高儉
高儉、字は士廉、字をもって顕れる。斉の清河王高岳の孫、父の高勵は楽安王、隋に入り洮州刺史となった。士廉は敏捷で聡明、度量があり、容貌は絵のようで、書物を見れば一度で暗誦し、応対に敏速であった。隋の司隸大夫薛道衡・起居舍人崔祖浚はいずれも宿臣で顕重され、彼と忘年の友となり、これによって有名となった。自らを斉の宗室とし、広く交際することを好まず、終南山下に隠居した。吏部侍郎高孝基が仕官を勧め、仁寿年中、文才甲科に挙げられ、治礼郎に補せられた。斛斯政が高麗に奔った際、彼と親しかったことに連座し、朱鳶主簿に貶せられた。母が老いて瘴癘の地に住めぬため、妻の鮮于氏を留めて養わせ、自らは赴任した。時に世は大乱し、京師との連絡は絶え、交趾太守丘和が司法書佐に任命した。時に欽州の俚帥寧長真が兵を率いて交趾を侵し、丘和は恐れて出迎えようとした。士廉は言った、「長真の兵は多いが、懸軍遠征の客軍であり、勢い長くは続かぬ。城中の精兵はまだ戦える。どうして人の制を受けるのか」。丘和はそこで彼を行軍司馬に命じ、迎撃してこれを破った。
益州大都督府長史に進む。蜀人は鬼を畏れ病を嫌い、たとえ父母が病んでも見捨てて去り、家屋に向かって餌を投げ入れ食べさせ、兄弟も互いに財を貸さなかった。士廉は条教を設け、弁じて告げ督励し、風俗はたちまち変わった。また諸生を引いて経芸を講授させ、学校が復興した。秦の時、李冰が汶江水を導いて田を灌漑し、水辺の土地は一頃千金の価値があり、民は互いに侵し冒した。士廉は古い渠に沿って分水路を引き出し、灌漑路を広げ、人々は富饒となった。
吏部尚書として中央に入り、許国公に進封された。元来、人物鑑定の才に優れ、また氏族の譜を詳しく知り、任命する州の官職は、人と地が不適当なことはなかった。高祖が崩御すると、司空を摂行し、山陵を営み、特進を加えられ、尚書右僕射に遷った。士廉は三代この官に居り、世はその貴さを栄誉とした。
太宗が洛陽に行幸し、太子が国を監する時、少師を摂行するよう命じられた。手詔に曰く、「三川に端拱して関中を憂えぬのは、卿に任せたからである」。久しくして致仕を請うと、僕射を解くことを許し、開府儀同三司・同中書門下三品を加えられ、政事を知った。帝が高麗を征伐し、皇太子が定州に駐留して国を監する時、また太傅を摂行し、共に機務を掌った。太子の令に曰く、「寡人は公の訓導に頼るが、近頃政務を聴く際、机に向かって公に対すること、心情安からず。所司は別に机を設け太傅に奉るべし」。士廉は固く辞した。
士廉は進退の挙措が詳細で華やかであり、献言する時は必ず、搢紳たちが目を注いだ。奏議の草稿は必ず焼き、家人に見せたことはなかった。士廉は若い時に太宗が常人ならざることを見抜き、自分の娘を嫁がせた。これが文徳皇后である。遺言では墓に他物を蔵することを許さず、ただ衣一襲と、平生好んだ書物で先王の典訓で終始用いるべきものを置くようにと示した。
子 履行
履行は母の喪に服し、甚だしく憔悴したので、太宗は強いて食うよう諭した。東陽公主を尚り、爵を襲う。戸部尚書より益州大都督府長史となり、政績に名があった。長孫無忌の事に連座し、左遷されて洪州都督となり、後に永州刺史に改められた。
子に真行あり。
真行は左衛将軍に至った。その子の岐が章懐太子の事に連座し、詔して自ら戒め切るよう命じたところ、真行は佩刀をもってこれを刺殺し、首を断って道上に棄てた。高宗はその行いを卑しみ、睦州刺史に貶した。
子に審行あり。
審行は戸部侍郎より渝州刺史に貶された。
