新唐書

巻一百八 列傳第三十三 劉仁軌 裴行儉子:光庭 稹 玄孫:均 婁師德

劉仁軌

劉仁軌、字は正則、汴州尉氏の人なり。少くして貧賤、学を好む。乱に値い、業を安んずること能わず、動止する毎に、地に画き空に書き、習う所を寓す、卒に博通を以て聞こゆ。武徳初め、河南道安撫大使任瑰が疏を上し論奏する所あり、仁軌その稿を見て、数言を竄定す。瑰驚異し、赤牒を以て息州参軍に補す。陳倉尉に転ず。部人の折衝都尉魯寧なる者、豪縱にして法を犯し、県敢えて屈する者なし。仁軌再び犯さざるを約すれども、寧暴横自若たり、仁軌搒ちて之を殺す。州以て聞す、太宗曰く「尉にして吾が折衝を殺す、可ならんや」と。召して詰責す。仁軌対えて曰く「寧臣を辱しむ、臣故に之を殺せり」と。帝剛正と為し、更に咸陽丞に擢ぐ。

初め、蘇定方既に百済を平げ、郎将劉仁願を留めて其の城を守らしめ、左衛中郎将王文度を熊津都督ととくと為し、残党を撫納す。文度死す、百済の故将福信及び浮屠道琛、故王子扶余豊を迎えて之を立て、兵を引いて仁願を囲む。詔して仁軌に帯方州刺史を検校せしめ、文度の衆を統べ、併せて新羅の兵を発して援と為し、仁軌兵を将うること厳整、転闘して陣を陥し、向う所前なること無し。信等仁願の囲みを解き、退きて任存城を保つ。既にして福信道琛を殺し、其の衆を併せ、叛亡を招き還し、勢甚だ張る。仁軌仁願と合し、則ち甲を解き士を休む。時に定方高麗を伐ち、平壤を囲むも克たず。高宗詔して仁軌に軍を抜きて新羅に就き、金法敏と議りて去留の計をせしむ。将士咸く還らんと欲す、仁軌曰く「『春秋』の義、大夫出でて疆にあり、以て社稷を安んじ国家に便ならしむる有る者は、之を専にするを得。今天子高麗を滅ぼさんと欲し、先ず百済を誅し、兵を留めて鎮守し、其の心腹を制す。孽豎跳梁すと雖も、士力未だ完からず、宜しく兵を厲し馬に粟し、備え無きに乗じ、意に不意を撃ち、百にして百全ならざる無し。戦勝の日、形勢を開張し、檄を騰して師を済し、声援接すれば、虜亡ぶ。今平壤勝たず、熊津又抜かるれば、則ち百済の燼復た炎え、高麗の滅ぶる期無からん。吾等新羅に入ると雖も、正に坐客に似たり、志に如かざる有らば、悔い得んや。扶余豊猜貳、表は合すと雖も内は携わり、熱くして久しきを支えず。宜しく堅守して変を伺い以て之を図るべく、軽く動くべからず」と。衆其の議に従い、乃ち兵を益すを請う。

時に賊真峴城を守る、仁軌夜に新羅の兵を督して城に薄き堞を扳ぐ、明け方に及びて之に入り、遂に新羅の饟道を通ず。而して豊果たして福信を襲い殺し、使を遣わして高麗・倭に至り援を丐う。会うに詔して右威衛将軍孫仁師を遣わし軍を率い海を浮かびて至らしむ、士気振う。ここに於て、諸将議す所向を、或いは曰く「加林城は水陸の衝、何ぞ先ず之を撃たざる」と。仁軌曰く「兵法実を避け虚を撃つ。加林は険にして固し、攻むれば則ち士を傷つけ、守れば則ち日を曠らす。周留城は、賊の巣穴、群凶此に聚まる。若し之を克せば、諸城自ら下らん」と。ここに於て仁師・仁願及び法敏陸軍を帥いて以て進み、仁軌は杜爽・扶余隆と熊津白江より繇りて之に会す。倭人に遇う白江口に於て、四戦皆克ち、四百艘を焚き、海水丹と為る。扶余豊身を脱して走り、其の宝剣を獲る。偽王子扶余忠勝・忠志等其の衆を率いて倭人と降る、独り酋帥遅受信任存城に拠りて未だ下らず。始め、定方百済を破りし時、酋領沙吒相如・黒歯常之亡散を嘯き、険に拠りて福信に応ず、是に至りて皆降る。仁軌赤心を以て之を示し、任存を取って自ら効せしむるを畀え、即ち鎧仗糧Яを給す。仁師曰く「夷狄の野心信じ難し、若し甲を受け粟を済まば、寇に資する便なり」と。仁軌曰く「吾相如・常之の忠にして謀有るを観る、機に因りて功を立てん、尚何ぞ疑わん」と。二人訖に其の城を抜く。遅受信妻子を委ねて高麗に奔る、百済の余党悉く平ぐ。仁師等旅を振るい還る、詔して仁軌を留めて兵を統べ鎮守せしむ。

