溫大雅
溫大雅、字は彥弘、并州祁の人である。父の君攸は、北齊の文林館學士となり、隋に入って泗州司馬となったが、朝政の綱紀正しからざるを見て、病と称して帰った。大雅は性、至孝にして、弟の彥博・大有と共に皆知名であり、薛道衡これを見て、嘆じて曰く、「三人は皆、卿相の才なり」と。初め東宮學士・長安尉となり、父の喪のため解官した。時に天下乱れ、再び仕えず。
弟 彥博
彥博、字は大臨、書記に通じ、警悟にして弁あり。開皇末、策に対えて高策と為り、文林郎を授かり、内史省に直る。隋乱れ、幽州總管羅藝、之を引いて司馬と為す。藝、州を以て降るに、彥博之と謀り有り、總管府長史を授かり、西河郡公に封ぜられる。召されて中書舍人となり、侍郎に遷る。高麗方物を貢ぐに、高祖譲えて臣とせんと欲す。彥博執りて不可とし、曰く、「遼東は本、周の箕子の国、漢の玄菟郡なり。北面せしめざれば、則ち四夷何をか瞻仰せん」と。帝納れて止む。
突厥寇に入る。彥博、并州道行軍長史として太谷に戦い、王師敗績し、執えらる。突厥近臣なるを知り、数たび唐兵の多少及び国の虚実を問う。彥博対えず、陰山の苦寒の地に囚わる。太宗立ち、突厥款に帰し、還るを得る。雍州治中を授かり、尋いで檢校吏部侍郎と為る。彥博、士類を汰択せんと欲すも、術寡なくして衆を厭うこと能わず、訟牒廷に満ち、時に其の煩碎を譏る。復た中書侍郎と為り、御史大夫に遷り、檢校中書侍郎事を兼ぬ。貞観四年、中書令に遷り、虞國公に封ぜらる。突厥降る。詔して以て辺を安んずる所以を議せしむ。彥博、漢が降匈奴を五原塞に置くが如く請うて、以て捍蔽と為さんとす。魏徵と廷争し、徵其の弁に勝たず。天子遂に之に従う。其の後、突利可汗の弟結社謀反す。帝始めて悔ゆと云う。
彥博、辞令に善く、毎に四方の風俗を問い、誥命を臚布するに、成誦するが若し。進止詳華にして、人皆目を拭いて観る。高祖嘗て近臣を宴し、秦王を遣わして旨を諭さしむ。既にして左右を顧みて曰く、「溫彥博に何如」と。十年、尚書右僕射に遷り、明年卒す。年六十三。
彥博、性周慎にして、既に機務を掌るや、賓客に謝して通ぜず、進見すれば必ず政事の利害を陳ぶ。卒した後、帝嘆じて曰く、「彥博は憂国の故を以て、思を耗し神を殫す。我其の再期に逮ばざるを見る。少しく閑を許さずして其の寿を究めしめざるを恨む」と。家貧にして正寝無く、別室に殯す。帝命じて有司に寢を構えしむ。特進を贈り、謚して恭と曰う。昭陵に陪葬す。子に振・挺あり。
彥博の子 振
振、太子舍人を歴任し、喪に居りて毀ちて卒す。
彥博の子 挺
挺、千金公主を尚し、官は延州刺史。
大雅の曾孫 曦
彥博の曾孫曦、涼國長公主を尚す。
大雅の弟に大有あり。
大有、字は彦將。隋の仁壽年間、李綱に推挙され、羽林騎尉に任ぜられる。高祖が兵を挙げると、召し出して太原令とした。秦王に従い西河を巡行せんとするに当たり、高祖は言う、「士馬は単少なり、経略を要す。君を以て参軍事とし、事の済むや否や、この行を卜せん」と。西河が下ると、大將軍府記室を摂り、兄の大雅と共に機密に近くを掌るも、自ら安んぜず、他の職への転任を請う。帝は言う、「我は虚心に卿を待つ、何ぞ自ら疑う所あらんや」と。武德初年、累遷して中書侍郎となり、清河郡公に封ぜられる。卒し、鴻臚卿を贈られ、諡して敬という。初め、顏氏と溫氏は隋において最も盛んであり、思魯と大雅は共に東宮に仕え、湣楚と彦博は同じく内史省に直し、遊秦と大有は秘閣を典校す。顏は学業に優れ、而して溫は職位を以て唐に顕るという。
大雅の四世孫に佶あり。
