長孫無忌
長孫無忌、字は輔機。性質は通達にして悟るところ多く、広く書史に渉猟す。初め、高祖の兵が河を渡り、長春宮に進謁した時、渭北道行軍典簽に任ぜられる。秦王に従い征討して功有り、累進して比部郎中・上党縣公となる。
或ひは無忌の権太だ盛んなるを言ふ者有り。帝、表を執りて無忌に示し曰く、「我と公君臣の間、少も疑ふこと無し。各其の聞く所を懐ひて言はざらしむれば、是れ蔽ふなり」と。因りて普く君臣に示して曰く、「朕が子幼し。無忌は朕に大功有り、之を猶子の如く視る。疏を以て親を間はし、新を以て旧を間はす、之を不順と謂ふ。朕是を取らざるなり」と。無忌亦自ら貴く且つ亢るを懼れ、後又数之を言ふ。遂に僕射を解き、開府儀同三司を授く。房玄齢・杜如晦・尉遅敬德と皆元勳を以て一子を郡公に封ず。司空に進み冊し、門下・尚書省の事を知る。無忌辞す。又高士廉に因り口陳して「外戚を以て三公の位に在らしむるは、議者を嫌ひ、天子の私を以て後家をせんと謂ふ」と。帝曰く、「朕官を任ずるには必ず才を以てす。然らざれば、親しきこと襄邑王神符の若きも、妄りに授けず。若し才あれば、仇なること魏徴の如きも、棄てず。夫れ后の兄を縁りて愛昵し、厚く子女玉帛を以てす、豈に得ざらんや。其の文武両器を兼ぬるを以て、朕故に相とす。公等孰か然らずと曰はざらん」と。無忌固く譲る。詔を下し答へて曰く、「黄帝、力牧を得て、五帝の先と為り、夏禹、咎繇を得て、三王の祖と為り、齊桓、管仲を得て、五伯の長と為る。朕公を得て、遂に天下を定む。公其れ譲ること無かれ」と。帝又、与に共に艱難を経たるを思ひ、無忌に頼りて免るる有り、『威鳳賦』を作りて以て賜ひ、且つ其の功を況ふ。
帝、功臣を並びに世襲の刺史たらしめんと欲す。貞観十一年、乃ち有司に詔して曰く、「朕明霊の祐に憑り、賢佐の力を頼り、克く多難を翦ぎ、宇内を清む。蓋し時屯なれば共に其の力を資け、世安んずれば専ら其の利を享く、是れ朕の取らざる所なり。刺史は古の諸侯なり。名は同じからずと雖も、監統は一なり。無忌等、義は休戚に貫き、效は夷険に挺で、嘉庸懿績、簡に朕が心に在り。其れ土宇を改めて錫ひ、世及の制を用ひよ」と。乃ち無忌を以て趙州刺史と為し、趙を以て公国とす。房玄齢は宋州刺史、国は梁に、杜如晦は贈密州刺史、国は萊に、李靖は濮州刺史、国は衛に、高士廉は申州刺史、国は申に、侯君集は陳州刺史、国は陳に、道宗は鄂州刺史、王は江夏、孝恭は観州刺史、王は河間、尉遅敬德は宣州刺史、国は鄂に、李勣は蘄州刺史、国は英に、段志玄は金州刺史、国は褒に、程知節は普州刺史、国は盧に、劉弘基は朗州刺史、国は夔に、張亮は澧州刺史、国は鄖に。凡そ十有四人。余の官食邑は尚在らず。無忌等辞して曰く、「群臣荊刺を披き、陛下に事へつ。今四海混一す。誠に左右を違へ遠ざかり、世に外州を牧せしむるを願はず。遷徙と等しきなり」と。帝曰く、「地を割き功臣を封ずるは、公等の後嗣をして長く籓翰たらしめんと欲するなり。而るに山河の誓を薄くし、反つて怨望を為す。朕亦安んぞ強ひて公の土宇せんや」と。遂に止む。後、帝其の第に幸す。家人姻婭より労賜に至るまで、皆差有り。久しくして、位を進めて司徒と為す。
