新唐書

巻一百七 列傳第三十二 傅弈 呂才子:方毅 陳子昂附:王無競 趙元

巻一百七 列傳第三十二 傅弈 呂才子:方毅 陳子昂附:王無競 趙元

傅弈

原文傅弈

傅弈は相州鄴の人である。隋の開皇年間、儀曹として漢王諒に仕えた。諒が謀反を起こすと、弈に問うて曰く、「今、熒惑が東井に入るが、果たして如何なるか」と。対えて曰く、「東井は黄道の経由する所、熒惑の宿る処、何ぞ怪しむに足らんや。若し地上の井に入らば、乃ち災いとならん」と。諒は怒った。間もなく敗れるに及び、弈はこの対答によって罪を免れ、扶風に移された。

原文傅弈,相州鄴人。隋開皇中,以儀曹事漢王諒。諒反,問弈:「今茲熒惑入井,果若何?」對曰:「東井,黃道所由,熒惑之舍,烏足怪邪?若入地上井,乃為災。」諒怒。俄及敗,弈以對免,徙扶風。

高祖が扶風太守であった時、礼を以て彼を遇した。即位すると、太史丞に拝された。時に太史令の庾儉は、父の質が占候によって煬帝に逆らい死んだことを懲り、術をもって官に就くことを恥じ、弈を推挙して自らの代わりとした。弈は令に遷り、儉と同列となったが、しばしば彼を排撃誹毀した。儉は恨みとせず、ここにおいて人多くは儉の仁を称え、弈の軽率かつ憤激を罪とした。

原文高祖為扶風太守,禮之。及即位,拜太史丞。會令庾儉以父質占候忤煬帝死,懲其事,恥以術宦,薦弈自代。弈遷令,與儉同列,數排毀之,儉不為恨。於是人多儉仁,罪弈遽且忿。

当時、国の制度は粗末で、多くは隋の旧制を踏襲していた。弈は乱世の後に承けて、変更あるべきであると謂い、乃ち上言して曰く、「龍紀・火官は黄帝がこれを廃し、『咸池』・『六英』は堯が相沿わず、禹は舜の政を行わず、周は湯の礼を襲わず。『易』に『巳日乃ち孚る、革にして信なり』と称し、故に曰く『革の時大いなるかな』と。隋の末世、天に違い民を害し、専ら刑法を峻烈にし、賢俊を殺戮し、天下の兆庶同心してこれに叛いた。陛下は乱を撥き正を反すが、官名・律令は一に隋の旧を用いる。且つ沸羹を懲りて冷齏を吹くが如く、弓に傷つきたる鳥は曲木に驚く。況んや天下久しく隋の暴に苦しむ、安んぞその耳目を新たにせざるを得んや。正朔を改正し、服色を易え、律令を変じ、官名を革め、功極まって楽を作り、治終わって礼を制し、民に盛徳の隆なるを知らしむ、これその時なり。然れども官は簡約を貴ぶ。夏后の官百は虞氏の五十に如かず、周の三百は商の百に如かず」と。又曰く、「夏に乱政有りて『禹刑』を作り、商に乱政有りて『湯刑』を作り、周に乱政有りて『九刑』を作る。衛鞅秦の為に法を制し、鑿顛・抽脅・鑊烹等六篇を増し、始皇挟書律を作る。これ煩に失う、監みざるべからず」と。

原文時國制草具,多仍隋舊,弈謂承亂世之後,當有變更,乃上言:「龍紀、火官,黃帝廢之,《咸池》、《六英》,堯不相沿,禹弗行舜政,周弗襲湯禮。《易》稱'巳日乃孚,革而信也',故曰'革之時大矣哉'。有隋之季,違天害民,專峻刑法,殺戮賢俊,天下兆庶同心叛之。陛下撥亂反正,而官名、律令一用隋舊。且懲沸羹者吹冷齏,傷弓之鳥驚曲木,況天下久苦隋暴,安得不新其耳目哉?改正朔,易服色,變律令,革官名,功極作樂,治終制禮,使民知盛德之隆,此其時也。然官貴簡約,夏後官百不如虞氏五十,週三百不如商之百。」又曰:「夏有亂政而作《禹刑》,商有亂政而作《湯刑》,周有亂政而作《九刑》。衛鞅為秦制法,增鑿顛、抽脅、鑊烹等六篇,始皇為挾書律,此失於煩,不可不監。」

この時、太僕卿張道源が建言した、「官曹の文簿繁雑で総括し難く、欺き易い。これを減じて以て吏の奸を鈐めんことを請う」と。公卿挙げて然りとせず、弈独りこれを是とし、衆に沮まれ誹られて、行われるを得なかった。

原文是時,太僕卿張道源建言:「官曹文簿繁總易欺,請減之以鈐吏奸。」公卿舉不為然,弈獨是之,為眾沮訾,不得行。

武徳七年、上疏して極めて浮屠の法を詆毀して曰く、

原文武德七年,上疏極詆浮圖法曰:

西域の法は、君臣父子無く、三塗六道を以て愚を嚇し庸を期す。既往の罪を追い、将来の福を窺い、身悪逆に陷り、獄中に仏を礼し、口梵言を誦し、以て免れんことを図るに至る。且つ生死寿夭は、本諸自然に在り。刑徳威福は、人の主に係る。今その徒矯托して、皆仏に由ると云う。天理を攘み、主権を窃む。『書』に曰く、「惟だ辟は福を作し、惟だ辟は威を作し、惟だ辟は玉食す」と。臣にして福を作し威を作し玉食する者は、而が家に害し、而が国に凶なり。

原文西域之法,無君臣父子,以三塗六道嚇愚期庸。追既往之罪,窺將來之福,至有身陷惡逆,獄中禮佛,口誦梵言,以圖偷免。且生死壽夭,本諸自然;刑德威福,系之人主。今其徒矯托,皆云由佛,攘天理,竊主權。《書》曰:「惟辟作福,惟辟作威,惟辟玉食。」臣有作福作威玉食,害於而家,凶于而國。

五帝三王には、仏法無く、君明らかに臣忠にして、年祚長久なり。漢の明帝に至り初めて胡祠を立てるも、然れども惟だ西域の桑門自らその教を伝う。西晋以上は、中国の髡発して胡に事えることを許さず。石氏・苻氏の華を乱すに至り、乃ちその禁を弛め、主庸く臣佞にして、政虐く祚短かし。仏に事えて然らしむ。梁の武帝・斉の襄王は尤も以て戒めと為すに足る。昔、褒姒一女、幽王を営惑して、能くその国を亡ぼす。況んや今僧尼十万、刻絵泥像を以て天下を惑わす、亡びざる有らんや。陛下十万の衆を以て、自ら夫婦と為し、十年産を滋し、十年教訓すれば、兵農両足し、利勝て既にすべからんや。昔、高斉の章仇子他、僧尼塔廟を言い、外には宰臣に毀たれ、内には妃嬙に疾まれ、陽に讒せられ陰に謗られ、卒に都市に死す。周の武帝斉に入り、その墓を封じて寵す。臣窃かにこれを賢とす」と。

原文五帝三王,未有佛法,君明臣忠,年祚長久。至漢明帝始立胡祠,然惟西域桑門自傳其教。西晉以上,不許中國髡發事胡。至石、苻亂華,乃弛厥禁,主庸臣佞,政虐祚短,事佛致然。梁武、齊襄尤足為戒。昔褒姒一女,營惑幽王,能亡其國,況今僧尼十萬,刻繪泥像,以惑天下,有不亡乎?陛下以十萬之眾,自相夫婦,十年滋產,十年教訓,兵農兩足,利可勝既邪?昔高齊章仇子他言僧尼塔廟,外見毀宰臣,內見疾妃嬙,陽讒陰謗,卒死都市,周武帝入齊,封寵其墓,臣竊賢之。

又十二論を上り、言益々痛切なり。帝弈の議を有司に下す。唯だ道源のみその請を佐く。中書令蕭瑀曰く、「仏は聖人なり。聖人に非ざる者は法無し。これを誅せんことを請う」と。弈曰く、「礼は、始めは親に事え、終わりは君に事う。而るに仏は父を逃れて出家し、匹夫を以て天子に抗し、継体を以て親しむ所に悖る。瑀は空桑より出でずして、乃ちその言を尊ぶ。蓋し所謂く孝に非ざる者は親無きなり」と。瑀答えず、ただ爪を合わせて曰く、「地獄正に是の人の為に設く」と。帝弈の対を善しとし、未だ行うに及ばず、位を伝うるに会いて止む。

原文又上十二論,言益痛切。帝下弈議有司,唯道源佐其請。中書令蕭瑀曰:「佛,聖人也,非聖人者無法,請誅之。」弈曰:「禮,始事親,終事君。而佛逃父出家,以匹夫抗天子,以繼體悖所親。瑀非出空桑,乃尊其言,蓋所謂非孝者無親。」瑀不答,但合爪曰:「地獄正為是人設矣。」帝善弈對,未及行,會傳位止。

初め、九年、太白秦の分を躔す。弈奏して秦王当に天下有るべしとす。帝奏を以て王に付す。太宗即位に及び、召して食を賜い、謂いて曰く、「向の奏は、幾くんぞ我を敗らんとす。然れども、今よりは諱いみなむ所有りて言を尽くさざること無かれ」と。又嘗て問う、「卿仏法を拒む、奈何」と。弈曰く、「仏は西胡の黠人なるのみ。夷狄を欺訹して以て自ら神と為す。中国に入るに至りて、鏚児幻夫、象を摸して荘・老を以て文飾す。国家に害有りて、百姓に補うこと無し」と。帝これを異とす。

原文初,九年,太白躔秦分,弈奏秦王當有天下,帝以奏付王。及太宗即位,召賜食,謂曰:「向所奏,幾敗我!雖然,自今毋有所諱而不盡言。」又嘗問:「卿拒佛法,奈何?」弈曰:「佛,西胡黠人爾,欺訹夷狄以自神。至入中國,而鏚兒幻夫摸象莊、老以文飾之,有害國家,而無補百姓也。」帝異之。

