新唐書

巻八十一 列傳第六 三宗諸子

高宗子

高宗に八子あり。後宮の劉が忠を生み、鄭が孝を生み、楊が上金を生み、蕭淑妃が素節を生み、武后が弘・賢・中宗皇帝・睿宗皇帝を生む。

燕王

燕王忠、字は正本。帝が初めて太子となった時に忠が生まれ、宮中で宴を開いたところ、やがて太宗が臨幸され、詔して宮臣に曰く、「朕初めて孫を得た。共に楽しみたい」と。酒酣のとき、帝は舞い、群臣に属し、在位の者皆舞い、賜物に差があった。貞観二十年、初めて陳王に封ぜられる。永徽初年、雍州牧を拝す。王皇后に子がなく、后の舅柳奭が后に説き、忠の母は微賎であるから、彼を立てれば必ず己に親しむであろうと、后はこれを然りとし、帝に請う。また奭は褚遂良・韓瑗・長孫無忌・于志寧らと相次いで請うたので、遂に皇太子に立てられた。后が廃されると、武后の子弘はわずか三歳であったが、許敬宗が后の意を迎え、建言して曰く、「国に正嫡あり。太子は漢の劉強の故事に同じくすべし」と。帝は敬宗を召して見て曰く、「嫡を立てるは如何」と。対えて曰く、「正本なれば則ち万事治まる。太子は国の本なり。しかも東宮の出は微なり。今正嫡あるを知りて自ら安からず。位を窃にして自ら安からざるは、社稷の計にあらず」と。帝曰く、「忠は固より自ら譲らんとす」と。敬宗曰く、「太伯となる能くば、亦善からずや」と。ここにおいて梁王・梁州都督ととくに降封し、甲第を賜い、実封二千戸、物二万段を賜う。やがて房州刺史に転ず。忠は次第に懼れて聊生せず、婦人の衣を着るに至り、刺客を備えた。しばしば妖夢あり、嘗て自ら占う。事露れ、庶人に廃し、黔州の承乾の故宅に囚う。麟徳初年、宦者王伏勝が武后に罪を得ると、敬宗は乃ち忠及び上官儀が伏勝と謀反を図ったと誣い、死を賜う。年二十二。子なし。明年、太子弘が表を奉り収葬を請う。許す。神龍初年、追封し、また太尉・揚州大都督を贈る。

原王

原悼王孝、永徽元年、初めて許王に封ぜられ、杞王・雍王の二王と同時に封ぜられる。早く薨ず。神龍初年、追封及び謚を贈る。

澤王

澤王上金、初め杞王に封ぜられる。永徽三年、遥かに益州大都督を領す。鄜州刺史・寿州刺史を歴任す。武后はその母を疾み、故に有司に誣奏せしめ、封邑を削り、澧州に徙置す。久しくして、后は陽に喜ばしき者と為し、表して杞王上金・鄱陽王素節に朝集を聴かしめ、義陽・宣城の二公主には各々夫の秩を増す。ここにおいて上金は沔州刺史と為り、素節は岳州刺史と為るも、然れども遂に朝せず。高宗崩御、詔して上金・素節・二公主を哀に赴かしむ。文明元年、畢王に徙封し、また澤王に徙封す。五州刺史を歴任す。載初年中、武承嗣が周興に諷して上金・素節の謀反を誣い、召して御史の獄に繋ぐ。上金は素節が既に殺されたと聞き、即ち雉経す。七子並びに流死し、顕州に至る。神龍初年、官爵を追還し、子義珣を以て王を嗣がしむ。義珣は初め謫せられ、身を匿して傭保と為る。而して嗣許王瓘はその爵邑を利し、義珣が假冒すと告ぐ。再び嶺外に流す。開元初年、素節の子璆を以て後と為すも、玉真公主が表して義珣は実に上金の子なりとす。乃ち璆の爵を奪い、再び義珣をして王を嗣がしめ、率更令を拝す。薨ず。子潓嗣ぐ。

許王

許王素節、初め雍王に封ぜられ、雍州牧を授かる。未だ羈丱たるに方りて、即ち書を誦すること日に千言。徐齊聃に師事し、淬励自彊す。帝これを愛す。岐州刺史に転じ、更に郇王に封ぜられる。母が譖されて死すと、素節を出して申州刺史と為す。乾封初年、詔して素節は病ありて朝に入る無からしむ。而して実は病まず。乃ち『忠孝論』を著して自ら明らかにす。倉曹参そうしん軍張柬之これを聞き、帝にその誣を省みしめんとす。武后ますます悦ばず、賕を受けし罪に坐し、鄱陽王に降封し、封戸を什七削り、袁州に徙置し、終身錮す。儀鳳三年、岳州刺史と為り、更に葛王に封ぜられ、また王に徙封し、三州刺史を歴任す。上金と共に追逮されて都に赴く。道中に喪に遭いて哭する者を聞き、左右に謂いて曰く、「病死は何として得ん、而して哭するを須いんや」と。龍門駅に至りて縊せらる。年四十三。庶人の礼を以て葬る。子瑛ら九人並びに誅せらる。惟だ琳・瓘・璆・欽古は尚幼く、長く雷州に囚わる。中宗復位、故の封を追い、また開府儀同三司・許州刺史を贈り、乾陵に陪葬す。詔して瓘に王を嗣がしめ、実封四百戸。開元初年、琳を封じて嗣越王と為し、璆を嗣澤王と為す。琳は右監門衛将軍に至り、子随は夔国公に封ぜらる。瓘は衛尉卿と為るも、上金の子の封を得ざるを抑えたるを以て、鄂州別駕に貶せらる。ここにおいて詔して外継嗣王たる者は皆宗に帰らしむ。乃ち嗣江王祎を信安王と為し、嗣しょく王褕を広漢王と為し、嗣密王徹を濮陽王と為し、嗣曹王臻を済国公と為し、嗣趙王琚を中山王と為し、武陽王継宗を澧国公と為す。瓘は累遷して太子詹事に至る。薨ず。蜀郡大都督を贈る。二子解・需皆幼く、璆の子益を以て嗣がしむ。天宝十四載、解初めて封王を襲ぐ。

