新唐書

巻一百 列傳第二十五 陳叔達 楊恭仁弟:師道 封倫 裴矩 宇文士及 鄭善果 權萬紀族孫:懷恩 閻立德附:閻立本 孫:知微 蔣儼 韋弘機孫:岳子 姜師度 張知謇

陳叔達

陳叔達、字は子聡、陳の宣帝の子なり。少くして義陽王に封ぜられ、丹楊尹・都官尚書を歴任す。隋に入り、久しく試用されず。大業年中、内史舎人を授かり、出でて絳郡通守となる。高祖こうそ西師す、郡を以て命を聴き、丞相府主簿を授けられ、漢東郡公に封ぜらる。温大雅と共に機密を管し、方に禅代の時、書冊誥詔は皆其の筆なり。武徳初、黄門侍郎を授かり、納言を判じ、江国公に封ぜらる。

叔達は明弁にして、容を為すに善く、毎に奏を占むるに、縉紳目を属す。江左の士長安ちょうあんに客し、或は汨滞する者、多く諸朝に薦ぐ。嘗て食を賜はり、蒲萄を得るも挙げず、帝之を問ふ。対へて曰く「臣が母病渴し、求むるも致す能はず、願くは帰りて之を奉らん」と。帝涕を流して曰く「卿に母遺る有りや」と。因りて之を賜ひ、又物百段を賚ふ。貞観初、蕭瑀と殿中に争ひ、忿誶不恭に坐し、官を免ぜらる。未幾、母喪に居り、又疾有り、太宗之を憂ひ、使を遣はして弔者を禁卻せしむ。喪除け、遂州都督ととくと為り、病みて拝せず。頃之、礼部尚書を擢てらる。初め、太子建成等太宗に鬩ぎ間す、帝之に惑ふ。叔達極意救辯す。是に至りて謂ひて曰く「武徳の内難、卿に讜言有り、故に此を以て報ゆ」と。叔達謝して曰く「豈に独り陛下の為のみならんや、乃ち社稷の計なり」と。後閨薄汗漫し、有司の露劾を為す。帝名臣を以て護掩し、散秩を授けて第に帰らしむ。卒す、諡して繆と曰ふ。久しきの後、戸部尚書を贈られ、更に諡して忠と曰ふ。

楊恭仁

楊恭仁は、隋の観王雄の子なり。仁寿年中、累遷して甘州刺史となり、事に臨み苛細ならず、徼人之に安んず。文帝雄に謂ひて曰く「匪特朕人を得、乃ち卿子を教ふるに善し」と。大業初、転じて吏部侍郎と為る。楊玄感叛く、詔して兵を率ひて経略せしむ。玄感と破陵に戦ひ、之を敗る。遂に屈突通と共に追ひて賊を獲る。煬帝召見して曰く「比に賊と戦ふに尤も力を致すと聞く、向は但だ卿の法を奉ずるを知るのみ、而して乃ち勇決此の如きは、朕用て自ら愧づ」と。蘇威曰く「仁者必ず勇有り、殆ど此を謂ふか」と。時に威及び宇文述・裴蘊・裴矩選事を参掌し、皆賕を受けて法に背く。恭仁素より廉正なり、故に之を悪み、出でて河南道大使と為り、寇賊を捕へしむ。譙郡に至り、朱粲に敗られ、江都に奔る。宇文化及しいしいぎゃくし、吏部尚書に署し、化及の為に魏県を守る。元宝蔵執りて京師に送る。高祖素より之を知り、黄門侍郎を授け、観国公に封ず。尋で涼州総管と為る。

恭仁久しく辺に乗じ、種落の情偽に習ひ、心を悉くして綏慰す。葱嶺以東より、皆貢贄を奉ず。就きて納言を加ふ。突厥の頡利衆数万を率ひて其の境に獵す。恭仁機に応じて拒を設け、疑を張り虚幟を屯めて之を示す。頡利懼れて走る。瓜州刺史賀抜行威叛く、朝廷未だ即ち討たず。恭仁趫蕩を募り、倍道して進む。賊其の来るを虞はざれば、遂に二城を克つ。俘はれたる所を縱ちて還し之す。衆感悦し、遂に相与に行威を縛りて降る。召し拝して吏部尚書と為し、中書令を兼ね、涼州諸軍事を検校す。左衛大將軍に遷る。武徳末、雍州牧・揚州大都督府長史を拝す。洛州都督に遷る。太宗労して謂ひて曰く「洛陽らくよう要重なり、朕が子弟少からずと為すも、恐らくは任に非ざらん、故に公に委ぬ」と。

恭仁性沖厚にして、礼を以て自ら閑衛し、未だ嘗て物と忤はず。時人漢の石慶に方ふ。貴きに既にして、勢を以て人に尚ばず、故に誉望益々重し。病み、骸骨を乞ふ。詔して特進を以て第に帰らしむ。卒す、潭州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、諡して孝と曰ふ。

子 思訓

子思訓爵を襲ぐ。顕慶年中、右屯衛将軍を歴任す。高宗に従ひへい州に幸す。右衛大將軍慕容宝節夜に思訓を邀へて乱を謀る。思訓敢へて対へず。宝節懼れ、毒酒を以て進む。思訓死す。妻之を訴ふ。宝節を嶺表に流す。龍門に至り、追ひて之を斬る。乃ち詔して毒を寘くる人を以て其の法を重くす。

思訓の孫睿交、長寧公主に尚し、張易之を誅するにり、実封五百戸を賜はる。神龍中秘書監と為り、絳州別駕に貶せらる。

弟 師道

師道字は景猷、恭仁の弟なり。清警にして才思有り。洛陽に客し、王世充に拘へらる。間を帰して高祖に帰す。上儀同を授けられ、備身左右と為る。桂陽公主に尚し、吏部侍郎を除く。太常卿に改め、安德郡公に封ぜらる。貞観十年、侍中を拝し、朝政に参豫し、親遇隆渥なり。性周謹にして、未だ嘗て禁省の事を語らず。嘗て曰く「吾《孔光伝》を読み、其の余風を想ふ、或は庶幾からんか」と。太宗数へて群臣の才行を訪ふ。師道雖も推進する所有れども、甄品に乏し。久しきの後、中書令に遷る。太子承乾罪を得、詔して長孫無忌等と雑りて其の獄を治む。師道の妻異姓の子趙節、承乾と通謀す。乃ち微かに帝に諷し、之を活かさんと欲す。帝怒り、吏部尚書に罷む。師道貴胄より起り、四海の人物、練悉する所に非ざれば、銓署に至り、専ら勢貴親党を抑へて以て嫌を遠ざく。人を用ふる多く其の才に違ひ、時に称せられず。帝亦曰く「師道資性純淑、自ら過無かるべし、而して実に怯懦、事に更むるに罕なり、緩急其の力を得ず」と。高麗に従征し、中書令を摂す。軍還り、頗る職にふさはず。工部尚書に改め、復た太常卿と為る。

