新唐書

巻九十一 列傳第十六 溫皇甫二李姜崔

巻九十一 列傳第十六 溫皇甫二李姜崔

溫大雅

原文溫大雅

溫大雅、字あざなは彥弘、并州祁の人である。父の君攸は、北齊の文林館學士となり、隋に入って泗州司馬となったが、朝政の綱紀正しからざるを見て、病と称して帰った。大雅は性、至孝にして、弟の彥博・大有と共に皆知名であり、薛道衡これを見て、嘆じて曰く、「三人は皆、卿相の才なり」と。初め東宮學士・長安尉となり、父の喪のため解官した。時に天下乱れ、再び仕えず。

原文溫大雅,字彥弘,并州祁人。父君攸,北齊文林館學士,入隋爲泗州司馬,見朝政不綱,謝病歸。大雅性至孝,與弟彥博、大有皆知名,薛道衡見之,嘆曰:「三人者,皆卿相才也。」初爲東宮學士、長安尉,以父喪解,會天下亂,不復仕。

高祖が太原を鎮守する時、厚く礼を以て之を遇した。兵が起こり、大將軍府記室參軍に引き立てられ、文檄を主った。帝が禪を受けると、竇威・陳叔達と共に儀典を討定し、黃門侍郎に遷り、而して彥博も亦中書侍郎となり、対して華近を管した。帝嘗て従容として謂いて曰く、「我が晉陽より起つは、卿が一門の為なり」と。工部侍郎・陜東道大行臺尚書に進む。隱太子乱を図るや、秦王は表して大雅を洛陽に鎮めて変を須つべしとし、数たび秘画を陳べて、多く嘉納された。王即位すると、禮部に転じ、黎國公に封ぜられた。其の祖を改葬するに、卜人が其の地を占いて曰く、「弟は則ち吉、君に利あらず、若何」と。大雅曰く、「子の言の如くならば、我は笑を含みて地に入らん」と。歳余にして卒す。謚して孝と曰う。永徽五年、尚書右僕射を贈られた。

原文高祖鎮太原,厚禮之。兵興,引爲大將軍府記室參軍,主文檄。帝受禪,與竇威、陳叔達討定儀典,遷黃門侍郎,而彥博亦爲中書侍郎,對管華近。帝嘗從容謂曰:「我起晉陽,爲卿一門耳。」進工部侍郎、陜東道大行臺尚書。隱太子圖亂,秦王表大雅鎮洛陽須變,數陳秘畫,多所嘉納。王即位,轉禮部,封黎國公。改葬其祖,卜人占其地,曰:「弟則吉,不利於君,若何?」大雅曰:「如子言,我含笑入地矣。」歳余卒,謚曰孝。永徽五年,贈尚書右僕射。

弟 彥博

原文弟 彥博

彥博、字は大臨、書記に通じ、警悟にして弁あり。開皇末、策に対えて高策と為り、文林郎を授かり、内史省に直る。隋乱れ、幽州總管羅藝、之を引いて司馬と為す。藝、州を以て降るに、彥博之と謀り有り、總管府長史を授かり、西河郡公に封ぜられる。召されて中書舍人となり、侍郎に遷る。高麗方物を貢ぐに、高祖譲えて臣とせんと欲す。彥博執りて不可とし、曰く、「遼東は本、周の箕子の国、漢の玄菟郡なり。北面せしめざれば、則ち四夷何をか瞻仰せん」と。帝納れて止む。

原文彥博字大臨,通書記,警悟而辯。開皇末,對策高策,授文林郎,直內史省。隋亂,幽州總管羅藝引爲司馬。藝以州降,彥博與有謀,授總管府長史,封西河郡公。召入爲中書舍人,遷侍郎。高麗貢方物,高祖欲讓而不臣,彥博執不可,曰:「遼東本周箕子國,漢玄菟郡,不使北面,則四夷何所瞻仰?」帝納而止。

突厥とっけつ寇に入る。彥博、并州道行軍長史として太谷に戦い、王師敗績し、執えらる。突厥近臣なるを知り、数たび唐兵の多少及び国の虚実を問う。彥博対えず、陰山の苦寒の地に囚わる。太宗立ち、突厥款に帰し、還るを得る。雍州治中を授かり、尋いで檢校吏部侍郎と為る。彥博、士類を汰択せんと欲すも、術寡なくして衆を厭うこと能わず、訟牒廷に満ち、時に其の煩碎を譏る。復た中書侍郎と為り、御史大夫に遷り、檢校中書侍郎事を兼ぬ。貞観四年、中書令に遷り、虞國公に封ぜらる。突厥降る。詔して以て辺を安んずる所以を議せしむ。彥博、漢が降匈奴を五原塞に置くが如く請うて、以て捍蔽と為さんとす。魏徵と廷争し、徵其の弁に勝たず。天子遂に之に従う。其の後、突利可汗の弟結社謀反す。帝始めて悔ゆと云う。

原文突厥入寇,彥博以并州道行軍長史戰太谷,王師敗績,被執。突厥知近臣,數問唐兵多少及國虛實,彥博不肯對,囚陰山苦寒地。太宗立,突厥歸款,得還。授雍州治中,尋檢校吏部侍郎。彥博欲汰擇士類,寡術不能厭眾,訟牒滿廷,時譏其煩碎。復爲中書侍郎,遷御史大夫,檢校中書侍郎事。貞觀四年,遷中書令,封虞國公。突厥降,詔議所以安邊者,彥博請如漢置降匈奴五原塞,以爲捍蔽,與魏徵廷爭,徵不勝其辯,天子卒從之。其後突利可汗弟結社謀反,帝始悔雲。

彥博、辞令に善く、毎に四方の風俗を問い、誥命を臚布するに、成誦するが若し。進止詳華にして、人皆目を拭いて観る。高祖嘗て近臣を宴し、秦王を遣わして旨を諭さしむ。既にして左右を顧みて曰く、「溫彥博に何如」と。十年、尚書右僕射に遷り、明年卒す。年六十三。

原文彥博善辭令,毎問四方風俗,臚布誥命,若成誦然;進止詳華,人皆拭目觀。高祖嘗宴近臣,遣秦王諭旨,既而顧左右曰:「何如溫彥博?」十年,遷尚書右僕射,明年卒,年六十三。

彥博、性周慎にして、既に機務を掌るや、賓客に謝して通ぜず、進見すれば必ず政事の利害を陳ぶ。卒した後、帝嘆じて曰く、「彥博は憂国の故を以て、思を耗し神を殫す。我其の再期に逮ばざるを見る。少しく閑を許さずして其の寿を究めしめざるを恨む」と。家貧にして正寝無く、別室に殯す。帝命じて有司に寢を構えしむ。特進を贈り、謚して恭と曰う。昭陵に陪葬す。子に振・挺あり。

原文彥博性周慎,既掌機務,謝賓客不通,進見必陳政事利害。卒後,帝嘆曰:「彥博以憂國故,耗思殫神,我見其不逮再期矣,恨不許少閑以究其壽。」家貧無正寢,殯別室,帝命有司爲構寢。贈特進,謚曰恭,陪葬昭陵。子振、挺。

彥博の子 振

原文{{--|彥博子}} 振

振、太子舍人を歴任し、喪に居りて毀ちて卒す。

原文振歷太子舍人,居喪以毀卒。

彥博の子 挺

原文{{--|彥博子}} 挺

挺、千金公主を尚し、官は延州刺史。

原文挺尚千金公主,官延州刺史。

大雅の曾孫 曦

原文{{--|大雅曾孫}} 曦

彥博の曾孫曦、涼國長公主を尚す。

原文彥博曾孫曦,尚涼國長公主。

大雅の弟に大有あり。

原文{{--|大雅弟}} 大有

大有、字は彦將。隋の仁壽年間、李綱に推挙され、羽林騎尉に任ぜられる。高祖が兵を挙げると、召し出して太原令とした。秦王に従い西河を巡行せんとするに当たり、高祖は言う、「士馬は単少なり、経略を要す。君を以て参軍事とし、事の済むや否や、この行を卜せん」と。西河が下ると、大將軍府記室を摂り、兄の大雅と共に機密に近くを掌るも、自ら安んぜず、他の職への転任を請う。帝は言う、「我は虚心に卿を待つ、何ぞ自ら疑う所あらんや」と。武德初年、累遷して中書侍郎となり、清河郡公に封ぜられる。卒し、鴻臚卿を贈られ、諡して敬という。初め、顏氏と溫氏は隋において最も盛んであり、思魯と大雅は共に東宮に仕え、湣楚と彦博は同じく内史省に直し、遊秦と大有は秘閣を典校す。顏は学業に優れ、而して溫は職位を以て唐に顕るという。

