新唐書

巻八十九 列傳第十四 屈突尉遲張秦唐段

屈突通

屈突通、その先祖は昌黎の徒何の人なるも、後に長安ちょうあんに家す。隋に仕えて虎賁郎将となる。文帝、隴西の牧簿を覆勘せしむるに、隠匿の馬二万匹を得たり。帝怒り、太僕卿慕容悉達及び監牧官史千五百人を収め、悉く殊死に処せんとす。通曰く、「人命は至重なり、死して復た生くることなし。陛下、至仁を以て四海を育む、豈に畜産の故を以て一日に千五百の士を戮するを容れんや」と。帝之を叱す。通進みて頓首して曰く、「臣願わくは身を戮に就け、以て衆の死を延べん」と。帝悟りて曰く、「朕明らかならず、乃ち是に至る。今当に悉達等を免し、爾が善言を旌すべし」と。遂に皆減死を以て論ず。左武衛将軍に擢でらる。官に蒞ること勁正にして、法を犯す者有らば、親と雖も回縦すること無し。其の弟蓋は長安令たりしも、亦方厳を以て顕る。時に語有りて曰く、「寧ろ三斗の艾を食らえども、屈突蓋を見ず。寧ろ三斗の葱を食らえども、屈突通に逢わず」と。

煬帝即位し、詔を持して漢王諒を召すを遣わす。先ず、文帝と諒と約す、若し璽書を以て召さば、敕字に点を加うるを験視し、又玉麟符と符合すれば、則ち道に就かんと。是に及びて、書に験無し。諒変を覚り、通を詰む。通占対して屈する無く、竟に長安に帰るを得たり。大業中、宇文述と共に楊玄感を破り、功を以て左ぎょう衛大将軍に遷る。秦・隴に盗起こり、関内討捕大使を授かる。安定の人劉迦論反し、衆十余万、雕陰に拠る。通、関中の兵を発して之を撃ち、安定に次ぐ。初め戦わず、軍中其の怯を意う。通陽に師を旋すと言いて、潜かに上郡に入る。賊之を覚らず、引きて南し、通を去ること七十里に舎し、兵を分かち地を徇う。通其の無備を候い、夜に精甲を簡びて之を襲い破り、迦論を斬り、並びに首級万余、上郡の南山に京観を築き、老弱数万口を虜う。後、隋の政益々乱れ、盗賊多く、士に闘志無く、諸将多く覆る。通は向く毎に必ず持重し、大いに克つと雖もせず、亦敗負せず。帝南幸し、長安を鎮守せしむ。

薛仁杲を平らぐに従う。時に賊の珍用山積す。諸将争いて之を得るも、通独り取る所無し。帝聞きて曰く、「清を以て国に奉ず。名定めて虚しからず」と。特だ金銀六百両・彩千段を賚う。陝東道行台左僕射を判じ、王世充を討つに従う。時に通の二子洛に在り。帝曰く、「今東略を以て公に属す。二子を如何」と。通曰く、「臣老いり。重任に当たるに足らず。然れども疇昔、陛下俘累を釈し、恩礼を加え、以て更生を蒙る。是の時、口と心に誓い、死を以て国に許す。今日の行、正に先駆すべし。二児の死は自ら其の分なり。終に私を以て義を害せじ」と。帝太息して曰く、「烈士節に徇う。吾今之を見る」と。竇建德賊を援け来たるに及び、秦王麾下の半を分かち以て通に属し、斉王と共に洛を囲ましむ。世充平らぐ。功を論じて第一と為し、陝東道大行台右僕射を拝し、東都を鎮す。数歳、召されて刑部尚書と為る。自ら文に習わざるを以て、固く辞し、工部に改む。建成の変、復た行台僕射を検校し、馳せて洛を鎮す。貞観初、行台廃さる。洛州都督ととくと為り、左光禄大夫に進む。卒す。年七十二。尚書左僕射を贈られ、謚して忠と曰う。後詔して太宗の廟廷に配饗す。永徽中、司空しくうを贈らる。

二子寿・詮。寿爵を襲ぐ。太宗洛に幸す。通の忠節を思い、故に詮を以て少子と為し果毅都尉を拝し、粟帛を賜いて其の家を恤い、瀛州刺史に終わる。詮の子仲翔、神龍中、復た瀛州を守る。

初め、桂州都督李弘節も亦清慎を以て顕る。既に歿し、其の家珠を売る。太宗、弘節実に貪りしを疑い、挙者を追坐せんと欲す。魏徴曰く、「陛下過てり。且つ今号して清白死して変ぜざる者は、屈突通・張道源なり。通の二子来り調るに、共に一馬に乗る。道源の子自ら存する能わず。其の清き者を審らかにして恤いを加えず、其の濁る者を疑いて挙したる者を罪すは、亦善を好むこと篤からず」と。帝曰く、「朕之を思わず」と。置いて問わず。故に通の清益々顕る云う。