師道草隸に善く、詩を工みす。毎に有名の士と燕集し、歌詠自適す。帝其の詩を見て、為に擿諷嗟賞す。後宴を賜ふ。帝曰く「公毎に酣賞し、筆を捉へ詩を賦すこと、宿構の者の如しと聞く、試みに朕が為に之を為せ」と。師道再拝し、少選して輒ち成る。竄定する所無し。一坐嗟伏す。卒す、吏部尚書・并州都督を贈られ、諡して懿と曰ふ。昭陵に陪葬し、詔して碑を立つるを為す。

子の豫之は、巢王元吉の女壽春縣主を尚う。母の喪に服する間に、永嘉公主と淫乱し、主の婿竇奉節に殺された。

從孫 執柔

執柔は、恭仁の從孫にして、地官尚書を歴任す。武后の母は、即ち恭仁の叔父達の女なり。臨朝に及んで、武承嗣・攸寧相継いで政事を用う。后曰く、「我が家及び外氏より常に一人を宰相とせんと欲す」と。乃ち執柔を以て同中書門下三品と為す。未だ幾ばくもせずして卒す。

弟の執一もまた、張易之を誅するの功を以て河東郡公に封ぜられ、累官して右金吾衛大將軍に至る。

初め、雄は隋に在りて、同姓を以て貴し。武德の後より、恭仁兄弟の名位益々盛ん。又武后の外家として尊寵せられ、凡そ主を尚う者三人、女王妃と為る者五人、皇后を贈る者一人、三品以上二十余人。

封倫

封倫、字は德彝、字を以て顕る。觀州蓚の人なり。祖は隆、北齊の太子太保。倫年方に少なきに、舅の盧思道曰く、「是の兒は識略人に過ぎ、自ら卿相に致すべし」と。隋の開皇末、江南乱れ、内史令楊素之を討つ。倫を行軍記室に署す。海上に泊す。素召して事を計る。倫水に墜ち、免る。衣を易えて見え、終に言わず。久しくして素知り、故を問う。謝して曰く、「私事なり、敢えて白せず」と。素其の為す所を異とし、從妹を以て妻とす。素仁壽宮を営み、表して土工監と為し、規構鴻侈なり。宮成る。文帝怒りて曰く、「素百姓の力を殫くし、吾が為に天下に怨を掊つ」と。素大いに懼る。倫曰く、「恐るる毋れ、皇后至らば、自ら免るべし」と。明日、帝果た素を労して曰く、「公吾が夫婦の老い、自ら娯楽するに無きを知り、而して此の宮を盛飾するか」と。因りて大いに悦ぶ。素退きて問う、「何を以てか料りて知る」と。倫曰く、「上は節儉なり、故に始め見て必ず怒る。然れども雅に后の言を聴く。后は婦人、惟だ侈麗を好む。后悦べば、則ち帝安し」と。素曰く、「吾及ばず」と。素才勢を負い、多く凌藉す。惟だ倫に於いては礼を降して賞接し、或いは天下の事を論じ、袞袞として倦まず。毎度其の床を撫でて曰く、「封郎終に当に此れに拠るべし」と。之を帝に薦め、内史舍人に擢る。

虞世基煬帝の寵を得るも、然れども吏事に悉からず、処するに宜しきを失う。倫陰に裁畫を為し、内には諂って主意を承け、百官の章奏若し旨に忤えば、則ち寝て聞かず。外には峻文を以て天下を繩し、功有りて賞すべくば、輒ち抑えて行わず。是に由りて世基の寵日隆く、而して隋の政日く壞る。宇文化及乱を為し、帝を奉じて宮を出だし、倫をして帝の罪を数えしむ。帝曰く、「卿は士人なり、何ぞ是に至る」と。倫羞縮して去る。化及之を内史令に署し、聊城に従いて至る。化及の敗るるを知り、乃ち士及と結び、出でて餉道を護ることを得。化及死す。遂に士及と来降す。高祖其の諧附して逆党に附するを知り、方に切に譲り、舎に就かしむ。倫秘策を以て帝に干る。帝悦び、更に内史舍人を拝す。侍郎に遷り内史令を兼ぬ。

秦王王世充を討つ。命じて倫参謀軍事と為す。時に兵久しく決せず、帝師を班せんと欲す。王倫を遣わし西に見えしめて帝に曰わしむ、「賊地多くと雖も、羈縻して相使いず、命を用いる者は洛陽のみ。計窮まり力屈し、死は旦暮に在り。今解けて西せば、則ち賊勢磐結し、後図り難し」と。帝之を納る。賊平る。帝侍臣に謂いて曰く、「始め東討を議する時、多く沮解する者あり。唯だ秦王必ず克つと謂い、倫其の行を賛す。張華の晉武に策を葉うるも、亦何を以てか是に加えん」と。平原縣公に封じ、天策府司馬を判ず。初め、竇建德洛を援く。王将に虎牢に趣かんとす。倫と蕭瑀諫めて不可とす。是に至りて入りて賀す。王笑いて曰く、「公の言を用いず、今日幸いに捷てり。豈に智者千慮或いは失う有らんや」と。倫謝して素より及ばず。頃くして、突厥太原を寇す。且つ使を遣わし和親せんとす。帝計を問う。群臣咸く請う、之を許すべくして戦を紓うべしと。倫曰く、「然らず。彼は中国を軽んずるの心有り、我戦う能わずと謂う。若し其の怠るに乗じて之を撃たば、勢必ず勝つ。勝ちて後に和すれば、威徳両全なり。今戦わずと雖も、後必ず復た来らん。臣之を撃つの便りと為す」と。詔して可とす。尋いで吏部尚書を検校し、趙国公に進封し、密国に徙る。

太宗立ち、尚書右僕射を拝し、実封六百戸。初め、倫の帰するや、蕭瑀数え之を薦む。是に及び、瑀左僕射と為る。毎に事を議するに、倫初めは堅定なり、帝の前に至りては輒ち変易す。是に由りて隙有り。貞観元年、疾に遘い、尚書省に臥す。帝親ら臨み視、尚輦を命じて第に送り還す。卒す。年六十。司空しくうを贈り、諡して明と曰う。

倫資性険佞にして内に狹く、数え人主の意を刺し、陰に導きて陽に之に合す。外は謹順にして、居処衣服陋素なりと雖も、宮府に交わり、賄贈狼藉たり。然れども善く矯飾し、之に居るに自ら如く、人其の膺肺を探ること能わず。隠・刺の乱、数え忠策を進む。太宗以て誠と為し、横賜累万。又密かに高祖に言いて曰く、「秦王功に恃み、太子の下に頡頏す。若し早く立たずんば、則ち亟に之を図れ」と。情を太子に白して曰く、「四海の為に其の親を顧みず、羹を乞う者は何を謂う」と。高祖の廃立を議するに及び、倫固く諫めて止む。当時の語秘にして知る者無し。卒後、事漸く聞ゆ。十七年、治書侍御史唐臨追って奸状を劾す。帝其の議を百官に下す。民部尚書唐儉等議す、「倫寵生前に極まり、而して罪身後に暴る。歴任の官尽く奪うべからず。請う贈りを還し諡を改め、以て憸壬を懲らしめん」と。詔有りて司空を奪い、食封を削り、諡を改めて繆と為す。

