新唐書

巻九十八 列傳第二十三 王珪 薛收子:元超 從兄子:元敬 從孫:稷 馬周 韋挺子:待價 玄孫:武 子:萬石

王珪

王珪、字は叔玠。祖父は僧弁、梁の太尉・尚書令しょうしょれい。父は顗、北斉の楽陵郡太守。代々郿に居住す。性質は沈澹にして、志量は隠正、遇う所に恬として、交わりは苟に合わず。隋の開皇十三年、秘書内省に召し入れられ、群書を讎定し、太常治礼郎となる。季父の頗は、儒に通じ鑑裁有り、殊に器許す。頗は漢王諒の反に坐し、誅せられ、珪は南山に亡命すること十余年。高祖こうそ関に入り、李綱薦めて世子府諮議参軍事に署す。建成皇太子と為り、中舎人を授けられ、中允に遷り、礼遇甚だ厚し。太子と秦王隙有り、帝珪を責めて輔導能わざるを以てし、巂州に流す。太子既に誅せられ、太宗召して諫議大夫と為す。帝嘗て曰く、「正主邪臣を禦うも、以て治を致すべからず。正臣邪主に事うも、亦以て治を致すべからず。唯だ君臣徳を同じくすれば、則ち海内安んず。朕明ならざるも、幸いに諸公数相諫正し、庶幾くは天下を平に致さん。」珪進みて曰く、「古者、天子に争臣七人有り、諫用いられざれば、則ち相継ぎて以て死す。今陛下聖徳を開き、芻言を収采す。臣願わくは狂瞽を竭くし、万分之一を佐けん。」帝可し、乃ち詔して諫官に中書・門下及び三品官に随いて閣に入らしむ。珪誠を推し善を納れ、毎に規益を存し、帝益々之を任す。永寧県男・黄門侍郎に封ぜられ、侍中に遷る。

他日進見す、美人帝の側に侍る有り、本は廬江王瑗の姬なり。帝之を指して曰く、「廬江道無く、其の夫を賊して其の室を納る、何ぞ亡びざる有らんや。」珪席を避けて曰く、「陛下廬江を是と為すか、非と為すか。」帝曰く、「人を殺して妻を取る、乃ち朕に是非を問う、何ぞや。」対えて曰く、「臣聞く、斉桓公の郭に之く、父老に問いて曰く、『郭何の故にか亡ぶ。』曰く、『其の善を善とし悪を悪とするを以てなり。』公曰く、『若し子の言の如く、乃ち賢君なり、何ぞ亡ぶに至らん。』父老曰く、『然らず、郭君善を善としも用いる能わず、悪を悪としも去る能わず、故に亡ぶ。』今陛下廬江の亡ぶを知り、其の姬尚在す、窃かに陛下是と為すを謂う。審かに其の非を知りて、所謂悪を知りて去らざるなり。」帝其の言を嗟美す。

帝太常少卿祖孝孫をして楽律を以て宮中の音家に授けしむ、伎進まず、数譲せらる。珪と温彦博同じく進みて曰く、「孝孫は修謹の士、陛下女楽を教えしめ、又責譙す、天下其れ士を以て軽しと為さんや。」帝怒りて曰く、「卿皆我が腹心、乃ち下に附き上を罔し、人の為に遊説するか。」彦博懼れ、謝罪す。珪謝せずして曰く、「臣本前宮に事え、罪死に当たる。陛下其の性命を矜み、枢密に引置き、忠効を以て責む。今臣を私を以て疑う、是れ陛下臣に負う、臣陛下に負わず。」帝黙然として慚じ、遂に罷む。明日、房玄齢に語りて曰く、「昔武王夷・齊を用いず、宣王杜伯を殺す、古より帝王諫を納るる固より難し。朕夙夜前聖に庶幾す、昨珪等を責め、痛く自ら悔ゆ。公等是れを懲りて諫を進めざること勿れ。」

時に珪は玄齢・李靖・温彦博・戴冑・魏征と同く政を輔く。帝珪の人物を善くし、且つ言を知るを以て、因りて謂いて曰く、「卿標鑒通晤す、朕の為に玄齢等の材を言え、且つ自ら諸子と孰れか賢と謂うや。」対えて曰く、「孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣玄齢に如かず。文武を兼ね資り、将に出で相に入るは、臣靖に如かず。敷奏詳明にして、出納惟だ允かなるは、臣彦博に如かず。繁を済め劇を治め、衆務必ず挙がるは、臣冑に如かず。諫諍を以て心と為し、君の堯・舜に及ばざるを恥ずるは、臣征に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を疾み善を好むに至りては、臣数子に一日の長有り。」帝善しと称す。而して玄齢等も亦以て己が長を尽くすと為し、之を確論と謂う。

郡公に進封ぜらる。禁近の語を漏らすに坐し、左除して同州刺史と為す。帝名臣を念い、俄かに召し礼部尚書兼魏王泰の師に拝す。王之を見て、先ず拝し、珪亦師を以て自ら居る。王珪に何を以て忠孝と為すかを問う。珪曰く、「陛下は王の君、事えて尽忠を思う。陛下は王の父、事えて尽孝を思う。忠孝は以て身を立て、以て名を成すべし。」王曰く、「忠孝既に命を聞く。願わくは習う所を聞かん。」珪曰く、「漢の東平王蒼『善を為すは最楽なり』と称す。願わくは王之を志せ。」帝聞き、喜びて曰く、「児以て過ち無かるべし。」

