新唐書

巻八十五 列傳第十 王竇

王世充

王世充、字は行満。祖父は西域の胡人、支頹耨と号し、後に新豊に移住し、死ぬと、その妻は城の人王粲の庶妻となった。頹耨の子の収は従子(甥)であったが、王粲の姓を冒し、隋に仕えて、懐州・汴州の二州長史を歴任した。世充を生む。豺声にして巻髪、猜忌心が深く陰険であった。書伝に通じ、兵法を好み、亀策・推歩に通じた。蔭により左翊衛となり、御府直長・兵部員外郎に遷る。楊素に従って北伐し、幽州長史となった。

大業初年、民部侍郎となり、占い応対に巧みで、法令に習熟し、敢えて文書を弄んで上下させる。人が弁駁しても、世充は口舌で飾り立て、人々はその非を知りながらも屈服させることができなかった。出て江都賛治となり、郡丞に遷る。煬帝がたびたび南幸すると、世充は帝の顔色を窺うことに巧みで、意に阿り旨に順った。性質は機巧で、台沼を飾り、ひそかに遠方の珍物を奏上して帝に媚び、帝はこれを愛昵し、江都通守に拝し、兼ねて宮監事を知った。

世充は隋の政が乱れつつあり、江左は軽剽で動きやすいと観て、ひそかに豪傑を結び、獄に繋がれている者があれば、皆法を曲げて減免し、私恩を樹てた。楊玄感が反すると、呉人の朱燮・晋陵人の管崇が江南で起ちこれに応じ、兵十余万。隋の将軍吐万緒・魚倶羅が討ったが勝てず、世充は偏将として江都で一万人を募り、頻りにこれを撃破した。勝利するごとに必ず功を部下に帰し、虜獲は全て士卒に推し与えたので、人は争って効力を尽くし、これにより功が最も多かった。

大業十年、斉の賊孟譲が諸郡を転寇し、盱眙に至ると、世充はこれを拒ぎ、都梁山に拠り、五つの壁を列ねて戦わず、疲れた兵を見せて弱さを示した。孟譲は笑って言う、「世充は文法の吏に過ぎず、どうして兵を知ろうか。我れ今生きてこれを縛り、鼓行して江都を下ろう」と。時に百姓は皆保に入り、野に掠めるものなく、孟譲の衆は飢え、また五つの壁が道を閉ざして南進できぬのを苦にし、即ち兵を分けてこれを囲んだ。世充は数度戦い、陽に不利を装い、壁に走る。孟譲はますます驕り、数日して、少しずつ配下を分けて南略させ、わずかに兵を留めて壁を囲むに足るだけとした。世充は賊の懈怠を知り、夜に竈を平らげ幕を撤き、方陣を為して外向きにし、垣を毀って出て、奮撃し、これを大破した。孟譲は数十騎で去り、斬首一万級、虜十余万人。煬帝は世充に将帥の才略ありとし、再び諸盗の捕縛を委ね、向かうところ定まった。時に突厥が帝を雁門に囲むと、世充は江都の兵を悉く発して難に赴き、喜ばしい事があるかのように詐って声聞を求めた。軍中では蓬頭垢面、日夜悲泣し、甲を解かず、臥すには必ず槁を敷いた。帝は忠と為し、ますます信頼を寄せた。

厭次の賊格謙、兵十余万が豆子に屯す。太僕卿楊義臣が格謙を殺し、世充はその余党を討ち、これを平らげた。南陽で賊盧明月を進撃し、俘虜数万。還ると、帝自ら酒を持って労った。

世充は帝に啓す、「江淮の良家の女、後廷に備えんことを願うも、由って進むことなし」と。帝は喜び、端麗なる者を閲するよう命じ、庫の財を以て聘と為し、費用は数えられず、計簿に「勅別用」と署し、有司は敢えて聞かなかった。舟を具えて東都宮に送るが、途中で掠奪があり、使者はこれを苦にし、あるいは舟を沈めて亡去する者もあり、世充は屏して奏上しなかった。

李密が東都を逼ると、詔して世充を将軍と為し、兵を率いて洛口に屯す。大小百余戦、大勝負なし。詔して即時に右翊衛将軍に拝し、賊を破るを促す。十四年、世充は軍を引いて李密と洛南で戦う。気有りて城のごとくその営を圧す。世充大敗し、衆幾く尽き、河陽に走って保つ。自ら獄に繋がり、越王侗に請罪す。侗は書を以て慰勉し、金帛を賜ってこれを安んじ、洛に召還す。亡散を集めて一万人を得、含嘉城に屯し、畏縮して出でず。

