于志寧
于志寧、字は仲謐、京兆高陵の人。曾祖父の謹は周に功があり、太師・燕国公となった。父の宣道は隋に仕えて内史舍人に至った。大業の末、志寧は冠氏県長に任ぜられたが、山東に盗賊が起こり、官を棄てて帰った。
時に太子は農時に曲室を造営し、数ヶ月止まず、また音楽を好みて度を過ごした。志寧は諫めて以て、「今、東宮は隋の営む所なり、当時は侈麗と号せり、豈に復た其の中に磨礱彩飾を事とすべけんや。丁匠・官奴は皆、法を犯し亡命せる者、鉗・鑿・槌・杵を以て、往来出入し、監門・宿衛・直長・千牛も苛問せず。爪牙は外にあり、厮役は内にあり、其れ憂い無からんや。又、宮中に数たび鼓声を聞く、太楽の伎児は輒ち留まり出でず、往年、口勅に丁寧せり、殿下はこれを思わざるか」と。太子は納れず。而して左右多く宦官を任用す。志寧は復た諫めて曰く、「奄官は、体全気に非ず、専ら柔便佞にして、親近に托けて威権と為し、出納を仮りて禍福と為す。故に伊戾は宋を敗り、易牙は斉を乱し、趙高は秦を亡ぼし、張譲は漢を傾けたり。近くは高斉、鄧長顒を侍中と為し、陳徳信を開府と為し、内には宴私に預かり、外には朝政を幹り、斉は卒に顛覆せり。今、殿下の左右前後皆寺人を用い、高班を軽忽し、貴仕を陵轢し、品命は序を失い、経紀は立たず、行路の人皆以て怪しむ」と。太子は益々悦ばず。東宮の僕御は旧より番休を得たるも、太子は聴かず、又ひそかに突厥を引き入れ、相い狎比す。志寧は懐いて言えず、上疏して極言して曰く、「窃かに僕寺の司馭、爰に獣医に及び、春より夏に至るまで、番息を得ず。或いは家に慈親ありて、温清を闕き、或いは室に幼弱ありて、撫養を虧く、殆ど恕愛の意に非ざるべし。又、突厥の達哥支等は、人状にして野心あり、礼教を以て期すべからず、仁信を以て待つべからず。狎れて之に近づくは、令望に益無く、盛徳を損なう。況んや内閤の中に引き入れ、常に親近せしむるは、人皆震駭す、而して殿下独り此れに安んぜんか」と。太子は大怒し、張師政・紇幹承基を遣わして之を刺させた。二人は其の第に入り、志寧が憔然として苫塊の中に在るを見て、忍びず殺すを、乃ち去った。太子が敗れると、帝は状を知り、謂って曰く、「公が数たび諫むるを聞く、承乾は公に聴かず、故に此れに至る」と。是の時、宮臣は皆罪に坐して廃せられたが、独り志寧は労め勉められた。
顕慶四年、老いて骸骨を乞う。詔して僕射を解き、更に太子太師に拝し、仍って同中書門下三品。王皇后の廃せらるるに、長孫無忌・褚遂良が固く争うも見従われず、志寧は敢えて言わず。武后は其の己を右せざるを以て、之を銜み、後に無忌を殺すに因り、坐して官を免ぜられ、滎州刺史に出で、華州に改め、致仕を聴された。卒す、年七十八、幽州都督を贈られ、諡して定と曰う。後に左光禄大夫・太子太師を追復された。
志寧は賓客を愛し、後進を引き立てるを楽しんだが、多く嫌畏し、能く薦達する所無く、士議に少くされた。凡そ格式・律令・礼典は、皆論譔に関与し、賞賜は巨万に及んだ。