璆、初め嗣澤王に封ぜられ、郢国公に降封し、宗正卿・光禄卿を歴任し、褒信王に進封す。初め、張九齢が『龍池頌』を撰し、石に刊して興慶宮に置く。宗子これを盛徳に称せずと為し、更に璆に命じて頌を為さしめ、花萼楼の北に建つ。天宝初年、再び宗正卿を拝す。性、友弟にして聡敏、宗子に一善あれば、薦延せざる無し。故に宗室に省闥に在る者は多く璆の啓する所なり。薨ず。江陵郡大都督を贈る。三子:謙は郢国公・梓州刺史、巽は汝南郡公。欽古は巳国公に封ぜられ、子賁嗣ぐ。

孝敬皇帝

孝敬皇帝弘は、永徽六年に初めて代王に封ぜられ、潞王と同時に封ぜられた。顯慶元年、皇太子に立てられた。率更令郭瑜より『春秋左氏伝』を受けたが、楚の世子商臣がその君をしいするに至り、嘆息して巻を閉じて曰く、「聖人の垂れたる訓戒に、何ぞ此れを書くや」と。瑜曰く、「孔子が『春秋』を作るや、善悪必ず書き、善を褒めて以て勧め、悪を貶して以て誡めし故に、商臣の罪は千載を経ても猶ほ滅ぼすを得ざるなり」と。弘曰く、「然れども聞くに忍びざる所なり、願わくは他の書を読まん」と。瑜拝して曰く、「裏名勝母、曾子入らず。殿下は睿孝天資にましまし、凶悖の跡を黜け、視聴に存ぜざらしむ。臣聞く、上を安んじ民を治むるは、礼に善きは莫しと。故に孔子は『礼を学ばざれば、以て立つこと無し』と称す。請う、改めて『礼』を受けたまわん」と。太子曰く、「善し」と。四年、元服を加う。また賓客許敬宗・右庶子許圉師・中書侍郎上官儀・中捨人楊思儉に命じ、文思殿において古今の文章を摘採せしめ、『瑤山玉彩』と号し、凡そ五百篇。書が奏上されると、帝は物三万段を賜い、その他の臣下にも差等有りて賜う。また詔して五日毎に光順門に赴き事を決せしむ。總章元年、国学に釈采し、顔回を太子少師に、曾参を太子少保に贈ることを請う。制して可とす。時に有司、征遼の士で亡命した者及び亡命して直ちに自首せざる者は、身は殊死に処し、家属は官に没すと定む。弘諫めて以て「士、病に遇って期に及ばず、或いは略取せられ若しくは溺死・圧死するも、軍法は戦死によるにあらざれば、則ち同隊悉く坐す。法家は亡命と曰い、而して家属は真の亡命者と同様に没官せらる。『伝』に曰く、『不辜を殺すに与るよりは、寧ろ不経を失え』と。臣請う、その科条を条別し、淪胥せしむること無からしめん」と。詔して可とす。帝、東都に幸す。詔して国を監せしむ。時に関中飢饉、弘、廡下の兵士の食するに榆の皮・蓬の実あるを見て、悄然として家令寺に命じ米を与えしむ。義陽・宣城の二公主、母の故を以て掖廷に幽閉され、四十にして嫁がず。弘聞きて驚き哀れみ、降嫁を請う。武后怒り、即ち当番の衛士を以て配せしむ。ここよりより愛を失う。また同州の沙苑を分かち貧民に仮することを請う。時に妃裴氏を納れんとし、有司、贄に白雁を用うと奏す。丁度苑中にこれを獲たり。帝喜びて曰く、「漢は硃雁を獲て、楽府の歌と為す。今白雁を得て婚贄と為す。婚は人倫の首なり。我れは則ち慚じること無し」と。礼畢りて、岐州を曲赦す。帝嘗て侍臣に語りて曰く、「弘は仁孝にして、大臣を賓礼し、未だ嘗て過ち有ること無し」と。然るに后、将に志を騁けんとし、弘の奏請数たび旨に怫す。上元二年、合璧宮に従幸し、耽薨す。年二十四。天下痛まざる者無し。詔して曰く、「太子沈瘵に嬰り、朕その痊復を須ち、将に位を遜らんとす。弘の性仁厚、既に命を受け、因って感結し、疾日を以て加わる。宜しく往時の命を申べ、謚して孝敬皇帝と為すべし」と。緱氏に葬り、墓号を恭陵とす。制度は尽く天子の礼を用い、百官は権制に従い三十六日服を釈く。帝自ら『睿徳紀』を制し、石に刻みて陵側に置く。陵を営む費巨億、人厭苦し、石を投げて所部の官司を傷つけ、相率いて亡去するに至る。妃薨じ、謚して哀皇后とす。子無し。永昌初、楚王隆基を以て嗣がしむ。中宗立ち、詔して主を太廟に祔し、号して義宗とす。開元中、有司奏す、「孝敬皇帝は宜しく東都に廟を建て、謚を以て廟名とすべし」と。詔して可とす。ここにおいて義宗の号を罷む。妃は即ち裴居道の女、婦徳有り。而して居道は妃の故を以て内史納言に拝され、太子少保・翼国公を歴任し、酷吏に陥れられ、獄に下りて死す。