百濟再び乱を被り、僵屍莽の如し、仁軌始めて命じて瘞埋弔祭せしむ。戸版を葺復し、官吏を署し、道路を開き、聚落を営み、防堰を復し、貧を賑し乏を貸し、耕種を勧課し、官社を立つるを為し、民皆其の所に安んず。遂に屯田を営み、以て高麗を経略す。仁願京師に至る、帝労して曰く「若し本武将なり、軍中の奏請、皆文理有り、何の道にして然る」と。対えて曰く「仁軌の辞、臣の能くする所に非ず」と。帝歎賞し、仁軌を超えて六階を進め、真に帯方州刺史を拝し、第一区を賜い、妻子を厚く賚い、璽書を以て褒勉す。

先に、貞観・永徽の中、士戦歿する者は皆詔して使を遣わし弔祭し、或いは官を贈り子弟に推授す。顕慶の後、討伐の恩賞殆ど絶ゆ;及び百済・平壤を破るも、功有る者皆甄叙せず。州県購募すれども、行くを願わず、身壮にして家富める者は、財を以て参逐し、率ね避免を得。募る所は皆佇劣寒憊、闘志無し。仁軌具に其の弊を論じ、慰賚を加えんことを請い、以て士心を鼓す。又表して扶余隆を用い、余衆を綏定せしむ。帝乃ち隆を以て熊津都督と為す。

時に劉仁願卑列道総管と為り、詔して兵を率い海を度り、旧屯に代わりて使わしめ、仁軌と俱に還らしむ。仁軌曰く「上巡狩して方嶽し、又高麗を経略す。方に農時なるに、吏と兵悉く代えられ、新たに至る者未だ習わず、万一蛮夷変を生ぜば、誰か之を捍がん。旧兵を留めて獲を畢えしめ、等級を遣わし還すに如かず。仁軌留まるべく、未だ去くべからず」と。仁願不可とし、曰く「吾ただ詔に准うるを知るのみ」と。仁軌曰く「然らず。苟も国家に利すれば、知りて為さざる無きは、臣の節なり」と。因りて便宜を陳べ、留まり屯せんことを願う。詔して可とす。ここに由りて仁願を以て不忠と為す。

始め、仁軌帯方州に任ずるや、人に謂いて曰く「天将に此の翁を富貴せしむるか」と。乃ち頒る所の暦及び宗廟の諱を請う、或いは其の故を問う、答えて曰く「遼海を削平し、本朝の正朔を頒示すべし」と。卒に皆言の如し。及び泰山に封ずるや、仁軌乃ち新羅・百済・儋羅・倭四国の酋長を率いて会に赴く。天子大いに悦び、大司憲に擢ぐ。右相に遷り、兼ねて検校太子左中護す。功を累ねて楽城県男に封ぜらる。

総章元年、熊津道安撫大使と為り、兼ねて浿江道総管、李勣に副いて高麗を討ち、之を平ぐ。疾を以て位を辞し、金紫光禄大夫に進み、致仕を聴す。俄に召されて隴州刺史と為り、太子左庶子・同中書門下三品を拝し、国史を監修す。咸亨五年、雞林道大総管と為り、東して新羅を伐つ。仁軌兵を率いて瓠蘆河を絶ち、大鎮七重城を攻め、之を破る。爵を進めて公と為し、子及び兄の子上柱国を授くる者三人、州党之を栄し、居る所を号して「楽城郷三柱里」と為す。俄に尚書左僕射兼太子賓客を拝し、仍って政事を知る。