時に江都にてしいしいぎゃく有り、群臣侗を奉じて帝と為す。世充を吏部尚書と為し、鄭国公に封ず。宇文化及が兵を擁して北還す。侗は内史令元文都・盧楚らの謀を聴き、重官を李密に与えて賊を討たせ、若し化及が破れて密の兵もまた疲れたならば、その弊に乗じて志を得んとした。乃ち使者を遣わし、太尉・尚書令しょうしょれいを以て即ち軍中で密を拝し、兵を促して北討せしむ。密は臣と称して制を奉じ、後に従って化及を黎陽に引き、戦勝を告げ来たり、衆大いに悦ぶ。世充独りその下に謂う、「文都らは刀筆の才に過ぎず、必ず密に擒にされよう。かつ我が軍は賊と戦い、多くその父子兄弟を殺した。一旦その下となれば、我らは類無き者となろう」と。この言を以て衆を激し、文都ら聞きて大いに懼る。

侗、文都を御史大夫と為さんと欲す。世充許さず、曰く、「嘗て公らと約す、左右仆射・尚書令・御史大夫は、勲旧を待って留め置く。今各々得んと欲すれば、則ち奔競開く。どうして共に守れようか」と。文都これを憾み、潜かに楚と謀り、世充の殿に入るに因りて甲を伏せてこれを殺さんとす。納言段達は庸怯にして、果たさぬを畏れ、馳せて世充に告ぐ。世充夜に兵を以て含嘉門を襲い、宮城を囲む。右武衛大将軍皇甫無逸ら、将費曜・田闍を遣わして太陽門で拒戦せしむ。曜敗れ、世充これに入る。無逸は単騎で遁走し、楚を収めて殺す。時に紫微宮尚閉ざされ、世充門を叩き、侗を紿いて曰く、「元文都ら、陛下を執って李密に降らんと欲す。臣は反せず、反する者を誅するのみ」と。段達、文都を執って世充に送り、これを殺す。世充、腹心を悉く遣わして衛士に代え、然る後に入謝して曰く、「文都・楚、無状にして、屠戮を図る。臣急ぎて此れを為し、敢えて他意なし」と。侗とこれに盟し、尚書左仆射に進拝し、内外諸軍事を総督す。乃ち含嘉城を去り、尚書省に居り、朝政を専宰す。その兄世惲を内史令と為し、禁中に居らしめ、子弟皆兵を将う。官吏を十頭に分け、以て軍政を主らしむ。

未だ幾ばくもせず、李密、化及を破り、還って金墉に屯す。勁兵良馬多く死す。世充これを撃たんと欲すも、士心未だ一ならざるを恐れ、乃ち謀りて鬼を以て衆を動かさんとす。徳陽門衛張永通に言わしむ、人夢に見えて己に謂う、「我は周公なり、兵を以て密を討つを助けん」と。世充、侗に白し、祠を洛の傍に立て、巫に宣言せしむ、「周公、急ぎ密を撃てと命ず。大功有り。然らずんば、兵まさに疫すべし」と。世充の下は皆楚人、妖を信じ、遂に戦を請う。乃ち精卒二万・騎二千を簡び、洛水を跨いで三橋を為し、以て兵を度す。密の軍は偃師の北山にあり、新たに敵を破り、世充を軽んずる心あり、壁壘を設けず。世充夜に二百騎を遣わし山に蔽い伏せしめ、因りて馬に秣し蓐食し、遅明にこれを薄む。密の陣未だ成らず、伏兵北原に上り、高きに乗じて馳下り、その営を圧し、廬落を焚き放つ。密の衆大いに潰え、その将張童仁・陳智略降る。偃師を進みて抜く。初め、密は化及の軍中に世充の兄世偉及び子玄応を得て、これを囚う。至是に至り皆帰る。世充の兵洛口に次ぐ。密の長史邴元真・司馬鄭虔象、城を以て降る。美人・宝貨を悉く収めて還る。密は数十騎を以て跳び奔る。

ここにおいて、世充は自ら太尉・尚書令となり、黄門印緑綟綬を加えられ、尚書省を府とし、官属を置いた。そこで府の外に三つの掲示を設け、一つは文学に堪え世務を済す者を求め、一つは武幹が衆に絶し、鋒を推して陣を陥す者を求め、一つは冤抑を治めて申し上げられない者を求めた。これにより上書して事を陳べる者は日に数百に及び、皆慰労して接見し、吏卒であっても必ず言葉を飾って誘い入れた。しかし世充は元より詭妄であり、その言葉を実現できず、士大夫は遂に離反した。初め、文都を殺した時、衆を欺いて信を取ろうとし、侗の母劉太后に事えて仮子となることを請い、この時に至って聖感太后の号を加えた。散騎常侍さんきじょうじ崔德本は言った、「これは王莽の文母と何の違いがあろうか」。後に侗の前で食事し、嘔吐の疾を得て、毒を盛られたと疑い、遂に再び朝見しなくなった。将軍の張績・董浚に宮城を守衛させた。

