新唐書

巻八十四 列傳第九 李密

李密

李密、字は玄邃、一字は法主、その先祖は遼東襄平の人である。曾祖父の弼は、魏の司徒しととなり、徒何氏の姓を賜り、周に入って太師・魏国公となった。祖父の曜は邢国公、父の寛は隋の上柱国・蒲山郡公であった。そこで長安ちょうあんに家を定めた。

密は才知に富み雄大な遠謀を持ち、策略多く、家財を散じて食客を養い賢者を礼遇し惜しむところがなかった。蔭官により左親衛府大都督ととく・東宮千牛備身となった。額は鋭く角張り、瞳は黒白明瞭であった。煬帝がこれを見て、宇文述に言うには、「左仗下の黒色の小児は誰か」と。曰く、「蒲山公李寛の子の密です」と。帝曰く、「此の児は顧眄常ならず、衛に入るべからず」と。他日、述は密に諭して言うには、「君の家は代々素より貴く、才学を以て顕れるべきなり、何事ぞ三衛の間に在るや」と。密は大いに喜び、病と称して辞し、感奮して読書に励んだ。包愷が緱山に在ると聞き、往きてこれに従った。蒲の鞍を牛に乗せ、『漢書かんじょ』一帙を角に掛け、行きながら読んだ。越国公楊素が道でちょうどこれを見て、轡を押さえてその後を追い、「何の書生か、かくも勤勉なる」と言った。密は素を知り、下りて拝した。読むところを問うと、曰く「『項羽こうう伝』なり」と。そこで語り合い、これを奇とした。帰って子の玄感に謂って曰く、「吾れ密の識見と度量を観るに、汝ら輩の如きに非ず」と。玄感はここに心を傾けて交わりを結んだ。嘗て密に私かに言うには、「上は猜忌多く、隋の歴数且つ長からず、中原に一日の警あらば、公と我と孰れか後先せん」と。密曰く、「両陣の勝を決するに、噫嗚咄嗟、以て敵を詟するに足るは、我公に如かず。天下の英雄を攬りてこれを馭し、遠近をして帰属せしむるは、公我に如かず」と。

大業九年、玄感は黎陽に挙兵し、人を遣わして関中に入り密を迎えさせた。密至りて謀りて曰く、「今天子遠く遼左に在り、幽州を去ること尚ほ千里、南は巨海に限られ、北は強胡に阻まれ、号令の通ずるは、惟だ榆林一道のみなり。若し鼓して薊に入り、直ちに其の喉を扼せば、高麗其の前に抗し、我其の後に乗ずれば、旬月を経ずして糧尽き、麾を挙げて之を召せば、衆尽く取るべし、然る後に檄を伝えて南せば、天下定まれり、是れ上計なり。関中は四塞の地、彼の留守衛文升は、易き人なり。若し径行して留まらず、直ちに長安を保ち、函・崤を拠り、東に諸夏を制せば、是れ隋亡の襟帯、我が勢万全、中計なり。若し近きに因り便に趣き、先ず東都を取り、兵を堅城の下に頓すれば、勝負を以て決すべからず、下計なり」と。玄感曰く、「公の下計、乃ち吾が上策なり。今百官の家屬皆洛に在り、当に先ず之を取り、以て其の心を揺がすべし。且つ城を経て抜かずんば、何を以て武を示さん」と。密の計は行われず。玄感は東都に至り、戦う所必ず克ち、功は旦夕に在りと自ら謂う。内史舍人韋福嗣を獲るに及び、遂に之を任用したので、謀り専ら密に在らず。福嗣は捕らわれたるを恥じ、策議皆両端を持した。密は其の二心を揣り、玄感に謂って曰く、「福嗣は窮して我が虜となり、志は観望に在り。公初めて大事を挙ぐるに、奸人側に在り、事必ず敗るべし、請う斬りて以て徇らしめん」と。従わず。密は親しい者に謂って曰く、「玄感は好んで反すも勝を図らず、吾属虜となるべし」と。福嗣は果たして遁れ去った。時に左武候大将軍李子雄が罪を得、行在所に伝送される途中、使者を殺し、玄感に奔り、大号を挙ぐるを勧めた。玄感が密に問うと、密曰く、「昔張耳は陳勝ちんしょうの自ら王たるを諫め、荀彧は魏武の九錫を求むるを止め、皆疑われて外された。今密将に之に類せざらんや。然れども阿諛して旨に順うは、義士に非ず。且つ公は屡勝つと雖も、郡県応ずる者未だ有らず、東都尚ほ強く、救兵踵いて来らん。公は精甲を率い、身を以て関中を定むべし、奈何ぞ亟に自ら帝たらんとする」と。玄感は笑って止めた。

