魏徵
魏徵、字は玄成、魏州曲城の人。幼くして孤となり、落魄し、資産を棄てて営まず、大志を抱き、書術に通貫す。隋の乱に、詭りて道士と為る。武陽郡丞元宝蔵、兵を挙げて李密に応じ、徴に書檄を典せしむ。密、宝蔵の書を得て、輒ち善しと称す。既に徴の為す所を聞き、促して之を召す。徴、十策を進めて密を説くも、用いられず。王世充、洛口を攻む。徴、長史鄭頲に見えて曰く、「魏公(李密)は驟勝すと雖も、而して驍将鋭士は死傷略く尽き、又府に見財無く、戦勝して賞せず。此の二者は以て戦うべからず。若し池を浚い壘を峭くし、日を曠くして持久すれば、賊糧尽きて且つ去らん。我之を追撃すれば、勝を取るの道なり」と。頲曰く、「老儒の常語なるのみ」と。徴、謝せずして去る。
後に密に従いて京師に来る。久しくして未だ知名ならず。自ら山東を安輯せんことを請う。乃ち秘書丞に擢げられ、駅を馳せて黎陽に至る。時に李勣尚ほ密の為に守る。徴、書を以て之に告げて曰く、「始め魏公、叛徒より起り、臂を振り大呼し、衆数十万、威の被る所は天下の半ばなり。然るに一敗して振わず、卒に唐に帰するは、固より天命の帰する所有るを知るなり。今君は必争の地に処る。早く自ら図らざれば、則ち大事去らん」と。勣、書を得て、遂に計を定めて帰し、而して大いに粟を発して淮安王の軍に饋る。
会に竇建德、黎陽を陥とし、徴を獲て、偽りに起居舎人に拝す。建德敗れ、裴矩と関中に走入る。隠太子(李建成)、之を引いて洗馬と為す。徴、秦王(李世民)の功高きを見て、陰に太子を勧めて早く計り為すべしとす。太子敗る。王責めて謂いて曰く、「爾吾が兄弟を鬩がす、奈何」と。答えて曰く、「太子早くに徴の言に従わば、今日の禍に死せざりしものを」と。王其の直を器とし、恨みの意無し。
即位し、諫議大夫に拝し、钜鹿県男に封ぜらる。是の時に当たり、河北の州県、素より隠太子・斉王(李元吉)に事えし者は自ら安からず、往々曹伏して乱を思う。徴太宗に白して曰く、「至公を示さざれば、禍解くべからず」と。帝曰く、「爾行きて河北を安んじ諭せよ」と。道にて太子千牛李志安・斉王護軍李思行の京師に伝送せらるるに遇う。徴其の副と謀りて曰く、「属に詔有り、宮府の旧人は普く之を原すと。今復た志安等を執送すれば、誰か自ら疑わざらん。吾が属往くとも、人信ぜざらん」と。即ち貸して後に聞かしむ。使い還る。帝悦び、日に益々親しみ、或いは臥内に引き至り、天下の事を訪う。徴も亦自ら不世の遇を以てし、乃ち底蘊を展げ尽くして隠す所無し。凡そ二百余の奏、帝の心に剴切に当たらざるは無し。是に由りて尚書右丞に拝し、兼ねて諫議大夫と為す。
左右に徴が親戚に阿党すと毀る者有り。帝、温彦博をして按訊せしむるも、是に非ず。彦博曰く、「徴、人臣と為りて、形跡を著わし、嫌疑を遠ざくる能わずして、飛謗に被るは、是れ責むべきなり」と。帝、彦博に謂いて行きて徴を譲らしむ。徴帝に見えて謝して曰く、「臣聞く、君臣同心は、是れ一体と謂う。豈に至公を置き、形跡に事えんや。若し上下共に此の路に由らば、邦の興喪未だ知るべからず」と。帝矍然として曰く、「吾之を悟れり」と。徴頓首して曰く、「願わくは陛下臣をして良臣たらしめ、臣をして忠臣たらしむること無からしめよ」と。帝曰く、「忠・良異なるか」と。曰く、「良臣は稷・契・咎陶なり。忠臣は龍逢・比干なり。良臣は身に美名を荷い、君は顕号に都し、子孫傅承し、祚を流して疆無し。忠臣は己禍誅に嬰り、君は昏悪に陥り、国を喪い家を夷し、只だ空名を取るのみ。此れ其の異なり」と。帝曰く、「善し」と。因りて問う、「君たる者何の道を以てして明らかにし、何を失いて暗きや」と。徴曰く、「君の明らかなる所以は、兼ねて聴くなり。暗き所以は、偏りて信ずるなり。堯・舜氏は四門を辟き、四目を明らかにし、四聡を達す。共・鮌有ると雖も、塞ぐ能わず。靖言庸違も、惑わす能わず。秦の二世は其の身を隠蔽し、趙高を信ずるを以てし、天下潰叛して聞くを得ず。梁の武帝は硃異を信じ、侯景関に向かうも聞くを得ず。隋の煬帝は虞世基を信じ、賊天下に遍くも聞くを得ず。故に曰く、君能く兼ねて聴けば、則ち奸人壅蔽するを得ず、而下情通ず」と。
