劉文靜
劉文靜、字は肇仁、自ら言うには系は彭城より出で、世々京兆武功に住す。父韶、隋に仕えて戦死し、上儀同三司を贈られる。文靜は死難の子として、儀同を襲ぐ。侗儻として器略有り。大業末、晉陽令となり、晉陽宮監裴寂と善し。寂、夜に邏堞の烽を傳ふるを見て、咤して曰く、「天下方に亂れんとす、吾將に安くにか舎からん」と。文靜笑ひて曰く、「君の言ふ如く、豪英の資とすべき所なり。吾二人の者は終に賤しきに甘んぜんや」と。
將に發せんとし、唐公從はざらんことを恐る。文靜、裴寂に因りて開説せんことを謀り、是に於て寂を介して以て王に交はり、遂に進議を得。突厥高君雅の兵を敗るに及び、唐公劾せらる。王、文靜・寂を遣はして共に説きて曰く、「公嫌疑の地に據り、勢全きを圖らず。今部將敗れ、方に罪を以て收めらる。事急なり、尚ほ計を爲さざるか。晉陽兵精馬強く、宮庫饒かに豐なり。大事舉ぐべし。今關中空虛、代王弱く、賢豪並び興り、未だ適歸有らず。願くは公兵を引いて西し、暴を誅し亂を除かん。乃ち單使の囚を受くべきや」と。唐公私に可とす、會ふ釋を得て止む。
王、文靜に教へて詔を偽らしむ、「太原・西河・雁門・馬邑の男子年二十より五十に至るまで悉く兵と爲し、期歲を盡くして涿郡に集まり以て遼を伐つ」と。繇是人心愁擾し、益々亂を思ふ。文靜、寂に謂ひて曰く、「公、先んずれば人を制し、後るれば人に制せらるるを聞かざるか。唐公の名圖讖に載り、天下に聞こゆ。尚ほ怗怗として禍を待つべきか」と。又寂を脅して曰く、「公監たり、宮人以て客に侍す。公死すとも何の憾みかあらん、奈何ぞ唐公を累せん」と。寂懼れ、乃ち起兵を勸む。秦王即ち文靜・長孫順德等に委ねて士を募り、聲を劉武周に討つ。文靜と寂、符敕を作り、宮監の庫物を發して軍興を佐く。會ふ王威・高君雅猜貳す。文靜と劉政會、急變の書を爲し、留守に詣りて二人の反を告ぐ。唐公の威・君雅と視事するを候ひ、文靜進みて曰く、「密牒有りて反者を言ふ」と。公、威等を目して牒を省せしむ。政會肯はざりて曰く、「告ぐる所は乃ち副留守なり、唯唐公の觀るを得」と。公驚きて曰く、「詎か是れ有らんや」と。讀み已り、威に語りて曰く、「人の公等を告ぐる、信なるか」と。君雅詬りて曰く、「反人我を殺さんと欲するのみ」と。文靜左右を叱して之を執らしむ。是に由りて兵を舉ぐ。
唐公乃ち大將軍府を開き、文靜を以て司馬と爲す。文靜、旗幟を改め、特興を彰すことを勸め、又突厥と連和することを請ふ。唐公之に從ふ。文靜を遣はして始畢可汗に使はしむ。始畢曰く、「唐公の兵何事を以て起るや」と。文靜曰く、「先帝冢嗣を廢して後主に授く、故に大亂す。唐公、國の近戚、王室の毀くるを懼れ、兵を起して當に立つべからざる者を黜く。願くは突厥と共に京師を定め、金幣・子女盡く以て可汗に歸せん」と。始畢大いに喜び、即ち二千騎を遣はして文靜に隨ひ至らしめ、又馬千匹を獻ず。公喜びて曰く、「君に非ざれば何を以て之を致さん」と。尋で屈突通を潼關に拒ぎ、其の將桑顯和と苦鬥し、死者數千。文靜、顯和の軍怠るを度り、奇兵を以て後より之を掩ひ、顯和敗績す。通の兵尚ほ數萬、引いて東せんと欲す。文靜將を命じて追ひ之を執らしめ、新安以西を徇れば、皆下る。大丞相府司馬に轉じ、光祿大夫・魯國公に進む。
