新唐書

巻一百一 列傳第二十六 蕭瑀瑀從子:鈞 瓘子:嵩 嵩子:華 嵩孫:復 華孫:俛 華孫:倣 倣子:廩 復曾孫:遘

蕭瑀

蕭瑀、字は時文、後梁の明帝の子なり。九歳にして新安王に封ぜらる。国除かれ、女兄が隋の晉王妃となれるを以て、故に長安ちょうあんに入る。瑀は経術を愛し、属文を善くす。性鯁急にして、浮華を鄙み遠ざく。嘗て劉孝標の『辯命論』が詭悖にして経に合わざるを以て、乃ち論を著して之を非とし、以爲く、「人は天地を稟けて生まるるを命と謂ふ、至りて吉凶禍福は則ち諸人に繫がる。今一に命に歸すは、先王の人を教ふる所以に非ず」と。通儒の柳顧言・諸葛潙歎じて曰く、「是れ孝標の膏肓を針するに足れり」と。

晉王太子となるや、右千牛を授く。即帝位し、妃后となるに及び、而して瑀は漸く親寵を受け、頻りに尚衣奉禦・檢校左翊衛鷹揚郎將に遷る。末疾を感ずるも、醫を呼ばず、曰く、「天若し吾が餘年を假せば、因りて遁階を爲すを得ん」と。后聞き、責めて謂ひて曰く、「爾は亡國の後小官に安んぜず、而して高く怪語を爲す、罪測るべからず」と。瑀復た疾を治し、良く已む。内史侍郎を拜し、數たび事を言ひて旨に忤ひ、稍く忌まれるを見る。

帝雁門に至り、突厥に圍まれるや、瑀謀りて曰く、「夷の俗、可賀敦兵馬の事に與かる、況んや義成公主は帝女を以て之を爲す。若し一介の使を走らせ鐫喻せば、宜しく戰はずして解くべし。又眾は陛下既に突厥を平げ、方に復た遼東に事ふるを以て、故に怠りて肯へて戰はざるなり。願くは詔を下し高麗を赦し、專ら突厥を討たば、則ち人自ら奮ふべし」と。帝之に從ふ。既にして主詭辭を以て突厥に謂ひ、果たして圍みを解きて去る。然れども帝素より遼を伐たんと意し、又瑀が謀りて其の機を擫めるを銜み、群臣に謂ひて曰く、「突厥何ぞ能く爲さん、瑀未だ解けざる時に乘じて乃ち紿りて我を恐る」と。遂に瑀を出して河池郡守と爲す。部に鈔賊萬人有り、吏制すること能はず、瑀勇敢の士を募りて撃ち降し、悉く貲畜を捐てて有功に賜ふ。又薛舉の眾數萬を撃ち走らす。

高祖こうそ京師に入るや、之を招き、郡を挈きて自ら歸す。光祿大夫を授け、宋國公に封じ、民部尚書を拜す。秦王右元帥を領し、洛陽らくようを攻むるに、瑀をして府司馬を署けしむ。武德元年内史令に遷り、帝樞管を委ね、内外の百務悉く關決せしむ。或ひは引いて御榻に升らしめ、蕭郎と呼ぶ。瑀自ら力を孜孜として、過を抑へ違を繩むるに憚ること無し。便宜を上る毎に見納用せらる。手詔して曰く、「公の言を得るは、社稷の賴む所、朕既に之を寶とす、故に黃金一函を賜ふ、公其れ辭すること勿れ」と。

是の歲、州に七職を置き、秦王雍州牧となり、瑀を以て州都督ととくと爲す。詔嘗て中書に下るも、即に行はれず、帝其の稽るを譲る。瑀曰く、「隋季内史の詔敕多く違舛し、百司承くる所を知らず。今朝廷初めて基づく、以て安危する者は號令に繫がる。比し一詔を承くるに、必ず覆審し、先後謬らざらしめて、始めて下す、此れ其の稽留する所以なり」と。帝曰く、「若し爾らば、朕何をか憂へん」と。初め、瑀關内の田宅悉く勳家に賜ふ、是に至り、還た之を給ふ。瑀盡く以て宗族に分ち、獨り廟室を留めて祠を奉ず。王世充平ぎ、尚書右僕射に進む。七年、熒惑右執法を犯すを以て、位を避くるも、許さず。久しくして左僕射に遷る。

