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新唐書
巻八十二 列傳第七 十一宗諸子
玄宗子
玄宗に三十子あり。劉華妃は琮、第六子琬、第十二子璲を生み、趙麗妃は瑛を生み、元獻皇后は肅宗皇帝を生み、錢妃は琰を生み、皇甫德儀は瑤を生み、劉才人は琚を生み、武惠妃は一、第十五子敏、第十八子瑁、第二十一子琦を生み、高婕妤は璬を生み、郭順儀は璘を生み、柳婕妤は玢を生み、鐘美人は環を生み、盧美人は瑝を生み、閻才人は玼を生み、王美人は珪を生み、陳才人は珙を生み、鄭才人は瑱を生み、武賢儀は璿、第三十子璥を生む。余の七子は夭折し、母氏は伝わらず。
奉天皇帝琮は、景雲元年、許昌郡王に封ぜられ、真定王と同時に封ぜられる。先天元年、郯王に進封し、郢王と同時に封ぜられる。開元四年、安西大都護・安撫河東関内隴右諸蕃大使を領す。十三年、慶王に徙封し、忠・棣・榮・光・儀・潁・永・壽・延・盛・濟の十一王と同時に封ぜられる。十五年、十王と共に節度を領し、閤を出でず。琮は涼州都督を以て河西諸軍節度大使を兼ねる。天寶元年、河東に節度を改む。十載に薨じ、太子を贈られ、靖德と謚す。肅宗立つて、詔して曰く、「靖德太子琮は、親は則ち朕が兄、睿悊聰明なり。朕昔儲極を踐みしに、顧みるに誠に次に非ず。君父命有り、敢へて違はず、永く言へば懇讓すれども、素の如くならず。宜しく進めて奉天皇帝と謚し、妃竇を恭應皇后とすべし」と。詔して尚書右仆射裴冕に節を持たせて改葬せしめ、群臣素服して臨送し達禮門に至る。帝門に御して哭し喪を過ぐ。墓號は齊陵。子無く、太子瑛の子俅を以て王を嗣がしむ。琮初め名は嗣直、太子は嗣謙、棣王は嗣真、鄂王は嗣初、靖恭太子は嗣玄と曰ふ。開元十三年、名を改めて潭・鴻・洽・涓・滉と曰ふ。後十年、今の名に改む。
太子瑛は、初め真定王に封ぜられ、郢王に進封す。開元三年、皇太子に立てらる。七年、詔して太子・諸王に國學に入りて齒胄の禮を行はしめ、太常日に擇びて孔子に謁せしめ、太子獻ず。詔して右散騎常侍褚無量に經を執らしめ、群臣・學官・諸生に差に従ひて帛を賜ふ。明年、瑛元服を加へ、太廟に見ゆ。十六年、詔して九品官の息女にて太子に配すべき者を、有司采閱して進止を待たしめ、太常少卿薛縚の女を以て妃とす。帝苑中に麥を種ゑ、瑛・諸王侍して登る。帝曰く、「是れ將に宗廟に薦めんとす、故に親しく之れをし、亦た若等に稼穡の難きを知らしめんと欲す」と。因りて侍臣に分ち賜ひて曰く、「『春秋』に『麥禾無し』と書すは、古より甚だ重んずる所なり。比來使者をして田畝を閱せしむるに、對ふる所實を以てせず、故に朕自ら蒔きて其の成るを觀る」と云ふ。初め、瑛の母は倡を以て進み、歌舞を善くし、帝潞に在りて幸を得たり。即位に及び、妃の父元禮・兄常奴を擢げて皆大官に至らしむ。鄂・光二王の母も亦た帝の臨淄王たる時に色を以て選ばる。武惠妃寵幸して後宮を傾け、壽王を生み、愛諸子と絕等なり。而して太子・二王は母の職を失へるを以て、頗る怏怏たり。惠妃の女咸宜公主の婿楊洄、妃の旨を揣り、太子の短を伺ひ、嘩然として醜語を爲す。惠妃帝に訴へ、且つ泣く。帝大いに怒り、宰相を召して之を廢するを議す。中書令張九齡諫めて曰く、「太子・諸王日々聖訓を受け、天下共に慶ぶ。陛下國を享くること久しく、子孫蕃衍す。奈何ぞ一日に三子を棄てん。昔晉獻公、嬖姬の讒に惑ひ、申生憂ひて死し、國乃ち大亂す。漢武帝、江充の巫蠱を信じ、禍太子に及び、京師蹀血す。晉惠帝、賢子有り、賈後之を譖り、乃ち喪亡に至る。隋文帝、後の言を聽き、太子勇を廢し、遂に天下を失ふ。今太子過無く、二王賢なり。父子の道は天性なり、失有りと雖も、尚ほ之れを掩ふべし。惟ふらくは陛下裁赦せよ」と。帝默然たり。太子廢せられずを得たり。俄にして九齡罷め、李林甫國を專らにし、數へて壽王の美を稱して妃の意を揠す。妃果たして之を德とす。二十五年、洄復た瑛・瑤・琚と妃の兄薛銹の異謀を構ふ。惠妃人をして詭りて太子・二王を召し、曰く、「宮中に賊有り、請ふらくは介を以て入らん」と。太子之に從ふ。妃帝に白して曰く、「太子・二王謀反し、甲を帶びて來る」と。帝中人をして之を視しむるに、言の如し。遽に宰相林甫を召して議す。答へて曰く、「陛下の家事、臣の豫ぶる所に非ず」と。帝意決し、乃ち詔して曰く、「太子瑛・鄂王瑤・光王琚、惡を同じくし罪を均しくす。並びに廢して庶人と爲す。銹は死を賜ふ」と。瑛・瑤・琚尋いで害に遇ひ、天下之を冤とし、「三庶人」と號す。歲中、惠妃數へて庶人の祟りを見る。因りて大病す。夜巫を召して之を祈り、改葬を請ひ、且つ行刑者を射て之を瘞めしむ。終に解けず。妃死し、祟り亡ぶ。寶應元年、詔して瑛に皇太子を贈り、瑤等王に復す。瑛に子五人あり。儼・伸・倩・俅・備。瑛の廢せらるるや、帝慶王をして儼等を畜へて子と爲さしむ。儼は新平郡王に封ぜられ、伸は平原郡王、俅は慶王を嗣ぎ、備は太仆卿、倩は傳を失ふ。
隸王琰は、開元二年初め鄫王に封ぜられ、鄂・鄄二王と同時に封ぜらる。後に棣王に徙封し、太原牧・太原以北諸軍節度大使を領す。天寶初め、武威郡都督となり、河西・隴右を經略節度す。會ふに妃韋過有りて別室に置かるるに、而して二孺人寵を爭ひて平らかならず、巫者を求めて密かに符を琰の履中に置きて以て媚を求む。仇人琰の上を厭魅すと告ぐ。帝其の朝するを伺ひ、人をして履を取らしめて之を視しむるに、信なり。帝怒りて琰を責む。琰頓首して謝して曰く、「臣罪死に宜し。然れども臣婦と相見ること二年ならず。二孺人長を爭ふ。臣恐らくは此の三人の爲す所ならん」と。推するに及び、果たして驗す。然れども帝猶ほ琰を疑ひ、怒未だ置かず。太子以下皆爲に請ふ。乃ち鷹狗坊に囚ふ。憂ひて薨ず。妃は縚の女、子無く、本宗に還る。琰凡そ五十五子有り。王を得る者四人。僎は汝南郡王、僑は宜都王、俊は濟南王、侒は順化王。僚は太仆卿、俠は國子祭酒、仁は殿中監、僾は秘書監。寶應元年、詔して琰の王爵を復す。
鄂王瑤は、封ぜらるるに及び、遙かに幽州都督・河北節度大使を領す。開元二十三年、榮・光・儀・潁・永・壽・延・盛・濟・信・義の十一王と並びに開府儀同三司を授けられ、實封二千戶。詔して東宮・尚書省に詣らしむ。上日に百官集りて送り、有司供張し樂を設く。是の日、悉く王府の官屬を拜し、然れども未だ府有らず。而して選任冒濫し、時に以て榮と爲さず。