唐公天子の位に踐み、納言に擢ず。時に貴臣を引いて共に榻すること多し。文靜諫めて曰く、「今率土臣ならざる莫し。而るに群下を延見し、言尚ほ名を稱す。帝坐嚴尊、屈して臣子と席を均しくす。此れ王導の所謂太陽萬物に俯して同ふる者なり」と。帝曰く、「我雖應天受命す、宿昔の好何ぞ可か忘れん。公其れ嫌ふこと無かれ」と。薛舉涇州に寇す。元帥府長史を以て司馬殷開山と出戰し、大敗し、奔りて京師に還る。坐して名を除かる。仁杲を討つに與り、之を平ぐ。復た爵邑し、民部尚書・陜東道行臺左僕射を授く。秦王に從ひ長春宮を鎮む。
裴寂
裴寂、字は玄真、蒲州桑泉の人。幼くして孤、兄之を鞠く。年十四、郡主簿を補ふ。長ずるに及び、容貌偉く、書傳に涉り知る。隋開皇中、左親衛に調ふ。家貧しく、徒歩京師に走る。華山祠を過ぎ、神に祈り自ら卜す。夜老人の謂ふ夢を見る、「君年四十を逾えて當に貴からん」と。
大業年間、齊州司戸參軍となり、侍御史、晉陽宮副監を歴任した。唐公(李淵)は元より彼と親しく、太原留守となると、契りは愈々密となり、酒宴は晝夜を通じて行われた。秦王(李世民)と劉文靜が大計を建てようとしていた時、公(李淵)に告げることを敢えず、寂が最も親しいのを以て、乃ち私銭数百万を共にして龍山令高斌廉に贈り、寂と博戯をさせ、敢えて勝たず、寂は多くを得て大いに喜び、日に日に親しくなった。太宗(李世民)が實情を告げると、承諾した。寂は嘗て宮人を以て唐公に侍らせたことがあり、事が發露して誅されることを恐れ、閑かに酒が酣になった時、乃ち秦王が兵を挙げようとする狀を白け、因って言うには、「今盜賊は天下に遍く、城門の外は即ち戰場である。小節に殉じても、猶死を免れない。若し義兵を挙げれば、禍を免れるのみならず、且つ大功を成すことが出來よう。」唐公はその計略を然りとした。兵が起ると、寂は宮女五百人、米九百萬斛、雜彩五萬段、鎧四十萬首を進獻した。
隋帝が禪位すると、公(李淵)は固く辭讓した。寂は符命を開陳して勸め、又太常に儀式を具え、日取りを撰ぶことを督めた。唐公が即位すると、曰く、「我をして此に至らしめた者は、公である。」尚書右僕射に拜し、服玩を賜うこと數えられず、詔して尚食に日々御膳を給せしめ、朝に臨む時は必ず引いて同坐せしめ、閤に入れば則ち臥內に延べ、言うこと從わざるなく、裴監と呼び、名を呼ばなかった。貴顯は當世を震わせた。
帝は巡幸する毎に、必ず留守を委ねた。麟州刺史韋雲起が寂の謀反を告げるも、按訊して狀なく、帝は謂って曰く、「朕が天下を有するは、公が推轂して成したのである。どうして二心があろうか。吏に訊問したのは、天下の人に公が反さないことを信じさせたいがためである。」詔して三貴妃に玉食寶器を齎らせてその家に宴し、一宿して去らせた。帝は嘗て從容として誇らしげに語って曰く、「前代の王者は多く微賤より興り、艱難を経て行陣して後に成功した。我が家は隴西の舊族、代々帝室と姻婭を結び、一たび呼びて義を倡えば、三月と經ずして天下を有した。公もまた華胄に復し、職宦光顯、劉季の亭長や蕭曹の刀筆吏に比べるべからず。