新唐書

巻九十三 列傳第十八 李靖孫:令問 五代孫:彥芳 李勣孫:敬業

李靖

李靖、字は藥師、京兆三原の人なり。姿貌魁秀にして、書史に通ず。嘗て親しき者に謂ひて曰く、「丈夫の遭遇は、要は功名を以て富貴を取るべし、何ぞ章句の儒に至らんや」と。其の舅韓擒虎、兵を論ずる毎に、輒ち歎じて曰く、「孫・呉と語るべきは、斯人に非ずして尚誰かあらん」と。隋に仕へて殿内直長と為り、吏部尚書牛弘之を見て曰く、「王佐の才なり」と。左僕射楊素其の床を拊して謂ひて曰く、「卿終に當に此に坐すべし」と。

大業の末、馬邑丞と為る。高祖こうそ突厥を撃つ。靖非常の志有るを察し、自ら囚はれて急變を上る。江都に傳送せらる。長安ちょうあんに至るも、道梗へり。高祖既に京師を定め、将に之を斬らんとす。靖呼びて曰く、「公兵を起して天下の為に暴亂を除き、大事を就けんと欲す。私怨を以て誼士を殺さんとするか」と。秦王も亦為に請ひ、釋かるを得、三衛に引かる。王世充を平ぐるに從ひ、功を以て開府を授く。

蕭銑江陵に據る。詔して靖に安輯せしむ。數騎の輕騎に從ひて金州を道とし、會す蠻賊鄧世洛兵數萬山谷の間に屯す。廬江王瑗討つも勝たず。靖瑗の為に謀り、之を撃ち卻す。峽州に進み至るも、銑の兵に阻まれて前へ進めず。帝逗留と謂ひ、詔して都督ととく許紹に靖を斬らしむ。紹為に請ひて免る。開州蠻冉肇則夔州を寇す。趙郡王孝恭戰ひ利あらず。靖兵八百を率ひて其の屯を破り、險を要して伏を設け、肇則を斬り、俘禽五千。帝左右に謂ひて曰く、「功を使ふは過を使ふに如かず、靖果然なり」と。因りて手敕を勞して曰く、「既往は咎めず、向の事吾久しく已に之を忘れり」と。靖遂に圖銑の十策を陳ぶ。詔有りて靖を行軍總管に拜し、兼ねて孝恭の行軍長史を攝り、軍政一に之に委ぬ。

武德四年八月、大いに兵を夔州に閱す。時に秋潦、濤瀨漲みて惡し。銑靖の未だ下らざるを以て、設備せず。諸将も亦江平にして乃ち進まんことを請ふ。靖曰く、「兵機の事、速きを以て神と為す。今士始めて集まる。銑知るに及ばず。若し水に乘じて壘に傅はば、是れ震霆耳を塞ぐに及ばざるなり。能く倉卒に兵を召す有りとも、我を禦ぐに以て無からん。此必ず禽とすべきなり」と。孝恭之に從ふ。

九月、舟師夷陵を叩く。銑の将文士弘卒數萬を以て清江に屯す。孝恭之を撃たんと欲す。靖曰く、「不可なり。士弘健将にして、下皆勇士なり。今新に荊門を失ひ、銳を悉くして我に拒ぐ。此れ敗を救ふの師、當ふべからず。宜しく南岸に駐し、其の氣衰ふるを待ちて乃ち之を取るべし」と。孝恭聽かず、靖を留めて屯を守らしめ、自ら往きて與に戰ひ、大敗して還る。賊舟を委ね散りて掠む。靖其の亂るるを視、兵を縱ちて之を撃ち破り、四百餘艘を取り、溺死する者萬人。即ち輕兵五千を率ひて先鋒と為り、江陵に趨り、城に薄して營す。其の将楊君茂・鄭文秀を破り、甲士四千を俘ふ。孝恭の軍繼ぎて進む。銑大いに懼れ、檄をして江南の兵を召すも、到るに及ばず。明日降る。靖其の都に入り、號令靜嚴にして、軍私無し。或ひは靖に請ふ、銑の将にして拒戰する者の家貲を籍して軍を賞せんと。靖曰く、「王者の兵は、人を弔ひて罪有るを取る。彼其れ脅驅されて來り、藉りて師に拒ぐは、本情に非ざるなり。叛逆に比するを容れず。今新に荊・郢を定む。宜しく寬大を示し、以て其の心を慰むべし。若し降りて之を籍せば、恐らくは荊より南、堅城劇屯、之を驅りて死守せしめん。計の善きに非ざるなり」と。止めて籍せず。是に由りて江・漢の列城爭ひて下る。功を以て永康縣公に封ぜられ、荊州刺史を檢校す。乃ち嶺を度りて桂州に至り、道を分かちて招慰す。酋領馮盎等皆子弟を以て來謁す。南方悉く定まる。款效を裁量し、制を承りて官を補ふ。得る郡凡そ九十六、戶六十餘萬。詔書勞勉し、嶺南撫慰大使・檢校桂州總管を授く。嶺海陋遠にして、久しく德を見ず。威武を震はし、禮義を示さずんば、則ち風を變ふるに以て無しと。即ち兵を率ひて南巡し、過ぐる所疾苦を問ひ、長老を延見し、天子の恩意を宣布す。遠近歡服す。

