新唐書

巻九十六 列傳第二十一 房玄齡 杜如晦弟:楚客 叔父:淹 五世孫:元穎 六世孫:審權 七世孫:讓能

房玄齡

房玄齡、字は喬、齊州臨淄の人。父は彦謙、隋に仕え、司隸刺史を歴任した。玄齡は幼少より聡敏で、典籍を貫通し綜覧し、文章をよくし、書は草書・隷書を兼ねた。開皇年間、天下は統一され、皆が隋の国祚は永く続くと言う中、玄齢は密かに父に言うには、「上(皇帝)には功徳がなく、ただ周の近親であることを頼み、妄りに誅殺を行い、神器を奪ってこれを有し、子孫のために長久の計を立てず、嫡庶の別を乱して置き、奢侈と僭越を競い、互いに傾軋し争い、結局は内輪で誅殺し合うことになるでしょう。今を見れば平穏ではあるが、その滅亡は、すぐにでも来るでしょう」と。彦謙は驚いて言うには、「妄言を慎め!」と。十八歳で進士に挙げられた。羽騎尉に授けられ、秘書省で校仇に当たった。吏部侍郎高孝基は人を見ることで名を知られ、裴矩に言うには、「私は多くの人を見てきたが、この郎君のような者は未だいない。必ずや国の宝器となるだろうが、ただその聳え立つ谷、天を仰ぐ雲の姿を見られないのが残念だ」と。隰城尉に補せられた。漢王諒が反乱を起こすと、連座して上郡に移された。中原がまさに乱れているのを見て、慨然として天下を憂うる志を抱いた。父の病に際しては、百日の間、衣を解かず、喪に服しては、五日間、一匙の水も口にしなかった。

太宗が燉煌公として渭北を巡行した時、策を杖いて軍門に上謁し、一見して旧知の如く、渭北道行軍記室参軍に任じられた。公が秦王となると、即座に王府記室に任じ、臨淄侯に封ぜられた。征伐に従わないことはなく、衆は怪しい珍品を争って取る中、玄齡は独り人物を収めて幕府に招き、諸将と密かに結び合い、人々は皆、死力を尽くすことを願った。王は嘗て言うには、「漢の光武帝が鄧禹を得て、門下の者たちはますます親しくなった。今、私に玄齡がいるのは、ちょうど鄧禹のようなものだ」と。王府に出入りすること十年、軍符や府の檄文は、時に馬を停めて即座に作成し、文章は簡約で道理を尽くし、初めから草稿を残さなかった。高祖こうそは言うには、「この人の機略と識見は、委任するにふさわしい。毎度、我が児(太宗)のために事を陳べる時は、千里の外にいても、対面して語るが如しである」と。

隠太子(建成)が王(太宗)と不和になると、王は玄齡を召して策を諮り、答えて言うには、「国の難は世に有るものですが、ただ聖人のみがこれを克服できます。大王の功は天下に蓋い、ただ人の謀略によるだけでなく、神もまた助けているのです」と。そこで杜如晦を引き合わせて大計を協判させた。累進して陝東道大行台考功郎中・文学館学士となった。故に太子(建成)は二人を忌み嫌い、帝(高祖)に讒言して、二人は共に斥けられて邸宅に戻された。太子が変事を起こそうとした時、王は二人を方士の服を着せて召し入れ、夜に事を計った。事が平定され、王が皇太子となると、右庶子に抜擢した。太子が即位すると、中書令となった。功績を評して賞を班つけ、杜如晦・長孫無忌・尉遅敬徳・侯君集と共に功第一とされ、爵を進めて邗国公とされ、食邑千三百戸を賜り、その他は皆、順次に封拜された。帝は群臣を顧みて言うには、「朕が公等の功を論じ、封邑を定めるに当たり、恐らく尽くせないことがあろう。遠慮なく、各々朕のために言え」と。淮安王神通が言うには、「義兵が起こった時、臣の軍勢が最も先に到着しました。今、玄齡らが刀筆の吏(文官)として第一に居るのは、臣には理解できません」と。帝は言うには、「叔父の軍勢が確かに先に到着したが、しかし自ら戦陣の労を取ったことはない。故に竇建徳が南進した時は、軍は敗れて振るわず、劉黒闥を討伐した時は反乱が動き、風の便りを聞くやただちに奔った。今、玄齢らには帷幄の中で勝を決し、社稷を定める功がある。これは蕭何しょうかが諸将に先んじた所以である。叔父は親族として、惜しむべきではないが、しかし私情によって功臣と先後を競うわけにはいかないのだ」と。初め、将軍丘師利らは皆、驕慢に腕まくりをし、あるいは指をさし示して自らを陳説していたが、神通が恥じて屈服するのを見て、言うには、「陛下は極めて私情を挟まず、我々が妄りに訴えることができようか!」と。

