新唐書

巻八十六 列傳第十一 薛李二劉高徐

薛挙

薛挙は蘭州金城の人である。容貌は魁偉で、武勇に優れ弓射を善くした。財産を巨万に殖やし、辺境の豪傑を好んで結びつけ、長雄となった。隋の大業の末、金城府校尉こういに任ぜられた。時に凶年となり、隴西に盗賊が起こると、金城令郝瑗が賊を討たんとし、数千の兵を募り、檄を飛ばして薛挙を将とした。甲冑を授け始め、大宴会を開いて酒を設けたところ、薛挙は子の仁杲およびその徒党と共に座中の郝瑗を劫し、反乱者を捕らえると偽称して、即座に兵を起こし、郡県の官を囚え、粟を発して貧乏を賑い、自ら西秦王と号し、元号を秦興と建て、仁杲を斉公とし、少子の仁越を晋公とした。他の賊である宗羅睺が衆を率いてこれに下り、義興公とされた。さらに余りの盗賊を招き附け、馬牧を掠奪した。兵鋒は甚だ鋭く、攻めるところ皆下った。

隋の将皇甫綰が兵一万人を率いて枹罕に屯した。薛挙は精卒二千をもってこれを襲い、赤岸で遭遇した。大風が吹き雨が降り、薛挙の陣に逆らい、皇甫綰は撃たなかった。やがて風は皇甫綰の屯する方に反転し、気色は曇り暗く、部伍は錯乱した。薛挙は甲騎を先に立てて衆に乗じ、皇甫綰の陣は大いに潰れ、進んで枹罕を陥とした。岷山の羌である鐘利俗が衆二万をもって降り、薛挙の勢いは大いに振るった。仁杲を進めて斉王・東道行軍元帥とし、羅睺を義興王としてその副とし、仁越を晋王・河州刺史とした。これにより鄯・廓の二州を攻め下した。十日と経たずに、隴西の地をことごとく有し、衆十三万となった。

十三年、蘭州において帝号を僭称し、妻の鞠氏を皇后とし、仁杲を太子とした。その先祖の墓の地に陵邑を置き、城南に廟を立て、数万の兵を陳べて墓を拝した後、大饗を行った。仁杲をして秦州を囲ませ、仁越をして剣口に向かわせ、河池を掠めさせたが、太守蕭瑀が拒んでこれを退けた。将の常仲興を遣わして河を渡り李軌を撃たせたが、李軌の将李赟と昌松で戦い、仲興は敗れ、軍は李軌に没した。仁杲が秦州を攻克すると、薛挙はそこに都を移した。

仁杲が扶風を寇すと、汧源の賊唐弼が拒み、進むことができなかった。初め、唐弼は李弘芝を立てて天子とし、衆十万を有していた。薛挙は使者を遣わして唐弼を招くと、唐弼は李弘芝を殺して薛挙に従った。仁杲は唐弼に備えがないのを窺い、これを襲い、その衆をことごとく奪い、唐弼は数百騎で逃げた。軍勢はますます張り、二十万と号した。京師を窺わんとしたが、ちょうど高祖こうそが関中に入ったので、扶風を攻めることに留まった。秦王がこれを撃ち破り、数千級を斬首し、敗走を追って隴に至り還った。薛挙は秦王を畏れ、遂に隴を越えて走った。配下に問うて曰く、「古に降る天子はあるか。」偽黄門侍郎褚亮曰く、「昔、趙佗は南粤をもって漢に帰し、しょくの劉禅もまた晋に仕え、近世では蕭琮、その家は今も存する。禍を転じて福となすことは、嘗てあった。」衛尉卿郝瑗曰く、「亮の言は正しくない。昔、漢祖は兵に屡々敗れ、蜀の先主は嘗て妻子を亡くした。戦いには固より勝負あり、どうして一たび勝たぬからといって、直ちに亡国の計を為すことができようか。」薛挙もまたその言を悔い、乃ち曰く、「聊か公らを試みたまで。」即座に郝瑗に厚く賜い、これを謀主とした。郝瑗は梁師都と連合し、突厥に厚く賂り、合従して東に向かうことを請うた。薛挙はこれに従い、突厥の莫賀咄設と約して京師を犯させようとした。時に都水監宇文歆が突厥に使いし、歆が説いてその兵を止めさせたので、薛挙の謀は塞がれた。