輔公祏丹陽に據りて反す。詔して孝恭を帥と為し、靖を召し朝に入りて方略を受けしめ、孝恭に副へて東討せしむ。李世勣等七總管皆節度を受く。公祏馮惠亮を遣はして舟師三萬を以て當塗に屯せしめ、陳正通歩騎二萬を以て青林に屯せしめ、自ら梁山より連鎖して以て江道を斷つ。卻月城を築き、延袤十餘里、犄角と為す。諸将議して曰く、「彼勁兵柵を連ね、將に戰はずして我が師を疲老せしめんとす。若し直ちに丹陽を取らば、其の巢窟を空しくし、惠亮等自ら降らん」と。靖曰く、「然らず。二軍精しと雖も、而して公祏の自ら将ふる所も亦銳卒なり。既に石頭を保てば、則ち牢として拔くべからず。我留まりて志を得ず、退きて忌む所有らば、腹背患ひを蒙らん。百全の計に非ず。且つ惠亮・正通は百戰の餘賊、野鬥を怯むるに非ず。今方に持重するは、特だ公祏の計を立つるのみ。若し意に出でずして、挑みて其の城を攻めば、必ず之を破らん。惠亮拔かるれば、公祏禽とせられん」と。孝恭之を聽く。靖黃君漢等を率ひて水陸皆進み、苦戰し、殺傷萬餘人、惠亮等亡び去る。靖輕兵を将ひて丹陽に至る。公祏懼る。眾尚ほ多し。戰ふ能はず。乃ち出走す。之を禽ふ。江南平ぐ。東南道行台を置き、以て行台兵部尚書と為す。物千段・奴婢百口・馬百匹を賜ふ。行台廢さる。檢校揚州大都督府長史。帝歎じて曰く、「靖は乃ち銑・公祏の膏肓なり。古の韓・白・衛・霍何を以てか加へん」と。

八年、突厥太原を寇す。行軍總管と為り、江淮の兵萬人を以て太谷に屯す。時に諸将多く敗る。獨り靖完軍を以て歸る。俄に安州大都督を檢校するを權む。太宗踐阼し、刑部尚書を授け、功を錄し、實封四百戶を賜ひ、兼ねて檢校中書令。突厥部種離畔す。帝方に進取を圖る。兵部尚書を以て定襄道行軍總管と為し、勁騎三千を率ひて馬邑より惡陽嶺に趨る。頡利可汗大いに驚きて曰く、「兵國を傾けて來らず、靖敢へて孤軍を提げて此に至るや」と。是に於て帳部數恐る。靖諜者を縱ちて其の腹心を離れしめ、夜定襄を襲ひて之を破る。可汗身を脱して磧口に遁る。進みて代國公に封ぜらる。帝曰く、「李陵歩卒五千を以て漠を絕つ。然れども卒に匈奴に降る。其の功尚ほ竹帛に書くを得たり。靖騎三千を以て、虜庭に蹀血し、遂に定襄を取りしは、古未だ輩有らざるなり。足りて吾が渭水の恥を澡すべし」と。

頡利走りて鐵山を保ち、使者を遣はして謝罪し、請ふ國を舉げて内附せんと。靖を以て定襄道總管と為し、往きて之を迎へしむ。又鴻臚卿唐儉・將軍安修仁を遣はして慰撫せしむ。靖副将張公謹に謂ひて曰く、「詔使到らば、虜必ず自ら安んず。若し萬騎二十日の糧を齎し、白道より之を襲はば、必ず欲する所を得ん」と。公謹曰く、「上已に約して降らしむ。行人彼に在り。奈何」と。靖曰く、「機失ふべからず。是れ韓信かんしんの齊を破れる所以なり。唐儉の輩を如何ぞ惜しむに足らんや」と。兵を督して疾く進む。行きて候邏に遇ふも、皆俘ひて從ふ。其の牙を去ること七里にして乃ち覺ゆ。部眾震潰し、萬餘級を斬り、男女十萬を俘ひ、其の子疊羅施を禽へ、義成公主を殺す。頡利亡び去り、大同道行軍總管張寶相之を禽へて獻ず。是に於て地を斥けて陰山より北、大漠に至る。帝因りて大赦天下し、民に五日の酺を賜ふ。