鄭仁基の息女、美にして才有り。皇后建てて請うて充華と為さんとす。典冊具わる。或いは言う、許聘せりと。徴諫めて曰く、「陛下台榭に処れば、則ち民に楝宇有らんことを欲し、膏粱を食すれば、則ち民に飽適有らんことを欲し、嬪禦を顧みれば、則ち民に室家有らんことを欲す。今鄭は既に昏を約す。陛下之を取らば、豈に人父母の意たるべけんや」と。帝痛く自ら咎め、即ち詔して冊を停む。
是に於て帝即位四年、歳に死を断つこと二十九、幾くんか刑措に至らんとし、米一斗三銭。是に先立ち、帝嘗て歎じて曰く、「今大乱の後、其れ難治なるか」と。徴曰く、「大乱の易治は、譬えば飢人の易食なるが如し」と。帝曰く、「古に云わずや、善人邦を為すこと百年、然る後に残を勝ち殺を去ると。是に於て如何」と。答えて曰く、「此れ聖哲を論ぜざるなり。聖哲の治は、其の応へ響の如く、期月にして可なり。蓋し其れ難しとせざるなり」と。封徳彝曰く、「然らず。三代の後、澆詭日滋す。秦は法律を任じ、漢は霸道を雑う。皆治めんと欲して能わざるなり。能く治めて欲せざるに非ず。徴は書生、虚論を好み、徒らに国家を乱す。聴くべからず」と。徴曰く、「五帝・三王は民を易えて教うるに非ず。帝道を行えば而ち帝と為り、王道を行えば而ち王と為る。顧みる所行何如なるかのみ。黄帝は蚩尤を逐い、七十戦にして其の乱に勝ち、因りて無為を致す。九黎は徳を害す。顓頊之を征し、已に克ちて治む。桀は乱を為す。湯之を放つ。紂は道無し。武王之を伐つ。湯・武は身及びて太平す。若し人漸く澆詭にて、復た樸に返らざれば、今当に鬼と為り魅と為るべく、尚お安くんぞ得て化せんや」と。徳彝対する能わず。然れども心に以て不可と為す。帝之を納れて疑わず。是に至りて、天下大治す。蛮夷の君長、衣冠を襲い、刀を帯びて宿衛す。東は海に薄く、南は嶺を逾え、戸闔として閉ざさず、行旅糧を齎さず、道に取りて給す。帝群臣に謂いて曰く、「此れ徴の我に行わしむる所の仁義、既に效あれり。惜しむらくは封徳彝に見せしめざるを」と。
俄かに侍中を検校し、爵を進めて郡公と為す。帝九成宮に幸す。宮禦、湋川宮の下に舎す。僕射李靖・侍中王珪継ぎて至る。吏、館を改め宮禦を以て靖・珪に舎せしむ。帝聞きて怒りて曰く、「威福是等よりするか。何ぞ我が宮人を軽んずる」と。詔して並びに之を按ぜしむ。徴曰く、「靖・珪は皆陛下の腹心の大臣なり。宮人は止むるに後宮の掃除の隷のみ。方に大臣出ずれば、官吏朝廷の法式を諮り、帰り来れば、陛下人間の疾苦を問う。夫れ官舎は固より靖等の官吏に見ゆる所なり。吏謁せざるべからず。宮人に至りては則ち然らず。供饋の余り参承する所無し。此を以て吏を按ずるは、且つ天下の耳目を駭かさん」と。帝悟り、寝て問わず。
後に丹霄楼にて宴を開き、酒席で長孫無忌に言うには、「魏徴、王珪は隠太子・巣刺王に仕えていた頃、確かに憎むべき者であったが、朕は怨みを棄てて才能を用いることができ、古人に恥じぬ。しかし魏徴は毎度諫めても朕が従わぬと、朕が発言しても直ちに応えず、何故か」と。魏徴は言う、「臣は事に不可なるものがあるゆえに諫めるのであり、もし従わぬのに直ちに応じれば、恐らく遂に行われることになるでしょう」と。帝は言う、「ただ応えるだけでなく、別に論を陳べるべきではなかったか」と。魏徴は言う、「昔舜が群臣に戒めて言われた、『汝ら面従するなかれ、退いて後言あれ』と。もし面従しておきながら、ようやく別に論を陳べるなら、これは後言であり、稷や契が堯・舜に仕えたやり方ではありません」と。帝は大笑いして言う、「人は魏徴の挙動が粗慢だと言うが、朕はただその嫵媚たるを見るのみだ」と。魏徴は再拝して言う、「陛下が臣を導いて言わせるからこそ、敢えてこのようにするのです。もし受け容れられなければ、臣が何度も逆鱗に触れることができましょうか」と。