武徳元年、豊州総管張長愻が羅睺を撃つと、薛挙は悉く兵を以てこれを援け、析墌に屯し、遊軍をもって岐・豳を掠めた。秦王がこれを防ぎ、高墌に次した。薛挙の糧少なく、速戦を利とするを見て、堅壁してその兵を老いさせた。時に秦王が病み、臥して屯し出でず、薛挙は数たび挑戦した。行軍長史劉文静・殷開山が高墌で兵を観ると、衆を恃んで備えを設けず、薛挙の兵がその背後を掩い、遂に大敗し、死者は十の六に及び、大将慕容羅睺・李安遠・劉弘基は皆没した。秦王は京師に還り、薛挙は高墌を抜き、仁杲は進んで寧州に逼った。郝瑗が謀って曰く、「今、唐は新たに破られ、将卒は禽虜となり、人心は動揺している。乗勝して直ちに長安ちょうあんに向かうべきである。」薛挙はこれを然りとした。行こうとして病み、巫を召して占わせると、唐の兵が祟りをなすと言った。薛挙はこれを悪しとし、未だ幾ばくもせずして死んだ。仁杲が代わって立ち、偽りに薛挙を武皇帝と諡した。未だ葬らざるうちに仁杲は滅んだ。

仁杲は力多く、騎射を善くし、軍中で万人敵と号されたが、性は賊悍であった。初め、薛挙が毎度陣を破り、軍が俘虜を獲ると、仁杲は必ず舌を断ち鼻を切り、あるいは臼で搗き斬った。その妻もまた兇暴で、人を鞭打つことを喜び、痛みに耐えず地に転がる者を見ると、その足を埋め、腹背を露わにして杖を受けるようにした。人々は畏れて親しまなかった。仁杲は多く人を殺し、民人の妻妾を淫略した。嘗て庾信の子の立を得て、降らぬことに怒り、火に焼き、徐々に切り刻んで士卒に食わせた。秦州を抜くと、富人を逆さに吊るし、酢を鼻に注ぎ、あるいはその陰部に杭を刺し、財を求めた。薛挙もまた残虐猛悪であったが、これを悪み、毎度戒めて曰く、「汝の材略は事を為すに足るが、虐に傷つき、終には我が宗族を覆すであろう。」

及んで継いで立つと、諸将の中で素より隙有る者を、皆猜み懼れた。郝瑗は薛挙を哭し、病んで起たず、これにより兵勢は次第に衰えた。秦王が諸将を率いて再び高墌に壁し、諸将は戦いを請うたが、王は曰く、「我が軍は新たに喪に服し、鋭気少なし。賊は驟勝して驕り、我を軽んずる心あり。我は壁を閉じてこれを折り、衰えを窺って撃てば、一戦にして禽とすることができよう。」因って軍中に令して曰く、「敢えて戦いを言う者は斬る。」久しくして、仁杲は糧乏しく、挑戦したが、許さなかった。その将牟君才・内史令翟長愻が衆を率いて降り、左僕射鐘俱仇が河州をもって降った。王は賊の破るべきを策し、将軍龐玉を遣わして浅水原で宗羅睺を撃たせた。戦い酣なる時、王は勁兵をもってその背を衝き、羅睺は敗れた。王は騎を率いて追撃し、ここにおいて全軍を馳せて曰く、「勢いは竹を破るが如し、失うべからず。」夜半、析墌に至り、夜明け前に包囲を完了した。仁杲は偽りの官属を率いて降り、王はこれを受け、仁杲を京師に帰し、酋党数十人と共に皆斬った。薛挙父子は隴西を盗んで五年で滅んだ。

初め、仁杲が降った時、諸将が賀し、且つ問うて曰く、「羅睺は破られたとはいえ、賊の城は尚堅固である。王がこれを下すことができたのは、何故か。」王曰く、「羅睺は健将である。急ぎこれを追わず、城に還らせたならば、取ることはできなかったであろう。故に我は賊に計る暇を与えず、これによって克ったのである。」諸将は感服した。

仁杲が既に敗れると、その将の旁屳地が降り、詔して即座にその兵を統べさせたが、未だ幾ばくもせずして再び叛いた。屳地は羌の豪である。薛挙父子は信頼してこれを倚りとした。ここに至って南山に入り、商洛より漢川に出て、衆数千、過ぐる所で掠害し、大将龐玉を破った。始州に至り、王氏の女を掠め、野に酔って寝た。王女は屳地の佩く刀を取ってこれを斬り、首を梁州に送った。詔して女を崇義夫人に封じた。