靖恭太子琬は、初め鄄王に封ぜられ、榮王に徙封す。京兆牧となり、隴右節度大使を領す。又詔して親しく隴右を巡按せしめ、關内・河東の飛騎五萬を選びて盛秋を防がしむ。累ねて單於・安北大都督を兼ぬ。安祿山反す。詔して琬を征討元帥と爲し、河・隴の兵を募りて陜に屯せしめ、高仙芝を以て之を副とす。會ひて薨ず。琬風格秀整にして素望有り、中外之に倚る。薨するに及び、國の爲に悵恨せざる莫し。詔して加へて贈謚す。琬男女五十八人。王を得る者三人。俯は濟陰郡王、偕は北平王、倩は陳留王。傆は衛尉卿、僓は秘書監、佩は鴻臚卿。
光王李琚は、開元十三年に初めて王となり、儀王・潁王・永王・壽王・延王・盛王・濟王の七王と同時に封ぜられた。まもなく廣州都督を領す。勇力あり、騎射に長け、帝(玄宗)はこれを愛した。鄂王と同居し、友誼睦まじく、ともに篤く学んだ。廃された後、嗣子なし。初め、琚の名は涺、儀王は濰、潁王は沄、永王は澤、壽王は清、延王は洄、盛王は沐、濟王は溢、信王は沔、義王は漼、陳王は沚、豐王は澄、恒王は潓、涼王は漎、汴王は滔と称したが、二十三年に至り、詔して悉く今の名に改めしむ。
夏悼王李一は、生まれながらにして韶秀、母の寵愛により、故に鍾愛され、一と命名す。未だ懐中にて薨じ、追って爵位及び謚を賜う。時に帝は東都に在り、故に龍門の東岑に葬り、宮中より望見せんことを欲す。
儀王李璲は、封ぜられると同時に、河南牧を授かる。薨じ、太傅を贈られる。子の侁は鐘陵郡王に封ぜられ、僆は廣陵郡王に封ぜられる。
潁王李璬は、読書を喜び、文辞を好む。開元十五年、遙かに安東都護を領す。安祿山反す、詔して劍南節度大使を領せしめ、楊國忠を以てその副とす。帝西に出ず、御史大夫魏方進を置頓使とし、書を劍南の属郡に移し、璬の藩に赴くことを託し、大いに儲偫を設く。璬先ず鎮に即き、更に蜀郡長史崔圓を副とす。璬江を濟るに、舟中に彩席を以て歩を藉く、命じてこれを徹せしむ、曰く「此れ寝るべし、奈何ぞ之を践まんや」。璬の出ずるや遽にして、節を受くるに及ばず、司馬史賁、大槊を建て、油囊を蒙り、先駆して以て道路を威せんことを請う。璬笑いて曰く「既に真王たり、安んぞ仮節を用いんや」。将に成都に至らんとするに、崔圓迎えて馬前に拝す、璬礼せず、圓之を銜む。璬事を視ること再び月を踰え、人其の寛なるに便す、圓奏して内宅に居らしむるを罷む。乃ち詔して肅宗を彭原に宣慰せしめ、従って京師に還る。建中四年薨じ、年六十六。子の伸は滎陽王となり、僝は高邑王となり、伣は楚國公となり、僔は夔國公となる。
懷思王李敏は、貌豊秀にして図画の如く、帝之を愛す。甫晬にして薨じ、追って爵位及び謚を賜い、敬陵に祔葬す。
永王李璘は、幼くして母を失い、肅宗自ら養い視る。長じて聡敏好学。貌甚だ陋く、正視すべからず。封ぜられた後、荊州大都督を領す。安祿山反す、帝扶風に至り、詔して璘に即日鎮に赴かしむ。俄に又た山南・江西・嶺南・黔中の四道節度使を領し、少府監竇昭を以て副とす。璘江陵に至り、士を募り数万を得、郎官・御史を補署す。
時に江淮の租賦巨億萬、在所に山積す。璘は宮中に生まれ、事に通暁せず、富み且つ強きを見て、遂に江左を窺うの意あり、薛镠・李臺卿・韋子春・劉巨鱗・蔡駉を以て謀主とす。肅宗之を聞き、詔して璘に上皇を蜀に還り覲せしめんとす、璘従わず。其の子襄城王李㑥は、剛鷷にして謀乏しく、亦た乱を楽しみ、璘を勧めて金陵を取らしむ。即ち舟師を引きて東下し、甲士五千を以て廣陵に趨き、渾惟明・季廣琛・高仙琦を将とす、然れども未だ敢えて顕かに江左を取らんと言わず。
会うところ吳郡采訪使李希言平牒を璘に致す、璘因って怒りを発して曰く「寡人は上皇の子、皇帝の弟、地尊く礼絶つ。今希言乃ち平牒を以て威に抗い、落筆して字を署す、何ぞや」。乃ち惟明をして希言を襲わしめ、而して廣琛をして廣陵に趨かしめ、采訪使李成式を攻めしむ。璘當塗に至り、希言已に丹楊に屯し、将元景曜等を遣わして拒戦せしむ、勝たず、璘に降る、江淮震動す。
明年、肅宗宦官啖廷瑤等を遣わし、成式と謀りて之を招諭す。時に河北招討判官李銑廣陵に在り、兵千余あり、廷瑤銑を邀えて揚子に屯せしめ、成式又た裴戎を遣わし廣陵の卒三千を以て伊婁埭に戍らしめ、旗幟を張り、大いに士を閲す。璘と㑥城壁に登りて之を望み、懼色あり。廣琛事の集まらざるを知り、諸将に謂いて曰く「公等と王に従う、豈に反せんと欲するや。上皇播遷し、道路通ぜず、而して諸子王に賢なる者無し。もし江淮の鋭兵を総べ、長駆して雍・洛に至らば、大功成るべし。今乃ち然らず、吾等をして名を叛逆に絓からしむ、後世に如何」。衆諾す、遂に臂を割いて盟す。ここにおいて惟明は江寧に奔り、馮季康は白沙に奔り、廣琛は兵六千を以て廣陵に奔る。璘騎をして之を追躡せしむ、廣琛曰く「我は王に徳あり、故に忍びず決戦し、逃命して国に帰るのみ。若し我を逼らば、且つ決死せん」。追う者止む、乃ち免る。是の夜、銑江北に陣し、夜束葦を然し、人二炬を執り、景水中に乱れ、覘者倍と告ぐ、璘軍亦た火を挙げて之に応ず。璘王師已に済りたるかと疑い、児女及び麾下を携えて遁去す。遅明其の紿たるを覚り、復た城に入り、舟楫を具え、㑥をして衆を駆りて晉陵に趨かしむ。諜者告げて曰く「王走れり」。成式兵を進め、先鋒新豐に至る、璘㑥・仙琦をして逆撃せしむ。銑勢を合わし、左右翼を張り、㑥に射て肩に中つ、軍遂に敗る。仙琦と璘は鄱陽に奔る、司馬城を閉じて拒む、璘怒り、城門を焚いて之に入り、庫兵を収め、余幹を掠め、将に南走して嶺外に至らんとす。皇甫侁の兵追い之に及び、大庾嶺に戦い、璘矢に中りて執らる、侁之を殺す。㑥は乱兵に害せられ、仙琦逃れ去る。璘未だ敗れざる時、上皇誥を下し「庶人に降し、房陵に徙置す」と。及び死し、侁妻子を送りて蜀に至らしむ、上皇傷悼すること久し。肅宗少より自ら鞠くるところなれば、其の罪を宣せず。左右に謂いて曰く「皇甫侁吾が弟を執り、之を蜀に送らずして擅に之を殺す、何ぞや」。ここより用いざるを復たせず。薛寔等皆誅せらる。子の儹は余姚王となり、偵は莒國公となり、儇は郕國公となり、伶・儀は並びに國子祭酒となる。
