劉弘基
薛挙を討ち、浅水原に戦い、八総管の軍皆没し、唯だ弘基一軍戦力あり、矢尽きて、賊に拘えられた。帝は臨難屈せざるを以て、その家を優しく護った。仁杲平らぎて、乃ち帰ることができ、官は初めの如くとした。劉武周が太原を犯すや、弘基は平陽に屯し、また賊に陥った。俄かに自ら抜けて帰り、左一総管を授けられた。秦王に従い柏壁に屯し、勁卒二千を以て隰州より西河に趨り、賊の帰路を躡う。賊鋭甚だしく、弘基は壁を堅くし勇を儲えた。宋金剛遁走するに及び、騎を率いてこれを介休に尾し、王と合撃し、大いにこれを破った。累ねて任国公に封ぜられた。劉黒闥を撃つに従い、還りて、井鉞將軍を除かれた。会に突厥辺境を患うや、歩騎一万を督して塞に備え、豳の北より東は子午嶺に拒ぎ、西は臨涇に抵り、障を築きて虜を遮った。
貞観初め、李孝常ら謀反し、これと交わるに坐し、名を除かれて民と為された。歳余りして、起用されて易州刺史となり、また封爵を復した。召されて衛尉卿を授けられ、夔国公に改封された。老いて骸骨を乞うに及び、輔国大將軍と為り、朔望に朝し、禄賜は職事と同じ。太宗遼東を征するや、召されて前軍大総管と為り、駐蹕山に戦い、功あり、累ねて封戸を加えて千百に至った。卒し、開府儀同三司、并州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、謚して襄と曰う。
初め、弘基病み、諸子に奴婢各十五人、田五頃を給し、親しい者に謂いて曰く、「賢ならば、固より多財を藉りず。即ち賢ならざれば、これを守りて以て飢凍を脱すべし」と。余は悉くこれを親党に散じた。子仁実、封を襲ぐ。
殷開山
殷開山、名は嶠、字をもって行わる。世江南に居す。祖不害、陳に仕えて司農卿と為る。陳亡び、京兆に徙り、鄠の人と為る。開山は書に渉り、尺牘を作るに工なり、隋の大谷長と為る。高祖兵を起こすや、召し補われて大將軍掾と為り、西河を攻むるに従う。渭北道元帥長史と為る。時に関輔の群盗力に驁り自ら張り、相君せず、開山に命じて招慰せしめ、皆下る。劉弘基と故城に屯し、衛文升の兵を破り、爵を陳郡公と賜い、丞相府掾に遷る。
吏部侍郎として秦王に従い薛挙を討つ。会に王疾甚だしく、営に臥し、軍を劉文静に委ね、誡めて曰く、「賊方に熾んにして、速戦を邀うれば利あり。公等争うことなかれ、糧尽きて衆枵うれば、乃ち図るべし」と。開山は事を立つるに鋭く、文静に説いて曰く、「王疾に属し、公克く済せざるを憂う、故に戦わんと欲せざるなり。今宜しく逗機して敵を制し、専ら賊を以て王に遺すことなかれ。請う兵を勒して以てこれを怖しめん」と。遂に折墌に戦い、挙の乗ずる所と為り、遂に大敗す。吏に下りて死に当たるも、詔してこれを貸し、名を除かれて民と為された。頃くして、仁杲を平らぐに従い、爵位を復し、兼ねて陜東道行臺兵部尚書、吏部に遷る。王世充を討つに従い、功を以て爵を進めて鄖国公と為る。
劉黒闥を征するに、道中病みて卒す。王哭すること慟く、詔して陜東道大行臺右僕射を贈り、謚して節と曰う。貞観十四年、淮安王神通・河間王孝恭・民部尚書劉政会と俱に高祖廟廷に配饗せしめられる。永徽中、司空を加贈される。
劉政会