大雅の四世孫佶、字は輔國、字をもって行わる。安祿山の乱に際し、平原太守顏真卿を訪ね、守備の計を助く。李光弼は厚く遇す。後に鄴に居り、薛嵩が朝廷に薦む。太常丞を授かるも、嵩に一たび謝して即ち去り、郊野に屏処す。世、その高節を推す。子に造あり。
佶の子に造あり。
造、字は簡輿、姿表は瑰傑、性は書を嗜むも、然れども盛気にして、降屈すること少なし。吏となるを喜ばず、王屋山に隠れ、人その居を「處士墅」と号す。壽州刺史張建封、その名を聞き、書幣を以て招き礼す。造欣然として曰く、「可人なり」と。往きてこれに従う。建封は諮謀すれども、敢えて職事を以て縻さず。徐州を節度するに及び、造は謝して下邳に帰り、慨然として高世の心あり。建封は造を失わんことを恐れ、因って兄の子を以て妻とす。
時に李希烈反し、城邑を攻め陥とす。天下の兵鎮は陰に相い撼き、主帥を逐いて自立す。德宗これを患う。劉濟が方に朝廷に忠を納るるを以て、密詔を建封に下し、縦横の士を択びて往きて濟を説き、その必ず従わんことを佐けしむ。建封は強いて造を節度参謀に署し、幽州に使わす。造が濟と語らうこと未だ訖らざるに、濟は俯伏して流涕し曰く、「僻陋にして天子の神聖なるを知らず、大臣の忠を尽くすを知らず。願わくは諸侯に率先して死節を效わん」と。造還り、建封これを聞かす。詔して驛を馳せて入奏せしむ。天子その才を愛し、造の家世及び年を問う。対えて曰く、「臣が五世祖は大雅、外五世祖は李勣、臣が犬馬の歯三十有二」と。帝これを奇とす。将に諫官と為さんとすれども、語の泄るるを以て乃ち止む。復た去り、東都に隠る。烏重胤、幕府に致すを奏す。
長慶初年、京兆司録を以て太原幽鎮宣諭使と為り、召見せらる。辞して曰く、「臣は府県の吏なり、行うに宜しからず。恐らくは四方朝廷を易えん」と。穆宗曰く、「朕が東宮の時、劉総を聞く。比年上書して覲請す。使をして行期を問わしむるに、乃ち報ぜず。卿我が為に行きて意を諭せ、多く譲る毋かれ」と。因って緋衣を賜う。范陽に至る。総は橐鞬を帯びて郊迎す。造は為に禍福を開示す。総懼れ、矍然として兵が頸に在るが若し。これによりて部する所の九州を籍して入朝す。還り、殿中侍御史に遷る。田弘正害に遇う。起居舍人を以て復た鎮州行営を宣慰す。
頃くして、李景儉酒を以て宰相に過ちを得る。造は坐してこれと飲み、出でて朗州刺史と為る。後鄕渠百里を開き、田二千頃を溉ぎ、民その利を得、号して「右史渠」という。召されて侍御史を授かり、弾奏を知る。硃衣豸冠を復して外廡に示すことを請うも、聴かず。夏州節度使李祐、大金吾に拝せらる。詔に違いて馬を進む。造、正衙にて抨劾す。祐曰く、「吾は夜蔡州に入りて呉元済を擒うるも、未だ心動かさず。今日は温御史に胆落つ」と。左司郎中に遷り、御史雑事を知り、中丞に進む。
造の性は剛急、人或いは己に忤うれば、貴勢と雖も、亦気を以てその上に出づ。道に左補闕李虞に遇い、避けざるを恚り、従者を捕えて笞辱す。左拾遺舒元褒等建言す、「故事に、供奉官は宰相の外は屈避無し。造は典礼を棄蔑し、畏るる所無く、天子の侍臣を辱う。凡そ事小なりと雖も分理に関わる者は、失うべからず。之を失えば、則ち乱の生ずる所なり。遺・補は卑しと雖も、侍臣なり。中丞は高しと雖も、法吏なり。侍臣陵せらるれば則ち恭広からず、法吏自ら恣にすれば則ち法壊る。元和・長慶の時を聞くに、中丞の呵止は半坊に過ぎず。今に至りては乃ち両坊に及び、之を籠街と謂う。造は擅自に尊大し、僭擬の嫌を忽せにす。請うらくは罪を論ぜんことを得ん」と。帝乃ち詔す、臺官・供奉官は道路を共にし、先後行するを聴き、相い値えば則ち揖せよ。中丞の伝呼は三百歩を過ぐべからずと。造は弾撃に回畏する所無く、威望隠然たり。南曹の偽官九十人を発し、主史皆死を論ぜらる。尚書右丞に遷り、祁県子に封ぜらる。