及んで隋軍至るや、玄感曰く、「策安くにか決せん」と。密曰く、「元弘嗣方に隴右を戍る、陽に其の反を言い、我を迎えしむべし、因りて軍を引きて西せん」と。これに従った。陝に至り、弘農宮を囲まんと欲す。密曰く、「今衆を紿して関に入る、機は速に在り。而して追兵我に踵く、若し前に険を拠るを得ず、退きて守る所無くんば、何を以て共に完からん」と。玄感は聴かず。留まりて三日攻むるも、抜く能わず、引き去り、閺郷に至り、追い及ばれて敗れた。

密は痩せ衰えて関に入り、邏卒に捕らえられ、支党と共に帝の在所に護送された。密は衆に謂って曰く、「吾等行在所に至らば、且つ菹醢にせられん、今尚ほ計を以て脱するべし、何ぞ安んじて鼎鑊に就かん」と。衆然りとす。乃ち所有の金を出して監使に示し曰く、「即ち死すとも、幸いに徳に報いよ」と。使者は金を顧み、禁漸く弛み、益々酒を買い、飲み笑い歓嘩し、守者懈る。密等遂に夜亡げ去った。平原に抵るも、賊の郝孝德は礼せず、去って淮陽に至る。歳飢え、木の皮を削りて食す。姓名を変えて劉智遠と為し、諸生を教授して自ら給し、鬱々として志を得ず、哀吟して泣下す。太守趙佗に告ぐる者有り、佗之を捕らうるも、遁れて免れた。雍丘令丘君明(〓胃の婿)に依り往き、転じて大侠王季才の家に匿わるも、吏に跡を捕らえられ、復た亡げ去った。

時に東郡の賊翟譲が党を聚めて万人、密は其の徒の王伯當を介して策を以て譲に干し曰く、「今主上に昏く、下に人怨み、鋭兵尽く遼海に之き、和親は突厥に絶え、南巡流連し、空しく関輔を棄つ、此れ実に劉・項の挺興の会なり。足下は豪桀を資とし、士馬精勇、罪を指して暴を誅し、天下に先んずれば、楊氏亡ぶに足らず」と。譲ここに由って礼を加え、諸賊を説かしむるに遣わすと、至れば輒ち下った。因りて譲に計りて曰く、「今稟に見る糧無く、持久に難く、卒然敵に遇えば、其の亡ぶ時無からん。滎陽けいようを取るに如かず、兵を休め館穀し、士逸び馬肥ゆるを待ちて、乃ち人と利を争うべし」と。譲これを聴き、遂に金堤関を破り、滎陽諸県を徇れば、皆下った。滎陽太守楊慶・河南討捕大使張須陀が兵を合わせて譲を討つ。譲は素より須陀を憚り、引き去らんと欲す。密曰く、「須陀は健にして謀無く、且つ驟勝ち易く驕る、吾公が為に之を破らん」と。譲已むを得ず、陣して待つ。密はぎょう勇の常何等二十人を率いて遊騎と為し、千兵を草莽の間に伏せしむ。須陀は素より譲を軽んじ、兵を引いて之を搏つ。譲稍く卻く。伏兵発し、遊軍と之に乗ず。遂に須陀を殺した。

十三年、譲は兵を分かちて密に与え、別に牙帳を為し、号して蒲山公とす。密は軍を厳しく持し、盛夏と雖も号令すれば、士皆霜雪を負うが若く、然れども戦いて金宝を得れば、尽く之を散ず。ここに由って人の用いらるる所と為る。復た譲に説いて曰く、「今群豪競い興り、公は天下に先んじて群兇を攘除すべし、寧んぞ常に草間を剽奪して活を求むるに止まらんや。若し直ちに興洛倉を取り、粟を発して窮乏を賑わば、百万の衆一朝に附すべく、霜王の業成るべし」と。譲曰く、「仆は畎隴より起り、志此に及ばず。君の倉を得るを須ち、更に之を議せん」と。