尚書左僕射に進み、国史を監修し、改めて魏国公に封ぜられた。帝は言うには、「公が僕射たるものは、朕のために耳目を広げ、賢材を訪ねるべきである。聞くところによれば、毎日数百件の訴訟文書を閲しているというが、どうして人材を求める暇があろうか」と。そこで細務は左右丞に属させ、大事のみを僕射に関わらせるよう命じた。

帝が嘗て問うには、「創業と守文(治世を守る)とは、どちらが難しいか」と。玄齢は言うには、「時は草昧(混乱期)にあり、群雄が競い逐い、攻め破って初めて降伏させ、戦いに勝って初めて克服するのだから、創業の方が難しい」と。魏徴は言うには、「王者が興るには、必ず衰乱に乗じ、昏暴を覆すもので、これは天が授け人が与えるところでしょう。天下を得た後は、驕りと安逸に安んじます。民は静かでありたいのに、徭役がこれを苦しめ、世は疲弊しているのに、収奪がこれを窮します。国はこれによって衰えるので、守文の方が難しいのです」と。帝は言うには、「玄齡は我と共に天下を定め、百死を冒し、一生に遇い、創業の難しさを見た。徴は我と共に天下を安んじ、富貴を畏れれば驕り、驕れば怠り、怠れば滅亡するのを見て、守文が容易でないことを知った。しかし創業の不易は、既に過ぎ去ったことである。守文の難しさを、今まさに公らと共に慎もう」と。

詔によって大臣の世襲が行われ、宋州刺史に任じられ、封国を梁に移されたが、群臣が世襲の件を辞退したため、刺史の任は罷められ、梁国公となった。間もなく、太子少師を加えられた。初めて東宮に赴いた時、皇太子が拝礼しようとしたが、玄齡は辞して敢えて謁見せず、それで止んだ。宰相の位に十五年を積み、娘は王妃となり、息子は公主を娶り、自ら権寵が極まりに達したと思い、累次上表して位を辞したが、詔は聞き入れなかった。ほどなく、司空しくうに進み、引き続き朝政を総理した。玄齡は固く辞したが、帝は使者を遣わして言うには、「譲ることは、誠に美徳である。しかし国家が相頼みにして久しく、一日良弼を去れば、左右の手を失うが如しである。ただ公の筋力は未だ衰えていない。多く譲るなかれ」と。晉王が皇太子となると、太子太傅に改め、門下省事を知らせた。母の喪に際し、昭陵の園に塋域を賜った。喪中に官に復帰させた。遼東征伐に際しては、京師を留守した。詔に言うには、「公は蕭何の任に当たり、朕に西顧の憂い無し」と。凡そ糧食・兵器の輸送、軍隊の進発・残留は、全て裁断し総理した。玄齢は数度上書して帝を諫め、軽敵せず、外夷との戦いを長引かせぬよう願った。太子太傅の任を固く辞し、聞き入れられた。

晩年は病多く、時に帝が玉華宮に行幸した際、詔して玄齡に居守を命じ、臥して政事を治めることを許した。病状がやや重くなると、肩輿に乗って殿中に入ることを許して召し、帝は見て流涕し、玄齡もまた感咽して堪えられなかった。尚医をして診療させ、尚食をして食事を供させ、日々起居の状を奏上させた。少し良くなると、喜びを顔色に表した。玄齡は諸子を顧みて言うには、「今天下の事で成し得ないことは無いが、ただ高麗討伐だけが止まない。上(皇帝)は怒りを含み、決意は固く、群臣は敢えて諫める者もいない。私が言わなければ、地に愧じる思いを抱いたまま死ぬことになる」と。そこで上疏して言うには、

上古より臣従させ得なかった者を、陛下は皆、臣従させられ、制圧し得なかった者を、陛下は皆、制圧されました。中国の患いとなった者で、突厥に如くものはありませんでしたが、大小の可汗が相次いで手を束ね、辮髪を解き刀を握り、分かれて禁衛を司るようになりました。薛延陀・鉄勒は、州県を開いて置かれ、高昌・吐谷渾は、偏師をもって掃討されました。ただ高麗のみが歴代にわたって命令を逃れ、窮めて討つことができませんでした。陛下はそのしいしいぎゃくを責め、自ら六軍を将いて、荒遠の地に直行し、十日と経たずに遼東を抜き、数十万を虜獲し、残った者どもや悪しき君は息をひそめて敢えて息づくこともできません。まさに前世の倍の功績と言えましょう。