尉遲恭

尉遲敬徳、名は恭、字を以て行わる。朔州善陽の人。隋の大業末、軍に従い高陽にあり、積閲して朝散大夫と為る。劉武周乱る。以て偏将と為す。宋金剛と南侵し、晋・澮等州を得、永安王孝基を襲い破り、獨孤懷恩等を執る。武徳二年、秦王柏壁に戦う。金剛敗れて突厥に奔る。敬徳余衆を合して介休を守る。王、任城王道宗・宇文士及を遣わして之を諭す。乃ち尋相と地を挙げて降る。右一府統軍に引き、王世充を撃つに従う。

やがて尋相が叛くと、諸将は敬徳もまた乱を起こすのではないかと疑い、彼を囚えた。行臺左僕射屈突通と尚書殷開山が言うには、「敬徳は勇猛果敢です。今これを捕らえ、猜疑の心が既に結ばれました。直ちに殺さなければ、後悔しても及ばないでしょう」。王は言った、「そうではない。敬徳が必ず叛くなら、どうして尋相の後に残るだろうか」。彼を釈放し、寝所に引見して言った、「丈夫たるもの、気概をもって互いに信じる。小さな嫌疑など胸に留めるに足らない。私は決して讒言によって良士を害することはない」。そこで金を賜い、言った、「もしどうしても去りたいなら、これを汝の資金とせよ」。この日、榆窠で狩りをしていると、ちょうど王世充が自ら数万の兵を率いて戦いを挑んできた。単雄信という者は、賊の驍将である。騎兵でまっすぐ王に向かってきた。敬徳は馬を躍らせて大声で叫び、横から刺し、雄信を墜落させた。そして王を翼護して脱出させ、兵を率いて戻って戦い、これを大いに破り、その将陳智略を生け捕りにし、排槊兵六千を捕獲した。王は振り返って言った、「先ほど人々は、公が必ず叛くと推測していたが、私だけは他意がないと保証した。どうしてこれほど早く報いてくれたのか」。金銀一篋を賜った。

竇建徳が板渚に営を張ると、王は李勣らに伏兵を命じ、自ら弓を携え、敬徳に槊を執らせて、その陣営を掠め、大声で挑戦した。建徳の兵が出てくると、少し引き下がり、数十人を殺したので、賊の兵はますます進んだ。伏兵が発動し、これを大破した。時に王世充の兄の子の琬が建徳のもとに使者としており、隋帝の厩舎の馬に乗り、鎧甲が華麗で整っており、軍中を出入りして衆に誇示していた。王が見て、「誰かこれを取れる者はいるか」と問うと、敬徳は高甑生・梁建方と三人で騎馬で馳せ往き、琬を生け捕りにし、その馬を引いて帰還することを請うた。賊は動こうとしなかった。劉黒闥討伐に従軍した時、賊は奇兵で李勣を襲撃した。王は兵を率いてその背後を掩おうとしたが、やがて賊の兵が四方から包囲した。敬徳は壮士を率いて賊陣に馳せ入り、王は陣が乱れた隙に脱出することができた。また徐円朗を破った。功により王府左二副護軍を授けられた。

隠太子(李建成)がかつて書を送って彼を招き、金の器一車を贈った。敬徳は辞して言った、「敬徳は幽賤の身より起こり、天下の喪乱に遭い、長く逆地に陷っていましたが、秦王が実に私を生かして下さいました。今まさに身をもって恩に殉じようとしています。今、殿下に対しては何の功もありません。どうして賜り物を受け取ることができましょうか。もし密かに許諾すれば、二心を抱くことになり、利に殉じて忠を棄てることになります。殿下もまたどうして私を用いられましょうか」。太子は怒ってやめた。敬徳はこのことを(秦王に)報告した。王は言った、「公の心は山嶽のごとし。たとえ金をますいっぱいに積まれようとも、どうしてそれを動かせようか。しかし、自らの安泰を計る策ではないだろう」。巣王(李元吉)は果たして壮士を遣わして彼を刺させようとした。敬徳は戸を開けて安らかに臥していた。賊が来たが、敢えて入ることができなかった。そこで(元吉は)高祖に讒言し、彼を殺そうとしたが、王が固く争ったので、免れることができた。