子の言道は、淮南長公主を尚い、官宋州刺史に至る。

裴矩

裴矩、字は弘大、絳州聞喜の人なり。父は訥之、齊の太子舍人と為る。矩乳に在りて孤と為り、長じて学を好み、文藻智数有り。再び補せられて高平王文学と為る。齊亡び、調うるを得ず。隋の高祖定州総管と為り、召し補して記室と為し、母憂に以て職を去る。高祖既に禅を受け、給事郎に遷り、舍人の事を奏す。帝陳を伐つ。元帥記室と為る。江左平る。詔して矩をして嶺南を巡撫せしむ。未だ行かずして、高智慧等乱れ、道通ぜず。帝其の遣わすを難しむ。矩速かに進まんことを請う。之を許す。南康に次ぐ。兵数千人を得。是の時、俚帥王仲宣廣州に逼る。別将を遣わし東衡州を囲む。矩将軍鹿願と之に赴く。賊九壁を立て、大庾嶺に屯す。矩進みて撃ち、之を破る。賊懼れ、東衡州の囲みを解き、願長嶺に拠る。又之を撃ち破り、其の帥を斬る。南海より廣州に趣く。仲宣懼れ、潰えて去る。二十餘州を綏集し、制を承りて渠帥を刺史・縣令に署す。還りて報ず。帝大いに悦び、詔して殿を升らしめて之を労苦す。開府を拝し、聞喜縣公に爵し、賜賚異等。累遷して内史侍郎に至る。時に突厥強盛なり。都藍と突利難を構え、屢え塞を犯す。詔して太平公史萬歳を行軍総管と為し、定襄道より出で、矩を以て長史と為す。達頭可汗を破るも、而して萬歳誅せられ、矩の功録せられず。還りて尚書左丞と為り、吏部侍郎に遷り、名職に称す。

煬帝の時、西域諸国は悉く張掖に至り交易し、帝は裴矩に命じてこれを監督させた。矩は帝が遠方経略に熱心であることを知り、諸商胡に国俗・山川の険易を訪ね、『西域図記』三篇を撰し、合わせて四十四国を収め、凡そ三道に分けた。北道は伊吾より起こり、蒲類・鉄勒・突厥可汗廷を経て、北流河を乱して拂菻に至る。中道は高昌・焉耆・亀茲・疏勒より起こり、葱嶺を逾え、拔汗那・蘇対沙那・康・曹・何・大小安・穆諸国を経て、波斯に至る。南道は鄯善・于闐・硃俱波・喝般陀より起こり、また葱嶺を度り、護密・吐火羅・挹怛・忛延・漕国を渉り、北婆羅門に至る。皆、西海に終わる。諸国もまた自ら空道ありて交通す。既に還り、これを奏上した。帝は矩を内に引き入れ、西方の事を問うと、矩は盛んに言う、「胡には瑰怪なる名宝多く、俗は土着にして、併呑し易し」と。帝はこれによりて四夷を甘心し、矩に経略を委ねた。再び遷りて黄門侍郎となり、朝政に参豫した。

大業三年、帝が恒山に事有り、西方より助祭に来たる者十余国。矩は人を遣わして高昌・伊吾等を説き、厚利を啗ませて、入朝させた。帝が西巡して燕支山に至ると、高昌等二十七国が道左に謁し、皆に金玉を佩かせ、錦罽を服させ、楽を奏し歌舞せしめ、士女に盛飾させて縦観させ、数十里に亙り、中国の強富を示した。後に遂に吐谷渾を破り、地を数千里拓き、兵を遣わして出戍し、歳に委輸すること巨億万計に及んだ。帝は矩に綏懐の略ありと謂い、銀青光禄大夫に擢げた。帝が東都に在りし時、矩は蛮夷の朝貢踵を接して至るを以て、帝を諷して天下の奇倡怪伎を悉く召し、端門前に大いに陳べさせ、錦縠を曳き、金琲を珥する者十余万、百官都人は繒楼幔閣を列ねて道を夾ち、被服は光麗たり。廛邸は皆供帳し、池は酒、林は皪たり。訳長は蛮夷を縦して民と貿易せしめ、所在に令して飲食を邀え、相いに娯楽せしむ。蛮夷は嗟咨し、中国を「仙晨帝所」と謂う。天子は誠なりと以為い、宇文述・牛弘に謂いて曰く、「矩の建白する所は、皆朕の志なり、要は未だ発せざるに、矩は輒ち先んじて聞く、心を悉くして国に奉ぜずんば、誰か是くの如くせんや」と。また伊吾城を助け、処羅を脅して入朝せしむ。帝は益々喜び、貂裘・西胡の珍器を賜う。帝に従い塞北を巡り、啓民の帳に幸す。時に高麗は使を遣わして先ず突厥に在り、啓民は引いて帝に見えしむ。矩は因りて奏言す、「高麗は本孤竹国なり、周は以て箕子を封じ、漢は三郡に分つ、今乃ち臣せず、先帝これを疾み、討たんと欲すること久し。方今陛下の時に当たりて、安んぞ事とせざらんや。今その使、突厥に朝し、啓民に見及ぶに、挙国臣服す。脅して入朝を令すれば、致す可し。請う、面してその使に詔し、帰りて王に語らしめよ、もし旅拒する有らば、方に突厥を率いてこれを誅せん」と。帝これを納る。高麗は命を聴かず、遼征はここより始まる。王師再び遼に臨むに、皆従い、労を以て右光禄大夫を加う。時に綱紀汩振し、宇文述・虞世基事を用い、官は賄に遷るも、唯矩は節を挺て穢声無く、世は頗るこれを称す。

矩は始畢可汗の衆漸く盛んなるを以て、建てて宗女を叱吉設に嫁し、南面可汗に建て、その勢を分かつことを請う。叱吉は敢えて受けず。始畢これを聞き、稍く怨望す。矩また言う、「突厥は淳陋にして、離間し易し、但だ内に群胡多くこれを教導す。臣聞く、史しょく胡悉は尤も謀有り、始畢に幸いす、請うこれを殺せ」と。帝曰く、「善し」と。矩は因りて詭計を以て胡悉を召し賜を受けしめ、馬邑の下に斬り、始畢に報じて曰く、「史蜀胡悉、可汗に背く、我の共に悪む所なり、今既にこれを誅せり」と。始畢状を知り、これによりて朝せず。後に帝北巡す、始畢騎十万を率いて帝を雁門に囲む。詔して矩と虞世基に朝堂に宿し顧問を待たしむ。囲み解け、江都宮に幸すに従う。時に盗賊蜂の如く結び、郡県の上奏計う可からず、矩は帝に言う。帝怒り、京師に詣らしめ、疾を以て解く。俄にして高祖関に入る、帝は虞世基に命じて方略を問わしむ、矩曰く、「唯願わくは陛下亟に西せられんことを、天下定まれり」と。

