新唐書

巻九十 列傳第十五 二劉殷許程柴任丘

巻九十 列傳第十五 二劉殷許程柴任丘

劉弘基

原文劉弘基

劉弘基は雍州池陽の人である。若くして蔭により隋の右勛侍に補せられた。大業の末、遼東征伐に従い、資財乏しく、汾陰に至りて、期に後れれば誅せられんことを慮り、遂にその配下と共に牛を屠り法を犯し、吏に捕縛せしむるを諷した。歳余りして、贖罪により論ぜられ、因って亡命し、馬を盗み自らを給した。太原に至り、密かに高祖に事えた。また太宗の資質度量が並々ならぬを察し、ますます身を託した。これにより親礼を蒙り、出入りは騎を連ね、時に臥内に至った。挙兵せんとするや、弘基は兵士を募り、二千人を得た。王威らが大事を阻むや、弘基は長孫順德と共に閤の後に伏し、左右を指揮してこれを捕らえしめた。西河を攻め下すに従い、宋老生敗れて、馬を棄てて塹に投ぜんとするを、弘基はその首を斬り、右光祿大夫に任ぜられた。軍蒲に至り、兵を率いて先に河を渡り、馮翊を下した。渭北道大使となり、殷開山を副使とせしめられた。西は扶風を徇り、兵は六万に至り、南は渭を渡り、長安故城に駐屯し、金光門に隊を振るった。隋の将衛文升が来て拒むや、弘基は逆撃し、甲士こうし千余人、馬数百を擒にした。時に諸軍未だ至らず、弘基最も先に勝つ。高祖悦び、馬二十匹を賜う。京師平らぎ、功第一とし、右驍衛大將軍を授けられた。

原文劉弘基,雍州池陽人。少以廕補隋右勛侍。大業末,從征遼,貲乏,行及汾陰,度後期且誅,遂與其屬椎牛犯法,諷吏捕系。歲餘,以贖論,因亡命,盜馬自給。至太原,陰事高祖。又察太宗資度非常,益自托。由是蒙親禮,出入連騎,間至臥內。兵將舉,弘基募士,得二千人。王威等鯁大事,弘基與長孫順德伏閤後,麾左右執之。從攻下西河,宋老生敗,棄馬投塹,弘基斬其首,拜右光祿大夫。師至蒲,引兵先濟河,下馮翊。為渭北道大使,命殷開山副之。西徇扶風,眾至六萬,南度渭,次長安故城,振隊金光門。隋將衛文升來拒,弘基逆擊,擒甲士千餘,馬數百。時諸軍尚未至,弘基最先勝。高祖悅,賜馬二十匹。京師平,功第一,授右驍衛大將軍。

薛挙を討ち、浅水原に戦い、八総管の軍皆没し、唯だ弘基一軍戦力あり、矢尽きて、賊に拘えられた。帝は臨難屈せざるを以て、その家を優しく護った。仁杲平らぎて、乃ち帰ることができ、官は初めの如くとした。劉武周が太原を犯すや、弘基は平陽に屯し、また賊に陥った。俄かに自ら抜けて帰り、左一総管を授けられた。秦王に従い柏壁に屯し、勁卒二千を以て隰州より西河に趨り、賊の帰路を躡う。賊鋭甚だしく、弘基は壁を堅くし勇を儲えた。宋金剛遁走するに及び、騎を率いてこれを介休に尾し、王と合撃し、大いにこれを破った。累ねて任国公に封ぜられた。劉黒闥を撃つに従い、還りて、井鉞將軍を除かれた。会に突厥とっけつ辺境を患うや、歩騎一万を督して塞に備え、豳の北より東は子午嶺に拒ぎ、西は臨涇に抵り、障を築きて虜を遮った。

原文討薛舉,戰淺水原,八總管軍皆沒,唯弘基一軍戰力,矢盡,為賊拘。帝以臨難不屈,優護其家。仁杲平,乃克歸,官之如初。劉武周犯太原,弘基屯平陽,復陷賊。俄自拔歸,授左一總管。從秦王屯柏壁,以勁卒二千繇隰州趨西河,躡賊歸路。賊銳甚,弘基堅壁儲勇。及宋金剛遁走,率騎尾之介休,與王合擊,大破之。累封任國公。從擊劉黑闥,還,除井鉞將軍。會突厥患邊,督步騎萬人備塞,自豳北東拒子午嶺,西抵臨涇,築障遮虜。

貞観初め、李孝常ら謀反し、これと交わるに坐し、名を除かれて民と為された。歳余りして、起用されて易州刺史となり、また封爵を復した。召されて衛尉卿を授けられ、夔国公に改封された。老いて骸骨を乞うに及び、輔国大將軍と為り、朔望に朝し、禄賜は職事と同じ。太宗遼東を征するや、召されて前軍大総管と為り、駐蹕山に戦い、功あり、累ねて封戸を加えて千百に至った。卒し、開府儀同三司、并州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、謚して襄と曰う。

原文貞觀初,李孝常等謀反,坐與交,除名為民。歲餘,起為易州刺史,復封爵。召授衛尉卿,改封夔國。以老乞骸,為輔國大將軍,朝朔望,祿賜同職事。太宗征遼,召為前軍大總管,戰駐蹕山,有功,累加封戶至千一百。卒,贈開府儀同三司,并州都督,陪葬昭陵,謚曰襄。

初め、弘基病み、諸子に奴婢各十五人、田五頃を給し、親しい者に謂いて曰く、「賢ならば、固より多財を藉りず。即ち賢ならざれば、これを守りて以て飢凍を脱すべし」と。余は悉くこれを親党に散じた。子仁実、封を襲ぐ。

原文始,弘基病,給諸子奴婢各十五人,田五頃,謂所親曰:「使賢,固不藉多財;即不賢,守此可以脫饑凍。」余悉散之親黨。子仁實,襲封。

殷開山

原文殷開山

殷開山、名は嶠、字あざなをもって行わる。世江南に居す。祖不害、陳に仕えて司農卿と為る。陳亡び、京兆に徙り、鄠の人と為る。開山は書に渉り、尺牘を作るに工なり、隋の大谷長と為る。高祖兵を起こすや、召し補われて大將軍掾と為り、西河を攻むるに従う。渭北道元帥長史と為る。時に関輔の群盗力に驁り自ら張り、相君せず、開山に命じて招慰せしめ、皆下る。劉弘基と故城に屯し、衛文升の兵を破り、爵を陳郡公と賜い、丞相府掾に遷る。