その後、隠太子と巣王の謀略が日に日に切迫した。敬徳と長孫無忌が入って申し上げた、「大王が先に決断されなければ、社稷が危うくなります」。王は言った、「私はただ同気の兄弟を(傷つけることを)忍びないのだ。彼らの発動を待ち、その後で大義をもって討つのはどうか」。敬徳は言った、「人情は死を恐れるものです。衆人が死をもって大王に奉じようとしているのは、これ天の授けるところです。天が与えるものを取らなければ、かえってその咎めを受けます。大王がもしお聞き入れにならなければ、ここから亡命することを請います。手を束ねて殺戮されることはできません」。無忌は言った、「王が敬徳の言に従わなければ、敬徳もまた王のものではなくなります。今、敗れます」。王は言った、「寡人の謀は、全く棄てるわけにはいかない。公らもさらに図ってくれ」。敬徳は言った、「事を処するに疑いがあれば智ではなく、難に臨んで決断しなければ勇ではない。王は今、自らどう計られようとしているのですか。勇士八百人がことごとく宮中に入り、弦を引き甲を着ています。まだ何を辞退されましょう」。後にまた侯君集らと共に懇ろに勧進し、計略はようやく定まった。時に房玄齢と杜如晦は外に斥けられており、召しても来なかった。王は怒って言った、「彼らは私に背くのか」。そこで佩いていた刀を解き、逆に敬徳に授けて言った、「もし従わなければ、その首を斬って来い」。敬徳はそこで往って玄齢らを諭し、共に参入して計議した。

隠太子が死ぬと、敬徳は騎兵七十を率いて玄武門に急行した。王の馬が逸走し、林の下に墜落した。元吉が弓を奪おうとして王を窮地に陥れた。敬徳が馳せつけて叱りつけると、元吉は逃げた。そこで(敬徳は)射てこれを殺した。宮府の兵が玄武門に屯し、戦いが収まらない。敬徳は二人の首級を持って示すと、ようやく去った。時に帝(高祖)は海池で舟を浮かべていた。王は敬徳に命じて侍衛に行かせた。(敬徳は)甲を解かずに行在所に急行した。帝は驚いて言った、「今日の乱は誰のためか。お前はどうして来たのか」。答えて言った、「秦王が太子・斉王が乱を起こしたため、兵を挙げてこれを誅しました。陛下が安らかでないことを恐れ、臣を遣わして宿衛させたのです」。帝の心は悦んだ。この時、南衙・北門の兵と府兵がまだ雑然と戦っており、敬徳は帝に手詔を請い、諸軍に秦王の節度に従うことを命じさせた。内外はようやく定まった。

王が皇太子となると、左衛率を授けられた。時に隠太子・巣王に連坐した者は百余家に上り、ことごとく没官されようとしていた。敬徳は言った、「悪を行った者は二人です。今既に誅されました。もしさらにその支党を窮めれば、安寧を取る道ではありません」。これによって広く原宥した。功績を論じて第一とし、絹一万匹を賜い、斉王府の金幣・什器をことごとく賜った。右武候大將軍に除され、吳國公に封ぜられ、実封千三百戸を賜った。

突厥が侵入すると、涇州道行軍總管を授けられた。虜が涇陽に至ると、軽騎で戦い、これを破った。敬徳が得た財物は、必ず士卒に分け与えた。しかし剛直で、大いに功績を以て自ら負うところとし、また朝廷で大臣の得失を質し、宰相と不和であった。出されて襄州都督となった。累遷して同州刺史となった。かつて慶善宮の宴に侍した時、自分より上位に座る者がいた。敬徳は言った、「お前は何の功があって、私の上に座るのか」。任城王李道宗が解きほぐして諭したが、敬徳は勃然として怒り、道宗の目を殴り、ほとんど失明させそうになった。太宗は快く思わず、宴を罷め、敬徳を召して責めて言った、「朕は漢の歴史を観て、かつて高祖の時の功臣に全き者が少ないことを怪しんだ。今、卿の行いを見ると、韓信かんしん・彭越が誅戮されたのは、高祖の過ちではないと知った。国の大事は、賞と罰のみである。みだりな恩寵はたびたび得られるものではない。自ら修めて慎むよう努めよ。後悔しても及ぶだろうか」。敬徳は頓首して謝した。後に鄂國公に改封され、鄜州・夏州の二州都督を歴任した。老いて邸に退き、開府儀同三司を授けられ、朔望の朝参のみ行った。

帝が高麗を討とうとすると、敬徳は上言した、「乗輿が遼東に至り、太子が定州に駐留すれば、両京は空虚となり、楊玄感の変のような事態が起こる恐れがあります。夷貊の小国に、万乗の尊を枉げるに足りません。将臣に委ね、時を以て摧滅されることを願います」。帝は聞き入れなかった。詔により本官のまま太常卿を行い、左一馬軍總管となった。軍が帰還すると、再び致仕した。顕慶三年に卒去。七十四歳。高宗は詔して、京官五品以上及び朝集使に命じて邸に赴き弔問させ、司徒しとへい州都督を冊贈し、諡して忠武といった。班剣・羽葆・鼓吹を給し、昭陵に陪葬させた。