武徳二年、侗の詔を偽って黄鉞を仮授けられ、相国として百揆を総べ、鄭王に封ぜられ、九錫を授かり、冕は十二旒、天子の旌旗を立て、金根車に六馬を駕し、五時の副車・旄頭雲罕を備え、八佾の舞を設け、宮懸を置き、出入りに警蹕した。術士の桓法嗣は自ら讖を決することができると言い、そこで『孔子閉房記』を上呈し、男子が一竿を持って羊を追う様を描き、世充に説いて言った、「隋は楊姓なり、文において『幹一』は『王』となり、王は羊の後に処す、これ大王が隋に代わる符なり」。また荘周の『人間世』・『徳充符』の二篇を陳べて言った、「上下篇は大王の名と協い、符命を受けて、徳が人間に被わり、天子となることを明らかにす」。世充は喜んで言った、「天命なり」。拝してこれを受けた。法嗣を諫議大夫とした。また飛鳥を網羅し、符命を帛に書き、鳥の頸に結びつけて放ち、弾で捕えて鳥を献じた者も官に任じた。百官に勧進を諷した。時に納言蘇威は老いて邸に退いていたが、世充は威が隋の大臣で、素望があるとして、毎に上表するには必ず威の名を署した。段達らに命じて侗を脅して言わせた、「天命は常ならず、今鄭王の功徳甚だ盛んなり、揖譲を請い、堯・舜の故事を用いよ」。侗は怒って言った、「天下は高祖こうその天下なり、もし隋の徳が未だ尽きずば、この言を発すべからず。必ずや天命が遂に改まらば、尚お何を禅らん。公らは先帝の旧臣にあらずや。朕は何を頼まん」。達らは流涕した。世充はまた詐って言った、「天下未だ定まらず、長君をもって鎮めねばならず、天下安んずるを待ちて、則ち子に復して明辟とせん」。

四月、侗の策を偽って禅位し、侗を含涼殿に幽閉し、なお三たび譲った。諸将に兵を率いさせて宮を清め、世充は戎服を襲い、法駕に乗り、鼓吹を導いて宮に入り、毎に一門を経るごとに、従者は必ず呼び声を上げた。東上閤に至り、兗冕に更え、正殿で位を僭した。元号を開明と建て、国号を鄭とした。そこで兄の世衡を秦王に、世偉を楚王に、世惲を齊王に封じ、諸族属は次第に封拜し、子の玄応を皇太子とし、玄恕を漢王とした。世充は毎に朝を聴き政を決するに、諭す言葉は諄々として百の緒の如く、勤篤を示し、百司の奏事する者は聴受するに疲れた。出る時は軽騎に乗り、警蹕なく、衢肆を遊歴し、行く者はただ立ち止まり、徐ろに百姓に謂って言った、「昔の天子は九重に居し、下の情は察する由なし。世充は位を貪る者にあらず、時に救わんとするのみ。正に一州刺史の如く、事は皆親ら覧み、士人と共に議せん。門衛に禁があることを恐れ、尽く通ずる由なし、今ただ順天門外に座を置き事を聴かん」。また詔して西朝堂に冤訴を聴き、東朝堂に諫者を延べた。これにより章牘は山積し、観省する暇なく、後にはまた出ることもできなくなった。

五月、裴仁基がその子の行儼及び宇文儒童・崔德本らと謀り、世充を劫いて再び侗を立てようとしたが、成らず、三族を誅した。六月、侗を鴆殺し、衆望を絶った。世充は衆を率いて東に地を徇り滑に至り、兵を以て黎陽に臨んだ。時に黎陽は竇建德が守っており、故に建德もまた世充の殷州を破り、その役に報いた。

三年、大赦の書を下し、練兵臺を伊闕に築いた。守将の羅士信・豆盧達が次第に帰国し、世充は顧みて部下多く己に背くを見て、乃ち誅罰を峻しく禁令を暴にして威した。戸に一人逃げれば、家の少長皆坐し、父子・兄弟・夫婦は互いに告げて免れることを許した。伍伍相保たしめ、一家叛けば、伍を挙げて誅した。樵牧の出入りも皆制限し、公私生きるに聊かならず。臺省の官を遣わして十二郡の営田を督させ、行く者は自ら仙去すと謂った。宮城を大獄とし、猜み憎むところの者は、必ずその人を収監し、家属を宮中に内した。或いは将を命ずるにも、その妻子を質として乃ち遣わした。既にして囚虜の質は万口に及び、食足らず、餓死者は日に数十に及んだ。