二月、密は千人を以て陽城の北に出で、方山を逾え、羅口より興洛倉を抜き、之を拠り、県長の柴孝和を獲た。倉を開き食を賑わすと、衆繦属して数十万に至る。隋の越王侗は将の劉長恭・房崱を遣わして密を討たしめ、又裴仁基に命じて兵を統べさせ成臯の西に出ださしむ。密は乃ち十隊を為し、洛水を跨ぎ、東・西二軍に抗す。単雄信・徐世勣・王伯當に騎を率いさせ左右翼と為し、自ら麾下を引きて急に長恭等を撃ち、之を破る。東都震恐し、衆は太微城を保ち、台寺俱に満つ。

翟譲らは乃ち李密を推して主と為し、号を魏公と建て、鞏県の南に壇場を設け、即位し、牲を刑して血を歃ち、元号を永平と改め、大赦を行い、その文移は行軍元帥魏公府と称した。翟譲を以て司徒と為し、邴元真を左長史と為し、房彦藻を右長史と為し、楊徳方を左司馬と為し、鄭徳韜を右司馬と為し、単雄信を左武候大将軍と為し、徐世勣を右武候大将軍と為し、祖君彦を記室と為した。洛口に城を築き、周囲四十里、之に居る。護軍将軍田茂広に命じて雲梯三百具を造らしむ。

三百具を備え、機械を用いて石を発射し、攻城の器械と為し、号して「将軍砲」と曰う。東都に進逼し、上春門を焼く。

四月、隋の虎牢の将裴仁基・淮陽太守趙佗降り、長白山の賊孟讓はその部を率いて密に帰す。仁基を上柱国と為し、譲と兵二万を率いて回洛倉を襲い、これを守る。都城に入り居人を掠め、天津橋に火を放つ。隋軍出でて之に乗ず、仁基等敗れ、還りて鞏を保つ。司馬楊徳方戦死す。密自ら衆三万を督し、故城に於いて隋軍を破り、復た回洛倉を得る。俄にして徳韜死す、乃ち鄭頲を左司馬と為し、鄭虔象を右司馬と為す。諸賊帥黎陽の李文相・洹水の張升・清河の趙君徳・平原の郝孝徳皆密に帰し、因りて黎陽倉を襲い取る。永安の大族周法明は江・黄の地を挙げて之に附き、斉郡の賊徐円郎・任城の大侠徐師仁来たりて帰す。密幕府に令して檄を州県に移し、煬帝の十罪を列ね、天下震動す。

護軍柴孝和、密に説いて曰く、「秦の地は山に阻まれ河を帯び、項背の亡びし後、漢これを得て王たり。今公は仁基をして回洛に壁し、翟譲をして洛口を保たしむ。公鎧を束ねて道を倍して長安に趨れば、百姓誰か郊迎せざらん。是れ征して戦わざるなり。衆附き兵強くして、然る後に東に向かい、豪傑を指捴し、天下廓清して事無からん。今これを遅らせば、人の先んずるを恐る」と。密曰く、「僕此れを懐くこと久し。顧みるに我が部は皆山東の人、今洛を下さず、安んぞ我と偕に西せん。且つ諸将は皆群盗、相統一せず、敗れば則ち掃地す」と。遂に止む。是の時、隋軍益々出で、密は鋭を負い、急ぎ之と確し、流矢に中り、営中に臥す。隋軍之に乗じ、密の衆潰え、倉を棄てて洛口を守る。」

九月、将軍李士才を遣わして兵十二万を率い、隋の鷹揚郎将張珣を河陰に攻め、これを挙げる。珣は極めて罵り屈せずして死す。斉の方士徐鴻客が上書して密に、士気に因り江都に趨り、帝を挟みて天下に令せんことを勧む。密は其の言を異とし、幣を具えて之を邀うも、已に亡去す。煬帝、王世充を遣わして卒十万を選び密を撃たしむ。世充は洛西に営し、戦い利あらず、更に洛北に陣し、山に登りて洛口を望む。密は兵を引きて洛を渡り、世充と戦う。密の兵は騎と長槊多しと雖も、北は山に薄く、地隘にして騎迮として騁るを得ず。世充は短兵盾多く、之を蹙めば、密軍却き、世充は勝に乗じて密の月城を攻む。密は洛南に還り、兵を引きて西し、世充の営を突けば、世充は奔りて還る。師徒多く喪い、孝和は洛水に溺死す。密之を哭して慟す。是より大小六十余戦す。