原文殷開山,名嶠,以字行,世居江南。祖不害,仕陳為司農卿。陳亡,徙京兆,為鄠人。開山涉書,工為尺牘,為隋大谷長。高祖兵起,召補大將軍掾,從攻西河。為渭北道元帥長史。時關輔群盜驁力自張,不相君,命開山招慰,皆下。與劉弘基屯故城,破衛文升之兵,賜爵陳郡公,遷丞相府掾。

吏部侍郎として秦王に従い薛挙を討つ。会に王疾甚だしく、営に臥し、軍を劉文静に委ね、誡めて曰く、「賊方に熾んにして、速戦を邀うれば利あり。公等争うことなかれ、糧尽きて衆枵うれば、乃ち図るべし」と。開山は事を立つるに鋭く、文静に説いて曰く、「王疾に属し、公克く済せざるを憂う、故に戦わんと欲せざるなり。今宜しく逗機して敵を制し、専ら賊を以て王に遺すことなかれ。請う兵を勒して以てこれを怖しめん」と。遂に折墌に戦い、挙の乗ずる所と為り、遂に大敗す。吏に下りて死に当たるも、詔してこれを貸し、名を除かれて民と為された。頃くして、仁杲を平らぐに従い、爵位を復し、兼ねて陜東道行臺兵部尚書、吏部に遷る。王世充を討つに従い、功を以て爵を進めて鄖国公と為る。

原文以吏部侍郎從秦王討薛舉。會王疾甚,臥營,委軍於劉文靜,誡曰:「賊方熾,邀速戰利。公等毋與爭,糧盡眾枵,乃可圖。」開山銳立事,說文靜曰:「王屬疾,憂公弗克濟,故不欲戰。今宜逗機制敵,無專以賊遺王也。請勒兵以怖之。」遂戰折墌,為舉所乘,遂大敗。下吏當死,詔貸之,除名為民。頃之,從平仁杲,復爵位,兼陜東道行臺兵部尚書,遷吏部。從討王世充,以功進爵鄖國公。

劉黒闥を征するに、道中病みて卒す。王哭すること慟く、詔して陜東道大行臺右僕射を贈り、謚して節と曰う。貞観十四年、淮安王神通・河間王孝恭・民部尚書劉政会と俱に高祖廟廷に配饗せしめられる。永徽中、司空を加贈される。

原文征劉黑闥,道病卒,王哭之慟,詔贈陜東道大行臺右僕射,謚曰節。貞觀十四年,與淮安王神通、河間王孝恭、民部尚書劉政會俱配饗高祖廟廷。永徽中,加贈司空。

劉政会

原文劉政會

劉政会は滑州胙の人である。隋の大業中、太原鷹揚府司馬と為り、兵を以て高祖の麾下に隷す。王威ら既に貳するや、秦王先んずる事を以てこれを除かんと欲し、政会を遣わして急変の書を為し、その反を告げしむ。時に募士既に集まる、乃ち威らを執りて囚え、然る後に挙兵す、政会の功なり。

原文劉政會,滑州胙人。隋大業中,為太原鷹揚府司馬,以兵隸高祖麾下。王威等既貳,秦王欲先事除之,遣政會為急變書告其反。時募士已集,乃執威等囚之,然後舉兵,政會功也。

大將軍府建つや、戸曹参軍と為り、丞相府掾に遷る。武徳初め、衛尉少卿を授けられ、太原に留守し、戎政を調輯し、遠近歓服す。会に劉武周并州を寇すや、晉陽の豪傑挙ってこれに応ず、政会は武周に擒にせられ、毎に密かに賊の形勢を表す。既に平らぎ、官爵を復し、光祿卿を歴任し、邢国公に封ぜられる。貞観初め、転じて洪州都督と為り、卒す。太宗手詔して曰く、「政会昔義挙に預かり、殊功あり、葬宜しく異等すべし」と。ここに於いて民部尚書を贈り、謚して襄と曰う。後に追って渝国に徙す。

原文大將軍府建,為戶曹參軍,遷丞相府掾。武德初,授衛尉少卿,留守太原,調輯戎政,遠近歡服。會劉武周寇并州,晉陽豪傑舉應之,政會為武周所擒,每密表賊形勢。既平,復官爵,歷光祿卿,封邢國公。貞觀初,轉洪州都督,卒。太宗手詔:「政會昔預義舉,有殊功,葬宜異等。」於是贈民部尚書,謚曰襄。後追徙渝國。

子玄意爵を襲ぎ、南平公主に尚う。高宗時に汝州刺史と為る。次子奇、長寿中、天官侍郎と為り、張鷟・司馬锽を薦めて監察御史と為し、二人申屠瑒に因りて以て謝す。奇正色して曰く、「賢を挙ぐるは本より私無し、何ぞ謝を見ん」と。聞く者皆竦む。後酷吏に陥れられ、誅せられる。

原文子玄意襲爵,尚南平公主。高宗時為汝州刺史。次子奇,長壽中,為天官侍郎,薦張鷟、司馬锽為監察御史,二人因申屠瑒以謝,奇正色曰:「舉賢本無私,何見謝?」聞者皆竦。後為酷吏陷,被誅。

七世の孫、崇望

原文七世孫崇望

七世の孫、崇望、字は希徒、進士に及第し、宣歙の王凝が転運巡官に辟召した。崔安潛が許及び劍南を帥いた時、崇望の昆弟四人が同じ幕府にあり、世間はこれを才ある者と認めた。安潛が吏部尚書として入朝すると、崇望はまた員外郎として南曹を主り、選事を清廉に処理した。僖宗が山南に幸した時、王重榮は宦官を怨み、職務に従おうとしなかった。時に使者を高く選び、即ち河中に赴いて諭し、自ら新たにするよう促すこととなり、崇望は諫議大夫として節を持ち往った。到着すると、君臣の大義を述べてこれを動かし、重榮は順服し、硃玫を誅殺して自ら効を請うた。使いから帰り、旨に適うと称され、翰林學士に抜擢された。昭宗が即位すると、中書侍郎・同中書門下平章事に進んだ。張浚が太原を討伐しようとした時、崇望は固く執り不可とし、浚は果たして敗れた。代わって門下侍郎となり、度支を判った。玉山都將の楊守信が反逆し、夜に兵を闕下に陳べた。帝は兵を延喜門に列ね、崇望に命じて度支庫を守らせた。夜明けに、含光門が未だ開かず、禁卒が左右に立ち並び、将に長安中を大いに掠めんとした。俄かに宰相来たるとの伝呼を聞き、門が開くと、崇望は馬を駐めて労い言うには、「上自ら将として中営におられ、公等は禁軍である。帝の前で賊を殺し功を取らずして、苟くも掠奪を欲し悪名を成さんとするか」と。兵士は皆唯々とした。長楽門に至ると、賊は兵の来るを見て、乃ち遁走し、軍中は皆「万歳」と叫んだ。この日、京師が乱れなかったのは、彼の力によるものであった。尚書左僕射に進んだ。硃全忠が徐・泗を取らんと謀り、表を上って大臣をもって時溥に代えることを請うた。乃ち崇望を武寧軍節度使せつどしに授けた。溥が命に拒んだため、崇望は還って太常卿となった。時に王珂と王珙が河中を争い、詔して崔胤を節度使とした。珂は李克用の婿である。太原の邸吏薛誌勤が言うには、「崔公が河中を鎮めるよりは、光徳の劉公の方が我が公(克用)に最も善しとする」と。光徳は、崇望の居る坊である。後に李茂貞・王行瑜が入朝して執政を誅殺した時、これに坐し、昭州司馬に貶された。行瑜が誅されると、克用がその冤を直し、召されて吏部尚書となった。時に王摶が吏部を以て政を輔けていたため、兵部に転じた。王建が東川を併せんと欲し、詔して崇望を劍南東川節度使・同中書門下平章事とした。未だ到着せず、建は既に王宗滌を留後としていたため、崇望は乃ち還って兵部尚書となった。卒し、司空を贈られた。