七月、高祖は詔して秦王に兵を率いてこれを攻めさせ、新安に至り、屯保多く下り、慈澗城で世充を破った。八月、王は青城宮に兵を陳べ、世充は精兵を悉くして来たり拒み、澗を隔てて言った、「隋はその国を失い、天下分崩し、長安ちょうあん洛陽らくよう各々分地あり、吾は常に自ら守り、敢えて西を顧みず。熊・谷二州は度内に在り、取らず、隣好を敦くす。今王遠く吾が地に渉り、三崤を越え、糧を千里に饋し、師を勤めて遠く出で、将に何を求めんとするか」。王は言った、「四海の人皆唐の正朔を承け、独り公迷いて復せず。東都の士民来たりて師を請う、陛下重ねて違え難く、我是れを以て来たる。公若し降らば、富貴保たれん。必ず我を拒まば、勉めよ、多く言うなかれ」。世充は地を割くことを約したが、許されず。潁州総管田瓚は山南二十五郡を挙げて帰順を請うた。九月、王君廓が進んで軒轅を抜き、地を徇って管城に至り、河南の州県は次第に降定した。初め竇建德は世充と隙ありしが、ここに至って建德は使者を遣わして好を結び、併せて赴援の意を陳べた。世充は兄の子の琬・内史令長孫安世を報わせ、且つ師を乞うた。

四年二月、青城宮の守将が宮を以て降り、王は進んでこれを保った。世充は兵を引き出して方諸門より出で、谷水に臨んで戦い、王は北邙に陣し、屈突通に歩士五千を率いさせて水を逾え撃たせた。兵接するや、王は騎兵を以て決戦し、世充は兵を排して殊死に闘い、辰より午に及んで乃ち潰え、八千人を俘斬した。王は城に傅き、塹を築いてこれを守った。世充の糧は将に尽き、人相食い、遂には水で泥を濁し礫を去り、浮土を取って米屑を揉み餅と為すに至った。民は腫れ股弱きを病み、道上に相藉り倚り、その尚書郎盧君業・郭子高等は皆餓死した。御史大夫鄭頲は浮屠となることを丐うたが、世充はその言を悪み、これを殺した。然れども気力尽き、ただ城に嬰って建德の救いを待った。

五月、王は建德を擒え、併せて王琬・長孫安世を獲、俘虜を東都城下に示し、且つ安世を遣わして敗状を言わしめた。世充は惶惑し、将に襄・漢に出でて保たんとし、諸将に謀ったが、皆答えず、遂に将吏を率いて軍門に降った。王はこれを受け、吏に属せしめ、兵を陳べて城に入り、府庫を開いて将士に賜った。その黄門侍郎薛德音は移檄を以て逆を嫚した罪により、崔弘丹は弩を造り多く士を傷つけた罪により、先にこれを誅した。また段達・楊汪・孟孝義・単雄信・楊公卿・郭士衡・郭什柱・董浚・張童仁・朱粲・王徳仁等を収めて洛渚の上で斬った。世充を以て長安に帰し、高祖その罪を数えると、世充は言った、「計らく臣の罪は誅に容れざるべし、但だ秦王臣に不死を許されき」。乃ち庶人に赦し、その族とともにしょくに徙した。将に行かんとする時、羽林将軍独孤修徳に殺された。初め、修徳の父の機は嘗て越王侗に仕え、世充既にさんするや、唐に帰らんと謀り、屠られた者である。高祖は修徳の官を免じた。子の玄応、兄の世偉は、道中にて謀反し、誅に伏した。世充の簒は、凡そ三年で滅んだ。

竇建德

竇建德は貝州漳南の人である。代々農家を営み、自らは漢の景帝の太后の父安成侯竇充の末裔と称した。膂力は人に絶し、若くして然諾を重んじ、侠節を喜んだ。郷人が親を喪い、貧しくて葬るに足らず、建德が耕作中にこれを聞き嘆息し、直ちに牛を解いて喪事に供したので、郷党はこれを異とした。盗賊が夜にその家を襲った時、建德は戸口に立ち、賊が入ると三人を撃ち殺し、残りは進むことを敢えなかった。賊が屍を請うと、建德は言った、「縄を投げて繋ぎ取るがよい」。賊が縄を投げると、建德は自ら縄に繋がり、賊に引き出させ、躍り上がって刀を捉え、さらに数人を殺した。これによりますます名を知られた。里長となったが、法を犯して逃亡し、赦令に遇って帰った。久しくして父が卒し、里中より送葬する者千余人、贈られたものは皆辞退して受けなかった。