貞觀初、房玄齡・杜如晦新たに君を得、事任稍く分かるるに及び、瑀少なからざる望み無き能はず、罅に乘じて切に詆し、辭旨疏躁なり。太宗怒り、家に廢す。俄に特進・太子少師を拜し、復た左僕射と爲り、實封六百戶。帝瑀に問ひて曰く、「朕社稷を長く保たんと欲す、奈何」と。瑀曰く、「三代天下有する所以能く長久なる者は、類は諸侯を封建して以て籓屏と爲すに在り。秦守令を置き、二世にして絶つ。漢王子弟を分ち、國を享くること四百年。魏・晉之を廢し、亡ぶこと旋跬を待たず。此れ封建の明效有るなり」と。帝之を納れ、始めて封建を議す。陳叔達と忿爭し御前に恭しからざるに坐し、免ぜらる。歲餘り、起きて晉州都督と爲る。入り拜して太常卿となり、御史大夫に遷り、朝政に參預す。瑀諭議明辯なり、然れども人の短を容るる能はず、意或ひは偏駁にして通ぜず、而して法に向かひて深く、房玄齡・魏征・溫彥博頗る之を裁正す。其の言多く黜せらるるに及び、瑀亦不平なり。會ふに玄齡等小過失有るや、瑀即ち痛く劾すれども報ぜず、是に由りて自ら失ひ、罷めて太子少傅と爲り、特進を加へ、復た太常卿と爲る。河南道巡省大使を拜す。九年、復た政事に參預す。

帝嘗て曰く、「武德の季、太上皇廢立の議有り、顧みるに朕賞せざるの功を挾み、昆弟に見容れられず、瑀爾の時に於て利を以て怵し死を懼るるべからず、社稷の臣なり」と。因りて詩を賜ひて曰く、「疾風勁草を知り、版蕩誠臣を識る」と。又曰く、「公は道を守り耿介、古も以て過ぐる無し、然れども善惡太だ明らかなれば、或ひは時に失ふこと有らん」と。瑀頓首して謝して曰く、「既に教へを蒙り、又忠亮を以て許さる、死する日と雖も、猶ほ生くる年なり」と。魏征曰く、「臣逆眾して法を持するも、主之を公を以て恕す;孤特にして節を守るも、主之を介を以て恕す。昔其の言を聞き、乃ち今之を見る。瑀をして陛下に遇はざらしめば、庸ぞ能く自ら保たんや」と。晉王皇太子となるや、太子太保・同中書門下三品を拜す。帝曰く、「三師は、德を以て太子を導く者なり、禮尊ばざれば、則ち取るべき法無し」と。乃ち詔して曰く、「師入り謁すれば、太子門を出で迎へ拜し、師答へ拜す;毎門に、譲りて乃ち入る;師坐して、然る後に坐す;書の前後著名し、惶恐と稱す」と。瑀素より貴しとすれども、但だ中狹し。毎に燕見するに輒ち言ふ、「玄齡輩朋黨して權を盜み、膠の固きが若し、特だ未だ反せざるのみ」と。帝曰く、「臣を知るは君に若くは莫し。朕明らかならずと雖も、甯んぞ頓に臧否懵ならんや」と。因りて瑀に曉解す。瑀は帝偏信有りと爲し、帝積久しくして亦不平なり。瑀浮屠の法を好み、間ひて家を舍てて桑門と爲らんことを請ふ。帝之を許すも、復た奏して自ら度り爲す能はざるを云ひ、又足疾有りて入り謁せず。帝曰く、「瑀豈に其の所を得ざらんや」と。乃ち詔して爵を奪ひ、下りて商州刺史を除す。未だ幾ばくもあらず、其の封を復し、特進を加ふ。卒す、年七十四。遺命して單衣を以て斂り、日を卜さず。詔して司空しくう・荊州都督を贈り、昭陵に陪葬せしむ。太常諡して肅と曰ふ。帝其の性忌なるを以て、諡を改めて貞褊とす。

子銳、襄城公主に尚し、太常少卿と爲る。

瑀從子 鈞

鈞は瑀の從子、才譽有り。永徽中、累りて諫議大夫・弘文館學士に遷る。左武候の屬盧文操堞を跳びて庫財を盜む。高宗其の職主干を以て、自ら盜む罪に當りて死すべしと爲す。鈞曰く、「囚の罪誠に死すべし、然れども天下の聞くを恐る、陛下重く貸し輕く法し、喜怒を任せて人を殺すと謂はんことを」と。帝曰く、「真の諫議なり」と。詔して死を原ふ。太常の工宮人に通じて訊遺す。詔して之を殺し、且つ律に附せんとす。鈞言ふ、「禁ずるには漸有るべし、律に附すと雖も、工死に應ぜず」と。帝曰く、「姬の符を竊むるが如きは、朕以て戒めと爲す、今工の死を濫りせず、然れども忠言を得るを喜ぶ」と。即ち工を宥し、遠裔に徙す。終に太子率更令。

