蘇世長
蘇世長は京兆武功の人である。祖父の彤は後魏に仕えて通直散騎常侍となった。父の振は周の宕州刺史、建威縣侯となった。世長は十余歳の時、周の武帝に上書した。帝はその幼さを異とし、何の書を読むかと問うと、「『孝経』と『論語』を治めております」と答えた。帝が「どの言葉が道とすべきか」と言うと、答えて「国を為す者は敢えて鰥寡を侮らず。政を為すには徳を以てす、でございます」と言った。帝は「善い」と言い、虎門館で学業を終わらせた。父が王事のために死ぬと、詔があって爵を襲ぐこととなったが、世長は号踊して自ら勝えず、帝は憮然として顔色を改めた。
隋に入り、長安令となり、数度便宜を条上した。大業の末、都水少監となり、漕運を上江に督した。時に煬帝が弑されると、発喪し、慟哭の声は行路に聞こえた。更に王世充の太子太保・行台右僕射となり、世充の兄の子の弘烈及びその将の豆盧行褒と共に襄陽を戍った。高祖は彼と旧知であり、数度使者を遣わして降るよう諭したが、その都度殺した。
涇陽に従獵し、大いに獲物を得た。帝が旌門に入り、左右に誇って言うには、「今日の畋は楽しんだか」と。世長は言う、「陛下が万機を廃し、遊獵に事とり、十旬に満たず、楽しみとは申せません」と。帝の色が変じたが、やがて笑って言うには、「狂態が発したか」と。答えて「臣の為に計れば狂、陛下の為に計れば忠でございます」と言った。時に武功・郿は新たに突厥の寇掠を受け、郷聚は凋虚していた。帝は遂に武功で狩猟しようとしたが、世長は諫めて言うには、「突厥が先般人を盗み劫い、陛下の救恤の言葉も未だ口に出さぬうちに、またその地で狩猟されれば、恐らく百姓はその求めに堪えられません」と。帝は聴かなかった。披香殿で侍宴し、酒酣の時、進み出て言うには、「これは煬帝の作られたものですか。どうしてこれほどまでに彫麗なのです」と。帝は言う、「卿は諫めるのが好きで直のようだが、実は詐りである。どうしてこの殿が私の営んだものだと知らず、わざと煬帝と言うのか」と。答えて言うには、「臣はただ傾宮や鹿台を見るのみで、天命を受けた聖人の為すところではないと存じます。陛下の武功の旧第は、風雨を蔽うだけで、当時は足りていると思われました。今、天下は隋の奢侈に厭き、有道に帰しております。陛下は奢淫を刈り、復た朴素にすべきです。今、その宮に即いて彫飾を加えられれば、その乱を易えようと欲しても、得られましょうか」と。帝はその言を重んじた。陝州長史・天策府軍諮祭酒を歴任し、学士に引かれた。貞観の初め、突厥に使いし、頡利と礼を争って屈せず、賂遺を拒み退けたので、朝廷はその壮挙を称えた。巴州刺史として出向し、舟が難破し、溺死した。
世長は機弁があったが、学は浅く、酒を嗜み、簡率で威儀がなかった。初め陝に在った時、邑裏が法を犯しても禁じられず、引咎して自ら廛で撻たれた。五伯はその詭を疾み、鞭打って流血させた。世長は痛みに勝えず、呼びながら走り去ったので、人はその不情を笑った。
子 良嗣
子の良嗣は、高宗の時に周王府司馬となり、王が年少で法に依らなかったので、良嗣は数度王を諫め、法を以て職を果たさぬ府官を糾したので、甚だ尊憚された。帝はこれを異とし、荊州長史に選んだ。帝が宦者を江南に遣わして怪竹を採らせ、上苑に蒔こうとした。宦者は過ぐる所で暴を恣にしたが、荊に至ると、良嗣はこれを囚え、上書して状を言上した。帝は詔を下して慰労し、竹を取って棄てた。雍州に転じた。時に関内は饑饉で、人相食む有様であったが、良嗣の政は厳正で、盗みが発する毎に、三日の内に必ず擒らえ、神明と号された。