我と公とは愧じるところなし。」四年、錢を改めて鑄させ、一爐を賜い自ら鑄ることを得た。又その女を聘して趙王元景の妃とした。左僕射に遷る。帝は含章殿に酒宴を設け、歡甚だしく、寂は頓首して曰く、「始め陛下が太原を發たれた時、天下已に定まれば、印綬を上ることを許されました。今四海妥安、願わくば骸骨を賜い田裏に歸らせて下さい。」帝は泣下して曰く、「未だならず。要は相與に老いんとす。公は宗臣たり、我は太上皇たり、晚歲を逍遙するも、亦善からずや。」九年、司空を冊拜し、尚書員外郎を遣わし日一人その第に直らせた。貞觀初め、太宗親しく郊祀し、寂と長孫無忌に金輅に昇ることを命じた。寂が辭すと、帝曰く、「公には佐命の勛あり、無忌は王室に力を宣べた。この二人でなくて誰が參乘できようか。」遂に同載して歸った。
初め、高祖が太原の首功を論じ、詔して尚書令秦王、尚書左僕射裴寂、納言劉文靜に二死を恕し、左驍衛大將軍長孫順德、右驍衛大將軍劉弘基、右屯衛大將軍竇琮、左翊衛大將軍柴紹、內史侍郎唐儉、吏部侍郎殷開山、鴻臚卿劉世龍、衛尉少卿劉政會、都水監趙文恪、庫部郎中武士彟、驃騎將軍張平高、李思行、李高遷、左屯衛府長史許世緒等十四人に一死を恕した。
武德九年十月、太宗は又功臣の封戶を定め、時に文靜は既に死んでいたので、寂より下って功の大小を差してこれを第し、總四十三人。寂は戸千五百、長孫無忌、王君廓、尉遲敬德、房玄齡、杜如晦は戸千三百、長孫順德、柴紹、羅藝、趙郡王孝恭は戸千二百、侯君集、張公謹、劉師立は戸千、李勣、劉弘基は戸九百、高士廉、宇文士及、秦叔寶、程知節は戸七百、安興貴、安修仁、唐儉、竇軌、屈突通、蕭瑀、封德彜、劉義節は戸六百、錢九隴、樊興、公孫武達、李孟嘗、段誌玄、龐卿惲、張亮、李藥師、杜淹、元仲文は戸四百、張長遜、張平高、李安遠、李子和、秦行師、馬三寶は戸三百。寂等三十人は既に傳に見える。趙文恪等十八人は功甚だ顯れず、然れども義に參附して始めの事に與かり、班班として當世に見える。今その名を次第し、總て左方に出だす。
趙文恪
李思行
李思行は趙州の人で、仇を避けて太原にいた。唐公(高祖)が挙兵せんとする時、長安の様子を探らせ、帰還すると機策を詳しく論じて大議を賛したため、左三統軍を授けられた。霍邑を破り、京師を平定するに従い、累進して嘉州刺史・楽安郡公に至った。卒すと、洪州都督を追贈され、襄と諡された。
李高遷
李高遷は岐州の人で、太原に客居し、唐公に召されて左右に侍した。高君雅らを捕らえる功があり、右三統軍として霍邑攻略、長安包囲に従い、力戦した。左武衛大将軍・江夏郡公・検校西麟州刺史に遷った。突厥が馬邑を寇すや、高満政が救援を請い、詔により高遷は兵を督して助守した。賊勢盛んなり、夜間に門を斬って逃走し、率いた兵は皆没し、除名の上辺境に流された。後に資州刺史を歴任し、卒すと、涼州都督を追贈された。
姜寶誼