初めに、志寧は司空李勣と共に『本草』及び図を修定し、合わせて五十四篇となった。帝が言うには、「『本草』は古くからあるが、今またこれを修定するのは、何か異なる所があるのか」と。これに対し答えて言うには、「昔、陶弘景が『神農経』に雑家の『別録』を合わせて注釈を加えたが、江南は偏った地方であり、薬石について広く通暁せず、往々にして誤りがあり、四百余りの物について、今これを考証して正し、さらに後世に用いられる百余りの物を増やした。これをもって異なる所と為す」と。帝が言うには、「『本草』と『別録』は何故二つに分かれたのか」と。答えて言うには、「班固はただ『黄帝内外経』を記すのみで、『本草』を載せず、斉の『七録』に至って初めてこれを称した。世に神農氏が薬を嘗めて含気を救ったと言うが、黄帝以前は文字が伝わらず、識見をもって相付し、桐君・雷公に至って初めて篇冊に載せた。しかしその載せる郡県は多く漢代のものであり、張仲景や華佗がその語を書き加えたのではないかと疑われる。『別録』とは、魏・晋以来の呉普・李當之の記したもので、その言う華葉の形色や佐使の相須は、経に附けて説くので、弘景は合わせてこれを録したのである」と。帝は「善い」と言った。その書は遂に広く行われた。
曾孫に休烈。
曾孫休烈。休烈は機鑑融敏にして、文章を善くし、会稽の賀朝万斉融・延陵の包融と並び称された。開元初め、進士に及第し、また制科に抜擢され、秘書省正字を歴任した。吐蕃の金城公主が四種の文籍を請うと、玄宗は秘書に命じて写して賜わらせた。休烈は上疏して言うには、「戎狄は国の寇賊であり、経籍は国の典籍である。戎が異心を生ずることを備えざるべからず。昔、東平王が『史記』や諸子を求めたが、漢はこれを与えず、『史記』には多くの兵謀があり、諸子には雑多な詭術があるからである。東平王は漢の懿戚であり、尚お征戦の書を示さなかった。今、西戎は国の寇讎である。どうして経典を与えることができようか。かつ吐蕃の性質は慓悍果決にして、善く学びて回らず。もし『書』に通ずれば、則ち戦を知り、『詩』に深く通ずれば、則ち武夫に師幹の試み有るを知り、『礼』に深く通ずれば、則ち『月令』に廃興の兵有るを知り、『春秋』に深く通ずれば、則ち用兵の詭計を知り、文に深く通ずれば、則ち往来の書檄の制を知る。これは何ぞ寇に兵を仮し盗に糧を資するに異ならんや。臣は聞く、魯は周礼を秉れば、斉は兵を加えず、呉が乗車を獲れば、楚は屡々奔命すと。法を喪い邦を危うくするは、以て鑑と為すべし。公主が異国に下嫁するは、夷礼を用うべきに、反って良書を求むるは、恐らくは本意に非ず、殆ど奸人の其中に勧導する有らん。若し陛下その情を失うを慮り、已むを得ざるを示さんと欲せば、請う『春秋』を去らんことを。夫れ『春秋』は、周の徳既に衰え、諸侯盛んに強く、征伐競いて興り、情偽ここに生じ、変詐ここに起り、臣を以て君を召し、威を取り覇を定むるの事有る時なり。誠にこれを与うれば、国の患いなり。狄は固より貪婪にして、貨を貴び土を易う。正に錦彩を以て錫し、金玉を以て厚くすべく、足る所を求めずしてその智を資すべからず」と。疏が入ると、詔して中書門下に議させた。侍中裴光庭が言うには、「吐蕃は礼経を識らず、孤く国恩に背く。今、哀れみを請い顙を啓き、その降附を許す。漸くに『詩』『書』を以て、一声教を陶すれば、斯れ致す可きなり。休烈は但だ情偽変詐ここに生ずるを見るのみで、忠信節義も亦ここに在るを知らざるなり」と。帝は「善い」と言い、遂にこれを与えた。累遷して起居郎・直集賢殿学士・比部郎中となった。楊国忠が宰相となると、己に附かざる者を排斥し、中部郡太守として出された。