十年、侍中となる。尚書省に滞訟して決せざるものあり、詔して魏徴に平治せしむ。魏徴は平素より法を習わず、ただ大綱を存し、事を処するに情をもってし、人々悦服す。左光禄大夫・鄭国公に進む。病多く、職を辞す。帝は言う、「公はただ金が鉱中にあるとき何の貴ぶに足らぬかを知らぬのか。善く冶鍛して器となせば、人は乃ちこれを宝とする。朕はまさに自ら金に比し、卿を良匠としてこれに磨きを加えんとす。卿は病むといえども、未だ衰えに及ばず、どうしてすぐにそうせんとするのか」と。魏徴は懇請すれども、数度退けられるほどに却って固くなる。乃ち特進を拝し、門下省事を知り、詔して朝章国典、得失を参議せしめ、禄賜・国官・防閤は並びに職事と同じくす。
文徳皇后が既に葬られると、帝は苑中に層観を造り、以て昭陵を望まんとし、魏徴を引きてともに昇る。魏徴は熟視して言う、「臣は目が昏く、見えません」と。帝が指し示すと、魏徴は言う、「これは昭陵でしょうか」と。帝は言う、「然り」と。魏徴は言う、「臣は陛下が献陵を望んでおられると存じました。昭陵ならば、臣は確かに見えます」と。帝は泣き、観を毀つ。尋いで五礼を定め、一子を県男に封ずるに当たり、魏徴は孤兄の子叔慈を封ぜんことを請う。帝は愴然として言う、「これは俗を励ますことができる」と。即ちこれを許す。
後に洛陽に幸し、昭仁宮に次ぐ。多く譴責す。魏徴は言う、「隋はただ食を献ぜざることを責め、あるいは供奉精しからざるを責め、このために限りなく、遂に亡ぶに至りました。故に天命は陛下に代わらしめ、正に兢懼戒約すべき時に当たります。どうして人に奢らざることを悔いさせんとするのですか。もし足りると為せば、今は足りるのみならず。もし足らざると為せば、万倍しても寧ろ足ることがありましょうか」と。帝は驚いて言う、「公でなければこの言葉を聞くことはなかった」と。退いてまた上疏して言う。
『書経』に「明徳慎罰」「惟れ刑を恤れ」と称す。『礼記』に言う、「上為り易く事へ、下為り易く知らば、則ち刑煩はしからず」「上多く疑わば、則ち百姓惑う。下知り難ければ、則ち君長労す」と。上易く事へ、下易く知らば、君長労せず、百姓惑わず。故に君に一徳あれば、臣に二心なし。刑賞の本は、善を勧め悪を懲らすに在り。帝王の与うる所は、天下に画一にして、親疏貴賤によって軽重せざるなり。今の刑賞は、或いは喜怒により、或いは好悪より出づ。喜べば則ち法の中に刑を矜み、怒れば則ち律の外に罪を求む。好めば則ち皮を鑽り羽を出だし、悪めば則ち垢を洗い瘢を索む。蓋し刑濫れば則ち小人の道長じ、賞謬れば則ち君子の道消ゆ。小人の悪懲らさず、君子の善勧めずして、治安刑措を望むは、聞く所にあらず。且つ暇豫として言うときは、皆孔・老を敦尚す。威怒に至っては、則ち専ら申・韓に法る。故に道德の旨未だ弘からずして、鍥薄の風先ず揺らぐ。昔、州犁が上下其の手を為して楚の法以て敝れ、張湯が軽重其の心を為して漢の刑以て謬る。況んや人主にして自ら高下するにおいてをや。頃者、人を罰するや、或いは供張贍わざるを以てし、或いは欲に従えざるを以てす。皆な治を致すの急に非ざるなり。貴は驕と期せずして驕自ずから至り、富は奢と期せずして奢自ずから至る。徒らに語るのみに非ず。
且つ我が代わる所は、実に隋に在り。隋の府蔵を以て今の資儲に況え、隋の甲兵を以て今の士馬に況え、隋の戸口を以て今の百姓に況うれば、長を挈き大を度るに、何ぞ等級かあらんや。然るに隋は富強にして喪び、之を動かしたるなり。我は貧寡にして安んじ、之を静かにしたるなり。静かにすれば則ち安く、動かせば則ち乱る。人は皆な之を知る。隠れて見難く、微にして察し難きに非ざるなり。平易の途を蹈まずして、覆車の轍に遵うは、何ぞや。安きに危うきを思わず、治まるに乱るるを念わず、存するに亡ぶるを慮わざるなり。隋の未だ乱れざる時、自ら必ず乱れ無しと謂い、未だ亡びざる時、自ら必ず亡びずと謂う。以て甲兵亟に動き、徭役息まず、以て戮辱に至りて、滅亡の由る所を悟らざるなり。豈に哀しまざらんや。形の美悪を監むるには、必ず止水に就く。政の安危を監むるには、必ず亡国を取る。『詩』に曰く、「殷の鑒遠からず、夏后の世に在り」と。臣願わくは、当今の動静、隋を以て鑒と為し、則ち存亡治乱得て知るべし。危うき所以を思えば則ち安く、乱るる所以を思えば則ち治まり、亡ぶる所以を思えば則ち存す。存亡の在る所は、嗜欲を節し、遊畋を省み、靡麗を息め、不急を罷め、偏聴を慎み、忠厚に近づき、便佞を遠ざくるのみ。之を守るは易く、之を得るは実に難し。今既に其の難きを得たり。豈に其の易きを保たざらんや。保つこと固からざれば、驕奢淫泆以て之を動かす所以あり。