御史大夫蕭瑀が李靖を弾劾し、軍を統率するに律なく、士卒を放任して大いに掠奪せしめ、奇宝を散失させたと。帝(太宗)は靖を召して責めたが、靖は弁明せず、頓首して謝した。帝は徐に曰く、「隋の史萬歳は達頭可汗を破りながら、賞せずして誅せられた。朕は然らず、公の罪を赦し、公の功を録す」と。乃ち左光禄大夫に進め、絹千匹を賜い、封戸を五百に増した。既にして曰く、「向者、人公を讒って短を言う。朕今悟った」と。帛一千匹を加賜し、尚書右僕射に遷した。

李靖は参議する毎に、恂々として言えぬが如く、沈厚を以て称せられた。時に使者十六道を遣わして風俗を巡察せしめ、靖を畿内道大使としたが、足疾に会い、骸骨を乞うことを懇請した。帝は中書侍郎岑文本を遣わして旨を諭させて曰く、「古より富貴にして止まるを知る者は蓋し少ない。疾ひて頓に憊れども、猶ほ進むに力を尽くす。公今大體を引き、朕深く之を嘉す。公の美を成し、一代の法と為さんと欲す。聴かざるべからず」と。乃ち検校特進を授け、第に就かせ、物段千、尚乗馬二匹を賜い、禄賜・国官・府佐は皆廃さず。若し疾少し間あらば、三日に一度門下中書に至り政事を平章せよと。霊寿杖を加賜した。

間もなく、吐谷渾が辺境を寇す。帝は侍臣に謂ひて曰く、「靖は復た起ちて帥と為る能はんや」と。靖は往きて房玄齢に見えて曰く、「吾れ老いたりと雖も、尚ほ一行に堪へん」と。帝喜び、西海道行軍大総管と為し、任城王李道宗・侯君集・李大亮・李道彦・高甑生の五総管の兵は皆これに属せしめた。軍は伏俟城に次ぐ。吐谷渾は其の莽を尽くして火とし、退きて大非川に保つ。諸将議して、春草未だ芽生えず、馬弱くして戦ふべからずと。靖は決策して深く入り、遂に積石山を踰ゆ。大戦数十、多く殺獲し、其の国を残破せしむ。国人多く降り、吐谷渾の伏允は愁蹙して自ら経りて死す。靖は更に大寧王慕容順を立てて還る。甑生の軍は塩沢道よりして後期す。靖は簿を以てこれを責む。既に帰りて憾み、広州長史唐奉義と共に靖の謀反を告ぐ。有司按験するも状無し。甑生等は誣罔を以て論ぜらる。靖は乃ち門を闔して自ら守り、賓客親戚は一々謝して遣る。衛国公に改む。其の妻卒す。詔して墳制を衛青・霍去病の故事の如くし、闕を築きて鉄山・積石山に象り、以て其の功を旌す。開府儀同三司に進む。

帝、遼を伐たんとし、靖を召し入れて謂ひて曰く、「公は南に呉を平げ、北に突厥を破り、西に吐谷渾を定む。惟だ高麗未だ服せず。亦た意有りや」と。対へて曰く、「往きて天威に憑り、尺寸の功を效すことを得たり。今疾ひ衰へたりと雖も、陛下誠に棄て給はざれば、病まば且つ瘳えん」と。帝其の老を憫み、許さず。二十三年、病甚だし。帝其の第に幸す。涕を流して曰く、「公は乃ち朕が生平の故人、国に労有り。今疾ひ此の如きは、公の為に憂ふ」と。薨ず。年七十九。司徒しとへい州都督を贈り、班剣・羽葆・鼓吹を給し、昭陵に陪葬す。諡して景武と曰ふ。子徳謇嗣ぐ。官将作少匠に至る。太子承乾に善きに坐し、嶺南に流さる。靖が故を以て呉郡に徙す。

靖の兄端、字は薬王。靖の功により永康公を襲ひ、梓州刺史と為る。

弟 客師

弟の客師、右武衛将軍。累戦の功により丹陽郡公に封ぜらる。致仕し、昆明池の南に居す。騎射を善くし、馳獵を喜ぶ。老いたりと雖も猶ほ未だ衰へず。京南より山に属し、西は澧水に際るまで、鳥鵲皆之を識り、毎に出づれば、之に従ひて翔び噪く。人これを「鳥賊」と謂ふ。卒す。年九十。幽州都督を贈らる。