敬徳の晩節は、賓客を謝絶して交わらなかった。観や池を整え、清商楽を奏で、自らの養生を大いに厚くした。また雲母粉を服餌し、方士の術によって延年を図った。その戦いぶりは、槊を避けるのが巧みで、しばしば単騎で賊陣に入り、たとえ群がって刺しても傷つけることができず、また賊の槊を奪い取って返し刺すことができた。斉王元吉が刃を外して彼と勝負させようとした。敬徳は王に刃をつけるよう請い、自分だけは刃を外したが、ついに(元吉は)当てることができなかった。帝がかつて問うた、「槊を奪うのと槊を避けるのと、どちらが難しいか」。答えて言った、「槊を奪う方が難しいです」。試しに斉王と勝負させると、しばらくして、王は三度槊を失い、大いに慚愧して服した。

張公謹

張公謹、字は弘慎、魏州繁水の人。王世充の下で洧州長史となり、刺史崔樞と共に城を挙げて天子(唐)に帰順した。檢校鄒州別駕を授けられ、累遷して右武候長史となったが、まだ知られていなかった。李勣と尉遅敬徳がたびたび秦王に啓上し、ようやく府に引き入れられた。王が隠太子・巣王の乱を討とうとした時、卜者に占わせた。公謹が外から来て、亀を地に投げつけて言った、「およそ卜は、猶を定め、嫌疑を決するためのものです。今、事に疑いがありません。どうして卜う必要がありましょうか。卜って不吉であれば、やめることができるでしょうか」。王は言った、「善い」。隠太子が死ぬと、その徒党が玄武門を攻撃し、勢いが非常に鋭かった。公謹はただ一人で関門を閉ざしてこれを防いだ。功により左武候將軍を授けられ、定遠郡公に封ぜられ、実封一千戸を賜った。

貞観の初め、代州都督となり、屯田を置いて糧食輸送の労を省く。しばしば時政の得失を言上し、太宗は多くこれを採用した。後に李靖に副えて突厥を経略し、取るべき状勢を条陳して帝に言うには、「頡利は欲を恣にし凶暴を逞しくし、善良を誅害し、小人に昵近す。これ主上に昏きこと、取るべき一なり。別部の同羅・仆骨・回紇・延陀の類は、皆自立して君長たり、反ぜいを図る。これ衆下に叛くこと、取るべき二なり。突利は疑われ、軽騎をもって免れ、拓設は出討すれども、衆敗れて余無く、欲谷は師を喪い、足を托する地無し。これ兵挫け将敗るること、取るべき三なり。北方霜旱あり、糧食乏絶す。取るべき四なり。頡利は突厥を疎んじ、諸胡を親しむ。胡の性は翻覆す。大軍これに臨めば、内必ず変を生ぜん。取るべき五なり。北に在る華人甚だ衆し。比来屯聚し、山険を保拠するを聞く。王師の出ずるに、応ずる者あらん。取るべき六なり。」帝はその謀りを然りとした。定襄を破り、頡利を敗るに及び、璽詔を以て慰労し、鄒国公に進封し、襄州都督に改め、恵政を以て聞こえた。官下に卒す。年四十九。帝将に出で次いでこれを哭せんとす。有司奏す、「日辰に在り、不可なり。」と。帝曰く、「君臣は猶お父子の如し。情内に感ず。何ぞ避くるところあらん。」遂にこれを哭す。詔して左驍衛大将軍を贈り、諡して襄と曰う。十三年、追って郯国公に改む。永徽年中、加えて荊州都督を贈る。

公謹の子、大素。

子の大素は、龍朔年中に、東台舎人を歴任し、国史を兼ねて修め、著書百余篇あり、終に懐州長史に至る。次子の大安は、上元年中に、同中書門下三品となる。章懐太子、劉訥言等と共に范曄の『漢書かんじょ』を註せしむ。太子廃せられし故に、普州刺史に貶せられ、終に横州司馬に至る。子の悱は、玄宗の時に仕えて集賢院判官となり、詔してその家の著す『魏書』・『説林』を以て院に入れ、欠闕を綴修せしむ。累擢して図書を知り、異書を括訪する使となり、国子司業に進み、累に坐して官を免ぜられる。

秦瓊。

秦瓊、字は叔宝、字を以て顕る。斉州歴城の人。初め隋の将来護児の帳内となり、母喪ありしに、護児、使者を遣わして襚弔せしむ。吏怪しみて曰く、「士卒の死喪、将軍未だ問うところ有らず。今独り叔宝を弔うは何ぞや。」と。護児曰く、「是の子は才にして武、志節完整なり。豈に久しく卑賤に処らんや。」と。