興元軍乱し、李絳を殺す。衆、造を以てその乱を夷ぐべしと謂い、文宗も亦能くすと以為い、乃ち検校右散騎常侍・山南西道節度使を授け、便宜に従事するを許す。帝その労費を慮る。造曰く、「臣計るに、諸道の蛮を戍る兵方に還らんとす。願わくは密詔を得て約束を受け、これを用いて足れり」と。これを許す。神策将董仲質・河中将温德彜・郃陽将劉士和を命じて造に従わしむ。而して興元将衞誌忠・張丕・李少直、蜀より還る。造、意を以て諭す。皆曰く、「二つせざるを敢えず」と。乃ち八百人を以て自ら従い、五百人を前軍と為す。既に入り、前軍は諸門を呵護す。造至り、大宴せんと欲し、視事を視て曰く、「此れ隘狭にして、士を饗するに足らず」と。更に牙門に徙す。坐定まり、将卒羅拝す。徐かに曰く、「吾は新軍の主を去るの意を聞かんと欲す。悉く前に進むべく、旧軍は進むを得ず」と。労問畢り、就坐し、酒行わる。従兵合す。卒に覚るる者有り、引き去らんと欲す。造、伝言してこれを叱す。乃ち敢えて動かず。即ち軍中に絳を殺せる状を問う。誌忠・丕は階を夾みて立ち、剣を抜き伝呼して曰く、「悉くこれを殺せ!」と。囲兵奮い争い、皆斬首す。凡そ八百余人。親しく絳を殺せる者は、これを醢にす。号令する者は、殊死す。百級を取って絳を祭り、三十級を以て死事の官王景延等を祭り、余は悉くこれを漢江に投ず。監軍楊叔元、造の靴を擁えて哀を祈る。造は兵衞を以てこれを出だす。詔して康州に流す。叔元は、始め兵乱を激せし者なり。人、造の戮さざるを恨みと為す。功を以て検校礼部尚書を加え、万縑を賜いてその兵を賞す。
入りて兵部侍郎と為り、病を以て自ら言い、出でて東都留守と為る。俄くして河陽を節度す。奏して懷州の古秦渠枋口堰を復し、以て済源・河内・温・武陟の四県の田五千頃を溉がんことを得。召されて御史大夫と為る。方に相を以て倚らんとすれども、疾に会い、朝す能わず。礼部尚書に改む。卒す。年七十。尚書右僕射を贈らる。
兄に邈、弟に遜あり。邈は、長慶・大和中、累ねて拾遺・補闕を以て召さるれども応ぜず。遜は嘗て邑宰と為り、印綬を解いて去る。
造の子、璋。
造の子、璋。璋は父の廕により累官して大理丞となる。陰平の吏が官物を盗み、その帑を焼いたが、璋はその実情を探り出し、侍御史に抜擢され、緋衣を賜う。婺州刺史に遷り、政績ありて金紫を賜う。廬州・宋州の二州刺史に転ず。宣州にて鄭薰を逐うや、崔弦は淮南の兵を調発してこれを討ち、璋を宣州刺史とする。事平らぎ、そのまま観察使を拝し、武寧節度使に抜擢される。銀刀軍驕横にして、累代の将は姑息であったが、璋の政は厳明にして、彼らはこれを懼れ、相率いて璋を逐う。詔して邠寧節度使に転じ、京兆尹を歴任す。璋は元来強幹にして、宿弊を鉏き、豪右は懾服す。検校吏部尚書を加えらる。同昌公主薨じ、懿宗は医師の無状なる者を誅し、その親族三百余人を繋ぐ。璋と劉瞻は極諫し、振州司馬に貶せられる。嘆いて曰く、「生まれて時に逢わず、死すとも何ぞ惜しむに足らんや」と。仰薬して死す。
彦博の裔孫、廷筠。
彦博の裔孫、廷筠。少にして敏悟、辞章をよくし、李商隱とともに皆有名で、「温李」と号す。然れども行い薄く、檢幅なし。また多く側辞艶曲を作り、貴胄の裴諴・令狐滈らと蒲飲みして狎昵す。数たび進士に挙げられても及第せず。思うに神速にして、多く人のために文を作る。大中末、有司に試みられ、廉視特に謹みあり。廷筠これを楽しまず、上書千余言す。然れども私に占授する者すでに八人あり。執政その行いを鄙み、方山尉を授く。徐商襄陽を鎮むるや、巡官に署す。志を得ず、去りて江東に帰る。令狐綯方に淮南を鎮むるや、廷筠は朝中に在りし時助力せざりしを怨み、府を過ぐるも肯えて謁せず。揚子院にて銭を丐い、夜に酔い、邏卒に撃たれてその歯を折らる。綯に訴う。綯は吏を劾す。吏はその汚行を具に道う。綯は両者を置きて問わず。事京師に聞こえ、廷筠は公卿に遍く見え、吏の誣染する所なりと言う。俄にして徐商執政となり、頗るこれを右し、白いて用いんと欲す。会に商罷め、楊收これを疾み、遂に廃されて卒す。本名は岐、字は飛卿。