太子承乾廃せらる。帝、晉王を立てんと欲す。未だ決せず。両儀殿に坐し、群臣已に罷み、獨り無忌・玄齢・勣を留めて東宮の事を言ふ。因りて曰く、「我が三子一弟、立つべき所を知らず。吾が心聊かも無し」と。即ち床に投じ、佩刀を取って自ら向ふ。無忌等驚き、爭ひて抱持し、刀を奪ひて晉王に授け、而して帝の立てんと欲する所を請ふ。帝曰く、「我晉王を立てんと欲す」と。無忌曰く、「謹みて詔を奉ず。異議有る者は斬らん」と。帝王を顧みて曰く、「舅汝を許せり。宜しく即ち謝すべし」と。王乃ち拝す。帝復た曰く、「公等我が意に合へり。天下其れ何と謂はん」と。答へて曰く、「王仁孝を以て天下に聞こゆること久し。固より異辞無し。如し同じからずんば、臣陛下に百死を負はん」と。是に於て遂に定む。無忌を以て太子太師・同中書門下三品と為す。「同三品」是より始まる。帝又吳王恪を立てんと欲す。無忌密に爭ひて之を止む。帝高麗を征す。詔して侍中を摂せしむ。還りて、師傅の官を辞す。太子太師を罷むるを聴し、遥かに揚州都督を領す。
帝嘗て従容として問ひて曰く、「朕聞く、君聖なれば臣直しと。人は常に自ら知らざるを苦しむ。公宜しく面して朕が得失を攻むべし」と。無忌曰く、「陛下は神武聖文、千古に冠卓し、性は天道に与し、臣等の愚の及ぶ所に非ず。誠に見る所の失有らず」と。帝曰く、「朕過を聞かんことを冀ふに、公等乃ち相諛悦す。朕当に公等の可否を評して以て相規せん」と。謂く、「高士廉は心術警悟にして、難に臨みて節を易へず。乏する所は骨鯁のみ。唐儉は辞有り、善く人を和解し、酒杯流行し、発言意に可なり。朕に事ふること二十年、未だ嘗て一言国家の事無し。楊師道は性謹審にして、自ら能く過無し。然れども懦にして事を更へず、緩急倚るべからず。岑文本は敦厚、文章・論議其の長とする所なり。謀は常に遠く経り、自ら物に負はず。劉洎は堅正、其の言益有り。人に軽々しく然諾せず、能く自ら闕を補ふ。馬周は敏鋭にして正しく、人物を評裁し、直道を行ひ、任ずる所皆朕が意に称ふ。褚遂良は鯁亮にして学術有り、誠を竭くして朕に親しむ。飛鳥の人に依るが若く、自ら憐愛を加ふ。無忌は応対機敏にして、善く嫌を避く。古人に求めても、未だ其の比有らず。兵を総べ攻戦するは、善とする所に非ず」と。
太子即位す、是れ高宗なり。無忌を太尉に進め、中書令を検校し、猶門下・尚書の二省を知る。尚書省を固辞し、之を許す。帝、武昭儀を立てて后と為さんと欲し、無忌固より言う不可なりと。帝密かに宝器錦帛十余車を以て之を賜い、又その第に幸し、三子を擢て皆朝散大夫と為し、昭儀の母復た其の家に詣りて申請す。許敬宗数たび之を勧む、無忌厲色を以て折拒す。帝後に無忌・遂良及び于志寧を召し、后に息子無く、昭儀に子有り、必ず之を立てんと欲することを言う。無忌已に数たび諫め、即ち曰く、「先帝は遂良に付託せり、願わくは陛下之に訪えよ」と。遂良極めて不可を道い、帝聴かず。
后既に立つ、無忌が賜りを受けながら己を助けざるを以て、之を銜む。敬宗、后の意を揣り、陰に洛陽人李奉節をして無忌の変事を上らしめ、侍中辛茂將と共に臨按し、反状を傅致す。帝驚きて曰く、「将に妄人構間せんとす、殆ど其然らずや」と。敬宗具に言う、「反跡已に露わる、陛下忍びざるは、社稷の福に非ず」と。帝泣いて曰く、「我が家不幸、高陽公主我と同気、往時謀反す、今舅又爾り、我をして重ねて天下に愧じしむ、奈何」と。対えて曰く、「房遺愛は口乳臭く、女子と反す、安んぞ事を就けん。無忌は奸雄、天下の畏伏する所、一旦窃発せば、陛下誰を使いて之を禦がん。今即ち急なれば、恐らくは袂を攘げて一呼し、以て同悪を嘯き、且つ宗廟の憂いと為らん。陛下隋室を見ざるか。宇文化及の父は宰相、弟は主を尚び、而して身は禁兵を掌る、煬帝之を処して疑わず、然れども起って戎首と為り、遂に隋を亡ぼす。願わくは陛下之を決せよ」と。帝猶疑い、更に詔して審核せしむ。明日、敬宗言う、無忌の反明らかなりと、逮捕を請う。帝泣いて曰く、「舅果して爾らば、我決して忍びて殺さず、後世我を何と謂わん」と。