新唐書

巻八十四 列傳第九 李密

巻八十四 列傳第九 李密

李密

原文李密

李密、字あざなは玄邃、一字は法主、その先祖は遼東襄平の人である。曾祖父の弼は、魏の司徒となり、徒何氏の姓を賜り、周に入って太師・魏国公となった。祖父の曜は邢国公、父の寛は隋の上柱国・蒲山郡公であった。そこで長安に家を定めた。

原文李密,字玄邃,一字法主,其先遼東襄平人。曾祖弼,魏司徒,賜姓徒何氏,入周為太師、魏國公。祖曜,邢國公。父寬,隋上柱國、蒲山郡公。遂家長安。

密は才知に富み雄大な遠謀を持ち、策略多く、家財を散じて食客を養い賢者を礼遇し惜しむところがなかった。蔭官により左親衛府大都督・東宮千牛備身となった。額は鋭く角張り、瞳は黒白明瞭であった。煬帝がこれを見て、宇文述に言うには、「左仗下の黒色の小児は誰か」と。曰く、「蒲山公李寛の子の密です」と。帝曰く、「此の児は顧眄常ならず、衛に入るべからず」と。他日、述は密に諭して言うには、「君の家は代々素より貴く、才学を以て顕れるべきなり、何事ぞ三衛の間に在るや」と。密は大いに喜び、病と称して辞し、感奮して読書に励んだ。包愷が緱山に在ると聞き、往きてこれに従った。蒲の鞍を牛に乗せ、『漢書』一帙を角に掛け、行きながら読んだ。越国公楊素が道でちょうどこれを見て、轡を押さえてその後を追い、「何の書生か、かくも勤勉なる」と言った。密は素を知り、下りて拝した。読むところを問うと、曰く「『項羽伝』なり」と。そこで語り合い、これを奇とした。帰って子の玄感に謂って曰く、「吾れ密の識見と度量を観るに、汝ら輩の如きに非ず」と。玄感はここに心を傾けて交わりを結んだ。嘗て密に私かに言うには、「上は猜忌多く、隋の歴数且つ長からず、中原に一日の警あらば、公と我と孰れか後先せん」と。密曰く、「両陣の勝を決するに、噫嗚咄嗟、以て敵を詟するに足るは、我公に如かず。天下の英雄を攬りてこれを馭し、遠近をして帰属せしむるは、公我に如かず」と。

原文密趣解雄遠,多策略,散家貲養客禮賢不愛藉。以廕為左親衛府大都督、東宮千牛備身。額銳角方,瞳子黑白明澈。煬帝見之,謂宇文述曰:「左仗下黑色小兒為誰?」曰:「蒲山公李寬子密。」帝曰:「此兒顧盼不常,無入衛。」它日,述諭密曰:「君世素貴,當以才學顯,何事三衛間哉!」密大喜,謝病去,感厲讀書。聞包愷在緱山,往從之。以蒲韉乘牛,掛《漢書》一帙角上,行且讀。越國公楊素適見於道,按轡躡其後,曰:「何書生勤如此?」密識素,下拜。問所讀,曰:「《項羽傳》。」因與語,奇之。歸謂子玄感曰:「吾觀密識度,非若等輩。」玄感遂傾心結納。嘗私自密曰:「上多忌,隋歷且不長,中原有一日警,公與我孰後先?」密曰:「決兩陣之勝,噫嗚咄嗟,足以詟敵,我不如公。攬天下英雄馭之,使遠近歸屬,公不如我。」

大業九年、玄感は黎陽に挙兵し、人を遣わして関中に入り密を迎えさせた。密至りて謀りて曰く、「今天子遠く遼左に在り、幽州を去ること尚ほ千里、南は巨海に限られ、北は強胡に阻まれ、号令の通ずるは、惟だ榆林一道のみなり。若し鼓して薊に入り、直ちに其の喉を扼せば、高麗其の前に抗し、我其の後に乗ずれば、旬月を経ずして糧尽き、麾を挙げて之を召せば、衆尽く取るべし、然る後に檄を伝えて南せば、天下定まれり、是れ上計なり。関中は四塞の地、彼の留守衛文升は、易き人なり。若し径行して留まらず、直ちに長安を保ち、函・崤を拠り、東に諸夏を制せば、是れ隋亡の襟帯、我が勢万全、中計なり。若し近きに因り便に趣き、先ず東都を取り、兵を堅城の下に頓すれば、勝負を以て決すべからず、下計なり」と。玄感曰く、「公の下計、乃ち吾が上策なり。今百官の家屬皆洛に在り、当に先ず之を取り、以て其の心を揺がすべし。且つ城を経て抜かずんば、何を以て武を示さん」と。密の計は行われず。玄感は東都に至り、戦う所必ず克ち、功は旦夕に在りと自ら謂う。内史舍人韋福嗣を獲るに及び、遂に之を任用したので、謀り専ら密に在らず。福嗣は捕らわれたるを恥じ、策議皆両端を持した。密は其の二心を揣り、玄感に謂って曰く、「福嗣は窮して我が虜となり、志は観望に在り。公初めて大事を挙ぐるに、奸人側に在り、事必ず敗るべし、請う斬りて以て徇らしめん」と。従わず。密は親しい者に謂って曰く、「玄感は好んで反すも勝を図らず、吾属虜となるべし」と。福嗣は果たして遁れ去った。時に左武候大将軍李子雄が罪を得、行在所に伝送される途中、使者を殺し、玄感に奔り、大号を挙ぐるを勧めた。玄感が密に問うと、密曰く、「昔張耳は陳勝の自ら王たるを諫め、荀彧は魏武の九錫を求むるを止め、皆疑われて外された。今密将に之に類せざらんや。然れども阿諛して旨に順うは、義士に非ず。且つ公は屡勝つと雖も、郡県応ずる者未だ有らず、東都尚ほ強く、救兵踵いて来らん。公は精甲を率い、身を以て関中を定むべし、奈何ぞ亟に自ら帝たらんとする」と。玄感は笑って止めた。