貞観十三年、卒す。年八十五。弈病みて、未だ嘗て医を問わず。忽ち酣臥し、蹶然として悟りて曰く、「吾死せんか」と。即ち自ら志して曰く、「傅弈、青山白雲の人なり。酔いて死す。嗚呼」と。遺言して子を戒めて曰く、「『六経』名教の言は、若し習うべし。妖胡の法は、慎んで為すこと無かれ。吾死して倮葬せよ」と。弈は数に善くするも、然れども嘗て自らその学は伝うべからずと曰う。又『老子』を注し、並びに晋・魏以来仏と議駁する者を集めて『高識篇』と為す。武徳の時、改むる所の漏刻、定むる所の十二軍の号は、皆詔して弈に云わしむ。

原文貞觀十三年,卒,年八十五。弈病,未嘗問醫,忽酣臥,蹶然悟曰:「吾死矣乎!」即自志曰:「傅弈,青山白雲人也。以醉死,嗚乎!」遺言戒子:「《六經》名教言,若可習也;妖胡之法,慎勿為。吾死當倮葬。」弈雖善數,然嘗自言其學不可以傳。又注《老子》,並集晉、魏以來與佛議駁者為《高識篇》。武德時,所改漏刻,定十二軍號,皆詔弈雲。

呂才

原文呂才

呂才は博州清平の人である。貞観の時、祖孝孫が楽律を増損し、音家の王長通・白明達と更に質難するも、決すること能わず。太宗詔して侍臣に善く音する者を挙げしむ。中書令温彦博、才の天悟人に絶るを白し、聞見一接すれば、輒ちその妙を窮むと。侍中王珪・魏征、才の制する尺八凡そ十二枚、長短同じからずして律と諧契するを盛んに称す。即ち才を召して弘文館に直らしめ、楽事に参論せしむ。

原文呂才,博州清平人。貞觀時,祖孝孫增損樂律,與音家王長通、白明達更質難,不能決。太宗詔侍臣舉善音者,中書令溫彥博白才天悟絕人,聞見一接,輒窮其妙;侍中王珪、魏征盛稱才制尺八凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事。

帝はかつて周武帝の『三局象経』を閲覧したが、通ずることができず、或る者が太子洗馬蔡允恭がこれを能くすると言ったので、召して問うと、允恭は少しくその概略を通じていたが、老いて乃ち忘れた。試みに呂才に問うと、一晩で退いて即座に解し、図を具えて以て聞かせた。允恭がその旧きを記すところ、呂才の正すところと同一であった。ここに由って名を知られるようになり、累次抜擢されて太常博士となった。

原文帝嘗覽周武帝《三局象經》,不能通,或言太子洗馬蔡允恭能之,召問允恭,少通其略,老乃忘。試問才,退一昔即解,具圖以聞。允恭記其舊,與才正同,由是知名。擢累太常博士。

帝は陰陽家の伝える書が多く謬偽浅悪であり、世間が益々拘束され畏怖するのを病み、呂才に宿学の老師と共に煩雑訛謬を削除させ、採用し得るものを掇拾して五十三篇とし、旧書四十七篇と合わせて凡そ百篇とし、詔を以て天下に頒布させた。呂才の持論は儒教的でありながら鄙俗でなく、経書の義理を以てその験術を推し処し、諸家は共にこれを誹謗したが、また世間は相い惑わされて禍福を以てし、終に悟る者無かったという。

原文帝病陰陽家所傳書多謬偽淺惡,世益拘畏,命才與宿學老師刪落煩訛,掇可用者為五十三篇,合舊書四十七,凡百篇,詔頒天下。才於持議儒而不俚,以經誼推處其驗術,諸家共訶短之,又舉世相惑以禍福,終莫悟雲。

呂才の言は甚だ文飾されておらず、要は俗失を救い、時事に切実であり、分かり易からしめんとするものである。故にその三篇を刂る。

原文才之言不甚文,要欲救俗失,切時事,俾易曉也。故叕刂其三篇。

『卜宅篇』に曰く、

原文《卜宅篇》曰:

『易経』は「上古は穴居して野に処り、後世の聖人は之を宮室に易える。蓋し諸を『大壮』に取るなり」と称える。殷・周の時には卜して選択する文があり、『詩経』は「其の陰陽を相う」と称え、『書経』には洛を卜して食むとある。近世に至って乃ち五姓あり、宮・商・角・徵・羽を謂い、以て天下の万物を悉く配属し、以て吉凶を処すとするが、然しその言は皆類せず。例えば張・王を商とし、武・庾を羽とするは、音を以て相い諧附するが故なり。柳を宮とし、趙を角とするに至っては、則ち又然らず。その間、一姓にして両属し、復姓の数字あざなは帰する所を得ず。これは直ちに野人巫師の説に過ぎぬ。『堪輿経』に按ずるに、黄帝が天老に対し、始めて五姓を言う。且つ黄帝の時は独り姫・姜の数姓のみ、後世は族を賜うこと浸多なり。然れども管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇は本を姫姓にし、孔・殷・宋・華・向・蕭・亳・皇甫は本を子姓にす。官に因りて氏を命じ、邑に因りて族を賜うに至っては、本は同なりと雖も末は異なり、何ぞ宮商を配せんや。春秋は陳・衛・秦を以て水姓とし、齊・鄭・宋を以て火姓とす。或いは出ずる祖、分かつ星、居る地に由り、以て由来を著すのであって、宮・商・角・徵・羽が相い管摂するのではない。

原文《易》稱「上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室。蓋取諸《大壯》」。殷、周時有卜擇之文,《詩》稱「相其陰陽」,《書》卜洛食。近世乃有五姓,謂宮也,商也,角也,徵也,羽也,以為天下萬物悉配屬之,以處吉凶,然言皆不類。如張、王為商,武、庾為羽,是以音相諧附;至柳為宮,趙為角,則又不然。其間一姓而兩屬,復姓數字不得所歸。是直野人巫師說爾。按《堪輿經》,黃帝對天老,始言五姓。且黃帝時獨姬、薑數姓耳,後世賜族者浸多,然管、蔡、郕、霍、魯、衛、毛、聃、郜、雍、曹、滕、畢、原、酆、郇本之姬姓,孔、殷、宋、華、向、蕭、亳、皇甫本之子姓,至因官命氏,因邑賜族,本同末異,叵為配宮商哉?春秋以陳、衛、秦為水姓,齊、鄭、宋為火姓,或所出之祖,所分之星,所居之地,以著由來,非宮、商、角、徵、羽相管攝也。

『祿命篇』に曰く、

原文《祿命篇》曰:

漢の宋忠・賈誼が司馬季主を譏って曰く「卜筮者は人の祿命を高くし、以て人心を悦ばせ、禍福を矯言し、以て人の財を規る」と。王充は曰く「骨體を見て命祿を知り、命祿を見て骨體を知る」と。此れ則ち祿命を言うこと尚ぶ所以である。然し其の本原を推索すれば、固より然らず。「善を積むの家には、必ず余慶有り」、豈に祿を建てて後に吉ならんや。「悪を積むの家には、必ず余殃有り」、豈に劫殺して後に災ならんや。「皇天に親無く、常に善人に与う」、天人の交わりは影響の如し。「夏に多罪有り、天命剿絶す」、宋の景公が徳を修めれば妖星退舍す。「学べば祿も其の中に在り」、生まれながらに建学に当たるのではない。文王の憂勤は壽を損じたが、初め空亡に値したのではない。長平に降卒を坑すること、俱に三刑を犯したのではない。南陽に近親多きこと、俱に六合に当たるのではない。歴陽湖となるも、河魁と共にせず。蜀郡炎火と為るも、災厄を尽くさず。世に同じく祿を建てながら貴賤殊域なる者あり、同じく命若しくは胎に共にして夭壽異科なる者あり。魯の桓公六年七月、子同生まる、是れ莊公と為る。暦に按ずるに、歳は乙亥に在り、月は申を建つ。然らば則ち祿空亡に値し、法に据れば窮賤に応ず。又句絞六害に触れ、驛馬に偝い、身は驛馬を克ち三刑し、法に官無し。命は火なり、生まれて病郷に当たる。法に曰く「人と為り尪弱矬陋なり」と。然るに『詩経』は莊公を言いて曰く「猗嗟昌兮、頎而長兮。美目揚兮、巧趨蹌兮」と。唯だ命に向かう一物のみ、法に壽に当たるべく、而るに公の薨ずるは四十五に止まる。一たび験せず。秦の昭襄王四十八年、始皇帝生まる、正月を以てす、故に名を政とす。是の歳壬寅正月、命は祿に偝い、法に於て官無し。仮に祿を得たとしても、奴婢は少なきに応ず。又驛馬三刑を破り、身は驛馬を克つ。法に官を望むも到らず。命は金なり、正月は絶を為し、始め無くして終り有り、老いて吉なり。又命を建てて生まる、法に壽に当たるべく、帝の崩ずる時五十を過ぎず。二たび験せず。漢の武帝は乙酉歳七月七日平旦に生まる、祿空亡に当たり、法に於て官無し。驛馬に向かうと雖も、乃ち四辰を隔て、法に少にして官無く、老いて吉なり。武帝即位、年十六、末年戸口減耗す。三たび験せず。後魏の高祖孝文皇帝は皇興元年八月に生まる、是の歳丁未、祿命に偝い驛馬と三刑し、身は驛馬を克ち、法に於て官無し。又父の死中に生まる、法に父を見ず、而るに孝文は其の父顕祖の禅を受く。礼に曰く、君は年を踰えざれば、正位を得ず、故に天子に父無く、三老に事うと。孝文は天下を率いて墓中子を生む、法に嫡子に宜しく、次子有りと雖も早く卒すべし。然るに高祖の長子先ず弑せられ、次子義隆国を享く。又祖の祿の下に生まる、法に嫡孫の財若しくは祿を得べし。其の孫の劭・浚皆篡逆し、幾くんか宗祧を失わんとす。五たび験せず。