矩は性勤謹にして、未だ物に忤わず、天下方に乱るるを見て、その士を待遇すること尤も厚く、雖も廝役も皆その歓を得たり。是の時、衛兵数えて逃去す、帝これを憂い、以て矩に問う。矩曰く、「今乗輿淹狩すること已に二年、諸ぎょう果は皆家無く、人匹合無くんば、則ち久しく安からず、臣請う皆室を納るるを聴せん」と。帝笑いて曰く、「公定めて多智なり」と。因りて詔し矩に尽く江都の女子・孀家を召し、将士の欲する所に恣にせしめ、即ちこれに配せしむ。人情翕然として相悦び、曰く、「裴公の恵なり」と。宇文化及乱を為し、衆矩を劫う。賊皆曰く、「裴黄門は関与せず」と。既にして衆は秦王子浩を以て帝と為し、詔して矩を侍内と為し、随いて北す。化及位を僭し、矩を署して尚書右僕射と為し、河北道安撫大使と為す。また竇建德に獲らる、建德は矩を隋の旧臣と為し、これを遇すること厚し。建德は群盗より起こり、君臣の制度有らず、矩は為に略に朝儀を制し、閲月せずして、憲章王者に擬す、建德これを尊礼す。建德敗れ、来朝し、擢て殿中侍御史と為し、爵は安邑県公。累遷して太子詹事・検校侍中。時に突厥数えて辺を盗み、高祖は使を遣わして西突厥と連和を約し、突厥は因りて婚を請う。帝曰く、「彼の勢は我と絶え、緩急用を為さず、奈何」と。矩曰く、「然りと雖も北虜方に熾んず、歳に辺を苦しむ、若し権に順いて許し、以て外援を示し、我の完実を須ちて更にこれを議せん」と。帝その計を然りとす。隠太子敗れ、余党宮城を保ち解かず。秦王は矩を遣わしてこれを諭す、乃ち命を聴く。遷りて民部尚書。

太宗即位し、貪吏を疾み、痛くこれを懲乂せんと欲し、乃ち間いて人を遣わして諸曹に遺わす。一の史が饋縑を受けしを、帝怒り、詔してこれを殺さしむ。矩曰く、「吏賕を受くるは、死固より宜し。然れども陛下計を以てこれを紿い、因りて即ち法を行わしむるは、所謂人を罔して罪にせしむるなり、これを道うに徳の誼を以てするに非ず」と。帝悦び、群臣の為にこれを言い、曰く、「矩遂に能く廷争し、面従せず、物物此の若くせば、天下治まらざること有らんや」と。年八十、精明にして忘れず、故事を多く識り、時に重んぜらる。貞観元年卒す、贈りて絳州刺史、諡して敬と曰う。

宇文士及

宇文士及、字は仁人、京兆長安の人。父は述、隋の右衛大将軍と為る。開皇末、述の勲を以て新城県公に封ぜらる。文帝これを臥内に引入れ、語らう、これを奇とす。詔して煬帝の女南陽公主に尚せしめ、尚輦奉禦と為り、江都に幸すに従う。父の喪に免じ、起きて鴻臚少卿と為る。その兄化及謀りて逆を弑せんとす、主婿を以てこれを忌み、告げず。已に帝を弑し、乃ち蜀王に封ず。

初め、士及は奉禦となり、高祖は殿中少監に任ぜられ、互いに親しく交わった。化及に従って黎陽に至った時、帝は手書を以て彼を召した。士及もまた家童を遣わし、間道を走って長安に至り、誠意を伝え、且つ金鐶を献じた。帝は喜んで曰く、「我は嘗て士及と共に事に当たりしが、今これを献ずるは、是れ将に来らんとするなり。」化及の兵勢日々に逼迫し、士及は帰順を勧めたが、従わず、乃ち封倫と共に詭計を用いて糧秣の監督を求めた。やがて化及は敗れ、ここに於いて済北の豪傑は謀りて斉の兵を起こし竇建徳を撃ちて河北を収めんとし、形勢を観たが、士及は受け入れず、倫らと共に自ら帰順した。帝はこれを責めて曰く、「汝兄弟は思帰の人を率いて関に入る計を為し、爾が時を得ば、我が父子、尚お肯て相仮せんや?今何れの地を以て自ら処せんと欲するか?」士及は謝して曰く、「臣の罪は死に当たれり、但だ臣が往時涿郡に在りし時、嘗て陛下と夜を徹して世事を論じ、近頃又た献ずる所のものを奉りしは、冀くは是れを以て罪を贖わんとす。」帝は笑って裴寂に謂いて曰く、「彼は我と天下の事を論じ、今に逮ぶこと六七年、公等は皆その後に在り。」時に士及の妹は昭儀となり、寵愛を受け、これにより親礼を受け、上儀同に授けられた。秦王に従い宋金剛を平らげ、功を録し、隋の旧封を復し、宗室の女を以て妻とし、王府驃騎将軍に遷った。王世充等の討伐に従い、爵を進めて郢国公となった。武徳八年、権検校侍中、兼ねて太子詹事を務めた。王が即位すると、中書令に拝され、真に益州七百戸を食み、本官を以て涼州都督を検校した。時に突厥は数度入寇し、士及は威を立てて辺境を鎮め耀わさんと欲し、出入の度毎に、盛大に兵衛を陳べ、又た痛く節を折りて士に下った。或る者がその謀反を告げたが、訊問して証拠なく、召されて殿中監となり、病を以て蒲州刺史に改められた。政は寛簡を尚び、人皆これを宜しとした。右衛大将軍に抜擢された。太宗は閤に延いて語り、或いは夜分に出で、休沐に遇えば、往々馳せて召した。士及は益々自ら謹み、その妻嘗て急ぎて召される事を問うたが、士及は終に対さなかった。帝嘗て禁中の樹を賞玩して曰く、「此れ嘉木なり!」士及は傍らより美しく歎賞した。帝は正色して曰く、「魏徴は常に我に佞人を遠ざけよと勧む、佞人誰なるかを識らず、乃ち今信ずるなり。」謝して曰く、「南衙の群臣は面折廷争し、陛下は挙手するを得ず。今臣幸いに左右に在り、少しくも将順せざれば、貴きと雖も天子たりとも、亦何をか聊かせん?」帝の意解けた。又た嘗て肉を割き、餅を以て手を拭うと、帝は屡々目を注ぎ、陽に省らざるが如くし、徐にこれを啗った。その機知と悟りは率ね此の類いであった。後に雅き旧誼により、別に一子を新城県公に封じた。久しくして、復た殿中監となった。卒し、左衛大将軍・涼州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。士及は幼弟を撫で、孤き兄の子を養い、友睦を以て称された。親戚故人を周恤するを好んだが、然しながら自らの奉養に過ぎ、服玩食飲は必ず極めて豊侈であった。有司は諡して恭と曰うたが、黄門侍郎劉洎曰く、「士及は居家侈肆にして、恭と謂うべからず。」乃ち改めて縱と曰うた。

