新唐書

巻九十五 列傳第二十 高儉五世孫:重 竇威侄:軌 琮 抗 侄孫:靜 誕 侄:璡 從孫:德玄

巻九十五 列傳第二十 高儉五世孫:重 竇威侄:軌 琮 抗 侄孫:靜 誕 侄:璡 從孫:德玄

高儉

原文高儉

高儉、字あざなは士廉、字をもって顕れる。斉の清河王高岳の孫、父の高勵は楽安王、隋に入り洮州刺史となった。士廉は敏捷で聡明、度量があり、容貌は絵のようで、書物を見れば一度で暗誦し、応対に敏速であった。隋の司隸大夫薛道衡・起居舍人崔祖浚はいずれも宿臣で顕重され、彼と忘年の友となり、これによって有名となった。自らを斉の宗室とし、広く交際することを好まず、終南山下に隠居した。吏部侍郎高孝基が仕官を勧め、仁寿年中、文才甲科に挙げられ、治礼郎に補せられた。斛こく斯政が高麗に奔った際、彼と親しかったことに連座し、朱鳶主簿に貶せられた。母が老いて瘴癘の地に住めぬため、妻の鮮于氏を留めて養わせ、自らは赴任した。時に世は大乱し、京師との連絡は絶え、交趾太守丘和が司法書佐に任命した。時に欽州の俚帥寧長真が兵を率いて交趾を侵し、丘和は恐れて出迎えようとした。士廉は言った、「長真の兵は多いが、懸軍遠征の客軍であり、勢い長くは続かぬ。城中の精兵はまだ戦える。どうして人の制を受けるのか」。丘和はそこで彼を行軍司馬に命じ、迎撃してこれを破った。

原文高儉,字士廉,以字顯,齊清河王岳之孫,父勵樂安王,入隋為洮州刺史。士廉敏惠有度量,狀貌若畫,觀書一見輒誦,敏於占對。隋司隸大夫薛道衡、起居舍人崔祖浚皆宿臣顯重,與為忘年友,繇是有名。自以齊宗室,不欲廣交,屏居終南山下。吏部侍郎高孝基勸之仕,仁壽中,舉文才甲科,補治禮郎。斛斯政奔高麗,坐與善,貶為硃鳶主簿,以母老不可居瘴癘地,乃留妻鮮于奉養而行。會世大亂,京師阻絕,交趾太守丘和署司法書佐。時欽州俚帥寧長真以兵侵交趾,和懼,欲出迎,士廉曰:「長真兵雖多,縣軍遠客,勢不得久,城中勝兵尚可戰,奈何受制於人?」和因命為行軍司馬,逆擊破之。

高祖が使者を遣わして嶺南を巡撫させると、武徳五年に丘和と共に降伏した。ここにおいて秦王が雍州牧を領し、士廉を治中に推薦し、親しく重用した。隠太子と秦王の間隙が既に激しくなると、長孫無忌と密かに計略を定め、その日に吏卒を率いて囚人を釈放し甲冑を与え、芳林門へ急行して戦いを助けた。秦王が皇太子となると、右庶子を授けられた。侍中に進み、義興郡公に封ぜられた。王珪の上奏を匿って時を過ぎて上進した罪に坐し、安州都督に左遷された。

原文高祖遣使徇嶺南,武德五年與和來降,於是秦王領雍州牧,薦士廉為治中,親重之。隱太子與王隙已熾,乃與長孫無忌密計計定,是日率吏卒釋囚授甲,趨芳林門助戰。王為皇太子,授右庶子。進侍中,封義興郡公。坐匿王珪奏不時上,左授安州都督。

益州大都督府長史に進む。蜀人は鬼を畏れ病を嫌い、たとえ父母が病んでも見捨てて去り、家屋に向かって餌を投げ入れ食べさせ、兄弟も互いに財を貸さなかった。士廉は条教を設け、弁じて告げ督励し、風俗はたちまち変わった。また諸生を引いて経芸を講授させ、学校が復興した。秦の時、李冰が汶江水を導いて田を灌漑し、水辺の土地は一頃千金の価値があり、民は互いに侵し冒した。士廉は古い渠に沿って分水路を引き出し、灌漑路を広げ、人々は富饒となった。

原文進益州大都督府長史。蜀人畏鬼而惡疾,雖父母病皆委去,望舍投餌哺之,昆弟不相假財。士廉為設條教,辯告督勵,風俗翕然為變。又引諸生講授經藝,學校復興。秦時李冰導汶江水灌田,瀕水者頃千金,民相侵冒。士廉附故渠廝引旁出,以廣溉道,人以富饒。

吏部尚めと書として中央に入り、許国公に進封された。元来、人物鑑定の才に優れ、また氏族の譜を詳しく知り、任命する州の官職は、人と地が不適当なことはなかった。高祖が崩御すると、司空を摂行し、山陵を営み、特進を加えられ、尚書右僕射に遷った。士廉は三代この官に居り、世はその貴さを栄誉とした。

原文入為吏部尚書,進封許國公。雅負裁鑒,又詳氏譜,所署州,人地無不當者。高祖崩,攝司空,營山陵;加特進,遷尚書右僕射。士廉三世居此官,世榮其貴。

太宗が洛陽に行幸し、太子が国を監する時、少師を摂行するよう命じられた。手詔に曰く、「三川に端拱して関中を憂えぬのは、卿に任せたからである」。久しくして致仕を請うと、僕射を解くことを許し、開府儀同三司・同中書門下三品を加えられ、政事を知った。帝が高麗を征伐し、皇太子が定州に駐留して国を監する時、また太傅を摂行し、共に機務を掌った。太子の令に曰く、「寡人は公の訓導に頼るが、近頃政務を聴く際、机に向かって公に対すること、心情安からず。所司は別に机を設け太傅に奉るべし」。士廉は固く辞した。

原文太宗幸洛陽,太子監國,命攝少師。手詔曰:「端拱三川,不憂關中者,以屬卿也。」久之,請致仕,聽解僕射,加開府儀同三司、同中書門下三品,知政事。帝伐高麗,皇太子監國駐定州,又攝太傅,同掌機務。太子令曰:「寡人資公訓道,而比聽政,據桉對公,情所未安,所司宜別設桉奉太傅。」士廉固辭。