先に、帝、飛仙宮を作る。魏徴上疏して曰く。
隋は天下を有すること三十餘年、風は萬里に行き渡り、威は殊俗に迫るも、一朝にしてこれを挙げて棄つるに至れり。かの煬帝は、豈に治安を悪み、滅亡を喜べる者ならんや。その富強を恃み、後患を慮らざるなり。天下を駆り、萬物を役し、以て自ら奉養し、子女玉帛を求むるは是れなり、宮宇台榭を飾るは是れなり、徭役に時なく、干戈休まず、外には威重を示し、内には険忌を行い、讒邪の者は進み、忠正の者は退き、上下相蒙き、人は命に堪えず、以て匹夫の手に殞ち、天下の笑いとなる。聖哲機に乗じ、その危溺を拯う。今や宮観台榭は、尽くこれに居る。奇珍異物は、尽くこれを収む。姫姜淑媛は、尽く側に侍る。四海九州は、尽く臣妾となる。若し彼の亡ぶる所以を鑑み、我の得る所以を念い、宝衣を焚き、広殿を毀ち、卑宮に安処せば、徳の上なり。若し成功を廃せず、即ちその旧に仍り、その不急を除かば、徳の次なり。王業の艱難を惟わず、天命を恃むべしと謂い、基に因り旧を増し、甘心して侈靡に赴き、人に見えざるは徳にして、聞こゆるは労役のみ、これ下たるなり。暴を以て暴に易え、乱と同道す。夫れ事を作して法とせずんば、後これを見る無し。人怨み神怒れば、則ち災害生ず。災害生ずれば、則ち禍乱作す。禍乱作して、能く身名を以て令終すること鮮し。
この歳、大雨あり、穀水・洛水溢れ、宮寺十九を毀ち、居人六百家を漂わす。徴、事を陳ぶるに曰く、
臣聞く、国は徳礼に基づき、誠信に保たる。誠信立てば、則ち下に二情無く、徳礼形あらわれれば、則ち遠者来たり格る。故に徳礼誠信は、国の大綱にして、斯須も廃すべからず。伝に曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」「古より皆死有り、民信無くんば立たず」と。又曰く、「同じく言いて信あれば、信は言の前に在り。同じく令して行なわれれば、誠は令の外に在り」と。然らば則ち言いて行なわざれば、言信無きなり。令して従わざれば、令誠無きなり。信無きの言、誠無きの令は、君子為さざるなり。
王道休明にしてより、十餘載を綿ぬるも、倉廩愈々積み、土地益々広し。然るに道德日々に博からず、仁義日々に厚からず。何ぞや。下を待つ情、未だ誠信を尽くさざるによりてなり。善始の勤め有りと雖も、克終の美無し。故に便佞の徒、その巧みを肆にし、同心を朋党と謂い、告訐を至公と謂い、強直を擅権と謂い、忠讜を誹謗と謂う。これを朋党と謂えば、忠信と雖も疑わしく、これを至公と謂えば、矯偽と雖も咎無し。強直なる者は擅権を畏れて尽くすことを得ず、忠讜なる者は誹謗を慮って敢えてこれと争わず。視聴を熒惑し、大道に郁がり、化を妨げ徳を損うこと、これに甚だしきは無し。
今、治を致さんと欲すれば則ちこれを君子に委ね、得失は或いは諸を小人に訪う。是れ誉毀常に小人に在り、而して督責常に君子に加う。夫れ中智の人、豈に小恵無からんや。然れども慮い遠く及ばず、竭き力を尽くし誠を尽くすと雖も、猶お免れず傾敗せん。況んや内に奸利を懐き、顔を承け旨に順う者をや。故に孔子曰く、「君子にして不仁なる者有り、未だ小人にして仁なる者あらざるなり」と。然らば則ち君子も小悪無き能わず、悪積もらざれば正を害せず。小人時に小善有り、善積もらざれば以て忠たらず。今これを善人と謂いて、復たその信ならざるを慮う、直木を立ててその影の曲がるを疑うに何ぞ異ならん。故に上信無ければ則ち以て下を使う無く、下信無ければ則ち以て上に事うる無し。信の義たるや大なり。