章懷太子

章懷太子賢、字は明允。容止端重、少くより帝に愛せらる。はじめて数歳、書を読めば一覧してすなわち忘れず、『論語』「賢を賢として色を易う」に至り、一再これを誦す。帝故を問う。対えて曰く、「性実に此れを愛す」と。帝、李世勣に語り、その夙敏を称す。初め潞王に封ぜられ、幽州都督・雍州牧を歴任す。はい王に徙封、累進して揚州大都督・右衛大将軍。名を徳と改む。雍王に徙封、なお雍州牧・涼州大都督を領し、実封千戸。上元年、復た名を賢とす。是の時、皇太子薨ず。その六月、賢を立てて皇太子と為す。やがて詔して国を監せしむ。賢、処決に於いて特に明審、朝廷之を称し、帝手勅を以て褒め賜う。賢又諸儒を招集す:左庶子張大安・洗馬劉訥言・洛州司戸参軍格希玄・学士許叔牙成玄一史蔵諸周宝寧等、共に范曄の『漢書かんじょごかんじょ』を註す。書奏上され、帝優に段物数万を賜う。時に正諫大夫明崇儼、左道を以て武后に信ぜらる。崇儼言う、英王は太宗に類し、而して相王は貴しと。賢聞きて之を悪む。宮人或いは伝う、賢は乃ち后の姉韓國夫人の生みし所なりと。賢益々疑い、而して后『少陽政範』・『孝子伝』を撰して賢に賜い、数たび書を以て譲り戒む。いよいよ安からず。調露中、天子東都に在り。崇儼、盗の為に殺さる。后、賢の謀より出づるを疑い、人を遣わして太子の陰事を発せしむ。詔して薛元超・裴炎・高智周に雑治せしむ。東宮に於いて甲数百首を獲たり。帝素より賢を愛し、その罪を薄くせんとす。后曰く、「賢逆を懐く、大義親を滅す、赦すべからず」と。乃ち庶人に廃し、甲を天津橋に焚き、大安を普州刺史に貶し、訥言を振州に流す。坐して徙さるる者十余人。開耀元年、賢を巴州に徙す。武后政を得、詔して左金吾将軍丘神勣に賢の第を検衛せしめ、自殺を迫令す。年三十四。后、顕福門に於いて哀を挙げ、神勣を疊州刺史に貶し、旧王に復することを追う。神龍初、司徒しとを贈り、使を遣わして喪を迎え、乾陵に陪葬す。睿宗立ち、皇太子及び謚を追贈す。三子:光順・守礼・守義。光順は楽安王と為り、義豊に徙封され、誅せらる。守義は犍為王と為り、桂陽に徙封され、薨ず。先天中、光順を追封して莒王と為し、守義を畢王と為す。

守禮は王を嗣ぎ、初めは光仁と名乗り、太子洗馬に任ぜられた。武后が革命を起こすと、宗室を畏れ忌み、守禮は父が罪を得たため、睿宗の諸子と共に宮中に閉じ込められて十餘年を過ごした。睿宗が相王に封ぜられ、外邸に出ることを許されると、ここに至って守禮らは初めて外に居住し、司議郎に改められた。中宗が即位すると、元の封を復し、光祿卿に拝され、実封五百戸を賜った。唐隆元年、進んで邠王に封ぜられた。睿宗が立つと、兼ねて檢校左金吾衛大將軍を加えられ、出て幽州刺史となり、遙かに單于大都護を兼ね、司空しくうに遷った。開元の初め、累ねて州刺史となった。時に寧王・申王・岐王・薛王が同じく刺史となり、皆僚首を選んで綱紀を執らしめた。守禮はただ弋獵と酣楽にふけり、事務を領せず、故に源乾曜・袁嘉祚・潘好禮は皆邠府長史・州佐となり、これを監督検察した。後に諸王を京師に還すと、守禮は外支として王となり、あまり才なくして寵嬖多く、子六十餘人、称すべき者無し。常に利息銭数百万を負っていた。或る人が少し居産を治めるよう勧めると、守禮は言った、「天子の兄に葬る者無きことがあろうか」。諸王は毎度これを上に白して歓びとした。岐王が嘗て守禮が雨を知ると奏上したので、帝がその故を問うと、答えて言った、「臣に他事無し、天後の時に、太子が罪を得、臣は宮中に幽閉され、年に敕杖を被ること凡そ四三度、累ねて創痕膚にあり、雨前に沈懣し、晴れれば佳し、これをもって知る」。因りて泣下し、帝は惻然とした。薨じ、年七十、太尉を贈られた。子に承宏・承寧・承寀、記すべき者あり。承宏は、爵は廣武王、交わる人其の人に非ざるに坐し、房州別駕に貶され、還って宗正卿となった。廣德元年、吐蕃が京師に入ると、天子は陜に赴き、虜の宰相馬重英が承宏を立てて帝とし、翰林學士於可封・霍瑰を宰相とした。賊退きて、詔して承宏を華州に放ち、死す。承寧は嗣邠王に封ぜられた。承寀は、煌王、宗正卿に拝され、仆固懷恩と共に回紇に使して和親し、即ち其の女を納れて妃とし、毘伽公主を封ぜられた。薨じ、司空を贈られた。唐の制:嗣郡王は四品階を加え、親王の子は緋服を着る。開元中、張九齡が奏して言う、「寧王・薛王及び邠王の三子で王たる者は紫を賜い、餘は皆緋を着せ、官は六局郎を越えず、王府の掾屬は仍って員外に置く」。後に帝に従って蜀に至った者は皆紫を着た。