『易経』に曰く、「進退存亡を知りて其の正を失わざる者は、其れ惟れ聖人か」と。蓋し進むには退くの義あり、存するには亡ぶの機あり、得るには喪うの理あり、陛下のために惜しむは此れなり。傅に曰く、「足るを知れば辱しめられず、止まるを知れば殆うからず」と。陛下の威名功烈既に足ると云うべし、地を拓き疆を開くも亦た止むべし。辺夷の醜種、仁義を以て待つに足らず、常礼を以て責むるに足らず、古者は禽魚を以て之を畜う。必ず其の類を絶たんとすれば、恐らくは獣窮まれば搏たんとし、苟くも其の死を救わんとす。且つ陛下毎に死罪を決するに、必ず三覆五奏し、疏食を進め、音楽を停め、人命の重きを以て感動せしむ。今士に一罪無く、之を行陣の間に駆り、之を鋒鏑の下に委ね、肝脳を地に塗らしめ、老父孤子、寡妻慈母槥車を望み、枯骨を抱き、心を摧き泣きを掩う、其の陰陽を変動し、和気を傷害する所以は、実に天下の痛みなり。高麗に臣節を違失せしめば、之を誅す可し;百姓を侵擾せば、之を滅す可し;後世の患いと為り得ば、之を夷す可し。今是の三つ無くして、坐して中国を敝し、旧王の恥を雪ぎ、新羅の仇を報ゆるは、存する所小さく、損う所大なるに非ずや。臣願わくははい然たる詔を下し、高麗の自新を許し、陵波の船を焚き、応募の衆を罷めしめん、即ち臣死して骨朽ちずとも不朽ならん。

帝疏を得て、高陽公主に謂いて曰く、「是れ已に危懾す、尚お吾が国事を憂うる能うか」と。

疾甚だしければ、帝苑垣を鑿ちて以て候問に便ならしむるを命じ、親しく手を握りて決す。詔して皇太子をして就きて省せしむ。子遺愛を擢て右衛中郎将とし、遺則を朝散大夫とし、令して及んで之を見しむ。薨ず、年七十一、太尉・へい都督ととくを贈られ、諡して文昭と曰う、班剣・羽葆・鼓吹・絹布二千段・粟二千斛を給し、昭陵に陪葬す。高宗詔して太宗廟廷に配享せしむ。

玄齢国に当たり、夙夜勤強く、公に任じ節を竭くし、一物も其の所を失わしめんと欲せず。媢忌無く、人の善を聞けば、己れ之を有するが若し。吏治に明達し、而して文雅を以て縁飾し、法を議し令を処するに、務めて寛平を為す。己が長を以て人を望まず、人を取るに備えを求めず、卑賤と雖も皆能を尽くすを得しむ。或いは事を以て譲らるれば、必ず稽顙して罪を請い、畏惕して、容るる所無きが若く視る。

貞観末年、譴りに以て第に還る。黄門侍郎褚遂良帝に言いて曰く、「玄齢君に事うる自ら負う所無し、一眚を以て便ち斥外を示すべからず、天子の大臣を任ずる意に非ず」と。帝悟り、遽に家に於いて召す。後位を避けて出でず。久しくして、会に帝芙蓉園に幸して風俗を観る、玄齢子弟に勅して廷堂を汛掃せしめ、曰く、「乗輿且に臨幸せん」と。有る頃、帝果たして其の第に幸し、因りて玄齢を載せて還宮す。帝翠微宮に在り、司農卿李緯を以て民部尚書と為す、会に京師より来る者有り、帝曰く、「玄齢緯の尚書と為るを聞きて何と謂う」と。曰く、「惟だ緯の須の好きを称するのみ、他の語無し」と。帝遽に太子詹事に改む。帝遼を討つ、玄齢京師を守る、男子急変を上る有り、玄齢状を詰む、曰く、「我乃ち公に告ぐ」と。玄齢駅に遣わして帝を追わしむ、帝奏を視て已に、男子を斬る。詔を下して責めて曰く、「公何ぞ自ら信ぜざる」と。其の委任此の類の如し。

家を治むるに法度有り、常に諸子の驕侈にして、勢に席りて人を凌がんことを恐れ、乃ち古今の家誡を集め、屏風に書し、各に一具を取らしめ、曰く、「此に留意すれば、以て躬を保つに足らん。漢の袁氏累葉忠節、吾が心の尚ぶ所、爾宜しく之に師うべし」と。子遺直嗣ぐ。