李軌

李軌は、字は処則、涼州姑臧の人である。少し書を読み知り、才智弁論があった。家は財をもって辺境に雄となり、人の急を好んで賙い、郷党に称された。隋の大業年中、鷹揚府司兵に補せられた。薛挙が金城で乱を起こすと、李軌は同郡の曹珍・関謹・梁碩・李赟・安修仁らと計って曰く、「薛挙は暴悍である。今、その兵必ず来らん。吏は孱怯にして、計るに足る者なし。力を戮して河右を拠え、以て天下の変を観よう。どうして束手して妻子を以て人の餌とすることができようか。」衆はその謀を允じ、共に挙兵したが、敢えて主となる者はいなかった。曹珍曰く、「我は讖書に聞く、李氏が王となるべきだと。今、李軌は賢し、これ天の啓ではないか。」遂に共に降り拝して命を聴いた。修仁は夜に諸胡を率いて内苑城に入り、旗を建てて大呼し、李軌は衆を集めてこれに応じ、虎賁郎将謝統師・郡丞韋士政を執り、遂に自ら河西大涼王と称し、官属を署し、開皇の故事に準じた。

初めに、突厥の曷娑那可汗の弟である達度闕設が内属し、会寧川を保っていたが、この時に至って可汗を称し、軌に降った。謹らは議して隋の官人を皆殺しにし、その財産を分け取ろうとした。軌は言った、「諸公が既に私を推戴した以上、私の約束に従うべきである。今、軍は義によって起こり、乱を救うことを意としている。人を殺して財を取るのは賊であり、どうして事を成し遂げられようか」と。そこで統師を太僕卿とし、士政を太府卿とした。時に薛挙が兵を遣わして侵攻してきたので、軌は将を遣わして昌松でこれを破り、二千級を斬首し、その兵卒を悉く捕虜としたが、軌はこれを釈放して帰した。李赟が言った、「今、力戦して俘虜としたのに、また釈放して敵に与えるのは、坑に埋め尽くすに如かず」と。軌は言った、「そうではない。もし天命が我に帰するならば、その主を擒えるであろう。これらは皆、我が有する所となる。そうでなければ、ただ留め置いても何の益があろうか」と。遂にこれを遣わした。間もなく、張掖・燉煌・西平・枹罕を陥落させ、河西を悉く有した。武徳元年、高祖が薛挙を討とうとしていた時、使者を涼州に遣わし、璽書をもって慰撫し結びつけ、軌を従弟と呼んだ。軌は喜び、弟の懋を入朝させた。帝は懋を大将軍に任じ、帰還させ、鴻臚少卿の張俟徳に節を持たせて冊使とし、軌を涼王・涼州総管に冊封し、羽葆鼓吹一部を与えた。時に軌が帝号を僭称し、元号を安楽と建て、その子の伯玉を太子とし、長史の曹珍を尚書左僕射とし、河州を攻め陥落させていた。俟徳が到着すると、軌は配下を召して議して言った、「李氏が天下を有し、歴運の属する所となり、既に京邑に居している。一姓が競って王たることはできない。今、帝号を去り、東を向いて冊封を受けようと思うが、よろしいか」と。曹珍が言った、「隋が滅び、英雄が焱の如く起こり、帝王者を号する者が鼎の足のように割拠している。唐は関・雍を保ち、大涼は河右を覆っている。既に天子となった以上、どうして他人の官爵を受けようか。もし必ず小をもって大に事えようとするならば、蕭詧の故事を行い、梁帝を称して周に臣従することを請う」と。軌はこれに従い、偽の尚書左丞の鄧暁を来朝させ、書を奉って「従弟大涼皇帝」と称した。帝は怒って言った、「軌が朕を兄と呼ぶのは、臣下の礼ではない」と。鄧暁を囚えて帰さなかった。

初め、軌は梁碩を謀主とし、吏部尚書を授けていた。碩は計略があり、衆人はこれを畏れた。かつて西域胡の種族が盛んであるのを見て、軌に備えるよう勧め、これにより戸部尚書の安修仁と怨みを結んだ。また、軌の子の仲琰がかつて碩を訪ねた時、碩が起立しなかったので、仲琰はこれを恨んだ。そこで共に碩を讒言した。軌は察せず、毒薬を持たせてその家で殺させた。これにより旧臣は次第に疑惧し、力を尽くさなくなった。胡の巫が妄かに言った、「上帝が玉女を天から遣わそうとしている」と。そこで兵を召して台を築き、玉女を待ったため、多くの浪費と損失を出した。凶饉が続き、人々が互いに食い合う事態となり、軌は家財をなげうって賑済したが、足りず、倉の粟を放出することを議した。曹珍もまたこれを勧めた。謝統師らは元隋の官人で、内心服従せず、常に群胡を引き連れて軌の政務を執る臣を排斥し、この機に乗じてその衆を離反させようと、朝廷で曹珍を詰問して言った、「百姓が餓死するのは皆、弱くて用に足らぬ者である。壮士勇士は終に困窮することはない。かつ倉庫の備えは不慮の事態に備えるもので、どうして妄りに弱小な者に恵みを散らすべきか。僕射がもし下に附くならば、国の計略ではない」と。軌は言った、「善い」と。そこで粟の放出を止めた。下民の怨みはますます深まり、多くが叛去しようとした。