中宗の子

中宗に四子あり:韋庶人は重潤を生み、後宮は重福・重俊・殤帝を生む。

懿德太子

懿德太子重潤、本名は重照、武后の諱を避けて改む。帝が皇太子の時、東宮に生まれ、高宗は大いに喜び、乳月満ちて、大赦天下し、元号を永淳と改めた。この歳、皇太孫に立てられ、開府して官屬を置いた。帝が吏部侍郎裴敬彜・郎中王方慶に問うと、対えて言う、「礼に嫡子有り、嫡孫無し。漢・魏は太子在りて、子は但だ王に封ず。晉は湣懷の子を立てて皇太孫とし、齊は文惠の子を立てて皇太孫とし、皆東宮に居す。今太子有りて、又太孫を立てるは、古に有ること無し」。帝曰く、「我より古を作すは如何」。対えて言う、「礼に、君子は孫を抱きて子を抱かず、孫は以て王父の屍と為すべしとは、昭穆同じきなり。陛下皇孫を肇建せられ、本支千億の慶なり」。帝悦び、詔して官屬を議せしむ。敬彜ら奏して師・傅・友・文學・祭酒・左右長史・東西曹掾・主簿・管記・司錄・六曹等の官を置き、王府より一級を加うるも、然れども卒に補わず。嵩山を封ぜんとし、太子を召して東都に赴かせ、太孫を以て京師を留守せしむ。中宗位を失い、太孫府廃され、庶人に貶され、別にこれを囚う。帝位を復し、邵王に封ぜられる。大足中、張易之兄弟が武后の寵を得、或る人が重潤が其の女弟永泰郡主及び主の婿と窃かに議すと讒すると、后怒り、杖殺し、年十九。重潤は容儀秀で、孝愛を以て称され、誅されるも罪に縁らず、人皆流涕す。神龍初、追贈して皇太子及び謚し、乾陵に陪葬し、墓を号して陵と為し、主を贈って公主と為す。

譙王

譙王重福、高宗の時に唐昌郡王となり、徙めて平恩に封ぜられる。長安ちょうあん末に乃ち進んで王となる。神龍初、韋庶人が張易之兄弟と共に重潤を陥れたと讒し、濮州員外刺史に貶され、合州・均州の二州に徙め、事務を領せず。景龍三年、中宗親しく郊祀し、天下を赦し、十悪の者も皆宥し、流人は還ることを得た。重福は帰ることを得ず、自ら陳べて「蒼生は皆自新すれど、一子は擯棄せられ、皇天平分す、固より此の若きか」と。報いず。韋后政を得、詔して左屯衛大將軍趙承恩・薛思簡に兵を以て守護せしむ。睿宗立ち、集州に徙め、未だ行かず、洛陽らくようの男子張靈均が重福に説いて言う、「大王は嫡長に居り、天子と為るべし。相王は大難を平げたれど、安んぞ大位に越えて居らんや。昔漢は諸呂を誅し、乃ち東より代王を迎えたり。今百官士庶は皆王の来るを願う。王若し密かに東都に幸し、留守を殺し、兵を擁して西は陜を拠り、河南・河北を徇えば、天下図るべし」。重福は又霊均を其の党鄭愔と計らせしむ。愔も亦密かに重福を招いて天子と為し、予め睿宗を尊んで皇季叔とし、重茂を皇太弟とし、制して中元克復元年と称し、愔自ら左丞相に署し、内外文武の事を知り、霊均を以て右丞相・天柱大將軍と為し、出征の事を知らしめ、其の餘は次第に除署す。重福は均州より霊均と共に駅を乗りて東都に趨き、駙馬裴巽の家に宿る。洛陽令が巽を候うと、重福驚き、遽に出で、左右屯営の兵を劫わんと欲し、天津橋に至り、願いて従う者数百人。侍御史李邕これに遇い、先ず馳せて右屯営に至り、呼んで言う、「譙王は先帝に罪を得、擅に入都して乱を為す。公等勉めて功を立て富貴を取れ」。稍稍として皇城の諸門を閉じて以て拒ぐ。重福右営を徇るも動かず、左掖門に趨くも、既に闔じ、怒り、火を放ちてこれを焼く。左営の兵漸く逼り、衆遂に潰え、重福は山谷に走る。明日、留守裴談が兵を総べて大索し、漕渠に投じて死す、年三十一、其の屍を礫く。帝詔して三品の礼を以て葬らしむ。