昔、斉の桓公、管仲に問うて曰く、「吾酒を爵に腐らしめ、肉を俎に腐らしめんと欲す。霸を害すること無からんや」と。管仲曰く、「此れ固よりその善き者に非ざれど、然れども霸を害せず」と。公曰く、「何如ならば則ち霸を害するや」と。曰く、「人を知ること能わざるは、霸を害す。知りて用いること能わざるは、霸を害す。用いて任ずること能わざるは、霸を害す。任じて信ずること能わざるは、霸を害す。既に信じて又小人をしてこれを参わらしむるは、霸を害す」と。晋の中行穆伯、鼓を攻むること経年にして下すこと能わず。饋閑倫曰く、「鼓の嗇夫、閑倫これを知る。請う、士大夫を疲れしむること無くして、鼓を得ん」と。穆伯応えず。左右曰く、「一戟を折らず、一卒を傷つけずして、鼓を得べし。君何ぞ為さざる」と。穆伯曰く、「閑倫の人たるや、佞にして仁ならず。若し閑倫をしてこれを下さしめば、吾賞せざるべからず。若しこれを賞せば、是れ佞人を賞するなり。佞人志を得ば、是れ晋国をして仁を捨てて佞を為さしむるなり。鼓を得ると雖も、何を用いん」と。夫れ穆伯は列国の大夫、管仲は覇者の佐なり。猶お信任を慎み、佞人を遠避することを能う。況んや陛下の上聖においてをや。若し君子小人の是非雑らざらしめんと欲せば、必ずこれに徳を以て懐け、信を以て待ち、義を以て厲し、礼を以て節せよ。然る後に善を善とし悪を悪とし、罰を審かにし賞を明らかにせば、無為の化何ぞ遠からんや。善を善として進めず、悪を悪として去らず、罰有罪に及ばず、賞有功に加わらざれば、則ち危亡の期或いは保つべからず。
帝、手詔を下して嘉み答えらる。ここにおいて、明徳宮玄圃院を廃し、水害に遭える者に賜う。
他日、群臣を宴するに、帝曰く、「貞観以前、我に従いて天下を定め、間関草昧の功は、玄齢なり。貞観以後、忠諫を納れ、朕の違いを正し、国家の長利を為すは、徴のみ。古の名臣と雖も、何を以てか加えん」と。親しく佩刀を解き、以て二人に賜う。帝嘗て群臣に問う、「徴と諸葛亮と孰れか賢なる」と。岑文本曰く、「亮は才将相を兼ね、徴の比ぶる所に非ず」と。帝曰く、「徴は仁義を蹈み履み、以て朕躬を弼け、之を堯・舜に致さんと欲す。亮と雖も以て抗う無し」と。時に上封する者衆く、或いは事に切らざるあり。帝これを厭い、譙黜を加えんと欲す。徴曰く、「古者は謗木を立て、己が過ちを聞かんと欲す。封事は、その謗木の遺れるか。陛下得失を聞かんと思わば、当にその陳ぶる所を恣にすべし。言にして是なれば、朝廷の益たり。非なれば、政を損うこと無し」と。帝悦び、皆労いて遣わす。
臣帷幄に奉侍すること十餘年、陛下臣に仁義の道を許し、守りて失わず、儉約朴素、終始渝らざることを。徳音耳に在り、敢えて忘れず。頃年以来、浸に克終し難し。謹んで条陳を用い、萬分の一に裨わん。
禍福は門無く、ただ人の召すところ、人に釁なきとき、妖は妄りに作らず。今、旱熯の災、遠く郡国に被り、凶醜の孽、轂下より起こる。これは上天の戒めを示す、すなわち陛下が恐懼憂勤すべき日である。千載の休期、時は再び得難し、明主は為すべくして為さず、臣の鬱結して長歎する所以なり。
疏が奏上されると、帝は言われた、「朕は今過ちを聞いた。改めて、善道を終わらんことを願う。この言葉に違うことがあれば、何の顔を以て公と相見えようか。今まさに上った疏を、屏風に列ね、朝夕これを見、また書き写して史官に付し、万世に君臣の義を知らしめん」。そこで黄金十斤、馬二匹を賜う。
高昌が平定され、帝は両儀殿で宴を開き、歎いて言われた、「高昌もし徳を失わなければ、どうして亡ぶに至らんや。しかし朕もまた自ら戒め、小人の言を以て君子を議せず、ほとんど安んずるを得ん」。魏徴は言った、「昔、斉の桓公が管仲・鮑叔牙・甯戚の四人と飲んだとき、桓公は叔牙に請うて言われた、『どうして起って寡人のために寿を祝わぬか』。叔牙は觴を奉じて起ち、言った、『願わくは公、莒に在りし時を忘れず、管仲をして魯に束縛された時を忘れず、甯戚をして車下で牛に飯を食わせた時を忘れしめよ』。桓公は席を避けて謝し、『寡人と二大夫、夫子の言を忘れざれば、すなわち社稷危うからず』と言われた」。帝は言われた、「朕は布衣の時を忘れず、公は叔牙の為人を忘れるなかれ」。
