新唐書

巻一百六 列傳第三十一 杜正倫 崔知溫 高智周附:石仲覽 郭正一 趙弘智 崔敦禮 楊弘禮族父:纂 盧承慶 劉祥道 李敬玄 劉德威子:審禮 孫處約 邢文偉

杜正倫

杜正倫は、相州洹水の人である。隋の世は秀才の挙を重んじ、天下に十人に満たなかったが、正倫は一門に三人の秀才を出し、皆高第となり、世に羨ましがられ称賛された。武騎尉に任じられた。太宗は平素よりその名を知り、秦王府文学館に直ることを表薦した。貞観元年、魏徴がその才能を推薦し、兵部員外郎に抜擢された。帝が労って言うには、「朕が賢者を挙げるのは、朕ひとりが私するためではなく、その能力をもって百姓を益せんがためである。我が宗族や故人といえども、もし能なき者は、終に任ずるを得ない。卿は我が挙げるに足る者たることを思うべし」と。まもなく給事中に遷り、起居注を知った。帝はかつて言った、「朕は朝に坐すとき、多くを語ることを敢えず、必ず民に利あることを待って、乃ち口より出すのだ」と。正倫は言った、「臣の職は左史にあり、陛下一言の失は、ただ百姓を損なうのみならず、かつ筆を執ってこれを書せば、千載に徳を累ねることとなります」と。帝は喜び、彩段二百を賜った。累進して中書侍郎となった。韋挺・虞世南・姚思廉と事を論じて旨にかなうと、帝は宴の具を設け、四人を召して言った、「我聞く、神龍は馴らすべしと雖も、然れども頷に逆鱗あり、これに触るる者は死す、と。人君もまたこれ有り。卿らは遂に我が鱗を犯し、闕失を補う。朕はその危亡を慮るや!卿らの至意を思い、故に酒を挙げて以て相楽しむなり」と。各々帛を賜うこと差等有り。

太子が国を監するに当たり、詔して正倫に左庶子を行わせ、崇賢館学士を兼ねさせた。帝は正倫に謂う、「我が児は幼く、未だ徳に就かず、我は常に物々にこれを戒む。今国を監すに当たり、朝夕見ることを得ず。故に卿を朝に輟きて以て太子を輔けしむ。慎みてこれを勗めよ」と。他日また言う、「朕は年十八、猶お人間に在り、情偽未だ嘗めざる無し。即位に及び、処置に失有らば、必ず諫を待ちて、乃ち釈然として悟る。況んや太子は深宮に生まれ、知るに及ばざるにあらんや。且つ人主は自ら驕るべからず。今若し天下に詔し、敢えて諫むる者は死せ、とすれば、将に復た発言する者無からん。故に朕は孜孜として直言を延べ進む。卿其れ是を以て太子に暁らしめ、裨益せんことを冀う」と。中書侍郎に抜擢し、南陽県侯に封じ、仍って太子左庶子を兼ねた。両宮に出入りし、機密を典し、辦治を以て称された。後に太子稍々道を失うと、帝は正倫に語る、「太子数たび小人に私す。卿は審らかにこれを諭すべし。教えて徙わざれば、其れ我に語れ」と。故に正倫は顕かに諫めて避くるところ無し。太子従わず、輒ち帝の語を道いて督切にす。太子即ち表して聞かす。帝責めて曰く、「何ぞ我が語を漏泄せる」と。対えて曰く、「開示して入らず。故に陛下の語を以てこれを怖しめ、反って善に当たらんことを冀う」と。帝怒り、谷州刺史に出し、再び貶して交州都督ととくとす。太子廃せられ、金帯を受けたるに坐し、驩州に流す。久しくして、郢・石二州刺史を授く。

顕慶元年、黄門侍郎に抜擢し、崇賢館学士を兼ね、同中書門下三品に進む。又度支尚書を兼ね、仍って政事を知る。中書令に遷り、襄陽県公に封ぜらる。初め、正倫は既に通貴し、李義府の官は尚微であったが、同じく政を執るに及び、下ることができなかった。中書侍郎李友益は、義府の族なり、遅く正倫に附き、共に義府の釁缺を摭う。義府、人をして正倫・友益が上を罔し交通し、異計有りと告げしむ。高宗これを悪み、正倫を横州刺史に出し、友益を峰州に流す。正倫は貶所に卒す。

正倫は城南の諸杜と昭穆素より遠く、同譜を求めしも、許されず、これを銜む。諸杜の居る所を杜固と号し、世に伝う其の地に壮気有り、故に世々衣冠たりと。正倫既に政を執り、杜固を鑿ちて水を通じ人以て利せんことを建言す。鑿つこと既に、川流れ血の如く、十日を閲て止む。是より南杜稍々振わず。正倫は属文に工なり。嘗て中書舎人董思恭と夜直し、文章を論ず。思恭帰り、人に謂う、「杜公と文を評し、今日吾が文の頓に進むを覚ゆ」と。子無く、兄の子志静を以て嗣とす。

從子 求仁

從子の求仁、從孫の咸、皆顕名有り。

求仁は雅才有り。永淳中、監察御史を授かり、事に坐して黔令と為る。徐敬業と兵を挙げ、興復府左長史と為り、難に死す。

從孫 咸

咸は進士第に擢でる。累遷して右台監察御史と為る。牂柯反す。咸は監軍として出で討つ。賊は壘を保ちて自ら固くし、道は荒漫にして、師進むこと能わず。咸は乃ち士を息め、戦わんと欲せざるを示し、陰にこれを伺う。時に旱暑風熾なり。咸は火を放ち、噪きて前進す。賊は眩怖して相失い、自ら騰践して死に、其の酋を擒え、遂にこれを平ぐ。侍御史に遷り、出でて汾州長史と為る。開元中、河北按察使と為る。法を用いること深きに坐し、睦州司馬に貶せらる。