吐蕃が侵入したので、洮河道行軍鎮守大使に任ぜられた。永隆二年、太子少傅を加えられた。たびたび致仕を願い出て、左僕射を解くことを許された。帝が東都に行幸し、太子が監国したとき、詔して仁軌に裴炎・薛元超とともに留まって補佐させた。太子が東都に赴いたときは、また詔して太孫重照を留守とし、仁軌をその副とした。武后が臨朝すると、再び左僕射に任ぜられた。太孫が廃されると、仁軌が専ら留守の事を知った。上疏して病を理由に辞し、呂后や呂禄・呂産の禍敗の事を述べて后を戒めた。后は武承嗣に璽書を持たせて慰労させた。文昌左相・同鳳閣鸞台三品に改めた。八十五歳で卒した。詔して百官に赴哭させ、開府儀同三司・へい州大都督を追贈し、乾陵に陪葬した。その家に実封三百戸を賜った。

仁軌は貴顕となっても驕らず、旧知を布衣の時のように接した。かつて御史袁異式に弾劾され、侮辱されて自決を迫られたことがあった。大司憲に任ぜられたとき、異式はまだ御史台にいて不安を抱き、酔って事情を弁明した。仁軌は杯を掲げて言った、「公と仲違いしないことを、この杯にかけて誓う」。後に執政となると、異式を司元大夫に推薦した。しかし州県から宰輔に至るまで、名声を博し、吏下の歓心を得た。洮河を鎮守したとき、機急の奏請を多く行ったが、中書令李敬玄に抑えられたので、仁軌は敬玄を元帥として自分と代わるよう上表したところ、果たしてその軍を敗れさせた。裴炎が獄に下ったとき、仁軌はちょうど京師を留守していた。郎将姜嗣宗が使者として来て、炎のことを語り、「炎は久しく常と異なっていた」と言った。仁軌は「使者は知っていたのか」と問うと、「知っていた」と答えた。帰還後、嗣宗が炎の反状を知りながら告げなかったことを上表した。武后は怒り、嗣宗を撲殺した。

子の浚は太子舍人に官した。垂拱年中、酷吏に殺された。中宗が即位すると、仁軌に東宮の旧恩があるとして、再び司空しくうを追贈した。浚の子の晃は、開元年中に給事中となり、碑を立てることを請い、文献と追諡された。

裴行儉

裴行儉、字は守約、絳州聞喜の人。父の仁基は、隋の光禄大夫で、王世充のもとから帰国を謀ったが、害された。原州都督を追贈され、忠と諡された。行儉は幼くして蔭補により弘文生となった。貞観年中、明経に挙げられ、左屯衛倉曹参そうしん軍に調ぜられた。時に蘇定方が大将軍であったが、行儉に「我が用兵の術を教えるべき者は世にいないが、今や子こそ賢才である」と言い、ことごとく術を授けた。長安ちょうあん令に遷った。高宗が武昭儀を立てようとしたとき、行儉は国家の憂いはこれから始まると考え、長孫無忌・褚遂良と密議したが、大理の袁公瑜が昭儀の母に告げ口したため、西州都督府長史に左遷された。麟徳二年、累進して安西都護に抜擢され、西域諸国は多くその義を慕って帰附した。召されて司文少卿となった。吏部侍郎に遷り、李敬玄・馬載とともに選挙を掌り、能名があり、時に「裴馬」と号された。行儉は初めて長名榜・銓注などの法を設け、また州県の昇降・資擬の高下を定めて故事とした。