壽王李瑁は、母惠妃頻りに姙して育たず、及び瑁生まるるに、寧王邸中に養わんことを請い、元妃自ら之を乳し、名づけて己が子と為す、故に封ずること諸王に比して最も後し。開元十五年、遙かに益州大都督を領す。初め、帝永王等の尚幼きを以て、詔して謁に入らしめず。瑁七歳、諸兄と共に衆謝せんことを請い、拝舞に儀矩あり、帝之を異とす。寧王薨じ、制服を請いて以て私恩に報いんとす、詔して可とす。大暦十年薨じ、太傅を贈らる。子王たる者三人、僾は德陽郡王となり、伓は濟陽郡王となり、偡は廣陽郡王となり、伉は薛國公となり、傑は國子祭酒となる。
延王李玢は、母は尚書右丞範の孫、帝其の名家を重んじ、而して玢亦た仁愛学あり。封ぜられた後、遙かに安西大都護を領す。帝蜀に入る、玢凡そ三十六子、棄つるに忍びず、故に徐に進む、数日、行在所に見ゆ、帝怒り、漢中王李瑀申救して解け、霊武に帰るを聴す。興元元年薨ず。子の倬は彭城郡王となり、侹は平陽郡王となり、倞は魯國公となり、偃は荊國公となり、優は太僕卿となる。
盛宣王李琦は、封ぜられた後、揚州大都督を領す。帝の西すに、詔して廣陵大都督・淮南江東河南節度大使と為し、劉匯を以て副とし、李成式を副大使とす、琦行かず。廣德二年薨じ、太傅を贈らる。子の償は真定王に封ぜられ、佩は武都王に封ぜられ、俗は徐國公となり、系は許國公となる。
濟王李環は、其の薨年の逸す。子の傃は永嘉郡王となり、俛は平楽郡王となる。
信王李瑝は、開元二十一年に初めて王となり、義王・陳王・豐王・恒王・涼王・汴王の六王と同時に封ぜられる。子の佟は新安王に封ぜられ、倜は晉陵王に封ぜられる。
義王李玼は、信王と並びに薨年を失う。子の儀は舞陽王となり、僇は高密王となる。
陳王珪、二十一子あり、王者を得る者三人、倫王安南郡王、佗臨淮王、佼安陽王。
豊王珙、既に封ぜられ、左衛大將軍となる。帝普安に至り、珙に武威都督・河西隴右安西北庭節度大使を授け、隴西太守鄧景山を副使とす。珙行かず。廣德初、吐蕃京師に入り、代宗陜に幸す。將軍王懷忠苑門を閉じ、五百騎を以て諸王を劫し西へ虜を迎えんとし、郭子儀に遇う。懷忠曰く「上東遷し、宗社主無し。今仆諸王を奉じて西奔し、以て天下の望を繫がんとす。公元帥たり、惟だ廃置する所なり」と。子儀未だ對せず。珙輒ち曰く「公何如」と。司馬王延昌質して珙を責めて曰く「上蒙塵すと雖も、未だ德を失はず。王籓翰たり、安んか狂悖の言を得ん」と。子儀も亦之を譲る。即ち行在所に護送し、帝赦して責めず。珙語遜らず、群臣其の亂を恐れ、之を除かんことを請う。乃ち死を賜う。子佻齊安王と為る。
恒王瑱、方士を好み、常に道士の服を服す。帝に從い蜀に幸し、還り、代宗の時薨ず。
涼王璿、母は高平王重規の女、宮中に小武妃と號す者なり。璿代宗の時薨ず。子仂瀘陽郡王と為る。
汴哀王璥、諸子の中に於いて最も少く、初め封ぜらるるや纔に數歳、容貌秀澈にして成人の風有り、帝之を愛す。開元二十三年、右千牛衛大將軍を授かる。明年、薨ず。
唐の制:親王封戸八百、千に増す。公主三百、長公主六百に止まる。高宗の時、沛英豫三王・太平公主は武后の生みし所、戸始めて制を逾ゆ。垂拱中、太平千二百戸に至る。聖歷初、相王・太平皆三千、壽春等五王各三百。神龍初、相王・太平五千に至り、衛王三千、溫王二千、壽春等王皆七百、嗣雍・衡陽・臨淄・巴陵・中山王五百、安樂公主二千、長寧千五百、宣城・宜城・宣安各千。相王の女縣主と為る者各三百。相王七千に増し、安樂三千、長寧二千五百、宜城以下二千。相王・太平・長寧・安樂は七丁を以て限と為し、水旱と雖も蠲免せず、國租・庸を以て之を満たす。中宗遺詔、雍・壽春王親王に進み、戸千。開元後、天子兄弟を敦睦す。故に寧王戸五千五百に至り、岐・薛五千、申王は外家微なるを以て戸四千、邠王千八百、帝妹戸千、中宗諸女之に如し、通じて三丁を以て限と為す。及び皇子王に封ぜらるるに及び、戸二千、公主五百。咸宜公主は母惠妃の故を以て、封千に至る。是より諸公主例として千戸に止まる。初め、文德皇后崩じ、晉王最も幼く、太宗之を憐れみ、閤を出さしめず。豫王も亦武后の少子を以て閤を出でず。嗣聖初、即ち帝位に即き、及び降封して相王と為り、乃ち閤を出づ。中宗の時、譙王愛を失い、外籓に遷る。溫王年十七、猶ほ宮中に居り、遂に帝と立つ。開元後、皇子幼く、多く禁内に居る。既に長ずるに及び、詔して苑城に附して大宮を為らしめ、分院して處らしめ、「十王宅」と號す。所謂慶・忠・棣・鄂・榮・光・儀・潁・永・延・盛・濟等の王、十を以て全数を挙ぐるなり。中人之を押し、夾城に就きて天子の起居を參す。家令日々膳を進む。詞學士を引いて入り書を授け、之を侍讀と謂う。壽・信・義・陳・豐・恒・涼七王封に就くも、亦十宅に居る。鄂・光廢死し、忠王太子に立つ。慶・棣繼いで薨ず。唯だ榮・儀十四王院に居り、而して府幕は外坊に列し、歳時名を通じて起居す。既にして又諸孫多し、則ち宅外に更に「百孫院」を置く。天子歳々華清宮に幸し、又十王・百孫院を宮側に置く。宮人每院四百余、百孫院も亦三四十人。禁中に維城庫を置き、以て諸王の月奉を給す。諸孫妃を納め、女を嫁するは、十王宅に就く。太子東宮に居らず、乘輿の幸する所の別院に處る。太子・親王・公主の婚嫁並びに崇仁の禮院に帳を供す。此れ承平の制と云う。
肅宗の子
肅宗十四子:章敬皇后代宗皇帝を生む。宮人孫系を生み、張倓を生み、王佖を生み、陳婕妤僅を生み、韋妃を生み、張美人侹を生み、後宮榮を生み、裴昭儀僙を生み、段婕妤倕を生み、崔妃偲を生み、張皇后佋・侗を生み、後宮僖を生む。