初め、良嗣が洛州長史の時、僚婿の累に坐し、下って冀州刺史に徙された。その人が往って謝すると、良嗣の色は泰定で、言うには、「初め累があるとは聞かなかった」と。荊州に在った時、州に河東寺があった。もとは蕭詧が兄の河東王のために建てたものである。良嗣は言う、「江・漢の間にどうして河東と関係があろうか」と。奏上してこれを改めさせたが、当世はその学が少ないことを恨んだという。
從孫 弁
従孫の弁、字は元容、進士に擢でられ、奉天県の主簿に任ぜられた。徳宗が狩に出たとき、県令は府で事を計らっており、官属は皆恐れ慌て、遁走しようとした。弁曰く、「昔、粛宗が霊武に幸したとき、新平・安定に至り、二太守は伏匿の罪に坐し、斬られて徇らされた。諸君はこれを知っているか」と。衆は乃ち定まった。車駕が至ると、儲偫は悉く給され、帝はこれを嘉し、大理司直を試みさせた。硃泚が平らぎ、監察御史に進み、累擢して倉部郎中となり、度支案を判じた。裴延齢が死ぬと、帝は弁を召して延英殿に引見し、紫衣金魚を賜い、度支郎中として度支事を副知し、位は郎中の上に置かれた。度支に副知が置かれるのは弁より始まる。弁は学術に通じ、吏事に精明で、延齢の後を承け、賦を平らげ役を緩め、煩苛を略し、人はその寛大さに頼った。
久しくして、戸部侍郎に遷り、度支を判じ、太子詹事に改めた。旧制では、詹事の位は太常・宗正卿の下にあったが、御史中丞の竇參がこれを卑しみ、班を河南・太原尹の下に徙した。弁が朝に造ると、輒ち旧の著に就き、有司が疑い詰めると、紿いて曰く、「我已に宰相に白し、旧班に復した」と。殿中侍御史の鄒儒立が劾奏し、金吾に待罪したが、詔ありて罪を原した。前に腐粟を以て辺に給した罪に坐し、汀州司戸参軍に貶せられた。是の時、兄の袞は賛善大夫、冕は京兆士曹参軍であったが、弁の故を以て、袞は永州に、冕は信州司戸参軍に貶せられた。袞は年老いて、瞑して視ることができず、帝これを閔み、還ることを聴した。又、冕の才を称する者あり、帝は用いなかったことを悔い、而して袞は老いて先に還ったので、重ねて冕を追い求めようとした。更に大臣の昆弟で任ずべき者を問うと、左右が王紹の兄の紓、韓皋の兄の群を以て対えた。帝は乃ち紓を右補闕に、群を考功員外郎に擢で、冕は遂に用いられなかった。数年して、弁を起して滁州刺史とし、卒した。
弁は書を聚めて二万巻に至り、手ずから讎定し、当時に秘府と将ぶと称された。弁が度支を判じたとき、大旱が続き、州県に逋米があり、貞元八年以前を断じて、凡そ三百八十万斛、人の亡き数が在った。弁は奏請してこれを出し貧民に貸し、秋に至って償わせることを請うた。詔して可とした。当時、その君を罔くすを譏ったという。
韋雲起