敬宗曰く、「漢文帝の舅薄昭、代より来たりて功有り、後に人を殺すに坐し、帝法を撓ぐるを惜しみ、朝臣に喪服を着せて就きて之を哭かしむ、昭自殺す、良史以て失と為さず。今無忌は先帝の徳を忘れ、陛下の至親を捨て、乃ち社稷を移し、宗廟を敗らんと欲す、豈にただ昭に比すべきのみならんや。法に在っては五族を夷す。臣聞く、断つべくして断たざれば、反って其の乱を受く。機に乗じて亟に行えば、緩なれば必ず変を生ず。無忌は先帝と謀りて天下を取り、天下其の智に伏す、王莽・司馬懿の流なり。今逆徒自ら承る、何ぞ疑いて決せざる」と。帝終に質問せず。遂に詔を下して官爵封戸を削り、揚州都督一品の俸を以て黔州に置き、所在に兵を発して護送せしむ。其の子秘書監沖等を嶺外に流す。従弟渝州刺史知仁を貶して翼州司馬と為す。後数ヶ月、又詔して司空勣・中書令敬宗・侍中茂將等に反獄を覆按せしむ。敬宗、大理正袁公瑜・御史宋之順等に令し、即ち黔州にて暴訊せしむ。無忌は繯に投じて卒す。沖は死を免る。族子祥を殺す。族弟思を檀口に流す。大抵期親は皆謫徙す。
初め、無忌と遂良は心を悉くして国に奉じ、天下の安危を以て自ら任と為し、故に永徽の政に貞観の風有り。帝も亦老臣を賓礼し、己を拱して以て聴く。綱紀設張、此の両人の維持する所なり。既に二後の廃立の計合わず、奸臣陰に図り、帝聴受に暗く、卒に屠覆を以てす、是より政武氏に帰し、幾くんか国を亡ぼすに至らんとす。
従父 敞
無忌の従父敞、字は休明。隋の煬帝、晋王と為る時、敞は庫直として従い驪山に畋えり、王危険を凌ぎて鹿を逐う、諫めて曰く、「大王垂堂を冒し、原獣に淫す、可なりや」と。王遂に止む。即位し、頗る識擢を見る。江都に幸するに及び、留守して禁禦す。高祖関に入る、子弟を率いて新豊に謁し、将作少監を授けられ、出でて杞州刺史と為る。貞観初、賕を受くるに坐して免ぜらる。太宗、后の属を以て、歳毎に私に稟を給し、其の費を償う。累ねて平原郡公に封ぜらる。卒して幽州都督を贈られ、諡して良と曰い、昭陵に陪葬す。
従父弟 操
従父弟操、字は元節。父覧、周の大司徒・薛国公と為る。操は学術有り。初め、高祖辟して相国府金曹参軍に署す。未だ幾ばくもせず、虞州刺史を検校す。秦王に従い征討し、常に旁に侍し、秘謀を聞くに与る。陝州に徙る、城中に井無く、人汲むに勤しむ、操は河の溜を釃して城に入れ、百姓利安す。母喪を以て解く、長老闕を守りて遺愛を頌す。服除き、楽寿県男に封ぜらる。斉・揚・益の三州刺史と為り、課皆最なり、詔を下して褒揚す。永徽初、陝州刺史として卒す、吏部尚書を贈られ、諡して安と曰い、葬に鼓吹を給し、虞に至りて罷む。
子 詮
子詮、新城公主を尚ぶ。詮の女兄は韓瑗の妻と為る。無忌罪を得、詮は巂州に流され、有司旨に希いて之を殺す。詮に甥趙持満有り、書を工とし、騎射に善く、力虎を搏ち、馬を走り逐い、而して仁厚士に下り、京師貴賤を問わず之を愛慕す。涼州長史と為り、嘗て野馬を逐い、之を射て、矢前に洞る、辺人畏伏す。詮の貶せらるるや、許敬宗持満の才能の己に仇なすを懼れ、京に追至し、吏に属して訊搒せしむ、色変ぜず、曰く、「身は殺さるべし、辞は枉ぐべからず」と。吏代わりて占い、獄中に死す。
族叔 順德