玄齢の次子遺愛。

次子遺愛、誕率にして学無く、武力有り。高陽公主に尚し、右衛将軍と為る。公主は帝の愛する所、故に礼は他の婿と絶つ。主驕蹇にして、遺直の嫡に任ずるを疾み、遺直懼れ、爵を譲るも、帝許さず。主稍々愛を失い、意怏怏たり。浮屠の辯機と乱る、帝怒り、浮屠を斬り、奴婢数十人を殺す、主怨望し、帝崩ずるに、哭して哀しまず。高宗の時、遺直を出して汴州刺史とし、遺愛を房州刺史とす。主又た遺直の罪を誣う、帝長孫無忌に勅して鞫治せしむ、乃ち主と遺愛の反状を得、遺愛誅せられ、主は死を賜う。遺直は先勳を以て免れ、銅陵尉に貶せらる。詔して配享を停む。

杜如晦。

杜如晦、字は克明、京兆杜陵の人。祖果、周・隋の間に名有り。如晦少にして英爽、書を喜び、風流を以て自ら命じ、内に大節を負い、機に臨みて輒ち断ず。隋の大業中、吏部選に預かり、侍郎高孝基之に異なり、曰く、「君当に棟樑の用と為るべし、願わくは令徳を保て」と。因りて滏陽尉を補し、官を棄てて去る。

高祖京師を平ぐ、秦王之を引いて府兵曹参そうしん軍と為し、陝州総管府長史に徙す。時に府属多く外遷す、王之を患う。房玄齢曰く、「去る者多くと雖も、吝むに足らず、如晦は王佐の才なり。大王若し終に籓を守らば、事とす所無し;必ず四方を経営せんと欲せば、如晦を捨てて共に功を為す者無し」と。王驚きて曰く、「公の言に非ざれば、我幾くにか之を失わんとす」と。因りて表して幕府に留めしむ。征伐に従い、常に帷幄の機密に参ず。方に事多きに、裁処留まる所無く、僚属共に之を才とし、涯を見ること莫し。陝東道大行台司勳郎中に進み、建平県男に封ぜられ、文学館学士を兼ぬ。天策府建つ、中郎と為る。王皇太子と為り、左庶子を授け、兵部尚書に遷り、蔡国公に進み封ぜられ、三千戸を食み、別に益州千三百戸を食む。俄に侍中を検校し、吏部尚書を摂り、東宮の兵を総監し、尚書右僕射に進位し、仍って選を領す。

玄齢と共に朝政を筦り、士の賢者を引き、不肖を下し、咸に職を得しめ、当時に浩然として重きに帰す。監察御史陳師合『抜士論』を上り、一人数職を総ぶるべからずと謂い、陰に剴切に如晦等を諷す。帝曰く、「玄齢・如晦は勲旧を以て進まず、特だ其の才天下を治むるに与し得るを以てす、師合此を以て吾が君臣を離間せんと欲するか」と。嶺表に斥く。

久しくして、疾を以て職を辞す、詔して常俸を給し第に就かしめ、医候の使道相属す。会に病力む、詔して皇太子をして就きて問わしめ、帝親しく其の家に至り、之を撫でて梗塞す。未だ乱れざるに及び、其の子左千牛構を擢て尚舎奉御を兼ぬ。薨ず、年四十六、帝哭して慟し、開府儀同三司を贈る。及び葬るに、司空を加え、諡して成と曰う。手詔して虞世南に碑に文を勒せしめ、君臣の痛悼の意を言わしむ。

他日、瓜の美なるを食し、其の半を輟きて焉に奠む。嘗て玄齢に黄銀帯を賜い、曰く、「如晦公と共に朕を輔く、今独り公を見る」と。泫然として涙を流し曰く、「世に傅う黄銀は鬼神之を畏る」と。更に金帯を取り、玄齢を遣わして其の家に送らしむ。後忽ち如晦の平生の若きを夢み、明日玄齢に之を言い、勅して御する所の饌を往きて祭らしむ。明年の祥に、尚宮を遣わして妻子を労問し、国府の官佐も亦之を罷めず、恩礼少も衰え無し。後詔して功臣世襲せしめ、密州刺史を追贈し、国を萊に徙す。

方に相と為る時、天下新たに定まり、台閣の制度、憲物の容典、率ね二人討裁す。毎に帝の所に事を議するに、玄齢必ず曰く、「如晦に非ざれば之を籌う莫し」と。及んで如晦至れば、卒に玄齢の策を用う。蓋し如晦は断に長じ、而して玄齢は謀に善く、兩人深く相知り、故に能く同心して謀を済し、以て帝を佐佑す、当世良相を語れば、必ず房・杜と曰う。