韋雲起、京兆万年の人。隋の開皇年中、明経を以て符璽直長を補った。嘗て文帝の前に事を奏す。帝曰く、「外事に不便あれば、言うべし」と。時に兵部侍郎の柳述が侍していた。雲起は即ち奏して曰く、「述は性豪侈にして、未だ事を更めず、ただ主婿の私に縁り、兵要を握る。議者は陛下が官に賢を択ばずと謂う。これ不便の者なり」と。帝は述を顧みて曰く、「雲起の言は、而して薬石なり。これを師とすべし」と。仁寿初め、詔して百官に知る所を挙げしめ、述は雲起を挙げて通事舎人とした。大業初め、謁者に改む。建言して曰く、「今、朝廷に山東の人多く、自ら門戸を作り、下に附き上を罔き、朋党を為す。その端を抑えざれば、必ず政を乱さん」と。因って奸状を条陳す。煬帝は大理に属して推究せしめ、ここにおいて左丞の郎蔚之・司隸別駕の郎楚之等は皆坐して免ぜられた。
会に契丹が営州を寇す。詔して雲起に突厥兵を護りてこれを討たしむ。啓民可汗は二万騎を以て節度を受く。雲起はこれを離して二十屯と為し、屯は相連絡し、四道並びに引き、令して曰く、「鼓して行き、角して止まり、公使に非ざれば、走馬す毋れ」と。三たび諭し五たび復す。既にして紇斤一人が令を犯せば、即ち斬りて以て徇らす。ここにおいて突厥の酋長で入謁する者は、皆膝いて進み、敢えて仰ぎ視る者なし。初め、契丹は突厥に事えて間隙なく、且つ雲起の至らんことを虞わず。既に境に入り、突厥を使いて紿きて柳城に詣で高麗と市易せしめ、敢えて隋使の在るを言う者は斬ると言わしむ。契丹は疑わず。因って引きて南し、賊の営を百里過ぎ、夜還りて陣し、遅明を以て掩撃す。契丹の男女四万を獲、女子及び畜産の半を以て突厥に賜い、男子は悉く殺し、余衆を以て還る。帝大いに喜び、百官を廷に会して曰く、「雲起は突厥兵を将いて契丹を平らげ、奇を以て師を用い、文武の才あり。朕自らこれを挙ぐ」と。治書御史に拝す。因って劾奏して曰く、「内史侍郎の虞世基・御史大夫の裴蘊は寵に怙りて命を妨げ、四方に変あれば以て聞かず、聞くも実を以てせず。朝議は賊を少なしとし、多く兵を発せず、官兵少なく、賊衆く、数たび敗北を見、賊気日を逐うて張る。請う、有司に付して案罪せしめよ」と。大理卿の鄭善果奏して曰く、「雲起は大臣を訾り、朝政を毀り、言う所情ならず」と。大理司直に貶す。帝が江都に幸するに及び、告げて帰ることを請う。
高祖が関に入ると、長楽宮に上謁し、司農卿・陽城県公を授かる。武徳初め、上開府儀同三司に進み、農圃監を判ず。時に王世充を討つことを議す。雲起上言して曰く、「京師初めて平らぎ、人未だ堅く附かず、百姓流離し、仍歳年無し。盩厔の司竹・藍田の谷口には、盗賊群屯す。京都では椎剽し、夜に乗じて窃発す。重ねて梁師都が情を北胡に嫁ぎ、陰計内に鈔し、腹心の患と為る。これを釈きて図らずして、兵を函・洛に窺わば、奸人虚に乗じ、一旦変あれば、禍且つ細ならず。臣愚、以為らくは、兵を戢え農を務め、関中の妥安を須ち、士気余飽して、然る後に討伐を議し、一挙して定むべし」と。これに従う。
会に突厥入寇す。詔して総べて豳・寧以北九洲の兵を以てこれを禦がしめ、一切便宜を得しむ。遂州都督・益州行台兵部尚書に改む。時に僕射の竇軌は数たび生獠の反を奏し、冀くは兵を集めて以て衆を威せんとす。雲起は数たび掣き持ち、軌は宣言して雲起が賊に通じ私を営むとす。ここより始めて隙あり。雲起の弟の慶儉・慶嗣は隠太子に事う。太子死す。詔して軌に息せしめて馳驛して報ぜしむ。軌は雲起に変あるを疑い、陰に設備し、乃ちこれに告ぐ。雲起信ぜずして曰く、「詔は安在か」と。軌曰く、「公は建成の党なり。今詔を奉ぜざれば、反明らかなり」と。遂にこれを殺す。初め、雲起は太学博士の王頗に師事し、王頗は毎に歎じて曰く、「韋生は識悟あり、富貴は自ら致すべし。然れども疾悪甚だしく、恐らくは死を得ざらん」と。言の如くに訖る。
