新唐書

巻八十七 列傳第十二 蕭輔沈李梁

巻八十七 列傳第十二 蕭輔沈李梁

蕭銑

原文蕭銑

蕭銑は後梁の宣帝の曾孫である。祖父の巖は、開皇の初めに隋に叛いて陳に降り、陳が滅ぶと、文帝に誅殺された。銑は若い頃貧しく、書写の雇い仕事をし、母に孝行であった。煬帝は外戚として彼を抜擢し羅川県令とした。

原文蕭銑,後梁宣帝曾孫也。祖巖,開皇初叛隋降陳,陳亡,文帝誅之。銑少貧,傭書,事母孝。煬帝以外戚擢為羅川令。

大業十三年、岳州の校尉董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・萬瓚・徐德基・郭華、沔の人張繡らが隋に謀反しようとし、かつ景珍を主に推そうとした。景珍は言った、「私は元より微賤である。仮に名号を借りても、衆は満足しない。羅川県令は、かつての梁の末裔であり、寛仁で大度、武皇の遺風がある。かつ私は聞く、帝王の興起には必ず符命があると。隋の冠帯は皆『起梁』と号し、蕭氏の中興の兆しである。今これを推挙し、天に応じ人に順うとするのは、よろしくないか」。そこで人を遣わして銑に告げた。銑はただちに景珍に返書して言った、「我が先君はかつて隋に仕え、職貢を廃さなかったのに、かえって我が領土を貪り、我が宗廟を滅ぼした。このゆえに私は痛心疾首し、その恥をそそごうと念う。今、天がその衷を誘い、公らが心を降して、大いに梁の統緒を復興し、先帝に福を請おうとする。私はどうして士衆を糾合し励まして公に従わないことがあろうか」。ただちに数千の兵を募り、盗賊を追跡すると称して、景珍に応じようとした。

原文大業十三年,岳州校尉董景珍、雷世猛,旅帥鄭文秀、許玄徹、萬瓚、徐德基、郭華,沔人張繡等謀反隋,且推景珍為主,景珍曰:「吾素微,雖假名號,眾不厭。羅川令,故梁裔也,寬仁大度,有武皇遺風。且吾聞帝王之興,必有符命。隋冠帶悉號『起梁』,蕭氏中興象也。今推之,以應天順人,不亦可乎?」乃遣人告銑。銑即報景珍書曰:「我先君昔事隋,職貢無廢,乃貪我土宇,滅我宗祊,我是以痛心疾首,恫心疾首,思刷厥恥。傑今天誘乃衷,公等降心,將大復梁緒,僥福於先帝,吾敢不糾厲士眾以從公哉!」即募兵數千,揚言跡盜,將以應景珍。

たまたま潁川の賊沈柳生が県を寇した。銑は出戦して利あらず、配下に言った、「岳陽の豪傑が私を主に推そうとしている。今、天下は隋に叛いている。私がどうして節を守りただ一人で全うできようか。かつ我が先人はここに国を建てた。もしその請いに従って梁の皇統を復し、半紙の檄文をもって群盗を召し寄せれば、誰が従わないことがあろうか」。衆は喜んだ。そこで十月に梁公を称し、旗幟や服色はすべて旧に用いた。柳生は衆を率いて銑に帰し、車騎大将軍に任じられた。五日と経たぬうちに、遠近より争って付き従い、衆数万となり、そこで巴陵に向かった。景珍は徐德基・郭華に強勢の者百人を率いさせて迎謁させたが、先に柳生に会った。柳生は配下と謀って言った、「梁公が起こり、私が最も先に付き従い、勲功は第一である。今、岳陽の兵は多く位も多い。誰が私の下に立つことを肯んじようか。徳基を殺し、その者を人質とし、ただ梁主を擁して進むのがよい。そうすれば我が先んずる者はいない」。そこで徳基を殺し、中軍に赴いて銑に報告した。銑は驚いて言った、「今、乱を撥ねんとしているのに、急に自ら相屠るとは、私はお前らの主となることはできない」。歩いて軍門を出た。柳生は恐れ、地に伏して罪を請うた。銑は責めてこれを赦し、兵を陳べて進んだ。景珍は言った、「徳基は義を唱え誠を尽くしたのに、柳生が勝手にこれを殺した。誅殺しなければ、政を行うことができない。かつ凶賊と共に処すれば、必ず乱をなす」。銑はそこで柳生を斬った。ここにおいて城南に壇を築き、上帝に柴を焚き、自ら梁王と称した。異なる鳥が来たので、建元して鳳鳴とした。

原文會潁川賊沈柳生寇縣,銑出戰不利,謂其下曰:「岳陽豪傑將推我為主,今天下叛隋,吾能守節獨完哉?且吾先人國於此,若徇其請復梁祚,因以半紙檄召群盜,誰敢不從?」眾悅。乃以十月稱梁公,旗幟服色悉用其舊。柳生以眾歸銑,用為車騎大將軍。不五日,遠近爭附,眾數萬,乃趨巴陵。景珍遣徐德基、郭華率強姓百迎謁,而先見柳生。柳生與其下謀曰:「梁公起,我最先附,勛第一。今岳陽兵眾而位多,誰肯為我下?不如殺德基,質其人,獨挾梁主以進,則吾誰先?」因殺德基,詣中軍白銑。銑驚曰:「今欲撥亂,遽自相屠,我不能為若主矣!」步出軍門。柳生懼,伏地請罪。銑責宥之,陳兵而進。景珍曰:「德其倡義竭誠,柳生擅殺之,不誅,無以為政。且兇賊與共處,必為亂。」銑因斬柳生。於是築壇城南,柴上帝,自稱梁王。有異鳥至,建元為鳳鳴。