時に修仁の兄の興貴は本来長安におり、自ら上表して涼州に赴き軌を招撫したいと願い出た。帝は言った、「軌は河西を拠り、吐谷渾・突厥と連なり、今、兵を興して討撃するのも尚難しい。ただ一人の使者が口先だけで下せるものか」と。興貴は言った、「軌の盛んな強さは確かです。しかし、逆順禍福を説き聞かせれば、聞き入れるでしょう。もし険固に拠って受け入れなければ、臣は代々涼州の豪族で声望があり、その士民を多く知っています。また修仁は軌に信任され、枢機の事を掌る者数十人です。隙を窺って図れば、成らぬことはありません」と。帝はこれを許した。興貴が涼州に至ると、軌は左右衛大将軍を授け、機会を窺って興貴に自らの安泰の策を尋ねた。興貴は答えて言った、「涼州は僻遠の地で、財力は消耗し、勝兵十万といえども、地は千里を過ぎず、険固な守りはありません。また戎狄に接しています。戎狄は豺狼であり、我が同族ではありません。今、唐家は京師を拠り、中原を平定し、攻めれば必ず下し、戦えば必ず勝つ。これは天の啓示です。もし河西の地を挙げて地図を奉じて東に帰順すれば、漢の竇融でさえも私に比べるに足りません」と。軌は黙って答えず、久しくして言った、「昔、呉王濞は江左の兵をもって尚、自らを東帝と称した。我は今、河右を挙げているのに、西帝と為らぬことがあろうか。唐が強大であっても、我をどうしようというのか。君は唐のために我を誘い込もうとしないでくれ」と。興貴は恐れ、謝して言った、「富貴にして故郷に居らざるは、錦を衣て夜行くが如し、と聞いております。今、一族が任を受けているのに、敢えて他志などありましょうか」と。興貴は軌が説得できないと知り、そこで修仁らと共に密かに諸胡の兵を引き入れてその城を包囲した。軌は歩騎千余りを率いて出戦した。先に、薛挙の柱国である奚道宜が羌兵を率いて軌に奔ったが、軌は刺史を約束しながら与えず、道宜は怨んだので、共に軌を撃った。軌は敗れて城に入り、兵を率いて城壁に登り、外援を待った。興貴が伝言して言った、「唐が私に軌を取らせに来た。従わぬ者は三族に罪する」と。そこで諸城は敢えて動かなかった。軌は嘆いて言った、「人心去りぬ。天、我を亡ぼすか」と。妻子を連れて玉女台に上り、酒を酌んで別れを告げた。修仁が捕らえて長安に送り、斬った。起兵から滅亡まで凡そ三年。詔して興貴を右武候大将軍とし、涼国公に封じ、帛一万段を賜う。修仁を左武候大将軍、申国公とし、併せて田宅を与え、封戸六百戸とした。時に鄧暁は軌の敗北を聞き、入朝して帝を賀した。帝は言った、「お前は李軌に身を委ね、使者として来たのに、その滅亡を聞いて少しも悲しまず、却って手を打って喜び、我を悦ばせようとする。軌に心を尽くさなかった者が、我に節を尽くすことができようか」と。遂にこれを廃して用いなかった。

劉武周

劉武周は、瀛州景城の人である。父の匡は、馬邑に移住した。母の趙氏がかつて夜、庭中に坐していると、雄鶏のようなものが光を地に照らし、飛んでその懐に投じた。起きて衣を振るうと、何もなかった。感じて妊娠し、武周を生んだ。