無忌の族叔順德。順德隋に仕えて右勲衛と為り、遼を征して行くに当たり、亡命して太原に至る、素より高祖の親厚と為る。太宗兵を起さんと将し、之をして劉弘基と外に士を募らしめ、声は賊に備うとし、数万人に至り、乃ち隊を結び屯を按ず。大將軍府建つ、統軍を授けられ、霍邑・臨汾・絳郡を平ぐるに従い功有り。劉文静と潼関にて屈突通を撃つ、通将に洛陽に奔らんとす、順德跳びて桃林を追い、通を執えて献じ、遂に陝県を定む。多を以て左驍衛大將軍に進み、薛国公に封ぜらる。建成の余党を討ち、千二百戸を食み、宮女を賜い、詔して内省に宿す。俄かに賕を受くるを以て有司に劾発せらる、帝曰く、「順德は元勲外戚、爵隆く位厚し至るなり。若し古今を観て自ら鑒と為し、国家に益する所有らしむるは、朕当に府庫を共にすべし、何ぞ至って貪冒を以て聞こえしむるに至らんや」と。因りて帛数十を賜いて愧切す。大理少卿胡演曰く、「順德は賂を以て法を破る、赦すべからず、奈何又之を賜うや」と。帝曰く、「恥有る者をして、賜わるを得しむるは戮に甚だし。如し能わざれば、乃ち禽獣なり、之を殺す何の益かあらん」と。
褚遂良
褚遂良、字は登善、通直散騎常侍褚亮の子である。隋の大業末、薛挙に仕えて通事舍人となった。薛仁杲が平定されると、秦王府鎧曹参軍に任じられた。貞観年間、累進して起居郎となった。広く文史に渉猟し、隷書・楷書に巧みであった。太宗はかつて嘆じて言った、「虞世南が死んで、書を論じる者がいなくなった」。魏徴が褚遂良を推薦して見せたので、帝は侍書の任に就かせた。帝がちょうど王羲之の古い書帖を広く購求していたところ、天下から争って献上されたが、真偽を確かめる者はなかった。遂良のみがその出所を論じ、誤りや偽りはなかった。
十五年、帝が泰山で封禅の儀を行おうとし、洛陽に至った時、星が太微垣に現れ、郎位を犯した。遂良が諫めて言った、「陛下は乱を撥ね正しを返し、功績は古を超え、今まさに岱宗に成功を告げようとしているのに、彗星が現れました。これは天意がまだ合わないところがあるのです。昔、漢武帝が岱の礼を行った時、優柔不断なことが数年ありました。臣の愚かな願いは、より詳しくご考慮を加えられることです」。帝は悟り、詔して封禅を中止させた。
諫議大夫に遷り、起居事を兼ねて知った。帝が言った、「卿が起居を記録するが、大体、人君はそれを見ることができるのか」。答えて言った、「今の起居は、古の左史・右史です。善悪を必ず記録し、人主が非法を行わないよう戒めます。天子が自ら史を見るとは聞きません」。帝が言った、「朕に不善があれば、卿は必ず記すのか」。答えて言った、「道を守るよりは官を守るに如かず、臣の職は筆を載せることであり、君の挙動は必ず書きます」。劉洎が言った、「遂良が記さなくても、天下の人々が記すでしょう」。帝が言った、「朕の行いには三つある。一、前代の成敗を監みて、これを元亀(鑑戒)とすること。二、善人を進めて、共に政道を成すこと。三、群小を斥けて遠ざけ、讒言を受けること。朕はこれを守って失わず、また史官に朕の悪を書かせたくもない」。
この時、魏王李泰の礼遇と秩禄が嫡子のようであり、群臣は敢えて諫める者がなかった。帝が左右にゆったりと訪ねて言った、「当今、何事が特に急務か」。岑文本が広く礼義が急務であると言ったが、帝は切実でないとして、肯んじなかった。遂良が言った、「今、四方が徳を仰ぎ、誰が従わないことがありましょうか。ただ太子と諸王に定まった分け前があるべきです」。帝が言った、「その通りだ。朕は五十歳で、日に日に衰え怠る。長子が宗器を守るとはいえ、弟や支子がまだ五十人いる。心に常に念じている。古より宗族に良き者がいなければ、傾き敗れることが相次ぐ。公らは朕のために賢者を選び、彼らの保傅となってほしい。人に仕えることが長くなると、情が媚びて馴染み、思わぬことが自ら生じる。王府の官は四考を過ぎてはならぬと令に定めよ」。帝がかつて怪しんで言った、「舜が漆器を作り、禹がその俎を彫った時、諫める者が十余人もやまなかった。些細な物事で何故そうするのか」。遂良が言った、「彫琢は農事の労力を害し、纂繡は女工を傷つけます。奢侈浪費の始まりは、危亡への漸進です。漆器でやまなければ、必ず金で作り、金でやまなければ、必ず玉で作ります。故に諫める者はその源を救い、開かせないようにするのです。横流に及んでしまえば、もはや手の施しようがありません」。帝はこれを称賛した。