粛宗が立つと、休烈は行在に奔り、給事中に抜擢され、太常少卿に遷り、礼儀事を知り、兼ねて国史を修した。帝は嘗て言うには、「良史とは、君の挙げる事必ず書く。朕に過失有らば、卿は如何にせん」と。これに対し答えて言うには、「禹・湯は己を罪し、その興ることも勃焉たり。徳有る君は過ちを規するを忘れず」と。当時は大盗の後を経て、史籍は焼けて欠けていた。休烈は奏上して言うには、「『国史』『開元実録』『起居注』及び余りの書三千八百余篇が興慶宮に蔵されていたが、兵興に焚かれて皆尽きた。請う、御史をして史館の由って来る所を核せしめ、府県に得る者有らば、官に上送するを許さんことを。一書進むれば官一資、一篇に絹十匹を賜わん」と。凡そ数ヶ月、止まる所一二篇を得るのみで、唯だ韋述がその家蔵の『国史』百三十篇を上献したのみであった。中興の文物未だ完からず、休烈は『五代論』を献じ、旧章を討ち著わすと、天子はこれを嘉した。工部侍郎に転じ、仍って史を修した。宰相李揆は己を矜り前を護り、同じ史任として等列に在るを恥じ、休烈を国子祭酒に徙めるよう奏上し、権りに史館修撰を留めて、以てこれを卑下せしめたが、休烈は安然として屑たる意無かった。乾元初め、始めて詔して百官が元日・冬至に光順門で皇后を賀することを許した。休烈は奏上して言うには、「周礼に命夫は人君に朝し、命婦は女君に朝すと有り。顕慶以来、則天皇后が初めてこの礼を行い、命婦と百官が雑処し、礼に経らず」と。帝はこれを罷めた。
代宗が嗣位すると、名品を甄別し、元載はその清諒を称えた。右散騎常侍に拝し、兼ねて国史を修し、礼儀使を加えられ、太常卿に遷った。累進して工部尚書となり、東海郡公に封ぜられた。清要の職を歴任したが、産を治めず。性恭儉仁愛にして、喜慍の容無し。賢を楽み善に下り、士を推轂すること甚だ衆かった。年老いて、篤く経籍を意とし、学を嗜みて厭わず。妻の韋氏が卒すると、天子は休烈父子の儒行著わるを嘉し、詔して韋氏に国夫人を贈り、葬儀に鹵簿・鼓吹を給した。歳中に、休烈もまた卒し、年八十一。帝は嘆息し、尚書左僕射を贈り、諡して元と曰い、謁者を遣わして第に就き宣慰せしめ、儒者の栄えと為した。
二子:益・肅。休烈の時に及び、相継いで翰林学士となった。益は天宝初めに進士第に及んだ。肅は終に給事中となり、吏部侍郎を贈られた。
四世孫に敖。
肅の子敖、字は蹈中。進士に擢でられ、秘書省校書郎となった。楊憑・李鄘・呂元膺が相継いで幕府に辟した。元和初め、監察御史に拝し、五遷して右司郎中に至った。給事中・左拾遺に進んだ。龐厳は元稹・李紳に厚くせられ、蒋防と共に薦められて翰林学士となった。李逢吉が李紳を罪に誣いてこれを逐い、龐厳を出して信州刺史とし、蒋防を汀州刺史とした。敖は詔書を封還し、縉紳は龐厳の枉げられたるを申す意であったが、駁奏が下ると、乃ち龐厳の貶が軽すぎると論じ、衆皆嗤き騒いだ。逢吉は乃ち敖を厚遇し、三遷して戸部侍郎に至り、宣歙観察使として出された。敖は修謹にして、家世文学を以て進み、初めは時に称せられたが、官に居るに及び、建明する所無く、物に迕わずして自ら容れ、名益々減じた。卒し、礼部尚書を贈られた。四子:球・珪・瑰・琮。皆清顕であった。琮は知名である。