崔知溫

崔知溫、字は礼仁、許州鄢陵の人である。左千牛に仕え、稍々遷って霊州司馬と為る。境に渾・斛薩の万帳有り、数たび斉民を擾わす。農は皆耒を釈ぎ騎射を習いて以て賊を扞ぐ。知温は表して河北に徙すことを請う。虜は遷るを楽しまず、将軍契苾何力が為に言う有りて、乃ち止む。知温固く請い、疏十五たび上る。卒に河北に徙す。是より人耕に就くことを得。渾・斛薩徙地に至り、顧みて水草善しとし、亦遷ることを忘る。後に入朝し、州を過ぎ、謝して曰く、「初め徙りて且つ公を怨みしが、今地膏腴にして、衆孳夥し、更に公の恩を荷う」と。皆再拝す。

四遷して蘭州刺史と為る。党項羌三萬寇す。州兵寡なく、衆懼え、何れに出づべきかを知らず。知温は闔を披きて設備せず。羌これに怪しみ、進むことを敢えず。俄に将軍権善才兵を率いて至るに会い、其の衆を大破す。善才は遂に窮追してこれを取らんと欲す。知温曰く、「古より善く戦う者は奔を逆らわず。且つ溪穀復た深く、草木荒延す。萬分一にも変有らば、悔ゆるべからず」と。善才曰く、「善し」と。降口五百を分かちて知温に贈らんとす。辞して曰く、「我公事を議し、私利を図らんとするか」と。

累進して尚書左丞に遷り、転じて黄門侍郎となり、国史を修めた。永隆初年、官位が卑しいことを以て、特詔をもって門下三品に同じ、国史修撰を兼ねた。中書令に遷る。卒す。享年五十七。幽州大都督を贈られ、諡して忠という。子の泰之は、開元の時、工部尚書となった。諤之は将作少匠となり、二張(張易之・張昌宗)誅殺の功績により、博陵県侯に封ぜられ、実封二百戸を賜り、少府監で終わった。

兄に知悌あり。

兄の知悌もまた中書侍郎に至った。戴至徳・郝処俊・李敬玄らと共に飛白書の賛を賜り、知悌と敬玄は忠勤をもって表彰された。尚書左丞に遷る。裴行儉が突厥を破り、泥孰匐を斬り、残党が狼山に拠った時、詔により知悌は馳せ往きて定襄に至り将士を慰労し、行儉を助けて残寇を平定し、功績があった。戸部尚書で終わった。

高智周

高智周は、常州晋陵の人である。進士に及第し、越王府参軍に補せられた。費県令に遷り、丞・尉と共に俸禄を均等に取り、民はその教化に安んじ、石に刻んでその美を称えた。召されて秘書郎・弘文館直学士に抜擢された。かつて棋譜を覆い、碑文を誦して、誤りがなかった。三転して蘭台大夫となった。孝敬皇帝が東宮に在った時、司文郎中賀敳・司経大夫王真儒と共に侍読となり、告暇を得て郷里に還り嘆いて言った、「進むことを知りて退くことを知らざるは、禍を取るの道なり」。すなわち病を称して去った。

まもなく夀州刺史に拝せられた。その治め方は文雅を尚び、部内を巡行する際は、まず諸生に会い、経義や政治の得失を質し、それからようやく獄訟を記録し、耕作や収穫の勤惰を考課することを常とした。正諫大夫・黄門侍郎に遷る。儀鳳初年、同中書門下三品に進む。太子左庶子に遷る。この時、崔知温・劉景先が国史を修撰していたので、智周は郝処俊と共に監蒞した。久しくして、御史大夫に罷められ、薛元超・裴炎と共に章懐太子の獄を審理したが、異同を立てず、固く表を奉って去位を請うた。高宗はその気概を美として、右散騎常侍さんきじょうじを授けた。致仕を請うたところ、許された。卒す。享年八十二。越州都督を贈られ、諡して定という。

附 石仲覧

智周は初め郝処俊・来済・孫処約と共に江都の石仲覧に寄寓した。仲覧は財産を傾けて四人の歓を結び、因って各々その期するところを語るよう請うた。処俊は言った、「丈夫はただ仕えざるのみ、仕えて宰相に至るべし」。智周・来済も同じであった。処約は言った、「舎人となり、殿中で周旋し、吐納(意見の陳述)できればよい」。仲覧が相工に彼らを見させると、工は仲覧に語って言った、「高公の貴さは、君は見届けることができまい。来公は早く顕れるが末に躓き、高公は晩く顕れて寿を保つ。聞くところによれば、速やかに登る者は易く顛し、徐々に進む者は患い少ない、これが天道である」。後に来済が吏部に在った時、処約が瀛州参軍として選考に参じると、来済は言った、「志の如し」。通事舎人に擬した。手続きが終わると、階を降りて平生を労問した。仲覧が没した後、来済らはますます顕達した。

智周が親しくした義興の蔣子慎がいた。ある客がかつて二人を見て言った、「高公は人臣の極位に至るが、子孫は弱い。蔣侯は官途が達せられないが、後には興るであろう」。子慎は遂に達安尉で終わった。その子の繒が智周に会いに行くと、智周はちょうど貴顕であったが、娘を妻として与えた。子を生んで挺といい、湖州・延州の二州刺史を歴任した。子を生んで洌・渙といい、共に進士に擢てられた。洌は尚書左丞となった。渙は、永泰初年に鴻臚卿を歴任し、日本の使いが金帛を贈ったが受け取らず、ただ箋一枚を取って、その副使に贈る書をしたためた。挺が没すると、洌兄弟は墓の側に廬し、松柏を千本植えた。渙は礼部尚書で終わり、汝南公に封ぜられた。洌の子の煉、渙の子の銖もまた清白の名があった。しかし高氏の後裔はその後聞こえなくなった。