原文大有,字彥將。隋仁壽中,李綱薦之,授羽林騎尉。高祖舉兵,引爲太原令。從秦王徇西河,將行,高祖曰:「士馬單少,要須經略,以君參軍事,事之濟否,卜是行也。」西河下,攝大將軍府記室,與兄大雅同掌機近,不自安,請徙它職。帝曰:「我虛心待卿,何所自疑?」武德初,累遷中書侍郎,封清河郡公。卒,贈鴻臚卿,謚曰敬。初,顏氏、溫氏在隋最盛,思魯與大雅俱事東宮,湣楚、彥博同直內史省,遊秦、大有典校秘閣,顏以學業優,而溫以職位顯於唐雲。

大雅の四世孫に佶あり。

原文{{--|大雅四世孫}} 佶

大雅の四世孫佶、字は輔國、字をもって行わる。安祿山の乱に際し、平原太守顏真卿を訪ね、守備の計を助く。李光弼は厚く遇す。後に鄴に居り、薛嵩が朝廷に薦む。太常丞を授かるも、嵩に一たび謝して即ち去り、郊野に屏処す。世、その高節を推す。子に造あり。

原文大雅四世孫佶,字輔國,以字行。安祿山亂,往見平原太守顏真卿,助爲守計。李光弼厚遇之。後居鄴,薛嵩薦之朝,授太常丞,一謝嵩即去,屏處郊野,世推其高節。子造。

佶の子に造あり。

原文{{--|佶子}}} 造

造、字は簡輿、姿表は瑰傑、性は書を嗜むも、然れども盛気にして、降屈すること少なし。吏となるを喜ばず、王屋山に隠れ、人その居を「處士墅」と号す。壽州刺史張建封、その名を聞き、書幣を以て招き礼す。造欣然として曰く、「可人なり」と。往きてこれに従う。建封は諮謀すれども、敢えて職事を以て縻さず。徐州を節度するに及び、造は謝して下邳に帰り、慨然として高世の心あり。建封は造を失わんことを恐れ、因って兄の子を以て妻とす。

原文造,字簡輿,姿表瑰傑,性嗜書,然盛氣,少所降屈。不喜爲吏,隱王屋山,人號其居曰「處士墅」。壽州刺史張建封聞其名,書幣招禮,造欣然曰:「可人也!」往從之。建封雖咨謀,而不敢縻以職事。及節度徐州,造謝歸下邳,慨然有高世心。建封恐失造,因妻以兄子。

時に李希烈反し、城邑を攻め陥とす。天下の兵鎮は陰に相い撼き、主帥を逐いて自立す。德宗これを患う。劉濟が方に朝廷に忠を納るるを以て、密詔を建封に下し、縦横の士を択びて往きて濟を説き、その必ず従わんことを佐けしむ。建封は強いて造を節度参謀に署し、幽州に使わす。造が濟と語らうこと未だ訖らざるに、濟は俯伏して流涕し曰く、「僻陋にして天子の神聖なるを知らず、大臣の忠を尽くすを知らず。願わくは諸侯に率先して死節を效わん」と。造還り、建封これを聞かす。詔して驛を馳せて入奏せしむ。天子その才を愛し、造の家世及び年を問う。対えて曰く、「臣が五世祖は大雅、外五世祖は李勣、臣が犬馬の歯三十有二」と。帝これを奇とす。将に諫官と為さんとすれども、語の泄るるを以て乃ち止む。復た去り、東都に隠る。烏重胤、幕府に致すを奏す。

原文時李希烈反,攻陷城邑,天下兵鎮陰相撼,逐主帥自立,德宗患之。以劉濟方納忠於朝,密詔建封擇縱橫士往説濟,佐其必。建封強署造節度參謀,使幽州。造與濟語未訖,濟俯伏流涕曰:「僻陋不知天子神聖,大臣盡忠,願率先諸侯效死節。」造還,建封以聞,詔馳驲入奏。天子愛其才,問造家世及年,對曰:「臣五世祖大雅,外五世祖李勣,臣犬馬之齒三十有二。」帝奇之。將用爲諫官,以語泄乃止。復去,隱東都。烏重胤奏致幕府。

長慶初年、京兆司録を以て太原幽鎮宣諭使と為り、召見せらる。辞して曰く、「臣は府県の吏なり、行うに宜しからず。恐らくは四方朝廷を易えん」と。穆宗曰く、「朕が東宮の時、劉総を聞く。比年上書して覲請す。使をして行期を問わしむるに、乃ち報ぜず。卿我が為に行きて意を諭せ、多く譲る毋かれ」と。因って緋衣を賜う。范陽に至る。総は橐鞬を帯びて郊迎す。造は為に禍福を開示す。総懼れ、矍然として兵が頸に在るが若し。これによりて部する所の九州を籍して入朝す。還り、殿中侍御史に遷る。田弘正害に遇う。起居舍人を以て復た鎮州行営を宣慰す。

原文長慶初,以京兆司録爲太原幽鎮宣諭使,召見,辭曰:「臣,府縣吏也,不宜行,恐四方易朝廷。」穆宗曰:「朕東宮時聞劉總,比年上書請覲,使問行期,乃不報。卿爲我行喻意,毋多讓。」因賜緋衣。至范陽,總橐鞬郊迎。造爲開示禍福,總懼,矍然若兵在頸,繇是籍所部九州入朝。還,遷殿中侍御史。田弘正遇害,以起居舍人復宣慰鎮州行營。

頃くして、李景儉酒を以て宰相に過ちを得る。造は坐してこれと飲み、出でて朗州刺史と為る。後鄕渠百里を開き、田二千頃を溉ぎ、民その利を得、号して「右史渠」という。召されて侍御史を授かり、弾奏を知る。硃衣豸冠を復して外廡に示すことを請うも、聴かず。夏州節度使せつどし李祐、大金吾に拝せらる。詔に違いて馬を進む。造、正衙にて抨劾す。祐曰く、「吾は夜蔡州に入りて呉元済を擒うるも、未だ心動かさず。今日は温御史に胆落つ」と。左司郎中に遷り、御史雑事を知り、中丞に進む。

原文頃之,李景儉以酒得過宰相,造坐與飲,出爲朗州刺史。開後鄕渠百里,溉田二千頃,民獲其利,號「右史渠」。召授侍御史,知彈奏。請復硃衣豸冠示外廡,不聽。夏州節度使李祐拜大金吾,違詔進馬,造正衙抨劾。祐曰:』吾夜入蔡州擒呉元濟,未嘗心動,今日膽落於溫御史。」遷左司郎中,知御史雜事,進中丞。

大和二年、内昭德寺火災し、禁中の「野狐落」に延焼す。野狐落とは、宮人の居る所なり。死者数百人。是の日、宰相・両省官・京兆尹・中尉・枢密皆日華門に集まり、神策兵を督して火の及ぶ所を救う。独り御史府至らず。造自ら劾して曰く、「臺は賊に係る。恐らくは人これに縁りて奸を構えん。警備を申さば、乃ち入るを得ん。臣請うらくは三十直入り、崔蠡・姚合は二十直入り、自ら贖わん」と。宰相、造を劾す。罪を朝に待たずして、自ら軽き比を許すは、聴くべからずと。詔ありて皆一月の俸を奪う。

原文大和二年,內昭德寺火,延禁中「野狐落」,野狐落者,宮人所居也,死者數百人。是日,宰相、兩省官、京兆尹、中尉、樞密皆集日華門,督神策兵救火所及,獨御史府不至。造自劾曰:「臺系賊,恐人緣以構奸,申警備,乃得入。臣請入三十直,崔蠡、姚合二十直,自贖。」宰相劾造不待罪於朝,而自許輕比,不可聽。有詔皆奪一月俸。

造の性は剛急、人或いは己に忤うれば、貴勢と雖も、亦気を以てその上に出づ。道に左補闕李虞に遇い、避けざるを恚り、従者を捕えて笞辱す。左拾遺舒元褒等建言す、「故事に、供奉官は宰相の外は屈避無し。造は典礼を棄蔑し、畏るる所無く、天子の侍臣を辱う。凡そ事小なりと雖も分理に関わる者は、失うべからず。之を失えば、則ち乱の生ずる所なり。遺・補は卑しと雖も、侍臣なり。中丞は高しと雖も、法吏なり。侍臣陵せらるれば則ち恭広からず、法吏自ら恣にすれば則ち法壊る。元和・長慶の時を聞くに、中丞の呵止は半坊に過ぎず。今に至りては乃ち両坊に及び、之を籠街と謂う。造は擅自に尊大し、僭擬の嫌を忽せにす。請うらくは罪を論ぜんことを得ん」と。帝乃ち詔す、臺官・供奉官は道路を共にし、先後行するを聴き、相い値えば則ち揖せよ。中丞の伝呼は三百歩を過ぐべからずと。造は弾撃に回畏する所無く、威望隠然たり。南曹の偽官九十人を発し、主史皆死を論ぜらる。尚書右丞に遷り、祁県子に封ぜらる。