越王系、開元の時に生まる。玄宗末年、悉く太子の子を王とす。故に系南陽郡王と為る。帝即位し、至德二載十二月、趙王に進み、彭・兗・涇・鄆・襄・杞・召・興・定九王と同封せらる。乾元二年、九節度の兵河北に潰え、朝廷震駭す。乃ち李光弼を以て郭子儀に代え關東の兵を總べしむ。而して光弼賢王を帥と為さんことを請う。於是詔して系に天下兵馬元帥を充てしめ、而して光弼司空兼侍中・薊國公を以て副え、節度行營事を知らしむ。系京師に留まる。史思明洛陽を陷す。系行かんことを請うも聽かず。明年、越王に徙る。帝疾に寢す。皇太子國を監す。張皇后中人李輔國と隙有り。因りて太子を召し入れて謂いて曰く「輔國禁軍を典し、用事久し。四方の詔令皆其の口より出ず。天子の制を矯い、聖皇を逼徙せしめ、天下側目す。今上疾彌留す。輔國常に怏怏たり。吾と汝を忌む。又程元振陰に黃門と結び、不軌を圖る。若し釋して誅せずんば、禍頃を移さず」と。太子泣いて曰く「此の二人は、陛下の勛舊にして、而上體豫ならず。重ねて此の事を以てす。震驚を得ざらんや。願わくは外に出でて徐に之を計らん」と。後曰く「是れ與に事を共にし難き者なり」と。乃ち系を召して曰く「汝能く此を行わんや」と。系諾す。即ち内謁者監段恒俊を遣わし、材勇の宦者二百人を選び、甲を長生殿に授け、帝命を以て太子を召す。元振以て輔國に告ぐ。乃ち相與に兵を勒して淩霄門に至り、太子を迎え、難を告ぐ。太子曰く「上疾亟し。吾懼れて死を死なずして赴かざらんや」と。元振曰く「赴かば則ち禍に及ぶ」と。乃ち兵を以て太子を護り飛龍廄に止め、兵を勒して夜三殿に入り、系及び恒俊等百余人を収めて之を繫ぎ、後を別殿に幽す。後及び系皆輔國の害する所と為る。系三子:建王武威郡王、逌興道王、逾齊國公。
承天皇帝李倓、初め建寧王に封ぜられる。英毅にして才略あり。騎射を善くす。安禄山の乱に際し、親兵を統率し、車駕に扈従す。渭水を渡るに及び、百姓が道を遮りて太子を留めんとす。太子、人を遣わして諭さしめて曰く、「至尊播遷す、吾何ぞ左右に違ふべけんや」と。倓進みて説きて曰く、「逆胡常を乱し、四海崩分す、人情に因りて興復を図らずんば、たとひ上に従ひて蜀に入るとも、散関以東は国家の有に非ず。大孝は社稷を安んずるに若くは莫し、殿下まさに豪傑を募り、河西に趣き、牧馬を収むべし。今防辺の屯士は十萬を下らず、而して李光弼・郭子儀の全軍は河朔に在り、之と謀りて興復せば、策の上なる者なり」と。広平王も亦之を賛す、ここに於て議定まる。太子北して渭水を過ぎ、兵仗塩悪にして、士気崩沮し、日に数十戦す。倓、驍騎数百を以て従ひ、毎に戦に接するに、常に身を先んじ、血袂を殷うすも、告げず。太子或は時を過ぎて未だ食せざるあり、倓輒ち涕泗自ら勝へず、三軍皆目を属す。霊武に至り、太子即ち帝位に即く。倓を以て天下兵馬元帥と為さんと議す。左右固く広平王を請ふ。帝曰く、「広平既に冢嗣たり、何ぞ元帥を用ゐん」と。答へて曰く、「太子従ふを撫軍と曰ひ、守るを監国と曰ふ。元帥は撫軍なり、広平王に宜しきは莫し」と。帝之に従ひ、更に詔して倓に親軍を典せしめ、李輔国を以て府司馬と為す。時に張良娣寵有り、輔国と交構し、皇嗣を動かさんと欲す。倓忠謇にして、数へて帝に之を言ふ。是に由りて良娣・輔国の譖する所と為り、妄りに曰く、「倓は兵を総べずして恨み、郁郁として異志有り」と。帝偏語に惑ひ、倓に死を賜ふ。俄かに悔悟す。明年、広平王二京を収め、李泌をして捷を献ぜしむ。泌は帝と雅素たり、従容として倓の事を語る。帝容を改めて曰く、「倓は艱難の時に於て実に自ら力有り、細人の間鬩するを為し、其の兄を害せんと欲す。我社稷を計り、愛を割きて之が為に所す」と。泌曰く、「爾の時臣は河西に在り、其の詳を知る。広平は兄弟に於て篤睦、今に至るも建寧を言へば、則ち嗚咽自ら已めず。陛下此の言は讒口に得たるのみ」と。帝泣下して曰く、「事已に爾なり、末耐何」と。泌曰く、「陛下嘗て『黄臺瓜』を聞かずや。高宗に八子有り、天後の生む所の者は四人、自ら行を為し、而して睿宗最も幼し。長は弘と曰ひ、太子と為り、仁明孝友、後に方に臨朝を図るに、之を鴆鐐し、而して次子の賢を立てる。賢は日を憂惕し、毎に上に侍するに、敢へて言有ることなく、乃ち楽章を作り、工をして之を歌はしめ、以て上及び後に感悟せんと欲す。其の言に曰く、『瓜を種う黄臺の下、瓜熟して子離離たり。一たび摘めば瓜をして好からしめ、再び摘めば瓜をして稀ならしむ。三たび摘むも尚ほ雲ふ可し、四たび摘めば蔓を抱きて帰らん』と。而して賢終に後に斥せられ、黔中に死す。陛下今一たび摘む、慎んで再び無かれ」と。帝愕然として曰く、「公何ぞ是の言を得る」と。是の時、広平大功有り、亦た後に構へらる。故に泌対するに因りて之に及ぶ。広平遂に安んず。即位に及び、倓を追贈して斉王と為す。大暦三年、詔有りて倓は艱難の時に当たり、首めて大謀を定め、衆議を排し、中興に功有りと。乃ち進めて謚して承天皇帝と為し、興信公主の季女張氏を以て恭順皇后と為し、冥配す。順陵に葬り、主を奉天皇帝廟に祔し、同殿異室と雲ふ。初め、李泌倓の加贈を請ふ。代宗曰く、「倓は性忠孝なり、而して讒に困る。之を追帝するは、若何」と。答へて曰く、「開元中、上皇の兄弟皆太子を贈る」と。帝曰く、「是れ特だ祖宗の友愛のみ、豈に倓の功有るに若かんや」と。ここに於て帝号を追ふ。使を遣はして喪を彭原に迎ふ。既に城門に至るも、喪輴動かず。帝泌に謂ひて曰く、「豈に恨み有らんや。卿往きて之を祭り、以て朕が意を白せ。且つ卿は倓の艱難に定策するを知る者なり」と。泌、挽詞二解を為し、倓の誌を追述し、挽士に命じて唱へしむ。泌因りて輴に進む。乃ち行く。観る者皆為に垂泣す。
衛王李泌、初め西平王に封ぜられる。早く薨ず。宝応元年五月、鄆王と同く追封せらる。
彭王李僅、初め新城王に封ぜられ、進みて彭王と為る。史思明河・洛を陥とす。人心震騷ぎ、群臣諸王を以て方鎮の兵を臨統し、遥かに相維ぎ圧せんことを請ふ。ここに於て詔して僅を河西節度使に充て、兗王は北庭、涇王は隴右、杞王は陝西、興王は鳳翔とし、並びに大使と為す。是歳僅薨ず。子の鎮は常山郡王と為る。
兗王李僩、初め潁川王に封ぜられ、進みて兗王と為る。宝応元年薨ず。
涇王李侹、初め東陽王に封ぜられ、進みて涇王と為る。興元元年薨ず。
鄆王李栄、初め霊昌王に封ぜられる。早く薨じ、追封せらる。
襄王李僙、至徳二載初めて王に封ぜられ、杞王・召王・興王・定王の四王と同く封ぜらる。貞元七年薨ず。子の宣は伊吾郡王と為り、寀は楽安王と為る。宣の裔孫煴。