廷筠の弟、廷皓。
弟、廷皓。咸通中、徐州観察使崔彦曾の幕府に署せらる。龐勛反し、刃をもって廷皓を脅し、表を作り節度使を求めしむ。廷皓は紿いて曰く、「表は天子に聞こえしめ、公のため信宿思わん」と。勛喜ぶ。帰りて妻子と決別し、明日また見ゆ。勛表を索む。倨して答えて曰く、「我豈に筆硯をもって汝に事えんや。速やかに我を殺せ」と。勛熟視して笑い曰く、「儒生に胆ありや。我は衆百万を動かすも、一人として檄を操る者なきか」と。これを囚う。更に周重に表を草せしむ。彦曾害せらる。廷皓もまた死す。詔して兵部郎中を贈る。
皇甫無逸。
皇甫無逸、字は仁儉、京兆萬年の人。父は誕、隋の并州総管府司馬。漢王諒反し、逼るも従わず、殺さる。無逸長安に在り、変を聞き即ち号慟す。人問う故を。対えて曰く、「吾が父は平生節義を重んず。必ずや苟免する者あらじ。頃に訃至る。果たして然り」と。時に五等廃せらる。煬帝は誕の忠を嘉し、特に無逸を平輿侯に封じ、また誕に柱国・弘義郡公を贈る。
無逸は淯陽太守を歴任し、治績天下の最となり、再び右武衞将軍に遷る。帝江都に幸す。詔して洛陽に居守せしむ。帝殺さるるや、乃ち段達・元文都とともに越王侗を立てる。王世充の篡するに及び、母妻を棄て、関を斬って自ら帰る。追騎及び、無逸顧みて曰く、「吾に死あり。終に爾とともに逆を為すこと能わじ」と。金帯を解きて地に投じ、曰く、「以て爾に与えん。相困しむることなかれ」と。騎争いて下りて取る。これによりて免るることを得。
高祖は無逸が元来隋の勛旧なるを以て、尊遇し、刑部尚書を拝し、滑国公に封ず。陜東道行臺民部尚書を歴任し、御史大夫に遷る。時に蜀は新たに定まり、吏多く横恣にして、人聊かならず。詔して無逸に節を持ち巡撫せしめ、制を承りて吏を除くことを得しむ。既に至り、貪暴を黜き、廉善を用い、法令厳明にして、蜀人は以て安んず。
皇甫希仁は憸人なり。誣って無逸が母の故に陰に世充と交わるを告ぐ。帝その詐を判じ、希仁を斬り、給事中李公昌を遣わし馳せて諭す。また無逸が蕭銑と交通すと告ぐる者あり。時に無逸は行臺僕射竇璡と協わず、因りて表して自ら陳べ、併せて璡の罪を上る。詔ありて劉世龍・温彦博にこれを按ぜしむ。状なし。遂に告者を斬りて璡を黜す。還るに及び、帝労いて曰く、「比来多く譖毀すれども、ただ正直なるを以て佞人に憎まれるのみ」と。無逸頓首して謝す。帝曰く、「卿に負う所なし。何をか謝さん」と。
民部尚書を拝し、出でて同州刺史となり、益州大都督府長史に転ず。至る所輒ち閤を閉ざして賓客を通ぜず、左右出入する者あらしめず。須う所のものは皆他の境に市易す。嘗て部を按ずるに、民家に宿す。鐙の炷尽き、主人将に継ぎて進めんとす。無逸は佩刀を抽いて帯を断ちて炷とす。その廉介この類の如し。然れども過ぎに自ら畏慎し、毎に表疏を上するに、数十回読みて猶お未だ審らかならざるを懼れ、使者上道すれども、追い省み再三にして乃ち遣わすを得。母長安に在りて疾篤し。太宗は命じて馳驛に召し還りて承問せしむ。憂悸して食うこと能わず、道中病みて卒す。礼部尚書を贈り、謚して孝と曰う。王珪駁して曰く、「無逸蜀に入り、母とともにせず、留まりて京師に卒す。子の道未だ称すに足らず。孝と謂うべからず」と。乃ち更に良と謚す。