原文造性剛急,人或忤己,雖貴勢,亦以氣出其上。道遇左補闕李虞,恚不避,捕從者笞辱。左拾遺舒元褒等建言:「故事,供奉官惟宰相外無屈避。造棄蔑典禮,無所畏,辱天子侍臣。凡事小而關分理者,不可失;失之,則亂所由生。遺、補雖卑,侍臣也,中丞雖高,法吏也;侍臣見陵則恭不廣,法吏自恣則法壞。聞元和、長慶時,中丞呵止不半坊,今乃至兩坊,謂之籠街。造擅自尊大,忽僭擬之嫌,請得論罪。」帝乃詔臺官、供奉官共道路,聽先後行,相值則揖。中丞傳呼不得過三百歩。造彈擊無所回畏,威望隱然,發南曹偽官九十人,主史皆論死。遷尚書右丞,封祁縣子。

興元軍乱し、李絳を殺す。衆、造を以てその乱を夷ぐべしと謂い、文宗も亦能くすと以為い、乃ち検校右散騎常侍・山南西道節度使を授け、便宜に従事するを許す。帝その労費を慮る。造曰く、「臣計るに、諸道の蛮を戍る兵方に還らんとす。願わくは密詔を得て約束を受け、これを用いて足れり」と。これを許す。神策将董仲質・河中将温德彜・郃陽将劉士和を命じて造に従わしむ。而して興元将衞誌忠・張丕・李少直、蜀より還る。造、意を以て諭す。皆曰く、「二つせざるを敢えず」と。乃ち八百人を以て自ら従い、五百人を前軍と為す。既に入り、前軍は諸門を呵護す。造至り、大宴せんと欲し、視事を視て曰く、「此れ隘狭にして、士を饗するに足らず」と。更に牙門に徙す。坐定まり、将卒羅拝す。徐かに曰く、「吾は新軍の主を去るの意を聞かんと欲す。悉く前に進むべく、旧軍は進むを得ず」と。労問畢り、就坐し、酒行わる。従兵合す。卒に覚るる者有り、引き去らんと欲す。造、伝言してこれを叱す。乃ち敢えて動かず。即ち軍中に絳を殺せる状を問う。誌忠・丕は階を夾みて立ち、剣を抜き伝呼して曰く、「悉くこれを殺せ!」と。囲兵奮い争い、皆斬首す。凡そ八百余人。親しく絳を殺せる者は、これを醢にす。号令する者は、殊死しゅしす。百級を取って絳を祭り、三十級を以て死事の官王景延等を祭り、余は悉くこれを漢江に投ず。監軍楊叔元、造の靴を擁えて哀を祈る。造は兵衞を以てこれを出だす。詔して康州に流す。叔元は、始め兵乱を激せし者なり。人、造の戮さざるを恨みと為す。功を以て検校礼部尚書を加え、万縑を賜いてその兵を賞す。

原文興元軍亂,殺李絳,眾謂造可夷其亂,文宗亦以爲能,乃授檢校右散騎常侍、山南西道節度使,許以便宜從事。帝慮其勞費,造曰:「臣計諸道戍蠻之兵方還,願得密詔受約束,用此足矣。」許之。命神策將董仲質、河中將溫德彜、郃陽將劉士和從造。而興元將衞誌忠、張丕、李少直自蜀還,造喻以意,皆曰:「不敢二。」乃用八百人自從,五百人爲前軍。既入,前軍呵護諸門。造至,欲大宴,視聽事,曰:「此隘狹,不足饗士。」更徙牙門。坐定,將卒羅拜,徐曰:「吾欲聞新軍去主意,可悉前,舊軍無得進。」勞問畢,就坐,酒行,從兵合,卒有覺者,欲引去,造傳言叱之,乃不敢動。即問軍中殺絳狀,誌忠、丕夾階立,拔劍傳呼曰:「悉殺之!」圍兵爭奮,皆斬首,凡八百余人。親殺絳者,醢之;號令者,殊死。取百級祭絳,三十級祭死事官王景延等,余悉投之漢江。監軍楊叔元擁造靴祈哀,造以兵衞出之。詔流康州。叔元,始激兵亂者也,人以造不戮爲恨。以功加檢校禮部尚書,賜萬縑賞其兵。

入りて兵部侍郎と為り、病を以て自ら言い、出でて東都留守と為る。俄くして河陽を節度す。奏して懷州の古秦渠枋口堰を復し、以て済源・河内・温・武陟の四県の田五千頃を溉がんことを得。召されて御史大夫と為る。方に相を以て倚らんとすれども、疾に会い、朝す能わず。礼部尚書に改む。卒す。年七十。尚書右僕射を贈らる。

原文入爲兵部侍郎,以病自言,出東都留守。俄節度河陽。奏復懷州古秦渠枋口堰,以溉濟源、河內、溫、武陟四縣田五千頃。召爲御史大夫。方倚以相,會疾,不能朝,改禮部尚書。卒,年七十,贈尚書右僕射。

兄に邈、弟に遜あり。邈は、長慶・大和中、累ねて拾遺・補闕を以て召さるれども応ぜず。遜は嘗て邑宰と為り、印綬を解いて去る。

原文兄邈,弟遜。邈,長慶、大和中,累以拾遺、補闕召,不應。遜嘗爲邑宰,解印綬去。

造の子、璋。

原文{{--|造子}} 璋

造の子、璋。璋は父の廕により累官して大理丞となる。陰平の吏が官物を盗み、その帑を焼いたが、璋はその実情を探り出し、侍御史に抜擢され、緋衣を賜う。婺州刺史に遷り、政績ありて金紫を賜う。廬州・宋州の二州刺史に転ず。宣州にて鄭薰を逐うや、崔弦は淮南の兵を調発してこれを討ち、璋を宣州刺史とする。事平らぎ、そのまま観察使を拝し、武寧節度使に抜擢される。銀刀軍驕横にして、累代の将は姑息であったが、璋の政は厳明にして、彼らはこれを懼れ、相率いて璋を逐う。詔して邠寧節度使に転じ、京兆尹を歴任す。璋は元来強幹にして、宿弊を鉏き、豪右は懾服す。検校吏部尚書を加えらる。同昌公主薨じ、懿宗は医師の無状なる者を誅し、その親族三百余人を繋ぐ。璋と劉瞻は極諫し、振州司馬に貶せられる。嘆いて曰く、「生まれて時に逢わず、死すとも何ぞ惜しむに足らんや」と。仰薬して死す。

原文造子璋。璋以父廕累官大理丞。陰平吏盜官物,而焚其帑,璋刺得其情,擢侍御史,賜緋衣。遷婺州刺史,以政有績,賜金紫。徙廬、宋二州刺史。宣州逐鄭薰也,崔弦調淮南兵討之,以璋爲宣州刺史。事平,就拜觀察使,擢武寧節度使。銀刀軍驕橫,累將姑息,而璋政嚴明,懼之,相率逐璋,詔徙邠寧節度,歷京兆尹。璋素強幹,鉏宿弊,豪右懾服,加檢校吏部尚書。同昌公主薨,懿宗誅醫無狀者,系親屬三百余人。璋與劉瞻極諫,貶振州司馬,嘆曰:「生不逢時,死烏足惜!」仰藥死。

彦博の裔孫、廷筠。

原文{{--|彥博裔孫}} 廷筠

彦博の裔孫、廷筠。少にして敏悟、辞章をよくし、李商隱とともに皆有名で、「温李」と号す。然れども行い薄く、檢幅なし。また多く側辞艶曲を作り、貴胄の裴諴・令狐滈らと蒲飲みして狎昵す。数たび進士に挙げられても及第せず。思うに神速にして、多く人のために文を作る。大中末、有司に試みられ、廉視特に謹みあり。廷筠これを楽しまず、上書千余言す。然れども私に占授する者すでに八人あり。執政その行いを鄙み、方山尉を授く。徐商襄陽を鎮むるや、巡官に署す。志を得ず、去りて江東に帰る。令狐綯方に淮南を鎮むるや、廷筠は朝中に在りし時助力せざりしを怨み、府を過ぐるも肯えて謁せず。揚子院にて銭を丐い、夜に酔い、邏卒に撃たれてその歯を折らる。綯に訴う。綯は吏を劾す。吏はその汚行を具に道う。綯は両者を置きて問わず。事京師に聞こえ、廷筠は公卿に遍く見え、吏の誣染する所なりと言う。俄にして徐商執政となり、頗るこれを右し、白いて用いんと欲す。会に商罷め、楊收これを疾み、遂に廃されて卒す。本名は岐、字は飛卿。