孫の方質、光宅初めに鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、地官尚書に遷る。嘗て疾に属す。武承嗣兄弟往きて候う。方質は床に拠りて自若たり。或る人曰く、「権貴に倨して見え、且つ禍を速めん」と。答えて曰く、「吉凶は命なり。丈夫豈に節を折りて近戚に近づき以て苟くも免れんや」と。俄にして酷吏に陥れられ、儋州に流死し、その家を没す。神龍初め、官爵を復す。
孫伏伽
孫伏伽、貝州武城の人。隋に仕え、小史より累労して万年県法曹を補う。高祖武徳初め、三事を上言す。
帝大いに悦び、即ち詔して曰く、「周・隋の晩年、忠臣舌を結び、是れ一言邦を喪う者と謂う。朕惟れ寡徳、性と天道とを能わず、然れども弼諧を冀ひ以て逮わざるを輔けんとす。而るに群公卿士、直言を進むるに罕なり。伏伽至誠慷慨、義に拠り懇切、朕が失を指すに諱る所無し。其れ伏伽を以て治書侍御史と為し、帛三百匹を賜え」と。初め、帝禅を受くるとき、伏伽最も先に諫め、帝情を下に尽くさんと欲し、故に次を俟たずして抜擢し、以て群臣に示す。
是の時、軍興にて賦斂重く、伏伽数回厘損を請う。帝裴寂に語りて曰く、「隋無道たりしは、主上に驕り、臣下に諂い、下上蔽蒙し、身匹夫の手に死するに至る。寧ろ痛ましからずや。我今然らず、乱を平ぐるは武臣を責め、成を守るは儒臣を責め、能を程し事に付し、以て逮わざるを佐けしむ。虚心下に尽くし、嘉言を聞かんことを冀う。李綱・孫伏伽の如きは、誼臣と謂うべし。首を俯して黙するは、豈に朕の望む所ならんや」と。
東都平らぎ、天下に大赦し、又賊の支党を責め、悉く悪地に流徙せんと欲す。伏伽諫めて曰く、「臣聞く、王者に戯言無しと。『書』に『爾信無からば、朕食言せず』と称す。言の慎まざるべからざる所以なり。陛下の制詔に曰く、『常赦に免れざるも、皆之を原す』と。此れ直ちに罪を赦すのみに非ず、是れ亦天下と新たに辞するなり。世充・建德の所部、赦後に乃ち流徙せんと欲す。『書』に曰く、『其の渠魁を殲し、脅従は罔治』と。渠魁尚お免る。脅従何の辜ぞ。且つ蹠の狗堯に吠ゆるは、其の主に吠ゆるに非ざるなり。今陛下と結髪の雅故、往きて賊臣と為りし者、彼豈に陛下を忘れんや、壅隔の故なり。至って疎なる者、安んぞ能く之を罪せん。古より以来、何れの始めに君無からんや、然れどもただ堯・舜と称するは、何ぞや。直ちに善名得難きに由るなり。昔天下未だ平らがざりしとき、容応機に制変すべし。今四方已に定まれり、法を設くるは須らく人と之を共にすべし。法は陛下自ら作る所、須らく自ら之を守り、天下の百姓をして信じて畏れしむべし。自ら信無くして、人の信ぜんことを欲するは、豈に得べけんや。賞罰の行わるるは、貴賤親疎無く、惟だ義の在る所に在り。臣愚かに以為らく、賊党の赦に当たりて免るべき者は、甚だ無状なりと雖も、宜しく一切加えて原すべし。則ち天下幸甚なり」と。又表して諫官を置かんことを請う。帝皆欽んで納る。
初め、伏伽御史に拝せらるる時、先ず内旨を受けしも、制未だ出でず、帰りて家に臥すに、喜色無し。頃くして御史門に造る。子弟驚きて白す。伏伽徐ろに起きて之を見る。時に人其の量有るを称し、顧雍に比す。