李煴、性謹柔にして、材人に過ぐる者無し。光啓二年、田令孜僖宗を逼りて興元に幸せしむ。邠寧節度使硃玫五千騎を以て乗輿を追ふも及ばず。煴は疾を以て従ふ能はず。玫之を劫し、鳳翔に駐る。台省官百余を得、乃ち宰相蕭遘等を脅し率ひて群臣をして石鼻驛に盟せしめ、煴を奉りて嗣襄王と為し、軍国事を監せしむ。因りて京師に還り、即ち官属を封拜す。初め、遘執へて不可とす。ここに於て遘を罷め、而して玫自ら侍中と為り、号令己より出づ。裴澈を以て門下侍郎と為し、鄭昌図を中書侍郎と為し、皆平章事と為す。柳陟等十余人を遣はし分ちて天下に諭し嗣襄王の以て監国する意とす。皆進官を得。玫又た太子太師裴璩等を脅し箋を奉りて進むるを勧む。煴五たび譲りて乃ち即位し、元を建貞と改め、僖宗を尊びて太上元皇聖帝と為す。河中節度使王重栄諸籓を率ひて貢奉す。帰する者十八九、而して蔡州の秦宗権自ら号を僭す。惟だ太原の李克用従はず。時に帝使を遣はし重栄・克用を諭す。故に二人命を聴く。枢密使楊復恭等檄を三輔に伝へ、能く玫を斬る者を募り、邠寧節度を以て之に界す。其の偽将王行瑜鳳州より京師に入りて玫を殺す。而して煴は澈・昌図並びに官属と東渭橋に奔る。重栄紿して使をして之を迎へしむ。煴は官属と別れ、且つ泣いて曰く、「朕重栄を見ば、当に備へて服する所を令し以て公等を迓はん」と。蒲に至り、之を執へて殺す。因りて澈等を獄に械し、偽官を誅殺し、煴の首を函して行在所に至る。煴即偽位する凡そ九月にして敗る。初め、煴の首至る。群臣帝に白して興元南門に禦へて之を受けしむ。百官賀を称す。太常博士殷盈孫奏言して曰く、「礼に、公族罪有れば、有司曰く、『某の罪大辟に在り』と。君曰く、『之を赦せ』と。是の如き者三たび、走り出で、刑に致す。君素服を為し挙げざること三日。今煴は皇族、以て節を固くせず、迫脅して此に至る。宜しく廃して庶人と為し、属籍を絶ち、庶人の礼を以て葬るべし。大捷の慶は、硃玫の首の至るを須ちて乃ち賀すべし」と。詔して可とす。
杞王李倕、貞元十四年薨ず。
召王李偲、元和元年薨ず。
恭懿太子李佋、初め興王に封ぜらる。上元元年薨ず。佋生まる。後方に専愛し、帝最も之を憐む。後数へて儲嫡を撼がし、佋を以て嗣がんと欲す。会ひて薨ず。計塞がる。是の夕、帝及び後佋の辞決し涕泣して去るを夢みる。帝鯁悵す。故に冊贈して皇太子と為す。
定王李侗、宝応初め薨ず。
代宗の子
代宗二十子:睿真皇后は徳宗皇帝を生み、崔妃は邈を生み、貞懿皇后は迥を生む。十七王は、史其の母の氏・位を亡ふ。
昭靖太子李邈は、学問を好み、賢人として知られた。上元二年に初めて益昌王に封ぜられる。帝が即位すると、宝応元年に鄭王に進封され、韓王と同日に封ぜられた。淄青の牙将李懷玉がその帥侯希逸を逐うと、詔して邈を平盧淄青節度大使とし、懷玉を留後とさせた。大暦初年、皇太子に代わって天下兵馬元帥となる。八年に薨じ、ここに元帥府は廃止された。
均王李遐は、早くに薨じた。貞元八年に追封された。
睦王李述。大暦十年、田承嗣が臣節を守らず、また昭靖太子が夭折し、強力な王がいなかったため、帝は諸子を悉く王とし、諸鎮軍を領させて天下に威を示した。ここにおいて述を睦王とし、嶺南節度を領させ、郴王を超えて渭北鄜坊節度、韓王を過ぎて汴宋節度、忻王を造って昭義節度とし、皆大使とした。連は恩王、遘は鄜王、暹は韶王、遇は端王、遹は循王、通は恭王、逵は原王、逸は雅王とし、並びに開府儀同三司としたが、閤を出ることはなかった。
徳宗建中初年、天下に周くして太后の所在を訪ねさせた。述は諸王の中で最も年長であったため、奉迎太后使に拝され、工部尚書喬琳がこれを副った。貞元七年に薨じた。
丹王李逾は、初め郴王に封ぜられ、建中四年に簡王と共に改めて封ぜられた。元和十五年に薨じた。
恩王李連は、元和十二年に薨じた。
韓王李迥は、初め延慶郡王に封ぜられ、母の寵愛により、鄭王に先んじて改めて封ぜられた。貞元十二年に薨じた。
簡王李遘は、初め鄜王に封ぜられ、後に簡王に改封された。元和四年に薨じた。
益王李乃は、大暦十四年に初めて王に封ぜられた。薨じた年は伝わらない。
隋王李迅は、興元元年に薨じた。
荊王李選は、早くに薨じ、建中二年に追封されて王となった。
蜀王李溯は、本名を遂といい、大暦十四年に初めて王に封ぜられ、建中二年に今の名に改めた。
忻王李造は、元和六年に薨じた。
韶王李暹は、貞元十二年に薨じた。
嘉王李運は、貞元十七年に薨じた。
端王李遇は、貞元七年に薨去した。
循王李遹は、薨去の年は不明である。
恭王李通は、薨去の年は不明である。
原王李逵は、大和六年に薨去した。
雅王李逸は、貞元十五年に薨去した。
徳宗の子
徳宗に十一人の子あり:昭徳皇后は順宗皇帝を生み、帝は昭靖太子の子誼を取って第二子とし、また順宗の子謜を取って第六子とした;余りの八王は、史書にその母の氏と位を記さず。
舒王誼は、初め名を謨といった。帝はその幼さを愛で、子として取った。大暦十四年に初めて舒王に封ぜられ、通王・虔王・粛王・資王の四王と同時に封ぜられた。開府儀同三司に拝され、詔して有司に奉稍(俸給)を給せしめたが、まもなく軍興のため罷められた。李謨は諸王の中で最も年長であったので、帝は事を以て試みようとし、故に涇原節度大使に拝した。時に尚父郭子儀が病篤く、帝は臨軒して李謨を遣わし、詔を持たせて見舞わせた。李謨は遠遊冠を戴き、絳袍を着て、象輅に四馬を駕し、飛龍士三百人、国府の官は皆袴褶を着て従った。子儀は手を叩いて頭を地に付け謝恩した。李謨が詔を宣べ終わると、服を改めて労問して還った。
ここにおいて、李希烈が反し、招討使李勉は戦いに勝たず、宋州に奔ったので、朝廷は大いに震駭した。乃ち李謨を揚州大都督・荊襄江西沔鄂節度使・諸軍行営兵馬都元帥に拝した。名を誼と改めさせた。軍中では、哥舒翰が元帥であったために敗れたことから、王の封号がそれと同じであることを不吉とし、帝は乃ち王を普王に徙封させた。兵部侍郎蕭復を統軍長史とし、湖南観察使孔巣父を行軍左司馬とし、山南東道節度行軍司馬樊沢を右司馬とし、刑部員外郎劉従一・侍御史韋儹を判官とし、兵部員外郎高参に書記を掌らせ、右金吾大将軍渾瑊を中軍虞候とし、江西節度使嗣曹王李臯を前軍兵馬使とし、鄂嶽団練使李兼をその副とし、山南東道節度使賈耽を中軍兵馬使とし、荊南節度使張伯儀を後軍兵馬使とし、左神武軍使王价・左衛将軍高承謙・検校太子詹事郭曙・検校右庶子常願を押衙とした。未だ出発せざるうちに、涇原の兵が反し、李誼は帝に従って奉天に出た。朱泚が城を攻めると、李誼は昼夜を分かたず諸軍に伝令し労わり、帯を解かなかった。帝が京師に還ると、故の封号である揚州大都督に復した。永貞元年に薨去した。