子瓘、渝州長史と爲り、母喪に居り、毀ちて以て卒す。

鈞の兄の子、嗣業。

鈞の兄の子の嗣業は、若くして煬帝の后に従って突厥に入り、貞観九年に帰還した。その虜(突厥)の内情を知ることを以て、詔して突厥の衆を領せしむ。累擢して鴻臚卿に至り、単于都護府長史を兼ねた。調露年中、突厥叛く。嗣業これと戦い、敗績す。高宗責めて曰く、「我薛仁貴・郭待封を殺さざるが故に、爾をして此に至らしむ。然れども爾が門は我家と雅旧有り、故に死を貸す」と。乃ち桂州に流す。

瓘の子、嵩。

嵩は瓘の子なり。貌は偉秀にして、美須髯たり。初め、会稽賀晦の女を娶る。僚婿の陸象先は宰相の子にして、時に洛陽尉たり。既に名有り、士争いて往きて交わる。而るに嵩は汩々として未だ仕えず、人は之を異とせず。夏栄という者は相を善くし、象先に謂ひて曰く、「君後十年、貴くして人臣の冠たり。然れども蕭郎の位高く年艾よわいにして、挙門蕃熾なるに若かず」と。時に人は許さず。

神龍元年、初めて洺州参軍事に調ず。桓彦範刺史たり、異礼を以て待つ。河北黜陟使姜師度、表して判官と為す。開元初、中書舎人に擢でらる。時に崔琳・正丘・齊澣皆名有り、嵩の術学少なきを以て、輩行として許さず。独り姚崇其の遠到なるを称す。宋州刺史を歴て、尚書左丞に遷る。

十四年、兵部尚書を以て朔方節度使を領す。既に軍に赴くに、詔有りて供帳し定鼎門外に餞す。玄宗詩を賦して行を労ふ。会に吐蕃の大将悉諸邏恭祿及び燭龍莽布支瓜州を陥とし、刺史田元献を執る。回紇又涼州守将王君㚟を殺す。河・隴大いに震ふ。帝辺に堪え任ずる者を択び、嵩を徙して河西節度使と為し、涼州事を判せしめ、蘭陵県子を封ず。嵩裴寬・郭虚己・牛仙客を表して幕府に置き、建康軍使張守珪を以て瓜州刺史と為し、陴塢を完樹し、辺人を懐保せしむ。時に悉諸邏恭祿威諸部をのぞみ、吐蕃其の健ぜいを倚りて辺を噬む。嵩乃ち反間を縦ち、疑端を示す。贊普果たして之を誅す。悉末明をして瓜州を攻めしむ。守珪拒むこと甚だ力有り、虜却く。会に鄯州都督張志亮賊を青海西に破る。嵩又副将杜賓客を遣はし強弩四千を率ひて吐蕃と祁連城下に戦はしむ。晨より闘ひて晡に迄り、乃ち大潰し、一将を斬る。虜哭きて山谷を震はす。露布至る。帝大いに悦び、嵩に同中書門下三品を授け、又一子に官し、恩顧第一なり。

十七年、進みて中書令を兼ぬ。張説宰相を罷めてより、令缺くこと四年、嵩之を得たり。然れども常に遥かに河西節度を領す。公に在りて慎密、人其の際を見ること莫し。子衡、新昌公主を尚ふ。嵩の妻入謁す。帝親家と呼び、儀物貴甚だし。俄に徐国公を封ず。

初め、裴光庭と嵩数へて協はず。光庭卒す。帝嵩に相を択ぶことを委ぬ。嵩韓休を推す。休同位に及び、峭正にして相仮らず、帝前において曲直を校するに至る。嵩慚じ、骸骨を乞ふ。帝之を慰めて曰く、「朕未だ卿を厭はず。何ぞんぞ去らんとするや」と。嵩伏して曰く、「臣宰相に待罪し、爵位既に極まれり。幸ひに陛下未だ厭はず、以て身を乞ふことを得。もし臣を厭ふこと有らば、首領且つ保たず、又安んぞ自ら遂げんことを得んや」と。因りて涕を流す。帝為に容を改めて曰く、「卿言切なり。朕未だ能く決せず。ただ帰れ、夕べ当に詔有らん」と。俄に高力士を遣はし詔して嵩に曰く、「朕将に爾を留めんとす。而して君臣の誼始め有りておわる者有るべし」と。乃ち尚書右丞相を授け、休と皆罷む。是の日、荊州黄甘を進む。帝紫帉を以て包みて之に賜ふ。子華を擢で給事中と為す。