附 龐厳
五世孫に琮。
琮は字を禮用といい、落魄して事に従わず、門地の資格をもって吏となり、長く昇進せず、駙馬都尉鄭顥のみが彼を器とした。宣宗が士人より公主に尚ぶ者を選ぶことを詔すると、顥は琮に語って曰く、「子は美才あり、細行を飾らず、衆の毀りに抑えられたり、これを為すこと能わんや」と。琮は諾した。中書舍人李潘が貢挙を掌ると、顥は琮を託し、第に擢でられ、左拾遺を授かった。初め永福公主を尚ごうとしたが、公主は降嫁せず、帝の前で食し、事に因って匕箸を折り、帝はこれが士大夫に妻せしむべからざるを知り、更に詔して廣德公主を尚がしめた。咸通年中、水部郎中をもって翰林學士となり、中書舍人に遷った。五月を閲し、兵部侍郎に転じ、戸部を判じた。八年、同中書門下平章事となり、中書侍郎に進み、戸部尚書を兼ねた。韋保衡に構えられ、檢校司空・山南東道節度使となり、三たび貶められて韶州刺史となった。保衡敗れるや、僖宗は太子少傅として召したが、未だ幾ばくもせず、復た山南節度使となり、入朝して尚書右僕射を拝した。黃巢が京師を陥すや、病を以て家に臥し、巢は起して相とせんとしたが、琮は疾を辞し、賊が脅迫して止まず、乃ち曰く、「吾が死は旦夕に在り、位は宰相たり、義汚れを受くべからず」と。賊遂に之を害した。
高馮
高馮は字を季輔といい、字をもって行い、德州蓚県の人である。母の喪に居り、孝をもって聞こえた。兄元道は隋に仕えて汲県令となり、県人が城を反して賊に応じ、元道を殺した。季輔はその党与を率いて県人と戦い、これを擒にし、首を斬って祭り、賊衆は畏伏し、更に帰附する者、数千人に至った。俄かに武陟の李厚德と共にその衆を将いて降り、陟州総管府戸曹参軍を授かった。
貞観初年、監察御史を拝し、弾治するに権要を避けず。累転して中書舍人となり、五事を列上し、以て為すに、
今天下大定すれども、刑未だ措かず、何ぞや。蓋し謀猷の臣・台閣の吏、簡易を崇めずして経遠に昧く、故に憲を執る者は深刻を以て奉公と為し、官に当たる者は下を侵すを以て国を益すと為すなり。尚書八坐の如きは、人主の責成する所なり、宜しく温厚修潔なる者を択びて之に任ずべし。樸素を敦くし、浮偽を革め、家に慈孝を識らしめ、人に廉恥を知らしめ、行い過ぐる者は郷に嗤われ、昵しまざる者は親に擯まれるを蒙らしめれば、自然に礼節興らん。
陛下は身を帥いて節儉すれども、営繕未だ息まず、丁匠は駆使に給する能わず、又和雇を以て労費を重くす。人主の欲する所、何を求めて得ざらん。願わくは其の財を愛し、殫えしむること無からしめ、其の力を惜しみ、弊えしむること無からしめよ。畿内数州は、京師の本なり、土狭く人庶く、儲畜少なくして科役多し、宜しく優貸を蒙り、休息を得しめ、本を強くし支を弱くすの義なり。江南・河北に至っては、人頗る舒閑なり、宜しく差等を為し、均しく労逸を量るべし。
公侯勳戚の家邑は、入俸稍々奉養に足るれども、貸息を出挙し、什一を争い求む、下民之に化し、競いて錐刀を為す、宜しく懲革を加うべし。