并州に還る途中、病を得た。帝はその宿舎に赴いて見舞った。貞観二十一年、病が重篤になると、帝はその邸に臨み、涙を流し、七十一歳で卒した。さらに臨弔しようとしたが、房玄齢が帝が金石の薬を服用していることを理由に、喪に近づくのは宜しくないと諫めた。帝は言った、「朕には旧故姻戚の重み、君臣の分がある。卿は言うな」。すぐに数百騎を従えて出た。長孫無忌が馬前に伏し、士廉の遺言を陳べ、臨喪しないよう乞うたが、帝はなお許さず、無忌が涙を流すに至り、ようやく東苑に還り入り、南に向かって哭した。詔して司徒・并州都督を贈り、諡して文献と曰い、昭陵に陪葬させた。丁度寒食の節に当たり、尚宮に命じて四度の食事を持たせて祭らせ、帝自ら文を作った。喪が横橋を出ると、また城の西北楼に登り、哭して喪の過ぎるのを見送った。高宗が即位すると、太尉を加贈し、太宗廟廷に配享された。

原文還至并州,有疾,帝即所舍問之。貞觀二十一年疾甚,帝幸其第,為流涕,卒年七十一。又欲臨吊,房玄齡以帝餌金石,諫不宜近喪。帝曰:「朕有舊故姻戚之重,君臣之分,卿置勿言。」即從數百騎出。長孫無忌伏馬前,陳士廉遺言,乞不臨喪,帝猶不許,無忌至流涕,乃還入東苑,南向哭。詔贈司徒、并州都督,諡曰文獻,陪葬昭陵。方寒食,敕尚宮以食四舉往祭,帝自為文。喪出橫橋,又登城西北樓望哭以過喪。高宗即位,加贈太尉,配享太宗廟廷。

士廉は進退の挙措が詳細で華やかであり、献言する時は必ず、搢紳たちが目を注いだ。奏議の草稿は必ず焼き、家人に見せたことはなかった。士廉は若い時に太宗が常人ならざることを見抜き、自分の娘を嫁がせた。これが文徳皇后である。遺言では墓に他物を蔵することを許さず、ただ衣一襲と、平生好んだ書物で先王の典訓で終始用いるべきものを置くようにと示した。

原文士廉進止詳華,凡有獻納,搢紳皆屬以目。奏議未嘗不焚稿,家人無見者。士廉少識太宗非常人,以所出女歸之,是為文德皇后。及遺令墓不得它藏,惟置衣一襲與平生所好書示先王典訓可用終始者。

初め、太宗は嘗て山東の士人が閥閲を重んじ、後には衰えても、子孫はなお世の声望を負い、嫁娶には必ず多額の財貨を取るため、人はこれを「売婚」と呼んだことを憂いた。これにより詔して士廉に韋挺・岑文本・令狐徳棻と共に天下の譜牒を調査させ、史伝を参考し、真偽を検正し、忠賢を進め、悖悪を退け、先ず宗室、次に外戚、新門を退け、旧望を進め、右に膏粱、左に寒畯とし、合わせて二百九十三姓、千六百五十一家を九等に分け、『氏族志』と号したが、崔幹は依然として第一等に居た。帝は言った、「朕は崔・盧・李・鄭に嫌いはない。ただその家が世に衰え、もはや冠冕を継がぬのに、なお旧地を恃んで財貨を取り、不肖の子が平然と自らを高くし、松檟(墓所)を売りさばく。世間が何をもって彼らを貴ぶのか理解できぬ。斉は河北を拠り、梁・陳は江南に在り、人物はあっても偏方下国で貴ぶに足らぬ。故に崔・盧・王・謝を重んじたのだ。今、謀士・労臣で忠孝学芸をもって朕に従い天下を定めた者たちを、どうして旧門が財貨を受け容れ、名声に背き実態を顧みず、売婚を栄誉とすることを許せようか。太上は立德、其次は立功、其次は立言、其次は爵位が公・卿・大夫で世々絶えぬ、これを門戸という。今は皆これに反する。豈に惑わざらんや。朕は今日の冠冕を以て等級の高下とすべし」。遂に崔幹を第三等の姓とし、その書を天下に頒布した。

原文初,太宗嘗以山東士人尚閥閱,後雖衰,子孫猶負世望,嫁娶必多取貲,故人謂之賣昏。由是詔士廉與韋挺、岑文本、令狐德棻責天下譜諜,參考史傳,檢正真偽,進忠賢,退悖惡,先宗室,後外戚,退新門,進舊望,右膏粱,左寒畯,合二百九十三姓,千六百五十一家,為九等,號曰《氏族志》,而崔幹仍居第一。帝曰:「我于崔、盧、李、鄭無嫌,顧其世衰,不復冠冕,猶恃舊地以取貲,不肖子偃然自高,販鬻松檟,不解人間何為貴之?齊據河北,梁、陳在江南,雖有人物,偏方下國,無可貴者,故以崔、盧、王、謝為重。今謀士勞臣以忠孝學藝從我定天下者,何容納貨舊門,向聲背實,買昏為榮耶?太上有立德,其次有立功,其次有立言,其次有爵為公、卿、大夫,世世不絕,此謂之門戶。今皆反是,豈不惑邪?朕以今日冠冕為等級高下。」遂以崔幹為第三姓,班其書天下。