久しくして、進みて太子太師と為る。而して幽州節度使張守珪坐し賂を中人牛仙童に遺すことを以て罪を得る。李林甫素より嵩を忌む。因りて言ふ、嵩嘗て城南の墅を以て仙童に遺せりと。青州刺史に貶す。尋いで復た太子太師を拝す。固より老を請ふ。許さる。嵩退き、園区を脩蒔し、優遊自ら怡ぶ。家財にゆたかなり。而して華は工部侍郎たり。衡は主を尚ふことを以て位三品、就養す。年八十を踰え、士其の栄をうらやむ。天宝八載卒す。開府儀同三司を贈る。

嵩の子、華。

華は謹重方雅にして、家法有り、爵を嗣ぐ。天宝末、兵部侍郎と為る。禄山乱れ、賊に陥ち、逼られて魏州を守る。郭子儀相州において安慶緒を攻む。華間道より表を奉り、魏を挙げて応ぜんと欲す。賊の執る所と為る。会に崔光遠魏州を得、械を破りて之を出す。魏人華の庇ひ免るることを徳とし、争ひ来たりて光遠に詣り留まることを乞ふ。詔有りて即ち刺史を授く。思明反す。子儀復た華を失はんことを懼れ、乃ち表して崔光遠を以て之に代へ、而して召して軍中に置く。相州兵潰く。華朝に還る。猶ほ賊に汚れたるを以て試みの秘書少監に降す。稍く遷りて尚書右丞、擢でられて河中晉・絳節度使と為る。上元初、中書侍郎を以て同中書門下平章事と為る。李輔国事を用ふ。宰相を求む。華之を拒む。輔国怨む。会に粛宗大漸す。詔を矯めて華を罷め礼部尚書と為し、元載を引いて以て代ふ。方に代宗諒暗たり。載輔国を助く。華を貶して峽州司馬と為す。卒す。二子:恒・悟。

嵩の孫、復。

復は字は履初、衡の子なり。戚裏に生る。姻従豪汰にして、服禦輿馬を以て相誇る。復は常に垢弊を衣、一室に居り、学自ら力め、名士夙儒に非ざれば与に遊ばず。清操を以て顕る。華毎に歎じて曰く、「此の子当に吾が宗を興すべし」と。主廕を推して宮門郎と為す。広徳中、歳大饑す。家百口、自ら振はず。議りて昭応の墅を鬻がんとす。宰相王縉之を得んと欲し、弟の紘をして説かしめて曰く、「君が才を以て宜しく左右に在るべし。胡ぞ墅を以て丞相に奉りて右職を取らざるや」と。復曰く、「先人の墅を鬻ぎて孀単を済はんとす。吾何ぞ美官を用ひ、門内をして餒え且つ寒からしめんや」と。縉之を憾む。是より廢す。数歳にして、乃ち歴りて歙・池二州刺史と為り、治状条に応ず。遷りて湖南観察使と為る。改めて同州刺史と為る。歳歉あきなり。州に京畿観察使の儲粟有り。復輒ち発して以て人に貸す。有司劾治す。詔して階を削り、刺史を停む。或ひ之を吊ふ。復曰く、「苟も人に利すれば、胡ぞ之を責むるの辞たらんや」と。久しくして乃ち兵部侍郎を拝す。

普王襄漢元帥と為る。復を進めて戸部尚書・統軍長史と為す。旧制「行軍長史」と謂ふ。徳宗復が父の諱を以て之を更む。未だ行かず、狩に扈従して奉天に至る。帝庳隘を悪み、西のかた鳳翔に如きて張鎰に依らんと欲す。復曰く、「鳳翔は乃ち泚の旧兵なり。今泚悖乱す。当に同悪する者有るべし。鎰と雖も、臣免れざらんことを畏る」と。帝曰く、「朕業に行かんとす。一日を留めて以て爾が言を験せん」と。俄にして鎰李楚琳の害する所と為る。是に於て吏部尚書・同中書門下平章事を拝す。

復嘗て言ふ、「艱難以来、始めて宦者を用ひて軍を監せしむ。権望太重なり。是の曹正に宮掖の事を委すべく、兵要政機、すべからく参領せしむべからず」と。帝聴かず。又言ふ、「陛下厥初清明なりしも、楊炎・盧杞より命を妨げ徳を穢はし、播越して茲に及ぶ。今危うきに阽す。当に前敗を懲乂すべし」と。因りて君臣の大端を述べ、即ち自ら言ふ、「若し臣をして阿諛に依りて偷かに免れしめば、敢へて宰相に当たらじ」と。杞対上するに或ひは諂諛阿匼す。復厲言して曰く、「杞の詞正しからず」と。帝色眙おどろき、左右に謂ひて曰く、「復我を慢にす」と。因りて詔して復をして山南・江淮・湖南・嶺南等道宣撫・安慰使を充てしむ。