原文漢宋忠、賈誼譏司馬季主曰:「卜筮者高人祿命,以悅人心;矯言禍福,以規人財。」王充曰:「見骨體,知命祿;見命祿,知骨體。」此則言祿命尚矣。推索本原,固不其然。「積善之家,必有餘慶」,豈建祿而後吉乎?「積惡之家,必有餘殃」,豈劫殺而後災乎?「皇天無親,常與善人」,天人之交如影響。「有夏多罪,天命剿絕」;宋景脩德,妖星退舍。「學也祿在某中」,不生當建學。文王憂勤損壽,非初值空亡;長平坑降卒,非俱犯三刑;南陽多近親,非俱當六合;曆陽成湖,不共河魁;蜀郡炎火,不盡災厄。世有同建與祿,而貴賤殊域;共命若胎,而夭壽異科。魯桓公六年七月,子同生,是為莊公。按曆,歲在乙亥,月建申,然則值祿空亡,據法應窮賤。又觸句絞六害,偝驛馬,身克驛馬三刑,法無官。命火也,生當病鄉,法曰「為人尪弱矬陋」,而《詩》言莊公曰:「猗嗟昌兮,頎而長兮。美目揚兮,巧趨蹌兮。」唯向命一物,法當壽,而公薨止四十五。一不驗。秦昭襄王四十八年,始皇帝生以正月,故名政。是歲壬寅正月,命偝祿,於法無官,假得祿,奴婢應少。又破驛馬三刑,身克驛馬,法望官不到。命金也,正月為絕,無始有終,老而吉。又建命生,法當壽,帝崩時不過五十。二不驗。漢武帝以乙酉歲七月七日平旦生,當祿空亡,於法無官。雖向驛馬,乃隔四辰,法少無官,老而吉;武帝即位,年十六,末年戶口減耗。三不驗。後魏高祖孝文皇帝生皇興元年八月,是歲丁未,為偝祿命與驛馬三刑,身克驛馬,於法無官。又生父死中,法不見父,而孝文受其父顯祖之禪。禮,君未逾年,不得正位,故天子無父,事三老也。孝文率天下生子墓中,法宜嫡子,雖有次子,當早卒,而高祖長子先被弑,次子義隆享國。又生祖祿下,法得嫡孫財若祿;其孫劭、浚皆篡逆,幾失宗祧。五不驗。

『葬篇』に曰く、

原文《葬篇》曰:

『易経』に言う、「古の葬る者は、之に薪を以て衣せしめ、封ぜず樹せず、喪期数無し。後世の聖人、棺槨を以て之に易う。蓋し諸れを『大過』に取るなり」と。『経』に曰く、「葬る者は、蔵するなり、人の之を得見せざるを欲するなり」と。又曰く、「其の宅兆を卜し、而して之を安厝す」と。是を以て感慕の所と為し、魂神の宅と為す。朝市は貿遷して知る可からず、石泉は頽齧して常ならず。是れ其の謀を卜筮に及び、庶くは後艱無からしめんとす。斯れ則ち慎終の礼に備わるなり。後代の葬説は巫史より出で、一物失う有れば、便ち災死生に及ぶと謂い、多く妨禁を為し、以て其の術を售り、妄に附し妖に憑り、其の書に至りては乃ち百二十家有り。『春秋』に曰く、「王者は七日にして殯し、七月にして葬る。諸侯は五日にして殯し、五月にして葬る。大夫は三月、士庶人は月を踰えて已む」と。貴賤同じからず、礼も亦た数異なり。此れ直ちに赴吊遠近の期と為し、事を量りて法を制す。故に期に先だちて葬るは、之を不懷と謂う。期に後れて葬らざるは、之を殆礼と謂う。此れ則ち葬るに定期有りて、年と月を択ばざるなり、一なり。又曰く、「丁巳、定公を葬る。雨有り、葬るに克わず、戊午に至りて事を襄う」と。君子之を善しとす。『礼』に「卜は先ず遠日をす」とは、末より進みて、不懷を避くるなり。今の法、己亥日を用いて葬るは最も凶なりとす。春秋に是の日葬る者二十余族有り。此れ葬るに日を択ばざるなり、二なり。『礼』に曰く、「周は赤を尚び、大事は旦を用う。殷は白を尚び、大事は日中を用う。夏は黒を尚び、大事は昏を用う」と。大事とは何ぞや。喪礼なり。此れ直ちに当代の尚ぶ所を取りて、時の早晚を択ばざるなり。鄭の卿子産及び子太叔、簡公を葬る。是に於て、司墓大夫の室、柩路に当たる。若し其の室を壊さば、即ち平旦にして堋す。其の室を壊さざれば、即ち日中にして堋す。子産は室を壊すを欲せず、日中を待たんと欲す。子太叔曰く、「若し日中にして堋さば、久しく諸侯大夫来り葬に会する者を労わしむるを恐る」と。然れども子産・太叔は時の得失を問わず、惟だ人事の可否を論ずるのみ。曾子曰く、「葬るに日蝕に逢えば、路左に舎し、明を待ちて行く」と。是れ以て非常を備うるなり。法に按ずるに、葬家多く乾・艮の二時を取り、乃ち夜半に近し。文と礼に乖く。此れ葬るに時を択ばざるなり、三なり。『経』に曰く、「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わす」と。『易』に謂う、「聖人の大宝を位と曰う。何を以て位を守るかを仁と曰う」と。而るに法に曰く、「官爵富貴は、葬にて致す可し。年寿の修促、子姓の蕃衍は、葬にて招く可し」と。夫れ日慎みて一日、沢無疆に及ぶ。徳は則ち建てずして、祚乃ち永からず。臧孫、魯に後有りと雖も、葬めて吉を得たりと聞かず。若敖、荊に祀を絶つと雖も、葬めて凶を得たりと聞かず。此れ葬に吉凶有りて信ず可からざるなり、四なり。今の法皆五姓に据りて之を為す。古の葬り、並びに国都の北に在り。趙氏の葬り、九原に在り。漢家の山陵、或いは諸域に散処す。又何ぞ上利下利・大墓小墓を為さんや。然れども劉の子孫、本支絶えず、趙の後は六国と等しく王たり。此れ則ち葬に五姓を用うるは信ず可からざるなり、五なり。且つ人に初め賤しくして後貴く、始め泰にして終に否なる者有り。子文、令尹と為り、三たび仕え三たび已み、展禽、士師に三たび黜かる。彼れ塚墓已に定まりて改めず、此れ名位常ならず。何ぞや。故に知る、栄辱升降は、事人の諸れに関わりて、葬に由らざるを。六なり。世の人、葬巫に欺かれて、擗踴荼毒を忘れ、以て徼幸を期す。是れ由りて相塋隴し、官爵を希い、日時を択び、財利を規る。辰日は哭くべからずと謂いて、欣然として吊を受く。同属は壙に臨むべからずと謂いて、吉服を以て其の親の送りを避く。礼俗を詭斁し、以て法とすべからざるなり、七なり。

原文《易》稱:「古之葬者,衣之以薪,不封不樹,喪期無數,後世聖人易之以棺〓郭。蓋取諸《大過》。」《經》曰:「葬者,藏也,欲人之弗得見也。」又曰:「卜其宅兆,而安厝之。」以是為感慕之所也,魂神之宅也。朝市貿遷不可知,石泉頹齧不可常,是其謀及卜筮,庶無後艱,斯則備於慎終之禮也。後代葬說出於巫史,一物有失,便謂災及死生,多為妨禁,以售其術,附妄憑妖,至其書乃有百二十家。《春秋》:「王者七日而殯,七月而葬;諸侯五日而殯,五月而葬;大夫三月,士庶人逾月而已。」貴賤不同,禮亦異數。此直為赴吊遠近之期,量事制法。故先期而葬,謂之不懷也;後期不葬,謂之殆禮也。此則葬有定期,不擇年與月,一也。又曰:「丁巳,葬定公,雨,不克葬,至於戊午襄事。」君子善之。《禮》「卜先遠日」者,自末而進,避不懷也。今法己亥日用葬最凶,春秋是日葬者二十餘族。此葬不擇日,二也。《禮》:「周尚赤,大事用旦;殷尚白,大事用日中;夏尚黑,大事用昏。」大事者何?喪禮也。此直取當代所尚,而不擇時早晚也。鄭卿子產及子太叔葬簡公。於是,司墓大夫室當柩路,若壞其室,即平旦而堋;不壞其室,即日中而堋。子產不欲壞室,欲待日中。子太叔曰:「若日中而堋,恐久勞諸侯大夫來會葬者。」然子產、太叔不問時之得失,惟論人事可否而已。曾子曰:「葬逢日蝕,舍于路左,待明而行。」所以備非常也。按法,葬家多取乾、艮二時,乃近夜半,文與禮乖。此葬不擇時,三也。《經》曰:「立身行道,揚名於後世,以顯父母。」《易》謂:「聖人之大寶曰位,何以守位曰仁。」而法曰:「官爵富貴,葬可致也;年壽修促,子姓蕃衍,葬可招也。」夫日慎一日,澤及無疆;德則不建,而祚乃無永。臧孫有後於魯,不聞葬得吉也;若敖絕祀于荊,不聞葬得凶也。此葬有吉凶不可信,四也。今法皆據五姓為之。古之葬,並在國都之北,趙氏之葬,在九原,漢家山陵,或散處諸域,又何上利下利、大墓小墓為哉?然劉之子孫,本支不絕,趙後與六國等王。此則葬用五姓不可信,五也。且人有初賤而後貴、始泰而終否者。子文為令尹,三仕三已,展禽三黜于士師。彼塚墓已定而不改,此名位不常,何也?故知榮辱升降,事關諸人,而不由於葬,六也。世之人為葬巫所欺,忘擗踴荼毒,以期徼幸。由是相塋隴,希官爵;擇日時,規財利。謂辰日不哭,欣然而受吊;謂同屬不得臨壙,吉服避送其親。詭斁禮俗,不可以法,七也。

