新唐書

巻一百四 列傳第二十九 于志寧曾孫:休烈 四世孫:敖 五世孫:琮 高季輔 張行成族子:張易之 張昌宗

巻一百四 列傳第二十九 于志寧曾孫:休烈 四世孫:敖 五世孫:琮 高季輔 張行成族子:張易之 張昌宗

于志寧

原文于志寧

于志寧、字あざなは仲謐、京兆高陵の人。曾祖父の謹は周に功があり、太師・燕国公となった。父の宣道は隋に仕えて内史舍人に至った。大業の末、志寧は冠氏県長に任ぜられたが、山東に盗賊が起こり、官を棄てて帰った。

原文于志寧,字仲謐,京兆高陵人。曾祖謹,有功於周,為太師、燕國公。父宣道,仕隋至內史舍人。大業末,志寧調冠氏縣長,山東盜起,棄官歸。

高祖が関中に入ると、一族を率いて長春宮に迎え謁し、詔により渭北道行軍元帥府記室を授けられ、殷開山と共に謀議ぼうぎに参与した。薛仁杲が平定されると、囚虜の中から褚亮を見出し、天策府中郎・文学館学士に遷り、亮を引き立てて同列とした。貞観三年、中書侍郎となる。太宗が近臣を宴した際、「志寧は何処にいるか」と問うと、役人が「勅では三品を召しておりますが、志寧は四品です」と奏した。帝は悟り、特に詔して宴に預からせ、散騎常侍・太子左庶子・黎陽県公を加えた。この時七廟を立てることを議し、君臣は涼武昭王を始祖とするよう請うたが、志寧は涼は王業の基ではなかったとして、ただ一人これに反対する建議をした。帝が功臣に世襲刺史を下賜しようとした時、志寧は「古今は時を異にし、虚名を慕い実患を遺すは、久安の計にあらず」と奏上し、帝はいずれも従った。かつて志寧に謂って曰く、「古より太子は生まれるや、士がこれを負い、直ちに輔弼を置く。昔、成王は周・召を師傅とし、日々正道を聞き、習い以て性を成した。今、太子は幼い。卿は正道を以てこれを輔け、邪僻にしてその心を啓かしむることなかれ。勉めよ、官賞は次第を経ずして得られよう」と。太子の承乾は度々過悪があり、志寧はこれを救い止めようとし、『諫苑』を上って諷した。帝はこれを見て大いに悦び、黄金十斤・絹三百匹を賜った。まもなく詹事を兼ねたが、母の喪により免ぜられ、詔があって本官に復するよう命じられたが、固く喪に終わることを請うた。帝は中書侍郎岑文本を遣わして敦め諭させて曰く、「忠孝は両立せず、今、太子は人を以て教え約するを要す。卿、強いて起き、我が為に終わりに輔導せよ」と。志寧は乃ち職に就いた。

原文高祖入關,率群從迎謁長春宮,詔授渭北道行軍元帥府記室,與殷開山參謀議。薛仁杲平,識褚亮於囚虜中,遷天策府中郎、文學館學士,引亮與同列。貞觀三年,為中書侍郎。太宗嘗宴近臣,問:「志寧安在?」有司奏:「敕召三品,志寧品第四。」帝悟,特詔預宴,因加散騎常侍、太子左庶子、黎陽縣公。是時議立七廟,君臣請以涼武昭王為始祖,志寧以涼非王業所因,獨建議違之。帝詔功臣世襲刺史,志寧奏:「古今異時,慕虛名,遺實患,非久安計。」帝皆從之。嘗謂志寧曰:「古者太子既生,士負之,即置輔弼。昔成王以周、召為師傅,日聞正道,習以成性。今太子幼,卿當輔以正道,無使邪僻啟其心。勉之,官賞可不次得也。」太子承乾數有過惡,志寧欲救止之,上《諫苑》以諷。帝見大悅,賜黃金十斤、絹三百匹。俄兼詹事,以母喪免,有詔起復本官,固請終喪,帝遣中書侍郎岑文本敦譬曰:「忠孝不兩立,今太子須人教約,卿強起,為我卒輔道之。」志寧乃就職。

時に太子は農時に曲室を造営し、数ヶ月止まず、また音楽を好みて度を過ごした。志寧は諫めて以て、「今、東宮は隋の営む所なり、当時は侈麗と号せり、豈に復た其の中に磨礱彩飾を事とすべけんや。丁匠・官奴は皆、法を犯し亡命せる者、鉗・鑿・槌・杵を以て、往来出入し、監門・宿衛・直長・千牛も苛問せず。爪牙は外にあり、厮役は内にあり、其れ憂い無からんや。又、宮中に数たび鼓声を聞く、太楽の伎児は輒ち留まり出でず、往年、口勅に丁寧せり、殿下はこれを思わざるか」と。太子は納れず。而して左右多く宦官を任用す。志寧は復た諫めて曰く、「奄官は、体全気に非ず、専ら柔便佞にして、親近に托けて威権と為し、出納を仮りて禍福と為す。故に伊戾は宋を敗り、易牙は斉を乱し、趙高は秦を亡ぼし、張譲は漢を傾けたり。近くは高斉、鄧長顒を侍中と為し、陳徳信を開府と為し、内には宴私に預かり、外には朝政を幹り、斉は卒に顛覆せり。今、殿下の左右前後皆寺人を用い、高班を軽忽し、貴仕を陵轢し、品命は序を失い、経紀は立たず、行路の人皆以て怪しむ」と。太子は益々悦ばず。東宮の僕御は旧より番休を得たるも、太子は聴かず、又ひそかに突厥とっけつを引き入れ、相い狎比す。志寧は懐いて言えず、上疏して極言して曰く、「窃かに僕寺の司馭、爰に獣医に及び、春より夏に至るまで、番息を得ず。或いは家に慈親ありて、温清を闕き、或いは室に幼弱ありて、撫養を虧く、殆ど恕愛の意に非ざるべし。又、突厥の達哥支等は、人状にして野心あり、礼教を以て期すべからず、仁信を以て待つべからず。狎れて之に近づくは、令望に益無く、盛徳を損なう。況んや内閤の中に引き入れ、常に親近せしむるは、人皆震駭す、而して殿下独り此れに安んぜんか」と。太子は大怒し、張師政・紇幹承基を遣わして之を刺させた。二人は其の第に入り、志寧が憔然として苫塊の中に在るを見て、忍びず殺すを、乃ち去った。太子が敗れると、帝は状を知り、謂って曰く、「公が数たび諫むるを聞く、承乾は公に聴かず、故に此れに至る」と。是の時、宮臣は皆罪に坐して廃せられたが、独り志寧は労め勉められた。