五世の孫に重あり。
士廉の五世の孫の重は、字は文明、明経に及第し、李巽が塩鉄転運巡官に表挙した。職務に善く、凡そ十年、累進して司門郎中に至った。
敬宗は侍講学士の選任を慎重にし、重は簡素で厚く、篤実で正しい人物であったため、崔郾とともに選ばれ、再び抜擢されて国子祭酒となった。文宗は『左氏春秋』を好み、各国ごとに分けて書を編むよう命じ、四十篇を成した。鄭覃とともに『九経』を石に刊定した。出て鄂岳観察使となり、善政をもって褒められた。久しくして、太子賓客を拝し、東都に分司した。卒し、太子少保を追贈された。
賛して曰く、古は姓を受け氏を受くるは以て功ある者を表彰せしむ。この時、人皆土着なりし故に、名宗望姓、郡国を挙げて自ら表し、而して譜系興る。是れ以て昭穆を推叙し、百代相乱るることを得ざらしむる所以なり。晋の播遷に遭い、胡醜華を乱し、百宗蕩析し、士は墳墓を去れども、子孫猶お系録を挟み、以て承くる所を示す。而して閥閥顕なる者は、婚を売り財を求むるに至り、廉恥を汨喪す。唐初、流弊仍お甚だしく、天子屡々抑えて衰えざらしむ。中葉に至り、風教又薄く、譜録都て廃れ、公は常産の拘り無く、士は旧徳の伝無し。李と言えば悉く隴西より出で、劉と言えば悉く彭城より出づ。悠悠たる世詐、終に考按無し。冠冕皁隸、混じて一区と為る。太息すべきかな。
竇威
竇威、字は文蔚、岐州平陸の人。父は熾、周において上柱国となり、隋に入って太傅となった。太穆皇后は、その従兄弟の娘である。
威は沈邃にして器局あり、群言を貫覧す。家世貴く、子弟皆武力を喜ぶが、独り威は文を尚ぶ。諸兄は書痴と詆す。内史令李徳林が秀異を挙げ、秘書郎に授く。当に遷るべきも調を肯ぜずすること十年、故にその学益々博し。而して諸兄は軍功を以て位通顕なり。威の職閑冗なるを薄し、更に謂いて曰く、「昔、仲尼積学して聖を成すも、猶お棲遅して偶わず。汝尚お何をか求むるや」と。威は笑って答えず。蜀王秀が記室に辟くも、威は秀の不法多きを以てし、疾を謝して去る。秀廃せられ、府属皆罪を得るも、威独り免る。大業中、累遷して内史舎人となり、数え諫めて旨に忤い、転じて考功郎中となり、後事に坐して免ぜられる。
後、疾に臥し、帝臨み問う。卒するに及び、哭すること慟し。同州刺史を贈られ、延安郡公を追封され、諡して靖と曰う。威の性は儉素、家に産を樹てず、喪に比し、余貲無し。薄葬を遺令す。詔して皇太子・百官をして臨送せしむ。
甥に軌あり。
兄の子軌は、字を士則という。父の恭は、周に仕えて雍州牧・酇國公となった。軌は性質剛果にして威あり、大業年間、資陽郡の東曹掾となり、官を去って帰郷した。高祖が兵を起こすと、軌は千余りの兵を募り長春宮を迎え謁見した。帝は大いに喜び、良馬十匹を賜い、渭南の地を攻略させ、永豊倉を陥とし、兵五千を収め、京師平定に従った。贊皇縣公に封ぜられ、大丞相諮議参軍となった。
稽胡の賊五万が宜春を掠めた。詔して軌に討たしむ。黄欽山に駐屯し、賊が高所より叢射するに遇い、衆は退却せんとした。軌は部将十四人を斬り、さらにその次を抜擢して代えさせ、自ら数百騎を擁して殿となり、令して曰く「鼓を聞いて進まざる者は斬る」と。鼓を鳴らすや、士卒は争って賊に赴き、賊の射るに勝えず、大いにこれを破り、首級千を斬り、男女二万を獲た。太子詹事に抜擢された。赤排羌が薛挙の叛将鐘俱仇とともに漢中を寇すと、秦州総管に拝され、賊を討ち連戦して功あり、余党は悉く降った。旧封の酇國を復し、益州道行台左僕射に遷る。党項が吐谷渾を引きいて松州を寇すと、詔して軌と扶州刺史蔣善合にこれを救援させた。善合は期より先に至り、鉗川でこれを破った。軌は進軍して臨洮に至り、左封を撃ち、その衆を走らせた。羌が必ず患いとならんことを度り、初めて松州に屯田す。詔して率いる所の兵をして秦王に従い王世充を討たしむ。明年、蜀に還る。