上元三年、吐蕃が叛くと、洮州道左二軍総管として出向し、秦州右軍に改められ、ともに周王の節度を受けた。儀鳳二年、十姓可汗阿史那都支及び李遮匐が蕃落を誘って安西を動揺させ、吐蕃と連和したので、朝廷は討伐しようとした。行儉は議して言った、「吐蕃の叛勢はまさに盛んで、敬玄は軍律を失い、審礼は戦死した。どうしてさらに西方に事を生じさせられようか。今、波斯王が死に、その子の泥涅師が京師に人質となっている。もし使者を遣わしてこれを立てれば、すなわち二蕃の地を通る。もし権謀をもって事を制すれば、労せずして功を成すことができよう」。帝はそこで行儉に詔して波斯王を冊立護送させ、かつ安撫大食使とした。まっすぐに莫賀延磧を通ると、風砂で昼も暗く、案内者は迷い、将士は飢え疲れた。行儉は営を止めて祭祀を行い、「水泉は遠くない」と命じた。兵士たちは少し安堵した。やがて雲が晴れ風が静まり、数百歩進むと水草が豊かで美しく、後から来た者はその場所を知らなかった。皆驚き、漢の貳師将軍に比した。西州に至ると、諸蕃が郊迎し、行儉は豪傑千余人を召し従えた。「暑さが厳しく、進軍できぬ。秋を待って駐軍すべきだ」と大言した。都支はこれを偵知して、備えをしなかった。行儉はゆるやかに四鎮の酋長を召し、偽って狩猟を約し、「この楽しみを忘れたことがない。誰か我が狩りに従う者はいるか」と言った。そこで子弟で従おうとする者が万人おり、ひそかに部隊を整えた。数日後、倍道で進み、都支の帳から十余里のところで、まずその親しい者を遣わして安否を問わせ、外見は閑暇で討襲する者ではないように見せた。また人をやって都支を急ぎ召し出させた。都支はもと遮匐と謀り、秋になって使者を拒もうとしていたが、すでに軍の来たると聞き、慌ててどうしてよいかわからず、子弟五百余人を率いて営に謁し、ついにこれを擒らえた。この日、契箭を伝えて諸部の酋長をことごとく召し出し、命を請わせ、ともに捕えて碎葉城に送った。精騎を選び、軽装で遮匐を襲撃した。途中で遮匐の使者を捕えたが、釈放して先に行かせ、その主に諭させ、都支がすでに捕えられた様子を言わせた。遮匐はそこで降伏し、ことごとく捕虜として京師に送られた。将吏は碎葉城に石碑を刻んで功を記した。帝は自ら労宴し、「行儉は孤軍を提げ、万里を深く進み、兵刃に血塗ることなく叛党を擒らえ平定した。文武兼備というべきである。二職を兼ねて授けよ」と言い、すなわち礼部尚書兼検校右衛大将軍に任じた。

先に、王嗣業が糧食を輸送したが、たびたび虜に掠奪され、軍は餓死した。行儉は「謀をもって敵を制すればよい」と言い、偽りの糧車三百乗を作り、各車に壮士五輩を伏せ、斉眉の陌刀と勁弩を持たせ、疲れた兵に牽かせて進ませ、また精兵を伏せてその後を追わせた。虜は果たして車を掠め、疲れた兵は険しいところに逃げた。賊は水草のあるところに車を追いやって、鞍を解き馬を放牧した。ちょうど糧車の中を取ろうとしたとき、壮士が突出し、伏兵が至り、殺し捕らえることほぼ尽くした。これ以降、糧車に近づく者はなくなった。

大軍が単于の北に駐屯した。夕方、すでに営を立て、塹壕も巡らしたが、行儉はさらに命じて高岡に営を移させた。吏が「兵士は安堵しており、動かすことはできません」と言ったが、聞き入れず、急いで移させた。夜になるころ、風雨が激しく至り、前に営を占めた所は水深一丈余りになり、衆はみな驚き嘆き、どうして知ったのかと問うた。行儉は「今後ただ我が節制に従え。どうして知ったかは問うな」と言った。

賊は黒山で抵抗したが、数戦して皆敗れ、行儉は兵を放って前後殺戮捕虜すること数えきれなかった。偽可汗泥熟匐はその下に殺され、首を持って降った。また大首領奉職を擒らえて還り、余党は狼山に逃げた。行儉が還った後、阿史那伏念が偽って可汗を称し、再び温傅と合した。翌年、行儉は還って諸軍を総べ、代州の陘口に屯し、反間を用いて伏念を説き、温傅と仲違いさせた。伏念は恐れ、密かに降伏を申し出、かつ温傅を縛って忠誠を示すことを請うた。行儉は秘密にして公表せず、密かに上聞した。数日後、煙塵が天に漲って南に進み、斥候が恐れ騒いだ。行儉は「これは伏念が温傅を捕えて来降するのであって、他ではない。しかも降を受けるは敵を受けるがごとし」と言い、厳重に備えるよう命じ、単身の使者を遣わして労った。やがて果たしてそのとおりであった。ここにおいて突厥の余党は悉く平定された。帝は喜び、戸部尚書崔知悌を遣わして軍を労った。

初め、行儉は伏念に死なせぬと約したが、侍中裴炎がその功を妬み、建言して言うには、「伏念は程務挺・張虔勖に脅迫されて追われ、また磧北の回紇に迫られ、計窮して降ったのである」と。ついに伏念及び温傅を都市で斬った。行儉の功は記録されなかった。聞喜県公に封ぜられる。行儉は嘆いて言うには、「渾・浚の事は、古今これを恥じる。ただ降伏者を殺せば、後には再び来る者も無かろうことを恐れるのみ」と。そこで病と称して出仕しなかった。永淳元年、十姓突厥の車薄が叛き、再び金牙道大総管となるが、出発せずに卒去。年六十四。幽州都督を追贈され、諡して献という。詔して皇太子に官を遣わして家事を護視させ、子孫が自立できるようになってから停止させた。中宗が即位すると、再び揚州大都督を追贈された。