節湣太子

節湣太子重俊は、聖暦三年に義興王に封ぜられ、神龍初年に衛王に改封され、洛州牧に任ぜられ、実封千戸を賜った。まもなく揚州大都督を兼ねた。翌年皇太子となり、太后の喪に遭い、冊礼を殺し、詔して藩国において食封し、歳ごとに東宮に納めることとした。給事中盧粲が上言して、「太子と列国とが同じく封に入るは、法とすべからず」と言う。詔してこれを罷めた。重俊は性質明敏果断であったが、法度に乏しかった。楊璬・武崇訓を賓客とすると、二人は貴寵を恃み、学術なく、ただ狗馬蹴踘をもって相戯れ親しんだ。左庶子姚珽は数たび上疏して諫め導き、右庶子平貞慎はまた『孝経議』・『養徳』等の伝を献じたが、太子はこれを納れながら用いることができなかった。武三思は韋后の勢いを挟み、逆を図らんとし、内に太子を忌み、しかるに崇訓はまた三思の子で、安楽公主に尚し、常に主に重俊を辱しめさせ、韋氏の出でないことを以て奴と罵り、数たび廃することを請い、自ら皇太女たらんとした。三年七月、重俊は憤恚し、遂に李多祚及び左羽林将軍李思沖・李承況・独孤禕之・沙咤忠義を率い、詔を矯って左羽林及び千騎の兵を発し、三思・崇訓並びにその党十余りを殺し、左金吾大将軍成王千里に宮城を守らせ、自ら兵を率いて肅章門に趨き、関を斬って入り、韋后・安楽公主・昭容上官の所在を索めた。后は帝を挟んで玄武門に登り、宰相楊再思・蘇瓌・李嶠及び宗楚客・紀処訥が兵二千余人を統べて太極殿を守った。帝は右羽林将軍劉仁景等を召して留軍の飛騎百人を率いさせてこれを拒がしめ、多祚の兵は進むことができなかった。帝は檻に拠って千騎に語って曰く、「爾らは我が爪牙なり、何ぞ忽ち乱を為すや。賊を斬る者あらば賞を与えん」と。ここにおいて士は戈を倒して多祚を斬り、余党は潰えた。重俊は終南山に亡入し、突厥に奔らんと欲したが、楚客が果毅趙思慎を遣わしてこれを追わしめ、重俊は野に憩うて左右の者に殺された。詔して首を朝堂に殊し、太廟に献じ、併せて三思・崇訓の柩に告げた。睿宗が立つと、加えて贈謚し、定陵に陪葬せしめた。

初め、重俊が害せられたとき、官属は敢えて視る者なく、ただ永和丞寧嘉勖が号哭し、衣を解いてその首を包んだ。時に人はこれを義とした。楚客は怒り、収めて獄に付し、平興丞に貶し、卒した。ここに至り、また永和令を贈られた。

重俊の子宗暉は、景雲三年に湖陽郡王に封ぜられ、天宝年中に至り、太常員外卿に至り、薨じた。

睿宗の子

睿宗に六子あり。肅明皇后は憲を生み、宮人柳氏は捴を生み、昭成皇后は玄宗皇帝を生み、崔孺人は範を生み、王徳妃は業を生み、後宮は隆悌を生んだ。

譲皇帝憲は、初め永平王に封ぜられた。文明元年、武后が睿宗を皇帝とせしめたため、憲は皇太子に立てられた。睿宗が皇嗣に降ると、更に皇孫に冊され、諸王とともに皆出閤し、開府して官属を置いた。長寿二年、寿春王に降封され、衡陽・巴陵・彭城の三王と同封され、また詔して閤に入った。中宗が立つと、蔡王に改封されたが、固辞して敢えて当たらなかった。唐隆元年、宋王に進封された。

睿宗が東宮を建てんとするに当たり、憲が嫡長であり、また嘗て太子であったが、楚王に大功あるを以て、故に久しく定まらなかった。憲は辞して曰く、「儲副は天下の公器なり。時平なれば則ち先ず嫡を立て、国難あれば則ち先ず功を立て、社稷を重んずるなり。付授宜しからざらしむれば、海内失望す。臣は死を以て請う」と。因りて涕泣して固く譲った。時に大臣もまた楚王に社稷を定むる功あり、且つ聖庶嫡に抗す、更に議すべからずと言う。帝は憲の譲りを嘉し、遂にこれを許し、楚王を皇太子に立て、憲を雍州牧・揚州大都督・太子太師とし、実封二千戸に至らしめ、甲第を賜い、物段五千、良馬二十、奴婢十房、上田三十頃を賜った。尚書左僕射に進め、また司徒を兼ねた。司徒を譲り、更に太子賓客となった。

時に太平公主に醜き図りあり、姚元崇・宋璟が帝に白し、憲及び申王成義を出して刺史とし、以て陰計を銷釋せんことを請うた。乃ち司徒として蒲州刺史を兼ね、司空に進めた。玄宗が既に蕭・岑の難を討定した後、憲の位を太尉に進め、千戸を贈ったが、固辞したので、更に開府儀同三司を授け、太尉・揚州大都督を解かせた。寧王に徙封し、また太常卿を兼ねた。開元十四年、表を上って卿を解かんことを請うた。久しくして、また太尉となった。沢・岐・涇の三州刺史を歴任し、累封して五千五百戸に至った。二十九年に薨じた。