原文時太子以農時造曲室,累月不止,又好音樂過度。志寧諫,以為「今東宮乃隋所營,當時號為侈麗,豈容復事磨礱彩飾於其間?丁匠官奴皆犯法亡命,鉗鑿槌杵,往來出入,監門、宿衛、直長、千牛不得苛問。爪牙在外,廝役在內,其可無憂乎?又宮中數聞鼓聲,太樂伎兒輒留不出,往年口敕丁寧,殿下可不思之?」太子不納。而左右多任宦官,志寧復諫曰:「奄官者,體非全氣,專柔便佞,托親近為威權,假出納為禍福。故伊戾敗宋,易牙亂齊,趙高亡秦,張讓傾漢。近高齊任鄧長顒為侍中,陳德信為開府,內預宴私,外幹朝政,齊卒顛覆。今殿下左右前後皆用寺人,輕忽高班,陵轢貴仕,品命失序,經紀不立,行路之人鹹以為怪。」太子益不悅。東宮僕禦舊得番休,而太子不聽,又私引突厥,與相狎比。志寧懷不能言,上疏極言曰:「竊見僕寺司馭,爰及獸醫,自春迄夏,不得番息。或家有慈親,以闕溫清,或室有幼弱,以虧撫養,殆非恕愛之意。又突厥達哥支等,人狀野心,不可以禮教期,不可以仁信待。狎而近之,無益令望,有損盛德。況引內閤中,使常親近,人皆震駭,而殿下獨安此乎?」太子大怒,遣張師政、紇幹承基往刺之。二人者入其第,見志寧憔然在苫塊中,不忍殺,乃去。太子敗,帝知狀,謂曰:「聞公數諫,承乾不聽公,故至此。」是時宮臣皆罪廢,獨志寧蒙勞勉。

晋王が皇太子となると、復た左庶子に拝し、侍中に遷り、光禄大夫を加えられ、燕国公に進封され、国史を監修した。永徽二年、洛陽の人李弘泰が太尉長孫無忌の謀反を誣告し、詔して時を待たずして斬らんとした。志寧は以て、「方に春、少陽用事す、刑を行うに宜しからず、且つ誣謀は本より悪逆に非ず、律に依り秋分を待って乃ち決すべし」と請うた。従われた。衡山公主は既に公除したが、将に長孫氏に下嫁せんとした。志寧は以て、「『礼』に、女十五にして笄し、二十にして嫁ぐ、故あれば、二十三にして嫁ぐ、固より喪に遇えば須らく三年を終うべしと知る。『春秋』に、魯の庄公斉に如きて幣を納る、母の喪未だ再期せずして婚を図る、二家譏らず、其の礼を失える明らかなるを以てなり。今、議者『公除して吉に従う』と云う、此れ漢の文帝の創制、天下の百姓の為なり。公主は身に斬衰を服す、服は例を以て除くべし、情は例を以て改むべからず。心喪して婚を成すは、人情の忍ぶ所に非ず」と。ここに於て詔して公主に服の除かるを待って乃ち婚せしめた。尚書左僕射・同中書門下三品に拝す。頃くして、太子少師を兼ねた。四年、馮翊に隕石十八あり、高宗問うて曰く、「此れ何の祥ぞ。朕は往を悔い来を修めて以て自ら戒めんと欲す、如何」と。志寧対えて曰く、「『春秋』に『隕石宋に五つ』。内史過曰く、『是れ陰陽の事、吉凶の生ずる所に非ず』と。物固より自然有り、一に人事に係るに非ず。然りと雖も、陛下災無くして戒むるは、福と為るを害せず」と。俄かに太傅に遷る。かつて右僕射張行成・中書令高季輔と共に田を賜わられたが、志寧は奏して曰く、「臣が家は周・魏より来たり、世々関中に居り、貲業墜ちず。今、行成・季輔始めて産土を営む。願わくは臣の余り有るを以て不足なる者に賜わらんことを」と。帝は之を嘉し、其の田を分けて二人に与えた。

原文晉王為皇太子,復拜左庶子,遷侍中,加光祿大夫,進封燕國公,監脩國史。永徽二年,洛陽人李弘泰誣告太尉長孫無忌反,有詔不待時斬之。志寧以為:「方春少陽用事,不宜行刑,且誣謀非本惡逆,請依律待秋分乃決。」從之。衡山公主既公除,將下嫁長孫氏。志寧以為:「《禮》,女十五而笄,二十而嫁,有故,二十三而嫁,固知遇喪須終三年。《春秋》,魯莊公如齊納幣,母喪未再期而圖婚,二家不譏,以其失禮明也。今議者雲'公除從吉',此漢文創制,為天下百姓耳。公主身服斬衰,服可以例除,情不可以例改。心喪成婚,非人情所忍。」於是詔公主待服除乃婚。拜尚書左僕射、同中書門下三品。頃之,兼太子少師。四年,隕石十八於馮翊,高宗問曰:「此何祥也?朕欲悔往脩來以自戒,若何?」志寧對:「《春秋》:'隕石於宋五。'內史過曰:'是陰陽之事,非吉凶所生。'物固有自然,非一系人事。雖然,陛下無災而戒,不害為福也。」俄遷太傅。嘗與右僕射張行成、中書令高季輔俱賜田,志寧奏:「臣家自周、魏來,世居關中,貲業不墜。今行成、季輔始營產土,願以臣有餘賜不足者。」帝嘉之,分其田以與二人。

顕慶四年、老いて骸骨を乞う。詔して僕射を解き、更に太子太師に拝し、仍って同中書門下三品。王皇后の廃せらるるに、長孫無忌・褚遂良が固く争うも見従われず、志寧は敢えて言わず。武后は其の己を右せざるを以て、之を銜み、後に無忌を殺すに因り、坐して官を免ぜられ、滎州刺史に出で、華州に改め、致仕を聴された。卒す、年七十八、幽州都督を贈られ、諡して定と曰う。後に左光禄大夫・太子太師を追復された。

原文顯慶四年,以老乞骸骨,詔解僕射,更拜太子太師,仍同中書門下三品。王皇后之廢,長孫無忌、褚遂良固爭不見從,志寧不敢言。武后以其不右己,銜之,後因殺無忌,坐免官,出為滎州刺史,改華州,聽致仕。卒,年七十八,贈幽州都督,諡曰定。後追復左光祿大夫、太子太師。