俄にして通守張須陀に従い賊の盧明月を下邳に撃つ。賊の衆十余万、須陀の統ぶる所は才に十の一、堅壁して敢えて進まず、糧尽きて引去らんと欲す。須陀曰く、「賊兵の却くを見れば、必ず悉く衆を挙げて我を追わん。鋭士を得てその営を襲わば、且つ利有らん。誰か吾が行かんとする者為らん。」と。衆対ふる者無し。惟だ叔宝と羅士信奮いて行く。乃ち勁兵千人を分かちて草莽の間に伏せしめ、須陀は営を委ねて遁れ、明月は悉く兵を以て追躡す。叔宝等馳せて賊の営を叩くも、門閉ざされて入るを得ず。乃ち楼に登り賊の旗幟を抜き、数十人を殺す。営中乱る。即ち関を斬って外兵を納れ、火を放ちて三十余屯を焚く。明月奔りて還る。須陀回りて撃ち、大いにこれを破る。又た孫宣雅と海曲に戦い、先登す。前後の功を以て建節尉に擢でられる。

須陀に従い李密を滎陽けいように撃つ。須陀死す。残兵を率いて裴仁基に附く。仁基密に降る。密、叔宝を得て大いに喜び、以て帳内驃騎と為し、これを厚く待つ。密、宇文化及と黎陽に戦い、矢に中り馬より堕ち、死に瀕す。追兵至るも、独り叔宝の捍衛するを得て免る。

後に王世充に帰す。龍驤大将軍に署せらる。程咬金と計りて曰く、「世充は詐り多く、数たび下と咒誓す。乃ち巫嫗なり。撥乱の主に非ず。」と。因って俱に西走せんことを約し、その馬を策って世充に謝して曰く、「自ら顧みて奉事する能わず。請う、此れより辞せん。」と。賊敢えて逼らず。ここに来りて降る。高祖、俾くに秦王府に事えしむ。王特に奨礼す。長春宮に鎮するに従い、馬軍総管に拝す。美良川に戦い、尉遅敬徳を破り、功多し。帝黄金の瓶を賜い、労して曰く、「卿は妻子を恤れずして来たりて我に帰し、且つ又功を立てたり。朕の肉食すべきあらば、当に割きて以て爾に啖わしめん。況んや子女玉帛をや。」と。尋いで秦王右三統軍を授け、宋金剛を介休に走らしめ、上柱国に拝す。世充・建徳・黒闥の三盗を討つに従い、未だ嘗て身先んじて鋒鏑に陣し、前に堅対無きに至らず。賜わる金帛を積むこと千万を以て計り、翼国公に進封せらる。毎に敵に驍将鋭士震耀出入して衆に誇る者有らば、秦王輒ち叔宝を命じて往きてこれを取らしむ。馬を躍らせ槍を挺てて万衆の中に刺すに、志す如からざる莫し。是を以て頗る自ら負う所あり。隠・巢を平ぐるに及び、功を以て左武衛大将軍に拝し、実封七百戸。

後稍々疾に移る。嘗て曰く、「吾れ少くして戎馬の間に長じ、二百余戦を歴し、数たび重創を受け、出血すること数斛に且つす。安んぞ病まざらんや。」と。卒す。徐州都督を贈られ、昭陵に陪葬す。太宗、詔して有司に石を琢ちて人馬と為し墓前に立てしめ、以て戦功を旌す。貞観十三年、胡国公に改封せらる。

後四年、詔して司徒・趙国公無忌、司空・河間王孝恭、司空・萊国公如晦、司空・太子太師・鄭国公徴、司空・梁国公玄齢、開府儀同三司・鄂国公敬徳、特進・衛国公靖、特進・宋国公瑀、輔国大将軍・褒国公志玄、輔国大将軍・夔国公弘基、尚書左僕射・蔣国公通、陝東道行台右僕射・鄖国公開山、荊州都督・譙国公紹、荊州都督・邳国公順徳、洛州都督・鄖国公亮、吏部尚書・陳国公君集、左驍衛大将軍・郯国公公謹、左領軍大将軍・盧国公知節、礼部尚書・永興郡公世南、戸部尚書・渝国公政会、戸部尚書・莒国公検、兵部尚書・英国公勣、并びに叔宝を、皆凌煙閣に図形す。高宗永徽六年、使者を遣わして名臣で凌煙閣に図形せられたる者凡そ七人を致祭す。徴・士廉・瑀・志玄・弘基・世南・叔宝は、皆終始著名なる者なり。