孫 令問

孫の令問、玄宗が臨淄王たりし時より雅旧たり。即位に及び、協賛の功を以て、殿中少監に遷る。竇懐貞を誅するに預り、宋国公に封ぜられ、実封五百戸。散騎常侍さんきじょうじに進み、尚食事を知る。恩待甚だ渥し。然れども未だ嘗て輒りて政を幹くことなく、率ね遊畋を以て自ら娯しみ、奉養厚く、飲食侈り、刲宰を躬視するに至る。之を譏る者有り。答へて曰く、「此の畜豢は、天の人の養はんとする所以なり。蔬果と何の異なること有らん。安んぞ妄りに分別を用ゐんや」と。後、其の子が回紇部の酋長承宗と連婚するに坐し、撫州別駕に貶せられ、卒す。

五代孫 彦芳

靖の五代孫彦芳、大和年中、鳳翔司録参軍と為る。家に故より高祖・太宗の靖に賜はりし詔書数函を蔵す。之を上る。一には曰く、「兵事節度は皆公に付す。吾れ中より治めず」と。一には曰く、「昼夜公の疾を視る大老嫗を遣はさる。吾れ公の起居の状を熟知せんと欲す」と。皆太宗の手墨なり。其の他の大略此の如し。文宗之を愛して手を廃さず。其の旧物に佩筆有り。木を以て管弢と為し、其上に金を刻み、別に環を為して其の間を限る。筆尚ほ用ふ可し。靖が蕭銑を破りし時、賜はりし于闐の玉帯十三胯、七方は方形、六胯はまるし。胯各環を附し、金を以て之を固む。以て物を佩く所以なり。又火鑒・大觿・算囊等の物有り。常に帯に佩く者なり。天子悉く禁中に留む。又詔本を摸するを敕し、還た彦芳に賜ひ、并せて束帛衣服を賜ふ。権徳輿嘗て太宗の手詔を読み、涕を流すに至りて曰く、「君臣の際乃ち爾るか」と。

李勣

李勣、字は懋功、曹州離狐の人。本姓は徐氏、衛南に客居す。家富み、僮僕多く、積粟常に数千鐘。其の父蓋と皆施貸を喜び、周給するに親疏の間無し。

隋の大業末、韋城の翟譲が盗と為る。勣年十七、往きて之に従ふ。説いて曰く、「公の郷壤自ら剽残すべからず。宋・鄭は商旅の会する所、禦河其中に在り、舟艦相属す。往きて邀ひ取りて、以て自ら資とす可し」と。譲之を然りとす。公私の船を劫ひ財を取る。繇りて兵大いに振ふ。李密雍丘に亡命す。勣は浚儀の王伯当と共に譲を説き、密を推して主と為す。奇計を以て王世充を破る。密勣を署して右武候大将軍・東海郡公と為す。是の時に当たり、河南・山東大水す。隋帝饑人をして黎陽倉に就き食はしむ。吏時に発せず、死者日数万。勣密に説いて曰く、「天下の乱は饑に本づく。今若し黎陽の粟を取らば以て兵を募るに、大事済まん」と。密麾下の兵五千を勣に付し、郝孝徳等と河を済ひ、黎陽を襲ひて之を守る。倉を開きて食を縱す。旬日、勝兵二十万に至る。宇文化及兵を擁して北上す。密勣をして倉を守らしめ、周りに塹を掘りて以て自ら環らしむ。化及之を攻む。勣地道を為して出でて闘ふ。化及敗れ、引き去る。

武徳二年、密朝廷に帰す。其の地東は海に属し、南は江に至り、西は汝に直し、北は魏郡に抵る。勣之を統ぶ。未だ属する所無し。長史郭孝恪に謂ひて曰く、「人衆土宇は、皆魏公(李密)の有なり。吾若し之を献らば、是れ主の敗を利として己の功と為すなり。吾の羞づる所なり」と。乃ち郡県の戸口を録して密に啓し、請ふらくは自ら之を上らんと。使至る。高祖表無きを訝る。使者其の意を以て聞かしむ。帝喜びて曰く、「純臣なり」と。詔して黎州総管を授け、萊国公に封ず。姓を賜ひ、宗正の属籍に附し、曹に徙封し、田五十頃、甲第一区を給ふ。蓋を済陰王に封ぜんとす。固く辞す。舒国公に改む。詔して勣に河南・山東の兵を総べしめて王世充を拒がしむ。密謀反を以て誅せらるるに及び、帝使者を遣わして密の反状を示す。勣収葬を請ふ。詔之に従ふ。勣密の為に縗絰を服し、葬り畢りて乃ち釋す。