帝また詔して『方域図』及び飛騎の戦陣図を造らしめ、屡々旨に称う。太常丞に擢ぐ。麟徳年中、太子司更大夫を以て卒す。生平、書を修め及び著述すること甚だ多し。

原文帝又詔造《方域圖》及教飛騎戰陣圖,屢稱旨。擢太常丞。麟德中,以太子司更大夫卒。生平豫修書及著述甚多。

子 方毅

原文子 方毅

子方毅、七歳にして経を誦する能う。太宗其の敏なるを聞き、召見し、之を奇とし、束帛を賜う。長じて右衛鎧曹参軍と為る。母喪に遭い、毀に以て卒す。布車にて母の葬に従い、通人郎余令、白粥・玄酒・生芻を以て路隅に祭り、世共に之を哀しむ。

原文子方毅,七歲能誦經。太宗聞其敏,召見,奇之,賜束帛。長為右衛鎧曹參軍。母喪,以毀卒。布車從母葬,通人郎余令以白粥、玄酒、生芻祭路隅,世共哀之。

陳子昂

原文陳子昂

陳子昂、字は伯玉、梓州射洪の人。其の先は新城に居す。六世の祖太楽、斉の時に当たる。兄弟豪傑を競い、梁武帝命じて郡司馬と為す。父元敬、世に高貲、歳饑に、粟万石を出だして郷里を賑う。明経に挙げられ、文林郎に調う。

原文陳子昂,字伯玉,梓州射洪人。其先居新城,六世祖太樂,當齊時。兄弟競豪傑,梁武帝命為郡司馬。父元敬,世高貲,歲饑,出粟萬石賑鄉里。舉明經,調文林郎。

子昂十八にして未だ書を知らず、富家の子を以て、気決を尚び、弋博自ら如し。它日郷校に入り、感悔し、即ち痛く修飭す。文明初、進士に挙げらる。時に高宗崩じ、将に梓宮を長安に遷せんとす。是に於て、関中に歳無く、子昂盛んに東都の勝塏なるを言い、山陵を営む可きとす。上書して曰く、

原文子昂十八未知書,以富家子,尚氣決,弋博自如。它日入鄉校,感悔,即痛修飭。文明初,舉進士。時高宗崩,將遷梓宮長安,於是,關中無歲,子昂盛言東都勝塏,可營山陵。上書曰:

「臣聞く、秦は咸陽に拠り、漢は長安に都す。山河を以て固と為し、而して天下服するは、北は胡・宛の利を仮り、南は巴・蜀の饒を資り、関東の粟を転じ、而して山西の宝を収め、長く利策を羈し、横に宇宙を制するに在り。今則ち然らず、燕・代は匈奴に迫り、巴・隴は吐蕃とばんに嬰る。西は老いて千里糧を贏し、北は丁十五塞に乗ず。歳月奔命し、秦の首尾完からず、余す所独り三輔の間のみ。頃に荒饉に遭い、百姓饑を薦む。河に薄きて右は、惟だ赤地有るのみ。隴に循りて北は、青草に逢わず。父兄転徙し、妻子流離す。天に頼りて禍を悔い、去年薄稔す。贏耗の余、幾ばくか命を沈めざらん。然れども流亡未だ還らず、白骨縦横し、阡陌主無し。蓄積に至りては、猶お哀傷す可し。陛下先帝の遺意を以て、方に大駕長駆し、節を按じて西京せんとす。千乗万騎、何に従い仰ぎ給わん。山陵穿復するは、必ず徒役を資とす。臒弊の衆を率い、数万の軍を興し、近畿を調発し、稚老を督抶し、山を鏟り石を輦し、駆りて以て功に就かしむ。春作時に無く、何ぞ秋有るを望まん。雕氓遺噍、再び艱苦に罹り、其の困に堪えざる有らば、則ち逸して盗賊と為り、梃を掲げ叫呼す。深く図らざる可けんや。

原文「臣聞秦據咸陽,漢都長安,山河為固,而天下服者,以北假胡、宛之利,南資巴、蜀之饒,轉關東之粟,而收山西之寶,長羈利策,橫制宇宙。今則不然,燕、代迫匈奴,巴、隴嬰吐蕃,西老千里贏糧,北丁十五乘塞,歲月奔命,秦之首尾不完,所餘獨三輔間耳。頃遭荒饉,百姓薦饑,薄河而右,惟有赤地;循隴以北,不逢青草。父兄轉徙,妻子流離。賴天悔禍,去年薄稔,羸耗之餘,幾不沉命。然流亡未還,白骨縱橫,阡陌無主,至於蓄積,猶可哀傷。陛下以先帝遺意,方大駕長驅,按節西京,千乘萬騎,何從仰給?山陵穿復,必資徒役,率臒弊之眾,興數萬之軍,調發近畿,督抶稚老,鏟山輦石,驅以就功,春作無時,何望有秋?雕氓遺噍,再罹艱苦,有不堪其困,則逸為盜賊,揭梃叫呼,可不深圖哉!

且つ天子は四海を家と為す。舜は蒼梧に葬り、禹は会稽に葬る。豈に夷裔を愛して中国を鄙しむや。外無きを示すなり。周の平王・漢の光武、洛に都す。而して山陵寝廟並びに西土に在るは、実に時に不可有るを以ての故に、小を遺し大を存し、禍を去り福を取るなり。今景山崇秀し、北に嵩・邙に対し、右に汝・海を眄る。祝融・太昊の故墟、焉に在り。園陵の美、復た何を以てか加えん。且つ太原は巨万の倉を廥し、洛口は天下の粟を儲く。乃ち之を捨てて顧みざらんと欲す。儻し鼠窃狗盗、西は陝郊に入り、東は虎牢を犯し、敖倉の一抔の粟を取らば、陛下何を以てか之を遏えん。

原文且天子以四海為家,舜葬蒼梧,禹葬會稽,豈愛夷裔而鄙中國耶?示無外也。周平王、漢光武都洛,而山陵寢廟並在西土者,實以時有不可,故遺小存大,去禍取福也。今景山崇秀,北對嵩、邙,右眄汝、海,祝融、太昊之故墟在焉。園陵之美,復何以加?且太原廥巨萬之倉,洛口儲天下之粟,乃欲舍而不顧,儻鼠竊狗盜,西入陝郊,東犯虎牢。取敖倉一抔粟,陛下何與遏之?

武后其の才を奇とし、金華殿に召見す。子昂貌柔野にして、威儀少く、而して占対慷慨し、麟台正字に擢ぐ。

原文武后奇其才,召見金華殿。子昂貌柔野,少威儀,而占對慷慨,擢麟台正字。

垂拱初、詔して群臣に問う「元気を調うるは当に何の道を以てすべきや」と。子昂是に因りて後を勧めて明堂・大学を興さしめ、即ち上言す。

原文垂拱初,詔問群臣「調元氣當以何道?」子昂因是勸後興明堂、大學,即上言:

臣が師より聞くところによれば、「元気は天地の始まり、万物の祖であり、王政の大端である。天地においては陰陽より大なるものなく、万物においては人より霊なるものなく、王政においては人を安んずるより先なるものはない。故に人が安んずれば陰陽和し、陰陽和すれば天地平らぎ、天地平らげば元気正しくなる。先王は人が天に通ずることを以て、ここに群生を養い、天徳に順い、人をしてその業を楽しませ、その食を甘んじ、その服を美しからしめ、然る後に天瑞降り、地符昇り、風雨時にかなり、草木茂り遂ぐ。故に顓頊・唐・虞は敢えて荒寧せず、その『書』に曰く、『百姓昭明にして、万邦を協和し、黎人は時に雍和に変ず。乃ち羲和に命じ、昊天を欽若し、日月星辰を暦象し、人時に敬授す』と。これ和を得たる所以である。夏・商の衰え、桀・紂の昏暴、陰陽行いを乖き、天地怒りを震わし、山川の神鬼、妖を発し災を見せ、疾疫大いに興り、終に滅亡に至る。これ和を失ったる所以である。周の文・武が創業に至り、誠信忠厚を百姓に加え、故に成・康の世は刑措四十余年、天人まさに和せんとす。而るに幽・厲は常を乱し、苛慝暴虐、天地を詬黙し、川塚沸き崩れ、人愁怨を用う。その『詩』に曰く、『昊天恵まず、この大戾を降す』と。先んずるでもなく後るるでもなく、虐となり瘵となり、顧みて哀しまざるか。近く隋の煬帝は四海の富を恃み、渠を鑿り河を決し、伊・洛より揚州に属し、生人の力を疲れさせ、天地の蔵を泄らし、中国の難起こり、故に身は人手に死し、宗廟は墟となる。これ元気の理に逆らう所以である。臣が禍乱の動き、天人の際、先師の説を観るに、昭然として著明、欺くべからざるものなり。

原文臣聞之于師曰:「元氣,天地之始,萬物之祖,王政之大端也。天地莫大于陰陽,萬物莫靈于人,王政莫先于安人。故人安則陰陽和,陰陽和則天地平,天地平則元氣正。先王以人之通於天也,於是養成群生,順天德,使人樂其業,甘其食,美其服,然後天瑞降,地符升,風雨時,草木茂遂。故顓頊、唐、虞不敢荒寧,其《書》曰:「百姓昭明,協和萬邦,黎人于變時雍。乃命羲和,欽若昊天,曆象日月星辰,敬授人時。」和之得也。夏、商之衰,桀、紂昏暴,陰陽乖行,天地震怒,山川神鬼,發妖見災,疾疫大興,終以滅亡,和之失也。迨周文、武創業,誠信忠厚加于百姓,故成、康刑措四十餘年,天人方和。而幽、厲亂常,苛慝暴虐,詬黷天地,川塚沸崩,人用愁怨。其《詩》曰:「昊天不惠,降此大戾」,不先不後,為虐為瘵,顧不哀哉!近隋煬帝恃四海之富,鑿渠決河,自伊、洛屬之揚州,疲生人之力,泄天地之藏,中國之難起,故身死人手,宗廟為墟。逆元氣之理也。臣觀禍亂之動,天人之際,先師之說,昭然著明,不可欺也。