初め、帝の五子は東都積善坊に第を列ね、「五王子宅」と号した。及び上都隆慶坊に第を賜うと、また「五王宅」と号した。玄宗が太子のとき、嘗て大衾長枕を製し、将に諸王とこれを共にせんとした。睿宗これを知り、喜び甚だしかった。先天の後、尽く隆慶の旧邸を以て興慶宮とし、而して憲及び薛王に勝業坊に第を賜い、申・岐の二王を安興坊に居らせ、宮の側に環列せしめた。天子は宮の西・南に楼を置き、その西を「花萼相輝之楼」と署し、南を「勤政務本之楼」と署した。帝は時時にこれに登り、諸王の楽を作すを聞けば、必ず亟に召して楼に升らせ、同じ榻に坐し、或いは幸って第に就き、詩を賦し燕嬉し、金帛を賜って歓を侑うた。諸王は日ごとに側門に朝し、既に帰れば、即ち楽を具えて縦飲し、撃球・闘鶏・鷹犬を馳せるを楽しみとし、かくのごとく歳月絶えず、至る所に輒ち中使の労賜相踵ぎ、世に天子の友悌、古に有る者なしと謂う。帝の敦睦は蓋し天性然るものにして、讒邪其の間を乱すと雖も、而も卒に以て動かすこと無し。時に脊令千数ありて麟徳殿の廷樹に集まり、翔り棲みて浹日を経た。左清道率府長史魏光乗が頌を作り、以て天子の友悌の祥と為す。帝喜び、また為に頌を作った。

憲は特に謹畏し、未だ嘗て政に干与せずして人と交わり、帝は益々信重した。嘗て書を以て憲等に賜いて曰く、「魏文帝の詩に『西山一何高し、高高として殊に極まり無し。其の上に両仙童有り、飲まず亦た食はず。我に一丸の薬を賜い、光耀五色有り。之を服すること四五日、身体羽翼を生ず』と。朕は毎に言う、薬を服して羽翼を求むるは、寧ろ兄弟天生の羽翼の如からんやと。陳思王の才は以て国を経るに足るに、其の朝謁を絶ち、卒に憂死せしむ。魏の祚未だ終わらずして、司馬氏之を奪う。豈に神丸の効ならんや。虞舜は至聖なり、象傲を捨てて以て九族を親しむ。九族既に睦べば、百姓を平章す。今数千載を経て、天下善に帰す。此れ朕の廃寝忘食して慕嘆する所なり。頃に余暇に因り、仙録を選びて神方を得たり。云う、之を餌すれば必ず寿しと。今此の薬を持ち、願わくは兄弟と之を共にし、偕に長齢に至り、永永に極まり無からんことを」と。後に申王等相継いで薨じ、唯だ憲在りしに、帝の親待愈々厚し。毎たび生日には必ず其の第に幸して寿を為し、往々留宿し、居常として賜遺せざる日無く、尚食総監及び四方の献ずる酒酪異饌は、皆分かちて之に餉うた。憲は嘗て歳尽くに賜目の目録を史官に付せんことを請うたが、必ず数百紙に及んだ。後に疾有りしときは、医を護り膳を将する者、騎相望みたり。僧崇一という者之を療し、少しく損じたので、帝は喜び甚だしく、緋袍・銀魚を賜うた。已にして疾漸く劇しく、薨じた。年六十三。帝は声を失いて号慟し、左右皆泣下した。

帝は憲が実際に天下を推譲し、世を超えた行いがあったため、大なる称号でなければ相応しくないと考え、追って譲皇帝と諡し、尚書左丞相裴耀卿・太常卿韋縚に節を持たせて冊書を奉じさせた。その子璡は上表して憲が平素より退譲の志があり、大なる称号に当たることを敢えてしないと述べた。詔は許さなかった。殯の際、天子の服一揃いを出し、詔して右監門大將軍高力士に手書を霊座に置かせ、妃の元氏を恭皇后と追贈し、橋陵の傍らに葬った。葬儀の際、中使に命じて璡らを諭し、葬送の具は人々に見せ、倹約を示させた。所司が諸陵の例に倣い、壙中に千味の食を設けるよう請うたが、監護使の耀卿が建言して言うには、「尚食が調える水陸の品千余種及び馬・牛・驢・犢・麞・鹿・鵝・鴨・魚・雁の体節の味、並びに薬酒三十種、盛夏に胎養する時節であり多く殺すべからず、礼の拠り所を考求するも、憑依すべきところなし。陛下は常に譲帝の志を申し、務めて倹素を存する。請う、省き蠲き折衷せん」と。詔して可とした。発引した後、大雨が降り、詔して慶王潭らに塗泥を渉り、十里を歩いて送らせ、その墓を恵陵と号した。

憲はかつて帝に従い万歳楼で舞を按じたことがあり、帝が復道から衛士が既に食事を終え、余りを竇中に棄てるのを見た。帝は怒り、詔して高力士に杖殺させようとした。憲は従容として言うには、「復道から人の私事を窺うは、恐らく士人を自ら安からしめず、かつ大體を失わん。豈に性命を余饗より軽しとすべきや」と。帝は急ぎ止め、力士に言うには、「王は我に対し、急難を有すと謂うべきなり。然らずんば、且つ士人を誤って殺さん」と。また涼州が新曲を献上した時、帝は便坐に御し、諸王を召して観させた。憲は言うには、「曲は佳しと雖も、然れども宮は離れて属せず、商は乱れて暴なり。君は卑くして下に逼り、臣は僭して上を犯す。忽微より発し、音声に形り、詠歌に播き、人事に見わる。臣は恐らく一日に播遷の禍あらん」と。帝は黙然とした。安史の乱の時、世は憲の音を審らかにしたことを思ったという。