贊に曰く、封倫・裴矩、その奸は以て隋を亡ぼすに足り、その知は反って以て唐を佐く、何ぞや?惟だ奸人多才能にして、時に与って成敗を為すなり。妖禽孽狐、昼に当たれば則ち伏して自ら如く、夜を得て乃ち之が祥を為す。若し倫の偽行匿情、死して乃ち暴に聞こゆるは、両観の誅を免るる、幸いなり。太宗は士及の佞を知り、游言を為して自ら解くも、亦た斥くる能わず。彼の中材の主、惑わされざるを佞に求めんは、難きかな!

鄭善果

鄭善果は、鄭州滎沢の人である。祖父は魏において顕家であった。父誠は、周の大将軍・開封県公となり、尉遅迥を討ち、戦死した。善果は九歳にして、死事の子として爵を襲い、家人はその幼さの故に告げず、詔を受けるに及び、号哭して自ら勝えなかった。隋の開皇初め、進めて武徳郡公に封ぜられた。十四歳にして、沂州刺史となった。累転して魯郡太守となった。

善果の母崔氏は、賢明にして政治に通暁し、嘗て閤内に坐して善果の処決を聴き、或いは理に当たれば則ち悦び、不可あれば則ち引きて床下に至らしめ、責めて愧じしめた。故に善果の至る所績あり、清吏と号された。嘗て武威太守樊子蓋と考課されて天下第一となり、煬帝は物千段・黄金百両を賜うた。再び遷って大理卿となった。突厥が帝を雁門に囲んだ時、守禦の功により右光禄大夫に拝された。江都に幸すに従った。宇文化及が弑逆し、民部尚書に署し、聊城に至るに従った。淮安王神通がこれを攻め、善果は督戦し、流矢に中った。神通は解いた。やがて竇建徳に獲られ、王琮これを譲って曰く、「公は隋の大臣、自尊夫人亡きより、名称衰う。今忠臣の子を以て逆賊に徇命して傷夷に至る、何と謂うか?」善果慚じ、自殺せんと欲したが、或る者これを止め、死なずに済んだ。建徳はこれを礼せず、乃ち神通に帰した。京師に送られ、太子左庶子に抜擢され、更に滎陽けいよう郡公に封ぜられた。数度太子に得失を陳べた。未だ幾ばくもなく、検校大理卿、兼ねて民部尚書となった。法を奉じ正を持ち、風績は公卿の間に顕著であった。詔して裴寂等十人と毎に奏事する若しくは侍するに殿に升ることを得、而して従父兄の元璹も亦た与り、時に以て栄と為した。事に坐して免ぜられた。会に山東平らぎ、節を持ちて招撫大使と為った。選挙の実を失うを以て除名された。後に歴て刑部尚書となった。貞観初め、出でて岐州刺史となり、累を以て去った。復た拝されて江州刺史となり、卒した。

元璹は、字は徳芳、隋のはい国公鄭訳の子である。性察慧にして、文芸を愛尚した。父の功により儀同に拝され、爵を襲った。累遷して右衛将軍となり、更に莘国公に封ぜられた。大業末、出でて文城郡守となった。高祖の兵興り、将張綸を遣わして西に地を略し、その城を攻め抜き、縛して軍門に致すと、これを釈し、太常卿を授けた。襄武王李琛と共に突厥に使いし、還って参旗将軍となった。元璹は軍旅の事に習熟し、帝は諸屯の軍法を教えしむることを令した。劉武周の将宋金剛が突厥の処羅可汗と犄角して汾・晋を寇すと、元璹は諭して可汗の兵を罷めしめんとしたが、聴かず、乃ち進んで武周の援けとなった。会に暴疾に罹り、その下は元璹が毒を置きたるを疑い、これを囚えた。処羅死し、頡利立ち、帳中に数年留め置かれた。帝が可汗の婚を許すに及び、元璹始めて還るを得た。帝は労って曰く、「卿虜に辱しめられず、蘇武・張騫に輩すべし。」鴻臚卿に拝され、母喪により免ぜられた。

会に突厥が精騎数十万を提げ、身自ら将って太原を攻めんとす、詔して即ち苫次より元璹を起して節を持ち往きて労す。既に至るや、虜は信ぜざるを以て中国を咎むると、元璹は語に随いて折譲し、屈する所なく、徐に乃ちその背約を数え、突厥愧服した。因りて好く頡利に謂いて曰く、「突厥唐の地を得るも用うる所無く、唐突厥を得るも臣として使うべからず、両つながら用いられずして相攻伐す、何ぞや?今財資を掠め、人口を劫うは、皆人の部に入り、可汗一も得ること無し。豈に旗を僕し好を接するに若かんや、則ち金玉重幣一に可汗に帰せん。且つ唐天下有り、可汗と約して兄弟と為り、駅をして道に箠を銜ましむ、今坐してその利を受けて肯てせず、乃ち徳を蔑み怨を貽し、自ら労苦を取る、若何?」頡利その言に当たり、引き還った。太宗は書を賜いて曰く、「公の口伐を知る、可汗約の如く、遂に辺火燧を息ましむ、朕何ぞ金石を公に賜うを惜しまんや!」貞観三年、復た突厥に使いし、還りて言う、「夷狄は馬羊を以て盛衰に准う、今突厥六畜蕃えず、人の色菜の若く、牙内の飯粟血と化す、三年を経ずして必ず亡ぶ。」幾ばくもなく、突厥果たして敗れた。後に転じて左武侯大将軍となり、事に坐して免ぜられた。起きて宜州刺史となり、老を以て致仕した。卒し、幽州刺史を贈られ、諡して簡と曰うた。

元璹は幹事にして敏捷、赴任する所常に誉れ有り。五度聘問絶域、危険に陥っても脱せず、終に自ら弁解せず。然れども継母に仕えて謹まざるを訳事し、隋の文帝嘗て『孝経』を賜いて愧じて勖めしむ。元璹に至っても亦た孝を以て聞こえず、士その行いを醜しむ。従孫の杲、武后の世に知名、終に天官侍郎に至る。