義寧二年、僭称せんしょうして皇帝となり、百官を置き、すべて梁の故事を用いた。従父の琮を追謚して孝靖帝とし、祖父の巖を河間忠烈王、父の璿を文憲王とした。景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、萬瓚を魯王に、張繡を齊王に、楊道生を宋王に封じた。隋の将張鎮州・王仁壽が銑を撃ったが、勝てず、隋が滅ぶと、寧長真らとともに嶺南の州県を率いて銑に降った。時に林士弘が江南を占拠していた。銑は将の蘇胡児を遣わして豫章を抜き、楊道生に南郡を取らせ、張繡に嶺表を平定させた。西は三峡より、南は交趾、北は漢水に至るまで、皆付属し、勝兵四十万を擁した。

原文義寧二年,僭稱皇帝,署百官,一用梁故事。追謚從父琮為孝靖帝,祖巖河間忠烈王,父璿文憲王。封景珍晉王,雷世猛秦王,鄭文秀楚王,許玄徹燕王,萬瓚魯王,張繡齊王,楊道生宋王。隋將張鎮州、王仁壽擊銑,不能克,及隋亡,乃與寧長真等率嶺南州縣降於銑。時林士弘據江南,銑遣將蘇胡兒拔豫章,使楊道生取南郡,張繡略定嶺表。西至三峽,南交趾,北距漢水,皆附屬,勝兵四十萬。

武徳元年、都を江陵に移し、園廟を復した。岑文本を引き立てて中書侍郎とし、機密を掌らせた。道生を遣わして峡州を攻めさせたが、刺史の許紹に撃破され、兵士の死は半数を超えた。

原文武德元年,徙都江陵,復園廟。引岑文本為中書侍郎,掌機密。遣道生攻峽州,刺史許紹擊破之,士死過半。

三年、高祖は詔して夔州総管趙郡王孝恭にこれを討たせ、通・開の二州を抜き、偽の東平王闍提を斬った。諸将は兵権を擅にして横暴であった。銑は次第に制御できなくなることを恐れ、そこで陽に休兵して農営することを議し、その権力を削ごうとした。大司馬董景珍の弟が将軍であり、これを怨み、乱を謀ったが、事が漏れて誅殺された。景珍は長沙を鎮守していた。銑は書を下してこれを赦し、江陵に召還しようとした。景珍は恐れ、使者を孝恭のもとに遣わし、地を挙げて降った。銑は張繡を遣わして景珍を攻めさせた。景珍は言った、「前年は彭越を醢にし、往年は韓信を殺した。ただ見えないのか。どうして攻め合うのか」。繡は答えず、これを包囲した。景珍は潰走し、麾下の者に殺された。銑は繡を尚書令に進めた。繡は功を恃み、また驕慢であった。銑はまたこれを誅した。銑の性格は外は寛大だが内は猜疑心が強く、己に勝る者を憎んだ。ここにおいて大臣や旧将は皆疑い隔てられ、多く叛き去り、銑はこれを禁じることができず、これによりますます弱体化した。

原文三年,高祖詔夔州總管趙郡王孝恭討之,拔通、開二州,斬偽東平王阇提。諸將擅兵橫恣,銑恐浸不制,乃陽議休兵營農,以黜其權。大司馬董景珍之弟為將軍,怨之,謀作亂,事泄,被誅。景珍方鎮長沙,銑下書赦之,召還江陵。景珍懼,遣使詣孝恭,舉地降。銑遣張繡攻景珍,景珍曰:「前年醢彭越,往年殺韓信,獨不見乎!奈何相攻?」繡不答,圍之。景珍潰而走,麾下殺之。銑進繡為尚書令。繡恃功,亦驕蹇,銑又誅之。銑性外寬內忌,疾勝己者,於是大臣舊將皆疑間,多叛去,銑不能禁,由此愈弱。

四年、詔して孝恭と李靖に巴蜀の兵を率いて流れに沿って下らせ、廬江王瑗は襄陽道より、黔州刺史田世康は辰州道より出て、兵を合わせて銑を図らせた。偽将の周法明が四州を以て降り、ただちに詔して黄州総管とし、夏口道に向かい、安州を攻めてこれを陥落させた。偽将の雷長潁が魯山を以て降った。銑はそこで将の文士弘を遣わして孝恭を拒がせ、清江口で戦ったが、孝恭がこれを大破し、闘艦千艘を獲、宜昌・當陽・枝江・松滋を抜き、偽の江州将蓋彦挙が城を以て降った。孝恭・靖は直ちにその都に迫った。

原文四年,詔孝恭與李靖率巴蜀兵順流下,廬江王瑗繇襄陽道,黔州刺史田世康出辰州道,會兵圖銑。偽將周法明以四州降,即詔為黃州總管,趨夏口道,攻安州,克之。偽將雷長潁以魯山降。銑乃遣將文士弘拒孝恭,戰清江口,孝恭大破之,獲鬥艦千艘,拔宜昌、當陽、枝江、松滋,偽江州將蓋彥舉以城降。孝恭、靖直逼其都。

初め、銑は兵を放ち、宿衛数千人だけを留めていた。急に追い集めようとしたが、江・嶺は回遠で、間に合わなかった。孝恭は長囲を布いてこれを守り、数日後、その水城を破り、楼船数千を取った。交州総管丘和・長史高士廉・司馬杜之松が靖のもとに赴いて降った。銑は救いが来ないと見極め、配下に言った、「天は梁を祐さないのか。窮してから降れば、必ず百姓を害する。今、城は未だ陥ちず、先に出て降れば、乱を免れることができる。諸君は何ぞ君無きことを患えようか」。そこで麾して命じ、城壁を守る者は皆慟哭した。太牢を以て廟に告げ、官属を率いて緦衰布幘さくで軍門に詣で、謝して言った、「死すべきは銑のみである。百姓は罪ではない。殺掠なきことを請う」。孝恭はこれを受け、京師に護送した。後数日、救兵が到着し、十余万に及んだ。銑の降伏を知り、そこで降伏を申し出た。銑が到着すると、高祖はこれを責めた。答えて言った、「隋がその鹿を失い、英雄が競って逐った。銑は天命がなく、故に陛下に禽にされた。田横が南面したごとく、どうして漢に背いたと言えようか」。帝はその屈しないことに怒り、詔して都市で斬らせた。年三十九。僭国してから滅ぶまで凡そ五年。