隋の大業七年、兵を募って遼東を伐つに当たり、建德は隊長に補せられた。軍に赴かんとする時、邑人の孫安祖が羊を盗み、県令に捕らえられて答辱せられたが、安祖は令を刺殺し、建德のもとに逃亡して来た。建德は密かにこれを匿った。当時山東は飢饉で、群盗が起こり、そこで謀って言った、「往年文皇帝の時、天下は盛んにして強く、百万の衆を発して遼東を伐ったが、なお敗れた。今は水害が災いとなり、民力は疲弊し、主上はこれを恤れまず、みずから遼東に臨もうとしている。かつて年西征し、十に一も返らず、今は創夷未だ平らかでないのに、また重ねて兵を発する。人情危惧し、動揺しやすい。丈夫死なずんば、常に世に功を立てるべきで、どうして亡命の虜となろうか。聞くところによれば高鶏泊は広袤数百里、葭薍が阻んで奥深く、難を避けるに足る。隙を窺って窃かに出で、人を殺し掠奪すれば、自ら資するに足る。これにより豪傑を集め、時変を観て、大計を成すべきである」。安祖はこれを然りとした。建德は逃亡兵と産なき民数百人を招き、安祖に率いさせ、高鶏に入って盗賊となった。安祖は「摸羊公」と号した。

時に鄃の人張金稱もまた万余の衆を結び、河渚の間に依り、蓚の人高士達は兵千余を率いて清河の辺鄙に屯した。諸盗が漳南を往来する者は多く人を掠め殺し、郷聚を焼いたが、ただ建德の里には入らなかった。郡県は建德が賊と通じていると疑い、その家族を捕らえて誅戮した。建德は河間に至り、家が屠滅されたと聞き、直ちに麾下二百人を率いて士達のもとに亡命した。士達は自ら東海公と称し、建德を司兵とした。安祖は金稱に殺され、その配下数千人は建德に帰し、衆はますます盛んとなり、万人に至ったが、なお高鶏泊を保った。しかし身を傾けて人に接し、その労苦は士卒と均しくしたので、これにより人をして死力を尽くさせることができた。

十二年、涿郡通守郭絢が兵一万を率いて士達を討った。士達は自らの智略が建德に及ばないと思い、そこで建德を推して軍司馬とし、兵を属させた。建德は衆を統べるや、奇を用いて群盗を服させようと考え、士達に輜重を守らせ、自ら精兵七千を以て絢を迎え、逃亡した様を偽った。士達は捕虜を取って、建德の妻子と偽り、これを殺した。建德は絢に書を送り降伏を約し、先鋒として賊を捕らえ自ら効を立てんことを請うた。絢はこれを信じ、兵を率いて建德に従い長河の界に至り、盟を結ばんとしたが、兵は弛み備えを設けなかった。建德は襲撃してその軍数千人を殺し、馬千匹を獲た。絢は数十騎で逃げ去ったが、平原で追撃して斬り、その首を士達に献じた。これにより山東に威を震うった。

隋は太僕卿楊義臣を遣わし、清河において張金稱を討ち破った。残党は誅を恐れ、再び屯して建德に帰した。義臣は勝に乗じて高鶏泊に入り、根穴を窮め尽くさんとした。建德は士達に言った、「隋の良将は義臣のみである。新たに金稱を破り、その鋒は当たるべからず。兵を引いてこれを避くべし。彼は戦おうとしてもできず、軍は老い食は乏し、これを乗ずれば功有るべし」。士達は聞き入れなかった。建德を留めて壁を守らせ、自ら兵を将いて逆戦し、酒を設けて士卒を饗した。建德はこれを聞き、「東海公は未だ捷せずして、急に自ら誇大にし、禍至るは日に遠からん。隋兵勝てば必ず長駆して来る。我独り支えること能わず」と言った。そこで衆を留めて壁を保たせ、鋭士を率いて険に拠り待った。後五日、義臣は陣において士達を斬り、敗走を追って壘に迫ると、守兵は潰えた。建德は軍を整えることができず、百余騎で饒陽に走った。饒陽は無備であったので、これを取った。義臣はすでに士達を殺し、余党は憂うるに足らずと思い、引き去った。故に建德は平原に還り、士達の士卒の死骸を収めて葬った。士達のために発喪し、軍は皆縞素を着けた。潰卒を招き、数千人を得て、軍は再び振るい、自ら将軍と称した。初め、他の盗賊は隋の官人や士人を得れば必ず殺したが、ただ建德は恩遇を甚だ備え、故饒陽長宋正本を客として引き入れ、尊任して軍議に参決させた。隋の郡県の吏は多く地を以てこれに帰し、勢いはますます張り、兵は十余万に至った。上谷の賊王須拔は自ら「漫天王」と号し、兵を以て幽州を略したが、戦死した。その配下魏刀兒は「歴山飛」と号し、深沢に壁し、衆十万であった。建德は計を以てこれを襲い取り、その地を併せ有した。