原文大業九年,玄感舉兵黎陽,遣人入關迎密。密至,謀曰:「今天子遠在遼左,去幽州尚千里,南限鉅海,北阻強胡,號令所通,惟榆林一道爾。若鼓而入薊,直扼其喉,高麗抗其前,我乘其後,不旬月賫糧竭,舉麾召之,眾可盡取,然後傳檄而南,天下定矣,上計也。關中四塞之地,彼留守衛文升,易人耳。若徑行勿留,直保長安,據函、崤,東制諸夏,是隋亡襟帶,我勢萬全,中計也。若因近趣便,先取東都,頓兵堅城下,不可以勝負決,下計也。」玄感曰:「公之下計,乃吾上策。今百官家屬皆在洛,當先取之,以搖其心。且經城不拔,何以示武?」密計不行。玄感至東都,所戰必克,自謂功在旦暮。既獲內史舍人韋福嗣,遂任之,故謀不專密。福嗣恥見執,策議皆持兩端。密揣其貳,謂玄感曰:「福嗣窮,為我虜,誌在觀望。公初舉大事,奸人在側,事必敗,請斬以徇。」不從。密謂所親曰:「玄感好反而不圖勝,吾屬虜矣!」福嗣果遁去。會左武候大將軍李子雄得罪,傳送行在,道殺使者,奔玄感,勸舉大號。玄感問密,密曰:「昔張耳諫陳勝自王,荀彧止魏武求九錫,皆見疑外。今密將無類之乎?然阿諛順旨,非義士也。且公雖屢勝,而郡縣未有應者,東都尚強,救兵踵來,公當率精甲,身定關中,奈何亟自帝?」玄感笑而止。

及んで隋軍至るや、玄感曰く、「策安くにか決せん」と。密曰く、「元弘嗣方に隴右を戍る、陽に其の反を言い、我を迎えしむべし、因りて軍を引きて西せん」と。これに従った。陝に至り、弘農宮を囲まんと欲す。密曰く、「今衆を紿して関に入る、機は速に在り。而して追兵我に踵く、若し前に険を拠るを得ず、退きて守る所無くんば、何を以て共に完からん」と。玄感は聴かず。留まりて三日攻むるも、抜く能わず、引き去り、閺郷に至り、追い及ばれて敗れた。

原文及隋軍至,玄感曰:「策安決?」密曰:「元弘嗣方戍隴右,可陽言其反,使迎我,因引軍西。」從之。至陜,欲圍弘農宮,密曰:「今紿眾入關,機在速,而追兵踵我,若前不得據險,退無所守,何以共完!」玄感不聽。留攻三日,不能拔,引去,至閺鄉,追及而敗。

密は痩せ衰えて関に入り、邏卒に捕らえられ、支党と共に帝の在所に護送された。密は衆に謂って曰く、「吾等行在所に至らば、且つ菹醢にせられん、今尚ほ計を以て脱するべし、何ぞ安んじて鼎鑊に就かん」と。衆然りとす。乃ち所有の金を出して監使に示し曰く、「即ち死すとも、幸いに徳に報いよ」と。使者は金を顧み、禁漸く弛み、益々酒を買い、飲み笑い歓嘩し、守者懈る。密等遂に夜亡げ去った。平原に抵るも、賊の郝孝德は礼せず、去って淮陽に至る。歳飢え、木の皮を削りて食す。姓名を変えて劉智遠と為し、諸生を教授して自ら給し、鬱々として志を得ず、哀吟して泣下す。太守趙佗に告ぐる者有り、佗之を捕らうるも、遁れて免れた。雍丘令丘君明(〓胃の婿)に依り往き、転じて大侠王季才の家に匿わるも、吏に跡を捕らえられ、復た亡げ去った。

原文密羸行入關,為邏所獲,與支黨護送帝所。密謂眾曰:「吾等至行在,且菹醢,今尚可以計脫,何為安就鼎鑊?」眾然之。乃令出所有金示監使曰:「即死,幸報德。」使者顧金,禁漸弛,益市酒,飲笑歡嘩,守者懈,密等遂夜亡去。抵平原,賊郝孝德不見禮,去之淮陽。歲饑,削木皮以食。變姓名為劉智遠,教授諸生自給,鬱鬱不得志,哀吟泣下。人有告太守趙佗者,佗捕之,遁免。往依〓胃婿雍丘令丘君明,轉匿大俠王季才家,為吏跡捕,復亡去。

時に東郡の賊翟譲が党を聚めて万人、密は其の徒の王伯當を介して策を以て譲に干し曰く、「今主上に昏く、下に人怨み、鋭兵尽く遼海に之き、和親は突厥とっけつに絶え、南巡流連し、空しく関輔を棄つ、此れ実に劉・項の挺興の会なり。足下は豪桀を資とし、士馬精勇、罪を指して暴を誅し、天下に先んずれば、楊氏亡ぶに足らず」と。譲ここに由って礼を加え、諸賊を説かしむるに遣わすと、至れば輒ち下った。因りて譲に計りて曰く、「今稟に見る糧無く、持久に難く、卒然敵に遇えば、其の亡ぶ時無からん。滎陽けいようを取るに如かず、兵を休め館穀し、士逸び馬肥ゆるを待ちて、乃ち人と利を争うべし」と。譲これを聴き、遂に金堤関を破り、滎陽諸県を徇れば、皆下った。滎陽太守楊慶・河南討捕大使張須陀が兵を合わせて譲を討つ。譲は素より須陀を憚り、引き去らんと欲す。密曰く、「須陀は健にして謀無く、且つ驟勝ち易く驕る、吾公が為に之を破らん」と。譲已むを得ず、陣して待つ。密は驍勇の常何等二十人を率いて遊騎と為し、千兵を草莽の間に伏せしむ。須陀は素より譲を軽んじ、兵を引いて之を搏つ。譲稍く卻く。伏兵発し、遊軍と之に乗ず。遂に須陀を殺した。