原文初,銑放兵,止留宿衛數千人,及倉卒追集,江、嶺回遠,未及赴。孝恭布長圍守之,數日,破其水城,取樓船數千。交州總管丘和、長史高士廉、司馬杜之松詣靖降。銑度救不至,謂其下曰:「天不祚梁乎?待窮而下,必害百姓。今城未拔,先出降,可免亂。諸人何患無君?」乃麾而令,守陴者皆慟。以太牢告於廟,率官屬緦衰布幘詣軍門,謝曰:「當死者銑爾,百姓非罪也,請無殺掠!」孝恭受之,護送京師。後數日,救兵至,且十余萬。知銑降,乃送款。銑至,高祖讓之,對曰:「隋失其鹿,英雄競逐。銑無天命,故為陛下禽,猶田橫南面,豈負漢哉?」帝怒其不屈,詔斬都市,年三十九。自僭國至滅凡五年。

賛に曰く、銑は故梁の子孫、文吏より起こり、東南を掩ってこれを有した。荊・楚は乱を好み、気俗がそうさせるのである。銑を見るに、武は足りずとも、文は余りあり、おおよそ仁義を盗み、世を欺き俗を乱す者は、聖人の必ず誅するところである。若し銑は力困り計尽き、下に対して好言をもって自ら釈明し、廷に虜とされながら、抗辞して屈せず、偽りの弁は容易に窮まり、ついに殊死しゅしに処せられた。高祖は聖なるかな。

原文贊曰:銑,故梁子孫,起文吏,掩東南而有之,荊、楚好亂,氣俗然也。觀銑武雖不足,文有余矣,大抵盜仁義,詭世亂俗者,聖人所必誅。若銑力困計殫,以好言自釋於下,系虜在廷,抗辭不屈,偽辯易窮,卒以殊死,高祖聖矣哉!

輔公祏

原文輔公祏

輔公祏は、齊州臨済の人である。隋の末に郷人の杜伏威とともに盗賊となり、転じて淮南を掠めた。伏威の兵は次第に盛んとなり、自ら総管を号し、公祏を長史とした。賊の李子通が江都を占拠した。伏威は公祏に精卒数千を率いて江を渡りこれを撃たせた。子通は拒戦し、その衆は十倍で、鋭気甚だしかった。公祏は甲士こうし千人を選び、長刀を操って前に居らせ、別に千人をこれに従わせ、令して言った、「退く者は斬る」。公祏は衆を率いて殿した。やがて子通が方陣をなして進んだ。長刀の千人皆決死の闘いをし、公祏は左右の翼を放ってこれを搏った。子通は大いに潰え、その衆数千を降した。伏威は既に使を遣わして国に帰した。武徳二年、詔して公祏を淮南道行臺尚書左仆射に授け、舒国公に封じた。

原文輔公祏,齊州臨濟人。隋季與鄉人杜伏威為盜,轉掠淮南。伏威兵浸盛,自號總管,以公祏為長史。賊李子通據江都,伏威使公祏以精卒數千度江擊之。子通拒戰,眾十倍,銳甚。公祏選甲士千人,操長刀居前,別以千人隨之,令曰:「卻者斬!」公祏以眾殿。俄而子通方陣而進,長刀千人皆決死鬥,公祏縱左右翼搏之,子通大潰,降其眾數千。伏威既遣使歸國,武德二年,詔授公祏淮南道行臺尚書左仆射,封舒國公。

初め、伏威は公祏と幼少より互いに愛し合い、また兄としてこれを事としたので、軍中では輔伯と呼び、尊礼はほぼ同等であった。伏威は次第にこれを忌むようになり、養子の闞棱を左将軍に、王雄誕を右将軍に任じ、公祏を仆射に推挙して、密かにその権柄を解いた。公祏は内心、怏怏として不平であり、旧知の左遊仙と偽って辟穀を学び、自らを晦ますこととした。

原文初,伏威與公祏少相愛,又兄事之,故軍中呼輔伯,尊禮略等。伏威稍忌之,乃署養子闞棱為左將軍,王雄誕為右將軍,推公祏為仆射,陰解其柄。公祏內怏怏不平,乃與故人左遊仙偽學辟谷以自晦。

六年、伏威が入朝するに当たり、公祏を留めて居守とし、また雄誕に兵を握らせてこれを副え、密かに誡めて言うには、「我が京に至りて職を失わざれば、公祏が変を為すを容れざるべし」と。後に左遊仙が公祏を説いて反逆を勧め、時に雄誕は病を以て家に臥せっていた。公祏はその兵を奪い、伏威が移書して挙事を命じたと偽って言った。八月、ついに僭位し、国号を宋と称し、即ち陳の故宮に都した。王雄誕を殺し、百官を署し、左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管とした。器械を増修し、廩食を転送し、将の徐紹宗を遣わして海州を侵し、陳正通に寿陽を寇掠させた。詔して越郡王孝恭をして九江に趨らせ、嶺南大使李靖をして宣城を下らせ、懐州総管黄君漢をして譙より出でさせ、斉州総管李世勣をして淮・泗よりこれを討たしめた。孝恭は蕪湖を取り、梁山の三鎮を下した。河南安撫大使任瑰は揚子城を抜き、偽将の龍龕を降し、ついに揚州を占拠した。公祏はまた将の馮恵亮・陳当世を遣わして博望山に屯し、陳正通・徐紹宗をして青州山に屯して防戦させたが、孝恭が諸将を率いてこれを破り、恵亮・正通は逃走した。李靖はこれを追躡すること百余里、衆は悉く潰え、正通らは五百騎を以て丹陽に奔った。公祏は懼れ、城を棄てて左遊仙のいる会稽に奔ろうとしたが、兵はなお数万あった。夜に毘陵に至り、従うことのできた者はわずか五百であった。偽将の呉騒・孫安がこれを捕らえようと謀り、公