今外官の卑品は、皆未だ禄を得ず、故に饑寒の切なること、夷・惠も其の行いを全うする能わず。政を為すの道は、期する所易従に在り、其の匱を恤れずして其の廉正を須うは、恐らくは巡察歳出し、輶軒軌を継ぎ、而して侵漁息まずん。宜しく戸口の繁なるに及び、倉庾且く実るに乗じ、稍々稟賜を加え、父母に事え妻子を養うことを得しめ、然る後に其の効を督責せば、則ち官人力を畢くせん。
密王元曉等は俱に陛下の懿親なり、当に其の礼を正すべし。比に見るに帝子諸叔を拝し、諸叔答拝す。爵封既に同じければ、当に昭穆を明らかにすべく、願わくは訓正を垂れ、以て彝法と為さん。
書奏す、太宗善しと称し、進めて太子右庶子を授く。数たび上書して得失を言い、辞誠切至たり。帝は鐘乳一剤を賜い、曰く、「而が薬石の言を進む、朕は薬石を以て相い報いん」と。後に吏部侍郎となり、善く人物を銓叙し、帝は金背鏡一を賜い、其の清鑒を況えた。
久しくして、中書令・兼檢校吏部尚書に遷り、国史を監修し、爵を進めて蓚県公となった。永徽初年、光禄大夫・侍中・兼太子少保を加えられた。疾を感じて第に帰り、詔有りて其の兄虢州刺史季通を宗正少卿と為し、疾を視せしめ、中使を遣わして日々増損を候わしめた。卒す、年五十八、開府儀同三司・荊州都督を贈られ、諡して憲といった。官が轜車を給し、郷に帰葬した。
子正業は、官中書舍人に至る。上官儀に善しとするに坐し、嶺表に貶められた。
張行成
張行成は字を德立といい、定州義豊県の人である。少くして劉炫に師事し、炫は門人に謂いて曰く、「行成は体局方正、廊廟の才なり」と。隋の大業末、孝廉に察され、謁者台散従員外郎となった。後に王世充の度支尚書となった。世充平らぎ、隋の資をもって谷熟尉を補った。家貧しく、計吏に代わって京師に集い、制挙乙科に擢でられ、陳倉尉に改まった。高祖は吏部侍郎張鋭に謂いて曰く、「今吏を選ぶに豈に才用特達なる者無からんや、朕将に之を用いん」と。鋭は行成を言上し、富平主簿に調じ、能名有り。召されて殿中侍御史を補い、糾劾厳正たり。太宗は能と為し、房玄齢に謂いて曰く、「古今人を用うるに未だ嘗て紹介に因らざるは無し、行成の如きは、朕自ら之を挙ぐ、先容無し」と。
嘗て宴に侍す、帝山東及び関中人に語り、意に同異有り。行成曰く、「天子は四海を家と為す、東西を以て限りと為すを容れず、是れ人に隘きを示すなり」と。帝善しと称し、名馬一・銭十万・衣一称を賜う。此れより大政事有るごとに、与に議せしむ。累遷して給事中となる。帝嘗て群臣に謂いて曰く、「朕人主として、将相の事を兼ね行う、豈に公等の名を奪わざらんや。舜・禹・湯・武は稷・蒐・伊・呂を得て四海安んじ、漢高祖は蕭・曹・韓・彭有りて天下寧んず、此の事朕皆之を兼ぬ」と。行成退きて、疏を上して曰く、「隋失道し、天下沸騰す、陛下乱を撥ぎて反し正し、人の塗炭を拯う、何ぞ周・漢の君臣の比数すべきや。然りと雖も、盛徳光を含み、規模巨遠なり。左右の文武誠に将相の材無しと雖も、何ぞ大庭広衆を以て之と量校し、万乗の尊を損じ、臣下と功を争わんや」と。帝嘉し之を納れた。刑部侍郎・太子少詹事に転じた。