張玄素
張玄素は、蒲州虞郷の人なり。隋に仕え、景城県戸曹と為る。竇建德景城を陥とし、執えて殺さんとす。邑人千余号泣して代わるを請い曰く、「此れ清吏なり。之を殺すは是れ天無きなり。大王即ち天下を定むるも、善人をして解体せしむる無かれ」と。建德命じて縛を解かしめ、治書侍御史に署すも拝せず。江都已に弑せられしを聞き、始めて建德の黄門侍郎と為る。賊平らぎ、景州録事参軍を授く。
太宗即位し、政を以て問う。対えて曰く、「古より隋の如く乱るる者無し。君自ら専らにし、法日々に乱るるに非ずや。且つ万乗の尊、身を以て庶務を決し、日に十事を断つも、五は中らず。中る者は信じて善しとす。中らざる者有るは如何。一日万機、其の失を積めば、亡びずして何をか待たん。若し上賢右能し、百司をして職を善くせしめば、則ち高居深拱し、誰か敢えて之を犯さん。隋末盗起こり、天下を争う者十数に満たず。余は皆城邑を保ち以て有道の命を聴くを須う。是れ背きて乱に怙う者果たして鮮なし。特だ人君能く之を安んぜずして、乱に挻えしむるなり。陛下の聖神を以てし、危うき所以の跡を跡とし、亡ぶ所以を鑒とし、日一日に慎めば、堯・舜と雖も何を以てか加えん」と。帝曰く、「善し」と。侍御史に拝し、給事中に遷る。
貞観四年、詔して卒を発し洛陽宮乾陽殿を治めしめ、且つ東幸せんとす。玄素上書して曰く、
臣惟うに、秦始皇帝周の余を藉り、六国を夷し、尊を統壹し、将に之を万世に貽さんとす。及んで子に至りて亡ぶは、嗜を殫くし欲に奔り、以て天に逆らい人を害するなり。天下は力を以て勝つべからず。唯当に儉約を務め、賦斂を薄くし、身を以て之に先んずべし。乃ち能く大いに安んず。
今、東都には行幸の期が未だ定まらず、先には土木を事とし、戚王が藩に出るに当たり、また営構を為さねばならず、科調は繁仍にして、疲弊せる民の望みを失う、これ一に不可なり。陛下が先に東都を平定せし時、広殿を観覧し、皆これを撤毀せしめ、天下翕然として、一口に頌歌せり。豈に初めは侈靡を悪みて後には彫麗を好むことあらんや、これ二に不可なり。陛下は常に巡幸を不急の務と為し、徒に虚費するのみと謂えり。今、国儲は兼年に及ばず、また別都の役を興して、怨讟を産まんとす、これ三に不可なり。百姓は乱離の後に承け、財賦は殫空し、更生を蒙るといえども、意は未だ完定せず、奈何ぞ未だ幸せざる都を営み、其の力を重ねて耗さんや、これ四に不可なり。漢祖が洛陽に都せんとせし時、婁敬の一言にて、即日に西駕せり。地土の中にして道裏の均しきを知らざるに非ず、但だ形勝は関内に及ばず、敢えて康ならざるなり。伏して惟うに、陛下が凋弊の俗を化するは、日尚浅し、詎ぞ東巡して以て人心を揺がすべけんや、これ五に不可なり。
臣嘗て隋家の殿を造るを見るに、豫章にて木を伐り、二千人して一材を挽かしめ、鉄を以て轂と為す。行くこと数里ならずして、轂輒ち壞れ、別に数百人をして轂を齎して自ら随わしめ、終日行くこと三十里に及ばず。一材の費や、已に数十万工に及び、其の余を揆うれば知るべし。昔、阿房成りて秦人散じ、章華就きて楚衆離れ、乾陽功を畢えて隋人解體せり。今、民力は隋の日に及ばずして、残創の人を役し、亡国の弊を襲う。臣は陛下の過ち、煬帝に甚だしきを恐る。