翟譲の部将王儒信は密の威望を憚り、譲に自ら大冢宰となり、衆務を総べて執り、密の権を収むるを勧む。譲の兄寛も亦曰く、「天子は当に自ら取るべし、何ぞ人に授けん」と。密これを聞き、鄭頲と陰に譲を図る。会に世充の兵又至り、譲出でて拒ぎ、少しく退く。密馳せてこれを助け、石子河に戦い、世充走る。明日、高会して士を饗し、譲密の所に至る。密房彦藻に令して其の左右を引き、別帳に就きて飲ましむ。密名弓を出して譲に示す。譲挽きて満たし、剣士蔡建を遣わして後よりこれを撃たしめ、並びに其の兄・姪及び儒信を殺す。密馳せて譲の壁に入り慰諭す。士敢えて動く者無し。徐世勣・単雄信・王伯當を以て其の兵を分統せしむ。隋の将楊慶は滎陽を守る。因りてこれを説き下す。世充夜倉城を襲う。密甲を伏せて其の衆を殪す。

義寧二年、世充はまた洛北に営し、浮橋を造り、水を断って戦わんとし、密は千騎を以て迎え撃つも勝たず。世充は進んで其の塁に迫り、密は敢死の士数百を率いて邀え撃ち、世充は大いに潰え、士卒は橋を争い溺死する者数万、洛水は流れず、大将六人を殺し、独り世充は脱す。時に夜大雨雪に会い、士卒は僵死して且つ尽きんとす。密は鋭に乗じて偃師を抜き、金墉城を修めて之に居り、衆三十万を有つ。また東都留守韋津と上春門に戦い、陣中に津を執る。将作大匠宇文愷の子儒童、河南留守職方郎柳続、河陽都尉獨孤武都、河内郡丞柳燮皆降る。ここにおいて海岱・江淮の間争いて響附し、竇建德・硃粲・楊士林・孟海公・徐圓朗・盧祖尚・周法明等悉く表を上りて進むを勧め、府官属もまた之を請う。密曰く「東都未だ平らかならず、且く議うることなかれ」と。

五月、越王侗が帝を称す。六月、宇文化及が兵十余万を擁して黎陽に至る。侗は使者を遣わして密に太尉・尚書令しょうしょれい・東南道大行臺行軍元帥・魏国公を授け、化及を平らげて後に入朝補弼せしめんと命ず。密これを受く。乃ち兵を率いて東に進み、化及を黎陽に追う。密は化及の食糧乏しきを知り、速戦を利とす。乃ち持重してその兵を老いさせ、徐世勣に黎陽倉を守らしむ。化及攻むるも下すこと能わず。密は水を隔てて陣し、遥かに化及に謂いて曰く、「公の家は元より戎隷の破野頭に過ぎず、父子兄弟隋の恩を受け、遂には公主を妻とす。上に失徳あれども諫むる能わず、又虐殺す。天下の悪を冒す。今安くにか往かん。能く即ち降らば、尚ほ後嗣を全うせん」と。化及は默然として良久く、乃ち目を瞋らせて鄙語を以て密を辱しむ。密は左右を顧みて曰く、「此れ庸人、帝たらんと図る。吾は箠を折って之を駆るべし」と。乃ち軽騎五百を以てその攻具を焚く。火は終夜滅せず。化及の糧尽きんことを度り、乃ち偽りに和す。化及喜び、軍をして恣に食わしむ。既にして密の饋餉至らず、乃ち悟る。遂に童山の下に大戦す。密は矢に中り、汲県に頓して壁を堅くす。化及は勢い窮まり、汲郡を掠め、魏県に趣く。その将陳智略・張童仁等、率いる所の兵を以て密に帰す。前後相踵ぐ。

初めに、化及は輜重を東郡に留め、署した刑部尚書王軌をしてこれを守らせた。ここに至り、軌は郡を挙げて密に降る。これにより兵を率いて西に向かい、使者を遣わして東都に朝し、逆人於弘達を執り殺して侗に献じた。侗は密を召して入朝せしめんとしたが、溫に至り、世充が元文都を殺したと聞き、乃ち止む。遂に金墉に帰り、侗の使者を拘えて遣わさず。