太子は定州に駐留して国を監し、謂いて曰く、「吾れ乃ち公が錦衣を着て郷里を過ぐるを送らんや」と。有司に命じて其の先祖の墓を祠らしむ。行成は郷里の人魏唐卿・崔寶權・馬龍駒・張君劼を推薦し、皆学行をもって聞こえたるを以て、太子召見し、其の老いて事に任ずべからざるを以て、厚く賜りて遣わす。太子行成を行在所に詣らしむ。帝見て甚だ悦び、賜り労うこと特に厚し。還りて河南巡察大使と為り、旨に称し、尚書左丞を検校す。是の歳、帝霊州に幸す。詔して皇太子に従わしむ。行成諫めて曰く、「皇太子は宜しく留まって国を監し、百寮に対し日々に庶務を決すべし。既に京師の重きを為し、且つ四方に盛徳を示すべし」と。帝忠と為す。侍中・兼刑部尚書に遷る。
族子 易之 昌宗
族子、易之・昌宗。
后每たび燕集するに、則ち二張諸武雑侍し、摴博争道して笑楽と為し、或いは公卿を嘲詆し、淫蠱顕に行われ、復た羞畏する無し。時に檢無き軽薄者又諂言して昌宗は乃ち王子晋の後身なりとす。后羽裳を被らしめ、簫を吹かしめ、寓鶴に乗せしめ、庭中に裴回せしめ、仙去するが如き状を為さしむ。詞臣争いて賦詩を為して后に媚ぶ。后醜声甚だしきを知り、以て之を掩覆せんと思い、乃ち詔して昌宗に即ち禁中に論著せしめ、李嶠・張説・宋之問・富嘉謨・徐彦伯等二十有六人を引いて『三教珠英』を譔せしむ。昌宗に司僕卿を、易之に麟台監を加え、権勢震赫す。皇太子・相王昌宗を王に封ぜんことを請う。后聴かず。春官侍郎に遷し、鄴国公に封じ、易之を恒国公に封じ、実封各三百戸。
后既に春秋高く、易之兄弟政を専らにす。邵王重潤と永泰郡主窃に議し、皆罪を得て縊死す。御史大夫魏元忠嘗て易之等の罪を劾奏す。易之后に訴え、反って元忠と司礼丞高戩が約して曰く「天子老い、当に太子を挟みて耐久の朋と為すべし」と誣う。后問う「孰れか証左と為さん」。易之曰く「鳳閣舎人張説なり」。翌日庭辯すれども、皆讎わず。然れども元忠・説猶皆逐われ被る。其の後易之等益自ら肆にし、奸贓狼藉す。御史台之を劾奏す。乃ち詔して宗晋卿・李承嘉・桓彦範・袁恕己に参鞫せしむ。而して司刑正賈敬言后の旨を窺望し、奏して昌宗強市す、罪贖うべしと。詔して曰く可なりと。承嘉・彦範進みて曰く「昌宗贓四百万、尚当に官を免ぜらるべし」。昌宗大言して曰く「臣国に功有り、官を免ぜらるべからず」。后宰相に問う。内史令楊再思曰く「昌宗主として丹剤を煉り、陛下之を餌して験あり。功最も大なる者なり」。即ち詔して之を釈し、其の兄昌儀・同休に罪を帰し、皆官を貶す。已にして后久しく疾え、長生院に居り、宰相進見するを得ず。惟だ昌宗等側に侍る。昌宗后の不諱を恐れ、禍将に及ばんとし、乃ち支党を引いて日夜謀りて不軌の事を為す。然れども小人疏険にして、道路皆之を知る。至っては其の事を衢左に榜する者有り。左台御史中丞宋璟亟に按摂せんことを請う。后陽に璟を許す。俄に詔して璟を外して幽州都督屈突仲翔を按せしめ、更に勅して司刑卿崔神慶に状を問わしむ。神慶妄りに奏して云く「昌宗応に原すべし」。璟執りて奏す「昌宗法当に斬るべし」。后答えず。左拾遺李邕進みて曰く「璟の言は社稷の計なり。願わくは之を可とせん」。后終に許さず。
賛して曰く、于志寧太子承乾を諫め、幾くんか賊殺に遭わんとす。然れども未だ嘗て懼れず。太宗の明なるを知り、匕首胸に揕うと雖も愧じざるなり。武后の立つに及びては、一言を出す敢えず。高宗の昧きを知り、死すと雖も益無きなり。季輔・行成数え諫めを進む。然れども雍容として礼有り。皆長厚の君子なるかな。