子敬直、南平公主に尚す。是の時、諸主下嫁するも、帝女の貴きを以て、未だ嘗て舅姑に謁見するの礼を行わず。珪曰く、「主上法度を循う。吾当に公主の謁見を受くべし。豈に身の栄の為めならんや、将に国家の美を成さんとす。」是に於て、夫人と堂上に坐し、公主、巾を執りて盥饋して乃ち退く。其の後公主降るに、舅姑有る者は、婦礼を備う。本は珪に於ける。

十三年、病む。帝公主を遣わし第に就き省視せしめ、復た民部尚書唐儉を遣わし薬膳を増損せしむ。卒す、年六十九。帝素服して別次に哭し、詔して魏王に百官を率い臨哭せしむ。吏部尚書を贈り、諡して懿と曰う。

珪少くして孤且つ貧しく、人或いは饋遺すも、初め譲ること無し。貴に及び、厚く之に報い、既に亡くとも、必ず其の家を酬贍す。性苛察せず、官に臨み務めて綱維を挙げ、甚だしからざる者を去り、僕妾に至るも喜慍を見せず。寡嫂に奉じ、家事は咨して後に行う。孤侄を教撫し、其の子と雖も過ぎず。宗族匱乏すれば、周恤し、自奉に薄し。独り家廟を作らず、四時に寝に祭り、有司に劾せらる。帝廟を立てて之を愧じ、罪せず。世珪の儉礼に中らざるを以てし、之を少くす。初め、隠居の時、房玄齢・杜如晦と善し。母李嘗て曰く、「而は必ず貴し。然れども未だ与に遊ぶ者の何如なる人なるかを知らず。而試みに与に偕に来れ。」会うに玄齢等其の家に過ぐ。李窺いて大いに驚き、酒食を具するを敕し、歓こと尽日、喜びて曰く、「二客公輔の才、汝の貴きは疑わず。」敬直南城県男に封ぜられ、後皇太子承乾に交わるに坐し、嶺外に徙す。珪の孫燾・旭。

珪の孫 燾

燾、性至孝、徐州司馬と為る。母疾有り、弥年帯を廃せず、絮湯剤を視る。数高医に従い遊び、遂に其の術を窮む。因りて学ぶ所を以て書を作り、号して『外台秘要』と曰う。討繹精明、世之を宝とす。給事中・鄴郡太守を歴り、治聞時に於て聞こゆ。旭は『酷吏伝』に見ゆ。

薛收

薛收、字は伯褒。蒲州汾陰の人。隋の内史侍郎道衡の子にして、従父孺の後を継ぐ。十二歳にして文を属すことを能くす。父が隋に死を得ざるを以て、仕えんと肯わず。郡、秀才を挙ぐるも応ぜず。高祖の興るを聞き、首陽山に遁入し、将に義挙に応ぜんとす。通守堯君素之を覚り、其の母を城中に迎え置き、収去るを得ず。及て君素東に王世充に連なるや、遂に身を挺して国に帰す。房玄齢亟に之を秦王に言ふ。王召見し、方略を問ふ。対ふる所旨に合ひ、府主簿を授け、陝東大行台金部郎中を判ず。是の時方に世充を討たんとし、軍事繁綜す。収、書檄露布を為し、或は馬上に辞を占め、該敏素より構ふるが如く、初め竄定せず。竇建德来援す。諸将争ひて軍を斂めて賊の形勢を観んことを言ふ。収独り曰く「然らず。世充東都に据り、府庫盈衍す。其の兵皆江淮の選卒、正に食乏しきを苦しむのみ。是を以て戦を求めて得ず、我に持せらる。今建德身を総べて衆を以て来る。必ず飛轂転糧し、更相資哺せん。両賊連固すれば、則ち伊・洛の間勝負未だ歳月を以て定むべからず。諸将を勒して兵を厳しゅうし壘を締め、其の溝防を浚ひ、出兵無きを戒むるに若かず。大王親しく精鋭を督して成皋に拠り、兵を厲し甲を按じ、建德の路を邀ふ。彼疲老を以て、吾が堂堂の鋒に当たれば、一戦必ず挙がらん。旬日を俟たず、二賊麾下に縛致すべし」と。王曰く「善し」と。遂に建德を禽へ、世充を降す。

王、隋の宮室を観入し、且つ煬帝の無道を歎き、人力を殫くして以て誇侈を事とす。収進みて曰く「峻宇雕牆、殷辛以て亡び、土階茅茨、唐堯以て昌ふ。始皇阿房を興して秦の禍速く、文帝露台を罷めて漢の祚永し。後主曾て是を察せず、奢虐を是れ矜り、一夫の手に死し、後世の笑ひを為す。何ぞ此れを能く保たんや」と。王其の言を重んず。俄に天策府記室参軍を授く。劉黒闥を平ぐるに従ひ、汾陰県男に封ぜらる。嘗て上書して王に畋猟を止むるを諫む。王答へて曰く「陳ぶる所を覧るに、我を成す者は卿なりと知る。明珠兼乗も、一言に若かず。今黄金四十鋌を賜ふ」と。

武徳七年、疾に臥す。王使を遣はして臨問せしむ。道に相望む。命じて疾を輿して府に至らしめ、親しく袂を挙げて之を撫で、平生を論叙し、感激涕泗す。卒す。年三十三。王之に哭すること慟し、其の従兄の子元敬に与ふる書に曰く「吾伯褒と軍旅の間を共にし、何ぞ嘗て経略を駆馳し、襟抱を款曲せざらんや。豈期らんや一朝千古を成さんとは。且つ家素より貧しくして子幼し。善く撫安して、以て吾が懐を慰めよ」と。因りて使を遣はして弔祭し、帛三百段を贈る。其の後学士の像を図り、其の早死して与るを得ざるを歎く。既に位に即き、房玄齢に語りて曰く「収若し在らば、朕当に中書令を以て之を処せん」と。又嘗て収の平生の如きを夢み、其の家に粟・帛を賜ふ。貞観七年、定州刺史を贈らる。永徽中、又太常卿を贈り、昭陵に陪葬す。