帝は使者を西域に遣わして葉護可汗を立てたが、未だ還らず、また使者を遣わし金帛を齎して諸国に馬を買わせた。魏徴は言った、「今、可汗を立てる事未だ定まらず、すなわち諸国に詣って馬を買えば、彼らは必ずや意は馬に在り、可汗を立てるに在らずと思わん。可汗が立てられたとしても、必ずや恩を懐かざらん。諸蕃がこれを聞けば、中国は義を薄くし利を重んずると思い、馬を得ずして先に義を失わん。魏の文帝が西域の大珠を求めて買おうとしたとき、蘇則は、恵み四海に及べば、求めずして自ずから至る。求めて得たものは、貴ぶに足らぬ、と言った。陛下は蘇則の言を畏れざらんや」。帝は遂に止めた。
この後、右僕射が欠け、魏徴を用いようとしたが、魏徴が辞したので、拝せずに済んだ。皇太子承乾と魏王泰が互いに悪しみ合うと、帝は言われた、「当今、忠謇にして貴重なるは魏徴に過ぐる者なし。朕が彼を皇太子の傅とすれば、天下の望み一つにして、羽翼固からん」。即ち太子太師に拝した。魏徴は病を理由に辞したが、詔で答えて言われた、「漢の太子は四皓を助けとし、我は公に頼る、その義同じ。公は臥すとも、全うするを擁せん」。
十七年、病甚だ篤し。魏徴の家には初め正寝が無かったので、帝は小殿の材を止めて営構させ、五日で完成し、併せて素の褥と布の被を賜い、その志に従わせた。中郎将に命じてその邸に宿直させ、動静は常に聞かせ、薬膳の賜遺は数知れず、中使は道に連なった。帝は親しく病を問い、左右を屏い、語ること終日にして還った。後にまた太子と共に李臻を魏徴の邸に至らせると、魏徴は朝服を加え、帯を引きずった。帝は悲しみ悶え、これを撫でて涙を流し、何か望むことはないかと問うた。答えて言った、「嫠は緯を恤れず、宗周の亡ぶを憂う」。帝は衡山公主をその子の叔玉に降嫁させようとした。時に公主も従っていたので、帝は言われた、「公、強いて新婦を見よ」。魏徴は謝することができなかった。この夜、帝は夢に魏徴が平生の如くあり、朝に及んで、薨じた。帝は臨哭し、そのために慟哭し、五日間朝を罷めた。太子は西華堂で哀を挙げた。詔して内外の百官と朝集使を皆喪に赴かせ、司空・相州都督を贈り、諡して文貞と曰い、羽葆・鼓吹・班剣四十人を給し、昭陵に陪葬させた。葬らんとするとき、その妻の裴氏が辞して言った、「魏徴は平素倹約でした。今、一品の礼を仮り、儀物が褒大では、魏徴の志に非ず」。許され、乃ち素車を用い、白布の幨帷とし、塗車・芻霊は無かった。帝は苑の西楼に登り、望み哭きて哀を尽くした。晋王は詔を奉じて祭を致した。帝は碑に文を作り、遂にこれを書した。また家に封戸九百を賜うた。
帝后(文徳皇后)が臨朝して嘆いて曰く、「銅を以て鑑と為せば、衣冠を正すべし。古を以て鑑と為せば、興替を知るべし。人を以て鑑と為せば、得失を明らかにすべし。朕嘗て此の三鑑を保ち、内に己が過ちを防ぐ。今魏徴逝きて、一鑑亡せり。朕比(近頃)人をして其の家に至らしむるに、書一紙を得たり。始めは半稿なり。其れ識る可き者に曰く、『天下の事、善有り悪有り。善人を任ずれば則ち国安く、悪人を用いれば則ち国弊る。公卿の内、情に愛憎有り。憎む者は唯其の悪を見、愛する者は止其の善を見る。愛憎の間、詳慎すべし。若し愛して其の悪を知り、憎んで其の善を知り、邪を去るに疑わず、賢を任ずるに猜わずんば、以て興すべし』と。其の大略此の如し。朕顧みて之を思うに、恐らくは斯の過ちを免れざらん。公卿侍臣は之を笏に書き、知りて必ず諫めよ」と。
魏徴の状貌は中人を逾えず、志胆有り、毎に顔を犯して進諫し、帝の甚だ怒るに逢うも、神色徙わず。而して天子も亦た威を霽らす。議者、賁(孟賁)・育(夏育)も過ぎ能わずと謂う。嘗て塚に上りて還り、奏して曰く、「向に陛下に関南の行有りと聞く。既に辦えて而して止む。何ぞや」と。帝曰く、「卿を畏るるが故に、遂に停めたり」と。初め、喪乱の後、典章湮散す。魏徴奏して諸儒を引いて秘書を校集せしむ。国家の図籍、粲然として完整なり。嘗て『小戴礼』を以て綜匯倫ならずとし、更に『類礼』二十篇を作る。数年にして成る。帝其の書を美しとし、録して内府に寘く。帝本兵を以て天下を定む。既に治むと雖も、四夷を経略するを忘れず。故に魏徴宴に侍するに、『破陣武徳舞』を奏すれば、則ち俯首して顧みず。『慶善楽』に至れば、則ち諦玩して斁うこと無し。挙げて諷切する所有ること此の如し。