憲は本名を成器といい、昭成太后の諡を避け、申王成義と共に今の名に改めた。憲の子十九人、その聞こえる者は璡・嗣莊・琳・瑀である。

璡・嗣莊・琳・瑀。

璡は眉宇秀麗整い、性謹み潔く、射を善くし、帝に愛された。汝陽王に封ぜられ、太僕卿を歴任した。賀知章・褚庭誨・梁涉等と親善した。薨じ、太子太師を贈られた。

嗣莊は幼より令名有り、太子諭德となり、済陰王に封ぜられた。薨じ、幽州大都督を贈られた。

琳は秘書監を以て嗣寧王となり、天子に従い蜀に幸し、薨じた。

瑀は早くより材望有り、儀観偉なり。初め隴西郡公に封ぜられた。帝に従い蜀に幸し、河池に至り、漢中王・山南西道防禦使に封ぜられた。乾元初め、寧国公主が回紇に降嫁するに当たり、詔して瑀を特進・太常卿として節を持たせ、回紇を冊拜して威遠可汗とせしめた。瑀もまた音を知り、嘗て早朝に永興裏を過ぎ、笛の音を聞き、左右を顧みて言うには、「是れ太常の工なるか」と。曰く「然り」と。他日その者を識りて言うには、「何故臥して吹くや」と。笛工は驚き謝した。また康昆侖の琵琶を奏するを聞きて言うには、「琵の声多く、琶の声少なし。是れ未だ五十四絲の大弦を弾くべからざるなり」と。楽家は自下より逆に鼓くを琵と曰い、自上より順に鼓くを琶と曰うという。肅宗は詔して群臣の馬を収めて戦を助けさせようとしたが、瑀と魏少遊等は不可を堅持した。帝は怒り、蓬州長史に貶した。薨じ、太子太師を贈られ、宣と諡された。孫に景儉。

景儉は字を寬中という。進士第に及ぶ。強記多聞、古の成敗王の大略を言うを善くし、高く自らを負い、士大夫に対し屈すること無し。王叔文等は更にこれを誉め、管仲・諸葛亮に比した。叔文が敗れると、景儉は母喪に在ったため連坐を免れた。韋夏卿が東都を守る時、幕府に辟した。竇群が中丞に任ぜられると、監察御史に引いたが、群が貶せられると、景儉もまた江陵戸曹参軍となった。累擢して忠州刺史となった。元和末、朝に入るも用いられず、再び澧州刺史となった。平素より元稹・李紳と親善であった。二人が翰林に在った時、その才を言上した。延英殿で奉辞の際、景儉は自ら抑え遠ざけられたことを陳べると、穆宗はこれを憐れみ、追詔して倉部員外郎としたが、遣わさなかった。一月を閲て、諫議大夫を拝した。性矜誕、酒に任せ気を縱し、語は宰相を侵し、蕭俯・段文昌が帝に訴えたため、建州刺史に貶せられた。稹が君寵を得、これを助けたため、故に還って諫議大夫となった。馮宿・楊嗣復・温造・李肇等と史官獨孤朗の所に集まった時、景儉は酔い、中書に至り、宰相の王播・崔植・杜元穎を慢罵した。吏が遜った言葉で厚く謝すると、去った。坐して漳州刺史に貶せられ、宿等も皆逐われた。漳州に至らぬ内に、稹が政を輔けると、楚州刺史に改めた。議者は景儉が丞相を辱めたのに、貶未だ至らざるに即ち遷すは是れならずと言った。稹は懼れ、少府少監に改め、宿等を悉く還した。景儉は既に湮厄して志を得ず、卒した。然れども其の人となり財を軽んじ、義に篤く、既に没して後、士人は悵悼した。

恵莊太子捴は、本名を成義という。初めて生まれた時、武后はその母が賤しいとして、歯列に加えようとせず、浮屠の万回に見せた。万回は詭って言うには、「此れは西土の樹神なり、兄弟たるに宜し」と。后は喜び、乃ちこれを養った。垂拱三年、初めて恒王に封ぜられ、衛・趙二王と同封された。俄かに衡陽王に改封された。睿宗が立つと、申王に進封され、岐・薛二王と同封された。累遷して右衛・金吾二大将軍となり、実封千戸に至った。司徒に進み、益州大都督を兼ね、四たび州刺史となった。開元八年、刺史を停め、再び司徒となった。薨じ、冊書を以て太子及び諡を贈り、橋陵に陪葬された。捴は性寬裕、儀貌環重。嗣子無く、詔して譲帝の子珣を嗣がせ、懐寧王とし、同安王に徙封した。薨じた。天宝中、再び譲帝の子璹を嗣がせた。

恵文太子範は、初め名を隆範といった。玄宗が立つと、薛王隆業と共に帝諱を避けて二名を去った。初め鄭王に封ぜられ、衛王に改封された。俄かに巴陵郡王に降封され、岐王に進封され、太常卿・へい州大都督・左羽林大将軍となった。玄宗に従い太平公主を誅するに功を以て賜封され、薛王業と共に五千戸に満ちた。歴任して州刺史となり、太子太傅に遷った。開元十四年に薨じ、冊書を以て太子及び諡を贈り、橋陵に陪葬された。帝は慟哭し、常膳を撤すること累旬に及び、群臣が勉めて請うて乃ち復した。