志寧は賓客を愛し、後進を引き立てるを楽しんだが、多く嫌畏し、能く薦達する所無く、士議に少くされた。凡そ格式・律令・礼典は、皆論譔に関与し、賞賜は巨万に及んだ。

原文志寧愛賓客,樂引後進,然多嫌畏,不能有所薦達也,為士議所少。凡格式、律令、禮典,皆與論譔,賞賜以巨萬。

初めに、志寧は司空李勣と共に『本草』及び図を修定し、合わせて五十四篇となった。帝が言うには、「『本草』は古くからあるが、今またこれを修定するのは、何か異なる所があるのか」と。これに対し答えて言うには、「昔、陶弘景が『神農経』に雑家の『別録』を合わせて注釈を加えたが、江南は偏った地方であり、薬石について広く通暁せず、往々にして誤りがあり、四百余りの物について、今これを考証して正し、さらに後世に用いられる百余りの物を増やした。これをもって異なる所と為す」と。帝が言うには、「『本草』と『別録』は何故二つに分かれたのか」と。答えて言うには、「班固はただ『黄帝内外経』を記すのみで、『本草』を載せず、斉の『七録』に至って初めてこれを称した。世に神農氏が薬を嘗めて含気を救ったと言うが、黄帝以前は文字が伝わらず、識見をもって相付し、桐君・雷公に至って初めて篇冊に載せた。しかしその載せる郡県は多く漢代のものであり、張仲景や華佗がその語を書き加えたのではないかと疑われる。『別録』とは、魏・晋以来の呉普・李當之の記したもので、その言う華葉の形色や佐使の相須は、経に附けて説くので、弘景は合わせてこれを録したのである」と。帝は「善い」と言った。その書は遂に広く行われた。

原文初,志寧與司空李勣修定《本草》並圖,合五十四篇。帝曰:「《本草》尚矣,今復修之,何所異邪?」對曰:「昔陶弘景以《神農經》合雜家《別錄》注銘之,江南偏方,不周曉藥石,往往紕繆,四百餘物,今考正之,又增後世所用百餘物,此以為異。」帝曰:「《本草》、《別錄》何為而二?」對曰:「班固唯記《黃帝內外經》,不載《本草》,至齊《七錄》乃稱之。世謂神農氏嘗藥以拯含氣,而黃帝以前文字不傳,以識相付,至桐、雷乃載篇冊,然所載郡縣,多在漢時,疑張仲景、華佗竄記其語。《別錄》者,魏、晉以來吳普、李當之所記,其言華葉形色,佐使相須,附經為說,故弘景合而錄之。」帝曰:「善。」其書遂大行。

曾孫に休烈。

原文曾孫 休烈

曾孫休烈。休烈は機鑑融敏にして、文章を善くし、会稽の賀朝万斉融・延陵の包融と並び称された。開元初め、進士に及第し、また制科に抜擢され、秘書省正字を歴任した。吐蕃とばんの金城公主が四種の文籍を請うと、玄宗は秘書に命じて写して賜わらせた。休烈は上疏して言うには、「戎狄は国の寇賊であり、経籍は国の典籍である。戎が異心を生ずることを備えざるべからず。昔、東平王が『史記』や諸子を求めたが、漢はこれを与えず、『史記』には多くの兵謀があり、諸子には雑多な詭術があるからである。東平王は漢の懿戚であり、尚お征戦の書を示さなかった。今、西戎は国の寇讎である。どうして経典を与えることができようか。かつ吐蕃の性質は慓悍果決にして、善く学びて回らず。もし『書』に通ずれば、則ち戦を知り、『詩』に深く通ずれば、則ち武夫に師幹の試み有るを知り、『礼』に深く通ずれば、則ち『月令』に廃興の兵有るを知り、『春秋』に深く通ずれば、則ち用兵の詭計を知り、文に深く通ずれば、則ち往来の書檄の制を知る。これは何ぞ寇に兵を仮し盗に糧を資するに異ならんや。臣は聞く、魯は周礼を秉れば、斉は兵を加えず、呉が乗車を獲れば、楚は屡々奔命すと。法を喪い邦を危うくするは、以て鑑と為すべし。公主が異国に下嫁するは、夷礼を用うべきに、反って良書を求むるは、恐らくは本意に非ず、殆ど奸人の其中に勧導する有らん。若し陛下その情を失うを慮り、已むを得ざるを示さんと欲せば、請う『春秋』を去らんことを。夫れ『春秋』は、周の徳既に衰え、諸侯盛んに強く、征伐競いて興り、情偽ここに生じ、変詐ここに起り、臣を以て君を召し、威を取り覇を定むるの事有る時なり。誠にこれを与うれば、国の患いなり。狄は固より貪婪にして、貨を貴び土を易う。正に錦彩を以て錫し、金玉を以て厚くすべく、足る所を求めずしてその智を資すべからず」と。疏が入ると、詔して中書門下に議させた。侍中裴光庭が言うには、「吐蕃は礼経を識らず、孤く国恩に背く。今、哀れみを請い顙を啓き、その降附を許す。漸くに『詩』『書』を以て、一声教を陶すれば、斯れ致す可きなり。休烈は但だ情偽変詐ここに生ずるを見るのみで、忠信節義も亦ここに在るを知らざるなり」と。帝は「善い」と言い、遂にこれを与えた。累遷して起居郎・直集賢殿学士・比部郎中となった。楊国忠が宰相となると、己に附かざる者を排斥し、中部郡太守として出された。

原文曾孫休烈。休烈機鑒融敏,善文章,與會稽賀朝萬齊融、延陵包融齊名。開元初,第進士,又擢制科,曆秘書省正字。吐蕃金城公主請文籍四種,玄宗詔秘書寫賜。休烈上疏曰:「戎狄,國之寇;經籍,國之典也。戎之生心,不可以無備。昔東平王求《史記》、諸子,漢不與之,以《史記》多兵謀,諸子雜詭術也。東平,漢之懿戚,尚不示征戰之書,今西戎,國之寇仇,安可貽以經典?且吐蕃之性慓悍果決,善學不回。若達於《書》,則知戰;深於《詩》,則知武夫有師幹之試;深於《禮》,則知《月令》有廢興之兵;深於《春秋》,則知用師詭之計;深於文,則知往來書檄之制:此何異假寇兵資盜糧也!臣聞魯秉周禮,齊不加兵;吳獲乘車,楚屢奔命。喪法危邦,可取鑒也。公主下嫁異國,當用夷禮,而反求良書,恐非本意,殆有奸人勸導其中。若陛下慮失其情,示不得已,請去《春秋》。夫《春秋》,當周德既衰,諸侯盛強,征伐競興,情偽於是乎生,變詐於是乎起,有以臣召君、取威定霸之事。誠與之,國之患也。狄固貪婪,貴貨易土,正可錫以錦彩,厚以金玉,無足所求以資其智。」疏入,詔中書門下議。侍中裴光庭曰:「吐蕃不識禮經,孤背國恩,今求哀啟顙,許其降附,漸以《詩》、《書》,陶一聲教,斯可致也。休烈但見情偽變詐於是乎生,不知忠信節義亦於是乎在。」帝曰:「善。」遂與之。累遷起居郎、直集賢殿學士、比部郎中。楊國忠為宰相,斥不附己者,出為中部郡太守。