収の子 元超

子元超、九歳にして爵を襲ぐ。長ずるに及び、学を好み、文を属すことを善くす。巢王の女和静県主に尚ひ、累ねて太子舎人を授かる。高宗即位し、給事中に遷り、数へて上書して当世の得失を陳ぶ。帝嘉納す。中書舎人・弘文館学士に転ず。省中に磐石有り。道衡侍郎為りし時、常に拠りて以て制を草す。元超每に見るに、輒ち泫然として涕を流す。母喪を以て解き、服を奪ひて黄門侍郎・検校太子左庶子を授く。薦むる所の豪俊の士、任希古・高智周・郭正一・王義方・孟利貞・鄭祖玄・鄧玄挺・崔融等の若きは、皆才を以て時に自ら名有り。累ねて東台侍郎を拝す。李義府巂州に流さる。旧制、流人は馬に乗ることを得ず。元超之が為に請ふ。坐して簡州刺史に貶せらる。歳余り、又上官儀と文章款密なるに坐し、巂州に流さる。上元初、赦されて還り、正諫大夫を拝す。三年、中書侍郎・同中書門下三品に遷る。

帝温湯に校猟す。諸蕃の酋長弓矢を持して従ふことを得。元超奏す「夷狄野心有り。而して兵を挟ましめて囲中に在らしむるは、宜しき所に非ず」と。帝納れ可す。嘗て諸王に宴し、元超を召して与らしめ、従容として謂ひて曰く「卿を中書に任ずるに、寧ぞ多人を藉らんや」と。俄に中書令兼左庶子を拝す。帝東都に幸す。留まつて太子を輔け監国せしむ。手敕して曰く「朕卿を留むるは、一臂を失ふが若し。顧みるに太子未だ庶務に習はず。関中の事、卿悉く之を専にせよ」と。時に太子射猟す。詔して禁禦に入ることを得しむ。故に太子稍々政事を怠る。元超諫めて曰く「内苑の地、叢薄を繚らし、翳薈を冒し、磴を絶ち途険し。殿下軽禽を截ち、狡兔を逐ふ。銜橛の変、詎んぞ虞る可からざらんや。又戸奴は多く反逆の余族、或は夷狄の遺醜、凶謀をして窃かに発せしめば、将た何を以てか禦がん。夫れ人子と為る者は、高きに登らず、深きに臨まず。其の危辱に近きを謂ふなり。天皇の賜はる所の書戒丁寧なり。惟ふに殿下馳射の労を罷め、情を墳典に留めむは、豈に美ならずや」と。帝之を知り、使を遣はして厚く賜ひて其の意を慰め、太子を召して還り東都せしむ。帝疾劇し、政武后より出づ。因りて陽喑し、骸骨を乞ふ。金紫光禄大夫を加ふ。卒す。年六十二。光禄大夫・秦州都督ととくを贈られ、乾陵に陪葬す。子曜、聖暦中、張易之に附会し、官正諫大夫。

収の従子 元敬

元敬、隋の選部郎邁の子、収及び収の族兄徳音と齊名し、世に「河東三鳳」と称す。収は長離の雛と為り、徳音は鸑鷟と為り、元敬年最も少なくして鵷雛と為る。武徳中、秘書郎・天策府参軍、直記室・文学館学士と為る。是の時、収は房・杜と心腹の寄に処り、更相結附す。元敬謹畏し、嘗て款曲を申さず。如晦歎じて曰く「小記室は親しむべからず、疏んずべからず」と。秦王皇太子と為り、舎人を除く。是に於て軍国の務東宮に総り、而して元敬文翰を掌り、職に称すと号す。官に卒す。

収の孫 稷

稷、字は嗣通、道衡の曾孫。進士第に擢でる。累遷して礼部郎中・中書舎人。従祖兄の曜と更に両省を践み、俱に辞章を以て自ら名有り。景龍末、諫議大夫・昭文館学士と為る。初め、貞観・永徽の間、虞世南・褚遂良書を以て顓家と為る。後能く継ぐ者莫し。稷の外祖魏征の家多く虞・褚の書を蔵す。故に鋭く精しく臨仿し、結体遒麗、遂に書を以て天下に名有り。画又絶品。睿宗藩に在りし時、之を喜び、其の子伯陽をして仙源公主に尚はしむ。及て阼を践むに及び、太常少卿に遷り、晋国公に封ぜられ、実封三百戸。鐘紹京中書令と為るに会す。稷諷して譲らしめ、因りて入りて帝に言ひて曰く「紹京本胥史、素より才望無し。今特り勳を以て進み、百僚を師長す。恐らくは朝廷の具瞻の美に非ざらん」と。帝然りとす。遂に紹京の譲るを許し、戸部尚書に改む。翌日、稷を黄門侍郎に遷し、機務に参ず。崔日用と数へて事を帝前に争ひ、左散騎常侍さんきじょうじに罷む。太子少保・礼部尚書を歴す。帝翊贊の功を以て、毎召し入れて宮中に与に事を決し、恩群臣に絶す。竇懐貞誅さる。稷本謀を知るを以て、死を賜はり万年獄にて死す。年六十五。

稷の子 伯陽

伯陽は駙馬都尉・安邑郡公となり、別に実封四百戸を食む。稷が死ぬと、坐して晋州員外別駕に貶せられ、また嶺表に流され、自殺す。伯陽の子談は、玄宗の恒山公主に尚し、駙馬都尉・光禄員外卿に拝せらる。