行儉は草隷に巧みで、名家であった。帝はかつて絹素を賜って『文選』を書写させ、これを覧て、ひそかにその法を愛し、賜物は甚だ厚かった。行儉は常に言うには、「褚遂良は精筆・佳墨でなければ、決して書かず、筆墨を選ばずして妍麗かつ迅速な者は、余と虞世南のみである」と。撰した『選譜』・『草字雑体』は数万言。また営陣・部伍・勝負を料り・器能を別つ等の四十六訣を作ったが、武后が武承嗣に命じて邸から取りに行かせ、再び伝わらなかった。

行儉は陰陽・暦術に通じ、戦うごとに、あらかじめ勝つ日を言い当てた。人を見抜くことに長け、吏部にいた時、蘇味道・王抃を見て言うには、「二君は後に皆銓衡を掌るであろう」と。李敬玄が王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の才を盛んに称え、引き合わせて行儉に見せた。行儉は言うには、「士が遠くに至るには、先ず器識、後に文芸である。勃らの如きは、才はあれども、浮躁で衒露であり、どうして爵禄を享けようか。炯は頗る沈黙であり、令長に至ることはできよう。その余は皆その死を得ないであろう」と。引き立てた偏裨の将、程務挺・張虔勖・崔智睟・王方翼・党金毘・劉敬同・郭待封・李多祚・黒歯常之の如きは、多く世の名将となり、従者や上奏者で刺史・将軍に至った者は数十人に及んだ。

かつて馬と珍しい鞍を賜わった時、令史が私に馬を走らせ、馬がつまずいて鞍が壊れた。令史は恐れて逃げたが、行儉は招き戻して、罪を加えなかった。初め、都支・遮匐を平定した時、計り知れぬ瑰宝を獲た。蕃酋や将士が見たいと願ったので、行儉は宴の席で、座る者全てに見せた。広さ二尺の瑪瑙盤があり、文彩が鮮やかであった。軍吏が走って来て盤につまずき、盤を割ってしまった。軍吏は恐れ慄き、頭を叩いて血を流した。行儉は笑って言うには、「汝は故意ではない、どうしてそこまでするのか」と。顔色に少しも惜しむ様子がなかった。帝が都支の資産・器物・金三千余り、それに相当する駱駝・馬・牛を賜わったが、行儉は親戚・旧知および麾下に分け与え、数日で尽きてしまった。

子に光庭あり。

子の光庭。光庭は字を連城といい、早く孤となった。母の厙狄氏は婦徳があり、武后が召し入れて宮中に仕えさせ、禦正とし、甚だ親寵された。光庭はこれにより累遷して太常丞となった。武三思の婿であったため、坐して郢州司馬に貶せられた。開元年中、兵部郎中・鴻臚少卿に抜擢された。性は静黙で、交遊少なく、急に台省の官を歴任したが、人はこれを認めず、後にその職務ぶりが称えられると、議論する者は改めて推重した。

玄宗が岱宗で封禅の儀を行うことになった時、中書令張説は、天子が東巡する間に京師が空虚となり、夷狄が隙に乗じてひそかに発することを恐れ、兵を加えて辺境を守ることを議し、光庭を召して謀った。光庭は対えて言うには、「封禅は、成功を告げるためのものである。成功とは、徳の行き届かぬ所が無く、人の安からぬ所が無く、万国が懐かぬ所が無いことである。今、成功を告げようとして夷狄を懼れるのは、徳を昭かにすることではない。大いに力役を興し、不虞に備えるのは、人を安んずることではない。まさに会同を謀ろうとして戎の心を阻むのは、遠方を懐かしめることではない。この三つは、名と実が乖離している。かつ諸蕃の中では、突厥が最大であり、贄幣を往来させ、和好を修めたいと願って数年になる。もし一使を遣わし、その大臣を召して行在所に赴かせれば、必ず欣然として命に応じよう。突厥が詔を受ければ、諸蕃の君長は必ず相率いて来朝するであろう。我らは旗を偃げ鼓を息ませ、再び事を構える必要は無い」と。張説は言うには、「善い、私の及ばぬところである」と。そこでその策を用いるよう奏上し、突厥は果たして使を遣わして来朝した。