劉政会は滑州胙の人である。隋の大業中、太原鷹揚府司馬と為り、兵を以て高祖の麾下に隷す。王威ら既に貳するや、秦王先んずる事を以てこれを除かんと欲し、政会を遣わして急変の書を為し、その反を告げしむ。時に募士既に集まる、乃ち威らを執りて囚え、然る後に挙兵す、政会の功なり。
大將軍府建つや、戸曹参軍と為り、丞相府掾に遷る。武徳初め、衛尉少卿を授けられ、太原に留守し、戎政を調輯し、遠近歓服す。会に劉武周并州を寇すや、晉陽の豪傑挙ってこれに応ず、政会は武周に擒にせられ、毎に密かに賊の形勢を表す。既に平らぎ、官爵を復し、光祿卿を歴任し、邢国公に封ぜられる。貞観初め、転じて洪州都督と為り、卒す。太宗手詔して曰く、「政会昔義挙に預かり、殊功あり、葬宜しく異等すべし」と。ここに於いて民部尚書を贈り、謚して襄と曰う。後に追って渝国に徙す。
子玄意爵を襲ぎ、南平公主に尚う。高宗時に汝州刺史と為る。次子奇、長寿中、天官侍郎と為り、張鷟・司馬锽を薦めて監察御史と為し、二人申屠瑒に因りて以て謝す。奇正色して曰く、「賢を挙ぐるは本より私無し、何ぞ謝を見ん」と。聞く者皆竦む。後酷吏に陥れられ、誅せられる。
七世の孫、崇望
七世の孫、崇望、字は希徒、進士に及第し、宣歙の王凝が転運巡官に辟召した。崔安潛が許及び劍南を帥いた時、崇望の昆弟四人が同じ幕府にあり、世間はこれを才ある者と認めた。安潛が吏部尚書として入朝すると、崇望はまた員外郎として南曹を主り、選事を清廉に処理した。僖宗が山南に幸した時、王重榮は宦官を怨み、職務に従おうとしなかった。時に使者を高く選び、即ち河中に赴いて諭し、自ら新たにするよう促すこととなり、崇望は諫議大夫として節を持ち往った。到着すると、君臣の大義を述べてこれを動かし、重榮は順服し、硃玫を誅殺して自ら効を請うた。使いから帰り、旨に適うと称され、翰林學士に抜擢された。昭宗が即位すると、中書侍郎・同中書門下平章事に進んだ。張浚が太原を討伐しようとした時、崇望は固く執り不可とし、浚は果たして敗れた。代わって門下侍郎となり、度支を判った。玉山都將の楊守信が反逆し、夜に兵を闕下に陳べた。帝は兵を延喜門に列ね、崇望に命じて度支庫を守らせた。夜明けに、含光門が未だ開かず、禁卒が左右に立ち並び、将に長安中を大いに掠めんとした。俄かに宰相来たるとの伝呼を聞き、門が開くと、崇望は馬を駐めて労い言うには、「上自ら将として中営におられ、公等は禁軍である。帝の前で賊を殺し功を取らずして、苟くも掠奪を欲し悪名を成さんとするか」と。兵士は皆唯々とした。長楽門に至ると、賊は兵の来るを見て、乃ち遁走し、軍中は皆「万歳」と叫んだ。この日、京師が乱れなかったのは、彼の力によるものであった。尚書左僕射に進んだ。硃全忠が徐・泗を取らんと謀り、表を上って大臣をもって時溥に代えることを請うた。乃ち崇望を武寧軍節度使に授けた。溥が命に拒んだため、崇望は還って太常卿となった。時に王珂と王珙が河中を争い、詔して崔胤を節度使とした。珂は李克用の婿である。太原の邸吏薛誌勤が言うには、「崔公が河中を鎮めるよりは、光徳の劉公の方が我が公(克用)に最も善しとする」と。光徳は、崇望の居る坊である。後に李茂貞・王行瑜が入朝して執政を誅殺した時、これに坐し、昭州司馬に貶された。行瑜が誅されると、克用がその冤を直し、召されて吏部尚書となった。時に王摶が吏部を以て政を輔けていたため、兵部に転じた。王建が東川を併せんと欲し、詔して崇望を劍南東川節度使・同中書門下平章事とした。未だ到着せず、建は既に王宗滌を留後としていたため、崇望は乃ち還って兵部尚書となった。卒し、司空を贈られた。