初め、李密は翟譲を殺してより、心次第に驕り、士卒を恤れまず、元より府庫の財なく、軍戦勝つも、賜与する所なく、又新たに集まる者を厚く撫で、人心始めて離る。民興洛倉の食を食む者、給授に検せず、至って負い取るに勝えず、道に委ね、践み輮みて狼扈たり。密喜び、自ら足食と謂う。司倉賈潤甫諫めて曰く、「人、国の本、食、人の天なり。今百姓饑えて捐ち、骨を道路に暴く。公は命を受くといえども、然れども人の天に頼りて以て国の本を固うす。而るに稟取節せず、敖庾の蔵も時に儩く、粟竭き人散らば、何をか仰ぎて成功せん」と。聴かず。徐世勣数たび其の違を規す、密内に喜ばず、出でて屯に就かしむ、故に下苟且にして固き志無し。初め、王世充食に乏しく、密は帛少なし、交相易えんことを請う、之を難ず。邴元真好利にして、密かに密を勧めて許さしむ。後世充の士飽き、降る者益々少なく、密悔いて止む。

武徳元年九月、世充衆を悉くして決戦し、先ず騎を以て数百度河を渡り、密遣わして迎戦せしむ、驍将十余人皆創を受けて返る。明日、密王伯當を留めて金墉を守らしめ、自ら精兵を引きて偃師を出で、北に邙山を阻みて之を待つ。密議して便を取る所、裴仁基曰く、「世充勁兵を悉くして来たり、東都必ず虚し、請う衆を選び二万を以て洛に向かわば、世充必ず自ら抜けて帰らん、我軍を整えて徐に還らん。兵法の所謂る彼帰れば我出で、彼出でれば我帰り、以て之を疲らすなり」と。密衆に眩み、用うること能わず。仁基地を撃ち嘆いて曰く、「公後必ず悔ゆ」と。遂に兵を出して陣す。世充密かに貌密に類する者を索め、之を縛らしむ。既に両軍接し、埃霧囂然として塞がり、世充の軍、江淮の士、出入り飛ぶが若く、密の兵心動く。世充衆を督めて疾く戦い、密に類する者を牽きて陣を過ぎしめ、噪ぎて曰く、「密を獲たり」と。士皆万歳を呼び、密の軍乱れ、遂に潰ゆ。裴仁基・祖君彦皆世充に禽せられ、偃師にて鄭頲劫かれて叛き世充に帰す。密衆万余を提げて洛口に馳せ、将に城に入らんとす、邴元真已に款を世充に輸し、潜かに其の軍を導く。密知りて発せず、期す世充の兵洛水を半ば渡るを、掩いて之を撃たんと。候騎時に覚えず、比して出づるに、世充河を絶つ。即ち騎を引きて武牢に遁れ、元真遂に降り、衆稍く散ず。

密将に黎陽に如かんとす、或る人曰く、「向に翟譲を殺し、世勣傷いて幾くんか死に、瘡未だ平らかならず、今保つべきか」と。時に王伯當金墉を棄て河陽に屯す、密軽騎を以て之に帰り、謂いて曰く、「敗れたり、久しく諸君を苦しむ、我今自刎して以て衆に謝さん」と。伯當密を抱き慟哭して絶え、衆皆泣き、仰ぎ視ること能う者莫し。密復た曰く、「幸いに相棄てず、当に共に関中に帰らん、密は功無きといえども、諸君必ず富貴ならん」と。掾柳燮曰く、「昔盆子漢に帰し、尚食均輸す。公は唐と同族、共に起たずといえども、然れども隋の帰路を遏ち、西を無からしむ、故に唐戦わずして京師を拠る、亦た公の功なり」と。密又た伯當に謂いて曰く、「将軍の族重し、豈に復た孤と俱に行くべきや」と。伯當曰く、「昔蕭何しょうか宗を挙げて漢に従う、今昆季尽く行かず、以て愧じと為す。豈に公一たび利を失い、軽く去就すべきや。首を隕し胸を穴うるとも、甘んずる所已なり」と。左右感動し、遂に来帰す。

初め、密号を建て壇に登るに、疾風其の衣を鼓し、幾くんか仆たんとす。即位に及び、狐旁に鳴き、之を悪む。将に敗れんとするに及び、鞏数たび回風地より発し、砂礫を激して上天に属し、白日晦冥と為る。屯営群鼠相銜尾して西北より洛を渡り、月を経て絶えず。