通王諶は、初めて王に封ぜられ、開府儀同三司に拝された。貞元九年、宣武節度大使を領し、李万栄を留後とした。二年、河東に徙封し、李説を留後としたが、皆閤門を出なかった。
虔王諒は、王として開府儀同三司に拝された。貞元二年、蔡州節度大使を領し、呉少誠を留後とした。十年、朔方霊塩節度使に徙封し、李欒を留後とした。明年、横海節度使を領し、また徐州に徙封し、程懐信・張愔を留後とした。閤門を出なかった。
粛王詳は、資質秀異で、帝に愛された。建中二年に薨去した。わずか四歳であった。帝は浮屠(仏教)の説を用い、塔を建てて墳墓とせずに葬ろうとしたが、礼儀判官李岧が非礼なりと諫めたので、止めた。詔して揚州大都督を追贈した。
文敬太子謜は、帝に見愛され、命じて子とした。貞元初年、諸王に先んじて邕王に封ぜられた。義武・昭義二軍節度大使を歴任し、張茂昭・王虔休を留後としたが、閤門を出なかった。十五年、十八歳で薨去し、追贈及び謚が贈られた。葬日の儀に、君臣は位の序に従って通化門外で哭した。陵及び廟に令・丞を置いたという。
資王謙は、薨去の年は不明である。
代王諲は、初め縉雲郡王に封ぜられた。早くに薨じ、建中二年に追って王に封ぜられた。
昭王李誡は、貞元二十一年に初めて王に封ぜられた。薨去の年は伝わらない。
欽王李諤は、順宗が即位した際、珍王とともに封ぜられた。薨去の年は伝わらない。
珍王李諴は、大和六年に薨じた。
順宗の子
順宗には二十七人の子があった。莊憲皇后は憲宗皇帝及び李綰を生み、張昭訓は李経を生み、趙昭儀は李結を生み、王昭儀は李総・李約・李緄を生んだ。その他の二十王については、史書に母の氏や位が伝わらず、そのうち四王は早世し、官位や諡も伝わらない。
郯王李経は、本名を渙という。貞元四年、建康郡王に初めて封ぜられ、広陵・洋川・臨淮・弘農・漢東・晉陵・高平・雲安・宣城・徳陽・河東・洛交の十二王と同時に封ぜられた。二十一年、また均王・漵王・莒王・密王・郇王・邵王・宋王・集王・冀王・和王・衡王・欽王・会王・珍王・福王・撫王・嶽王・袁王・桂王・翼王の二十王とともに皆王に進んだ。王位に二十九年、太和八年に薨じた。
均王李緯は、初名を沔という。洋川王に封ぜられ、後に王に進んだ。王位に三十三年、開成二年に薨じた。
漵王李縦は、初名を洵という。臨淮王に封ぜられ、後に王に進んだ。王位に三十二年、開成元年に薨じた。
莒王李紓は、初名を浼という。秘書監に任ぜられた。弘農王に封ぜられ、後に王に進んだ。王位に二十九年、大和八年に薨じた。
密王李綢は、初名を詠という。漢東王に封ぜられ、後に王に進んだ。王位に三年、元和二年に薨じた。
郇王李総は、初名を湜という。少府監を授けられた。晉陵王に封ぜられ、後に王に進んだ。王位に四年、元和三年に薨じた。
邵王李約は、初名を漵という。国子祭酒に任ぜられた。高平王に封ぜられ、王に進んだ。王位に二年、元和元年に薨じた。
宋王李結は、初名を滋という。雲安王に封ぜられ、王に進んだ。王位に十八年、長慶二年に薨じた。
集王李緗は、初名を淮という。宣城王に封ぜられ、王に進んだ。王位に十八年、長慶二年に薨じた。
冀王李絿は、初名を湑という。太常卿に任ぜられた。徳陽王に封ぜられ、王に進んだ。王位に三十年、大和九年に薨じた。
和王綺、初めは名を浥といった。河東王に封ぜられ、進んで王となった。王位二十八年、太和七年に薨去。
衡王絢、王位二十二年、宝暦二年に薨去。
会王纁、王位六年、元和五年に薨去。
福王綰、魏博節度大使を歴任。咸通元年、司空に進み拝された。王位五十七年、咸通二年に薨去。
珍王繕、初めは名を況といった。洛交王に封ぜられ、後に進んで王となった。薨去年は失われている。
撫王纮、咸通の初め、司空を歴任し、さらに司徒・太尉に進んだ。王位七十三年、乾符三年に薨去。
嶽王緄、王位二十三年、太和二年に薨去。
袁王紳、王位五十六年、咸通元年に薨去。
桂王綸、王位十年、元和九年に薨去。
翼王綽、王位五十八年、咸通三年に薨去。
蘄王緝、王位六年、咸通八年に薨去。
欽王績、薨去年は失われている。
憲宗の子
憲宗に二十子あり:紀美人は寧を生み、懿安皇后は穆宗皇帝を生み、孝明皇后は宣宗皇帝を生む。その余の十七王は、皆後宮の生みし所にして、史にその母の号・氏を逸す。
恵昭太子寧、貞元二十一年、初め平原王に封ぜられ、同安・彭城・高密・文安の四王と同時に封ぜられる。帝即位の後、鄧王に進み、澧・深・洋・絳の四王と同時に封ぜられる。
ここに国嗣が未だ定まらなかったので、李絳らが建言して言うには、「聖人は天下を大器となし、一人では独り化すること能わず、四海には本なきことあたわざるを知り、故に太子を立てて自ら副とし、然る後に人心定まり、宗祏安んじ、国を有する不易の常道なり。陛下は受命すること四年、而して冢子未だ建たず、これは窺覦の端を開き、慎重の義に背き、列聖を承け、万世に示す所以に非ず」と。帝曰く、「善し」と。寧を以て皇太子と為し、更めて名を宙とす。前に制を以て絳らに示す。未だ幾ばくもせず、復た初名に復す。冊礼は孟夏を用いんとすれども、雨にて克さず、改めて孟秋を用うるも、亦た雨にて、冬十月に克く礼を行う。明年薨ず、年十九。
澧王惲は、初め同安王に封ぜられ、後に進んで王となる。惠昭(寧)の喪に際し、吐突承璀が儲副を復た立てんと議し、意は惲に属す。帝は自ら穆宗を以て太子と為す。帝崩ずるの夕、承璀死し、王殺され、秘して喪を発せず、久しくして以て告げ、朝を廃すること三日。三子あり。曰く漢、東陽郡王。曰く源、安陸王。曰く演、臨安王。初め、惲の名は寬、深王は察、洋王は寰、絳王は寮、建王は審、元和七年、並びに今の名に改む。
深王悰は、初め彭城郡王に封ぜられ、進んで深王となる。子に潭王河内、淑は呉興王。
洋王忻は、初め高密王に封ぜられ、進んで洋王となる。大和二年薨ず。子に沛王潁川郡王。