範は学を好み、書に工く、儒士を愛し、貴賤を問わず礼を尽くした。閻朝隠・劉廷琦・張諤・鄭繇等と親善し、常に酒を飲み詩を賦して相娯楽した。また書画を集め、皆世の珍とする所のものであった。初め、隋が滅び、禁内の図書は湮放し、唐興って募訪するに、稍稍復出して秘府に蔵した。長安初め、張易之が天下の善工に潢治を奏し、乃ち密かに模写させ、殆ど辨別できず、その真を窃みて家に蔵した。誅せられた後、悉く薛稷に取り去られ、稷もまた敗れると、範がこれを得たが、後ついに火に焚かれた。駙馬都尉裴虚己は讖緯に善くし、坐して私に範と遊んだため、嶺南に徙せられ、廷琦は雅州司戸に貶せられ、諤は山茌丞となった。然れども帝は範に対して少しの間隙も無く、左右に謂って言うには、「兄弟の情は天より至る、我に対していささか異なることあらんや!趨競する者は強いて相附す、我は終に之を纖介ともせず」と。時に王毛仲等は賤微より起り、暴貴し、諸王は見れば必ず礼を加えたが、獨り範は之に接するに自如であった。子の瑾が嗣いだ。

瑾は落魄して名檢を飭まず、酒色に沈み、太僕卿を歴任し、河東王に封ぜられ、暴薨し、太子少師を贈られた。天宝中、再び薛王の子の略陽公珍を嗣ぎとして岐王とした。

珍は儀容豊偉にして、宗正員外卿となり、蔚州鎮将の朱融と善し。融嘗て珍が上皇に似たりと云ひ、因りて陰謀有り、往きて金吾将軍の邢済に語りて曰く、「関外に寇近し、京師草草たり、奈何せん」と。済曰く、「我れ金吾、天子の押衙、死生を以て従ふ、安んぞ自ら脱せん」と。融曰く、「嗣岐王を見れば慮ふること無かるべし」と。済以て聞す、粛宗詔して珍を庶人に廃し、死を賜ひ、融の党皆誅せらる。済を擢て桂管防禦使と為す。

恵宣太子業は、初め趙王に封ぜられ、降封して中山王となり、都水使者を授かる。鼓城に徙り、陳州別駕を兼ね、進みて薛王に封ぜられ、羽林大将軍・荊州大都督と為る。好学を以て秘書監を授かる。開元初め、太子少保に進み、即ち太保を拝し、累ねて州刺史を歴任す。

初め、母早く終り、従母の賢妃之を鞠く。八年、賢妃を外邸に迎へ、之に事ふること甚だ謹みたり。其の女弟の淮陽・涼国の二公主も亦早く卒す。甥を撫でて己が子と均しくす。帝益之を愛す。嘗て疾に被る。帝自ら祝禬す。既に癒えて、其の第に幸し、酒を置き詩を賦して初生の歓を為す。帝嘗てせず、業の妃の弟の内直郎韋賓と殿中監皇甫恂と妄りに休咎の事を言ふ。賓坐して死し、恂は錦州刺史に貶せらる。妃恐れ、降服して罪を待つ。業も亦敢へて入謁せず。帝聞き、遽に之を召す。業殿下に伏して罪を請ふ。帝趨り就きて其の手を執りて曰く、「吾が兄弟に猜る所は、天地之を咎めん」と。遂に復た燕歓し、仍て妃に復位を諭す。俄に司徒に進む。二十二年、業疾有り。帝之を憂ふ。一夕容髪変ず。因りて仮寝し、方を得るを夢み、寤めて業稍く閑く。邠王守礼等、事を史官に付せんことを請ふ。及薨ず、帝悲しみて食ふこと能はず、冊書を以て加贈及び謚し、橋陵に陪葬す。

十一子有り、其聞こゆる者は瑗・瑒・琄なり。帝後業を追思し、瑗等を引見し、之を傷み、乃ち詔を下して共に実封千戸を賜ふ。瑗は楽安王と為る。瑒は滎陽けいよう王・宗正卿。琄は嗣薛王と為り、鴻臚卿を歴任す。天宝中、琄の舅韋堅、李林甫に構へられ、坐して夷陵別駕に貶せられ、夜郎・南浦に徙置せらる。安禄山の乱に及び、乃ち京師に還る。

曾孫知柔、王を嗣ぎ、再び宗正卿と為る。久しくして、京兆尹に擢でらる。初め、鄭・白渠梗壅し、民歳を得ず。知柔三輔を調し、旧道を治め復し、灌浸約の如く、遂に旱虞無し。民闕に詣りて石を立て功を紀せんことを請ふ。知柔固く譲りて止まるを得。累ねて検校司徒・同中書門下平章事を加ふ。又詔して太廟を営緝し、度支を判じ、諸道塩鉄転運使を充つ。昭宗莎城に出ず、独り知柔従ふ。乗輿器用庖頓皆之を主り、大小畢く給す。性儉約、位通顕と雖も、居第無し。未だ幾ばず、出でて清海軍節度使を拝す。鎮に在りて廉潔、貢献時に入る。進みて検校太傅、兼侍中。仕へ凡そ四紀、常に宗室の冠と為る。鎮に卒す。

隋王隆悌は、初め汝南王に封ぜらる。早く薨ず。睿宗追王し、贈りて荊州大都督と為す。爵伝はらず。

【贊】

贊して曰く、中宗道を失ひ、身母に廃せられ、妻に弑せらる。而して四子皆其の死を得ず、嗣亦伝はらず。殆ど天其の徳を穢して之を絶つ。何ぞや。彼固より天に自ら絶つ云爾。睿宗聖子有り、一は命を受け、一は帝を追ひ、三は太子を贈る。天之に報ひ、福流れて窮まり無し。盛なるかな。