原文七世孫崇望,字希徒,及進士第,宣歙王凝辟轉運巡官。崔安潛帥許及劍南,崇望昆弟四人同幕府,世以為才。安潛入為吏部尚書,崇望又以員外郎主南曹,選事清辦。僖宗幸山南,王重榮怨宦豎,不肯率職,時高選使者,即河中鐫諭使自新,崇望以諫議大夫持節往。既至,陳君臣大義動之,重榮順服,請誅硃玫自效。使還,稱旨,擢翰林學士。昭宗即位,進中書侍郎、同中書門下平章事。張浚伐太原,崇望固執不可,浚果敗。代為門下侍郎、判度支。玉山都將楊守信反,夜陳兵闕下。帝列兵延喜門,命崇望守度支庫。巉旦,含光門未開,禁卒左右植立,將大掠長安中。俄聞傳呼宰相來者,門辟,崇望駐馬勞曰:「上自將在中營,公等禁軍也,不帝前殺賊取功,而茍欲剽掠成惡名乎?」士皆唯唯。至長樂門,賊望兵至,乃遁去,軍中咸呼「萬歲」。是日,京師不亂,繄其力。進尚書左僕射。硃全忠謀取徐、泗,表請以大臣代時溥,乃授崇望武寧軍節度使。溥拒命,崇望還為太常卿。會王珂、王珙爭河中,詔以崔胤為節度使。珂,李克用婿也。太原邸吏薛誌勤曰:「崔公鎮河中,不若光德劉公於我公最善。」光德,崇望所居坊也。後李茂貞、王行瑜入誅執政,坐是,貶昭州司馬。行瑜誅,克用直其冤,召為吏部尚書。會王摶以吏部輔政,徙兵部。王建欲並東川,詔崇望為劍南東川節度使、同中書門下平章事。未至,建已使王宗滌知留後,崇望乃還為兵部尚書。卒,贈司空。

崇望の兄、崇龜

原文崇望兄崇龜

兄崇龜、字は子長。進士に擢でられ、累ねて華やかな要職に仕え、終に清海軍節度使となった。広州に大賈あり、倡女と夜に集まることを約したが、他の盗賊が女を殺し、刀を遺して去った。賈が倡家に入り、その血を踏んで乃ち気づき、艑に乗って逃亡した。吏は賈の跡を追って捕らえ劾し、女と約した状を得たが殺してはいなかった。崇龜が軍中で大いに饗宴を催し、宰人を悉く集め、日が入るまで至り、乃ち遣わした。密かに遺された刀を以て一つの雑刀と取り替えて置いた。翌朝、群宰が即ち庖から刀を取ると、一人去らず言うには、「これは我が刀にあらず」と。これを問うて、その主の名を得た。往って視ると、則ち逃亡していた。崇龜は他の囚人を取って殺し、賈であると声言して、市に陳べた。逃亡した宰人が帰り、捕らえ詰問して具に伏した。その精明は此の如しであった。姻戚や旧知が財を以て干渉しても、率ね答えず、ただ『荔支図』を写して与えた。然しながらその家を防ぎ検する能わず、既に没すると、珠翠羽を売る者があり、これにより名を損なった。

原文兄崇龜,字子長。擢進士,仕累華要,終清海軍節度使。廣有大賈,約倡女夜集,而它盜殺女,遺刀去。賈入倡家,踐其血乃覺,乘艑亡。吏跡賈捕劾,得約女狀而不殺也。崇龜方大饗軍中,悉集宰人,至日入,乃遣。陰以遺刀易一雜置之。詰朝,群宰即庖取刀,一人不去,曰:「是非我刀。」問之,得其主名。往視,則亡矣。崇龜取它囚殺之,聲言賈也,陳諸市。亡宰歸,捕詰具伏。其精明類此。姻舊或幹以財,率不答,但寫《荔支圖》與之。然不能防檢其家,既沒,有鬻珠翠羽者,由是名損。

崇望の弟、崇魯

原文崇望弟崇魯

弟崇魯、字は郊文、亦た進士に及第し、士補闕・翰林學士に擢でられ、僖宗が山南に難を避けた時、嗣襄王煴の史館修撰となり、誅されずに済んだ。景福年中、水部郎中として制誥を知った。雅に崔昭緯と善しとした。帝が韋昭度・李磎を以て政を輔けさせると、昭緯は外に邠・岐の兵を倚りて援とし、以てその権を久しからしめようとした。ここにおいて天子は磎を厚く礼遇したので、昭緯は奪われることを懼れ、共に謀ってこれを沮んだ。磎の墨麻が出ると、崇魯は輒ち麻を掠めて大哭した。帝がこれを問うと、崇魯は言うには、「今人に乏しと雖も、豈に憸人を取って宰相とすべきや。磎は楊復恭・西門重遂に因って近職を得た者なり、奈何ぞ之を用いん。前日杜讓能の羞戮未だ刷さらず、尚ほ覆轍を蹈むを忍ぶか」と。磎は是により宰相となることを得なかった。磎も亦たその奸を劾奏し、因り自ら陳べて「山南の楊守亮に詆毀され、復恭と交私するを容れられず」と言い、又言うには、「崇望が宰相たりし時、親吏をして日夕左軍に謁せしめ、復恭と相親厚くせしむ。絁巾惨帯、禁門に入らず。崇魯は殿に向かって哭し、厭詛天詐、殆ど人の妖なり。且つ其の父は賄に坐して薬を飲み死す。崇魯は身をもって硃玫の史官たりし時、勸進表を作る。太原府に在りて西川に使いし時、田令孜を見て、階を没して趨り、制度を廃するは崇魯に始まる」と。その相罵り誹ることは、俚浅にして稽校し、譬えば市人の如し。崇龜は始めて麻を哭するを聞き、恚って食わず。曰く、「吾兄弟は未だ始めて声利を以て名を敗らず、今不幸にして乃ち是の児を生む」と。後に王行瑜・崔昭緯が相継いで誅され、崇魯は崖州司戸参軍に貶された。終に水部員外郎に至った。