原文彥博裔孫廷筠,少敏悟,工爲辭章,與李商隱皆有名,號「溫李」。然薄於行,無檢幅。又多作側辭艷曲,與貴胄裴諴、令狐滈等蒲飲狎昵。數舉進士不中第。思神速,多爲人作文。大中末,試有司,廉視尤謹,廷筠不樂,上書千余言,然私占授者已八人,執政鄙其爲,授方山尉。徐商鎮襄陽,署巡官,不得志,去歸江東。令狐綯方鎮淮南,廷筠怨居中時不爲助力,過府不肯謁。丐錢揚子院,夜醉,爲邏卒擊折其齒,訴於綯。綯爲劾吏,吏具道其汙行,綯兩置之。事聞京師,廷筠遍見公卿,言爲吏誣染。俄而徐商執政,頗右之,欲白用。會商罷,楊收疾之,遂廢卒。本名岐,字飛卿。

廷筠の弟、廷皓。

原文{{--|廷筠弟}} 廷皓

弟、廷皓。咸通中、徐州観察使崔彦曾の幕府に署せらる。龐勛反し、刃をもって廷皓を脅し、表を作り節度使を求めしむ。廷皓は紿いて曰く、「表は天子に聞こえしめ、公のため信宿思わん」と。勛喜ぶ。帰りて妻子と決別し、明日また見ゆ。勛表を索む。倨して答えて曰く、「我豈に筆硯をもって汝に事えんや。速やかに我を殺せ」と。勛熟視して笑い曰く、「儒生に胆ありや。我は衆百万を動かすも、一人として檄を操る者なきか」と。これを囚う。更に周重に表を草せしむ。彦曾害せらる。廷皓もまた死す。詔して兵部郎中を贈る。

原文弟廷皓,咸通中,署徐州觀察使崔彥曾幕府。龐勛反,以刃脅廷皓,使爲表求節度使,廷皓紿曰:「表聞天子,當爲公信宿思之。」勛喜。歸與妻子決,明日復見,勛索表,倨答曰:「我豈以筆硯事汝邪?其速殺我。」勛熟視笑曰:「儒生有膽邪,吾動眾百萬,無一人操檄乎!」囚之,更使周重草表。彥曾遇害,廷皓亦死,詔贈兵部郎中。

皇甫無逸。

原文皇甫無逸

皇甫無逸、字は仁儉、京兆萬年の人。父は誕、隋の并州総管府司馬。漢王諒反し、逼るも従わず、殺さる。無逸長安に在り、変を聞き即ち号慟す。人問う故を。対えて曰く、「吾が父は平生節義を重んず。必ずや苟免する者あらじ。頃に訃至る。果たして然り」と。時に五等廃せらる。煬帝は誕の忠を嘉し、特に無逸を平輿侯に封じ、また誕に柱国・弘義郡公を贈る。

原文皇甫無逸,字仁儉,京兆萬年人。父誕,隋并州總管府司馬,漢王諒反,逼之不從,見殺。無逸在長安,聞變即號慟,人問故,對曰:「吾父生平重節義,必無茍免者。頃訃至,果然。時五等廢,煬帝嘉誕忠,特封無逸平輿侯,而贈誕柱國、弘義郡公。

無逸は淯陽太守を歴任し、治績天下の最となり、再び右武衞将軍に遷る。帝江都に幸す。詔して洛陽に居守せしむ。帝殺さるるや、乃ち段達・元文都とともに越王侗を立てる。王世充の篡するに及び、母妻を棄て、関を斬って自ら帰る。追騎及び、無逸顧みて曰く、「吾に死あり。終に爾とともに逆を為すこと能わじ」と。金帯を解きて地に投じ、曰く、「以て爾に与えん。相困しむることなかれ」と。騎争いて下りて取る。これによりて免るることを得。

原文無逸歷淯陽太守,治爲天下最,再遷右武衞將軍。帝幸江都,詔居守洛陽。帝被殺,乃與段達、元文都立越王侗。及王世充篡,棄母妻,斬關自歸。追騎及,無逸顧曰:「吾有死,終不能同爾爲逆。」解金帶投之地,曰:「以與爾,無相困。」騎爭下取,由是獲免。

高祖は無逸が元来隋の勛旧なるを以て、尊遇し、刑部尚書を拝し、滑国公に封ず。陜東道行臺民部尚書を歴任し、御史大夫に遷る。時に蜀は新たに定まり、吏多く横恣にして、人聊かならず。詔して無逸に節を持ち巡撫せしめ、制を承りて吏を除くことを得しむ。既に至り、貪暴を黜き、廉善を用い、法令厳明にして、蜀人は以て安んず。

原文高祖以無逸本隋勛舊,尊遇之,拜刑部尚書,封滑國公。歷陜東道行臺民部尚書,遷御史大夫。時蜀新定,吏多橫恣,人不聊,詔無逸持節巡撫,得承制除吏。既至,黜貪暴,用廉善,法令嚴明,蜀人以安。

皇甫希仁は憸人なり。誣って無逸が母の故に陰に世充と交わるを告ぐ。帝その詐を判じ、希仁を斬り、給事中李公昌を遣わし馳せて諭す。また無逸が蕭銑と交通すと告ぐる者あり。時に無逸は行臺僕射竇璡と協わず、因りて表して自ら陳べ、併せて璡の罪を上る。詔ありて劉世龍・温彦博にこれを按ぜしむ。状なし。遂に告者を斬りて璡を黜す。還るに及び、帝労いて曰く、「比来多く譖毀すれども、ただ正直なるを以て佞人に憎まれるのみ」と。無逸頓首して謝す。帝曰く、「卿に負う所なし。何をか謝さん」と。

原文皇甫希仁,憸人也,誣告無逸爲母故陰交世充,帝判其詐,斬希仁,遣給事中李公昌馳諭。又有告無逸交通蕭銑者,時無逸與行臺僕射竇璡不協,因表自陳,並上璡罪。有詔劉世龍、溫彥博按之,無狀,遂斬告者而黜璡。及還,帝勞曰:「比多譖毀,但以正直爲佞人憎爾。」無逸頓首謝,帝曰:「卿無負,何所謝?」

民部尚書を拝し、出でて同州刺史となり、益州大都督府長史に転ず。至る所輒ち閤を閉ざして賓客を通ぜず、左右出入する者あらしめず。須う所のものは皆他の境に市易す。嘗て部を按ずるに、民家に宿す。鐙の炷尽き、主人将に継ぎて進めんとす。無逸は佩刀を抽いて帯を断ちて炷とす。その廉介この類の如し。然れども過ぎに自ら畏慎し、毎に表疏を上するに、数十回読みて猶お未だ審らかならざるを懼れ、使者上道すれども、追い省み再三にして乃ち遣わすを得。母長安に在りて疾篤し。太宗は命じて馳驛に召し還りて承問せしむ。憂悸して食うこと能わず、道中病みて卒す。礼部尚書を贈り、謚して孝と曰う。王珪駁して曰く、「無逸蜀に入り、母とともにせず、留まりて京師に卒す。子の道未だ称すに足らず。孝と謂うべからず」と。乃ち更に良と謚す。

原文拜民部尚書,出爲同州刺史,徙益州大都督府長史。所至輒閉閤不通賓客,左右無敢出入者;所須皆市易它境。嘗按部,宿民家,鐙炷盡,主人將續進,無逸抽佩刀斷帶爲炷,其廉介類如此。然過自畏慎,毎上表疏,讀數十猶懼未審,使者上道,追省再三乃得遣。母在長安疾篤,太宗命馳驛召還承問,憂悸不能食,道病卒。贈禮部尚書,謚曰孝。王珪駁曰:「無逸入蜀,不能與母俱,留卒京師,子道未足稱,不可謂孝。」乃更謚良。