魏徴亡き後、帝思うこと已まず、凌煙閣に登り画像を観、詩を賦して悼痛す。聞く者之を媢み、毀短百方為す。魏徴嘗て杜正倫・侯君集を薦めて才宰相に任ずべしとす。正倫罪を以て黜せられ、君集逆に坐して誅せらるるに及び、纖人(小人)遂に指して阿党と為す。又言う、魏徴嘗て前後諫争の語を録して史官褚遂良に示すと。帝滋に悦ばず、乃ち叔玉の昏(婚)を停め、而して為す所の碑を僕す。顧みるに其の家衰えたり。
遼東の役、高麗・靺鞨陣を犯す。李勣等力戦して之を破る。軍還り、悵然として曰く、「魏徴若し在らば、吾れ此の行有らんや」と。即ち其の家を行在に到らしめ、妻子を賜労し、少牢を以て其の墓を祠り、復た碑を立て、恩礼を加う。
四子有り。叔玉・叔琬・叔璘・叔瑜。叔玉爵を襲ぎて光禄少卿と為る。神龍初、其の子膺を以て封を紹ぐ。叔璘、礼部侍郎、武后の時、酷吏に殺さる。叔瑜、豫州刺史、草隸に善くし、筆意を以て其の子華及び甥薛稷に伝う。世に善書の者を称して「前に虞(世南)・褚(遂良)有り、後に薛(稷)・魏(華)有り」と。華、検校太子左庶子・武陽県男と為る。開元中、寝堂火す。子孫三日哭す。詔して百官をして赴吊せしむ。魏徴五世孫に謨有り。
五世孫 謨
謨、字は申之、進士第に擢でられ、同州刺史楊汝士長春宮巡官に辟す。文宗『貞観政要』を読み、魏徴の賢を思い、詔して其の後を訪わしむ。汝士薦めて右拾遺と為す。謨姿宇魁秀、帝之を異とす。
邕管経略使董昌齢、参軍衡方厚を誣いて殺し、漵州司戸に貶せられ、俄して峽州刺史に徙る。謨諫めて曰く、「王者罪有るを赦すも、故なるは赦さず。比(近頃)昌齢専ら辜なきを殺す。事蹟暴章し、家人冤を銜み、万里投訴す。獄窮まり罪得たり。特い矜貸せらる。中外法を屈せりと為す。今又刺史を授け、復た人を治めしむ。憲章を紊し、至治に乖る。其の可なるを見ず」と。詔有りて洪州別駕に改む。
御史中丞李孝本、宗室の子、李訓の事に坐して誅死す。其の二女宮に没入せらる。謨上言して曰く、「陛下即位し、声色を悦ばず、今に十年、未だ嘗て采擇せず。数月以来、稍く声伎を意し、教坊閲選し、百十未だ已まず。庄宅収市し、沄沄(多く)として聞く有り。今又孝本の女を取って内れ後宮にす。宗姓育たず、寵倖累いと為り、治道の本を傷け、塵穢の嫌を速にす。諺に曰く、『寒を止むるは重裘に若くは莫く、謗を止むるは自修に若くは莫し』と。惟わくは陛下千載の盛徳を崇び、一旦の玩好を去らんことを」と。帝即ち孝本の女を出だし、詔して曰く、「乃祖貞観の時在りて、事を指して直言し、避くるところ無し。毎に国史を覧るに、朕之を嘉す。謨拾遺と為り、屡献納有り。夫れ灑埽を内に備うるは、声妓と曰うに非ず。宗女の幼きを恤むは、漁取と為さず。然れども疑似の間、戸に曉す可からず。謨の辞深切、其れ我が失を惜しむ、亦た至らざらんや。謨位に居る日浅しと雖も、朕何ぞ一官を愛しみて、直臣の気を増さざらん。其れ謨を以て右補闕と為せ」と。
先ず是れ、帝宰相に謂いて曰く、「太宗徴を得て、闕失を参裨す。朕今謨を得て、又能く極諫す。朕敢えて仰いで貞観を希わず、庶わくは過無き地に処らん」と。教坊に工新声を善く為す者有り。詔して揚州司馬を授く。議者頗る司馬の品高く、郎官・刺史迭に処るも、以て賤工に授くべからずと言う。帝意之を右く。宰相諫官に諭して復た言う勿れとす。謨独り固く諫めて不可とす。工潤州司馬に降す。荊南監軍呂令琛、傔卒を縦して江陵令を辱しむ。観察使韋長避けて発せず、内枢密使に移して状を言う。謨長を劾して察廉を任じ、監軍の官司を侵屈するを知りて、上聞にせず、私に近臣に白し、法度を乱す。請う其の罰を明らかにせんと。報いず。