郭正一

郭正一は、定州鼓城の人である。貞観の時、進士として及第し、中書舎人・弘文館学士を歴任した。永隆年中、秘書少監に遷り、検校中書侍郎となり、詔により郭待挙・岑長倩・魏玄同と共に同中書門下にて進止を承受し平章事を為すこととなった。平章事の名は正一等に始まる。永淳年中、真に中書侍郎に遷る。執政すること久しく、故事に明るく習熟し、文辞詔勅は多くその手に出た。

劉審礼が吐番と青海で戦い、大敗した。高宗は群臣を召して戎狄を制する方策を問うた。正一は言った、「吐蕃は長年、寇を梗え、軍を数度出動させ、坐して糧資を費やしている。近く討てば威を喪い、深く入ればその巣穴を得ることができない。今の上策は、兵を少々募り、且つ烽候を明らかにし、侵擾することを事とせず、数年を待つに如くはない。力に余裕があり、人が戦いを思う時、一挙にして破ることができましょう」。劉斉賢・皇甫文亮らの議もまた正一と合致し、帝はこれを容れた。

武后が国政を専らにすると、罷められて国子祭酒となり、出向して検校陝州刺史となった。張楚金・元万頃と共に周興に誣告され構えられ、殺害され、家産は没収され、妻子は流放された。文章は残るものがなかった。

趙弘智

趙弘智は、河南新安の人で、元魏の車騎大将軍趙肅の孫である。早く母を喪い、父に事えて篤く孝行した。書伝に通じ、隋に仕えて司隷従事となった。武徳初年、大理卿郎楚之が推薦して詹事府主簿とした。太宗の時、論譔に参与し、勤績を記録され、太子舎人より黄門侍郎に進み、弘文館学士を兼ねた。病を称して出て萊州刺史となり、稍々遷って太子右庶子となった。兄の弘安を父の如く事え、俸禄は全て彼に帰し、敢えて私せず。弘安が卒すると、哀慟して喪期を過ぎ、嫂に仕えること甚だ謹み深く、兄の子を撫でること皆等しく己が子の如くであった。太子が廃せられるに及んで、免官された。まもなく光州刺史に拝せられた。記徽(永徽)初年、召されて陳王師となった。百福殿で『孝経』を講じた時、宰相・弘文館学士・太学生が皆在席し、弘智は五孝を挙げると、諸儒が更に詰問弁難したが、問いに随って応答悉く、舌に留まる言葉がなかった。高宗は喜んで言った、「試みに我が為に経の要を陳べて、及ばざるを輔けよ」。答えて言った、「『天子に争臣七人あれば、道無きと雖も、天下を失わず』。願わくはこれを以て献じ奉らん」。帝は悦び、絹二百匹・名馬一頭を賜った。四年、国子祭酒に進み、仍って学士であった。卒す。享年八十二。諡して宣という。弘安もまた国子祭酒で終わった。

来章

曾孫の矜は明経に挙げられ、舞陽主簿に任ぜられ、呉少誠が反すると、県を以て帰順し、襄城主簿に転じ、牙緋を賜う。襄陽丞を歴任す。客死して柳州にて、官が斂葬を為す。後十七年、子の来章始めて壮となり、襄陽より往きて其の喪を求め、得ず、野にて哭す。再び旬を閲し、卜人の秦誗が筮いて曰く、「金其の墨を食し、而して火以て貴し、其の墓は醜に直し、道の右に在り、南に貴神有り、塚土是を守る。宜しく西人に遇うべし、深目にして髯有る者、乃ち其の実を得ん。」明日、老人其の所を過ぐる者有り、之を問うて、矜の墓を得、社の北に直す。遂に帰り葬る弘安の墓次。時に人来章の孝を哀しみ、皆為に出涕すと云う。

崔敦禮

崔敦禮、字は安上。祖の仲方、隋に在りて礼部尚書と為る。其の先、博陵の著姓、魏の末、雍州咸陽の人に徙る。敦礼は書伝に渉り、節義を以て自ら将とす。武徳中、官は通事舎人。辞令進止を善くし、観る者皆竦然たり。嘗て節を執り幽州にて廬江王瑗を召す。瑗は既に兵を挙げ、之を執り、脅して朝廷の事を問う。敦礼は為に言わず、太宗之を壮とす。還りて、左衛郎将を除し、金幣良馬を賜う。中書舎人に擢でられ、四遷して兵部侍郎と為る。出でて霊州都督と為る。召し還されて、兵部尚書を拝す。詔して回紇・鉄勒の部姓を撫輯せしむ。会に薛延陀辺を寇す。李勣と兵を合して之を破り、祁連州を置きて其の余衆を処す。瀚海都督回紇の吐迷度、下に為って殺さる。詔して往きて綏定し、其の嗣を立てて還る。敦礼は四夷の情偽に通暁す。其の少き時、蘇武の為人を慕う。故に屡々突厥に使いし、前後建明し、事機に允会す。

永徽四年、侍中を拝し、国史を監修す。累ねて固安県公に封ぜらる。中書令に進み、兼ねて検校太子詹事と為る。久疾を以て、自ら言う、両宮に事奉するに任せずと。更に太子少師・同中書門下三品を拝す。弟の余慶、時に定襄都督府司馬と為り、召して侍疾せしむ。卒す。年六十一。高宗為に東雲龍門に挙哀し、賻布・秘器特に厚し。開府儀同三司・へい州大都督を贈り、諡して昭と曰う。昭陵に陪葬す。余慶も位亦た兵部尚書に至る。