李襲誌。

原文李襲誌

李襲誌、字は重光。その先は本より隴西狄道の人。五世祖、地を避け、更めて金州安康の人となる。隋に仕えて始安郡丞となる。大業末、盗賊起こる。襲誌は私産を傾けて士を募り、三千人を得、城に乗じて盗を拒ぐ。蕭銑・林士弘たびたびこれを攻むれども下さず。煬帝の喪を聞き、乃ち士民とともに縞素三日臨む。或る人説いて曰く、「公郡に臨むこと久しく、士大夫は悦び向い、蠻夷は威を畏る。隋の臣と曰うと雖も、実に君長なり。今四海分裂し、自ら王たる者は一姓に非ず。宜しく遂に嶺表を拠り、百粵を取るべし。豈に遽かに尉佗に若かざらんや」と。襲誌曰く、「吾は世々隋の臣なり。今江都は雖も淪ぶれども、宗社なお奉ずる者有り。諸君まさに相与に戮力して仇恥を刷すべし。豈に乱を怙て不義を図らんや。吾は寧ろ忠を蹈んで死せんも、節を逆らえて生くること無からん。尉佗は吾が法と為すに足らず」と。説く者を斬らんと欲す。衆諫す。乃ち止む。遂に固守すること凡そ二年、力窮き援絶え、銑の陷る所と為る。偽りに工部尚書・桂州総管に署す。

原文李襲誌,字重光。其先本隴西狄道人,五世祖避地,更爲金州安康人。仕隋始安郡丞。大業末,盜賊起,襲誌傾私產募士,得三千人,乘城拒盜,蕭銑、林士弘屢攻之不下。聞煬帝喪,乃與士民縞素三日臨,或説曰:「公臨郡久,士大夫悅向,蠻夷畏威,雖曰隋臣,實君長也。今四海分裂,自王者非一姓,宜遂據嶺表,取百粵,豈遽不若尉佗乎?」襲誌曰:「吾世隋臣,今江都雖淪,宗社尚有奉,諸君當相與戮力刷仇恥,豈怙亂圖不義哉?吾寧蹈忠死,不逆節以生,尉佗不足爲吾法也。」欲斬説者,眾諫,乃止。遂固守凡二年,力窮援絶,爲銑所陷,偽署工部尚書、桂州總管。

武德初、高祖書を賜い、その子玄嗣をしてこれを召さしむ。襲誌は嶺南の酋たる永平郡守李光度と約し、潜かに帰国を図る。帝また書を以て諭して曰く、「公は朕が宗なり。異姓と比すべからず。宜しく子弟とともに並びに宗正の属籍に豫れ」と。乃ち銑平らぎ、嶺南六十余州皆款を送る。襲誌は誘いてこれを致す。趙郡王孝恭、制を承りて桂州総管を授く。五年に来朝し、柱国に進み、始安郡公・江州都督に封ぜらる。後に輔公祏を討つに、水軍総管と為り、桂州都督に転ず。襲誌は桂を守ること二十八年、政は清省を尚び、南荒これを便とす。表して入朝を請う。光禄大夫・汾州刺史を以て致仕し、卒す。

原文武德初,高祖賜書,命其子玄嗣召之。襲誌約嶺南酋永平郡守李光度潛圖歸國。帝復以書諭曰:「公朕之宗,不可與異姓比,宜及子弟並豫宗正屬籍。」乃銑平,嶺南六十余州皆送款,襲誌誘而致雲。趙郡王孝恭承制授桂州總管。五年來朝,進柱國,封始安郡公、江州都督。後討輔公祏,爲水軍總管,轉桂州都督。襲誌守桂二十八年,政尚清省,南荒便之。表請入朝,以光祿大夫、汾州刺史致仕,卒。

(姜謨の)弟の襲譽、

原文{{--|襲誌弟}} 襲譽

弟の襲譽は、字を茂實といい、明敏にして識見と度量があった。隋に仕えて冠軍府司兵となった。陰世師が代王を補佐して京師を守っていたとき、三輔の盗賊が蟻のように集まり、襲譽は兵を率いて永豊倉を占拠し、倉粟を発して窮乏を救い、庫物を出して戦士を賞し、檄を馳せて郡縣に伝え、共に賊を追捕するよう請うた。世師は従わなかった。そこで出て山南の兵を募ることを求め、漢中に至ったとき、高祖は既に長安を平定しており、召して太府少卿・安康郡公に任じた。

原文弟襲譽,字茂實,通敏有識度。仕隋爲冠軍府司兵。陰世師輔代王守京師也,三輔盜螘聚,襲譽請以兵據永豐倉,發粟賑窮乏,出庫物賞戰士,馳檄郡縣,共逐捕賊。世師不從。乃求出募山南兵,至漢中,高祖已定長安,召授太府少卿、安康郡公。

王世充を討伐するにあたり、潞州総管に任じられた。時に突厥は既に和親していたが、また世充にも使者を通わせていたので、襲譽はこれを捕らえて斬った。詔により運送を主管し、以て東軍に糧秣を供給した。累進して揚州大都督府長史・江南巡察大使となり、多くを罷免・昇進させた。揚州は江・呉の大都会で、俗は商賈を好み、農事に従わない。襲譽は雷陂の水を引き、句城塘を築き、八百頃の田を灌漑して地利を尽くし、民多く本業に帰した。召されて太府卿となった。

原文伐王世充也,拜潞州總管。時突厥已和親,又通使世充,襲譽捕斬之。詔委典運,以饟東軍。擢累揚州大都督府長史、江南巡察大使,多所黜陟。揚州,江、呉大都會,俗喜商賈,不事農;襲譽爲引雷陂水,築句城塘,溉田八百頃,以盡地利,民多歸本。召爲太府卿。

人となり厳格で誠実、威厳と謹厳をもって知られた。家に居ては倹約、宗族親戚には厚く、俸禄は多少に従ってこれを分かち与えた。余財をもって書物を写し、揚州を去る時には、書物は遂に数車に載せた。嘗て子孫に謂いて曰く、「吾は性、財を喜ばず、遂に貧乏に至る。然れども京師の近郊に賜田十頃あり、これを耕せば、以て食うに足る。河内に桑千樹あり、これに事えれば以て衣うべし。江都の書物は、力を尽くして読めば進んで官を求めることができる。吾が歿した後、よくこれらに勤めば、人に資らざるなり」と。涼州都督に遷り、同州刺史に改めた。涼州において私怨をもって番禾丞劉武を杖殺した罪に坐し、死に当たるべきところ、民に廢され、泉州に流され、卒した。

原文爲人嚴愨,以威肅聞。居家儉,厚於宗親,祿稟隨多少散之。以余資寫書,罷揚州,書遂數事載。嘗謂子孫曰:「吾性不喜財,遂至窶乏。然負京有賜田十頃,能耕之,足以食;河內千樹桑,事之可以衣;江都書,力讀可進求宦。吾歿後,能勤此,無資於人矣。」遷涼州都督,改同州刺史。坐在涼州以私憾杖殺番禾丞劉武,當死,廢爲民,流泉州,卒。

姜謨、

原文姜謨

姜謨は、秦州上邽の人である。隋の大業末、晉陽長となった。高祖が太原におられた時、謨は先んじてこれを識り、親しい者に謂って曰く、「隋の政乱れて将に亡ぼんとす、必ず聖人これを受くべし。唐公は王霸の資度を負う、その必ず乱を撥きて天下を得ん」と。乃ち深く自ら結んだ。及んで大將軍府が建てられると、引かれて司功參軍と為り、霍邑・絳郡を平らげるに従い、兵は遂に河を渡った。謨が部署指揮して一晩で渡河させると、高祖はその謀略に嘆じた。進んで長安を平定し、相國胄曹參軍・長道縣公に除かれた。

原文姜謨,秦州上邽人。隋大業末,爲晉陽長。高祖在太原,謨前識之,謂所親曰:「隋政亂將亡,必有聖人受之。唐公負王霸資度,其必撥亂得天下。」乃深自結。及大將軍府建,引爲司功參軍,從平霍邑、絳郡,兵遂度河,謨部勒一夕濟,高祖嘆其略。進平長安,除相國胄曹參軍、長道縣公。

薛挙が秦州を寇すと、謨が山西の豪族で声望あることを以て、詔して隴外を安撫せしめ、便宜を委ねた。将に行かんとして請うて曰く、「公の天人たる望み既に属す、宜しく図緯に膺り、神器を光有すべし。謨は老いたり、先んじて朝露に消えんことを恐る。幸い践祚を一見せば、死して恨みなし」と。高祖は嘉んで受け入れた。乃ち竇軌と共に散関を出で、河池・漢陽を下り、薛挙に遇い、戦うこととなり、軌は敗れた。謨を召し還して朝に至らしめ、員外散騎常侍とした。後、仁杲が平定されると、秦州刺史に抜擢された。帝曰く、「昔人は衣錦して故郷に帰ると称す。今、本州を以て相授くるは、以て功を償う所以なり。涼州は荒れて梗塞す、宜しくこれを靖むるもの有るべし」と。謨が至ると、恩信を以て辺境の俗を撫し、盗賊衰え止んだ。人喜んで曰く、「意いずくんぞ復た太平の官府を見んとは」と。隴州を守るに改め、老いて職を去った。貞観元年卒し、岷州都督を贈られ、諡して安と曰う。