当時、皇子は幼いながらも、皆外任として都督・刺史に任じられていた。遂良が諫めて言った、「昔、二漢は郡国をもって統治に参じさせ、周の制度を混用しました。今、州県は概ね秦の法に倣い、皇子が幼年にして皆刺史に任じられています。陛下は誠に至親をもって四方を守らせようとなさる。そうではありますが、刺史は民の師帥です。適任を得れば下民は安んじて措かれ、失えば家は労苦に疲弊します。故に漢宣帝は言われました、『我と共に治めるのは、ただ良き二千石のみである』と。臣は思いますに、冠していない皇子は、暫く京師に留め、経学を教え、天威を畏れ仰ぎ、禁を犯すことを敢えず、徳器を養い成し、臨州に堪えるか審らかにしてから、丁寧に派遣すべきです。昔、東漢の明帝・章帝ら諸帝は、子弟を友愛し、雖もそれぞれ国を持ちましたが、幼い者は概ね京師に留め、礼をもって訓戒しました。その世が終わるまで、諸王は数十百人いましたが、ただ二人が悪事で敗れたのみで、その余は平和に染まり教化を受け、皆善良となりました。これは前事が既に験していることです。どうか陛下ご省察ください」。帝は嘉納した。
太子李承乾が廃され、魏王李泰が間に入って侍ると、帝は彼を嗣とすると約束し、大臣に言った、「泰が昨日、自ら我が懐に投げ入って言うには、『臣は今日始めて陛下の子となることができ、更生の日でございます。臣にはただ一子がおります。百年の後、必ずこれを殺し、国を晋王に伝えます』と。朕は甚だこれを憐れむ」。遂良が言った、「陛下は言葉を誤られました。天下の主として愛子を殺し、国を晋王に授けることがありましょうか。陛下はかつて承乾を嗣とされながら、また泰を寵愛され、嫡庶が明らかでなく、紛糾して今日に至りました。必ず泰を立てるならば、晋王を別に置くほかありません」。帝は泣いて言った、「私はできない」。即ち長孫無忌・房玄齢・李勣と遂良らに詔して策を定め、晋王を皇太子に立てさせた。
時に飛ぶ雉が数多く宮中に集まった。帝が問うた、「これは何の祥瑞か」。遂良が言った、「昔、秦の文公の時、侲子が雉に化け、雌は陳倉で鳴き、雄は南陽で鳴きました。侲子が言うには、『雄を得る者は王となり、雌を得る者は覇者となる』と。文公は遂に諸侯を雄とし、初めて宝雞祠を建てました。漢の光武帝はその雄を得て、南陽から起こり、四海を有しました。陛下は本来秦に封ぜられました。故に雄雌共に現れ、明徳を告げるのです」。帝は喜び、言った、「人の身を立てるには、学がなければならない。遂良の謂うところは、多識の君子である」。間もなく太子賓客に任じられた。