十三年正月、河間楽寿に壇場を築き、自ら長楽王と立った。

十四年五月、さらに夏王と号し、元号を丁丑と建て、官属を置き、郡県を分治した。

七月、隋の右翊衛将軍薛世雄が兵三万を督いてこれを討ち、河間七里井に屯した。建德は勁兵を傍らの沢中に伏せ、諸城を悉く抜いて偽って遁走した。世雄はこれを畏れたと思い、備えを次第に弛めた。建德は敢死の士千人を率いてこれを襲った。時に大霧が昼も暗く、一歩先も見えず、隋軍は驚き、ついに潰え、互いに踏み躙り合い、死者は丘の如くであった。世雄は数百騎を率いて亡走した。その衆を尽く得て、河間丞王琮を獲た。労をねぎらって帰した。琮はまた城に拠った。建德が進攻しても未だ下さず、河間は食尽きた。煬帝が殺害されたと聞き、琮は吏を率いて発喪し、城に乗って大いに臨んだ。建德は使者を遣わして弔問し、琮は降伏を請うた。建德はために退舍し、饌具を整えた。琮は郡の属を率いて素服し、面縛して軍門に至った。建德は親しく徽纆を解き、隋の亡びについて語った。琮は伏して哭き極めて哀しく、建德もまた泣いた。麾下の者が言うには、「河間は久しく拒み守り、多く士卒を殺した。今力尽きて降る。これを烹ることを請う」。建德は言った、「琮は誼士である。我まさにこれを旌擢して君に事える者を励ますべきである。かつて盗賊であった時は、妄りに人を殺すこともできたが、今は将に百姓を安んじ天下を定めんとしている。忠臣を害することがあろうか」。直ちにその軍に令して曰く、「琮と隙ある者敢えて輒ち動揺せば、罪三族に及ぶ」。そこで琮を瀛州刺史に授けた。

初めに楽寿に都し、金城宮と号し、百官を備え、開皇の故事に準じた。冬至、大いに僚吏を会し、五つの大鳥がその宮に集まり、群鳥がこれに従った。また宗城の人が玄圭一つを献じた。景城丞孔德紹が言うには、「昔、天はこれをもって禹に授けた。今、瑞はこれに等しい。国は夏と称すべし」。建德はこれを然りとした。元号を五鳳と改め、德紹を内史侍郎とした。

武徳元年、宇文化及が魏県に至った。建德はその納言宋正本及び德紹に言った、「我は隋の民、隋は我が君である。今、化及がこれを殺すは、大逆無道、すなわち我が仇である。天下のためにこれを誅せんと欲する。いかがか」。正本らは言った、「大王は布衣より奮い起こり、漳南より起つ。隋の列城は争って附かざるはなく、順を杖き義を扶け、四方を安んずる能あるによる。化及は隋の姻裏にして、これに倚りて疑わず、今、君を戕してその国を移す。仇は天を共にせず。請う、鼓行してその罪を執らん」。建德はこれを善しとした。直ちに兵を引いて化及を討ち、連戦してこれを破った。化及は聊城を保った。そこで撞車や機石を放ち、四面より城に乗り、これを抜いた。建德が入城し、先ず蕭皇后に謁し、語に臣と称した。宇文智及・楊士覧・元武達・許弘仁・孟景らを執り、隋の文武官を召して共に臨んで斬り、首を轅門に梟した。化及とその子を囚え、檻車に載せ、大陸県に至って斬った。

建德の性質は質素を旨とし、肉食を好まず、飯は玄米に野菜を添えるのみ、妻の曹氏は絹織物を着たことがなかった。王となってからも、妾侍は十数人に留めた。城を落とし敵を破るたびに、財宝はすべて将士に分け与えた。この時、隋の宮人をなお千数人得たが、すべて釈放した。その文武官・ぎょう果はなお万余りおり、それぞれ行くところを聴した。そこで宇文化及を誅したことを越王侗に報じると、侗は彼を夏王に封じ、ここに大夏と号した。隋の黄門侍郎裴矩を尚書右仆射とし、兵部侍郎崔君肅を侍中とし、少府令何稠を工部尚書とし、その他は才能に応じて職を授け、政事を委ねた。関中や東都へ行きたい者は、自由に去ることを許し留めず、なお道中の費用を与え、兵で国境まで護送した。

二年、邢州・趙州・滄州の三州を陥れた。また冀州を陥とし、刺史曲棱を捕らえたが赦し、再び刺史とした。八月、洺州を陥とし、刺史袁子幹を虜にし、ここに遷都して、万春宮と改称した。使者を灌津に遣わして先祖の墓を祀り、守冢三十家を置いた。また使者を遣わして侗に朝し、これにより王世充と親交を結び、北は突厥に聘問し、士馬はますます精強となった。やがて世充が侗を廃すると、彼と絶交した。始めて天子の旌旗を建て、出入りに警蹕を設け、文書を詔と称した。隋の煬帝を閔帝と追謚し、斉王暕の子政道を鄖公とした。義成公主が突厥におり、使者を遣わして蕭后を迎えたので、建德自ら千余騎を率いてこれを送り、併せて化及の首を献じた。