唐儉。

唐儉、字は茂約、并州晋陽の人。祖父の邕は、北斉の尚書左僕射。父の鑒は、隋の戎州刺史。高祖と善くし、嘗て軍衛を偕に典す。故に儉は雅に秦王と遊び、同じく太原に在り。儉は爽邁にして少しく繩檢無し。然れども親に事うるに孝を以て聞こゆ。隋の政漸く乱るるを見て、陰に秦王に説きて大計を建つ。高祖嘗て召してこれを訪う。儉曰く、「公は日角龍庭にして、姓図讖に協い、天下の望を系くこと久し。若し外に豪傑を嘯き、北に戎狄を招き、右に燕・趙を収め、河を済いて南し、以て秦・雍に拠らば、湯・武の業なり。」と。高祖曰く、「湯・武の事豈に幾からんや。然れども喪乱方に剡く、私当に存を図らん。公溺るる者を拯わんと欲せば、吾方に公が為にこれを思わん。」と。大将軍府開くに及び、記室参軍・渭北道元帥司馬を授けらる。京師を定むるに従い、相国府記室・晋昌郡公と為る。

武德の初め、内史舎人に進み、中書侍郎・散騎常侍さんきじょうじに遷る。呂崇茂が夏県に拠って反し、劉武周と連和す。詔して永安王孝基・獨孤懷恩・于筠に兵を率いて討伐せしめ、儉は使としてたまたま軍中に至る。たまたま孝基らが武周に虜とされ、儉もまた捕らえられる。初め、懷恩は蒲州に屯し、密かに部将元君實と謀反を図る。ともに賊中に在りしに会い、君實は密かに儉に語りて曰く、「獨孤尚書は将に兵を挙げて大事を図らんとす。猶豫して発せざるが故に、此れに及べり。所謂、断つべくして断たざれば乱れを受く、とはこれなり」と。しばらくして懷恩は脱して帰る。詔して復た蒲を守らしむ。君實曰く、「獨孤は難を抜けて帰り、再び河上を戍る。王者死せずしていずくんぞあらんや」と。儉は必ず乱れんことを恐れ、密かに劉世譲を遣わして帰らしめ、其の謀をあばかしめしむ。高祖が蒲津にいでますに会い、舟中流に及んで世譲至る。帝驚きて曰く、「に天ならずや」と。命じて舟を還らしめはしらしめ、反者を捕えしむ。懷恩は自殺し、余党は皆誅せらる。俄にして武周敗れ、突厥にのがれ入る。儉は府庫を封じ、兵甲をとどめて秦王を待つ。帝は儉が身幽辱せられながら朝廷を忘れざるを嘉し、詔して旧官に復し、なお并州道安撫大使と為し、便宜を以てすることを許す。ことごとく懷恩の資産を簿録して儉に賜う。かえって礼部尚書・天策府長史・検校黄門侍郎・莒国公と為る。仍遂州都督と為り、綿州六百戸を食む。

貞観の初め、突厥に使いして還る。太宗、儉に謂ひて曰く、「卿、頡利を取るべきやと観るか」と。対へて曰く、「国の威霊をふくみて、こいねがはくは成功有らん」と。四年、伝(駅伝)を馳せて往きて誘ひて帰款せしむ。頡利之を許す。兵懈弛す。李靖、りて襲ひて之を破る。儉は身を脱して還る。

歳余りして、民部尚書と為る。洛陽らくよう苑に狩りに従ふ。群豕むれいのしし林より突出す。帝、四発射して、すなはち四豕をたおす。一豕躍りてあぶみに及ぶ。儉、馬を投じて之とたたかふ。帝、剣を抜きて豕を断つ。顧みて笑ひて曰く、「天策長史、上将の賊を撃つを見ずや。何ぞ之を懼るること甚だしき」と。対へて曰く、「漢祖は馬上にて之を得、馬上にて之を治めず。陛下、神武四方を定め、豈に復た一獣に快心せんや」と。帝、ために狩りを罷む。詔して其の子善識に豫章公主をめあはせしむ。

悸事(つつしみて事へ)、賓客とともに酒をほしいままにして楽しましむ。小法に坐し、光禄大夫に貶せらる。永徽の初め、致仕し、特進を加へらる。顕慶の初め卒す。年七十八。開府儀同三司・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、謚して襄と曰ふ。少子観、河西令と為り、知名なり。孫従心、神龍中、其の子脩が太平公主の女を娶るを以て、累擢して殿中監と為る。脩は太常少卿、太平の党に坐して誅せらる。