薛延陀が婚姻を請うた。帝は既にその聘礼を受け入れたが、また絶った。遂良が言った、「信は万事の根本であり、百姓の帰するところです。故に文王は枯骨に許しをかけても違えず、仲尼は食を去って信を存し、これを貴びました。延陀は、かつては一介の俟斤に過ぎませんでした。天兵の北討に因り、沙塞を蕩平し、威は諸外に加わり、恩は内に結ばれ、余寇には酋長がなければならぬと考え、故に璽書と鼓纛を与え、可汗に立てたのです。負い抱く恩は、天と極まりがありません。数度にわたり朝廷に婚姻を請うたので、陛下は既に許しを開き、北門を守り献食を受ける者とされました。今、一朝にして自ら進退を決め、惜しむところは少なく、失うところは多く、夷狄に信を虧き、嫌恨を生じさせようとしています。これは戎兵を訓え、軍事を励ますべきではありません。かつ龍沙以北は、部落は牛毛の如く多く、中国がこれを撃っても尽くすことはできず、また丁零が北で敗れ、芮芮が興り、突厥が亡び、延陀が盛んになったようにもなります。この故に古人は外を虚しくし内を実にし、徳をもって懐かしめました。悪事を為すのは、夷にあって華に在らず。信を失うのは、彼にあって此に在りません。どうか陛下ご裁断を」。聞き入れられなかった。
帝は自ら遼東を討たんと欲し、遂良は固く諫めて行かざるを勧め、『一度勝たずんば、必ず師を再興すべし。再興するは、忿兵たり。兵忿なる者は、勝負必ずしも可ならず』と。帝は然りとす。時に李勣その計を詆毀し、帝の意遂に東行を決す。遂良懼れ、上言して曰く、『臣請う諸身に譬えん。両京は腹心なり。四境は手足なり。殊裔絶域は、殆ど支體の属する所に非ず。高麗王は陛下の立てし所にして、莫離支これを殺す。その逆を討ち、その地を夷すは、固より失うべからず。但だ一二の慎将を遣わし、鋭兵十万を付し、翔旝雲輣、唾手に取り得べし。昔、侯君集・李靖は皆庸人なるのみ。猶お高昌を撅ち、突厥を纓うことを能くす。陛下はただ発蹤指示するに止まり、功を聖明に帰するを得たり。前日、陛下に従い天下を平げし、虓士爪臣、気力未だ衰えず。駆策すべく、惟だ陛下の使う所に在り。臣聞く、遼に渉りて左すれば、或いは水潦あり、平地淖三尺、帯方・玄菟は、海壤荒漫にして、決して万乗六師の行うに宜しきに非ず』と。是の時、帝は鋭意蕩平を志し、省みず。黄門侍郎に進み、朝政に参綜す。莫離支使いを遣わして金を貢す。遂良曰く、『古、君を殺すの罪を討つ者は、その賂を受けず。魯、郜鼎を太廟に納るるを、春秋これを譏る。今、莫離支の貢する所は不臣の篚にして、受くるを容れず』と。詔して可とし、その使を属吏に付す。
帝は既に高昌を平げ、歳ごとに兵千人を調発して往きて屯せしむ。遂良誦諍して不可とす。帝は西域を取るを志し、その言を用いず。西突厥西州を寇す。帝曰く、『往時、魏徴・褚遂良我に勧めて麹文泰の子弟を立てしむ。その計を用いざるを、今に至りてこれを悔ゆ』と。帝、寢宮の側に別に院を置きて太子を居らしむ。遂良諫めて以爲く、『朋友深く交わる者は怨み易く、父子滞愛する者は愆多し。宜しく太子に間を許して東宮に還り、師傅に近づき、学芸に専らにして、以て懿徳を広むべし』と。帝その言に従う。時に父喪に遭い免ぜらる。起復して中書令に拝す。
帝疾に臥し、遂良・長孫無忌を召して曰く、『武帝霍光に寄し、劉備諸葛亮に托すを歎く。朕今卿らに委ぬ。太子仁孝なり。その誠を尽くしてこれを輔けよ』と。太子に謂ひて曰く、『無忌・遂良在りて、憂うること毋れ』と。因りて遂良に詔を草せしむ。高宗即位し、河南県公に封じ、郡公に進む。事に坐して同州刺史に出づ。再び歳を経て、召して吏部尚書・同中書門下三品に拝し、国史を監修し、太子賓客を兼ぬ。尚書右僕射に進拝す。