原文六年,伏威入朝,留公祏居守,復令雄誕握兵副之,陰誡曰:「吾至京不失職,無容公祏為變。」後左遊仙說公祏反,會雄誕以疾臥家,公祏奪其兵,紿言伏威移書令舉事。八月,遂僭位,國稱宋,即陳故宮都之;殺王雄誕,署百官,以左遊仙為兵部尚書、東南道大使、越州總管;增修器械,轉廩食,遣將徐紹宗侵海州,陳正通寇壽陽。詔越郡王孝恭趨九江,嶺南大使李靖下宣城,懷州總管黃君漢出譙,齊州總管李世勣繇淮、泗討之。孝恭取蕪湖,下梁山三鎮。河南安撫大使任瑰拔揚子城,降偽將龍龕,遂據揚州。公祏復遣將馮惠亮、陳當世屯博望山,陳正通、徐紹宗屯青州山以拒戰,孝恭率諸將破之,惠亮、正通走,李靖躡追百餘里,眾悉潰,正通等以五百騎奔丹陽。公祏懼,棄城奔左遊仙於會稽,兵尚數萬。夜至毘陵,能從者裁五百。偽將吳騷、孫安謀執之,公

祏は妻子を棄てて関を斬って遁走し、腹心の士数十人と武康に至ったが、野人に捕らえられて丹陽に送られ、孝恭がこれを斬り、首を京師に伝えた。李子通を撃つこと、始め公祏が伏威を輔佐して江東を占拠して起ち、公祏の死に至るまで、凡そ十三年であった。

原文祏棄妻子斬關遁,與腹心士數十抵武康,野人執送丹陽,孝恭斬之,傳首京師擊李子通,始公祏佐伏威起據江東,距公祏死,凡十三年。

沈法興

原文沈法興

沈法興は、湖州武康の人である。父の恪は、陳の広州刺史であった。法興は隋の大業末年に呉興郡守となり、東陽の賊楼世幹がその郡を略したため、煬帝が太僕丞の元祐とともにこれを討つことを詔した。

原文沈法興,湖州武康人。父恪,陳廣州刺史。法興隋大業末為吳興郡守,東陽賊樓世幹略其郡,煬帝詔與太仆丞元祐討之。

義寧二年、江都に乱が起こると、法興は自ら世々南土に属し、姓を同じくする数千家があり、遠近が服従していると考え、祐の将の孫士漢・陳果仁とともに祐を捕らえ、名目上宇文化及を誅するとして、三月に東陽より発し、行くところで兵を収め、江都に趨り、余杭を下し、烏程に至る頃には、衆六万となった。毘陵通守の路道德がこれを拒んだが、法興は和を連ねることを約し、襲ってこれを殺し、その城を占拠した。ついに江表十余州を平定し、自ら江南道総管を称した。越王侗が立ったと聞くと、上書して大司馬・録尚書事・天門公を称し、制を承けて百官を置き、陳果仁を司徒とし、孫士漢を司空とし、蒋元超を尚書左仆射とし、殷芊を左丞とし、徐令言を右丞とし、劉子翼を選部侍郎とし、李百薬を掾とした。後に侗が廃されたと聞き、高祖武徳二年、梁王を称し、建元して延康とし、隋の官儀を改め、多く陳氏の故事を用いた。

原文義寧二年,江都亂,法興自以世南土,屬姓數千家,遠近向服,乃與祐將孫士漢、陳果仁執祐,名誅宇文化及,三月發東陽,行收兵,趨江都,下余杭,比至烏程,眾六萬。毘陵通守路道德拒之,法興約連和,因襲殺之,據其城,遂定江表十余州,自署江南道總管。聞越王侗立,乃上書稱大司馬、錄尚書事、天門公,承制置百官,以陳果仁為司徒,孫士漢司空,蔣元超尚書左仆射,殷芊左丞,徐令言右丞,劉子翼選部侍郎,李百藥為掾。後聞侗被廢,高祖武德二年,稱梁王,建元為延康,易隋官儀,頗用陳氏故事。

法興は自ら南方諸城は容易に平定できると考え、専ら威戮に事とし、下に細かな過ちあれば即ちこれを誅した。これにより将士は離反した。まもなく子の綸を遣わして陳棱を救い、李子通を撃たせたが、かえって敗北した。子通はその勢いに乗じて江を渡り、京口を破った。将の蒋元超をして庱亭で戦わせたが、大敗し、戦死した。法興は懼れ、城を棄てて左右数百人とともに呉郡の賊聞人遂安に投じた。遂安は将の葉孝弁を遣わしてこれを迎えさせた。法興は途中で後悔し、孝弁を殺して会稽に趨ろうとしたが、気づかれて懼れ、自ら江に沈んだ。義寧より起きて武徳に至るまで、凡そ三年で滅んだ。

原文法興自意南方諸城可跂而平,專事威戮,下有細過即誅之,繇是將士攜解。俄遣子綸救陳棱,擊李子通,反為所敗。子通乘鋒度江,破京口。使將蔣元超戰庱亭,大敗,死之。法興懼,棄城與左右數百投吳郡賊聞人遂安,遂安遣將葉孝辯迎之。法興中悔,將殺孝辯,趨會稽,為所覺,懼,自沈於江。起義寧至武德,凡三年滅。