興元の初め、門下侍郎に進む。初め、淮南の陳少游は李希烈に左附し、一方張鎰の判官韋皋は邠・隴の叛卒を殺し、楚琳に応ぜず。復は再び執政に還り、建言して曰く、「陛下反正し、功臣は既に貴し。ただ善を甄り悪を汰ふこと未だ明らかならず。少游は位将相にして、首めて賊に臣し、皋は名浅き官下に在りて、独り挺挺として忠を抗す。もし皋を以て少游に代へば、則ち天下嘹然として逆順の理を知らん」と。帝之を許す。復出で、中官馬欽緒、宰相劉従一に揖し、耳に附して語る。既にして従一密かに復に諗ひて曰く、「詔有りて公と向ふ所の奏を議せんとす。李勉・盧翰に聞知せしむるを欲せず」と。復曰く、「堯・舜に『僉曰』の言有り。朝廷の大事は尚ほ当に公卿に謀るべし。もし勉等其の人に非ざれば、当に罷め去るべし。既に宰相と曰ひ、而して謀議を独り之を避くる可けんや。今公と此を行ふは或は可なり。第たま恐らくは浸して以て常を生じ、政是よりして敝れん」と。従一以て聞す。帝悦ばず。復疾を辞して政事に上る。之を許す。

弟升、郜国大長公主に尚す。是れ肅宗の女なり。升早く卒す。主は奸蠱の事を以て再び罪を得て廢せられ、諸子悉く醜地に逐はれ、女は皇太子妃と為る。太子離婚を請ふ。帝曩の忮を銜む。故に復是に坐して檢校太子左庶子と為り、饒州に廢居す。貞元四年卒す。年五十七。

復は閥高華を望み、名節を厲め、流俗に通狎せず。及て相と為り、事に臨みて嚴方、数へて帝の意に咈ひ、故に位に居ること亟に解く。然れども性孝友、既に貶せられて晏然、口未だ嘗て累する所を言はず。

復の子湛。湛の子寘、咸通の中宰相に位し、顯功無く、史其の傳を逸す。

華の孫 俛

俛、字は思謙、恒の子なり。貞元の中、進士第に及び、又以て賢良方正の對策異等、右拾遺に拜す。元和六年、召されて翰林學士と為る。凡そ三年、知制誥に進む。會ふに張仲方、李吉甫數へて調發し天下を疲はすを以て、其の諡を訾る。憲宗怒り、仲方を逐ふ。而して俛善を與るに坐し、學士を奪はれ、下りて太僕少卿を除く。皇甫鎛薦めて御史中丞と為す。鎛と令狐楚皆俛を善くす。兩人同に政を輔け、数へて其の善を稱す。故に帝俛を待つこと厚し。徐國公を襲ぐ。穆宗立ち、鎛を逐ふ。以て代ふる所以を議す。楚之を薦む。中書侍郎・同中書門下平章事を授け、門下侍郎に進む。

吐蕃涇州を寇す。兵を調へて邊を護る。帝因ひて問ふ、「兵法に必勝有りや」と。俛曰く、「兵は兇器、聖人已むを得ずして之を用ふ。故に武は玩ぶ可からず。玩べば則ち震ふること無し。夫れ仁を以て不仁を討ち、義を以て不義を討ち、先づ招懷し、後ち掩襲す。故に殺さず厲し、禽さず二毛し、犯さず田稼し、其の人を救ふこと水火を免るるが如くす。此れ必勝の術なり。若し乃ち小を以て忍びずして輕く干戈を任じ、師曲にして敵怨むれば、徒に勝たずのみに非ず、又将に自ら危ふし。是を以て聖王兵に慎む」と。帝其の言を重んず。嘗て詔して俛に王承宗の先銘を撰せしむ。俛奏す、「承宗比へて臣せず、迷ひて後ち復す。臣其の先を稱道するに忍びず。又辭成りて當に餉謝有るべし。之を拒めば、則ち朝廷の撫納の意に非ず。之を受くれば、臣の誼當に取るべからず」と。帝善しとして止む。

令狐楚執政を罷む。西川節度使王播、權幸に賂りて宰相を求む。俛播の纖佞を劾して台宰を汙す可からずとす。帝許さず。自ら罷むるを請ふ。冀くは感寤有らんとす。帝亦省みず。俄に罷められて尚書左僕射と為り、播を用ひて鹽鐵使と為す。後ち卒に相と為る。俛自ら輔政淺しと謂ひ、固より僕射を辭し、吏部尚書に換ふ。又選事を避け、兵部に徙り、病を移して分司を求む。許さず。太子少保を授け、同州刺史と為る。復た少保を以て東都に分司す。