権万紀

権万紀、その先は天水より出で、後に京兆に徙り、万年の人となる。父の琢玠、隋の匡州刺史、愨願を以て聞こゆ。万紀は悻直廉約、潮州刺史より抜擢せられ治書侍御史となる。尚書右僕射の房玄齢・侍中の王珪は内外の官の考課を掌る。万紀はその不平を劾す。太宗状を按ずるに、珪は伏せず。魏征奏して言う、「房玄齢等は皆大臣、考課する所に私あり。万紀は考課の堂に在りて訂正せず、今にして弾発するは、誠心国を為す者に非ず」と。帝乃ちこれを措く。然れども貴近に阿らざるを以て、これより奨礼す。万紀また建言す、「宇文智及は隋の恩を受け、賊として其の君を殺す。万世共に棄つる所なり。今その子乃ち千牛に任ず。斥屏して不軌を懲らしむるを請う」と。帝これに従う。万紀と侍御史の李仁発は既に言を以て進み、頗る掉罄して自ら肆にし、衆情懍懍たり。征奏す、「万紀等は大體を暗くし、詆訐弾射皆実せず。陛下その一切を収めしむるに、遂に敢えて下に附き上を罔い、強直の名を釣り、聖明を迷奪し、小を以て大に謀り、群下心を離す。玄齢等の如きも且つ申すを得ず、況んや疏賤の臣をや」と。帝悟り、万紀を散騎常侍さんきじょうじに徙し、仁発を免ず。数年、復た万紀を召して持書御史と為し、即ち奏言す、「宣・饒の部中に山を鑿ち銀を冶す可し。歳に数百万を取る」と。帝譲りて曰く、「天子の乏する所は、嘉謀善政下に益有る者なり。公は賢を推し善を進めず、乃ち利を以て我に規し、我を方せんと欲するか漢の桓・霊に」と。斥して還第せしむ。

久しくして、御史中丞より尚書左丞に進み、出でて西韓州刺史となる。吳王の長史に徙す。王その直を畏れ、善く遇う。斉王の祐は法を奉ぜず。帝素より万紀の能く吳王を左右するを奇とす。乃ち祐の長史に徙す。祐は群小に暱比す。万紀驟に諫むるも入らず、即ち過失を条して以て聞かしむ。帝劉德威を遣わして按問せしむ。因りて祐を召して朝に入らしむ。祐恐れ、寵愛する燕弘亮と謀りて之を殺さんとす。而して万紀は先に道を引く。祐弘亮を遣わし彀騎を馳せて追撃せしめ、首を斬り、支體を殊にし、圊中に投ず。又た典軍の韋文振を殺す。文振は本より校尉こういとして帝に従い征伐し、質謹を以て自ら将とす。帝して祐に事えしめ、廐馬を典す。切に諫むるも納れられず、輒ち万紀に見えて之を道う。故に祐内に嘗て忿疾す。万紀死す。文振懼れ、馳せ去る。追騎之を獲る。祐平ぐ。万紀に贈りて斉州都督・武都郡公、二千戸を食む。諡して敢と曰う。文振は左武衛将軍・襄陽県公、千戸を食む。

万紀の子玄初、高宗の時に兵部侍郎。

族孫 懐恩

懐恩は万紀の族孫。祖の弘寿、隋の臨汾司倉書佐たり。高祖京師を平ぐるに、擢て太僕卿・盧国公と為し、卒し、諡して恭と曰う。故に懐恩は廕を以て累遷して尚乗奉禦となり、爵を襲ぐ。馭人の安畢羅は高宗の寵する所となり、帝に見え、戯慢にして恭しからず。懐恩奏事す。適に之を見る。退きて杖四十。帝嗟賞して曰く、「良吏なり」と。擢て万年令と為す。賞罰明らかにして、悪を見れば輒ち取る。時に語りて曰く、「寧ろ三斗の塵を飲むとも、権懐恩に逢うこと無かれ」と。その姿状沈毅、毎に盛服すれば、妻子敢えて仰ぎ視ること無し。更めて慶・萊・衛・邢・宋の五州刺史、洛州長史。居る所威名赫然たり。吏重足して立つ。嘗て汴州を過ぐ。時に刺史の楊德幹も亦た厳を以て称せられ、懐恩と名相埒り。汴橋新たに成る。木を中途に立て、過ぐる車を止む。懐恩適に之を過ぐ。德幹に示して曰く、「民は止む可からざるか、焉んぞ此を用いん」と。德幹慚服す。遷りて益州大都督府長史、卒す。

従子の楚璧、左領軍衛兵曹参そうしん軍たり。玄宗東都に在り。楚璧乃ち李迥秀の子の齊損・陳倉尉の盧玢・左屯営長上の折衝の周履済等と謀反し、兄の子の梁山を詐りて襄王の子と為し、号して光帝とす。営兵百余を擁して夜に官城に入り、留守の王志愔を劫わんと欲すも、克たず。遅明、兵楚璧等を斬り、首を東都に伝え、その家を籍す。

閻立德

閻譲、字は立德、字を以て行わる。京兆万年の人。父の毘、隋の殿内少監たり。本より工芸を以て進む。故に立德と弟の立本は皆機巧思有り。武徳初、秦王府士曹参軍と為り、東都平定に従う。遷りて尚衣奉禦、袞冕六服・腰輿・傘扇を制す。咸に典法有り。貞観初、将作少匠・大安県男を歴る。献陵を護治し、大匠を拝す。文徳皇后崩ず。司空を摂し、昭陵を営む。職を弛するに坐して免ぜらる。起きて博州刺史と為る。太宗洛陽に幸す。詔して立德に爽塏を按じ離宮を建てて清暑せしむ。乃ち汝州西山の地を度り、汝水を控え、広成沢を睨み、号して襄城宮とす。役凡そ百余万。宮成る。煩燠にして居る可からず。帝之を廃し、以て百姓に賜う。官を免ぜらるるに坐す。

未幾、復た大匠と為り、即ち洪州にて浮海の大航五百艘を造り、遂に征遼に従う。殿中監を摂し、土山を規築し、安市城を破る。師還りて遼沢に至る。二百里に亙り、淖にして通ず可からず。立德道を築き橋樑と為し、留まって行くこと無し。帝悦び、賜与良く厚し。又た翠微・玉華の二宮を営み、工部尚書に擢る。帝崩ず。復た司空を摂し、陵事を典す。労を以て爵を進め大安県公と為す。永徴五年、高宗万年宮に幸す。京師を留守し、徒四万を領して京城を治む。卒す。吏部尚書・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬す。諡して康と曰う。