馬周

馬周、字は賓王、博州茌平の人なり。少にして孤、家は窶狹なり。学を嗜み、『詩』・『春秋』に善し。資は曠邁、郷人は細謹なきを以て、之を薄しむ。武徳中、州の助教に補せらるも、事を治めず。刺史達奚恕数たび咎めて譲る、周乃ち去り、密州に客す。趙仁本其の才を高しとし、装を厚くして、関に入らしむ。汴に留まり客す、浚儀令崔賢に辱しめらる、遂に感激して西し、新豊に舎す、逆旅の主人之を顧みず、周酒一斗八升を命じ、悠然として独り酌む、衆之を異とす。長安ちょうあんに至り、中郎将常何の家に舎す。

貞観五年、詔して百官に得失を言わしむ。何は武人、学に渉らず、周之が為に二十余条の事を条陳す、皆当世の切なる所なり。太宗怪しみて何に問う、何曰く「此れ臣の能くする所に非ず、家客馬周臣に教えて之を言わしむ。客は忠孝の人なり」と。帝即ち之を召す、間未だ至らず、使者四輩を遣わして敦趣す。及び謁見し、語らうに、帝大いに悦び、詔して門下省に直らしむ。明年、監察御史に拝し、奉使して職に称す。帝何の人を得たるを以て、帛三百段を賜う。周上疏して曰く、

臣、毎に前史を読み、賢者の忠孝の事を見るに、未だ嘗て巻を廃して長想せずんばあらず、其の跡を履まんことを思う。臣不幸にして早く父母を失い、犬馬の養い、已に施す所無し。顧みるに来事為す可き者は、惟だ忠義のみ。是を以て徒歩二千里、陛下に帰す。陛下臣の愚を以てせず、臣を次を超えて擢す。窃かに惟み念うに論報するに足る無く、輒ち区区を竭し、惟だ陛下の択ぶ所に在り。

臣伏して見るに、大安宮は宮城の右に在り、牆宇門闕、方に紫極に比べて卑小なり。東宮は皇太子之に居るも、而して内に在り。大安は至尊之に居るも、反って外に在り。太上皇は志清儉と雖も、人力を愛惜し、陛下敢えて違わず。而して蕃夷朝見し、四方観聴するに、足らざる有り。臣願わくは雉堞門観を営み、務めて高顯に従い、以て万方の望に称し、則ち大孝昭かならん。

臣伏して明詔を読み、二月に九成宮に幸すとす。窃かに惟うに、太上皇春秋高く、陛下宜しく朝夕視膳すべし。今幸する所の宮、京を去ること三百里にして遠く、能く旦に発して暮に至るに非ず。万が一太上皇思感し、即ち陛下を見んと欲せば、何を以て之に逮らん。今茲本と避暑の行を為す。太上皇は熱処に留まり、而して陛下は涼処に走る。温清の道、臣未だ安からず。然れども詔書既に下り、業已に中止せず。願わくは還期を示し、以て衆惑を開かん。

臣伏して見るに、詔して宗室功臣悉く籓国に就き、遂に子孫に貽し、世々其の政を守らしむ。窃かに惟うに陛下の意、誠に之を愛し重くし、其の裔緒に承守せしめ、国と無疆ならんと欲す。臣謂う、必ず詔書の如くせんとせば、陛下宜しく之を安存し富貴する所以を思うべく、何ぞ必ずしも世官せしめん。且つ堯・舜の父に、硃・均の子有り。若し不肖の子有りて封を襲ぎ職を嗣がしめば、兆庶殃を被り、国家患を蒙らん。正に之を絶たんと欲せば、則ち子文の治猶お在り。正に之を存せんと欲せば、則ち欒黶の悪已に暴る。必ず曰く、其の毒害を見存の人に於いて為すと、寧ろ恩を已亡の臣に割かんと。則ち向に所謂愛し重くする者は、適以て之を傷つくる所以なり。臣謂う、宜しく茅土を賦し、戸邑を疇し、必ず材行有りて、器に随いて授くべし。幹翮強からずと雖も、亦累を免るる可し。漢光武功臣を吏事に任ぜず、其の世を終全する所以の者は、良く其の術を得たり。願わくは陛下深く其の事を思し、之をして大恩を奉ぜしめ、而して子孫其の福祿を終わらしめん。

臣聞く、聖人の天下を化するは、孝を以て本と為さざる莫し。故に曰く「孝は父を厳にするより大なるは莫く、父を厳にするは天に配するより大なるは莫し」と。「国の大事は、祀と戎とに在り」と。孔子も亦た言う「吾祭に与せずんば、祭らざるが如し」と。是れ聖人の祭祀を重んずるなり。陛下践祚より以来、宗廟の享、未だ嘗て親事せず。窃かに惟うに聖情、乗輿一たび出づれば、費やす所無藝なるを以て、故に孝思を忍び、以て百姓に便ならしむ。而して一代の史官、皇帝の廟に入るを書かず、将た何を以て厥の孫に謀を貽し、来葉に示さんや。臣知る、大孝誠に俎豆の間に在らずと雖も、然れども聖人の人を訓うるは、必ず己を以て之に先んじ、本を忘れざるを示すなり。

臣聞く、化を致すの道は、賢を求め官を審にするに在り。孔子曰く「惟だ名と器と、人に仮すべからず」と。是れ挙を慎むの重きを言うなり。臣伏して見るに、王長通・白明達は本と楽工輿皁の雑類、韋般提・斛斯正は他材無く、独り馬を調うるを解す。術は等夷を踰ゆと雖も、厚く金帛を賜いて其の家を富ます可し。今高爵を超授し、外廷の朝会に与り、騶豎倡子、玉を鳴らし履を曳く、臣窃かに之を恥ず。若し朝命追改す可からずと雖も、尚宜しく列に在らしめず、士大夫と伍たらしむべからず。

