し、道路相望み、時に息む無し。人神胥に怨み、災孽並び至る。臣、昨命を受け、安輯すべき所有り。陛下、権宜を以てすべしと許す。今、興造する所、臣謹みて便宜を以て悉く停む」と。帝之に従ふ。鎮は慷慨にして名士たり。仕へて司門郎中に至る。璵の曾孫摶は、別に傳有り。