陛下は天地の徳を包み、日月の明を有し、眇然として遠く思いを致し、太和を求めんとす。これ伏羲氏が三皇の首たる所以である。昔、天皇大帝は元符を攬り、東に太山を封ぜられたが、然れども明堂を建て、上帝を享け、万世の鴻業をして闕けて昭らかならざらしむるは、殆どこの盛徳を留めて、陛下に発揮せしめんとするか。臣は謂う、元気を和し、人倫を睦まじくするには、これを捨てては為すべきものなしと。昔、黄帝は合宮を、有虞は総期を、堯は衢室を、夏は世室を有し、皆元気を調え、陰陽を治める所以のものである。臣が聞くところによれば、明堂には天地の制、陰陽の統、二十四気・八風・十二月・四時・五行・二十八宿、率いて備わらざるはない。王者は政を失えば災いあり、政順えば祥あり。臣は願わくば、陛下が唐の万世の業を恢弘せられ、相国南郊し、明堂を建て、天下と更始し、『周礼』・『月令』に按じてこれを成されたし。乃ち月は孟春、鸞輅に乗り、蒼龍を駕し、三公・九卿・大夫を青陽左個に朝し、斧扆を負い、玉幾に馮り、天下の政を聴く。躬ら藉田し、親ら蚕を勧めて農桑を勧め、三老・五更を養いて孝悌を教え、訟を明らかに獄を恤んで淫刑を息め、文徳を脩めて干戈を止め、孝廉を察して貪吏を除く。後宮に妃嬪禦女ならざる者はこれを出し、珠玉錦繡・彫琢伎巧で益なき者はこれを棄て、巫鬼淫祀で人を営惑する者はこれを禁ず。臣は謂う、数期を経ずして太平を見るであろうと。

原文陛下含天地之德,日月之明,眇然遠思,欲求太和,此伏羲氏所以為三皇首也。昔者,天皇大帝攬元符,東封太山,然未建明堂,享上帝,使萬世鴻業闕而不昭,殆留此盛德,以發揮陛下哉!臣謂和元氣,睦人倫,舍此則無以為也。昔黃帝合宮,有虞總期,堯衢室,夏世室,皆所以調元氣,治陰陽也。臣聞明堂有天地之制,陰陽之統,二十四氣、八風、十二月、四時、五行、二十八宿,莫不率備。王者政失則災,政順則祥。臣願陛下為唐恢萬世之業,相國南郊,建明堂,與天下更始,按《周禮》、《月令》而成之。乃月孟春,乘鸞輅,駕蒼龍,朝在三公、九卿、大夫于青陽左個,負斧扆,馮玉幾,聽天下之政。躬藉田、親蠶以勸農桑,養三老、五更以教孝悌,明訟恤獄以息淫刑,脩文德以止干戈,察孝廉以除貪吏。後宮非妃嬪禦女者,出之;珠玉錦繡、雕琢伎巧無益者,棄之;巫鬼淫祀營惑於人者,禁之。臣謂不數期且見太平雲。

また言う。

原文又言:

陛下まさに大化を興さんとされるに、太学久しく廃れ、堂皇埃蕪たり、『詩』・『書』聞こえず、明詔未だこれに及ばず。愚臣の私に恨む所以である。太学は政教の地、君臣上下の取るべき則、俎豆揖讓の興る所、天子ここに賢臣を得る。今これを委ねて論ぜず、人倫を睦まじくし治綱を興さんと欲すれども、本を失いて末を求むるは、得べからざるなり。「君子三年礼を為さざれば礼必ず壊れ、三年楽を為さざれば楽必ず崩る」。天下のために礼楽を軽んずるは如何。願わくば胄子を引いて太学に帰らしめよ。国家の大務は廃すべからざるなり。

原文陛下方興大化,而太學久廢,堂皇埃蕪,《詩》、《書》不聞,明詔尚未及之,愚臣所以私恨也。太學者,政教之地也,君臣上下之取則也,俎豆揖讓之所興也,天子于此得賢臣焉。今委而不論,雖欲睦人倫,興治綱,失之本而求之末,不可得也。「君子三年不為禮,禮必壞,三年不為樂,樂必崩」,奈何為天下而輕禮樂哉?願引胄子使歸太學,國家之大務不可廢已。

後に召見され、筆劄を中書省に賜り、利害を条上せしめられる。子昂は三事に対す。その一に言う。

原文後召見,賜筆劄中書省,令條上利害。子昂對三事。其一言:

九道より大使を出して天下を巡按し、黜陟を申し、人瘼を求む。臣は計に未だ尽きざるありと謂う。且つ陛下が使を発せられるは、必ずや百姓に天子の夙夜憂勤するを知らしめ、群臣に考績して任ずるを知らしめ、奸暴不逞の徒に将に除かんとするを知らしめんと欲するならば、仁をもって孤を恤うべく、明をもって滞を振るうべく、剛強禦を避けず、智奸を照らすに足る者を択び、然る後に使と為すに如かず。故に輶軒未だ動かざるに、天下翹然としてこれを待つ。今使未だ出でずして、道路の人皆すでに指笑す。賢を進め不肖を下せんと欲望するも、豈に得べけんや。宰相詔書を奉ずるも、遣使の名ありて任使の実なし。使愈々出づれば天下愈々弊れ、徒らに百姓に道路を治めさせ、送り往き迎え来らしむるのみで、その益を見ず。臣は願わくば、陛下更に威重風概ありて衆に推される者を選び、御前殿に因り、使者の礼をもってこれを礼し、諄諄として出使の意を戒敕し、乃ち節を授けよ。京師及び州県より、才良を登抜し、人瘼を求め、上意を宣布し、家ごとに見え戸ごとに曉らしめよ。昔、堯・舜は席を下らずして天下を化せしは、幽明を黜陟し能く折衷する者に因る。陛下人を得難きを知らるれば、少なき使を出すに如かず。彼煩数にして化に益なく、是れ小鮮を烹りて数え撓らすが如し。

原文九道出大使巡按天下,申黜陟,求人瘼,臣謂計有未盡也。且陛下發使,必欲使百姓知天子夙夜憂勤之也,群臣知考績而任之也,奸暴不逞知將除之也,則莫如擇仁可以恤孤、明可以振滯、剛不避強禦、智足以照奸者,然後以為使,故輶軒未動,而天下翹然待之矣。今使且未出,道路之人皆已指笑,欲望進賢下不肖,豈可得邪?宰相奉詔書,有遣使之名,無任使之實。使愈出,天下愈弊,徒令百姓治道路,送往迎來,不見其益也。臣願陛下更選有威重風概為眾推者,因御前殿,以使者之禮禮之,諄諄戒敕所以出使之意,乃授以節。自京師及州縣,登拔才良,求人瘼,宣佈上意,令若家見而戶曉。昔堯、舜不下席而化天下,蓋黜陟幽明能折衷者。陛下知難得人,則不如少出使。彼煩數而無益於化,是烹小鮮而數撓之矣。

その二に言う。

原文其二言:

刺史・県令は政教の首なり。陛下が徳沢を布き詔書を下されるも、必ず刺史・県令が謹んで宣べ奉行するを待たれる。其人を得ざれば、有司に委棄し、牆屋に掛かるのみ、百姓安んぞこれを知らん。一州に才ある刺史を得れば十万戸その福を頼り、不才の刺史を得れば十万戸その困を受く。国家の興衰、この職に在り。今、吏部県令を調うること一尉を補うが如く、ただ資考を計り、賢良を求めず。もし次を超えて人を用いれば、天下囂然として相謗う。常に狃って変えざるなり。故に庸人皆県令に任じ、教化の陵遅、顧みて甚だしからずや。

原文刺史、縣令,政教之首。陛下布德澤,下詔書,必待刺史、縣令謹宣而奉行之。不得其人,則委棄有司,掛牆屋耳,百姓安得知之?一州得才刺史,十萬戶賴其福;得不才刺史,十萬戶受其困。國家興衰,在此職也。今吏部調縣令如補一尉,但計資考,不求賢良。有如不次用人,則天下囂然相謗矣,狃于常而不變也。故庸人皆任縣令,教化之陵遲,顧不甚哉!

その三に言う。

原文其三言:

天下に危機あり、禍福これに因りて生ず。機静かならば福あり、動けば禍あり。百姓安んずれば生を楽しみ、安んぜざれば生を軽んずる者はこれなり。今、軍旅の弊、夫妻安んずるを得ず、父子相養わず、五六年なり。剣南より河・隴に尽き、山東は青・徐・曹・汴より、河北は挙げて滄・瀛・趙・鄚に至るまで、或いは水旱に困し、或いは兵疫に頓み、死亡流離略ね尽くす。尚、陛下その失職を憫み、凡そ兵戍調発一切これを罷め、人をして妻子相見え、父兄相保たしむるは、能くその機を静むるというべし。然れども臣は恐らくは、将相に夷狄の利を貪り、地を広め武を強くして以て陛下を説き、その機を動かさんと欲する者ありて、機動けば禍構う。宜しく文徳を脩め、刑罰を去り、農桑を勧めて、疲民を息ましむべし。蛮夷中国に聖王あるを知れば、必ず累訳して至らん。

原文天下有危機,禍福因之而生。機靜則有福,動則有禍,百姓安則樂生,不安則輕生者是也。今軍旅之弊,夫妻不得安,父子不相養,五六年矣。自劍南盡河、隴,山東由青、徐、曹、汴,河北舉滄、瀛、趙、鄚,或困水旱,或頓兵疫,死亡流離略盡,尚賴陛下憫其失職,凡兵戍調發,一切罷之,使人得妻子相見,父兄相保,可謂能靜其機也。然臣恐將相有貪夷狄利,以廣地強武說陛下者,欲動其機,機動則禍構。宜脩文德,去刑罰,勸農桑,以息疲民。蠻夷知中國有聖王,必累譯至矣。

時に、吐蕃・九姓叛く。詔して田揚名に金山道十姓の兵を発してこれを討たしむ。十姓の君長三万騎を以て戦い、功あり、遂に入朝を請う。後に嘗て命に従わず擅に回紇かいこつを破りしを責め、聴かず。子昂上疏して曰く。

原文于時,吐蕃、九姓叛,詔田揚名發金山道十姓兵討之。十姓君長以三萬騎戰,有功,遂請入朝。後責其嘗不奉命擅破回紇,不聽。子昂上疏曰:

国家が十姓を制することができるのは、九姓が強大でありながら中国に臣服していたからであり、故にその勢力は微弱で、下吏に命を委ねていたのである。今、九姓が叛き逃亡し、北蕃は喪乱に陥り、君長は主なく、回紇は残破し、磧北の諸姓はもはや国の所有ではなくなった。亡叛の者を犄角にしようとすれば、ただ金山の諸蕃と共に形勢をなすのみである。有司は揚名が独断で回紇を破り、十姓の罪を帰したことを理由に、拒絶して遣還し、入朝させない。これは恐らく戎を羈縻する長策ではないであろう。そもそも戎は鳥獣の心を持ち、親しめば従順となり、疑えば乱れる。今、その善意を阻めば、十姓は内には国家親信の恩がなく、外には回紇に報仇される憂いがあり、安んじることができず、鳥のように驚き狼のように顧みるようになれば、河西の諸蕃はこれより命に背くであろう。かつ夷狄が互いに攻撃することは、中国の福である。今回紇は既に破れ、言うべきことはない。十姓は罪がなく、また断つべきではない。罪は揚名に止め、その酋領を慰撫するに足りるのである。

原文國家能制十姓者,繇九姓強大,臣服中國,故勢微弱,委命下吏。今九姓叛亡,北蕃喪亂,君長無主,回紇殘破,磧北諸姓已非國有,欲犄角亡叛,唯金山諸蕃共為形勢。有司乃以揚名擅破回紇,歸十姓之罪,拒而遣還,不使入朝,恐非羈戎之長策也。夫戎有鳥獸心,親之則順,疑之則亂,今阻其善意,則十姓內無國家親信之恩,外有回紇報仇之患,懷不自安,鳥駭狼顧,則河西諸蕃自此拒命矣。且夷狄相攻,中國之福。今回紇已破,既無可言;十姓非罪,又不當絕。罪止揚名,足以慰其酋領矣。

近ごろの詔により同城に安北府を権宜に設置したが、その地は磧南の口に当たり、匈奴の要衝を制し、常に劇鎮となっている。臣が近頃聞くところでは、磧北の突厥とっけつで帰順する者は既に千余帳に及び、来る者は未だ止まず、甘州の降戸四千帳もまた同城に置かれている。今、磧北は喪乱と荒饉の余り、寄るべなく、陛下が府を開き招き入れられるのは、誠に戎狄を覆い全うする仁である。しかし同城には本来蓄えがなく、降附した蕃落は寒さと飢えを免れず、互いに劫略し合っている。今、安北には官の牛羊六千、粟麦一万斛こくがあるが、城は孤なり兵は少なく、降る者は日々に衆く、救恤を加えなければ、盗賊劫掠は日々に多くなる。人の情は生きんがために急なるものであり、今、粟麦牛羊を餌としておきながらその死を救わなければ、どうして盗賊とならぬことがあろうか。盗賊が興れば安北は全からず、甘州・涼州以遠は、高く跳ねて陥落を待つが如く、後に辺患となり、禍は量りがたい。これは乱を誘い、盗を教えるものである。かつ夷狄には代々雄傑がおり、中国と抗する。もし勃興する者があって遺散を招き合わせれば、衆は繋がって興るであろう。これは国家の大機であり、失うべからざるものである。

原文近詔同城權置安北府,其地當磧南口,制匈奴之沖,常為劇鎮。臣頃聞磧北突厥之歸者已千餘帳,來者未止,甘州降戶四千帳,亦置同城。今磧北喪亂、荒饉之餘,無所存仰,陛下開府招納,誠覆全戎狄之仁也。然同城本無儲峙,而降附蕃落不免寒饑,更相劫掠。今安北有官牛羊六千,粟麥萬斛,城孤兵少,降者日眾,不加救恤,盜劫日多。夫人情以求生為急,今有粟麥牛羊為之餌,而不救其死,安得不為盜乎?盜興則安北不全,甘、涼以往,蹺以待陷,後為邊患,禍未可量。是則誘使亂,誨之盜也。且夷狄代有雄傑,與中國抗,有如勃起,招合遺散,眾將系興,此國家大機,不可失也。

また次のように述べた。

原文(段落全体)河西諸州,軍興以來,公私儲蓄,尤可嗟痛。涼州歲食六萬斛,屯田所收不能償墾。陛下欲制河西,定亂戎,此州空虛,未可動也。甘州所積四十萬斛,觀其山川,誠河西喉咽地,北當九姓,南逼吐蕃,奸回不測,伺我邊罅。故甘州地廣粟多,左右受敵,但戶止三千,勝兵者少,屯田廣夷,倉庾豐衍,瓜、肅以西,皆仰其餫,一旬不往,士已枵饑。是河西之命系于甘州矣。且其四十余屯,水泉良沃,不待天時,歲取二十萬斛,但人力寡乏,未盡墾發。異時吐番不敢東侵者,繇甘、涼士馬強盛,以振其入。今甘州積粟萬計,兵少不足以制賊,若吐蕃敢大入,燔蓄谷,蹂諸屯,則河西諸州,我何以守?宜益屯兵,外得以防盜,內得以營農,取數年之收,可飽士百萬,則天兵所臨,何求不得哉?

河西の諸州は、軍興以来、公私の儲蓄が特に嘆かわしい。涼州は歳に六万斛を食するが、屯田の収穫は開墾の費用を償うことができない。陛下が河西を制し、乱戎を定めようとされるならば、この州は空虚であり、動かすことはできない。甘州に積まれている四十万斛は、その山川を見るに、誠に河西の咽喉の地であり、北は九姓に当たり、南は吐蕃に迫り、奸回測るべからず、我が辺境の隙を窺っている。故に甘州は地広く粟多く、左右より敵を受け、ただ戸は三千に止まり、勝兵は少ない。屯田は広く夷らかで、倉庫は豊かに満ち、瓜州・肅州以西は皆その輸送に仰いでいる。十日も往かなければ、兵士は既に空腹に飢える。これが河西の命脈が甘州に繋がっている所以である。かつその四十余屯は、水泉良く沃かで、天時を待たず、歳に二十万斛を取ることができるが、ただ人力が寡乏で、未だ開墾し尽くしていない。かつて吐蕃が東侵を敢えてしなかったのは、甘州・涼州の士馬が強盛で、その侵入を振るったからである。今、甘州には粟が万単位で積まれているが、兵が少なくて賊を制するに足りず、もし吐蕃が大いに侵入を敢えてし、蓄えた穀物を焼き、諸屯を蹂躙すれば、河西諸州を我々はどうして守れようか。宜しく屯兵を増やし、外には盗賊を防ぎ、内には農を営ませ、数年分の収穫を取れば、兵士百万を飽かすことができ、そうすれば天兵の臨むところ、何を求めて得られないことがあろうか。

原文(段落全体)河西諸州,軍興以來,公私儲蓄,尤可嗟痛。涼州歲食六萬斛,屯田所收不能償墾。陛下欲制河西,定亂戎,此州空虛,未可動也。甘州所積四十萬斛,觀其山川,誠河西喉咽地,北當九姓,南逼吐蕃,奸回不測,伺我邊罅。故甘州地廣粟多,左右受敵,但戶止三千,勝兵者少,屯田廣夷,倉庾豐衍,瓜、肅以西,皆仰其餫,一旬不往,士已枵饑。是河西之命系于甘州矣。且其四十余屯,水泉良沃,不待天時,歲取二十萬斛,但人力寡乏,未盡墾發。異時吐番不敢東侵者,繇甘、涼士馬強盛,以振其入。今甘州積粟萬計,兵少不足以制賊,若吐蕃敢大入,燔蓄谷,蹂諸屯,則河西諸州,我何以守?宜益屯兵,外得以防盜,內得以營農,取數年之收,可飽士百萬,則天兵所臨,何求不得哉?

その後、吐蕃は果たして寇し入り、後世に終わるまで最も甚だしい辺患となった。

原文其後吐蕃果入寇,終後世為邊患最甚。

後に蜀山を開き、雅州道より生羌を討ち切り、それによって吐蕃を襲おうと謀った。子昂は上書して七つの証拠をもってこれを諫め止め、次のように言った。

原文後方謀開蜀山,由雅州道翦生羌,因以襲吐蕃。子昂上書以七驗諫止之,曰:

臣は聞く、乱の生ずるは必ず怨みによるものであると。雅州の羌はかつて一日も盗賊をしたことがないのに、今、罪なくして戮せられれば、怨みは必ず甚だしく、怨みが甚だしければ蜂の如く駭きて逃亡し、辺邑は兵を連ね、守備は解けず、蜀の禍が構えられるであろう。東漢が喪敗したのは、乱が諸羌から始まったのであり、第一の証拠である。吐蕃は狡猾で、天誅に抗すること二十余年である。以前、薛仁貴・郭待封が十万の衆をもって大非川で敗れ、一甲も帰らなかった。李敬玄・劉審禮が十八万の衆を挙げて青海に困り、身は賊廷に執われ、関・隴は空となった。今、李処一を上将とし、疲れた兵を駆って幸いすべからざる吐蕃を襲おうとすれば、挙げて賊の笑いものとなるであろう。これが第二の証拠である。事には利を求めて害を得るものがある。昔、蜀は中国と通じず、秦は金牛と美女をもって蜀侯を誘い、侯は五丁の力士に褒斜に桟道を造らせ、谷を通じ開かせて、秦の饋贈を迎えさせた。秦はそれに従って兵を進め、地は中州に入った。これが第三の証拠である。吐蕃は蜀の富を愛し、これを盗もうと思っているが、ただ障壁が険絶しているため、餓えた口を頓えて噬むことができないだけである。今、山羌を撤き、険しい坂を開けば、賊に奔亡する者を収めて辺境を攻めさせることになり、これは賊のために道を除き、蜀を挙げて遺すものである。これが第四の証拠である。蜀は西南の一都会であり、国の宝府であり、また人は富み粟は多く、江を浮かび下れば中国を済すことができる。今、僥倖の利を図り、西羌に事を構えれば、羌の地を得ても耕すに足らず、羌の財を得ても富むに足らない。これは無辜の衆を過剰に殺して陛下の仁を傷つけるものであり、第五の証拠である。蜀の恃むところは、険があることである。蜀の安んずるところは、役がないことである。今、蜀の険を開き、蜀の人を役すれば、険が開けば賊に便利となり、人が役せられれば財を傷つける。臣は羌を見る前に、奸盗がその中にいることを恐れる。かつて益州長史李崇真が吐蕃が松州を寇すと偽って言い、天子は盛大な軍師を為し、転餉を急がせて備えさせた。三年と経たずして、巴・蜀は大いに困窮し、一賊も見ずして、崇真の奸贓は既に巨万に及んだ。今、奸臣が利を図り、また生羌を資としているのではないか。これが第六の証拠である。蜀の士は弱く兵を知らず、一虜が矛を執れば、百人も当たることができない。もし西戎が即時に破滅しなければ、臣は蜀の辺境が守れず、羌夷に暴かれることを見るであろう。これが第七の証拠である。国家は近ごろ安北を廃し、単于を抜き、亀茲・疏勒を棄てた。天下は仁を務めて広を務めず、養を務めて殺を務めず、太古の三皇の事を行っていると考える。今、貪夫の議に従い、無罪の羌を誅し、全蜀に患いを遺す。これは臣の諭し得ないところである。今、山東は飢え、関隴は疲弊し、生民は流亡している。誠に陛下が寧静に天人を和することを思うべき時であり、どうして甲兵を動かし、大役を興して自ら乱を生じさせることができようか。また西軍は守りを失い、北の屯は利あらず、辺境の人は情を駭かせている。今、また輿師を挙げて不測の地に投じる。小人はただ夷狄の利を議するのみで、帝王の至徳ではない。天下を善く治める者は、大を計って小を計らず、徳を務めて刑を務めず、安きに居りて危きを念い、利に値して害を思う。願わくは陛下よくこれを審計されたい。