帝曰く、「卿、我を煬帝に如かずと謂うは、桀・紂に如何」と。対えて曰く、「若し此の殿卒興すれば、乱に帰するを同じくす。臣聞く、東都始めて平らぎし時、太上皇詔して宮室の過度なる者を焚かしめ、陛下は瓦木の用いる可きを謂い、貧人に賜わんことを請う。事は従わざりしも、天下は盛徳と称せり。今また度を復して之を宮せんとす、是れ隋の役また興らんとす。五六年の間にあらずして、一たび捨て一たび取る、天下何と謂わんや」と。帝、房玄齢を顧みて曰く、「洛陽は朝貢天下の中にあり、朕之を営むは、意四方の百姓を便にせんと欲するなり。今、玄素の言此の如し、後必ず往かしむるに、露坐するも、庸ぞ苦しむことあらんや」と。即ち詔して役を罷め、彩二百匹を賜う。魏征は名だ梗挺たり、玄素の言を聞きて歎じて曰く、「張公の事を論ずる、天を回らすの力有り、仁人の言と謂うべし」と。太子少詹事を歴て、右庶子に遷る。時に太子承乾は遊畋を事とし、学を悦ばず。玄素上書して曰く、
天道は親無く、惟だ徳を輔く。苟も天道に違わば、人神之を棄つ。古者は田に三驅す、殺を教うるに非ず、民の害を除くなり。今反って獵を以て娛と為し、之を行うに常無く、盛徳を損わざらんや。『伝』に曰く、「事古に師せずんば、匪れ説の聞く所なり」と。然らば則ち道を探るは古を学ぶに在り、古を学ぶは師訓に在り。孔穎達は詔を奉じて講勸す、宜しく数たび逮問し、万を裨すべし。賢傑を博選し、朝夕左右に侍らしめ、相い規摩せしむ。日に亡き所を知り、月に能う所を忘れざらしむ、此れ則ち善美なり。
人の上に在る者は常に善を為さんことを求む、然れども性は情に勝たず、耽惑して乱を成す。下に諛言有れば、君道乃ち虧く。古人に云う有り、「悪小なるを以て去らず、善小なるを以て為さずと勿れ」と。禍福の来るは、皆初に根ざす。終わりを護ること始めの若くするも、猶其の替わるを懼る。始めを護らざれば、終わり将に安くにか帰せん。
太子納れず。又上書して曰く、
周公は聖人を資とし、而も沐を握り飧を吐き、白屋に下る。況や周公に下周る人をや。殿下は睿質天に就けり、尚学を以て之を表飾すべし。孔穎達・趙弘智は皆宿徳の巨髦にして、兼ねて政機を識る。望むらくは数たび召見し、古今を述べて、懿明の徳を増さしめよ。彫蟲の小技は、正に間たび召して、博弈に代うべく、屡なるに宜しからず。騎射畋遊、褻戲酣歌は、耳目を悦ばしめ、情靈を移す、以て禦うべからず。夫れ心は万事の主たり、動いて節無ければ則ち乱る。徳を敗るの原、実に此に在り。
帝、数たび財を正して太子に諫むるを知り、頻りに擢でて銀青光禄大夫・行左庶子に至らしむ。
太子久しく賓友を見ず。玄素曰く、「宮中に見る所は婦人に止まり、樊姬等の如き聖徳に益する可き者幾何ぞや知らん。若し之無ければ、即ち便ち詖豔の嬖、何ぞ顧みるに足らんや。上惟だ東宮の重きを以て、高く賢才を署して寮佐と為す。今乃ち進見を得ず、将に何を以て朝に誨を納れ、夕に遺を補わんや」と。太子其の切なるを諱み、夜戸奴を遣わして騎楇を以て狙撃せしむ。危うく死を脱す。嘗て宮中に鼓を撃つを聞き、閤を叩いて正言す。太子鼓を出だし、玄素に対して之を破る。既に悛わず、醜徳日々に聞こゆ。玄素已む能わず、上書して曰く、