原文弟崇魯,字郊文,亦第進士,擢士補闕、翰林學士,僖宗避難山南,為嗣襄王煴史館修撰,得不誅。景福中,以水部郎中知制誥。雅與崔昭緯善。帝以韋昭度、李磎輔政,而昭緯外倚邠、岐兵為援,以久其權。於是天子厚禮磎,昭緯懼見奪,共謀沮之。及磎墨麻出,崇魯輒掠麻大哭。帝問焉,崇魯曰:「今雖乏人,豈宜取憸人為宰相。磎以楊復恭、西門重遂得近職,奈何用之?前日杜讓能羞戮未刷,尚忍蹈覆轍乎?」磎由是不得相。磎亦劾奏其奸,因自陳「為山南楊守亮詆毀,不容與復恭交私」。又言:「崇望為宰相,使親吏日夕謁左軍,與復恭相親厚。絁巾慘帶,不入禁門;崇魯向殿哭,厭詛天詐,殆人之妖。且其父坐賄飲藥死。崇魯身為硃玫史官,作勸進表。在太原府使西川,見田令孜,沒階趨,廢制度自崇魯始。」其相詈訾,俚淺稽校,譬市人然。崇龜始聞哭麻,恚不食。曰:「吾兄弟未始以聲利敗名,今不幸乃生是兒。」後王行瑜、崔昭緯相繼誅,崇魯貶崖州司戶參軍。終水部員外郎。

許紹

原文許紹

許紹、字は嗣宗、安州安陸の人。父は法光、隋に在って楚州刺史となった。元皇帝が安州総管であった時、紹は時に児童であり、高祖と同学で、互いに愛し合った。大業末、夷陵通守に任じ、時に盗賊が起こるも、州境は独り完く保たれ、流人が自ら数十万を占め、倉を開いて賑給した。煬帝崩御の報が至ると、紹は人吏を率いて三日間臨み、以て所部を遥かに越王侗に属させた。後に王世充が簒立すると、遂に使者を遣わして黔安・武陵・澧陽を以て国に帰し、峽州刺史を授けられ、安陸郡公に封ぜられた。高祖は書を賜い平生の旧を道い、以て慰め納れた。

原文許紹,字嗣宗,安州安陸人。父法光,在隋為楚州刺史。元皇帝為安州總管,紹時為兒,與高祖同學,相愛也。大業末,任夷陵通守,會盜起,州境獨完,流人自占數十萬,開倉賑給。煬帝崩問至,紹率人吏三日臨,以所部遙屬越王侗。後王世充篡立,遂遣使以黔安、武陵、澧陽歸國,授峽州刺史,封安陸郡公。高祖賜書道平生舊,以加慰納。

蕭銑の将董景珍が降ったので、命じて紹に兵を率いて応接させた。銑を破った功により、その子智仁を溫州刺史に擢でた。銑が楊道生を遣わして峽州を囲んだが、紹はこれを撃ち走らせた。銑の将陳普環が大艦を具えて江を溯り、開州の賊蕭阇提と巴・蜀を略さんとしたので、紹は智仁及び婿の張玄靖・掾の李弘節を遣わして西陵で追撃し、その兵を覆し、普環を禽え、戦艦を悉く獲た。江の南に安蜀城あり、地は夷陵に直し、荊門城は其の東に峙ち、皆険阻な処である。銑は兵を以て戍守したが、紹は智仁等を遣わして荊門を攻め、これを取った。制書を以て褒め称え、便宜を許された。紹の境は王世充及び銑に連なり、その下で賊に掠められた者は皆殺されたが、紹は敵を得ると、独り資を遣わして帰したので、二邦は義に感じ、殺掠を止めた。譙國公に進み、帛千段を賜った。

原文蕭銑將董景珍降,命紹率兵應接。以破銑功,擢其子智仁為溫州刺史。銑遣楊道生圍峽州,紹擊走之。銑將陳普環具大艦溯江,與開州賊蕭阇提略巴、蜀,紹遣智仁及婿張玄靖、掾李弘節追戰西陵,覆其兵,禽普環,悉獲戰艦。江之南有安蜀城,地直夷陵,荊門城峙其東,皆峭險處。銑以兵戍守,紹遣智仁等攻荊門,取之。制書褒美,許以便宜。紹境連王世充及銑,其下為賊剽者皆見殺,紹得敵人,獨資遣之,二邦感義,殺掠為止。進譙國公,賜帛千段。

趙郡王孝恭等が銑に代わると、復た詔して兵を督し荊州を図らせた。時に病に会い、軍中に卒した。帝は流涕した。貞觀年中、荊州都督を贈られた。智仁は、初め勲功により封ぜられ孝昌縣公となり、紹の卒後、夷陵を継いで守り、終に涼州都督となった。次子は圉師。

原文趙郡王孝恭等代銑,復詔督兵圖荊州。會病,卒於軍,帝為流涕。貞觀中,贈荊州都督。智仁,初以勛授封孝昌縣公,紹卒,繼守夷陵,終涼州都督。次子圉師。

圉師は器量と幹才を有し、芸文に広く通じ、進士第に擢でられた。累遷して給事中・黄門侍郎・同中書門下三品となった。龍朔年間、左相となった。高宗自ら詔を書いて遼東の諸将に賜り、許敬宗に謂って曰く、「圉師は書を愛する、これに見せよ」と。俄かに其の子が狩猟して人の田に入り、口論し、怒ってこれを射たが、圉師は隠して奏上せず、人に告発された。帝が譲って曰く、「宰相にして百姓に暴をなすは、威福を作すに非ずや」と。圉師は謝し、且つ言うには、「威福を作す者は、強兵と重鎮にして、天子の法を侮る者でございます。臣は文吏、何ぞ敢えて然らんや」と。帝曰く、「兵無きを恨むか」と。敬宗はこれにより弾劾して退け、遂に免官された。久しくして、虔州刺史となり、稍々遷って相州に至り、専ら寛をもって治め、州人は石を刻んでその美を頌した。部内に賄賂を受ける者あり、圉師は忍びてこれを推問せず、ただ『清白箴』を賜うのみであった。その人は自ら慚愧し、後に身を修め、更に廉士となった。戸部尚書に進んだ。卒し、幽州都督を贈られ、諡して簡と曰い、恭陵に陪葬された。紹は初め譙国公に封ぜられ、子の智仁が自ら封を受けたため、詔して孫の力士にこれを襲封させ、洛州長史に終わった。