原文臣聞亂生必由於怨。雅州羌未嘗一日為盜,今無罪蒙戮,怨必甚,怨甚則蜂駭且亡,而邊邑連兵,守備不解,蜀之禍構矣。東漢喪敗,亂始諸羌,一驗也。吐蕃黠獪,抗天誅者二十餘年。前日薛仁貴、郭待封以十萬眾敗大非川,一甲不返;李敬玄、劉審禮舉十八萬眾困青海,身執賊廷,關、隴為空。今乃欲建李處一為上將,驅疲兵襲不可幸之吐蕃,舉為賊笑,二驗也。夫事有求利而得害者。昔蜀與中國不通,秦以金牛、美女啖蜀侯,侯使五丁力士棧褒斜,鑿通谷,迎秦之饋。秦隨以兵,而地入中州,三驗也。吐蕃愛蜀富,思盜之矣,徒以障隊隘絕,頓餓喙不得噬。今撤山羌,開阪險,使賊得收奔亡以攻邊,是除道待賊,舉蜀以遺之,四驗也。蜀為西南一都會,國之寶府,又人富粟多,浮江而下,可濟中國。今圖僥倖之利,以事西羌,得羌地不足耕,得羌財不足富。是過殺無辜之眾,以傷陛下之仁,五驗也。蜀所恃,有險也;蜀所安,無役也。今開蜀險,役蜀人,險開則便寇,人役則傷財。臣恐未及見羌,而奸盜在其中矣。異時益州長史李崇真托言吐蕃寇松州,天子為盛軍師,趣轉餉以備之。不三年,巴、蜀大困,不見一賊,而崇真奸贓已钜萬。今得非有奸臣圖利,復以生羌為資?六驗也。蜀士尪孱不知兵,一虜持矛,百人不敢當。若西戎不即破滅,臣見蜀之邊垂且不守,而為羌夷所暴,七驗也。國家近廢安北,拔單于,棄龜茲、疏勒,天下以為務仁不務廣,務養不務殺,行太古三皇事。今徇貪夫之議,誅無罪之羌,遺全蜀患,此臣所未諭。方山東饑,關隴弊,生人流亡,誠陛下寧靜思和天人之時,安可動甲兵、興大役,以自生亂?又西軍失守,北屯不利,邊人駭情,今復舉輿師投不測,小人徒知議夷狄之利,非帝王至德也。善為天下者,計大而不計小,務德而不務刑,據安念危,值利思害。願陛下審計之。

後に再び召し見られ、為政の要を論じ、時に適わず不便なものは、上古を援けず、空言を角突き合わせないようにさせられた。子昂はそこで八科を奏上した。一に措刑、二に官人、三に知賢、四に去疑、五に招諫、六に勧賞、七に息兵、八に安宗子である。その大要は次のように述べている。

原文後復召見,使論為政之要,適時不便者,毋援上古,角空言。子昂乃奏八科:一措刑,二官人,三知賢,四去疑,五招諫,六勸賞,七息兵,八安宗子。其大榷謂:

今、百の制度は既に備わっているが、ただ刑が急で網が密であり、為政の要ではない。凡そ大人が初めて天下を制するには、必ず凶乱叛逆の人が我がために駆除し、天誅を明らかにする。凶叛が既に滅びれば、則ち人情に順い、過ちを赦し罪を宥す。そもそも刑は乱を禁ずるためのものであり、乱が静まれば刑は止む。承平のために設けるものではない。太平の人は徳を楽しみ刑を悪む。刑の加わる所、人は必ず惨怛とする。故に聖人は措刑を貴ぶのである。近ごろの大赦は、群罪を洗い流し、天下は慶びを蒙り、皆自新を得た。しかし近日、詔獄が稍々滋蔓し、鉤捕して支党を求め、株蔓を推し窮めている。これは獄吏が天意を識らず、惨刻に抵るためである。誠に宜しく愷悌の道を広め、法を赦し罰を慎み、誣冤を省みるべきである。これが太平を安んずる人の務めである。

原文今百度已備,但刑急罔密,非為政之要。凡大人初制天下,必有凶亂叛逆之人為我驅除,以明天誅。凶叛已滅,則順人情,赦過宥罪。蓋刑以禁亂,亂靜而刑息,不為承平設也。太平之人,樂德而惡刑,刑之所加,人必慘怛,故聖人貴措刑也。比大赦,澡蕩群罪,天下蒙慶,咸得自新。近日詔獄稍滋,鉤捕支黨,株蔓推窮,蓋獄吏不識天意,以抵慘刻。誠宜廣愷悌之道,敕法慎罰,省白誣冤,此太平安人之務也。

官人を賢にすれば、政治は以て治まるなり。然れども君子と小人は各其の類を尚ぶ。若し陛下賢を好みて任ぜず、任じて信ぜず、信じて終わらず、終えて賞せざれば、賢人有りと雖も、終に肯て至らず、又肯て勧めざるなり。是に反すれば、則ち天下の賢集まるなり。

原文官人惟賢,政所以治也。然君子小人各尚其類。若陛下好賢而不任,任而不能信,信而不能終,終而不賞,雖有賢人,終不肯至,又不肯勸。反是,則天下之賢集矣。

議者は乃ち云う「賢は知るべからず、人は識み易からず」と。臣以為れらく、固より知り易く、固より識み易し。夫れ徳行を尚ぶ者は兇険無く、公正を務むる者は邪朋無し。廉なる者は貪を憎み、信なる者は偽を疾む。智は愚者の為に謀らず、勇は怯者の為に死せず。猶お鸞と隼は翼を接せず、薰と蕕は気を共にせざるが如し。其の理自然なり。何となれば、徳を以て凶に並ぶは、勢い相い入らず。正を以て佞を攻むるは、勢い相い利せず。廉を以て貪を勧むるは、勢い相い售らず。信を以て偽を質すは、勢い相い和せず。智者は謀を尚ぶも、愚者は聴かず。勇者は死に徇うも、怯者は従わず。此れ趣向の反するなり。賢人は未だ嘗て効用を思わざるは無し、顧みるに其の類無ければ則ち進み難く、是を以て時に湮汩す。誠に能く俊良を信任し、左右に灼然たる賢行有るを知りて、之に尊爵厚祿を賜い、類を以て相い挙げしめば、則ち天下の理得るなり。

原文議者乃雲「賢不可知,人不易識」。臣以為固易知,固易識。夫尚德行者無兇險,務公正者無邪朋,廉者憎貪,信者疾偽,智不為愚者謀,勇不為怯者死,猶鸞隼不接翼,薰蕕不共氣,其理自然。何者?以德並凶,勢不相入;以正攻佞,勢不相利;以廉勸貪,勢不相售;以信質偽,勢不相和。智者尚謀,愚者所不聽;勇者徇死,怯者所不從。此趣向之反也。賢人未嘗不思效用,顧無其類則難進,是以湮汩于時。誠能信任俊良,知左右有灼然賢行者,賜之尊爵厚祿,使以類相舉,則天下之理得矣。

陛下は賢を得て須らく任ずべきを知る。今未だ能はざるは、蓋し常に信任する者效あらざるを以てなり。裴炎・劉禕之・周思茂・騫味道は固より用いらるるを蒙れり、皆恩に孤にして前に死す。是を以て陛下賢を信ずるに疑う。臣は固より然らず。昔人噎びて病を得る有り、乃ち食を絶たんと欲す。食を絶てば身殞るるを知らず。賢人の国に在るは、猶お食の人に在るが如し。人は一噎を以て餐を止むべからず、国は一賢を謬りて正士を遠ざくべからず。此れ神鑒の知る所なり。

原文陛下知得賢須任,今未能者,蓋以常信任者不效。如裴炎、劉禕之、周思茂、騫味道固蒙用矣,皆孤恩前死,以是陛下疑于信賢。臣固不然。昔人有以噎得病,乃欲絕食,不知食絕而身殞。賢人于國,猶食在人,人不可以一噎而止餐,國不可以謬一賢而遠正士,此神鑒所知也。

聖人の大徳は、能く諫を納るるに在り。太宗の徳は三王に参するも、而も能く魏徵の直を容る。今誠に敢諫骨鯁の臣有らば、陛下広く延いて順納し、以て盛徳を新たにせば、則ち万世述ぶる有らん。