間もなく、突厥と連合して相州を侵し、刺史呂瑉はこれに死した。衛州を攻撃し、河北大使淮安王神通・同安長公主・黎陽守将李世勣を捕らえたが、釈放した。再び世勣に黎陽を守らせ、王と公主を賓客の礼をもてなした。滑州刺史王軌が奴に殺され、奴はその首を持って建德に奔った。建德は言った、「奴が主を殺すは大逆である。これを受け入れれば賞せざるを得ず、逆を賞すれば教えを廃する。どうして用いられようか」と。奴を斬り、王軌の首を返すよう命じた。滑人はこれを徳とし、ここに降伏し、斉州・済州の二州も降った。兗州の賊徐円朗は風聞して款を通じた。

三年、世勣は自ら脱して国に帰った。役人が建德にその父を誅すよう申し出たが、建徳は言った、「臣たる世勣は唐の臣であり、その主を忘れぬは忠である。父に何の罪があろうか」と。釈放して問わなかった。高祖が使者を遣わして和好を修めると、建德は直ちに公主らを京師に帰した。かつて趙州刺史張誌昂・邢州刺史陳君賓・大使張道源らを捕らえ、殺そうとした。国の祭酒淩敬が諫めて言った、「犬はその主ならぬ者に吠える。彼らは力を尽くして堅守し、窮して捕らえられたのであり、節を守る士です。今これを殺せば、勧めるところがありません」と。建德は怒って言った、「我がその城を攻めてもなお下らず、士卒を労費させた。どうして赦せようか」と。敬は言った、「王の大将高士興が易水の南で羅藝に抗した時、兵が交わらぬうちに士興は即座に降伏しました。王はこれをよしとされますか」と。建德は悟り、直ちに彼らを釈放した。しかしその大将王伏宝はしばしば兵を握り、功略は諸帥の上にあったが、ある者が彼の謀反を讒言したので、建德はこれを殺した。伏宝は臨死に叫んで言った、「我に罪なし。王は何ゆえ讒言を信じ、自ら左右の手を刈るのか」と。後に戦いしばしば利あらず。

九月、建德自ら師を帥いて幽州を囲んだが、羅藝に敗れた。藝は勝に乗じてその営を襲った。建德は陣営の中にあり、塹壕を埋めて出て、藝の衆を破り、進んでその城に迫ったが、抜くことができず、帰還した。済陰の賊孟海公は兵三万を擁し、周橋城に拠って河南を掠めた。建德自らこれを撃った。時に秦王が東都を伐つと、その中書舎人劉斌が献策して言った、「唐は関内を拠り、鄭王(王世充)は河南を有し、夏は冀方を有す。これ鼎足相持の勢いです。今唐は兵を悉くして鄭に臨み、出入りすること二年、鄭人は日に日に窮します。二国の兵が解けず、唐強く鄭弱ければ、勢い必ず鄭を挙げるでしょう。鄭が滅べば大夏には唇亡びて歯寒しの憂いがあります。大王のためを計るに、鄭を援けるに如かず。鄭に内に抗させ、我は外より攻めれば、唐の兵は必ず退くでしょう。唐が退き鄭が全うすれば、その後徐々にその変を観ます。鄭が図り得るなら、これによりこれを取り、二国の兵を併せ、唐の師の老いたるに乗じ、長駆して西し、関中を遂に有することができましょう」と。建德は言った、「善し」と。そこで使者を世充に聘わせ、連和した。時に世充も自ら師を乞うたので、直ちにその臣李大師・魏処絵を来朝させ、鄭の囲みを解くよう請わせたが、秦王はこれを留めて答えなかった。

四年、建德は周橋を攻克し、海公を虜にし、その将範願を留めてこれを戍らせた。海公・徐円朗の衆を悉く発し、兵を併せて号三十万で世充を救った。滑州に至ると、世充の行台仆射韓弘が城を開いてこれを迎え入れた。建德は進んで元州・梁州・管州の三州を逼り、いずれも陥ち、ここに滎陽けいように屯した。糧食を運び河を溯って西上し、舟は相連なって絶えなかった。成臯の東原に壁を築き、板渚に営を築いた。使者を遣わして世充と期日を約し、また秦王に書を遺した。

三月、王(秦王)は進んで虎牢を占拠した。翌日、騎兵五百をもって建德の営を偵察し、道傍に伏兵を設け、ただ数騎で賊の営より三里のところまで行った。賊に気づかれ、賊は騎兵を出してこれを追った。王は次第に退き、伏兵のところまで誘い込み、突然奮起して撃った。賊騎は驚き、引き去った。追撃して三百級を斬り、その将殷秋・石瓚を獲た。ここに書をもって建德に報じた。建德は二将を失い、また唐の兵が精鋭であると聞き、書を得て躊躇し、六十日間頓兵して西進を敢えなかった。