帝其の言を善しとし、侍御史に除す。又た言う、

臣歴観す、夏・商・周・漢の天下を有する、祚を伝えて相継ぎ、多き者は八百余年、少き者猶お四五百年、皆徳を積み業を累ね、恩人に結ぶ。豈に僻王無からんや、先哲に頼りて免る。魏・晋より周・隋に逮る、多き者は五・六十年、少き者は二・三十年にして亡ぶ。良に創業の君仁化を務めず、当時に僅かに自守する能く、後遺徳思う可き無きに由る。故に伝嗣の主、其の政少しく衰うれば、一夫大いに呼ばば、天下土崩す。今陛下大功を以て天下を定むと雖も、積徳日浅し。固に禹・湯・文・武の道を隆くし、恩余裕有らしめ、子孫の為に万世の基を立つべく、豈に当年を持つのみならんや。然れども古より明王聖主、人に因りて教を設くると雖も、大要身に於いて節儉し、恩人に加う。故に其の下之を愛すること父母の如く、之を仰ぐこと日月の如く、之を畏ること雷霆の如く、卜祚遐長にして禍乱作さず。今百姓喪乱の後に承け、隋時に比して纔かに十分の一なるに、徭役相望み、兄去り弟還り、往来遠き者は五・六千里、春秋冬夏、略々休時無し。陛下詔して減省すと雖も、有司作を廃するを得ず、徒に行文書し、役すること故の如し。四・五年来、百姓頗る嗟怨し、以て陛下之を存養せずと為す。堯の茅茨土階、禹の悪衣菲食、臣復た今に行う可からざるを知る。漢文帝百金の費を惜しみて露臺を罷め、上書の囊を集めて以て殿帷と為し、幸する所の慎夫人衣地を曳かず。景帝も亦た錦繡纂組の女功を妨害するを以て、特詔して之を除く。所以に百姓安楽す。孝武帝に至りては、窮奢極侈と雖も、文・景の遺徳を承く、故に人心揺がず。向使高祖の後に即ち武帝に値せば、天下必ず全うする能わず。此れ時代差近く、事蹟見る可し。今京師及び益州諸処、供奉の器物を営造し、並びに諸王妃主の服飾、皆過ぎて靡麗なり。臣聞く、昧旦丕顕も、後世猶お怠る。法を治に作りて、其の弊猶お乱る。陛下少く人間に処り、百姓の辛苦を知り、前代の成敗、目の親く見る所、尚猶此の如し。而して皇太子深宮に生長し、外事を更めず。即ち万歳の後、聖慮の憂うべき所なり。

臣がひそかに考えるに、古来より庶民が怨み叛き、盗賊となって集まる時、その国は即座に滅びずにはおらず、君主たとえ後悔しても、再び安泰に保つことはできなかった。およそ政教を修めるには、修めるべき時に修めねばならない。もし事変が起こってから後悔しても、益はない。故に君主は前代の滅亡を見るたびに、その政教が失われた由縁は知っても、自らの過失は知らない。だから紂は桀の滅亡を笑い、幽王・厲王は紂の滅亡を笑い、隋の煬帝はまた斉・魏の国を失ったことを笑ったのである。今、煬帝を見るのは、煬帝が斉・魏を見たのと同じである。

かつて貞観の初めには、天下は荒れて乏しく、一匹の絹がわずか一斗の米と交換されるほどであったが、天下は平穏であった。それは百姓が陛下が憂い憐れんでおられることを知り、したがって人人自ら安んじて誹謗もなかったからである。ここ五、六年以来、連年豊作で、一匹の絹が粟十余斛と交換されるのに、百姓は皆怨んで、陛下がご憂慮されないと思っている。なぜか。今営んでいることが、多くは不急の務めだからである。古来より国の興亡は、蓄積の多少によるのではなく、百姓の苦楽によるのである。かつ近事をもってこれを験すと、隋が洛口倉に貯えたものを李密が利用し、布帛を東都に積んだものを王世充が占拠し、西京の府庫もまた国家の用に供された。もし洛口・東都に粟帛がなかったならば、王世充・李密は必ずしも大衆を集められなかったであろう。ただ貯積することは、本来国家の常であるが、要は人が余力があって後に収めるべきであり、どうして人が労しているのに強いて徴収して賊に資するようなことがあろうか。

倹約によって民を休ませることは、貞観の初めに陛下自ら行われたことであり、今行うのは難しくない。一日でも行えば、天下は知って、歌い舞うであろう。もし民がすでに疲労しているのに、これを救済して休ませなければ、万一中国に水旱の災害があり、辺境に風塵の警報があって、狂った者がひそかに起こるならば、ただ遅くまで食事をし、夜遅くまで寝るだけでは済まない。古語に「人を動かすには行いをもってし言葉をもってせず、天に応ずるには実をもってし文飾をもってせず」という。陛下の明をもって、誠に精神を奮い起こして政治に励もうとされるなら、遠く上古を採るまでもなく、ただ貞観の初めに及べば、天下は幸いである。