李子通

原文李子通

李子通は、沂州承県の人である。若い頃は貧しく、漁猟を以て生計を立てた。郷里に居て、白髪の老人が荷物を背負っているのを見れば必ず代わり、家に余りあれば人に施し、また仇討ちを好んだ。

原文李子通,沂州承人。少貧,以漁獵為生。居其鄉,見班白負戴,必代之,家有余,則以赒人,而喜報仇。

隋の大業末年、長白山の賊左才相が自ら博山公と号すると、子通はこれに依り、武力をもってその間で雄となった。郷人で賊に陥った者がいれば、子通は特にこれを保護した。当時、群盗は暴虐残忍であったが、子通のみは仁愛であり、帰順する者が遂に多く、半年と経たずに、徒党一万人を有した。才相は畏忌し、子通は衆を率いて淮を渡り、杜伏威と合流した。隋の将来整に破られ、海陵に奔り、衆二万を得て、自ら将軍を称した。大業十一年、僭って楚王と号した。

原文隋大業末,長白山賊左才相自號博山公,子通依之,以武力雄其間。鄉人有陷賊者,子通專經護之。方是時,群盜暴忍,獨子通仁愛,歸者遂多,不半歲,有徒萬人。才相畏忌,子通乃引眾度淮,與杜伏威合。為隋將來整所破,奔海陵,得眾二萬,自稱將軍。大業十一年僭號楚王。

宇文化及が煬帝を殺し、右禦衛将軍陳棱を江都太守としたが、まもなく棱が降伏し、高祖が総管を授けてその郡を守らせた。子通が棱を攻め、棱は窮し、沈法興・杜伏威に援軍を乞うた。伏威は自ら将兵して清流に屯し、法興は子の綸を遣わして揚子に屯させた。間は数十里であった。子通の納言毛文深は、呉人を募り、偽って法興の兵として夜に伏威を襲わせることを請うた。二人は遂に交悪し、敢えて先に戦う者はいなかった。子通は力を尽くして江都を取ることができ、遂にこれを占拠した。棱は奔って免れた。子通は僭って皇帝の位に即き、国号を呉とし、建元して明政とした。斉の賊楽伯通は先に化及のために丹陽を守っていたが、即ち衆万余を以てこれに降り、子通はこれを尚書左仆射に用いた。また法興の兵を破り、遂に晋陵を取り、法興が署した掾の李百薬を内史侍郎とし、文檄を掌らせ、尚書左丞の殷芊を太常卿とし、礼楽を司らせた。これにより江南の士人の多くがこれに帰した。時に伏威が輔公祏に命じて丹陽を抜き、溧水に進んで屯させた。子通は戦いに敗れ、糧も尽きようとしていたため、江都を棄てて京口を保った。伏威はその地をことごとく得た。まもなく東に走って太湖に至り、散兵二万人を集めて再び勢いを張り、法興の呉郡を襲ってこれを破った。余杭を占拠し、東は会稽を挙げ、南は嶺に距り、西は宣城に抵り、北は太湖に至るまで、悉くこれを有した。

原文宇文化及殺煬帝,以右禦衛將軍陳棱為江都太守,已而棱降,高祖授以總管,即守其郡。子通攻棱,棱窮,乞師於沈法興、杜伏威。伏威自將屯清流,法興遣子綸屯揚子,間數十里。子通納言毛文深請募吳人詐為法興兵夜襲伏威,二人遂交惡,無敢先戰者。子通得悉力取江都,遂據之,棱奔而免。子通僭即皇帝位,國號吳,建元明政。齊賊樂伯通先為化及守丹陽,即以眾萬余降之,子通用為尚書左仆射。又敗法興兵,遂取晉陵,以法興所署掾李百藥為內史侍郎,典文檄,尚書左丞殷芊為太常卿,司禮樂,繇是江南士人多歸之。會伏威命輔公祏拔丹陽,進屯溧水,子通戰敗,糧且盡,棄江都,保京口,伏威盡得其地。俄東走太湖,裒散兵二萬人,復張,襲法興吳郡,破之。據余杭。東舉會稽,南距嶺,西抵宣城,北太湖,悉有之。

武徳四年、伏威は将の王雄誕を遣わして子通を討たせた。蘇州で戦い、敗北し、余杭に退いて守りを固めた。雄誕は進んで城に迫った。子通は窮し、遂に降伏した。伏威はこれを受け入れ、楽伯通とともに京師に送った。高祖はその罪を軽く見て、宅一区・田五頃を賜い、給与は甚だ厚かった。伏威が来朝した時、子通は伯通に語って言うには、「東南は未だ靖まらず、しかるに伏威来朝す。我が旧兵は多く江外にあり、これを収めれば、大功を建つべし」と。遂に共に逃亡した。藍田に至り、関吏に捕らえられ、共に誅殺された。子通らが僭って盛んであった時、また朱粲・林士弘・張善安も淮・楚の間に名号を窃かにしていた。

原文武德四年,伏威遣將王雄誕討子通。戰蘇州,敗績,退保余杭,雄誕進傅城。子通窮。乃降,伏威受之,並樂伯通送京師。高祖薄其罪,賜宅一區、田五頃,賚予頗厚。及伏威來朝,子通語伯通曰:「東南未靖,而伏威來。我故兵多在江外,若收之,可建大功。」遂皆亡。及藍田,為關吏所獲,並伏誅。方子通等僭盛時,復有硃粲、林士弘、張善安亦竊名號於淮、楚間。

朱粲

原文朱粲

朱粲は、亳州城父県の人である。初め県史であった。大業年中に軍に従い、賊長白山を討伐したが、亡命して盗賊となり、「可達寒賊」と号し、自ら迦楼羅王と称し、衆十万を有した。淮を渡って景陵・沔陽を屠り、転じて山南を剽掠し、至るところで残戮して生き残る者無くした。僭って楚帝と号し、建元して昌達とした。南陽を攻め落とした。