原文圉師有器幹,研涉藝文,擢進士第。累遷給事中、黃門侍郎、同中書門下三品。龍朔中,為左相。高宗自書詔賜遼東諸將,謂許敬宗曰:「圉師愛書,可示之。」俄坐其子獵犯人田,有辭,怒而射之,圉師掩不奏,為人告擿。帝讓曰:「宰相而暴百姓,非作威福乎?」圉師謝,且言:「作威福者,強兵重鎮,嫚天子法。臣文吏,何敢然!」帝曰:「慊無兵邪?」敬宗因是劾抵,遂免官。久之,為虔州刺史,稍遷相州,專以寬治,州人刻石頌美。部有受賕者,圉師不忍按,但賜《清白箴》,其人自愧,後修飾,更為廉士。進戶部尚書。卒,贈幽州都督,謚曰簡,陪葬恭陵。紹初爵譙國公,以子智仁自有封,故詔孫力士襲之,終洛州長史。

子の欽寂

原文子欽寂

子の欽寂が封を嗣いだ。萬歳通天元年、契丹きったんが寇すや、詔して隴山軍討撃副使と為り、崇州に戦い、敗れて虜に擒えられた。安東を囲むに当たり、脅かして未だ下らざる属城を説かしめんとした。欽寂は安東都護裴玄珪に呼びかけて曰く、「賊は朝夕に滅ぶべし、幸いに謹んで守れ」と。賊は怒り、これを害した。武后は制を下して褒め称え、蘄州刺史を贈り、諡して忠と曰った。子の輔乾は、父が難に死したるにより、左監門衛中候を授かり、海東慰労使となり、柩を迎えて還葬せしめた。

原文子欽寂嗣封。萬歲通天元年,契丹入寇,詔為隴山軍討擊副使,戰崇州,敗,為虜所禽。方圍安東,脅令說屬城未下者。欽寂呼安東都護裴玄珪曰:「賊朝夕當滅,幸謹守!」賊怒,害之。武后下制褒美,贈蘄州刺史,謚曰忠。子輔乾,以父死難,授左監門衛中候,為海東慰勞使,使迎柩還葬。

欽寂の弟、欽明

原文欽寂弟欽明

欽寂の弟、欽明は、軍功により左玉鈐衛将軍・安西大都護・塩山郡公に擢でられた。出でて涼州都督となった。嘗て軽騎で部内を巡察するに、会うこと突厥の默啜の兵が奄然として至り、捕らえられた。賊とともに皆霊州に至り、降伏を説くことを命ぜられた。欽明は城下に至り、呼んで曰く、「我は食に乏し、美しき醤はあるか?粱米はあるか?併せて墨一枝を乞う」と。時に賊の営は四面水に阻まれ、ただ一路のみ入るを得た。欽明は将を選び兵を簡び、夜を乗じて賊を襲わんと欲したのであるが、城中にその隠語を悟る者無く、遂に害された。兄弟ともに王事に死し、世はその忠を称えた。

原文欽寂弟欽明,以軍功擢左玉鈐衛將軍、安西大都護、鹽山郡公。出為涼州都督。嘗輕騎按部,會突厥默啜兵奄至,被執。賊與皆至靈州,使說之降。欽明至城下,呼曰:「我乏食,有美醬乎?有粱米乎?並乞墨一枝!」時賊營四面阻水,惟一路得入。欽明欲選將簡兵,乘夜襲賊也,而城中無寤其瘦者,遂見害。兄弟死王事,世名其忠。

程知節

原文程知節

程知節は本名を咬金といい、済州東阿の人である。馬槊を善くした。隋末、所在に盗賊起こり、知節は数百の衆を聚めて郷里を保った。後に李密に事え、密は八千の士を料して四驃騎に隷属させ、左右に分けて自衛とし、「内軍」と号し、常に曰く、「これは百万に当たる」と。知節は驃騎の一つを領し、恩遇は隆く特であった。王世充が密と戦うや、知節は内騎を率いて北邙に営し、単雄信は外騎を率いて偃師に営した。世充が雄信を襲うや、密は知節及び裴行儼を遣わしてこれを助けしめた。行儼は流矢に中り馬より墜ち、知節は馳せてこれを救い、数人を殺し、軍は辟易し、乃ち行儼を抱いて重騎に乗って馳せた。追兵が槊を以てこれを撞くや、知節はその槊を折り、追う者を斬り、乃ち免れた。後に密が敗れ、世充に獲られた。その人となりを悪み、秦叔宝とともに来奔し、秦王府左三統軍を授けられた。宋金剛・竇建徳・王世充を破るに従い、併せて左一馬軍総管を領し、旗を搴ぎ先登すること一ならず、功により宿国公に封ぜられた。七年、隠太子の讒に遭い、出でて康州刺史と為らんとしたが、秦王に白して曰く、「大王は左右の手を去らんとす、身が久しく全からんと欲するも、得べしや?知節は死すとも、敢えて去らじ」と。事平らぎ、太子右衛率に拝された。尋いで右武衛大将軍に遷り、実封七百戸。貞観年中、瀘州都督・左領軍大将軍を歴任し、盧国公に改封された。顕慶二年、蔥山道行軍大総管を授かり、以て賀魯を討たんとした。師は怛篤城に次ぐや、胡人数千が出降したが、知節はその城を屠って去り、賀魯はこれにより遠く遁れた。軍還り、坐して免官された。未だ幾ばくもなく、起用されて岐州刺史となり、致仕した。卒し、驃騎大将軍・益州大都督を贈られ、昭陵に陪葬された。子の処亮は、清河公主に尚した。