俄して起居舎人と為る。帝問う、「卿が家に書詔頗る存する者有るか」と。謨対えて曰く、「惟だ故笏在り」と。詔して上送せしむ。鄭覃曰く、「人に在りて笏に在らず」と。帝曰く、「覃朕が意を識らず。此の笏乃ち今の甘棠なり」と。帝因りて謨に敕して曰く、「事不當なる有らば、論奏を嫌う毋れ」と。謨対えて曰く、「臣頃ごろ諫臣と為りし故に、陳する所有り得たり。今則ち言動を記す。敢えて官を侵さず」と。帝曰く、「両省の属皆朝廷の事を議す可く、而して辞する毋れ」と。帝起居注を索む。謨奏して曰く、「古左・右史を置き、得失を書して、以て鑒戒を存す。陛下の為す所善ければ、畏れずして書かざる無し。善からざれば、天下の人も亦た之を記す所有り」と。帝曰く、「然らず。我既に嘗て之を観たり」と。謨曰く、「向者観るを取りしは、史氏の失職なり。陛下一たび見れば、則ち後来の書く所必ず諱屈有り、善悪実ならず。以て史と為す可からず。且つ后代何を以てか信ぜん」と。乃ち止む。
中尉仇士良、妖民賀蘭進興及び党与を捕えて軍中に治む。反状且に成らんとす。帝自ら臨問し、詔命して囚を斬りて以て徇めとす。御史中丞高元裕建言す、「獄は当に衆と之を共にすべし。刑部・大理は法官なり。大獄を決するに与り知らずんば、律令何を謂わん。請う有司に帰せん」と。未だ報いず。謨上言して曰く、「事軍に係れば、即ち軍中に推す。斉民の如きは、宜しく府県に付すべし。今獄有司に在らず。法軽重有り。何に従ってか知らん」と。帝決を停め、詔して神策軍に官兵を以て仗内に留め、余りを御史台に付す。台士良を憚り、敢えて異にせず。卒に皆誅死す。諫議大夫に擢で、兼ねて起居舎人・弘文館直学士と為す。謨固く譲りて可と見えず。乃ち拝す。
始め謨の進用は、李玨・楊嗣復が実に推挙引き立てたのである。武宗が立つと、謨は二人の党に坐して、汾州刺史として出され、俄かに信州長史に貶せられた。宣宗が嗣位すると、郢・商二州刺史に移され、召されて給事中を授けられ、御史中丞に遷った。駙馬都尉杜中立の奸贓を発し、権戚は気を縮めた。俄かに戸部侍郎事を兼ね、謨は奏上して「中丞は紀綱の寄せるところ、雑に銭穀を領すべからず、専ら戸部を治むることを乞う」と言った。詔して可とした。頃にして、同中書門下平章事に進んだ。建言して「今天下は粗治まるも、惟だ東宮未だ立たず、早く正人を以て傅導せずんば、副貳の重きを存する所以に非ず」と言い、且つ泣下した。帝は感動せられた。敬宗の後より、儲嫡の事を言うを悪み、故に公卿敢えて開陳する者無し。時に帝春秋高く、嫡嗣未だ辨ぜず、謨輔政して、白く其の端を発し、朝議は重しと帰した。
会に詹毘国象を献ず。謨は以て土性に非ずと為し、畜うべからず、其の献を還すことを請う。詔して可とした。河東節度使李業は降虜を殺し、辺部震擾す。業は内に憑藉を恃み、人敢えて言う者無し。謨は奏して滑州に徙す。中書侍郎に遷る。大理卿馬曙は犀鎧数十首有り、懼れて之を瘞す。奴王慶は怨みを以て告げて、曙が甲を蔵して異謀有りとす。之を按ずるに他状無し。曙を嶺外に投じ、慶は免る。議者奴の主を訴うるは、法聴かずと謂う。謨は律を引き固く争い、卒に慶を死に論ず。累遷して門下侍郎、戸部尚書を兼ぬ。
大中十年、平章事として剣南西川節度使を領す。上疾を以て代を求め、召されて吏部尚書を拝す。久疾に因り、検校尚書右僕射・太子少保となる。卒す。年六十六。司徒を贈られる。
謨宰相と為り、天子の前に事を議す。他の相或いは委しく抑えて規諷すれども、惟だ謨は讜切にして回畏する所無し。宣宗嘗て曰く「謨は名臣の孫、祖風有り、朕心之を憚る」と。然れども卒に剛正を以て令狐綯に忌まれ、讒して之を罷む。
【贊】
贊して曰く、君臣の際、顧みて難からずや。徴の忠を以て、太宗の睿に、身歿する未だ幾ばくもあらずして、猜譖遽に行わる。始め、徴の諫は、累ねて数十余万言、君子小人に至るまで、嘗て帝に之を言うに反復せざる無く、以て佞邪の忠を乱るを為す。久しく猶免れず。故に曰く「皓皓たる者は汚れ易く、嶢嶢たる者は全うし難し」と。古より歎う所と云う。唐の柳芳は称えて「徴死して、知る知らざる莫く恨惜せずと為さず、以て三代の遺直と為す」と。諒なるかな。謨の論議挺挺たり、祖風烈有り。詩に所謂「是を以て之に似る」なる者か。