原文朱粲,亳州城父人。初為縣史。大業中從軍,伐賊長白山,亡命去為盜,號「可達寒賊」,自稱迦樓羅王,眾十萬。度淮屠景陵、沔陽,轉剽山南,所至殘戮無遺噍。僭號楚帝,建元為昌達。攻拔南陽。

義寧末年、山南撫慰使馬元規と冠軍で戦い、大敗したが、余衆を収めて再び振るい、二十万に至った。粲が攻克した州県では皆、蔵粟を発して食とし、遷徙は常なく、去れば輒ち倉庫を焼き、城郭を毀ち、稼穡に務めず、専ら劫掠を資とした。ここにおいて人は大いに飢え、死者は道に連なり、その軍もまた窮乏した。そこで小児を掠めて蒸して食った。その徒に戒めて言うには、「味の珍しきこと、人に加わるものあらんや。ただ他国に人あらば、我れ儲無きを憂うるなかれ」と。配下に命じて婦人孺児を略し分けて烹らせ、また諸城の細弱に税を課して糧を増やした。隋の著作佐郎陸従典・通事舎人顔湣楚が南陽に謫されていたが、粲は初めこれを賓客として招いたが、後に両家をことごとく食った。まもなく諸城は懼れ、皆逃散した。

原文義寧末,與山南撫慰使馬元規戰冠軍,大敗,收余眾,復振,至二十萬。粲所克州縣皆發藏粟以食,遷徙無常,去輒燔廥聚,毀城郭,不務稼穡,專以劫為資。於是人大餒,死者系路,其軍亦匱,乃掠小兒蒸食之。戒其徒曰:「味之珍寧有加人者?弟使佗國有人,我恤無儲哉!」勒所部略婦人孺兒分烹之,又稅諸城細弱以益糧。隋著作佐郎陸從典、通事舍人顏湣楚謫南陽,粲初引為賓客,後盡食兩家。俄而諸城懼,皆逃散。

顯州の首領楊士林・田瓚が兵を起こして朱粲を攻め、傍らの郡もこれに呼応し、淮源で戦い、朱粲は大敗し、残兵を率いて菊潭に奔り、使者を遣わして降伏を請うた。高祖は前御史大夫段確を仮の散騎常侍として派遣し、これを労った。段確は酔って、朱粲をからかって言うには、「君は人肉を膾にすることが多かったが、その味はどうか」と。朱粲は言うには、「酒を嗜む人を食うのは、ちょうど糟漬けの豚のようだ」と。段確は驚き、罵って言うには、「狂える賊め、朝廷に帰すれば一介の奴隷に過ぎぬ。また人を食うことができようか」と。朱粲は恐れ、座中で段確を捕らえ、従者数十人もろともに煮殺し、左右の者に振る舞った。そこで菊潭を屠り、王世充に奔り、龍驤大將軍に任じられた。東都が平定されると、洛水のほとりで斬られた。士民は競って瓦礫を投げてその屍を打ち、たちまち塚のようになった。

原文顯州首領楊士林、田瓚起兵攻粲,旁郡響赴,戰淮源,粲大敗,挈殘士奔菊潭,遣使乞降。高祖以前御史大夫段確假散騎常侍勞之。確醉,戲粲曰:「君膾人多矣,若為味?」粲曰:「啖嗜酒人,正似糟豚。」確悸,罵曰:「狂賊,歸朝乃一奴耳,復得噬人乎?」粲懼,收確於坐,並從者數十悉饔之,以饗左右。遂屠菊潭,奔王世充,署龍驤大將軍。東都平,斬洛水上。士庶競擲瓦礫擊其屍,須臾若冢。

林士弘

原文林士弘

林士弘は、饒州鄱陽の人である。隋の末年に同郷の操師乞とともに起ち上がり盗賊となった。師乞は自ら元興王と号し、元号を天成と建て、大業十二年に豫章を占拠し、士弘を大將軍とした。隋は治書侍御史劉子翊を派遣して賊を討たせたが、子翊は師乞を射殺した。しかし士弘はその兵を収め、彭蠡で再び戦い、子翊は敗れて死んだ。そこで大いに勢いを振るい、兵十余万を擁し、虔州を占拠し、自ら南越王と号した。まもなく僭称して楚の皇帝と称し、元号を太平と建てた。侍御史鄭大節が九江郡を以てこれに下った。士弘はその与党の王戎を司空に任じた。臨川・廬陵・南康・宜春の豪傑たちは皆、隋の守令を殺してこれに附き、北は九江の果てから、南は番禺に至るまで、ことごとくこれを有した。後に蕭銑が水軍をもって豫章を破ると、士弘は南昌・虔・循・潮の地のみを有するに至った。蕭銑が敗れると、その逃亡兵が次第に帰参し、再び勢いを盛り返した。趙郡王李孝恭が招撫すると、循・潮の二州は降った。

原文林士弘,饒州鄱陽人。隋季與鄉人操師乞起為盜。師乞自號元興王,建元天成,大業十二年據豫章,以士弘為大將軍。隋遣治書侍御史劉子翊討賊,射殺師乞,而士弘收其眾,復戰彭蠡,子翊敗,死之。遂大振,眾十余萬,據虔州,自號南越王。俄僭號楚:稱皇帝,建元為太平。侍御史鄭大節以九江郡下之。士弘任其黨王戎為司空。臨川、廬陵、南康、宜春豪傑皆殺隋守令以附,北盡九江,南番禺,悉有之。後蕭銑以舟師破豫章,士弘獨有南昌、虔、循、潮之地。銑敗,其亡卒稍歸之,復振。趙郡王孝恭招慰,降循、潮二州。