まもなく竇建徳に陥落され、その父を人質とされ、再び黎陽を守らせられた。三年、自ら脱出して帰順した。秦王に従って東都を討伐し、戦功があった。東へ進んで地を略し虎牢に至り、鄭州司兵の沈悦を降した。建徳を平定し、世充を俘虜とし、そこで軍を整えて凱旋した。秦王は上将となり、勣は下将となり、ともに金甲を着用し、戎輅に乗り、宗廟に勝利を告げた。蓋もまた洺州より裴矩とともに朝廷に入り、詔によりその官を復した。

また劉黒闥・徐円朗を破り、累進して左監門大将軍となった。円朗が再び反逆すると、詔により勣を河南大総管とし、これを討伐平定した。趙郡王孝恭が輔公祏を討つにあたり、勣に歩卒一万を率いて淮を渡らせ、寿陽を陥落させ、江西の賊の砦を攻め、馮恵亮・陳正通が相次いで潰走し、公祏は平定された。

太宗が即位すると、并州都督に任じられ、実封九百戸を賜った。貞観三年、通漠道行軍総管となり、雲中より出撃し、突厥と戦ってこれを敗走させた。兵を率いて李靖と合流した。そこで言うには、「頡利がもし磧を渡り、九姓の地に拠れば、果たして捕らえることはできぬ。我らがもし軽装で急襲すれば、戦わずして虜を縛ることができよう。」靖は大いに喜び、自らの考えと合致するとして、ここに決意を固めた。靖は衆を率いて夜に出発し、勣は兵を統率してこれに従った。頡利が磧へ逃げようとしたが、勣が先に磧口に駐屯したため、渡ることができず、これにより酋長が部落五万を率いて勣に降伏した。詔により光禄大夫・行并州大都督府長史に任じられた。父の喪で官を解かれたが、喪中を奪って官に復帰し、英国公に封を移され、并州を治めること十六年、威厳と厳正さで知られた。帝はかつて言われた、「煬帝は人を選ばずして辺境を守らせ、中国を労して長城を築き虜に備えさせた。今、朕は勣を用いて并を守らせれば、突厥は南に下ることを敢えず、賢き長城よりもはるかに優れている。」兵部尚書として召されたが、着任前に、薛延陀の子の大度設が八万騎を率いて李思摩を侵した。詔により勣を朔方道行軍総管とし、軽騎六千を率い、青山において度設を撃ち、名王一人を斬り、五万の人口を捕虜とした。功により一子を県公に封じた。

晋王が皇太子となると、詹事を授けられ、左衛率を兼ね、まもなく同中書門下三品となった。帝は言われた、「我が子が東宮に就いた。公は旧来の長史である。宮中の事を委ねるゆえ、資歴が屈することを嫌うな。」後に帝が自ら将として高麗を征するにあたり、勣を遼東道行軍大総管とした。蓋牟・遼東・白崖などの城を破り、駐蹕山の戦いに従い、功績多く、一子を郡公に封じた。延陀部落が乱れると、詔により二百騎を率いて突厥兵を発動させてこれを討ち、烏徳鞬山で大戦し、これを破り、その首領の梯真達幹を降伏させ、可汗の咄摩支は荒谷に逃げ込み、磧北はここに平定された。太常卿に改められ、なお同中書門下三品のまま、再び詹事となった。

勣は忠誠と尽力に篤く、帝は大事を託すに足るとされた。かつて急病にかかり、医者が「髭の灰を用いれば治せよう。」と言った。帝は自ら髭を切って薬に混ぜられた。病が癒え、入朝して謝すると、頓首して血を流した。帝は言われた、「朕は社稷のために計らったまでだ。何を謝することがあろうか。」後に宴に留め、顧みて言われた、「朕は幼い孤児を託すことを思うが、公に代わる者はいない。公はかつて李密を見捨てなかった。まして朕に背くことがあろうか。」勣は感激の涙を流し、指を噛んで血を流した。まもなく大いに酔い、帝は自ら衣を脱いで彼を覆われた。帝が病に臥せられた時、太子に言われた、「そちは勣に恩がない。今、事を以て彼を外に出しておく。朕が死んだら、直ちに僕射を授けるがよい。彼は必ず死力を尽くすであろう。」そこで疊州都督に任じた。