楊弘礼

楊弘礼、字は履荘、隋の尚書令しょうしょれい素の弟の子なり。雅に玄感と忤わず、嘗て表して其の必ず乱るるを言う。玄感誅せられ、父の岳長安ちょうあんの獄に繋がる。煬帝赦すことを使す。比至るに、岳已に死す。高祖こうそ即位し、素が隋に功有るを以て、詔して弘礼に清河郡公を襲わしめ、太子通事舎人を除す。貞観中、累遷して中書舎人と為る。

太宗遼東を征す。兵部侍郎を拝す。駐蹕の役に、歩騎二十四軍を領して賊の背に跳出し、向かう所摧靡す。帝山下より其の衆を望み、袍仗精整し、人人力を尽くす。之を壮とし、許敬宗に謂いて曰く、「越公の児郎、故に家風有り。」時に宰相悉く留まり定州にて皇太子を輔く。唯だ褚遂良・敬宗・弘礼行在の機務を掌る。還りて、中書侍郎を拝す。司農卿に遷る。昆丘道副大総管と為り、処密を破り、焉耆王を殺し、馺支部を降し、亀茲・于闐王を獲て凱旋す。会に帝崩ず。大臣之を疾み、下遷して涇州刺史と為る。永徽初、其の功を追論し、勝州都督に遷り、太府卿に改む。卒す。蘭州都督を贈り、諡して質と曰う。

弟 弘武

弟弘武。弘武少くして修謹す。永徽中、累ねて吏部郎中・太子中舎人と為る。高宗東に泰山を封ず。荊州司馬より擢でられて司戎少常伯と為り、帝に従う。還りて、詔して吏部五品官を補授せしめ、西台侍郎に遷る。帝嘗て譲りて曰く、「爾戎司に在りて、官を授くる多く其の才に非ず、何ぞや。」弘武曰く、「臣が妻剛悍なり。此れ其の属する所、敢えて違わず。」以て帝が后言を用いるを諷す。帝笑いて罪せず。乾封二年、東西台三品と同ず。弘武他に才無く、特だ謙慎自ら守る。然れども職に居るに清簡を以て称せらる。卒す。汴州刺史を贈り、諡して恭と曰う。

三子:元亨・元禧・元禕。

甥 元禧

元禧は尚舎奉御と為り、医を善くし、武后の信愛する所と為る。嘗て張易之に忤う。易之奏す、「素、隋に在りて逆節有り、子孫供奉すべからず。」後に乃ち詔す、「素及び兄弟に子若くは孫有らば、京官及び侍衛に任ずることを得ず。」と。元亨を睦州刺史に貶し、元禧を資州刺史に貶し、元禕を梓州司馬に貶す。易之誅せられ、復た京官に任じ、並びに刺史に至る。

族父 纂

纂、字は続卿、弘礼の族父なり。大業時、進士に第し、朔方郡司法書佐と為る。玄感の近属に坐し、蒲城に居を廃す。高祖河を度る。長春宮に上謁す。累遷して侍御史と為る。数え上書して事を言い、旨に称し、考功郎中を除す。貞観初、長安令と為り、長安県男の爵を賜う。女子袁の妖逆を告ぐる者有り。纂之を按ずるに、情を得ず。袁敗る。太宗其の不忠を悪み、将に之を殺さんとす。中書令温彦博、過誤を以て当に宥すべしとす。乃ち免る。後吏部侍郎と為り、俗才有り、文雅を抑え、黠吏を進め、時を度り数をもて舞い以て自ら進む。終に戸部尚書に至り、幽州都督を贈られ、諡して恭と曰う。

纂の従子昉は、武后の時に肅機となった。宇文化及の子が先代の恩蔭の処置を訴えた。昉は食事中で、すぐには判決を下さず、急いで言った、「肅機、まだ食事をしていないのに、どうして天下に冤罪があって食事を求めることを知ろうか」。昉は怒り、訴状を取って署名して言った、「父は隋の主君をしいし、子は隋の資産を訴える、それでよいか」。人々はその機敏さに感服した。工部尚書で終わった。

盧承慶

盧承慶、字は子餘、幽州涿の人、隋の散騎侍郎思道の孫。父の赤松は、河東令となり、高祖と旧知であった。兵が起こると聞き、霍邑で迎えて謁見し、行台兵部郎中に拝され、率更令・范陽郡公で終わった。承慶は容姿・挙措が美しく、博学で才能があった。若くして爵位を襲った。貞観初め、秦州参軍となり、軍事を奏上するために入朝した。太宗はその弁舌を賞賛し、考功員外郎に抜擢した。累遷して民部侍郎となった。帝が歴代の戸籍について問うと、承慶は夏・商から周・隋に至るまでの増減曲折を述べ、引証が詳細で完備していた。帝は嘆賞した。まもなく検校兵部侍郎を兼ね、五品の選任を掌ったが、辞して言った、「選事は尚書にあり、臣がこれを掌るのは越分です」。帝は許さず、言った、「朕は卿を信じる、卿はどうして自らを信じないのか」。雍州別駕・尚書左丞を歴任した。

高宗の永徽年間、事に坐して簡州司馬に貶せられた。一年を経て、洪州長史に改められた。帝が汝の湯泉に行幸しようとしたので、汝州刺史に拝された。顕慶四年、度支尚書として同中書門下三品となったが、徴発が法に背いたことで坐し、免官となった。まもなく潤州刺史に拝された。刑部尚書に拝された。金紫光禄大夫をもって致仕し、卒した。臨終に、その子を戒めて言った、「死生の至理は、朝に暮れがあるようなものだ。我が死後は、常服で納め、朔望に犠牲を供えず、葬るに日を卜さず、器は陶漆を用い、棺は槨を用いず、墳の高さは識別できる程度とし、碑誌には官号と年月を記し、虚文を用いるな」。幽州都督を追贈され、諡して定といった。