武周は人となりぎょう悍で、騎射に長け、豪傑と交わることを好んだ。兄の山伯がかつて罵り辱めて言った、「お前は交わる相手を選ばず、必ず我が宗族を滅ぼすであろう」と。武周はこれにより去って洛陽らくように至り、太僕の楊義臣の帳下となった。遼東征伐に募り、功があり、建節校尉に補された。馬邑に戻り、鷹揚府校尉となった。太守の王仁恭は彼が州里の雄であるとして、頗る愛遇し、虞候を総べさせ、閤下に直らせた。久しくして、仁恭の侍児を盗み、発覚して誅殺されることを恐れ、また天下が既に乱れているのを見て、密かに異心を抱き、そこで衆に向かって宣言した、「今年は凶作で、死者の骨が野に枕を並べている。府君は倉を閉じて恤れまず、これが百姓を憂うる心であろうか」と。市でその軍を怒らせ、皆憤怨した。武周は人心が既に動揺しているのを知り、そこで病と称して家に臥し、豪傑が往きて謁見すると、牛を打ち酒を振る舞って大言した、「盗賊が今まさに起こり、衆はまた飢えている。壮士が分を守れば、溝壑に死ぬのみだ。今、官粟が倉の中で紅く腐っている。誰か我と共にこれを取らぬか」と。諸悪少年は皆従うことを願った。隋の大業十三年、その徒の張万歳ら十余人と共に仁恭が政務を見るのを待ち、武周が上謁し、万歳が後ろから入って仁恭を斬り、その首を持ち出して示し、郡中で敢えて動く者はいなかった。そこで倉を開いて窮乏を賑い、檄を馳せて属城に伝え、皆下り、兵一万余を得て、自ら太守を称し、使者を遣わして突厥に附いた。

雁門郡丞陳孝意と虎賁郎将王智辯が兵を合わせてその桑乾鎮を包囲したところ、突厥が到来し、武周はこれと共に智辯を撃ち破った。孝意は雁門に奔還したが、雁門の人々が彼を殺し、城を挙げて武周に帰した。武周はこれに乗じて楼煩を襲撃し破り、進んで汾陽宮を占拠し、宮人を取って突厥に賂し、始畢可汗は馬をもって報いた。その衆は遂に大となり、定襄を攻め取った。突厥は狼頭纛をもって武周を立てて定楊可汗とし、僭称して皇帝を称し、妻の沮を后とし、元号を天興と建て、衛士の楊伏念を左僕射とし、妹婿の苑君璋を内史令とした。

初め、上谷の賊宋金剛は一万余の衆を有し、魏刀兒と連和していた。刀兒が竇建徳に攻撃されると、金剛はこれを救援したが大敗し、余衆四千を率いて西山に拠った。建徳が招くと、金剛は憤って言うには、「建徳は魏王を殺した。我は義をもって行かず、諸君は我が首をもって富貴を取るがよい」と。乃ち刀を抜き、自刎せんとしたが、衆はこれを抱き泣き、遂に皆武周に帰した。武周は元より金剛が兵を用いるに長けると聞き、これを得て喜び、宋王に封じ、軍を委ね、家財の半分を分けて与えた。金剛もまた自ら結びつき、その妻を出して武周の妹を娶り、武周に晋陽を取って南に向かい天下を争うよう説いた。武周は金剛を西南道大行臺に任じた。

武徳二年、総兵二万をもって侵入し、黄蛇鎮に駐屯し、また突厥と連合して、その鋒前に敵なく、遂に榆次を破り、介州を抜き、進んで太原を包囲した。詔して太常少卿李仲文を遣わしてこれを防がせたが、賊に捕らえられ、挙軍覆没し、仲文は逃げ帰った。賊はこれにより平遙を破り、石州を取り、刺史王儉を殺し、浩州を略取した。詔して右僕射裴寂を晋州道行軍総管としてこれを防がせたが、寂は戦って大敗した。斉王元吉はへい州を捨てて遁走し、武周は入ってこれを占拠した。金剛を遣わして晋州を陥落させ、右驍衛将軍劉弘基を捕らえ、進んで澮州を破った。夏県の人呂崇茂はその県令を殺し、自ら魏王と号して賊に応じた。隋の河東守将王行本は武周と合流した。関中は震動した。高祖は詔して秦王に兵を督して進討させ、柏壁に屯した。また詔して永安王孝基と於筠・独孤懐恩・唐儉らに夏県を攻撃させたが、陥とせず、軍を城南に置いた。崇茂は賊将尉遅敬徳と共に襲撃して孝基軍を破り、四将は捕らえられた。敬徳は澮州に還ったが、王は邀撃してこれを美良川で破った。敬徳はまた別帥の尋相と共に蒲州の王行本を救援したが、王はまたその軍を破って退け、蒲州は降伏した。帝は蒲津関に行幸し、王は柏壁から軽騎で行在所に謁見した。金剛は遂に絳州を包囲した。王は還って屯し、金剛は引き退いた。武周は浩州の李仲文を攻撃したが、勝たず。将の黄子英を遣わして糧道を護らせたが、驃騎大将軍張徳政が襲撃してこれを斬り、その衆を虜にした。武周の部将は次第に離反した。金剛は糧道が乏しく兵卒が飢えたため引き去り、王は雀鼠谷まで追撃し、一日に八戦し、賊は皆敗れ、数万の首級を斬り、輜重千乗を護った。金剛は介州に走り、官軍が迫ると、余衆二万をもって西門から出て、城に背いて陣を布き、七里に亘った。王は李世勣・程咬金・秦叔宝に北軍を、翟長愻・秦武通に南軍を命じた。戦いが始まると、少し退いたが、王は精騎をもって突撃してこれを破り、金剛は軽騎を率いて去り、賊将の尉遅敬徳・尋相・張万歳は降伏した。その精兵を収め、遂に介州を回復した。武周は騎兵五百を率い、并州を棄てて北に突厥へ走った。金剛は散卒を収め、還って抵抗しようとしたが、衆は用いられず、また百騎をもって突厥に奔った。并州は平定され、河東の地は尽く回復した。未だ幾ばくもせず、金剛は突厥に背き、上谷に還ろうとしたが、その追騎に斬られた。武周もまた馬邑に帰ろうと謀ったが、計略が露顕し、突厥に殺された。起兵して六年にして滅んだ。