原文程知節本名咬金,濟州東阿人。善馬槊。隋末,所在盜起,知節聚眾數百保鄉里。後事李密,而密料士八千隸四驃騎,分左右以自衛,號「內軍」,常曰:「此可當百萬。」知節領驃騎之一,恩遇隆特。王世充與密戰,知節以內騎營北邙,單雄信以外騎營偃師。世充襲雄信,密遣知節及裴行儼助之。行儼中流矢墜馬,知節馳救之,殺數人,軍辟易,乃抱行儼重騎馳。追兵以槊撞之,知節折其槊,斬追者,乃免。後密敗,為世充所獲。惡其為人,與秦叔寶來奔,授秦王府左三統軍。從破宋金剛、竇建德、王世充,並領左一馬軍總管,搴旗先登者不一,以功封宿國公。七年,隱太子譖之,出為康州刺史,白秦王曰:「大王去左右手矣,身欲久全,得乎?知節有死,不敢去!」事平,拜太子右衛率。尋遷右武衛大將軍,實封七百戶。貞觀中,歷瀘州都督、左領軍大將軍,改封盧國。顯慶二年,授蔥山道行軍大總管,以討賀魯。師次怛篤城,胡人數千出降,知節屠其城去,賀魯因遠遁。軍還,坐免。未幾,起為岐州刺史,致仕。卒,贈驃騎大將軍、益州大都督,陪葬昭陵。子處亮,尚清河公主。

柴紹

原文柴紹

柴紹は、字を嗣昌といい、晋州臨汾の人である。幼より矯悍にして、武力有り、任侠を以て聞こえた。隋の太子千牛備身を補せられた。高祖は平陽公主を以て妻とせしめた。兵を起こさんとするや、紹は間道を走って迎え謁した。時に太子建成・斉王元吉もまた河東より往かんとし、途上で遇った。建成曰く、「追捕の文書急なり、恐らく吏に逮捕されん、劇賊に依らんことを請う、冀くは自ら全からん」と。紹曰く、「不可なり。賊は君が唐の公子たるを知らば、必ず執えて功と為さん、徒らに死するのみ。疾く太原に走るに如かず」と。雀鼠谷に入るや、義兵の起こるを聞き、紹に謀有りと謂い、乃ち相賀した。右領軍大都督府長史を授かり、彀騎を領して晋陽より発した。先ず霍邑城下に抵り、形勢を覘った。還りて白すには、「宋老生は一夫の敵、我が兵到れば必ず出戦す、虜とすべし」と。大師至るや、老生果たして出で、紹は力戦して功有り。臨汾・絳郡を下すに従い、隋将桑顕和が来戦するや、紹は軍を引きてその背を繚らし、史大奈と合してこれを攻めた。顕和敗れ、遂に京師を平らげた。右光禄大夫に進み、臨汾郡公に封ぜられた。高祖即位し、左翊衛大将軍を拝し、累ねて征討に従い、その多きを以て、霍国公に進封され、右驍衛大将軍に遷った。吐谷渾・党項が辺を寇すや、勅して紹にこれを討たしめしに、虜は高きに拠り紹の軍を射る。矢雨の如く、士卒色を失う。紹は安坐し、人を遣わして胡琵琶を弾かしめ、二人の女子に舞わしめた。虜はこれを疑い、射るを休めて観る。紹はその懈なるを伺い、精騎を以て後より掩撃し、虜は大いに潰え、五百級を斬首した。貞観二年、梁師都を平らげ、左衛大将軍に転じた。出でて華州刺史となり、鎮軍大将軍を加えられ、譙国に徙封された。病むや、太宗自らこれを問うた。卒し、荊州都督を贈られ、諡して襄と曰う。二子有り:哲威・令武。哲威は右屯衛将軍となり、封を襲った。弟の謀反に坐し、死を免れ、邵州に流された。起用されて交州都督となり、卒した。令武は巴陵公主に尚し、太僕少卿・衛州刺史・襄陽郡公に遷った。房遺愛と謀反し、嵐州刺史に貶せられ、自殺した。公主もまた死を賜わった。

原文柴紹,字嗣昌,晉州臨汾人。幼矯悍,有武力,以任俠聞。補隋太子千牛備身。高祖妻以平陽公主。將起兵,紹走間道迎謁。時太子建成、齊王元吉亦自河東往,遇諸塗。建成曰:「追書急,恐吏逮捕,請依劇賊,冀自全。」紹曰:「不可。賊知君唐公子,必執以為功,徒死爾。不如疾走太原。」既入雀鼠谷,聞義兵起,謂紹有謀,乃相賀。授右領軍大都督府長史,領彀騎,發晉陽。先抵霍邑城下,覘形勢。還白:「宋老生一夫敵,我兵到必出戰,可虜也。」大師至,老生果出,紹力戰有功。從下臨汾、絳郡,隋將桑顯和來戰,紹引軍繚其背,與史大奈合攻之。顯和敗,遂平京師。進右光祿大夫,封臨汾郡公。高祖即位,拜左翊衛大將軍,累從征討,以多,進封霍國公,遷右驍衛大將軍。吐谷渾、党項寇邊,敕紹討之,虜據高射紹軍,雨矢,士失色。紹安坐,遣人彈胡琵琶,使二女子舞。虜疑之,休射觀。紹伺其懈,以精騎從後掩擊,虜大潰,斬首五百級。貞觀二年,平梁師都,轉左衛大將軍。出為華州刺史,加鎮軍大將軍,徙譙國。既病,太宗親問之。卒,贈荊州都督,謚曰襄。二子:哲威、令武。哲威為右屯衛將軍,襲封。坐弟謀反,免死,流邵州。起為交州都督,卒。令武尚巴陵公主,遷太僕少卿、衛州刺史、襄陽郡公。與房遺愛謀反,貶嵐州刺史,自殺。公主亦賜死。