初め、承慶が選挙を掌り、百官の考課を校定した時、漕運の船が沈没したことで罪に坐した者がいた。承慶は「輸送物を失った」として、考課を中下とした。その人に示すと、怨む様子もなかった。改めて「力の及ぶところではない」として、考課を中中とした。それでも喜ばなかった。承慶はこれを賞賛して言った、「寵辱に驚かず、考課は中上とする」。その人の善を顕わすことがこのようであった。

弟に承業・承泰がいる。承業は後に雍州長史・尚書左丞となり、有能な名声があった。

甥 齊卿

承泰、字は齊卿、長安初年、雍州参軍となった。武后が長史の薛季昶に詔して、御史に堪える僚吏を選ばせた。季昶が齊卿に訪ねると、齊卿は長安尉の盧懷慎・李休光、萬年尉の李乂・崔湜、咸陽丞の倪若水、盩厔尉の田崇壁、新豊尉の崔日用を挙げた。季昶がその言を用いたところ、後に皆、顕官・大人物となった。幽州刺史に拝された時、張守珪が果毅に属していたが、齊卿は厚く遇し、「君は十年で節度使に至るだろう」と言った。果たしてそのようになった。酒を好み、一斗を超えても乱れなかった。寛厚で楽しく平易であり、士人・友人はこれによって彼に親しんだ。太子詹事・広陽県公で終わった。承慶の従孫の藏用は別に伝がある。

劉祥道

劉祥道、字は同壽、魏州観城の人。父の林甫は、武徳年間に内史舎人となり、機密を掌り、才能を称えられた。蕭瑀らと共に律令を撰定し、『律議』一万余言を著した。中書侍郎・吏部侍郎を歴任し、楽平県男の爵を賜わった。唐は隋の制度を踏襲し、十一月に選集を行い、春に停止した。日が迫り事が煩雑で、有司は詳細に審査する暇がなかった。林甫は四時に選任を聴き、到着次第に擬定するよう建議した。これによって官に滞留する者はいなくなった。初め、天下が平定されたばかりの時、州府や詔使が赤牒で官職を授けていたが、この時に廃止され、全て吏部に集めて任用した。その数は一万員に及び、林甫は才能に応じて選録したので、皆が適当であると思い、論者は隋の高孝基に比した。

祥道は若くして爵位を襲い、御史中丞を歴任した。顕慶年間、吏部黄門侍郎に遷り、選事を掌った。世職となったので、弊害を補正し、上疏して六事を陳べた。

第一に、今、士を取るのは多く且つ濫りである。入流は年に千四百人、多い。雑色の入流は、未だ銓選・淘汰が行われておらず、濫りである。故に共に務める者は、善人は少なく、悪人は多い。臣は思うに、雑色から進む者は、厳しく有司に責めて試判を四等とし、第一等は吏部に付し、第二等は兵部に付し、第三等は主爵に付し、第四等は司勲に付すべきである。もし負債などの罪に坐して責めを受けるべき者は、赦令を経ても、なお三司に配し、そうでない者は本貫に還すならば、官は濫雑しないであろう。

第二に、内外の官は、一品から九品まで一万三千四百六十五員である。およそ三十歳で仕え、六十歳で退く。その中間の数を取れば、三十年と経たずに、存命の者はほぼ尽きる。もし年に五百人が入流すれば、三十年で自ら補充し合うことができる。まして三十年後も、在官する者はなお多く、少なくなる心配はない。今、入流は年に千四百人、その倍は二千八百人、さらに停選した六七千人を加え、さらに毎年新たに加わる。その類は次第に広がり、永続的な制度ではない。古くは官のために人を選び、人が多く官が少ないことを取るとは聞かない。

第三に、永徽以来、在官する者は善政によって抜擢され、事を論ずる者は一言によって進められるが、学校の諸生で選抜された者は聞かない。これは奨励の道が行き届いていないのである。

第四に、唐が天下を得て四十年になるが、秀才を挙げた者はない。六品以下から草野に至るまで、審らかに加えて搜訪し、赫々たるこの時代に、この学が遂に絶えることのないようにせよ。

第五に曰く、唐・虞の世には三年ごとに考績を行い、暗愚を退け明哲を昇進させた。二漢も人を用いるに、その職を久しく務めさせた。今、任官は概ね四考で罷免される。官は秩満を知れば、去就を思い、民は遷徙を知れば、苟且に過ごす。去就を思う官が、苟且なる民に臨んで、風俗を移し振るわしめようとして、どうしてできようか。四考で階を進め、八考で選を聴くことを請う。以て迎新送故の弊を息めん。

第六に曰く、三省の都事・主事・主書は、選補に比べ、皆、流外で刀筆の才ある者を取る。士流を参用せんと欲すれども、概ね儔類を恥じる。前後相沿い、遂に故事となる。且つ掖省は崇峻にして、王言は秘密、尚書は政本、人物の帰する所なり。専ら曹史に責むるは、理に未だ尽きざる所あり。宜しく稍々これを革め、以てその選を清くすべし。

時に中書令杜正倫もまた入流する者衆く、官人の弊たりと言う。乃ち詔して祥道と参議せしむ。然るに執政は改作を憚り、また勲戚の子は進取に他門なきを以て、遂に格止す。

稍々遷って司刑太常伯となる。大獄を覆す毎に、必ず歔欷累歎す。奏決の日、再び食せず。詔して関内道を巡察せしむ。多く冤滞を振るう。はい王府長史を兼ぬ。麟徳元年、右相に拝す。祥道の性は審謹、宰相に居り、憂畏して自ら堪えず、数たび老病を陳べて解任を丐う。上官儀と善しと坐し、罷められて司礼太常伯となる。高宗、泰山に封ず。有司、太常卿を以て亜献とし、光禄卿を終献とせんことを請う。祥道建言す、「三代は六卿重し、故に祠を佐くを得たり。漢・魏以来、権は台省に帰し、九卿は常伯の属官たり。今、封岱の大礼、八坐を用いずして九卿を用うるは、古の名に徇いて実事を忘るるに無からんか」と。帝その議を可とし、司徒しと徐王元礼を以て亜献とし、祥道を終献とす。礼成りて、爵を進めて広平郡公とす。乾封元年、金紫光禄大夫を以て致仕す。卒す。年七十一。幽州都督を贈られ、諡して宣と曰う。