構は慈州刺史の位に就いた。次子の荷は、性質が暴戻で詭譎、法に従わず、城陽公主を尚し、官は尚乗奉禦に至り、襄陽郡公に封ぜられた。承乾が謀反を企てたとき、荷は言った、「琅邪の顔利仁は星数を善くし、天に変あり、大事を建つるに宜し、陛下は太上皇と為るべしと。疾を称せよと請う、上必ず臨問せん、以て志を得べし」と。敗れるに及び、坐して誅せられた。刑に臨み、意気軒昂たり。構は累に以て貶せられて嶺表に死す。

如晦の弟、楚客。

如晦の弟楚客は、少より奇節を尚び、叔父の淹と共に王世充に没せられた。淹は如晦と隙有り、其の兄を譖って殺させ、併せて楚客を囚えて瀕死にせしめた。世充平らぎ、淹は誅に当たる。楚客、如晦に請うも、許さず。楚客曰く、「叔は兄を残し、今兄又叔を棄つ、門内幾くんぞ尽きざらん、豈に痛まざらんや」と。如晦感して悟り、高祖に請うて、釈せらる。方に建成の難作らんとするや、楚客は遁れて嵩山に舎す。貞観四年、召されて給事中と為る。太宗曰く、「君山に居るは之に似たり、宰相に非ざれば起たずと謂う、果たして然りや。夫れ遠きを走る者は自ら近きよりす、人は官無きを恤れず、才副わざるを患う。而して兄は我と支を異にすれども心を一にす、爾は兄の如く我に事えて我を輔くべし」と。楚客頓首して謝し、因って中郎将に擢でられる。毎に直に入るに、夕べを尽くして杖を釈かず、帝知って之を労い、蒲州刺史に進み、政に能名有り、瀛州に徙る。後に魏王府長史と為り、工部尚書に遷り、府事を摂り、威厳整肅を以て聞こゆ。帝の意承乾を薄くするを揣り、乃ち王の為に諧媚して用事の臣に交わり、数え王の聰睿なるを言いて嗣と為すべしとす、人或いは以て聞こゆ、帝隠れて恚る。王の爵を貶せらるるに及び、其の罪を暴き、如晦の功を以て死を免れ、家に廢せられ、終に虔化令に至る。

如晦の叔父、淹。

淹は字を執礼とし、材弁多聞、美名有り。隋の開皇中、其の友韋福嗣と謀りて曰く、「上は隠民を用いるを好む、蘇威は隠者を以て召され、美官を得たり」と。乃ち共に太白山に入り、仕えざる者と為る。文帝之を悪み、謫して江表に戍らしむ。赦されて還り、高孝基雍州司馬と為り、薦めて承奉郎を授け、累擢して御史中丞と為る。王世充僭号し、少吏部を署し、頗る親近して用事す。洛陽らくよう平らぎ、調を得ず、隠太子に事えんと欲す。時に封倫選を領す、以て房玄齢に諗う、玄齢之を失わんことを恐れ、秦王に白し、天策府兵曹参軍・文学館学士に引く。嘗て宴に侍し、詩を賦するに尤も工なり、銀鐘を賜う。慶州総管楊文幹反し、辞太子に連なり、罪を淹及び王珪・韋挺に帰し、並びに越巂に流す。王其の誣なるを知り、黄金三百両を餉る。践祚するに及び、召されて御史大夫と為り、安吉郡公に封ぜられ、四百戸を食む。淹、諸司の文桉稽期するを建言し、御史を以て検促せんことを請う。太宗以て僕射封倫に問う、倫曰く、「官を設くるは各其の事を以て治む、御史は不法を劾す、而して桉を索めて疵を求むるは是れ太だ苛く、且つ官を侵す」と。淹嘿然たり。帝曰く、「何ぞ執を申さざる」と。対えて曰く、「倫の引く所は国の大體、臣其の議に伏す、又何をか言わん」と。帝悦び、資博練を以て、帝勅して東宮の儀典簿最は悉く淹の裁訂を聴かしむ。俄に吏部尚書を検校し、朝政に参す。薦むる所四十人に贏たり、後皆知名なり。嘗て郅懷道の用いるべきを白す、帝状を問う。淹曰く、「懷道は隋時に及び吏部主事の位に在り、方に煬帝江都に幸するや、群臣迎えて阿るも、独り懷道執して不可とす」と。帝曰く、「卿の時何と云える」と。曰く、「臣は衆とす」と。帝折して曰く、「君に事うるには犯有りて隠無し、卿直きは懷道の者なり、何ぞ讜言せざる」と。謝して曰く、「臣位下く、又諫むるも従わざるを顧み、徒に死して益無し」と。帝曰く、「内に君を以て諫むるに足らざれば、尚何をか仕えん。隋の粟を食みて隋の事を忘るるは、忠なるか」と。因って群臣を顧みて曰く、「公等何と謂う」と。王珪曰く、「比干諫めて死す、孔子仁を称え、泄冶も諫めて亦死す、則ち曰く、'民の僻多きは、自ら辟を立つる無きなり'と。禄重く責深し、古より則ち然り」と。帝笑いて曰く、「卿隋に在りて諫めず、宜しく置くべし。世充親任す、胡ぞ言わざる」と。対えて曰く、「固より嘗て言えり、用いられず」と。帝曰く、「世充諫を愎くして非を飾る、卿如何にして免る」と。淹辞窮くして対うるを得ず。帝勉めて曰く、「今卿を任ずること已にす、諫むる未だ有るか」と。答えて曰く、「死を顧みて隠す無からん」と。貞観二年疾有り、帝為に臨問す。卒し、贈尚書右僕射、諡して襄と曰う。初め、淹二職を典し、朝廷に貴重たりしも、而して清白の名を亡くし、当世の譏りを得たり。子敬同爵を襲ぎ、官は鴻臚卿に至る。