儉の弟憲。憲は字を茂彜とす。隋に仕へて東宮左勲衛と為る。太子廃せられ、罷めて帰る。細行を治めず、馳獵を好み、亡命をかくし、交はる所皆博徒軽侠なり。高祖、太原を領するや、頗る親遇し、大議に参与せしむ。義師起り、正議大夫を授け、左右に置き、尤も信倚す。安富県公に封ぜらる。武德中、累進して雲麾将軍と為り、郡公を加へらる。貞観中、つひに金紫光禄大夫に至る。

儉の裔孫 次

裔孫次、字は文編。建中の初め、進士第に及第し、侍御史を歴任す。竇参、しばしば之を薦む。礼部員外郎に改む。参貶せられ、出でて開州刺史と為り、て十年遷らざる。韋臯、しょくを鎮むるや、表して副使と為す。徳宗、臯に諭して之を罷めしむ。次、身遠方に在り、久しく抑へられてべるを得ず。古の忠臣賢士、讒毀に罹り放たれ、身を殺すに至り、君且なお悟らざる者有りと以為ひ、因りて其事を采獲し、『弁謗略』三篇を為りて之を上る。帝益ますます怒りて曰く、「是れ乃ち古の昏主を以て我になぞらふるなり」と。夔州刺史に改む。憲宗立ち、召し還され、礼部郎中を授け、制誥を知り、終に中書舎人と為る。憲宗、つねに朋比して傾陷する者を悪む。嘗て『弁謗略』を覧て、之を善しとす。学士沈伝師に謂ひて曰く、「凡そ人君たる者、宜しく観省すべし。然れども次が編録未だ盡きず。卿、其の書を広むべし」と。伝師、乃ち令狐楚・杜元穎と論次し、周より起こり隋におはり、増して十篇と為し、更に号して『元和弁謗略』とす。

次子 扶

子扶、字は雲翔。仕へて屯田郎中を歴任す。大和五年、山南宣撫使と為る。内郷倉督鄧琬、度支の漕米七千斛を負ふ。吏之を償はしむ。其の父子より孫に至るまで凡そ二十八年をつなぎ、九人獄に死す。扶奏して之を申し釈せしむ。詔して塩鉄・度支の二使を切責し、天下の監院にてつみを償ふこと三年以上に系る者は、皆原ゆるす。中書舎人に進み、出でて福州観察使と為る。人を濫殺し、風績立たず。会卒す。奴婢財を争ふ。有司其の資を按ずるに十余万に至る。時議之を蚩薄あざけりけなす。

次子 持

扶の弟持、字は徳守。進士第に中る。大和中、渭南尉と為り、京兆府進士を試む。時に尹杜悰、親故を以て之に託せんと欲す。持輒すなはち趨りて階を降り伏す。悰語塞ふさがり、乃ち止む。累遷して工部郎中と為り、出でて容州刺史と為る。給事中に遷り、朔方・昭義節度使を歴任し、卒す。

持子 彦謙

子彦謙、字は茂業。さはに技芸に通じ、尤も詩をたくみす。才を負ひて屈する所無し。乾符の末、漢南に乱を避く。王重栄、河中を鎮むるや、幕府をし、累表して副と為し、晋・絳二州刺史を歴任す。重栄の軍乱し、彦謙は興元参軍事に貶せらる。節度使楊守亮、表して判官と為し、副使に遷り、終に閬・壁二州刺史に至る。

段志玄

段志玄は、齊州臨淄の人である。父の偃師は、隋に仕えて太原司法書佐となった。義師に従い、官は郢州刺史に至った。志玄は姿質が偉岸で、若い頃は無頼であり、しばしば法を犯した。大業の末、父に従って太原に客居し、その驍勇果敢さにより、諸悪の少年らは彼を畏れた。秦王に認められた。高祖が挙兵すると、千人を率いて従い、右領大都督府軍頭に任じられた。霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻め、先鋒として最も功があった。左光祿大夫を歴任した。劉文静に従って潼関で屈突通を防いだ。文静が桑顕和に襲撃され、軍は潰えんとした時、志玄は壮騎を率いて賊に馳せ、十余人を殺し、流れ矢に当たったが、痛みを忍んで言わず、突撃を自在に行い、賊衆は乱れ、軍はこれに乗じ、唐兵は再び奮い立った。通は敗走し、諸将と共に稠桑で追撃して捕らえ、その功績により、楽遊府車騎将軍に任じられた。王世充討伐に従い、深く敵中に入り、馬が躓き、賊に捕らえられた。二人の騎兵がその髻を挟んで持ち、洛水を渡らんとした時、志玄は忽然と跳び上がり、二人共に堕ちた。そこでその馬を奪って馳せ帰り、数百騎の追撃兵も敢えて近づかなかった。竇建徳を破り、東都を平定し、秦王府右二護軍に遷った。隠太子はかつて金帛で誘ったが、拒絶して受け取らなかった。秦王が即位すると、累遷して左驍衛大将軍となり、樊国公に封ぜられ、実封九百戸を賜った。詔により兵を率いて青海に至り、吐谷渾の牧馬を奪うが、逗留して免官された。間もなく復職した。文徳皇后の葬儀の時、宇文士及と共に兵を率いて章武門を衛した。太宗が夜に使者を二将軍の所に遣わすと、士及は戸を開けて使者を内に入れたが、志玄は拒んで言った、「軍門は夜に開かず。」使者が手詔を示すと、志玄は言った、「夜では判別できぬ。」と受け入れなかった。夜明け頃、帝は嘆じて言った、「真の将軍なり、周亜夫に何を加えんや!」褒国公に改封され、鎮軍大将軍を歴任した。貞観十六年に病むと、帝は臨視し、涙を流して顧みて言った、「卿の子に五品の官を与えん。」頓首して謝し、母弟に与えるよう請うた。そこで志感を左衛郎将に拝した。卒去すると、帝は慟哭した。輔国大将軍・揚州都督を追贈され、昭陵に陪葬され、諡して壮肅といった。三世孫に文昌がいる。