子に齊賢あり。

子の齊賢、爵を襲ぐ。侍御史より出でて晋州司馬となる。帝、その方直なるを以て、これを尊憚す。時に将軍史興宗、苑中に従獵し、晋州は佳き鷂を出すと言い、捕取すべしとす。帝曰く、「齊賢は豈に鷂を捕る人ならんや。卿、安んぞこれを以てこれを持すを得ん」と。累遷して黄門侍郎、国史を修す。永淳元年、同中書門下平章事に進む。武后の時、裴炎に代わって侍中となる。炎の反せざるを弁す。后怒り、左遷して普州刺史とし、道中に貶して吉州長史とする。永昌年中、酷吏に陥れられ、州獄に繋がれ、自経して死す。その家を没す。建中三年、太子太保を贈られる。

齊賢は三世にして両省侍郎に至り、選を典す。従父の応道は吏部郎中、従父弟の令植は礼部侍郎、凡そ八人前後して吏部郎中・員外を歴任す。世、以って罕なりとす。

從一

令植の孫の從一、進士宏詞第に擢でられ、渭南尉に調う。常に常袞・盧杞に厚くせられ、薦められて監察御史を授かる。普王、李希烈を討つに当たり、表して元帥判官とす。徳宗、奉天に居す時、超拜して刑部侍郎・同中書門下平章事とす。梁州に従幸し、中書侍郎に改む。帝、遇すること善し。然れども他に材能無く、身を容れて罪を遠ざくるのみ。貞元初め、疾を以て自ら乞い、罷められて戸部尚書となる。卒す。太子太傅を贈られる。

李敬玄

李敬玄、亳州譙の人。群籍を該覧し、特に礼に善し。高宗、東宮に在す時、馬周その材を薦め、召し入れて崇賢館侍読とし、中秘書を仮りてこれを読ます。人と為り峻整、然れども造請は寒暑を憚らず。許敬宗頗るこれを薦め延ぶ。西台舎人、弘文館学士を歴任す。右粛機に遷り、検校太子右中護。西台侍郎・同東西台三品に拝し、検校司列少常伯を兼ぬ。時に員外郎張仁禕に敏才あり、敬玄、曹事をこれに委ぬ。仁禕、姓歴・状式・銓簿を作り、鉗鍵周密、心を労すること太だしくして病み死す。敬玄その法に因り、衡綜すること序あり。永徽以後、選員漸く多し。惟だ敬玄のみ職に居りて能称あり。性、強記、官万員と雖も、諸道に遇えば、未だ嘗て姓氏を忘れず。訴え来る者あれば、口に書判の参舛及び殿累の本末を諭して少しも繆ること無し。天下その明に伏す。杭州参軍徐太玄、その僚の張惠が贓に坐して死に抵るを哀れみ、而して惠の母老いたり。乃ち獄に詣りて自ら惠と偕に受けしと言い、その罪を薄くす。惠死せずして済むを得。太玄坐して免官十年。敬玄廉しくこれを知り、擢て鄭州司功参軍とす。後、秘書少監・申王師に至り、德行を以て聞こゆ。その鑒抜、率ね此の若し。

咸亨二年、中書侍郎に転ず。又、吏部に改め、太子右庶子・同中書門下三品を兼ね、国史を監修す。吏部尚書に進む。選部に居ること久しく、人多く附向す。凡そ三たび娶る皆山東の旧族、又、趙李氏と譜を合わす。故に台省の要職多く族属姻家なり。高宗これを知り、善しとせず。儀鳳元年、中書令に拝し、趙国公に封ぜらる。

劉仁軌、吐蕃を西討し、建請する所あり。敬玄数たび異を執る。ここを以て隙あり。因りて奏す、河西鎮守は敬玄に非ざれば不可なりと。敬玄、将帥の才に非ざるを以て辞し、且つ仁軌が憾を逞うする故に、臣に不能を強うすとす。帝これを厭い、因りて曰く、「仁軌若し朕を須いば、朕まさに行かん。卿安んぞ辞するを得ん」と。乃ち洮河道大総管に拝し、兼ねて鎮撫大使、検校鄯州都督とし、兵十八万を統べ、仁軌に代わる。吐蕃の将論欽陵と青海に戦う。劉審礼をして先鋒と為さしめ、虜と麈す。敬玄は軍を按ずること自如たり。審礼戦歿す。尚お首鼠して進まず。乃ち承風嶺に頓す。又、溝淖陰りて、前に進むこと能わず。賊は高く屯してその営を圧す。偏将黒歯常之、死士を率いて夜賊を撃つ。敬玄始めて鄯州に至るを得。又、湟川に戦いて、遂に大敗す。数たび疾を称して罷帰を求む。許さる。既に入見すれども、謝を引かず。即ち府に還りて事を視る。帝、実に病まざるを察し、衡州刺史に貶す。久しくして、揚州長史に遷る。官に卒す。兗州都督を贈られ、諡して文憲と曰う。『礼論』及び他の書数十百篇を撰次す。二子、思沖・守一。