如晦の五世孫、元穎。

如晦の五世孫元穎は、貞元末に進士第に及び、又宏詞に擢でられる。数え使府に辟署に従い、稍く右補闕を以て翰林学士と為り、文辞に敏にして、憲宗特に賞歡せらる。呉元濟平らぎ、書詔を論ずるに勤めて、司勳員外郎に遷り、制誥を知る。穆宗元穎の朝章を多く識るを以て、尤も寵せられ、中書舍人・戸部侍郎を拝し、学士承旨と為り、本官を以て同中書門下平章事、建安県男と為る。帝即位より、歳を閲せずして宰相に至り、晉紳駭異す。甫く再期にして、出でて剣南西川節度使・同平章事と為り、帝為に安福門に禦して臨餞す。

敬宗驕僻にして君に非ず、元穎毎に帝の意を中れんと欲して以て幸を固めんとし、乃ち巧みに珍異を索めて之を献じ、踵を相い躡して道に在り、百工造作程無く、斂取苛重にして、軍食を削るに至りて以て裒畜を助く。又給与時にあらず、戎人寒饑し、乃ち蛮徼に仰ぎて足れり。ここに於て人人咨苦し、反って蛮の内覘と為り、戎備修まらず。大和三年、南詔虚に乗じて戎・巂等州を襲い、諸屯賊の至るを聞けば、輒ち潰え、戍る者は鄕導と為り、遂に成都に入る。已に城に傅るも、元穎尚知らず、乃ち左右を率いて牙城に嬰りて守る。賊大いに掠め、郛郭を焚きて之を残し、数日留まりて去り、しょくの宝貨・工巧・子女尽きたり。初め、元穎計迫まり、将に身を挺して走らんとす、会うに救至りて乃ち止む。文宗使者を遣わして南詔を臨撫せしむ、南詔上言して曰く、「蜀人我に祈りて虐帥を誅せしむ、克たず、請う陛下之を誅し、以て蜀人に謝せよ」と。ここに由りて邵州刺史に貶せらる。議者厭わず、斥かれて循州司馬と為る。官属崔璜・紇幹巘・盧並悉く秩を奪われ、分かち逐う。元穎貶所に死す、年六十四。将に終わらんとし、表して官を贈ることを丐い、帰葬を乞う。詔して湖州刺史を贈る。元穎は李徳裕と善し、会昌初、徳裕国に当たり、因って赦令にて其の官を復す。弟元絳、終に太子賓客。元絳の子審権。