高宗の時、許敬宗が武后の一族を叙録しないこと、また李義府が自分の家が名を載せぬことを恥じたため、更に孔志約・楊仁卿・史玄道・呂才ら十二人に刊定させ、類例を裁いて広げ、合わせて二百三十五姓、二千二百八十七家とし、帝自らその所以を叙した。四后の姓、酅公、介公及び三公、太子三師、開府儀同三司、尚書僕射を第一等の姓とし、文武の二品及び政事を知る三品を第二等の姓とし、各々品位の高下によってこれを叙し、凡そ九等とし、本人及び兄弟子孫のみを取り、余りの親族は入れず、『姓氏録』と改めた。当時、軍功で五品に入る者は皆譜の限界を昇り、搢紳はこれを恥じ、「勲格」と称した。義府は奏上して『氏族志』を悉く取り寄せ焼かせた。また詔して、後魏の隴西李宝、太原王瓊、滎陽けいよう鄭温、范陽盧子遷・盧沢・盧輔、清河崔宗伯・崔元孫、前燕の博陵崔懿、晋の趙郡李楷、凡そ七姓十家は、自ら婚姻することを許さず、三品以上は納幣三百匹を過ぎず、四品五品は二百匹、六品七品は百匹とし、全て嫁入り道具とし、夫の家は陪門財を受けることを禁じた。先に、後魏の太和年中、四海の望族を定め、李宝らを首とした。その後、門地を誇り尚んだため、『氏族志』では一切これを降格した。王妃・主婿は皆当世の勲貴名臣の家から取り、嘗て山東の旧族を尚んだことはなかった。後に房玄齢・魏徴・李勣がまた彼らと婚姻したため、声望は減じなかったが、然し毎姓その房の声望を第し、一姓の中でも高下が懸隔した。李義府が子の婚姻を求めて得られず、初めて奏上してこれを禁じた。その後、天下の衰宗落譜で、昭穆が歯することなき者は、皆「禁婚家」と称し、却って自らを貴び、男女共に密かに聘娶し、天子も禁じることができず、世はこれを弊害とした。士廉に六子あり、履行・審行・真行が有名である。

原文高宗時,許敬宗以不敘武后世,又李義府恥其家無名,更以孔志約、楊仁卿、史玄道、呂才等十二人刊定之,裁廣類例,合二百三十五姓,二千二百八十七家,帝自敘所以然。以四後姓、酅公、介公及三公、太子三師、開府儀同三司、尚書僕射為第一姓,文武二品及知政事三品為第二姓,各以品位高下敘之,凡九等,取身及昆弟子孫,余屬不入,改為《姓氏錄》。當時軍功入五品者,皆升譜限,搢紳恥焉,目為「勳格」。義府奏悉索《氏族志》燒之。又詔後魏隴西李寶,太原王瓊,滎陽鄭溫,范陽盧子遷、盧澤、盧輔,清河崔宗伯、崔元孫,前燕博陵崔懿,晉趙郡李楷,凡七姓十家,不得自為昏;三品以上納幣不得過三百匹,四品五品二百,六品七品百,悉為歸裝,夫氏禁受陪門財。先是,後魏太和中,定四海望族,以寶等為冠。其後矜尚門地,故《氏族志》一切降之。王妃、主婿皆取當世勳貴名臣家,未嘗尚山東舊族。後房玄齡、魏徵、李勣復與昏,故望不減,然每姓第其房望,雖一姓中,高下縣隔。李義府為子求昏不得,始奏禁焉。其後天下衰宗落譜,昭穆所不齒者,皆稱「禁昏家」,益自貴,凡男女皆潛相聘娶,天子不能禁,世以為敝雲。士廉六子,履行、審行、真行有名。

子 履行

原文子 履行

履行は母の喪に服し、甚だしく憔悴したので、太宗は強いて食うよう諭した。東陽公主を尚り、爵を襲う。戸部尚書より益州大都督府長史となり、政績に名があった。長孫無忌の事に連座し、左遷されて洪州都督となり、後に永州刺史に改められた。

原文履行居母喪毀甚,太宗諭使強食。尚東陽公主,襲爵。繇戶部尚書為益州大都督府長史,政有名。坐長孫無忌,左授洪州都督,改永州刺史。

子に真行あり。

原文子 真行

真行は左衛将軍に至った。その子の岐が章懐太子の事に連座し、詔して自ら戒め切るよう命じたところ、真行は佩刀をもってこれを刺殺し、首を断って道上に棄てた。高宗はその行いを卑しみ、睦州刺史に貶した。

原文真行至左衛將軍。其子岐連章懷太子事,詔令自誡切,真行以佩刀刺殺之,斷首棄道上,高宗鄙其為,貶睦州刺史。

子に審行あり。

原文子 審行

審行は戸部侍郎より渝州刺史に貶された。

原文審行自戶部侍郎貶渝州刺史。

五世の孫に重あり。

原文五世孫 重

士廉の五世の孫の重は、字は文明、明経に及第し、李巽が塩鉄転運巡官に表挙した。職務に善く、凡そ十年、累進して司門郎中に至った。

原文士廉五世孫重,字文明,以明經中第,李巽表鹽鐵轉運巡官,善職,凡十年,進累司門郎中。

敬宗は侍講学士の選任を慎重にし、重は簡素で厚く、篤実で正しい人物であったため、崔郾とともに選ばれ、再び抜擢されて国子祭酒となった。文宗は『左氏春秋』を好み、各国ごとに分けて書を編むよう命じ、四十篇を成した。鄭覃とともに『九経』を石に刊定した。出て鄂岳観察使となり、善政をもって褒められた。久しくして、太子賓客を拝し、東都に分司した。卒し、太子少保を追贈された。

原文敬宗慎置侍講學士,重以簡厚惇正,與崔郾偕選,再擢國子祭酒。文宗好《左氏春秋》,命分列國各為書,成四十篇。與鄭覃刊定《九經》于石。出為鄂嶽觀察使,以美政被褒。久之,拜太子賓客,分司東都。卒,贈太子少保。

賛して曰く、古は姓を受け氏を受くるは以て功ある者を表彰せしむ。この時、人皆土着なりし故に、名宗望姓、郡国を挙げて自ら表し、而して譜系興る。是れ以て昭穆を推叙し、百代相乱るることを得ざらしむる所以なり。晋の播遷に遭い、胡醜華を乱し、百宗蕩析し、士は墳墓を去れども、子孫猶お系録を挟み、以て承くる所を示す。而して閥閥顕なる者は、婚を売り財を求むるに至り、廉恥を汨喪す。唐初、流弊仍お甚だしく、天子屡々抑えて衰えざらしむ。中葉に至り、風教又薄く、譜録都て廃れ、公は常産の拘り無く、士は旧徳の伝無し。李と言えば悉く隴西より出で、劉と言えば悉く彭城より出づ。悠悠たる世詐、終に考按無し。冠冕皁隸、混じて一区と為る。太息すべきかな。

原文贊曰:古者受姓受氏以旌有功,是時人皆土著,故名宗望姓,舉郡國自表,而譜系興焉,所以推敘昭穆,使百代不得相亂也。遭晉播遷,胡醜亂華,百宗蕩析,士去墳墓,子孫猶挾系錄,以示所承,而閥閥顯者,至賣昏求財,汨喪廉恥。唐初流弊仍甚,天子屢抑不為衰。至中葉,風教又薄,譜錄都廢,公靡常產之拘,士亡舊德之傳,言李悉出隴西,言劉悉出彭城,悠悠世詐,訖無考按,冠冕皁隸,混為一區,可太息哉!