時に世充の弟世辯は徐州行台であり、また将郭士衡・兵数千人を遣わして建德に従った。王は王君廓に軽騎をもってその糧秣を襲撃させ、賊の大将張清特を捕らえた。建德は恐れ、人心は離反し動揺した。その諸将はまた新たに海公を破ったばかりで、掠奪した獲物が満ち足りており、日夜帰郷を思っていた。淩敬が建徳に説いて言った、「今唐は重兵をもって東都を囲み、虎牢を守っています。我がもし兵を悉くして河を渡り、懐州・河陽を取り、重将を以てこれを戍らせ、その後鼓を鳴らし旗を建て、太行を越え、上党に入り、檄を伝えて傍郡に告げ、壷口に進んで蒲津を駭かせ、河東の地を収める。これが上策です。かつ三つの利があります。虚に乗じて境を払い、師に万全あり、これが一。土を拓き衆を得る、これが二。鄭の囲みは自ずから解ける、これが三です」と。建德はこれに従おうとしたが、王琬・長孫安世が日々兵を西に向かわせるよう請い、言うたびに必ず涙を流し、また密かに金玉を贈って諸将を買収し、その謀を撓乱した。衆は乃ち言った、「淩敬は一介の書生に過ぎず、どうして戦を知ろうか」と。建德は乃ち謝して言った、「今士心は鋭く、天我を賛する。師は大捷せんとす。今衆議を用いんとす。公の言の如くにはできぬ」と。敬は固く争ったので、建德は怒り、扶け出させた。その妻が諫めて言った、「祭酒の計は甚だ善し。王は何ゆえこれを用いられぬのか。滏口の道より唐の虚に乗じ、連営して漸進し山北を取り、これにより突厥を招き西して関中を襲わせれば、唐は必ず師を還して自ら救い、鄭の難は舒ぐでしょう。今虎牢の下に頓兵し、徒らに自ら苦しむのみで、恐らく功無からん」と。建德は言った、「これは女子の知るところではない。かつ鄭は朝夕我が来るを待っている。既にこれを許した以上、どうして難を見て退き、かつ天下に不信を示せようか」と。

五月、建徳は板渚より出でて陣を為し、西は汜南に迫り、鵲山に属し、二十里に亘り、鼓して進む。郭士衡は遊兵と為る。秦王は虎牢城に登りて其の軍を望み、甲を按じて戦はず、曰く、「賊は山東に起こり、未だ大敵を見ず、今険を度りて士囂しく、令は肅ならず。城に逼りて陣し、我が心を軽んずる有り。其の饑を待てば、之を破るは果たしてならん」と。日中、建徳の士皆坐列し、渇きて争ひて飲み、意益々怠る。王は軍を麾して先づ登り、騎は怒り、塵大いに漲り、乃ち史大奈・秦叔宝を率ひて麾幟を纏ひ、弛ちて賊陣の後に出づ。建徳軍顧みて驚き、遂に大いに潰く。建徳は重創を被り、牛口谷に竄る。車騎将軍白士譲・楊武威之を獲て、伝えて西し、長安市に斬る。年四十九。初め、其の軍に謡有りて曰く、「豆牛口に入れば、勢ひ久しからず」と。是に至りて果たして敗る。

建徳の妻と其の左仆射斉善行は騎数百を以て遁れて洺州に還る。余党其の養子を立てて主と為さんと欲す。善行曰く、「夏王奄に河朔を定め、威強と号せり。今一出して復せず、天命の帰する有らざらんや。心を委ねて命を請ひ、生民を塗炭にせしむること無かれ」と。遂に府庫を分ち将士に散給し、各解き去らしむ。善行乃ち右仆射裴矩・行台曹旦と率ひて官属及び建徳の妻を奉じ、山東の地並びに伝国八璽を以て来降す。建徳起兵より滅に至るまで凡そ六年。

賛に曰く、煬帝徳を失ひ、天其の為すを醜とし、生人辜たり、群盗之に乗ずること、〓胃の毛の如くして奮ふ。其の劇なる者は、李密の黎陽に因る若く、蕭銑の江陵に始まる若く、竇建徳の河北に連なる若く、王世充の東都を挙ぐる若く、皆牙を磨き毒を揺るがして以て相ぜい螫す。其の間亦仁義を仮り、賢才を礼し、之に因りて王を擅にし帝を僭す。所謂盗も亦道有りと謂ふ者なり。本夫孽気腥焰、以て隋を亡ぼす所以のもの、唐の明徳に触れ、折北して支へず、禍極まり兇殫り、乃ち殲夷に就く。宜なるかな。