原文時東郡賊翟讓聚黨萬人,密因介其徒王伯當以策幹讓曰:「今主昏於上,人怨於下,銳兵盡之遼海,和親絕於突厥,南巡流連,空棄關輔,此實劉、項挺興之會。足下資豪桀,士馬精勇,指罪誅暴,為天下先,楊氏不足亡也。」讓由是加禮,遣說諸賊,至輒下。因為讓計曰:「今稟無見糧,難以持久,卒遇敵,其亡無時。不如取滎陽,休兵館谷,待士逸馬肥,乃可與人爭利。」讓聽之,遂破金堤關,徇滎陽諸縣,皆下。滎陽太守楊慶、河南討捕大使張須陀合兵討讓,讓素憚須陀,欲引去。密曰:「須陀健而無謀,且驟勝易驕,吾為公破之。」讓不得已,陣而待。密率驍勇常何等二十人為遊騎,伏千兵莽間。須陀素輕讓,引兵搏之,讓少卻,伏發,與遊軍乘之,遂殺須陀。

十三年、譲は兵を分かちて密に与え、別に牙帳を為し、号して蒲山公とす。密は軍を厳しく持し、盛夏と雖も号令すれば、士皆霜雪を負うが若く、然れども戦いて金宝を得れば、尽く之を散ず。ここに由って人の用いらるる所と為る。復た譲に説いて曰く、「今群豪競い興り、公は天下に先んじて群兇を攘除すべし、寧んぞ常に草間を剽奪して活を求むるに止まらんや。若し直ちに興洛倉を取り、粟を発して窮乏を賑わば、百万の衆一朝に附すべく、霜王の業成るべし」と。譲曰く、「仆は畎隴より起り、志此に及ばず。君の倉を得るを須ち、更に之を議せん」と。

原文十三年,讓分兵與密,別為牙帳,號蒲山公。密持軍嚴,雖盛夏號令,士皆若負霜雪,然戰得金寶,盡散之,繇是人為用。復說讓曰:「今群豪競興,公宜先天下攘除群兇,寧常剽奪草間求活哉?若直取興洛倉,發粟以賑窮乏,百萬之眾一朝可附,霜王之業成矣。」讓曰:「仆起畎隴,誌不及此,須君得倉,更議之。」

二月、密は千人を以て陽城の北に出で、方山を逾え、羅口より興洛倉を抜き、之を拠り、県長の柴孝和を獲た。倉を開き食を賑わすと、衆繦属して数十万に至る。隋の越王侗は将の劉長恭・房崱を遣わして密を討たしめ、又裴仁基に命じて兵を統べさせ成臯の西に出ださしむ。密は乃ち十隊を為し、洛水を跨ぎ、東・西二軍に抗す。単雄信・徐世勣・王伯當に騎を率いさせ左右翼と為し、自ら麾下を引きて急に長恭等を撃ち、之を破る。東都震恐し、衆は太微城を保ち、台寺俱に満つ。

原文二月,密以千人出陽城北,逾方山,自羅口拔興洛倉,據之,獲縣長柴孝和。開倉賑食,眾繦屬至數十萬。隋越王侗遣將劉長恭、房崱討密,又令裴仁基統兵出成臯西。密乃為十隊,跨洛水,抗東、西二軍。令單雄信、徐世勣、王伯當騎為左右翼,自引麾下急擊長恭等,破之。東都震恐,眾保太微城,臺寺俱滿。

翟譲らは乃ち李密を推して主と為し、号を魏公と建て、鞏県の南に壇場を設け、即位し、牲を刑して血を歃ち、元号を永平と改め、大赦を行い、その文移は行軍元帥魏公府と称した。翟譲を以て司徒と為し、邴元真を左長史と為し、房彦藻を右長史と為し、楊徳方を左司馬と為し、鄭徳韜を右司馬と為し、単雄信を左武候大将軍と為し、徐世勣を右武候大将軍と為し、祖君彦を記室と為した。洛口に城を築き、周囲四十里、之に居る。護軍将軍田茂広に命じて雲梯三百具を造らしむ。

原文讓等乃推密為主,建號魏公。鞏南設壇場,即位,刑牲歃血,改元永平,大赦,其文移稱行軍元帥魏公府。以讓為司徒,邴元真左長史,房彥藻右長史,楊德方左司馬,鄭德韜右司馬,單雄信左武候大將軍,徐世勣右武候大將軍。祖君彥記室。城洛口,周四十里,居之。命護軍將軍田茂廣造雲