軌は貴くなるに及び、ますます厳酷となり、然れども自ら勤苦することができ、毎に出師して敵に臨むときは、身未だ嘗て甲を解かず、その下に命を用いざる者あれば即ち誅し、小過に至るまでまた鞭撻して流血せしめ、人これを見る者は皆重足して股慄し、これによりて蜀の盗賊は悉く平定された。初め、その甥を腹心と為し、嘗て夜出でて、呼ぶも時に至らず、これを斬った。また家奴に外に出るなと戒めたが、忽ち奴を遣わして公厨より漿を取らせ、既にしてこれを悔い、曰く「要は当に汝が頭を借りて以て法を明らかにすべし」と。命じて奴を斬らしむ。奴冤を称す。監刑者は疑いて時に決せず、軌は併せてこれを斬った。後に朝に入り、御楼に坐を賜うも、容儀肅せず、また詔に対して坐す。帝怒って曰く「公蜀に入るや、車騎・驃騎従者二十人、公誅斬すること略尽くし、我が隴種の車騎、尚お公に給するに足らず」と。よって詔獄に繋ぐ。俄かにこれを釈し、益州に還鎮せしむ。
軌は行台尚書韋雲起・郭行方と素より協わず、及び隠太子誅せられ、詔至るや、軌は詔を懐中に内す。雲起詔の安在やと問うも、軌示すを肯わず、よって執いてこれを殺す。行方は懼れ、京師に奔り、免るるを得たり。是歳、行台廃され、益州都督を授け、食邑六百戸を加う。
侄 琮
軌の弟琮、武幹有り。大業末、法を犯し亡命して太原に至り、高祖に依る。秦王と憾み有り、自ら安からず。王方に天下の豪英を収め、礼を降してこれを接し、臥内に出入らしむ。琮の意乃ち釈る。大將軍府建つや、引いて統軍と為す。西河平定に従い、霍邑を破る。金紫光祿大夫を授けられ、扶風郡公に封ぜらる。劉文静に従い潼関にて屈突通を撃ち、その将桑顯和を敗り、通遁走す。琮軽騎を以て稠桑にて追獲す。進兵して陝県を下し、太原倉を抜く。左領軍大將軍に遷り、物五百段を賜う。隋の河陽都尉獨孤武潜かに帰款を謀る。命じて琮に万騎を総べさせ、柏崖よりこれを迎えしむ。逗留して進まず、武殺さる。坐して除名せらる。武德初、右屯衛大將軍と為る。時に将に洛陽を図らんとし、詔して琮に陝に留守せしめ、饟道を護らしむ。王世充の将羅士信数たび兵を以て鈔絶す。琮人を遣わし説いてこれを降す。東都平る。晉州総管を検校す。隠太子に従い劉黒闥を平ぐ。功により譙國公に封ぜられ、黄金五十斤を賜う。卒す。左衛大將軍を贈られ、諡して敬と曰う。永徽五年、特進を加贈す。
侄 抗
威の従兄の子抗、字は道生。父栄定、隋の洺州総管・陳國公となり、諡して懿と曰う。母は隋文帝の姉安成公主なり。抗は容儀美しく、性質通率にして、図史を渉覧す。帝の甥として早く貴なり、太学に入り、千牛備身・儀同三司に釈褐す。父の疾に侍り、束帯五旬弛めず。喪に居り、哀臘常に過ぐ。爵を襲い、累転して梁州刺史となる。将に官に之かんとするに、文帝その第に幸いし、酣宴すること家人の礼の如し。母卒す。数たび号絶す。詔して宮人に哭を節せしむ。歳余りして、岐州刺史となり、転じて幽州総管となる。至る所寛恵を以て聞こゆ。漢王諒反す。煬帝抗の応ずるを疑い、李子雄を遣わし馳せ往きてこれに代わらしむ。子雄よって抗が諒の書を得て奏せざるを誣う。按鞫するも状無し。然れども坐して遂に廃せらる。