姜寶誼は秦州上邽の人である。父の遠は、北周に仕えて秦州刺史・朝邑県公となった。寶誼は太学に遊学し書を学んだが、学業進まず、去って左翊衛となり、積労により鷹揚郎将に遷り、府兵を領して高祖に従い太原で盗賊を督した。挙兵すると左統軍を授かり、西河・霍邑を下し、功績多く、爵位は累進して永安県公となり、右武衛大将軍を歴任した。劉武周が黄子英に雀鼠谷をしばしば侵盗させたので、帝(高祖)は寶誼を遣わしてこれを撃たせた。賊は軽甲で挑発し、戦い交わるや三度遁れ、これを追撃すると、伏兵が発し、寶誼は賊に捕らえられたが、やがて逃亡して帰還した。裴寂とともに宋金剛を拒ぎ、汾州で戦うや、兵が合するに及び、寂は軍を棄てて走り、寶誼は再び捕らえられた。帝は聞いて涙を流し、「彼は烈士なり、必ずや賊に下らず、死せん」と言い、その家に物千段、米三百斛を賜った。果たして帰還を謀ったが、害せられた。将に死せんとする時、西に向かって大呼して「臣無状にして、陛下に負う」と言った。賊が平定されると、詔してその柩を迎え、左衛大将軍・幽州総管を追贈し、剛と諡した。子の協は字を寿といい、篆籀に長じた。燕然都護・夏州都督を歴任し、成紀県侯に封ぜられ、威と諡された。
許世緒
許世緒は并州の人である。隋の鷹揚府司馬であった。隋の将に亡ぶるを知り、唐公に請うて言うには、「天は徳を輔け、人は能ある者に与す。機に乗じて発せざれば、後必ず悔いを踏む。隋の政綱を失い、天下揺れ乱る。公の姓名は既に謡籙に著わる。今五郡の兵を攬り、四戦の衝に据う。苟も奇計無くんば、禍は踵を反さず。若し英俊を収取し、天下に倡なわば、帝王の業なり」と。公はこれを奇とし、親密に倚り頼んだ。兵が起こると、右一府司馬を授けられた。累進して蔡州刺史・真定郡公に至り、卒した。弟の洛仁もまた晋陽の挙兵に従い、功を録されて冠軍大将軍に至った。卒すと、代州都督を追贈され、勇と諡され、昭陵に陪葬された。
劉師立
劉師立は宋州虞城の人である。初め王世充に仕えて親将となり、洛陽平定の際、誅殺に当たるべきところを、秦王(太宗)はその才を壮とし、釈放して死を免じ、左親衛に引き立てた。建成の変に際し、師立は密議に参与し、後に尉遅敬徳・龐卿惲・李孟嘗ら九人とともに功を録され左衛率に拝された。左驍衛将軍・襄武郡公に遷り、絹五千匹を賜った。師立の姓が符讖に在り反逆を欲すとの告げがあった時、太宗は言う、「人言う卿が将に反すと、果たして然るか」と。師立は対えて言う、「臣は隋の官たりし時、六品に過ぎず、材駑下にして富貴を希う敢えず。今非常の会に遭い、将軍の位にあり、顧みるに既に極まれり、何ぞ敢えて反せん」と。帝は笑って言う、「朕は妄りなるを知るのみ」と。束帛を賜い、臥内に召し入れて慰勉した。羅藝が反すや、京師震駭し、詔して師立を検校右武候大将軍とし、兵を勒して非常に備えさせた。羅藝が平定されると、有司が党与を弾劾し、師立は彼と親善した罪により除名された。まもなく藩邸の旧臣であることを以て、検校岐州都督となった。上書して吐谷渾討伐を請うたが、返答無きうちに、即ち使者を遣わして間諭し、部落多く降附し、その地を開・橋の二州とした。また党項の酋長拓拔赤辞は先に吐谷渾に附き、険に倚りて自守していたが、これもまた説いて下らせ、詔して赤辞を西戎州都督とした。師立は母の喪のため解任されたが、岐州の人が上表して留任を請い、遂に喪に赴くを得なかった。時に河西の党項破醜氏は辺境を苦しめ、また新たに帰附した者を阻んでいたので、師立はこれを討った。軍未だ至らざるに、破醜は懼れて遁走し、師立はこれを窮追し、恤於真山に至って還った。また小莫門川で吐谷渾と戦い、これを破った。始州刺史に転じ、卒し、粛と諡された。