竇威

原文竇威

竇威、字は文蔚、岐州平陸の人。父は熾、周において上柱国となり、隋に入って太傅となった。太穆皇后は、その従兄弟の娘である。

原文竇威,字文蔚,岐州平陸人。父熾,在周為上柱國,入隋為太傅,太穆皇后,其從兄弟女也。

威は沈邃にして器局あり、群言を貫覧す。家世貴く、子弟皆武力を喜ぶが、独り威は文を尚ぶ。諸兄は書痴と詆す。内史令李徳林が秀異を挙げ、秘書郎に授く。当に遷るべきも調を肯ぜずすること十年、故にその学益々博し。而して諸兄は軍功を以て位通顕なり。威の職閑冗なるを薄し、更に謂いて曰く、「昔、仲尼積学して聖を成すも、猶お棲遅して偶わず。汝尚お何をか求むるや」と。威は笑って答えず。蜀王秀が記室に辟くも、威は秀の不法多きを以てし、疾を謝して去る。秀廃せられ、府属皆罪を得るも、威独り免る。大業中、累遷して内史舎人となり、数え諫めて旨に忤い、転じて考功郎中となり、後事に坐して免ぜられる。

原文威沈邃有器局,貫覽群言,家世貴,子弟皆喜武力,獨威尚文,諸兄詆為書癡。內史令李德林舉秀異,授秘書郎,當遷不肯調者十年,故其學益博。而諸兄以軍功位通顯矣,薄威職閑冗,更謂曰:「昔仲尼積學成聖,猶棲遲不偶,汝尚何求耶?」威笑不答。蜀王秀辟為記室,威以秀多不法,謝疾去。秀廢,府屬皆得罪,威獨免。大業中,累遷內史舍人,數諫忤旨,轉考功郎中,後坐事免。

高祖関に入り、召し補われて大丞相府司録参軍となる。天下乱れ方なる時、礼典湮缺す。威は朝廷の故事に多識し、乃ち制度を裁定す。帝、裴寂に語りて曰く、「威は今の叔孫通なり」と。武徳元年、内史令を授かる。政事の得失を論ずる毎に、必ず古を陳べて諭と為す。帝益々親しく矚し、嘗て臥内に引入れて謂いて曰く、「昔、周に八柱国あり、吾と公の家是れなり。今我天子と為るに、而して公内史令と為る。事固より等しからざるか」と。威懼れ、頓首して謝して曰く、「臣が家は漢に在りて、再び外戚と為る。元魏に至りては、三皇后あり。今陛下龍興し、臣復た姻戚を以て進む。夙夜懼れて克く任えざらんことを」と。帝笑いて曰く、「公三后の族を以て我に誇るか。関東の人、崔・盧と婚する者は、猶お自ら矜大す。公世々帝戚と為る、亦貴からずや」と。

原文高祖入關,召補大丞相府司錄參軍。方天下亂,禮典湮缺,威多識朝廷故事,乃裁定制度。帝語裴寂曰:「威,今之叔孫通也。」武德元年,授內史令。每論政事得失,必陳古為諭,帝益親矚,嘗引入臥內,謂曰:「昔周有八柱國,吾與公家是也。今我為天子,而公為內史令,事固有不等耶?」威懼,頓首謝曰:「臣家在漢,再為外戚。至元魏,有三皇后。今陛下龍興,臣復以姻戚進,夙夜懼不克任。帝笑曰:「公以三後族誇我邪!關東人與崔、盧婚者,猶自矜大,公世為帝戚,不亦貴乎。」

後、疾に臥し、帝臨み問う。卒するに及び、哭すること慟し。同州刺史を贈られ、延安郡公を追封され、諡して靖と曰う。威の性は儉素、家に産を樹てず、喪に比し、余貲無し。薄葬を遺令す。詔して皇太子・百官をして臨送せしむ。

原文後寢疾,帝臨問,及卒,哭之慟。贈同州刺史,追封延安郡公,諡曰靖。威性儉素,家不樹產,比喪,無餘貲,遺令薄葬。詔皇太子、百官臨送。

甥に軌あり。

原文侄 軌

兄の子軌は、字を士則という。父の恭は、周に仕えて雍州牧・酇國公となった。軌は性質剛果にして威あり、大業年間、資陽郡の東曹掾となり、官を去って帰郷した。高祖が兵を起こすと、軌は千余りの兵を募り長春宮を迎え謁見した。帝は大いに喜び、良馬十匹を賜い、渭南の地を攻略させ、永豊倉を陥とし、兵五千を収め、京師平定に従った。贊皇縣公に封ぜられ、大丞相諮議参軍となった。

原文兄子軌,字士則。父恭,仕周為雍州牧、酂國公。軌性剛果有威,大業中,為資陽郡東曹掾,去官歸。高祖起兵,軌募眾千餘人迎謁長春宮。帝大悅,賜良馬十匹,使略地渭南,下永豐倉,收兵五千,從平京師。封贊皇縣公,為大丞相諮議參軍。

