高宗子
高宗に八子あり。後宮の劉が忠を生み、鄭が孝を生み、楊が上金を生み、蕭淑妃が素節を生み、武后が弘・賢・中宗皇帝・睿宗皇帝を生む。
燕王
燕王忠、字は正本。帝が初めて太子となった時に忠が生まれ、宮中で宴を開いたところ、やがて太宗が臨幸され、詔して宮臣に曰く、「朕初めて孫を得た。共に楽しみたい」と。酒酣のとき、帝は舞い、群臣に属し、在位の者皆舞い、賜物に差があった。貞観二十年、初めて陳王に封ぜられる。永徽初年、雍州牧を拝す。王皇后に子がなく、后の舅柳奭が后に説き、忠の母は微賎であるから、彼を立てれば必ず己に親しむであろうと、后はこれを然りとし、帝に請う。また奭は褚遂良・韓瑗・長孫無忌・于志寧らと相次いで請うたので、遂に皇太子に立てられた。后が廃されると、武后の子弘はわずか三歳であったが、許敬宗が后の意を迎え、建言して曰く、「国に正嫡あり。太子は漢の劉強の故事に同じくすべし」と。帝は敬宗を召して見て曰く、「嫡を立てるは如何」と。対えて曰く、「正本なれば則ち万事治まる。太子は国の本なり。しかも東宮の出は微なり。今正嫡あるを知りて自ら安からず。位を窃にして自ら安からざるは、社稷の計にあらず」と。帝曰く、「忠は固より自ら譲らんとす」と。敬宗曰く、「太伯となる能くば、亦善からずや」と。ここにおいて梁王・梁州都督に降封し、甲第を賜い、実封二千戸、物二万段を賜う。やがて房州刺史に転ず。忠は次第に懼れて聊生せず、婦人の衣を着るに至り、刺客を備えた。しばしば妖夢あり、嘗て自ら占う。事露れ、庶人に廃し、黔州の承乾の故宅に囚う。麟徳初年、宦者王伏勝が武后に罪を得ると、敬宗は乃ち忠及び上官儀が伏勝と謀反を図ったと誣い、死を賜う。年二十二。子なし。明年、太子弘が表を奉り収葬を請う。許す。神龍初年、追封し、また太尉・揚州大都督を贈る。
原王
澤王
許王
璆、初め嗣澤王に封ぜられ、郢国公に降封し、宗正卿・光禄卿を歴任し、褒信王に進封す。初め、張九齢が『龍池頌』を撰し、石に刊して興慶宮に置く。宗子これを盛徳に称せずと為し、更に璆に命じて頌を為さしめ、花萼楼の北に建つ。天宝初年、再び宗正卿を拝す。性、友弟にして聡敏、宗子に一善あれば、薦延せざる無し。故に宗室に省闥に在る者は多く璆の啓する所なり。薨ず。江陵郡大都督を贈る。三子:謙は郢国公・梓州刺史、巽は汝南郡公。欽古は巳国公に封ぜられ、子賁嗣ぐ。
孝敬皇帝
章懷太子
中宗の子
中宗に四子あり:韋庶人は重潤を生み、後宮は重福・重俊・殤帝を生む。
懿德太子
懿德太子重潤、本名は重照、武后の諱を避けて改む。帝が皇太子の時、東宮に生まれ、高宗は大いに喜び、乳月満ちて、大赦天下し、元号を永淳と改めた。この歳、皇太孫に立てられ、開府して官屬を置いた。帝が吏部侍郎裴敬彜・郎中王方慶に問うと、対えて言う、「礼に嫡子有り、嫡孫無し。漢・魏は太子在りて、子は但だ王に封ず。晉は湣懷の子を立てて皇太孫とし、齊は文惠の子を立てて皇太孫とし、皆東宮に居す。今太子有りて、又太孫を立てるは、古に有ること無し」。帝曰く、「我より古を作すは如何」。対えて言う、「礼に、君子は孫を抱きて子を抱かず、孫は以て王父の屍と為すべしとは、昭穆同じきなり。陛下皇孫を肇建せられ、本支千億の慶なり」。帝悦び、詔して官屬を議せしむ。敬彜ら奏して師・傅・友・文學・祭酒・左右長史・東西曹掾・主簿・管記・司錄・六曹等の官を置き、王府より一級を加うるも、然れども卒に補わず。嵩山を封ぜんとし、太子を召して東都に赴かせ、太孫を以て京師を留守せしむ。中宗位を失い、太孫府廃され、庶人に貶され、別にこれを囚う。帝位を復し、邵王に封ぜられる。大足中、張易之兄弟が武后の寵を得、或る人が重潤が其の女弟永泰郡主及び主の婿と窃かに議すと讒すると、后怒り、杖殺し、年十九。重潤は容儀秀で、孝愛を以て称され、誅されるも罪に縁らず、人皆流涕す。神龍初、追贈して皇太子及び謚し、乾陵に陪葬し、墓を号して陵と為し、主を贈って公主と為す。