抗は高祖と少より相狎み、及び楊玄感反すや、抗高祖に謂いて曰く「玄感は我が為に先んずるのみ。李氏の名図録に在り、天の啓く所なり」と。高祖曰く「禍の始めと為るは祥ならず、公妄言すること無かれ」と。煬帝抗を遣わし霊武に出で、長城を逴護せしむ。高祖既に京師を定めたるを聞き、喜びて曰く「これ吾が家の婿、豁達にして大度有り、真に乱を撥ぐるの主なり」と。よって長安に帰る。高祖これを見て喜び、手を握りて曰く「李氏果たして王たる、如何」と。よって酒を置きて楽しましめ、将作大匠兼納言を授け、尋いで左武候大將軍に罷む。
侄孫 静
竇靜は字を元休といい、隋において親衛に仕え、父が煬帝に罪を得たため、長らく進用されなかった。高祖が京師に入ると、并州大総管府長史に抜擢された。当時、突厥がたびたび辺境の患いとなり、糧道が続かなかったので、竇靜は上表して太原に屯田を置き、輸送を省くことを請うた。議者は流亡者がまだ回復していないとして、重ねて困窮させるべきではないとし、そこで召し入れて裴寂・蕭瑀・封倫と朝廷で議論させたが、寂らは彼を屈服させることができず、帝はその意見に従い、年間十万斛の粟を収穫した。詔して并州大総管を検校させた。また石嶺を断って障塞とし、突厥の侵入を制することを請うた。太宗が即位すると、司農卿を授けられ、信都県男に封ぜられた。趙元楷が少卿となったが、竇靜はその収斂を軽蔑し、役人たちが会した際に大言して曰く、「煬帝のように奢侈で、四海を尽くして自らを養うならば、司農には貴公のような者が要るであろう。今の天子は自ら節倹を躬行し、一人を屈して万民を安んじている。どうして貴公のような者を用いようか」と。元楷は大いに慚じた。夏州都督に転じた。突厥が離反し、出征する諸将が竇靜の許を過ぎると、竇靜は虜中の虚実を述べ、諸将はこれによって大いに勝利を得た。またその部落を離間し、郁射配下の鬱孤尼ら九俟斤が皆内附した。帝はこれを嘉し、馬百匹・羊千頭を賜った。頡利を捕らえた時、詔してその衆を河南に処置させようとした。竇靜は上書して曰く、「夷狄は窮すれば搏噬し、飽けば群聚するもので、刑法で縛り、仁義で教えることはできません。衣食は供給に仰ぎ、耕桑に頼りません。今、有為の民を損ない、無知の虜に資するのは、得ても治に益なく、失っても教化を害しません。況や首丘を忘れぬ者であれば、一朝にして変が生じ、我が王略を犯すでしょう。その破亡に乗じ、賢王の号を仮り、宗女を妻とし、その土地部落を分割し、権を弱め勢いを分からせ、羈縻し制御しやすくするならば、世々藩臣となるでしょう」と。帝は従わなかったが、その忠を嘉し、優詔で答えて曰く、「北方の務は、悉く卿に委ねる。卿を寧朔大使とし、朕は北顧の憂い無し」と。再び民部尚書に遷った。卒し、諡して肅といった。子の逵は、遂安公主を尚り、爵を襲いだ。
姪孫 竇誕
竇誕は、隋末に朝請郎で起家した。義寧の初め、丞相府祭酒に辟召され、安豊郡公に封ぜられ、襄陽公主を尚った。秦王に従って薛挙を征し、元帥府司馬となった。累遷して太常卿となった。高祖の諸子は幼く、宮を出ていない者が十余王おり、国司や家事は皆、竇誕が主管した。出向して梁州都督となった。貞観の初め、召されて右領軍大将軍を授かり、莘国公に進み、宗正卿となった。太宗が語りかけると、昏謬して応対を誤った。そこで詔を下して曰く、「竇誕は近頃衰耗し、職務を果たせない。朕が知りながら任用したのは、これ不明というものである。かつ官を為して人を択ぶは治であり、人を為して官を択ぶは乱である。光禄大夫として罷め、邸に就かせよ」と。卒し、工部尚書・荊州刺史を追贈され、諡して安といった。