原文聖人大德,在能納諫,太宗德參三王,而能容魏徵之直。今誠有敢諫骨鯁之臣,陛下廣延順納,以新盛德,則萬世有述。

臣聞く、労臣賞せざれば、功を勧むべからず。死士賞せざれば、勇を勧むべからず。今或いは勤労死難して名爵及ばず、偷栄屍祿して寵秩妄りに加う。是れ庸を表し行を励ます所以に非ざるなり。願わくは徇節を表顕し、百僚を励勉せん。古の一人を賞して千万人悦ぶは、蓋し当たりと云うなり。

原文臣聞勞臣不賞,不可勸功;死士不賞,不可勸勇。今或勤勞死難,名爵不及;偷榮屍祿,寵秩妄加,非所以表庸勵行者也。願表顯徇節,勵勉百僚。古之賞一人,千萬人悅者,蓋雲當也。

今事の最大なる者は、兵甲歳に興り賦役省みざるを患う。師十万を興せば、則ち百万の家業を安んぜず。事北狄有るより、今に十年、中国の勝を聞かず。庸将を以て冗兵を禦い、徭役ようえき日広く、兵甲日敝ゆ。願わくは損益を審量し、利害を計り、勢い不可有らば、虚しく兵を出すこと毋かれ。則ち人安んず。

原文今事之最大者,患兵甲歲興,賦役不省,興師十萬,則百萬之家不得安業。自有事北狄,於今十年,不聞中國之勝。以庸將禦冗兵,徭役日廣,兵甲日敝。願審量損益,計利害,勢有不可,毋虛出兵,則人安矣。

虺賊紀を幹き、自ら屠滅を取る。罪は魁逆に止まり、復た縁坐無し。宗室子弟は皆更に生く。然れども臣願わくは陛下重ねて之を曉慰し、天子慈仁なるを明知せしめ、下自ら安んずるを得しめん。臣聞く、人情自ら明らかならざれば則ち疑い、疑えば則ち懼れ、懼れば則ち罪生ず。惟だ愷悌の徳を賜い、過無き地に居らしめん。

原文虺賊幹紀,自取屠滅,罪止魁逆,無復緣坐,宗室子弟,皆得更生。然臣願陛下重曉慰之,使明知天子慈仁,下得自安。臣聞人情不能自明則疑,疑則懼,懼則罪生。惟賜愷悌之德,使居無過之地。

俄に右衛胄曹参軍に遷る。

原文俄遷右衛胄曹參軍。

后既に皇帝と称し、号を周と改む。子昂『周受命頌』を上りて以て后に媚悦す。数たび召見して政事を問うと雖も、論亦詳切なり。故に奏聞すれば輒ち罷む。母喪を以て官を去り、服終わりて右拾遺に擢でらる。

原文後既稱皇帝,改號周,子昂上《周受命頌》以媚悅後。雖數召見問政事,論亦詳切,故奏聞輒罷。以母喪去官,服終,擢右拾遺。

子昂病多く、職に居りて楽しまず。会に武攸宜契丹きったんを討ち、高く幕府を置く。子昂を表して参謀とす。漁陽に次ぎ、前軍敗る。挙軍震恐す。攸宜輕易にして将略無し。子昂諫めて曰く、「陛下天下の兵を発して以て大王に属す。安危成敗此の挙に在り。安んぞ忽にせんや。今大王法制立たず、小児の戯れの如し。願わくは智愚を審にし、勇怯を量り、衆寡を度り、長を以て短を攻め、此れ恥を刷るの道なり。夫れ軍を按ずるは威厳を尚び、親信を択びて以て不測を虞う。大王重兵精甲を提げ、境上に屯す。硃亥竊発の変、良く懼るべし。王能く愚計を聴き、麾下の万人を分かち前駆と為さば、契丹の小丑、指日に擒う可し。」攸宜其の儒者なるを以て、謝して納れず。数日居りて復た計を進む。攸宜怒り、署を徙して軍曹とす。子昂合わざるを知り、復た言わず。

原文子昂多病,居職不樂。會武攸宜討契丹,高置幕府,表子昂參謀。次漁陽,前軍敗,舉軍震恐,攸宜輕易無將略,子昂諫曰:「陛下發天下兵以屬大王,安危成敗在此舉,安可忽哉?」今大王法制不立,如小兒戲。願審智愚,量勇怯,度眾寡,以長攻短,此刷恥之道也。夫按軍尚威嚴,擇親信以虞不測。大王提重兵精甲,屯之境上,硃亥竊發之變,良可懼也。王能聽愚計,分麾下萬人為前驅,契丹小丑,指日可擒。」攸宜以其儒者,謝不納。居數日,復進計,攸宜怒,徙署軍曹。子昂知不合,不復言。

聖曆初、父老を以て、表して官を解き帰侍せんとす。詔して官を以て供養せしむ。会に父喪有り、塚次に廬す。毎に哀慟すれば、聞く者之が為に涕す。県令段簡貪暴にして、其の富めるを聞き、子昂を害せんと欲す。家人錢二十万緡を納る。簡其の賂薄きを薄し、捕えて獄中に送る。子昂の捕えらるるを見て、自ら筮う。卦成りて驚きて曰く、「天命祐さず、吾殆うく死せんか。」果たして獄中に死す。年四十三。

原文聖曆初,以父老,表解官歸侍,詔以官供養。會父喪,廬塚次,每哀慟,聞者為涕。縣令段簡貪暴,聞其富,欲害子昂,家人納錢二十萬緡,簡薄其賂,捕送獄中。子昂之見捕,自筮,卦成,驚曰:「天命不祐,吾殆死乎!」果死獄中,年四十三。

子昂資褊躁なり。然れども財を軽んじ施すを好み、朋友に篤し。陸余慶・王無競・房融・崔泰之・盧藏用・趙元と最も厚し。

原文子昂資褊躁,然輕財好施,篤朋友,與陸余慶、王無競、房融、崔泰之、盧藏用、趙元最厚。

唐興り、文章徐・庾の余風を承け、天下祖尚す。子昂始めて雅正に変ず。初め『感遇詩』三十八章を為す。王適曰く、「是れ必ず海内の文宗と為らん。」乃ち交を請う。子昂の論著する所、当世以て法と為す。大曆中、東川節度使せつどし李叔明為に旌徳碑を梓州に立て、而して学堂今に至るも猶存す。

原文唐興,文章承徐、庾餘風,天下祖尚,子昂始變雅正。初,為《感遇詩》三十八章,王適曰:「是必為海內文宗。」乃請交。子昂所論著,當世以為法。大曆中,東川節度使李叔明為立旌德碑於梓州,而學堂至今猶存。

子光、復た趙元の子少微と相善くし、倶に文を以て称さる。光終に商州刺史。子易甫・簡甫、皆御史の位。

原文子光,復與趙元子少微相善,俱以文稱。光終商州刺史。子易甫、簡甫,皆位御史。

附 王無競

原文附 王無競

王無競は、字は仲烈、代々東萊に移り住み、宋の太尉王弘の遠い末裔である。家は財に足り、気概を負い豪放であった。下筆成章科に挙げられ、欒城尉に任じられ、三度遷って監察御史となり、殿中に改めた。朝会の際、宰相の宗楚客・楊再思が離れて立ち私語を交わすと、無競は笏を揚げて言う、「朝礼は上を敬うものであり、公ら大臣は、常典を軽んずるべきではない」。楚客は怒り、無競を太子舍人に左遷した。

原文王無競者,字仲烈,世徙東萊,宋太尉弘之遠裔。家足於財,頗負氣豪縱。擢下筆成章科,調欒城尉,三遷監察御史,改殿中。會朝,宰相宗楚客、楊再思離立偶語,無競揚笏曰:「朝禮上敬,公等大臣,不宜慢常典。」楚客怒,徙無競太子舍人。

神龍の初め、権幸を誹謗し、蘇州司馬として出された。張易之らが誅殺されると、かつて交際したことを咎められて広州に貶謫され、仇家が詔を偽って鞭打ち殺した。

原文神龍初,詆權幸,出為蘇州司馬。張易之等誅,坐嘗交往,貶廣州,仇家矯制搒殺之。

附 趙元

原文附 趙元

趙元は、字は貞固、河間の人である。祖父の掞は、通儒と号し、隋の時に、同郡の劉焯と共に召されて京師に至り、黎陽長に補され、汲に移り住んだ。

原文趙元,字貞固,河間人。祖掞,號通儒,在隋,與同郡劉焯俱召至京師,補黎陽長,徙居汲。

元は若くして志略を負い、論辯を好んだ。雒陽に遊学し、士人は争って慕い向かい、その訪問する者は皆縉紳の選りすぐりであった。武后がまさに称制した時、その高潔さが容れられまいと恐れ、宜祿尉に任じられた。職に着くと、公事でなければ言わず、琴を弾き薬草を植え、隠者のような節操であった。位が才に伴わぬことを自ら傷み、四十九歳で卒した。その友の魏元忠・孟詵・宋之問・崔璩らが共に昭夷先生と諡した。

原文元少負志略,好論辯。來游雒陽,士爭慕向,所以造謝皆縉紳選。武后方稱制,懼不容其高,調宜祿尉。到職,非公事不言,彈琴蒔藥,如隱者之操。自傷位不配才,卒年四十九。其友魏元忠、孟詵、宋之問、崔璩等共諡昭夷先生。

賛に曰く、子昂が武后に明堂太学を興すよう説いたが、その言は甚だ高遠で、大いに怪しむべき笑いものである。後に威柄を窃み、大臣・宗室を誅し、長君を脅迫してその権を奪った。子昂はかえって王者の術をもってこれを励まし、遂に婦人に嘲笑侮られて用いられず、まさに圭璧を房闥に薦めて、脂澤でこれを汚すようなものである。瞽者は泰山を見ず、聾者は震霆を聞かず、子昂の言うところは、その聾瞽であろうか。

原文贊曰:子昂說武后興明堂太學,其言甚高,殊可怪笑。後竊威柄,誅大臣、宗室,肋逼長君而奪之權。子昂乃以王者之術勉之,卒為婦人訕侮不用,可謂薦圭璧于房闥,以脂澤汙漫之也。瞽者不見泰山,聾者不聞震霆,子昂之於言,其聾瞽歟。