高宗が立つと、召されて検校洛州刺史・洛陽らくよう宮留守を授けられ、開府儀同三司・同中書門下に進み、機密に参与し、遂に尚書左僕射となった。永徽元年、僕射の職を解くことを請い、これを許され、なお開府儀同三司として政事を知った。四年、冊命により司空しくうに進んだ。初め太宗の時、勣はすでに凌煙閣に画像が描かれていたが、この時、帝は再びその形を図らせ、自ら序文を書かれた。また詔により、小馬に乗って東台・西台に出入りすることを許され、下級官が毎日一人迎送した。

帝は武昭儀を皇后に立てようとされたが、大臣の異議を畏れ、決断できなかった。李義府・許敬宗がまた王皇后の廃立を請うた。帝は勣と長孫無忌・于志寧・褚遂良を召してこれを計らわれたが、勣は病気と称して来なかった。帝は言われた、「皇后に子がない。嗣を絶つことより大きな罪はない。廃そうと思う。」遂良らは反対を主張し、志寧は傍観して答えなかった。帝は後に密かに勣を訪ねて言われた、「昭儀を立てようと思うが、顧命の臣たちは皆不可としている。今は止めよう。」答えて言うには、「これは陛下の家事です。外の者に問う必要はありません。」帝の意はここに定まり、王后は廃された。詔により勣・志寧に冊を持たせて武氏を立てさせた。帝が泰山で封禅を行うにあたり、封禅大使となった。かつて落馬して足を傷めると、帝は自らの乗馬を賜った。

高麗の莫離支・男生がその弟に追放され、子を遣わして援軍を請うた。詔により勣を遼東道行軍大総管とし、兵二万を率いてこれを討伐させた。その国を破り、高蔵・男建らを捕らえ、その地を州県に分割した。詔により勣に昭陵で捕虜を献上させ、先帝の意を明らかにし、軍容を整えて宗廟に告げさせた。太子太師に進位し、食封千百戸を増やされた。

総章二年、卒去した。八十六歳。帝は言われた、「勣は上に仕えて忠、親に事えて孝、三朝に歴りて未だ過ちがなく、性質廉潔で慎み深く、産業を立てなかった。今亡くなって、余財はあるまい。役人は厚く贈賻と恤みをせよ。」と涙を流された。光順門で哀悼の礼を行い、七日間朝政を視られなかった。太尉・揚州大都督を追贈し、諡して貞武といった。秘器を給し、昭陵に陪葬した。墳墓を陰山・鉄山・烏徳鞬山の形に築き、功績を顕彰した。葬儀の日、帝と皇太子は未央古城に臨幸し、哭して送り、百官は古城の西北まで送った。

初め、勣が黎陽倉を陥落させた時、食を求めて来る者が多く、高季輔・杜正倫がそこに客として赴いた。また虎牢を平定した時、戴冑を捕らえ、皆、寝所に引見して礼を尽くし推挙した。後に皆名臣となり、世間は勣が人を見抜く力があると評した。洛陽を平定した時、単雄信を得た。旧知の仲であった。その武勇の才を上表し、かつ言うには、「もし死罪を赦せば、必ずや報いることがありましょう。官爵を納めて贖罪させてください。」と請うたが、許されなかった。そこで号泣し、腿の肉を切り取って食べさせて言った、「生死の別れだ。この肉も共に土に帰ろう。」と。その子を養育した。性質は友愛に篤く、その姉が病んだ時、自ら粥を作り、ひげを焦がした。姉が止めると、答えて言った、「姉上は病が多く、勣もまた年老いております。たとえ何度も粥を進めようとも、まだどれほどできましょうか。」

その用兵は多く計略を巡らし、敵情を推し量り臨機応変に対処し、すべて事の機微に合致した。人の善行を聞けば、手を打って感嘆した。戦に勝てば、必ず功を部下に推譲した。金帛を得れば、ことごとく士卒に分け与え、私的に貯えなかった。しかし法を厳格に守ったので、人々は彼のために力を尽くした。事に臨んで将を選ぶ時は、必ずその容貌が魁偉で福相の者を選んで派遣した。ある人が理由を問うと、答えて言った、「薄命の者は、成功と名声を共にすることはできぬ。」没した後、士卒は皆涙を流した。