絳王悟は、初め文安王に封ぜられ、進んで王となる。敬宗崩ずるや、蘇佐明ら詔を矯りて以て王に軍国事を領せしむ。王守澄ら文宗を立て、王殺さる。二子あり。洙は新安王、滂は高平王。
建王恪は、元和元年初めて封ぜらる。時に淄青節度使李師古死し、その弟師道符節を丐う。故に詔して恪を鄆州大都督・平盧軍淄青等州節度大使と為し、師道を留後と為すも、然れども閤を出でず。長慶元年薨じ、嗣無し。
鄜王憬は、長慶元年初めて王に封ぜられ、瓊・沔・婺・茂・淄・衢・澶の七王と同封。開成四年薨ず。子に溥は平陽郡王。
瓊王悅、子に津は河間郡王。
沔王恂、子に瀛は晉陵郡王。
婺王懌、子に清は新平郡王。
茂王愔、子に潓は武功郡王。
淄王[忄辦]は、開成元年薨ず。子に浣は許昌郡王、渙は馮翊郡王。
衢王詹、子に涉は晉平郡王。
澶王㤝、子に濘は雁門郡王。
棣王惴は、大中六年初めて王に封ぜられ、彭・信の二王と同封。咸通三年薨じ、嗣無し。
彭王李惕は、乾寧年中に韓建が石堤谷でこれを殺した。嗣子なし。
信王李憻は、咸通八年に薨じ、嗣子なし。
榮王李㥽は、咸通三年に初めて王となった。廣明初年に司空を拝した。子の令平が王を嗣いだ。
凡そ八王、史はその薨年を失う。
穆宗の子
穆宗に五子あり:恭僖皇后は敬宗皇帝を生み、貞獻皇后は文宗皇帝を生み、宣懿皇后は武宗皇帝を生む;余りの二王は、その母の氏・位を亡くす。
懷懿太子李湊は、幼少より雅裕にして、尋矩有り。長慶元年に始めて王となり、漳王と安王と同日に封ぜられる。文宗即位の後、王守澄の専横を疾み、その支党が国を撓ますを引き、謀ってこれを尽く誅せんとし、密かに宰相宋申錫を引いて計らわしむ。守澄の客鄭注がこれを伺い知り、告げたるにより、乃ち先んずる事を謀りて申錫を殺さんとす。又、王の賢にして中外の望有るを以て、因って大臣を株連し族夷せんと欲す。乃ち神策虞候豆盧著に命じて飛変を上せしめ、且つ言わく「宮史晏敬則・朱訓と申錫の昵吏王師文は不軌を図る。訓嘗て言う、上多く疾有り、太子幼し、若し兄終弟及ばば、必ず漳王立つと。申錫は陰に金幣を以て王に進め、而して王も亦た珍服を以て厚く答う」と。即ち訓等を捕えて神策獄に繋ぎ、榜掠してその辞を定む。諫官群れ閤に伏して極言す。獄牒を出だして外に付し雑治せしむ。注等は事の泄るるを懼れ、乃ち詔を下して王を貶するを請う。帝未だ之を悟らず、因って湊を黜して巣県公と為す。時に大和五年なり。中人に命じて詔を持ち即ち賜い、且つ慰めて曰く「国法爾く当る、他の憂い無けん」と。八年に薨じ、斉王を贈る。注後ちに罪を以て誅せらる。帝、湊の讒に被りて死し自ら明らかならざるを哀しみ、開成三年に追贈す。
安王李溶。初め、楊賢妃は文宗に寵を得、晩年稍々多く疾有り、妃は陰に王を以て嗣と為さんことを請い、密かに自安の地を為す。帝、宰相李玨と謀る。玨は不可と謂い、乃ち止む。乃ち帝崩じ、仇士良武宗を立て、己が功を重んぜんと欲し、即ち溶の嘗て太子と為さんと欲せし事を擿げ、之を殺す。
敬宗の子
敬宗に五子あり:妃郭氏は普を生む。余りの四王は、母の氏・位を亡くす。
悼懷太子李普は、姿性韶悟なり。宝暦元年に始めて晉王となる。文宗之を愛すること己が子の若く、嘗て嗣と為さんと欲す。大和二年に薨ず。帝惻念して已む能わず、故に贈恤を加う。敬宗第二子休復は、文宗開成二年に梁王に封ぜられ、第三子執中は襄王と為り、第四子言揚は紀王と為り、第五子成美は陳王と為る。執中の子寀は楽平郡王と為る。
陳王成美。初め、文宗は庄恪の薨じたるを以て、大臣数え東宮を建つるを請う。開成四年、帝乃ち成美を立てて皇太子と為す。典冊未だ具わらずして帝崩じ、仇士良武宗を立て、之を邸に於いて殺す。子の儼は宣城郡王と為る。
文宗の子
文宗に二子あり:王徳妃は永を生み、後宮は宗儉を生む。
庄恪太子李永は、大和四年に始めて魯王となる。帝は王の幼きを以て、宜しく賢輔を得べしとし、因って傅和元亮を召見す。元亮は卒史を以て進み、問う所ありて答うる能わず。帝責めて宰相に謂いて曰く「王は教う可く、官属は応に士大夫の賢者を任ずべし。寧んぞ元亮の比ならんや」と。是に於いて劇選して戸部侍郎庾敬休をして王傅を兼ねしめ、太常卿鄭肅をして長史を兼ねしめ、戸部郎中李踐方をして司馬を兼ねしむ。六年、遂に立てて皇太子と為す。帝は宝暦の荒怠を承け、身を勤倹にして天下を率い、晉王の生まれ謹敏なるを謂い、引いて嗣と為さんと欲す。会に早く夭し、故に久しく東宮の事を議せず。及て太子立つ、天下心を属く。開成三年、詔して宮臣に崇明門に詣り朔望に謁せしめ、侍読は偶日に入対せしむ。太子稍々燕豫に事し、能く壹に法に循わず、保傅戒告す。
受け入れられず。また母の寵愛は弛み、楊賢妃が寵幸を受け、しばしば讒言した。帝はある日激怒し、延英殿に臨み、群臣を引見して詔を下した、「太子は過失多く、天下を継がせることはできぬ。廃すことを議せよ。」群臣は頓首して言う、「太子は年若く、過失あれども、なお改め得ます。かつ天下の根本、軽々しく動かすべからず。願わくは陛下赦したまえ。」御史中丞狄兼暮は涙を流して固く争い、帝は決せず、罷朝した。群臣また連章して論救し、帝の意はやや解け、詔して太子を少陽院に還し、宦官をして護視せしめ、寵昵の者数十人を誅し、侍読竇宗直・周敬復に命じて院に詣り経を授けしむ。然れども太子は終に自ら讒を白くすること能わず、己が行いもまた修めざりき。この年暴薨し、帝はこれを悔いた。明年、詔を下して陳王を太子とし、殿中に酒宴を設けた。俳優の児が橦(竿)を登り、父はその転落を恐れ、橦の下を走り回る。帝は感動し、左右に謂いて曰く、「朕は天下を有つも、返って一児を全うせずや。」因りて泣下す。即ち坊工劉楚才ら数人を捕え京兆に付して榜殺せしめ、及び禁中の女倡十人を永巷に斃し、皆太子を短毀した者なり。宰相楊嗣復らは及ばず知らず、因りて言う、「楚才らの罪は誅に当たれども、京兆がこれを殺すに、覆奏せず。敢えて請う。」翌日、詔して京兆に、後に決死の勅ありて覆さざる者も、また故事の如く以て聞こえしむることを許す。
蔣王宗儉は、開成二年に初めて王となった。薨年は伝わらず。
武宗の子
武宗に五子あり、その母の氏・位は皆伝わらず。