昔、賈誼が漢の文帝に「痛哭すべきこと及び長く嘆息すべきこと」と言ったのは、韓信かんしんが楚王となり、彭越が梁王となり、英布が淮南王となっていた時に、もし文帝が天子の位に即いていたならば、必ず安泰ではいられなかっただろう、ということであった。また言うには、「頼むに諸王が年少で、傅相がこれを制しているが、成長した後には必ず禍乱が生じるであろう」と。後世は皆賈誼の言葉を正しいとした。臣がひそかに観るに、今の諸将功臣は、陛下とともに天下を定めた者で、韓信・彭越のように主君を震わせる威略を持つ者はない。そして諸王は皆幼少であり、たとえ成長しても、陛下の御世の間は必ず異心はないであろう。しかしながら万代の後は、考えないわけにはいかない。漢・晋以来、天下を乱した者は、何れも諸王であった。皆樹立の仕方が適切でなく、あらかじめ節制を加えなかったために、滅亡に至ったのである。君主はそのようなことを知らないわけではないが、私愛に溺れるからである。故に前の車が覆ったのに、後の車は轍を改めないのである。今、天下の百姓はまだ少ないのに、諸王はすでに多く、その寵遇が厚すぎる者については、臣が愚かに慮るに、ただ恩寵を恃んで驕るだけではない。昔、魏の武帝が陳思王(曹植)を寵愛したが、文帝(曹丕)が即位すると、防守禁閉して獄囚と同じにした。なぜか。先帝が恩を加えすぎたので、嗣主が疑い畏れたからである。これは武帝が陳思王を寵愛したことが、かえって彼を苦しめる結果となったのである。かつ帝子は身をもって大国を食むので、富まないことを憂える必要はなく、毎年別に優れた賜物を与えるのは、限りがない。里諺に「貧しければ倹を学ばず、富めば奢りを学ばず」という。自然の道理を言うのである。今、大聖が創業されたのに、ただ現存の子弟を処置するだけであろうか。長久の法を制定し、万代が奉ずるようにすべきである。

臣が聞くところによれば、天下は人を本とすべきである。必ず百姓を安楽にさせるのは、刺史・県令によるのである。県令は多く、皆賢であることはできないが、州に良刺史を得ればよい。天下の刺史が適任を得れば、陛下は岩廊の上で端拱していても、さらに何をなされようか。古くは郡守・県令は皆賢徳を選び、何か用いようとする時は、必ずまず人に臨むことで試し、あるいは二千石の高第から宰相に入った。今は内官のみを重んじ、県令・刺史の選任は軽んじられている。また刺史は多く武夫の勲功者であり、あるいは京官で不適任な者が外補に出される。折衝都尉・果毅都尉で体力の強い者は中郎将に入り、次いで辺州に補される。そして德行才術によって抜擢される者は、十に一もいない。だから百姓が安らかでないのは、おそらくここにある。

上疏が奏上されると、帝は善しと称した。給事中に抜擢され、中書舎人に転じた。

馬周は上奏することが巧みで、機知に富み弁舌明瞭鋭く、動きが事の機会に中り、裁断処置は周密で、当時の称賛は彼に帰した。帝は常に「我が暫く周を見ざれば即ちこれを思う」と言った。岑文本は親しい者に言った。「馬君が事を論ずるには、文を会わせ理を切って、一言も損益すべきところがなく、聞けば纚纚として、人をして倦みを忘れしむ。蘇秦・張儀・終軍・賈誼こそ正にこれに応ずるであろう。しかし鳶の肩に火の色あり、騰上すること必ず速く、恐らく久しからん。」まもなく治書侍御史に遷り、諫議大夫を兼ね、検校晋王府長史となった。王が皇太子となると、中書侍郎に拝され、太子右庶子を兼ねた。十八年、中書令に遷り、なお庶子を兼ねた。時に太子司議郎を置くと、帝はその除目を高くした。馬周は嘆いて言った。「恨むらくは我が資品が妄りに高く、この官を歴任できぬことよ。」帝が遼東に征した時、太子を輔佐して定州に留まった。帰還すると、吏部尚書を摂り、銀青光禄大夫に進んだ。帝はかつて飛白の書をもって馬周に賜って言った。「鸞鳳が霄を沖するには、必ず羽翼を仮る。股肱の寄せるところは、要は忠力に在り。」

馬周は消渇の病に連年悩まされ、帝が翠微宮に行幸した時、勝地を求めて邸宅を構えさせ、毎詔して尚書に食膳を具えさせ、上医の使者を遣わして看護させ、自ら薬を調え、太子は病を問うた。病が重くなると、馬周はかつて上奏した章奏をすべて焼き、「管仲・晏嬰は暴君の過ちを暴き、死後の名声を取ったが、我はそうはしない」と言った。二十二年に卒去、四十八歳。幽州都督を追贈され、昭陵に陪葬された。

初め、帝は馬周を厚く遇し、馬周はやや自負していた。御史の時、人を遣わして図面で宅地を購わせた。人々は彼が元は書生で、もとより財産がないと思い、皆ひそかに笑った。ある日、良い宅地があり、値が二百万であると報告すると、馬周はすぐにこれを聞かせ、詔によって有司にその値を支払わせ、併せて奴婢や什物を賜った。これによって人々は悟った。馬周が郡県を行くたびに、食事には必ず鶏を進めたので、小吏がこれを訴えた。帝は言った。「我が御史の肉食を禁じたのは、州県の費用が広がるのを恐れたのであり、鶏を食うことなど何の関係があろうか。」吏を鞭打って斥けた。選挙を領するようになっても、なお浚儀令を廃した。先に、京師では朝夕に伝呼して衆を警めていたが、後に鼓を置いてこれに代え、俗に「冬冬鼓」と言った。品官の旧服は黄紫に限られていたが、これにより三品は紫、四品五品は朱、六品七品は緑、八品九品は青とした。城門では入るには左から、出るには右からとした。飛駅を置いて警急を達せしめた。居人の地租を納めさせた。宿衛は大小番直とした。駅馬の尾を截った。城門・衛舎・守捉の兵士は、月ごに諸県に散配し、各一を取って、その過失を防いだ。これらは皆馬周の建議によるものであった。馬周が亡くなってから、帝は彼を非常に思い、方士の術を借りてその姿形を見ようとした。高宗が即位すると、尚書右僕射・高唐県公を追贈した。垂拱年中、高宗廟庭に配享された。