姪 竇璡
竇抗の弟の璡は、字を之推といい、性質は沈着で篤実であった。隋の大業末、扶風太守となった。唐の兵が起こると、郡を以て帰順し、民部尚書を歴任した。秦王に従って薛仁杲を平らげ、錦袍を賜った。まもなく益州を鎮め、当時蜀では盗賊が多かったが、皆討ち平らげた。皇甫無逸と不協和音を生じ、たびたび訴え誹謗したため、入朝を請うたが、途中で詔して還らせた。竇璡は内心憂い恐れた。使者が来ると、竇璡は臥内に引き入れて宴を設け、厚く贈り物をした。無逸がこれを聞き届け、官を免ぜられた。間もなく、秘書監を授かり、鄧国公に封ぜられた。貞観の初め、将作大匠に遷り、詔して洛陽宮を修築させ、池を鑿ち山を築き、極めて奢侈浮華に務め、費用は算に勝えなかった。太宗は怒り、詔してこれを破却させ、その官を免じた。酆王が竇璡の娘を妃に納れたため、元の位に復した。卒し、礼部尚書を追贈され、諡して安といった。竇璡は巧みな思慮があり、書をよくした。武徳年中、太常少卿の祖孝孫と詔を受けて雅楽を定め、鐘律を是正したという。
従孫 竇徳玄
竇威の従孫の徳玄は、隋の大業年中、国学生で起家した。祖父の照は、周の文帝の義陽公主を尚り、钜鹿郡公に封ぜられた。父の彦は爵を襲い、隋の西平太守で終わった。兄の徳明は、陳留王の孝逸に師事し、文史に通暁した。漢王諒が反乱を起こし、将の綦良を遣わして黎州を攻撃させた。徳明は十八歳で、五千の兵士を募り、号令厳整で、倍道して賊を撃ち、これを破った。功により累遷して斉王府属となった。事に坐して免官された。高祖の兵が長安を叩くと、宗室の孝基・神符・道宗及び竇誕・趙慈景らが皆獄に繋がれ、隋の将の衛文升・陰世師が彼らを殺そうとした。徳明は諫めて曰く、「罪は彼らにはなく、殺しても敵に傷つけず、ただ怨みを取るのみです。放つに如かず」と。そこで止めた。長安が平定され、高祖に謁したが、終に自ら言わず、時に長者と称された。考功郎中に拝された。秦王に従って王世充を撃った。顕武男に封ぜられ、常・愛二州刺史を歴任し、卒した。徳玄は初め高祖の丞相府千牛となり、太宗の時にはあまり顕著でなかったが、高宗は旧臣として、殿中少監から御史大夫とし、年内に司元太常伯に遷した。時に帝はまた源直心を奉常正卿とし、劉祥道を司刑太常伯とし、上官儀を西台侍極とし、郝処俊を太子左中護とし、凡そ十余り人、皆帝自ら択び、宰相の李勣らに示すと、皆頓首して謝した。麟徳の初め、検校左相に進み、職務に勤め己を律し、天子が嘗て臨朝し、その清素を賞して、賜賚を加えた。位に居ること数年、封禅の事を賛図し、李勣と共に使となった。帝が濮陽に駐蹕し、古に帝丘という謂れを問うと、徳玄は答えられず、許敬宗がその所以を詳しく述べると、帝は善しと称した。敬宗は人に自ら矜ったが、徳玄は知りながらも忤わず、衆はその度量に服した。礼が成ると、爵二級を進めた。弟の徳遠が未だ爵に及ばぬを以て、分封を願うと、詔して可とし、故に徳玄は钜鹿男に封ぜられ、徳遠は楽安男に封ぜられた。徳玄は時流に迎合し、未だ嘗て過ちはなかったが、他に補益するところは無かった。卒し、年六十九、光禄大夫・幽州都督を追贈され、諡して恭といった。
賛して曰く、高氏・竇氏は外戚姻家の縁によるとはいえ、自ら才猷を以て天子に結びつき、名臣の列に廁し、栄えを垂れて窮まり無く、時に遇合あり、故に諸々の事業に見える。古来の賢豪、運に遭わず、光を埋め采を鏟り、草木と共に腐る者は、勝げて吒くべきかな。竇宗は魏より唐に至るまで、支胄扶疏数百年、憑むところ厚かった。