武徳五年、士弘の弟である鄱陽王林薬師が兵二万を以て循州を包囲したが、総管楊世略がこれを破り斬った。士弘は降伏を請うた。王戎もまた南昌の地を献じ、詔して王戎を南昌州総管とした。士弘は再び逃れて保安城山に拠り、敗残の兵を誘い、再び乱を謀ったが、袁州の人々が集まってこれに応じようとしたのを、張善安が察知し、兵を率いて討伐に赴いた。ちょうど士弘が死んだので、その与党は解散した。

原文武德五年,士弘弟鄱陽王藥師以兵二萬圍循州,總管楊世略破斬之,士弘請降。王戎亦獻南昌地,詔戎為南昌州總管。士弘復遁保安城山,誘潰亡,謀復亂,袁人相聚應之,為張善安所察,以兵赴討。會士弘死,其黨乃解。

張善安

原文張善安

張善安は、兗州方与の人である。十七歳の時、逃亡して盗賊となり、転じて淮南を掠めた。ちょうど孟讓が敗れた際、その散兵八百を得て、廬江郡を襲撃し陥落させた。林士弘に依ったが、信用されず、これを恨み、逆に士弘を襲い、その外城を焼き、去って南康に拠った。蕭銑が豫章を取ると、将の蘇胡児を派遣してこれを守らせたが、善安はその地を奪い、これを拠って帰順し、洪州総管に任じられた。

原文張善安,兗州方與人。年十七,亡命為盜,轉掠淮南。會孟讓敗,得其散卒八百,襲破廬江郡。依林士弘,不見信,憾之,反襲士弘,焚其郛,去保南康。蕭銑取豫章,遣將蘇胡兒守之,善安奪其地,據以歸國,授洪州總管。

武徳六年に反逆し、輔公祏は彼を西南道大行臺とした。善安は孫州を掠め、総管王戎を捕らえ、黄州総管周法明を襲撃して殺した。ちょうど李大亮の兵が到着し、禍福を説き聞かせると、答えて言うには、「善安は初めから反逆したのではなく、部下に誤らされたのである。降伏するのは今や容易だが、罪を免れぬことを恐れる。どうしたらよいか」と。大亮は言うには、「総管が降伏を決めるなら、私は決して疑わない」と。そこで単身でその陣中に入り、善安と握手して語ると、善安は大いに喜び、数十騎を率いて大亮の陣営に赴いた。大亮は彼を引き入れ、壮士に命じて捕らえさせた。騎兵たちは皆驚き、引き去り、全軍で攻めて来た。大亮は善安が自ら帰順したことを告げ、戦う必要はないと諭した。その与党は罵って言うには、「総管が我らを売った」と。そこで潰走した。善安を京師に送ると、公祏と謀らなかったと称したので、高祖はこれを赦した。公祏が破れた後、彼との往復書簡が発見され、ついに誅殺された。

原文武德六年反,輔公祏以為西南道大行臺。善安掠孫州,執總管王戎,襲殺黃州總管周法明。會李大亮兵至,為開曉禍福,答曰:「善安初不反,為部下詿誤。降,今易耳,恐不免,奈何?」大亮曰:「總管定降,吾固不疑。」因獨入其陣,與善安握手語,乃大喜,將數十騎詣大亮營。大亮引入,命壯士執之。騎皆驚,引去,悉兵來戰。大亮諭以善安自歸,無庸鬥。其黨罵曰:「總管賣我!」遂潰。送善安京師,稱不與公祏謀,高祖赦之。公祏破,得其書,遂伏誅。

梁師都

原文梁師都

梁師都は、夏州朔方の人である。郡の豪族の姓であった。隋に仕えて鷹揚府郎将となった。大業末年、免職されて帰郷し、徒党を結んで盗賊となり、郡丞唐世宗を殺し、郡を占拠して大丞相と称し、突厥とっけつと連合した。隋の将張世隆と戦い、これを破り、そこで雕陰・弘化・延安を平定した。自ら梁国とし、皇帝位を僭称し、城南で天を祭り、地を掘って玉を埋め印を得たのを瑞祥とし、元号を永隆と建てた。始畢可汗は狼頭纛を贈り、大度毘伽可汗・解事天子と号し、そこで突厥兵を導いて河南の地に駐屯させ、塩川郡を陥落させた。

原文梁師都,夏州朔方人。為郡豪姓。仕隋鷹揚府郎將。大業末罷歸,結徒起為盜,殺郡丞唐世宗,據郡稱大丞相,聯兵突厥。與隋將張世隆戰,敗之,因略定雕陰、弘化、延安。自為梁國,僭皇帝位,祭天於城南,坎地瘞玉得印,以為瑞,建元永隆。始畢可汗遺以狼頭纛,號大度毘伽可汗、解事天子,遂導突厥兵居河南地,拔鹽川郡。

武徳二年、霊州を寇掠したが、長史楊則が撃退した。また突厥の千騎とともに野猪嶺に陣営を張ったが、延州総管段徳操は兵を率いて戦わず、師都の気勢が緩んだところで兵を進めて撃ち、戦いが酣になった時、徳操自ら軽騎を率いてその側面から乗じたので、師都は大敗し、敗走する敵を二百里追撃し、捕虜と斬首は甚だ多かった。間もなく、歩騎五千を率いて侵入したが、徳操はまたその軍をことごとく殲滅し、堡将の張挙・劉旻を降伏させた。師都は恐れ、尚書陸季覧を遣わして処羅可汗を説いて言うには、「隋が滅び、中国は四つ五つに分裂し、勢力は拮抗して弱く、皆争って突厥に附こうとしている。今、唐が劉武周を滅ぼし、国はますます大きくなり、兵を四方に出している。師都は朝夕のうちに滅びようが、次には突厥にも及ぶであろう。願わくば可汗、魏の孝文帝のごとく、兵を率いて南進されよ。師都、先導を請う」と。処羅はこれを容れ、莫賀咄設に命じて五原に入らせ、泥歩設に師都とともに延州に向かわせ、処羅自らは太原を攻め、突利可汗には奚・〓・契丹きったん・靺鞨まっかつを率いて幽州道より合流させ、竇建徳には滏口より晋・絳で会合させようとした。やがて処羅が死んだので、兵は出ず、また徳操に破られた。