劉義節
銭九隴
銭九隴は字を永業といい、湖州長城の人である。父の文強は呉明徹の裨将となり、明徹とともに彭城で敗れた。隋に入り、罪により没官されて奴隷となり、故に九隴は唐公に仕えた。騎射に長け、常に左右に備えた。挙兵すると、功により金紫光禄大夫を授けられた。薛仁杲・劉武周との戦いに従い、累進して右武衛将軍に至った。洛陽平定に従い、皇太子建成を佐けて劉黒闥を魏州で討ち、力戦して賊を破り、功最も優れて郇国公に封ぜられ、本官のまま苑遊将軍となった。貞観初、眉州刺史となり、後に巢国公に改封された。卒すと、左武衛大将軍・潭州都督を追贈され、勇と諡され、献陵に陪葬された。
樊興
樊興は安州の人である。罪により奴隷となった。唐公(李淵)に従って長安を平定し、左監門将軍を授けられた。秦王(李世民)に従って数多く戦い、功績を積み、営国公に封ぜられ、たびたび黄金や雑物を賜った。後に事に坐して爵位を削られた。貞観六年、陵州の獠が反乱し、討伐を命ぜられ、左驍衛将軍となった。また李靖に従って吐谷渾を撃ち、赤水道行軍総管となった。後に軍期に遅れ、兵士が多く死に、武器を亡失したが、勲功により死刑を減ぜられた。後に左監門大将軍・襄城郡公となった。太宗が遼東を征したとき、樊興が忠実で謹直であることから、房玄齢の副として京師留守を務め、検校右武候将軍を兼ねた。卒すと、左武候大将軍・洪州都督を追贈され、献陵に陪葬された。
公孫武達
公孫武達は京兆櫟陽の人である。豪侠として称され、隋の驍果となった。兵乱が起こると、武達は長春宮に至り謁見した。秦王に従って劉武周を討ち、苦戦して功績多く、累進して秦府右三軍驘騎となり、清水県公に封ぜられた。貞観初め、粛州刺史となった。突厥の騎兵数千、輜重一万余が侵入し、南の吐谷渾に向かおうと謀った。武達は精兵二千人をもってこれと戦い、虜は少し退いたが、再び死力を尽くして戦い、張掖河に迫った。ひそかに上流で兵を渡らせ、虜が半ば渡り終えたとき、両岸から挟撃し、斬り溺れさせてほぼ全滅させた。璽書をもって労い、左監門将軍に遷った。塩州の突厥が叛くと、詔により武達は霊州へ急行し、賊に追い付いた。賊がちょうど河を渡ろうとしていたので、南岸に拠って陣を布き、武達がこれを撃ち、その帥の可邏抜扈を斬り、東萊郡公に進封された。終に右武衛大将軍となり、卒して荊州都督を追贈され、昭陵に陪葬され、諡して壮といった。
龐卿惲
龐卿惲は并州の人である。隠太子(李建成)討伐に従い功があり、右驍衛将軍・邾国公に拝された。卒し、追って濮国に改封された。子の同善は右金吾大将軍となった。同善の子の承宗は、開元初め、太子賓客に至った。
張長遜
張平高
張平高は綏州の人である。隋の鷹揚府校尉となり、太原を戍り、ついに謀議に預かった。唐公に従って京城を平定し、累次して左領軍将軍を授けられ、蕭国公に封ぜられた。貞観初め、丹州刺史となったが、事に坐し、右光禄大夫として邸宅に帰った。卒し、羅国を追封され、潭州都督を追贈された。