東封から還ると、兵部侍郎に遷った。久しくして、中書侍郎・同中書門下平章事に拝され、御史大夫を兼ねた。黄門侍郎に遷り、侍中に拝され、吏部尚書・弘文館学士を兼ねた。『揺山往則』・『維城前軌』の二篇を撰して献上した。手製の詔で褒め称えられ、詔して皇太子・諸王を光順門で光庭に拝謁させ、規諷の意を謝させた。光庭はまた寿安丞李融・拾遺張琪・著作佐郎司馬利賓を引き立てて弘文館に直らせ、『続春秋経伝』を撰させた。戦国から隋に至り、表を奉って天子に経を修めさせ、光庭らが伝を作ることを請うた。書は長く完成しなかった。時に唐は金徳に応ずるべきだと建言する者があった。中書令蕭嵩が百官に広く議論するよう請うた。光庭は、唐の符命が天下に表著して久しいので、改めるべからずとし、急ぎ奏上してこれを止めさせた。二十年、正平県男に封ぜられた。初め、星を知る者が言うには、天象が変じ、大臣に不利であると。禳いを請うた。光庭は言うには、「禍が禳いによって去るならば、福も祝いによって来るであろう」と。論者はこれを命を知るとした。卒去。年五十八。太師を追贈された。

初め、吏部は人を求めるのに資考を限界とせず、奨励抜擢するのはその才のみとし、しばしば俊乂を得て任用したので、士も自ら奮い立った。その後、士人が猥多となり、専ら趨競に務め、銓品が枉げ曲げられた。光庭はこれを戒め、行儉の長名榜に因り、乃ち循資格を作り、賢・不肖を問わず、一に資考に拠って配擬した。また選限を促して正月に尽くさせた。門下省主事の閻麟之に過官を専ら主管させ、凡そ麟之が裁定すると、光庭は即座に然りと認めた。時に言葉に曰く、「麟之の口、光庭の手」と。平素より蕭嵩と権勢の軽重で対立し、光庭が卒すると、蕭嵩は一切これを罷めるよう奏上し、光庭が引き立てた者を全て外官に斥けた。博士の孫琬は、その循資格を用いたことを、奨励勧奨の道理に非ずとして、諡を克平とした。時に人は蕭嵩の意を迎えたと思った。帝がこれを聞き、特に諡を忠憲と賜い、詔して中書令張九齢にその碑文を書かせた。

子に稹あり。

子の稹。蔭により仕え、累遷して起居郎となった。開元末、寿王瑁が母の寵愛により、太子に立てられようとした。稹は申生・戾園の禍を陳べて諫めた。玄宗は顔色を改めて謝し、詔して給事中を授けようとした。稹は言うには、「陛下は諫言の路を絶たれて日が久しい。今、臣の一言で殊寵を蒙れば、言う者が多くなるであろう。どうしてそれに賜与できようか」と。帝はその譲りを善しとし、拝することを止めた。まもなく祠部員外郎を授かり、卒去した。子の倩、字は容卿。信州刺史を歴任した。民を勧めて田二万畝を墾き、治行により金紫服を賜わる。第五琦に代わって度支郎中となる。卒去し、諡して節という。子に均あり。

玄孫に均あり。

均は字を君斉といい、明経により諸暨尉となった。数度、使府に辟召され、硜硜として才を顕わした。張建封が濠・寿を鎮守した時、表して団練判官とした。時に李希烈が淮・蔡で叛き、建封が賊を防ぎ、均がこれを参賛した。労により上柱国を加えられ、正平県男を襲封した。累遷して膳部郎中となり、抜擢されて荊南節度行軍司馬、就いて荊南節度使に拝された。劉辟が叛き、先ず黔・巫を騒がせ、荊・楚を脅して首尾を固めようとした。均は精鋭の甲兵三千を発し、逆襲した。賊は風の音を聞いて奔り退いた。検校吏部尚書を加えられた。

初め、均と崔太素は共に中人の竇文場に仕えた。太素がかつて朝に文場を省み、臥内に入ると、自分は非常に厚く遇されていると思ったが、徐かに後ろの榻を見ると、伸びをしている者がいた。乃ち均であった。徳宗は均を方鎮に任じ、遂に宰相にしようとした。諫官の李約が上疏して均を文場の養子と斥け、台輔を汚すべからずとし、乃ち止めた。