崇望の兄、崇龜
兄崇龜、字は子長。進士に擢でられ、累ねて華やかな要職に仕え、終に清海軍節度使となった。広州に大賈あり、倡女と夜に集まることを約したが、他の盗賊が女を殺し、刀を遺して去った。賈が倡家に入り、その血を踏んで乃ち気づき、艑に乗って逃亡した。吏は賈の跡を追って捕らえ劾し、女と約した状を得たが殺してはいなかった。崇龜が軍中で大いに饗宴を催し、宰人を悉く集め、日が入るまで至り、乃ち遣わした。密かに遺された刀を以て一つの雑刀と取り替えて置いた。翌朝、群宰が即ち庖から刀を取ると、一人去らず言うには、「これは我が刀にあらず」と。これを問うて、その主の名を得た。往って視ると、則ち逃亡していた。崇龜は他の囚人を取って殺し、賈であると声言して、市に陳べた。逃亡した宰人が帰り、捕らえ詰問して具に伏した。その精明は此の如しであった。姻戚や旧知が財を以て干渉しても、率ね答えず、ただ『荔支図』を写して与えた。然しながらその家を防ぎ検する能わず、既に没すると、珠翠羽を売る者があり、これにより名を損なった。
崇望の弟、崇魯
弟崇魯、字は郊文、亦た進士に及第し、士補闕・翰林學士に擢でられ、僖宗が山南に難を避けた時、嗣襄王煴の史館修撰となり、誅されずに済んだ。景福年中、水部郎中として制誥を知った。雅に崔昭緯と善しとした。帝が韋昭度・李磎を以て政を輔けさせると、昭緯は外に邠・岐の兵を倚りて援とし、以てその権を久しからしめようとした。ここにおいて天子は磎を厚く礼遇したので、昭緯は奪われることを懼れ、共に謀ってこれを沮んだ。磎の墨麻が出ると、崇魯は輒ち麻を掠めて大哭した。帝がこれを問うと、崇魯は言うには、「今人に乏しと雖も、豈に憸人を取って宰相とすべきや。磎は楊復恭・西門重遂に因って近職を得た者なり、奈何ぞ之を用いん。前日杜讓能の羞戮未だ刷さらず、尚ほ覆轍を蹈むを忍ぶか」と。磎は是により宰相となることを得なかった。磎も亦たその奸を劾奏し、因り自ら陳べて「山南の楊守亮に詆毀され、復恭と交私するを容れられず」と言い、又言うには、「崇望が宰相たりし時、親吏をして日夕左軍に謁せしめ、復恭と相親厚くせしむ。絁巾惨帯、禁門に入らず。崇魯は殿に向かって哭し、厭詛天詐、殆ど人の妖なり。且つ其の父は賄に坐して薬を飲み死す。崇魯は身をもって硃玫の史官たりし時、勸進表を作る。太原府に在りて西川に使いし時、田令孜を見て、階を没して趨り、制度を廃するは崇魯に始まる」と。その相罵り誹ることは、俚浅にして稽校し、譬えば市人の如し。崇龜は始めて麻を哭するを聞き、恚って食わず。曰く、「吾兄弟は未だ始めて声利を以て名を敗らず、今不幸にして乃ち是の児を生む」と。後に王行瑜・崔昭緯が相継いで誅され、崇魯は崖州司戸参軍に貶された。終に水部員外郎に至った。
許紹
許紹、字は嗣宗、安州安陸の人。父は法光、隋に在って楚州刺史となった。元皇帝が安州総管であった時、紹は時に児童であり、高祖と同学で、互いに愛し合った。大業末、夷陵通守に任じ、時に盗賊が起こるも、州境は独り完く保たれ、流人が自ら数十万を占め、倉を開いて賑給した。煬帝崩御の報が至ると、紹は人吏を率いて三日間臨み、以て所部を遥かに越王侗に属させた。後に王世充が簒立すると、遂に使者を遣わして黔安・武陵・澧陽を以て国に帰し、峽州刺史を授けられ、安陸郡公に封ぜられた。高祖は書を賜い平生の旧を道い、以て慰め納れた。