高開道

高開道は、滄州陽信の人である。代々煮塩を業として生計を立てていた。若い頃は勇猛で、走れば奔馬に及んだ。隋の大業末、河間の賊格謙に依ったが、格別に重んじられなかった。時に謙が隋兵に包囲捕縛されると、左右は奔散し、救援する者なく、開道ただ独身決戦し、数十人を殺し、捕兵は解け、謙は免れた。遂に将軍に引き立てられた。謙が滅びると、その徒党百余りと共に海曲に亡命した。後に出て滄州を剽掠し、衆は次第に帰附し、これにより北に戍保を掠め、臨渝から懐遠に至るまで皆破ってこれを有した。また兵を率いて北平を包囲したが、未だ陥さず、隋の守将李景は自ら支えられぬと悟り、城を抜いて去った。開道はその地を占拠した。武徳元年、漁陽郡を陥落させてこれを有した。鎧馬数千、衆一万人を有し、自ら燕王と号した。

先に、懐戎の浮屠高曇晟は県令が供物を準備したのに乗じ、その徒と共に襲って県令を殺し、偽って大乗皇帝と号し、尼の静宣を耶輸皇后とし、元号を法輪と建て、使者を遣わして開道と兄弟となることを約し、斉王に封じた。開道は衆を率いてこれに従った。三ヶ月居て、曇晟を殺し、その衆を併せ、再び燕王を称し、元号を建て、百官を署置した。

竇建徳が幽州で羅芸を包囲すると、芸は救援を請い、開道は騎兵二千をもってこれに赴いた。建徳は解いて去り、乃ち芸の使者を通じて降伏を請うた。詔して蔚州総管・上柱国・北平郡王とし、姓を李と賜った。開道は軽騎五百をもって幽州に至り、芸を図らんとした。自ら数騎を従えて都督ととく府に入り、暫く芸を観察した。芸と酒を酌み交わして歓を尽くし、図れぬと知り、遂に去った。五年、幽州が飢饉となると、開道は粟を輸送すると約束した。芸は老弱を遣わして食に就かせたが、皆厚く遇した。芸は喜び、備えをせず、更に兵三千・車数百・馬驢千頭を発して粟を請うた。開道は悉く留めて返さず、遂に北で突厥と連合し、芸に絶交を告げ、再び燕を称し、劉黒闥と連合して侵入した。開道は易州を攻めたが陥とせず、将の謝棱を遣わして偽って芸に降り、兵を応接するよう請うた。芸の衆が到ると、棱は撃ってこれを破り、これに導かれて突厥と共に南進し、恒・定・幽・易などが騒然として患いに罹った。頡利は開道が攻具に長けるとして、共に馬邑を攻め、これを陥とした。時に群盗相継いで平定され、開道は降伏しようとしたが、自ら反覆して罪を得ることを疑い、なお突厥を恃んで自ら安んじた。然れども将兵の多くは山東の人で、帰郷を思い、衆は益々乱を厭うようになった。

初め、開道は壮士数百を募って養子とし、閤下を衛護させた。及んで劉黒闥の将張君立が亡命して帰ると、開道は命じて愛将の張金樹と分かってこれを督させた。金樹は密かに左右数人に命じて諸養子と偽って戯れさせ、夕方に至り、閤に入り、その弓弦を断ち切り、また刀槊を取って床下に集めさせた。既に日が暮れると、金樹はその徒を率いて騒ぎ立てて攻撃し、数人は刀槊を抱えて閤から出た。諸義子は将に搏戦せんとしたが、弓槊を失っていた。君立は外城で火を挙げてこれに応じ、帳下は大いに擾乱した。養子らは窮し、争って金樹に帰した。開道は免れぬと顧み、甲を擐え刃を挺して堂に据わり坐し、妻妾と妓を奏でて酒を飲んだ。金樹は畏れて敢えて前に進まなかった。天が明けようとする頃、開道は先ずその妻妾及び諸子を縊らせ、その後自殺した。金樹は兵を羅列して養子を捕らえ、皆斬り、また君立を殺して帰った。開道の起兵は凡そ八年にして滅んだ。その地を媯州とし、詔して金樹を北燕州都督とした。