粛宗が立つと、休烈は行在に奔り、給事中に抜擢され、太常少卿に遷り、礼儀事を知り、兼ねて国史を修した。帝は嘗て言うには、「良史とは、君の挙げる事必ず書く。朕に過失有らば、卿は如何にせん」と。これに対し答えて言うには、「禹・湯は己を罪し、その興ることも勃焉たり。徳有る君は過ちを規するを忘れず」と。当時は大盗の後を経て、史籍は焼けて欠けていた。休烈は奏上して言うには、「『国史』『開元実録』『起居注』及び余りの書三千八百余篇が興慶宮に蔵されていたが、兵興に焚かれて皆尽きた。請う、御史をして史館の由って来る所を核せしめ、府県に得る者有らば、官に上送するを許さんことを。一書進むれば官一資、一篇に絹十匹を賜わん」と。凡そ数ヶ月、止まる所一二篇を得るのみで、唯だ韋述がその家蔵の『国史』百三十篇を上献したのみであった。中興の文物未だ完からず、休烈は『五代論』を献じ、旧章を討ち著わすと、天子はこれを嘉した。工部侍郎に転じ、仍って史を修した。宰相李揆は己を矜り前を護り、同じ史任として等列に在るを恥じ、休烈を国子祭酒に徙めるよう奏上し、権りに史館修撰を留めて、以てこれを卑下せしめたが、休烈は安然として屑たる意無かった。乾元初め、始めて詔して百官が元日・冬至に光順門で皇后を賀することを許した。休烈は奏上して言うには、「周礼に命夫は人君に朝し、命婦は女君に朝すと有り。顕慶以来、則天皇后が初めてこの礼を行い、命婦と百官が雑処し、礼に経らず」と。帝はこれを罷めた。

原文肅宗立,休烈奔行在,擢給事中,遷太常少卿,知禮儀事,兼修國史。帝嘗謂曰:「良史者,君舉必書。朕有過失,顧卿何如?」對曰:「禹、湯罪己,其興也勃焉。有德之君不忘規過。」於時經大盜後,史籍燔缺,休烈奏:「《國史》、《開元實錄》、《起居注》及餘書三千八百余篇藏興慶宮,兵興焚煬皆盡,請下御史核史館所由,購府縣有得者,許上送官。一書進官一資,一篇絹十匹。」凡數月,止獲一二篇,唯韋述以其家藏《國史》百三十篇上獻。中興文物未完,休烈獻《五代論》,討著舊章,天子嘉之。轉工部侍郎,仍脩史。宰相李揆矜己護前,羞與同史任為等列,奏徙休烈為國子祭酒,權留史館脩撰,以卑下之,休烈安然無屑意。乾元初,始詔百官元日、冬至於光順門賀皇后。休烈奏:「周禮有命夫朝人君,命婦朝女君。自顯慶以來,則天皇后甫行此禮,而命婦與百官雜處,在禮不經。」帝罷之。

代宗が嗣位すると、名品を甄別し、元載はその清諒を称えた。右散騎常侍に拝し、兼ねて国史を修し、礼儀使を加えられ、太常卿に遷った。累進して工部尚書となり、東海郡公に封ぜられた。清要の職を歴任したが、産を治めず。性恭儉仁愛にして、喜慍の容無し。賢を楽み善に下り、士を推轂すること甚だ衆かった。年老いて、篤く経籍を意とし、学を嗜みて厭わず。妻の韋氏が卒すると、天子は休烈父子の儒行著わるを嘉し、詔して韋氏に国夫人を贈り、葬儀に鹵簿・鼓吹を給した。歳中に、休烈もまた卒し、年八十一。帝は嘆息し、尚書左僕射を贈り、諡して元と曰い、謁者を遣わして第に就き宣慰せしめ、儒者の栄えと為した。

原文代宗嗣位,甄別名品,元載稱其清諒。拜右散騎常侍,兼修國史,加禮儀使,遷太常卿。累進工部尚書,封東海郡公。雖曆清要,不治產。性恭儉仁愛,無喜慍之容。樂賢下善,推轂士甚眾。年老,篤意經籍,嗜學不厭。妻韋卒,天子嘉休烈父子著儒行,詔贈韋國夫人,葬給鹵簿、鼓吹。歲中,休烈亦卒,年八十一。帝為歎息,贈尚書左僕射,諡曰元,遣謁者就第宣慰,為儒者榮。

二子:益・肅。休烈の時に及び、相継いで翰林学士となった。益は天宝初めに進士第に及んだ。肅は終に給事中となり、吏部侍郎を贈られた。

原文二子:益、肅,及休烈時,相繼為翰林學士。益,天寶初及進士第。肅,終給事中,贈吏部侍郎。

四世孫に敖。

原文四世孫 敖

肅の子敖、字は蹈中。進士に擢でられ、秘書省校書郎となった。楊憑・李鄘・呂元膺が相継いで幕府に辟した。元和初め、監察御史に拝し、五遷して右司郎中に至った。給事中・左拾遺に進んだ。龐厳は元稹・李紳に厚くせられ、蒋防と共に薦められて翰林学士となった。李逢吉が李紳を罪に誣いてこれを逐い、龐厳を出して信州刺史とし、蒋防を汀州刺史とした。敖は詔書を封還し、縉紳は龐厳の枉げられたるを申す意であったが、駁奏が下ると、乃ち龐厳の貶が軽すぎると論じ、衆皆嗤き騒いだ。逢吉は乃ち敖を厚遇し、三遷して戸部侍郎に至り、宣歙観察使として出された。敖は修謹にして、家世文学を以て進み、初めは時に称せられたが、官に居るに及び、建明する所無く、物に迕わずして自ら容れ、名益々減じた。卒し、礼部尚書を贈られた。四子:球・珪・瑰・琮。皆清顕であった。琮は知名である。

原文肅子敖,字蹈中,擢進士,為秘書省校書郎。楊憑、李鄘、呂元膺相繼辟幕府。元和初,拜監察御史,五遷至右司郎中。進給事中、左拾遺。龐嚴為元稹、李紳所厚,與蔣防俱薦為翰林學士。李逢吉誣紳罪逐之,而出嚴為信州刺史,防汀州刺史。敖封還詔書,縉紳意申嚴枉,及駁奏下,乃論貶嚴太輕,眾皆嗤噪。逢吉乃厚敖,三遷至戶部侍郎,出為宣歙觀察使。敖修謹,家世用文學進,初為時所稱,及居官,無所建明,不迕物以自容,名益減。卒,贈禮部尚書。四子;球、珪、瑰、琮,皆清顯。琮知名。