三百具を備え、機械を用いて石を発射し、攻城の器械と為し、号して「将軍砲」と曰う。東都に進逼し、上春門を焼く。

原文三百具,以機發石,為攻城械,號「將軍砲」。進逼東都,燒上春門。

四月、隋の虎牢の将裴仁基・淮陽太守趙佗降り、長白山の賊孟讓はその部を率いて密に帰す。仁基を上柱国と為し、譲と兵二万を率いて回洛倉を襲い、これを守る。都城に入り居人を掠め、天津橋に火を放つ。隋軍出でて之に乗ず、仁基等敗れ、還りて鞏を保つ。司馬楊徳方戦死す。密自ら衆三万を督し、故城に於いて隋軍を破り、復た回洛倉を得る。俄にして徳韜死す、乃ち鄭頲を左司馬と為し、鄭虔象を右司馬と為す。諸賊帥黎陽の李文相・洹水の張升・清河の趙君徳・平原の郝孝徳皆密に帰し、因りて黎陽倉を襲い取る。永安の大族周法明は江・黄の地を挙げて之に附き、斉郡の賊徐円郎・任城の大侠徐師仁来たりて帰す。密幕府に令して檄を州県に移し、煬帝の十罪を列ね、天下震動す。

原文四月,隋虎牢將裴仁基、淮陽太守趙佗降,長白山賊孟讓以所部歸密。以仁基為上柱國,與讓率兵二萬襲回洛倉,守之。入都城掠居人,火天津橋。隋出軍乘之,仁基等敗,還保鞏。司馬楊德方戰死。密自督眾三萬,破隋軍於故城,復得回洛倉。俄而德韜死,乃以鄭颋為左司馬,鄭虔象右司馬。諸賊帥黎陽李文相、洹水張升、清河趙君德、平原郝孝德皆歸密,因襲取黎陽倉。永安大族周法明舉江、黃地附之,齊郡賊徐圓郎、任城大俠徐師仁來歸。密令幕府移檄州縣,列煬帝十罪,天下震動。

護軍柴孝和、密に説いて曰く、「秦の地は山に阻まれ河を帯び、項背の亡びし後、漢これを得て王たり。今公は仁基をして回洛に壁し、翟譲をして洛口を保たしむ。公鎧を束ねて道を倍して長安に趨れば、百姓誰か郊迎せざらん。是れ征して戦わざるなり。衆附き兵強くして、然る後に東に向かい、豪傑を指捴し、天下廓清して事無からん。今これを遅らせば、人の先んずるを恐る」と。密曰く、「僕此れを懐くこと久し。顧みるに我が部は皆山東の人、今洛を下さず、安んぞ我と偕に西せん。且つ諸将は皆群盗、相統一せず、敗れば則ち掃地す」と。遂に止む。是の時、隋軍益々出で、密は鋭を負い、急ぎ之と確し、流矢に中り、営中に臥す。隋軍之に乗じ、密の衆潰え、倉を棄てて洛口を守る。」

原文護軍柴孝和說密曰:「秦地阻山帶河,項背之亡,漢得之王。今公以仁基壁回洛,翟讓保洛口,公束鎧倍道趨長安,百姓誰不郊迎?是征而不戰也。眾附兵強,然後東向,指捴豪傑,天下廓清無事矣。今遲之,恐為人先。」密曰:「仆懷此久,顧我部皆山東人,今未下洛,安肯與我偕西?且諸將皆群盜,不相統一,敗則掃地矣。」遂止。是時,隋軍益出,密負銳,急與之確,中流矢,臥營中,隋軍乘之,密眾潰,棄倉守洛口。

高祖が太原にて挙兵せしとき、密は自ら盟主と謂ひ、将軍張仁則を遣はして帝に書を致し、兄と呼び、歩騎を以て河内に会せんことを請ふ。

原文高祖起師太原,密自謂主盟,遣將軍張仁則致書於帝,呼為兄,請以步騎會河內。帝覽書,笑曰:「密陸梁,不可折簡致之。吾方定京師,未能東略,若不與,是生一隋。密適為吾守成臯,拒東都兵,使不得西,更遣剽將莫如密。吾寧推順,使驕其誌,我得留撫關中,大事濟矣。」令記室溫大雅作報書,厚禮尊讓。密大喜,示其下,曰:「唐公見推,顧天下無可慮者。」遂專事隋。

九月、将軍李士才を遣わして兵十二万を率い、隋の鷹揚郎将張珣を河陰に攻め、これを挙げる。珣は極めて罵り屈せずして死す。斉の方士徐鴻客が上書して密に、士気に因り江都に趨り、帝を挟みて天下に令せんことを勧む。密は其の言を異とし、幣を具えて之を邀うも、已に亡去す。煬帝、王世充を遣わして卒十万を選び密を撃たしむ。世充は洛西に営し、戦い利あらず、更に洛北に陣し、山に登りて洛口を望む。密は兵を引きて洛を渡り、世充と戦う。密の兵は騎と長槊多しと雖も、北は山に薄く、地隘にして騎迮として騁るを得ず。世充は短兵盾多く、之を蹙めば、密軍却き、世充は勝に乗じて密の月城を攻む。密は洛南に還り、兵を引きて西し、世充の営を突けば、世充は奔りて還る。師徒多く喪い、孝和は洛水に溺死す。密之を哭して慟す。是より大小六十余戦す。

原文九月,遣將李士才將兵十二萬,攻隋鷹揚郎將張珣河陰,舉之。珣極罵不屈死。齊方士徐鴻客上書勸密因士氣趨江都,挾帝以令天下。密異其言,具幣邀之,已亡去。煬帝遣王世充選卒十萬擊密,世充營洛西,戰不利,更陳洛北,登山以望洛口。密引度洛,與世充戰。密兵多騎與長槊,而北薄山,地隘騎迮不得騁。世充多短兵盾,蹙之,密軍卻,世充乘勝進攻密月城。密還洛南,引而西,突世充營,世充奔還。師徒多喪,孝和溺死洛水,密哭之慟。自是大小六十余戰。