原文武德二年,寇靈州,長史楊則擊走之。又與突厥千騎營野豬嶺,延州總管段德操勒兵不戰,師都氣懈,遣兵進擊,戰酣,德操自以輕騎出其旁乘之,師都大潰,逐北二百里,俘馘甚眾。未幾,以步騎五千入寇,德操又盡屠其軍,降堡將張舉、劉旻。師都懼,遣尚書陸季覽說處羅可汗曰:「隋亡,中國裂為四五,勢均力弱,皆爭附突厥。今唐滅劉武周,國益大,兵方四出。師都將朝夕亡,然次亦及突厥,願可汁如魏孝文,兵引而南,師都請為鄉道。」處羅納之,令莫賀咄設入五原,泥步設與師都趨延州,處羅自攻太原,突利可汗與奚、〓、契丹、靺羯繇幽州道合,竇建德自滏口會晉、絳。已而處羅死,兵不出,又為德操所破。

六年、その将の賀遂・索周が配下の十二州を率いて降伏した。徳操は全軍でこれを攻め、東城を陥落させた。師都は西城に拠って出ようとせず、突厥の頡利可汗に救援を求めた。頡利は精兵一万騎を以てこれに赴いた。先に、稽胡の大帥劉屳成が配下を率いて師都に附いていたが、讒言によって殺されたので、その配下は疑惧し、多くが叛いた。師都は日増しに逼迫し、ついに頡利の下に赴き、南略を教唆したので、突厥が辺境を寇掠して寧歳なく、ついに渭橋を窺うに至った。

原文六年,其將賀遂、索周以所部十二州降。德操悉兵攻之,拔東城,師都保西城不敢出,求救於突厥頡利,頡利以勁兵萬騎赴之。先是,稽胡大帥劉屳成以眾附師都,因讒見殺,其下疑懼,乃多叛。師都日益蹙,遂往朝頡利,教使南略,故突厥盜邊無寧歲,遂窺渭橋。

後に突厥の政情が乱れると、太宗は師都が次第に危うくなったのを見て、書を以て帰順を勧めたが、従わなかった。詔して夏州長史劉旻・司馬劉蘭にこれを経略させた。捕虜を得ては、間者として放ち、君臣の間を離間させた。軽騎を出してその田畑を荒らし、城中は飢えに陥った。また天狗がその城に堕ちた。辛獠児・李正宝・馮端はいずれもその勇将であったが、師都を捕らえて降伏しようと謀ったが、果たせず、正宝は単身で帰順した。

原文後突厥政亂,太宗以師都浸危,乃諭以書使歸,不從。詔夏州長史劍旻、司馬劍蘭經略之。獲生口,縱以為間,君臣離撓。出輕騎蹂其稼,城中饑虛。又天狗墮其城。辛獠兒、李正寶、馮端皆其健將,謀執師都降,不果,正寶挺身歸。

貞観二年、劉旻・劉蘭が攻め取れる状況であると上表した。詔して柴紹・薛万均に力を合わせさせ、劉旻に精兵を率いて直ちに朔方東城を占拠させた。頡利が来援したが、ちょうど大雪が降り、羊馬が死んだ。柴紹が迎え撃ってこれを破り、進軍して城下に駐屯した。その従父弟の梁洛仁が師都を斬って降伏した。洛仁を右驍衛将軍・朔方郡公に抜擢した。起兵から滅亡まで十二年であった。その地を夏州とした。初め師都が郡を占拠した時、劉季真・郭子和なる者もともに起ち、子和は独自の伝がある。

原文貞觀二年,旻、蘭表可取狀,詔柴紹、薛萬均並力,令旻以勁卒直據朔方東城。頡利來援,會大雪,羊馬死,紹逆戰,破之,進屯城下。其從父弟洛仁斬師都降,擢洛仁為右驍衛將軍、朔方郡公。自起至滅十二年。以其地為夏州。始師都據郡時,劉季真、郭子和者亦俱起,子和自有傳。

劉季真

原文劉季真

劉季真は、離石の胡人である。父の劉龍児は、大業十年に兵を挙げて自ら王を称し、季真を太子とし、弟の六児を永安王とした。その鋒鋭く、将軍潘長文が連年撃ったが、陥せなかった。後に虎賁郎将梁徳が龍児を破って殺すと、兵は散った。唐兵が起ち上がると、六児が再び集まって盗賊となり、劉武周に附き、季真もこれに従い、自ら太子王と号し、六児を拓定王とし、たびたび辺境の害となった。西河公張綸・真郷公李仲文が合兵してこれを討ち、季真は降伏した。詔して石州総管とし、姓を李と賜い、彭山郡王に封じた。宋金剛が澮州で戦い、形勢が決しないうちに、再び武周と連合した。敗れると、秦王(李世民)が六児を捕らえて斬り、季真は高満政のもとに奔ったが、まもなく殺された。

原文劉季真,離石胡人。父龍兒,大業十年舉兵自稱王,以季真為太子,弟六兒為永安王。鋒甚銳,將軍潘長文連年擊,不能下。後虎賁郎將梁德破殺龍兒,眾乃散。唐兵起,六兒復聚為盜,附劉武周,季真從之,自號太子王,六兒為拓定王,叠為邊害。西河公張綸、真鄉公李仲文合兵討之,季真降,詔以為石州總管,賜姓李,封彭山郡王。宋金剛戰澮州,勢未決,遂復連武周。及敗,秦王執六兒斬之,季真奔高滿政,俄被殺。