附 龐厳

原文附 龐嚴

龐厳、字は子肅、寿州寿春の人。進士に第し、賢良方正に挙げられ、策第一となり、拾遺に拝した。辞章峭麗、累遷して駕部郎中、知制誥となった。累に坐して出された。復た入り、稍く遷って太常少卿となった。太和五年、権京兆尹となり、強幹にして貴勢に阿わず、然れども利に貪り、声色に溺れた。官に卒した。

原文龐嚴者,字子肅,壽州壽春人。第進士,舉賢良方正,策第一,拜拾遺。辭章峭麗,累遷駕部郎中,知制誥。坐累出。復入,稍遷太常少卿。太和五年,權京兆尹,強幹不阿貴勢,然貪利,溺聲色。卒於官。

五世孫に琮。

原文五世孫 琮

琮は字を禮用といい、落魄して事に従わず、門地の資格をもって吏となり、長く昇進せず、駙馬都尉鄭顥のみが彼を器とした。宣宗が士人より公主に尚ぶ者を選ぶことを詔すると、顥は琮に語って曰く、「子は美才あり、細行を飾らず、衆の毀りに抑えられたり、これを為すこと能わんや」と。琮は諾した。中書舍人李潘が貢挙を掌ると、顥は琮を託し、第に擢でられ、左拾遺を授かった。初め永福公主を尚ごうとしたが、公主は降嫁せず、帝の前で食し、事に因って匕箸を折り、帝はこれが士大夫に妻せしむべからざるを知り、更に詔して廣德公主を尚がしめた。咸通年中、水部郎中をもって翰林學士となり、中書舍人に遷った。五月を閲し、兵部侍郎に転じ、戸部を判じた。八年、同中書門下平章事となり、中書侍郎に進み、戸部尚書を兼ねた。韋保衡に構えられ、檢校司空・山南東道節度使せつどしとなり、三たび貶められて韶州刺史となった。保衡敗れるや、僖宗は太子少傅として召したが、未だ幾ばくもせず、復た山南節度使となり、入朝して尚書右僕射を拝した。黃巢が京師を陥すや、病を以て家に臥し、巢は起して相とせんとしたが、琮は疾を辞し、賊が脅迫して止まず、乃ち曰く、「吾が死は旦夕に在り、位は宰相たり、義汚れを受くべからず」と。賊遂に之を害した。

原文琮字禮用,落魄不事事,以門資為吏,久不調,駙馬都尉鄭顥獨器之。宣宗詔選士人尚公主者,顥語琮曰:「子有美才,不飾細行,為眾毀所抑,能為之乎?」琮許諾。中書舍人李潘知貢舉,顥以琮托之,擢第,授左拾遺。初尚永福公主,主未降,食帝前,以事折匕箸,帝知其不可妻士大夫,更詔尚廣德公主。咸通中,以水部郎中為翰林學士,遷中書舍人。閱五月,轉兵部侍郎、判戶部。八年,同中書門下平章事,進中書侍郎,兼戶部尚書。為韋保衡所構,檢校司空、山南東道節度使,三貶韶州刺史。保衡敗,僖宗以太子少傅召,未幾,復為山南節度使,入拜尚書右僕射。黃巢陷京師,以病臥家,巢欲起為相,琮辭疾,賊迫脅不止,乃曰:「吾死在旦夕,位宰相,義不受汙。」賊遂害之。

高馮

原文高馮

高馮は字を季輔といい、字をもって行い、德州蓚県の人である。母の喪に居り、孝をもって聞こえた。兄元道は隋に仕えて汲県令となり、県人が城を反して賊に応じ、元道を殺した。季輔はその党与を率いて県人と戦い、これを擒にし、首を斬って祭り、賊衆は畏伏し、更に帰附する者、数千人に至った。俄かに武陟の李厚德と共にその衆を将いて降り、陟州総管府戸曹参軍を授かった。

原文高馮,字季輔,以字行,德州蓚人。居母喪,以孝聞。兄元道,仕隋為汲令,縣人反城應賊,殺元道。季輔率其黨與縣人戰,擒之,斬首以祭,賊眾畏伏,更歸附之,至數千人。俄與武陟李厚德將其眾降,授陟州總管府戶曹參軍。

貞観初年、監察御史を拝し、弾治するに権要を避けず。累転して中書舍人となり、五事を列上し、以て為すに、

原文貞觀初,拜監察御史,彈治不避權要。累轉中書舍人,列上五事,以為:

今天下大定すれども、刑未だ措かず、何ぞや。蓋し謀猷の臣・台閣の吏、簡易を崇めずして経遠に昧く、故に憲を執る者は深刻を以て奉公と為し、官に当たる者は下を侵すを以て国を益すと為すなり。尚書八坐の如きは、人主の責成する所なり、宜しく温厚修潔なる者を択びて之に任ずべし。樸素を敦くし、浮偽を革め、家に慈孝を識らしめ、人に廉恥を知らしめ、行い過ぐる者は郷に嗤われ、昵しまざる者は親に擯まれるを蒙らしめれば、自然に礼節興らん。

原文今天下大定,而刑未措,何哉?蓋謀猷之臣、台閣之吏不崇簡易,而昧經遠,故執憲者以深刻為奉公,當官者以侵下為益國。如尚書八坐,人主所責成者也,宜擇溫厚脩絜者任之。敦樸素,革浮偽,使家識慈孝,人知廉恥,過行者被嗤于鄉,不昵者蒙擯于親,自然禮節興矣。

陛下は身を帥いて節儉すれども、営繕未だ息まず、丁匠は駆使に給する能わず、又和雇を以て労費を重くす。人主の欲する所、何を求めて得ざらん。願わくは其の財を愛し、殫えしむること無からしめ、其の力を惜しみ、弊えしむること無からしめよ。畿内数州は、京師の本なり、土狭く人庶く、儲畜少なくして科役多し、宜しく優貸を蒙り、休息を得しめ、本を強くし支を弱くすの義なり。江南・河北に至っては、人頗る舒閑なり、宜しく差等を為し、均しく労逸を量るべし。

原文陛下身帥節儉,而營繕未息,丁匠不能給驅使,又和雇以重勞費。人主所欲,何求而不得。願愛其財,毋使殫;惜其力,毋使弊。畿內數州,京師之本,土狹人庶,儲畜少而科役多,宜蒙優貸,令得休息,強本弱支之義也。至江南、河北,人頗舒閑,宜為差等,均量勞逸。

公侯勳戚の家邑は、入俸稍々奉養に足るれども、貸息を出挙し、什一を争い求む、下民之に化し、競いて錐刀を為す、宜しく懲革を加うべし。

原文公侯勳戚之家邑,入俸稍足以奉養,而貸息出舉,爭求什一,下民化之,競為錐刀,宜加懲革。

今外官の卑品は、皆未だ禄を得ず、故に饑寒の切なること、夷・惠も其の行いを全うする能わず。政を為すの道は、期する所易従に在り、其の匱を恤れずして其の廉正を須うは、恐らくは巡察歳出し、輶軒軌を継ぎ、而して侵漁息まずん。宜しく戸口の繁なるに及び、倉庾且く実るに乗じ、稍々稟賜を加え、父母に事え妻子を養うことを得しめ、然る後に其の効を督責せば、則ち官人力を畢くせん。