翟譲の部将王儒信は密の威望を憚り、譲に自ら大冢宰となり、衆務を総べて執り、密の権を収むるを勧む。譲の兄寛も亦曰く、「天子は当に自ら取るべし、何ぞ人に授けん」と。密これを聞き、鄭頲と陰に譲を図る。会に世充の兵又至り、譲出でて拒ぎ、少しく退く。密馳せてこれを助け、石子河に戦い、世充走る。明日、高会して士を饗し、譲密の所に至る。密房彦藻に令して其の左右を引き、別帳に就きて飲ましむ。密名弓を出して譲に示す。譲挽きて満たし、剣士蔡建を遣わして後よりこれを撃たしめ、並びに其の兄・姪及び儒信を殺す。密馳せて譲の壁に入り慰諭す。士敢えて動く者無し。徐世勣・単雄信・王伯當を以て其の兵を分統せしむ。隋の将楊慶は滎陽を守る。因りてこれを説き下す。世充夜倉城を襲う。密甲を伏せて其の衆を殪えいす。

原文翟讓部將王儒信憚密威望,勸讓自為大冢宰,總秉眾務,收密權。讓兄寬亦曰:「天子當自取,何乃授人?」密聞之,與鄭颋陰圖讓。會世充兵又至,讓出拒,少退;密馳助之,戰石子河,世充走。明日,高會饗士,讓至密所,密令房彥藻引其左右就別帳飲。密出名弓示讓,讓挽滿,遣劍士蔡建從後擊之,並殺其兄、侄及儒信。密馳入讓壁慰諭,士無敢動者,以徐世勣、單雄信、王伯當分統其兵。隋將楊慶守滎陽,因說下之。世充夜襲倉城,密伏甲殪其眾。

義寧二年、世充はまた洛北に営し、浮橋を造り、水を断って戦わんとし、密は千騎を以て迎え撃つも勝たず。世充は進んで其の塁に迫り、密は敢死の士数百を率いて邀え撃ち、世充は大いに潰え、士卒は橋を争い溺死する者数万、洛水は流れず、大将六人を殺し、独り世充は脱す。時に夜大雨雪に会い、士卒は僵死して且つ尽きんとす。密は鋭に乗じて偃師を抜き、金墉城を修めて之に居り、衆三十万を有つ。また東都留守韋津と上春門に戦い、陣中に津を執る。将作大匠宇文愷の子儒童、河南留守職方郎柳続、河陽都尉獨孤武都、河内郡丞柳燮皆降る。ここにおいて海岱・江淮の間争いて響附し、竇建德・硃粲・楊士林・孟海公・徐圓朗・盧祖尚・周法明等悉く表を上りて進むを勧め、府官属もまた之を請う。密曰く「東都未だ平らかならず、且く議うることなかれ」と。

原文義寧二年,世充復營洛北,為浮梁,絕水以戰,密以千騎迎擊,不勝。世充進薄其壘,密提敢死士數百邀之,世充大潰,士爭橋溺死者數萬,洛水為不流,殺大將六人,獨世充脫。會夜大雨雪,士卒僵死且盡。密乘銳拔偃師,脩金墉城居之,有眾三十萬。又與東都留守韋津戰上春門,執津於陣。將作大匠宇文愷子儒童、河南留守職方郎柳續、河陽都尉獨孤武都、河內郡丞柳燮皆降。於是海岱、江淮間爭響附,竇建德、硃粲、楊士林、孟海公、徐圓朗、盧祖尚、周法明等悉上表勸進,府官屬亦請之。密曰:「東都未平,且勿議。」

五月、越王侗が帝を称す。六月、宇文化及が兵十余万を擁して黎陽に至る。侗は使者を遣わして密に太尉・尚書令・東南道大行臺行軍元帥・魏国公を授け、化及を平らげて後に入朝補弼せしめんと命ず。密これを受く。乃ち兵を率いて東に進み、化及を黎陽に追う。密は化及の食糧乏しきを知り、速戦を利とす。乃ち持重してその兵を老いさせ、徐世勣に黎陽倉を守らしむ。化及攻むるも下すこと能わず。密は水を隔てて陣し、遥かに化及に謂いて曰く、「公の家は元より戎隷の破野頭に過ぎず、父子兄弟隋の恩を受け、遂には公主を妻とす。上に失徳あれども諫むる能わず、又虐殺す。天下の悪を冒す。今安くにか往かん。能く即ち降らば、尚ほ後嗣を全うせん」と。化及は默然として良久く、乃ち目を瞋らせて鄙語を以て密を辱しむ。密は左右を顧みて曰く、「此れ庸人、帝たらんと図る。吾は箠を折って之を駆るべし」と。乃ち軽騎五百を以てその攻具を焚く。火は終夜滅せず。化及の糧尽きんことを度り、乃ち偽りに和す。化及喜び、軍をして恣に食わしむ。既にして密の饋餉至らず、乃ち悟る。遂に童山の下に大戦す。密は矢に中り、汲県に頓して壁を堅くす。化及は勢い窮まり、汲郡を掠め、魏県に趣く。その将陳智略・張童仁等、率いる所の兵を以て密に帰す。前後相踵ぐ。