譙王
節湣太子
初め、重俊が害せられたとき、官属は敢えて視る者なく、ただ永和丞寧嘉勖が号哭し、衣を解いてその首を包んだ。時に人はこれを義とした。楚客は怒り、収めて獄に付し、平興丞に貶し、卒した。ここに至り、また永和令を贈られた。
睿宗の子
睿宗に六子あり。肅明皇后は憲を生み、宮人柳氏は捴を生み、昭成皇后は玄宗皇帝を生み、崔孺人は範を生み、王徳妃は業を生み、後宮は隆悌を生んだ。
睿宗が東宮を建てんとするに当たり、憲が嫡長であり、また嘗て太子であったが、楚王に大功あるを以て、故に久しく定まらなかった。憲は辞して曰く、「儲副は天下の公器なり。時平なれば則ち先ず嫡を立て、国難あれば則ち先ず功を立て、社稷を重んずるなり。付授宜しからざらしむれば、海内失望す。臣は死を以て請う」と。因りて涕泣して固く譲った。時に大臣もまた楚王に社稷を定むる功あり、且つ聖庶嫡に抗す、更に議すべからずと言う。帝は憲の譲りを嘉し、遂にこれを許し、楚王を皇太子に立て、憲を雍州牧・揚州大都督・太子太師とし、実封二千戸に至らしめ、甲第を賜い、物段五千、良馬二十、奴婢十房、上田三十頃を賜った。尚書左僕射に進め、また司徒を兼ねた。司徒を譲り、更に太子賓客となった。
時に太平公主に醜き図りあり、姚元崇・宋璟が帝に白し、憲及び申王成義を出して刺史とし、以て陰計を銷釋せんことを請うた。乃ち司徒として蒲州刺史を兼ね、司空に進めた。玄宗が既に蕭・岑の難を討定した後、憲の位を太尉に進め、千戸を贈ったが、固辞したので、更に開府儀同三司を授け、太尉・揚州大都督を解かせた。寧王に徙封し、また太常卿を兼ねた。開元十四年、表を上って卿を解かんことを請うた。久しくして、また太尉となった。沢・岐・涇の三州刺史を歴任し、累封して五千五百戸に至った。二十九年に薨じた。
初め、帝の五子は東都積善坊に第を列ね、「五王子宅」と号した。及び上都隆慶坊に第を賜うと、また「五王宅」と号した。玄宗が太子のとき、嘗て大衾長枕を製し、将に諸王とこれを共にせんとした。睿宗これを知り、喜び甚だしかった。先天の後、尽く隆慶の旧邸を以て興慶宮とし、而して憲及び薛王に勝業坊に第を賜い、申・岐の二王を安興坊に居らせ、宮の側に環列せしめた。天子は宮の西・南に楼を置き、その西を「花萼相輝之楼」と署し、南を「勤政務本之楼」と署した。帝は時時にこれに登り、諸王の楽を作すを聞けば、必ず亟に召して楼に升らせ、同じ榻に坐し、或いは幸って第に就き、詩を賦し燕嬉し、金帛を賜って歓を侑うた。諸王は日ごとに側門に朝し、既に帰れば、即ち楽を具えて縦飲し、撃球・闘鶏・鷹犬を馳せるを楽しみとし、かくのごとく歳月絶えず、至る所に輒ち中使の労賜相踵ぎ、世に天子の友悌、古に有る者なしと謂う。帝の敦睦は蓋し天性然るものにして、讒邪其の間を乱すと雖も、而も卒に以て動かすこと無し。時に脊令千数ありて麟徳殿の廷樹に集まり、翔り棲みて浹日を経た。左清道率府長史魏光乗が頌を作り、以て天子の友悌の祥と為す。帝喜び、また為に頌を作った。