孔子曰く、「能く近きを取りて譬うるは、仁の方と謂う可し」と。書伝の載する所或いは過ぎたり。臣請う、近き事を以て之を喩えん。周武帝山東を平らげ、庳宮陋食を以て海内を安んず。而るに太子贇に穢徳有り、烏丸軌以て聞こゆ。帝慈仁にして廃するに忍びず。践祚するに及び、狂暴日々に熾え、宗祀以て亡ぶ。隋文帝の代わる所是れなり。文帝は周の衰に因り、女の資を藉る。人に大功無きといえども、然れども徳を布き恵を行い、上下安んじて頼る。勇太子と為り、驕肆にして度を敗る。今の宮中の山池、殿下の親しく見る所の者なり。当の時、自ら泰山の安き有りと謂えり。詎ぞ壬臣の敢えて其の説を進むるを知らんや。向使ひ動静常有り、進止度有り、君子に親しみ小人を疎んじ、浮華を黜け恭儉を守らば、離間有りと雖も、烏ぞ能く慈父の隙を致さんや。蓋し積徳純ならず、令問著わさず、一たび讒に遭いて、遂に其の禍を成す。
今、上は殿下父子の親しきを以て、故に資用する所を限節せず。然れども詔未だ六旬ならずして、用いること七万を逾ゆ。驕奢藝無く、孰か此に過ぐる者有らん。龍楼・望苑は工匠の肆と為り、既に視膳問安の宜を闕き、又悦学好道の実無し。上は君父慈訓の方に違ひ、下は因縁戮辱の罪有り。施与する所の者は、遊手雑色ならざれば則ち図画彫鏤の人なり。外の瞻仰する所、此の失已に暴なり。内に隠密なる者は、尚お勝ちて計うべけんや。右庶子趙弘智は経明行脩たり。臣謂う、宜しく数たび進召して以て徽美を広むべし。今反って猜嫌し、妄りに相推引すと謂う。善に従うこと流るるが若くするも、尚お逮わざるを恐る。非を飾り諫を拒めば、禍既にせんこと可けんや。
書入る。太子怒り、刺客を遣わして之を伺わしむ。会うに宮廃せらる。玄素坐して名を除かれて民と為る。頃くして、召して潮州刺史を授け、鄧州に徙る。訖るまで復た親近せられず。高宗の時、老を以て致仕す。麟德初年に卒す。
初め、玄素と孫伏伽は隋に在りて皆令史たり。太宗嘗て玄素に宦立の来る所を問う。深く自ら羞汗す。褚遂良、帝に見えて曰く、「君子は人に言を失わず、明主は戯れに言を失わず。故に言えば則ち史之を書し、礼之を成し、楽之を歌う。上に居りて能く其の臣を礼すれば、乃ち力を尽くして以て其の上に奉ず。近世、宋武帝は朝臣を侮靳し、其の門戸を攻め、恥懼狼狽に至る。前史以て非と為す。陛下昨玄素に隋に在りて何の官に任ぜしやと問う。対えて曰く『県尉』と。又尉に未だ為らざる時を問う。曰く『流外』と。又何の曹司ぞと問う。玄素出でて徒歩する能わず、顔此の灰の若く、精爽頓ち尽き、見る者咸共に驚怪す。唐家創業し、官を任ずるに才を以てし、卜祝庸保も量能して並びに用う。陛下玄素を以て三品に擢任し、皇儲を佐けしむ。豈に復た群臣に対して辞窮し恥を負わしめ、其の伏節死義を責めんと欲して、安んぞ得べけんや」と。帝曰く、「朕も亦之を悔ゆ」と。伏伽は広坐と雖も、往事を陳説して、少も隠すこと無し。
賛して曰く、初め唐が天下を有するや、隋の弊を懲り刈り、内に讜言を敷き、而して世長等仇然として忠を献ぐ。時に主方に褒めて聴き、以て天下を勧むるに藉る。禁忌に触るるも、而も忤ふる情無し。禍乱已に平ぎ、君位尊く安んずるに及び、後者は前人の為すを視て、猶ほ鯁論を以て栄を期す。故に時時に斥讓に遭ひ、厭はれ苦しめらる。言に巧拙有るに非ず、遭ふ所の時異なるなり。夫れ性は移すべからざる有り、堯・舜と雖も訓ふる能はざるなり。承乾の悪は、心に根著し、而して玄素に責を帰す、其れ何ぞ救はんや。此れ士亹の辞、太子を傅ふる能はざる、諒なり。