李襲誌。
武德初、高祖書を賜い、その子玄嗣をしてこれを召さしむ。襲誌は嶺南の酋たる永平郡守李光度と約し、潜かに帰国を図る。帝また書を以て諭して曰く、「公は朕が宗なり。異姓と比すべからず。宜しく子弟とともに並びに宗正の属籍に豫れ」と。乃ち銑平らぎ、嶺南六十余州皆款を送る。襲誌は誘いてこれを致す。趙郡王孝恭、制を承りて桂州総管を授く。五年に来朝し、柱国に進み、始安郡公・江州都督に封ぜらる。後に輔公祏を討つに、水軍総管と為り、桂州都督に転ず。襲誌は桂を守ること二十八年、政は清省を尚び、南荒これを便とす。表して入朝を請う。光禄大夫・汾州刺史を以て致仕し、卒す。
(姜謨の)弟の襲譽、
弟の襲譽は、字を茂實といい、明敏にして識見と度量があった。隋に仕えて冠軍府司兵となった。陰世師が代王を補佐して京師を守っていたとき、三輔の盗賊が蟻のように集まり、襲譽は兵を率いて永豊倉を占拠し、倉粟を発して窮乏を救い、庫物を出して戦士を賞し、檄を馳せて郡縣に伝え、共に賊を追捕するよう請うた。世師は従わなかった。そこで出て山南の兵を募ることを求め、漢中に至ったとき、高祖は既に長安を平定しており、召して太府少卿・安康郡公に任じた。
王世充を討伐するにあたり、潞州総管に任じられた。時に突厥は既に和親していたが、また世充にも使者を通わせていたので、襲譽はこれを捕らえて斬った。詔により運送を主管し、以て東軍に糧秣を供給した。累進して揚州大都督府長史・江南巡察大使となり、多くを罷免・昇進させた。揚州は江・呉の大都会で、俗は商賈を好み、農事に従わない。襲譽は雷陂の水を引き、句城塘を築き、八百頃の田を灌漑して地利を尽くし、民多く本業に帰した。召されて太府卿となった。
人となり厳格で誠実、威厳と謹厳をもって知られた。家に居ては倹約、宗族親戚には厚く、俸禄は多少に従ってこれを分かち与えた。余財をもって書物を写し、揚州を去る時には、書物は遂に数車に載せた。嘗て子孫に謂いて曰く、「吾は性、財を喜ばず、遂に貧乏に至る。然れども京師の近郊に賜田十頃あり、これを耕せば、以て食うに足る。河内に桑千樹あり、これに事えれば以て衣うべし。江都の書物は、力を尽くして読めば進んで官を求めることができる。吾が歿した後、よくこれらに勤めば、人に資らざるなり」と。涼州都督に遷り、同州刺史に改めた。涼州において私怨をもって番禾丞劉武を杖殺した罪に坐し、死に当たるべきところ、民に廢され、泉州に流され、卒した。
姜謨、
姜謨は、秦州上邽の人である。隋の大業末、晉陽長となった。高祖が太原におられた時、謨は先んじてこれを識り、親しい者に謂って曰く、「隋の政乱れて将に亡ぼんとす、必ず聖人これを受くべし。唐公は王霸の資度を負う、その必ず乱を撥きて天下を得ん」と。乃ち深く自ら結んだ。及んで大將軍府が建てられると、引かれて司功參軍と為り、霍邑・絳郡を平らげるに従い、兵は遂に河を渡った。謨が部署指揮して一晩で渡河させると、高祖はその謀略に嘆じた。進んで長安を平定し、相國胄曹參軍・長道縣公に除かれた。
(姜謨の子)確、
子の確。確は、字を行本といい、字をもって顕れた。貞観中、将作少匠となり、九成宮・洛陽宮及び諸苑囿・御所の造営を護り、幹事の力をもって称され、多く賞賜を受け、遊幸には従わざるなく、宣威將軍に遷った。太宗は軽捷なる才を選び、五色の袍を衣、六閑の馬に乗り、屯営に直し、宿衛の仗内に宿り、「飛騎」と号し、毎に出幸するときは、即ちこれに従わせ、行本を左屯衞將軍に拝し、分かってこれを管轄させた。高昌の役において、行軍副總管となり、伊州より出で、柳谷より百里の地に、山に依りて攻撃の器械を造り、旧法を増減して、器械益々精良となった。