思沖、神龍初め、工部侍郎・左羽林軍将軍を歴任し、節湣太子に従い武三思を誅す。見殺され、その家を籍す。守一は郫令。孫の紳は別伝す。

弟に元素あり。

敬玄の弟元素は、武徳県令となった。刺史の李文暕が民衆から黄金を強制的に徴発して常満尊を造り献上しようとしたが、官属は誰も諫める者がなく、元素が強く争ったので、文暕は少し減らし、代わりに私財で補った。延載初年、文昌左丞から鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。武懿宗に陥れられ、綦連耀らとともに誅殺された。神龍年中、その罪を追って洗い清められた。

劉德威

劉德威は、徐州彭城の人である。姿形は魁偉で秀で、才幹と謀略があった。隋の大業末、裴仁基に従って淮の賊を討ち、自ら剣を執って賊の首領を斬り、その首を行在所に伝えた。後に李密に帰順し、密は麾下の兵を分けて懐州を守らせた。密が降伏すると、ともに朝廷に入り、左武候将軍を授けられ、滕県公に封ぜられた。詔により兵を率いて劉武周を撃ち、これにより并州総管府司馬を兼ねた。裴寂が軍律を失い、斉王元吉は州を棄てて逃げたので、徳威が留府の事務を総轄した。賊が城に迫ると、民は皆叛いて賊に附き、遂に武周に捕らえられた。武周は彼に本部を率いて浩州の地を巡行させたが、徳威は自ら抜け出して帰還し、賊中の虚実をことごとく上奏した。高祖は嘉んで受け入れ、彭城県公に改封した。間もなく、検校大理少卿となり、洛陽らくよう平定に従い、功があり、刑部侍郎に転じ、散騎常侍を加えられ、平寿県主を妻に娶った。

貞観初年、大理卿・綿州刺史を歴任した。政治は廉潔公平と称され、百姓は石を立ててその徳を頌えた。まもなく検校益州大都督府長史となった。入朝して大理卿となった。太宗が問うて言うには、「近ごろ刑罰の網が次第に密になっているが、その過ちはどこにあるか。」徳威は答えて言うには、「君主にあり臣下にはありません。下の寛猛は、主君の好みを見て行うものです。律には、罪を重くしすぎた場合は三等減じ、軽くしすぎた場合は五等減ずるとあります。今、重くしすぎた者は無罪で、軽くしすぎた者は罪があるので、官吏は深文(条文を厳しく解釈すること)に努め、自己保身を図るのであり、教えられてそうしているわけではありません。」帝はその言を然りとした。後に刑部尚書に遷り、検校雍州別駕となった。詔により斉州に赴き斉王祐の獄を按問し、帰還途中、半道で祐の反乱を聞き、祐が済州を占拠した。詔により徳威はそのまま河南の兵を発してこれを経略することとなったが、ちょうど母の喪に遭い免ぜられた。喪が明けると、同州刺史となった。永徽三年、任上で卒去。七十一歳。礼部尚書・幽州都督を追贈され、諡して襄といい、献陵に陪葬された。

徳威は家庭内で友愛睦まじく、人となり寛大公平であり、生涯得た俸禄を宗族親戚に分け与え、留め蔵することはなかった。子に審礼がいる。

子 審礼

審礼は幼くして母を喪い、祖母の元氏に養われた。隋末の大乱で、道が通じず、審礼はまだ幼かったが、自ら郷里から祖母を背負って江を渡り、転々として避難した。天下が平定されると、西に入って長安に至った。元氏が病気になるたび、必ず自ら薬を煮て、嘗めてから進めた。元氏は言う、「この子の孝行は幽顕(あの世とこの世)に通じる。私が一たび気にかけると、病気はたちまち良くなる。」貞観年中、左ぎょう衛郎将を歴任した。父の喪で免官となる。葬儀の際には、徒跣はだしで歩き血が流れ、行く人が嘆息した。喪が明け、爵位を継ぐべきであったが、弟に譲ろうとしたが、聞き入れられなかった。父の執友(親友)に会うと必ず感激して涙が滂沱と流れた。継母に仕えること特に謹み深く、弟の延景とはよく知られた友愛で、得た俸禄の多くを彼に与え、妻子は寒苦に耐えながらも、平然としていた。再従いとこまで皆同居し、合わせて二百口、内外に間然たる言葉はなかった。工部尚書に遷り、検校左衛大將軍となった。

儀鳳三年、吐番が涼州を寇し、中書令李敬玄の副将としてこれを討った。虜と青海の上で遭遇し、戦ったが、敬玄が躊躇して進まず、審礼は敗れ、虜に捕らえられた。その子の尚乗直長殆庶および延景が朝廷に出て罪を待ち、賊地に入って父を贖おうと請うた。詔があり、審礼は忠を尽くして没したのであって罪はない、各々職に戻るべきであるとした。特に詔して殆庶の弟易従に父を見舞わせた。到着した時、審礼は既に卒去していた。易従は昼夜哭きやまず、吐番はその志を哀れみ、遂に父の屍を還し、易従は徒跣で万里を歩き、扶護して帰還した。見る者は涙を流した。審礼に工部尚書を追贈し、諡して僖といった。

子 延景

延景、字は冬日、ついに陝州刺史となった。睿宗の初め、后父として尚書右僕射を追贈され、乾陵に陪葬された。

子 易従

易従は累遷して彭州長史・任城県男となった。永昌年中、酷吏の周興に誣告され、罪に坐して死んだ。刑に臨むとき、百姓が奔走し、争って衣服を解き地に投げ、「長史のために福を祈る」と言った。有司がその価値を平らに計ると、十余万に及んだ。当時「孝義劉家」と号された。易従が無実の禍で死んだとき、天下の人はこれを冤んだ。

子 昇

子の昇は、十余歳で嶺表に流され、六道使が流人を誅殺したとき、昇は信愛されて首領に庇護され免れた。後に姓を温と改め、北に帰って洛陽に至った。景雲年中、特に右武衛騎曹参そうしん軍を授けられた。開元年中、累遷して中書舎人・太子右庶子となった。昇は文を能くし、草書・隷書に巧みであった。