元穎の従子、審権。

審權は、字を殷衡といい、進士に及第し、浙西幕府に辟召された。抜萃科に挙げられて中第し、右拾遺となった。宣宗の時、翰林に入り学士となり、累進して兵部侍郎・学士承旨に至った。懿宗が即位すると、同中書門下平章事に進み、さらに門下侍郎に遷り、出向して鎮海軍節度使・同平章事となった。龐勳が徐州で乱を起こすと、審權は令狐綯・崔鉉と連合して軍を率い犄角の勢いをなし、糧秣の輸送は連なり、王師はこれに依って補給された。龐勳が破れると、検校司空に進み、入朝して尚書左僕射・襄陽郡公となった。引き続き河中・忠武節度使を領した。卒すると、太子太師を追贈され、諡を徳といった。審權は清らかで重厚、寡言であり、性質は温厚で、翰林に在職した期間が最も長かったが、終に禁中の近事を漏らすことはなかった。方鎮に在っては、政務を執るに常の場所があり、よほどのことがなければ日が暮れないうちは内寝に就かなかった。座れば必ず衽を整え、常に大賓客に対しているかのようであった。ある時昼間に少し休もうとすると、当直の将に簾を解かせようと顧みたが、すぐに傍に人がいないと気づき、自ら立ち上がって鉤を外し、手で簾を抱えゆっくりと下ろして、それから退いた。杜悰と共に将相の位にあったが、悰の方が先に進んだので、世間は審權を「小杜公」と呼んだ。

審權の子、讓能

子の讓能は、字を群懿といい、進士第に擢げられ、宣武王鐸の幕府に従って推官となり、長安ちょうあん尉から集賢校理となった。母に喪に服し、孝行で知られた。また劉鄴・牛蔚の二府に辟召され、やがて兵部員外郎に進んだ。蕭遘が度支を領すると、引き抜いて度支按判とした。僖宗が蜀に狩り行かれると、奔走して行在所に謁し、三度遷って中書舍人となり、召されて翰林学士となった。関東で兵乱が起こり、兵員の調発や慰撫、詔書の作成が山積する中、讓能は思慮が精敏で、凡そ号令が下され、事を処理し機に臨むに当たり、遺算なく、帝はこれを倚重した。帝に従って京師に還り、再び遷って兵部尚书となり、建平県子に封ぜられた。

李克用の兵が至ると、帝は夜に鳳翔を出たが、慌ただしくて知る者もいなかった。讓能はちょうど宿直しており、徒歩で十余里従い、遺棄された馬を得て、紳帯を解いて手綱とし乗った。硃玫の兵が乗輿に迫ると、帝は宝鶏に走り、獨り讓能が従った。翌日、孔緯らがようやく至った。間もなく進んで梁に狩り行かれた。この時、棧道は山南の石君涉によって毀たれており、天子は艱難辛苦の道を進まれたが、讓能は暫しも側を離れなかった。帝は労って言われた、「朕は道を失い、再び宗廟を遺棄した。艱難の時に当たり、卿は少しも朕を捨てず、まさに古の所謂、事えるに忠なる者であろうか」。讓能は頓首して言った、「臣は代々国恩を蒙り厚く、陛下は臣の不肖をも厭わず、牧圉を守らせて下さった。難に臨んで苟も免れようとすることは、臣の恥であります」。帝が褒中に駐蹕されると、兵部侍郎・同中書門下平章事に擢げられた。

この時、嗣襄王煴が偽位に即き、強藩大鎮でこれに附いた者は既に十八に及び、貢賦は行在所に輸送されず、賞与や労いの備えがなく、衛兵はしばしば食糧に乏しく、君臣は手を拱いて他策がなかった。讓能は大使を派遣して河中に入り、王重榮を諭すことを建言し、重榮は果たして詔に奉じた。やがて京師が平定されると、中書侍郎に進み、徙封して襄陽郡公となった。官吏の多くが偽署に汚れており、有司は皆死罪に論じようとしたが、讓能は脅従に過ぎず深く治めるに足らずとし、固く争い、多く全うし赦した。昭宗が即位すると、尚書左僕射・晉國公に進み、鉄券を賜り、累進して太尉となった。

李茂貞が鳳翔を守っていたが、大順以後次第に兵力を強め、功を恃み、法を奉ぜず、朝廷は弱く、これを制することができなかった。ちょうど楊復恭が山南に走ると、茂貞は梁・漢を兼有せんと欲し、師を以て罪を問うことを請うたが、返答がないうちに兵を出した。帝はその専断を憤ったが、已むを得ずこれに従った。山南が平定されると、詔して茂貞に興元・武定を領させ、徐彥若を鳳翔節度使とし、果州・閬州を分けて武定軍に隷属させた。茂貞は怨み、鎮に赴かず、上章して言葉悖慢であった。また讓能に書を送って誹謗責め、守亮を助けて乱を為し、忠臣を抑え、己が功を奪うものとし、その言葉は醜く放肆であった。京師は恐れ騒ぎ、日に数千人が闕下を守り、中尉西門重遂が出るのを待って、茂貞に鳳翔の地を与え、百姓のために計らうよう請うた。答えて言うには、「事は宰相より出る。我は関与しない」。茂貞はますます怨んだ。帝は怒り、詔して讓能に計議させ、かつ調発を促し、一ヶ月の間邸に帰らなかった。