原文五月,越王侗稱帝。六月,宇文化及擁兵十余萬至黎陽。侗遣使授密太尉、尚書令、東南道大行臺行軍元帥、魏國公,令平化及而後入輔,密受之。乃引兵東追化及黎陽。密知化及乏食,利速戰,乃持重以老其兵,使徐世勣保黎陽倉,化及攻不可下。密與隔水陣,遙謂化及曰:「公家本戎隸破野頭爾,父子兄弟受隋恩,至妻公主。上有失德不能諫,又虐殺之,冒天下之惡,今安往?能即降,尚全後嗣。」化及默然良久,乃瞋目為鄙語辱密。密顧左右曰:「此庸人,圖為帝,吾當折箠驅之。」乃以輕騎五百焚其攻具,火終夜不滅。度化及糧盡,乃偽與和,化及喜,使軍恣食,既而密饋不至,乃寤。遂大戰童山下,密中矢,頓汲縣堅壁。化及勢窮,掠汲郡,趣魏縣。其將陳智略、張童仁等率所部兵歸密,前後相踵。

初めに、化及は輜重しちょうを東郡に留め、署した刑部尚書王軌をしてこれを守らせた。ここに至り、軌は郡を挙げて密に降る。これにより兵を率いて西に向かい、使者を遣わして東都に朝し、逆人於弘達を執り殺して侗に献じた。侗は密を召して入朝せしめんとしたが、溫に至り、世充が元文都を殺したと聞き、乃ち止む。遂に金墉に帰り、侗の使者を拘えて遣わさず。

原文初,化及留輜重東郡,遣所署刑部尚書王軌守之。至是,軌舉郡降密。由是引而西,遣使朝東都,執殺逆人於弘達獻於侗。侗召密入朝,至溫,聞世充殺元文都,乃止。遂歸金墉,拘侗使不遣。

初め、李密は翟譲を殺してより、心次第に驕り、士卒を恤れまず、元より府庫の財なく、軍戦勝つも、賜与する所なく、又新たに集まる者を厚く撫で、人心始めて離る。民興洛倉の食を食む者、給授に検せず、至って負い取るに勝えず、道に委ね、践み輮みて狼扈たり。密喜び、自ら足食と謂う。司倉賈潤甫諫めて曰く、「人、国の本、食、人の天なり。今百姓饑えて捐ち、骨を道路に暴く。公は命を受くといえども、然れども人の天に頼りて以て国の本を固うす。而るに稟取節せず、敖庾の蔵も時に儩く、粟竭き人散らば、何をか仰ぎて成功せん」と。聴かず。徐世勣数たび其の違を規す、密内に喜ばず、出でて屯に就かしむ、故に下苟且にして固き志無し。初め、王世充食に乏しく、密は帛少なし、交相易えんことを請う、之を難ず。邴元真好利にして、密かに密を勧めて許さしむ。後世充の士飽き、降る者益々少なく、密悔いて止む。

原文初,密既殺翟讓,心稍驕,不恤士,素無府庫財,軍戰勝,無所賜與,又厚撫新集,人心始離。民食興洛倉者,給授無檢,至負取不勝,委於道,踐輮狼扈。密喜,自謂足食。司倉賈潤甫諫曰:「人,國本;食,人天。今百姓饑捐,暴骨道路。公雖受命,然賴人之天以固國本。而稟取不節,敖庾之藏有時而儩,粟竭人散,胡仰而成功?」不聽。徐世勣數規其違,密內不喜,使出就屯,故下茍且無固誌。初,世充乏食,密少帛,請交相易,難之。邴元真好利,陰勸密許焉。後世充士飽,降者益少,密悔而止。

武徳元年九月、世充衆を悉くして決戦し、先ず騎を以て数百度河を渡り、密遣わして迎戦せしむ、驍将十余人皆創を受けて返る。明日、密王伯當を留めて金墉を守らしめ、自ら精兵を引きて偃師を出で、北に邙山を阻みて之を待つ。密議して便を取る所、裴仁基曰く、「世充勁兵を悉くして来たり、東都必ず虚し、請う衆を選び二万を以て洛に向かわば、世充必ず自ら抜けて帰らん、我軍を整えて徐に還らん。兵法の所謂る彼帰れば我出で、彼出でれば我帰り、以て之を疲らすなり」と。密衆に眩み、用うること能わず。仁基地を撃ち嘆いて曰く、「公後必ず悔ゆ」と。遂に兵を出して陣す。世充密かに貌密に類する者を索め、之を縛らしむ。既に両軍接し、埃霧囂然として塞がり、世充の軍、江淮の士、出入り飛ぶが若く、密の兵心動く。世充衆を督めて疾く戦い、密に類する者を牽きて陣を過ぎしめ、噪ぎて曰く、「密を獲たり」と。士皆万歳を呼び、密の軍乱れ、遂に潰ゆ。裴仁基・祖君彦皆世充に禽せられ、偃師にて鄭頲劫かれて叛き世充に帰す。密衆万余を提げて洛口に馳せ、将に城に入らんとす、邴元真已に款を世充に輸し、潜かに其の軍を導く。密知りて発せず、期す世充の兵洛水を半ば渡るを、掩いて之を撃たんと。候騎時に覚えず、比して出づるに、世充河を絶つ。即ち騎を引きて武牢に遁れ、元真遂に降り、衆稍く散ず。

原文武德元年九月,世充悉眾決戰,先以騎數百度河,密遣迎戰,驍將十余人皆被創返。明日,密留王伯當守金墉,自引精兵出偃師,北阻邙山待之。密議所便,裴仁基曰:「世充悉勁兵來,東都必虛,請選眾二萬向洛,世充必自拔歸,我整軍徐還。兵法所謂彼歸我出,彼出我歸,以疲之也。」密眩於眾,不能用。仁基擊地嘆曰:「公後必悔!」遂出兵陣。世充陰索貌類密者,使縛之。既兩軍接,埃霧囂塞,世充軍,江淮士,出入若飛,密兵心動。世充督眾疾戰,使牽類密者過陣,噪曰:「獲密矣!」士皆呼萬歲,密軍亂,遂潰。裴仁基、祖君彥皆為世充所禽,偃師劫鄭颋叛歸世充。密提眾萬余馳洛口,將入城,邴元真已輸款世充,潛導其軍。密知不發,期世充度兵半洛水,掩擊之。候騎不時覺,比出,世充絕河矣。即引騎遁武牢,元真遂降,眾稍散。