侄 延嗣

審禮の従弟延嗣は、潤州司馬となった。徐敬業が潤州を攻めると、延嗣は刺史と共に固く守った。やがて城は陥落し、敬業は降伏を求めたが、延嗣は言う、「我が家は代々恩を受け、今城を守れず、負うところ多し。どうして苟くも生きて宗族の恥となろうか」。敬業は怒り、斬ろうとしたが、その党の魏思溫が救って止め、江都の獄に繋いだ。敬業が敗れると、忠節を記録して叙用すべきところ、裴炎の近親であることを理由に、梓州長史に遷されるにとどまった。汾州刺史に転じた。宗族で刺史に至る者は二十余人に及んだ。

孫處約

孫處約は、初め道茂と名乗り、汝州郟城の人である。貞観年間、斉王祐の記室となった。祐は過失多く、処約はしばしば上書して厳しく諫めた。王が誅殺されると、帝はその上書を得て感歎し、中書舎人に抜擢した。高宗が即位し、杜正倫に命じて舎人の員数を増やすよう請わせた。帝は言う、「処約一人で、我が事を足す」。取りやめて除任しなかった。論譔の労により、しばしば段物を賜った。再び遷って司礼少常伯となった。麟徳元年、西台侍郎として東西台三品を同のうした。少司成となり、老いて致仕し、卒した。

子 佺

子の佺は、延和初め、羽林将軍・幽州都督となり、兵十二万を率いて奚の李大酺を討ち、三屯に分け、副将の李楷洛・周以悌にこれを率いさせた。冷硎に駐屯し、楷洛が大酺と戦って勝たず、壮校多く没した。佺は気力を失い、偽って言う、「天子が我に詔して奚を招慰せよと、楷洛は詔に背き妄りに戦い、斬るべきである」。人を遣わして大酺に謝した。大酺は言う、「もしそうなら、天子の賜り物を出して、欺かぬことを示せ」。佺は軍中の幣帛万余匹をかき集め、すべて袍・帯と共にこれを与えた。大酺は佺の詐りを知り、好言して引き返すよう勧めたが、佺の部隊は離散し沮喪し、奚がこれを逼り、大敗し、死者数万に及んだ。佺・以悌は共に捕らえられ、默啜のもとに送られて殺された。

刑文偉

邢文偉は、滁州全椒の人である。歴陽の高子貢・寿春の裴懷貴と共に博学で知られた。咸亨年間、太子典膳丞を歴任した。当時、孝敬太子は宮臣に謁見することが稀で、文偉は直ちに膳を減らし、上書して言う、「古より太子は冠すると、過ちを記す史と膳を撤す宰がいた。史が過ちを書かねば死に、宰が膳を撤さねば死んだ。皇帝は英俊を選び、庶子から司議・舎人・学士・侍読に至るまで、殿下を補佐させ、聖徳を成就させようとされた。近ごろは廷議にあまり与からず、謁対は稀で簡略、三朝の後は内人と独り居し、どうして天資を発揮し、浚哲にして文明たらしめようか。今、史は既に官を欠くが、宰は職を奉ずるを得る。謹んで礼経を守り以て聞かせる」。太子は答えて言う、「幼より墳典を嗜み、精研し極意せんとしたが、将衛に閑ならず、耽誦して労を致す。近ごろ風虚に苦しみ、陛下の恩旨により、強いて勉めることを許されず、加之朝夕に趨侍し、自ら専らにする道なく、屡々坐朝を欠き、学緒を乖廃す。来たる請いを観尋するに、まことに宿志に符す。義均しく弼諧するに非ざれば、どうしてかこの薬石を進めよう」。文偉はこれにより益々知名となった。後に右史が欠け、高宗は侍臣に言う、「文偉は我が児を切諫した。これ直臣なり」。遂にこれを授けた。

武后の時、累遷して鳳閣侍郎となり、弘文館学士を兼ねた。載初元年、内史となった。後に明堂に御し、詔して文偉に『孝経』を講ぜしめた。后が問う、「天と帝は異なる称というがどうか」。文偉は言う、「天と帝は一つなり」。制して言う、「郊で后稷を以て天に配し、明堂で文王を祀って上帝に配する。どうして一つと言えるか」。答えて言う、「先儒の執論同じからず、昊天及び五方を総べて六天帝とす」。后は言う、「帝に六あれば、則ち天は同じ称にあらず、固よりなり」。文偉は答えることができなかった。后は言う、「風俗を移し易えるは、楽に善きは莫し。伯牙が琴を鼓すれば、鐘期これ聴き、意が山水にあることを知る。これは人が風俗を移し易えることなり。どうして楽を取る必要があるか」。文偉は言う、「聖人が楽を作り、人心を平らげ、風俗を変える。末世に楽が壊れれば、則ち人に移される」。后は喜び、帛を賜った。宗秦客が奸贓の罪に当たり、文偉はその善しとする所に坐し、珍州刺史に貶された。たまたま他の使者が至り、文偉は内に悸き、自経して死んだ。

附 高子貢

高子貢は、『太史書』に善く、硃敬則と善くし、明経に擢げられた。秘書省正字・弘文館直学士を歴任した。志を得ず、因って官を棄て去った。徐敬業が兵を起こすと、弟の敬猷が兵五千を統率して和州に逼り、子貢は郷人数百を率いてこれを拒ぎ、賊は引き去った。功により朝散大夫に抜擢され、成均助教となった。東莞公融はかつて和州刺史となり、子貢に従って業を受けた。及んで融が挙兵を謀ると、黄公譔をして子貢に会わせ、謀主として推し、書疏を往来させ、因って諸王と内応を結んだ。謀が漏れ、坐して死んだ。