その処に漢の班超の紀功碑あり、行本は古刻を磨き去り、更に頌を刻して國の威霊を陳べた。遂に侯君集と共に進んで高昌を平定し、戦いに功有り、璽書を以て慰労された。還りて、金城郡公と為り、奴婢七十人、帛百五十段を賜う。帝将に高麗を征せんとす、行本は未だ軽々しく師を用うべからざるを諫めたが、従わなかった。蓋牟城に至り、流れ矢に中り、卒した。帝は詩を賦してこれを悼み、左衞大將軍・郕國公を贈り、諡して襄と曰い、昭陵に陪葬した。子の簡が嗣いだ。行本の性質は謹みて敏であった。居る官においては、酷寒烈暑といえども懈怠の容なく、加うるに巧思有り、凡そ朝の営繕は、所司必ず諮問して後に行った。魏徵はその寵昵に倚るを見て、奢侈の端を浸して啓くを恐れ、帝に斥けるを勧めたが、帝はその強く事を成すを頼み、斥けなかった。
(確の子)柔遠、
子の柔遠は、姿容美しく、上奏・応対は詳細にして弁明に富んだ。武后の時、左鷹揚衞將軍に至り、地官尚書通事舍人・内供奉を攝めた。子に皎・晦がいる。
(柔遠の子)皎、
皎は、長安年中に尚衣奉禦となり、玄宗が藩邸におられた時、皎はその非凡なる器度有るを識り、心を委ねた。即位すると、潤州長史より召されて殿中少監を授かった。臥内に出入りし、私宴に陪し、詔して敬意を捨てることを許され、妃嬪と連ねて榻に坐し、間に撃球・闘鶏をし、名を呼ばずに呼ばれた。宮女・廐馬及び他の珍物を賜い、前後数え勝たず。帝が殿廷で一つの嘉樹を賞玩すると、皎はこれを盛んに賛美し、帝は急ぎ令してその家に移植させた。
後に竇懷貞等を誅せんとすると、皎は密議に与り、功を以て殿中監・楚國公に進み、食封四百戸を賜うた。議者は皎の任用・待遇が過ぎると非難した。帝はその藩邸以来の旧臣たるを以て、何とかしてこれを顕彰せんと思い、乃ち詔を下して曰く、「殿中監・楚國公の皎は、往昔朕に事えし藩國にありては、彭祖の同じく書を読み、子陵の共に学ぶといえども、これに過ぎず。朕嘗て長楊・鄠・杜の間を遊ぶとき、皎は時に奉侍し、数え朕に謂いて曰く、『相王必ず天位に登り、王は将に儲副たらん』と。朕は叱して後止めしむ。復た朕の兄弟近戚に言う。語り太上皇に聞こえ、太上皇これを中宗に奏す。嗣虢王邕等を遣わして鞫問せしむるに、皎は一意保護し、或いは二言すること無し。宗楚客・紀處訥等は皎を炎荒に投ぜんことを請うたが、中宗は特詔して潤州長史に貶す。専ら忠力を以て朕を戴き、天且く命有りと謂い、故に危きを履み艱きを蹈んで変ずること無し。朕既に即位し、又奸臣を誅するに参ず。将に厚く光寵を以てせんとすれども、毎に謙遜す。膝を造るも躬を匪とせず、挙げて多く規益有り。而るに悠悠の談は、正を醜くし直を悪む。天下の人、その未だ皎の功に及ばざるは、何ぞ見るの異なるや。昔、漢昭の霍光を任じ、魏祖の程昱を明らかにする、朕の不徳、庶幾くはこれに於いてならん。且つ否その悔いに当たれば、則ち必ず乃ち宗を滅ぼす。泰、亨に至れば、則ち酬うる所未だ補わず。豈に流言を聴きて、厚徳を忘れんや。苟くも謀り始めにこれ有らば、図り終わる可きなり」と。尋いで太常卿に遷り、國史を監修した。弟の晦はまた吏部侍郎となり、権勢と寵愛有り、宋璟はこれ久安の策に非ずと以為い、これを抑損するを請うた。
開元五年、詔を下して田里に放帰せしめ、自ら楽しませた。久しくして、復た秘書監となった。十年、禁中の語を泄らした罪に坐し、嗣濮王嶠に劾せられ、勅して中書門下に状を究めしむ。嶠もまた王守一の姻家であり、中書令張嘉貞は密かにその意を希い、傅えて皎を獄に致した。詔して殊死を免じ、これを杖ち、欽州に流した。道中病没し、年五十。親厚の者坐して謫死する者数人、世以て冤なりと為す。時に源乾曜方に侍中たりしが、正すこと能わず、人の譏り誹る所と為った。帝後、皎の旧勲を思い、柩を遞送して還らしめ、礼を以て葬らせ、その家を存問し、澤州刺史を追贈した。後に子が公主を尚うに及び、更に吏部尚書を贈り、仍として封二百戸を賜い祠享の費と為した。