性簡潔、聲利を以て汚しと為し、邪を疾むこと甚だ甚だしく、孤特一概、故に輕く位を去りて藉る所無し。文宗即位し、召して少師を授く。疾を稱して力めて拜せず。乃ち左僕射に還し、致仕を許す。莊恪太子の時、舊德を選び東宮を保輔するを議す。復た少師を以て召す。輒ち上りて制書を還し、堅く辭す。即ち太子太傅に遷し、優詔を以て褒尚す。開成の初め、弟俶楚州刺史と為る。召見す。帝曰く、「俛は先帝の賢宰相なり。筋力未だ衰へず。一來る可し。爾善く朕が意を道へ」と。乃ち詔書並びに絹三百を以て俶に因りて之を致す。俛終に起たず。壽を以て卒す。

母韋、賢明、家を治むること嚴し。俛宰相と雖も、左右に侍すること褐衣の時の如し。喪に居りて哀毀す。既に老ひ、洛に家す。歲時賓客請謝、以て煩はしと為し、乃ち濟源の墅を舍て、自ら山野に放ち、優遊して窮年す。然れども其の位に居ること頗る介謹して法を持し、名器を重んじ、人を用ふるに狹く、每たび吏を除くに、常に稱せざるを憂へ、簡拔すること鮮し。

穆宗の初め、兩河底定す。俛と段文昌國に當り、四方虞無しと謂ひ、遂に大平の事を議し、武は黷す可からずと以為ひ、帝に偃革し文を尚ぶるを勸む。乃ち密詔して天下の鎮兵、十の一、歲限り一たび逃・死するを爲し、補はず。之を銷兵と謂ふ。既にして籍卒逋亡し、生業無く、曹聚して山林の間、盜賊と為る。會ふに硃克融・王廷湊燕・趙に亂る。一日にして悉く之を收用す。朝廷兵を調ふるも克たず。乃ち市人を召募して烏合す。戰へば輒ち北す。遂に復た河朔を失ふ。

贊して曰く、俛銷兵を議す。寧ろ野ならずや。此時に當り、河朔地を挈きて還た天子すと雖も、而して悍卒頑夫開口して食を仰ぐ者は故に在り。彼皆自ら本業に返ること能はざる者なり。又硃克融等長安に客し、餓へ且つ死せんとし、一官を得ず。而して俛未だ以て措置する所無く、便ち兵を去らんと欲し、群臣をして職を失はしむ。一日叫呼し、其の從ふこと市の如し。幽・魏相ひ挺ち、復た賊の淵と為る。豪末を見て輿薪を察せざると謂ふ可し。宰相其の人に非ざれば、禍既にす可けんや。

華の孫 倣

仿、字は思道、悟の子なり。大和の中、進士第に擢でらる。除累して給事中と為る。宣宗力を治め、直言を喜ぶ。嘗て李璲を以て嶺南節度使と為さんとす。使者已に節を賜ふ。而して仿詔書を封還す。帝方に樂を作す。暇有りて使を命ぜず。優工を遣はして趨り出でて之を追はしむ。未だ璲の所に及ばずして還る。後ち封敕の脱誤を以て、法當に罰すべし。侍講學士孔溫裕曰く、「給事中の駁奏は、朝廷の為に得失を論ず。有司の奏事と類せず。罰すべからず」と。詔して可とす。

令狐綯李琢を用ひて安南を經略せしむ。琢暴遝を以て免ぜらる。俄に起きて壽州團練使と為る。仿琢の回ること無きを劾奏す。時に其の直を推す。集賢學士より拜して嶺南節度使と為る。南方珍賄叢夥す。もって門に入れず。家人病み、槁梅を廚に取りて以て劑を和す。仿知り、趣きて市して之を還す。

咸通の初め、左散騎常侍さんきじょうじとなった。懿宗は政事を怠り、仏道を好み、沙門を引き入れて禁中で祈祷の事を行わせ、しばしば仏寺に幸し、広く施しを与えた。蕭倣は諫めて、「天竺の法は愛を断ち滅を取るもので、帝王が慕うべきものではない。今、梵語を書き、仏の音を口にするよりは、誤った賞と濫りな罰を懲らし、災いを振るい福を祈るべきである。況や仏というものは悟りによって得るものであり、形相を求めて得るものではない」と論じた。帝は昏愚で放縱であったが、なおその言を嘉して歎じた。後に官を数度遷り、義成軍節度使に拝された。滑州は河に臨み、累年水害が西北の堤防を損なったので、倣はその流れを遠くに移し、堤防を築いて自らを固め、人々は安んずることができた。兵部尚書として再び度支を判じ、中書侍郎・同中書門下平章事に進んだ。再び司空・蘭陵県侯に遷った。時に天下に盗賊が起こり、宦官が兵権を握り、倣は鯁直で正しいため権力者に近い者に忌まれた。卒す。年八十。