憲は特に謹畏し、未だ嘗て政に干与せずして人と交わり、帝は益々信重した。嘗て書を以て憲等に賜いて曰く、「魏文帝の詩に『西山一何高し、高高として殊に極まり無し。其の上に両仙童有り、飲まず亦た食はず。我に一丸の薬を賜い、光耀五色有り。之を服すること四五日、身体羽翼を生ず』と。朕は毎に言う、薬を服して羽翼を求むるは、寧ろ兄弟天生の羽翼の如からんやと。陳思王の才は以て国を経るに足るに、其の朝謁を絶ち、卒に憂死せしむ。魏の祚未だ終わらずして、司馬氏之を奪う。豈に神丸の効ならんや。虞舜は至聖なり、象傲を捨てて以て九族を親しむ。九族既に睦べば、百姓を平章す。今数千載を経て、天下善に帰す。此れ朕の廃寝忘食して慕嘆する所なり。頃に余暇に因り、仙録を選びて神方を得たり。云う、之を餌すれば必ず寿しと。今此の薬を持ち、願わくは兄弟と之を共にし、偕に長齢に至り、永永に極まり無からんことを」と。後に申王等相継いで薨じ、唯だ憲在りしに、帝の親待愈々厚し。毎たび生日には必ず其の第に幸して寿を為し、往々留宿し、居常として賜遺せざる日無く、尚食総監及び四方の献ずる酒酪異饌は、皆分かちて之に餉うた。憲は嘗て歳尽くに賜目の目録を史官に付せんことを請うたが、必ず数百紙に及んだ。後に疾有りしときは、医を護り膳を将する者、騎相望みたり。僧崇一という者之を療し、少しく損じたので、帝は喜び甚だしく、緋袍・銀魚を賜うた。已にして疾漸く劇しく、薨じた。年六十三。帝は声を失いて号慟し、左右皆泣下した。
帝は憲が実際に天下を推譲し、世を超えた行いがあったため、大なる称号でなければ相応しくないと考え、追って譲皇帝と諡し、尚書左丞相裴耀卿・太常卿韋縚に節を持たせて冊書を奉じさせた。その子璡は上表して憲が平素より退譲の志があり、大なる称号に当たることを敢えてしないと述べた。詔は許さなかった。殯の際、天子の服一揃いを出し、詔して右監門大將軍高力士に手書を霊座に置かせ、妃の元氏を恭皇后と追贈し、橋陵の傍らに葬った。葬儀の際、中使に命じて璡らを諭し、葬送の具は人々に見せ、倹約を示させた。所司が諸陵の例に倣い、壙中に千味の食を設けるよう請うたが、監護使の耀卿が建言して言うには、「尚食が調える水陸の品千余種及び馬・牛・驢・犢・麞・鹿・鵝・鴨・魚・雁の体節の味、並びに薬酒三十種、盛夏に胎養する時節であり多く殺すべからず、礼の拠り所を考求するも、憑依すべきところなし。陛下は常に譲帝の志を申し、務めて倹素を存する。請う、省き蠲き折衷せん」と。詔して可とした。発引した後、大雨が降り、詔して慶王潭らに塗泥を渉り、十里を歩いて送らせ、その墓を恵陵と号した。
憲はかつて帝に従い万歳楼で舞を按じたことがあり、帝が復道から衛士が既に食事を終え、余りを竇中に棄てるのを見た。帝は怒り、詔して高力士に杖殺させようとした。憲は従容として言うには、「復道から人の私事を窺うは、恐らく士人を自ら安からしめず、かつ大體を失わん。豈に性命を余饗より軽しとすべきや」と。帝は急ぎ止め、力士に言うには、「王は我に対し、急難を有すと謂うべきなり。然らずんば、且つ士人を誤って殺さん」と。また涼州が新曲を献上した時、帝は便坐に御し、諸王を召して観させた。憲は言うには、「曲は佳しと雖も、然れども宮は離れて属せず、商は乱れて暴なり。君は卑くして下に逼り、臣は僭して上を犯す。忽微より発し、音声に形り、詠歌に播き、人事に見わる。臣は恐らく一日に播遷の禍あらん」と。帝は黙然とした。安史の乱の時、世は憲の音を審らかにしたことを思ったという。