病に臥してより、帝及び皇太子より薬を賜われば即ち服し、家人医巫を呼ばんと欲するも、許さず。諸子固より薬を進むるも、輒ち曰く、「我れ山東の田夫なるのみ、位は三公に至り、年は八十を踰ゆ、命にあらずや!生死は天に繋がる、寧ろ医に就きて活を求めんや」と。弟の弼、始めは晋州刺史たり。勣の疾を以て、召して司衛卿と為し、省視せしむ。忽ち語りて曰く、「我れ少しく癒ゆるに似たり、酒を置きて相楽しむべし」と。ここに於て楽を奏し宴飲し、子孫を下に列す。将に罷まんとす、弼に謂ひて曰く、「我れ即ち死なんとす、言ひたきことあり、悲哭して尽くすを得ざるを恐るるが故に、一たび訣別せんとす耳!我れ房玄齢・杜如晦・高季輔を見るに、皆辛苦して門戸を立て、亦た後に遺さんことを望みしに、悉く不肖の子の為にこれを敗る。我が子孫今汝に付す、汝慎みて察すべし、行ひを厲めず、非類と交はる者有らば、急ぎ榜殺して聞かしめよ、後人をして吾を笑はしむることなかれ、吾が房・杜を笑ふが猶ほなること。我れ死なば、布装の露車に柩を載せ、常服を以て斂め、朝服を其の中に加へよ、儻ひ死して知有らば、此れを著して先帝に奉見せんことを庶幾ふ。明器は惟だ五六の寓馬を作るのみ、下帳に幔を施し、皁頂白紗の裙と為し、中に十の偶人を列すべし、其の他の物は以て従ふべからず。衆妾留まりて子を養はんことを願ふ者は聴せよ、余はこれを出だす。葬り畢りて、我が堂に徙り居り、小弱を善く視よ。苟くも我が言に違はば、屍を戮するに同じ」と。乃ち復た語らず。弼等これに遵ふ。勣は本二名たり、高宗の時に至り、太宗の偏諱を避く、故に但だ勣と名づく。後に高宗廟廷に配享す。

季弟の感、年十五、奇操有り。李密敗れ、世充に陷る。世充、書を作りて勣を召すことを令す。対へて曰く、「兄は尚ほ節義を守り、今已に主に事へたり、昆弟これを移す能はず」と。固より従はず、之を殺す。勣の子震嗣ぎ、終に桂州刺史。震の子敬業・敬猷。

孫 敬業

敬業、少くより勣に従ひ征伐し、勇名有り。太僕少卿を歴任し、英国公を襲ぎ、眉州刺史と為る。嗣聖元年、贓に坐し、柳州司馬に貶せらる。時に給事中唐之奇の括蒼令に貶せられ、詹事府司直杜求仁の黝令に貶せられ、長安主簿駱賓王の臨海丞に貶せられ、敬猷自ら盩厔令より事に坐して免ぜられ、俱に揚州に客し、失職して怏怏たり。

時に武后既に中宗を廃し、又た睿宗を立てしも、実は亦た之を囚ふ。諸武命を擅にし、唐の子孫誅戮せられ、天下之を憤る。敬業等、人の怨みに乗じ、兵を起さんことを謀り、先づ其の党監察御史薛璋に諭し、江都に使はるることを求む。及び至り、雍人の韋超をして州長史陳敬之の反を告げしめ、璋乃ち之を収め繫ぐ。敬業即ち制を矯りて敬之を殺し、自ら州司馬と称し、且つ密詔を奉り兵を募り、高州の叛酋を討つと言ふ。即ち府庫を開き、参軍李宗臣に令し繫囚・役工数百人を釈き、甲を授け、録事参軍孫処行を斬りて以て徇す。乃ち三府を開く。一は匡復府と曰ひ、二は英公府と曰ひ、三は揚州大都督府と曰ふ。自ら匡復府上将と称し、揚州大都督を領し、子奇を以て左長史と為し、求仁を右長史と為し、宗臣を左司馬と為し、璋を右司馬と為し、江都令韋知止を英公府長史と為し、賓王を芸文令と為し、前盩厔尉魏思温を軍師と為す。旬日、兵十余万。檄を州県に伝へ、武氏の過悪を疏し、廬陵王の天子の位を復す。又た状太子の賢に類する者を索めて之を奉り、衆を詭して曰く、「賢は実は死せず」と。楚州司馬李崇福、率ひて所部の三県、之に応ず。

武后、左玉鈐衛大将軍李孝逸に兵三十万を遣はして往きて之を撃たしめ、其の祖父の官爵を削り、塚蔵を毀ち、属籍を除き、揚・楚の民脅従する者を赦す。敬業の首を得れば、官三品を授け、帛五千を賞す;之奇等の首を得れば、官五品、帛三千とす。