原文薛舉寇秦州,以謨山西豪望,詔安撫隴外,委以便宜。將行,請曰:「公天人之望已屬,宜膺圖緯,光有神器。謨老矣,恐先朝露,幸一見踐阼,死不恨。」高祖嘉納。乃與竇軌出散關,下河池、漢陽,遇薛舉,與戰,軌敗,召謨還朝,爲員外散騎常侍。後仁杲平,擢秦州刺史。帝曰:「昔人稱衣錦故鄕,今以本州相授,所以償功。涼州荒梗,宜有以靖之。」謨至,撫邊俗以恩信,盜賊衰止。人喜曰:「不意復見太平官府。」改守隴州,以老去職。貞觀元年卒,贈岷州都督,謚曰安。

(姜謨の子)確、

原文{{--|謨子}} 確

子の確。確は、字を行本といい、字をもって顕れた。貞観中、将作少匠となり、九成宮・洛陽宮及び諸苑囿・御所の造営を護り、幹事の力をもって称され、多く賞賜を受け、遊幸には従わざるなく、宣威將軍に遷った。太宗は軽捷なる才を選び、五色の袍を衣、六閑の馬に乗り、屯営に直し、宿衛の仗内に宿り、「飛騎」と号し、毎に出幸するときは、即ちこれに従わせ、行本を左屯衞將軍に拝し、分かってこれを管轄させた。高昌の役において、行軍副總管となり、伊州より出で、柳谷より百里の地に、山に依りて攻撃の器械を造り、旧法を増減して、器械益々精良となった。その処に漢の班超の紀功碑あり、行本は古刻を磨き去り、更に頌を刻して國の威霊を陳べた。遂に侯君集と共に進んで高昌を平定し、戦いに功有り、璽書を以て慰労された。還りて、金城郡公と為り、奴婢七十人、帛百五十段を賜う。帝将に高麗を征せんとす、行本は未だ軽々しく師を用うべからざるを諫めたが、従わなかった。蓋牟城に至り、流れ矢に中り、卒した。帝は詩を賦してこれを悼み、左衞大將軍・郕國公を贈り、諡して襄と曰い、昭陵に陪葬した。子の簡が嗣いだ。行本の性質は謹みて敏であった。居る官においては、酷寒烈暑といえども懈怠の容なく、加うるに巧思有り、凡そ朝の営繕は、所司必ず諮問して後に行った。魏徵はその寵昵に倚るを見て、奢侈の端を浸して啓くを恐れ、帝に斥けるを勧めたが、帝はその強く事を成すを頼み、斥けなかった。

原文子確。確,字行本,以字顯。貞觀中,爲將作少匠,護作九成、洛陽宮及諸苑禦,以幹力稱,多所賚嘗,遊幸無不從,遷宣威將軍。太宗選趫才,衣五色袍,乘六閑馬,直屯營,宿衞仗內,號曰「飛騎」,毎出幸,即以從,拜行本左屯衞將軍,分典之。高昌之役,爲行軍副總管,出伊州,距柳谷百里,依山造攻械,增損舊法,械益精。其處有漢班超紀功碑,行本磨去古刻,更刊頌陳國威靈。遂與侯君集進平高昌,戰有功,璽書尉勞。還,爲金城郡公,賜奴婢七十人,帛百五十段。帝將征高麗,行本諫未宜輕用師,不從。至蓋牟城,中流矢,卒。帝賦詩悼之,贈左衞大將軍、郕國公,謚曰襄,陪葬昭陵。子簡嗣。行本性恪敏。所居官,雖祈寒烈暑無懈容,加有巧思,凡朝之營繕,所司必諮而後行。魏徵見其倚昵,恐浸啟侈端,勸帝斥之,帝賴其強濟,不斥也。

(確の子)柔遠、

原文{{--|確子}} 柔遠

子の柔遠は、姿容美しく、上奏・応対は詳細にして弁明に富んだ。武后の時、左鷹揚衞將軍に至り、地官尚書通事舍人・内供奉を攝めた。子に皎・晦がいる。

原文子柔遠,美姿容,敷奏詳辯。武后時,至左鷹揚衞將軍,攝地官尚書通事舍人、內供奉。子皎、晦。

(柔遠の子)皎、

原文{{--|柔遠子}} 皎

皎は、長安年中に尚衣奉禦となり、玄宗が藩邸におられた時、皎はその非凡なる器度有るを識り、心を委ねた。即位すると、潤州長史より召されて殿中少監を授かった。臥内に出入りし、私宴に陪し、詔して敬意を捨てることを許され、妃嬪と連ねて榻に坐し、間に撃球・闘鶏をし、名を呼ばずに呼ばれた。宮女・廐馬及び他の珍物を賜い、前後数え勝たず。帝が殿廷で一つの嘉樹を賞玩すると、皎はこれを盛んに賛美し、帝は急ぎ令してその家に移植させた。

原文皎,長安中爲尚衣奉禦,玄宗在籓邸,皎識其有非常度,委心焉。及即位,自潤州長史召授殿中少監。出入臥內,陪燕私,詔許舍敬,坐與妃嬪連榻,間擊球鬥雞,呼之不名也。賜宮女、廄馬及它珍物,前後不勝計。帝在殿廷玩一嘉樹,皎盛贊之,帝遽令徙植其家。

後に竇懷貞等を誅せんとすると、皎は密議に与り、功を以て殿中監・楚國公に進み、食封四百戸を賜うた。議者は皎の任用・待遇が過ぎると非難した。帝はその藩邸以来の旧臣たるを以て、何とかしてこれを顕彰せんと思い、乃ち詔を下して曰く、「殿中監・楚國公の皎は、往昔朕に事えし藩國にありては、彭祖の同じく書を読み、子陵の共に学ぶといえども、これに過ぎず。朕嘗て長楊・鄠・杜の間を遊ぶとき、皎は時に奉侍し、数え朕に謂いて曰く、『相王必ず天位に登り、王は将に儲副たらん』と。朕は叱して後止めしむ。復た朕の兄弟近戚に言う。語り太上皇に聞こえ、太上皇これを中宗に奏す。嗣虢王邕等を遣わして鞫問せしむるに、皎は一意保護し、或いは二言すること無し。宗楚客・紀處訥等は皎を炎荒に投ぜんことを請うたが、中宗は特詔して潤州長史に貶す。専ら忠力を以て朕を戴き、天且く命有りと謂い、故に危きを履み艱きを蹈んで変ずること無し。朕既に即位し、又奸臣を誅するに参ず。将に厚く光寵を以てせんとすれども、毎に謙遜す。膝を造るも躬を匪とせず、挙げて多く規益有り。而るに悠悠の談は、正を醜くし直を悪む。天下の人、その未だ皎の功に及ばざるは、何ぞ見るの異なるや。昔、漢昭の霍光を任じ、魏祖の程昱を明らかにする、朕の不徳、庶幾くはこれに於いてならん。且つ否その悔いに当たれば、則ち必ず乃ち宗を滅ぼす。泰、亨に至れば、則ち酬うる所未だ補わず。豈に流言を聴きて、厚徳を忘れんや。苟くも謀り始めにこれ有らば、図り終わる可きなり」と。尋いで太常卿に遷り、國史を監修した。弟の晦はまた吏部侍郎となり、権勢と寵愛有り、宋璟はこれ久安の策に非ずと以為い、これを抑損するを請うた。

原文後將誅竇懷貞等,皎與密議,以功進殿中監、楚國公,食封四百戸。議者譏短皎任遇太過,帝以其籓邸舊,思有以宣布之,乃下詔曰:「殿中監、楚國公皎,往事朕於籓國,雖彭祖同書,子陵共學,不過也。朕嘗遊長楊、鄠、杜間,皎於時奉侍,數謂朕曰:『相王必登天位,王且儲副。』朕叱而後止,復言於朕兄弟近戚。語聞太上皇,太上皇奏之中宗,遣嗣虢王邕等鞫問,皎一意保護,罔或貳言。宗楚客、紀處訥等請投皎炎荒,中宗特詔貶潤州長史。專以忠力戴朕,謂天且有命,故履危蹈艱而無變焉。朕既即位,又參誅奸臣,將厚以光寵,毎所捴遜。造膝匪躬,舉多規益。而悠悠之談,醜正惡直,天下之人,其未及識皎之功,何見之異也?昔漢昭之任霍光,魏祖之明程昱,朕之不德,庶幾於此。且否當其悔,則必滅乃宗;泰至於亨,則所酬未補。豈流言之聽,而厚德之忘哉?茍謀始有之,圖終可也。」尋遷太常卿,監修國史。弟晦又爲吏部侍郎,有權寵,宋璟以爲非久安策,請抑損之。