関に入るに及び、兵尚ほ二万。高祖使いを遣わして迎え労い、冠蓋相望み、密大いに喜び、其の徒に謂いて曰く、「吾の挙ぐる所は就かざりといえども、而して恩百姓に結び、山東連城数百、吾が故を以て、当に尽く国に帰すべし。功竇融に減らず、豈に台司を以て我を処せざらんや」と。至るに及び、光禄卿を拝し、邢国公に封ぜられ、殊に怨望す。帝嘗て之を弟と呼び、表妹独狐氏を以て妻とす。後礼寝て薄く、執政者又賄を求め、滋に不平。朝会に因りて食を進むるに、王伯當に謂いて曰く、「往くに洛口に在り、嘗て崔君賢を以て光禄と為さんと欲す、意わず身自ら此れを為さんとは」と。

未だ幾ばくもせず、聞く故に部将多く世充に附かざる者有りと、高祖詔して密に本兵を以て就き黎陽に故部曲を招撫し、東都を経略せしむ、伯當左武衛将軍を以て密の副と為る。驛を馳せて東に至り稠桑驛にて、詔有りて復た密を召す、密大いに懼れ、叛かんと謀る。伯當之を止む、従わず、乃ち曰く、「士義を立て、存亡を以て慮を易えず。公伯當を顧み厚し、願わくは命を畢くして以て報ぜん。今俱に行くべし、死生之を以てす、然れども益無し」と。乃ち驍勇数十人を簡び、婦人の服を衣、幕釭を戴き、刀を裙下に蔵し、詐りて家の婢妾たる者と為し、桃林の伝舎に入り、須臾にして服を変えて出で、其の城を拠る。畜産を掠め、南山に趣きて東し、馳せて張善相に告げて兵を以て己に応ぜしむ。

熊州副将盛彦師歩騎を率い陸渾県南邢公峴の下に伏し、密の兵渡るに、横より出でて撃ち、之を斬る、年三十七、伯當俱に死し、首を伝えて京師に至る。時に徐世勣尚ほ密の為に黎陽を保つ、帝使いを遣わし密の首を持ち往きて世勣を招かしむ。世勣表を上りて収葬を請う、詔して其の屍を帰し、乃ち喪を発し、威儀を具え、三軍縞素、君の礼を以て黎陽山の西南五里に葬る、墳高さ七仞。密素より士を得、哭する者多く血を欧う。

邴元真の降るや、世充之を行台仆射と為し、滑州に鎮す。密の故将杜才幹其の密に背くを恨み、偽りて兵を以て之に帰し、首を斬り取り、密の冢に祭り、已にして乃ち国に帰す。

(附)単雄信

単雄信、曹州済陰の人。翟譲と友善し。馬上にて槍を用うることを能くし、密の軍中に「飛将」と号す。偃師に敗れ、世充に降り、大将と為る。秦王東都を囲むに、雄信拒み戦い、槍幾くんか王に及ばんとす、徐世勣之を呵して曰く、「秦王なり」と。遂に退く。後東都平ぐ、洛渚上に斬る。

(附)祖君彦

祖君彦、斉の仆射孝徴の子。博学強記、辞を属するに贍かにして速し。薛道衡嘗て之を隋の文帝に薦む、帝曰く、「是れ斛律明月を殺したる人の児ならずや、朕之を用いず」と。煬帝立ち、尤も知名の士を忌み、遂に東都書佐に調し、宿城令を検校す、世に祖宿城と謂う。其の才を負い、常に郁郁として乱を思う。密の為に檄を草するに及び、乃ち深く主の闕を斥く。密敗れ、世充之を見て曰く、「汝賊たりて国を罵るに足るや未だ」と。君彦曰く、「跖の客は由を刺さしむべし、但だ至らざるを愧ずるのみ」と。世充撲たしむ。既に困りて樹下に臥す、世充已に自ら隋を盗まんと欲し、中に悔い、医許惠照を命じて往きて之を視さしめ、其の蘇らんことを欲す。郎将王拔柱曰く、「筆を弄びて生く余罪有り」と。乃ち其の心を蹙め、即ち死し、屍を偃師に戮す。

賛に曰く、或いは密を項羽に似たりと称す、然らず。羽五年に興りて天下を覇す、密兵を連ね数十百戦して東都を取ること能わず。始め玄感乱るるに、密首めて関中を取るを勧め、自立するに及び、亦た鼓して西せず、其の亡ぶ宜なり。然れども賢を礼し士を得るは、乃ち田横の徒か、陳涉より賢ること遠し。噫、密叛かずんば、其の才雄も亦た時に容れられざらんと云う。