蕭銑の将董景珍が降ったので、命じて紹に兵を率いて応接させた。銑を破った功により、その子智仁を溫州刺史に擢でた。銑が楊道生を遣わして峽州を囲んだが、紹はこれを撃ち走らせた。銑の将陳普環が大艦を具えて江を溯り、開州の賊蕭阇提と巴・蜀を略さんとしたので、紹は智仁及び婿の張玄靖・掾の李弘節を遣わして西陵で追撃し、その兵を覆し、普環を禽え、戦艦を悉く獲た。江の南に安蜀城あり、地は夷陵に直し、荊門城は其の東に峙ち、皆険阻な処である。銑は兵を以て戍守したが、紹は智仁等を遣わして荊門を攻め、これを取った。制書を以て褒め称え、便宜を許された。紹の境は王世充及び銑に連なり、その下で賊に掠められた者は皆殺されたが、紹は敵を得ると、独り資を遣わして帰したので、二邦は義に感じ、殺掠を止めた。譙國公に進み、帛千段を賜った。
趙郡王孝恭等が銑に代わると、復た詔して兵を督し荊州を図らせた。時に病に会い、軍中に卒した。帝は流涕した。貞觀年中、荊州都督を贈られた。智仁は、初め勲功により封ぜられ孝昌縣公となり、紹の卒後、夷陵を継いで守り、終に涼州都督となった。次子は圉師。
圉師は器量と幹才を有し、芸文に広く通じ、進士第に擢でられた。累遷して給事中・黄門侍郎・同中書門下三品となった。龍朔年間、左相となった。高宗自ら詔を書いて遼東の諸将に賜り、許敬宗に謂って曰く、「圉師は書を愛する、これに見せよ」と。俄かに其の子が狩猟して人の田に入り、口論し、怒ってこれを射たが、圉師は隠して奏上せず、人に告発された。帝が譲って曰く、「宰相にして百姓に暴をなすは、威福を作すに非ずや」と。圉師は謝し、且つ言うには、「威福を作す者は、強兵と重鎮にして、天子の法を侮る者でございます。臣は文吏、何ぞ敢えて然らんや」と。帝曰く、「兵無きを恨むか」と。敬宗はこれにより弾劾して退け、遂に免官された。久しくして、虔州刺史となり、稍々遷って相州に至り、専ら寛をもって治め、州人は石を刻んでその美を頌した。部内に賄賂を受ける者あり、圉師は忍びてこれを推問せず、ただ『清白箴』を賜うのみであった。その人は自ら慚愧し、後に身を修め、更に廉士となった。戸部尚書に進んだ。卒し、幽州都督を贈られ、諡して簡と曰い、恭陵に陪葬された。紹は初め譙国公に封ぜられ、子の智仁が自ら封を受けたため、詔して孫の力士にこれを襲封させ、洛州長史に終わった。
子の欽寂
欽寂の弟、欽明
欽寂の弟、欽明は、軍功により左玉鈐衛将軍・安西大都護・塩山郡公に擢でられた。出でて涼州都督となった。嘗て軽騎で部内を巡察するに、会うこと突厥の默啜の兵が奄然として至り、捕らえられた。賊とともに皆霊州に至り、降伏を説くことを命ぜられた。欽明は城下に至り、呼んで曰く、「我は食に乏し、美しき醤はあるか?粱米はあるか?併せて墨一枝を乞う」と。時に賊の営は四面水に阻まれ、ただ一路のみ入るを得た。欽明は将を選び兵を簡び、夜を乗じて賊を襲わんと欲したのであるが、城中にその隠語を悟る者無く、遂に害された。兄弟ともに王事に死し、世はその忠を称えた。
程知節
柴紹
任瑰