稽胡の賊五万が宜春を掠めた。詔して軌に討たしむ。黄欽山に駐屯し、賊が高所より叢射するに遇い、衆は退却せんとした。軌は部将十四人を斬り、さらにその次を抜擢して代えさせ、自ら数百騎を擁して殿となり、令して曰く「鼓を聞いて進まざる者は斬る」と。鼓を鳴らすや、士卒は争って賊に赴き、賊の射るに勝あえず、大いにこれを破り、首級千を斬り、男女二万を獲た。太子詹事に抜擢された。赤排羌が薛挙の叛将鐘俱仇とともに漢中を寇すと、秦州総管に拝され、賊を討ち連戦して功あり、余党は悉く降った。旧封の酇國を復し、益州道行台左僕射に遷る。党項が吐谷渾を引きいて松州を寇すと、詔して軌と扶州刺史蔣善合にこれを救援させた。善合は期より先に至り、鉗川でこれを破った。軌は進軍して臨洮に至り、左封を撃ち、その衆を走らせた。羌が必ず患いとならんことを度り、初めて松州に屯田す。詔して率いる所の兵をして秦王に従い王世充を討たしむ。明年、蜀に還る。

原文稽胡賊五萬掠宜春,詔軌討之。次黃欽山,遇賊乘高叢射,眾為卻。軌斬部將十四人,更拔其次代之,身擁數百騎殿,令曰:「聞鼓不進者斬。」既鼓,士爭赴賊,賊射不勝,大破之,斬首千級,獲男女二萬。擢太子詹事。赤排羌與薛舉叛將鐘俱仇寇漢中,拜秦州總管,討賊連戰有功,餘黨悉降。復酂國舊封,遷益州道行台左僕射。党項引吐谷渾寇松州,詔軌與扶州刺史蔣善合援之。善合先期至,敗之鉗川。軌進軍臨洮,擊左封,走其眾。度羌必為患,始屯田松州。詔率所部兵從秦王討王世充。明年,還蜀。

軌は貴くなるに及び、ますます厳酷となり、然れども自ら勤苦することができ、毎に出師して敵に臨むときは、身未だ嘗て甲を解かず、その下に命を用いざる者あれば即ち誅し、小過に至るまでまた鞭撻して流血せしめ、人これを見る者は皆重足して股慄し、これによりて蜀の盗賊は悉く平定された。初め、その甥を腹心と為し、嘗て夜出でて、呼ぶも時に至らず、これを斬った。また家奴に外に出るなと戒めたが、忽ち奴を遣わして公厨より漿を取らせ、既にしてこれを悔い、曰く「要は当に汝が頭を借りて以て法を明らかにすべし」と。命じて奴を斬らしむ。奴冤を称す。監刑者は疑いて時に決せず、軌は併せてこれを斬った。後に朝に入り、御楼に坐を賜うも、容儀肅せず、また詔に対して坐す。帝怒って曰く「公蜀に入るや、車騎・驃騎従者二十人、公誅斬すること略尽くし、我が隴種の車騎、尚お公に給するに足らず」と。よって詔獄に繋ぐ。俄かにこれを釈し、益州に還鎮せしむ。

原文軌既貴,益嚴酷,然能自勤苦,每出師臨敵,身未嘗解甲,其下有不用命即誅,至小過亦鞭棰流血,人見者皆重足股慄,由是蜀盜悉平。初,以其甥為腹心,嘗夜出,呼不時至,斬之。又戒家奴毋出外,忽遣奴取漿公廚,既而悔焉,曰:「要當借汝頭以明法。」命斬奴,奴稱冤,監刑者疑不時決,軌並斬之。後入朝,賜坐禦樓,容不肅,又坐對詔,帝怒曰:「公入蜀,車騎、驃騎從者二十人,公斬誅略盡,我隴種車騎,尚不足給公。」因系詔獄。俄釋之,還鎮益州。

軌は行台尚書韋雲起・郭行方と素より協わず、及び隠太子誅せられ、詔至るや、軌は詔を懐中に内す。雲起詔の安在やと問うも、軌示すを肯わず、よって執いてこれを殺す。行方は懼れ、京師に奔り、免るるを得たり。是歳、行台廃され、益州都督を授け、食邑六百戸を加う。

原文軌與行台尚書韋雲起、郭行方素不協,及隱太子誅,詔至,軌內詔懷中,雲起問詔安在,軌不肯示,因執殺之。行方懼,奔京師,得免。是歲,行台廢,授益州都督,加食邑戶六百。

貞観元年、召して右衛大將軍を授け、出でて洛州都督と為る。周洛の間、隋の乱に因り、人土着せず、軌は諸県に令を下し、游手末作の者有ればこれを按ず。これによりて威信大いに行き、民皆本に趨く。卒す。并州都督を贈られる。子奉節、永嘉公主を尚し、左衛將軍・秦州都督を歴任す。

原文貞觀元年,召授右衛大將軍,出為洛州都督。周洛間,因隋亂,人不土著,軌下令諸縣,有游手末作者按之,由是威信大行,民皆趨本。卒,贈并州都督。子奉節,尚永嘉公主,曆左衛將軍、秦州都督。

侄 琮

原文侄 琮

軌の弟琮、武幹有り。大業末、法を犯し亡命して太原に至り、高祖に依る。秦王と憾み有り、自ら安からず。王方に天下の豪英を収め、礼を降してこれを接し、臥内に出入らしむ。琮の意乃ち釈る。大將軍府建つや、引いて統軍と為す。西河平定に従い、霍邑を破る。金紫光祿大夫を授けられ、扶風郡公に封ぜらる。劉文静に従い潼関にて屈突通を撃ち、その将桑顯和を敗り、通遁走す。琮軽騎を以て稠桑にて追獲す。進兵して陝県を下し、太原倉を抜く。左領軍大將軍に遷り、物五百段を賜う。隋の河陽都尉獨孤武潜かに帰款を謀る。命じて琮に万騎を総べさせ、柏崖よりこれを迎えしむ。逗留して進まず、武殺さる。坐して除名せらる。武德初、右屯衛大將軍と為る。時に将に洛陽を図らんとし、詔して琮に陝に留守せしめ、饟道を護らしむ。王世充の将羅士信数たび兵を以て鈔絶す。琮人を遣わし説いてこれを降す。東都平る。晉州総管を検校す。隠太子に従い劉黒闥を平ぐ。功により譙國公に封ぜられ、黄金五十斤を賜う。卒す。左衛大將軍を贈られ、諡して敬と曰う。永徽五年、特進を加贈す。