原文今外官卑品,皆未得祿,故饑寒之切,夷、惠不能全其行。為政之道,期於易從,不恤其匱,而須其廉正,恐巡察歲出,輶軒繼軌,而侵漁不息也。宜及戶口之繁,倉庾且實,稍加稟賜,使得事父母、養妻子,然後督責其效,則官人畢力矣。

密王元曉等は俱に陛下の懿親なり、当に其の礼を正すべし。比に見るに帝子諸叔を拝し、諸叔答拝す。爵封既に同じければ、当に昭穆を明らかにすべく、願わくは訓正を垂れ、以て彝法と為さん。

原文密王元曉等俱陛下懿親,當正其禮。比見帝子拜諸叔,諸叔答拜。爵封既同,當明昭穆,願垂訓正,以為彝法。

書奏す、太宗善しと称し、進めて太子右庶子を授く。数たび上書して得失を言い、辞誠切至たり。帝は鐘乳一剤を賜い、曰く、「而が薬石の言を進む、朕は薬石を以て相い報いん」と。後に吏部侍郎となり、善く人物を銓叙し、帝は金背鏡一を賜い、其の清鑒を況えた。

原文書奏,太宗稱善,進授太子右庶子。數上書言得失,辭誠切至。帝賜鐘乳一劑,曰:「而進藥石之言,朕以藥石相報。」後為吏部侍郎,善銓敘人物,帝賜金背鏡一,況其清鑒焉。

久しくして、中書令・兼檢校吏部尚書に遷り、国史を監修し、爵を進めて蓚県公となった。永徽初年、光禄大夫・侍中・兼太子少保を加えられた。疾を感じて第に帰り、詔有りて其の兄虢州刺史季通を宗正少卿と為し、疾を視せしめ、中使を遣わして日々増損を候わしめた。卒す、年五十八、開府儀同三司・荊州都督を贈られ、諡して憲といった。官が轜車を給し、郷に帰葬した。

原文久之,遷中書令、兼檢校吏部尚書,監脩國史,進爵蓚縣公。永徽初,加光祿大夫、侍中、兼太子少保。感疾歸第,有詔以其兄虢州刺史季通為宗正少卿,視疾,遣中使日候增損。卒,年五十八,贈開府儀同三司、荊州都督,諡曰憲。官給轜車,歸葬於鄉。

子正業は、官中書舍人に至る。上官儀に善しとするに坐し、嶺表に貶められた。

原文子正業,仕至中書舍人。坐善上官儀,貶嶺表。

張行成

原文張行成

張行成は字を德立といい、定州義豊県の人である。少くして劉炫に師事し、炫は門人に謂いて曰く、「行成は体局方正、廊廟の才なり」と。隋の大業末、孝廉に察され、謁者台散従員外郎となった。後に王世充の度支尚書となった。世充平らぎ、隋の資をもって谷熟尉を補った。家貧しく、計吏に代わって京師に集い、制挙乙科に擢でられ、陳倉尉に改まった。高祖は吏部侍郎張鋭に謂いて曰く、「今吏を選ぶに豈に才用特達なる者無からんや、朕将に之を用いん」と。鋭は行成を言上し、富平主簿に調じ、能名有り。召されて殿中侍御史を補い、糾劾厳正たり。太宗は能と為し、房玄齢に謂いて曰く、「古今人を用うるに未だ嘗て紹介に因らざるは無し、行成の如きは、朕自ら之を挙ぐ、先容無し」と。

原文張行成,字德立,定州義豐人。少師事劉炫,炫謂門人曰:「行成體局方正,廊廟才也。」隋大業末,察孝廉,為謁者台散從員外郎。後為王世充度支尚書。世充平,以隋資補谷熟尉。家貧,代計吏集京師,擢制舉乙科,改陳倉尉。高祖謂吏部侍郎張銳曰:「今選吏豈無才用特達者?朕將用之。」銳言行成,調富平主簿,有能名。召補殿中侍御史,糾劾嚴正。太宗以為能,謂房玄齡曰:「古今用人未嘗不因介紹,若行成者,朕自舉之,無先容也。」

嘗て宴に侍す、帝山東及び関中人に語り、意に同異有り。行成曰く、「天子は四海を家と為す、東西を以て限りと為すを容れず、是れ人に隘きを示すなり」と。帝善しと称し、名馬一・銭十万・衣一称を賜う。此れより大政事有るごとに、与に議せしむ。累遷して給事中となる。帝嘗て群臣に謂いて曰く、「朕人主として、将相の事を兼ね行う、豈に公等の名を奪わざらんや。舜・禹・湯・武は稷・蒐・伊・呂を得て四海安んじ、漢高祖は蕭・曹・韓・彭有りて天下寧んず、此の事朕皆之を兼ぬ」と。行成退きて、疏を上して曰く、「隋失道し、天下沸騰す、陛下乱を撥ぎて反し正し、人の塗炭を拯う、何ぞ周・漢の君臣の比数すべきや。然りと雖も、盛徳光を含み、規模巨遠なり。左右の文武誠に将相の材無しと雖も、何ぞ大庭広衆を以て之と量校し、万乗の尊を損じ、臣下と功を争わんや」と。帝嘉し之を納れた。刑部侍郎・太子少詹事に転じた。

原文嘗侍宴,帝語山東及關中人,意有同異。行成曰:「天子四海為家,不容以東西為限,是示人以隘矣。」帝稱善,賜名馬一、錢十萬、衣一稱。自是有大政事,令與議焉。累遷給事中。帝嘗謂群臣:「朕為人主,兼行將相事,豈不是奪公等名?舜、禹、湯、武得稷、蒐、伊、呂而四海安,漢高祖有蕭、曹、韓、彭而天下寧,茲事朕皆兼之。」行成退,上疏曰:「有隋失道,天下沸騰,陛下撥亂反正,拯人塗炭,何周、漢君臣所能比數。雖然,盛德含光,規模巨集遠。左右文武誠無將相材,奚用大庭廣眾與之量校,損萬乘之尊,與臣下爭功哉?」帝嘉納之。轉刑部侍郎、太子少詹事。