任瑰、字は瑋、廬州合淝の人。父は七寶、陳の将軍任忠の弟にして、陳の定遠太守となった。瑰は早く孤となり、任忠は撫で愛すること甚だしく、常に曰く、「我が子は多けれど、凡庸なる保身の徒のみ。門戸を寄する所以の者は、瑰なり」と。年十九、試みに霊溪県令を守る。衡州司馬に遷り、都督王勇は州務を尽く瑰に属せしむ。陳滅び、瑰は勇を勧めて嶺外に拠り、陳の後裔を立ててこれを輔けんとす。勇従わず、地を以て隋に降る。瑰は官を棄て去る。仁寿年中、韓城尉に調ぜられ、未だ幾ばくもせず罷む。高祖、汾・晋に於いて討捕す。瑰、轅門に上謁し、制を承けて河東県戸曹を署す。高祖の晋陽に至るや、隠太子を留めて之を托す。義師起こり、瑰は龍門に至りて請見す。高祖曰く、「隋その政を失い、四海群れ沸く。吾は外戚として重任に拠る。坐視してその亡ぶを忍びず。晋陽は天下武を用うる処、兵精馬強なり。今これを率い、将に国難を厭わんとす。公は将家の子、智算練達す。吾が此の挙の其れ済まんやを論ぜよ」と。瑰曰く、「今主政残酷にして、兵役止まず。天下の人、乱を拯い見んことを思い、之と息肩せんとす。公は天より神武を付され、順を杖りて起つ。軍令厳明にして、下す城邑、秋毫の犯すこと無し。関中に兵を起こす者は跂踵して待つ。義師を擁し、衆の欲を迎えんには、何ぞ済まざらんや。瑰、馮翊に在ること久しく、其の人情を悉くす。願わくは一介の使となり、関に入り威霊を宣布し、以て左輔を収めん。梁山より河を済い、直ちに韓城に趣き、郃陽を逼り、朝邑を徇わん。蕭造は文吏、勢い自ら下るべし。次に諸賊を招き、然る後鼓行して前に進み、永豊の積粟を拠らば、未だ京師を得ずと雖も、関中固より已に定まれり」と。高祖曰く、「是れ吾が心なり」と。乃ち銀青光禄大夫を授く。陳演寿・史大奈を遣わし歩騎六千を以て梁山に趣かしめ、瑰及び薛献を以て招慰大使と為す。高祖、演寿に謂いて曰く、「閫外の事は任瑰と之を籌らん」と。既にして賊孫華・白玄度等果たして降り、且つ舟を河に具して以て師を済さしむ。瑰行きて韓城を説き下し、諸将と進みて飲馬泉を撃ち、之を破る。左光禄大夫に拝し、永豊倉を留め戍る。高祖即位し、谷州刺史を授く。王世充数たび新安を攻む。瑰拒ぎて之を破る。功を以て管国公に封ぜらる。秦王東討し、瑰従いて邙山に至り、水運を主りて軍に餉る。関東平らぎ、河南安撫大使と為る。王世辯、徐州を以て瑰に降る。瑰、宋州に至る。会うに徐円朗反す。副使柳浚、退きて汴を保たんことを勧む。瑰笑いて曰く、「公何ぞ怯む。老将辺に居ること久しく、自ら計有るべし」と。俄かに賊楚丘を陥し、将に虞城を囲まんとす。瑰、崔枢・張公謹を遣わし鄢陵より諸州の豪の質子百余を領して之を守らしむ。浚曰く、「枢等は故に世充の将なり。且つ諸州の質子の父兄皆反す。奈何ぞ城を保たしむる」と。瑰答えず。枢至れば、則ち質子を分かち土人と隊を合わす。賊近づき、質子稍々叛く。枢即ち其の隊帥を斬る。城中の人懼れて曰く、「是れ皆賊の子弟なり。安んぞ与に守ることを得んや」と。枢因りて諸隊に質子を殺すことを聴す。首を梟して門外にす。瑰陽に怒りて曰く、「去る者は招慰に遣わす。何ぞ乃ち之を殺すや」と。退きて浚に謂いて曰く、「固より崔枢の之を弁ずるを知れり。県に賊の子を殺し、怨み已に大なり。人今自ら戦わんとす」と。円朗虞城を攻むるも、抜くこと能わず。賊平らぎ、徐州総管に遷り、仍りて大使と為る。輔公祏反す。