(王)皎の子、慶初。
子の慶初。慶初は生まれて間もなく父が亡くなったが、帝は公主降嫁を許し、後に二十余年も左遷された。天宝初め、皎の甥の李林甫が宰相となり、帝に言上して、初めて官を命じられ、楚国公を襲封した。十載、新平公主に尚する。新平公主はかつて裴玪に嫁いだが、玪が亡くなったので、慶初に降嫁したのである。公主は聡明で淑やか、文墨に通じ、帝はこれを賢しとし、粛宗・代宗の朝にわたり、恩礼が重ねられ、慶初も寵遇を得た。旧制では、駙馬都尉は多く正官を拝せず、特に慶初を太常卿に拝した。ちょうど建陵を修築する際、詔してその使と為し、誤って連岡を毀損した。代宗は怒り、吏に下して不恭を論じ、賜死し、建陵使の史忠烈らは皆誅され、裴玪の子の仿もまた官を削られた。公主は宮中に幽閉され、大暦十年に薨じた。
故事では、太常の職は陵廟を奉る。開元末、濮陽王の徹が宗正卿となり、寵遇を得て、初めて宗正に陵を奉らせることを請うた。天宝中、張垍が主婿として太常を任じたため、旧に復した。慶初が敗れると、また陵廟を宗正に帰属させたという。
(王)皎の弟、晦。
晦は、蒲州参軍として起家し、累遷して高陵令となり、治績に名声があり、長安令に遷り、人々は畏れ愛した。開元初め、御史中丞に抜擢された。先に、永徽・顕慶の時、御史は宰相を拝せず、四方に命を奉じて使する者は、廷中で揖して見えたが、後に次第に屈下した。晦に至り、独り旧体に従い、御史に謂って「故事の如くせずんば、公等を奏譴せん」と言った。これにより台儀は復振した。太常少卿に転じた。
当時、国馬が乏しく、晦は詔書をもって六胡州に馬を市することを請い、率いて三千頭の馬を得、遊撃将軍に任じ、詔して可とした。閑廄はこれにより漸く備わった。黄門侍郎を除されたが、拝せず、兵部に改めた。満歳して、吏部侍郎となり、選事を主った。曹史が嘗て請托して奸を為し、前の選事を領じた者は周囲を棘で囲い、内外を検め塞いだが、猶禁じ得なかった。晦に至り、悉くこれを除き、防限なきを示したが、処事は精明で、私的に属託する者は、罪を得ること輒ちあり、皆これを神の如しとした。初め、晦が旧を革めて簡を示すと、廷議は必ず敗れることを恐れたが、既にして贓賄の路が塞がれ、流品に序あれば、衆は乃ち服した。皎が放逐されると、晦もまた左遷されて宗正卿となった。春州司馬に貶され、海州刺史に徙り、卒した。
崔善為。
崔善為は、貝州武城の人である。祖の顒は、魏の散騎侍郎であった。善為は暦数に巧みで、隋に仕え、文林郎に調された。工徒五百を督いて仁寿宮を営み、総監の楊素が簿を索めて実を閲したところ、善為は板を執り暗唱して、一つの差謬もなく、素は大いに驚いた。これより四方に疑獄あるごとに、悉く按訊を命じ、皆その情を究めた。仁寿中、楼煩司戸書佐に遷り、高祖が太守であった時、特に礼遇して接した。
善為は隋の政が日に紊れるを見て、密かに高祖に天下を図ることを勧めた。兵が起こると、大将軍府司戸参軍に署され、清河県公に封ぜられた。累遷して尚書左丞に抜擢され、清察を以て称された。諸曹の史はこれを憎み、その背が低く傴僂であることを以て、嘲って「曲れること鉤の如く、例として侯に封ぜらる」と言い、その任を沮んで罷めさせようとした。帝はこれを聞き、勉めて「昔、斉の末に奸吏が斛律明月を歌い、高緯は暗く察せず、その家を滅ぼすに至った。朕は徳あらずといえども、幸いにこれを免れん」と言った。因って謗る者を購うことを下令し、謗りは乃ち止んだ。傅仁均が『戊寅暦』を撰すると、李淳風はその疎なることを誹り、帝は善為に二家の得失を考せしめ、多く裁正した。