時に宰相崔昭緯は密かに茂貞及び王行瑜と結び、讓能の言うことは悉く漏らした。茂貞は健児数百を市人に混ぜ、昭緯と鄭延昌が帰第するのを待ち、肩輿を囲んで騒ぎ立てて言った、「鳳翔は罪無し。幸い公は討たずして都輦を震驚させぬように」。昭緯は言った、「上は杜太尉に委ねられた。吾らは何を知ろうか」。市人は誰が太尉か識らず、即ち瓦石を投げて妄りに撃ち、昭緯らは走って免れ、遂にその印を失った。帝はますます怒り、首悪を捕えて誅した。京師では争って乱を避け、山谷の間に逃れた。讓能は帝に諫めて言った、「茂貞を誅すは固より宜しい。しかし大盗が去ったばかりで、鳳翔は国の西門であり、また陛下は新たに即位されたばかりです。願わくは少し寛大に取り計らい、貞元の故事に倣って姑息し、怨望を抱かせぬようにして下さい」。帝は言われた、「今や詔令は城門を出ず、国制は弱められ、賈生が慟哭した時である。朕はただ奄奄として日を過ごし、坐してこれを見ているわけにはいかぬ。卿、我がためにこれを図れ。朕自ら兵を諸王に属せしめよう」。讓能は言った、「陛下が僭越傲慢を削り清め、主威を剛にし、王室を隆盛せしめんと欲されるのは、これは中外の大臣が共に成すべきことであり、臣に専任すべきではありません」。帝は言われた、「卿は元輔である。休戚は我と均しい。何を避けようとするのか」。泣いて言った、「臣が宰相の位にあり、未だ骸骨を乞わないのは、陛下に報いることがあらんことを思うからで、敢えて身を計らうものですか。且つ陛下の御心は、憲祖の御心です。ただ時に未だ便ならざる所がある。他日臣が晁錯の誅に蒙るも、顧みれば七国の患を弭するに足らずと雖も、然れども敢えて詔を奉じませんではいられません」。

景福二年、嗣覃王を招討使とし、神策将李钅歳を副とし、師三万を率いて彦若を送り鎮につかせた。昭緯は内に功有ることを畏れ、密かに茂貞に語って言った、「上は兵を喜ばれず、全て太尉(讓能)が出すのです」。茂貞は乃ち兵を悉くして迎え戦い盩厔で、覃王は敗れ、勝に乗じて三橋に至った。讓能は言った、「臣は固より予めこれを言いました。臣は帰って死し、難を紓うることを請います」。帝は涙を流して已むことができず、言われた、「卿と決別する」。再び貶して雷州司戸参軍とした。茂貞は尚も兵を駐めて必ずこれを殺すことを請うたので、乃ち死を賜い、年五十三。

弟の彦林は、官は御史中丞。弘徽は、戸部侍郎。皆誅殺に及んだ。帝はこれを痛み、後に太師を追贈した。

子の光乂、次子の曉は、再び仕えなかった。曉は梁に入り、世に貴顕した。

贊して言う。太宗は上聖の才を以て、孤隋を取り、群盗を攘い、天下既に平らぎ、玄齢・如晦を用いて政を輔けしめた。大乱の余に興り、紀綱は凋み弛みながら、能く仆れたるを興し僵れるを植え、号令典刑を粲然として完からざる無からしめ、数百年を経ても猶その功を蒙るは、名宰相と謂うべし。然るに其の致す所の跡を求めれば、逮うべからず見えざるは、何ぞや。唐の柳芳に言有り、「帝は禍乱を定め、而して房・杜は功を言わず。王・魏は善く諫め、而して房・杜は其の直を譲る。英・えいは兵に善く、而して房・杜は文を以て之を済す。衆美を保持して君に效す。是の後、新進更に用いられ事を為すも、玄齢は身要地に処り、権を吝まず、善く始めて以て終わる。此れ其の令名を成す者なり」。諒かに其の然らんか。如晦は任事の日浅しと雖も、玄齢の許与する所及び帝の親款せられる所を観れば、則ち謨謀果たして大いに人に過ぐる者有り。方に君臣明良、志葉い議従い、相資けて以て成るは、固より千載の遇い、蕭・曹の勲も進むるに足らず。然りと雖も、宰相の天に代わる所以の者は、輔贊彌縫して之を用に蔵し、斯の人をして由りて知らしめざるに在り。明哲でなければ何ぞ是れに臻らん。彼の己を揚げ名を取り、了然として戸曉せしむる者は、蓋し房・杜の細なる者か。