開元五年、詔を下して田里に放帰せしめ、自ら楽しませた。久しくして、復た秘書監となった。十年、禁中の語を泄らした罪に坐し、嗣濮王嶠に劾せられ、勅して中書門下に状を究めしむ。嶠もまた王守一の姻家であり、中書令張嘉貞は密かにその意を希い、傅えて皎を獄に致した。詔して殊死を免じ、これを杖ち、欽州に流した。道中病没し、年五十。親厚の者坐して謫死する者数人、世以て冤なりと為す。時に源乾曜方に侍中たりしが、正すこと能わず、人の譏り誹る所と為った。帝後、皎の旧勲を思い、柩を遞送して還らしめ、礼を以て葬らせ、その家を存問し、澤州刺史を追贈した。後に子が公主を尚うに及び、更に吏部尚書を贈り、仍として封二百戸を賜い祠享の費と為した。

原文開元五年,下詔放歸田裏,使自娛。久之,復爲秘書監。十年,坐泄禁中語,爲嗣濮王嶠所劾,敕中書門下究狀。嶠亦王守一姻家,中書令張嘉貞陰希其意,傅致皎獄。詔免殊死,杖之,流欽州。道病死,年五十。親厚坐謫死者數人,世以爲冤。時源乾曜方侍中,不能正,爲人所譏詆。帝後思皎舊勛,令遞柩還,以禮葬之,存問其家,追贈澤州刺史。後以子尚主,更贈吏部尚書,仍賜封二百戸爲祠享費。

(王)皎の子、慶初。

原文{{--|皎子}} 慶初

子の慶初。慶初は生まれて間もなく父が亡くなったが、帝は公主降嫁を許し、後に二十余年も左遷された。天宝初め、皎の甥の李林甫が宰相となり、帝に言上して、初めて官を命じられ、楚国公を襲封した。十載、新平公主に尚する。新平公主はかつて裴玪に嫁いだが、玪が亡くなったので、慶初に降嫁したのである。公主は聡明で淑やか、文墨に通じ、帝はこれを賢しとし、粛宗・代宗の朝にわたり、恩礼が重ねられ、慶初も寵遇を得た。旧制では、駙馬都尉は多く正官を拝せず、特に慶初を太常卿に拝した。ちょうど建陵を修築する際、詔してその使と為し、誤って連岡を毀損した。代宗は怒り、吏に下して不恭を論じ、賜死し、建陵使の史忠烈らは皆誅され、裴玪の子の仿もまた官を削られた。公主は宮中に幽閉され、大暦十年に薨じた。

原文子慶初。慶初生方〓卒,帝許尚主,後淪謫二十余年。天寶初,皎甥李林甫爲宰相,爲帝言之,始命以官,襲楚國公。十載,尚新平公主。新平故嘗歸裴玪,玪卒,乃降慶初。主慧淑,閑文墨,帝賢之,歷肅、代朝,恩禮加重,慶初亦得幸。舊制,駙馬都尉多不拜正官,特拜慶初太常卿。會脩植建陵,詔爲之使,誤毀連岡,代宗怒,下吏論不恭,賜死,建陵使史忠烈等皆誅,裴玪子仿,亦削官。主幽禁中,大歷十年薨。

故事では、太常の職は陵廟を奉る。開元末、濮陽王の徹が宗正卿となり、寵遇を得て、初めて宗正に陵を奉らせることを請うた。天宝中、張垍が主婿として太常を任じたため、旧に復した。慶初が敗れると、また陵廟を宗正に帰属させたという。

原文故事,太常職奉陵廟。開元末,濮陽王徹爲宗正卿,有寵,始請宗正奉陵。天寶中,張垍以主婿任太常,故復舊。及慶初敗,又以陵廟歸宗正雲。

(王)皎の弟、晦。

原文{{--|皎弟}} 晦

晦は、蒲州参軍として起家し、累遷して高陵令となり、治績に名声があり、長安令に遷り、人々は畏れ愛した。開元初め、御史中丞に抜擢された。先に、永徽・顕慶の時、御史は宰相を拝せず、四方に命を奉じて使する者は、廷中で揖して見えたが、後に次第に屈下した。晦に至り、独り旧体に従い、御史に謂って「故事の如くせずんば、公等を奏譴せん」と言った。これにより台儀は復振した。太常少卿に転じた。

原文晦,起家蒲州參軍,累爲高陵令,治有聲,遷長安令,人畏愛之。開元初,擢御史中丞。先是,永徽、顯慶時,御史不拜宰相,銜命使四方者,廷中揖見,後稍屈下。至晦,獨徇舊體,謂御史曰:「不如故事,且奏譴公等。」由是臺儀復振。轉太常少卿。

当時、国馬が乏しく、晦は詔書をもって六胡州に馬を市することを請い、率いて三千頭の馬を得、遊撃将軍に任じ、詔して可とした。閑廄はこれにより漸く備わった。黄門侍郎を除されたが、拝せず、兵部に改めた。満歳して、吏部侍郎となり、選事を主った。曹史が嘗て請托して奸を為し、前の選事を領じた者は周囲を棘で囲い、内外を検め塞いだが、猶禁じ得なかった。晦に至り、悉くこれを除き、防限なきを示したが、処事は精明で、私的に属託する者は、罪を得ること輒ちあり、皆これを神の如しとした。初め、晦が旧を革めて簡を示すと、廷議は必ず敗れることを恐れたが、既にして贓賄の路が塞がれ、流品に序あれば、衆は乃ち服した。皎が放逐されると、晦もまた左遷されて宗正卿となった。春州司馬に貶され、海州刺史に徙り、卒した。

原文時國馬乏,晦請以詔書市馬六胡州,率得馬三千,署遊擊將軍,詔可。閑廄乃稍備。除黃門侍郎,辭不拜,改兵部。滿歳,爲吏部侍郎,主選。曹史嘗請托爲奸,前領選者周棘扈籓,檢窒內外,猶不禁。至晦,悉除之,示無防限,然處事精明,私相屬諉,罪輒得,皆以爲神。始,晦革舊示簡,廷議恐必敗,既而贓賕路塞,而流品有敘,眾乃伏。皎被放,晦亦左除宗正卿。貶春州司馬,徙海州刺史,卒。

崔善為。

原文崔善爲

崔善為は、貝州武城の人である。祖の顒は、魏の散騎侍郎であった。善為は暦数に巧みで、隋に仕え、文林郎に調された。工徒五百を督いて仁寿宮を営み、総監の楊素が簿を索めて実を閲したところ、善為は板を執り暗唱して、一つの差謬もなく、素は大いに驚いた。これより四方に疑獄あるごとに、悉く按訊を命じ、皆その情を究めた。仁寿中、楼煩司戸書佐に遷り、高祖が太守であった時、特に礼遇して接した。

原文崔善爲,貝州武城人。祖颙,爲魏散騎侍郎。善爲巧於歷數,仕隋,調文林郎。督工徒五百營仁壽宮,總監楊素索簿閱實,善爲執板暗唱,無一差謬,素大驚。自是四方有疑獄,悉令按訊,皆究其情。仁壽中,遷樓煩司戸書佐,高祖爲太守,尤禮接。

善為は隋の政が日に紊れるを見て、密かに高祖に天下を図ることを勧めた。兵が起こると、大将軍府司戸参軍に署され、清河県公に封ぜられた。累遷して尚書左丞に抜擢され、清察を以て称された。諸曹の史はこれを憎み、その背が低く傴僂であることを以て、嘲って「曲れること鉤の如く、例として侯に封ぜらる」と言い、その任を沮んで罷めさせようとした。帝はこれを聞き、勉めて「昔、斉の末に奸吏が斛こく律明月を歌い、高緯は暗く察せず、その家を滅ぼすに至った。朕は徳あらずといえども、幸いにこれを免れん」と言った。因って謗る者を購うことを下令し、謗りは乃ち止んだ。傅仁均が『戊寅暦』を撰すると、李淳風はその疎なることを誹り、帝は善為に二家の得失を考せしめ、多く裁正した。