憲は本名を成器といい、昭成太后の諡を避け、申王成義と共に今の名に改めた。憲の子十九人、その聞こえる者は璡・嗣莊・琳・瑀である。
璡・嗣莊・琳・瑀。
璡は眉宇秀麗整い、性謹み潔く、射を善くし、帝に愛された。汝陽王に封ぜられ、太僕卿を歴任した。賀知章・褚庭誨・梁涉等と親善した。薨じ、太子太師を贈られた。
嗣莊は幼より令名有り、太子諭德となり、済陰王に封ぜられた。薨じ、幽州大都督を贈られた。
琳は秘書監を以て嗣寧王となり、天子に従い蜀に幸し、薨じた。
瑀は早くより材望有り、儀観偉なり。初め隴西郡公に封ぜられた。帝に従い蜀に幸し、河池に至り、漢中王・山南西道防禦使に封ぜられた。乾元初め、寧国公主が回紇に降嫁するに当たり、詔して瑀を特進・太常卿として節を持たせ、回紇を冊拜して威遠可汗とせしめた。瑀もまた音を知り、嘗て早朝に永興裏を過ぎ、笛の音を聞き、左右を顧みて言うには、「是れ太常の工なるか」と。曰く「然り」と。他日その者を識りて言うには、「何故臥して吹くや」と。笛工は驚き謝した。また康昆侖の琵琶を奏するを聞きて言うには、「琵の声多く、琶の声少なし。是れ未だ五十四絲の大弦を弾くべからざるなり」と。楽家は自下より逆に鼓くを琵と曰い、自上より順に鼓くを琶と曰うという。肅宗は詔して群臣の馬を収めて戦を助けさせようとしたが、瑀と魏少遊等は不可を堅持した。帝は怒り、蓬州長史に貶した。薨じ、太子太師を贈られ、宣と諡された。孫に景儉。
景儉は字を寬中という。進士第に及ぶ。強記多聞、古の成敗王霸の大略を言うを善くし、高く自らを負い、士大夫に対し屈すること無し。王叔文等は更にこれを誉め、管仲・諸葛亮に比した。叔文が敗れると、景儉は母喪に在ったため連坐を免れた。韋夏卿が東都を守る時、幕府に辟した。竇群が中丞に任ぜられると、監察御史に引いたが、群が貶せられると、景儉もまた江陵戸曹参軍となった。累擢して忠州刺史となった。元和末、朝に入るも用いられず、再び澧州刺史となった。平素より元稹・李紳と親善であった。二人が翰林に在った時、その才を言上した。延英殿で奉辞の際、景儉は自ら抑え遠ざけられたことを陳べると、穆宗はこれを憐れみ、追詔して倉部員外郎としたが、遣わさなかった。一月を閲て、諫議大夫を拝した。性矜誕、酒に任せ気を縱し、語は宰相を侵し、蕭俯・段文昌が帝に訴えたため、建州刺史に貶せられた。稹が君寵を得、これを助けたため、故に還って諫議大夫となった。馮宿・楊嗣復・温造・李肇等と史官獨孤朗の所に集まった時、景儉は酔い、中書に至り、宰相の王播・崔植・杜元穎を慢罵した。吏が遜った言葉で厚く謝すると、去った。坐して漳州刺史に貶せられ、宿等も皆逐われた。漳州に至らぬ内に、稹が政を輔けると、楚州刺史に改めた。議者は景儉が丞相を辱めたのに、貶未だ至らざるに即ち遷すは是れならずと言った。稹は懼れ、少府少監に改め、宿等を悉く還した。景儉は既に湮厄して志を得ず、卒した。然れども其の人となり財を軽んじ、義に篤く、既に没して後、士人は悵悼した。
恵文太子範は、初め名を隆範といった。玄宗が立つと、薛王隆業と共に帝諱を避けて二名を去った。初め鄭王に封ぜられ、衛王に改封された。俄かに巴陵郡王に降封され、岐王に進封され、太常卿・并州大都督・左羽林大将軍となった。玄宗に従い太平公主を誅するに功を以て賜封され、薛王業と共に五千戸に満ちた。歴任して州刺史となり、太子太傅に遷った。開元十四年に薨じ、冊書を以て太子及び諡を贈り、橋陵に陪葬された。帝は慟哭し、常膳を撤すること累旬に及び、群臣が勉めて請うて乃ち復した。