密将に黎陽に如かんとす、或る人曰く、「向に翟譲を殺し、世勣傷いて幾くんか死に、瘡未だ平らかならず、今保つべきか」と。時に王伯當金墉を棄て河陽に屯す、密軽騎を以て之に帰り、謂いて曰く、「敗れたり、久しく諸君を苦しむ、我今自刎して以て衆に謝さん」と。伯當密を抱き慟哭して絶え、衆皆泣き、仰ぎ視ること能う者莫し。密復た曰く、「幸いに相棄てず、当に共に関中に帰らん、密は功無きといえども、諸君必ず富貴ならん」と。掾柳燮曰く、「昔盆子漢に帰し、尚食均輸す。公は唐と同族、共に起たずといえども、然れども隋の帰路を遏ち、西を無からしむ、故に唐戦わずして京師を拠る、亦た公の功なり」と。密又た伯當に謂いて曰く、「将軍の族重し、豈に復た孤と俱に行くべきや」と。伯當曰く、「昔蕭何宗を挙げて漢に従う、今昆季尽く行かず、以て愧じと為す。豈に公一たび利を失い、軽く去就すべきや。首を隕し胸を穴うるとも、甘んずる所已なり」と。左右感動し、遂に来帰す。

原文密將如黎陽,或曰:「向殺翟讓,世勣傷幾死,瘡猶未平,今可保乎?」時王伯當棄金墉屯河陽,密輕騎歸之,謂曰:「敗矣,久苦諸君,我今自刎以謝眾!」伯當抱密慟絕,眾皆泣,莫能仰視。密復曰:「幸不相棄,當共歸關中,密雖無功,諸君必富貴。」掾柳燮曰:「昔盆子歸漢,尚食均輸。公與唐同族,雖不共起,然遏隋歸路,使無西,故唐不戰而據京師,亦公功也。」密又謂伯當曰:「將軍族重,豈復與孤俱行哉?」伯當曰:「昔蕭何舉宗從漢,今不昆季盡行,以為愧。豈公一失利,輕去就哉?雖隕首穴胸,所甘已。」左右感動,遂來歸。

初め、密号を建て壇に登るに、疾風其の衣を鼓し、幾くんか仆たんとす。即位に及び、狐旁に鳴き、之を悪む。将に敗れんとするに及び、鞏数たび回風地より発し、砂礫を激して上天に属し、白日晦冥と為る。屯営群鼠相銜尾して西北より洛を渡り、月を経て絶えず。

原文初,密建號登壇,疾風鼓其衣,幾仆;及即位,狐鳴於旁,惡之。及將敗,鞏數有回風發於地,激砂礫上屬天,白日為晦;屯營群鼠相銜尾西北度洛,經月不絕。

関に入るに及び、兵尚ほ二万。高祖使いを遣わして迎え労い、冠蓋相望み、密大いに喜び、其の徒に謂いて曰く、「吾の挙ぐる所は就かざりといえども、而して恩百姓に結び、山東連城数百、吾が故を以て、当に尽く国に帰すべし。功竇融に減らず、豈に台司を以て我を処せざらんや」と。至るに及び、光禄卿を拝し、邢国公に封ぜられ、殊に怨望す。帝嘗て之を弟と呼び、表妹独狐氏を以て妻とす。後礼寝て薄く、執政者又賄を求め、滋に不平。朝会に因りて食を進むるに、王伯當に謂いて曰く、「往くに洛口に在り、嘗て崔君賢を以て光禄と為さんと欲す、意わず身自ら此れを為さんとは」と。

原文及入關,兵尚二萬。高祖使迎勞,冠蓋相望,密大喜,謂其徒曰:「吾所舉雖不就,而恩結百姓,山東連城數百,以吾故,當盡歸國。功不減竇融,豈不以臺司處我?」及至,拜光祿卿,封邢國公,殊怨望。帝嘗呼之弟,妻以表妹獨孤氏。後禮寢薄,執政者又求賄,滋不平。因朝會進食,謂王伯當曰:「往在洛口,嘗欲以崔君賢為光祿,不意身自為此。」

未だ幾ばくもせず、聞く故に部将多く世充に附かざる者有りと、高祖詔して密に本兵を以て就き黎陽に故部曲ぶきょくを招撫し、東都を経略せしむ、伯當左武衛将軍を以て密の副と為る。驛を馳せて東に至り稠桑驛にて、詔有りて復た密を召す、密大いに懼れ、叛かんと謀る。伯當之を止む、従わず、乃ち曰く、「士義を立て、存亡を以て慮を易えず。公伯當を顧み厚し、願わくは命を畢くして以て報ぜん。今俱に行くべし、死生之を以てす、然れども益無し」と。乃ち驍勇数十人を簡び、婦人の服を衣、幕釭を戴き、刀を裙下に蔵し、詐りて家の婢妾たる者と為し、桃林の伝舎に入り、須臾にして服を変えて出で、其の城を拠る。畜産を掠め、南山に趣きて東し、馳せて張善相に告げて兵を以て己に応ぜしむ。