太子は定州に駐留して国を監し、謂いて曰く、「吾れ乃ち公が錦衣を着て郷里を過ぐるを送らんや」と。有司に命じて其の先祖の墓を祠らしむ。行成は郷里の人魏唐卿・崔寶權・馬龍駒・張君劼を推薦し、皆学行をもって聞こえたるを以て、太子召見し、其の老いて事に任ずべからざるを以て、厚く賜りて遣わす。太子行成を行在所に詣らしむ。帝見て甚だ悦び、賜り労うこと特に厚し。還りて河南巡察大使と為り、旨に称し、尚書左丞を検校す。是の歳、帝霊州に幸す。詔して皇太子に従わしむ。行成諫めて曰く、「皇太子は宜しく留まって国を監し、百寮に対し日々に庶務を決すべし。既に京師の重きを為し、且つ四方に盛徳を示すべし」と。帝忠と為す。侍中・兼刑部尚書に遷る。

原文太子駐定州監國,謂曰:「吾乃送公衣錦過鄉邪!」令有司祠其先墓。行成薦裏人魏唐卿、崔寶權、馬龍駒、張君劼皆以學行聞,太子召見,以其老不可任以事,厚賜遣之。太子使行成詣行在,帝見悅甚,賜勞尤渥。還為河南巡察大使,稱旨,檢校尚書左丞。是歲,帝幸靈州,詔皇太子從。行成諫曰:「皇太子宜留監國,對百寮日決庶務,既為京師重,且示四方盛德。」帝以為忠。遷侍中、兼刑部尚書。

高宗即位し、北平県公に封ぜられ、国史を監修す。時に晋州地震止まず。帝之を問う。対えて曰く、「天は陽なり、君の象なり。地は陰なり、臣の象なり。君は動くべく、臣は静かなるべし。今静かなる者顧みて動くは、恐らくは女謁用いられ、人臣陰謀す。又諸王・公主起居に参承し、或いは間隙を伺う。宜しく防閑を明らかに設くべし。且つ晋は陛下の本封なり、応に虚しく発するにあらず。伏して願わくは深く思いて未萌を杜がんことを」と。帝然りとす。詔して五品以上に極言得失せしむ。俄にして尚書左僕射・太子少傅を拝す。永徽四年、三月より雨なくして五月に至る。行成懼れ、老を以て身を乞う。制を答えて曰く、「古者策免すれども、罪己の義に乖けり。此れ朕が寡徳に在り、宰相の咎に非ず」と。乃ち宮女・黄金の器を賜い、勅して復た辞する勿からしむ。行成固く請う。帝曰く、「公は朕が旧なり、奈何ぞ朕を捨てて去らんや」と。泫然として涕を流す。行成惶恐し、已むを得ず復た事を視る。未だ幾ばくもせず、尚書省の舎に卒す。年六十七。詔して九品以上に第に就きて哭せしむ。斂に比し、三たび使を遣わして内衣服を賜う。尚宮其の家に宿り護視す。開府儀同三司・并州都督を贈り、少牢を以て祭り、諡して定と曰う。弘道元年、詔して高宗廟廷に配享せしむ。

原文高宗即位,封北平縣公,監脩國史。時晉州地震不息,帝問之,對曰:「天,陽也,君象;地,陰也,臣象。君宜動,臣宜靜。今靜者顧動,恐女謁用事,人臣陰謀。又諸王、公主參承起居,或伺間隙,宜明設防閑。且晉,陛下本封,應不虛發,伏願深思以杜未萌。」帝然之,詔五品以上極言得失。俄拜尚書左僕射、太子少傅。永徽四年,自三月不雨至五月,行成懼,以老乞身,制答曰:「古者策免,乖罪己之義。此在朕寡德,非宰相咎。」乃賜宮女、黃金器,敕勿復辭。行成固請,帝曰:「公,朕之舊,奈何舍朕去邪?」泫然流涕。行成惶恐,不得已復視事。未幾,卒於尚書省舍,年六十七。詔九品以上就第哭。比斂,三遣使賜內衣服,尚宮宿其家護視。贈開府儀同三司、并州都督,祭以少牢,諡曰定。弘道元年,詔配享高宗廟廷。

族子 易之 昌宗

原文(段落全体)族子易之、昌宗。

族子、易之・昌宗。

原文(段落全体)族子易之、昌宗。

易之幼くして門蔭を以て仕え、累遷して尚乗奉御と為る。既に冠し、頎皙として姿制美しく、音技多く曉通す。武后の時、太平公主其の弟昌宗を薦め、侍するを得。昌宗白して易之の材用臣に過ぐるを進め、善く薬石を治煉すと。即ち召見し、之を悦ぶ。兄弟皆幸せられ、禁中に出入りし、硃粉を傅き、紈錦を衣て、盛に飾り自ら喜ぶ。即日昌宗を雲麾将軍・行左千牛中郎将に拝し、易之を司衛少卿と為し、甲第を賜い、帛五百段を賜い、奴婢・橐它・馬牛を給して充入せしむ。数日を経ず、進めて昌宗を銀青光禄大夫に拝し、防閤を賜い、京官と同様に朔望に朝せしむ。父希臧を追贈して襄州刺史と為し、母韋氏・母臧氏並びに太夫人に封じ、尚宮に問省起居せしむ。詔して尚書李迥秀に臧氏に私しく侍せしむ。昌宗興りて旬日に満たずして、貴天下に震う。諸武の兄弟及び宗楚客等争いて門を造り、顔色を伺望し、親しく轡棰を執り、易之を「五郎」、昌宗を「六郎」と号す。又昌宗に右散騎常侍を加う。聖暦二年、始めて控鶴府を置き、易之を監に拝す。久しくして、更めて奉宸府と号し、易之を令と為す。乃ち知名の士閻朝隠・薛稷・員半千を引いて供奉と為す。

原文易之幼以門廕仕,累遷尚乘奉禦。既冠,頎皙美姿制,音技多所曉通。武后時,太平公主薦其弟昌宗,得侍。昌宗白進易之材用過臣,善治煉藥石。即召見,悅之。兄弟皆幸,出入禁中,傅硃粉,衣紈錦,盛飾自喜。即日拜昌宗雲麾將軍、行左千牛中郎將,易之司衛少卿,賜甲第,帛五百段,給奴婢、橐它、馬牛充入之。不數日,進拜昌宗銀青光祿大夫,賜防閤,同京官朝朔望;追贈父希臧為襄州刺史,母韋、母臧並封太夫人,尚宮問省起居。詔尚書李迥秀私侍臧。昌宗興不旬日,貴震天下。諸武兄弟及宗楚客等爭造門,伺望顏色,親執轡棰,號易之為「五郎」,昌宗「六郎」。又加昌宗右散騎常侍。聖曆二年,始置控鶴府,拜易之為監。久之,更號奉宸府,以易之為令。乃引知名士閻朝隱、薛稷、員半千為供奉。