附 閻立本

立本、顕慶中に将作大匠を以て立德に代わり工部尚書と為る。総章元年、司平太常伯を以て右相・博陵県男を拝す。初め、太宗侍臣と春苑池に舟を泛べしむ。異鳥の波上に容与するを見て、之を悦び、詔して坐する者に詩を賦せしめ、而して立本を召して状を侔せしむ。閤外に伝呼す画師閻立本と。是時に已に主爵郎中たり。俯伏して池の左に在り、丹粉を研吮し、坐する者を望みて羞悵流汗す。帰りて其の子に戒めて曰く、「吾少く書を読み、文辞儕輩に減ぜず。今独り画を以て名を見らるるは、廝役と等し。若曹慎んで習うこと毋れ」と。然れども性の好む所、訾屈せらるると雖も、亦た罷むること能わず。既に政を輔くるも、但だ応務の俗材を以てす。宰相の器無し。時に姜恪は戦功を以て左相に擢らる。故に時に人「左相は沙漠に威を宣べ、右相は丹青に誉を馳す」との嘲り有り。咸亨元年、官復た旧名にし、中書令に改む。卒す。諡して文貞と曰う。立德の孫知微、曾孫用之。

孫 知微

閻知微は、聖曆の初めに豹韜衛将軍となった。武后の時、突厥の默啜が和親を請うたので、后は知微を春官尚書に任じ、金帛を持たせて武延秀を護送し、その娘に聘わせた。默啜は天子の子でないと怒り、延秀を囚え、知微を脅して趙・定の地に侵入し、彼を可汗のように尊んで華人に示し、黄河以北は荒廃した。朝廷は知微が国を売ったとして、その一族を誅した。知微は知らず、逃げ帰った。武后は既に事が済んだ後で、「悪臣疾子なり、百官に賜いて快くせしめよ」と言った。そこで骨を断ち肉を臠分し、要職でなければ得られなかった。子の則先は、武三思の婿であったため死を免れた。玄宗が藩王であった時、善く肉を割くことで寵愛を受けた。開元中、有司が供奉に擬することを奏上したが、姚元崇は則先が刑戮の家であり、また逆人の姻族であるから、京師に留めてはならないと考えた。詔して曰く、「朕が外に在りし日、嘗て駆使せり、宜しく供奉せしむべし」と。

曾孫 用之

用之は、初め彭州参軍となり、嘗て録事を代行し、一日に数十件の過ちや不法を糾弾し、太守は才能ある者と認めた。後に通事舎人に挙げられ、累進して右衛郎将となり、引駕仗を管掌した。金吾将軍李質が殿上に登り刀を解かなかったので、これを呵責して退け、法に照らして処断を請うたため、左右は震え恐れた。初め、有司が三衛に扇を持たせて殿上に登らせていたが、用之は三衛は皆捷悍であるから、陛上に登り御座に近づくべきでないと奏上し、宦官に代えるよう請うたので、これが故事となった。天宝中、娘が義王玼の妃となった。左金吾将軍で終わった。

蔣儼

蔣儼は、常州義興の人である。明経に及第し、左屯衛兵曹参軍となった。太宗が高麗を討とうとした時、使者を募ったが、人々は皆行くのを恐れた。儼は奮って言った、「天子の雄武をもってすれば、四夷は威を畏れる。蕞爾たる国が王人を図るであろうか。もし不幸あらば、固より我が死する所なり」と。遂に行くことを請うた。莫離支に囚われ、兵で脅されたが屈せず、窟室の中に閉じ込められた。高麗が平定されて、初めて帰還できた。帝はその節義を奇とし、朝散大夫を授けた。幽州司馬となり、劉祥道が巡察使として部内に来た時、最上の状を上表し、会州刺史に抜擢された。再び殿中少監に遷り、しばしば時政の利害を陳べたので、高宗は優しく採用した。蒲州刺史に進み、戸産は充実し、積年の獄訟の不平を訴え、前任の刺史は相次いで罪で去ったが、儼が到着すると、隠れた悪を暴き奸を禁じ、良二千石と称された。永隆二年、老齢のため致仕した。間もなく、再び召されて太僕卿となったが、父の諱を理由に官を辞し、太子右衛副率に転じた。

中宗が東宮にあった時、儼はしばしば過失を諫めたが、用いられなかった。自ら総調護の任にあると考え、諫めないのはおかしいと思った。そこで田遊巌が処士として洗馬に起用され、太子が尊礼していたので、儼は書を送ってこれを責めて言った、「太子は年盛んにして、聖道に未だ尽くさざる所あり。足下は調護の寄託を受け、責言の地に居るに、唯唯として悠悠たり、一談をも出さず。向うて王粟を食わざれば、僕何ぞ敢えて議せん。今禄は親に及びたり、尚何を以てか塞がん」と。遊巌は慚愧して答えることができなかった。儼は間もなく右衛大将軍に転じ、義興県子に封ぜられ、太子詹事で致仕した。卒す、年七十八。中宗が即位すると、旧恩により礼部尚書を追贈された。

韋弘機

韋弘機は、京兆万年の人である。祖父の元礼は、隋の浙州刺史であった。弘機は貞観の時に仕えて左千牛冑曹参軍となり、西突厥に使いし、同俄設を冊立して可汗とした。時に石国が叛き、道が阻まれ、三年帰れなかった。裾を裂いて過ぎた諸国の風俗・物産を記録し、『西征記』とした。帰還すると、太宗が外国のことを問うたので、即座にその書を献上した。帝は大いに喜び、朝散大夫に抜擢した。累進して殿中監となった。顕慶中、檀州刺史となり、辺境の民が鄙陋で、文儒の貴さを知らないので、学官を修め、孔子・七十二子・漢晋の名儒の像を描き、自ら賛を書き、生徒を敦め勧めたので、ここに大いに教化された。契苾何力が高麗を討った時、灤水に駐屯したが、暴漲に遭い、軍は三日留まった。弘機が資糧を輸送して供給したので、軍は飢えることがなく、高宗はこれを善しとし、司農少卿に抜擢し、東都の営田苑を主管させた。宦官が法を犯したので、杖罰してから奏上した。帝は嘆賞し、絹五十匹を賜って言った、「後に犯す者あれば、これを治めよ、奏するなかれ」と。司農卿に遷った。

太子弘が薨じると、詔して蒲州刺史李沖寂に陵を造らせたが、完成して玄堂が狭く、終の具を容れることができず、改めて造ることとした。役夫が期限を過ぎても帰さないので、衆は怨み、夜に営を焼いて去った。帝は弘機に継いで造るよう詔し、弘機は隧道の左右に四つの便房を開け、礼物を抑え制し、工程を裁ち、多く改作せず、期日に合わせて完成させた。帝は嘗て言った、「両都は我が東西の宅なり。然れども隋の宮室に因り日々に仆れて完からず。朕将に更に作らんとす、財用を奈何せん」と。弘機は即ち言った、「臣が司農を任ずること十年、常費を省み惜しみ、三十万緡を積み、以て宮室を治むれば、労せずして成す可し」と。帝は大いに喜び、将作・少府の二官を兼ねさせ、営繕を監督させた。初め宿羽・高山等の宮を作り、洛中橋を長夏門に移し、利渉橋を廃したので、人々は便利とした。天子は洛北の絶岸に登り、遥かに眺めて久しく、その美を嘆じ、その地に宮を営むよう詔した。これが所謂上陽宮である。尚書左僕射劉仁軌が侍御史狄仁傑に言った、「古の天子の陂池台榭は皆深宮復禁にして、百姓に見せしめず、其の心を傷つけるを恐れた。而るに今は岸を列ね謻廊を王城外に亘らす、豈に君を愛するや」と。弘機は軽率に言った、「天下有道なれば、百官は職を奉じ、輔弼を任ずる者は、則ち献替の事を思う。我は乃ち府蔵の臣、官を守るのみ」と。仁傑はこれを非とした。間もなく家人が盗みを犯したことで連座し、弾劾されて免官された。