任瑰

原文任瑰

任瑰、字は瑋、廬州合淝の人。父は七寶、陳の将軍任忠の弟にして、陳の定遠太守となった。瑰は早く孤となり、任忠は撫で愛すること甚だしく、常に曰く、「我が子は多けれど、凡庸なる保身の徒のみ。門戸を寄する所以の者は、瑰なり」と。年十九、試みに霊溪県令を守る。衡州司馬に遷り、都督王勇は州務を尽く瑰に属せしむ。陳滅び、瑰は勇を勧めて嶺外に拠り、陳の後裔を立ててこれを輔けんとす。勇従わず、地を以て隋に降る。瑰は官を棄て去る。仁寿年中、韓城尉に調ぜられ、未だ幾ばくもせず罷む。高祖、汾・晋に於いて討捕す。瑰、轅門に上謁し、制を承けて河東県戸曹を署す。高祖の晋陽に至るや、隠太子を留めて之を托す。義師起こり、瑰は龍門に至りて請見す。高祖曰く、「隋その政を失い、四海群れ沸く。吾は外戚として重任に拠る。坐視してその亡ぶを忍びず。晋陽は天下武を用うる処、兵精馬強なり。今これを率い、将に国難を厭わんとす。公は将家の子、智算練達す。吾が此の挙の其れ済まんやを論ぜよ」と。瑰曰く、「今主政残酷にして、兵役止まず。天下の人、乱を拯い見んことを思い、之と息肩せんとす。公は天より神武を付され、順を杖りて起つ。軍令厳明にして、下す城邑、秋毫の犯すこと無し。関中に兵を起こす者は跂踵して待つ。義師を擁し、衆の欲を迎えんには、何ぞ済まざらんや。瑰、馮翊に在ること久しく、其の人情を悉くす。願わくは一介の使となり、関に入り威霊を宣布し、以て左輔を収めん。梁山より河を済い、直ちに韓城に趣き、郃陽を逼り、朝邑を徇わん。蕭造は文吏、勢い自ら下るべし。次に諸賊を招き、然る後鼓行して前に進み、永豊の積粟を拠らば、未だ京師を得ずと雖も、関中固より已に定まれり」と。高祖曰く、「是れ吾が心なり」と。乃ち銀青光禄大夫を授く。陳演寿・史大奈を遣わし歩騎六千を以て梁山に趣かしめ、瑰及び薛献を以て招慰大使と為す。高祖、演寿に謂いて曰く、「閫外の事は任瑰と之を籌らん」と。既にして賊孫華・白玄度等果たして降り、且つ舟を河に具して以て師を済さしむ。瑰行きて韓城を説き下し、諸将と進みて飲馬泉を撃ち、之を破る。左光禄大夫に拝し、永豊倉を留め戍る。高祖即位し、谷州刺史を授く。王世充数たび新安を攻む。瑰拒ぎて之を破る。功を以て管国公に封ぜらる。秦王東討し、瑰従いて邙山に至り、水運を主りて軍に餉る。関東平らぎ、河南安撫大使と為る。王世辯、徐州を以て瑰に降る。瑰、宋州に至る。会うに徐円朗反す。副使柳浚、退きて汴を保たんことを勧む。瑰笑いて曰く、「公何ぞ怯む。老将辺に居ること久しく、自ら計有るべし」と。俄かに賊楚丘を陥し、将に虞城を囲まんとす。瑰、崔枢・張公謹を遣わし鄢陵より諸州の豪の質子百余を領して之を守らしむ。浚曰く、「枢等は故に世充の将なり。且つ諸州の質子の父兄皆反す。奈何ぞ城を保たしむる」と。瑰答えず。枢至れば、則ち質子を分かち土人と隊を合わす。賊近づき、質子稍々叛く。枢即ち其の隊帥を斬る。城中の人懼れて曰く、「是れ皆賊の子弟なり。安んぞ与に守ることを得んや」と。枢因りて諸隊に質子を殺すことを聴す。首を梟して門外にす。瑰陽に怒りて曰く、「去る者は招慰に遣わす。何ぞ乃ち之を殺すや」と。退きて浚に謂いて曰く、「固より崔枢の之を弁ずるを知れり。県に賊の子を殺し、怨み已に大なり。人今自ら戦わんとす」と。円朗虞城を攻むるも、抜くこと能わず。賊平らぎ、徐州総管に遷り、仍りて大使と為る。輔公祏反す。詔して兵を以て揚子津より江を済い之を討たしむ。公祏平らぎ、邗州都督に拝し、陜州に遷る。瑰の弟璨、隠太子の典膳監と為る。太子廃せられ、璨罪を得、瑰亦左遷せられ通州都督と為る。貞観四年卒す。瑰歴職有功なり。然れども吏を補うこと多く親故人の私と為り、勢いに負いて賕請に至る。瑰知るも、甚だしく禁遏せず。世此を以て之を譏る。瑰卒す。時に有司、外に在りて対仗し白奏す。太宗怒りて曰く、「昔杜如晦亡びしとき、朕事すること能わざること数日あり。今瑰喪す。所司状を以て言わざるは、豈に朕が意ならんや。もし朕が子弟不幸にして死せば、当に此の奏あらんや」と。此より大臣の喪、遂に対仗して奏せずと云う。

原文任瑰,字瑋,廬州合淝人。父七寶,陳將忠之弟,為陳定遠太守。瑰早孤,忠撫愛甚,每曰:「吾子雖多,庸保耳。所以寄門戶者,瑰也!」年十九,試守靈溪令。遷衡州司馬,都督王勇盡以州務屬瑰。陳亡,瑰勸勇據嶺外,立陳後輔之。勇不從,以地降隋,瑰棄官去。仁壽中,調韓城尉,未幾,罷。高祖討捕於汾、晉,瑰上謁轅門,承制署河東縣戶曹。高祖之晉陽,留隱太子托之。義師起,瑰至龍門請見。高祖曰:「隋失其政,四海群沸,吾以外戚據重任,不忍坐觀其亡。晉陽,天下用武處,兵精馬強,今率之,將厭國難。公,將家子,智算練達,論吾此舉其濟乎?」瑰曰:「今主政殘酷,兵役不止,天下之人,思見拯亂,與之息肩。公天付神武,杖順而起,軍令嚴明,所下城邑,無秋豪之犯。關中起兵者跂踵而待。擁義師,迎眾欲,何不濟哉!瑰在馮翊久,悉其人情,願為一介使,入關宣布威靈,以收左輔。繇梁山濟河,直趣韓城,逼郃陽,徇朝邑。蕭造文吏,勢當自下。次招諸賊,然後鼓行而前,據永豐積粟,雖未得京師,關中固已定矣。」高祖曰:「是吾心也!」乃授銀青光祿大夫。遣陳演壽、史大奈步騎六千趣梁山,以瑰及薛獻為招慰大使。高祖謂演壽曰:「閫外事與任瑰籌之。」既而賊孫華、白玄度等果降,且具舟於河以濟師。瑰行說下韓城,與諸將進擊飲馬泉,破之。拜左光祿大夫,留戍永豐倉。高祖即位,授谷州刺史。王世充數攻新安,瑰拒破之。以功封管國公。秦王東討,瑰從至邙山,主水運餉軍。關東平,為河南安撫大使。王世辯以徐州降瑰,瑰至宋州,會徐圓朗反,副使柳浚勸退保汴,瑰笑曰:「公何怯?老將居邊久,自當有計。」俄而賊陷楚丘,將圍虞城,瑰遣崔樞、張公謹自鄢陵領諸州豪質子百餘守之。浚曰:「樞等故世充將,且諸州質子父兄皆反,奈何令保城?」瑰不答。樞至,則分質子與土人合隊,賊近,質子稍叛,樞即斬其隊帥。城中人懼曰:「是皆賊子弟,安可與守乎?」樞因聽諸隊殺質子,梟首門外。瑰陽怒曰:「去者遣招慰,何乃殺之?」退謂浚曰:「固知崔樞辦之。縣殺賊子,為怨已大,人今自為戰矣。」圓朗攻虞城,不能拔。賊平,遷徐州總管,仍為大使。輔公祏反,詔以兵自揚子津濟江討之。公祏平,拜邗州都督,遷陜州。瑰弟璨,為隱太子典膳監。太子廢,璨得罪,瑰亦左授通州都督。貞觀四年卒。瑰歷職有功,然補吏多為親故人私,至負勢賕請,瑰知,不甚禁遏,世以此譏之。瑰卒,時有司以在外對仗白奏,太宗怒曰:「昔杜如晦亡,朕不能事者數日。今瑰喪,所司不以狀言,豈朕意乎?有如朕子弟不幸死,當此奏邪!」自是大臣喪,遂不對仗奏云。