李安遠
李安遠は夏州の人である。父の徹は、隋の上柱国・雲州刺史であった。代々将家として、財力で雄をなした。安遠は若い頃は行いを慎まず、博徒と交わり、ついに破産に至った。晩年に至ってようやく節を改めて書を志し、士大夫に従い、もし己に勝る者があれば、必ず心を傾けてこれを交わした。城陽公の爵を襲いだ。王珪と最も親しく、王珪は王頗の罪に坐し、流罪に当たったが、安遠が取り計らって護り免れた。後に正平県令を補任された。兵が起こり、絳州を攻めたとき、安遠は通守の陳叔達とともに城を守って拒んだ。唐公はもとより安遠と親しく、絳州を抜くと、その家を撫慰し、引き連れて同食し、右翊衛統軍・正平県公を授けた。後に屈突通を破るに従い、上柱国・右武衛大将軍に進んだ。たびたび秦王に従って征討し、功を積み、累封して広徳郡公に至った。吐谷渾に使いし、安遠はこれと和を約し、吐谷渾は互市を請うたので、辺境の市場は利益を得た。隠太子が乱を起こそうとし、ひそかに誘って動かそうとしたが、安遠は節を守って二心なく、秦王はますます親しく重んじた。貞観初め、嘗て邏騎を統率して都下に命じ、盗賊を督させた。潞州都督・懐州刺史を歴任し、いずれも幹事の才をもって顕れたが、峻急で刻薄で恩が少なく、これにより名声を損なった。卒し、涼州都督を追贈され、諡して安といい、遂安郡公を追封された。
馬三寶
馬三寶は性質が機敏で狡猾であった。柴紹に仕え、家僮となった。柴紹が平陽公主を娶り、高祖が兵を起こすと、柴紹は間道より太原へ走った。三寶は公主を奉じて司竹園に逃れ、賊の何潘仁を説いて連和させた。潘仁が入謁し、百人の兵をもって主の護衛とした。三寶は自ら総管と称し、群盗を撫で接して、兵は数万に至った。唐公が河を渡ると、三寶に左光禄大夫を授けた。秦王が竹林宮に至ると、三宝は兵を率いて軍門に詣でて謁し、ついに従って京師を平定し、太子監門率に拝された。別に北山で叛胡の劉抜真を撃ち、これを破った。薛仁杲平定に従った。柴紹とともに岷州で吐谷渾を撃ち、先鋒として陣に陷り、名王を斬り、数千を俘虜し、功により新興県男に封ぜられた。後に高祖が司竹園に行幸し、顧みて言うには、「汝が兵を起こしたところか。衛青も大いに悪くはないな」と。貞観初め、左驍衛大将軍に拝され、爵を公に進められ、卒して諡して忠といった。
李孟嘗
李孟嘗は趙州の人なり。終に右威衛大將軍・漢東郡公に至る。
元仲文
元仲文は洛州の人なり。終に右監門將軍・河南縣公に至る。
秦行師
秦行師は并州の人なり。終に右監門將軍・清水郡公に至る。
賛に曰く、応龍の翔くるや、雲霧滃然として従ひ、震風薄怒し、萬空約せずして號す、物に自然として相動く有るのみ。二子の姿に踔越たる有るに非ざるを観るに、高祖の命を受くるに當り、赫然として世に利見するが故に、能く或は翼し或は従ひ、天の功を屍すと云ふ。文靜は數たび軍を履み陣を陷り、以て才を以て自ら進み、而して寂は専ら串昵を用ひて顯る。外なる者は乗じ易く、邇なる者は疏んじ難し、故に文靜は先づ躁望を被りて誅せられ、寂は後に訞言に坐して斥けらる、誠に夫の蕭何・曹參と異なること雲の如し。