帝、武昭儀を立てんと欲し、長孫無忌・李勣・于志寧及び遂良を召し入る。或いは無忌に謂ひて先ず諫むべしとす。遂良曰く、『太尉は国の元舅なり。意に如かざるあらば、上をして親を棄つるの譏り有らしむ』と。又た勣は上に重んぜらるるを謂ひて、進むべしとす。曰く、『不可なり。司空は国の元勲なり。意に如かざるあらば、上をして功臣を斥くるの嫌い有らしむ』と。曰く、『吾、遺詔を奉ず。若し愚を尽くさずんば、以て先帝に見ゆる下なし』と。既に入る。帝曰く、『罪は嗣を絶つより大なるは莫し。皇后子無し。今、昭儀を立てんと欲す。何と謂ふ』と。遂良曰く、『皇后本名家にして、先帝に事へ奉る。先帝疾に臥し、陛下の手を執りて臣に語ひて曰く、「我が児と婦とを今卿に付す」と。且つ徳音は陛下の耳に在り。遽かにこれを忘るる可けんや。皇后他に過無し。廃すべからず』と。帝悦ばず。翌日、復た言ふ。対へて曰く、『陛下必ず后を改めて立たんと欲せば、請う更に貴姓を択べ。昭儀は昔、先帝に事へ、身帷第に接す。今これを立てば、天下の耳目を奈何せん』と。帝羞じて默す。遂良因りて笏を殿階に致し、頭を叩きて血を流し、曰く、『この笏を陛下に還し、田里に帰ることを丐ふ』と。帝大いに怒り、命じて引出さしむ。武氏、幄の後より呼びて曰く、『何ぞこの獠を撲殺さざる』と。無忌曰く、『遂良は顧命を受けたり。罪有りと雖も刑を加へず』と。時に李勣議を異にす。武氏立つ。乃ち遂良を左遷して潭州都督とす。
後二歳、許敬宗・李義府奏して、長孫無忌の逆謀は皆遂良の駆煽する所なりと。乃ち官爵を削る。二子彦甫・彦沖、愛州に流し、これを殺す。帝詔を遣わしてその家の北還を聴す。神龍中、官爵を復す。徳宗、太尉を追贈す。文宗の時、詔して遂良の五世孫虔を以て臨汝尉とす。安南観察使高駢、表して遂良の客窆愛州、二男一孫祔すと。咸通九年、詔してその後を訪はしめ、喪を護りて陽翟に帰葬せしむと云ふ。
曾孫璆
遂良の曾孫璆、字は伯玉、進士第に擢で、累ねて監察御史裏行に拝す。先天中、突厥北庭を囲む。詔して璆に節を持せしめ、諸将を監総督し、これを破る。侍御史に遷り、礼部員外郎に拝す。而して気象凝挺、台に在りし時に減ぜず。
韓瑗
韓瑗、字は伯玉、京兆三原の人。父仲良、武徳初、律令を定むるに与り、建言して曰く、『周の律、その属三千、秦・漢の後は約めて五百とす。古に依れば則ち繁し。請う寛簡を崇くし、以て惟新を示せ』と。ここに『開皇律』の時に宜しきを采りてこれを定む。刑部尚書・秦州都督府長史・潁川県公に終る。
来済
帝が武氏を后に立てようとしたとき、済は諫めて言った、「王者が后を立てるのは、宗廟を承け、天下を母とするためで、礼義の名家、幽閑で淑やかな者を選び、四海の望みに副い、神祇の意に称うべきです。故に文王は姒を興し、『関雎』の教化は百姓に蒙かれ、その福はあのように大いでありました。成帝は欲を縦にして婢を后とし、皇統は中衰し、その禍はこのようでありました。どうか陛下は詳らかにご考察ください」。初め、武氏が寵愛され、帝は特に「宸妃」の号を立てようとした。済と韓瑗が諫めて言った、「妃には定員があり、今別に号を立てるのは不可です」。武氏が既に立后されると、済は自ら安からず思った。后は更に偽って済らが忠鯁であると言い、前に執って奏上したことを恐れ、常に不安を抱いているとして、賞慰を加えるよう請うたが、実は彼らを恨んでいたのである。帝が済と瑗にその言葉を示すと、済らはますます懼れた。
初め、済は高智周、郝処俊、孫処約と共に宣城の石仲覧の家に客となった。仲覧は財に富み、器識があり、四人を厚くもてなした。私に志を語り合った。処俊は言った、「天下の宰相となりたい」。済と智周も同じであった。処約は言った、「宰相は望めないかもしれない。通事舎人となることができれば足りる」。後に済が吏部を管轄すると、処約は瀛州の書佐として初めて選に入った。済は急いで注記して「志の如し」と書き、遂に処約を通事舎人とした。後に皆、公輔(三公・宰相)の位に至ったという。