丘和

原文丘和

丘和、河南洛陽の人、後に家を郿に徙す。少しく気侠を重んじ、弓馬に閑ならひ、長じて乃ち節を折り自ら将たる。周に仕えて開府儀同三司。隋に入り右武衛将軍と為り、平城郡公に封ぜられ、資・梁・蒲の三州刺史を歴任し、寛恵を以て著名なり。漢王諒反す。卒をして婦人の衣を着せしめ、蒲州を襲取せしむ。和挺身して免れ、坐して民と為らしめらる。宇文述寵有り、和心を傾けて附納す。俄かに武陵公元冑の罪を発するを以て、復た代州刺史に拝ぜらる。煬帝北巡し、和饋献精腆なり。朔州に至り、刺史楊廓進むる所無し。帝悦ばず。述盛んに和の美を称す。帝用いて博陵太守と為し、詔して廓に就きて和を視て式と為さしむ。後に帝博陵を過ぐ。和上食加えて豊なり。愈よ喜ぶ。此より過ぐる所競いて珍侈を献ずること、和より発す。然れども和善く吏士を撫で、其の心を得たり。天水郡守に遷り、入りて左禦衛将軍と為る。大業末、海南吏の侵すを苦しみ、数たび怨み畔く。帝、和の蒞む所淳良と称せらるるを以て、而して黄門侍郎裴矩亦之を薦む。遂に交趾太守に拝し、撫接情を尽くし、荒憬之を安んず。煬帝崩ず。而して和未だ知らず。是に於いて鴻臚卿寧長真、郁林を挙げて蕭銑に附き、馮盎、珠崖・番禺を挙げて林士弘に附く。各使者を遣わし和を招く。和従わず。林邑西の諸国、数たび和に明珠・文犀・金宝を遺う。故に和の富は王者に埒ひとし。銑聞き、之を利し、長真を命じて南粤の蛮・俚を以て交趾を攻めしむ。和、長史高士廉を遣わし兵を率い之を撃ち走らしむ。郡為に石を樹て其の功を勒す。会うに隋の驍果江都より来る。乃ち隋の亡ぶるを審らかにす。和即ち款を陳べて国に帰らんとす。而して嶺嶠閉岨す。乃ち権に銑に附く。銑平らぎ、遂に帰るを得。詔して李道裕に即ち和に交州大総管を授けしめ、爵は譚国公。和、士廉を遣わし表を奉りて入朝を請う。詔して其の子師利之を迎えしむ。謁見に及び、高祖為に興り、臥内に引入れ、平生を語り、歓甚だし。九部楽を奏して之を饗し、左武候大将軍を除く。和時に已に老ゆ。稷州其の故郷なるを以て、令して刺史と為し以て自ら養わしむ。尋いで特進を除く。貞観十一年卒す。年八十六。贈りて荊州総管と為し、謚して襄と曰う。献陵に陪葬す。子十五人有り、多く大官に至る。而行恭知名たり。

原文丘和,河南洛陽人,後徙家郿。少重氣俠,閑弓馬,長乃折節自將。仕周開府儀同三司。入隋為右武衛將軍,封平城郡公,歷資、梁、蒲三州刺史,以寬惠著名。漢王諒反,使卒衣婦人衣,襲取蒲州,和挺身免,坐廢為民。宇文述有寵,和傾心附納。俄以發武陵公元胄罪,復拜代州刺史。煬帝北巡,和饋獻精腆,至朔州,而刺史楊廓無所進,帝不悅。述盛稱和美,帝用為博陵太守,詔廓就視和為式。後帝過博陵,和上食加豐,愈喜。由是所過競為珍侈獻,自和發也。然和善撫吏士,得其心。遷天水郡守,入為左禦衛將軍。大業末,海南苦吏侵,數怨畔。帝以和所蒞稱淳良,而黃門侍郎裴矩亦薦之,遂拜交址太過,撫接盡情,荒憬安之。煬帝崩,而和未知。於是鴻臚卿寧長真舉郁林附蕭銑,馮盎舉珠崖、番禺附林士弘,各遣使招和,不從。林邑西諸國,數遺和明珠、文犀、金寶,故和富埒王者。銑聞,利之,命長真以南粵蠻、俚攻交址,和遣長史高士廉率兵擊走之,郡為樹石勒其功。會隋驍果自江都來,乃審隋亡,和即陳款歸國,而嶺嶠閉岨,乃權附銑。銑平,遂得歸。詔李道裕即授和交州大總管,爵譚國公。和遣士廉奉表請入朝,詔其子師利迎之。及謁見,高祖為興,引入臥內,語平生,歡甚,奏九部樂饗之,除左武候大將軍。和時已老,以稷州其故鄉也,令為刺史以自養。尋除特進。貞觀十一年卒,年八十六,贈荊州總管,謚曰襄,陪葬獻陵。有子十五人,多至大官,而行恭為知名。

子行恭

原文(段落全体)子行恭

行恭は勇気があり、騎射を得意とした。

原文(段落全体)子行恭

史評

原文史評

賛して曰く、帝王の将に興らんとするや、その威霊気焰、物を動かし人を悟らしむるもの有り、故に士に一概有る者は、皆填然として躍りてこれに附き、榱椽梁柱の大室を成すが若く、又偃植を負うて、各おの施す所に安んじて遺材無きは、諸将の謂いか。然れども皆よく礼法を以て自ら完うす、賢なるかな。

原文贊曰:帝王之將興,其威靈氣焰有以動物悟人者,故士有一概,皆填然躍而附之,若榱椽梁柱以成大室,又負偃植,各安所施而無遺材,諸將之謂邪。然皆能禮法自完,賢矣哉!