貞観初め、陜州刺史となった。当時の議は、戸が猥多で地狭き者は寛郷に徙すというものであったが、善為は奏上して「畿内は戸多く、丁壮は悉く府兵に籍し、若し徙すを聴かば、皆関東に在り、近きを虚しくして遠きを実にするは、経通の計に非ず」と言った。詔して可とした。大理・司農の二卿を歴任し、少卿と不和に坐して、秦州刺史として出された。卒し、刑部尚書を贈られ、諡して忠といった。
李嗣真。
李嗣真は、字を承胄といい、趙州柏人の人である。多くの芸数に通じ、明経に挙げられて及第し、累調して許州司功参軍となった。賀蘭敏之が東臺を修撰するに当たり、表して嗣真を弘文館に直らせ、学士の劉献臣・徐昭と皆若くして名声があり、「三少」と号された。高宗が東封より還り、詔して孔子に太師を贈り、有司に命じて祝文を作らせたが、司文郎中の雷少潁の文は旨に称せず、改めて嗣真に命じたところ、淹くせずして成り、帝は覧めて善しと称し、詔して二階を加えた。敏之らは恩を恃んで自如であったが、嗣真は喜ばず、補を求めて義烏令となった。敏之が敗れると、学士多く連坐したが、嗣真は独り免れた。
調露中、始平令となり、風化大いに行われる。時に章懐太子が『宝慶曲』を作り、太清観で閲したが、嗣真は道人の劉概・輔儼に謂って「宮は商を召さず、君臣乖く也。角と徵は戾り、父子疑う也。死声多く且つ哀し、若し国家事無くば、太子その咎を任す」と言った。間もなく太子は廃され、概らがその言を奏上し、太常丞に抜擢され、五礼儀を知り、常山県子に封ぜられた。嗣真は常に言った「隋の楽府に『堂堂曲』あり、明らかに唐の再受命を言う。比日『側堂堂、橈堂堂』の謡あり。側は正しからず、橈は危うし。皇帝の病は日に侵し、事は皆中宮に決し、権を人に持たせ、収むること易からず。宗室は衆しといえども、中に居て外を制するには、勢い且つ敵せず。諸王は殆ど后に蹂躙せられん、吾は難の作ること久からざるを見る」と。太常に黄鐘が欠け、鋳造して成らず、嗣真が崇業里に居た時、土中にあるを疑ったが、その所在を得なかった。道中で一つの車に逢い、鐸の声甚だ厲しかったので、嗣真は「宮声なり」と言い、買い取って帰り、空地で振ると、応ずるものがあるかのようで、掘ると鐘を得、衆楽は遂に調和した。嘗て工人を引いて器物を廷に展べたところ、后はその風度応対を奇とし、召して相王府参軍の閻玄静に図させ、吏部郎中の楊志誠が賛を為し、秘書郎の殷仲容が書し、時に寵と為した。
永昌初め、右御史中丞として大夫事を知り、周・漢を二王の後と為すことを請い、詔して可とした。河東を巡撫することを命じられ、宋温瑾・袁嘉祚・李日知を推薦し、州県の職を抜擢し、皆顕官に至った。来俊臣の獄が方に熾んである時、嗣真は上書して諫め、「昔、陳平が漢祖に事え、楚の君臣を謀り疏にし、反間を行い、項羽は遂に亡びた。今、殆ど平の如き者ありて陛下の君臣を謀らんとす、恐らくは社稷の禍と為らん」と為した。納れられず。潞州刺史として出された。俊臣に反を誣えられ、藤州に流され、久しくして還るを得た。自ら死日を筮い、予め棺斂を具え、言の如く桂陽で卒した。詔ありて州県に喪を護って郷里に還らせ、済州刺史を贈られ、諡して昭といった。
武后がかつて嗣真に皇嗣のことを問うと、対えて言うには、「程嬰・杵臼が趙氏の孤児を存続させたことを、古人は称えた」と。后は悟り、中宗は安泰となった。神龍初め、御史大夫を追贈された。撰述したものは特に多かった。