倣の子 廩

子の廩、字は富侯。進士に及第し、尚書郎に遷った。倣が南海を領した時、官を解いて侍しに行った。人となりは謙退して約し、交わりを少なくした。南海には穀紙が多かったので、倣は諸子に命じて残った書物を繕い補わせた。廩は諫めて言った、「州は京師から万里も離れており、書物が完成しても露わに持ち帰ることはできず、必ず囊笥に貯めねばなりません。貪る者がこれを窺えば、薏苡の嫌疑を受けることになりはしないでしょうか」。倣は言った、「善い、私はこのことを考え及ばなかった」。そこで止めた。広明の初め、諫議大夫として制誥を知り、夜行を厳しく禁じて賊の間諜に備えること、太倉の粟を安く売り出して貧民を救済することを請うた。まもなく京兆尹に遷った。田令孜の養子が罪を犯して逃亡し、捕吏を撃ち、獄に繋がれた。救いを請う者が門を叩いたが、廩は受け入れず、杖殺した。内外は畏れ慴した。令孜が黄巢を拒ぐに当たり、廩を糧料使としたが、病気を理由に辞し、賀州司戸参軍事に貶された。襄王が窃かに拠った時、一族を率いて河朔に逃れ、鎮冀節度使王鎧が厚く礼遇した。光化年中、給事中として召されたが、至らず、卒した。

復の曾孫 遘

遘、字は得聖、蕭寘の子。咸通年中、進士第に擢でられ、節度使の幕府に辟召された。朝廷に入り、右拾遺に拝された。韋保衡と同年の進士であったが、遘は姿形が秀麗で雄偉、気性は孤高で峻厳、かつて李德裕の為人を慕った。保衡は才能が劣り、諸儒はこれを軽んじて嘲笑し、あまり相手にせず、ただ遘だけを太尉と呼んだので、保衡は恨んだ。ここにおいて保衡は既に宰相となっており、遘の罪を摘発し、起居舎人から播州司馬に斥けた。三峡の道中、まさに恐れ迫って目を瞑れずにいると、ある人が言うようであった、「公は恐れるな、私が公のために呵御しよう」。遘は悦んで悟った。やがて白帝祠に詣でると、帝の容貌が先ほど見た者に似ていたので、異と感じた。まもなく保衡が死ぬと、礼部員外郎に召された。乾符年中、累進して戸部侍郎・翰林学士承旨となった。

僖宗がしょくに入ると、兵部侍郎として度支を判じ、綿州に至り、同中書門下平章事に拝された。初め、王鐸が貢挙を主たる時に遘を得たが、この時、鐸と並んで位した。鐸は年老いて、かつて入朝して対する時に殿中で躓いた。遘がこれを掖き起こした。帝は喜んで言った、「遘はよく長者に仕え、大臣が和するのは朕の幸いである」。遘は言った、「ただ長者というだけでなく、実は鐸の門生でございます」。帝は笑って言った、「鐸は士を選び、朕は宰相を選ぶ。卿は朕に背かないであろう」。遘は頓首して謝した。帝に従って京師に還り、累進して司空に拝され、楚国公に封ぜられた。

遘は大節を負い、王佐の任を自らに期した。国政を担当すると、風采は峻厳で整然とし、天子はこれを器とした。時に藩鎮は多く盗賊から興り、横暴で制することができず、権力の綱紀は衰え弛んだ。支詳が徐州におり、散騎常侍李損の子凝吉を佐官に引き入れた。牙将時溥が支詳を逐って節度使の位を取ると、溥は饔幹に毒を盛られたが死なず、ある者が凝吉が支詳の仇を討つ者であると讒言したので、溥は怒ってこれを殺した。李損は当時朝廷にいたが、溥はすぐに上言して李損が共謀したとし、併せて誅殺することを請うた。田令孜は溥から金を受け取り、李損を弾劾し、御史の獄に付した。中丞盧渥が罪状を捏造した。御史王華は悪を甚だ嫉み、李損は事情を知らないと上表した。令孜は神策軍の獄に移すことを請うたが、王華は詔に奉じず、奏言して「李損は近臣であり、法に照らして死すべきならば即ち死すべきであるが、ただ宦官の手で辱めを受けるべきではない」と言った。遘は即座に延英殿を叩いて争って言った、「凝吉が冤罪で屠られたことは、既に言うべからざるものがある。李損は子と音信も通じず数期を経ているのに、どうして共謀と言えようか。溥は功を恃んで天子の法を壊し、近臣を糾問しようとし、王室を卑しめ侮り、無将の萌芽がある。今、李損が無罪で誅殺されるならば、禍は臣らに及ぶであろう」。帝は悟り、官を免ずるのみで止めた。この時、令孜は禁軍を掌握し、権勢と寵愛は炙るようであり、公卿はみな付き従い順う者なく、ただ遘だけは少しも屈服しなかった。