杞王峻は、開成五年に初めて王となる。益王峴は、会昌二年に初めて王となり、兗王・徳王・昌王の三王と同封される。兗王岐、徳王嶧、昌王嵯:並びにその薨年は逸す。
宣宗の子
宣宗に十一子あり:元昭太后は懿宗皇帝を生む。余は皆その母の氏・位を失う。
靖懷太子渼は、会昌六年に初めて雍王となり、夔王・慶王の二王と同封される。大中六年に薨じ、詔を下して追冊す。
雅王涇は、大中元年に初めて王となる。薨年は伝わらず。
通王滋は、会昌六年に初めて夔王となり、慶王沂と同封される。帝は初め詔して鄆王を十六宅に居らしめ、余の五王は大明宮内院に処せしめ、諫議大夫鄭漳・兵部郎中李鄴を侍読とし、五日毎に乾符門に謁し、王に経を授けしむ。鄆王が立って懿宗となるに及び、乃ち罷む。滋は王に徙封される。昭宗乾寧三年、侍衛諸軍を領す。この時、王行瑜を誅し、而して李茂貞は怨み、兵を以て入覲す。詔して滋と諸王に分統して安聖・奉宸・保寧・安化の軍をして京師を衛せしむ。天子将に太原に狩らんとし、韓建は道に迎え、留まって華州に次ぐ。建は王らに兵あるを畏れ、人を遣わし急変を上告し、諸王建を殺さんと欲し、帝を脅して河中に幸せんとすと告ぐ。帝驚き、建を召して論ずるも、疾を称して肯て入らず。勅して滋と睦王・済王・韶王・彭王・韓王・沂王・陳王に建に謁して自ら解せしむ。建は軍中に留め、奏して言う、「中外は体を異にし、臣は私見すべからず。」又言う、「晋の八王は権を擅にし、卒に天下を敗る。請う、十六宅に帰り、領する所の兵を悉く罷めしめよ。」帝は許さず。建は兵を以て行在を環し、大将李筠を誅せんことを請う。帝懼れ、筠を斬り以て謝す。建は衛兵を尽く逐い、是より天子孤弱となる。
初め、帝は嗣延王戒丕・嗣丹王允をして李克用に見えしむ。二王還りしを、建はこれを悪む。又、嗣覃王嘗て軍を督して茂貞を伐つ。ここにおいて劾奏す、「比歳兵近輔に纏わり、諸王その禍を階とし、乗輿をして下籓に越えしめ、安んぜず。臣は已にその兵を解くことを請う。今、延・覃・丹の三王尚お陰計を以て国を危うくす。請う、これを誅せよ。」帝曰く、「渠ここに至るか。」後三日、劉季述と矯詔を以て兵を発し十六宅を攻む。諸王は髪を被り垣に乗りて走り、或いは屋極に昇りて号して曰く、「帝我を救え。」建は乃ち十一王並びにその属を将いて石堤谷に至り殺し、徐に謀反を以て聞こえしむ。天下これを冤とす。済・韶・彭・韓・沂・陳・延・覃・丹の九王は、史その系胄を逸すと云う。
慶王沂は、大中十四年に薨ず。
濮王澤は、大中二年に初めて王となる。薨年は伝わらず。
鄂王潤は、大中五年に初めて王となる。乾符三年に薨ず。
懷王洽は、大中八年に昭王・康王の二王と同封される。薨年は伝わらず。
昭王李汭は、乾符三年に薨去した。
康王李汶は、乾符四年に薨去した。
広王李澭は、大中十一年に初めて王に封ぜられ、衛王と同時に封ぜられた。乾符四年に薨去した。
衛王李灌は、大中十四年に薨去した。
懿宗の子
懿宗に八人の子あり。恵安皇后は僖宗皇帝を生み、恭憲皇后は昭宗皇帝を生み、他の六王はその母氏と位を失う。
魏王李佾は、咸通三年に初めて王に封ぜられ、涼王・蜀王の二王と同時に封ぜられた。
涼王李侹は、乾符六年に薨去した。
蜀王李佶。
威王李偘は、咸通六年に初めて郢王に封ぜられ、十年に王を改封された。
吉王李保は、咸通十三年に初めて王に封ぜられ、睦王と同時に封ぜられた。王は兄弟の中で最も賢明であった。初め、僖宗が崩御した時、王が最年長であったので、立てんとしたが、楊復恭が独り議して昭宗を後嗣とした。乾寧元年、李茂貞らが兵を率いて京師に入り、帝を廃して王を立てんと謀ったが、ちょうど李克用が兵を用いて王行瑜を追い払ったので、やむを得ず止めた。
恭哀太子李倚は、初め睦王に封ぜられた。劉季述に殺され、天復初年に追贈された。
僖宗の子
僖宗に二子あり、史書にその母氏と位を失う。
建王李震は、中和元年に初めて王に封ぜられ、益王李陛は、光啓三年に初めて王に封ぜられた。ともに薨去の年を失う。
昭宗の子
昭宗に十七子あり。積善皇后は裕及び哀皇帝を生み、余は皆母の氏・位を失ふ。
徳王裕は、大順二年に初めて王となる。帝華州に幸す。韓建既に諸王の兵を奪ひ、自ら安からず、乃ち皇子の未だ王たらざる者を王とせんことを請ふ。既にして又諸王を殺し、因りて裕を立てて皇太子と為さんことを請ふ。四方に釈言す。時に乾寧四年なり。劉季述等帝を東内に幽し、裕を奉じて即ち皇帝位に即かしむ。季述誅せらる。裕右軍に匿る。或は之を殺さんことを請ふ。帝曰く「太子沖孺なり。賊強ひて之を立てたり。且つ何の罪かあらん」と。詔して少陽院に還し、復た王と為す。朱全忠鳳翔より還り、王春秋盛にして標宇軒秀なるを見、之を忌む。密かに崔胤に語りて曰く「王既に帝を竊めり。大義親を滅す。渠か留むべけんや。公宰相を任ず。盍ぞ之を啓せざる」と。胤従容として言ふこと全忠の意の如し。帝許さず。它日、以て全忠に語る。全忠曰く「此れ国の大事なり。臣安ぞ敢て与からん。此れ必ず胤臣を売るなり」と。乃ち免す。帝洛に遷る。它日蔣玄暉に謂ひて曰く「徳王は朕が愛子なり。全忠奈何ぞ之を殺さんと欲する」と。言ひ已りて泣き下り、自ら指を嚙みて血を流す。玄暉即ち擿して全忠に語る。全忠恚る。帝殺さる。玄暉酒を置き諸王を九曲池に邀へ、飲み酣にして、皆之を殺し、屍を水中に投ず。
棣王祤は、乾寧元年に初めて王となり、虔・沂・遂の三王と同封せらる。
虔王禊。
沂王禋。
遂王祎。
景王秘は、乾寧四年に初めて王となり、祁王と同封せらる。
祁王祺。
雅王禛は、光化元年に初めて王となり、瓊王と同封せらる。
瓊王祥。
端王禎は、天祐元年に初めて王となり、豊・和・登・嘉の四王と同封せらる。
豊王祁。
和王福。
登王禧。
嘉王祐。
潁王禔、天祐二年に初めて王となり、蔡王祐と同日に封ぜられる。
蔡王祐。
【贊】
贊に曰く、唐は中葉より、宗室の子孫多くは京師に在り、幼き者は或いは閤を出でず、国を以て王とすと雖も、実は匹夫と異ならず、故に赫々たる過悪無く、亦た王室を為に軒輊すること能わず、運極まりて還らず、唐と俱に殫る。然らば則ち歴数の短長、自ら底止有り。彼の漢の七国、晋の八王、其の効を得ず、愈々禍を速にすと云う。