原文未幾,聞故所部將多不附世充者,高祖詔密以本兵就黎陽招撫故部曲,經略東都,伯當以左武衛將軍為密副。馳驛東至稠桑驛,有詔復召密,密大懼,謀叛。伯當止之,不從,乃曰:「士立義,不以存亡易慮。公顧伯當厚,願畢命以報。今可同往,死生以之,然無益也。」乃簡驍勇數十人,衣婦人服,戴幕釭,藏刀裙下,詐為家婢妾者,入桃林傳舍,須臾變服出,據其城。掠畜產,趣南山而東,馳告張善相以兵應己。

熊州副将盛彦師歩騎を率い陸渾県南邢公峴の下に伏し、密の兵渡るに、横より出でて撃ち、之を斬る、年三十七、伯當俱に死し、首を伝えて京師に至る。時に徐世勣尚ほ密の為に黎陽を保つ、帝使いを遣わし密の首を持ち往きて世勣を招かしむ。世勣表を上りて収葬を請う、詔して其の屍を帰し、乃ち喪を発し、威儀を具え、三軍縞素、君の礼を以て黎陽山の西南五里に葬る、墳高さ七仞。密素より士を得、哭する者多く血を欧う。

原文熊州副將盛彥師率步騎伏陸渾縣南邢公峴之下,密兵度,橫出擊,斬之,年三十七,伯當俱死,傳首京師。時徐世勣尚為密保黎陽,帝遣使持密首往招世勣。世勣表請收葬,詔歸其屍,乃發喪,具威儀,三軍縞素,以君禮葬黎陽山西南五里,墳高七仞。密素得士,哭多歐血者。

邴元真の降るや、世充之を行台仆射と為し、滑州に鎮す。密の故将杜才幹其の密に背くを恨み、偽りて兵を以て之に帰し、首を斬り取り、密の冢に祭り、已にして乃ち国に帰す。

原文邴元真之降也,世充以為行臺仆射,鎮滑州。密故將杜才幹恨其背密,偽以兵歸之,斬取其首,祭密冢,已乃歸國。

(附)単雄信

原文附單雄信

単雄信、曹州済陰の人。翟譲と友善し。馬上にて槍を用うることを能くし、密の軍中に「飛将」と号す。偃師に敗れ、世充に降り、大将と為る。秦王東都を囲むに、雄信拒み戦い、槍幾くんか王に及ばんとす、徐世勣之を呵して曰く、「秦王なり」と。遂に退く。後東都平ぐ、洛渚上に斬る。

原文單雄信,曹州濟陰人。與翟讓友善。能馬上用槍,密軍中號「飛將」。偃師敗,降世充,為大將。秦王圍東都,雄信拒戰,槍幾及王,徐世勣呵之曰:「秦王也!」遂退。後東都平,斬洛渚上。

(附)祖君彦

原文附祖君彥

祖君彦、斉の仆射孝徴の子。博学強記、辞を属するに贍かにして速し。薛道衡嘗て之を隋の文帝に薦む、帝曰く、「是れ斛こく律明月を殺したる人の児ならずや、朕之を用いず」と。煬帝立ち、尤も知名の士を忌み、遂に東都書佐に調し、宿城令を検校す、世に祖宿城と謂う。其の才を負い、常に郁郁として乱を思う。密の為に檄を草するに及び、乃ち深く主の闕を斥く。密敗れ、世充之を見て曰く、「汝賊たりて国を罵るに足るや未だ」と。君彦曰く、「跖の客は由を刺さしむべし、但だ至らざるを愧ずるのみ」と。世充撲たしむ。既に困りて樹下に臥す、世充已に自ら隋を盗まんと欲し、中に悔い、医許惠照を命じて往きて之を視さしめ、其の蘇らんことを欲す。郎将王拔柱曰く、「筆を弄びて生く余罪有り」と。乃ち其の心を蹙め、即ち死し、屍を偃師に戮す。

原文祖君彥,齊仆射孝徵子。博學強記,屬辭贍速。薛道衡嘗薦之隋文帝,帝曰:「是非殺斛律明月人兒邪?朕無用之。」煬帝立,尤忌知名士,遂調東都書佐,檢校宿城令,世謂祖宿城。負其才,常郁郁思亂。及為密草檄,乃深斥主闕。密敗,世充見之,曰:「汝為賊罵國足未?」君彥曰:「跖客可使刺由,但愧不至耳!」世充令撲之。既困臥樹下,世充已自欲盜隋,中悔,命醫許惠照往視之,欲其蘇。郎將王拔柱曰:「弄筆生有余罪。」乃蹙其心,即死,戮屍於偃師。

賛

原文(段落全体)贊曰:或稱密似項羽,非也。羽興五年霸天下,密連兵數十百戰不能取東都。始玄感亂,密首勸取關中;及自立,亦不能鼓而西,宜其亡也。然禮賢得士,乃田橫徒歟,賢陳涉遠矣!噫,使密不為叛,其才雄亦不可容於時雲。

賛に曰く、或いは密を項羽に似たりと称す、然らず。羽五年に興りて天下を覇す、密兵を連ね数十百戦して東都を取ること能わず。始め玄感乱るるに、密首めて関中を取るを勧め、自立するに及び、亦た鼓して西せず、其の亡ぶ宜なり。然れども賢を礼し士を得るは、乃ち田横の徒か、陳涉より賢ること遠し。噫、密叛かずんば、其の才雄も亦た時に容れられざらんと云う。

原文(段落全体)贊曰:或稱密似項羽,非也。羽興五年霸天下,密連兵數十百戰不能取東都。始玄感亂,密首勸取關中;及自立,亦不能鼓而西,宜其亡也。然禮賢得士,乃田橫徒歟,賢陳涉遠矣!噫,使密不為叛,其才雄亦不可容於時雲。