劉黒闥

劉黒闥は、貝州漳南の人である。酒を嗜み、蒲博を好み、産業を治めず、無頼で、父兄はこれを患い苦しめた。竇建徳と若い頃より友となり、建徳は常にその費用を資したが、黒闥の得たものは即ち尽き、建徳もまたこれを計らわなかった。

隋末、亡命して郝孝德に従い盗賊となり、後に李密に仕えて裨将となった。密が敗れると、王世充が彼を捕虜とし、その武勇健壮さを以て馬軍総管に補し、新郷に鎮守させた。時に李世勣が竇建徳に陥り、建徳は新郷を攻撃させ、黒闥を捕虜として献上させた。建徳は彼を用いて将とし、漢東郡公に封じた。黒闥は諸盗賊と交わり、元来武勇に優れ、多く狡猾な計略を用いた。建徳が経略を行う時は、常に斥候の任を委ね、密かに敵中に入り虚実を窺い、しばしば隙に乗じて奇兵を奮い、不意に出でて多く敵を撃破したので、軍中では神勇と号した。

武徳四年、建徳が敗れると、漳南に隠れ戻り、門を閉ざして出なかった。時に高祖が建徳の旧将範願・董康買・曹湛・高雅賢を召し、用いようとした。願らは疑い畏れ、謀って曰く、「王世充は洛陽を挙げて降り、驍将楊公卿・単雄信の徒は皆誅滅された。今吾らを召すのは、もし西に関に入れば、必ず全からず。且つ夏王は唐に対し元より徳有り、往時淮安王・同安公主を捕らえても、皆厚く送り返された。今唐が夏王を得て、即ち害を加える。我ら余生を以て王の仇を得ずんば、天下の義士に見えること無し」と。ここに於いて謀反を図った。主とする者を占うと、劉氏が吉と出たので、共に旧将劉雅の許へ往き見て告げたが、雅は従わず、衆は怒り、雅を殺して去った。範願曰く、「漢東公黒闥は果敢にして奇略多く、寛仁にして衆を容れ、恩を士卒に結ぶ。吾嘗て聞く、劉氏が王となるべきと。今夏王の亡衆を収め、大事を集めんと欲すれば、その人に非ざればならぬ」と。乃ち漳南に至り、黒闥に謁して告げた。黒闥喜び、牛を椎き士を饗し、兵百余を得た。漳南県を襲いこれを破った。貝州刺史戴元祥・魏州刺史権威が勢を合わせて討撃したが、元祥らは皆敗死し、その器械を収め、千人の衆を得た。建徳の旧時の左右が次第に帰順し、兵は次第に盛んとなった。乃ち漳南に壇を設け、建徳を祭り、挙兵の意を告げた。自ら大将軍と称した。歴亭を陥とし、守将王行敏を殺した。饒陽の賊崔元遜が深州を攻め陥とし、刺史裴晞を殺してこれに応じた。兗州の賊徐円朗もまた相連ね和した。遂に瀛州を取り、定州を攻めてこれを破った。乃ち趙・魏に檄を移し、建徳の将吏は往々にして令・尉を殺し賊に附した。北は高開道に連なり、勢いは雄大に張った。進んで宗城に至り、衆数万。黎州総管李世勣が戦いに敗れ、洺州に走った。黒闥これを追い、歩卒五千は皆覆り、世勣は身を挺して免れた。乃ち王琮を中書令とし、劉斌を中書侍郎とし、使いを遣わし北に突厥の頡利を結び、頡利は俟斤宋邪那に騎兵を率いさせて従わせた。軍は大いに振るい、半年ならずして、建徳の旧地を尽く有した。高祖は秦王及び斉王元吉にこれを討たせた。