婁師德

婁師徳、字は宗仁、鄭州原武の人なり。進士に及第し、江都尉に調せらる。揚州長史盧承業、之を異とし、曰く、「子は台輔の器なり、当に子孫を以て相諉うべし、豈に僚吏を論ぜんや」と。

上元初め、監察御史と為る。会に吐蕃辺を盗み、劉審礼戦沒す。師徳、使を奉じて敗亡を洮河に収め、因りて吐蕃に使す。其の首領論贊婆等、赤嶺より自ら牛酒を操りて迎労し、師徳、国の威信を諭し、利害を開陳す。虜畏悦す。後に猛士を募りて吐蕃を討たんとし、乃ち自ら奮い、紅抹額を戴きて詔に応ず。高宗、朝散大夫を仮し、軍に従わしむ。功有り、殿中侍御史に遷り、河源軍司馬を兼ね、並びに営田の事を知る。虜と白水潤に戦い、八たび遇いて八たび克つ。

天授初め、左金吾将軍、検校豊州都督と為る。皮袴を衣、士を率いて屯田し、穀数百万を積む。兵饒給し、転餉和糴の費無し。武后、書を降して之を労う。長寿元年、召して夏官侍郎を授け、尚書事を判じ、同鳳閣鸞台平章事に進む。后嘗て師徳に謂ひて曰く、「師辺に在りては、必ず営田を待つ。公以て劬労を憚るべからず」と。乃ち復た之を以て河源・積石・懐遠軍及び河・蘭・鄯・廓州検校営田大使と為す。入りて秋官尚書・原武県男に遷り、左粛政御史大夫に改め、並びに政事を知る。証聖中、王孝傑と共に吐蕃を洮州に拒ぎ、素羅汗山に戦ひ、敗績し、原州員外司馬に貶せらる。万歳通天二年、入りて鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。後に武懿宗・狄仁傑と分道して河北を撫定し、納言に進み、更に譙県子・隴右諸軍大使に封ぜられ、復た営田を領す。

師徳、身長八尺、口方く脣博し。深沉にして度量有り、人己に忤ふ有れば、輒ち遜りて以て自ら免れ、容色を見せず。嘗て李昭德と偕に行く。師徳素より豊碩にして、遽歩すること能はず。昭德之を遅しとし、恚りて曰く、「田舎者に留めらる」と。師徳笑ひて曰く、「吾田舎ならずんば、復た何人に在らんや」と。其の弟代州を守る。之が官に辞するに、事に耐ふるを教ふ。弟曰く、「人面に唾すれば、之を潔ぐれば乃ち已む」と。師徳曰く、「未だならず。之を潔ぐるは、是れ其の怒りに違ふ。正に自ら乾かしむるのみ」と。夏官に在りて選を注す。選者、就きて簿を按閲す。師徳曰く、「我に之を択ばしむることを容るべしや」と。選者去らず。乃ち筆を灑ぎて曰く、「墨爾を汚す」と。

狄仁傑未だ政を輔けざる時、師徳之を薦む。及び同列に至り、数たび擠して外使せしむ。武后覚り、仁傑に問ひて曰く、「師徳賢なるか」と。対へて曰く、「将と為りて謹み守る。賢なるかは知らず」と。又問ふ、「人を知るか」と。対へて曰く、「臣嘗て同僚とす。未だ其の人を知るを聞かず」と。后曰く、「朕卿を用ふるは、師徳の薦むるなり。誠に人を知る」と。其の奏を出だす。仁傑慚じ、已にして歎じて曰く、「婁公盛徳、我其の容るる所と為るを知る乃ち知らず。吾遠く及ばず」と。辺要を総べ、将相と為ること三十年、恭勤樸忠、心に適莫無し。方に酷吏残鷙にして、人多く免れず。独り功名を以て始終することを能くし、郝処俊と相亞ぐ。世の長者を言ふもの、婁・郝を称す。

贊に曰く、「仁軌等は兵を以て四夷を開定す。其の勇前に無し。上に奉ずるに至りては瞿瞿として及ばざるが若し。行儉は下に臨むに恕を以てし、師徳は寛厚なり。其れ功名を以て始終することを能くする者は、蓋し勇にして敢なれば則ち殺され、勇にして敢ならざれば則ち活く者に近きか。