初め、東都の方士硃欽遂が武后に寵愛され、奸贓狼藉であった。弘機が言上した、「欽遂は中宮の駆策を仮り、形勢に依倚し、皇明を虧紊し、禍乱の漸たり」と。帝は中使を遣わして慰諭し、漏言するなと勅し、欽遂を辺境に追放した。后はこれを恨んだ。永淳中、帝が東都に行幸し、芳桂宮に至った時、弘機を召して白衣のまま園苑を検校させ、再び任用しようとしたが、后に阻まれて止んだ。検校司農少卿事で終わった。

孫 岳子

孫岳子・景駿。景駿は別伝あり。

岳子は、武后の時に汝州司馬となり、弁治をもって称された。召されて尚舎奉御を授かり、入見すると、后はその才能を賞めて言った、「卿が家の事、朕悉く知る」と。因って旧故を問うと、家人に至るまで忘れなかった。出て太原令となったが、武事に習わないことを理由に固辞し、旨に逆らい、下って宋州長史に遷された。廬・海等の州刺史を歴任し、皆風跡を著わし、恩と厳とを両施した。睿宗が立つと、召されて殿中少監となり、恩遇は特に異なっていた。竇懐貞等が誅せられた時、岳子が旧く彼らと交際していたため、姜晈に弾劾され、渠州別駕に貶された。起用されて陝州刺史を授かり、卒した。孫の皋は、別に伝あり。

姜師度

姜師度は、魏州魏の人である。明経に及第し、丹陵尉・龍崗令に調任され、清白の称があった。神龍初め、試みに易州刺史・河北道巡察、兼支度営田使となった。好んで興作し、初めに薊門に溝を穿ち、以て奚・契丹を限り、魏武帝の故跡に循い、海に並んで平虜渠を鑿ち、以て餉路を通じ、海運を廃し、功を省くこと多かった。司農卿に遷った。出て陝州刺史となった。太原倉は水陸運の湊まる所で、諸河に転属するが、師度は高きに依って廥を作り、米を舟に注がせたので、人の労することがなかった。太子詹事に拝された。

玄宗は營州の治所を柳城に移し、師度を營田支度脩築使に任じた。進んで河中尹となった。安邑の鹽池が涸れて廃れていたので、師度は大いに卒を発し、溝を掘ってその流れを引き、鹽屯を置き、公私ともに利益を計り知れず収めた。同州刺史に転じた。また洛水を分派して朝邑・河西の二縣を灌漑し、河を堰き止めて通靈陂を灌ぎ、棄てられた地二千頃を上田とし、十餘屯を置いた。帝が長春宮に幸した時、その功を嘉して詔を下し褒め称え、金紫光祿大夫を加え、帛三百匹を賜った。將作大匠に進んだ。左拾遺劉彤が天下の鹽鐵の利を専売して官に納め、貧民の賦を免ずることを建言したので、詔して戶部侍郎強循に師度と共に御史中丞を假させ、諸道の按察使と会して専売の方法を議させたが、間もなく議者に沮まれて、閣に置かれ行われなかった。卒す。年七十餘。

師度は渠漕を好み、至る所で繇役が紛紜として、皆が便利とはならなかったが、成し遂げたことは必ず後世の利益となった。この時太史令傅孝忠は星を知ることで顕れ、時に語り曰く「孝忠は天を仰ぐことを知り、師度は地を見ることを知る」と。その嗜みを嘲ったのである。

附 強循

強循、字は季先、鳳州の人。累任して雍州司士參軍となった。華原には泉がなく、人畜多く渇死した。循は人に渠水を教えて田を浸し、一方の民を利し、強公渠と号した。詔書は甚だ厚く褒め賜った。大理少卿・太子右庶子を歴任した。政を為すに辦給で、威厳を振るわず、人に遇しては信を尽くして疑わず、然し当時はその文が少ないことを恨んだという。

張知謇

張知謇、子は匪躬、幽州方城の人、家を岐に移した。兄弟五人、知玄・知晦・知泰・知默、皆明経に高第し、吏治に明るく、清介として守る所があり、公卿争って引重した。調露の時、知謇は監察御史裏行、知默は左台侍御史であった。知謇は十一州刺史を歴任し、蒞む所に威厳あり、武后は璽書を降して存問した。萬歳通天年中、徳州刺史より入計し、后はその容貌を奇とし、詔して工に図させ、その兄弟の容姿と才能を称えて、これを両絶と謂った。また門に皆戟を列ね、白雀がその廷に巣くい、后は数度寵賜した。知泰は益州長史・中台左丞・兵部侍郎を歴任し、陳留縣公に封ぜられた。

中宗が房州に在った時、禁察は苛厳であった。知謇と董玄質・崔敬嗣が継いで刺史となり、供儗保戴して少しも弛めなかった。帝が復位すると、知謇を左衛將軍に拝し、雲麾將軍を加え、范陽郡公に封じた。知泰は御史台大夫とし、銀青光祿大夫を加え、漁陽郡公に封じた。伯仲華首同じく貴く、時に栄えと為した。知泰は武三思に忤い、故に出されて并州刺史・天兵軍使となった。終に魏州刺史で、諡して定と曰う。知謇は東都副留守・左右羽林大將軍・同華州刺史を歴任し、大理卿で致仕した。年八十、開元の時に卒す。

知謇は敏捷にして且つ亮直、請謁求進を悪み、士で才なくして位を冒す者あれば、これを仇の如く視た。毎に子孫に勅して「経明らかでなければ挙げることを得ず」とし、家法は称すべきものという。

武后が革命すると、知泰は東都に諸関十七所を置くことを奏し、出入を譏斂した。百姓驚駭し、樵米価格騰貴し、遂に用いられず罷められ、議者はこれを羞薄した。

知默は監察御史王守慎・来俊臣・周興と詔獄を掌り、数えきれぬ大臣を陥れた。守慎はその甥であったが、鞫引の暴を悪み、去るを得ず、浮屠となることを請うた。后はこれを許した。而して知默は遂に酷吏に陥り、子孫は禁錮され、張氏の羞と為った。

知玄の子景升、知泰の子景佚、開元年中に皆顕官となった。