志玄の三世孫に文昌がいる。

文昌は、字を墨卿、また景初といい、代々荊州に客居した。疏爽にして義節を任じ、齷齪たる小行はしなかった。節度使裴胄は彼を礼遇した。胄は古今の礼要を採って書とし、しばしば文昌に質して疑いを判じさせた。後に剣南節度使韋臯に依り、臯は表して校書郎とした。宰相李吉甫はその才能を認め、登封尉・集賢校理に抜擢し、再遷して左補闕となった。憲宗はしばしば親しく用いようとしたが、韋貫之の奇詆が甚だしく、偃蹇して進むことができなかった。貫之が罷免されると、翰林学士に引き立てられ、中書舎人に遷り、遂に承旨となった。穆宗が即位すると、屡々思政殿に召し入れて顧問し、大抵夕方になって出た。間もなく中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。一年も経たぬうちに、自ら表して政務を返上した。剣南西川節度使・同平章事を授けられた。文昌は元より蜀の利病に詳しく、おおむね寛静を以て治め、時に威断を交え、常に任に居らずとも、群蛮は震服した。長慶二年、黔中の蛮が叛くと、観察使崔元略がこれを上聞した。文昌は一介の使者を遣わして開諭させると、蛮は即ち引き返した。彭濮蛮の大酋長蹉祿が来て、石を立て誓いを刻み、貢献を修めることを請うた。入朝して兵部尚書に遷った。文宗が立つと、御史大夫に拝され、鄒平郡公に進封された。間もなく検校尚書右僕射・平章事となり、淮南を節度した。太和四年、検校左僕射となり、転じて荊南を帥した。州に旱魃があれば、禬解すれば必ず雨が降り、或いは長雨が続いても、公が出遊すれば必ず晴れた。民は語って言った、「旱魃も苦しまず、禱れば雨降る。雨も愁いせず、公出ずれば晴れる。」と。南詔が南安を襲うと、帝は文昌が蛮夷の心を得ているとして、詔して檄を下し慰撫譴責させると、即日に解いて去った。再び西川を節度した。九年に卒去し、太尉を追贈された。文昌の先祖の墓は荊州にあり、歳時の享祠には必ず音楽歌舞を以て薦めた。礼を習う者はその非を譏った。若い頃は貧窮し、向かう所少なからず諧わなかったが、将相の位に居るに及んで、享用は奢侈にわたり、士人の議論は特に衰えた。

文昌の子に成式がいる。

子の成式は、字を柯古といい、蔭により推挙されて校書郎となった。博学強記で、多くの奇篇秘籍を知っていた。蜀において父に侍り、畋猟を以て自ら放逸した。文昌は吏を遣わしてその意を以て諫めさせた。翌日、雉や兎を幕府の者に遍く贈り、人に書を為さしめ、獲たものに因んで前世の故事を対句にしたが、再び用いる者はなく、衆は大いに驚いた。累遷して尚書郎に抜擢され、吉州刺史となり、終に太常少卿に至った。『酉陽書』数十篇を著した。子の安節は、乾寧年中に国子司業となった。楽律に善く、自ら曲を度することができたという。

贊して言う。屈突通は隋に節を尽くし、しかして唐の忠臣となった。何故か。ただその一心なるが故に、二君に事えて嫌われなかったのである。敬徳の来たりし時、太宗は赤心を以て彼に付し、桑蔭移らざる間に大功を立てた。君臣の相遇は、古人これを千載というが、まことに諒ならずや。機に投ずるの会は、間髪を容れず、公謹が龜を抵して決した所以である。