異母兄 恒
李義琰
義琰がその先祖を改葬するにあたり、母方の舅の家に墓所を移してその地に兆域を定めさせた。帝がこれを聞き、怒って言った、「この人は政を執らせるべきではない」。義琰は懼れ、病気を理由に致仕を乞い、銀青光禄大夫に遷され、致仕を許されて田里に帰った。公卿以下は悉く通化門外で餞別し、当時の人は漢の疏広に比した。垂拱初年、懐州刺史として起用されたが、自ら武后の意に失したと思い、拝命を辞し、そのまま卒した。
子 巣
子の巣は、幼少より豪俊で、騎射を善くしたが、細行を治めなかった。義琰はかつて彼を拘束し、交遊を絶たせた。後に逃亡して闕下に至り、書を献じて利害を陳べた。監察御史に拝され、李義府と共に柳奭・韓瑗の獄を按問し、殿中侍御史に遷った。上書が旨に忤い、龍編主簿に貶ぜられた。
従祖弟 義琛
義琰の従祖弟に義琛がいる。義琛は進士に及第し、監察御史を歴任した。貞観年間、文成公主が貢金を運ぶ途中、岐州で盗賊に遭い、主犯の名が立たなかった。太宗が群御史を召し出し、義琛を見て言った、「この人は神情爽抜である。推捕させよ」。義琛が行くと、数日で賊を捕えた。帝は喜び、七階を加えた。初め、義琰が高麗に使いしたとき、その王が榻に据わって召見した。義琰は拝礼せずに言った、「私は天子の使いである。小国の君に当たるべきである。どうして傲然として我を見るのか」。王は屈服し、礼を加えた。義琛が再び使いしたときも、王は坐ったまま召したが、義琛は匍匐して拝伏した。当時の人はこれによって兄弟の優劣を見た。
累進して刑部侍郎となった。雍州長史の時、関輔が大飢饉となり、詔して貧民を商州・鄧州に就食させようとした。義琛は流離して還らないことを恐れ、上疏して固く争った。黎州都督に左遷され、岐州刺史で終わった。
子の綰は柏人令となり、仁政があり、県は祠を立てた。
上官儀
上官儀、字は遊韶、陝州陝の人である。父の弘は、隋の江都宮副監となり、大業の末、陳棱に殺された。時に儀は幼く、左右の者が匿って免れ、僧服を冒して身を隠した。次第に文詞に巧みとなり、墳典に通貫した。貞観の初め、進士第に擢でられ、召されて弘文館直学士を授けられた。秘書郎に遷る。太宗が文を属する毎に、儀を遣わして草稿を視させ、宴私の席にも未だ嘗て預からざるはなかった。起居郎に転ず。高宗即位の後、秘書少監となり、西台同東西台三品に進む。時に雍州司士参軍韋絢を殿中侍御史としたが、或る者は遷任に非ずと疑った。儀曰く、「これは野人の言葉である。御史は赤墀の下に供奉し、夔龍の跡を接ぎ、鵷鷺の列に簉す。豈に雍州の判佐と比べるべきであろうか」と。時に清言と為す。儀は詩に巧みで、その詞は綺錯して婉媚である。貴顕に及んで、多く人がこれを倣い、「上官体」と謂った。
子の庭芝は、周王府の属を歴任し、亦殺された。庭芝の女は、中宗の時に昭容となり、儀を追贈して中書令・秦州都督・楚国公とし、庭芝を黄門侍郎・岐州刺史・天水郡公とし、礼を以て改葬した。
【贊】
贊に曰く、高宗の君に非ざるは、以て治を為すべけんや。内には嬖陰に牽かれ、外には讒言に劫せられ、無忌の親、遂良の忠、皆顧命の大臣なるに、一旦誅斥し、忍んで省みず。天の剛を反し、陽の明を撓めて、卒いに牝咮をして辰に鳴らしめ、祚を后家に移す。哀しまざるべけんや。天、女戎を以て唐に間して興り、義士仁人死を以て之に抗すと雖も、決して支うるべからず。然れども瑗・済・義琰・儀の四子は、守る所を知れると謂うべし。噫、長孫をして江夏を逐わしめず、呉王を害せしめず、褚をして劉洎を譖死せしめざらしめば、其の盛徳、少しくも訾るべけんや。