后每たび燕集するに、則ち二張諸武雑侍し、摴博争道して笑楽と為し、或いは公卿を嘲詆し、淫蠱顕に行われ、復た羞畏する無し。時に檢無き軽薄者又諂言して昌宗は乃ち王子晋の後身なりとす。后羽裳を被らしめ、簫を吹かしめ、寓鶴に乗せしめ、庭中に裴回せしめ、仙去するが如き状を為さしむ。詞臣争いて賦詩を為して后に媚ぶ。后醜声甚だしきを知り、以て之を掩覆せんと思い、乃ち詔して昌宗に即ち禁中に論著せしめ、李嶠・張説・宋之問・富嘉謨・徐彦伯等二十有六人を引いて『三教珠英』を譔せしむ。昌宗に司僕卿を、易之に麟台監を加え、権勢震赫す。皇太子・相王昌宗を王に封ぜんことを請う。后聴かず。春官侍郎に遷し、鄴国公に封じ、易之を恒国公に封じ、実封各三百戸。

原文後每燕集,則二張諸武雜侍,摴博爭道為笑樂,或嘲詆公卿,淫蠱顯行,無復羞畏。時無檢輕薄者又諂言昌宗乃王子晉後身,後使被羽裳、吹簫、乘寓鶴,裴回庭中,如仙去狀,詞臣爭為賦詩以媚後。後知醜聲甚,思有以掩覆之,乃詔昌宗即禁中論著,引李嶠、張說、宋之問、富嘉謨、徐彥伯等二十有六人譔《三教珠英》。加昌宗司僕卿、易之麟台監,權勢震赫。皇太子、相王請封昌宗為王,後不聽,遷春官侍郎,封鄴國公,易之恒國公,實封各三百戶。

后既に春秋高く、易之兄弟政を専らにす。邵王重潤と永泰郡主窃に議し、皆罪を得て縊死す。御史大夫魏元忠嘗て易之等の罪を劾奏す。易之后に訴え、反って元忠と司礼丞高戩が約して曰く「天子老い、当に太子を挟みて耐久の朋と為すべし」と誣う。后問う「孰れか証左と為さん」。易之曰く「鳳閣舎人張説なり」。翌日庭辯すれども、皆讎わず。然れども元忠・説猶皆逐われ被る。其の後易之等益自ら肆にし、奸贓狼藉す。御史台之を劾奏す。乃ち詔して宗晋卿・李承嘉・桓彦範・袁恕己に参鞫せしむ。而して司刑正賈敬言后の旨を窺望し、奏して昌宗強市す、罪贖うべしと。詔して曰く可なりと。承嘉・彦範進みて曰く「昌宗贓四百万、尚当に官を免ぜらるべし」。昌宗大言して曰く「臣国に功有り、官を免ぜらるべからず」。后宰相に問う。内史令楊再思曰く「昌宗主として丹剤を煉り、陛下之を餌して験あり。功最も大なる者なり」。即ち詔して之を釈し、其の兄昌儀・同休に罪を帰し、皆官を貶す。已にして后久しく疾え、長生院に居り、宰相進見するを得ず。惟だ昌宗等側に侍る。昌宗后の不諱いみなを恐れ、禍将に及ばんとし、乃ち支党を引いて日夜謀りて不軌の事を為す。然れども小人疏険にして、道路皆之を知る。至っては其の事を衢左に榜する者有り。左台御史中丞宋璟亟に按摂せんことを請う。后陽に璟を許す。俄に詔して璟を外して幽州都督屈突仲翔を按せしめ、更に勅して司刑卿崔神慶に状を問わしむ。神慶妄りに奏して云く「昌宗応に原すべし」。璟執りて奏す「昌宗法当に斬るべし」。后答えず。左拾遺李邕進みて曰く「璟の言は社稷の計なり。願わくは之を可とせん」。后終に許さず。

原文後既春秋高,易之兄弟專政,邵王重潤與永泰郡主竊議,皆得罪縊死。御史大夫魏元忠嘗劾奏易之等罪,易之訴於後,反誣元忠與司禮丞高戩約曰:「天子老,當挾太子為耐久朋。」後問:「孰為證左?」易之曰:「鳳閣舍人張說。」翌日庭辯,皆不讎,然元忠、說猶皆被逐。其後易之等益自肆,奸贓狼藉,御史台劾奏之,乃詔宗晉卿、李承嘉、桓彥范、袁恕己參鞫,而司刑正賈敬言窺望後旨,奏昌宗強市,罪當贖,詔曰可。承嘉、彥範進曰:「昌宗贓四百萬,尚當免官。」昌宗大言曰:「臣有功于國,不應免官。」後問宰相,內史令楊再思曰:「昌宗主煉丹劑,陛下餌之而驗,功最大者也。」即詔釋之,歸罪其兄昌儀、同休,皆貶官。已而後久疾,居長生院,宰相不得進見,惟昌宗等侍側。昌宗恐後不諱,禍且及,乃引支黨日夜與謀為不軌事。然小人疏險,道路皆知之,至有榜其事于衢左者。左台御史中丞宋璟亟請按攝,後陽許璟,俄詔璟外按幽州都督屈突仲翔,更敕司刑卿崔神慶問狀。神慶妄奏云:「昌宗應原。」璟執奏「昌宗法當斬」。後不答,左拾遺李邕進曰:「璟之言,社稷計也,願可之。」後終不許。

神龍元年、張柬之・崔玄暐等羽林兵を率いて皇太子を迎え入れ、易之・昌宗を迎仙院に於いて誅す。及び其の兄昌期・同休・従弟景雄皆天津橋に梟首す。士庶歓踴し、之を臠取り、一夕にして尽くす。坐して流貶せらるる者数十人。天宝九載、昌期の女上表自ら言う。楊国忠之を助く。詔して易之兄弟の官爵を復し、同休の一子に官を賜う。

原文神龍元年,張柬之、崔玄暐等率羽林兵迎皇太子入,誅易之、昌宗於迎仙院,及其兄昌期、同休、從弟景雄皆梟首天津橋,士庶歡踴,臠取之,一夕盡。坐流貶者數十人。天寶九載,昌期女上表自言,楊國忠助之,詔復易之兄弟官爵,賜同休一子官。

賛して曰く、于志寧太子承乾を諫め、幾くんか賊殺に遭わんとす。然れども未だ嘗て懼れず。太宗の明なるを知り、匕首胸に揕うと雖も愧じざるなり。武后の立つに及びては、一言を出す敢えず。高宗の昧きを知り、死すと雖も益無きなり。季輔・行成数え諫めを進む。然れども雍容として礼有り。皆長厚の君子なるかな。

原文贊曰:于志寧諫太子承乾,幾遭賊殺,然未嘗懼,知太宗之明,雖匕首揕胸不愧也。及武后立,不敢出一言,知高宗之昧,雖死無益也。季輔,行成數進諫,然雍容有禮,皆長厚君子哉!