原文軌弟琮,有武幹。大業末,犯法亡命太原,依高祖。與秦王有憾,不自安。王方收天下豪英,降禮接之,與出入臥內,琮意乃釋。大將軍府建,引為統軍。從平西河,破霍邑。授金紫光祿大夫,封扶風郡公。從劉文靜擊屈突通於潼關,敗其將桑顯和,通遁去,琮以輕騎追獲于稠桑。進兵下陝縣,拔太原倉。遷左領軍大將軍,賜物五百段。隋河陽都尉獨孤武潛謀歸款,命琮總萬騎,自柏崖迎之,逗留不進,武見殺,坐除名。武德初,為右屯衛大將軍。時將圖洛陽,詔琮留守陝,護饟道。王世充將羅士信數以兵鈔絕,琮使人說降之。東都平,檢校晉州總管。從隱太子平劉黑闥,以功封譙國公,賜黃金五十斤。卒,贈左衛大將軍,諡曰敬。永徽五年,加贈特進。

侄 抗

原文侄 抗

威の従兄の子抗、字は道生。父栄定、隋の洺州総管・陳國公となり、諡して懿と曰う。母は隋文帝の姉安成公主なり。抗は容儀美しく、性質通率にして、図史を渉覧す。帝の甥として早く貴なり、太学に入り、千牛備身・儀同三司に釈褐す。父の疾に侍り、束帯五旬弛めず。喪に居り、哀臘常に過ぐ。爵を襲い、累転して梁州刺史となる。将に官に之かんとするに、文帝その第に幸いし、酣宴すること家人の礼の如し。母卒す。数たび号絶す。詔して宮人に哭を節せしむ。歳余りして、岐州刺史となり、転じて幽州総管となる。至る所寛恵を以て聞こゆ。漢王諒反す。煬帝抗の応ずるを疑い、李子雄を遣わし馳せ往きてこれに代わらしむ。子雄よって抗が諒の書を得て奏せざるを誣う。按鞫するも状無し。然れども坐して遂に廃せらる。

原文威從兄子抗,字道生。父榮定,為隋洺州總管、陳國公,諡曰懿。母,隋文帝姊安成公主也。抗美容儀,性通率,涉見圖史。以帝甥蚤貴,入太學,釋褐千牛備身、儀同三司。侍父疾,束帶五旬不弛;居喪,哀臒過常。襲爵,累轉梁州刺史。將之官,文帝幸其第,酣宴如家人禮。母卒,數號絕。詔宮人節哭。歲餘,為岐州刺史,轉幽州總管,所至以寬惠聞。漢王諒反,煬帝疑抗為應,遣李子雄馳往代之。子雄因誣抗得諒書不奏,按鞫無狀,然坐是遂廢。

抗は高祖と少より相狎み、及び楊玄感反すや、抗高祖に謂いて曰く「玄感は我が為に先んずるのみ。李氏の名図録に在り、天の啓く所なり」と。高祖曰く「禍の始めと為るは祥ならず、公妄言すること無かれ」と。煬帝抗を遣わし霊武に出で、長城を逴護せしむ。高祖既に京師を定めたるを聞き、喜びて曰く「これ吾が家の婿、豁達にして大度有り、真に乱を撥ぐるの主なり」と。よって長安に帰る。高祖これを見て喜び、手を握りて曰く「李氏果たして王たる、如何」と。よって酒を置きて楽しましめ、将作大匠兼納言を授け、尋いで左武候大將軍に罷む。

原文抗與高祖少相狎,及楊玄感反,抗謂高祖曰:「玄感為我先耳,李氏名在圖錄,天所啟也。」高祖曰:「為禍始不祥,公無妄言。」煬帝遣抗出靈武,逴護長城,聞高祖已定京師,喜曰:「此吾家婿,豁達有大度,真撥亂主也。」因歸長安。高祖見之喜,握手曰:「李氏果王,何如?」因置酒為樂,授將作大匠兼納言,尋罷為左武候大將軍。

帝朝を聴くや、或いは引きて御坐に昇らしめ、既に退きては、臥内に入り、従容談笑し、極めて平生の歓を尽くし、兄を以てこれを呼び、宮中にて舅と称せられ、或いは禁省に留宿し、燕豫に侍るも、然れども未だ嘗て朝廷の事に干せず。後に秦王に従い薛挙を平ぐ。功第一。また従い王世充を征す。東都平る。廟にて勲を冊する者九人、抗と従弟の軌これに関わる。女楽一部、珍幣数え難きを賜う。卒す。司徒を贈られ、諡して密と曰う。子衍・静・誕、衍爵を襲ぐ。

原文帝聽朝,或引升禦坐,既退,入臥內,從容談笑,極平生歡,以兄呼之,宮中稱為舅,或留宿禁省,侍燕豫,然未嘗幹朝廷事。後從秦王平薛舉,功第一;又從征王世充。東都平,冊勳於廟者九人,抗與從弟軌與焉。賜女樂一部,珍幣不貲。卒,贈司徒,諡曰密。子衍、靜、誕,衍襲爵。