範は学を好み、書に工く、儒士を愛し、貴賤を問わず礼を尽くした。閻朝隠・劉廷琦・張諤・鄭繇等と親善し、常に酒を飲み詩を賦して相娯楽した。また書画を集め、皆世の珍とする所のものであった。初め、隋が滅び、禁内の図書は湮放し、唐興って募訪するに、稍稍復出して秘府に蔵した。長安初め、張易之が天下の善工に潢治を奏し、乃ち密かに模写させ、殆ど辨別できず、その真を窃みて家に蔵した。誅せられた後、悉く薛稷に取り去られ、稷もまた敗れると、範がこれを得たが、後ついに火に焚かれた。駙馬都尉裴虚己は讖緯に善くし、坐して私に範と遊んだため、嶺南に徙せられ、廷琦は雅州司戸に貶せられ、諤は山茌丞となった。然れども帝は範に対して少しの間隙も無く、左右に謂って言うには、「兄弟の情は天より至る、我に対していささか異なることあらんや!趨競する者は強いて相附す、我は終に之を纖介ともせず」と。時に王毛仲等は賤微より起り、暴貴し、諸王は見れば必ず礼を加えたが、獨り範は之に接するに自如であった。子の瑾が嗣いだ。
瑾は落魄して名檢を飭まず、酒色に沈み、太僕卿を歴任し、河東王に封ぜられ、暴薨し、太子少師を贈られた。天宝中、再び薛王の子の略陽公珍を嗣ぎとして岐王とした。
珍は儀容豊偉にして、宗正員外卿となり、蔚州鎮将の朱融と善し。融嘗て珍が上皇に似たりと云ひ、因りて陰謀有り、往きて金吾将軍の邢済に語りて曰く、「関外に寇近し、京師草草たり、奈何せん」と。済曰く、「我れ金吾、天子の押衙、死生を以て従ふ、安んぞ自ら脱せん」と。融曰く、「嗣岐王を見れば慮ふること無かるべし」と。済以て聞す、粛宗詔して珍を庶人に廃し、死を賜ひ、融の党皆誅せらる。済を擢て桂管防禦使と為す。
恵宣太子業は、初め趙王に封ぜられ、降封して中山王となり、都水使者を授かる。鼓城に徙り、陳州別駕を兼ね、進みて薛王に封ぜられ、羽林大将軍・荊州大都督と為る。好学を以て秘書監を授かる。開元初め、太子少保に進み、即ち太保を拝し、累ねて州刺史を歴任す。
十一子有り、其聞こゆる者は瑗・瑒・琄なり。帝後業を追思し、瑗等を引見し、之を傷み、乃ち詔を下して共に実封千戸を賜ふ。瑗は楽安王と為る。瑒は滎陽王・宗正卿。琄は嗣薛王と為り、鴻臚卿を歴任す。天宝中、琄の舅韋堅、李林甫に構へられ、坐して夷陵別駕に貶せられ、夜郎・南浦に徙置せらる。安禄山の乱に及び、乃ち京師に還る。
曾孫知柔、王を嗣ぎ、再び宗正卿と為る。久しくして、京兆尹に擢でらる。初め、鄭・白渠梗壅し、民歳を得ず。知柔三輔を調し、旧道を治め復し、灌浸約の如く、遂に旱虞無し。民闕に詣りて石を立て功を紀せんことを請ふ。知柔固く譲りて止まるを得。累ねて検校司徒・同中書門下平章事を加ふ。又詔して太廟を営緝し、度支を判じ、諸道塩鉄転運使を充つ。昭宗莎城に出ず、独り知柔従ふ。乗輿器用庖頓皆之を主り、大小畢く給す。性儉約、位通顕と雖も、居第無し。未だ幾ばず、出でて清海軍節度使を拝す。鎮に在りて廉潔、貢献時に入る。進みて検校太傅、兼侍中。仕へ凡そ四紀、常に宗室の冠と為る。鎮に卒す。
隋王隆悌は、初め汝南王に封ぜらる。早く薨ず。睿宗追王し、贈りて荊州大都督と為す。爵伝はらず。
【贊】
贊して曰く、中宗道を失ひ、身母に廃せられ、妻に弑せらる。而して四子皆其の死を得ず、嗣亦伝はらず。殆ど天其の徳を穢して之を絶つ。何ぞや。彼固より天に自ら絶つ云爾。睿宗聖子有り、一は命を受け、一は帝を追ひ、三は太子を贈る。天之に報ひ、福流れて窮まり無し。盛なるかな。