馬周の子 馬載

子の馬載は、咸亨年中に司列少常伯となり、裴行儉と選事を分掌し、吏部のことを言う者は裴・馬と称した。雍州長史で終わった。

賛して曰く、周の太宗に遇うこと、顧みて異ならずや。一介の草茅より天下の事を言い、素より朝に宦し、憲章に明習する者の如きは、王佐の才に非ずして、誰か以て茲に及ばん。其の自ら視る所、築岩・釣渭と亦何を以て異ならん。跡を夫の帝の事を立つるに鋭きに求め、而して周の建つる所皆一時に切るを以てし、明を以て聖を佐く。故に君宰の間、膠漆せずして固く、相得ることの晩きを恨む、宜なり。然れども周の才、傅説・呂望に逮ばず、後世に述ぶる有ること無からしむ、惜しいかな。

韋挺

韋挺は、京兆萬年の人である。父の沖は、隋に仕えて民部尚書となった。挺は若くして隠太子と親しくし、高祖が京師を平定すると、隠太子の隴西公府の祭酒に任じられた。累遷して太子左えい驃騎、檢校左衞率となった。太子は彼を厚く遇し、宮臣の中で比ぶる者無かった。武德七年、帝が仁智宮に避暑した。或る者が太子が宮臣と謀逆を図ったと告げ、また慶州刺史楊文幹が大逆の罪に坐して誅せられ、その供述が東宮に連座した。帝は専ら宮臣を責め、これにより挺は杜淹・王珪等と共に越巂に流された。間もなく、召されて主爵郎中に任じられた。貞観初年、王珪が度々推薦したため、尚書右丞に遷った。吏部侍郎・黄門侍郎を歴任し、御史大夫・扶陽県男に任じられた。太宗は挺に言った、「卿が大夫に任ぜられたのは、朕の意のみによる。左右に卿のために地歩を設ける者無し」と。挺は言った、「臣は駑鈍にして、高位を辱めるに足らず、且つ勲功も無く旧臣でも無いのに、藩邸の故僚の上に在ります。後から臣を以て功を立てる者を勧めて下さい」と。聞き入れられなかった。この時は隋の大乱を承け、風俗は薄悪で、人は教えを知らなかった。挺は上疏して言った、「父母の恩は、昊天の如く極まり無し。創巨の痛みは、終身何ぞ已まん。今、衣冠の士族は、辰の日に哭せず、重喪と謂い、親賓が弔いに来ても、輒ち臨んで挙哀しない。又、閭裏の細民は、重喪有る毎に、直ちに発問せず、先ず邑社に造り、営み具えるを待って、乃ち哀を発する。車乗を借り、棺椁を雇い、以て葬送を栄えしむ。葬り終われば、隣伍会集し、相与に酣酔し、名付けて出孝と為す。夫婦の道は、王化の基なり。故に三日燭を息さず、楽を挙げざるの感有り。今、昏嫁の初めに、雑に絲竹を奏し、以て宴歓を窮む。官司の習俗、条禁を為さず。望むらくは一切これを懲革し、礼憲を申明せられん」と。間もなく再び黄門侍郎となり、兼ねて魏王泰の府事を管掌した。時に泰は寵愛を受け、太子は過失多く、帝は密かに廃立を考え、杜正倫に語ったが、正倫は漏言の罪で貶せられた。帝は挺に言った、「卿を再び法に置くに忍びず」と。太常卿に改めた。

初め、挺が大夫であった時、馬周は監察御史であったが、挺は甚だ礼を尽くさなかった。及んで周が中書令となると、帝は挺を洗い清めて用いようとしたが、周は挺が自用にかたくなで、宰相の器でないと言い、遂に止まった。帝が遼東を討たんとした時、糧餉運送の主管者を選んだ。周は挺の才は粗使に任ずると言い、帝も然りと思った。挺の父はかつて営州総管であり、嘗て高麗を経略したことがあったので、その書類が家に蔵されており、挺はこれを上呈した。帝は喜んで言った、「幽より遼に至る二千里に州県無く、我が軍は仰ぐ食無し。卿、朕の為にこれを図れ。苟くも我が軍用に乏しきこと無からば、是れ公の功なり。自ら文武官四品十人を選び子使と為し、幽・易・平の三州の鋭士及び馬各三百を取って従わせよ」と。即ち詔して河北の諸州は皆挺の節度を受けるとし、便宜を許した。帝は自ら貂裘及び中廄の馬を解いて賜った。挺は燕州司馬王安德に命じて水路を行わせ、漕船を造って糧を転送させ、桑乾水より盧思台に至り、八百里を行ったが、水路は塞がって通じなかった。挺は時方に苦寒であるとして、進むべからずとし、遂に米を台の側に下ろし、倉に貯え、凍りが解けるのを待って運び、以て弁解とした。即ち上言して、「王師の至るを度り、食は且く足るべし」と。帝は悦ばずして言った、「兵は寧ろ拙速を取るも、工遅を取ること無し。朕は来年師を出すというのに、挺は乃ち他歳の運送を度るとは、何ぞや」と。即ち詔して繁畤令韋懷質を馳せ遣わして按問させた。懷質は還って劾奏した、「挺は幽州に在り、日々酒宴を設け、職を憂えず、前もって水路の長利を視ず、即ち船を造り粟を行かせ、八百里に綿り、乃ち是れに非ざるを悟り、進まんとすれば得ず、還れば且つ水は涸る。六師の須うる所、恐らくは陛下の素よりのごとくにはあらじ」と。帝は怒り、将作少監李道裕を遣わして代えさせた。治書侍御史唐臨に命じて駅伝を馳せ、挺を械して洛陽らくように赴かせ、民に廃し、白衣のまま従軍させた。