侄孫 静

原文侄孫 靜

竇靜は字を元休といい、隋において親衛に仕え、父が煬帝に罪を得たため、長らく進用されなかった。高祖が京師に入ると、并州大総管府長史に抜擢された。当時、突厥とっけつがたびたび辺境の患いとなり、糧道が続かなかったので、竇靜は上表して太原に屯田を置き、輸送を省くことを請うた。議者は流亡者がまだ回復していないとして、重ねて困窮させるべきではないとし、そこで召し入れて裴寂・蕭瑀・封倫と朝廷で議論させたが、寂らは彼を屈服させることができず、帝はその意見に従い、年間十万斛の粟を収穫した。詔して并州大総管を検校させた。また石嶺を断って障塞とし、突厥の侵入を制することを請うた。太宗が即位すると、司農卿を授けられ、信都県男に封ぜられた。趙元楷が少卿となったが、竇靜はその収斂を軽蔑し、役人たちが会した際に大言して曰く、「煬帝のように奢侈で、四海を尽くして自らを養うならば、司農には貴公のような者が要るであろう。今の天子は自ら節倹を躬行し、一人を屈して万民を安んじている。どうして貴公のような者を用いようか」と。元楷は大いに慚じた。夏州都督に転じた。突厥が離反し、出征する諸将が竇靜の許を過ぎると、竇靜は虜中の虚実を述べ、諸将はこれによって大いに勝利を得た。またその部落を離間し、郁射配下の鬱孤尼ら九俟斤が皆内附した。帝はこれを嘉し、馬百匹・羊千頭を賜った。頡利を捕らえた時、詔してその衆を河南に処置させようとした。竇靜は上書して曰く、「夷狄は窮すれば搏噬し、飽けば群聚するもので、刑法で縛り、仁義で教えることはできません。衣食は供給に仰ぎ、耕桑に頼りません。今、有為の民を損ない、無知の虜に資するのは、得ても治に益なく、失っても教化を害しません。況や首丘を忘れぬ者であれば、一朝にして変が生じ、我が王略を犯すでしょう。その破亡に乗じ、賢王の号を仮り、宗女を妻とし、その土地部落を分割し、権を弱め勢いを分からせ、羈縻し制御しやすくするならば、世々藩臣となるでしょう」と。帝は従わなかったが、その忠を嘉し、優詔で答えて曰く、「北方の務は、悉く卿に委ねる。卿を寧朔大使とし、朕は北顧の憂い無し」と。再び民部尚書に遷った。卒し、諡して肅といった。子の逵は、遂安公主を尚り、爵を襲いだ。

原文靜字元休,在隋佐親衛,以父得罪煬帝,久不之進。高祖入京師,擢并州大總管府長史。時突厥數為邊患,糧道不屬,靜表請屯田太原,以省饋運。議者以流亡未復,不宜重困,於是召入與裴寂、蕭瑀、封倫廷議,寂等不能屈,帝從之,歲收粟十萬斛。詔檢校并州大總管。又請斷石嶺以為鄣塞,制突厥之入。太宗即位,授司農卿,封信都縣男。趙元楷為少卿,靜鄙其聚斂,因會官屬大言曰:「如煬帝奢侈,竭四海自奉,司農須公矣。今天子躬節儉,屈一人安兆庶,惡用公哉?」元楷大慚。改夏州都督。突厥攜貳,諸將出征者過靜,靜為陳虜中虛實,諸將由是大克獲。又間其部落,郁射所部鬱孤尼等九俟斤皆內附。帝嘉之,賜馬百匹、羊千口。及禽頡利,詔處其眾河南。靜上書曰:「夷狄窮則搏噬,飽則群聚,不可以刑法繩、仁義教也。衣食仰給,不恃耕桑。今損有為之民,資無知之虜,得之無益於治,失之不害於化。況首丘未忘,則一旦變生,犯我王略矣。不如因其破亡,假以賢王一號,妻之宗女,披其土地部落,使權弱勢分,易為羈制,則世為籓臣矣。」帝雖不從,然嘉其忠,優詔答曰:「北方之務,悉以相委,以卿為甯朔大使,朕無北顧憂矣。」再遷民部尚書。卒,諡曰肅。子逵,尚遂安公主,襲爵。

姪孫 竇誕

原文侄孫 誕

竇誕は、隋末に朝請郎で起家した。義寧の初め、丞相府祭酒に辟召され、安豊郡公に封ぜられ、襄陽公主を尚った。秦王に従って薛挙を征し、元帥府司馬となった。累遷して太常卿となった。高祖の諸子は幼く、宮を出ていない者が十余王おり、国司や家事は皆、竇誕が主管した。出向して梁州都督となった。貞観の初め、召されて右領軍大将軍を授かり、莘国公に進み、宗正卿となった。太宗が語りかけると、昏謬して応対を誤った。そこで詔を下して曰く、「竇誕は近頃衰耗し、職務を果たせない。朕が知りながら任用したのは、これ不明というものである。かつ官を為して人を択ぶは治であり、人を為して官を択ぶは乱である。光禄大夫として罷め、邸に就かせよ」と。卒し、工部尚書・荊州刺史を追贈され、諡して安といった。

原文誕,隋末起家朝請郎。義甯初,辟丞相府祭酒,封安豐郡公,尚襄陽公主。從秦王征薛舉,為元帥府司馬。累遷太常卿。高祖諸子幼,未出宮者十余王,國司家事,皆誕主之。出為梁州都督。貞觀初,召授右領軍大將軍,進莘國公,為宗正卿。太宗與語,昏謬失對。乃下詔曰:「誕比衰耗,不能事,朕知而任之,是謂不明。且為官擇人者治,為人擇官者亂。其以光祿大夫罷就第。」卒,贈工部尚書、荊州刺史,諡曰安。

姪 竇璡

原文侄 璡

竇抗の弟の璡は、字を之推といい、性質は沈着で篤実であった。隋の大業末、扶風太守となった。唐の兵が起こると、郡を以て帰順し、民部尚書を歴任した。秦王に従って薛仁杲を平らげ、錦袍を賜った。まもなく益州を鎮め、当時蜀では盗賊が多かったが、皆討ち平らげた。皇甫無逸と不協和音を生じ、たびたび訴え誹謗したため、入朝を請うたが、途中で詔して還らせた。竇璡は内心憂い恐れた。使者が来ると、竇璡は臥内に引き入れて宴を設け、厚く贈り物をした。無逸がこれを聞き届け、官を免ぜられた。間もなく、秘書監を授かり、鄧国公に封ぜられた。貞観の初め、将作大匠に遷り、詔して洛陽宮を修築させ、池を鑿ち山を築き、極めて奢侈浮華に務め、費用は算に勝えなかった。太宗は怒り、詔してこれを破却させ、その官を免じた。酆王が竇璡の娘を妃に納れたため、元の位に復した。卒し、礼部尚書を追贈され、諡して安といった。竇璡は巧みな思慮があり、書をよくした。武徳年中、太常少卿の祖孝孫と詔を受けて雅楽を定め、鐘律を是正したという。