後に令孜が安邑の池塩を取って衛軍に与えようとしたので、王重栄が固く争い、重栄を他の鎮に移そうとしたが、詔を受けなかった。令孜は兵を以てこれを討ち、重栄は沙陀を引き入れて王師を拒んだ。王師は敗れ、追われて西に走り、帝は驚き、鳳翔に幸した。諸節度使は共に令孜が事を起こし、大臣を離間したと弾劾した。遘は平素から令孜を憎んでおり、裴澈と計り、共に邠州の朱玫を召した。玫は邠兵五千を起こして奉迎し、沙陀らと連和した。令孜は帝を迫って陳倉に幸させ、夜に出発したので、百官は従うことができなかった。玫は令孜を怒り、また帝が自分の心を諒としないのを恨み、遘に言った、「上は奔播すること六年、中原の人々は賊と戦って肝脳を地に流し、宗廟を回復させた。遺老残民は車馬の音を聞いて涙を流して喜び合った。上はかつてこれを顧みず、諸侯の勤王の功を敕使の寵に帰した。今、奸臣が国のために怨みを産み、我は命を受けて来たのに、返って君を脅す者とされる。群臣の国に報いることは極まり、戦力は尽きた。まだ黄門(宦官)に垂頭して翅を塌せて生きることを求めることができようか。喪君有君、公はこれを図られよ」。遘は言った、「上は天下に背くところはないが、ただ令孜に掣肘され、言う毎に必ず涙を数行流される。陳倉への行幸も、また兵に劫かれたのである。公が誠に王室を憂うる意があれば、宜しく藩に還って表を奉り、天子の国に復することを請うべきであり、策はこれに勝るものはない」。玫は言った、「諸王の中で天下を任せられる才を持つ者は少なくない」。遘は言った、「伊尹・霍光でない者が、禍の首魁となろうとするのは、未だ利あることではない」。玫は退いて言った、「我は一王を選んで帝とし、違う者は斬る。まだ何事があろうか」。そこで嗣襄王煴を立て、遘を召して冊文を作らせたが、遘は苦しく辞し、玫は改めて鄭昌図に委ね、遘をますます恨んだ。長安に還ると、昌図を煴の宰相とし、遘を罷めて太子太保とした。遘は病と称して出仕しなかった。時にその弟の蘧が永楽令であったので、そこに赴いて従った。帝が宮に還ると、宰相孔緯は遘と平素から不和であり、かつて偽朝の臣であったと弾劾し、即座にその在所で賜死させた。実に光啓三年のことであった。

遘が権柄を任されたのは凡そ五年、行いは完く才能あり、世が多難に逢い、剛愎な臣を召して乱を救おうとし、身は偽署に汚され、その死を得ず、人々はこれを哀しんだ。

瑀の曾孫 定

定、字は梅臣、蕭瑀の曾孫。蔭により起家し、陝州参軍事・金城丞となった。事に臨んで清廉で剛直であった。選補黜陟使裴遵慶が判官として表挙し、還って萬年主簿に遷った。左右司郎中を歴任した。元載に憎まれて、外遷して袁・潤など六州刺史となった。大曆年中、有司が天下の刺史の治績を評定した時、定と常州の蕭復・豪州の張鎰が第一となり、桑や稲作を奨励し、賦税を均しくし、流民を招き定着させる業績は、張鎰・蕭復よりも優れていた。戸部侍郎・太常卿に遷った。朱泚が反乱を起こすと、偽って姓名を張誕とし、里中に匿れ、蔣沇と共に賊に汚されなかった。事が平らぐと、太子少師に擢でられた。卒す。年七十七。太子太師を追贈された。

【贊】

贊して言う。梁の蕭氏が江左に興り、実に民に功あり、その終わりに大悪なく、次第に微かになって亡びたので、その余福は後裔に及んだ。蕭瑀から蕭遘に至るまで、凡そ八代宰相、名声と徳行が相望み、唐の盛衰と共にした。世家の盛んなことは、古より未だかつてなかった。