原文善爲見隋政日紊,密勸高祖圖天下。及兵起,署大將軍府司戸參軍,封清河縣公。擢累尚書左丞,用清察稱。諸曹史惡之,以其短而傴,嘲曰:「曲如鉤,例封侯。」欲沮罷所任。帝聞,勉之曰:「昔齊末奸吏歌斛律明月,而高緯暗不察,至滅其家。朕雖不德,幸免是。」因下令購謗者,謗乃止。傅仁均撰《戊寅歷》,李淳風詆其疏,帝令善爲考二家得失,多所裁正。

貞観初め、陜州刺史となった。当時の議は、戸が猥多で地狭き者は寛郷に徙すというものであったが、善為は奏上して「畿内は戸多く、丁壮は悉く府兵に籍し、若し徙すを聴かば、皆関東に在り、近きを虚しくして遠きを実にするは、経通の計に非ず」と言った。詔して可とした。大理・司農の二卿を歴任し、少卿と不和に坐して、秦州刺史として出された。卒し、刑部尚書を贈られ、諡して忠といった。

原文貞觀初,爲陜州刺史。時議,戸猥地狹者徙寬鄕,善爲奏:「畿內戸眾,而丁壯悉籍府兵,若聽徙,皆在關東,虛近實遠,非經通計。」詔可。歷大理、司農二卿,坐與少卿不平,出爲秦州刺史。卒,贈刑部尚書,謚曰忠。

初め、天下が既定すると、群臣で喪に居る者は皆服を奪われたが、善為はその弊を建言した。武徳二年、初めて喪を終えることを許したが、猶時に権迫により免れ得ず、房玄齢・褚遂良の如き者は衆かった。

原文初,天下既定,群臣居喪者皆奪服,善爲建言其敝。武德二年,始許終喪,然猶時以權迫不能免,如房玄齡、褚遂良者眾矣。

李嗣真。

原文李嗣真

李嗣真は、字を承胄といい、趙州柏人の人である。多くの芸数に通じ、明経に挙げられて及第し、累調して許州司功参軍となった。賀蘭敏之が東臺を修撰するに当たり、表して嗣真を弘文館に直らせ、学士の劉献臣・徐昭と皆若くして名声があり、「三少」と号された。高宗が東封より還り、詔して孔子に太師を贈り、有司に命じて祝文を作らせたが、司文郎中の雷少潁の文は旨に称せず、改めて嗣真に命じたところ、淹くせずして成り、帝は覧めて善しと称し、詔して二階を加えた。敏之らは恩を恃んで自如であったが、嗣真は喜ばず、補を求めて義烏令となった。敏之が敗れると、学士多く連坐したが、嗣真は独り免れた。

原文李嗣真,字承胄,趙州柏人人。多藝數,舉明經,中之,累調許州司功參軍。賀蘭敏之修撰東臺,表嗣真直弘文館,與學士劉獻臣、徐昭皆少有名,號「三少」。高宗東封還,詔贈孔子太師,命有司爲祝,司文郎中雷少潁文不稱旨,更命嗣真,成不淹頃,帝覽稱善,詔加兩階。敏之等倚恩自如,嗣真不喜,求補義烏令。敏之敗,學士多連坐,嗣真獨免。

調露中、始平令となり、風化大いに行われる。時に章懐太子が『宝慶曲』を作り、太清観で閲したが、嗣真は道人の劉概・輔儼に謂って「宮は商を召さず、君臣乖く也。角と徵は戾り、父子疑う也。死声多く且つ哀し、若し国家事無くば、太子その咎を任す」と言った。間もなく太子は廃され、概らがその言を奏上し、太常丞に抜擢され、五礼儀を知り、常山県子に封ぜられた。嗣真は常に言った「隋の楽府に『堂堂曲』あり、明らかに唐の再受命を言う。比日『側堂堂、橈堂堂』の謡あり。側は正しからず、橈は危うし。皇帝の病は日に侵し、事は皆中宮に決し、権を人に持たせ、収むること易からず。宗室は衆しといえども、中に居て外を制するには、勢い且つ敵せず。諸王は殆ど后に蹂躙せられん、吾は難の作ること久からざるを見る」と。太常に黄鐘が欠け、鋳造して成らず、嗣真が崇業里に居た時、土中にあるを疑ったが、その所在を得なかった。道中で一つの車に逢い、鐸の声甚だ厲しかったので、嗣真は「宮声なり」と言い、買い取って帰り、空地で振ると、応ずるものがあるかのようで、掘ると鐘を得、衆楽は遂に調和した。嘗て工人を引いて器物を廷に展べたところ、后はその風度応対を奇とし、召して相王府参軍の閻玄静に図させ、吏部郎中の楊志誠が賛を為し、秘書郎の殷仲容が書し、時に寵と為した。

原文調露中,爲始平令,風化大行。時章懷太子作《寶慶曲》,閱於太清觀,嗣真謂道人劉概、輔儼曰:「宮不召商,君臣乖也;角與徵戾,父子疑也。死聲多且哀,若國家無事,太子任其咎。」俄而太子廢,概等奏其言,擢太常丞,知五禮儀,封常山縣子。嗣真常曰:「隋樂府有《堂堂曲》,明唐再受命,比日有『側堂堂,橈堂堂』之謠,側,不正也,橈,危也。皇帝病日侵,事皆決中宮,持權與人,收之不易。宗室雖眾,居中制外,勢且不敵。諸王殆爲後所蹂踐,吾見難作不久矣。」太常缺黃鐘,鑄不能成,嗣真居崇業裏,疑土中有之,弗得其所。道上逢一車,有鐸聲甚厲,嗣真曰:「宮聲也。」市以歸,振於空地,若有應者,掘之得鐘,眾樂遂和。嘗引工展器於廷,後奇其風度應對,召相王府參軍閻玄靜圖之,吏部郎中楊誌誠爲贊,秘書郎殷仲容書,時以爲寵。

永昌初め、右御史中丞として大夫事を知り、周・漢を二王の後と為すことを請い、詔して可とした。河東を巡撫することを命じられ、宋温瑾・袁嘉祚・李日知を推薦し、州県の職を抜擢し、皆顕官に至った。来俊臣の獄が方に熾んである時、嗣真は上書して諫め、「昔、陳平が漢祖に事え、楚の君臣を謀り疏にし、反間を行い、項羽は遂に亡びた。今、殆ど平の如き者ありて陛下の君臣を謀らんとす、恐らくは社稷の禍と為らん」と為した。納れられず。潞州刺史として出された。俊臣に反を誣えられ、藤州に流され、久しくして還るを得た。自ら死日を筮い、予め棺斂を具え、言の如く桂陽で卒した。詔ありて州県に喪を護って郷里に還らせ、済州刺史を贈られ、諡して昭といった。

原文永昌初,以右御史中丞知大夫事,請周、漢爲二王後,詔可。命巡撫河東,薦宋溫瑾、袁嘉祚、李日知,拔州縣職,皆至顯官。來俊臣獄方熾,嗣真上書諫,以爲「昔陳平事漢祖,謀疏楚君臣,行反間,項羽遂亡。今殆有如平者謀陛下君臣,恐爲社稷禍」。不納。出爲潞州刺史。俊臣誣以反,流藤州,久得還。自筮死日,豫具棺斂,如言卒桂陽。有詔州縣護喪還鄕里,贈濟州刺史,謚曰昭。

武后がかつて嗣真に皇嗣のことを問うと、対えて言うには、「程嬰・杵臼が趙氏の孤児を存続させたことを、古人は称えた」と。后は悟り、中宗は安泰となった。神龍初め、御史大夫を追贈された。撰述したものは特に多かった。

原文武后嘗問嗣真儲貳事,對曰:「程嬰、杵臼存趙氏孤,古人嘉之。」后悟,中宗乃安。神龍初,贈御史大夫。所撰述尤多。

時に雍州の人裴知古もまた楽律に長じ、長安年間に太楽令となった。神龍元年正月、太廟を饗した際、楽が奏されると、知古は密かに万年令元行沖に語って言うには、「金石の音が調和して婉麗である。大いなる慶事が起こらんとしている。唐室の子孫においてであろうか」と。この月、中宗は復位した。ある人が馬に乗っているのを見て、知古はその嘶きを聞き、すなわち言うには、「馬の鳴き声が哀しい。主人は必ず墜落して死ぬであろう」と。新婚の者を見て、佩玉の音を聞き、言うには、「ついには必ず離別するであろう」と。訪ねてみると、皆その通りであった。

原文時雍州人裴知古亦善樂律,長安中,爲太樂令。神龍元年正月,享太廟,樂作,知古密語萬年令元行沖曰:「金石諧婉,將有大慶,在唐室子孫乎!」是月,中宗復位。人有乘馬者,知古聞其嘶,乃曰:「馬鳴哀,主必墜死。」見新婚者,聞佩聲,曰:「終必離。」訪之,皆然。