敬業、計を思温に問ふ。対へて曰く、「公既に太后の天子を幽縶するを以てす、宜しく身自ら将兵し直ちに洛陽に趨くべし。山東・韓・魏、公の勤王を知り、附く者必ず衆し、天下指日に定まれり」と。璋曰く、「然らず。金陵は江に負ひ、其の地固と為るに足る。且つ王気尚ほ在り、宜しく先づ常・潤を併せて覇基と為し、然る後に鼓行して北せよ」と。思温曰く、「鄭・汴・徐・亳の士は皆豪傑、武后の上に居るを願はず、麦を蒸して飯と為し、我が師を待つ。奈何ぞ金陵を守らんと欲し、死地に投ぜんとするや」と。敬業従はず。敬猷をして淮陰に屯せしめ、韋超をして都梁山に屯せしめ、自ら兵を引き潤州を撃ち、之を下す。宗臣を署して刺史と為す。始めて兵を回らし高郵に屯し、阿溪を下す。思温歎じて曰く、「兵は分つを忌む、今敬業地を掃ひて淮を度り、山東の士を率ひ先づ東都を襲ふを知らず、吾其の能く為すこと無きを知る」と。

武后又た黒歯常之をして江南の兵を将ひて孝逸の援と為さしめ、進撃す。淮陰・都梁の兵皆敗る。後軍総管蘇孝祥、奇兵五千を率ひ夜に度りて敬業を撃つ。孝祥死し、兵溺るる者半を過ぐ。孝逸の軍退きて石梁を守る。鳥の群れ敬業の営上に噪く有り。監軍御史魏真宰曰く、「賊其れ敗るるか。風順ひ荻乾けば、火攻の利なり」と。固より戦を請ひ、遂に溪を度りて之を撃つ。敬業陣を置くこと久しく、士疲れ、皆顧望して正しく列せず。孝逸風に乗じ火を放ちて其の軍を逼る。軍稍く卻く。敬業精兵を麾して前に居らしめ、弱き者を後にす。陣乱れて制する能はず、乃ち敗れ、七千余級を斬る。敬業と敬猷・之奇・求仁・賓王、軽騎にて江都に遁れ、其の図籍を悉く焚き、妻子を携へて潤州に奔り、蒜山の下に潜み、将に海に入り高麗に逃れんとす。海陵に抵り、風に阻まれて山江中に遺る。其の将王那相之を斬る。凡そ二十五首、東都に伝へ、皆其の家を夷す。中宗反正し、詔して勣の官封属籍を還し、塋塚を葺き完くす。

初め、敬業の叔思文は潤州刺史たり。敬業兵を起こすや、使を以て間道より聞かしめ、固く守ること一月を踰ゆ。城陷る。敬業責めて曰く、「廬陵王天下を継ぎ、罪無くして廃せらる。今兵義を以て動く、何の過ち有りて拒ぐや。若し太后を是と助くれば、宜しく即ち武と姓すべし」と。思温等之を殺さんと欲すれども、敬業許さず。及び揚・楚平ぐるに及び、乃ち独り免る。後遂に武姓を賜はり、春官尚書を歴任す。或は言ふ、本より敬業と謀る者なりと。乃ち復た徐氏に戻り、卒す。子欽憲、開元中、仕へて国子祭酒に至る。

賛して曰く、「唐興り、其の名将を英・衛と曰ふ。皆罪亡の余を擢げ、遂に能く風雲に依乗し、功を帝籍に勒す。蓋し君臣の際、固より以て之を感ずる有り、独り期運を推すは、非なり。若し靖の闔門して疾を称し、権逼を畏れて遠ざかるは、功大にして主疑はず、古の哲人と雖も、何を以てか茲を尚ばん。勣の節は、黎陽に見ゆ。故に太宗勤めて托孤に於て、誠に為す有るなり。老臣を以て少主を輔くるに至り、房帷の易奪に会ひ、天子大臣を畏れ、依違して専らにせず、誠を委ねて取決し、惟だ議を是として聴く。勣乃ち己を私ひ禍を畏れ、従ひて之を導く。武氏奮ひて唐の宗属幾くにか殲さる。其の孫に及び、民の忍びざるに因り、兵を挙げて宗を覆し、塚を掘りて其の骨を暴くに至る。嗚呼、一言にして邦を喪はざるに幾からずや。其の学術を通ぜず、大節に臨みて奪ふべからざるの誼に昧きを惜しむ。反って許・李と同科す。戒むべからずや。世に靖の風角・鳥占・雲祲・孤虚の術に精しく、兵を用ふるに善しと為すを言ふ。是れ然らず。特だ機に臨みて果敢にし、敵を料るに明らかなるは、忠智に根ざすのみ。俗人怪詭禨祥を傅へ著すは、皆信ずるに足らず。故に靖の施設する所を列すこと此の如し。