原文抗弟璡,字之推,性沈厚。隋大業末,為扶風太守。唐兵起,以郡歸,曆民部尚書。從秦王平薛仁杲,賜錦袍。尋鎮益州,時蜀盜賊多,皆討平之。與皇甫無逸不協,數相訴毀,因請入朝,至半道,詔還之。璡內憂恐。會使者至,璡引宴臥內,厚餉遺。無逸以聞,坐免官。未幾,授秘書監,封鄧國公。貞觀初,遷將作大匠,詔脩洛陽宮,鑿池起山,務極侈浮,費不勝算。太宗怒,詔毀之,免其官。以酆王納璡女為妃,復位。卒,贈禮部尚書,諡曰安。璡有巧思,工書。武德中,與太常少卿祖孝孫受詔定雅樂,是正鐘律雲。

従孫 竇徳玄

原文從孫 德玄

竇威の従孫の徳玄は、隋の大業年中、国学生で起家した。祖父の照は、周の文帝の義陽公主を尚り、钜鹿郡公に封ぜられた。父の彦は爵を襲い、隋の西平太守で終わった。兄の徳明は、陳留王の孝逸に師事し、文史に通暁した。漢王諒が反乱を起こし、将の綦良を遣わして黎州を攻撃させた。徳明は十八歳で、五千の兵士を募り、号令厳整で、倍道して賊を撃ち、これを破った。功により累遷して斉王府属となった。事に坐して免官された。高祖の兵が長安を叩くと、宗室の孝基・神符・道宗及び竇誕・趙慈景らが皆獄に繋がれ、隋の将の衛文升・陰世師が彼らを殺そうとした。徳明は諫めて曰く、「罪は彼らにはなく、殺しても敵に傷つけず、ただ怨みを取るのみです。放つに如かず」と。そこで止めた。長安が平定され、高祖に謁したが、終に自ら言わず、時に長者と称された。考功郎中に拝された。秦王に従って王世充を撃った。顕武男に封ぜられ、常・愛二州刺史を歴任し、卒した。徳玄は初め高祖の丞相府千牛となり、太宗の時にはあまり顕著でなかったが、高宗は旧臣として、殿中少監から御史大夫とし、年内に司元太常伯に遷した。時に帝はまた源直心を奉常正卿とし、劉祥道を司刑太常伯とし、上官儀を西台侍極とし、郝処俊を太子左中護とし、凡そ十余り人、皆帝自ら択び、宰相の李勣らに示すと、皆頓首して謝した。麟徳の初め、検校左相に進み、職務に勤め己を律し、天子が嘗て臨朝し、その清素を賞して、賜賚を加えた。位に居ること数年、封禅の事を賛図し、李勣と共に使となった。帝が濮陽に駐蹕し、古に帝丘という謂れを問うと、徳玄は答えられず、許敬宗がその所以を詳しく述べると、帝は善しと称した。敬宗は人に自ら矜ったが、徳玄は知りながらも忤わず、衆はその度量に服した。礼が成ると、爵二級を進めた。弟の徳遠が未だ爵に及ばぬを以て、分封を願うと、詔して可とし、故に徳玄は钜鹿男に封ぜられ、徳遠は楽安男に封ぜられた。徳玄は時流に迎合し、未だ嘗て過ちはなかったが、他に補益するところは無かった。卒し、年六十九、光禄大夫・幽州都督を追贈され、諡して恭といった。

原文威從孫德玄,隋大業中,起家國學生。祖照,尚周文帝義陽公主,封钜鹿郡公。父彥,襲爵,終隋西平太守。兄德明,師事陳留王孝逸,通知文史。漢王諒反,遣將綦良攻黎州。德明年十八,募士五千,號令嚴整,倍道擊賊,破之。以功擢累齊王府屬。坐事免。高祖兵叩長安,而宗室孝基、神符、道宗及竇誕、趙慈景等並繫獄,隋將衛文升、陰世師欲殺之,德明諫曰:「罪不在此,殺之無傷於彼,祗取怨焉,不如縱之。」乃止。長安平,謁高祖,終不自言,時稱長者。拜考功郎中。從秦王擊王世充。封顯武男,曆常、愛二州刺史,卒。德玄始為高祖丞相府千牛,曆太宗時不甚顯,高宗以舊臣,自殿中少監為御史大夫,歲中遷司元太常伯。時帝又以源直心為奉常正卿,劉祥道為司刑太常伯,上官儀為西台侍極,郝處俊為太子左中護,凡十餘人,皆帝自擇,以示宰相李勣等,皆頓首謝。麟德初,進檢校左相,勤職約己,天子嘗臨朝,咨其清素,加以賜賚。居位數年,贊圖封禪事,與李勣皆為使。帝次濮陽,問古謂帝丘,德玄不能對,許敬宗具道其然,帝稱善。敬宗自矜於人,德玄知,不為忤,眾服其量。禮成,進爵二級。以弟德遠未及爵,願分封,詔可,故德玄封钜鹿男,德遠樂安男。德玄迎時取合,未嘗有過,然無它補益。卒,年六十九,贈光祿大夫,幽州都督,諡曰恭。

賛して曰く、高氏・竇氏は外戚姻家の縁によるとはいえ、自ら才猷を以て天子に結びつき、名臣の列に廁し、栄えを垂れて窮まり無く、時に遇合あり、故に諸々の事業に見える。古来の賢豪、運に遭わず、光を埋め采を鏟けずり、草木と共に腐る者は、勝げて吒なげくべきかな。竇宗は魏より唐に至るまで、支胄扶疏数百年、憑むところ厚かった。

原文贊曰:高、竇雖緣外戚姻家,然自以才猷結天子,廁跡名臣,垂榮無窮,時有遇合,故見諸事業。古來賢豪,不遭與運,埋光鏟采,與草木俱腐者,可勝吒哉!竇宗自魏訖唐,支胄扶疏數百年,所馮厚矣。