五年、黒闥は相州を陥とし、漢東王と号し、元号を天造と建て、範願を左僕射とし、董康買を兵部尚書とし、高雅賢を左領軍とし、王小胡を右領軍とし、建徳の僚属を召し、悉く復用し、洺州に都した。秦王は兵を率いて汲に駐屯し、数度賊を困らせ、進んで相州を下した。棣州人がまた刺史を殺し叛いて黒闥に帰した。二月、秦王は列人においてこれを破り、洺水を取り、総管羅士信にこれを守らせた。黒闥は洺水を攻め陥とし、士信は死んだ。王は水を阻んで連営と為し、奇兵を分かちてその糧道を絶った。黒闥は数度挑戦したが、堅壁して動かず。三月、賊の糧尽き、王は必ず決戦すべしと度り、予め洺水の上流を堰き止め、吏に命じて曰く、「賊の渡るを待ち、急ぎこれを決せよ」と。黒闥果たして騎二万を率いて水を渡り陣し、王師と大戦し、衆は潰え、水が暴に至り、賊衆は還るを得ず、首級万余を斬り、溺死数千、黒闥は範願らと残騎を以て突厥に奔った。山東平らぎ、秦王還った。

黒闥は突厥兵を借りて再び入寇し、定州を攻めた。旧将曹湛・董康買は先に鮮虞に逃れ、兵を聚めてこれに応じた。帝は淮陽王道玄を河北総管とし、原国公史万宝と共に賊を討たせたが、下博で戦い敗績し、道玄は陣に死し、万宝は軽騎で逃れた。これにより河北は再び叛き賊に帰した。黒闥は仍って洺州に都した。九月、瀛州を略し、刺史を殺した。詔して斉王元吉にこれを撃たせたが、進まなかった。また詔して皇太子に兵を督し力を併せさせた。頻りに戦い皆捷した。十二月、皇太子・斉王が悉く兵を以て館陶で戦い、黒闥は大敗し、軍を引いて走り、北に追って毛州に至った。黒闥は衆を整え、永済渠に背を向けて陣し、騎兵を縦って搏たせた。賊は水に赴き死する者数千、黒闥は遁れ去った。騎将劉弘基が追い迫り、賊は休むを得なかった。明年正月、饒陽に馳せ至り、騎兵で従うこと能う者は僅か百余、困窮し且つ飢えた。黒闥の署した総管崔元遜が迎え拝し、入城を請うた。黒闥は許さず、元遜が固く請い、且つ泣いたので、乃ち城下に進んだ。元遜がこれを饗し、飯を食おうとした時、車騎諸葛徳威が兵を率いて前に進み、黒闥は罵って曰く、「狗輩我を負く!」と。遂に捕らえて皇太子の許に詣で斬った。徳威は郡を挙げて降り、山東は遂に定まった。余党及び突厥兵は間道より亡び、定州総管双士洛が邀え撃ち、これを破り平らげた。

初め、秦王が天策府を建てた時、その弧矢の制は常に倍していた。黒闥を逐う時、突厥に窘迫され、自ら大箭を以て射てこれを退けた。突厥は箭を得て、伝え観て、神と為した。後に大弓一・長矢五が余り、武庫に蔵し、世に宝とし、毎に郊丘の重礼には、必ず儀物の首に陳べ、以て武功を識したという。

徐円朗

徐円朗は、兗州の人である。隋末に盗賊となり、本郡を拠り、兵を以て瑯邪以西を徇い、北は東平に至り、尽くこれを有し、勝兵二万、李密に附した。密が敗れると、竇建徳に帰した。山東が平らぐと、兗州総管・魯郡公を授かった。高祖は葛国公盛彦師を遣わし河南を安輯させたが、任城に抵った時、黒闥の兵の起こるに会い、円朗は彦師を執ってこれに応じ、自ら魯王と号し、黒闥はこれを行臺元帥とした。兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴等州の豪桀は皆吏を殺し賊に応じた。秦王が既に黒闥を破り、兵を遣わし済陰に屯してこれを経略した。円朗は懼れた。河間の人劉復礼が円朗を説いて曰く、「彭城に劉世徹有り、才略常ならず、異相有り、士大夫その必ず王たるを許す。将軍自ら用いんと欲すれば、恐らく敗れん。世徹を迎え立てるに如かず、功は済まざる無し」と。円朗は然りと謂い、乃ちこれを迎えた。盛彦師は世徹もし叛に連なれば、禍い且つ解けずと、即ち謬って説いて曰く、「公が劉世徹を迎えると聞く、信ずるか?公の亡ぶ日無し!独り翟讓の李密を用いるを見ざるか?」と。円朗はこれを信じた。世徹が至ると、その兵を奪い、司馬と為し、地を徇わしめた。至る所皆下ったので、忌みてこれを殺した。時に淮安王神通・李世勣が合兵して円朗を攻め、円朗は数敗し、総管任環が遂に兗州を囲んだ。降る者は争って城を逾えた。円朗窮し、城を棄て、下数騎と夜に亡び、野人に殺された。