詔して兵を以て揚子津より江を済い之を討たしむ。公祏平らぎ、邗州都督に拝し、陜州に遷る。瑰の弟璨、隠太子の典膳監と為る。太子廃せられ、璨罪を得、瑰亦左遷せられ通州都督と為る。貞観四年卒す。瑰歴職有功なり。然れども吏を補うこと多く親故人の私と為り、勢いに負いて賕請に至る。瑰知るも、甚だしく禁遏せず。世此を以て之を譏る。瑰卒す。時に有司、外に在りて対仗し白奏す。太宗怒りて曰く、「昔杜如晦亡びしとき、朕事すること能わざること数日あり。今瑰喪す。所司状を以て言わざるは、豈に朕が意ならんや。もし朕が子弟不幸にして死せば、当に此の奏あらんや」と。此より大臣の喪、遂に対仗して奏せずと云う。
丘和
丘和、河南洛陽の人、後に家を郿に徙す。少しく気侠を重んじ、弓馬に閑ひ、長じて乃ち節を折り自ら将たる。周に仕えて開府儀同三司。隋に入り右武衛将軍と為り、平城郡公に封ぜられ、資・梁・蒲の三州刺史を歴任し、寛恵を以て著名なり。漢王諒反す。卒をして婦人の衣を着せしめ、蒲州を襲取せしむ。和挺身して免れ、坐して民と為らしめらる。宇文述寵有り、和心を傾けて附納す。俄かに武陵公元冑の罪を発するを以て、復た代州刺史に拝ぜらる。煬帝北巡し、和饋献精腆なり。朔州に至り、刺史楊廓進むる所無し。帝悦ばず。述盛んに和の美を称す。帝用いて博陵太守と為し、詔して廓に就きて和を視て式と為さしむ。後に帝博陵を過ぐ。和上食加えて豊なり。愈よ喜ぶ。此より過ぐる所競いて珍侈を献ずること、和より発す。然れども和善く吏士を撫で、其の心を得たり。天水郡守に遷り、入りて左禦衛将軍と為る。大業末、海南吏の侵すを苦しみ、数たび怨み畔く。帝、和の蒞む所淳良と称せらるるを以て、而して黄門侍郎裴矩亦之を薦む。遂に交趾太守に拝し、撫接情を尽くし、荒憬之を安んず。煬帝崩ず。而して和未だ知らず。是に於いて鴻臚卿寧長真、郁林を挙げて蕭銑に附き、馮盎、珠崖・番禺を挙げて林士弘に附く。各使者を遣わし和を招く。和従わず。林邑西の諸国、数たび和に明珠・文犀・金宝を遺う。故に和の富は王者に埒し。銑聞き、之を利し、長真を命じて南粤の蛮・俚を以て交趾を攻めしむ。和、長史高士廉を遣わし兵を率い之を撃ち走らしむ。郡為に石を樹て其の功を勒す。会うに隋の驍果江都より来る。乃ち隋の亡ぶるを審らかにす。和即ち款を陳べて国に帰らんとす。而して嶺嶠閉岨す。乃ち権に銑に附く。銑平らぎ、遂に帰るを得。詔して李道裕に即ち和に交州大総管を授けしめ、爵は譚国公。和、士廉を遣わし表を奉りて入朝を請う。詔して其の子師利之を迎えしむ。謁見に及び、高祖為に興り、臥内に引入れ、平生を語り、歓甚だし。九部楽を奏して之を饗し、左武候大将軍を除く。和時に已に老ゆ。稷州其の故郷なるを以て、令して刺史と為し以て自ら養わしむ。尋いで特進を除く。貞観十一年卒す。年八十六。贈りて荊州総管と為し、謚して襄と曰う。献陵に陪葬す。子十五人有り、多く大官に至る。而行恭知名たり。
子行恭
行恭は勇気があり、騎射を得意とした。
史評
賛して曰く、帝王の将に興らんとするや、その威霊気焰、物を動かし人を悟らしむるもの有り、故に士に一概有る者は、皆填然として躍りてこれに附き、榱椽梁柱の大室を成すが若く、又偃植を負うて、各おの施す所に安んじて遺材無きは、諸将の謂いか。然れども皆よく礼法を以て自ら完うす、賢なるかな。