帝が蓋牟城を破ると、詔して挺に兵を将いて鎮守せしめ、再び用いることを示した。城は賊の新城に接し、日夜転闘して休む時無し。挺は失職を以て、内に不平を抱き、善き所の公孫常に書を送って謝した。常は、数術に善い者であったが、他の事に坐して繋がれ、縊死した。その囊中を捜索して挺の書を得た。そこには屯する所が危険で逼迫していると書き、意に怨望を含んでいた。挺は象州刺史に貶せられた。歳余にして卒した。年五十八。

子に待價・萬石がいる。

挺の子、待價

待價は、初め左千牛備身となった。永徽年中、江夏王李道宗が罪を得ると、待價は婿として盧龍府果毅に貶せられた。時に将軍辛文陵が高麗を招慰し、吐護真水に駐屯したが、虜に襲撃された。待價は中郎将薛仁貴と共に率いる所の兵を以てこれを撃破し、文陵もまた苦戦して、遂に難を免れた。待價は重傷を負い、矢が左足に突き刺さったが、隠して言わず、遂に病を以て免官となった。起用されて蘭州刺史となった。吐蕃が辺境を侵すと、高宗ははい王李賢を涼州大都督とし、待價をその司馬とした。間もなく肅州刺史に遷り、功により召されて右武衞将軍に任じられた。儀鳳三年、吐蕃が再び入寇すると、待價を以て檢校涼州都督とし、兼ねて鎮守兵馬事を知らせた。召還されて、扶陽侯に封ぜられた。武后が臨朝すると、司空しくうを摂行し、乾陵の営造を護り、天官尚書・同鳳閣鸞台三品に改めた。待價は武力より起り、選挙を典としながらも銓衡総括の才無く、故に朝野共にこれを嗤い軽んじた。間もなく燕然道行軍大総管となり、突厥を防いだ。一年余りして還り、文昌右相・同鳳閣鸞台三品に任じられた。自ら安んぜず、累表して職を辞したが、聞き入れられなかった。且つ力の限り行陣に尽くさんことを請うたので、許され、ここに安息道行軍大総管に任じられ、三十六総管を督いて吐蕃を討ち、公に爵を進めた。軍は寅識迦河に至り、吐蕃と合戦し、勝負は略々相匹敵した。時にその副将閻溫古が逗留し、又天は大いに寒く、待價は撫御に善くせず、兵士多く死に、糧道乏しく、乃ち師を旋して高昌に頓した。后は大いに怒り、溫古を斬り、待價を繡州に流し、卒した。

挺の玄孫、武

曾孫の武。武は幼くして孤となった。十一歳の時、蔭補により右千牛となり、累遷して長安丞となった。徳宗が梁州に幸した時、妻子を委ねて行在所に奔り、殿中侍御史に除せられた。戸部侍郎元琇が水陸轉運使となると、武を倉部員外郎として判官に充てるよう上表した。謀を用いられず、門を閉ざして数ヶ月すると、琇は敗れた。刑部員外郎に転じた。この時、帝は反正を郊廟に告げたが、大兵の後、典章は苟くも完うし、執事者は時に武に諮問した。武は宜しきを酌み用を約し、礼の衷を得たので、群司これに奉じた。後に絳州刺史となり、汾水を鑿ちて一万三千余頃の田を灌漑し、璽書を以て労勉された。憲宗の時、入朝して京兆尹となり、豊陵の護治を担当したが、未だ成らずして卒した。吏部尚書を追贈された。

挺の子、萬石

萬石は、学問に広く通じ、音律をよくした。上元年中に累進して太常少卿となった。当時、郊祀・宗廟・宴會の楽曲は、すべて萬石と太史令の姚元辯が増減し、職務に適うと称された。初め、萬石が「太楽博士弟子で喪に遭った者は、もと他に生業がないので、卒哭の後に追って召集することを請う」と奏上した。侍御史の劉思立が萬石を弾劾して奏上した。「風俗を移し変えるには、楽にまさるものはなく、親族を睦まじくし人を教化するには、孝にまさるものはない。それゆえ三年の礼は、天下の通喪である。今、音声人に喪服を脱がせて楽を行わせ、喪の帯をつけて音律を治めさせるのは、小人が礼を執ることができないからといって、遂に法に背くことを約束しようとするのか。萬石は太常の官にありながら、まっさきに風化を乱した。吏に付して罪を論ずることを請う。」高宗はちょうど萬石を任用していたので、その奏を退けた。後に吏部選事を掌り、官にて卒した。

贊して曰く、王者が人を用いることは難しくないが、その才能を尽くさせることを難しとする。太宗の任責を見るに、謀はこれに従い、言はこれを聴き、才はこれを奮い起こし、洞然として疑わない。故に人臣は未だ力を遺さず、天子は高拱して成功を操り、太平を致したのである。初めは皆、亡命の布衣より奮い起こされ、嬪然として上袞に列置された。薛收は早世したが、帝はもと中書令をもってこれを待った。臣を御する方、顧みて善からずや。挺は晩節に流落したが、蓋し致すところあって然るのである。